技術と都市社会

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技術と都市社会

都市と技術

論文タイトル: 第6章:地方都市下層社会と民衆運動
著者名: 橋本 哲哉
出版社: 国連大学出版局・国際書院
出版年: 1995年
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第6章:地方都市下層社会と民衆運動

はじめに

 本稿は戦前期日本の諸都市の都市化と,そこにおける民衆・民衆運動との関連性の問題を具体的に研究するという作業の一部をなすものである。ここでの筆者の当面の課題は,明治大正期における地方都市の下層社会状況を明らかにしつつ,そこにおける下層民衆の固有な行動様式といった点について一定の分析を試みる。ひとつの強調点は地方都市下層社会の検討であり,それは研究蓄積の厚い東京,大阪・神戸といった大都市の下層社会とは相違した,地方都市の歴史的意義について私見を提示したいと考えている。あわせて,その地方下層社会の民衆が,民衆運動においてどのような固有な意識のもとにどのような行動形態を示したかも考察しようとしている。
 以下,具体的には金沢の伝統工業である箔工業とその箔労働者,彼らが中心的な役割をになったところの金沢米騒動を対象として,検討作業を展開する。

1 都市下層社会研究をめぐって

 下層社会研究の新動向
 筆者はこれまで何回か都市下層社会研究の意義について論じてきたが,ここでは1980年代後半以降,着実に進展している研究動向を見ながら,あらためてその研究意義について述べておきたい。次のふたつの大きな研究の流れを紹介する。
 中川清『日本の都市下層』(勁草書房,1985年)は,14を上回る書評1)が与えられたように,この間の研究のひとつの到達点を示した労作といってよい。いくつかの論点は筆者も書評を担当したのでそれに譲るが,戦前期東京の下層社会とそこにおける住民生活の実態はほぼ明らかになったといえよう。この中川の研究が,下層社会研究の水準を大きく引き上げたと評価した上で,なおかつ筆者は2点のこだわりを持つ。中川の反論を聞いても,「東京が,首座都市として近代日本の典型性を備えていた」という前提にまだ納得がいかない。現代にもっとも象徴して現れているように,そこは特殊に政治・経済機能が集中しすぎた異型の都市であって,他都市との距離関係を測りうる客観性を有してはいないのではなかろうか。筆者が地方都市の下層社会がもつ歴史的役割の研究について強調するのも,その点にかかわるといってよい。加えて中川の方法には,住民の意識や行動が下層社会及び都市政策,さらには国家そのものに投げかえす諸問題を捕捉するという部分に,弱点があると考える。
 最近の研究成果のもうひとつのグループは,大阪・京都・神戸などの関西諸都市研究の厚みのなかに示されている2)。スラム・貧民・米騒動が共通のキイワードとなっているが,そのなかから最新研究の布川弘論文を取り上げる。
 布川は一連の神戸を対象とした研究の上にたって,明治30年代までの下層社会形成期のとくに職人層,日雇人足層のナショナリズムを軸としたその能動性を分析している。そしてそのような「都市『下層』民衆こそが近代国家存立の基盤であった」3)ことを明らかにしているのである。この研究が「近代国家と都市の支配構造・政策形成に都市下層の動向が決定的な意味を持つことを強調し,とくに近代国家と都市における統合」4)を見通そうとしているという評価に,おおよそ同意する。こうした方法は中川に対する有力な批判ともなりうると考えるが,明治30年代までそうした統治政策の基本的方向が形成されたとする点には,すこし時期的には早すぎるといった疑問が残る。それは具体的には米騒動の評価とかかわる。この点は小路田泰直「帝国主義的都市の成立と生活難問題」により明瞭で,米騒動における都市下層のかかわりよりも「中間層」のかかわりをより重視する主張となる。筆者は都市下層・貧民の米騒動に対するかかわりの具体的分析は,まだ必ずしも十分には明らかにされてはいないと考えている。
 以上のことから,本稿が地方都市の下層社会の具体的な状況とそこにおける住民の行動(ここではそれを米騒動という民衆運動を通して考えるが)を分析することを課題とする意味を理解願えると思う。そうした場合の研究は,横山源之助『日本の下層社会』「貧民状態の研究」にいまだその出発点はあると考えている。前者に関してはすでに多くの論点が提出され,また後に若干の検討もするので,ここでは後者についてコメントを述べたい。
 「貧民状態の研究」は,1903(明治36)年に『中央公論』に発表した論文で,『日本の下層社会』より後の執筆であるだけに,横山の貧民研究の体系がより明確に提示されている。まず横山は貧民研究を一般的研究と特別研究とに分類し,前者では東京を例として他府県よりの移住者の増加割合,精神労働者と体力労働者との増加割合,細民の職業,市政の貧民および労働者に及しつつある程度等の7項目に分けている。後者に関しては,貧民研究の対象を列挙し,職業・住宅・共済制度等多岐にわたる研究項目をあげている。こうした視角の広さが横山の最も大きな特徴だったといえるのである。
 ところで横山の論文を一読してわかることだが,彼は貧民,貧民社会をきわめて広い対象として考察しようとしている。それは貧民の定義にはっきりとあらわれている。その定義からみていくと,「抑々貧民とは如何なる者ぞや,研究者に依りて各々相違あり,試に今日行はるる実例に依りて区別を立つれば」5)として以下の五つにそれをまとめている。1)貧窮なる生活にある者をことごとく貧民の中に加える,2)特定の場所に居住し,特定の職業につく者,3)貧民救済法の対象者,4)産業革命後の工場職工,5)ある特別なる生活社会(被差別部落を指す―筆者)の住民である。そのうえで横山は次のように言う。「而して余輩は最も広汎の解釈を取り,中等以下の社会人民は悉く之を貧民の範囲に加へんと欲す」6)と。さらに「日雇人足,人力車夫の普通労働者は固より,技術を要する職人及び工場職工の如きも同じく之を貧民に加へ,力役車外の屋台店,大道店,棒手振りの小商人も之を同一研究の下に置かんとす」7)と続けるのである。横山は貧民と細民を同一に捉え,要するに「貧民研究は中等以下の社会一切を包含する下層社会の研究なり」8)と定義したのである。
 以上の横山の見解を一般論として聞くと,はなはだ乱暴な主張のようにみえる。しかし津田真澂が東京の例ではあるが膨大な資料を駆使して分析したように,日清戦後の時代において工場労働者は他の都市下層貧民とともに「貧民窟」に居住する場合が見られ,日露戦後でもその生活水準にほとんど差異はなかったのである。大正初期でも職工社会と貧民社会の近接が論じられている9)。すくなくとも日露戦争期には労働者と都市下層貧民が揮然一体の状況で存在していたわけで,それを横山は客観的に明らかにしていたのである。この点は明治期の都市下層社会の状況を考察する上でもっとも重要だと筆者は把握している。さらに米騒動までは,同様な状態が継続していたと考えているが,それが地方都市の下層社会においても共通する事態であったか否かは,本稿の課題に属する。

 地方の都市下層社会

 戦前における地方都市の下層社会の問題を検討する場合に,いくつかの課題が設定しうるが,ここでは次の2点を若干論じておこう。
 戦前期の地方都市をどのように規定するか,あるいはどの都市を地方都市とみるのか,という点がその第1である。これには筆者なりの一応の見解があるが10),明治大正期では人口5万人以上の地方中都市以上を考えることにしよう。その都市数と人口数の動向は次の表1を参照してほしい。
表1 人口規模別都市人口の割合
 6大都市の総人口比率は次第に減少しているが,5万以上都市の比率は表中の全期間を通じて60%前後をしめ続けている。また1918(大正7)年における各都市の人口を表2に示しておいた。地方中都市と名付けてよいような都市名はいずれもこの表中にあらわれている。
表2 人口5万人以上の市・人口数(1918年)
 さて地方都市下層社会論に関する本格的な検討は,従来ほとんどなされていない。その数少ない例のひとつは横山源之助の『日本の下層社会』(1898年)であるが,横山には地方都市はあまり関心がなかったようだ。同時期の論稿に以下引用するような興味深い調査報告があるが,その部分は『日本の下層社会』にはなぜか載せられていない。
 横山にとって毎日新聞(島田三郎主宰)時代(1894―98年)が,もっとも油ののりきった時代であったが,その活動の結晶として『日本の下層社会』がある。この時期に身体をこわして一度,郷里(富山県魚津)にもどっており,その際この地での観察記録を「地方の下層社会」として毎日新聞に連載したのである(1896年10月25日以下18回,この第7―17回までが『日本の下層社会』に入っている)。この中から重要な部分を紹介しよう。
 この一連の地方の下層社会を論じている中で,本稿と関連する最も重要な部分は,第5回の都市の細民と地方の細民の比較をしているところではなかろうか。横山は「地方は都会に比して,固より極窮の細民尠しと雖も,事情を酌んで渠等の実際を思えば,其の憐むべきは地方は都会に等しく,寧ろ或は勝るものあらん」11)とのべたあと,都会と地方の違いとして次の諸点を具体的に指摘している。要約するとそれは以下のようになる。1)都会の細民は妻帯者が少ないが,地方の場合は大半が妻子をもち,近隣に親類をもっている,2)都会の細民同士の生活は日常社交,義理人情が少ないが,地方では人情味豊かである,3)都会の細民の妻の内職は自己のためであるが,地方の場合は家計補充のために内職をしている,4)都会の細民にとっては都会の生活の程度が高いため物品を求めやすいが,地方では衣食住などの物品を得にくい。その他若干の指摘があるが,重要なものは以上とみてさしつかえない。
 さて,こうした横山の指摘は何を物語っているであろうか。ひとつは,1),2)で述べている点であるが,都会の細民は独身者が多いこととも関連して居住の地域社会からは独立していることの意味である。彼らはいわゆる都市の雑業をになう部分であるが,どうしてもその地域で生活しなければ生きていけないといういわば追いこまれた階層であったとはいいがたい。その地域で生活ができなければ,他へ移動する可能性を常にもっていた部分といえよう。その意味では都会の細民は,都会という条件も含めてプロレタリア化する展望をもっていたわけである。一方,地方の細民はそれと対照的に特定の居住地域に家族もろとも根をおろし,そこで一定の生活のサイクルをもっていたのである。したがって,居住地域での交際といったものにもある程度関与することが,彼らの「生活の知恵」でもあった。しかし,地方の細民はそのままではプロレタリア化する展望はほとんどなかった。その地域社会になじんでいる限り,最低の生活は得たが,それ以上の希望は何等保障されていなかった。地域社会からいずれかの理由で排除された際には,彼らはおそらく都市の下層社会に出ざるをえなかったであろう。その際,4)でのべられているように,いきなり都市の下層社会にでても,何とかぎりぎりの生活を守れる一定の条件もまた都会にはあったわけである。
 横山の指摘を以上のように考えてくると,われわれは,横山がこの論文で都市と地方の細民の生活を単純に比較しているのではないことに気づく。その両者の相異を述べつつも,その両者の関係にもある程度関心をよせていたと考えることができる。簡単にいえば,地方の細民が都市にでることはあってもその逆はあり得ない。都市の細民のみにプロレタリアへの展望があったなどの点にそれがあらわれている。この点は,理論的な問題からいえば地方,農村の人口の都市への移動形態,農民の賃労働化するにあたってのコースの問題などのテーマと重なってくる。研究史の面からは,とくに原蓄期のプロレタリアの創出の過程として多くの見解があるが,いずれも確定的なものはない。横山の仕事の評価においても,地方の位置づけ,地方に関する論文については,やや脇におかれている感がある。大都市の都市化との関連で都市下層社会を検討することはもとより,地方都市の都市化を大都市と比較し,さらに地方都市の都市化の実態をも見通す必要性がある。このような課題を頭に置きながら,以下地方中都市金沢の例をとりあげることにしよう。


1) 中川自身がそれらの書評にまとめて反論しているが(「都市下層研究と生活構造論」日本女子大学『社会福祉』第28・29合併号,1989年9月),著者もこの書評の一列に加わったので(史学会編『史学雑誌』第95編8号所収),参照願いたい。
2) 代表的な著作と研究論文を例示すると,杉原薫/玉井金五編著「大正/大阪/スラム』(新評論,1986年),小路田泰直「帝国主義的都市の成立と生活難問題」(『部落問題研究』98,1989年4月),原田敬一「治安・衛生・貧民」(『待兼山論叢』第19号史学編,1985年),布川弘「都市『下層社会』の形成とナショナリズム」(『日本史研究』第355号,1992年3月)などである。
3) 布川前掲論文 81ページ。
4) 芝村篤樹「布川報告「都市『下層社会』の形成とナショナリズム」について」(『日本史研究』第357号,1992年5月)40ページ。
5) 横山源之助「貧民状態の研究上」(『中央公論』第18巻6号,明治36年6月)24ページ。
6) 同前 25ページ。
7) 同前 25―26ページ。
8) 同前 26ページ。
9) 津田真澂『日本の都市下層社会』(ミネルヴァ書房,1972年)を参照。
10) 橋本哲哉「都市化と民衆運動」(岩波講座『日本歴史』17 近代4,1972年),同「大正デモクラシー期における都市の形成について」(金沢大学『法文学部論集』経済学篇,1975年),同「日露戦後の都市化と労働力の移動について」(『日本史研究』第200号,1979年)を参照。
11) 「地方の下層社会」の全部は『横山源之助全集』第1巻(明治文献,1972年)に収録されている。引用部分は465ページ。

2 地方都市金沢と箔工業

 伝統産業都市としての金沢
 明治大正期における地方都市とその下層社会に関して研究することの意義を論じたが,以下その実証的研究の対象として金沢を取りあげ,民衆運動の具体的状況もかかわらせて,若干の考察をおこなう。まず金沢の都市としての性格付けから述べてみよう。明治大正期の金沢は全国の地方中都市の中で上位に位置しているが,旧幕時代は三都の次位を占めるほどの百万国城下町であった。しかし,明治維新後から戦後に至るまでの時代の流れにおいて,表3にあるように金沢市の人口の増加はわずかである。他都市の都市化の進行速度と比較するとその伸びは遅く,次第に人口数から見ると低位に落ち込みつつある。
表3 金沢市の人口
 さて次に地方中都市以上の各都市の主な工業の特徴を,工業比の高い順位に整理した表4によって,金沢の性格を浮かび上がらせてみよう。
表4 地方都市の工業比較
 地方都市(人口5万人以上)の中で金沢の工業の特徴を考察すると,次のような点が指摘できる。全産業のなかで工業の比率は比較的高く,繊維関係が第1位業種である。しかしそれも2割強であって,金属,木竹加工業も大きな比重を有する。この2業種と繊維の一部を含め伝統的工業といってよく,その意味では,金沢は伝統工業都市といってよかろう。また工業比の割合に対してみると,表中には表れないが,第3次産業の割合が高い。以上の特徴をもう少し細かく,金沢に限定して考えるために次の表5を用意した。
表5 金沢市の重要工産物(上位10品目)の産額
 これは1898(明治31)年以降,10年毎に機械的に年次を追ってみたが,金沢市の工業の展開の特徴はおおよそ把握できるようである。いくつかに整理すると,1)明治以降絹織物(中心は輸出羽二重)が大きな比重を占めているが,2)次いで清酒,染物(加賀友禅染),金箔,九谷焼などの陶磁器,菓子(和菓子),漆器などの金沢伝統物産品の工産額が目につく。3)金箔は好不況の波が激しいが,金沢市全工産額の2―4%を常に示している。4)上位10品目の産額の全工産額比は4割弱から,昭和初期8割弱に至るまで次第に増加し,金沢の特産品傾向が時代とともにその性格を顕著にしている。
 この表5にはあらわれないところの,金沢工業の特徴をもう少し追加しておく。それは工場の規模をその職工数から見るとすると,繊維工業を除いて機械器具,化学,飲食品,雑工業はいずれも1工場30人以下の小規模であること,また大正後期においても,それらの工場の原動力使用が遅れていること(全体の3分の2が電力未使用の手工的段階),その多くが伝統工業工場であることである。明治大正期の金沢市のこのような工業の状況を考えれば,そのひとつの典型として,箔工業を選び出し,その分析を通じて地方中都市金沢の特質にアプローチする意味を見出すことができよう。

 箔工業の展開

 「金銀などの貴金属は,古来,人の心をとらえて放さず,貨幣などに使われたのみならず,多くの美術工芸品として生活を飾った。その場合,粘着性に富むところから,薄く延ばして使う方法―いわゆる金箔にして装飾することも喜ばれたのは想像に難くない。おそらく,金銀そのものを素材に使ったのとそう違わないことから,金箔や銀箔も作られるようになったと思われる」1)。金沢箔の歴史を研究した下出積與は,箔の起源についてこのように書きはじめている。
 金箔は色合,光沢が永久に変色しないのが特徴であり,きわめて薄く,かつ軟らかであるためこまかい加工ができ,箔の王座をしめる。その主な用途は「仏壇,仏具,屏風,表具,ふすま,額縁,製本,マーク,金文字,看板,織物,金糸,売薬,陶器,漆器,扇子,鍍金押紙」2)とおそろしく広い。しかし近年では銀箔,洋箔(真銀箔・銅箔),アルミ箔もあるが,これらは金箔の代用品として生まれたもので価格も安い。ここでは金箔のみをとりあげて,以下箔工業の展開を旧幕時代から大正期まで略述することにしよう。
 加賀藩の金箔の歴史は藩祖前田利家の頃までさかのぼる3)。京都より箔打ちが移入されて箔屋が金沢に姿をみせたが,やがて17世紀中葉,幕府は金銀の統制をかねて,各藩での貨幣鋳造の禁止をおこない,一時金沢箔は中断されるところとなった。その再興は19世紀初,金沢城二の丸の焼失という事故がきっかけとなった。城再建のための莫大な金箔を,幕府の許しをえて藩は金沢安江本町町人伊助に調達させた。その当初は京都職人の力を借りたが,やがて藩の被護もうけて小工場が分立,それぞれ発展して,19世紀中頃にはマニュファクチュアの段階にいたったと考えられる。しかし一方では原料(金)の買い入れと製品販売を少数の問屋に支配され,また市場も極端にせまかったこともあって,マニュ段階以上には自生的な発展はできなかった。このような問屋制支配の評価に関して次のような見解がある。問屋制の支配によって,箔生産は「地金の圧延,上澄,打立,うつし,包装の部分工程」に分化された。そのもとにおける「生産の分化した発達は,それらの生産者の労働が,すでに完成生産物生産のための部分労働にすぎなくなったことを示しており……相互に補足し合って一つの完成生産物を生産する協業関係は,きわめてマニュファクチュア的なものであった」4)。
 明治維新後社会が平静にもどると箔の需要も急速にたかまり,300年間の全国的な禁制からの解放も手伝って金沢箔工業への新規従事者が殺到し,1880(明治13)年頃には箔打職工の数は1,500人にも達したといわれる。金沢箔はとくに評価が高かったが,その理由は「槌打精妙ニシテ其質極メテ薄ク,金量随フテ少ナキニヨリ,他産ニ比シテ価格ノ自ラ廉ナルヲ以テナリ,是レ我地方工人ノ特ニ一種ノ方法ニヨリテ原料粘着力ノ極度ニ達スルマデ之レヲ薄片ニスルノ技術ヲ有セシニ起因ス」5)と説明されている。
 こうした技術的優位によって他の地方箔を駆遂し,金沢箔の独占的地位はたかまっていった。しかしやがて金沢箔同士の販売競争,そして粗製乱造をひきおこし,折しも松方デフレ・不況期の到来も加わって,一転没落の憂き目をみる。「工人ノ多ク他業ニ転ジ,一時到ル処当業者ノ歎者ヲ聞カザルハナシ」6)という有様となった。この苦境期の1888(明治21)年,箔同業組合が結成され品質,価格の協定などの策がとられたが,詳細は不明である。日清戦後の近代化の好況の波にのって再び繁栄をとりもどし,日露戦後には「26軒の箔問屋を数え,羽二重につぐ金沢特産品としての地歩を確保するにいたった」7)。
 明治後期に金沢箔は著しく需要をのばし,全国的にも名声を博したが,後述するように家内工業における手工的な労働が主体で,当然そのため,箔生産工程の中で最も機械を導入しやすい箔打ち部門で,機械発明にとり組むものがあらわれた。
 金沢市箔業者の三浦彦太郎は日清戦後から打箔機の考案をはじめ,改良に改良を重ねた結果,1911(明治44)年,打箔機の製造に成功した。当初は質・量ともに手打ち箔をしのぐまでにはいたらなかった。第一次大戦後,それまで世界市場を独占していたドイツ箔が後退し,金沢箔にとって広大な市場がひらかれた。そうした好機にその需要増大にこたえるべく,優秀な打箔機の完成がなったのである。
 次の表6は明治末―昭和初期の金沢箔生産の動向をしめしたものである。この時期になると箔は金沢の全工産額のうちの5%を確実にしめるようになっている。箔生産は,明治・大正初期はその4分の3が金箔であるが,機械打ちが開始されると,例えば大正末年のように3分の2が金箔といったように洋箔等の比重が増加する傾向を示している。
表6 金沢箔の生産
 さて表6は一見してあきらかなように,第一次大戦後の打箔機導入の影響が金箔生産増に直結していることを示している。第一次大戦の前後を比較すると金箔生産額にして6倍強,生産枚数にして3倍弱といった増加の具合である。これにはもちろん好況による箔労働者の増加も関係しているが,やはり原動機付箔工場の登場の意義の方が大きい。しかしながら,打箔機が万能であったわけでは必ずしもない。大正後期の段階では手打の優秀な職人は月3,000枚を打つことができ,機械打ちでは月5,000枚といったところであった。ただ優秀な職人の養成には時間がかかり,一方機械打ちは比較的短期間で修得できる利点はあった。また質のよい製品は何といっても長年にわたって習熟した職人の腕とカンに頼らざるをえなかった。打箔機にも一定の限界がおのずと存したわけである。さらに箔生産工程の中で打箔工程は一部分で,他部門はあい変わらず手工的労働にゆだねられて機械化できなかった。ここに箔生産が工場制工業として発展しえなかった理由のひとつがある。それはともかくとして,1919(大正8)年は大正期の最高産額を生みだした。しかし第一次大戦後の反動恐慌,そして恐慌から恐慌へと日本経済がよろめくなかで箔生産者たちは大きな試練にあい続けるのである。次章との関係で前年の1918(大正7)年はどうであったか。この年もやはり箔にとって不況で,しかも大幅な物価高,米価高騰の連続で,とくに箔労働者は極度の生活難にあえいだのであった。
 箔工業の明治・大正期の展開をみてきたわけであるが,結論的にはそれが
近代化しにくいことを強調しておきたい。その理由について述べ,まとめにかえることにしよう8)。
 まず,箔生産が伝統的工業であることと関連して,一定以上の発展をみない歴史性を有していたことである。もともと問屋制的支配下にあったが,明治以降も商人資本への従属的な関係が続き,また小経営規模を守りとおしている点などを指摘しておこう。つぎに金箔が奢侈品または高級工芸品の部分的な装飾材料であることから,自ら新しい市場を開拓できず,生産はほとんど注文取引に限られていたことも発展を阻害した理由である。箔自体が最終消耗品であるため,市場の側から箔工業の近代化を押しすすめようとする動きもみられなかった。また前述したように度々不況の波にのみこまれているが,これは原料が金でありその使用に困難性が常につきまとっていたことも考えておかねばならない。最後に生産技術の手工的性格,非機械化部門の多いことなどの点であるが,これは次節でもう少し立ち入って労働の面から検討してみる。

 箔労働者の労働・生活・意識

 明治・大正期の金沢市内の箔工業地域は大体二つの場所にかたまっていた。後掲の金沢市街図を参照するとわかりやすいが,もっとも大きな地域は,市内卯辰山の西側,浅野川右岸の一帯である。もうひとつは犀川右岸の上菊橋―下菊橋周辺でここはそう広い地域ではない。箔の一帯に入るとあちこちから箔をうつトントンという独特の槌音が聞え,誰にでもわかる雰囲気が漂っていたそうである。
 まず箔の生産工程の簡単な解説からはじめよう。この点については下出前掲書がもっとも詳しい。金箔の生産は金を薄くたたき伸ばして箔にしたものであるから,素人には簡単な作業のように見える。しかし実は充分に計算された精密な作業が根気よくくり返される仕事である。それは大別すると上澄製造,箔打ち,箔うつしの3工程に分かれる。さらに箔打ちには特殊な和紙の力が絶対に欠かすことができず,この紙の生産工程も含めると4工程ということになるが,ここでは割愛する。
 第1工程から順に見ていくと金箔の原料は金であるが,正確には若干の銀・銅を含んだ合金で,その微妙な割合の合金作りから上澄屋の仕事ははじまる。まず100分の3ミリ位まで延槌で叩いて伸ばす(現在ではロール機を使用)。これを小さく(約2寸角)切って澄打紙に1枚ずつ入れ,約200枚ほど重ねる。そして5寸角位に叩きのばし,また小片に切って澄打機にはさんでは叩くという同じような作業を5回くりかえす。こうして仕上ったものを上澄(うわずみ)といい,それは約1,000分の3ミリの厚さとなっている。
 第2工程は,この上澄を大体1万分の2―3ミリの薄さにのばした金箔に仕上げる工程で,次第に高い技術が要求される本格的な製箔工程となる。基本的には箔打紙の間に上澄の小片(小間という)を入れ,打ちのばし,小片にして他の打紙の間に1枚ずつはさみ,打つという作業をくり返すわけである。この間,次第に伸びやすい打紙にうつしかえ,熱をもった紙,小間をさますなどの技術は長年のカンに頼るところが大きい。
 さて打つ作業であるが,打紙と小間とを500枚ほど重なったものを,普通は向かいあった2人で打っていく。熟練の職人が主槌(おもづち)をもち,石場の上にのせていろいろと移動させながらトントンと打つ。その1打の間を対面の徒弟・丁稚が2本の向槌で打ちこむのである。表が打ち終るとかえして裏から同じように打つ。この作業の部分に打箔機を使うようになるのである。打っては他の打ち紙にはさみかえ打つというこの工程は何回,どの程度おこなうかは必ずしも一定していない。箔が打紙一杯にきれいに均整の厚さにのびて,大体5寸5分角,1万分の2―3ミリになれば仕上りということになる。
 第3工程は金箔の仕上げ工程である。打ちあがった箔を,また1枚ずつとりだし広物帳にうつしかえる。そのとき,金箔は非常にうすく軽いものであるから静かにそっと天狗爪と仕事箸をつかってうつす。これをさらに1枚毎にとり出して合竹(あいたけ)で適当な大きさに切り揃える。所定の寸法では3寸6分角,4寸2分角,5寸2分角,7寸2分角で,それは現在もかわりはない。同じ大きさのものを100枚ずつ束にし,さらに5束あるいは10束ずつ箔箱に入れて完成となる。
 こうした箔生産工程に,箔労働者がどのようにかかわったのだろうか。その労働と生活,さらに彼らの意識の問題についてとりあげておこう。この点に関して,1973(昭和48)年11月,金沢の箔労働者(60―70歳台5名,他に鉄工労働者1名)からの聴き取り調査をしたことがある。それは箔工業と箔労働者の大正・昭和期の実態を知ることと同時に次章であらためてふれるが,箔労働者を中心として展開した金沢米騒動の様子の聴取が目的であった9)。このテープは3時間ほどのものであるが,まだ,公表・利用されてはいない。筆者もその調査に参加したので,この機会に一部,資料を公表しておくことにしたい(以下,引用に際しては「聴」とする)。
 箔労働者の労働と生活は厳しく貧しいもので,下層民衆と呼んでさしつかえないような下積みの労働実態であった。とくに熟練職人でない部分は,他職人のどの最低賃金よりも一段と低い水準であった。親方のもとに,何人かの熟練職人と何人かの徒弟・丁稚がいたが,彼らは住みこみが多く,「月25銭もらうのがやっとだった。月2回の休みのうち,1日に15銭,15日の休みに10銭もらった。その頃活動写真が5銭と記憶している」。前述したように打箔労働は2人の組でおこなったが,未熟な徒弟が打ちそんじると「主槌で頭をたたかれた。ものすごく痛かった」。労働時間は「朝7時から一応6時まで,しかしそのあと夜なべが10時頃まであった」(以上「聴」)というから大変な長時間労働である。聴きとりの座談に参加した人々は60―70歳代とは思えぬほど皆,年老いて痛々しかった。長時間労働と,風をきらう空気の悪い仕事場などが彼らの肉体をむしばんだのだろう。
 丁稚は8歳頃から入り,したがって箔近辺には大正期に夜間小学校があり,通学したとのことである。子ども達も同じような仕事についていたわけだ。食事は大変そまつだった。「お湯づけ,冷やめしに湯をかけたもので,いもが入っていれば上等だった。それにつけものが少々。夜,味噌汁が出ることがたまにあったが,のぞくと田にしが入っている。喜んですくおうとすると自分の目玉が写ったもので,何も入っていなかった」(「聴」)。
 最後に,箔労働者の意識について少しふれておく。それは全体としてみると複雑なものなので,次のように整理してみた。まず職人気質というか保守的な側面を指摘しなければならない。「箔打ちはバクチ打ち」といわれるように,宵越しの金をもたないという旧職人的な性格の一面があった。そして仲間意識も強い。しかし一方では,自己の境遇とも関係して「しいたげられた人々への同情心もあった」。隣接地区にひがしの廓があったが,そこの芸者女郎等への同情から彼女らの逃亡を手助けしたり,また身うけするものもいたという。「今でも仕事が箔打ちだといいにくい。昔は毎日のように,新聞にバクチ,ケンカ,無銭飲食の箔打ちと出て有名だった」(「聴」)と述懐する人もいる。
 ところでもう一側面では進歩的な,文化的な面もあわせもっていた。
 「2人で向かいあってやる仕事だから,話はいろいろとはずむ,職人の中には暇をみながら皆に新聞を読み聞かせる者もいた」。そうした会話・話題を通じて目を社会にむけたのであろう。「社会主義は当時,職人の間にはやった言葉だった。民主主義という言葉も知っていたし,仲間の1人に社会主義をあまり問題にするので警察に呼ばれたヤツがいた」(「聴」)。昭和初期のことだろうが,こうした話がかつての箔労働者の口から矢継ぎ早やにとび出す。たしかに箔労働者には全体としてこうした思想水準があったのである。
 また文化的な面も同じようなことからはぐくまれていた。「仲間に川柳をひねっている者が多い。皆先輩から教わった」,「私も12―13歳の頃(1920年頃―筆者),新聞に―8時間労働女性となえだし―という作品を投稿して載せてもらった」(「聴」)。
 以上はほんの一端であるが,こうした下層民衆である箔労働者の労働・生活・意識と米騒動との関係を次章で考えてみることにしたい。


1) 下出積與『加賀金沢の金箔』(北国出版社,1972年)2ページ。
2) 中村静治『地方特殊産業の構造』(石川新聞社,1951年)210ページ。
3) 加賀藩時代の金箔史は下出前掲書に詳しい。
4) 河野信次郎『金沢箔の沿革と現状』(1966年)41ページ。
5) 金沢市役所『金沢工業沿革誌料』(金沢市,1905年)110ページ。
6) 同前 111ページ。
7) 河野前掲書 43ページ。
8) 以下,中村前掲書(236―40ページ)を参照。
9) 石川県社会運動史刊行会の米騒動研究グループの企画・調査で,その研究成果は同会編『石川県社会運動史』(能登印刷出版部,1989年)を参照。

3 金沢の米騒動

 米騒動と地方都市

 1917(大正7)年の7月から9月にかけて,全国を米騒動がかけぬけた。これまでのところ,この年の米騒動が確認されていないのは青森・岩手・秋田の東北諸県と沖縄県だけである。いかにこの騒動が深刻であったかは,警察力だけでなく10万にものぼる軍隊を出動させ,騒動参加者に厳罰主義をとったことなどに現れている。米騒動は他の大正デモクラシーの運動ともあいまって,寺内内閣を退陣においこみ,原敬を首班とした政党政治を生みだすという歴史的意義を示した。さらに,この時期以降の社会運動全体の高揚をもたらす直接的契機ともなった。
 ここでは米騒動の一般的な意義を論ずるのではなく,本稿の課題との関連から米騒動を地方都市の問題から考察する。次の表7は,全国の米騒動を発生した都市別・行動規模別に分類したものである。
表7 米騒動の都市別・行動規模別件数
 米騒動が全国各市町村において,いかにあらゆる規模で発生,展開したかが判明する。以下,この表7における都市区分をもとに,その様相の概要を簡潔に指摘する。
 まず「農村の未騒動はそれまで非常に少いように思われていた」が「案外件数は多い」1)。そのうち町村規模の小さい所では,当然その行動も弱く小人数である(B・Cが比較的多い)。運動内容としては移出米阻止,生活救済要求(富山・岡山県下),小作争議との結合(奈良県法隆寺村など),地主など資産家への襲撃といったタイプが多い。この中で騒動のきっかけとなった米の移出反対という行動は「いわば本能」で,「地域の立地条件にいちじるしく左右され」,「全国的な普遍性・切実性をもつとはいいがたい」2)ともいえるが,富山の場合のように「明治以来の慣習」というその伝統性の面を軽視することはできない。
 市町人口の規模が大きくなるにしたがって,その行動力は大きくなり(Aの増加),またその都市の性格とかかわったところの展開をみるようになる。
 人口1―5万の都市の場合,20近くの都市に騒動がおこっている。Aの30余件の中には例外的に長野・高知で警察署への投石等の行動を見受けるが,いずれも米商その他資産家を主要目標として襲撃し,8月10―17日の最盛期に集中している点でそれは共通している。この中で尼ヶ崎のように新興都市の場合では「労働者街を中心として騒動が発生した」が,工場労働者より「前近代的労働関係のうえにたつ親方で,その主導によって日雇労働者などが蜂起」3)する事態となった。会津若松のように「土地と結合した商業高利貸資本や徒弟的経営が濃厚」4)な都市の場合には,そうした経営に隷属した職人層が騒動の主体となり,「商業高利貸業の集中的表現とみられる米穀商」5)にその矛先がむけられた。
 次に5―20万の中都市の場合はどうか。20弱の都市で30余件の大規模な騒動が展開している。富山と佐世保の例外を除いて,そのほとんどが8月14・15日の前後に集中している。ここでは行動目標・形態はその都市化の特徴と結びつき多様なものとなっている。豊橋・和歌山・松山・福井などでは警察・憲兵分隊を襲撃するといった大都市的傾向を呈しているが,呉ではそれがより明確となり,「水兵団と衝突し,暗中市街戦の観」6)といった熾烈さであった。しかもその参加者層は拘引累計372名中「半数近くの158名を近代的労働者である海軍工廠と吉浦造船職工が占め」7)るという特徴的な事態となった。さらに兵士の参加もあらわれ,後14名が軍法会議に付されている。しかし呉ではその後の労働運動の高揚(1919年10月,呉労働組合結成など)と民衆運動の発展はあったものの,米騒動中に労働者の組織的行動やその指導などはなかったといわれている。
 一方,後述するように金沢のように人口は多くとも(約15万),そこにおける都市化の進展がおそく,近代工業はみられず,伝統産業の職人層が広範に残存する都市では,騒動は日雇・職人層(金沢では箔労働者)が主体となり,米商に対する米廉売要求といった小都市的状況となった。
 このように,米騒動とひとくちにいっても,いくつかの類型があり,また都市化の状況ともかかわって複雑な展開を示した。ここでは金沢市の場合を例にしながら,とくにテーマであるところの下層社会とその住民の行動との関係で分析を深めてみることにしよう。

 8月12日の金沢米騒動

 7月の中旬,富山県魚津市の漁民の妻女たちが米の県外への移出を阻止しようとして港に集まって騒動となった。富山県全体は他の北陸諸県と同じように米の移出県であった。本来米がある地域にもかかわらずそれが店からなくなり,しかも他の地域に米を移出するという事態を眼前にして,民衆は憤激したのである。さらに,船への米の運搬作業は彼女たちの請負う重労働でもあった。したがって,実力で米の移出阻止の行動をとったのは,いわば自衛本能であった。これをきっかけに富山湾沿岸の同じような地域において,役場・米商・町の資産家・有力者宅などに押しかけ,米の移出禁止や米の廉売をもとめる騒動がひろがった。しかし,こうした動きはいずれも小規模であった。ところが,このニュースが新聞などをつうじて全国各地に伝わるにつれて,同じような不満が各地で一気に高まり爆発したのである。
 戦前の民衆の食生活の中で,米の占める位置は現在とは比較にならないほど高く,主要な食糧品であった。しかも「一升買い」といわれたように少量の購入をするのが通例で,貧しい庶民ほどその日暮しに,毎日のように米商に通っていた。そのようななかで,突然に米価が暴騰したのであるから,民衆の怒りは激しかった。いわば,生きるためにギリギリの最低生活の保障を求めて,民衆は立ちあがったといえよう。
 ところで8月10―15日,京都・名古屋・大阪・神戸・東京・横浜といった大都市に騒動が飛び火をし,その様子が新聞で報道されるようになって,米騒動は一挙に全国化した。石川県内の新聞も「中京大騒擾,知事官邸を襲撃,米屋町へ殺到す」といった具合に報道を始め,「無為無能の内閣」とまでいいきるような事態が現出した。
 金沢市内の米価は7月迄の段階は騰貴していたが,それほど急激な上昇率ではなかった。生活難の声が金沢市内各所にあがっているが,「在米調査すすむ」「外米売行トントン拍子」(『北陸新聞』6月4日,以下新聞からの引用が多いので『北陸新聞』は『北陸』と略。なお,同紙は8月7日から『石川毎日新聞』と合併し『北陸毎日新聞』となる。したがって,それ以降は『北毎』と略し,『北国新聞』は『北国』と略す)と市民に平静を訴える記事が続いている。
 ところで,7月末から8月に入ると「(米価)滅茶苦茶の調節」(『北陸』7月28日)「昂るか生活難の声」(『北国』7月30日)「米は何処まで騰るか」(『北国』8月2日)となり,「当局悲鳴」(『北国』8月1日)「悪政の窮極」(『北国』8月5日)となるのである。この間の市内における米価騰貴の数字は,事態をよく物語っている。当時はうるち米の白米でも上等以下何種類かがあったが,下等米を見ると6月には1升25銭前後だったが7月末には35銭にも値上りし,8月上旬にはさらにもう5銭,10数%も値上りしている。前述の新聞の見出しは決してオーバーな表現ではなかった。とくに,下層の民衆には毎日の騰貴は生活難・食糧難に直結したのはいうまでもない。
 全国にさきがけてはじまった富山県の米騒動が新聞によって金沢に伝えられたのは8月5日のことである。「女房連三百の集団,三隊に分れて生活難を訴ふ」「女軍定期船を襲ふ」(『北国』)「貧民三百余名,豪家に押寄せ白米安価を迫る」(『北陸』)。これが8月3日の中新川郡西水橋町の米騒動を報じた2紙の見出しである。そして前述したような大都市での米騒動が報道され,その記事にあわせて,「此窮民の実状を見よ」「不都合なる米商」「外米売り出し,遂に昏倒者を生ず」(『北国』8月10日)という惨状を呈するにいたった。
 11日深夜の1時40分頃,「米価の暴騰より糊口に窮せる苦紛れ,警鐘乱打」(『北毎』8月12日)という事件がおこった。市内巴町新道(現,笠市町付近)の警鐘が真夜中に突然に乱打されて大騒ぎとなったのである。これは水車町(現,小橋町付近)の建具師堀内治三郎が生活難からやけをおこし,不満のはけぐちにとった行動であった。堀内は「火元は十間町の取引所」と叫びながら,警鐘5点連打(警鐘5点は当時,県庁・裁判所・兵営と決められていたため,周辺住民を一層混乱させてしまったという)をおこなった。
 警察で事情聴取されたところによると,堀内には建具師としての仕事が少なく,やむなく娘を麻真田工場に働きに出したが,折悪しく妻が病気となり,米価騰貴が一層一家を生活難に落し入れたということである。こうした事情は当時の都市の下層民衆にはある程度共通しており,新聞の論調も「憐むべき細民」といった表現で,同情的に取り扱っている。また,「かれは米価の騰貴は十間町米穀取引所の存在せる為なりと誤解し今取引所を打ち壊せば必ず下落するものと浅墓な考え」(『北陸新聞』8月12日)から実行におよんだとされている28)。
 橋場町から浅野川大橋をこえて3本目の小路を右にはいると,しばらくの間,建てこんだ家並が続く。家々の間をくぐり抜けるようにすすむと,やがて卯辰山にむかってゆるやかな坂道となる。そうしたなかで,肩を寄せあうようにして民衆は生活しているが,その中心に位置するようにポッカリと神社が姿を見せる。それが宇多須神社である(資料中には卯辰神社とか毘沙門とかびしゃもんさまとか称されているが,いずれも別称である。ここではなるべく宇多須神社に統一して呼ぶ)。金沢米騒動の中心となった場所で,8月12日夜民衆はここに集まったが,その境内は意外と狭い。
 この日の米騒動については『北国』より『北毎』の記事がくわしいが,それらに石川県社会運動史刊行会が行った聴き取り調査の資料を加えて当日の騒動の展開状況を,以下述べることにしよう(前述した聴き取り調査で,以下引用にあっては「聴」とする)。
 「全市に亘って大群衆の示威運動,米穀商を歴訪して膝詰談判,知事官舎に押寄せたる千余名」(『北毎』8月13日)「金沢米運動,一千余の大集団富豪,米商を歴訪す」(『北国』8月13日)。これが12日の米騒動を報道する両紙の見出しである。米騒動という表現を使用せず,また,内容も煽情的なものとはなっていない。『北毎』は騒動のおこるまでの様子を次のように記している。「米商は遂に細民をして死か生の境に立たしめたるをみて,市内高道町亀井縄吉(60)は昨日浅野川口方面の貧民部落の各町に至り,米価は時々刻々暴騰を告げ,殆んど天井知らずの状態にて此侭推移せば,細民は遂に餓死を待つの外なし。斯る悲惨事を救済するの道を講ずるは焦眉の急なるを以て,此際細民は市の富豪及当局に嘆願すべく其の手段方法を議すべければ,十二日午後九時を期し,卯辰毘沙門境内に集合すべしと触れ回り,尚市会議員横地正果氏を訪れ,其趣旨を陳じ,同夜の会合に応援演説に出場せんことを依頼したるが,横地氏は市会に於ても細民の救助に就き善後策を審議中なれば,此際各町民を集合せしめ,斯行動に出づるはいささか穏当を欠くの嫌ひあるを以て,暫く成行に委し其結果を見ることに為すべしと大に慰撫して制止せしめた」。
 かなり具体的な内容の記事で,亀井なる人物がオルグをして回り,集合場所を宇多須神社と定め,横地金沢市議に応援を依頼して断わられたということである。亀井という人物に関しては後に少し検討するが,『北国』では主謀者のひとりという程度の扱いにとどまっている。
 亀井がふれ回ったという時刻よりも1時間も前から,民衆が宇多須神社に集まりはじめた。この日も夏の暑さが身にしみるような1日であったが,ようやくその陽もおちて,暗くなっていた。人々はおもいおもいに提灯などをさげ,不満をあらわにして言葉をかわしあっていた。その数が「百余名に達せる折しも主謀者亀井縄吉は群衆の中より立ち現はれ,階段に立って群衆に向ひ,斯く米価の昂騰底止する処を知らざる結果,吾々は空しく餓死を待つのみの窮境に立てり,此際吾々は宜しく在米者に対して廉価を嘆願すべく,自分は先頭に立つ間,志を同ふせる各位は随行せられたし,但し名古屋,京都に於るが如き軽挙盲動は包まれたしと注意」(『北毎』)したという。なお,『北国』は発言者を明示しないまま,「米価の暴騰に際し市内米穀商其の他正米所持者の執れる措置極めて当を得ず断じて警告せざる可からず」という「熱狂的演説を試むる処あり」としている。
 そうこうするうちに,同じ居住地に住む顔みしり同士が自然といくつかのグループを作り,その集団毎にそれぞれ神社を下り,市内に繰り出していった。
 その夜,金沢市内各所において展開した騒動の状況は新聞をはじめとした資料を総合して判断すると,次のようなものであったと推定できる。米商その他のおおよその場所は次掲の地図の番号に照応するので参考にされたい。
 第1隊は宇多須神社①を下り,大通りをこえて「東馬場,中の橋の角の山本米屋②」(「聴」),それから安江町の浅井米商③,田丸町伊藤米商④,その向い側の同町小森米商を襲った。山本米商では「これで許してくれ,と店のものが米俵をいくつか投げだした。そんなこともあって気勢もあがり,まわりの見物人も集団のなかに加わり,段々と人数も多くなっていった」(「聴」)。浅井米商では「群衆は総代として前記亀井縄吉,市内材木町一丁目大谷助松の両名進み出て,同家主人と対談する処あり。同家目下在米十四石を一升に就き二十五銭にて廉売せんことを要求せし処,同家に於ても其乞を容れ,来たる十五日頃より売出す旨を答へたるより群衆も何等不穏の挙動なく引上げ」(『北毎』)た。伊藤米商でも25銭の廉売を要求したが,「主人は所用のため小松へ出向中なれば即答し難しとのことに左らば,明日確答されたしと念を押して」(『北毎』)立ち去った。次の小森米商では主人が八石しか在米がないと答えたことから,「群衆は稍激昂の気勢にて左らば蔵を改むべしと敦圏きたるも不穏の挙動なく結局右八石の米を二十五銭に廉売の口約束を結び,群衆一同鬨の声を上げて九時半退散」(『北毎』)した。その後この1隊は来た道をもとにもどって,下堤町の鈴木商店⑤に押しかけてここでも米の廉売の約束をとりつけた。
 鈴木商店をでた後,2隊にわかれて,そのうち1隊は大通りを南下して片町を抜け,裏古寺町の大地主佐野久太郎邸⑥へ赴いた。「途中夕涼みの野次馬を併せて次第に其数を増し約五百名」(『北毎』)となった。佐野邸は富豪にふさわしく立派な門構えで,その「門堅くして入ること能わず,因って三たび四たび喊声を上げて門前に佗みつつワイワイ騒ぎ」(『北国』)続けた。「元気のよい二,三人の若者が塀によじ登り,米を出せとか叫んだりしていた」(「聴」)。「首領格の男は雨の降らぬのに『バンドリ』(蓑)を身につけていたが,むしろ旗やのぼりは持っていなかった」8)。
 佐野邸でかなり長い間ねばって騒いでいたが,結局駆つけた警官に説得され,引き返して「上柿木畠なる横山男爵邸に至り,竪町山川酒造店内及鱗町多田商店を歴訪し,転じて野町一丁目の山田米穀商店,北石坂町吉田米穀商店をも訪」(『北国』)れているが,結果は判然としない。しかし,この1隊は犀川大橋を渡ったところから次第に人がすくなくなり,やがて,自然に散会したような形となった。
 下堤町で別れた第2隊は「千二百名の群衆」(『北毎』)にふくれあがった。この集団は「鯨波を造りて森町三番丁なる知事官舎」⑦(『北毎』)に押し寄せたが,さすがにここでは数十名の警官隊が出動しており,行くてをはばまれ,説得されてそれ以上の行動にはおよばなかった。
 第3隊は博労町の興川商店(大樋町の米問屋興川商店の小売部)⑧を襲った集団である。当初よりそこに出向いた集団か,第一隊または第二隊の引き返した一団であるのか不明であるが,一応独立した集団と考えておく。興川商店は卸売と白米小売商もかねて手広く経営していた市内の大米商のひとつである。民衆は「主人を出せと怒鳴り立て,電燈を消し,将に不穏の挙動に出んとせるを,群衆中の一壮漢は頻りと逸る群衆を制して僅に硝子戸を破りしのみ」(『北毎』)に終わった。
 「群衆は斯くて十一時頃一旦もとの宇多須神社に引揚げ,同所に於て惣代らしき者より歴訪の結果」(『北国』)が報告された。白米約120石を翌13日より25銭にて販売させる約束が各米商よりかちとれた由であった。さらに,群衆のなかから「尚訪問すべき処ありと提議する者あり。其は頃日米を買込み居れりと云ふ山之上町岡部医院」⑨(『北国』)という声があがり,その方面へ民衆の一団が出発した。民衆のあいだでは岡部医院の評判は芳しくなく,「南定米をよこどりしていたのでこらしめてやった」(「聴」)ということで,さらに,春日町方面の「岡部の親の造り酒屋」「その先の米問屋にも押しかけた」(「聴」)。15日の『北国』の号外は深夜の民衆の行動をくわしく報じている。「引続き大樋町一帯の米問屋を歴訪する事とな」り,前掲岡部医院では「一日掛って三升の外米をさえ買はれざるに一袋を買占むるとは何事ぞと怒号が飛」び,200円の寄付を申し出させた。病院へ押しかける背景には,それなりの理由とその情報の民衆レベルでの伝達があったと考えられる。その後,春日町の千代方・本田米商・坂戸米商・上大樋町森下米商・杣沢米商,と次々に押し寄せた(以上を一括して⑩地域とする)。そうしたなかで「戸締りをなして就寝し居たるより,熱し切ったる群衆は叩き起せ,打ち壊せとの声物凄く,表戸を破壊し,将に椿入せん」といった厳しい状況となった。各々は1升25銭の廉売を申し出たため,民衆は「ここに其目的を達したりとして万歳を連唱し,歓声を挙げて解散し」た(以上,『北国』号外)。その帰途,さらに「一部は御歩町釣谷他吉」⑪(『北毎』,釣谷も米商である)にも立寄っている。この最後の集団は,前記3集団の混成集団のようでもあるが,一応第4隊として独立に取り扱っておく。第4隊が解散したのは『北国』は午前2時としており,『北毎』はもう少し早く終結したように記しているが,いずれにせよ深夜のことであった。
金澤市街地圖
 この日の米騒動は全部で4隊が市の中心である金沢城をとり囲むかたちで,4つの地域にそれぞれ騒動を展開したと推測できる。そのうち知事官舎付近を除いて,いずれも職人,中・下層民の居住地域で行動が繰りひろげられた。したがって騒動がすすむにつれて,そうした地域からの同調者が増え,自然に大集団となっていったのであろう。「その行動に参加した民衆は最多数の時には二千名をこえていた」9)という評価は少なすぎる。新聞に報道された第1・2隊の合計でも1,700名に達する。根拠は別に示されていないが,「三千人ぐらいだった」(「聴」)という記憶も残されている。4つの集団の延参加人数という意味ではこちらの数字が近いものであったと推定しておく。しかし,それはあくまでも集団の合計であって,組織的な同一の共同行動ではなかった。「一緒になってやるという雰囲気は少なかった。あっちもやったからこっちでもという対抗心があった」(「聴」)という参加者の言葉は検討する必要がある。
 12日の行動形態は亀井縄吉の発言にあったような穏当なもので,米商に対して乱暴な所業には及ばなかった。「米商に人がバタバタと入ると,ものの3分から5分で引き上げていった」(「聴」)が,この点は翌日も共通しており,のちに論ずる。
 米騒動の主体が箔工業の労働者であったことは,前出の聴きとり調査で明確となった。宇多須神社から西側,浅野川右岸は金沢の代表的な箔工業地帯であった。もうひとつは13日の騒動で対象の地域となった犀川右岸の上菊橋から下菊橋周辺にかけての地域である。したがって,この箔工業地域の性格と箔労働者の役割の認識が重要なポイントとなる。
 この12日の騒動の影響はすぐにあらわれたが,翌日の午後までの間の警察などの対応について言及しておこう。まずその夜のうちに米商側が対応した。「田丸町伊藤鉄次郎方より主人自ら電話を以て本社に対し左の通り代表者一統に対し此の旨伝達されたき様依頼」するというものであった。その内容は「代表者一同の主唱に対しては十分同情し居れり,兎に角斯かる重大の際なれば自分としても可成的好意を持ちたき事勿論にして,浅井方に於ても玄米三十八俵(白米にて十五石)を提供さるるとの事なれば,小生方にても浅井方同様三十八俵を提供すべし。勿論白米として升二十五銭に廉売すべく現品は何時にても引渡すべければ明日(十三日)改めて交渉に来るまでもなかるべし」(『北国』8月13日)というものであった。ここに至ってはじめて米商側から事態の解決を求めようとする動きが出たわけである。さらに,金沢米穀商同業組合は翌13日午前9時より評議員会を開催し,前夜廉売を約束した米商以外でもその資産に応じて廉売することを決定した。
 次に警察及び市当局の対応振りをみてみよう。金沢市は市内に1―2ヵ所の「市営販売所」を設け,16日より「一般相場より六銭乃至十銭方の廉売」(『北毎』8月14日)の意向を発表した。
 一方警察は襲われた米商等を早速呼び出して対策を講じたのであるが,『北毎』『北国』両紙をあわせて見ると,次の11名が警察(新町分署)に出頭した。米商は浅井・小森・興川・坂戸・本田・森下・杣沢の8名で,それに千代酒店・岡部医院・釣谷商店の3名を加えた11名である。そして次のような指示を明らかにしている。「吉野分署長より前夜の出来事に就き若し群衆の要求に応じたる場合は一面脅迫罪を構成してここに罪人を出すのみならず,安価に販売する飯米も七聯区民のみに限るが如きことありては公平を欠く嫌ひあれば,此際群衆との口約を破棄し目下金沢市にて一般任侠に訴へ,有志の義捐を仰ぎ居れば其向きへ応分に義捐すれば市内一般の貧困者にも潤沢し,最も策の得たるものならん」(『北毎』8月14日)。25銭の廉売は市民間に不公平を生じさせるのでやめ,その分をもって義損金に応ぜよという趣旨である。義捐金をもととした市の対策は相場より6―10銭安の米の廉売であるから,1升27―30銭という額での販売にまかせよと述べていることになる。民衆の側から見れば,各米商に約束させた廉売価格に2―5銭の上積みを強要したことになる。民衆の怒りに対して何とか穏便に対処しようとしている米商と,それを阻止せんとする市・警察側との対応の差が明瞭となった。
 さらに,警察は「主魁者を召還,警告す」という手段もとっている。呼び出されたのは前出の亀井のほか馬場四番丁橋本乙次郎・上小川町嶋野竹次郎・橋場町下村治三郎・上田町玉井勘次郎・材木町越川清吉・木町新保弥吉・春日町小坂政吉の8名である。警察は「目的を達したるものなれば,今後示威運動を試むるが如きは聊か穏当を欠くのみならず,県市共に米価調節の為め種々審議を重ね,救済策を講じ,富豪等も寄々救済の義捐金拠出に協議進みつつある矢先きとて,尚ほ進んで大挙運動の所為ありては却って利益ならず」と説得した。それにくわえて「本来ならば脅迫罪として直に告発すべき筈」と警告することも忘れなかった。代表者たちは150石程度の廉売米では不足であると反発したようであるが,「運動者漸く納得す」(以上,『北国』8月14日)ということになって,一応おさまった。こうしたなかで翌13日の夜を迎える。

 翌13日の米騒動

 ここに金沢米騒動に関する裁判記録がある。100枚ほどの裁判所用紙に書かれてあり,正式記録と思われるものの写真版である(以下,本節に限り注記のない引用は本資料からの引用である)。これからみようとする13日の米騒動で逮捕された7名の,金沢地方裁判所・名古屋控訴院・大審院のそれぞれの判決が記載されているが,各判決文だけで,調書その他は一切載っていない。また,事件の名称は地裁・控訴院段階では騒擾強盗被告事件となっているのに対して,大審院では住居侵入・恐喝未遂騒擾事件となっている。この事件の被告の判決などは次の表8の通りである。
 全国の米騒動での被告者は5,000名を上回る数となったが,規模が大きなわりには,金沢での逮捕者は少なかった。しかし,騒動が穏やかだったのに対して,判決は逆に厳しい内容で,そのため大審院までいって争われたのである。
 もうひとつ特徴的な点は被告となった7名は材木町界隈の騒動だけに参加していたのであるが,当日は金沢の他地域にも前日と同様な規模の騒動が展開していた。この点については裁判記録にはほとんど触れておらず,新聞資料を通じて補足する必要がある。
 まず,裁判記録を中心にして,材木町界隈の騒動の様子からみてみることにしよう。
 夜8時頃・兼六園内霞ヵ池付近に多数の群衆が集まっていたが,そのなかから40歳位の「一壮漢」が立ち上がり,「最近の米価の高騰ははなはだしく,たくさんの家族を抱えるものはどれだけ働いても生計を守ることができない。これは米商人が米の買い占めをおこなっているからで,市内の米商人にたいしてこれからでかけていって,米の廉売を要求しようではないか」といった内容のアジ演説をおこなった。その後,自らが先頭にたって数百名の群衆を引き連れるようにして,浅野川方向に下っていった。そして浅野川大橋の上手左岸の玄蕃町松本米商⑫をはじめとして,並木町の米島⑬,上川除町の土方⑭,材木町の原⑮・河越⑯,瀬川⑰,賢坂辻の河村米商⑱に押しかけていった。上方米商では民衆は屋内に入って,下駄箱などをひっくりかえし,茶の間では電灯を消して家人に1升25銭で米の廉売をするよう要求したりした。その最中に「打ち壊せ」「叩き壊せ,名古屋式にやれ」などと叫ぶものもあった。河村米商宅では廉売を承諾した旨の書き付けを書くよう強く求めた。各米商では参加者のなかのおもだったものが屋内に入って交渉し,そのほかの群衆は外でワイワイガヤガヤ騒ぎながら,なかでの談判を見守っていたという。
 賢坂辻の米商から出たあと,民衆は金沢城下の百間堀の方に向かったが,近くまで行ったところで警官に阻止され,遅い時間であるから解散するよう説得されて騒動は終わった。9時半頃のことであったと証言には記載されている。米商を襲ったコースをたどってみると,兼六園の東側の材木町を真ん中にした地域をちょうど一周した形となる。この地域は前夜民衆が出向かなかったところで,その意味では「計画的」に押しかけていったと考えることもできる。前夜と共通する点に目をむけると,1升25銭の米の廉売要求も同じである。強いて違いを言えば,廉売を空証文に終わらせないため,「書き付け」を各米商から取ることに強くこだわっている。
 被告らを含めた民衆が実際に各米商でどのような行為におよんだのか,はたして判決に示されているような恐喝をおこなったのだろうか。
 8時過ぎに兼六園を出た集団が前述のコースをたどって最後の河村米商にやってきたのは9時半過ぎであったと証言にある。このコースはおおよそ3.5キロほどの距離がある。城下町特有の細い曲がりくねった場所であるので,集団が急ぎ足の行動をするのは困難である。かなりゆっくりとしたペースでこの距離を歩いたとすると約50分前後の時間を要したと推定できる。この間,7軒の米商に立ち寄っているわけであるから,差し引き考えると,1軒平均6分前後とどまっていた計算になる。これは前夜と比較しても大差はなく,短時間であった。各米商でねばって強硬に談判し続けるといった余裕はなく,また暴行の限りを尽くすといった時間でもなかった。その行為は恐喝罪を立証せんとする判決でさえ戸を外し,下駄箱をひっくりかえすといった程度しか認めておらず,凶器をふるって脅迫したという状況を示してはいない。
 さて,前掲のような罪状・刑の判決を受けた7名の被告たちの行動とその後について少し述べておこう。まず,井波余所次は判決において「重立チタルモノ」として主犯と見なされており,刑ももっとも重いが,兼六園でアジ演説をおこなった「一壮漢」ではなかった。それは井波の次のような証言があるからである。「私宅ノ付近ヲ多数ノ人ガワイワイ言ツテ通行シタル故,出テ見タルニ其人々ハ近時米価が暴騰シ,貧民共ニ困リ居ルニ付キ市内ノ各商店方ニ行キ,米ノ廉売ヲ頼ムノデアルトイフコトナリシ故,私モ米ノ廉売トイフコトハ宜イコトデアルト思ヒ,群衆ト共ニ各米屋ヘ赴キタリ」。
 このように,井波は騒動の途中から参加したのである。米商での談判は率先して行ったようであるが,2―3の米商は「予テ知合ヒナル」と井波を言い表しており,顔と名前が一致したことが,主犯格とされた主な理由ではなかったろうか。田辺吉久も主犯格であったとされているが,騒動にはその当初から参加していた点で井波とはことなる。「市民ガ米廉売ノ運動ノ為メ公園ニ集マルト云フコトヲ聞キ,同夜八時兼六公園ニ赴キタルニ,多数ノ群衆ガ第七連隊ノ方面(旧金沢城内―筆者)ニ走リ行ク様ナリシ故」,それに加わったと供述している。彼の行動は「騒動ノ助勢」をする程度であった。
 大山口三郎・伊藤源右衛門・大西嘉之助の3人はほぼ同じような行動をとったと認定されているが,それは「率先シテ」米商の屋内に入り,「騒擾ノ勢ヲ助ケタ」と形容されている。狩谷勉爾・旗作次の2人は民衆とともに米商に押しかけて屋内に入り,「騒擾ノ附和随行」をなしたとされている。
 金沢地方裁判所の判決は1918(大正7)年10月30日に下された。執行猶予の付かなかった井波・田辺・大山口の3名は控訴したが,翌1919年2月に名古屋控訴院,同年4月に大審院でいずれも棄却されてしまった。事件後,大審院で刑が確定するまでに1年も満たないというスピード判決であった。
 以上のように逮捕・起訴者は材木町の騒動に限定されていたが,13日も前夜と同じように,市内全域にわたって米騒動が展開した。不思議なことにそうした様子は裁判の過程や判決文のなかに,ほとんどあらわれてこないが,新聞資料をつうじて次の五つの集団とその騒動が確認できる。
表8 被起訴者の判決・罪状
 第1は前夜と同様,宇多須神社に集まった民衆の動きである。『北毎』は「平穏なりし卯辰群衆」という見出しで,おおよそ次のような内容を報じている。境内に集まった民衆のなかから原屋甚吉(安政の金沢未騒動の中心人物)の孫と称する人物が立ち上がり,「共同生活のために共同の目的を正当に達すれば可なり。今諸君の容姿を観るに,恐らく細民にあらずして中産階級の人なるべしと信ず。故に互いに醵金して共同生活の目的を達することに努力すべく,徒らに祭り騒ぎをなすは此の目的を達するうえに於て不徹底なり」と演説したという。「細民にあらずして中産階級の人なるべし」とはどのような意味であるのだろうか。それはともかくとして,これを聞いた民衆は拍手喝采して引き上げたことになっている。
 兼六園に集まった民衆の多くは前述の材木町方面に出かけていったが,それとは別にふたつの集団が行動している。そのひとつは金沢警察署新町分署に押しかけて行った。そこで拘留中の堀内治三郎(11日に巴町の警鐘を乱打した男)の釈放を嘆願したが,警官に説得されて解散したようである。もうひとつの300名ばかりの集団が兼六園を下って広坂を通りぬけ,裏古寺町の地主佐野久太郎邸に殺到した。ここには数十名の警官が出向いて説得にあたったが,民衆は容易には納得せず,この日もっとも遅く10時過ぎまでねばって米の廉売等を要求した。その間,2名の青年が佐野氏に面会を求め,寄付金の拠出の約束を取りつけたりした。2晩連続で民衆が出かけていったのは,この佐野邸だけで,それだけ民衆の関心も深かったといえよう。
 第4の騒動は犀川右岸の川上地区に起こっている。7時半頃上菊橋付近に民衆約300名が集合し,川上新町の富豪角谷儀太郎⑲,同町の松本米商⑳,長柄町の森商店(21),川上新町の富来金物店(22)と次々に歴訪し,米の廉売や義指金の醸金を要求した。「群衆は寄付金の大きは川上方面以外にして,同方面の人々は最も冷淡なり」と不満が述べられたと報道されているように,前夜の騒動の影響がはっきりとうかがわれる。その行動も激しいものであったので,新聞にも「強硬なりし」と表現されたのである。途中,警官が駆けつけ「尚鎮撫に努めしため九時頃にいたり無事引き上げたり」(『北毎』8月14日)。前述した聴き取り調査の際に,騒動における集団同志の関係について,聴き取りの対象者たちは口をそろえて集団間の「対抗心」を強調した。川上地区は前述したように金沢市内のもうひとつの箔工業地域であったが,民衆の行動とその報道はそうした状況を裏付けている。
 以上の四つが新聞報道を通じて補足しうる13日の金沢市内の米騒動であるか,もうひとつの集団が存在したのではないかと推定する。
 13日の米騒動で7名が起訴されたことは前述のとおりであるが,起訴猶予処分となった関係者が別に24名いることが新聞の記事より判明する。その全員ではないが,住所・職業も記載されている。職業が判明するのは18名であるが,内訳は日稼ぎ5・箔打職3・人力車夫3・大工など職人4・職工3である。大部分が下層社会の住民であり,下積みの民衆である。住所が判明するものは22名である。これに7名の起訴者を加えた29名の住居の分布を見てみると,次の四つの地域にまとまっていることがわかる。
 もっとも多いのは材木町付近の一団で,井波らを含めて合計16名を数える。第2は犀川大橋付近で6名,第3は川上地区の3名で,どちらも騒動が展開した地域周辺の民衆である。ところで第4の集団として石引町周辺の4名が確認できる。騒動の展開地域とその居住者との関係を重視するならば,この第4のグループの存在に注目すべきであろう。新聞・裁判記録などの資料では明確にできないが,石引・小立野通り筋の米商2・3軒(23)が襲われたらしいことは,前記の聴き取り調査で指摘されていたものである。騒動が次第にいくつかの集団にわかれて行動し,また,別個に騒動を展開したりしているので,そのひとつひとつをすべて新聞は追い切れなかったのであろう。以上の五つの騒動に材木町のものを加えて,合計六つの騒動が8月13日は金沢市内において展開したのである。その全体の規模は12日の騒動にまさるとも劣らぬ大規模なものであった。さらに質の面においては,前12日と同様な意味合いを持つところの騒動であった。


1) 井上清/渡部徹編『米騒動の研究』第1巻(有斐閣,1959年)107ページ。
2) 同前 第5巻 18,20ページ。
3) 『尼ヶ崎市史』第3巻(1965年)483ページ。
4) 庄司吉之助『米騒動の研究』(未来社,1959年)152ページ。
5) 同前 154ページ。
6) 吉河光貞『所謂米騒動事件の研究』(社会問題資料叢書,復刻版)169ページ。
7) 山木茂『広島県社会運動史』(労働旬報社,1970年)191ページ。
8) 以上は奥谷陽一「米騒動七十年」(石川県史編さん室編『石川県史だより』第19号所収)。
9) 前掲『米騒動の研究』第3巻 469ページ。

むすび

 金沢の米騒動について,現在まで明らかになっているその展開状況をかなり詳細に追ってみた。それを箔労働者の行動・意識,地方都市の下層民衆といった観点からみた場合に,いくつか整理しておくべき問題があるようである。それらを指摘しながら,不十分ではあるが本稿のむすびにかえることにしよう。
 まず,箔工業とその労働者の性格と役割についてである。金沢米騒動の以前に「箔の親方連中が町内をまわって何事か相談しあっていたようだ」「何となく事が起こりそうな息をつめたような気配が隣近所にあった」。筆者の聴きとり調査に答えてそのように語る人々は,いずれも当時10代から20歳前後の若者である。こうした記憶だけでははっきりとした根拠とはならないが,箔打ちの一帯では騒動にのぞむ何らかの「組織的」な動きがあったと感じられる。何となく人が集まったわけではなかったのだ。「親方連も職人に飯を食わせないわけにはいかなかったから」という理由も成り立つし,後の裁判所への箔関係者の嘆願書もそのことと関連させて重視しておきたい。さらに,12・13日の民衆の行動には共通点をいくつか指摘しておいたところでもある。また,箔労働者たちの日常的な労働,生活,意識の様子は米騒動にいつ立ち上がってもおかしくない状況であった。その場合,「社会主義を知っていた」という先進的な民衆の存在をあまり大きく取り上げるのはどうであろうか。それよりも正義感に近い感覚で彼らは決起したと見る方が,箔労働者の意識を考えた場合より妥当ではなかろうか。こうしたことから箔労働者の一部が岡部病院に押しかけた事実を,新聞記事以上に筆者は重視しておいたわけである。
 一方,13日の騒動も12日とほぼ同質であったが,ここでは裁判所が組織性なり指導性を問題にしたほど,それは明白には存在しなかったようにも見える。
 第2に騒動の中心は箔労働者をはじめとした下層民衆であったと判断するが,その際,箔工業の同業的な性格とはやや異なったものとして,当時の金沢市内の聯区制を取り上げておく。これは現在は「校下」とおきかえられているが,町会よりはやや広く,おおよそ小学校の通学区域といってよいような生活地域である。共同行動の集団化・組織化,あるいは情報交換において,この日常的な地域単位がいろいろな面で大きな役割を持っていた。とくに地方下層民衆の場合,横山源之助が指摘したように,互助的な生活連帯は不可欠であった。さらにやや大胆な仮説であるが,米騒動の場合,集団は大きく見るとこの聯区毎に形成され,行動していたのではなかろうか。それぞれの集団の行動範囲・順路を追っていくとそのように推測しうる。ここには指摘したようにいくつかの生活共同体的な一体感があった。しかし聯区毎の各隊間にはさらに大きな共同行動に団結して発展していくということよりも,対抗意識の方が強かったことも前述した通りである。3千人がひとつの集団としてデモンストレーションに及んだのではなかったし,そうなる可能性もそのままでは乏しかった。
 第3は米騒動の指導の問題である。12日の場合,新聞記事もまたそれのみを資料として書かれた金沢米騒動は,いずれも亀井縄吉を英雄視している。しかし,聴き取りの対象者たちは全員口を揃えてそうした見方に異を唱えた。「亀井のことを当時よく言う人はいなかった」「いまで言えばゴロツキみたいな人」「商売,仕事は何もせずバクチをよくやっていた」「人格は非難されるところが多かった」と評判は大変に悪い。したがって,筆者は亀井の指導力を積極的には評価しない。集団の行動を箔の組織や聯区の生活共同体の観点から見ると,それぞれの中心的人物が自然に指導的な立場に立ったのであろう。日常的に信用のない亀井が突然全体を引っ張って指導的な役割を演じたとするのは少し無理がある。地方下層社会と民衆の論理はそのようなものだったと理解している。
 第4に,下層民衆の情報伝達・交換は,実にさまざまな形態で行われていたと想像される。その点は箔の労働・生活問題の個所で説明した。また「魚の行商のお母ちゃんなどから滑川の様子(最も早く起こった米騒動)はよう聞いていた」という具合に,こうした情報は井戸端であっという間に広まっていたにちがいない。当時,新聞は必ずしも主要な情報源ではなかった。これらの点は,今後,大正期を考える際に具体的に研究を積み重ねてみる必要がある。
 最後に,民衆運動における伝統性の問題について述べておこう。これにはふたつの事柄がある。ひとつはその地域で何か事を起こすときに何処に集まるのか,どのように行動するのかは日常的に一定のきまりや経験の蓄積があり,これは伝統によって培われたものだったのだろう。米商への押しかけ方を見ても,短時間に(警察などと面倒をおこさぬうちに)何の要求を勝ち取るのか,なかなか手慣れていたようであるからである。さらに一例を加えれば,宇多須神社(毘沙門)に集まることは当時では周知のことだった。ちなみに金沢安政5年の「米騒動」もこの毘沙門は,ひとつの拠点となっている。またもう少し広い意味で,北陸地方には米騒動の伝統があった。とくに富山は明治以来何回も繰り返されていて習慣化しており,このことは金沢の民衆もよく承知していた。こうしたなかで,下層民衆は米騒動に望む際にやむにやまれぬ生活難からの行動であると受け止め,大それた事,あるいはまったく未知の状態に踏み込んで行くといった悲壮感を持ってはいなかったであろう。したがって同調者も自然にふくらんでいったのである。