技術と都市社会

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都市と技術

論文タイトル: 第3章:戦前東京の都市下層
著者名: 中川 清
出版社: 国連大学出版局・国際書院
出版年: 1995年
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第3章:戦前東京の都市下層

はじめに

 本稿の課題は,国連大学の「人間と社会の開発のための技術移転・変容ならびに開発――日本の経験」プロジェクトの研究実施計画の言葉を借りれば,以下のようにいえるであろう。「技術移転の社会的影響」という視点から,「生活様式への影響を中心に」,「あらたに発展・膨張する都市」とりわけ「近代日本社会の変化の縮図でもある」「首座都市」「東京」を対象として,「流入人口」が「都市生活への適合過程でみせるさまざまの困難と問題を」,「都市雑業層を中心に据えて分析」することである1)。
 ところで,明治初期までの都市の人口学的特徴は,高死亡率が低出生率を上回って自然増加率がマイナスとなり,都市内部では人口維持が不可能で不断に農村からの人口流入を必要とした,といわれる2)。ここから想定できる明治初期の都市下層像は,極めて短期かつ流動的な形で都市および都市周辺に滞留し,多くの場合所帯を構えることなく,都市で死にあるいはその都市から移動していったものと考えることができる。すなわち,明治初期の都市下層の多くは,家族としての世帯を形成できないで,何らかの形で都市から消えていったのである。後述するように,家族としての世帯を形成すること自体が困難であった状態は明治中期においてもほとんど同じであったと考えられる。それでは,都市下層のこのような在り方は,明治中期以降の経済発展とりわけ都市人口の着実な増加のなかで3),ほとんど変化しなかったのであろうか,それとも何らかの変化を遂げたのであろうか。本稿では,明治中期から昭和戦前期までの東京市を対象として,都市下層自身の生活状態が速やかに変化していったことを,いくつかの側面から明らかにしたい。
 さらに,戦前期日本の経済発展を説明する場合しばしば「二重構造」仮説に代表されるように構造的な編成の型が重視されてきたが,編成の底辺を担う人々の具体的な生活状態については必ずしも十分な関心が払われてこなかった。しかし,下支えの在り方自体が変化したことを明らかにすることによって初めて,構造的編成の型が経済発展の説明要因となりうるのではないだろうか。また,「都市雑業層」仮説では,さらに具体的に,農村からの過剰人口を吸引して追加労働力の給源となる機能が注目された4)。しかし,この仮説においても,「雑業層」という職業規定が正確なのか,本当に「多就業」なのか,その「家計」の水準がどのように推移したのかは,ほとんど検証されなかった。これらの疑問にも,ささやかな回答を試みたいと思う。
 以上のような視点に基づいて,いわゆる「産業革命」が始まった明治20(1890)年代から昭和5―6(1930―31)年の昭和恐慌期の少しあとまでの,東京市の最下層1割を目安とした都市下層の生活の動向を,分布の特徴,人口および世帯の性格,住居および関連生活条件,職業上の特徴,家計構造,そして扶助体制という順序で追跡してゆきたい。この作業によって,「産業革命」以後約半世紀あまりの間に,都市下層の生活の在り方が思いのほか大きな変貌を遂げ,「移転・変容された技術」をその普及の最下層において受容する生活主体が形成されたことを示したい。なお,本稿では紙数の都合で,細かい資料の出所や推計の手続き等はおおむね省略した5)。あらかじめ断っておきたい。
 本題に入る前に,基準となる時期と調査対象の性格について簡単に述べたい。


1) 国連大学受託調査プロジェクト・チーム(アジア経済研究所)のパンフレット「日本の経験,第1号」による。
2) 速水融「近世後期地域別人口変動と都市人口比率の関連」(『徳川林政史研究所紀要』昭和49年度)および新保博/速水融/西川俊作『数量経済史入門―日本の前工業化社会』56-59ページ。
3) 都市人口の性格については,さしあたり拙稿「戦前東京における人口の定着傾向」(『新潟大学商学論集』第14号)を参照されたい。
4) 隅谷三喜男『日本の労働問題』63―70ページ,81―82ページ。
5) 詳細は以下の拙稿を参照されたい。「戦前における都市下層の展開(上)(下)」(「『三田学会雑誌』第71巻3号,4号),「続・戦前における都市下層の展開(上)」(『新潟大学商学論集』第13号)。

1 基準となる時期と調査対象の性格

 まず,「産業革命」が開始された明治20年代(1890年代)――
 民間の記者達によって各種の「貧民窟踏査」が行われたが,「貧民窟」として主観的に捉えられた対象の位置づけは必ずしも明らかではなかった。ただし,「貧民窟」に固有とされたいくつかの職種から推計しても,また「貧民」の生活水準から推計しても,「貧民」層(すなわちこの時期の都市下層)は,東京市内に相当広範に存在していたと考えられる。明治維新から次第に回復してきた東京市の人口は,明治20年前後に大量の流入を経験して100万の水準に復帰するが,これら流入人口の多くは「貧民」層を形成し,しかも明治20年代の「貧民」は江戸後期の都市下層と大差ない生活状態にあったと思われる。「貧民」層の都市における広範な在り方にはほとんど変化がないものの,都市下層全体の生活水準がわずかに向上し始あるのは,日清戦争後の明治30年代に入ってからであった。なお,横山源之助の『日本の下層社会』は,分化しながら全体として変化し始める直前の,明治30年頃の都市下層の諸相を的確に記述していた。
 つぎに,日露戦争後の明治末から大正初頭(1911―12年頃)――
 「部落」をなし,「下級労働」に従事し,家賃3円(昭和9―11年価格では約5円)以下のところに住み,月収20円(同じく約32円)以下のものを,「所帯」という単位で把握したのが内務省地方局の「細民調査」であった。これは,それまで取締りや救貧の対象とみなされてきた都市下層を,具体的に都市を構成する成員として認識したおそらく最初の調査であった。都市を広範におおっていた下層(「細民」や「貧民」そして「窮民」)は,「新中間層」や熟練労働者層の萌芽的形成とも相まって,この頃から分化し始めるが,上記の規定で捉えられた「細民」数は,当時の東京市(旧市域)人口の10%を上回っていた。ただし,内務省「細民調査」の調査対象地域は,なお東京市内の一部分に限られていた。
 第一次世界大戦直後の大正9―10年(1920―21年)頃――
 第一次大戦や米騒動に示される大正中期の変動期を経て,都市諸階層はそれなりの生活の枠組みを形成,確立するが,都市下層も,「定居的細民の世帯」を何とか形成し,維持し始めるという意味で,例外ではなかった。「東京市社会局は,「部落」と月収50―60円(昭和9―11年価格で約36―43円)以下という2規定で,東京市(旧市域)全域にわたる「細民調査」を行ったが,「細民」として計上された数は,大正9年東京市人口の3.4%にとどまった。これは,広範な都市下層が分化した結果であると同時に,「部落」をなす都市下層の位置がこの頃から相対的に低下し始めたためであると考えられる。なお,内務省社会局の「細民調査」が大正10年に家計調査中心の内容で実施されたことも注目に価する。何故なら,都市下層も家族として都市に定着できる生活の枠組みを困難をともないながらも形成しつつあったが故に,都市下層世帯が消費生活の主体として家計調査の対象となりえたからである。
 つづいて,関東大震災直後の大正末から昭和初頭(1926年前後)――
 都市下層の「細民地区」内からの分散は震災を契機に決定的となった。この分散を可能にしたのは,都市下層が都市家族としての生活をそれなりの形で展開し始めたために,従来のような「細民地区」の共同性を必ずしも必要とはしなくなったという事情である。このために,「不良住宅」20戸以上の集団地区を対象とした東京府社会課の「不良住宅地区調査」は,新市域人口のわずか1%を「不良住宅地区」居住者として捉えたにすぎなかった。都市下層の中では,むしろ「不良住宅地区」以外の都市地域に分散して居住する者が主流となった。こうして,「貧民窟」,「部落」,「細民地区」,「不良住宅地区」という形で都市下層に対する基本的な視角を提供してきた集住規定は,下層調査において決定的な後退を余儀なくされるのである。
 最後に,昭和恐慌をはさむ昭和4―9年(1929―34年),特に昭和7―8年(1932―33年)を中心に
 この時期の下層調査は,住居や職業のあり方を不問に付し,収入規定だけによって対象を把握しようとした。収入といういわば目に見えない経済的な基準が先行するとともに,調査の描く都市下層像は,具体的な生活状態の構成力を減退させ,次第に抽象的な内容となっていった。これは,昭和に入ってからの下層調査が明確な政策目的(不良住宅地区改良法や救護法)のもとで実施されたこととも関連していた。
 さて,東京市社会局の「要保護世帯調査」系列は,世帯人員別の「収入月額標準」以下,例えば,旧市域4人世帯55円(昭和9―11年価格で約57円)以下,新市域4人世帯45円(同じく約47円)以下という単独の規定で,東京市全域の「要保護者」を調査したが,その数は新旧両市域人口の約10%に達した。この時期の都市下層は,これまでにない生活上の困難に直面するが,困難に際して明治中期の状態に後戻りするのではなく,明治後期以来,徐々に形作ってきた生活の枠組みを強固に維持しようとして,個々別々にではあるが,生活構造上の抵抗を行った。生活の枠組みが未形成もしくは破壊された場合でも,流動的な生活は一時的か部分的な状態に限定され,枠組みの構成もしくは再構成の強烈な志向が都市下層を貫いていた。都市下層に典型的に現れた,家族を形成して都市に住みつづける生活の枠組みを,困難に際して強固に維持しようとする志向は,おそらく戦時体制に収束される直前のナショナルな心情の基底をなしていたと思われる。なお,この時期には,東京市社会局「不良住宅地区調査」(捉えられた数は市人口の1%弱)や同潤会「生活調査」も行われたが,これらが捉えた対象の大部分は,前記の「要保護世帯調査」系列の対象と重なっていた。

2 分布の特徴

表1 旧市域における都市下層の分布の変化
 旧市域における都市下層の分布の変化を簡単に示したのが,表1である。前節で述べた対象とは多少性格を異にする部分もあるが,大体の傾向は理解できるであろう。明治20年代は,神田,日本橋,京橋,芝,そして赤坂,牛込を経て,小石川,本郷,浅草と,都市下層の分布がいわば渦巻状に拡大し,明治30年代以降,その分布は次第に,下谷,浅草,さらに本所,深川という江戸の町人地の外延(地形的には台地ではない沖積地もしくはそれに接続して陸地化した部分)にかたよってゆき,大正中期以降は,深川,本所,浅草(昭和期に入ると,埋立地である京橋区の月島地区も含めねばならない)が旧市域における中心的な分布区となった。比喩的に表現するなら,都市下層の分布は,「の」の字型に広がり,沈殿していったのである1)。事実,深川,本所,浅草の3区で,旧市域下層の半数以上を占めていた。
 市街地の拡大と新市域人口の増加にともなって,都市下層の分布も旧市域からその周辺の新市域へ拡散していった。新市域への拡散の正確な動きは不明であるが2),新市域人口の動きにほぼ対応して,新市域に拡散する都市下層が増加していったと考えられる。したがって,大正中期とりわけ関東大震災以降,拡散のテンポがはやまった。その結果,昭和初期には,東京市全体の下層の6割以上が新市域に分布することになった。新市域における都市下層の中心的分布区は,荒川,向島,城東と板橋であり,4区で,新市域下層の4割以上を占めていた。荒川,向島,城東の3区は,大正中期以降の旧市域の中心的分布区と隣接する隅田川もしくは荒川沿いの地域であった。
 東京市全体の都市下層の分布を,昭和8年時点で,要保護世帯の分布として,図1に示しておこう。
図1 昭和初期の東京市における都市下層の分布
 ところで,都市下層の分布の核となっていたのは,大正期以来その相対的地位を次第に低下させてはきたが,やはり「部落」,「細民地区」,「特定区域」,「不良住宅地区」(「要保護世帯集団地域」ともいわれる)と称されてきた都市下層の集住地区であった。分布の核である都市下層のこのような集住地区の特徴を,最も包括的に記述したものとして東京市社会局『東京市新市域不良住宅地区調査』昭和11年をあげることができる。そこでは,「自然的環境」と「社会的環境」に分け,前者については4点,後者については6点の特徴が指摘されている。その内容は以下の通りである。
 自然的環境
1) 湿潤地―低地,窪地,沼地等であって,常に泥濘を保つ土地である。
2) 墓地,寺院地等に近隣する陰湿なる土地
3) 畑地,荒蕪地にして比較的交通不便なる土地
4) 線路,工場,溝渠,其の他に沿い騒音,悪臭等のため不快なる土地
 社会的環境
1) 庶民階級の集団地―自由労働者,熟練労働者,手工業者,行商人,小商人,下級俸給生活者等の小額所得に依って生活する者の密集して居住する地域である。かような場所は,表通りは雑多な日用品の小商店が軒を並べて相当の賑わいを呈しており,殊に児童相手の不潔なる駄菓子店,労働者を顧客とする食堂及び酒場,古物商店,機械部分品の家内工場等々が目につく。裏通りは陰湿にして狭隘な露路を差し挾んで,安普請の長屋が櫛比しており,下水溝には腐敗したどす黒い汚水が停滞しているのが普通である。
2) 工場街―この地域は何れも煤煙と騒音に悩まされ,下水溝は工場の排泄する汚水が充満している。また場所によっては工場の発散する異様な臭気が鼻を衝くことも稀ではない。家屋は恰かも大工場の威容に圧倒されたかのように黒ずんで萎縮し,あるいは工場の塀際に,あるいはその近傍に密集または散在している。その間工場下請の家内工場が入り交って騒音と塵埃とを更に加えているのである。
3) 木賃宿街―かかる地域は交通の要路に沿い,久しい以前より自由労働者,行商人等の蝟集地としての歴史を持っている。したがって付近一帯には彼等相手の古朽粗悪なる長屋が建ち並び,表通りには付近居住者の需要を充たす飲食店,小商店が並んでいるのが常である。こうして昼間には仕事にあぶれた労働者が路上に三々伍々佇立し,夕方には酒気を帯びた彼等によって露路は雑踏して,特殊なる雰囲気が醸されるのである。
4) バタヤ街―紙屑拾い,浮浪人,乞食等の居住地である。屑物買入所,所謂親方を中心として粗悪極まるバラック小屋に集団的生活を営んでいるのが特徴である。地域内は甚だしく不潔で乱雑であり頽廃的空気が極めて濃い。
5) 普通住宅間に一団地として存在する地区
6) 畑地または荒蕪地に孤立的に一団地として存在する地区3)
 しかしながら,前節でも触れたように,集住地区内の都市下層が量的に減少し,下層調査における集住規定の位置が後退したことも事実であった。産業革命期以後の東京市下層の展開を考える場合,集住地区自体の特徴よりも,むしろ下層内部における集住地区の地位の低下,すなわち都市下層の集住地区からの分散の方が重要な意味をもっていたと思われる。明治期において都市下層は,集団規定によってほぼ過不足なく捉えられていた。というより集住ゆえに下層とみなされていた。ところが後述するように,家族としての機能を強め,生活設備を整え,何とか都市に定着できる生活の枠組みを形成するとともに,都市下層は,生活条件の不備を独特の仕方で補ってきた集住地区内の共同性を必ずしも必要とはしなくなった。そして,地区内の家賃が相対的に高くなり,市街地が拡大するなかで地区外に,より安価で,粗雑ではあるがより広い住居を見出す機会が増えると,集住地区内の都市下層は次第に地区外に分散し始め,また新たに形成された都市下層も主として地区外に分布するようになっていった。その結果,集住地区(おおむね「不良住宅」20戸以上の「集団地区」)内の都市下層が東京市人口に占める割合は,明治期には10%を上回っていたが,大正中期には5%を下回り,昭和期に入ると1%にも満たなくなったのである4)。
 以上のような地区内からの分散にもかかわらず,表1に示したように明治末以降,都市下層の分布には大きな変化がなく,むしろ浅草,本所,深川の3区に偏在してゆく傾向さえうかがえた。大正期,昭和初期と集住地区の相対的地位が急速に低下するにともなって,都市下層の分布は,旧市域3区と荒川,向島,城東の新市域3区に集中し,固定化していったのである(図1を参照)。それ故,都市下層の集住地区からの分散は,集住地区自体がその共同性を薄め,空間的にも拡大し,より広い特定の地域にいわば地域化してゆく過程でもあった点に注目しなければならない。このような集住地区の地域化は,時期的にも,中央および地方政府が都市空間を人々が生活する密な地域として認識し始めた時期にほぼ対応していた。事実,内務省告示第14号として市街地建築物法(大正8年公布)第1条の規定による地域指定が行われ,東京「区域」全体の44.6%が「住居地域」,14.7%が「商業地域」,37.4%が「工業地域」に指定されたのは大正14年であった5)。しかも,地域化した集住地区ともいうべき上記の新旧市域6区の大部分は,「住居地域」ではなく「工業地域」に該当していたのである(浅草区は主に「商業地域」だったが)。約10年後の昭和8年においても,さらに戦後の高度経済成長を経た昭和43年においてさえ,この事情に大きな変化はなかった6)。


1) 江戸の「都市形態」自体もこのような骨格をもっていた点については,内藤昌『江戸と江戸城』を参照されたい。
2) 大正6年12月末の警視庁による「東京府下貧民調査」(4人世帯で月収19円以下という基準)では,「貧民」の数が,「市部」(旧市域に該当)で1万5254「戸」,6万3590人,「郡部」(新市域と郡部に該当)で1万5490「戸」,6万5855人と伝えられた(東園基光「東京府下貧民の状態並に其救済」『社会と救済』第2巻1号)。
3) 以上は同書,22―26ページによる。
4) 関東大震災以後,新市域に新しい「不良住宅地区」が出現するが,その規模は極めて限定されていたといわねばならない。
5) 詳しくは,武部六蔵(復興局建築部)『東京都市計画の基本問題 住居,商業及工業地域復興建築叢書第十二号』大正14年を参照されたい。なお,残りの3.3%は「未指定地域」である。
6) 東京市都市計画部『東京都市計画概要』昭和8年の「東京都市計画地域図」。
 東京都首都整備局『東京都市計画概要 昭和42年』の「用途地域図」。ただし後者の場合,「用途地域」がさらに細分化されている。

3 人口および世帯の性格

 まず年齢別人口構成を,明治末から大正初頭(明治中期の資料がえられないので)を基本としてみてゆきたい。それによると都市下層の人口は,主として30歳代,40歳代の両親と0歳から9歳の子供によって構成されていた。さらに,両親の約7割が東京市以外の地方生まれで,子供の約8割が東京市内生まれであることを考え合せると,都市下層の大半は,地方からの流入者が東京市内で結婚して子供を生み育て始めた状態であったといえよう。このような流入者の世帯形成としての理解が都市下層に対して可能となるのは,後述するようにやはり明治後期以降のことであった。上記の両親と子供による都市下層の年齢別人口構成の基本形は,その後も大きくは変化しないが,大正中期から,10歳から14歳の子供層の割合が増加し,わずかではあるが高老年層も厚みを増した。1世帯当たりの非現住人口が明治末―大正中期の約0.4人から昭和期には0.2人未満に半減したこと,さらに,都市下層の子女の尋常小学校への就学率(必ずしも修学ではない)が,皆無であった明治中期から,明治末には約7割,大正中期には約8割,昭和期には約9割と向上したこと1),社会政策の上では工場法が公布(明治44年),施行(大正5年)されたこと,以上から判断すると,大正中期以降の10歳から14歳の子供層の増加は,多就業世帯の増加ではなく,都市下層が無業の被扶養者である子女をより長く世帯内にとどめるようになった,換言すれば都市下層世帯が家族としての機能を強めていった結果であると考えられる。
 ところで戦前の東京市全体の年齢別人口構成は,おおむね単身の青少年労働者層が中心となっており,その限りで出稼型仮説に適合的であったが,これと比較すると,都市下層のそれは全く対照的な形状を示していたといえよう。また,単身の青少年労働者が相当男子に偏っていたため,東京市全体の男女比(女子100に対する男子の数値)は戦前を通じて110を上回っていたのに対して,都市下層の男女比は100から105の間に収まっていた。このように東京市全体との対比からも,少なくとも明治末以降の都市下層の人口の態様は世帯の在り方との関連で理解されなければならないと考えられる。
 人口移動に関してはほとんど資料が得られないが,確定的な事実だけをみておこう。明治末から大正初頭においては,都市下層の世帯主の約7割は地方生まれで,世帯形成後の挙家離村型は少なく,そのほとんどが単身で流入して東京市内で世帯を形成するものであった。このような性格の世帯主は,その後漸増して,昭和期に入ると約8割に達した。東京市内生まれの世帯主は約3割から約2割に減少したのである。また,昭和初期における都市下層の世帯主の東京市内での平均居住年数は,東京市外生まれで大体15年,東京市内生まれを含めると,20年程度であり,その最頻値は5年ごとに区切ると5年以上10年未満であった。人口移動の視点からも,都市下層世帯の平均像として,単身流入者が世帯を形成してから以後の状態を想起することができよう。
 つぎに人口の自然動態を検討したい。明治初年においては都市人口自体の自然増加率がなおマイナスであったといわれる2)。明治中期になると東京府の自然増加率は,全国よりも相当低い水準ではあるが,公式統計によると明らかにプラスに転じていた。しかしながら,断片的に散見できる資料から推測すると,明治中期の都市下層の自然動態は,死亡率が30‰を越え,出生率が20‰台で,自然増加率がマイナスであったと考えられる。ようやく明治後期,少なくとも明治末になると,死亡率が30‰を下回り,出生率が30‰近くになって,都市下層の自然増加率もプラスに転じたと推定される。その後明治期に想定されたような大きな変化はみられないが,大正中期から昭和期にかけて,死亡率が,東京府の場合19‰から13‰に,都市下層(「特定区域」)の場合22‰から16‰に,それぞれ低下した。これは都市下層を含む都市の乳幼児死亡率がこの間急速に改善されたためであるが,この結果,昭和初期の人口の自然動態は,東京府では出生率28‰,死亡率13‰,自然増加率15‰,都市下層(「特定区域」)では同じく30‰,16‰,14‰となった。
 ところで,昭和期に入って,都市下層の出生率が東京市全体のそれより高くなり,自然増加率も東京市全体をわずかに上回る年も出現したため,いわゆる「貧乏人の子沢山」という主張がなされたが,少なくともこの時期の日本の都市下層に関しては妥当ではない。何故なら,この主張は先述した都市下層と東京市全体との年齢別人口構成の相違を無視していたからである。事実,職業別,収入別の出生児数をみても,都市下層に該当する部分は必ずしも出生児数が多いとはいえず,むしろやや少なかったのではないかとさえ考えられる。したがって,被救護層にしばしば多子世帯が存在したことは,下層の結果多子であるというより,多子の結果下層に没落する傾向が強かったと理解する方が実情に近かったのである。
 いずれにしても,以上の都市下層の自然動態から次のことが確認されなければならない。明治中期には都市下層の人口は不断の流入によってしか維持できなかった。すなわち都市下層それ自体としての再生産は不可能であった。ところが少なくとも明治末頃になると,都市下層は,階層移動を排除した下層内部の人口集団を仮定しても,その人口を再生産できる条件,すなわち家族としての世帯を形成,維持,再生産してゆく条件を獲得していったのである。しかも,大正中期以降も都市下層は,家族としての世帯の維持,再生産機能を次第に強化していったのである。
 つぎに,以上の事情を,世帯の在り方に焦点をあてて検討しておきたい。まず世帯人員からみてゆくと,明治中期においては,確かなところで平均3.0人から3.5人の間というより,むしろ平均値そのものが地区別に大きく分散していた。実際この時期には,木賃宿の「雑居室」に単身者に混じって夫婦や子供連れの世帯が数多く居住し,また長屋の1部屋に複数の世帯が同居する場合も少なくなかった。したがって,平均世帯人員そのものがあまり意味をもたず,家族としての世帯が未形成で,なお流動的で一時的な性格の世帯が主流を占めていたと考えられる。ところが明治末から大正初頭になると,平均世帯人員は3.5人になり,地区別にみてもすべての地区の平均値が3.2人から4.2人に収まり,家族としての世帯の形成を前提として世帯人員が理解可能となった。このことは,後述する家族類型からも裏付けられよう。さて,明治末に3.5人であった世帯規模は,大正中期には約4人に拡大し,以後昭和期までほぼ4人の水準を維持しつづけた。明治末から大正中期さらには昭和期にかけて3世代世帯や複合世帯の増加は認められないので,この間の都市下層の世帯規模の拡大は,すでにみてきた世帯の家族的機能の維持,強化と結び付いていたのである。
 世帯の家族類型は,明治末から昭和期まで基本的には変化しなかった。すなわち,核家族的世帯が約8割で,単独世帯が1割弱という割合でありつづけた。例えば大正9年の東京市(旧市域)の場合,平均世帯人員4.6人,核家族的世帯65%であったが,これと比較すると都市下層の世帯は,より小規模で,しかも核家族的な形態が多かったといえよう。ただし昭和初期の被保護世帯では,「欠損」世帯や老人世帯の割合が若干増加したことにも注目しておきたい。なお,明治中期にはめずらしくなかった同居世帯は,明治末以降ほとんど皆無となった。
 ところで,家族としての世帯を形成し始めた明治末以後も,その世帯の社会的な在り方としては,法律婚ではない内縁関係が大正中期まで4割前後を占めつづけた。大正中期頃から都市下層は,それなりの生活の枠組みを形成して集住地区から分散し始め,昭和初期には内縁比率は1割以下に低下した。このことは,都市社会一般と比較してなお異質な「下層社会」と把握される余地を残していた都市下層が,都市社会の中に組み込まれ,その内部序列の相対的下位に位置する“都市下層”として理解されるようになったことを意味した。事実,昭和期に入ると,都市下層の「細民生活」は,「下層社会」としての異質性ではなく,「普通生活」との比較やそれへの接近という視角から捉えられることが多くなったのである。「下層社会」ではなく,都市下層という用語を本稿で使う理由も,以上の点にある。


1) このこととの関連でいえば,「細民」教育を目的とした「特殊小学校」や「尋常夜学校」の規模は,大正中期以降大幅に縮小した。
2) 前掲『数量経済史入門』57―58ページ。

4 住居および関連生活条件

 明治中期においてはなお流動的な生活を送らざるをえなかった都市下層が,明治末頃から家族としての世帯を形成し始め,大正中期から昭和期にかけてその枠組みを維持し強化していったことを,主として人口と家族の側面から確認した。その居住条件および関連生活条件,それを規定した職業の性格,さらにそれらの集約的表現としての都市下層の家計を,以下順に検討してゆきたい。まず,住居から始める1)。
図2 長屋の3様式見取図
 住居の様式は,明治中期においては,「共同長屋」,「棟割長屋」,「木賃宿」等が「普通長屋」と混在し,「貧民窟」は全体として雑多な様態を呈していた。長屋の三つの様式の見取図は図2に示す通りである。明治末から大正初頭になると,とくに下谷,浅草,本所,深川の新興4区では,「細民地区」内の住居様式は,「共同長屋」や「棟割長屋」の割合が減少して次第に「普通長屋」中心となり,大正中期には旧市域全体としても「普通長屋」が主流となった。そして大正末から昭和初頭になると,「不良住宅地区」内ではなお「普通長屋」が中心であったが,集住地区から分散した都市下層は,おおむね何戸建かの「借家」に住むようになったと考えられる。さらに昭和初期には,「不良住宅地区」においても「一―四戸建借家」が中心となり,都市下層の住居様式から「長屋」という表現自体が後退し始めたのである。昭和初期の「被救護世帯」の住居事例を示したのが図3である。
図3 昭和初期「被救護層」の住宅図の事例
 ところで,都市下層の住居様式のこのような変化は,後述する住居の水準と密接に関連していたのではあるが,様式そのものとしては何を意味していたのであろうか。「木賃宿」とくにその「雑居室」は,戦前期を通して考えると,家族としての世帯を形成しない流動的な短期滞留と結び付いていたので,ここでは考察の外におく。第1に「共同長屋」(俗に「トンネル長屋」)は,1棟の長屋が全体として1戸の「家」に擬せられ,長屋を構成する各部屋の出入口が長屋内部の廊下に面して配置されており,下層世帯の生活する個々の部屋が,擬せられた「家」に組み込まれるような様式であった。いわば「木賃宿」の「個室」をも想起させるものであった。第2に「棟割長屋」は,長屋全体としては擬せられた「家」の様式をとどめながらも,各部屋の出入口が直接外部に向かっており,この限りでは個々の部屋がより自立した形を打ち出していたといえよう。いずれにせよこれら二つの様式は,都市下層の種々の生活行動に,長屋の各棟に依存する共同単位での性格を強く付与したのである。第3に「普通長屋」は,あたかも「共同長屋」が内側の廊下から2分されたような形で,各部屋がただ横1列に連なっただけの様式であり,長屋形式としては可能な限り個々の部屋が自立性を明確にしていた。しかし「普通長屋」の1棟1棟は,採光を考慮して同じ向きに配置されていたわけではなく,土地の効率的利用のために一方で背中を接し他方で向かい合うように並んでいた。そして棟と棟とが向かい合って生じた細長い空間は,公的な通路としての機能にとどまらず,私的な日常生活の行動が各部屋に収まり切らないで外にはみ出すために,互いに共同の生活の場としての性格を帯びざるをえなかった。「普通長屋」に住む下層世帯は,長屋の棟からは比較的自由になりながらも,なお集住地区の共同性に大きく依拠していたのである。「産業革命」後から大正後期まで続いたこの様式は,戦前期の都市下層の基本的な住居様式であったといえよう。最後に「一―四戸建借家」は,長屋形式から完全に解き放たれ,しかも多くの場合,従来の集住地区の外に散在していた(もっとも散在の仕方自体は「工場地域」中心に分布していたことはすでに述べた通りだが)。したがって下層世帯は,「一―四戸建借家」に至って初めて,長屋の棟や集住地区の共同性から自由となり,少なくとも住居様式の上では,自立性を明らかにし,都市の公的な空間に直接対峙するようになったのである。と同時に,伝統的な共同性から切り離されて,孤立分散して居住するようになり,このような在り方の下層世帯を何らかの形で社会的に把握し組み込むことが政策的課題ともなった。すでに進行していた町内会の組織化や2),より直接的には方面委員制度の整備の開始は,上記の事情とも対応していたのである。なお,都市下層においても「一―四戸建借家」が主流となり,集住地区が非常に限られた存在となった昭和初頭から,ようやく「不良住宅地区改良事業」すなわちスラム・クリアランスが日本において本格的に始められたことにも注目しておきたい。
 二つの共同性から自立性もしくは孤立性への以上のような住居様式の変化は,都市下層が家族としての世帯を形成し維持し展開していく動きと,タイム・ラグを伴いながらも密接に対応していた。さらに様式の変化は,当然ながら住居水準や住宅関連設備の変化を,結論を先取りするならそれらの向上・改善を引き起した。
 部屋数と平均畳数(実際に敷いてあるか否かにかかわらず畳を敷くことの可能な居住空間を意味する)を振り返ってみよう。明治中期では,木賃宿の「雑居室」や1部屋での同居を考慮しないと,1部屋で3畳または4畳半中心であった。明治末から大正初頭には,都市下層全体の平均としても,1部屋で4畳半となり,大正中期では,同じく1部屋で,4畳半と6畳の2山分布となって平均5畳であった。大正末から昭和初頭の「不良住宅地区」では,1部屋中心で6畳,昭和初期の「不良住宅地区」では,2部屋中心となり大体7畳から8畳が平均であった。明治中期と比べると,部屋数,畳数ともに昭和初期にはほぼ2倍の水準に達していたのである。ちなみに,昭和5年の東京市(旧市域)の「普通住宅」は,3室から4室中心で大体15畳前後が平均であり3),これと比較すると都市下層の住居水準は大きく下回っていた。
 各種の住宅関連設備がほぼ都市下層一般に普及した時期をあげておこう。明治中期には台所や便所はほとんど共同であったが,明治末から大正初頭には台所が専用となり,大正中期には便所もほとんど専用となった。また従来何も敷いてなかった板間にも,明治末から畳付が増え始め,大正末には大体畳付となった。さらに,押し入れ付は大正中期から,窓付は昭和初期から,それぞれ拡がり始めた。都市環境との関連では,旧市域の下層世帯に電灯および共同水道が普及したのは大正中期,新市域の場合は大正末頃からであった。特に電灯は,灯数や燭光数は少なかったとはいえ,他の都市諸階層とほとんど同じ速度で普及した。いずれにしても,昭和期の都市下層の住居は,部屋の設備が皆無に近かった明治中期の状態から大きく変化して,種々の設備が整えられるようになったのである。
 以上のような住居の変貌にともなって,家賃の支払方法や木賃宿の性格も変化した。
 家賃の支払方法は,明治中期ではほとんどがその日払いであったが,明治末から大正初頭には6割が月払いとなり,大正中期には下層世帯全般にほぼ月払いが浸透した。このような支払方法の変化は,下層世帯の家計構造の性格を物語るとともに,都市において下層が世帯を形成し,維持し,展開し始めていたことの証左でもあった。昭和恐慌期に収入水準が実質的にも低下した際に,都市下層がとった家計行動の1つは家賃の長期的な滞納であったが,これは下層の都市定着の延長上に理解されねばならず4),短期的な滞留が主流であった明治中期には想定不可能であった。
 木賃宿の性格も変わった。「貧民窟」といえばそこに必ずといっていいほど木賃宿を含み,雑多な景観を呈していたが,明治20年の宿屋営業取締規則から次第に木賃宿の分布地区が制限されてゆき,明治末には「細民地区」が,木賃宿中心のものと,長屋だけで構成されるものとに分化され,その後,木賃宿中心の集住地区の相対的地位はますます低下していった。それ以上に重要なのは,明治中期には男女の単身者や種々な形態の2人以上世帯等,多様な宿泊者が混在していたが,大正中期になると木賃宿自体の性格が「男子独身者の宿」に限定されてきたことである。すなわち,家族としての世帯を形成し始めた都市下層世帯が木賃宿への滞留を経ないで長屋に居を構えるようになると,それまで都市下層の短期流動的な生活に応じていた木賃宿の幅広い機能が限定され,その利用者の多様性も失われたのである。以上のような木賃宿の地位の相対的低下とその性格の限定は,明治後期以降東京市の人口が急速に増加したにもかかわらず,木賃宿の軒数には大正・昭和期を通じて大きな増減が認められなかった事実によっても裏付けられよう。
 ところで,昭和恐慌期には家計の赤字や家賃の長期滞納に耐え切れなくなった下層の一部が市街地の周辺に「野宿」をして出現し,これが日本の「下層社会」の生活水準の「絶対的」もしくは「原始的」低さとして論じられた。しかしながら,世帯を構えて定着し始めた都市下層が,過渡的な状態であった短期流動的な生活に逆戻りしないために(事実,この時期に木賃宿の軒数も宿泊者も目立っては増加しなかった),形成し展開してきた生活の枠組みを維持し尽そうとしたにもかかわらず維持し切れなくなった結果,過渡的な生活段階を通り越して,「野宿」や帰村という現象が生じたのであって,決して「低さ」一般として理解すべき現象ではなかった。都市社会自体も流動的な生活を相当量許容する機能をすでに失っていた。生活崩壊に向かうにしろ,あるいは条件を得て生活再構成に向かうにしろ,「野宿」は局部的,一時的な住現象にとどまったのである。
 最後に,これまで述べてきたような住居の内部に見出される都市下層の生活用具について一二言及しておきたい。明治中期の都市下層は,旅行に必要な程度の生活用具しか持っていなかったといっても過言ではなかった。例えばふとんを所有せず,「ふとん損料貸」を利用することも多かった。ふとんを所有する場合でも,いわゆる「上げ下げ」という形で,朝にふとんを質屋に入れてその日の生活費にあて,夕に稼いだ日銭でそのふとんを質から出すようなことも少なくなかった。また,春には冬物の衣服を質に置き,寒さが訪れてようやく戻すという質屋の利用も散見された。ところが,明治末から大正初頭には,下層世帯のほとんどがふとんを所有するようになり,質屋の利用の仕方も,上記のような短期または長期のいわば定期的繰り返しから,臨時的な出費に際しての利用へと変化した。したがって,公益質屋が設置され始めた大正後期には(公益質屋法は昭和2年に公布),すでに都市下層は質屋を恒常的には必要としなくなっていた。大正中期になると下層世帯は,食卓や食器棚や火鉢も大体所有していて,以後,徐々にではあるが生活用具を整えていったのである。
 生活用具とはいえないかもしれないが,都市下層世帯における仏壇と神棚の存在にも注目したい。明治中期にもすでに「繩をもって仏壇を掲[ママ](つる)し,亦は古葛籠を掃(きよ)めて神躰を安置し5)」と記述され,明治末および大正中期には,下層世帯の半数程度が仏壇と神棚を保有し,さらに昭和初期になると,「被救護層」においてさえ仏壇と神棚の保有率はそれぞれ約8割,約6割となった。戦前期を通じて「信仰アル」世帯が2割から3割にすぎなかったことや,他の生活用具の所有状況を考え合わせると,仏壇と神棚の保有率は意外に高かったといわねばならない。このことは,家族としての世帯の時間的(出自),空間的(都市社会内)位置付け(「われわれはそこから来てここに在るのだ」)に対する関心の強さを示していると考えるほかないように思われる。おそらくそれは,世帯を構えて何とか都市で生活してゆこうとする思いの強さの象徴であったかもしれない。そしてそこには,その過程で失った者たちへの思いも込められていたにちがいない。


1) 大正中期までの都市下層の住居論については,石塚裕道「都市下層社会と『細民」住居論」(国連大学 日本の経験プロジェクト 研究報告)も参照されたい。
2) この点に関しては,中村八朗「戦前の東京における町内会」および「町内会の組織と運営上の問題点」(いずれも前出国連大学研究報告),田中重好「大都市における町内会の組織化」(慶応義塾大学大学院法学研究科論文集,昭和54年度)を参照。
3) 東京市社会局『東京市住宅調査』昭和6年,「統計概況」9―10ページ。
4) 社会政策的背景としては大正10年に公布された借地法,借家法が,具体的な場面としては家主との関係が考慮されねばならない。
5) 乾坤一布衣「最暗黒之東京」(西田長寿編『都市下層社会』)19ページ。

5 職業上の特徴

表2 都市下層の職業の種類
 都市下層の職業の特徴を,世帯主,配偶者(ここでは妻とみなす),子供の順にみてゆきたい。その前に,世帯全員の職業の種類を示したのが表2である。この表を掲げたのは,都市下層の職業の種類を最も詳細に分類したものの一つであること,明治期と昭和期の特徴にも通じる大正中期の資料であること,これら二つの理由による。一見して,日常生活に直接関係する消費財しかも伝統的な消費財の製造と販売の職種が多いことに気づく。事実この職業分野は,後述するように,景気変動に鋭く影響される都市下層の職業構成にあって,たえずその下支え的な役割を果たしていたのである。このことはまた,都市下層や労働者層が家族として定着し始めたために生じる消費の着実な増加とも密接に関連していた。なお本稿では戦前期を通観するために,職業構成を工業型(工場職工を別に計上),力役型(日雇的力役を別に計上),雑業型,そして無業(失業を含む)に類型化したが,三つの職業類型の内容を表2によって大まかに説明しておこう。工業型は,「土木建築業」を除く「工業」のほとんどがこれに当たり,この中で明らかに工場職工と認められるものを再分類した。力役型には,「土木建築業」,「交通業」のほとんどと,「其他の有業者」のうち力役的な「人夫」等の職種が含まれ,この中で「日傭人夫」に代表される日雇的力役を再分類した。また雑業型は,「商業」,「公務自由業」,「家事使用人」のほとんどと,「屑拾」等「其他の有業者」の一部,さらに「工業」や「交通業」でも雑業的とみなせる職種(例えば「其他の工業」の「羅宇換職」は行商的要素が強かった)が含まれた。なお,「不明」や「官公吏」,「会社員」等は分類不可とした。
図4 世帯主の職業類型の推移
 まず世帯主の職業構成からみてゆこう。上記の方法で明治末から昭和初期までの職業類型の推移を示したのが図4である。各時期の類型の特徴を概観する。確実な資料がないので図示できなかったが,明治中後期は,明治20年代の雑業型と力役型が相半ばする状態から,明治30年代にかけて次第に力役型が増加し,さらに日露戦争後には工業型が増加して,図4の明治末―大正初頭に至ったと推測きれる。明治20年代の代表的な職種は,極言すれば「屑拾」,明治30年代のそれは「人力車夫」であったといえよう。明治末―大正初頭の特徴は,「人力車夫」中心の力役型がなお大きな位置を占めてはいたが,何よりも戦前(昭和13年を除く)を通じて工業型とりわけ工場職工の比率が最も高いことであった。したがってこの時期の代表的職種としては,各種の「職工」をあげねばならない。形成期工場労働者のダイナミックな性格は,都市下層内部にも少なからぬ影響を及ぼしていたはずである。大正中期には,戦後好況によって日雇的力役型が急激に増加し,構成比にして以前の3倍以上に達した。これは,大経営をはじめとした多数の工場労働者が都市下層から上昇,分離したために,都市下層の職業が力役型にいわば封じ込められたという側面をも示している。しかし同時に,第一次大戦後の都市社会の本格的な展開にともなう労働需要の増大によって,都市下層は,「日雇人夫」を中心とする就業機会と,従来に比べて相対的に高い収入とを得ることになった。しかもこのことを条件として,都市下層はこの時期に,労働者にやや遅れ,また労働者とは異なった形ではあるが,家族として都市に何とか定着する生活の枠組みを形成し始めるのである。他方この大正中期は,日雇的力役の膨張の結果,雑業型が戦前期で最も圧縮されるとともに,従来なお雑業型の内部に一定の割合を占めていた都市通過的な職種群(例えば「遊芸人」等)がさらに後退し,雑業型が全体として都市の一定地域を活動の場とする都市定着的なものによって構成されるようになる転機でもあった。すなわち,労働者層や都市下層が量的規模をともなって都市に定着し始めたにもかかわらず,その日常的な消費財の販売を定設された小売店で行えるほど地域が整備されていなかったために,その販売には「行商」や「露天商」(「露店」)が必要とされ,しかもそれは都市下層の就業分野を拡大することにもなったのである。ところで大正中期の代表的職種は,いうまでもなく「日雇人夫」であった。
 大正末―昭和初頭の世帯主の職業類型は,日雇的力役型にみられる戦後好況の影響の残存と,雑業型や無業に示される昭和恐慌への兆しとによって混成されていた。昭和初期をみると,まず昭和4,5年には,日雇的力役の割合が急激に低下して,昭和6年には,無業の割合が実に22%に達し,工業型と力役型(日雇的力役も)の割合は戦前期を通して最低となった。昭和6年の都市下層世帯主の5人に1人は職に就いていなかったのである。そのため次節で述べるように,都市下層世帯の家計構造上の厳しい緊張は昭和6年以後数年にわたって続くことになる。ところで,この時期の無業のほとんどは失業によるものであった。戦前の下層調査では職業移動への関心が皆無だったが,昭和6年の「要保護世帯調査」には失業前の職業が明らかにされていた。それによれば,失業前の職業類型は圧倒的多数が力役型と工業型で,雑業型は,不況下においても細々と就業し続けられ,失業として顕在化することが少なかった。なお,昭和6年の職業上の性格は,もちろん「失業」によって代表されるべきであろう。昭和6年の満州事変以後,軍事費の膨張を中心として重化学工業が飛躍的に拡張する(例えば図7の東京府男子職工数の動きに示される)が,そのような情勢は,都市下層の職業類型にも徐々に反映された。昭和8―9年には,無業が半減して,その分その他の3類型が増加する。そして,昭和恐慌期に増勢を示した雑業型は,この時期までその割合を高め,戦前において最も高い構成比に達した。この意味で,昭和8―9年の代表的職種は,各種の「行商」や「露天商」(「露店」)であったといえよう。日中戦争が開始された翌年の昭和13年になると,無業はもちろん雑業型も圧縮され,都市下層の職業類型も工業型と力役型(日雇的力役の比率が高い),とりわけ工業型中心に構成されていったのである。
 以上の各時期の検討から,戦前期の都市下層世帯主の職業類型の特徴を以下の3点に要約することができるであろう。まず第1は,工場職工の割合が明治末―大正初頭を頂点に確実に低下してきたことである(昭和13年は考慮しない)。このことは,先駆的な事例を除いて明治中後期の工場労働者が生活水準としては都市下層と大差なく,明治末―大正初頭にはかなりの工場労働者が都市下層から分離し始めるもののなお月収20円以下の部分では都市下層と同質の支出構造であり,大正中期に至って大経営を中心とした工場労働者が全体として固有の生活構造を形成し都市下層から分離してゆく,という事情に照応していた。すなわち,都市下層は大正中期以降,工場労働者とは異なった層としての性格を明確にしていったのである。しかもそれは,工場労働者とは異なった枠組みで,すでにみてきたように都市下層が何とか定着を開始したことを意味した。
 第2は,工場職工を除く工業型,日雇的力役を除く力役型,そして雑業型,これら3つの構成比が図示した時期を通じてあまり大きく変化しなかったことである。工場職工を除く工業型は消費財関連の在来産業が中心で,雑業型もおおむね伝統的消費財の販売が中心であった。また,日雇的力役を除く力役型は,「人力車夫」中心から,大正中期以後,各種長屋や借家に代表される和風小住宅の建築の担い手(例えば「大工」,「左官」等)中心に移行した。これらの特徴は,その対象が住宅を含めた消費財,しかも伝統的消費財中心であり,その生産と販売が,移入技術の変容や部分的受容を伴いながらも,なお全体として労働集約的な伝統的技術に基づいていたという点であった。このような消費財中心の在来産業は,都市下層に端的に示されるような都市諸階層の定着とその規模の増大に対応して,拡大し,その雇用を増加させ,景気変動に比較的影響されずに都市下層に就業機会を提供しつづけたのである1)。
 第3に何よりも強調されねばならないのは,各時期の検討から明らかなように,職業類型の構成全体が景気変動に強く左右されていたことである。このことは,大正中期以後の日雇的力役と無業との相反した動きに鋭く示されていた。さらに工場職工の上昇・分離,日雇的力役以外の力役型や雑業型内部の職種の盛衰をも考慮すると,都市下層の職業自体の変化の激しさといったほうが適切かもしれない。都市下層は,経済発展に伴う変動をその職業構成に最も鋭く投影させており,その意味で発展過程に最も深く組み込まれていったのである。このことは,都市下層世帯主の貧困原因(「主因」もしくは「単因」)の変化にも反映されていた。すなわち,明治末では「社会関係」が貧困原因の約3分の1に過ぎなかったのに対して,昭和初期には「社会関係」が約4分の3にまで上昇したのである。いずれにしても,各時期の職業類型が景気変動を含む経済発展に強く影響されていたことを強調しておきたい。
表3 就業形態別職業構成
 世帯主の職業上の性格として,最後に,就業形態と年齢別特徴をみておこう。表3は,地区が限られてはいるが,大正末―昭和初頭の就業形態を表したものである。それによれば,「自営」は約3割にとどまり(工業型に限定すると約2割),7割以上は「被傭」という雇用される就業形態であった。雇用される者の割合が意外に多かった点に注目しておきたい2)。年齢別特徴を明治末から大正中後期の資料によってみると,工業型,力役型,雑業型の順で年齢構成が高くなっており,逆の順序で収入の水準が高くなっていた。このことから年齢と収入の逆相関が想定されるが,その状態を示したのが図5である。これは,「細民」世帯主の月収と旧市域男子の1日平均実収賃金(30人以上使用工場)とを20歳代の収入を100とした指数で図示したものである。工場労働者が,40歳代はじめまで上昇しているのに対して,都市下層は,20歳代から下降しつづけ,50歳代には約8割にまで低下していた。このことは,都市下層の生涯的な生活見通しと生涯的な階層移動との二つの視点から理解されるべきであろう。前者は,子供の早期排出による世帯の小規模化あるいは多就業世帯の増加,加齢に伴う生計費の増大による支出構造上の緊張等,工場労働者より大きな生活上の困難を意味した。後者は,20歳代都市下層の階層的上昇の可能性や,反対に30歳代以上の他の諸階層からの階層的転落の存在を想定させた。いずれにしても都市下層は,家族としての世帯を形成したにもかかわらず,工場労働者と比べるとなお不安定な生活を余儀なくされていたのである。
図5 都市下層と工場労働者の年齢別収入
 妻の就業状態の検討に移ろう。まず明治中期には,妻の有業率は約8割で,その職業類型は雑業型中心であり,明治末―大正初頭には,有業率は約7割で,工業型中心に変わり,収入が低くとも可能な限り就労するという状態が続いた。なお,この時期以降戦前を通して,内職を含む工業型が妻の職業類型の中心となった。そして大正中期になると,妻の有業率は5割を下回り,収入の低い片手間的就労が淘汰されてゆき,大正末から昭和初期には,有業率は約2割5分にまで低下した。昭和初期には,不況の影響や多就業世帯が月収のみによる下層調査の基準を上回っていたこと等を考慮しなければならないものの,戦前期を通観すると,妻の有業率は確実に低下していったのである。都市下層世帯は工場労働者に比較すると確かに多就業ではあったが,単に多就業一般だったのではなく,家族としての世帯の形成と展開につれて,下層世帯内の妻がその活動の範囲を家事や育児に狭める傾向さえ見受けられ,多就業の性格自体が変化していたのである。
 最後に,子供の就業状態をみておきたい。明治中期には,子供の有業率は約5割で,職業類型としては雑業型を中心に10歳未満から何らかの形で就労していたため,都市下層を世代的にも再生産する可能性が強かった。例えば「殊に男児女子とも已に七八歳に達すれば,紙屑を拾ひ古木を集め若しくは小堰に鱒を捕へても,幾分か親の手助けと為る者なりと云ひ3)」という記述にも,その頃の子供の様子がうかがえるであろう。ところが,明治末―大正初頭以後になると事情は一変する。子供の有業率は15%かそれ以下で推移し,工場職工を主とした工業型が中心となり,10―12歳以上で次第に有業化するようになり,このために,世代的には階層的上昇移動の可能性が強くなった。このような有業率の低下と有業化年齢の上昇は,すでに述べた就学率の飛躍的向上と裏腹の関係にあり,社会政策的には工場法(明治44年公布,大正9年施行)の影響とも無関係ではなかった。以上のような明治末以後の都市下層の子供の就業状態の変化は,この時期に非現住人口の比率が低下していたことを考え合わせると,都市下層世帯がその子供を被扶養者としてより長く世帯内に留まらせることを,すなわち都市下層世帯の家族としての機能の強化を意味した。その結果,子供の生活も昭和初期には大きく変化していた。
 一般に被救護世帯にとっては,娯楽機関の利用の余裕なく,僅かに子供のための紙芝居を覗き,井戸端会議を行い,飲食物を購う程度のもので,映画も児童乃至は労働する青年処女のみに限られている状態である4)。幼児の好む菓子は,お好み焼,おでん,飴玉,肉桂水,ラムネ(主に夏期),せんべい,その他主として甘い駄菓子類であり,之等を購買するのは附近の駄菓子屋又は絶えず彼等の嗜好をそそるおでん,お好み焼,飴,紙芝居等の行商人等からである。尚果物を嗜好する者は極く稀であるが,これは主として,果物は比較的高価であり,彼等の購入する駄菓子屋には多く準備されていない為だと思われる。次に幼児の最も多く購買する玩具は男児にあっては,紙メンコ,紙製肩章,紙製鐵砲,ベイ独楽等であり,女児にあってはブリキ製庖丁,ガラス製オハジキ等である5)。明治には種類が少なかった駄菓子も,大正末から昭和初期になると,都市貧困層の増加(正確には,都市下層世帯の生活自体の変化―引用者)と共に多種多様になった。その頃が,都市での駄菓子と駄菓子屋の全盛期である。内職にいそがしい裏長屋のおかみさんなどは,「一銭やるから表へいって遊んでおいで,夕方まで帰ってくるんじゃあないよ」と,子どもを戸外へ追いだした。子どもは一銭銅貨をにぎって駄菓子屋へ駆けつけると,あんこ玉にしようか,芋ようかんがいいか,鉄砲玉=丸い飴玉にしようかとまよった。……私が昭和初期に毎日のようにいった駄菓子屋は,今の東京の荒川区西尾久の,尾久西小学校の裏門の通りにあった。……低い屋並みとトランスを重たげにかかげた木の電柱が,やや傾いて立っている上に,薄墨色の曇り日の空がひろがっているのが,私が育った尾久町のその頃の特徴ある風景だった。それは,少年の私にも貧しさの悲哀を感じさせる詩情をふくんでいた6)。
 これらに描かれた子供の世界は,親の手伝いをして働き,ある時は乞食さえしていた明治中期の子供像と著しくかけ離れていた。そこには,すでにみてきた明治期以来の都市下層の生活自体の変化が集約的に現れていたのである7)。さらに,昭和初期の都市下層世帯のこれらの子供達が,同じく都市工場労働者の子供達とともに,第二次世界大戦後の日本の経済発展において,初発の工業労働力の中心的な担い手となったことも想起しておきたい。


1) 「全部雇用」仮説による理論的説明としては,中村隆英『戦前期日本経済成長の分析」第7章を参照されたい。
2) 同じ表から,妻の就業形態は逆に「自営」が過半を占めていたことが分る。
3) 鈴木梅四郎「大阪名護町貧民窟視察記」(西田長寿解説『明治初期の都市下層社会』)145ページ。
4) 東京市社会局『被救護者に関する調査昭和9年度』(昭和10年),44ページ。
5) 東京市社会局『昭和9年度 要保護世帯に於ける乳幼児の生活状態』(昭和10年),46ページ。
6) 以上,加太こうじ『下町で遊んだ頃」154―57ページ。
7) とくに,昭和初頭から都市部の乳幼児死亡率が改善されたことに注目したい。例えば,乳児1ヵ年未満死亡数の出生数に対する千分比を示した以下の数値からも,そのことが実証されるであろう。明治後期には東日本の水準にあった東京府の数値は,昭和期になると全国さらには西日本をも下回り,表示の期間に乳児死亡の比率は半減したのである。この事情は,都市下層において,はるかにドラスティックであったと想像される。

6 家計構造

 これまでいくつかの視点からみてきた都市下層の生活状態の変化を,ここではその家計の内部に立ち入って検討してみよう。
 まず収入からみると,都市下層世帯の収入水準の動きを消費に引きつけて示したのが図6である。一見して下層世帯の収入の思いのほか速かな上昇が明らかであり,戦前期において都市下層の収入,ひいては生活水準がただ単に低い水準に押しとどめられていたわけではなかったことが理解できる。明治後期までは収入水準が着実に上り,これを条件に都市下層が家族としての世帯を形成しようとし始めた明治後期から大正前半期には,収入水準がむしろ停滞気味で,下層を中心とした都市諸階層の動きと収入水準との間に大きな摩擦が生じた。大正中後期には,工場労働者に少し遅れてではあるが,都市下層の収入は急激に上昇し,この水準は昭和初頭までほぼ持続された。しかし昭和初期になると,昭和4年頃から低下し始め,6年から9年頃がボトムとなったが,明治期の水準にまで下ることはなかった。むしろ,明治末以降形成してきた家族として都市に何とか定着する生活の枠組みを維持するために,収入の低下に対して,赤字を引き起こしてまでも支出の水準を維持しようとし,また赤字にならない場合も支出構造上の緊張を余儀なくされた。そして,枠組みを維持するためのこのような生活上の困難が限界を越えたとき,「野宿」や,帰村や,あるいは家族の崩壊という事態を招来したが,それらが大規模に固定化する前に,軍需を軸とする好況によって都市下層の雇用や収入の状態が一時的にではあれ改善され,図示したように昭和13年頃には大正末の収入水準に復帰していったのである。なお,都市下層世帯の収入の中に占める世帯主収入の割合は,明治中期から昭和初頭まで大体8割で推移し,昭和初期には恐慌の影響で約1割低下して7割程度になった。
図6 都市下層世帯の収入の推移
 収入の上で1つの画期となった大正中期の都市下層の様子を紹介しておこう。
 「大正四年の不景気時代と比較すれば(大正9年の収入は―引用者)三倍強の増額となった。」「曽ては飢に襲はるまゝまづいも汚いも弁へないで,百匁一銭の残飯で飢を凌いだ窮民も好景気となっては残飯屋を振向きもしない。」「……高利に悩まされた細民も,斯く好景気となれば恁うした高利貸に依って生計難を凌ぐ必要もなく……」「……曽てはボロ着一枚が精々であった輩らも古着を需め,次に新らしい衣類を拵へる。土鍋は鉄鍋に改まり,つづらは箪笥に代はるまで面目を改めたものである。」「細民の人々も観劇に活動に娯楽の場所に足を向くるもの多く……。……細民向きの活動写真館は畢竟するに細民の享楽的雰囲気がほとばしった余波とも思われる1)。」
 このような状態は,単なる一時的な「陶酔の夢2)」ではなく,下層世帯の家族としての都市定着の過程に確実に組み込まれていったのである。
表4 明治期の都市下層の支出構造
 支出の構造に移る。表4は明治期の都市下層の支出構造を示したものである。明治20年代,30年代ともに飲食物費の割合は7割かそれ以上で,主食費の割合も5割から6割を占めており,家族としての世帯の形成が困難な短期流動的な都市生活を想定させる支出構造であった。また,明治30年代にかけての実質消費水準の上昇分のほとんどは食事内容の改善に充てられたと考えてよく,その結果,明治30年代半ばには雑穀が後退して米中心の主食になっていたと推測される。このようにして都市下層は明治末頃には家族としての世帯を形成し始めるが,まさにこの頃収入水準の停滞に直面し,都市にかなりの期間滞留するための社会的必要経費への支出がむしろ食費を圧迫するという現象を呈した。明治末の都市下層世帯のエンゲル係数が,従来の7割台から6割台に低下したことの意味は,このような文脈で内在的に理解されるべきであろう。しかも,このような支出構造上の緊張は,形成期の工場労働者にも見出された3)。都市下層を中心とする広範な都市諸階層の定着模索期における生活構造の緊張こそが,明治30年代末から大正7年の米騒動にいたる都市騒擾の根本的な原因でもあった4)。都市下層の生活上の緊張は大正7年頃まで続くが,その時には生活破壊に近い状態に陥っていたのである。
 以上のような緊張の時期を経て,大正8年頃から都市下層の実質消費水準も急速に上昇した。その家計構造を示したのが表5である。大正9年には,消費水準の上昇にともなって,それまで圧迫されていた飲食物費の割合が回復して再び7割台になり,食事内容も,1日3食と米飯が普及し,副食も多様化し始めて,かなり改善された。大正10年になると,なお消費水準の上昇が続き,エンゲル係数は6割強にまで低下し,残りの部分を都市定着に最低限必要な社会的諸経費に充てることがようやく可能となってきた。都市下層世帯が,この時点で,工場労働者にやや遅れ,しふも工場労働者とは異なった構造ではあるが,それなりの定着に見合った家族としての生活の枠組みを何とか形成し始めたと考えても大過ないであろう。事実このことは,すでに述べた人口および世帯の性格,住居および関連生活条件,職業上の特徴とも整合していた。さらに,関東大震災後の大正末―昭和初頭の支出構造も,表6に示すように,実質消費水準,エンゲル係数とも大正10年とほとんど同じであり,都市下層の形成された生活構造が,その後も約10年にわたって維持されていったことを確認できるのである。
 次に,昭和初期の都市下層の家計状態を示したのが表7の(1)(2)である。資料が不揃いであるが,昭和恐慌の影響を強く受けて,昭和6年頃から昭和9年頃まで,赤字が恒常化し,実質消費水準も1割から2割低下したことが分かる。そして,飲食物費の割合が5割以下に下った昭和6年の支出構造からは,消費水準の低下にともなって逆にエンゲル係数も低下し,都市下層が従来の生活の枠組みを維持しようとして構造上の緊張を引き起こしていたことが想定可能となる。このことは,実質賃金の低下に対して工場労働者が,昭和7年頃約1年間にわたって生活構造の抵抗を起こしたことともあるいは連動するのかもしれない5)。それはともかく,このような都市下層の生活構造上の緊張は,当時の調査報告等においてもエンゲル法則の静態的(収入階級別)妥当性への疑問としていくつか論じられてはいた。
表5 大正中期の「細民」の家計構造
表6 大正末―昭和初頭の都市下層の家計構造
表7 (1)昭和初期の都市下層の収支状態
表7 (2)昭和初期の都市下層の収支状態
 ……各費目各々が実支出中に占むる割合の変動を収入階級別にみるに,飲食物費は極めて不規則の状態を示している。……貧窮生活の異常性に依る点が多分にあると考へられるのである6)。収入階級別による飲食物費の割合は規則正しい逓減を示すのが一般原則であるが,茲では極く低い収入階級の部分では反って逓増すると言ふ新しい事象を暗示している7)。
 ……或る程度の収入階級に至るまでは夫れ以下に於いて犠牲にして居た飲食物費を取り返すために反って逓増し或る限界点に至って初めて逓減すると言うことが事実なのであるまいか8)。
 本稿では昭和初期のこの問題を,都市下層全体の動態的な過程として考察したい。そのための資料が図7と,表8の(1)(2)(3)である。後者は家賃が低目であるが,11年間ほぼ同一の調査対象であるという利点があった。それによれば,実質消費水準が昭和6年から昭和9年にかけて低下し,それと同時に飲食物費の割合も昭和10年まで約5割に下がり,この間食料の実質消費も押さえられ続けた。都市下層の場合,工場労働者や「新中間層」では約1―2年とされた支出構造上の緊張が,より早く現れより遅くまで大体4―5年もの間続いたのである。その後軍需を中心とする一時的な好況のもとで,昭和10年頃からの収入水準の上昇にともなって,昭和11年から昭和14年頃までは再びエンゲル係数が6割前後となり,食料の実質消費も回復した。都市下層のこのような鋭い長期にわたる生活構造の抵抗は何を意味していたのであろうか。それは,抵抗の前提となる生活の枠組みの存在を,すなわち抵抗して維持すべき生活の枠組みがすでに形成され展開されていたことを鮮やかに裏付けていた。明治末頃から緊張の中に世帯を構え始めた都市下層が,大正中期にようやく家族として都市に定着しうる生活の枠組みを形成し,その後ほぼ10年にわたってそれを維持,展開したことはすでにみた通りである。家族として都市に在ること自体が困難であった明治中期以前の短期流動的な生活から,半世紀もたたないうちに,都市下層の生活は大きな変化を遂げたのである。昭和初期の収入水準の低下に対する支出構造上の緊張は,生活のこのような変化の結果であった。むしろこのような変化の故にこそ,形成され展開された生活の枠組みを強固に維持しようとする鋭い志向が生じたのである。
表8 (1)昭和初期の共同住宅(もと不良住宅地区)居住世帯の家計構造
表8 (2) 昭和初期の共同住宅(もと不良住宅地区)居住世帯の家計構造
表8 (3) 昭和初期の共同住宅(もと不良住宅地区)居住世帯の家計構造
図7 昭和初期の物価,賃金,雇用の動向
 ところで,明治末から大正前半にかけての生活構造の緊張は都市諸階層がなお同質的な性格を有していた形成期の緊張であったが,昭和初期の場合,都市諸階層が異なった性格の生活構造を維持するためそれぞれに引き起こした緊張であった。この間都市下層も,家族としての世帯を個別的に形成するとともに,従来の共同性から一応自由になって集住地区からも分散し始め,いわゆる「下層社会」としての固有性を失っていった。生活構造上の抵抗にもかかわらず昭和初期には,明治末―大正前半期のような下層を主な担い手とした都市騒擾が現出しなかった理由は,さしあたり以上のような緊張の性格の相違と生活自体の在り方の変化にあったと考えられる。昭和期に入っていくつかの「市民闘争」が発生したものの,全体としてはそれぞれの世帯内のすぐれて個別的な生活構造の抵抗にとどまったのである。
 なお,昭和初期の都市下層がすべて大正末―昭和初頭からの同一世帯であったわけではない点に注意しなければならない。昭和初頭からの滞留部分は昭和初期の都市下層のおよそ半数にとどまり,残りの約半数は昭和恐慌期に下降したり転落したりして新たに都市下層となった部分であった。また都市下層内部でも,すでに述べたように構造上の緊張が限界をこえて事実上の生活崩壊に近い状態に陥る世帯も少なくなかった。このような階層移動や生活場所および世帯員の移動に思いをはせることはできても,それらを具体的に明らかにすることは資料的にもほとんど不可能である。言えるのはただ,生活崩壊に近い状態においてさえ,家族として都市にある世帯を形成もしくは維持しようとする志向が下層世帯を貫いていたが,このような志向は,約半世紀前にはそれほど当然のこととしては認められなかった,ということである。


1) 以上,草間八十雄『どん底の人達』昭和11年(林英夫編『近代民衆の記録4流民」「どん底街視察記録」471―72ページ)。
2) 同上書,473ページ。
3) 中鉢正美『現代日本の生活体系』127―31ページ。
4) 都市騒擾については,橋本哲哉「地方伝統的都市の下層民衆と民衆暴動」(国連大学日本の経験プロジェクト研究報告)をも参照。
5) 中鉢正美『生活構造論』150―60ページ。
6) 前掲『被救護者に関する調査 昭和9年度』70ページ。
7) 同潤会『不良住宅改良後に於ける地区内居住者生計調査報告書』(昭和8年)142ページ。
8) 牧賢一「生計費調査に現はれたる貧困世帯収支費目の分析」(『社会事業』第18巻4号,昭和9年)。

7 扶助体制――恤救規則から救護法へ

 最後に,戦前の扶助体制を簡単にみておきたい。恤救規則および救護法の実施状況を示したのが表9である。
表9 恤救規則および救護法の実施状況
 恤救規則(明治7年公布)は,「廃疾」者,70歳以上の老衰者,疾病者,13歳以下の幼弱者で,労働不能かつ極貧の独身者をその扶養対象とし,本人以外の家族が70歳以上または15歳以下で窮迫している場合は独身者の限りではないと定めていた。極言すれば,昭和6年までの扶助体制は,家族を形成しえない単身者および事実上崩壊した家族からの単身者とのみ関わってきたのである。このことはまた,家族としての世帯形成が困難な明治中期の都市下層の生活状態を,そのままの在り方で容認する姿勢を意味した。
 明治中後期の恤救規則の実施状況は,扶助率が0.3―0.4‰台,地方別には農村県中心(6大府県扶助人員の全国に占める割合は1割前後にすぎない)で,扶助理由別には「廃疾」,疾病が中心であった。明治41年の内務省通牒「国費救助ノ濫給矯正方ノ件」から大正末までは,扶助率が1‰前後から1‰台と極めて低い水準で推移するが,大正期に入って地方費による運用が増加すると地方別には6大府県の割合が高まり,扶助理由別には老衰の割合が若干高くなった。昭和期になると恤救規則による扶助率は0.2‰台に上昇するが,6大府県が2割前後で,「廃疾」・疾病と老衰がそれぞれ4割弱を占めるという構成は大正後期と変わりなかった。
 以上のような恤救規則の実施状況の特徴は,扶助の規模が極端なまでに制限されていたこと,都市下層への関心が皆無に近かったこと,の2点に要約できよう。少なくともその実施状況からみるかぎり,恤救規則を軸とした扶助体制は,都市下層にとっては「あってなきがごとき」制度であったといっても過言ではなかろう。事実,明治後期以降,行旅病人及行旅死亡人取扱法(明治32年公布)による東京市養育院(明治6年創立)への収容人員は,東京府での恤救規則の適用人員をはるかに上回っていたし,驚くなかれ,同じく収容死亡人員でさえ適用人員を上回っていたのである。先行する資本主義国が救貧法を「産業革命」期以降しばしば政策上の重要課題にせざるをえなかったのとは際立った対照をなしていたといわねばならない。
 それでは,このような極端な制限主義に基づく恤救体制が何故昭和初期まで存続したのであろうか。「農民層分解の不徹底」,「都市における隣保相扶」,「慈善的な政策思想」も確かにその条件ではあった。しかし,その存続を可能にした直接の理由は,すでにみたような性格の世帯としての都市下層の形成と展開であったと考えるべきであろう。このような都市下層の生活自体の思いのほか速かな変化こそが,「あってなきがごとき」恤救体制の存続を可能にした。その意味では,社会政策としての恤救体制は,都市下層の現実の動きに終始追従してきたのである。
 さて,救護法(昭和4年公布,昭和7年施行)の扶助対象は,65歳以上の老衰者,13歳以下の幼者,妊産婦,「廃疾」傷病その他心身障害により労働不能の者,幼児保育の母で,貧困のために生活不可能な者とされ,この対象規定自身がいくつかの点で恤救規則より拡大されていた。そして,あくまで個人を対象としていたが,恤救規則のように独身者とは規定せず,原則として扶養義務者が扶養できない場合と限定するにとどまっていた。救護法の運用に際しても,扶助対象は「該当する個人に限って之を救護し他の家族には及ぼさざる」ものの,貧困状態は「或る一家族(一世帯)を標準として考察すべきものであり,個人を標準として之を決定すべきものでない」とされた1)。
 救護法の実施状況をみると,まず扶助人員の規模自体が増大して恤救時代の10倍以上に達し,扶助率も3‰台に上昇した。地方別には,6大府県が4割前後と,割合にして以前の約2倍を占めるようになり,なかでも東京府は,実数にして以前のほぼ100倍に激増し,全国に占める割合でも,10%を大きく上回った。また扶助理由別には,老衰と「廃疾」・疾病の割合がともに低下し,幼者(幼弱)の割合が約2倍に上昇して4割程度を占めるようになった。要するに,救護法による扶助規模の大幅な拡大は,都市中心への,幼者中心への構成変化をともなって実現したのである。
 恤救体制から救護法体制への移行は,貧困の認定に際して「一般社会生活上必要と認めらるる2)」視点が救護法の説明において導入されたことに示されるように,貧困自体の社会的性格の変化でもあった。それは,救護法体制が,事実上崩壊した家族からの単身者ではなく,家族としての世帯内の幼者を中心とした個人を扶助しようとし,不十分とはいえ実際に扶助していた3)点にかかっていた。これまでみてきた都市下層の動きに即していえば,以下のようにいえるであろう。
 都市下層は,家族としての世帯を形成し,個別的な世帯として何とか都市で生活し始めるにともなって,それまでのように集住地区や長屋様式の共同性を必要とはしなくなっていった。これは,都市下層が経済発展の過程に極めて流動的な形で巻き込まれ,社会的な職業編成の最も開放的な位置に組み込まれることによって可能となった。こうして,都市下層は個々の世帯として都市社会に散在するようになり,具体的には,集住地区からの分散や集住地区の地域化(分散が一定地域に偏ること)という現象を呈した。その結果,都市下層は,従来のように具体的なイメージ(「集住地区内の安い家屋に住み,下級労働に就き,収入も低い」)で捉えられなくなり,他の諸階級とも比較可能な抽象的規定によって,しかも方面委員制度4)に示される組織的整備を前提として,初めて把握できるようになった。世帯人員別の「生活標準月額」(世帯の月収)によって,東京市全域の下層を全数(概数ではなく)把握したのが,昭和初期の要保護世帯調査系列であった。要するに,都市下層は,「下層社会」としてではなく,個別的な世帯として都市社会に組み込まれたのである。
 ところで,以上のような下層世帯が,昭和恐慌によって従来の条件を喪失して,それまで形成し展開してきた生活の枠組みを維持する困難に直面したとき,個別的ではあるが広範な規模で,生活構造上の抵抗が引き起こされ,生活の枠組みを維持しようとする強烈な志向が生じた。扶助体制の恤救規則から救護法への移行は,まさにこの点と深く関係していた。すなわち,個別的な世帯として社会に組み込まれた都市下層が家族としての生活の枠組みを維持できなくなった事態に対して,世帯内の個人を扶助対象とし,崩壊に直面した下層世帯を一応維持しようとした救護法体制が登場したのである。それ故に,救護法の実施状況も都市および幼者中心となり,扶助規模も飛躍的に拡大せざるをえなかった。以上のように明治中期以降の都市下層自身の生活の変化と重ね合わせると,恤救体制から救護法体制への移行は,扶助体制自体の重要な性格変化として理解されねばならないのである。


1) 中央社会事業協会『救護法の説明』(昭和6年)3ページ。
2) 同上。
3) 例えば,以下の事例をみられたい。
 東京市社会局『東京市方面委員取扱実例集』昭和4年(31事例)。同『被救護者に関する調査 昭和8年度』昭和9年(31事例)。同『被救護者に関する調査 昭和9年度』昭和10年(32事例)。なお,最後の調査報告では,被救護世帯が,「夫婦の世帯」,「寡婦,準寡婦の世帯」,「鰥夫・準鰥夫の世帯」,「老年夫婦の世帯」,「単身老年者の世帯」,「其他の世帯」という六つの「家族形態」に分類されていた(同書83―85ページ)。
4) 社会局社会部『方面委員制度概況 昭和8年度』昭和10年によれば,「方面委員の任務」として,まず第1に「社会調査」が,続いて「救護」,「連絡協同」,「社会施設の改善整備」があげられていた(同書,10―12ページ)。

むすび

 以上,明治中期から昭和初期までの都市下層の生活の在り方を六つの側面から検討してきた。そこから導かれた都市下層像は,単に脱落し保護されるだけの層ではなかった。また,「貧困」の深化をのみそこに見出すべき層でもなかった。そこには「近代」の過程に精一杯主体的に対応してゆく都市下層の姿こそが描かれるべきであり,そのことは,われわれが都市社会で生きてゆく姿を,実は最もプリミティブに示す軌跡でもあった。そこから得られた結論は,差しあたり以下の四つにまとめることができよう。
1) 都市下層の生活の在り方は,半世紀弱の間に急速な変化を遂げた。家族としての世帯を形成すること自体が困難であった都市下層は,世帯を形成して都市に何とか定着できる生活の枠組みを獲得し,さらに世帯を単位として家族の機能を強めながら,形成した生活構造を維持し展開していったのである。このことは,都市下層の生活イメージ自体の変化を,さらには日本の「近代都市」自体のイメージの変化をも意味した。
2) 都市下層は,住居や職業の分析で示したように,「下層社会」としての固有性を喪失して,あるいは「下層社会」としての完結性から脱出して,個々の世帯として都市社会の中にしっかりと組み込まれていった。都市下層の分布が集住地区から分散して都市全体の中でいわば地域化していったのも,また地域における都市下層世帯を対象とした組織や政策が体系化され始めたのも,そのことの表現にほかならなかった。
3) 家計構造の動きに現れたように,都市下層の生活変動は,タイム・ラグを伴いながらも,他の都市諸階層のそれと思いのほか連動していた。あえていえば,都市下層を含む都市諸階層が全体として類似した変化をたどっていたため,それぞれの明確に固有な生活像を形作ることが比較的困難であり,その結果,社会変動への対応の同形性ゆえに都市下層が過大にか過少にか評価され,戦前期日本の経済社会が一括して「下層社会」と称されることにもなった。まずそこでなされねばならなかったのは,本稿で若干試みたように,やはり都市下層の生活自体の変化の意味を具体的に問うことであった。またそれを踏まえて初めて,同形的な生活変動から余儀なく逸れていった生活の存在を,下層性一般に埋没させることなく照射できるのかもしれない。
4) 都市下層に最も典型的に体現された生活の在り方の急速な変化の結果,従来の変化の条件が失われた昭和恐慌期には,ようやく形成し展開し始めた生活の枠組みを維持しようとする強烈な志向が個別的に貫かれた。都市下層世帯に代表される,このいわば「近代化」の結果としての,生活構造を維持もしくは形成しようとする個別的な志向は,少なくとも一時的には,下からのナショナルな心情に変質していったのである。この結果を受け止めることは,原因を探る以上に,今なお困難な課題だと思われる。これが銘記されねばならないもう一つの「日本の経験」である。