技術と都市社会

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技術と都市社会

都市と技術

論文タイトル: 序章:技術と都市社会
著者名: 古屋野 正伍
出版社: 国連大学出版局・国際書院
出版年: 1995年
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序章:技術と都市社会

はじめに

 技術と都市社会とのかかわりを考察するに当たって,まず二,三の基本的な視点を明らかにしておきたい。
 第一に技術を孤立,静止したものとしてとらえるのではなく,これを外界との関連で,動態的に把握することである。技術はつねに自然や社会という外的条件とのかかわりにおいて成立するもので,物的資源や存在はいうまでもなく,気候・風土や自然災害などの自然的環境によって大きく左右されるだけでなく,技術活動を他の人間活動から切り離しおてとらえることは不可能である。特に日本の場合についていえば,技術のいわゆる「馴化」が古来旺盛であり,その基底には深く「土着」技術の流れが潜在することに注意しなければならないと思われる。
 このことは当然,技術の動態的な把握の必要性ともかかわる。技術はある一定の時代や特定の地方に限定して存在するものではなく,それは変化しまた移動するものである。したがって技術は,国際的な視野からとらえなければならず,技術の移転は世界的なものとなる。しかも日本では,「土着」といわれる技術のなかにも,遠い過去においてすでに外国から受け容れられていたものの含まれることも多い。「外来」と「土着」とは,それほど簡単に区別することはできないのである。
 第二に,この技術の担い手としての人間が問題になる。個人にせよ集団にせよ,その荷担者による技術活動の場を地域社会に設定してとらえることは,問題の解明にとって有効であろう。ここでわれわれは都市に注目したい。
 いうまでもなく地域社会は,都市を含めて自己完結的なものではなく,他の地域と相互に有機的な関連性を保ちながら全体社会を構成することになり,都市の問題を地方の問題としてとらえるという発想も,この根拠に基づくことは自明である。換言すれば,東京のごとき中心大都市の問題も,地方都市との関連なしにはとらえきれないということである。そして技術の成立や移転という現実の問題をここにすえてみるとき,必然的にこれを担う人間の生活行動や意識とのかかわりが浮かび上ってくることになり,彼らが都市という地域社会を基盤にして,どのように技術と対応しながら,おのおのその視野を拡げてきたかを問題にする必要が生じてくるのである。こうして技術と都市社会の問題は,広くは都市における人間解放の問題ともつながることになる。
 ところで技術と社会のかかわりは,時代を第二次世界大戦以前に限定するとしても,かなり多岐にわたる把握のしかたが考えられる。ここではまず巨視的な視点から,明治初年の国民形成期における都市づくりがいかになされたかを問題としてとりあげ,他方微視的な側面から,この都市で職業技術がいかに生成・展開されたかを見るために,その荷担者である職人層の活動に注目する。なお,さらに,この両局面をつなぐ媒介項として,都市のインフラストラクチュア,とくに町会組織の形成と変容を問題にする。
 これに加えて,このプロジェクト全体にわたる重要課題でもある技術移転の解明に資するために,先に述べたそれぞれの局面に関し,外国技術がいかに導入されまた受容あるいは変容されたか,また国内都市間での技術の移動をも考察の対象に加える。さらに,以上に見られる日本の経験を,発展途上国の側から再検討するという要請にも応えるべく,これらを単に過去の特殊事例として位置づけるのではなく,その普遍的かつ現代的な意義についても考察を加えることになろう。

1 都市形成における外的要因と対応
――首都東京の事例

 わが国の都市形成の経過を国際的な視野から眺めると,一つは植民地化の危機への対策という,外生的要因に触発されての措置にかかわる面と,いま一つはむしろ積極的に,外国の都市計画技術を導入し,これをある程度日本的風土条件にも配意して,市街地の形成に適用するという面とを観取することができる。しかし,この両面は分かち難く結びついているところもあり,さらにまた天災などの自然的要因によって計画が左右される,という事態の生じることにも留意しなければならない。
 明治維新を契機として成立したいわゆる明治国家は,欧米列強の圧力下で「半植民地化の危機」を経験したことは周知のとおりである。この危機に当面した明治政府は,圧力排除のための多くの苦難を経て,ようやく民族の統一と国家自立の基礎を固め,同時にいわゆる「富国強兵」政策を推進することによって,辛うじて独立国の名実を全うし得たのである。このような国家ないし国民の形成過程が,新しい都市東京の成立に大きく反映したことは,疑う余地のない事実である。
 幕府権力の否定のもとに,京都にかわって成立した維新期の東京の都市的性格の探究は,現代に至る東京の変遷,発展のなかで,この骨格がいかにして決定されたかを知るうえに極めて重要である。
 ここで第一に注目すべきは,市街地の一角における外国人居留地の形成である。欧米列強諸国によるアジア諸地域の支配は,インド,ジャワ,マレーから中国に及び,その支配の拠点として,各地域の都市が相次いで植民地化されていったが,日本もその影響を免れることはできなかった。その明確なあらわれが,横浜や東京における居留地の設置であった。規模において横浜を下回るとはいえ,1868年の東京開市と同時に,外国人のために定住・交易の場所として,築地地区を居留地として設定し,外国人の居住権はもちろん,ここでの行政・警察権を完全に外国側に移譲することを強要され,これを認めざるをえなかったのである。
 この事実は,植民地化を余儀なくされた他のアジア諸国の都市の場合と基本的に異なるものではなく,居留地の存在という事実は少なくとも東京を「半植民地」型の都市として位置づけるための決定的な根拠となった。このことが東京の都市形成に及ぼした影響は,直接的・間接的にさまざまのかたちをとったが,その一つに数えざるをえない人間差別の問題は,極めて深刻かつ重要である。
 幕藩体制下の城下町の諸条件を継承して成立した新首都東京は,江戸が当面した社会問題を一層深刻なかたちで再現し強化したといわざるをえない。これは土地・住宅をめぐるスラムの形成,道路,上下水道,あるいは公園緑地などの公共都市施設の劣悪性,犯罪・非行に加えてさまざまな人的災害の多発など極めて多様である。
 江戸末期に端を発する人口集中のもたらすオーバー・アーバニゼーションに加えて,資本主義の成立・展開に伴う資本の集積は,外国人居留地に象徴される国外からの圧力のもとに,首都の住民を経済的にも心理的にも異質化させ,分化させた。現代にまでその累を及ぼす人間差別の問題も,このような社会条件のなかで一層深刻化したといわなければならない。
 さて日本の経験として,このような好ましからざる事態から脱却するための方途は,どのようなものであったか。それははたして望ましい成果をおさめることが可能であったか。これはつぎに取り上げるべき問題である。
 以上のような状況のなかで,当時の明治国家が直面していた最も重要な課題は,当然のこととして,居留地制度の廃止を含む,いわゆる幕末不平等条約の改訂である。同時に,積極的な面として,範をイギリスなどの先進諸国にとって,自ら名実ともに備わった資本主義国家に転身することでもあった。前にもふれた国家権力の主導による富国強兵改策は,このような要請から生まれたものであり,東京をはじめとする都市の改造事業もまた,この政策に対応するものとして推進されたのである。
 首都東京の改造事業は,西欧都市,とくにロンドンやパリにならって,明治初年以降,継続的に遂行された市街地の外容の整備を中心課題とした。それは「半植民地型」都市から「富国強兵型」都市への転換を目指すものであり,外国の都市設計技術が急速に,時として無批判に導入された。しかし市民生活の底に深く定着している伝統的要素としての生活意識や,これに基づく居住様式を,否定し消し去ることは所詮不可能であった。このことがひいては,後年日本都市の居住様式が外国に逆影響として搬出されることの根拠となったことも見逃せない。
 さて東京における街区の改装は,明治初年偶発的におこった大火を契機として,ロンドンを模範として進められた銀座煉瓦街の造成に始まる。続いて日比谷中央官公街の建設計画が策定・推進され,とくに1888年以降,ややこれに先立つパリの都市再開発に目標をおいて,道路の整備を中心とする総合的な都市計画として,「東京市区改正事業」が遂行された。そして念願の居留地廃止は,日清戦争を経た1899年の条約改正によって実現された。これはあたかも日本産業資本の確立期と符合し,ここにおいていちおう,「富国強兵型」都市としての東京の成立が実現されることとなった。
 しかしながら,このような国家的要請を背景とする都市改造事業として,国益を中心とする結果,施行過程で住民生活への配慮や住民要求への対応が欠け,実質的な成功をおさめた都市づくりとは言い難い。しかもこのいわば官製都市の慣行は,現代に至るまでその根がたえることなく,今日の都市問題の性格を根本的に規定している事実を看過することはできない。
 ただ都市施設の事業主体についてみるとき,水道事業などはまさに官営そのものであるが,電気の供給やガス・市内電車などの公益事業の多くが民営により始められたものであることは特筆にあたいしよう。この事実は全国都市にほぼ共通の現象で,後の地方自治制の成立と深くかかわることに注目したい。

2 地方都市における都市化と低所得層の対応
――金沢の事例

 ここでわれわれは,地方都市に目を転じてみたい。地方都市に住居をもつ庶民も,明治の変動を体験した時期が,東京と同じであることに変わりはない。しかし交替する権力との距離において,あるいは都市的社会環境の規模において,また特に農民生活との身近さにおいて,地方都市の居住条件は東京と大きく異なっている。したがって,同じ下層民の意識形成や連帯行動にも,おのずから東京と異なるものが見出せるかもしれないし,あるいはむしろ東京に先んじる傾向があったかもしれないのである。
 以上の文脈を背景に,地方中心都市である金沢をとりあげ,その都市化の過程,とくに低所得層の居住地職業生活や,かれらの社会運動への参加状況などを考察する。
 1918(大正7)年7月下旬,富山県下からはじまった米騒動は,日本の民衆運動のなかで最大のものであるが,8月に入って名古屋,京都の大都市に波及し,約一週間で全国的規模に発展している。その運動の性格・内容は,地域によってかなり異なるものではあったが,その行動力が市町村の規模に従って大きかったことは特筆にあたいしよう。また参加者の主体が職人層や日雇労働者であったことも,ほぼ全国に共通している。とくに金沢のように,中規模都市で伝統型産業の労働者や職人層の多いところでは,この傾向が強く,日雇や職人層による米穀商打ちこわしの暴動が展開した。そしてこのなかで主役を演じたのが箔打職人であった。
 とくに騒動の発生を前にして,浅野川右岸の箔打居住地一帯では,事前の組織的な動きのあったことが指摘される。箔打職人には保守性と同時に進歩的意識があり,これを土台にして一種の正義感がその決起をうながしたと見られる。この意味でも,いわゆるリーダーの存在意義はそれほど大きくなかったようである。むしろ箔打職人を中心として,これと仕業種の異なる他の日雇労働者たちが行動に加わってきた背景には、金沢の地域的サブシステムとしての聯区の存在がかかわっている。これは町内会の統合体である校下[こうか]の連合体組織で,全市は七聯区から成るが,各聯区はそれぞれが一種の完結社会としての統合性をもち,日常的情報交流の場であった。従ってそれぞれの聯区が騒動に参加した各サブグループ(それは大きく四集団にわかれる)の組織化と統合性において果たした役割は大きかったと思われる。
 この騒動の動きについて,とくに注目すべき二つの点があるように思われる。第一はこの大集団の起動勢力となった箔打職人の生活やその意識形成のメカニズムについてである。まずその素材が主として金であったことに特色がある。はじめは加賀藩の藩用としてその強力な資金援助がこの地場産業としての成立を助け,これが問屋資本に代って製造がきびしい競争にさらされた時は,金沢特有の気候条件も幸いして,既にこの精緻な手工業的技術が完璧に近いまでに確立されていた。その工程は打箔機などによる機械化を部分的にしか許さず,職人による手仕事の領域を侵されることが少なかった。しかも職人が相対で打ち合うプライベートな作業であったことから,従業者のあいだに特殊な人間関係の育つ条件があり,これが社会知識の学習をもすすめ,ひいては同業者間の連帯形成にも影響したと思われる。とくに身分的軽視や作業騒音への嫌悪など,箔打職人をとりまく社会環境のきびしさは,かれらの連帯形成を促進する条件になったようである。
 第二は,この騒動における参加者の動員力についてである。前記箔打職人集団によって起動されたこの騒動への全参加者が数千人に及んだという事実は,その組織力の源泉に対する関心を強く喚起する。もちろん米価の異常騰貫をめぐる経済情勢への認識はあっても,これが市民個人にとって騒動に参加する直接の動機とはなり得ない。また特に強力なリーダーが全体を統括したわけでもない。金沢のばあいとくに注目をひくのは,その全体行動が大きく四集団に分かれて遂行されたことである。このそれぞれの集団の結成に,聯区という地域組織が関係したと思われることは前に述べたとおりである。この聯区なるものが果たしてそれほど強い組織力の源泉となり得たかには疑問がない訳ではない。しかし少なくともこの騒動への参加が,自然発生的といえる理由は何もないのである。従って参加者の居住環境に注目することは,むしろ自然であろう。そこに形成された町会校下聯区という地区組織は,かなりユニークな近隣住区のつみ上げであり,これが金沢という一伝統型地方中心都市の社会環境のなかで,庶民の集団参加に独自な機能を果たし,ひいてはその統合の契機ともなったというのが,この時点においてわれわれの提示しようとする一仮設である。

3 町内会組織の形成とその役割
――行政需要と住民自治とのかかわり

 以下に,大都市における町内会の実態について,その形成の経緯や変遷を考察するが,その焦点は,これがどのようなしかたで住民の間から自発的に形成され,またこれに行政がどの程度まで干与し,それが,町内会の性格や機能をどのように規定したかの検討におかれる。
 町内会が江戸時代の支配制度や,住民組織と無関係なわけではない。しかし,五人組との連続性は,明治初期では,まだ農村で後に市域に編入された地域に限られたようで,町地にあった五人組は,後の町内会としてではなく,公的行政機構の中に吸収されたと考えられる。町地で前身となったのは,家守からのみなる五人組の構成員が,五人組の外側に置かれていた居住との間で関係していた部分であり,それが地主・家守組織(町総代,地主会,年番制度,世話人会)として維持された。支配機構にはしばしばなかった旧住民組織が前身となった場合としては,若衆組,氏子組織があげられるが,ただ前の場合と併せてこれらを前身とする町内会は,あまり多くを数えない。
 それよりは,1898年の府令によって各町に組織された衛生組合が,町内会の母胎として,より大きく役割を果たしたようである。このほかに,明治初期から大正にかけて,自然発生的に町内住民の親睦と慶弔を扱う目的でつくられ,多くは睦会と称した組織も無視しえないと思われる。
 町内会の形成を促進した最初の歴史的契機は,日清・日露戦役であり,この時出征兵の送迎と留守家族慰安のために町内会結成の動きが現れた。前述の衛生組合の結成を命じた府令も,主要歴史的事件の一つであったが,衛生組合自体は間もなく消滅の道をたどり,その一部が町内会に転化した。一方特定事件とはかかわりなく,自然発生的に睦会が次第に形成されていくのであるが,組織の数から見るなら,これは極めて大きな比率を占めることになる。
 しかし,町内会結成に最も大きな刺激を与えたのは,1923年の関東大震災であり,これが町内における住民組織の必要を痛感させ,いっきょに町内会の結成を各地(とくに旧市域の場合)において促進させた。
 その後,1932年の東京市の市域拡張は,新市域においても旧町村の区を単位とした町内会の組織化を促した。そしてこの動きが時代の趨勢となるにつれて,区とは関係のない新たな町内会も新市域に次々に結成されていった。
 町内会の前身であったものが,いつ公共的性格の強い町内会に転化したかは,個々の町内会ごとに異なっている。ここにあげた主要事件は,前身となった組織が町内会に転化する契機ともなり,あるいは全く新たに町内会が結成される契機ともなった。しかし,大災害直後は震災の経験に加え,いっそう複雑化した行政事務の町内会への依存度が高くなっていた関係上,殆どの組織が今日のような町内会になっていた。
 今日の町内会組織の特色はおよそ二つある。その第一は,前身組織が町内の地主・家守,若者,あるいは一部有志といったように,住民のある部分のみを成員としていたのに対し,町内会は町内住民のすべてを網羅するに至った点である。第二には,前身組織が宗教,親睦,衛生などの単一機能のみを扱ったのに対し,町内会は複合機能を備えていた点である。つまり町内会はそれなりの住民組織の前進の結果として現れたと見ることができる。これは,複合機能的で自由な出入りの認められない前近代的集団から,単一機能的で出入の自由な近代的集団へ,という一般図式では捉えられない前進である。
 1935年頃には,東京の殆ど全地域に町内会が組織されていたが,個々の町内会の区域は必ずしも一町単位でなく,跨区町内会とか,区域の重複といった問題が現れていた。会員数も50名以下から1千名を超えるものまでさまざまであり,会費徴収基準も極めて不統一であった。町内会が公共的性格が強めるにつれて,行政当局はこの混乱の解決に乗り出し,その一歩として,各区で連合町内会の結成を図ったのであるが,上記の不統一にはそれなりの理由があり,町内会の整備の目的は直ちには達成されなかったようである。
 しかし臨戦体制に入って町内会の法制化が進められたところから,この目的はいっきょに達成されたのである。ただしこれをもって,町内会を官製団体とか戦争協力組織と捉えるには問題がある。1940年の隣保組織の結成までは,町内会は自由放任主義がとられていたのである。また個々の町内会の結成動機として,官公署の慫慂によるという例も存在しないわけではないが,これは極めて少数に限られた。
 以上の経過からみて,都市の住民組織は,行政によってつくられたものが次第に消滅して,住民により自発的につくられた組織がこれに代る傾向が一時顕著であった。とくに町内会形成の契機が,戦争や災害などの要因による場合が多かったことは,これが危機対応的性格をもったことを物語る。しかし行政事務の複雑化につれて,これを代行する末端組織の必要が生じ,自発的色彩の濃い近隣組織も,しだいに公的性格の強いものに転化していった。加入者の一部から全町民へ,区域が町界を越えて拡がり,また単一的機能から複合的機能へと拡大したのもこれに見合う現象であった。
 このような時代による変遷をとおして,とくに町内会の果たした社会的役割として評価すべきは,公衆衛生への貢献であろう。これは,前述のような都市の公益事業が,主として民営によって始められたことと,部分的には符合する現象として注目してよいであろう。