女子労働

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技術革新と女子労働

論文タイトル: 第5章:高度経済成長期の技術革新と女子労働の変化
著者名: 塩田 咲子
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第5章:高度経済成長期の技術革新と女子労働の変化

はじめに

 1983(昭和58)年,女子労働者は2263万人,その内事業所に雇われて働く雇用労働者は1486万人である.これをそれぞれ1955(昭和30)年平均の数値である1700万人,531万人と比較すれば,労働者数は1.3倍,雇用労働者数は2.8倍に上昇したことになる。男子の伸びがそれぞれ1.5倍と2.2倍であったのに較べて,約30年間に女子労働者は,雇用労働の分野で急速に伸びていったのである1).そして,これら女子雇用労働者の属性や働き方も,戦前の繊維労働者に代表される未婚若年短期就労型から,結婚後も継続する長期勤続型や結婚・子育て後に再就職する中高年再就職型などへと変化してきている.
 こうした傾向は,第三次技術革新といわれる今日の高度情報社会への過渡期には,勤務形態の変化やサービス経済化の中でもほぼ継続されていくと思われる.家庭をもつ主婦が外に出て働くことで,もっぱら主婦が担当してきた家事・育児や老人・病人の世話などの家庭内福祉も一層社会化・商品化されるだけでなく,「男は仕事,女は家庭」といった男女の性別役割分業の見直しも要請されている.女子労働の進展は,単に,職域や雇用管理という職場での問題にとどまらず,家族や家庭生活に影響を与え,さらには社会保障や社会福祉の領域とも密接に関連した社会問題として考える時期に立ちいたっているのである.
 ところで,このような女子労働における大きな変化の発端は,日本では戦後の技術革新に伴う高度経済成長期2)にさかのぼることができよう.1955(昭和30)年に始まり,1973(昭和48)年の石油ショックでほぼ終焉をみた高度経済成長期は,女子労働の分野からみれば,弱電や精密機器部門でのオートメーションの進展と,電算機導入による事務部門の機械化や経営・販売部門の膨張によって,繊維部門に偏在していた女子の職域を拡大させ,またこれまで非労働力化していた既婚女性を大量に労働市場に吸引した.しかもこの変化が,単に,労働過程のオートメーション化によってのみもたらされたのではなく,技術革新の成果として享受した日本人の生活構造の大きな変化と深く関連していた点に特徴があった.
 すなわち,1965-1970(昭和40-45)年,高度経済成長がピークにさしかかった時期には,すでに水道・電気・ガス設備は全国の家庭に普及し,都市だけでなく農山漁村の家庭にも炊飯器,洗濯機,冷蔵庫,掃除機などの家庭電化製品やインスタント食品,種々の半加工食品が利用され,主婦は家事の重労働から解放された.加えて出生児数の減少,平均寿命の伸張,女子の高学歴化などによって,女性の平均的ライフサイクルは,家庭の中だけで生きるにはあり余る時間を生み出し,膨張する家計費の補完とあいまって女性に職業への関心を高めさせたのである.
 こうした高度経済成長期の変貌の上に,今日では,「第三の波」と称されるマイクロエレクトロニクス(ME)革命が進行中である.経済のサービス化を促すこの新しい技術革新の中で,女子労働もまた大きく変化してゆくであろう.
 この新たな変容を前に,ここで,高度経済成長期に体験した技術革新と女子労働の変化を,その中心たる雇用労働に焦点をあてて紹介し,その特徴や問題点,あるいは残された課題について検討したいと思う.

Ⅰ 就業構造の変化

(1) 女子雇用労働者の増加
 高度経済成長期の増大する労働力需要は,主として農村から供給された.この過程で生じた女子労働の第1の変化は,男子労働の変化を上回る第一次産業従事者比率の減少と雇用労働者比率の上昇である.
 高度成長がピークであった前後1960-1970(昭和35-45)年をとってみれば,第一次産業すなわち農林水産漁業従事者の構成比率は,男子が25.8%から20.0%に,女子においては43.1%から26.2%へと減少し,替わって第二次・第三次産業従事者の比率が高まっている(第1表).
第1表 産業別就業者数・構成比の推移(1960-1980年)
また雇用労働者比率をみると,高度成長前の1955(昭和30)年を基準としてその後20年間のうちに,男子で約2倍,女子では約2.2倍の上昇があり,いずれの期間をとっても女子の伸び率が男子の伸び率を上回っている(第2表).
 以上の結果から第3表に示すとおり,女子労働力人口の従業上の地位別構成は,自営業者比率があまり変化しなかったのに対して,家族従業者比率(農林業従事者を含む)が減少して雇用者比率が上昇し,1970(昭和45)年には雇用労働者比率は50%を上回った.こうした傾向は,1973(昭和48)年の石油ショックを機とする高度成長の終りから低成長期を経て今日にも続き,1980(昭和55)年には,女子労働者の従業上の地位別構成比は,自営業11.6%,家族従業24.1%,雇用労働64.3%に変化し,雇用労働者が女子労働の主流となったのである.
第2表 男女別雇用者数の推移(1945-1980年)
第3表 女子労働者の従業上の地位別変化(1960-1980年)

(2) 既婚女性の職場進出
 女子労働に生じた第2の変化は,既婚の中高年女性が労働市場に進出し,雇用労働者として定着していったことである.その結果,日本の女子労働力率の年齢別曲線は,若年ピーク型から,若年と中高年でピークのあるM字型へと変化してきている(第1図).ただし,諸外国に比べて,25-35歳の労働力率が低い点,日本では結婚・出産・育児期での就業は一般的にはなっていないことを示している.
第1図 主要国の年齢別女子労働力率
第2図 女子雇用者年齢別構成比(1960-1980年)
 この変化を時系列で追うと,高度経済成長期を境にして,19歳以下の若年層が減少して40歳以上の中高年層が増加していったことがわかる(第2図).この主たる理由は,女子の高学歴化で若年女子の就業率が低下したのに替わって,結婚後に出産・育児をほぼ終えた40歳以上の中高年女性が労働市場に参入してきたからである.企業の側からいえば,男子労働力不足を補うのに,子育てを終えた中高年女性を採用せざるをえなかった.この中高年女性の職場進出の影響で,1975(昭和50)年には,有配偶者比率が未婚女性の比率を上回った.1980(昭和55)年には57.4%をしめるに至り,日本の女子雇用者の過半数が既婚者で家庭をもつ女性となっている(第3図).
第3図 配偶関係別構成比の推移(1962-1983年)
これは第二次大戦前の日本の女子雇用労働者が若年・未婚型であったのと比べれば大きな変化である.
 しかしながら,既婚女性の職場進出は,その雇用形態や就業分野にたち入ってみると,多くの問題を孕んでいた.その大半が短時間雇用の非正規従業員として単純不熟練作業に集中していたからである.
 この短時間雇用者は,高度経済成長の進展と共に増加し,その伸び率,増加人員ともに女子が男子をはるかに上回り,1976(昭和51)年には石油ショックによる雇用削減で一時減少するが,その後増加し,今日また一段と増加する傾向にある(第4図).
第4図 短時間雇用者数の推移(1960-1980年)
1960(昭和35)年から1980(昭和55)年にかけての短時間雇用者は全雇用者の6.3%から10.0%にのぼり,とりわけ女子の場合89%から19.3%という高い伸び率であった.1980(昭和55)年調査によれば3),既婚者比率は正規従業員の方が34.7%なのに対し,パートタイマーは73.4%で非正規短時間雇用者の方が圧倒的に高いのが現状である.
(3) 就業分野の変化
 さて,女子労働に生じた第三の変化は,日本の産業構造の変化に対応して進行した就業分野における変化である。
 まず第4表から,1960-1970(昭和35-45)年の変化をみると,雇用者数が多い上に,かつ女子比率も増加率も高かったのは,専門・技術,事務,販売,技能・生産,労務作業,サービスなどの分野であった.管理や運輸・通信分野は高度経済成長期に急速な雇用増加を果たした分野であり,女子の増加率も顕著なものであったが,女子比率そのものは低いままに止まった.
 これらの職業分野の内,技術革新と密接に関係していたのは,事務や販売,技能・生産分野であったといえよう.
第4表 職業別女子雇用労働者数と女子比率の推移(1960-1970年)
 オートメーション技術の導入による大量生産は,事務管理機構を膨張させ,商品の販売量を増大させた。企業は激化する販売競争に男子を営業マン,セールスマンとして外に出し,女子を新設の事務所や店舗に配置した.煩瑣な事務をこなす力量や新商品の知識を備えた高校卒や短大卒の新しい女性達が大量に職場に入っていったのである.
 製造業においては,オートメーションによる作業の単純化で女子雇用が伸びただけでなく,実は,製造業といってもその産業分野に一大変化があった.第二次世界大戦前の日本,および高度経済成長前の女子生産労働者は繊維産業に集中していたのであるが,高度成長期を通して金属機械産業へと移行したのである.その推移をみれば,1956(昭和31)年には繊維産業が女子生産工程就業者の43.1%をしめ,金属・機械産業が14%であったのに対し,その後金属・機械産業分野で女子就業が拡大して,1961(昭和36)年には各々32%,24%に,そして1970(昭和45)年には,金属・機械産業が42%に達して繊維産業18%を上回った4).
 この変化は,高度成長期の技術革新が鉄鋼業をはじめ,一般機械・電気機器・化学・石油製品分野において大規模かつ広範に進展し5),生産工程のオートメーション化の結果,熟練男子労働に替わる単純不熟練労働が拡大し,そこに女子労働者が進出したからである.いいかえれば,日本の輸出花形産業が,高度成長期に,従来の繊維産業から金属・機械・電気器具産業へと転換したことに対応して,女子生産労働者が従事する生産部門もまた繊維部門から機械・金属部門へと変化したのである.
 今日では,製造業や事務部門でマイクロエレクトロニクスやオフィスオートメーションが進行し・産業構造の転換に伴って女子雇用者の職業分野にも変動のきざしがみえている.女子雇用者の伸び率は,第三次産業,具体的には情報サービス,調査・広告業,小売業,社会保険・社会福祉サービスなどの分野で30-45%増となっているのに対して,第二次産業では精密機器・電気機器製品製造分野での伸びは,ほぼ30%を維持しているものの,繊維,鉄鋼,木材製品,石油・石炭製品では10-20%の減少で男子を上回る減少率となっている6).
 一方,専門・技術職や管理職については,女子の高学歴化や職業意識の高まりを背景に,高度成長期以降漸増しているものの,1980(昭和55)年の女子全体の就業者にしめる構成比は専門・技術職が13.0%で管理職は0.8%でしかない(第5表).高度成長下の女子労働の増加も,その主流は事務,生産工程,サービス部門であり,専門技術職といっても,保母・教員(小中学校),看護職といった女子の伝統的職種であった医師や弁護士,大学や研究機関に働く専門・技術職や企業の管理職は,今日なお男性の職域となっている.女性にとっては,こうした高賃金分野ともいわれる職域への進出が今後の課題といえよう.
第5表 職業別女子雇用者構成(1960-1980年)
 そのためには,採用から退職に至る企業の雇用管理において,男女の平等な待遇が必要であろうし,他面では,働く女性が家事労働との二重負担にならぬよう,家事や育児といった家庭内の私的労働をより社会化するなり,男女の役割分担の見直しも必要になってこよう.
 国連婦人の10年以降,各国で成立してきている雇用における平等立法が,「男は仕事,女は家庭」といった固定的な男女の役割分担を見直すことと並行して提起されているゆえんでもある7).

Ⅱ オートメーション下の女子労働

(1) 女子に新しく開けた職種
 高度経済成長期の技術革新は,女性に新しい職域・職務を提供した.業種・規模の異なる各企業の基幹部門における女子労働力の動向調査8〕によれば,これまで女性を配置したことのない職種に新しく女性を採用した事業所は調査対象事業所(2040)の約30%をしめ,年次別では1965-1967(昭和40-42)年間に急増している.
 この女子への切り替えは,大企業ほど,また生産現場ほど強く,産業別にみれば電気機器,機械,非鉄金属金属製品および鉄鋼,化学などで多かった(第6表).いずれも,従来,女子雇用者がほとんどなく,オートメーションによって機械化・自動化が急速に進んだ産業分野である.大企業の場合,この時期に機械の新設や安全装置の改善など,設備投資を集中することで不足する男子労働力に替わる女子労働者の配置を可能にした.また中小企業の場合,従来より大企業に比較して女子労働力への依存度は高かったが,高度成長期には男子労働力の不足が深刻で女子労働力を一層必要としたのである.
第6表 女子を新たにつけた職種のある事業所の割合(製造業)(1968年)
 では女子に新しく開けた職種とはどのような仕事内容であっただろうか.労働省調査によれば,直接生産部門57.7%,事務関係19.6%,コンピューターの導入による新職種13.8%であり,直接生産部門の比率が高い.第7表から,新しく女子を配置した理由をみると,直接生産部門(技能工生産工程の職業,単純労働の職業)では〈機械化等により女子にもできるようになったから〉,あるいは〈男の仕事の一部を分けて女子がやれるようにした〉という理由が多い.
第7表 職業別に女子を配置した理由(1968年) 
他方,事務など非生産部門における女子配置の理由は〈女子が能力的に向いていることが分かった〉とか〈男の仕事の一部を分けて女子がやれるようにした〉が多く,専門・技術職については〈試験的につけてみた〉も少なくない.
 これらの理由からすれば,女子の新職種への進出は,高度成長期の男子労働力不足の中で,生産工程のオートメーション化によって可能となった女子労働の積極的活用という企業の雇用対策の結果であったことが指摘できよう.かくして当時の調査によれば,1963-1968(昭和38-43)年には第8表に示す多様な職種が新しく女性に開かれていったのである.
 そこで以下,製造業部門と非製造業部門に分けて,女子が新しい職種に従事していった過程を具体的に紹介してみよう9).
第8表 女子を新たにつけた職種(1963-1968年)
 まず,重化学機械製造業では,例えば,切削加工の自動化や機械設備の小型化で,旋盤工,ボール盤工,フライス盤工などに女性が配置された.船舶・自動車など輸送用機械器具製造工場でも,作業工程の機械化・自動化や安全防護装置の改善によって,機械の洗源作業,ガス・電気熔接作業にも女性が配置された.
 また,男子技術者の不足から,技術補助の職種に女子が配置されることが多くなった.その代表例としては,製造業では化学分析工,非製造業ではコピー装置の開発による写図工や製図工などがあげられる.このような職種に女性が進出したのはかってないことではあるが,あくまで補助的作業であって,専門・技術職への女子の登用にまではいたつていないのが特徴である.
 さらには,コンベアシステムの導入やプリント版の開発によって,電気機械器具,精密機器などの小型機器の組立作業に女子が大量に採用された.
 そして,伝統的に女子比率が高かった食料品製造や繊維産業にもメカニゼーションが進行し,男子の職種とされていた職域に女子が配置されるようになった.たとえば大手K食品では,1963(昭和38)年にソーセージなどの自動充填結索機の運転に31人の女子を,1965(昭和40)年には高速自動包装機の運転に27人の女子を,1967(昭和42)年には自動函詰機械の運転に7人の女子を配置している.また繊維関係では,紡績自動玉揚機の導入をはじめプレスや裁断,染色加工分野で機械化が進展した結果,従来男子が従事していた自動機の運転やプレス工,裁断工にも女子が進出した.
 さて,非製造業部門では電子計算機の導入が女子に新しい就業分野を提供したのが注目される.キーパンチャー,オペレーターを中心とする電子計算機関連の職種およびデータ通信関連職種である.当初,これらの職種は,金融・保険業,卸・小売業,運輸・通信業,電気・ガス・水道業に限られ,事務や営業のデータ処理が主体であった.その後,1963-1968(昭和38-43)年になると,化学,鉄鋼,機械,電気機械器具などの製造業にも拡大されている.
 そのほか非製造業部門で注目すべき職種としては,高度成長期に開発された新商品の販売がある.たとえばガス・電気関係の台所商品,電子レンジや家庭用器具のセールスであり,また家庭電化の相談や技術サービスである.いずれも家事にたずさわっている経験を生かして,主婦に接することができる利点から女性が採用されたと考えられる.女性による商品開発や販売の先がけである.
(2)労働条件と労働実態
 かくして男子に替わって,あるいは技術革新の結果新しく生じた職種分野へと女性が進出したのであるが,ではその労働実態はどのようであっただろうか.特に女性の進出が顕著であった電機・精密機械産業と,コンピューター関連職種をとりあげて,オートメーション下の女子労働の実態について考えてみたい.
 電機産業は,高度経済成長期に,繊維産業に替わって,若年未婚女子が就業する輸出花型産業となった.義務教育を終了したばかりの女子若年者が地方から集団就職して,近代的なオートメーション工場で働く姿が雑誌のグラビアを飾ったが,彼女達の労働実態や賃金待遇は必ずしも恵まれてはいなかった.
 ベルトコンベアの前に並んでトランジスタラジオ,卓上計算器,テープレコーダーなどの部品を組み立てる作業は単調な反復動作である.東芝柳町工場ではほぼ3年で労働力のほとんどが入れ替わったという.しかもその離職理由が,結婚,出産といった一般の若年女子労働者に多い理由ではなく,仕事そのものの単調さや緊張感から解放されたい,という生理的身体的理由であった。この高い労働移動の要因には,交替制と全寮制の導入で一層疲労度が高まったこと,窮屈な寮生活からの脱出欲求があったこともあげられている10).
 この労働疲労度の高さや労働移動の激しさについては,他の諸調査からもうかがうことができる.東京近郊のH電機工場では,コンベアーの速度が漸速されて労働密度が高められたため,半年間に約20%が退職している.退職後の再就職先は,事務関係か喫茶店であり,その後,バー,キャバレーなどに転職してゆくケースが少なくない.同社の女子労働者は,労働組合のアンケートにこう答えている.「一日中流れ作業をやっていると,コンベアーから離れても物が動いてみえることがある」と.
 またソニーのテレビ配線作業現場に働く女子の健康調査では,ピンセットでミクロン単位の石をつける作業や,細く短い金線の一部に電気熔接するこまかい作業のくり返しに従事した結果,新入工員のほとんどが3ヵ月くらいすると,ものが二重にみえたり,疲れてだるく食事が食べられなくなったり,中には近視,乱視,やけど,リューマチなどに罹患する者が少なくなかった,という11).
 では賃金の面での待遇はどのようであったろうか.高度成長がピークにさしかかった1965(昭和40)年調査によると,まず製造業(生産部門)は,全産業中,鉱業に次いで最も下位にある(第9表).製造業の中でみると,電気機械器具製造業の女子賃金は,平均を上回ってはいるが,同じ花形産業で男子工が集中した鉄鋼業の給与額にははるかにおよばず,男女格差も他の業種より小さいものの49.8で50を越えてはいない(第10表).
第9表 産業別女子賃金と男女格差(1965年)
第10表 製造業中分類別女子賃金と男女格差(1965年)
 ところでこうした電気産業における女子労働者の労働実態の特徴は,同じく女子の進出が顕著であった精密機器製造業にもほぼ共通している.ここでは労働省婦人少年局の調査から精密機械器具製造業に従事する女子労働者の実態について述べるにとどめたい12).同調査によれば,計量器,測定器,医療機械,光学機械,時計製造業に従事する女子労働者について次の4点を指摘している.
 ①中学あるいは高校を卒業したばかりの女子が,繊維産業にかわる職場として就職。②未婚,若年が大半で,勤続年数が短い.③父母や兄弟との同居率が比較的高く,収入は自分の小遣いや結婚費用または家計の補助に使われる.④経営側の採用理由の多くは,〈手先が器用〉,〈根気がある〉,〈賃金が安くてすむ〉などである.これらの指摘からすれば,この分野の女子労働者の社会的性格も,工場近辺に住む従来の繊維労働者にみられたのと基本的には変わらない.
作業環境については,オートメーション技術を駆使したモダンな工場が新設されている一方で,急速な工場拡張のため旧式工場が転用された場合も多く,婦人少年局の調査報告書は,作業環境の改善を提言している.たとえばかつての軍需工場や農村の疎開工場,製糸工場をそのまま再使用したり,転用したために床が土間やコンクリートのままであったり,採光や換気の悪い職場も少なくなかったという.
 また賃金面では,旋盤工,検査工にしても従来配置されていた男子熟練工より低くなっているのが特徴である.男女格差は賃金面だけではなく,定年年齢にもみられる.男女別定年制のある事業所は,調査対象事業所の約3分の1あり,その場合,女子は35歳,男子は50-55歳あるいは定年なし,という企業が多かった。つまり企業の労務管理上,女子労働力はあくまでも低賃金で回転の早い若年労働力として位置づけられていたのである.なお,健康面では,就職後に疾病したものの割合が約70%と高く,その内容は作業の性格から眼の疲れや肩こりが多い,という結果が出ている.
 では,事務部門,とりわけコンピューター関連職種の方ではどのような実態が進行していたのであろうか.
 この職種は,高度経済成長期には,女子の「専門・技術職」と称されて,電気産業方面と同様に,脚光をあびて登場したしかしながらその実情は,勤務時間が残業やその日の進み具合で不規則であったり,騒音がひどく身体の一部を酷使することから,長期にわたって継続するのは至難の仕事内容であった.早期退職者が続出し,〈消耗品扱い〉といった言葉で表現されるような労務管理が一部にはみられた.
 たとえば,キーパンチャー,テレタイピスト,プログラマーなどの意見調査では,「技術が身につくので転職し易い」とか「プライドがもてる」といった評価の反面,「身体に支障がおきないかという不安」また結婚して家庭をもてばとうてい続けられない労働密度や勤務時間への不満がよせられている13).
 金融関係における電算機の導入で,パンチ作業が激増した1960(昭和35)年になると,キーを絶えまなくたたくキーパンチャーやテレタイピストの中に,身体的神経的障害を訴える者が増加した.彼女達の訴える症状は,手・指・腕・背中・肩の筋肉が痛むほか,目の疲れもひどく,顔を洗ったり,腕の上げ下げすらできなかったり,不眠やイライラに陥るというものであった.この症状はその後,他の職種,例えば電話交換手,チェッカー,コンベアシステムでの組み立て作業者,あるいは伝票複写などの事務作業が多い一般事務労働者にも拡がっていったことから,「頸肩腕症候群(別名けんしょう炎)」と名づけられた.こうした職種には女子が多かったため,罹病者の大半が女子で,→女子の職業病として社会問題ともなったのである14).
 こうしてみると,上にみた女子の新職種は,「専門・技術職」と銘うって,女性たちに開かれたものではあるが,その実態に立ち入れば,コンピューターをはじめとする高度な機械設備やオートメーションシステムの導入で,単純化され,分化されたきわめて単調な職務であった,といえよう.今日,ME化の中で進行する事務部門のオートメーション革命は,職務内容に大きな変化を与えている.すでにビデオディスプレイの端末操作といった比較的技能の低位な単純作業が,女性向き職種となる可能性は強い.高度成長期に生じた職業病の二の舞とならぬよう,コンピューター関連作業による健康への影響に留意した作業方法や就業時間規制が望まれる.さらには,女性にも,単純職種だけでなく・情報処理の管理や開発研究部門への進出が可能となるよう企業内外での再訓練や研修の機会が与えられねばならないであろう15).

Ⅲ 女子パートタイマーの実態

(1) パートタイマーの登場と就労分野
 パートタイマーとは一般に勤務形態が常勤・臨時・日雇の如何に拘わらず,1日・1週・1ヵ月当りの労働時間がその事業所で働いている正社員より短い労働者と定義されるが,高度成長期には,家庭をもった主婦など中高年女性の非正規従業員の呼び名であった16).
 このパートタイマーが急速に工場やオフィスに登場してきたのは1960年代である.企業は,高度成長下の労働力不足を補う方策として,技術革新と機械化とで単純化された作業をなすに足る労働力を,子育てを終えつつある家庭の専業主婦にみいだした.一方,主婦の側にも,家事や育児に支障のない働き方ができて,しかも膨張する家計を補う程度の賃金収入を得ればよい,といった了解があった.したがって,この現象は当初,高度成長下の労働力不足の時代に限って生じる一時的なものと予想されたこともあった.
 しかし実際には,石油ショックによる減量経営で製造業分野では一時的に減少したものの,その後は膨張する第三次産業で増加し,今後も減少することはない,と見通されている.高度成長期を経て,女子パートタイマーは企業内の有力な労働力として定着し,勤続年数にしても,1970-1979(昭和45-54)年の約9年間に第5図のような伸びをみせており,製造業では平均2.5年から3.8年に,卸・小売業では2.1年から3.2年に上昇したのである.
第5図 女子パートタイム労働者の勤続年数(1970・1979年)
 ところで,パートタイマーの就労分布であるが,1970(昭和45)年の労働省調査によれば,製造業と卸・小売業の二業種がパート就労の二大分野である。それぞれの職種は,前者が生産工(89.3%)に,後者が販売(73.9%)に集中していることがわかる.代表的な仕事は製造組立,包装荷造,販売・集金,清掃,まかない,皿洗いなど,いわゆる技能や熟練度を必要としないと評価されている低賃金職種だったのが特徴である17).
 高度成長期の女子パートの実例として,日立製作所茂原工場の場合を紹介しておこう18).同工場で主婦パートを使用しはじめたのは1959(昭和34)年秋であり,まず掃除や発送,運搬などの補助的な仕事に農家の主婦30-40人を採用した.その後,1968(昭和43)年には,勤労者世帯の主婦を中心に採用して300人に増加し,仕事も,受信用真空管の組立,カラーテレビや白黒テレビ用ブラウン管電極の組立のほか,送信管や部品の製作など工場の全部門にわたって配置するようになった.この主婦パートをそもそも採用するにいたったのは,若年女子労働力の採用が生産の急増に追いつかなかったからであるが,配置の結果,主婦も「優れた産業人としての能力を発揮することをみいだして」,従来の未婚女子中心の労働観を再検討して主婦のパートを増加させる方向になった,という。
 また採用には,新聞の折り込みかチラシが有効で,パート同士の紹介や勧誘という場合も少なくなかった。平均年齢は1968(昭和43)年時,34.4歳でほとんどが子供がいても小学校以上で,子育ての多忙な時期を終えた主婦であることがわかる.主婦のパート収入の使い途は,子供の学費や家計の補充にあてることが多かったようである.
 こうした家庭の主婦達を,パートタイマーとして工場に吸収し,職場に定着させるために,企業が配慮したのは,夫が妻の就労に賛成することであり,また,通勤バスで送迎したりして,1人で来る不安や,家と工場との遠さへの不安を解消すること,あるいは,賃金にかかわる待遇は別として正社員と接するのと同じ扱いをすることなどであった。この例にみるように,主婦パートタイマーは,企業側のいわば「第二の産業人」としての積極的な育成策と,主婦側の賃金収入と余暇利用の欲求とが合致する形で,まずは若年労働力不足が深刻であった南関東や京阪神の工業地帯で展開されたのである.
 (2)低賃金と労働条件の改善
日本経済の高度成長を支える貴重な労働力として登場し,定着していった女子パートタイマーではあるが,フルタイムなみの仕事内容,労働時間に近づくにつれ,その労働条件の低さが問題となってきた.1時間当りの女子フルタイム従業員に対するパートタイマーの賃金比率は,1976(昭和51)年には82%であったが,1980(昭和55)年には76%に低下し,女子のパートタム雇用がむしろ定着するに従って,格差が拡大ないしは停滞し,改善は進んでいないのが現状である19).
他方,賃金以外の労働条件については調査年次で対象者に若干の相違があって単純比較はできないが,企業規模の比較的大きい事業所を中心に改善の傾向がみられる.1965(昭和40)年調査20)では,社会保険加入率は26%、健康保険には30%の加入率であったのが,1982(昭和57)年にはいずれも40%前後に上昇している。また退職金については,制度ありが9.6%と依然として低いのに対して,賞与制度ありの企業は35%から62.7%に急増している.終身雇用ではないパートタイマーの勤労意欲を刺激する上では,退職金よりも賞与の方が効果的だからであろう。
 パートタイマーがますます労働市場に進出し,また企業でも多様な活用の方向にあり,パートの存在が正杜員従業員の労働条件や採用,労務管理に大きな影響を与えることからすれば,こうしたパートの待遇は、今後一層向上がはかられる必要がある.にも拘わらず大はばな改善をみない要因としては,企業側が賃金コストの低い労働力として女子パートタイマーを活用していること,またパートタイム就労を希望する中高年主婦が相対的に過剰に存在していること,あるいは,扶養控除などの税金対策から扶養限度額(90万円以下,1985年現在)を上回らない年収に抑制する主婦も少なくないこと,などがあげられよう。
 ところで,労働運動の側からすれば,パートタイマーの待遇改善を遅らせたのは,パートタイマーが企業と交渉をもてない未組織労働者であり,既存の労働組合もまた長年パートの労働条件については無関心であったことをあげねばならない.労働組合のナショナルセンターが,パートタイマーの緯織化や待遇改善に本格的に取り組み始めたのは,最近のことなのである21)。パート比率の高いスーパーなど流通業界でまず組織化が開始されたのも.その直接的契機は組合構成員たる正杜員が減少して組合の存続,機能さえが危うくなるという事態に組合幹部が危機感をもったことにあるともいわれる.
 単産では,商業労連が1979(昭和54)年6月に「パートタイム社員対策基準」を,ゼンセン同盟が1980(昭和55)年5月に「臨時パートタイマーの組織化について」を発表し,ナショナルセンターとしては日本労働組合総評議会が1981(昭和56)年1月,全日本労働総同盟は1982(昭和57)年6月に組織化方針を発表している.いずれも短時間労働者という雇用形態は認め,賃金,杜会保険,手当,昇給,賞与,退職金などの待遇において一般杜員の待遇に近づける方向をめざしている.ただ同盟ではパートタイマーを,パートのままでよいとする自発的パートと正杜員を希望している非自発的パートに分け,後者の本採用化を打ち出しているのが特徴である。
たしかに,一口にパートタイマーといっても,今日では高度成長期に比べると,就労動機や就労分野も多様化する傾向にある.パートタイマー主婦の出身所得階層の変化からみても(第6図),家計補助型だけでなく,生活をより豊かにし,子育て後の長い余暇を充実すべく就労に出る者も少なくない.
第6図 既婚女子の世帯主所得階層別有業率と就業希望率
 (1965・1974・1979年)

 今後,女子パートの雇用管理,待遇改善も,人事考課の重視や能力主の導入,職種内容によって多様にならざるを得ないであろう.
 女子パート306万人の今日,労働省では,「パートタイム労働対策要綱」22)を準備している.そこでは,まず常時10人以上のパートを使用している事業所には,パート独自の就業規則の作成を課している.また待遇については,週22時間以上,正杜員の4分の3以上の労働時間に達するパートタイマーを雇用保険資格者として扱うこと,労働日数が週4日のパートには年次有給休暇を与えること,また,一定の勤務条件を満たすパートタイマーに対しては正社員なみの待遇をすることなど,パートタイマーの雇用労働者としての権利が確保される方向が示されている.
 パートタイマーは,主婦の就業形態として,高度成長期に大量に出現し,今後も経済発展を支える不可欠な労働力として杜会に定着するであろう.パートを希望する女性達の中には,技能や資格をもった職業経験豊かな者や大学卒の高学歴層も多くなり,専門職や技術・技能職への進出も予想される.したがってパートタイマーについては,雇用契約や適正な待遇面での改善だけでなく,幅広い就労分野での企業側のパート活用が望まれよう.

 IV 職場進出の社会的背景

(1)家庭生活の変容
 高度経済成長期に日本の家庭生活は,戦前の様式を脱却し,近代化を遂げた.その牽引力となったのは,電気,ガス,水道が全国に普及し、技術革新によって生み出された衣・食・住にわたる諸商品が各家庭で購入されたことである.第7図に示すように,1956‐1965(昭和31‐40)年にかけて,電気洗濯機,電気釜、電気冷蔵庫の普及率が60‐70%を超え、高度成長の終わる頃にはほとんどの世帯に普及した。その結果、家事労働は大きく軽減され、日本人の生活様式は第11表に掲げるような変化を遂げたのである。
第7図 家庭電化製品の保有率(1958‐1974年)
 マキを割ったり火おこしをする必要はなくなり、電気釜のスイッチを入れるだけでよくなった.
第11表 1955年頃を境とする家事労働の変化
洗濯は,井戸水からポンプで水をくみあげ手で力を入れて洗う重労働作業から,電気洗濯機に水道のコックをひねって水を入れてスイッチを押すだけでよくなった.料理の準備は冷蔵庫に貯蔵しておいた各種の加工食品,半加工・冷凍食品などに少し手を加えて添えることで,家族の食卓をみたすことが出来るようになった.また家族の衣服類も,既成服の購入や安価な大量雑貨商品を購うことで,これまでの裁縫,編物の必要性は減少し,衣服を作るにしてもミシンや編物機で時間と労力を省くことも可能となった.
 こうした家事の省力化は女性,とりわけ家庭をもつ既婚女性である主婦の家事労働に費やす労力を減少させ,家事時間を縮小して主婦に余暇を提供することになったのである.NHKの国民生活時間調査(1975年)によれば,戦前と戦後で比較すると,平均的サラリーマン世帯の主婦は,約3時間の家事労働の減少と,約4時間の余暇時間を得たと推論されている.
 他方,生活様式の変化は,耐久消費財の購入費や余暇時間活用のためのレジャー費などで家計を膨張させることとなった.家庭の主婦は,この膨張をただちに配偶者の収入に求めることは出来ず,自らの現金収入で補充しなければならなくなった.高度経済成長期に急速に台頭してきた既婚女性労働者は,家事労働の省力化を背景に家計補助の現金収入要求をもって労働市場に進出していったのである.ところが,主婦が外に出て働くための杜会的条件,たとえば保育所の設置や企業内での母性保護の整備などが充分でなかったこと23),また主婦の側でも「家庭に支障を生じない範囲での働き方」が志向されたことから,主婦の多くは1日当りの就業時問の短いパートタイム労働者として採用され,企業に定着してゆくことになる.
 既婚女性が,企業側に迎えられたといっても,その主流は,結婚・出産・育児期も就業を継続することで,男子と同等なキャリアや待遇を得る方向ではなく,機械化によって非熟練化した労働工程やサービス部門に単純労働者として低賃金に甘んじた子育て後の主婦層だったのである.
 (2)雇用における男女平等への始動
 日本では,第二次世界大戦後の民主化のもとではじめて男女平等の法的基礎が確立し,教育における男女の平等化も進展していった.高度経済成長による国民所得の増大は,家計にゆとりをもたらし,教育の機会均等,男女平等の考え方の普及とあいまって,女子にも高校,短大あるいは大学へと進学する途を開くこととなった.1960(昭和35)年と1970(昭和45)年とを比較すれば,短大への進学率は3.0%から11.2%へ,大学への進学率は2.5%から6.5%へと2.5‐3倍に上昇したのである。新規学卒の就職者の学歴構成も第8図のとおり,義務教育終了の中学卒業者の比率は大きく減少した.
 男女の学歴格差の縮小は,雇用の場における男女の平等を促す要素にもなる.職業意識や職業能力において,男性と同等な教育を受けてきた女性達は,これまで男性が占有してきた職業や職種への参加を望むであろう.
 高度経済成長期を経て,たとえば,もっぱら男子で占められていた管理職分野にも女性の進出がみられるようになった.
第8図 女子新規学卒者の学歴別構成比(1960‐1981年)
1960(昭和35)年には女子管理職は全国で約2万人であったのが,1980(昭和55)年には約11万人に達した.数そのものは少なく,女子比率はわずか5%でしかないが,伸び率は約5倍にもなる.男子の職域とされてきた分野への女性の参加は,今後も徐々に進展することが予想されるのである.
また,女性の職場進出の背景には,高度成長期に生じたわが国の女性のライフサイクルの大きな変化があったことをみのがしてはならない.第9図にその変化を示した.
第9図 女性のライフサイクルの変化(1930・1974年)
1930(昭和5)年時点を基準に戦前型の女性のライフサイクルを描くと,義務教育終了後22歳で結婚し,平均5人の子供を産み育て,末子が結婚した後すぐに寿命を終えている.つまり,結婚して子供を産み育て,家族の世話や家事,あるいは婚家の家業の手伝いと,末の子供が独立する頃には多忙の内に生涯を終えていたのである.これに対して,高度成長期を経た1974(昭和49)年を基準にみると,学歴上昇で結婚が遅くなり,出生児数2,3人となって末子の出産・育児が早く終わる上に,平均寿命が伸びたことから,子育て後の中高年期に膨大な時間が生じている.
 現代日本の女性は,高度成長期を経て,自分達の母親が経験することのなかった育児終了後の長い中高年期を得ることになったのである.この時期をいかに有意義に過ごすかが女性の関心事であり,近年急成長している各種教養講座やダンス,水泳,テニスといったスポーツ教室の顧客の大半は主婦層である.
あり余るエネルギーが子供への過保護や過剰な教育熱となったり,子育て後の虚無感や会杜人間の夫との対話を失った中高年主婦層に,主婦症候群とか「思秋期」と呼ばれる心身の不健康を生み出してもいる24).
 主婦層にふえている就業への欲求は,単に経済的理由からだけではなく,余暇を楽しむための費用稼ぎあるいは生きがいや杜会参加の場を,といった多様な理由になってきている.子育てと家事に費やすだけではあり余る「人生八十年」時代を迎えて,女性もまた男性に劣らず,職業を人生設計に組みこんだライフサイクルを志向するようになるであろう.
 ところで,学歴の男女格差の縮小や,女性のライフサイクルの変化は,女性の職業をめぐる意識にも影響をあたえている.
 高度成長期には,農村から都市へと男子若年労働力が移動し,都市にサラリーマンとして定着した.この親元を離れたサラリーマンが結婚し,数多くの核家族世帯を生み出した.女性向けの週刊誌や雑誌は,これらサラリーマンが仕事に専念できるよう,「内助の功」を発揮し,家事・育児の一切をひきうける専業主婦をもって,女性達の理想的な結婚・家庭像としてもてはやした.
 こうした杜会風潮の中で,企業の側も,女性の仕事は家事・育児であって,女性を雇うにも,結婚までの労働力という考え方が基本であり,男子なみに戦力として雇う考えはなかった.そのため,結婚までの期間が短いとされた大卒女子や,男性と同等な職種を望む女性達への門戸開放には消極的であった25).
 たしかに,当時の一般女性達の職業意識を女子事務職員の意識調査からみると,女性の職業への執着度は高くない.職業継続について,「結婚したらやめる」が46%,「子供が出来たらやめる」は30%であり,「ずっと継続する」という回答はわずか5%でしかない26).
 しかし,この結果は,見方を変えれば,当時の企業の女子労務管理の現実を反映したものと解するごとができる.というのは,高度成長が始まった時期には,結婚退職制や出産退職制といった女子のみの退職制度が民間企業では一般的に採用されていたからである.
 そのため,高度成長期のピークから後半の時期にかけて,男女で相違する退職制度はもちろんのこと,男女の賃金差別に対する裁判が相次いだ.退職制度だけをとってみても,1966(昭和41)年12月には,住友セメント事件で結婚退職制が,1971(昭和46)年3月には三井造船事件で出産退職制が,そして1975((昭和50)年8月にはシャボテン公園事件で男女別の定年年齢そのものが,男女差別であり,その是正が法廷で明言された27).こうした判例の積み重ねを経て,女子にのみある退職制度や男女の定年年齢の差が解消され,1983(昭和58)年には,男女別に定年制を定めているのは18.5%でしかない.
 雇用における男女差別を訴える裁判が高度経済成長期に相次いで開始されたことは,まだ数少ないとはいえ女性達の相当数が,企業の女子労務管理の枠をこえて,職場に長く定着し,男性と対等な処遇を要求する力量を蓄積した結果と評価することができよう.

むすびにかえて

 1985(昭和60)年5月17日,男女雇用機会均等法案が成立した.この法案には,企業側の努力義務という緩やかな規制ながらも,採用から配置,昇進,昇格,教育訓練から解雇にいたるまでの男女の差別的扱いを除去する方向が示されている.労働基準法における女子保護規定の大幅な緩和とひきかえであるだけに,その活用が望まれる.
しかしながら,この法案をめぐって企業側と女子労働者の当事者間には,さほどの切迫感や期待を寄せる動きは大きくないのが現状のようである.法案成立を控えての調査によれば28),大半の企業が「影響なし」とか,「女子杜員の勤労意欲の高まりが先決である」と答え,女子の側もまた,3分の2が法案を知らず,「差別解消方策は企業努力による」と回答する者が多く,相方ともに相手如何の消極的対応をしている,という.
 雇用における平等は,国連の婦人差別撤廃条約批准(1980年,コペンハーゲンで開かれた国際婦人年世界会議で日本政府署名)への前提であり,家庭と職場における男女の平等や,男女の固定的な性別役割分担の見直しは,国際杜会の潮流ともなっている.
 今日,新しい技術革新は,高度情報化杜会を展望して日本経済を急速な国際化に向かわせている.「男は仕事,女は家庭」を前提とした差別的雇用慣行をわが国だけが保持し続けるわけにはいかない時代を迎えているのである.そこでは,男女で分断された職域や地位を,相互に流動化させることが課題となってくる.拡大する女子労働が,健康障害や低賃金に結びついてはならない.
 この新しい課題は,以上にみてきた技術革新と高度経済成長期の女子労働の展開がもたらしたものでもある.
 国民所得の上昇による生活様式の近代化や出生児数の減少は,男女間の学歴格差を縮小し,女性のライフサイクルにしめる職業の比重を高めた,主婦パートにみる既婚女性の職場進出は,家庭責任が夫である男性側にもあることを要請したし,長期勤続や男子職種への女性の進出は,職場における男女の平等待遇を杜会的に訴えた.いずれをとっても,高度経済成長期の女子労働は,たんに女子雇用労働者の量的増大にとどまらず,男女の固定的な性別役割分業社会をゆり動かす諸契機を享んで展開したのである.今後,これらの体験が,女性の側はもちろんのこと,企業の労務管理や行政府の施策,さらには国民一般の社会意識にも生かされてゆくことを期待したい.

 [注]
1)数値は,労働省『労働白書』,1984年版,付属統計表,14‐6ページによる.
2)この時期,製造業を中心とするオートメーション革命によって日本は敗戦後の廃墟から一挙にGNP世界第2位と准り,1人当り国民所得の向上をもたらす経済の高度成長をなし遂げて世界の注目を浴びた.これが可能であった要因として,一般に次の5点があげられている.④民間企業の設備投資が技術革新と結合したこと,②日本人の勤勉さに加え,教育水準の高さが大量の優秀な労働力を提供したこと,③国民の高い貯蓄高が企業の設備投資に活用されたこと,④政府が投融資,輸出振興など積極的な高成長政策をとったこと,⑤戦後,改革によって日本の経済・社会が民主化されたことで,国民の生産と消費の意欲が盛り上がったこと,である.
3)労働省「第三次産業雇用実態調査」,『婦人労働の実情』,1981年,97ページより.
4)1956,1961年は通産省「工業統計表」,1970年は労働省「毎月勤労統計調査」からの数値である.
5)1949‐1956年における外国技術導入件数の業種別内訳は,電気機械工業143件,その他機械工業148件,化学工業146件で,この三業種で66%をしめており,紡績業は37件,6%をしめるにすぎない(星野芳郎『技術革新の根本問題』,動草書房,1958年,247ページ)
6)労働省婦人少年局『婦人労働の実情』,1981年,11ページ.
7)婦人差別撤廃条約や雇用平等法をめぐる問題,女子労働の動向については,わかり易く入手し易い文献として樋口恵子ほか編『職場・働きつづけるあなたへ』,筑摩書房,1982年,竹中恵美子編『女子労働論』,有斐閣,1983年,大羽綾子・井上繁子編『女性が働くとき一保護と平等と一』,未来社,1984年,をあげておく.
8)雇用促進事業団婦人雇用調査室『女子労働力の動向と女子に新しく開けた職種,昭和38年―昭和43年』,1969年.なお基幹部門とは,製造業では生産部門,電気・ガス・水道業では事務部門,運輸・通信業ではサービス部門,金融・保険・不動産業では事務部門,サービス業ではサービス部門をいう
9)以下の叙述は同上,第2部「新たに女子に開かれた職種」の事例調査報告による.
10)古川幸子「電機産業における婦人労働」,大羽綾子・氏原正治郎編『婦人労働』,亜紀書房,1969年,213‐40ページ.
11)島津千利世編『合理化と女子労働者』,労働旬報社,1965年,10‐5ページ,あるいは,『ルポルタージュ職場』,新日本出版社,1971年,43‐71ページ.
12)労働省婦人少年局「精密機械器具製造業の女子労働者」,1962年6月,そのほか,同局が高度成長期に変貌する製造業における女子労働を対象にした調査報告書として,「パン菓子製造業の女子労働者」,1959年,「水産食料品製造業の女子労働者」,1960年,「金属機械製造業における婦人労働実態調査」,1972年,「繊維工業における婦人労働実態調査」,1973年,などがある.
13)雇用促進事業団婦人雇用調査研究会『婦人の職業分野としてのコンピューター関連職種に関する調査研究』,1970年.
14)1964年になって,キーパンチャー障害が労働省通達で職業病とされ作業基準が作られた.詳細は,斎藤一監修『頸肩腕障害と腰痛』,労働科学研究所,1979年参照.
15)OA化が女子事務労働者に与える影響については,やっと調査が開始されつつある段階で,「マイクロエレクトロニクス革命と日本の女性労働者」(「新技術と女性」国際会議提出レポート),コンピューターと女性労働者を考える会,1983年6月,「OA・情報化の女性労働者への影響調査」,全日本電気機器労働組合連合会,1984年7月,などがある.
16)今日,パートタイマーに多様化がみられ正社員なみの労働時間でもパートタイマーの待遇を受けていたり,パートではなく,○○レディ,○○コンパニオンといった名称もみられる.このパートの他,正社員以外には,短期・長期臨時杜員,定時社員,契約社員,指定日社員,準社員,嘱託,など多様化し,就業人員も増加してきている.近年,こうした正社員と区別される非正規従業員あるいは不安定就業者の雇用動向や労働条件が産業構造の変化に伴う問題とされて調査・研究がなされている.例えば『不安定就業と社会政策』,御茶の水書房,1980年,『中小事業所における非正規従業員の実態調査』,東京都立労働研究所,1981年.
17)労働省婦人少年局『女子パートタイム雇用の実情』1971年版,18‐9ページ.
18)日立製作所茂原工場勤労課橋村英明「パートタイマー管理のコツ」,『労務事情』,産業労働調査所,No・133(1968年3月5日).
19)篠塚英子「女子パートタイマーの最近の動向」,職業研究所『職研』No.32,1980年,6ページ.
20)以下,1965年の数値は労働省「女子パートタイム雇用調査」,1966年.1982年の数値は『婦人労働の実情』,1983年,58ページによる.ここ数年来,パートタイマーの実態調査が急速に進んだ.代表的な調査報告書として,ゼンセン同盟rパートタイマーの実態と意識調査」,1980年,および全労働省労働組合「女子パートタイマー実態調査」,1982年,をあげておく.前者はパートタイマーの代表職種を詳細に調査した点で,後者は全国調査として注目される.
21)労働組合の取組み例としては,大沢正典「イズミヤにおけるパート組織化の取組み」,『季刊労働法』No.117,1980年,中本隆久「商業労連におけるパートタイム社員の組織化」,『労務事情』No.502,1980年9月,菅井義夫「ゼンセン同盟のパートタイマー組織化のための具体策」,同上誌所収,などが参考になる.
22)『日本経済新聞』1984年9月17日(夕刊)掲載,パートタイマーの戦力化という視点から,近年のパート活用事例をもりこんだ包括的な参考文献として,『パートタイマー白書』,産業労働調査所,1984年,がある.
23)保育所は1960年には公立・私立合わせて9,782,入所児童数は68万9,242人であったのが,その後,公立保育所の増設で1973年には,1万6,411(1.7倍),入所児童数は142万5,637人(2.1倍)に伸びた.しかし,布施晶子「主婦が仕事をもつこと」,国際女性学会編『現代日本の主婦』,NHKブックス,1980年によると,1976年でも要保育該当世帯数168万,学齢前児童は227万人であったにも拘わらず,保育所定員は180万人でしかなく,約47万人の幼児・児童が放置されたままであった,という.
24)斎藤茂夫『妻たちの思秋期』,共同通信杜,1983年.主婦症候群とは,国立衛生研究所調査で明らかとなった40歳代後半の専業主婦の中にみられる家事嫌悪やうっ屈・イライラなどの不安症状をいう(『朝日新開』1983年6月17日).
25)例えば「女子学生の就職問題を考える」,『労務事情』No.49,1965年11月5日での経営代表,学生代表の発言,また新制大学卒業の女子学生が次々と杜会に出だした1961年頃に「女子学生亡国論」.がジャーナリズムを賑わしたことも象徴的であ
る.なお,これに対する反論を実態で示したものとして,富士谷あつ子・上杉孝実編『大卒女性100万人時代』,勤草書房,1982年,がある.
26)内閣総理大臣官房広報室「女子事務職員の意識調査」,1962年,『労務事情』No.115,1967年9月5日,6‐11ページより.
27)赤松良子編『解説女子労働判例』,学陽書房,1976年.こうした裁判の勝利の背後には,職場に長期勤続した女性達が一定の層をなして存在していたという事実がある.彼女達の中には戦争によって独身を余儀なくされ,生きることが働くことであった人々がいる.谷嘉代子『女ひとり生きる―独身差別の中を生きぬく知恵』,ミネルヴァ書房,1982年.
28)女子の回答については,リクルート「男女雇用機会均等法に関する働く女性の意識調査」(首都圏在住の民間企業に働く女性1,538人を対象).企業の回答については,産業労働調査所の男女雇用機会均等法案についての意見および法案成立後の経営人事管理に対する影響調査いずれも『労務事情』No.619,1984年9月15日,掲載分より.なお,男女の雇用平等をめぐる研究は今後深められようが,さしあたり労働法の見地からは「ジュリストNo.819―男女雇用均等法」,有斐閣,1984年が,社会政策の分野では,『婦人労働における保護と平等』,啓文社,1985年が参考になる.

[塩田咲子]