女子労働

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技術革新と女子労働

論文タイトル: 第3章:都市下層の女子労働
著者名: 三宅 明正
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第3章:都市下層の女子労働

はじめに

 本章の目的は,1870年代から1910年代を主要な対象にして,戦前の日本における都市下層女子労働の様態を明らかにすることである。
 女子労働に焦点をあわせたものはないが,これまで,戦前の都市下層民に関する研究は少なくない.津田真澂(ますみ)氏は,1911-12(明治44-45)年の「細民調査」を詳細に検討して戦前日本社会の総体としての下層性を主張し1),隅谷三喜男氏は,都市「雑業層」が過剰労働力のプールであり賃労働者の給源となっていたことを論じた2).また,兵藤釗(つとむ)氏は,1880年代から第一次世界大戦以降までを対象に,「大経営労働者」が「都市下層社会」から離脱していく過程をあとづけた3).
 これらの研究が述べていることは一様ではないが,そこに共通しているのは,専ら賃労働者の形成という観点からのみ都市下層が問題とされていることである.下層社会への埋没を強調するにしてもそこからの離脱を強調するにしても,関心は,狭義の賃金労働者の形成というところにおかれていた.資本主義の発展が,階級の分化を伴い,賃労働者を必然的にうみ出していく限り,こうした観点はもちろん正当であろう.
 だが,一般的抽象的な次元でそれを認めるにしても,現実の都市下層社会は,賃労働者がそこから脱出するものとしてのみ存在していたわけではない.それは,内部の変化を伴いつつ,資本主義化の過程を通じて,独自に発展(あるいは後退)し,推移したのである.最近,こうした視角から中川清氏が「戦前,特に戦間期の都市下層を,都市社会の構成部分として,動態的に把握し,その生活状態の推移を明らかにする」研究を発表している4).本章では,中川氏の研究に多くを学びつつ,女子労働に焦点をあわせ,先述の時期を対象にして都市下層民の様態を明らかにしたい5).

[注]
1) 津田真澂「日本の都市下層社会」,『経済学論集』第24巻第2号(1956年3月),同『日本の都市下層社会』,ミネルヴァ書房,1972年.
2) 隅谷三喜男『日本賃労働史論』,東京大学出版会,1955年,同『日本の労働問題』,東京大学出版会,1967年.
3) 兵藤釗『日本における労資関係の展開』,東京大学出版会,1971年.
4) 中川清「戦前における都市下層の展開」(上・下),『三田学会雑誌』第71巻第3,4号(1978年6,8月),同「続・戦前における都市下層の展開」(上),新潟大学『商学論集』第13号(1980年3月),同「関東大震災直後の都市下層」,『商学論集』第15号(1982年8月).
5) なお,都市下層といっても,本章でとりあげるのは大都市のそれに限定されている.地方都市の下層社会については,さしあたり,橋本哲哉『地方都市の下層民衆と民衆暴動』,国際連合大学,1980年,を参照されたい.

Ⅰ 1870.1880年代

 (1) 前 史
 予め資本主義の発展に伴う都市下層社会の展開の前史として,封建社会末期における「無籍無産ノ窮民」の状況を,18,19世紀に人口100万人をこす巨大都市であった江戸についてみておこう.もっとも,当時,どの程度の貧民が,いかなる形で(居住地,居住形態,職業,家族構成など)存在していたかを示す史料は,きわめて少ない.次のような断片的な史料をつなぎあわせていかなければならない.
 まず“打ちこわし”の昂揚に対処すべく1860(万延1)年に町会所が米の廉売をした際,対象となった7万4,000人あまりの「極貧者」の居住地を記した史料(『藤岡屋日記』1))がある.それによると,「極貧者」は,四谷鮫河橋(さめがはし),下谷万年(したやまんねん)町,芝新網(しばしんあみ)をはじめ,四谷,下谷,芝,深川,本所,小石川,神田,本郷など,広い範囲にわたって存在していた四谷鮫河橋,下谷万年町,芝新網は,のち,1890年代に「東京の三大貧民窟」2)として有名になる所である.それは,次のように17,18世紀以来,貧民の集住地となってきていた.まず四谷鮫河橋は,「江戸初期に埋立てられた沼地あとの谷間の低地一帯に乞食などが集まってできたといわれ,芝新網も,17世紀末に乞食,芸人などの定住したのが,その始まり」であり,「もと山崎町と称した下谷万年町も,18世紀なかばに山本仁太夫という浪人が横割長屋を建て,くず屋その他の下層民を住まわせたところがらひろがった」3)ものであった.18世紀の末から19世紀初頭にかけて,商品経済の浸透にともない農民層分解が急速に進行し,無高,極貧農層が堆積され,農村からはき出された.彼らの行く先は,江戸,大坂などの大都市であり,多くは下層民として,上述のようにすでに貧民が集住していた地域を中心に,滞留したのである.
 次に,1828(文政11)年に作成された江戸の「町方書上」がある.これを用いて下層民の生活実態に接近した松本四郎氏は,次のごとを明らかにしている4).
(1)「町方書上」にのせられている「町」別の総戸数を,家持ち,地主,家主,地借,店借,明店別にわけて,ひとまず店借を下層民と考えると,総戸数中の店借の比率は,各町平均して60%を越えていた.上述した「極貧者」は,下層民の一部であったといってよいであろう.(2)店借層の平均宅地坪数をみると,当時,下層民についていわれていた「九尺二間の裏長屋」は,その居住形態を適切に示した表現である.ちなみに「九尺二間」とは約10平方メートルで,そうした「裏長屋」では,井戸も便所も共同使用であった.(3)「裏長屋」という表現からうかがわれるごとく,下層民が集住していたのは,裏道沿い,あるいは昼なお暗い「日影町」などと称される地域であった.彼らは,日照を十分に受けることのできない地域に,狭い住居で肩をよせあって生活していたのである.
 以上から下層民の居住地と居住形態は一定程度明らかだが,彼らの職業は知りえない.そこでやや後の史料を用いて,松本氏は彼らの職業を探ろうとしている.すなわち,江戸における“打ちこわし”の昂揚に対して,明治維新直後,新政府と大商人は,その担い手であった下層民を下総原野の開墾への動員という名目で「追放」しょうと企てており,その際の史料から,断片的だが彼らの職業がうかがわれるのである.それを示したのが第1表で,同表から,下層民を以下四つの類型にわけて考えることができよう.(1)力役型.四類型のなかで最も多くを占め,車力,軽子,日雇がその過半をなしている.車力,軽子は運送業者で,日雇の内容は,肉体労働一般にかなり広くわたっていたと思われる.
第1表-1 二和村移住農民の前職業と前住地(1869年)
第1表-2 初富村(大村持分)移住農民の前職業と前住地(1872年)
(2)職人型.左官,大工などの「出(で)職人」と畳職,樋屋職などの「居(い)職人」の双方が含まれる.彼らの間で本格的な分解と落層がおきるのは1900年代の後半だが5),元来景気変動の波にさらされやすいという性格が,職人のなかに多くの下層民を生みだしていたのであろう.(3)小商人型.魚屋,八百屋など,主に行商形態のものが,その中心であった.松本論文とは別の史料を用いて,18,19世紀前半の下層民の様態に接近した吉田久一氏の論文によれば6),女子は「樒売(しきみ),草花売」に携わる者が多かった.(4)農業型.これは数的にはわずかだが,江戸の郊外で農業を営んでいたものの,その規模が極めて零細だった人々である.
 これらのほか,第1表に含まれてはいないが他の史料から知ることのできる職業類型に(5)雑業型がある.それは,「大道芸人,易者,按摩,芝居小屋木戸番」から乞食にまでいたる文字通り雑多な職業にほかならない7).そのうち女子が多かったのは,洗濯かせぎや走り使いなど内職的な職業であった.
 このような下層民が家族を形成していたかどうかは,それを伝える史料が存在していないので判らない.もっとも,(2)の職人を中心に家族はある程度形成されており,そこでは妻ならびに子供を含めた多就業が一般的だったとみてよいように思われる.
 明治維新の直後には,さらに,新たな性格の下層貧民が創出された.特権を奪われた下級の士族が大量に没落したからである.そして,彼ら没落士族を主な対象とする対策が,政府,府県によって取り組まれていく.東京府は,1869(明治2)年に二つの「救育所」を設け,授産事業を開始した.そこでは,製糸・織物の技術,鼻緒・墨・紙製造の技術が没落士族の子女らに教授された.また,東京府知事が市内有力者を招集して東京営繕会議所を作らせ,1873(明治6)年に同会議所は「養育院」を設けている.この養育院は1876(明治9)年から東京府直轄となり,造靴・紙漉き・マッチ箱製造の作業を開始した.大阪府でも,1871(明治4)年に「大貧院」が設立され,翌年それは「授産所」に改組されて,織物・紙漉き・紡績などの技術を指導し,京都府でも,1870(明治3)年に「窮民授産所」が設置され,油絞・ろうそく製造・紙漉き・織物などの作業が始められた.京都市では,1875(明治8)年に「化芥所(かかいしょ)」を設けて,「窮民」にゴミを集めさせ,手当を支給した8).
 政府は1874(明治7)年に「恤救(じゅつきゅう)規則」を公布したが,それは民衆相互の「情誼」にもとづく扶助を力説し,国家の救助を最小限に止めようとするものであったから,上にみた府県あるいは市レベルの対策が,実際の救済策であった.しかし,こうした救済策も,1882-83(明治15-16)年にあいついで.中止もしくは民間業者への委託が進められるようになる.それは,1881(明治14)年に始まる“松方デフレ”のもとで,民衆全体のいわば下層化が進み,一部の者への救恤が意味をなさなくなったからであった9).
(2) 「下層社会」の膨張
 松方デフレから1890年代前半にかけての時期に,日本資本主義の原始的蓄積が進行した.一挙に大量の都市貧民が創出された西ヨーロッパ各国と異なって,日本では,原始的蓄積の過程で強力的に農村から引き離されて都市に滞留した者はさほど多くないといわれてきた.最近,海野福寿(うんのふくじゆ)氏の論文がこれに異議を唱え,労働者数の推計から,多量の離農村者が大都市に流入したと主張している.実際,1884(明治17)年当時,東京の「安宿」(=木賃宿)にはのべ92万人もの宿泊者があり,そのうち東京を原籍としていたのは44%に止まり,他はみな全国各地からの流入者であった10).四谷鮫河橋,下谷万年町,芝新網と併せて四大貧民窟と称された大阪名護町の場合をみると,「此一万の貧侯国住民は常住民と移住民との二種より成れり」といわれており,常住民,すなわち従来からの居住者で零落化が進んだ者と,新たに加わった移住民の二つのタイプの者が存在していたことが明らかである11).東京の下層社会にも,この頃,「出稼人」が急増していた12).
 急増した下層民の居住地は,従来からそうした人々が住んでいた地域,ならびにその周辺地域であった.住居形態も,従来とさほど変化がなかったように思われる13).日本資本主義の原始的蓄積は,このように,従来からの都市下層社会を,膨張させたのである.
 そして,この下層社会の急膨張が社会的に注目を集めるようになり,新聞記者らによる“貧民窟調査”が,いくつか公表された.それらのうち,下層社会の女子労働についてよく記しているのは,以下の二つである.
 (1)呉文聰「東京府下貧民の状況」,『スタチスチツク雑誌』第57号(1891年)14).そこには,「某新聞が客年中米価騰貴の際東京府下貧民の状態を観察せしものを抜抄」して,区毎に記し,職業について男女をあわせ以下のようにまとめてある.
 すなわち,「日雇,土方,人力挽,縁日商人,下等の各職工,紙屑拾,下駄直,カッポレ踊,住吉踊,野店講釈,野店ミセモノ,漁師,蛤漁,エサ掘,棒手フリ,紙漉,元結水引製造,魚売,野菜売等又女・子供の為には荷車アト押,他県下へ茶摘等」と.この「下等の各職工」はここでは具体的な内容が記されていないが,1893(明治26)年に松原岩五郎が発表した「東京市内の手工人(下等社会生業の一大現象)」15)に次の記載があるので,雑工業の手労働に従事する職工であったとみてよいであろう.すなわち,「洋傘の骨線を製作する工場」などには「婦人,小児等」が多数就業しており,もとは内職の形だったが「一進して本職となり」,東京の本所区では,これらの「手工者」が8,000人に達し,「内小児婦人を合して3分の2を占」めていた.この期の下層社会女子労働は,幕末期とさほどかわらないが,工業(雑工業)の「下等職工」が登場したことは注目されよう.
(2)呑天鈴木梅四郎『大阪名護町貧民窟視察記』(1888年調査,1918年刊行)16).ここからは,日本の四大貧民窟の一つである大阪名護町について,具体的に職業の構成を知ることができる.
第2表 「名護町貧民」の職業(1888年)
第2表は,その職業をまとめて示したものである.同表から,女子労働に関しては次の点が注目できよう.まず第1に,資本主義化のなかで最初に出現した産業の一つであるマッチ工業を中心にして,そこに働く「職工」が比較的多いことである.それは,全女子の10%を越えている.男性に職工が少ないのと比べると,対照的である.マッチ製造における労働の様態は,次節「産業革命期」で述べる.第2に,職業(職種)のなかで最も多いのは,屑拾いで,16.4%に及び,これに「雑業」に含まれている「古下駄集め,明樽買」などをあわせた“廃品回収業”が占める比率は,30%近くに達する17).この“廃品回収業”は,男女ともほぼ同じ比率である.第3に,女子に無業の者が26%程存在することである.15歳未満者はともかく,15歳以上にも無業者が相当数いることは注目される.ただし,彼女らが完全な無業であったかどうかは疑わしい.著者鈴木梅四郎は「名護町貧民の盗業」が「一種の職業となり居たるもの」と述べており,そうした「職業」を含めると,無業者はかなり減少するのではなかろうか.
 さて,名護町の例を中心にしつつ,東京のものを併せて,1870・1880年代の都市下層女子労働には次の諸類型を設定することが可能であろう.(1)力役型.東京では,茶摘み,荷車のあと押し,名護町では「被雇」がこれにあたる.封建社会末期と同様に,多種多様な肉体労働者がそこには含まれていた.(2)職人型.団扇作り,縄捻り,縄編みなど,手工業的な製品を作る労働者が中心である.おそらくは内職形態が多かったと推測される.(3)雑業型.屑拾い,芸人,小商人など,純雑業層である.それの内容は多岐にわたっている.(4)工業型.マッチ産業の「職工」がその代表で,資本主義化過程ではじめて出現した下層社会女子労働の一類型である.
 これら四つの類型は,それぞれの内部において,また,類型相互において,決して固定的なものではなかった.(3)の雑業型は,その内部の各職業が独立性をもっているように思われがちだが,例えば芸人が紙屑拾いになったりするなど18),流動性が一定程度存在した.そして,(1)(2)(3)の各類型から,徐々に(4)の工業型に移るものが出るというのが,この期の状況であった.
 なお,1870・1880年代の下層民の家族の状態については,判らないことが多い.もっとも,第2表から推測するに,年齢からみて下層民の間に家族が形成されていたことは疑いないであろう.ただし,世帯主も配偶者もきわめて低い収入が一般的であったと思われるので,家族は,多就業でようやく家族であることを維持しえていたものと考えられる.

[注]
1) 『東京市史稿』市街編48,1959年,所収.ただし,3)の書籍より重引.
2) 横山源之助『日本の下層社会』,岩波文庫版,22ページ.
3) 石塚裕道『東京の社会経済史』,紀伊国屋書店,1977年,23-4ページ.
4) 松本四郎「幕末・維新期における都市の構造」,『三井文庫論叢』第4号(1970年).
5) 宮地正人『日露戦後政治史の研究』,東京大学出版会,1973年,193-200ページ.
6,7) 吉田久一「江戸時代の都市下層社会」,『日本社会事業大学研究紀要』第27集(1981年),29ページ.
8,9) 隅谷三喜男,前掲『日本賃労働史論』,83-9ページ.
10) 海野福寿「原蓄論」,石井寛治・海野福寿・中村政則編『近代日本経済史を学ぶ』上巻,有斐閣,1977年,17ページ.
11) 大我居士『貧天地饑寒窟探検記』,1893年(西田長寿解説『明治前期の都市下層社会』,光生館,1970年,に再録),108ページ.
12) 隅谷三喜男,前掲『日本賃労働史論』,100ページ.
13) 石塚裕道『都市下層社会と「細民」住居論』,国際連合大学,1979年.
14) 労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第1巻,同刊行委員会,1962年,に再録.
15) 『国民新聞』1893年10月29日付,11月5日付,前掲『日本労働運動史料』第1巻に再録.
16) 西田長寿解説,前掲『明治前期の都市下層社会』,に再録.
17) なお,日本で“廃品回収業”が近代の初頭以来日銭の得られる職業として成立していたことはきわめて注目されるという指摘を,1981年12月12日の国際連合大学プロジェクトチーム研究会の場でブラジルのヘレナ・スミコ・ヒラタ博士より受けた.廃品を回収し再生する技術が日本においていかにして発達したのかは興味深い論点だが,これについての考察は今回は行えなかった.
18) 『東京の貧民』(1896(明治29)年,『時事新報』に連載),林英夫編『流民』〈近代民衆の記録・4〉,新人物往来社,1971年,に再録.

Ⅱ 産業革命期

 (1) 「都市下層社会」の展開
 日本の産業革命は,1886-1889(明治19-22)年のいわゆる「企業勃興期」に始まり,1907(明治40)年頃にかけて進展したが1),この間の東京における「貧民窟」の登場をみると,第3表のようである.一見して,貧民窟が拡大している様相が明らかであろう.同様のことは,木賃宿の区毎の数を示した第4表からもうかがわれる.木賃宿は,当時,全国から離村して大都市へ集まった者の宿泊場所となっていた.
 同時に,第3表と第4表は,1896(明治29)年までとそれ以降で,下層民が集まった地域(地区)が変化したことを示している.
第3表 東京市における「貧民窟」の登場(新たに登場したもの)
第4表 区別木賃宿数(現在数)
すなわち,原始的蓄積期から産業革命の初期にかけては浅草・下谷両区に,産業革命の途中から終期にかけては深川・本所両区に下層民居住地の重心が移っているのである.新たに下層民が集中した深川・本所両区は,東京における当時の工業の中心地であった.前節で予想したごとく,それは,下層社会に〈工業型〉の労働者が増加したことを示しているといってよいであろう.
 では,当時の東京の工業の様相は,どのようであったのだろうか.第5表は,1889(明治22)年から1907(明治40)年にかけての東京の民間工場の数を示しており,ここから産業革命の初期には,マッチ,ゴム,石鹸などを生産する雑工業的な化学工業の工場が多く,以後,繊維工業ならびに重工業の工場が増えていくことが知りえよう.
第5表 東京における民間工場数の変化
当時日本一の工業地帯であった大阪にも,同様の傾向が存在した2).東京における労働者の数の変化を,女子について工業別に示すと第6表のようになる.第6表もまた第5表と同様のこと,すなわち,産業革命初期における化学工業,とりわけその90%以上を占めるマッチ工業の比重の高さと,1900年代における繊維工業,ことに紡績業の比重の高さを,如実に示している.ちなみに,工場数で産業革命後期に一定の比率を占める重工業の労働が,第6表でわずかな割合にしかなっていないのは,そこに働く女子労働者が少なかったからである.
 そして,これらの工業は,いずれも初期にその労働力の給源を都市下層社会の子女に求めていた3).以下,代表的な産業として,マッチ工業について考察しよう4).
第6表 東京における女子職工数の変化

(2) マッチ工業の女子労働
 マッチの製法は1870年代に輸入されたものだが,製造法の簡便さからきわめて早く土着化し,マッチ工業は,間もなく,代表的な輸出産業の一つとなった.産業革命期の「産業・貿易構造」を考察した高村直助氏の論文によれば5),工業製品輸出高のうち,マッチは,1898-1900(明治31-33)年の平均で,生糸,綿糸,羽二重に次ぐ第4位を占め,百分比では3.1%であった.産業革命終期の1907-1909(明治40-42)年平均でも,それは2.5%であり,1910年代なかごろまで,マッチは「重要輸出品中常に7位乃至8位に位して,マッチ工業は我国重要輸出産業の一」6)つとなっていた.
第7表 マッチ工業の諸指標
第7表からうかがわれるとおり,生産高のうちの外国輸出高割合も,毎年80%を越える高率であった.初期の輸出先は,主に清国(中国)で,のちには,東南アジア,南アジアへと広がった.
 産業革命期に,マッチはほとんど全国各地で製造されるようになったが,1895(明治28)年当時,兵庫,大阪,愛知,東京の4府県に,生産高でみて90%以上が集中していた。工場数における集中度も,1899(明治32)年に,兵庫62,大阪35,愛知12,東京17工場と,これら4府県で全国総工場数(ただし職工10人以上規模の工場)の70%に達し,労働者数でも4府県の比率は全国比80%近くであった7).なお,生産高,工場数,労働者数のいずれにおいても,4府県のうち,とりわけ兵庫,大阪への集中度が高かったが,それは,マッチの過半が輸出向け製造であり,主要貿易港たる神戸を控えていたからである.
 マッチ工場は,ほとんどが中小零細規模の経営であった.1909(明治42)年の『工場統計表』に拠れば,マッチ工場で1,000人以上の職工を擁するところは一つもなく,5人から99人までの小零細規模工場が,総数の70%以上を占めたこうした状況は,その後もかわるところがなかった.マッチ工場の零細性は,その製造作業の簡易性によるところが多い.そして,製造の簡易性が,マッチ工業に,都市下層社会を給源とする女子労働力を大量に雇用させていたのである.では,マッチの製造工程は,いかなるものであったのか.
 マッチの製造は,軸木製造,小箱製造,ならびにマッチ製造の三分野に大別される.このうち,狭義のマッチ工場が行うのはマッチ製造で,軸木と小箱の製造は,外注される場合がほとんどであった8).軸木製造は,原料となる白楊樹の存在条件から,初期には北海道・東北地方に工場が集中していたが,1900年代を通じて,狭義のマッチ工揚が集中する阪神地方にも広がった.また,小箱製造は,狭義のマッチ工場が箱素地を買い入れて,請負によって箱の製造ならびに商標はりを行わせるのが一般的であり,その請負には,都市下層社会の女子が内職の形態で従事していた.阪神地方の例をみると,内職といっても狭義のマッチ工場が彼女らに直接請負わせるのではなく,零細な小箱製造業者がマッチ工場からまず一括して仕事を請負い,そのうえで彼女らの内職に出すというのが一般的であった.
 軸木と小箱を除くマッチ製造の工程は,以下のとおりである.すなわち,軸揃え,軸並べ,たたき,パラフィン付け,薬品付着,乾燥,箱詰め,摩擦面調整,検査,包装の10工程からなっている.これらのうち,技術的に中枢の位置を占めるのは,軸並べ作業である.
 第7表に示したごとく,狭義のマッチ工場(工業)では,女子労働者の占める比率が70%あまりと著しく高いが,その多くは,「軸木ノ排列(男子モ亦従事スルコトナキニアラサレトモ)箱詰紙包ハ皆女工ノ従事スル所」9)と,軸並べ,箱詰め,包装の3作業にたずさわっていた.女子労働者は,マッチ工場において,量的質的に中軸をなしていたのである.ちなみに,技術的に中枢の位置を占める軸並べ作業の本格的な革新は,女子労働者を減少させる方向に作用するはずであった.すなわち,1890年代初頭にドイツ製軸並べ機械が導入され,「独逸式ハ全ク壮年男工ニアラサレハ之レヲ操作スルコト能ハス」10)という理由で,軸並べ作業から女子を排除するかに思われたのである.もっとも,実際にドイツ式の軸並べ機械を導入することができた経営は,ごくわずかに止まっていた.そしてこれに代わり,1890年代の末に「日本製ト称スル整軸機」=足踏機械が用いられ始めた.
第8表 マッチ工場関係者とその家族(事例)
日本式の機械には,「年長ノ女子ヲ用ユル」場合が多く11),ゆえに,女子労働者は,軸並べ作業から排除されなかった.そしてこの日本式機械が広がるなかで,マッチ工業の生産性向上が図られた.第7表最右欄「職工1人当り生産高」をみると,1905(明治38)年と1906(明治39)年で1人当り生産高は1.5倍化しており,それは日本式機械の広がりと符節をあわせていた.
 こうしたマッチ工場における女子労働者の給源について,横山源之助の前掲『日本の下層社会』は,次のように記している(126ページ).
「此処に余輩の注目を要するは燐寸工業と貧民との関係なりとす.神戸の如き生活の不規則なる土地に於ては貧窮の原因は種々あるべけれど,大阪の如きは以前は貧民の従事する職業少きより貧窟に陥るもの多かりしなり.然るに第一の貧民部落なりと称せられたる名護町の如き旧時の面目を減じたるもの何ぞ,蓋し他に因由もあるべしと雖も,名護町附近に幾多の燐寸工場設立せるが故ならずとせんや」
 ここに明らかなとおり,マッチ工場は,都市下層社会の労働者,とりわけ若年の労働者を雇用して発足し,経営された.そして,マッチ工場の出現は,都市下層社会の「面目」=様相を変容させた.マッチ工場と都市下層社会との関係については,『燐寸職工事情』(153ページ)も,こう記している.
「燐寸工場ニ於ケル労働者ハ貧民部落ヨリ出ルヲ通例トシ燐寸業ト貧民部落トノ間ニハ離ルヘカラサル一種ノ関係ヲ有スルカ如シ……職工ハ皆自家又ハ木賃宿ヨリ通勤セルモノトス而テ燐寸工場ハ多クハ市街ニチモ所謂町端ニ位シ貧民部落ト相遠カラサルヲ例トス是レ主トシテ職工ヲ得ルニ便利ナルニ因ラスンハァラス東京ノ本所深川浅草ノ一部ノ如キ大阪ノ今宮,難波付近ノ如キ神戸ノ橘町通川崎葺合若クハ兵庫ノ町端ノ如キ則之ナリ」
 かかる状況から,『燐寸職工事情』は,「燐寸職工ノ生活ノ状態ヲ知ラント欲セハ須ク先ツ貧民部落ノ消費ヲ窺ハサルヘカラス」として,阪神地方の22の都市下層民の生活実態例をあげている.うち,マッチ工場にかかわりのある事例は15で,それを一括して示すと第8表のようになる.同表から以下四つのことが明らかである.すなわちまず第1に,マッチ工場へ労働者を出している家族は,全て多就業の形態をとっていた.マッチ職工は,そのような家族の成人女子(おもに主婦)ないし若年の男女であった。戸主の収入が低く,家族全員の養育にはそれはほど遠かったがゆえに,家族の多くが就業していたとみてよい.第2に,家族が多就業であるために,マッチ職工の賃金は家計補充的であり,著しく低かった.日収が10銭に満たない事例の方が,それ以上の者より多いのである.ちなみに,現在累年的に知りうる職種別賃金で最低額の綿力織女工でさえ,1900年代前半の日収は,平均して20銭を前後していた12).かかるマッチ職工の低賃金は,家族の家計を慢性的に赤字にさせていた.それは第8表の事例(番号1,2,7,12)から明らかである.マッチ工場の出現によって「名護町の如き(下層社会は)旧時の面目を減じた」とする先の横山源之助の記述は,あくまで相対的な意味でとらえるべきであろう.マッチ工業の隆盛後も,その貧困の様相は疑う余地のないところであった。第3に,マッチの小箱製造(小箱はり)は,もっばら請負による主婦の内職として行われていた.そして,その収入はマッチ工場の職工よりさらに低く,「普通一人一日二千個貼ル千個ニテ賃金七銭糊代一銭五厘ヲ引キ去リ五銭五厘」13)というのが通例であった.第4に,マッチ職工もしくはマッチ小箱製造者をそのうちにもつ家族の職種をみると,1870・1880年代に都市下層民の間にみられたそれときわめて似通っていた.とりわけマッチ工場職工は前述の力役型・工業型の戸主を有する家庭から析出されたとみてよいことは,第8表の事例から明らかであろう.
 では,かかるマッチ職工の,工場内における状態はどのようであったのか.以下,労働力構成,雇用形態と勤続年数,労働条件についてみていこう.
 (i) 労働力構成
 労働者数の変動は,すでに第7表に即してとりあげたので,ここでは,年齢別構成と作業上の位置(職種)をみよう.「燐寸職工事情』には,1900(明治33)年から1902(明治35)年にかけて農商務省が調査した職工数34人から1200人の大阪市内の中規模マッチ工場14例の年齢別労働力構成が記されている.それを示すと第9表のとおりである.同表によれば,14歳未満の者は18.9%であるが,「大抵ノ工場ニテハ職工雇入ニ付其最低年齢ヲ12歳若クハ13歳ニ制限セリト雖モ此業務タル極メテ幼少ニシテ何等ノ修練ナキ者ニテモ工場二来レハ1日2銭ナリ3銭ナリノ賃銭ヲ得……ルヲ以テ貧民中ニハ職工タラシメント欲シテ児童ノ年齢ヲ欺キ工場ニ於テモ亦之ヲ追窮スルノ必要ナケレハ其言フガ儘ニ採用」(『燐寸職工事情』,131ページ)するのが一般的であった。
第9表 マッチ工場職工年齢別構成(1900-1902年)
したがって,実際には,13歳以下の者の比率は第9表の数値より高かったとみてよいであろう.19歳以下の者を含めて考えれば,マッチ工場の労働力は若年の女子労働者中心に構成されていたことが明瞭である.次に作業上の位置をみよう.五つの工場についての調査例が『燐寸職工事情』にあるので,それを示すと第10表のようになる.同表の「作業内容」のうち,通常は外注される「レッテル貼ハ3工場二関ス」るものであり,それを除外して考えると,女子が多いのは,箱詰めと軸並べであった.
第10表 マッチ工場職工年齢別作業内容別構成(1902年)
そしてその過半は,20歳未満の世代層からなっていた.以上,第9表と第10表が示しているのは,マッチ工場の労働力は若年の女子を主力に構成されており,彼女らの多くは労働集約的な手労働に従事していたということである.
(ii) 雇用形態と勤続年数
 マッチ工場の労働者は,「概ネ其近傍ノ貧民部落ヨリ通勤スルモノニシテ遠国ヨリ来ルモノナジ故ニ之ヲ募集スルニモ別ニ募集員ヲ派遣スルコトナク工場ノ門前又ハ四辻等ニ貼札シテ之ヲ募集スルヲ以テ通例」としていた14).重工業で一般的だった「親方」の紹介を通じた入職や,紡績・製糸業における募集人による女工の調達という方式は,マッチ工業ではとられなかった.工場の零細性とそれに深くかかわる立地条件とが,マッチ工場にこうした労働者募集方式を採用させていた.そして,こうした簡易な募集方式から,「雇傭期間ノ契約若クハ前借金等ニ関スルコトナ」しに「燐寸職工ハ全ク烏合ノ衆ニシテ一ツノ規律ナキヲ以テ今日工場ニ来リ明日ハ他ノ業務ニ従ヒ若クハ他ノ工場ニ入ルカ如キモノ」15)という状況が広くみられたのである.したがって,「勤続年数短キコト言ヲ俟タス」,とくに女子にその傾向が強くあらわれていた16).
(iii) 労働条件
 まず労働時間をみると,多くの工場では「日出ヨリ日没迄執業スル」のが通例で,冬期にはマッチの需要が増大するため「夜十時頃マテ絶エス作業」していた.平均すると,1日14時間程度が労働時間であった.もっとも小学校の生徒などは,「朝早ク来りテ1,2時間就業シテ後登校シ放課後更ニ来リテ日暮マテ作業スル」状況だったので,例外的な労働者も,一定程度いたように思われる.労働者の休日は,だいたい「月2回」であった.次に賃金をみると,その形態では,男工が日給制,女工は出来高払い制となっていた.それは,職種にも対応しており,「軸並,箱詰,レッテル貼,包方」と女子の多い作業には出来高払い制が多い一方,「頭薬付,乾燥,調合方」など男子を主力とする作業は,日給制であった17).収入(日収)を10銭ごとの段階で区別してみると,『燐寸職工事情』にある9工場の事例では第11表のようになる.マッチ工場労働者の低収入の状態,ことに女子におけるそれは明瞭であろう.こうした低賃金に加えて,労働条件として,マッチ工場における作業の危険性を強調すべきであろう.
第11表 マッチ工場(9工場)の賃金別職工構成(1901年)
マッチ工場で火災が発生した例は枚挙にいとまがなく,そのたびに数多くの死傷者が出ていたのである.だがマッチ工場では,これらの事故に対し,「救済法ヲ設クル処ナシ」であった18).
 以上にみたとおり,マッチ工業は,都市下層社会の,若年女子の低廉な労働者を,劣悪な労働状態におくことで成立していた.このことを都市下層社会の側からみると,次のようにいえよう.すなわち,都市下層社会は,その子女を,住居は“貧民集落”にとどめつつ,マッチ工場の労働者として析出しており,資本主義の発展に連動して内部の職業構成を変容させていたのである.

[注]
1) 大石嘉一郎「課題と方法」,同編『日本産業革命の研究』上巻,東京大学出版会,1975年.
2) 石塚裕道『日本資本主義成立史研究』,吉川弘文館,1973年,315-30ページ.
3) 隅谷三喜男『日本の労働問題』,東京大学出版会,1967年,66-72ページ.
4) 以下の叙述は,1とはその形態を異にする.全国あるいは特定地域について,都市下層社会の全体的な状況を示すデータが残されていないからである.構成人員数,居住地,職業(職種)構成,家族の様相等は,ⅠとⅢ(1)から類推するほかはない.もっともマッチ工業についての考察は,都市下層社会の様相を,部分的ではあるがより具体的に示すことになる.なお,当初はマッチ工業のみでなく紡績業についても検討したが,紙幅上の都合で削除した。現在までのところ,最も包括的に当該期の紡績業女子労働について考察しているのは,村上はつ「産業革命期の女子労働」(女性史総合研究会編『日本女性史』第4巻〈近代〉,東京大学出版会,1982年)である.
5) 高村直助「産業・貿易構造」,大石嘉一郎編前掲『日本産業革命の研究』上.
6) 小宮山琢二『日本中小工業の研究』,中央公論社,1941年,142ページ.
7) 以上,横山源之助,前掲『日本の下層社会』,129ページ,農商務省『全国工場統計表』各年.
8) 山下直登,前掲「形成期日本資本主義における燐寸工業と三井物産」,100-5ページ.以下の叙述も同論文に拠る.
9,10) 農商務省商工局編『職工事情』燐寸職工事情,1903年(1967年復刻版),129ページ.以下同書は『燐寸職工事情』と略記.
11) 同上.
12) 労働運動史料委員会『日本労働運動史料』第10巻,同史料刊行委員会,1959年,270ページ.
13) 『燐寸職工事情』,167ページ.
14) 同上,136ページ.
15,16) 同上,136-38ページ.
17) 同上,134-39ページ.
18) 同上,151ページ.

Ⅲ 第一次世界大戦前後

(1) 日露戦争後の都市下層
 日本資本主義は,日露戦争ののち,産業革命を終了させて独占資本主義段階への移行を開始するが,この独占段階への移行期に,内務省は,都市下層民についてはじめて本格的な調査を行っている(内務省地方局『細民調査統計表』,1911年調査,1912年刊行,同『細民調査統計表摘要』,1912年調査,1914年刊行).日露戦争後,1905(明治38)年の日比谷焼き打ち事件を皮切りに,全国で都市民衆の騒擾が広がっており,そこには下層貧民が大量に加わっていた1).内務省による調査は,かような状況下に,都市下層民の実態を把握し,その反体制運動への傾斜を阻止していく対策の一素材とすべく,なされたものであるといってよい.以下では,まず,この内務省調査を用いて1910(明治43)年頃の都市下層女子労働の実相に迫り,ついで,第一次世界大戦を経たのちの様相をみることにしたい.いずれの場合も東京を例としてとりあげる.
 産業革命以後,日本全国における大都市の人口は激増した.それは,主要には工業に従事する者が増加したためであった.東京市の場合,1880年代の前半まで100万人を切っていた人口が,1900年代後半には実に200万人台に達していた.そして,その半数は,東京を本籍としない流入者であった2).
 もっとも工業の発展により大都市への人口集中がみられたといっても,大都市に流入した者がみなただちに工場の雇用労働者となったわけではない.多くはまず都市下層民としてスラムに滞留した.これら下層民の数は正確には知りえないが,下層民のうち「細民」について東京市の区毎に示すと第12表のようになる.「細民」とは,第12表のデータの調査主体である東京市当局によると,「区費を負担せぬ者で人夫,車夫,日傭等を業とし,月収20円以下若しくは家賃3円以下の家に居住するもの」であった3).「細民」のみで人口の12%を越えていたのである.
第12表 「細民」の分布(1911年)
 これらの「細民」は,東京市内で,1890年代から1900年代にかけて工場が新設され工業人口が増加した本所・深川・小石川各区のような地域と,旧来からの貧民窟が多い浅草・下谷両区のようなところに,集中していた.このことは,先に第3表に即して考察したこととも一致する.そして,新たに下層民が増えたのが工業地帯であったので,それに伴い,都市下層社会の性格も工業の発展に連動して推転したとみてよいように思われる.実際,日露戦争から第一次世界大戦にかけての時期に,都市下層社会は,その構成員の様相を変化させていた.それを如実に示すのが女子労働である.
第13表 下谷・浅草・本所・深川4区「細民」の職業構成
 第13表は,1911-1912(明治44-45)年の内務省調査において,東京市内の四つの区の「細民」がいかなる職業についていたかを示したものである.四つの区とは,下谷・浅草・本所・深川で,新旧の貧民集住地域であった.したがって,この期に都市下層民が全体としてどのような職業についていたのかを,そこから知ることができる.一見して明らかなのは,工業従事者が多いことである.1911-1912(明治44-45)年には,細民の有業者は,世帯主でも家族構成員でも,男でも女でも,工業従事者が第1位であった.以前の時期と比べると,都市下層民の職業が,完全に〈工業型〉中心に移ったことは疑いない.そして,とりわけ女子は,世帯主(その多くは未亡人である)でも,世帯主以外の有業家族においても,工業に従事する者が圧倒的に多かった.ちなみに第13表では,世帯主以外の有業家族における女子の数は男子のそれの4倍あまりに及んでいるが,これは,女子有業家族のほとんどが男子世帯主の妻だったためである.この調査対象での「女子有業家族」の81.3%は配偶者であり,年齢では20歳以上の者が84.5%を占めていた4).そして,このことは,都市下層民のうちに本格的に家族が構成されており,世帯が形成され始めたことを物語っている.もっとも家族といっても,この時期の細民にとっては,「比較的早期に相当数の非現住人口を家族から排出することによってのみ,小規模の夫婦家族を維持するのが可能」な状態であった5).非現住人口は,ほとんどが世帯主夫婦の子供であり,尋常小学校を修了する12歳前後から排出され,家族の外で生活を始めた.都市下層民は,ようやく家族を維持し始めたものの,それは「1世帯に付き平均0.40人という非現住人口の排出によって」なのであった6).
 世帯主でもそれ以外の家族でも,女子有業者は,工業のうち「紡績」「被服・身装品」製造に多く従事していた.「被服・身装品」製造は主要には内職形態のものであったが,「紡績」は,その主力をなした本所・深川についてみると工場へ通勤している者が多かった.東京の紡績資本は,この時期,寄宿舎制度を整え女工の遠隔地募集にのりだしていたとはいえ,なお一定数は,都市下層社会から労働力を調達していたのである.
 この時期の細民の,工業中心の就業は,東京だけでなく,大阪の場合にもあてはまる.第14表は,東京市の二つの区と大阪市の四つの町について,細民女子有業者の職種,月収,労働日数を示したものである.ここから,大阪では,東京のように繊維工業中心ではないが,化学工業(その主力はマッチ製造である)および「被服及身ノ廻品」製造に従事する者が,女子有業者の過半を占めていたことが明らかであろう.都市下層女子労働の主軸が工業型になるのは,大都市に共通した特徴であった.
 彼女らの賃金と労働日数をみると(第14表),東京も大阪も,工業労働者は,労働日数は他職種のものと同程度あるいはやや長いのに,賃金(月収)は低かったといえよう.もっとも職種別の労働時間は不詳なので,単純な比較は慎まなければならない.ともあれ,「細民」の女子配偶者の有業率は71.6%に及んでいたから7),下層の女子は,家計を助けるため,多くが何らかの職に就いていたのである.そして,彼女らの収入を含めてはじめて,都市下層民はその生計を維持しえたのである.
第14表 職業別女子有業者構成(1912年)
 最後に,細民の非現住人口についてふれておこう.非現住人口の過半は10歳代の子供で,大部分が有業者であり,女子の職業としては家事ならびに商店の「手伝い」が群をぬいて多く,他方男子では金属・機械工業の「工場労働者」が中心であった.男子の場合,当時まだ大幅に限界づけられていたのではあるが,それは,重工業大経営労働者の下層社会からの「離脱」を示唆していた8).
(2) 都市下層の変容: 第一次世界大戦後
1911-1912(明治44-45)年に続いて都市下層民に対する調査が行政側によってなされるのは,第一次世界大戦後,1920-1921(大正9-10)年のことである9).このときも,1918(大正7)年の米騒動を頂点とする民衆騒擾の発生が,かかる調査実施の契機であった.もっとも,実施の契機は似通っていても,1911-1912(明治44-45)年と1920-1921(大正9-10)年の調査結果が示す事実には,きわめて大きな隔たりがある.
 東京市の場合,1911-1912(明治44-45)年当時,「細民」は市内総人口の12.6%程であった.しかし1920(大正9)年の調査では,「細民」は3.4%と激減しているのである10).別に「細民」の規定が厳しくなったわけではない.収入を主な指標とする「細民」の規定は,1911(明治44)年と1920(大正9)年とで,事実上同じなのである11).したがって,この間に細民の大幅な減少があったと考えられる.
 第一次世界大戦のなかば,1917(大正6)年頃から,1920(大正9)年3月に戦後反動恐慌が勃発するまでの間,日本経済はかつてないブームを享受し,工業生産が急上昇した.その中で各企業は競いあって労働力の確保に努めた.労働力不足が一般化し,労働市場は売り手市場となった.労働者数ののびは著しく,ことに,金属・機械工業では1914(大正3)年と1919(大正8)年で労働者の数が1.7倍化するほどであった12).1911-1912(明治44-45)年に細民の非現住者で金属・機械工場の男子労働者が多くみられると先に述べたが,彼らを中心にして,第一次大戦期のブームを通じ,都市下層民の一定数がそこから分離し上昇したように思われるのである.そして,その結果,都市下層社会は,量的な縮小に加えて,質的に大きな変容を迫られることになった.列記すると次のようになる.
 第1に,都市下層民の居住地が分散化したことである.東京における細民地区の中心は,封建時代末期以来の浅草・下谷区から,深川・本所区へと移っていた.しかし,深川・本所区に浅草・下谷区を加えてみても,これら4区が東京市内で細民の多い区であることは確かなのだが,その合計が東京市内の細民総数中に占める比率は減少した。「細民」は規模を縮小しながら東京各域に分散化する形で居住するようになった.「市内の細民地区は漸次改善せられて,細民は市中より場末に,場末より郡部に,逐次移動の傾向」を示していた13).
 第2に,大工場,ことに重工業大工場の労働者が都市下層からその姿を消した.彼らは,住居,収入水準,ならびに家族の多就業が一般的であるか否か等の点において,都市下層とは明らかに線を画すに至った14).以後,都市下層にみられる工場労働者は,中小零細経営に勤めるものがほとんどであった.
 第3に,都市下層民の世代的な再生産がなされなくなったことである.この時期,親の代からの貧困者は「細民」のわずか8%にすぎなかった15).伝統的な都市下層の中から工業労働者,ことに大工場の労働者が離脱していき,その結果,都市下層が「次世代を再び都市下層として固定的に再生産するという経路は少なくなった」のである16).
 第4は,住居形態の変化である.(1)まず,1900年代まで都市下層民の住居として一定の比重を占めていた「木賃宿」は,その地位を低下させ,居住者は大部分男子単身者となり,家族の住居としての性格を失った.「木賃宿」は,若年独身男子の,一時的な住居となり,家族をもつ下層民の住居は「長屋」が一般的になった.(2)次に「長屋」も,従来は「共同長屋」が多かったのに対し,個々の居住空間が独立する「普通長屋」が大部分を占めるようになった.
 このような変容を示した1920-1921(大正9-10)年の都市下層の職業構成をみると,第15表のとおりである.まず,世帯主(ここでは男)をみると,1911-1912(明治44-45)年と比べて工業型の者が減り力役型(人夫,人力車夫,荷車挽)の者がふえていることが特徴的である.そしてそれは,配偶者(ここでは妻)についてもあてはまっている.すなわち,妻の有業者の約6割は工業に従事していて多数ではあるが,「交通業」ならびに「其の他の産業」に属す力役型の比率が,1911-1912(明治44-45)年と比べると高まっているのである.もっとも,妻の職業について論じる際には,第15表に示されてはいない次のことに注意しなければならない.それは,妻の有業率が第一次世界大戦後大幅に低下したことである.
第15表 「細民」の職業構成(1920-1921年)
すなわち,1921(大正10)年の妻の有業率は44%で,1911-1912(明治44-45)年の70%と比べると低下の様相は著しかった17).もちろん,重工業大経営労働者の妻の有業率と対比すると都市下層の妻のそれはなお高かったが,以前のごとく,ともかく妻が職業につかなければならなかったときとの違いは明瞭である.妻の有業率の低下がもたらされたのは,世帯主の収入の上昇によってであると想定される.先述したような大戦下の労働力不足に,大戦半ばから本格化した労働攻勢の結果,工場労働者の賃金は1918-1919(大正7-8)年から絶対的・相対的に上昇していた.そして,細民の収入も「その動きを後追いするような形で上昇し」,1920-1921(大正9-10)年頃に「大戦による変動の『恩恵』に欲した」といわれている18).このような状況下,就業している妻の収入も1911-1912(明治44-45)年に比べるとやはり上昇し,また平均労働日数も,1ヵ月で20日と従来より短縮化した.
 妻以外の有業家族は,就業率は従来とさほどかわりなく,職業も1911-1912(明治44-45)年と同様に工業型のものが第1位であった.女子の場合,「被服・身装品」製造が最も多く,これは主に内職形態のものと考えられる.他方男子では,工場労働者が一定数を占めていた.妻以外の有業家族は,大多数が世帯主夫婦の子供と想定されるので,そこには彼らが都市下層を離脱する可能性が示されているといえよう.なお,最後に,家族の数についてふれておこう.1921(大正10)年の細民の平均世帯人員は4.1人で19),1911-1912(明治44-45)年の3.5人から増加していた.子供が非現住化しなかったことが増加の理由と思われる.そこには,家族を維持することが困難だった状況から,家族としての定着への変化が示されているといってよい.

[注]
1) 宮地正人「日露前後の社会と民衆」,歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』第6巻〈日本帝国主義の形成〉,東京大学出版会,1970年.
2) 石塚裕道,前掲『東京の社会経済史』,101-2ページ.
3) 日本社会事業大学救貧制度研究会編『日本の救貧制度』,勁草書房,1960年,153ページ.
4) 内務省地方局『細民調査統計表』,21-4ページ,同『細民調査統計表摘要』,16-7ページ.
5,6) 中川清,前掲「戦前における都市下層の展開」上,84ページ.
7) 前掲『細民調査統計表摘要』,16-7ページ.
8) 兵藤釗,前掲『日本における労資関係の展開』,315-20ページ.
9) 東京の場合,東京市社会局『東京市内の細民に関する調査』(1920年調査,1921年刊行),内務省社会局『細民調査統計表』(i921年調査,1922年刊行)など.
10) 前掲『東京市内の細民に関する調査』,4-5ページ.
11) 中川清,前掲「戦前における都市下層の展開」(下),95-6ページ.
12) 二村一夫「労働者階級の状態と労働運動」,『岩波講座日本歴史』第18巻,岩波書店,1975年,105ページ.
13) 前掲『東京市内の細民に関する調査』,23ページ.
14) 兵藤釗・前掲『日本における労資関係の展開』,442-79ページ。もっとも,重工業の大工場には,この時期を一つの画期として,臨時工・社外工制が展開した.都市下層と線を画したのは,大工場の本工=常傭工に他ならなかった.
15) 前掲『東京市内の細民に関する調査』、93-4ページ.
16) 中川清,前掲「戦前における都市下層の展開」(下),99ページ.
17,18) 同上,108ページ.
19) 前掲『東京市内の細民に関する調査』,23-4ページ.

むすびにかえて

 本章のむすびにかえて,その後の都市下層について簡単に述べることにする.
 まず,都市下層民の数である.1920年代のなかごろまで,下層民は第一次世界大戦直後の時期と同程度の比率で推移していたが,1920年代の後半から増加傾向へと転じた.それは,1927(昭和2)年の金融恐慌,1929(昭和4)年の下期に始まる昭和恐慌のなかで,大工場などの雇用労働者,自営業者,および小作農の著しい没落,転落が進行したためであった.下層民の比率は,1932-1933(昭和7-8)年に再び10%を越えた1).ちなみに,昭和恐慌期の調査では,下層民は,もっぱら生活費の少なさをもって対象として把握されている.すなわち,行政当局による従来の各種の調査が,(1)生活費と(2)貧民街・不良住宅地区など集住地域の,二つの側面から下層民を規定していたのに対し,後者の集住規定が放棄されているのである`このことは,都市下層民の分布が拡散したことを物語っているように思われる.実際,東京の場合,昭和恐慌期の各種の調査は,下層民が,深川・本所両区を中心としつつも全市域的に拡散したことを示しているのである2).そして,拡散化した場所で,下層民は,以前よりはやや広い間取りの長屋や「1-4戸建借家」に居住していた。
 昭和恐慌期の都市下層民の職業をみると,工業型,力役型,雑業型および無業がそれぞれほぼ4分の1ずつであった3).工業型,力役型がともに減少し,雑業型ならびに無業の者が増加したことが特徴的である.前二者の減少はそこからの失業を意味している。ただし,失業は,直ちに無業化を意味したわけではなく,相当数が雑業層となることで失業の顕在化が阻まれた.かような雑業層の生活状態は極めて劣悪で,過半が行政側からする「要保護」者であった.女子(ただし世帯主)の職業では,工業が最も多く,物品販売業がこれに次いでいた.工業のうちわけをみると,裁縫仕立物と鼻緒加工をはじめとする雑工業の内職がほとんどであった4).おそらくそれは,配偶者(妻)についても同様であろう.女子の場合,このように,職業は従来とかわりなかったが,この時期,妻ならびに年少の子供の間で,収入が低くとも何らかの職業に就こうとする傾向が強まったと推測される.それは,家計が支出の恒常的超過下にあったためである.第一次世界大戦期の日本経済の急成長に伴って縮小し,かつその状態が一定程度改善された都市下層は,ここに逆転して拡大され,かつ状態の悪化が進行したのである.こののち,「満州事変」を発端として進む戦時体制下の都市下層女子労働の様相については,機会を改めて述べることとしたいげた5).

[注]
1) 中川 清,前掲「続・戦前における都市下層の展開」(上),29ページ.
2) 例えば,東京市社会局『東京市内要救護者に関する調査』(1931年11月調査,1932年2月刊行),第1図.
3) 中川 清,前掲「続・戦前における都市下層の展開」(上),31ページ.
4) 前掲『東京市内要救護者に関する調査』,42-65ページ.
5) なお,本稿では,日本人の都市下層民に限定して考察を試みており,第一次世界大戦のなかごろから急増した日本内地の植民地人(ことに朝鮮人)の都市下層の問題を捨象している.この問題について,現在まで,最も詳細かつ体系的な検討を行っているのは,以下の二論文である.(1)松村高夫「日本帝国主義下における植民地労働者」,慶応義塾大学『経済学年報』第10号,1966年,(2)戸塚秀夫「日本における外国人労働者問題について」,東京大学『社会科学研究』第25巻第5号,1974年3月.
[三宅明正]