技術と都市社会

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技術と都市社会

都市と技術

論文タイトル: 終章
著者名: 林 武
出版社: 国連大学出版局・国際書院
出版年: 1995年
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終章

1 町内会

本書の主要な内容のひとつは,町内会の形成と機能とにかかわっている。
 どの執筆者も言うように,どのような問題視角から,どのような分析手法をとるかによって町内会の具体的イメージは変わる。それにもかかわらず,町内会は日本の都市社会が自ら形成した機関であることには変わりがない。これを欧米諸国には例のない,迷惑きわまる,干渉メカニズムだとみたり,選挙や行政の下請け機関とだけ断罪することも,われわれは経験してきた。
 だが,本シリーズのように「日本の経験」を,技術の導入・移転から自立・発展にいたるまでの総過程として,総括するさいに,「都市と技術」という特別の研究プロジェクトを設定したのは,次の理由による。すなわち近代技術が,広汎な関連技術とサービスを不可欠とするものであり,しかも至近距離にすべて配置されていることを必要とする。つまり,そこが都市に他ならないからである。また,別の言い方をするならば,「近代的な」都市化は工業化を,諸技術の集積とその緊密な相互依存の構造を,内容としている。本書でとりあげている「町内会」も,この全国民社会的な変化の過程で,時代ごと,地方ごとに,それぞれ別々の動機から形成され機能してきたのだが,こうした「第二次的」社会組織は,急速に人口を膨張させている発展途上国の都市には,欠落している。
 その第二次的社会関係の欠如をもって,第三世界都市の機能不全のすべてを説明することはできない。しかし,そこに「町内会」のような機関が生まれれば,社会的統合をすすめ,慶弔のさいの互助機能をもち,保健・衛生にかかる実践的な単位となり,親睦と視察の主体となったり,また防犯・防災の末端機構となり,行政の非能率を補うことになれるだろう。そういう機能を日本では「町内会」が担ったことには注目してよい。ついでに言うと,江戸の時代から火災が多かったのは周知のとおりだが,東京になってからも住宅の大方が劣悪な木造だったから大火が多く,しかも明治初期には放火による火災が40%ちかかったと言う。これが,先駆的な自衛組織としての「町内会」つまり「夜警団」が存続した理由だった。政治の安定と行政の確立がない段階では,治安はよくならないものだということを,このことは教えている。
 多くの国で,行政がさきにあげた種類の機能を委任しようとしても,それの受皿がないし,機能しないのが実態だからだ。その種の第二次集団のないことが,官僚主義的・強権的な機能不全・非効率を生む母胎になっている。もっとも,国によっては,こうした第二次集団が反政府・反権力活動の温床になることを警戒して形成を阻むこともある。だから,こういう実情は,エリートと大衆の双方にある「政治的未熟」と低い社会的統合水準(または社会経済的格差)の産物であるとしてもよい。

 町内会の起源

 「町内会」が,江戸時代の「五人組」に起源をもつとしてよいのかどうかは確かに議論の分かれるところで,連続性がどこにでもつねに認められるのではない。むしろ,新しい情況に即して一種の祖先帰りが行われたものとしてみたらよいかも知れない。全然新しいものは,むしろ,生まれにくいものだし,生存しにくいものだからである。だから,昔ながらの祭事や防火・防犯の組織に追加された機能が今日では「町内会」の主たる仕事になっているとしても,それは自然なことであり,逸脱や違反ではない。そういう機能や役割の変化は,あらゆる社会集団におきることである。
 「町内会」が,同一町内ないし近隣居住者すべてを成員とするのが原則である限りで,それが普及するのは,都市化と工業化が一定のレベルに達してからである。明治維新で東京の人口がひとたびは激減して,20年余でまた増加しはじめるのだが,増加した理由である「貧困層」は家族を形成していなかったし,かれらが居住した「裏店」や「長屋」の人口移動は激しく,2・3年でいれ変わるのが普通だった。「貧民」たちが,日払いの長屋住いから,「月払い」の「借家」人に変化するのは,前世紀の末からはじまって今世紀の最初の10年頃にかけてであった。とすれば,「町内会」が全居住者を成員とする事態は,このあとからのことと考えられる。
 もっとも,そのことは旧市街地の町内「有志」たちが企画し運営する各種行事(慶弔や祭礼,娯楽)に「長屋」居住者が参加しないとか,排除されていたことを意味するものではない。多くの場合に,かれらは主体ではなく,客体にすぎなかった。そうした行事を主催するのに必要な経験・企画力・資金調達力・交渉力や社会的信用が十分ではなかったからである。高い流動性は,それを身につけさせないし,かつて備えていた能力も失わせる。それが,「近代」への移行期にある都市社会では,どこにも認められることだった。

 「近代化」と識字率

 ここで注目しておきたいのは,町内会(またはその指導的メンバー)の仕事のひとつに,次第に整備され体系化されてゆく各種の届出や行政文書の処理があったことである。簡単な読み書きと算盤は,長屋の住民でもできたけれども,言文一致が遅れていた頃の官庁文書の記入や処理には独特の経験知が必要だった。いわば漢文体と口語体の通訳者回架橋の役割をかれらが担った。この役割の分担者が第三世界の都市には少ない。イギリスの社会学者が検証しているように,日本の教育水準(=識字率)は,すでに江戸末期で,イギリスに劣らないか,それより高い。商家や職人のもとで小僧になったり弟子入りしても,業務・営業に必要最低限の3Rは教えこまれる例であった。だから,必要に即した識字の水準にとどまってはいても識字者の層にはひろがりと厚みとがあった。それを押し上げたのは,イギリスと事実上で時差のない義務教育の制度化であった。
 義務教育の学区制と(複数の)町内会がリンクしていたことも附記しておくことが必要だろう。ところで,アジア・アフリカの諸国には,自分の名前が書けて読めれば識字者とするところが多い。このことだけからしても,「町内会」が担った,「近代化」の過程における調整機能の大きさは判然とするだろう。そこに,われわれが「町内会」に注目した理由はある。

 居住条件の変化

 毎日払いの「宿代」・「店賃」にせよ,月払いの「家賃」にせよ,工業化「初期」の雇用は,大工場でも多くは工程ごとに親方の「請負い」であり,徒弟制の延長であった。そして,入門・就労には紹介者・保証人が必要であった。その紹介者や保証人になってくれたのが,「長屋」の差配人である大家か,「町内」にいる親方や熟練職人であった。
 そればかりではない。熟練職人や職工でも,独りの収入で一家を養いきれないので,子供までふくめて,家族全員が雑役や小間使いとして就労するのも,その回路によってのことだった。親方や職人が出入りの取引先や親類・縁者も,そういう仲介者になった。

 雇用と町内会

 それだけでなく,マッチ工業や製縫業(の一部)は,家庭内の内職として,同様の回路で下請化された。
 繊維工場が,スラム附近に立地したのは労働力の調達が容易だったからだが,まもなくその激しい長時間の労働に耐えられなくて,離職する者が殖えて,不足分を都市で調達できなくなって初めて,農村や遠隔地から,募集人を介して雇用するようになる。そして,調達に費用をかけた被雇用者の逃亡を防ぐために「宿舎」に収容した。
 それはセメントや紡績の機械制の近代工場が旧市街地の外に立地するようになって,熟練工を中心に長屋式の「スラム」から脱出する人口が殖え,労働者街が次第に形成されるようになる。それは労働人口が家族を形成するようになったということだが,工場周辺では住宅が不足して「職工下宿」とか「労働下宿」と呼ばれる劣悪な居住に単身者の職工が収容された。これが,工業化にともなう都市化と,その都市化につれて生ずる「都市問題」なのだが,そういう場所では,「町内会」のような近隣集団が成立しにくい。
 好況のときに労働者,とくに熟練労働の離職を防ぐことが必要になって,工場が「長屋」や社宅を提供するようになる。そのとき,「町内会」に似たものが,経営側の管理の一環として,作られるようになる。
 好況のときに親方や熟練工が離職したり自営業者として独立したりするのは,日本の近代工場のほとんどが技術移転のさいに,ヨーロッパより数段こまかく工程を分解し,その小工程のあいだを移動させることで,熟練形成を早め容易にしてきたからであった。そしてかれらには独立・自立の志向が強かった。それを逆用して,不況のさいに,経営側がその小工程を分離・独立させた。小工程を分離し下請化することで,経営の負担を軽減した。こうして分離・独立した「小」経営主だちは,「町内会」と称するかどうかは別にして,直接な競争関係におかれていない限り,近隣集団の形成に同調した。こうした小経営(主)は,さらに,技能上の専門化または特殊化を生きのびのためにすすめるので,そこに師弟関係や疑似兄弟関係が相互扶助・協力を内容として展開されるので,枝分かれし,拡張される。こうして,技術上の「都市的ネットワーク」がいくつもの層をなしながら,広域的に確立される。工場地帯とその周辺に形成される近隣集団は,技術または技術と関連するサービスと技能の,系列を通じて,ゆるやかに,また都市内を横断して形成された点で,商業区や旧都市部とは違う契機をもつものの,その展開の起点だった。
 こうした技術と技術の系列化を媒介とする「町内会」が,第三世界にはないのは,都市における工業化の水準が未だ低位にとどまっているからに他ならない。そして,外来の「近代的」技術が要求する3Rの水準に達しない教育と識字率に,都市人びとの大方が押しこまれているからでもある。

 工業化と都市化と近隣組織

 第三世界の都市が第二次的社会集団を成熟させないのは,「工業化」の仕方にかかわっている。極論すれば,工業化ぬきに都市化がすすめられている。それは農村人口の増加・対農地人口比が増大するので,プル・プッシュ論として言えば,都市が不足する労働力を引き寄せるのではなく,農村が過剰な労働力を押し出しているからである。
 押し出された労働力には,しかし,近代的な工業が必要とする知識や経験がない。都市の工業と地方の農業とのあいだには労働の互換性がすでにない。だから,押し出された労働人口は,いきおい劣悪な条件のサービス部門に,不定期の就労と転職を繰返しながら従事するほかない。あるいは,単純な重労働をする。こうした「雑業層」(いわゆるインフォーマル・セクター人口)には熟練形成の機会がない。またかれらは定住化できたとしても,近隣集団などの活動に参加する余裕が少ない。わずかにある機会は,同郷者や同人種の集団や同宗派集団の活動に向けられる。そういう組織だけが,不馴れな社会環境への困難な適応を支援してくれる。
 総じて,「工業化ぬき」の都市化は,国際関係から大きな制約を課されている。植民地時代に,都市は宗主国からの駐留者のためのもので,原材料の調達ならびにその製品を販売するための拠点であったし,それを円滑化するための行政と治安維持のためのものだった。そのことが,初期的な工業化の芽をことごとく摘みとった。したがって,今日の「工業化ぬき」の都市化は植民地都市の遺制の延長線上にあるものに他ならない。
 これに加重されたのが,現代技術の必要とする先行条件であり,必要な支援セクターである。そういう条件が充分でないから,移転した技術を稼働させながら,同時にそれを整備してゆかねばならない。したがって,近代技術の産品は,そうしたところでは,品質が悪いのに高価格となり,市場性がないという悪循環におちこむ。他方で,先進国や新興工業国から流入する製品とのきびしい競争にさらされる。
 この20年ほどの間に,東南アジア諸国を中心に労働集約な製造技術が,主として直接投資という形態で,移転され続けた。それが雇用創出になったものの,それを上まわる人口流入があるので,都市化の内容を充実させる効果は未だあげていない。むしろ,貿易加工区その他の形態による「技術のポケット」ないし「孤島」ができただけで,国民技術体系の形成はない。
 そのことが,各国民社会の内部に,都市の「ランクとサイズ」による都市の階梯構造を形成させない。階梯は,すでに国内的にではなく,国際的な堅い枠組みとしてあるもののなかに組みこまれている。
 ここで改めて言うと,都市化には三つの局面がある。第一は,既存都市が膨張することであり,第二は都市数が増加することである。そして,第三には,各都市のあいだに機能の分担による大中小都市の階梯が成立する。
 しかも,アジアNIESが立証するように,そういう国々の都市は,前世紀のヨーロッパ都市とは異質の,そして今世紀の日本の経験とも全く別の,独得な「工業化」と都市化の過程をたどっている。その経過に即して,独自の都市生活のスタイルが形成される筈である。日本が独自のスタイルをもったのと全く同価で対等のものとなるだろう。「町内会」がそのまゝ移植される必要はないし,風土と文化とに馴致する(される)仕方で,この「日本の経験」を活用することが,あるいは可能なのかも知れない,というだけのことである。

2 グローバルな都市化の現在

 第三世界化

 先進工業国にいま失業が急増している。「日本型」と称された雇用方式と内容にも変化の徴候がみとめられる。注目すべきは,1970年代からすすんだ一連の技術革新で,日本は世界技術の三極と位置づけられるようになったことであり,欧州連合EUの停滞が底深いことである。とくに製造工業のハイテク化につれて,それにおくれた産業都市は財政赤字に見舞われ,都市的生活機能を縮小させる他ない事態に直面している。その数が5万以上におよぶという。これは1990年代が,ヨーロッパを世界最大の経済力に転成させる10年になると予想されたのと併行する事態である。それは経済と技術のグローバル化・ボーダーレス化として生じたことで,これまでに形成されてきた国民国家ごとの都市間階梯のシステムを動揺させるものである。そして,その将来が見通し難い。その点で第三世界都市の問題と通底しており,レベルとスケールを変えただけにすぎない同一の問題である。

 ハイテク化

 これをかりに先進国都市の「第三世界化」と言うならば,労働市場にもそれが生じてきた。すでに述べたように,第三世界都市には労働力が過剰であるのに,工業技術の必要に見合わないので遊休している。ところが,ヨーロッパでは工場の自動化をふくむハイテク化の進行につれて,経営不振と失業がひろがり,失業者が2000万にも達するという深刻な事態となった。その背景に,これまで技術をリードしてきたのが常に軍事技術で,巨大システム化し超高度化した軍事技術を民生用に転換するのは困難をきわめるという事情がある。軍事技術はひたすら高性能だけを追求すればよいのだが,産業技術は安定性・確実性を基礎にしてコスト・パフォーマンスがよくなければならない。そのうえ,巨大システム化してしまった軍事技術をダウンサイズ化しなければ実用性がない。この作業は,スケール・アップ以上の技術力と開発投資を必要とする。そこから困難が生まれる。
 また,民生・産業技術への転換を部分的にせよ可能にする技術力・資金力をもつ企業があっても,それはすでに巨大な国際的な技術独占体だけであろう。そうだとすれば,経済の「民主化」は犠牲にされるだろう。「冷戦体制」後の技術事情は,雇用を安定し拡大する方向をとるのではなく,選別的に高度化し超少数化するものになる。民生化というハイテク化はそうなることを予想させる。熟練労働者をふくむ労働力が十分にあるのに,それらは単能工で,ハイテクが求める高教育の多能工でない。だからここでもまた,教育問題がからむし,とくに多能工への再教育が社会問題化する。この点で,ヨーロッパ的な標準からすれば,日本の工場では,工程分解が細かく,狭い範囲の熟練者を前・後工程に配転して,多能工にする企業内訓練OJTが定着している。中等教育や高等教育でも,高度の普通教育が行われることを経営は期待していて,高度の職業教育は医療など一部を除いては行わない。そういう技術教育が日本を三極の一角にした。日本の高度産業技術社会化は,敗戦で多数の優秀な技術集団が公・私の企業体に流れこんだこと,ならびに学制改革で多数の理工学生を,第二次大戦までの工学水準にむけて訓練したことが,地方産業の裾野を拡大しその水準をあげることに寄与した。しかしながら,それさえ敗戦の無資源・小国が生きのびるためには高度な加工「技術立国」しか選択の余地はない,とする国民的合意があってこそ実現されたことである。
 エネルギー転換にともない,石炭や鉄鋼などの資源・素材産業技術に依存してきた都市の凋落は激しい。この点では日本もヨーロッパと同じである。日本では不振の旧産業都市に代って首都圏の膨張が著しい。東京都心部の昼間人口は2400万に達する。全東京人口の2.5倍になる。職住間の距離が大きくなったうえに,その居住空間は欧米都市の平均よりはるかに小さい。
 首都圏への人口・技術・情報の過度集中という事態は,発展途上国における首都のみの膨張つまり首座都市化primate cityと全く同じ事態に他ならない。違いを言うなら,600以上の都市が階梯構造をもっているところにある(そして,その10%にあたる64都市が人口30万をこえている)。とは言っても,地方の県庁所在地都市が「小さい」首座都市をなしているので,日本の都市ヒエラルキーは二層の構造をもっていることが違う。それだけ社会統合の水準が高まっている。かたわらで,それは,人口流出による過疎化が各地方ですすみ,新しい形での「村潰れ」がおきていることに,それは併行したものである。
 東京に再び立ち戻れば,東京は,人口・市場・人材の多さと,それにもかかわらず治安のよいことがメリットであるけれども,世界一の物価高・住宅不足・過密交通などのデメリットという「都市問題」の新しい局面にいま立たされている,と責任になるから失敗を認めたがらない行政府さえ言っている(「首都圏白書」1993年版)。市民生活の問題として言えば,ゴミ処理・騒音・老後の保健と介護問題の深刻化が,近代化と都市化にまつわる核家族化の結果として出てきた。そういうことが「町内会」活動の新しい分野となるのかも知れないが,町内会という近隣組織でだけ処理はできない全社会的な構造問題でもある。人口の長寿化・高齢化は,いまの構造のままでは,次の責任世代にこうした広義の社会福祉コストの負担を大きくする。そのことが,一方でハイテク社会化を推進させるだろうし,ハイテク化の方向にも変化を与えるだろう。日本の都市社会で表見上の生活水準は高くとも,その質的内容としては依然として貧弱である。それは新しい形の「貧困」とみることもできる。したがって,旧い形の「貧困」や旧い「都市問題」を,国内にも諸外国にものこしながら,どちらにも新しいものを追加しているのであり,そういうボーダーレス化した国際社会にわれわれは生きている。この点からすれば,発展途上国が経済的自立,または産業技術的自立を早く達成しないと,われわれは「新しい」貧困を解決できない。技術援助は,自立にむけそれを加速できるものに制限されるのでないと,共生は難しい。共倒れになる危険さえある。
 冷戦体制の終焉は,技術格差の拡大を南北問題に残したままで,新しく東欧の中進国問題を追加した。東欧の事情が明るみに出してきたことは,古典的なまでに生産力至上主義であったのと,その結果として環境問題が放置されていたことである。ヨーロッパのハイテク化を阻止しているのは命じられたこと以外は「してならない」のが原則である「テイラー主義」の技術・労働管理だが,東欧では,テイラー主義が工場のなかだけのものでなく,社会主義国際分業という名で国際化されたシステムだった。それが労働者から積極性を奪い,既得権に執着させて,技術革新を敵視させることになった。統一ドイツが,その問題処理の第一実験室となるのだろうけれども,東アジアにも同じ問題がやがておきるだろう。
 「中進国」や「南」の諸国にとって負担なことは,かつて日本がしたような解体工学reverse engineeringによる学習を今日のハイテク製品は許さないということである。基幹部分は解体したら復原できない。製法が組立て方式ではないからである。とくに電子工学応用の機器や設備は,力度計算がすすんだこともあって,有効寿命も決まっている。だから,一定時間がきたら使用頻度や稼働時間に関係なく,基幹部分を交換するか,システム全体を更新しなければならない。それがメンテナンス・フリーということである。
 このような現在の技術事情は,開発のための技術戦略に,より選択的かつ周到であることを強いる筈だし,高機能でも高額・短命の機器が不可欠の分野はごく限られたものにするしかないだろう。それ故,限られた投資財源の合理的配分は,一挙に国際商品化に向かうのではなく,まず国内のニーズに見合うシーズを探りあて,それを次第に高度化することで,やがて国際的なニッシュにつなげることにしか,恐らくは,ない。
 それに成功するときでも,Q&D(品質と納期)を左右する梱包と配送のシステム管理というソフトな技術が必要になる。国際的なニッシュにつなげる前に,途上国では首座都市制から脱出しているに違いない。

 日本の経験

 われわれは「日本の経験」を語っているのだが,すでに述べたように,日本が欧米からの技術移転によって最小の規模と最低の水準で産業革命を達成して「中進国」化したのは1920年代初めのことである。その時代と今日とでは,技術をめぐる国際関係は構造を一変している。そして,技術もはなはだしく高度・精密になった。だから,日本のようにすべての技術分野を一国内にフル・セットで完備させることはすべての国に必要でもなければ可能でもない。
 韓国はいまや世界第10位の自動車生産国で,毎年100万台を産出する技術力を備え,アメリカやカナダにまで市場をひろげている。韓国は,そうして外貨を獲得している反面で,自動車の輸出が殖える分だけ対日赤字が大きくなることに不満らしいのだが,それは近代技術がスケール・メリットに立脚しているのと,韓国市場が狭いので,主要部品を輸入に依存したところで,それはむしろ合理的で賢明な選択だった。資源存賦と技術力に即した戦略で成功したということである。
 技術の全分野を高い水準でとり揃える,という一国を単位とする技術自立の戦略よりは,数ヵ国が共同して「集団的」技術自立collective self-relianceを戦略とすることの方が,私には,自立を加速するもののように思える。具体的には,水平分業や部品の共通化を推進することである。それでこそ,文化と風土に馴致した製品になる。ヨーロッパはすでにそう動いている。
 また,日本製自動車は,たとえば,熱帯や乾燥地帯の仕様になっていないし,オフ・ロード向きでもない。日本のODAにも「第三世界むけ」仕様はない。そういうところに必要な情報と経験を日本は未だ貯えていない。その分野こそが今後の効率的技術協力の課題になることだけは確かなことである。

むすび

 すでに述べたように,近代都市は技術の集積地であり,近代技術が必要不可欠とする支援技術とサービスを包囁する場所である。日本の都市は,近代化以前にすでに,在来技術の展開のうえに地方的集積地として「町割り」という都市計画をそれぞれがもち,かつゆるやかに全国的な都市ネットワークを確立していた。その最上位に大阪が位置していた。
 そのネットワークがあったからこそ,国際環境が強制した明治維新という政治変革が採用した「殖産興業」という工業化政策が(曲折をへながらも)実現された。それは,しかし,今日とは比較にならない技術の水準だったのに実に60年もかけた大仕事だった。そのさい,「工業化」のために支払った犠牲は,個人的にも,社会的にも,決して小さくはなかった。先進技術を移転することで,農業中心社会から工業社会に変身するのに在来技術は総動員された。在来技術は確かに架け橋にはなったものの,決して近代技術に自力で転成できなかった。あっさり言い切るならば,社会組織と文化の変容を強いるものであったからである。このことによって生ずる社会的な摩擦と緊張は,決して小さくはなかったし,一過性のものでもなく,幾度も形態を変えて噴出を繰返した。にもかかわらず,工業社会への移行については全国民的な合意があった。そのことが,移行期の摩擦と緊張を和らげる効果をうんだ。そこには「殖産興業」という産業的特化の政策が国家の政策になる以前に,すでに,各地方(=藩)で実験されていたことであり,それが規模を拡大しただけのことであった。
 とは言っても,それは長い年月をかけた曲折の多い道程であった。つまり,高価な先進技術を移転して,1)まず,正確な操作技術を修得し,次いで2)保全・保守の技術を身につけ,さらに3)修理技術を覚えて小改良を繰返し,やがて4)風土と社会に合う自主的「設計」の技術としたうえで,やっと5)国産化できるようになるという五段階を経験してのことだった。これが技術的な後発者日本が自立に到達する過程であって,それ以外には自立の過程はなかった。
 今日なおありふれた技術についての誤解は,技術を社会的システムをもつものとしてではなく,単なる機器ないし装置としてのみ見ることである。それは技術の消費者としての見方であっても,近代技術の担当者のものではない。だから,私は近代技術を次の五つを構成要素とする(社会的な)システムとして説明してきた。1)エネルギーをふくむ必要な原材料[マテリアル]ぬきには起動しえない(M1),2)機器[マシーン]と機器がもつ体系が技術であり(M2),3)それを稼働させるのは技術者と熟練つまりマンパワーである(M3)。産業技術では,安定した操作を続けないと製品に対する信頼がえられないから合目的的に技術と労務の管理することが必要になる。同じ設備・機械を使い,同じM1M2M3を利用しながらも,製品に相違が生まれるのは管理[マネージメント]の巧拙による(M4)。
 こうして製造されたものが商品化されて評価されるところが市場であり,市場のニーズに合わないものは淘汰される。そして,これまで述べてきた四つのMそのものが,つまり技術そのものがマーケットをもつことになる(M5)。技術が移転されるのである。
 日本および日本技術への関心が世界的に高まっているが,さきに述べた技術の構成要素や国民技術形成の段階にたいする関心は必らずしも強くはない。日本は外国技術を吸収することに確かに成功はした。しかし,多くの失敗を繰り返してのことである。輸入するものの関税率を日本政府は四半世紀以上も外国人に握られていたのだし,横浜税関の収入は抵当に入れられていた。それだけでなく,居留者保護のために駐留する外国軍隊に施設を提供し費用を負担させられていた。それが日本の「近代化」の起点だった。
 新しい首都東京の都心ちかくには多くの「スラム」があり,人びとは「半裸で裸足だ」と明治初年の欧人旅行者は書きとどめている。関税自主権をとりもどすために,不平等な一連の条約を改訂するために,首都らしい装いをもつ不燃建築街を,ロンドンにならって「スラム」を一掃したあとに建設した。銀座の煉瓦街である。だが,それは高価なのに,通気性が悪く,高音多湿の日本の風土には馴染まなかった。居住性が良くなくて不人気だったから,この「不燃都市化計画」は放棄された。そして,改めて土蔵造りの建築が市民のあいだでみなおされる。さらに入念な本造建築には強い耐震性のあることも再評価されることになる。それらは,いずれも素材・技法・設計のどれをとっても風土に馴致されて,生きのびてきたものであった。もっと言えば,そのすべてがすでに規格化・標準化されていたのでもある。つまり,近代技術との接点がそこにあた。石造家屋より,はるかに精密だった。その防火のためには,屋敷間の間隔を大きくしたり,植樹や道路の拡幅などがされれば有効に作用しただろう。だが,江戸は埋め立てて造成したところだから,制約があった。かたわら,水路が運送目的からも縦横に走っていたから,防火にも利用できた。むしろ,質の悪い木造住宅が過密であることに問題があった。
 過密という「都市問題」は今日でも残ったままである。近代工学技術が馴致されて耐震性の建物が超高層化した,つまり平面的な過密が立体化されたのである。その結果が,都市部における昼夜間人口の格差拡大である。夜間は事実上の無人化するし,朝夕の交通ラッシュになる。風土と文化に建築技術は馴化して耐震性をもつ高層建築がふえたものの,そのことがまた新しい問題を生む。そういうものがふえても,東京の全建築物の平均階数は未だ三階に達していない。戦前には,一・二階だった。
 私はいまエジプトの建築家ハッサン・ファトヒーHassan Fathyの仕事を思いだす。とくにこの人が設計した集合住宅は,在来の素材・技法・デザインを近代的手法に採りこんでいるから,建築費が安くすみ,修理しやすく,居住性がよい,と住民から好評である。前衛性などとは無縁である。借用・模倣の段階から伝統の創造に向っている。温故知新といってもよい。こうした活動が技術自立に途を拓くことを「日本の経験」プロジェクトは教えてくれた。