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技術と都市社会

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都市と技術

論文タイトル: 第5章:戦前期の町内会ー東京市の場合について
著者名: 中村 八朗
出版社: 国連大学出版局・国際書院
出版年: 1995年
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第5章:戦前期の町内会ー東京市の場合について

はじめに

 現在のほとんどすべての発展途上国では都市部におびただしい数のスラムやスクォッターを抱えており,そこでは住民が劣悪な居住条件と生活環境に耐えている。その解消は抜本的には一国の経済水準の飛躍的上昇を俟たねばならないであろうが,差し当たっての対策としてしばしば指摘されてきたのは,内部の住民による自らの組織化であり,その組織によって住民が主体的に住環境の改善に努めることである。それは防災や衛生といった点での効果を生み,また住民の生活向上意欲を高めることになり,それが経済面に跳ね返って経済水準の上昇に寄与すると期待されている。このような期待から唱えられるようになったのがコミュニイ・デベロップメンとであり,これは途上国の,最初は農村に,後には都市部においても実施されるようになったのであるが,その推進には国連も中心的役割を果たしていた。
 途上国に対してこのような関心が寄せられる時,非西欧社会の中で最も早く近代化に成功しその経済力も西欧水準に到達したと言われている日本では,そのようになる以前,特に戦前期では都市部では住民の間にどのような組織化が行われていたかという点は,生活水準の上昇を求めている今日の途上国にとって上記のようにその方法の一つとしてコミュニィティ・デベロップメントに期待を寄せている人達にとっては,強い関心の向けられる参考例になるのではないかと思われる。
 ところで地域住民の組織化といった場合,わが国の都市部では町内会がほとんど全域に普及した組織であった。したがってこのような関心に対して絶対に取り上げねばならない対象であることには異論がないとおもわれる。このような問題意識から戦前期の東京における町内会について検討を試みたので,その結果として知り得たことを述べることとする。なお対象地域を東京としたのは,一つにはそれが徳川時代から今日に至るまで常に日本の最大都市であり続けたので,そこで起こったことが日本の都市部の代表的事例になるであろうという見地からであったが,いま一つの理由はこと町内会に関しては東京の場合が最も多く資料を得られたからである。
 なお町内会に関しては,それが戦時中は戦争遂行のための国民総動員組織として有効な役割を果たしたことは,今日でも常に語り伝えられているところである。渉猟し得た資料に関しても戦時中のものには町内会を戦争協力の立場から扱い声高な論調が目立っている。現在はその反動として当時の町内会をもって戦前期町内会の性格のすべてを規定するとか,あるいは当時の町内会にたいする価値評価から戦前期町内会を常に否定的に捉えようとする傾向があるように感じられる。しかし筆者は可能な限り客観的態度を保ちたいと考えたところから,資料に関してもこのような戦時中のものはなるべく避けることとし,もし利用する場合は充分な注意を払うこととした。本文での行論の展開においても,戦争期に至る以前の時期の町内会のことが中心部分を占め,戦時中の動きに関しては多少は扱わないわけではないとしても,極めて部分的な範囲でのみ取り上げる予定である。

1 前身組織

 昭和9年に刊行された東京市による町内会調査の報告書には,冒頭で「江戸時代の庶民自治の制度,五人組の精神を汲むと云われて居る今日の町内会」と述べられている。「五人組の精神を汲む」1)とあり,別に「五人組を継承する」とは書かれていないので,報告書の作成者が町内会が五人組に起源するとか,江戸時代の五人組がそのまま町内会になったとは見ていなかったとは言えないとも考えられるが,しかしそのように見ていたという誤解を招きやすい表現である。ただしこのような不用意な表現が日本の首都を預かる東京市の報告書に現れるとすれば,一般には町内会が五人組に由来する組織であると理解されることも多かったのではないかとおもわれる。
 五人組というのはけっして向こう三軒両隣を組織したものではなく,家主借家所有者ではなく,所有者の委託により借家と店子の管理に当たっていた者だけの組織であり,彼等は月行事として輪番で末端の行政事務を処理していたのである。つまり幕府が江戸市中を治めるに当たって起用した町人,すなわち町役人の末端に位置する公的機関だったのである。しかし町内会は戦争中の一時期を除き公的機関に属したことはなく,また構成員町内居住の全世帯を網羅している以上,機能からも構成員からも五人組と町内会は異なった組織である。加えて五人組は明治に入って新政府によって廃止された後,何かの形で復活することもなかったのである。大正14年に町内会調査をおこなった東京市政調査会はその報告書のなかで,古くから江戸に土着している人の多いはずの日本橋区でも,町内会のすべては設立が比較的新しく,「一として封建時代の五人組名主等の制度を継承せる沿革ある町内団体あるを見なかった」2)と指摘している。このことに照らしても歴史的根拠からは,町内会が五人組に由来すると考えることに誤りのあることが理解できる。
 このように町内会は明治以降のある時期に五人組とは無関係に成立したのであるが,ただしそれが今日のような形態になるまでに,次にあげるいくつかの前身組織として当初は形成された場合も少なくはなかったようである。
 1)地主・家主組織
 この場合の家主は上で触れたと同様に借家の所有者ではなく管理人であり,したがってこの組織は所有者と管理人によって構成されていたのである。かれらは町内にある不動産に対する利害関係者であり,その維持と管理のため相互の協力を必要としたと思われる。
 2)若衆組
 明治32年発行の『東京風俗誌』には「町内には町内の若衆の組ありて,若者概ね一七,八歳に来ればこれに加わる。」3)とあるので,当時は町内ごとに若衆組が組織されていたことが知られる。祭礼や慶弔の際に動員された組織のようであるが,ただし「他の土地からの移住者などは全然これ等組織の埒外に置かれていた」4)という指摘もあるように,構成員を所謂地付き層の人に限定しており,同じ町内に居住していても,よそ者と言われる人達は加入させてはいなかった。したがって閉鎖的性格も具えている集団であった。
 3)氏子団体
 この場合については特に説明の必要もないと思われるが,ただこれが町内会の出前身組織となった場合もかなり存在したことは,東京市の町内会調査報告書に「現在の町内会の内其の前身を氏子団体として報告したるもの多数に上る」5)とあり,また『新修日本橋区史』では「本区に於ても町会事務所を神社社務所に置けるものが少なからざるはこれが一証を為すものであろう」6)と書かれてところから理解できる。
 4)衛生組合
 明治期の半ば頃まで東京では数年おきにコレラが猖獗を極め,時には死者が一万人に及ぶこともあった。このような状況への対策の一環として東京府は伝染病予防法(明治30年法36号)第23条に基づき,府令16号を以て明治33年2月に「衛生組合設置規定」を設け,同年7月1日にこれを施行した。この府令は町内住民の組織化に極めて強く作用したようであり,東京市では全市一円にわたり各町内ごとに衛生組合が1,2年のうちに設立される運びとなった。たとえば『深川区史』は「洽く組合の組織されざれなく,本区の如きも全町これを見た」7)と記しているのである。ただしこのような順調な発足にもかかわらず意外に短命であったようであり,同区史にはさらに「しかし……組合が活動するには多大の経費を要することに先ず支障が生じ,年と共に有名無実に近き状態となり,独り本区に留まらず,市内全般に塀息の現状を呈するに至った」8)と述べられており,府令16号の意図した住民の組織化は竜頭蛇尾に終わったのであった。理由としては「多大の経費を要」したことに加え,防疫対策のための環境が次第に整備されたこともあってか,数千に及ぶ死者を出すような伝染病の猖獗は明治28年のコレラ流行が最後となったことも考えられる。このように衛生組合は一般には短命に終わったのであったが,しかしそれがあったことから町内会が組織されるに至ったという場合も多少は生じたのであった。
 5)睦会組織
 町内会の前身が町内住民の親睦を図ることをその機能とする睦会であった場合がかなり多かったようであり,入手した資料からはそのように思わせる記述を随所に見出すことができた。「往時の慶弔祭事のみを事業とした睦的時代」9)「僅々三十余年前から住民間に其融和親睦を目的とする睦的団体がうまれ……」10)「町内有志が懇親の為組織した睦会」11)「近隣有志の懇親会を中核として発達したる町会にあっては,所謂睦会があらわす会名の如く……」12)「単に親睦を目的とせる所謂睦会」13)「本所区内の半数は所謂睦会より町会に転向する過渡期にあり……」14)「町会の濫觴睦会」15)などの記述がそれである。この睦会を前身とした町内会の一例である神田区松富町町会では,その変化を次のように述べている。「明治40年町内の有志に依って親睦を旨とし組織せられ当初松栄会と称した。当時は親睦会の開催以外には特記するものはなかったが,超えて大正13年10月町会に組織を変更し,町内居住者全員を会員となしてより内容を改善拡張し,現時の如く発達した。」16)
 町内会の前身組織としては以上のものがあげられるのであるが,この内では,睦会を前身とした場合がもっとも多かったように推測される。東京市による昭和8年の町内会調査では,町内会の設立動機についても各町内会に回答を求めたのであるが,その結果は表1のように纒められている。これによると町内親睦発展を動機とした場合が最も多くなっているが,この回答をしたのは,隣睦組織すなわち睦会から発足した町内会ではないかと思われる。
表1 町内会創立の動機(東京市全域)
 なお前身組織についてここで二つの点に留意しておかなねばならない。その第一は衛生組合,氏子団体,睦会の場合にその名称からだけでも分かるように機能が衛生,宗教,親睦とそれぞれに限定されていたことである。地主・家主組織と若衆組は構成員による名称であり,機能は明確ではないが,しかし構成員がその名称のごとく限られていたとすると,この限られた人達のみに必要かあるいは可能な機能が果たされていたと考えられる。今日の町内会は機能に関しては多機能的(複合機能的あるいは時には機能未分化とも言われてる)であることを一つの特質としているのであるが,前身組織の機能が以上のようであったとすると,町内会への転化は単一あるいは限定的機能集団から多機能集団へのそれであったことになる。第二は構成員に関係する点であるが,現在の町内会が町内居住者の全員を網羅しているのに対し,前身組織では構成員が限定されていた。いま述べたように地主・家主組織と若衆組はその名称からもこのことは明らかであるが,若衆組では既述のようにさらに同じ年齢でも地付き層とみなされない者は同一町内に居住していても構成員からは排除されていた。また睦会は町内有志のみが加入する組織であった。氏子集団と衛生組合についてはその構成員がどのようであったかは不明であるが,しかし前身組織の多くは以上のように加入者として町内居住者の全員を網羅してはいなかったのである。つまり排他的あるいは閉鎖的集団であったことになる。したがって構成員からみた場合,前身組織が町内会に変わったのは,閉鎖的集団から開放的集団への転化であったことになる。


1) 東京市役所『東京市町内会の調査』(1934年)1ページ。
2) 東京市政調査会編『東京市町内会に関する調査』(東京市政調査会,1927年)287ページ。
3) 平出鏗四郎『東京風俗誌』上の巻(1899年上・中・下をあわせた復刻版は1975年八坂書房により出版)27ページ。
4) 京橋区役所編『京橋区史』下巻,(1942年)284ページ。
5) 東京市役所 前掲書,7ページ。
6) 日本橋区役所編『新修日本橋区史』下巻(1937年)174ページ。
7) 深川区役所編『深川区史』(1926年)580ページ。
8) 同,580ページ。
9) 荒川区役所編『荒川区史』(1936年)571ページ。
10) 同,574ページ。
11) 小石川区役所編『小石川区史』(1938年)793ページ。
12) 東京市社会教育課編『町会規約要領』(1924年)114ページ。
13) 東京市役所,前掲,107ページ。
14) 同,110ページ。
15) 同,93ページ。
16) 中村薫『神田区史』(1935年)111ページ。

2 歴史的契機

 町内会の成立に関しては前身組織と並んで,いくつかの歴史的契機にも注目しなければならないようであ。その主要なものとして,明治27,8年と37,8年の日清・日露戦役,大正12年の関東大震災,昭和7年の市域拡張の他にさらに大正デモクラシーがあげられる。これらに加えて明治33年府令16号「衛生組合設置規定」の達示も歴史的契機の主要なものに含められるべきであるが,これについては前章ですでに取り上げたので,ここでは触れないこととする。
 1)日清・日露戦役
 二つの戦役に際し,いくつかの町内では,出征兵士の歓送迎,留守家族の慰安などのため住民の組織化が図られた。例えば神田区今川小路共睦会は「本会の発端は共睦会,明治27,8年の日清戦役講和の後出征軍人の凱旋せるに際し,当今川小路に於て3ヶ丁の有志者相協力してこれが歓迎の義挙を行いたる時に発祥し」1)ている。日露戦争の時には,既に衛生組合が組織されていたので相乗効果が生じたようであり,「沈黙に入った衛生組合が町会にその再生の姿を現し,光輝ある新生の門出をなす機会を与えたのは実に明治37,8年戦役の勃発であった」2)と『下谷区史』に書かれている。このように明治27,8年と37,8年の戦役,特に後者は衛生組合とも結びつき,町内会形成の主要な契機の一つとなったのである。しかしこれも次に述べる関東大震災の与えたインパクトには遥かに及ばなかったのであった。
 2)関東大震災
 関東大震災に見舞われた東京で,町内住民が緊急時における生活防衛の必要性,それに対処するための日頃からの住民相互の結束と組織化を痛感したことは十分推測できるところである。蒐集した資料からは大震災を契機とした町内会の結成,あるいは前身組織から町内会への転換を記す個所が枚挙にいとまのないほど数多く見出せるのであり,それらをここに引用するとすれば相当なスペースを必要とする。ここではそのごく一部のみをあげてみる。『芝区誌』には「大震災の恐怖は隣保団結を緊密にし,自警救恤の為の団体を成立させ,それが災後にも継続して永続的の町内会となったもの多数を占める」3)と述べられている。また『小石川区史』は「区内にも大正12年ごろまでは町内会をもたない町が可成多数あった」とまず記し,その状況が関東大震災によって一変したことに関し「然るに彼の大震災の恐怖は町内各自の隣保団結を緊密にし,自警救恤の為の団体を成立させ,それが震災後にも継続して永続的町内会となり,現在に於ける如く各町共に殆ど町内会組織を持たないものはない状態になった」4)と指摘している。
図 年次別町内会設立数
 ここに掲げた図は,昭和8年の東京市による町内会調査結果による設立年次別町内会数を旧市域,新市域およびその計に分けてグラフ化したものである。これによると明治31年から40年にかけて最初の設立増加期が見られるが,これは先に述べた日清・日露戦役と衛生組合の影響によると思われる。その後は一旦カーブが下降するが大正期の半ばからまた増加に向かい,特に震災のあった大正12年以降の5年間には飛躍的に町内会設立数が増大している。このグラフからも関東大震災が町内会設立にいかに強力に影響したかが理解できるであろう。また先に触れたように日清・日露戦役の影響は関東大震災のそれに較べれば遥かに及ばないことも知り得るである。
 なおこのグラフについて注意しなければならないのは,震災後ほどではないとしても震災前にもかなり多くの町内会が設立されており,その数は明治中期のピークを大巾に上回っている点である。このような震災前の増加をどう説明するかが一つの検討課題となるように思われるが,これは後に回し,次に市域拡張との関係を先に扱うこととする。
 3)市域拡張
 前掲の表1では町内会設立の動機として市域拡張をあげているのは新市域に限定されているが,これは昭和7年に東京市が市域を拡張したことから東京市に編入された周辺町村のみに関係する設立動機であったからである。当時の町村制第68号では,町村内に行政区を設けることとなっており,周辺町村では編入以前には644の行政区が設けられていた。おそらく自然村の範囲が行政区の範囲として画定されている場合が多かったと思われるが,東京の市域に編入された後には,それまでの区(=自然村)としての社会統合をそのまま残すため,それを新たに町内会に再編成する動きが広まったのであろう。
 ただし市域拡張の一つの理由であった震災後における周辺町村における人口の急増にともない,新来住者があらたに形成した居住地域も多く,それらが従来からの区の統合には組み入れられなかった関係からか,従来のように一つの区ごとに一つの社会的統合を果たしていない場合もかなり現れたようである。例えば当時の荏原区については次のように報告されている。「市域編入に伴い,町村制第68号に依る区の廃止により在来の区を次の町内会となせるものあれど,区に行政区画の定めなきを以て,各所に新会の簇出を見現在56ヶ所を算するに至れり。」5)この記述から察すると,一つの区で旧住民が一つの町内会を組織するのと並行して,同じ区に住む新住民が別にまた一つの町内会をつくるといったことが少なくなかったのであろう。いずれにせよ,以上の動きが新市域での多数の町内会の設立につながったのであった。先の図では東京市の市域拡張の年度を挟んだ昭和3年から8年の間に旧市内では町内会設立数が以前よりは減少しているのに対し,新市内では以前とほぼ同様の急増をしめしているが,このことによっても以上の動きの趨勢を知ることができる。
 4)大正デモクラシー
 町内会はしばしば批判の対象となり,旧時代に属するものものとして時には蔑視されたりすることも少なくないのであるが,そのような町内会が,時代を先取りする動きであった大正デモクラシーと関係したことがあるといえば,たちまち拒絶反応を起こされかねないであろう。しかし既に触れたように大正の半ば頃からは町内会の設立数が次第に増加し,震災後ほどではないとして震災前にすでに相当な数に達していたのである。その契機として大正デモクラシーが考えられるのである。歴史的契機を扱っている本章では時代順に記述を進めるのであれば関東大災の前に取り上げねばならない部分であるが,それを最後に回したのは大正デモクラシーとの関係などと言えば,読者には意外な感を与えると思われ,それだけにこの部分が重要な個所になると考えたからである。以下蒐集した資料から関係したと思わせる場合を取り上げてみよう。
 神田区蝋関会は「大正元年……蝋関有志会なるものを設立し超えて大正10年4月内容と規定を拡大充実して蝋関町関口町居住者全部を網羅」6)したのであった。つまり震災前に町内会に改組した組織の一つである。同じ神田区では松下町会も相前後して町内会に転換したのであるが,その理由として「大正10年世運の伸展により」7)と記している。つまり震災前に既に町内の居住者を網羅する組織に転換させる時代的背景のあったことが窺われる。この背景が何かを推定させる場合として,牛込区の横寺町町会は「旧幕時代より氏神祭典を中心として存在したる地主会なる特権階級の会合が,社会の伸展に伴い民衆化の要を認め,大正7年5月15日町内一般の居住者の会合に改革し」8)と町内会への改組の経過を述べている。このように「民衆化の要を認め」させる背景があったとすれば,われわれは当然大正デモクラシーに思い至るのである。
 以上の他に,時期は関東大震災よりは後になるが,町内会運営の基礎として「完全なるデモクラシーを基調としている」(板橋町の久保町大和会)9)とか「名称をも時代に適合した平和会と称した」(南千住の平和会)10)と述べる町内会も昭和2年頃と思われる時期に現れている。時代的風潮がデモクラシーや平和に傾けば町内会もそれに応じて動くのであり,したがって町内会に批判的な層が考えるように,時代の伸展に盲目的な旧時代的組織に終始するとは言えないことになる。
 以上に述べたところから町内会を大正デモクラシーと関係づけられると思うのであるが,上で触れたようにこの関係から震災前に既にかなり多くの町内会が設立されていた。したがって震災によって町内会の設立が激増したとはいえ,その前から町内会を増加させる傾向が働いていたとも見ることができる。


1) 同,61ページ。
2) 下谷区役所編『下谷区史』(1935年)1088ページ。
3) 芝区役所編『芝区誌』(1938年)613ページ。
4) 小石川区役所編,前掲書,793ページ。
5) 東京市役所,前掲書,104ページ。
6) 中村薫,前掲書,85―86ページ。
7) 同,84ページ。
8) 東京市役所,前掲書,2ページ。
9) 篠田皇民『自治団体の沿革・東京府之部』(東京都民新聞社,1930年)39ページ。
10) 同,東京府之部,47ページ。

3 事業内容

 昭和11年9月現在で東京市の町内会数は旧市部1,301,新市部1,721,計3,022となっており,これは市内の町数(丁目は1町として計算)にほぼ匹敵する数であった。加入者総数は105万6075世帯で当時の東京市全世帯の89%に達していた。ただ未組織地域もなかったわけではなく,それはオフィス街,貧民街,高級住宅地などにみられたのであるが,町数にして30,世帯数にして1,113に過ぎなかった1)。もちろんその後戦時体制に入って町内会結成が法制化されてからは,未組織地域は消滅するものであるが,しかしそうなる以前でも実質的には町内会が東京市の全域で組織されたと見てよい状態になっていたのであった。
 このように住民組織としてほぼ完全に定着するに至った町内会は,その機能すなわち事業としてどのような活動をしていたかを次に見ていくこととする。この点に関して先に前身組織では単一機能に限定されていたのに対し,町内会になってから複合機能的になったと触れておいたが,この転化の過程について大正13年に刊行された東京市の『町会規約要領』は以下のように書いている。
 「設立の古いものにあっては,江戸時代の五人組や自身番の面影を有し,近隣有志の懇親会を中核として発達したる町会にありては所謂睦会が現はす其会名の如く定期の懇親会と慶弔事業を以て会員を結合して居り,又明治33年東京府令に依る衛生組合設置規定に基き設けたる衛生組合より発達し来った町会にありては自然町内の衛生事業を以て中心とするもの或は日巨露大正等の戦争を機として生まれたる町会にありては兵事々業を以て中心とするもの,或は氏神祭典を機として氏子団体に生れたる町会にありては祭事々行を以て中心とする,或は大震災に因って生れたる町会にありては自警事業を以て中心とする等何れも発達の歴史を異にする事業の差別である。」2)
 これによって理解できるのは,町内会に改組して多機能的になったとはいえ,当初は複数の機能のうちどの機能に比重がかかっていたかは,前身組織と設立の契機いかんによって町内会ごとに異なっていたことである。しかしこの引用個所に引き続いて「種々なる事業が搗き交ぜられ洗練されて現在最も多数の町会に共通する事業としては,大要次の5事業を以て中心として見ることが出来る」3)という現状の説明があり,5事業としては慶弔,衛生,兵事,祭事,自警があげられている。「種々なる事業が搗き交ぜられ」というのは不明確な表現であるが,恐らくそれぞれの町内会が互いに他の町内会の行っている事業を自己の町内会に取り入れたという意味ではないかと思われるが,そのように取り入れあったことから,どの町内会の事業内容もかなり類似するものになったことが理解できる。しかしそうなっても,すべての町内会の事業内容がまったく一致したというわけではない。上の5事業というのはそれを行っている町内会が全町内会の5割以上に及んでいる事業に限定した場合のことであって,その比率に達しないものも含めれば,事業の種類は遥かに多くなり,全体で25種類に及ぶことも『町会規約要領』に報告されている,その内の何種類を行っていたかは,町内会ごとに異なっていたと思われる。
 大正14年に実施された東京市政調査会の調査では,町内会の多種類にわたる事業内容を14種類に整理して報告している4)が,必要と思うものに簡単な説明を付してそれらを列挙すれば次の通りとなる。
1 慶弔に関する事務
2 衛生に関する事務(下水溝渠の浚渫,便所の掃除,糞尿の処理,塵芥の処理,蚊蝿の駆除,伝染病予防注射実施,衛生講演会と衛生映画会の開催)
3 兵事に関する事務(入退営者の送迎と祝金贈呈,遺族や留守家族の慰問と援助)
4 祭事に関する事務
5 自警事務(毎夜町内の巡邏,夜警または火の番,災害予防ポスター掲示,ポンプ消火器の設置)
6 救済事務(罹災者,貧困老幼廃疾などによる困窮者の救済慰問)
7 交通補助事務(街灯設備の照明,街路撒水,居住者の地番案内掲示板設置)
8 商事に関する事務(商品売出しのための町内装飾と共通福引券発行――商店街町内会の場合)
9 官公署との交渉布達に関する事務(町内の共同利害についての官公署と交渉,官公署よりの示達を町内に伝達)
10 学校教育に関する事務(学里の通学奨励,優秀児童に賞品授与,講演会開催,町内児童遊園地管理)
11 人事の相談調停に関する事務(人事の相談と紛争の調停,中傷の防止)
12 表彰に関する事務(孝子節婦,町内功労者などの表彰)
13 金融に関する事務(頼母子講風の金融組合)
14 その他(無料代筆,医師産婆等との特約,駐在所の維持,など)
 以上の内には,今日からみれば不要と思われる種類の事業も多少は含まれているが,しかしそれらも当時にあってはそれなりに意味を持ちまた必要とされた事業であった。
表2 各事業別実施町内会比率
表3 町内会経費内訳の推移
 表2と表3はこれら多種類にわたる事業の実施状況について,大正期と昭和期を比較したものである。表1では大正期については大正12年現在を扱っている『町会規約要領』から,昭和期に関しては東京市の昭和8年における調査の報告書から,それぞれの種類の事業別にそれを実施している町内会数が全町内会数に占める比率を示しておいた。ただ大正12年度の場合,ここに比率が示されているもの以外の種類の事業については,50%に満たないとして数字があげられていない。したがって50%未満ということ以外は知り得ないのであるが,ただ比率があげてある種類のものだけについて昭和期と比較すると,何れについても大正よりは昭和で比率がかなり高くなっている。また救済,表彰の項目に関しては,大正で50%未満であったのに対し,昭和ではこの2項目はともに50%を超えている。以上の比較から理解できるのは,大正12年から昭和8年と年数を経るにしたがって,個々の町内会はそれが扱う事業の種類を増やしていったことである。つまり多機能集団という性格をもつ町内会は後の時期になるにつれてその多機能性を一層強めていったことになる。なおこの表の表頭には「官公署との連絡交渉」という項目が欠けているが,これについては「本事務は例外なく総ての町内会に於て遂行されている」5)と説明されており,自明のこととして表示する必要もないと見なされたのであろう。
 表3の方は事業の種類別経費内訳の比較を示すが,大正期については大正13年の東京市政調査会の調査結果,昭和期については表2の場合と同じである昭和8年の東京市の調査結果から筆者の作成した数字があげられている。二つの年度の間に比率の相違の認められる項目としては,「雑費」,「其他」を無視するとすれば,「衛生費」「夜警費」「施設費」があげられるであろう。「衛生費」に関してはその比率が昭和8年で高くなっている点については,東京市の調査結果報告書で「現在に於ては町内会事業の重点は保健衛生,特に塵芥処理,糞尿汲取の問題に移って居る」6)と述べてあるところと符合する。逆に「夜警費」と「施設費」の場合は大正13年でより高い比率になっているが,これは関東大震災の記憶がまだ生々しかったことを反映しているのであろう7)。表2で町内会は年数の経過とともに多機能性を増したことを知ったのであるが,多機能になったとはいっても,個々の機能のどれにどの程度比重を与えるかは状況の変化とともにそれに適応していたことが,表3から窺われるのである。
 ところで町内会は前身組織から改組された時に単一機能集団から多機能集団に変わったのであるが,しかしそれ加えて,その後年数を経るにしたがって,多機能性の程度を増していったことをわれわれは表2から知り得たのであった。とすればここで何がそのような変化を促したかを考えてみる必要がある。その手がかりを,蒐集した資料に求めてみると,本郷神明町上町会の例があげられる。この町内会側が書いた記録には,以前は土着の人が敬神会という氏子組織をもつのみであった当町内は「大正9年に至り……土地の発展を来し……人口の増加と共に諸般の交渉複雑となり,遂に敬神会の外に町会設立の必要に迫り,町内有志の発起により神明町上町会なるものを組織す」8)と述べられている。「諸般の交渉複雑となり」という表現はやや漠然としているが,しかし人口の増加とともに氏子組織だけでは処理のできない諸事業に対処するすることが町内で必要になったと理解できよう。また小石川区では,区の側でこの町内会と同様のことが区内各町内に起きていることを認め「町内の発展と共に各種の新事業,新施設が必要となり,序にそれらをも行うこととなり,漸次その事業が拡大し,組織も自ら変更されて,現今の如き各町会が成立する様になった」9)と記している。以上からわれわれは,東京市が都市として絶えず発展を続けたので,個々の町内ではそれに応じて生活が複雑化し,多面的ニーズが生ずるようになったことを知ると同時に,町内住民の側でもそれに対応して先ず多機能的な町内会を設立し,さらにその町内会の多機能性を一層増大させたと理解できることになる。また複雑化した生活の中にあっても,多くなっている機能のそれぞれにどのような比重を与えるかは状況の推移とともに変えていたことは,表3で見た通りだったのである。
 ここでわれわれは社会学が前近代的集団と近代的集団について設定している図式を想起する必要がある。この図式によれば前者の崩壊によって後者の出現する過程は次のように把握されている。すなわちメンバーシップの網羅性と機能の未分化をもって特徴づけられる前近代的集団は,社会の近代化とともに機能の分化が始まることから,分化した個々の機能ごとに分かれた別々の集団に分解する。かくして現れた別々の単一機能集団が近代的集団であるが,諸個人は自己の関心に応じてそれに対応する機能をもつ集団に自由に出入できることになる。したがってそれぞれの機能別集団のメンバーシップは自由意思でその集団に加入することを選択した人々に限定されることになる。
 ところで町内会はこれまでに断片的に何度か触れてきたように,町内居住者全員が加入する組織であり,したがってメンバーシップは網羅的ということになるので,この点に関しては前近代的集団に属することになる。さらに機能面については,多機能化と機能未分化とは同一現象の別の呼び方である以上,町内会はやはり前近代的集団にということになる。そのような関係から,町内会はしばしば旧時代的組織とか封建的組織という批判がくわえられてきた。しかしここで,では時代的には町内会以前の存在であった前身組織はメンバーと機能についてどのようであったか考えてみなければならない。既に述べたようにそれは有志のみとかあるいは地付き層のみといったようにメンバーシップが限定された場合が多いのでその点では近代的集団に当たることになる。さらに機能については,多くはそれが単一であった以上やはり近代的集団に入れねばならないはずである。つまりメンバーシップと機能のどちらの点に関しても,前身組織は近代的集団ということになる。とすれば前近代的集団と近代的集団にかんする区分を機械的に適用する限り,前身組織から町内会への移行は近代的集団から前近代的集団への移行と言わねばならないことになる。われわれは町内会の性格規定にあたり,前近代的集団と近代的集団に関する図式を,具体的な歴史的過程を無視して,全く機械的に町内会に当てはめてきたようである。
 既に見てきたように,町内会が町内居住者全員を網羅しているのは,いつまもで旧慣に固執しているからではない。前身組織の時代の地付き層とか,あるいは有志とはいえ特権階級だけに加入者が限定されていた閉鎖的組織を改め,町内の居住者であるかぎりはいかなる人も加入できる開放的組織に変わったからである。また機能が未分化とされるのは,町内会が時代の変化に無感覚な前近代性を脱却できないからではない。先に説いたように時代の変化によく適応し,都市生活が複雑化して多面的なニーズが生じてきたことに対応して単一機能の組織を多機能の組織に転換し,その後も多機能性を一層増大させたからであり,また個々の機能に与える比重についても状況の変化に応じて変えてきたのである。これまでに扱ってきた戦前の町内会の実際の形成過程から見る限り,町内会を時代の変化に無縁な非同時的な存在とは規定できないはずである。時代の先頭に立って時代の動きをリードするような組織ではなかったとしても,時代の後に付いて時代の動きを引き戻すようなこともしなかったのであり,常に時代とともに動いていたと考えるべきではなかろうか。


1) 谷川昇「都制における町会制度の整備(上)」(『都市問題』第24巻1号,1937年1月)54―56ページ。
2) 東京市社会教育課編『町会規約要領』(1924年)114―115ページ。
この引用の初めに「江戸時代の五人組や自身番の面影を有し」とあるが,町内会が五人組に起源していないことは,本稿で既に述べたとおりである。恐らく地主・家主組織を前身組織とする町内会のことに,ここでは触れているのであろう。
3) 同,115ページ。
4) 東京市政調査会編『東京市町内会に関する調査』(東京市政調査会,1927年)
31―60ページ。
5) 東京市役所,前掲書,42ページ。
6) 同,38ページ。
7) 表3の昭和8年の比率は当時の市内全町内会を調べた結果によるものであるが,大正13年分は「経費の支途が明瞭に項目別された」僅か8町内会の調査に基づいており,代表性に問題のあることを認めておく。しかしこの8町内会は牛込区,日本橋区,小石川区,四谷区にわたっているので,一応の傾向は現していると見てよいのではなかろうか。
8) 小笠原専明編『東京市開廳三十年記念事業概観(改定再版)』(1928年)56ページ。
9) 小石川市役所,前掲書,79ページ。

4 町内会整備

 町内会組織が次第に普及するようになり,さらにそれが多機能化を一層進めて衛生,自警,官公署との連絡交渉といった公共的性格を持つ事業を扱うようになるにつれ,行政当局もその組織に漸次関心を向けるようになってきた。大正11年11月25日における小石川区関口自治会の設立発会式には,東京市長と内務大臣の祝辞が寄せられた。ただし当初は住民教育に資するところからその健全な発達を望むといった程度の社会教育上の関心が中心となっていた。東京市による最初の町内会調査とその結果に関する報告書である『町会規約要領』(大正13年刊行)の編纂を担当したのは社会教育課であった。
 その後行政事務が増大し各区の区役所が末端事務遂行に当たって町内会に依存することが多くなるにつれ,町内会は,単に社会教育的見地からではなく,市の末端行政上の無視し得ない組織と考えられるに至ったようである。それを反映して昭和の初頭には市役所處務規定および区役所處務規定の中に「町会に関する事項」が追加されたのであった。
 一方東京市会においても町内会の問題が論議されるようになり,昭和4年9月には市議60名の連名による「町会ニ関スル制度調査委員会ノ建議」が提出され,その結果昭和7年2月に「町会ニ関スル調査委員会」が設けられることとなった。この委員会での結論は「町会に関する制度調査委員会意見報告」として纒められ,同年7月の市会において可決をみたのである。ただこれによって具体化された措置は,自治功労感謝の会の開催と町会ならびに役員の表彰といった程度に止っていた。とはいえ東京市会は昭和10年になって市の理事者に町内会の整備に着手することを強く要望した。これによって昭和11年予算には町内会整備費が計上されることとなり,翌12年にはこの整備費は倍加されて2万7千円,さらに13年にはそれに対する予算は一挙に25万円と飛躍的に増大した。加えて同年5月には市の監査部区政課に町会掛が設けられ,これとともに市の町内会に対する対策が調査期から実施期に入ったのであった。
 では整備を実施するといった場合,どのような点に整備の必要があるとみられていたのであろうか。その主な点は以下のようであった。
 町会の区域……一般に1町内に1町会が組織されていることが理想とされていたが,実際には1町内会の範囲が1町内の一部に過ぎない場合,逆に1町内を越え,時には3町内,4町内にも及ぶ場合とか,1町内会の範囲が2区に跨がる場合があったので,それを整理して1町内1町会にする。
 名称の統一……個々の町内会成立の契機が既に述べたようにさまざまに異なるので,例えば睦会的名称,衛生組合的名称,商栄会的名称,自治会的名称などの町内会がかなり混じっていた。そのような町内会には地名を付した町会という名称を名乗らせるようにする。
 町会規約の完備……町内会が自然発生的に生まれ,特に親睦的組織の傾向が強い場合には,体系的に整った規約が作成されていないことも多く,それがまた町内会に種々の紛争を招く傾向があったので,完備した規約作成に向けて指導を図る。
 隣組の結成……東京のような大都市では近隣関係が希薄になる恐れがあり,その場合町会活動の末端への浸透が不徹底になると思われるところから,町内会の下部組織として5軒から20軒程度を単位とする隣組を結成する。
 区町内会連合会の設立……町内会整備着手前は12の区で町内会連合会がまだ結成されていなかったのであるが,これらの区内町内会にその結成を慫慂する。
 以上の他に事務所を持っていない場合には,町会事務所の建設,設計などの相談に応じるようにしてその建設を促進するとか,町内会あるいは町内会間に確執のある場合はその調停を図るとか,さらには町内会事業に対し助成金を交付するなどの策が講じられたのであった。
 具体策としてこのような内容を持つ町内会整備は順調に進められたようであるが,これには日本が臨戦体制に入ったことが絡み合っていた。上で昭和12,13年に東京市は町内会整備に対する調査期が実施期にはいったと述べたが,日中戦争の口火が切られたのは昭和12年7月のことであった。そのため戦争遂行という国策に対するもっとも有力な協力単位として町内会が位置づけられることとなり,それが東京市をして町内会整備を強力に押し進めさせる契機となったのであった。その後昭和15年には内務省が「部落会町内会等整備要領」を発令して町内会は法制化され,銃後の守りという役割を与えられて戦争協力のための国民総動員体制の重要な一翼を担わされるに至ったのは周知の事実である。
 ところで町内会はこのような戦時体制に入ってから果たした役割の故に,戦後は絶えず批判の的にされてきた。とすると町内会をそのような方向に傾斜させた東京市による町内会整備は一層厳しく批判されねばならないことになる。しかし町内会整備に着手した年がたまたま日中戦争勃発の年と重なるという不運のために町内会活動を軍国主義に加担させてしまったのであるが,しかし実際には整備の実施はその必要性が唱えられてからかなり後であり,さらに当初の意図は軍国主義とは別のところにあったようである。
 既に述べたように東京市は大正13年に早くも町内会調査の報告として「町会規約要領」を刊行している。また東京市議会義員が町内会について市会に建議を提出したのは昭和4年のことであった。町内会整備の始められた昭和12年との間にはかなりの年数の開きがある。また昭和13年に『都市問題』に発表された谷川の論文の中でも,市の町内会に対するそれまでの政策が「自由放任主義に多少の助長主義と監視主義を加味した範囲のもの」「放任監視主義」「自由放任主義」といった指摘があり1),具体的措置は長期間放置されていたことが理解できる。東京市の側からみれば,個々の町内会の区域,名称,規約など町内会整備の要点とされた点に問題はあるとしても,町内会が自然発生的に生まれたものであるだけに,町内会側からすればそのような問題点もそれなりの事情があり,したがって市の側がその解決はかなり困難とみたところがら具体的措置に乗り出すことを躊躇させたのではないかと推測させる。
 しかしそれにもかかわらず,東京市が町内会整備を断念せず,遂にはその実行に乗り出したのであるが,そうさせた意図の内には当初は軍国主義要素は全く含まれていなかったようである。昭和6年にこれも『都市問題』に発表させた亀掛川の論文は,町内会の存在意義を承認した上で,その理由については大要次のような意味のことを述べている。そこでは先ず大都市に村落的近隣組織を移植することは無意味であり,町内会にそのような組織の性格は求めがたいと説かれるが,しかし大都市の小地域には部分的町内的事項であるとはいえ,それなりの各種の問題が生じるものであり,それを都市行政ですべてカバーすることは不可能である以上,その解決は町内会のような町内住民の組織によらねばならぬと指摘されている。さらに,行政が専門化し,かつ政治と住民との距離が拡大した大都市にあって,住民の間に住民自治の意識を涵養するには,町内会が極めて適切な組織であると述べられている2)。
 ところで町内会整備の始まった頃,整備の意義を説いた資料が刊行されているが,それには整備の方針を扱った個所で次のように書いている。
 「現行制度に依る市,殊に大都市にあっては範囲が大きい程自治の要素たる相互扶助,共同利益等は薄くなり,加ふるに最近に於ける東京市人口の増加率年平均18萬人の中,約7割は他市町村よりの移入で,恰も植民地なるが如き観を呈するに於ては如何に東京市は自治体だと言っても不自然であり,ピッタリ来ないのは誰も否めない事実である。さればと云って地方自治の区域を小ならしむれば,その公的施設益々小規模にし,且つ財的効果を減殺し,近代文化の要求に応じ得ないであろう。ここに茲に同じ自治の名の下における大なる矛盾がある。要するに,市町村は自治体であるが,国の法制の割り当てたものであり,町会は多年に亘る実社会の必要が生んだ組織に外ならないからである。この矛盾を緩和し,将来自治体としては実質的価値を失うかも知れない東京市を救済する方法として着手したのが,町内の足場とする市の建直しである。」3)
 つまり国の法制による自治体である東京市が膨大な人口の流入による自治体としての実質を次第に失おうとしている時,その実質を少しでも維持しようとして,多年に亘る実社会の必要の生んだ町内会に依存しようというのであるが。これは町内会が住民自治の意識涵養に適切な組織であると説いた上記亀掛川の論文と主旨は全く同じである。したがって日中戦争が同じ年に勃発していなかったとすれば,町内会は戦争協力の組織ではなく,東京市に自治を復活させる意義を帯びたものとして整備されていったことと推測される。しかし実際には戦争が勃発したので臨戦体制に組み込まれ,自治に役立つはずの組織が戦争協力の組織に切り替えられ,今日の町内会批判者には恰好の攻撃材料を与えることとなった。上記資料も町内会整備の意義として上で引用したことを述べておきながら,その後引き続いて,併せて国民精神総動員の有力な手段であるとも謳っているのである。


1) 谷川昇「都制における町内制度の整備(下)」(『都市問題』第24巻3号,1938年3月)57―60ページ。
2) 亀掛川浩「都市に於ける自治の徹底と町内会」(『都市問題』第14巻3号。1932年3月)95―103ページ。
3) 東京市政革新同盟編『東京の町会』1938年,9ページ。

むすび

 本稿が東京市の場合における戦前の町内会についてこれまで扱ってきたところを,このむすびの初めに要約すれば以下の通りである。
 町内会は時に五人組を継承した組織といわれることもあるが,しかし明治に入って五人組は廃止されており,また構成員と果たした役割も異なっているので,町内会は五人組とは無関係である。しかしそれとは別な前身組織をもっており,その組織とは地主・家主組織,若衆組,氏子組織,衛生組合,睦会であった。これら前身組織と後にそれらが改組されて現れてきた町内会との違いとしては,機能的には前身組織は一般に単一機能がかなり限定された機能を持つに留まっていたのに対し,町内会になるとそれが多機能に転じた点があげられる。加えて成員面でも前身組織は町内の有志とか地付き層といったように限られた者のみを成員としていたのに対し,町内会では町内居住者の全員を網羅するようになるが,これは閉鎖的であった前身組織が,町内会に変わって開放的になったからである。
 町内会の設立については,幾つかの歴史的契機も作用した。それは日清・日露戦役,関東大震災,市域拡張,大正デモクラシーである。日清・日露戦役では出征兵士の歓送迎,留守家族の慰安などのために町内が組織化されたのであった。契機として特に強大な作用を果たしたのは,関東大震災であり,それによって町内会設立は一挙に激増した。市域拡張では東京市に編入されたそれまでの町村にあった区の大部分が,編入後は町内会に改組され,それがまた新たな町内会の増加をもたらしたのであった。ところで町内会は関東大震災の前に既にかなりの増加をみていたが,これについては大正デモクラシーの影響が考えられる。その影響下にそれまで一部有志のみの組織であった前身組織に特権階級の組織という批判が生じたところから,町内居住者の全員を構成員とする町内会に改組されたのであるが,このことからは町内会が時代の進行に無感覚な存在ではなく,時代とともに動く性格を持つことが理解できる。
 町内会の機能,つまりそれが行う事業に関しては,町内会の一つの特色が多機能性である関係上,衛生,自警,兵事,祭事,慶弔,官公署との接触ほか多種類にわたっている。ただし当初は前身組織と設立促進契機の違いにより,その内の何を中心としたかは個々の町内会ごとに異なっていたが,しかし年数の経過とともにどの町内会も事業の種類を増やしていった。町内会の設立による多機能化および爾後の多機能性の一層の増大は,都市生活が複雑化し多面的ニーズが発生したことに対応した動きであった。加えて状況の変化に応じて多種類の事業のそれぞれに与える相対的重みの程度を変えていった。町内会はその機能が未分化,逆にいえば多機能的であることと並んでその成員として町内居住者の全員を網羅する点から,前近代的集団と近代的集団の区分を適用して,前近代的集団と規定されるが,多機能性は都市生活の複雑化に適応したからであり,また成員として全員を網羅しているのは前身組織時代の閉鎖性を脱却して開放的集団に変わったからである。この歴史的過程から見れば,前近代的集団と近代的集団の区分の機械的な適用が誤りであって,町内会は決していつまでも時代の進歩に取り残される非同時的存在ではなく,時代の先頭には立たないとしても,常に時代とともに歩んできた組織であったといえる。
 多機能化により衛生,自警,官公署との接触といった公的性格の事業も行うようになった町内会には東京市が大正末期からすでに関心を寄せており,また昭和初期には市議会もその助成を要求するようになっていた。しかしそれぞれの町内会の区域,名称,規約などは不統一であり,しかもそれは町内会が自然発生的であったことによって必然的に生じたものであるだけに外部からその是正を求めるのは困難と思われた。そのため市の対策は自由放任主義に多少の助長主義と監視主義を加味した程度に終始していたが,遂に昭和12年に町内会整備の実施に乗りだし,上のような不統一の是正に加え,隣組の結成と市内の全区における区町内会連合会の設立に着手した。しかし実施を始めた年度が日中戦争勃発年度と重なったことから,この整備は町内会を戦争協力のための国民総動員体制に組み入れる結果に終わったのであった。しかし整備の当初の意図は,膨大な人口が絶えず流入している大都市で自治を回復するための有効な組織として町内会を活用することであった。
 以上のように要約できる本稿では断片的ではあるが,町内会にたいして従来加えられている批判に言及してきた。言及したものも含め,町内会に加えられている批判の整理を試みるとすれば,次の点に纒めることができるであろう。
1)前近代的集団,あるいは封建的組織であり,五人組を継承するものである。
2)住民の自発性とは無関係な上からつくられた集団であり,官製団体である。
3)戦時中に果たした役割からも明らかなように,常に軍国主義やファシズムと結び着く体質をもっている。
以下これらの批判点に検討を加えることで本稿の終わりとしたい。
 先ず1)の批判については,それが妥当しないことは本稿で既に述べた通りであり,ここでさらに付け加える必要はないであろう。つぎに2)に関しては設立動機別町内会数を示した表1を見ると,「官公署の慫慂」によった場合もあることが分かるのであるが,しかしその比率は僅か2.3%にすぎないのである。先にあげた『町会規約要領』はその序文で「町内は何等官公の慫慂又は嘱託をも受けず,勿論何等の助成に基き生まれたのでもなく……真呼たる自発的団体」1)と述べている。また末尾ではこの報告書作成を担当した東京市社会教育課が報告書刊行の後れた弁明として,「再々町会事業の調査を企てたの……に甚だ遺憾ながら何時も満足なる調査を為し遂げ得なかった……原因は何時も町会事務所の所在が不明」2)なことにあったと断っている。官製団体であれば,町会事務所の所在が不明ということはあり得なかったはずである。さらにこれも既にあげた谷川の論文では,東京市の町内会対策が「自由放任主義」であったと指摘されている。以上の点から,極めて少数の例外を除き,ほとんどすべての町内会は自然発生的であり,決して官製団体ではなかったと言い得るであろう。では何故町内会が自然発生したかについては,一つには日本人の集団主義があげられるが,もっと基本的には,既に室町時代の末期から日本の都市では「町(ちょう)」の範囲をもって生活協力の単位としてきたという歴史的要因によるものと考えられる。これはかなり大胆な仮設の域をでない想定であるが,町を範囲とする生活協力を行うに当たってつくる組織が閉鎖的なものか,開放的なものか,その組織の事業として何を行うか,あるいはそれが権力に従属的になるか対抗的になるか,などのことは町が歴史的に置かれた状況によって異なるであろう。しかし日本では都市に住む者をして,町を範囲とした生活協力の集団をつくる行動のパターンを取らせる要因が歴史的に常に作用していたと考えられる。行動のパターンを文化人類学的に文化と呼ぶなら,これを「町(ちょう)の文化」と呼んでもよいと思われるが,この文化が起動力として作用したことから明治以降の東京で本稿でのべた各種の契機や都市生活のその時その時の状況の下に本稿で述べてきた性格を持つ町内会という集団が形成されたと考えられる(この点についてここでこれ以上扱う余裕はない。筆者の別の論文を参照いただきたい)3)。
 最後に3)に関しては,戦時中に戦争協力を行ったのは町内会だけではなかったことを想起する必要がある。当時は日本社会のあらゆる部分,あらゆる組織が戦争協力を謳ったのであり,大学や宗教団体もその例外ではなかったはずである。そのため時代とともに歩む性格の町内会は,時代が戦争協力に大きく傾いたので,それに引きずられて動いたのであった。こと戦争協力に関しては町内会は加害者ではなく被害者であったと言える。戦時中という一時期だけの活動で町内会の基本体質を規定するのは軽率な断定であろう。時代がデモクラシーや平和を強調しているのであれば,既に述べたように「デモクラシーを基調とし」「名称をも時代に適合した平和会と称」する町内会も現れるのである。


1) 東京市社会教育課編,前掲書,2ページ。
2) 同,189ページ。
3) 中村八朗「文化型としての町内会」(倉沢進/秋元律郎編『町内会と地域集団』ミネルヴァ書房,1990年)62―108ページ。
第6章
地方都市下層社会と民衆運動