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技術革新と女子労働

論文タイトル: 第2章:石炭鉱業の技術革新と女子労働
著者名: 西成田 豊
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第2章:石炭鉱業の技術革新と女子労働

 はじめに
 戦前日本の石炭鉱業は製糸,紡績,織物などの繊維工業とならんで女子労働を代表する典型的な産業部門であった.もちろん,女子労働に圧倒的に依存した繊維工業と,相対的には男子労働の比重が高い石炭鉱業では労働力の構成に基本的な相違があったが,おなじ女子労働であるにもかかわらず,石炭鉱業の女子労働の実態は製糸業や紡績業の女子労働とくらべるとこれまであまり注目されてこなかったといってよい.その理由として,石炭鉱業がその特殊な立地条件のゆえに閉鎖的な炭鉱社会を形成し,同時代人にとって炭鉱女子労働は闇のなかにつつまれた存在であったという事情や,一方,現代のわれわれにとっても炭鉱女子労働の実態を解明するうえでの基本的資料を欠いているという事情をあげることができよう.後者についていえば,繊維工業の女子労働に関しては1903(明治36)年,農商務省商工局が編纂した『職工事情』をはじめとする多くの基本資料が存在し,女子労働の実態をかなり深く理解することができるのにたいし,石炭鉱業の女子労働に関してはこれに類するような資料がなく,全国レヴェルの女子労働者数じたい1914(大正3)年以降でなければ知りえないという基本的な資料上の制約が存在するのである.
 本章はこうした資料上の制約を克服し,炭鉱女子労働の形成・衰退の過程を石炭鉱業技術の発展unu_jpe9_d2_p037_h01・変容との関連で明らかにすることを目的としている.本題に入るまえに,分析上のいくつかの留意点をあらかじめ指摘しておけば,こうである.第1に,ひとくちに日本の石炭鉱業といっても炭田によって,あるいは炭鉱の規模によって技術と女子労働の実態はかなり異なっており,分析に際してはこのような地域差や規模別格差の問題を視野に収める必要がある.第2に,石炭鉱業の技術と女子労働を結びつけるのは具体的には労務管理であり,そのあり方は石炭鉱業の技術水準によって規定される.石炭鉱業技術の発展・変容は炭鉱労務管理の方式をどう規定し,それは石炭女子労働の形成・衰退といかなる関連にあったか,問題はこのように立てられなければならないであろう.第3に,一般的に言って,新技術の導入は労資の摩擦を伴い,新技術が定着するか否かは労資関係の処理如何にかかっているといってよい.世界の近代史をふり返れば,新技術の導入が労働側の抵抗によって阻害されたケースをわれわれは数多く見出すことができる.本論で述べるように,石炭鉱業の技術革新はこの点に関するかぎり比較的スムースに行われ,女子労働者の排除が進んだが,このように石炭鉱業の技術革新が摩擦なく遂行され得,新技術が定着した条件は何であったか,これが分析上の一つのポイントをなすであろう.
 Ⅰ 炭鉱女子労働者の形成と特質
 (1)炭鉱女子労働者の形成
 石炭鉱業における女子労働者の存在はかなり早い時期に確認することができる.たとえば,長崎県勧業課『鉱山志料調』(1884年)には,
 東松浦郡岸山村字長谷(借区坪数1,500坪)
 一,坑夫賃金男壱人弐拾五銭,女壱人拾八銭
 一,壱ケ年使役高凡七百人,内男三百五十人,女三百五十人
 一,坑夫工程一先[一ト先トハ男女弐人ヲ云フナリ]一月凡石炭八百斤ヲ掘採スとあり1),すでにこの時点で女子が一先[ひとさき]編成の採炭労働に従事していたことがわかる.しかし,産業革命前の炭鉱は小規模であったことから女子労働者の数も少なく,鉱夫は近傍農村からの通勤鉱夫や農閑期の出稼鉱夫など半農的鉱夫が多数を占め,炭鉱労働者としての自立性は稀薄であった.女子労働者が炭鉱の基幹労働力として本格的に登場するのは産業革命以降のことに属する.
 石炭鉱業の産業革命をしめす技術的な指標は,採炭過程とともに生産過程の二大要因をなす運搬過程の機械化,すなわち主要坑道への=揚機の導入にもとめることができる.産業革命の展開をしめすこの=揚機は,日清戦争前後の時期(1890-1900年代)に急速に普及した.しかし注目すべきは,産業革命段階における石炭鉱業の生産過程の機械化は運搬過程(主要坑道)の機械化にとどまり,生産過程のもう一つの基本要因をなす採炭過程は依然単純な道具を用いた手労働に依存していたという事実である.この時期の採炭様式は,一部の薄層をのぞけば残柱式採炭法とよばれる方法が一般的であった.これは炭層の傾斜する方向に本卸[ほんおろし]坑道を掘進し,これと直交する形で片盤[かたばん]坑道(曲片[かねかた])を設定し,10間(約18メートル)角位の碁盤の目のような予定線を想定してこの線に沿い3間幅の切羽[きりは]をつけ,7間角位の炭柱を坑道保護のために残して採掘する方式であった(図参照).そして,各切羽では先山[さきやま]が鶴嘴で石炭を掘りくずし,後山[あとやま]がこれを炭車まで人力で運び出すという孤立分散的な手労働が支配していた.
残柱式採炭法(1899年)
即ち,後山は先山が掘り出した石炭を,厚層においては50斤から100斤(1斤=600グラム)入りの籠に入れ,2個を天=棒にかけて坑道までかつぎ出すか,1籠ずつ運び出し,薄層においては100斤あるいは200斤入りの竹籠あるいは橇[すら]を用いて坑道まで押し出すか(図参照),またはせな棒という担い棒を腰の上に斜めにのせ,前後に籠をかけ腰をかがめて運び出す2)という重筋労働に従事したのである.
 このような採炭機構の技術的な立ち遅れは,運搬過程(主要坑道)の機械化がすすめばすすむほど採炭労働が強化されるという矛盾を生み出し,この過酷な採炭労働を統轄するものとして新たな労務管理方式,いわゆる「納屋[なや]制度」を生み出すこととなった.「納屋制度」とは納屋頭が自ら募集した鉱夫を納屋に住まわせ,日常生活の監督をしつつ,作業の割り当てや坑内への鉱夫の繰込み,坑内巡回など作業の指揮監督をおこなう,納屋頭を媒介とした間接的雇用・労務管理の体制であり,納屋頭の各種の貸金によって鉱夫は人身拘束的な関係のもとにおかれていた・運搬過程の機械化が要請する採炭労働の強化は,「納屋制度」の暴力的な労務管理・支配によって支えられていたといえよう.
 一方,運搬過程の機械化によって労働力の構成にも大きな変化が生じた.即ち,炭鉱操業の季節的変動が不可避となるような旧来の半農的鉱夫への依存は,運搬機械化が要請する計画的出炭にとって適合的でなく,各炭鉱とも日清戦争後の産業革命の展開過程で専業鉱夫,とくに家族持ち鉱夫の募集を重視するようになった.事実,1906(明治39)年ごろの三井田川炭鉱の「募集須知」3)は「稼働に便利なるは夫婦に十二三才の小供の三入にて稼働し外に老人の飯焚一人ある様なる者を第一とす」と募集の最優先基準を明記し,また同じく三井三池炭鉱の「直轄契約坑夫募集須知」4)(1905年)も「契約坑夫ハ可成夫婦者若クハ家族持ノ者ヲ募集ス」と指示していた.このような募集方針の結果,家族持ち鉱夫の比重は増大し,1903(明治36)年の明治炭鉱では全鉱夫の50.8%,採炭夫の60.2%,1906(明治39)年の二瀬[ふたせ]炭鉱では全鉱夫の72.6%,1909(明
治42)年ころの筑豊主要炭鉱では全鉱夫の65.3%が家族持ち鉱夫であった5).このように,産業革命の展開過程で各鉱が家族持ち鉱夫を重視したのは,家族携帯者の方が労働のモラールが一般に高かったという事情もあるが6),先に述べたような手労働に依存した採炭労働に男は先山,女は後山として夫婦共稼で就労する方が,その労働の特殊性からみて効率的であったからにほかならない.かくして,夫婦共稼の家族的就業形態が支配的となった産業革命期に炭鉱女子労働者の本格的な形成がみられたのである.この点は若干の数量的なデータからも窺い知ることができよう(第1表,第2表).
第1表 三井鉱山三池炭鉱男女別従業員構成(1896-1911年)
第2表 三菱新入・鯰田炭鉱男女別従業員構成(1894-1912年)
 以上の考察から明らかなように,「納屋制度」の成立と炭鉱女子労働者(家族持ち鉱夫)の形成は表裏一体の過程として進行したのであり(ただし,三池炭鉱のばあいは1908年に納屋制度を最終的に廃止しており,女子労働と納屋制度がかならずしも対応していたわけではない),筑豊炭田の「納屋制度の基本類型は,単身坑夫ではなくこれら家族持坑夫と納屋頭との関係のうちに求められなければならない」7)であろう.
 夫婦共稼の家族的な就業形態は,炭鉱社会を支配した家父長的な家族関係によって,女子にとってことに厳しいものとなった.既に述べたような後山の過酷な労働のほかに,家事労働が彼女たちの一身に集中したのである.当時の女子鉱夫の様子について山本作兵衛はつぎのように伝えている.
 「昔の女坑夫は惨めなものであり可哀想でもあった.亭主と共稼ぎでまっ黒になってあがるや否や,食事の仕度,炊事方であり......乳児のある主婦になると預児院のない頃とて他人に預けたり,自宅の留守据飼人にまかせておるので,途中坑内から昇坑して乳を与えておる者もあった.男は昇坑すると直ちに入浴し,刺青を出して胡座をかき,両肱張ってアガリ酒を飲んでおる.それをヤマの下罪人の建前としておって,昇坑して妻の炊事の手伝いなどする男はおらず,いわゆる現今の愛妻家はヤマにはおらなかった.愛妻処か女房が不平でも言うと殴る位の見識をもっていた」8)
第3表 三菱鯰田炭鉱鉱夫職種別稼働率(1914-1917年)
 こうした家事労働の重圧は,女子の生理的・体質的要因も加わって(例えば月経中は入坑を禁止するのが炭鉱の慣習であった),女子鉱夫の稼働率を引下げた9).第3表はやや後年のことに属するが,三菱鯰田[なまずた]炭鉱の鉱夫職種別稼働率を示したものである.女子採炭夫(後山)の稼働率が選炭夫や雑夫より著しく低いこと,男子採炭夫(先山)と比べても低いことが知られるであろう.女子後山のかかる低稼働率はおうおうにして男子先山の就労をも制約し,夫婦共稼の家族的就業形態に依存した炭鉱資本は,他方でこのような蓄積を制約する一つの構造的要因をかかえ込むことになったのである.
 (2)労働力編成の地域性10)
 以上,炭鉱女子労働者の形成について言及したが,ここであらためて指摘しておきたいのは,炭鉱女子労働者の比重,職種および作業組織の編成は,炭層の賦存状況や労働市場の構造に規定されて炭田によってかなり異なった様相を呈していたという事実である.
日本の主要炭田
 第4表は主要炭田別の鉱夫構成を示したものである.炭鉱女子労働者の主要職種は採炭夫(後山・手子),選炭夫,支柱夫の3職種であるが,女子採炭夫(後山・手子)が存在する炭田は常磐,筑豊,三池,唐津の4炭田であり,支柱夫に女子を使用するのは筑豊,三池,唐津の3炭田であった.このように,炭鉱女子労働者は上記4炭田に集中したのであるが,常磐,筑豊,唐津の3炭田と三池炭田では採炭夫の編成を異にしていた.
第4表 主要炭田別鉱 夫構成(1906年)
即ち,常磐,筑豊,唐津の3炭田では採炭夫の編成は先山1人,後山1人の一先[ひとさき]を基本単位とし,夫婦共稼の比率もそれぞれ38.3%,39.9%,33.9%(1910年末)と高率だったのにたいし,三池では厚層で稼行条件が良好だったため,先山2人,後山2人という,家族的就業形態にかならずしも適合的でない採炭夫編成をとり,夫婦共稼の比率は12.5%と低かった.
 一方,上記の4炭田とは対照的に北海道と西彼杵[にしそのき]の両炭田では女子労働者はひじょうに少なく,坑内夫では皆無であった.北海道の炭鉱女子労働者は選炭夫に集中し,全鉱夫の13%を占めているものの,西彼杵では坑外雑夫に女子がごく少数存在するにすぎなかった.北海道と西彼杵両炭田におけるこのような女子構成比の低さは,後者では島炭鉱という立地条件のゆえに労働者(特に女子)の募集が困難であったこと,前者では労働者募集の地域が農民層分解の遅れた東北農村であり,男子単身出稼者が中核を占めたことなど,労働市場の諸条件に規定されたものであった.このような労働市場の制約のために北海道の炭鉱は傾斜を利用した切羽運搬をおこない,女子後山を必要としない採炭様式を採用したのであった.なお,女子坑内夫をほとんど使用しない北海道と西彼杵の両炭田では産業革命期に早くも「納屋制度」(あるいは「飯場[はんば]制度」)が廃止され,資本の直接的労務管理体制が成立しており,この点でもまた「納屋制度」(「飯場制度」)が支配的な筑豊,常磐,唐津の3炭田とは対照的であった.
 以上のように,炭鉱女子労働者の編成とその比重は各炭田によってかなり異なった様相を呈していたものの,常磐筑豊,三池,唐津の炭田の石炭生産の対全国比が86%(1906年)に及んでいた(北海道は10%前後,西彼杵は数パーセントにすぎなかった)ことを考えれば,炭鉱女子労働者はこの時期の日本石炭鉱業の一方の中核的な担い手であったといって差し支えないであろう.
 (3)炭鉱女子労働者の諸特質:1920年代
 では,石炭生産を担った女子労働者はほかの産業,特に第二次大戦前,女子労働者の集中度がもっとも高かった繊維産業の女子労働者と比較してどのような特質を帯びていたのであろうか.全国的な統計が比較的よく=っている1920年代を中心に炭鉱女子労働者の特質を検討することにしよう.
 (i)年齢・配偶関係
 第5表は炭鉱女子労働者の年齢,配偶関係を示したものである.女子鉱夫全体の年齢構成は繊維工業の女子労働者と比較して著しく高く,繊維工業の女子では20歳未満が71%を占め,若年女子の比率が圧倒的に高いのに対し,女子鉱夫では20歳未満は24%にすぎず,25歳以上が58%を占めている.若年女子を中心とする繊維工業と青壮年女子を中心とする石炭鉱業の対照的な年齢構成をよみとることができよう.こうした年齢構成の対照性は配偶関係にも反映しており,有配偶者の比率は繊維工業女子の12%に対し,女子鉱夫では75%におよんでいる.
第5表 女子鉱夫の年齢・配偶関係の構成(1924年)
 しかし仔細にみると,石炭鉱業でも採炭夫,後山夫,支柱夫といった坑内夫と選炭夫ではやや異なった年齢構成がみられ,選炭夫では20歳未満の比率が36%と比較的高く,25歳以上の青壮年層の比率も坑内の3職種より明らかに低い.同じことは有配偶者の比率にもみられ,坑内の3職種では同比率が80%前後に達しているのにたいし,選炭夫では58%にすぎず,無配偶者の比率の高さが目立つ.以上のような年齢,配偶関係の違いは,坑内夫では夫婦共稼の家族的就業形態が一般的であったのにたいし,選炭夫では未婚若年層の単身就労者の比重が比較的高かったことを示唆している.
 (ii)就業年数
 つぎに,炭鉱女子労働者の就業年数をみると第6表のごとくである.繊維工業の女子のばあい,就業年数3年未満が過半をしめ,職業内部への定着率が著しく低いのに対し,女子鉱夫では5年以上が過半を占め,専業鉱夫の比重の高さが目立つ.炭鉱女子労働者の職業的定着率の高さをよみとることができよう.しかし,さきの年齢,配偶関係のばあいと同様,就業年数の点でも坑内夫と選炭夫ではやや趣を異にしており,前者では就業5年以上の専業坑夫の比率が60%近く(支柱夫では70%近く)におよんでいるのに対し,選炭夫では37%にすぎず,3年未満が45%を越えている.
第6表 女子鉱夫の就業年数(1924年)
坑内の3職種は熟練度が比較的高く,選炭夫は単純不熟練職種であることからこのような職業的定着率の差が生じたのである.
 (iii)学歴構成
 第7表は学歴構成を示したものである.一見して明らかなように,炭鉱労働者は男子,女子ともに学歴構成が低い.特に女子鉱夫の学歴構成の低さは際立っており,尋常小学校を満足に卒業していない者が全体の70%に及んでおり,繊維工業の女子労働者の学歴構成とも明らかな開きがみられる.先に述べたような,女子鉱夫と繊維工業女子労働者の年齢構成の差を考えるならば,両者の学歴の開きは当然のことであるが(就学率は時代を下るにしたがって上昇しているから),それにしても両者の学歴構成の差はあまりにも大きいと言わねばならない.
第7表 鉱夫の学歴構成(1924年)
学歴構成を見るかぎり,女子鉱夫は女子労働者のなかでもっとも社会的ステイタスの低い存在であったといえるであろう.近代日本の炭鉱労働者に一貫して纏わり付いていた「下罪人」意識や社会的落伍者の意識も,こ
うした学歴の低さと分かちがたく結びついていたといえるかも知れない.
第8表 筑豊炭鉱労働者の主要出身地(1928年7月末現在)
 (ⅳ)給源
 では,このように社会的ステイタスの低い炭鉱労働者は,どの地方のいかなる階層から供給されたのであろうか.資料的に男子と女子を区別することは困難であるが,夫婦共稼の家族的就業形態が支配的であった筑豊の炭鉱労働者の出身地を示せば第8表のごとくである.筑豊の炭鉱労働者の出身地は,地元福岡県を中心に九州,中国,四国地方の諸県に広がっているが,それぞれの県で炭鉱労働者を多く出している郡は,県平均と比較して小作地率が高く地主・小作関係が高度に展開している地域か,県平均より米の反収が少ない低生産力地帯かのいずれかであることが知られる.炭鉱労働者の供給源は小作・貧農層の比率の高い貧しい農村地域であり,炭鉱労働者はこれらの地域から夫婦ともども一家をあげて炭鉱に流出してきたのであった.では彼ら,あるいは彼女たちを過酷な地下労働に誘引した要因は何だったのであろうか.
 (ⅴ)賃金・家計構造
 第9表は女子鉱夫の賃金を示したものである.1906(明治39)年の製糸女工と紡績女工の1日平均賃金はいずれも23銭,1924(大正13)年のそれは前者が96銭,後者が1円10銭であることを考えると,採炭夫(後山・手子)の賃金は製糸・紡績女工の1.5倍から2倍以上の高賃金であることがわかる.これに対し,選炭夫(坑外夫)の賃金は1906,1924(明治39,大正13)年の両年とも製糸・紡績女工の賃金以下の水準にあり,採炭夫と選炭夫は歴然たる賃金格差を形成している.
第9表 女子鉱夫の賃金(1日平均賃金)(1906・1924年)
第1図 女子鉱夫の年齢別賃金(1日平均賃金,1924年)
この点は両者の年齢構成の差を考慮して作成した第1図からも窺い知ることができよう.もっとも,前述のごとく女子採炭夫の稼働率が家事労働などの制約をうけて低率であったことを想起すれば,月収・年収レベルでは女子採炭夫と選炭夫,製糸・紡績女工との賃金格差はかなり縮小するものと思われる.しかし,この点を勘定に入れても,女子採炭夫の賃金がもろもろの女子労働者の賃金のなかで最高位の水準を維持していることは疑いなく,こうした高賃金こそが女子採炭夫をして想像を絶するような過酷な地下労働に駆り立てたのであった.学歴からみてもっとも社会的ステイタスの低い炭鉱女子労働者のその一部(採炭夫)が女子労働者のなかでは最高位の賃金を稼得していたところに,この時代の炭鉱女子労働の社会的特質があったと言わねばならない.
第10表 鉱夫の家計構造(1925年)
 女子採炭夫の賃金収入は鉱夫の家計にも影響をおよぼしている.鉱夫の家計を示した第10表の調査対象は大炭鉱の比較的高収入の世帯であり,この点を念頭において同表をみなければならない.これによれば,賃金収入のみで家計支出を賄っている世帯は一つもなく,繰越金のほかに貯金の引出しや借金,質入れが収入のなかで少なからぬ比重を占めており,どの世帯も生活がけっして楽ではなかったことを示唆している.支出項目中貯金がかなりの額にのぼっているが,これも生活の余裕を示すものではなく,鉱夫の足留めを目的とした炭鉱側の強制貯金が中心であった11).このように,鉱夫の家計が全般的にやや逼迫しているなかで,後山作業に従事している女子を1人もつ世帯は収入がもっとも多く,女子後山がもたらす賃金収入の家計収入への寄与率も27.2%と一番高く,ほかの世帯とくらべて生活に比較的ゆとりがあることを看取することができる.エンゲル係数の低さ,被服費,交際費・遊興費の高さは,この世帯の生活のわずかなゆとりを示すものと言ってよいであろう.
 以上,5項目にわたって炭鉱女子労働者の諸特質を検討してきた.炭鉱女子労働者は,大きく言って青壮年層を中心とし,職業的定着性のつよい比較的高賃金の坑内夫(後山・支柱夫)と,若年層の比率が高く職業的定着性がよわい低賃金の選炭夫の二つの階層に区分することができるが,前者ではその社会的ステイタスの低さにもかかわらず,肉体消磨的な過酷な地下労働とひきかえに,製糸・紡績女工などほかの女子労働者とくらべて相対的に高い生活水準を維持していたのである.

[注]
 1)隅谷三喜男『日本石炭産業分析』,岩波書店,1968年,163ページ.
 2)『日本鉱業発達史』中巻,鉱山懇話会,1932年,332ページ.
 3)荻野喜弘「産業革命期における筑豊炭鉱業の労資関係(3・完)」,『産業経済研究』第21巻第1号,1980年,29-30ページ.
 4)橋本哲哉「1900-1910年代の三池炭鉱―石炭産業の産業資本確立をめぐって―」,『三井文庫論叢』第5号,1971年,45-7ページ.
 5)荻野喜弘,前掲論文,31ページ.
 6)隅谷三喜男,前掲書,318ページ.
 7)同上,320ページ.
 8)山本作兵衛「筑豊炭坑物語」,『筑豊炭坑絵巻』,葦書房,1973年,29ページ.
 9)農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』,1908年,40ページ.
 10)以下の記述は,荻野喜弘「日本資本主義確立期における炭鉱労資関係の2類型」,エネルギー史研究会編『エネルギー史研究ノート』第10号,1979年,を参照した.
 11)なお支出項目中,住居費が少額(支出総額の4-5%)なのは,炭鉱側が提供する社宅や納屋に鉱夫が居住していたことによるものであろう.
 Ⅱ 技術革新と女子労働
 (1)技術革新の規定要因
 産業革命期における石炭鉱業の機械化は=揚機の導入にとどまり,採炭過程は依然手労働段階にあったことは,既に述べたとおりである.採炭過程の機械化を中心に石炭鉱業が本格的な技術革新の時代に入るのは,1920年代とくにその後半以降であるが,まず,この技術革新を促した歴史的要因について若干の説明をくわえておくことにしよう.
 第1は,1920年代の慢性不況による石炭市価の下落である.たとえば,九州一種炭(門司)のトン当り価格は1920(大正9)年の28円55銭をピークに1921(大正10)年には20円20銭に急落し,その後,石炭鉱業連合会(1921年設立)の送炭制限によって1)16円台に価格は維持されたものの,東京の九州一種炭,磐城炭,夕張炭は1922(大正11)年以降も価格の下落がつづいた2).このような価格低落は石炭鉱業会社の経営を苦鏡に追い込むことになった.
第11表 石炭産出高・輸出入高の推移(1914-1929年)
しかも,ここで見落とすことのできないのは,輸入炭の増加による競争圧力が炭鉱経営をいっそう圧迫することになったことである.第11表から明らかなように,石炭輸入高は1922(大正11)年以降急増し,1923,1924(大正12,13)年と1927(昭和2)年以降輸出高を上回るに至った.国内需要とともに輸出に牽引されるかたちで発展してきた日本の石炭産業は,ここに至ってはじめて輸入産業に転化したのである.こうした石炭輸入の急増は,関東州(特に撫順炭鉱)からの輸入増に規定されたものであるが,「露天掘と植民地の低賃金労働力の利用」3)による撫順炭の低コストは,先に述べたような石炭の市価をいっそう下方に圧迫し,炭鉱経営をいよいよ窮地に追い込むことになったのである.慢性不況下における輸入炭の競争圧力の増大,これが石炭産業の本格的な技術革新をうながした第1の要因であった.
 第2は,1920年代の鉱業労働保護立法の展開である.第1回国際労働会議(1919年10月-11月)における条約案採択を契機に,日本では鉱業労働保護立法として1916(大正5)年に制定された「鉱夫労役扶助規則」の改正が戦後労働行政の重要課題の一つとして浮かび上がった.保護鉱夫(女子・年少鉱夫)の深夜業禁止,坑内労働禁止をおもな内容とする同規則の改正は,夫婦共稼の家族的就業形態に依存してきた石炭鉱業の生産の根幹にかかわる問題であり,経営の側にあらたな経済的負担を課すものであっただけに,炭鉱資本にとって容易に受け入れがたいものであった.かくして,炭鉱資本は筑豊石炭鉱業組合を中心に保護鉱夫の深夜業禁止,坑内労働禁止に反対する運動を繰り広げることになるのであるが4),他方で炭鉱資本は,大手炭鉱を中心に,保護鉱夫の排除を可能とし,生産性の上昇によってコストダウンをはかりうるような技術革新に着手しつつあった.1928(昭和3)年9月1日,内務省令第30号により「鉱夫労役扶助規則」が改正され,保護鉱夫の深夜業と坑内労働が禁止されるに至ったことは,実施に5年の猶予期間が設けられていたものの,かかる技術革新にますます拍車をかけることになった.夫婦共稼の家族的就業形態に依存してきた石炭鉱業は,かかる就業形態を根本的に変革する,新たな生産技術体系の確立にせまられたのである.
 1928(昭和3)年の鉱夫労役扶助規則改正による保護鉱夫の就業制限については,しかし,のちの行論との関連でつぎの2点を付け加えておかねばならない.第1に,保護鉱夫の深夜業と坑内労働の禁止について改正規則は重要な例外規定を設けており,坑外の選炭作業を3交替制で行うばあいは期間を定めて当分の間深夜業をなすことができるとし,また薄層を採掘する炭鉱については,鉱山監督局長の許可を条件として保護鉱夫の坑内労働がみとめられた5).第2に,保護鉱夫の坑内労働禁止の実施期日がせまった1932(昭和7)年末から1933(昭和8)年初頭にかけて一部の中小炭鉱資本(石炭鉱業互助会)による実施延期をもとめる運動が活発になり,その結果,1933(昭和8)年6月5日,内務省令第16号「鉱夫労役扶助規則第11条ノ2ノ特例ニ関スル件」が公布され,主として残炭を採掘する炭鉱については保護鉱夫の坑内労働が特例としてみとめられることとなった6).1928(昭和3)年の鉱夫労役扶助規則改正による保護鉱夫の就業制限も,以上に述べたような重要な例外を含んでいたのである.
 (2) 技術革新の実態
 1920年代後半以降の技術革新を促した歴史的要因は上述のとおりであるが,では,この時期の技術革新は具体的にどのような内容を有していたのであろうか.
 まず第1に注目されるのは,残柱式から長壁式への採炭様式の転換が進んだことである.長壁式採炭法とは,一丁切羽を一列に集めてその間に炭柱を残さず,傾斜あるいは走向方向に長い炭壁面を作り,その炭壁面を同時に採炭して一方に押し進めていく方法であり,当初は両側に安全炭柱を残す方法が採用されたが,しだいにその安全炭柱も取り払う総払(そうばらい)式長壁法が採用されるようになった(図参照).
長壁式採炭法
長壁式採炭法は,産業革命の時代には地圧コントロールが可能な薄層でのみ採用されたが,流砂充填法など払跡充填技術の改良によって厚層や密接累層においても長壁式の採用が可能となった.長壁式採炭法による切羽の集約は,残柱式の一丁切羽における孤立分散的な労働を止揚し,採炭空間の拡大に伴う共同作業と機械の体系的な導入の可能性を切りひらいた7).
 第2は、発破(はっぱ)採炭法の普及である。採炭切羽における火薬の使用は,従来石炭そのものの破砕を目的とするというよりも,炭層中の挟(はさ)み(帯状の薄い硬(ぼた)の層)や松岩(まついわ)(炭層中の硅化した樹木の根幹)の除去を目的としたものが多かったが8),第一次大戦後,安全爆薬の普及(第12表)と穿孔機や撃岩機の導入によって発破採炭法が確立した.
第12表 炭鉱用爆薬類消費の趨勢(1923-1929年)
穿孔の機械化により,従来孔深90センチ程度の穿孔に20分から30分を要したのが,120-150センチの穿孔を数分間で行うことが可能となり,一方(ひとかた)1回の発破孔数も2個ないし4個程度にすぎなかったものが,一方20ないし40個の穿孔が容易となった9).
 第3に,コールカッターやコールピックなど大型小型の採炭機械が導入され,鶴嘴による手労働に依存してきた採炭過程の機械化が実現した.残柱式の一丁切羽のばあいは,その作業空間の狭隘性のために,もとより機械の導入は困難であったが,先にみたような長壁式の採用は採炭空聞を拡大し,このような一連の採炭機械の導入を可能にしたのである.
 第4に,発破採炭や採炭機械の採用による採炭能率の向上は,切羽運搬能力の飛躍的な拡大を要請し,各種の切羽運搬機械の導入をもたらした.切羽運搬機は女子後山による人力運搬とくらべて能率の面でも経費の面でも数段優れており10),女子後山にかわって急速に普及した.
 以上が技術革新の主な内容であるが,そのほかに斜坑運搬機の汽力から電力への転換や,市販炭の品質向上をはかるための選炭工程への水洗機の導入などを付け加えることができよう.
 以上に述べたような技術革新のテムポと程度は,しかし,炭田によってかなり異なっていた.第13表によれば,採炭機械の新増設台数は全国的には1926,1927(昭和1,2)年と1933(昭和8)年を画期に急激に増加しているものの,道県別にその増加の画期となる年次をみると,北海道と福岡県は1926(昭和1)年,長崎県は1928(昭和3)年,福島,茨城,山口の3県はもっとも遅れて1931-1933(昭和6-8)年となっている.また1炭鉱当りの採炭機械の新増設台数は,北海道が群を抜いて多く,福島,茨城,山口の3県は一番少なく,両者のコントラストが際立っている.
第13表 採炭機械(鑿岩機,オーガー,截炭機,コールピック)の道県別新増設台数(1925-1935年)
第2図 鉱夫1人当り出炭高の推移(1920-1936年)(1920年=100)
技術革新における北海道の先進性と福島,茨城,山口3県の後進性という地域的特徴をよみとることができるであろう.かかる技術革新の地域的な跛行性は,鉱夫1人当りの出炭高(労働生産性)にも示されている.第2図のごとく,北海道と長崎,福岡の両県は1920(大正9)年以降急カーブで労働生産性の上昇を実現しているのにたいし,福島,茨城,山口,佐賀4県の上昇は緩慢であり,茨城県にいたっては1933(昭和7)年以降逆に低下傾向さえ示している.
 こうした技術革新の地域的跛行性は,北海道は大炭鉱の比重が高く,福島茨城,山口の3県は反対に中小炭鉱の比重が高いという各炭田の経済構造の違いに主としてもとづくものであった.即ち,技術革新の地域差は多分に資本規模による差異を含んだものといえるであろう.事実,筑豊炭田についてこの点をみると,採炭機械は三井鉱山,三菱鉱業,明治鉱業,貝島合名会社など大資本傘下の大炭鉱に集中的に導入されており,中小炭鉱への導入台数はひじょうに少ないことが判明する11)
第3図 労働者1人当り年出炭高の推移(福岡県)(1920-1936年)
.技術導入のこのような規模別格差は労働生産性の格差をうみだし,第3図のごとく,1920年代後半から1930年代にかけて福岡県の主要な大炭鉱は中小炭鉱にたいする労働生産性の優位を決定的に確立したのである.
 ところで1920年代後半、大炭鉱を中心に急速に進展する石炭鉱業の技術革新は,炭鉱用諸機械の海外からの輸入に圧倒的に依存していた.採炭機械の国内自給率ほ1932(昭和7)年まで20%を割っており,80%以上を海外に依存していた。1920年代後半の技術革新が国内機械工業の発展にあたえた波及効果はきわめて微弱であったと言わねばならない.しかし,1933(昭和8)年以降採炭機械の国内自給率は急激に高まり,1935(昭和10)年には50%に達している12).1933(昭和8)年以降の技術革新をささえた国内メーカーは,第14表から明らかなように,日立製作所や小松製作所のような大手機械綜合メーカー,住友機械製作所や三池製作所や足尾製作所のような炭鉱鉱山兼営の製作所として発足したメーカー,中小機械メーカー(鉱山機械専門メーカーを含む)の3類型に区分することができる.1933(昭和8)年を画期に,石炭鉱業の技術革新は国内機械工業の発展を促し,また後者の発展は前者の進行をいっそう推し進めるというように,重工業部門の内部循環的な関連が形成され始めたといえよう.
第14表 1936年現在炭鉱が所有する国内製採炭機械の製造所別台数
(3) 炭鉱女子労働の衰退
 保護鉱夫の深夜業禁止,坑内労働禁止を規定した1928(昭和3)年の「鉱夫労役扶助規則」の改正と一連の技術的合理化は,炭鉱女子労働のドラスティックな衰退をまねいた.第15表によれば,女子鉱夫の比率は1925(大正14)年以降減少に向かうが,1928(昭和3)年と1931(昭和6)年を画期に大きく落ち込み,1920-1931(大正9-昭和6)年の間に19ポイントの低下をみている。女子鉱夫比率の低下は,ことに坑内夫で著しく,夫婦共稼を中心とした家族的就業形態の急速な分解を窺い知ることができる.しかし,保護鉱夫の坑内労働禁止の猶予期間が切れた1934(昭和9)年以降も女子坑内夫が4%ほど存在することは,前に指摘したようないくつかの例外・特例規定が設けられていたためであろう.
第15表 女子鉱夫比率の推移(1920-1936年)
一方,女子坑外夫の比率は,坑内夫に比しその低下は緩慢であり,1920-1936(大正9-昭和11)年の低下はわずかに5ポイントにすぎない.3交替制を採用したばあい,女子選炭夫の深夜業が認められたこと,坑外の技術革新は坑内ほどドラスティックではなかったことなどが,坑外女子労働の強固な存続を規定した要因であった.
 ところで,先に述べたような技術革新の地域的跛行性と関連して,女子鉱夫比率の低下にも地域的な差異が存在した(第4図).傾斜を利用した切羽運搬方式のために女子後山がほとんど存在せず,女子鉱夫の比率が低い北海道では,1920年代初頭より同比率の漸落傾向がみられるのにたいし,ほかの諸県では1928,1929(昭和3,4)年以降の低下が著しいが,もっともドラスティックな低下を示しているのは福岡,佐賀の両県であり,長崎,福島,茨城,山口の4県はその低下率が比較的小さい.
第4図 道県別女子鉱夫比率の推移(1920-1936年)
茨城県にいたっては,1931(昭和6)年をボトムにして1932(昭和7)年以降上昇傾向に転じている.中小炭鉱の比重が高い福島,茨城,山口の諸県では女子鉱夫の整理がかならずしも徹底したかたちで行われなかったことを示す.
 この点は,筑豊炭田の主要な大炭鉱と中小炭鉱の採炭夫比率の推移を示した第16表からも窺い知ることができる.中小炭鉱は分業の遅れから採炭夫比率が60%前後と高く,その比率は1930(昭和5)年に一時的に低下するものの,1931(昭和6)年以降ふたたび60%台に回復している.これに対し,豊国(ほうこく)炭鉱は1924(大正13)年以降,田川,大之浦(おおのうら)両鉱は1928(昭和3)年以降,鯰田・忠隈(ただくま)両鉱は1930(昭和5)年以降,採炭夫比率の急速な低下がみられる。この事実は,既述のような技術革新の跛行性に規定されて,大炭鉱と中小炭鉱では女子後山の整理が異なったテムポですすんだことを示す.
第16表 採炭夫(先山・後山)比率の推移(筑豊地帯)
(1920-1932年)

中小炭鉱では女子後山の整理が徹底せず,女子労働への依存度が依然かなり高かったことを示唆しているといえよう.
 以上,立法的規制と技術革新による炭鉱女子労働の衰退とその特徴を概観したが,この点と関連してつぎの2点に特に注目しておかねばならない.
 第1は,産業革命の時代,炭鉱女子労働者(家族持鉱夫)の形成と対応するかたちで成立した「納屋制度」が,炭鉱女子労働の衰退とともに崩壊し,資本の直接的な労務管理支配が強化されたことである.たとえば,1922(大正11)年の労務主任会議で「世話方制度」(実態は「納屋制度」のようなもの)の廃止を決定していた三菱鉱業は,1929(昭和4)年2月,筑豊鉱業所管下の新入(しんにゅう),鯰田,方城(ほうじょう),上山田の4鉱で世話方43人,世話方所属人繰(ひとぐり)(坑夫の入坑督励のため朝早く納屋巡りして起こしてまわる人間)39人の整理を断行し,同年3月,唐津鉱業所管下の相知(おうち),芳谷(よしのたに)両鉱がこれにつづき,さらに8月,飯塚鉱業所がこれにならった13)。また,「当炭田(筑豊炭田,引用者注)ニ於テハ最モ古ク純然タル納屋制度」を誇った住友の忠隈炭鉱も1929(昭和4)年10月,納屋頭14人,中納屋頭27人,人繰17人,堪場(かんば)(納屋頭のもとで会計を担当した人間)13人の整理を断行した14)。こうした動きは九州のほかの炭鉱でもみられ,1929(昭和4)年のうちに古河鉱業の目尾(しやかのお),下山田,麻生商店の吉隈(よしくま),綱分(つなわけ),豆田,芳雄(よしお)などの諸鉱で「納屋制度」が廃止され,その結果,九州の主要な炭鉱では「納屋制度」はほとんど存在しなくなった15).こうした「納屋制度」の崩壊を規定した条件としては,つぎの2点を指摘することができよう.①切羽の集約(長壁式採炭法)による共同作業の実施と採炭過程の機械化によって資本による労働者の実質的な包摂がすすみ,残柱式の一丁切羽における孤立分散的な手労働に依存した納屋頭の作業指揮監督機能(作業の割り当て,坑内巡回など)が失われた.女子後山の労働の衰退を規定した技術革新が,同時にその労務管理方式の転換を促したのである。②女子後山の整理と並行して進められた技術革新は労働需要を量的に減退させる一方,質的に高度化し,労働者の無差別募集を基本としていた納屋頭の鉱夫募集機能への依存を決定的に低下させた.
 炭鉱女子労働の衰退と関連して第2に注目されるのは,女子の代替労働力としての朝鮮人鉱夫が増加したことである.
第17表 福岡県内の炭鉱別朝鮮人鉱夫数(1928年3月末現在)
朝鮮人鉱夫の集中度がもっとも高かった福岡県16)の炭鉱別朝鮮人鉱夫数は第17表のとおりである。朝鮮人鉱夫の86%は炭鉱の基幹労働力として坑内労働に従事しているが,これを可能にしたのは長壁式による共同採炭制の実施であった。
 朝鮮人ハ根気体力共ニ強ク……共同採炭法ガ実施セラレテ居ルガ為メニ彼等ガ不熟練労働者デアルニ拘ラズ使用ガ可能デアル」「採炭法ガ長壁式ニ変更セラレタ為ニ後山ノ必要ガ減ジ夫婦共稼ガ不可能トナリ従ツテ収入ノ関係ヨリ日本人坑夫ノ志願者ハ減ジテ居ル」17)
 これは当時の三菱鯨田炭鉱の一調査報告の記述であるが,長壁式採炭法の導入による女子後山の排除と共同採炭制の実施が朝鮮人鉱夫の採用を可能にしたことが窺えるであろう.第17表からもう一つ注目される点は,朝鮮人鉱夫が特定の炭鉱に偏在しているという事実である.朝鮮人鉱夫の多い炭鉱は三菱鉱業の新入,鯰田,上山田,方城の4鉱と飯塚炭鉱(三菱系)であり,この5鉱で福岡県全朝鮮人鉱夫の80%を集中している.これらの炭鉱では全鉱夫に占める朝鮮人鉱夫の比率も高く,新入,鯰田,飯塚の3鉱では30%以上に及んでいる。朝鮮人鉱夫のこのような特定炭鉱への偏在は,朝鮮人鉱夫による女子労働の代替が上述のような技術革新(長壁式への転換)を背景としつつも,かならずしも普遍的な傾向ではなく,各炭鉱の経営労務政策や炭層の賦存状況(採炭の難易度)など個別具体的な諸条件によって規定されていたことを意味している.
 さて以上,炭鉱女子労働の衰退との関連で「納屋制度」の崩壊と朝鮮人鉱夫の採用の2点について言及したが,ここであらためて問題として浮かび上がってくるのは,技術革新による炭鉱女子労働者の整理はなぜ摩擦なく遂行されたのかという素朴な疑問である.事実,管見のかぎり,女子鉱夫の整理が直接の引き金となった労働争議は,当該期には1件も起きていない.女子後山の収入が鉱夫の家計にとって無視しがたい比重を占めていたことを想起するならば,この事実はきわめて興味深い.この問題の回答として,つぎの2点に注目しておきたいと思う.
 第1は,多くの炭鉱が家計収入の減少を補うために,解雇された女子の副業奨励政策を採用したことである.たとえば,三井鉱山三池鉱業所は家計逼迫の緩和策として1928(昭和3)年授産所を設置18),各種の副業を奨励し,製品は三池共愛会(共済組合の一種)の購買部が委託販売した19).その副業の種類,従事した人員,収入などを参考のために摘記するとつぎのとおりである20)(1930年現在).
① 副業奨励加工賃(会社買上げ)1日平均50銭,最近5ケ月間の作業延人員3,518名
② 竹アンペラ1日平均80銭,同延人員1,518名
③ ミシン(会社貸与または月賦販売)53台,1日平均80銭
④ 裁縫35名,1ケ月平均仕立物180枚,1日平均1円13銭
⑤ 機織6名,1日平均38銭
⑥ マイト団子作り6名,1日平均50-60銭
 三池鉱業所の授産所は1932(昭和7)年に拡張され,三池共愛副業組合として再発足している21).このような副業奨励政策は三池にかぎらず,ほかの炭鉱でも採用された。事実,海軍の新原(しんばる)炭鉱は1929(昭和4)年6月,女子の坑内労働禁止対策として家内工業委員会を設置し22),また福岡県遠賀(おんが)郡の14炭鉱で組織された遠賀郡労務主任会は,同年12月女子鉱夫の失業対策を協議し,藁細
工や養豚などの副業奨励と紡績工場の設立推進などを取りきめた23).明治鉱業は1930(昭和5)年,女子の坑内労働禁止に伴う失業救済策として運動場の拡張工事や魚市場の新設を行い24),貝島大之浦炭鉱も1932(昭和7)年7月,不要社宅を改造して充填用バラ(採掘跡の充?の外囲いに使用する竹籠),漁網,筵製造の副業工場を新設した25).
 以上に述べたような副業奨励政策は鉱夫家族の多就業構造を維持し26),女子鉱夫の解雇に伴う家計の逼迫をある程度まで緩和するものであった。経営の側のこうした積極的な施策が技術革新と,これに伴う炭鉱女子労働の排除を摩擦なく行わしめた一つの有力な要因であったことは疑いないであろう.
 第2に,両大戦間期の石炭鉱業はほかの産業とくらべて福利施設や教化組織など資本による労働者の統合政策が高度に展開しており,それがドラスティックな技術革新にたいする労働者の抵抗を抑える重要な緩衝機構となった.いま若干の統計的なデータによって上記の点を確認すると,支払賃金総額にたいする福利施設費の割合(1926年)は鉱業(24.1%)が紡織工業(23.5%)とならんで群を抜いて高く―ほかの産業は10%未満―27),修養団体の設立状況(1932年)も石炭鉱業では調査炭鉱のすべてに存在し,ほかの産業を大きく引き離している28).
第18表 三井鉱山三池炭鉱の労務政策史年表
(1919-1935年)

しかも炭鉱社会の地理的な孤立性から,多くの大炭鉱では地域・家族ぐるみの組織化がすすめられており,労働運動の社会的波及を防遏する機構が幾重にも形造られていた.以上に述べた資本による労働者統合政策の具体的な様子を三井鉱山三池鉱業所について年表風にまとめてみると第18表のごとくである。ここに典型的に示されているような,地域・家族ぐるみの各種労働者統合政策の展開が技術革新とこれによる炭鉱女子労働の排除を摩擦なく行わしめた第2の要因であった.

[注]
1) 宇野弘蔵監修『講座帝国主義の研究』第6巻〈日本資本主義〉,青木書店,1973年,151ページ.
2) 前掲,『日本鉱業発達史』中巻,192-93ページ.
3) 宇野弘蔵監修,前掲書,149ページ.
4) 田中直樹・荻野喜弘「保護鉱夫問題と採炭機構の合理化」,『日本大学生産工学部研究報告』第11巻第1号,1978年,参照。
5) 労働省『労働行政史』第1巻,1961年,286ページ.
6) 同上,287ページ.
7) 隅谷三喜男,前掲書,386ページ.
8) 前掲,『日本鉱業発達史』中巻,262ページ.
9) 隅谷三喜男,前掲書,395ページ.
10) 前掲,『日本鉱業発達史』中巻,第148表,第149表参照.
11) 典拠は『本邦鉱業の趨勢』.
12) 以上の採炭機械自給率の推移は同上資料による.
13) 市原亮平・田中光夫「炭鉱納屋制度の崩壊(2)」,『日本労働協会雑誌』64号,1964年,30-2ページ.
14) 田中直樹「筑豊石炭硬業発達史概要」,『麻生百年史』寄稿篇,1975年,87ページ.
15) 長沢一夫「我国石炭山に於ける労働管理の趨勢に就て」,『日本鉱業会誌』544号,1930年,713ページ.
16) 朝鮮人鉱夫の福岡県への集中度は1920年44.5%,1925年49.5%,1930年62.1%と上昇しており,2位の北海道(22.4%→17.9%→13.9%)を大きく引き離している(朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』第1巻,第2巻,三一書房,1975年所収の資料より算出).
17) 三輪光明・野田信夫・三浦仲平『鯰田炭坑見学報告』(タイプ刷),1926年,41,46.
ページ.
18) 『三池鉱業所沿革史』第7巻,労務課1,三井文庫蔵,191ページ.
19,20) 古賀良一他編『北九州地方社会運動史年表』,西日本出版社,1980年.
21) 『三池鉱業所沿革史』第7巻,労務課1,191ページ.
22) 『筑豊石炭礦業史年表』,西日本文化協会,1973年.
23) 前掲,『北九州地方社会運動史年表』.
24,25) 前掲,『筑豊石炭礦硬業史年表』.
26) 三池鉱業所の被解雇者のばあい,経営側が奨励した副業に従事する者のほか,野菜,果物,魚類などの行商人になる者が続出し,大牟田市内の商店に脅威を与えるほどであったという(前掲,『北九州地方社会運動史年表』).
27) 高橋亀吉『日本産業労働論』,千倉書房,1937年,132ページ.
28) 産業福利協会『工場鉱山の福利施設調査』第1,教育修養施設,1933年,第1表(間宏『日本労務管理史研究』,ダイヤモンド社,1964年,第13表).

むすび:展 望

 第1回国際労働会議の条約案の採択によって,1920年代わが国の鉱業労働保護立法が新たな展開を示し,これが技術革新による炭鉱女子労働の衰退を促した政策的な要因であったことはすでに指摘した`その意味で,炭鉱女子労働の衰退は,巨視的にみれば,第一次大戦後の資本主義世界の新秩序をしめすベルサイユ体制の枠組に規定された一つの特殊的な現象であったといえよう.このことは,この枠組が取り払われたとき,炭鉱女子労働が再度甦るであろうことを示唆している.
 1937(昭和12)年7月の日中戦争開始以降,日本は本格的な戦時経済体制に突入し,翌1938(昭和13)年には国際労働機関(ILO)を脱退し,社会政策の面でそれまでかろうじて維持してきた国際協調の路線を最終的に放棄した.日中戦争の勃発に伴う応召兵の増加による炭鉱労働力の不足,それに上述のような国際労働立法の規制条件の消滅は,坑内労働への女子充用の途を再度拡大した。1937(昭和12)年,石炭鉱業連合会と石炭鉱業互助会は労働力不足対策として,深夜業禁止の緩和や保護鉱夫の坑内労働への使用許可など,5項目を商工省に陳情した1).このような炭鉱資本の圧力もあって,政府は1939(昭和14)年8月,厚生省令「女子ノ坑内就業ニ関スル鉱夫労役扶助規則第11条ノ2第1項ノ特例ニ関スル件」を公布し,一定の条件のもとで女子の坑内労働を認めることとなった2)`国際労働機関(ILO)脱退の翌年に女子の坑内労働を再度認めるに至ったことは,まさに象徴的な出来事と言わねばならない.かくして,炭鉱労働者の女子構成比は1937(昭和12)年の8.3%をボトムにして上昇に転じ,1940(昭和15)年の10.6%,1945(昭和20)年の18.5%と急角度で上昇した3).しかし,ここでもまた注目すべきはその地域的な差異であり,強制的に連行した朝鮮人によって労働力の不足に対処した北海道では女子比率の上昇はほとんど認められないのに対し(1940年,3.7%),中小炭鉱が蝟集する福島,茨城,山口の3県では女子比率が突出した高さを示した4)(1940年,15-21%).
 戦時体制期の石炭鉱業は,以上のように,坑内労働に女子を再度充用することにより,また朝鮮植民地労働力を強制的に動員することによって,戦争遂行課題としての石炭の増産を実現したのである.しかし,石炭の増産にもかかわらず,労働生産性は逆に低下した.戦時体制下の国内機械工業の軍需生産への傾斜は,1920年代後半から1930年代にかけて進行した石炭鉱業の技術革新の持続的な展開を制約し,その結果,鉱夫1人当り年出炭高は1932-37(昭和7-12)年の200トン台から1940(昭和15)年の174トン,1944(昭和19)年の126トンへと急落した.戦時期石炭鉱業の生産構造は,技術進歩が停滞するなかで,女子や朝鮮人などのチープレーバーの大量投入による急速なダイリューションの過程を内蔵したものであった.

[注]
1) 久保山雄三『石炭鉱業発達史』,公論社,1942年,166ページ.
2) 前掲,『労働行政史』第1巻,654ページ.
3) 『本邦鉱業の趨勢』各年.
4) 1942年9月現在,常磐炭田のある小炭鉱(鉱夫数106人)の労働力構成は男子59人,女子47人(女子比率44%),採炭後山40人(職種別構成比38%)であった(柳瀬徹也『我国中小炭礦業の従属形態』,伊藤書店,1944年,76-7ページ).
[西成田 豊]