技術と都市社会

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伝統産業技術と職人の役割

著者名: 古屋野正伍
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目次

1 日本の近代化における伝統技術と職人の役割・・・・・・・・・・2
2 地方中心都市における伝統産業の展開・・・・・・・・・・8
3 伝統工芸職人の生活と意識―米沢交子の場合・・・・・・・・・・14
4 結 語・・・・・・・・・・21
 基礎的な文献・・・・・・・・・・23


1 日本の近代化における伝統技術と職人の役割

 このプロジェクト全体の大きなねらいは,いわゆる外来技術の導入の社会的影響や,その過程での在来技術との関連性の追求,ひいてはこのような日本の経験が,途上諸国の発展に果たす役割への期待とその解明におかれている。本稿ではさしあたり,このような外来的なものと内発的なものとの共存するわが国の都市的技術のなかで,いわゆる伝統的な技術とその荷担者である職人層の果たす役割について考察してみたい。
 現代日本の都市社会では,一般的にいって,大規模な工業開発に見られる,いわば人間―機械系の文化が支配的であり,これに対して職人の家内仕事のような人間―道具系の文化は,きわめて圧縮された存在となっている。人間―機械系の様式の成立にともない,しだいに人工物が独立性をもち,これが自然のみならず人間をも支配するようになる。これに対して人間―道具系は,つねに人間が物を支配し,自然と融合する世界である。ここで技術の位置づけは,前者では人間に対立するものであるのに対して,後者では人間と融和共存する。今日の都市社会で,人間と融和関係にある技術とはいかなるものであり,それはなにほどの存在意義をもつのであろうか。
 ここでとくに日本の伝統工芸ないし伝統産業1)というものに着目してみたい。日本は諸外国にくらべて伝統工芸の種類が豊富であり,またその技術を継承・発展させてきた点でも有数な国であるといわれる。それはひとつには,日本の地形・風土が変化に富み,この多様な自然環境のなかで,それぞれ特色のある生活様式がいとなまれ,これに適応する工芸技術が育成されたからであろう。またその技術の継承という点では,伝統工芸の生産機構として,村落に渕源をもつ家族の生活様式が,ながく農村のみならず都市でも支配的であったことと,そのような生活様式がすぐれて自然との融和関係によって維持されたこと,などに深く関係するものといえよう。このような自然とのふれ合いこそは,伝統工芸技術の形成とその定着にとって,欠くことのできない条件であったように思われる。なぜならば,伝統工芸で用いる原材料が土とか木とか金属など,すべて自然材であることに加えて,その自然を生かすためになるべく単純な道具が使われるものだからでもある。しかもその道具は,生産者がみずからの用途に合わせてつくり出すもので,そこには大量生産につながる機械の導入は許されないのである。
 これまでの記述からもある程度明らかなように,伝統工芸は主として特定地域の生活上の需要に応じて成立・発展したもので,その地域で得られる自然材料を用い,また地域性の濃い手工業的生産であって,この意味でいわば内発的な性格をもつ。しかしそれはもともと外来的な技術によるものを,まったく排除するものではない。たとえば,仮りに外国から伝来した工芸技術であっても,それが永年日本の特定の風土にはぐくまれ,その生活様式に適応するように馴致・発展させられたものである限り,それは伝統工芸の範疇にはいる。内発性ということは,ここまで拡大解釈してさしつかえないと思う。
 これは伝統における変容の可能性ということとも関係がある。伝統工芸は自然に根ざすものであるが,同時にまた人間の生活とも深く結びついている。柳田国男の多くの記述のなかには,日本人の生活技術の変化をきわめてダイナミックにとらえた箇所がある。たとえば,「要するに我々の生活方法は,昔も今も絶えず変って居たもので,又我々の力で変えられぬものは殆ど一つも無いと言ってよい」という発想。これは「今日固守して居る所の昔風の如きも,実に遠からぬ昔に支那から朝鮮から採用したものが多く,食物を始めとし住宅などにも大なる中世以来の変化がある2)」という指摘を受けた記述である。伝統」ということの解釈については,陶芸家の浜田庄司も,「私たちのからだの中に持っている,血の中に伝統というものがあるのではないでしょうか。自分の持っているものを,ただ潔らかに,無駄なものをくっつけないようにして,自分の仕事に結べば,泉を堀るまでもなく,その国の伝統というものは,生きてゆきましょう」という柔軟な考えかたを示し,「なまじ技術を知っているために,その技術に拘束されて自由にできない3)」ことをいましめている。
 伝統の内発性ということをこのような意味でとらえるならば,日本の近代化の過程で,その果たした役割が如何に大きかったかに,改めて気づくのである。しかしそれは,S・N・アイゼンシュタット等が提唱するような,「近代社会」の代りに「脱伝統社会」をもって置き換え,伝統がいわばそのままのすがたで近代化を推しすすめる役割を果たしていることを意味しない4)。柳田国男が指摘する生活技術の変化ということは,他面において伝統のゆきづまりないしは形骸化を予想しているものであろう。伝統が真に伝統として生きるためには,外来的な刺激もさることながら,とくに内発的な力によってたえず拘束を排除し,形骸化の危険を避け,これに新しい息吹を与えてゆくことの必要性を主張するのが,柳田の真意であったと思われる。浜田庄司の主旨もこれと同列のものであろう。こうして伝統はそのままのかたちではなく,それが否定され,再構成されることによって,はじめて近代化の推進力になり得たといえよう5)。伝統における創造性の貫徹という視角を重視する限り,この主張は正しいと思われる。
 近代化において内発性の果たす役割の重要さは,日本だけのことではない。これが発展途上国の近代化にとっても,中心的な推進力ないし原動力となるとの認識が広まってきた。すなわち,これらの国々はすべていわゆる後発社会に属しており,その近代化にとって,先進国の影響による工業化には限界があり,それぞれのもつ伝統に根ざした内発的な力の必要性が,改めて確認されてきたわけである6)。この意味において,同様に後発社会であった日本の経験は,現代の発展途上国にとって,関心のもたれるものであろう。ただし,われわれがここで問題にするのは,社会の近代化における内発性の積極的な意義や役割についてであって,ある社会でこれを分析・検出するために用いられる理論や方法が,他の社会の分析にも特別に役立つことを言うのではない。たとえば鶴見和子は,柳田国男が日本社会をモデルとして作った分析法と理論をもって,日本以外の社会,特に第三世界を分析することが可能であろうと述べているが,この見解には賛成できない。鶴見もいうように,西欧理論は「エリート中心」であるのに対して,柳田の理論は「常民」を中核に据えたもので,その存立の基盤が異なる。この常民の発想はあくまでも日本の社会条件のなかから生まれたもので,たとえばインドをはじめアジア諸国の社会構造の解明に,これをそのまま適用することは,「エリート中心」の西欧理論と同様に無理であろう。理論は,少なくともその生成の過程では,存立条件に強く拘束されるものである7)。
 ところで,日本の伝統工芸のなかにも,産業化に伴う生産・生活様式の変化に対応できず,技術の停滞,ないし消滅に瀕している例は決して少なくない。
後に見る加賀の象嵌技術などは,この範疇に属する。これらに対する国の救済策がないわけではない。1974年に公布された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」のごときものもある。これには,高度成長第一主義の修正とか,地域産業の見なおしというような意味がたしかにあり,事実,後継者の養成や新製品の開発などを可能にする条件の成立等,この法律によって救われる業種もなくはない。しかし,その指定品目は限られ,すでに全国的な名声を持っているものや,業界組織の形成ずみのものが多く,前記の象嵌をはじめ,これに含まれない小規模な伝統産業で,すぐれた技能を維持するものも枚挙にいとまがない。これらの伝統技術を,現代に生かす道は何であろうか。
 それが国家的保護などにたよって,安易な生き延びをはかることでないのはいうまでもなかろう。生産条件や生活様式の変化という,きびしい現実にまともに立ち向う姿勢に加えて,伝統のなかに生きる創造的な物づくりの精神を,形骸化した技術の打破のうえに,新しく再生してゆく努力が重要ではなかろうか。柳田のことばを借りれば,「千年に亘ってなお保たるべきものは,寧ろ生活の合理化単純化を説く所の,今後の人々の提案の中に含まれて居るのかも知れぬ」ということであろう。機械系文化の中で危機に当面したといわれる伝統技術にとっての存続の途は,このような意味での自己否定に外ならないと思われる。
 さてここで,当然伝統工芸技術の担い手にも注目しなければならない。それはいうまでもなく,古来手工業に従事して生計を立ててきた職人である。今日に通じる職人の概念は,日本では16~17世紀に定着したといわれる。しかし重要なことは,これらの職人が日本社会の近代化にとって,いかなる役割を果たしてきたかということである。
 柳田国男は集落の形成者としての渡り職人に注目している。江戸時代に入ってから,まず地方に土着し始めたのが金屋で,その後石屋が少しずつ村を作り始めたと述べている。そしていったん定着した職人は,田舎を渡りあるいて,農民の間に生計の路を開くようになった,という8)。ここで柳田は,都市と農村を対立したものではなく,都市は村びとによってつくられたとの見解を示している。「町作りは乃ち昔から農村の事業のひとつだった9)」と見る。すなわち柳田の所説からは,村をつくった職人が,農民に助けられつつ,町づくりの役割を果してゆく,という経過が描かれる。これは,近代化における職人の役割をさぐるのに,かなり示唆的であるように思われる。しかもそのうえに,染物師が権力による色の禁制に対応して,自らの再生の道を開いていく経緯を,つぎのように述べている。「ある一つの色が庶民の常用に許されなくとも,彼らはその専門の知能を働かせて,別に第二のそれよりも珍しく,また上品なものを工夫することができたのである10)」。ここには,伝統技術の真の荷担者となった職人は,つねに不屈な創造性の保持者でもあり得たことが,みごとに語られている。
 このように見てくると,伝統工芸技術とその荷担者である職人とは,影のかたちに沿うように密接に結びついて,伝統のいわば創造的な発展に,少なからぬ貢献を果してきたということができよう。しかしそれは,過去においてそうであった,というだけでは不十分である。いっそう重要なことは,機械による大量生産を背景とする現代的な産業条件のなかで,このような職人による伝統工芸技術が,どれほどの積極的な意味をもち得るか,という点であろう。この問いに対する答がない限り,日本の経験を途上社会に生かす道はなく,途上社会からの関心を期待することはできないのである。
 伝統技術を現代に役立たせる方途についてはすでに触れた。それは要するに,創造のなかに伝統を生かすことであり,この伝統を,柳田のいうように,たえず新しいものを吸収しながら,しかも純粋であり得る価値として保持することにほかならない。問題は,その担い手である職人層が,果してその任にたえ得る存在であるか,という点にもかかわる。伝統技術に創造性が要求されることは,その担い手も創造的でなければならないことを意味する。創造的であるためには,柔軟な精神と,たえざる自己啓発が必要である。これはその当事者に具わる質と潜在力の問題に帰する。果して日本の職人に,このような力が具わっていたか。それが現実の日常生活をとおして,仕事のうえにどのように反映していったか。これを明らかにすることが,この小論の一つの課題にほかならない。

 1)伝統工芸とは,江戸時代を含みそれ以前に成立した工業で,規格的または大量的生産形態をとらず一品製作を主とし,地域の生活様式に適合するように,伝統的技術が生かされて,何らかのかたちで現代まで存続しているものをいう。伝統産業というときはやや広義となり,量産形態をとるものをも含むものとする。なお,日本の伝統工芸の主要なものは次表に掲げるとおりである。これは,北條明直『日本の伝統工芸』1978,の付表を借用した。
日本の主要伝統工芸一覧
 2) 柳田国男「昔風と当世風」『木綿以前の事』定本柳田国男集
 3) 浜田庄司「伝統のうけとり方」『月刊文化財』1966年1月号(北條明直『日本の伝統工芸』1978,178―79ページに引用)
 4) Eisenstadt,S.N.,“Post-traditional Societies and the Continuity and Reconstruction of Tradition”,Daedalus:Post Traditional Societies,1973,PP.1-27.
 5) この見解は左記の文献で強調されており,全く同感である。鶴見和子,市井三郎編『思想の冒険―社会と変化の新しいパラダイム』序論,1974年,2-26ページ。
 6) この主張は左記の論文の中心テーマである。
Guerreiro-Ramos,“Modernization:In Search of Possibility Model”,Beling and Totten(ed.),Developing Nations:Quest for Model,1970,pp.22-64.
 7) 鶴見和子『漂泊と定住と―柳田国男の社会変動論』1977.113-14ページ。ただし,柳田の常民理論が現代の日本で時代おくれではないという鶴見の主張には賛成である。
 8) 柳田国男『明治大正史世相篇』『新編柳田国男集』第4巻1930,15-6ページおよび180ページ。
 9) 柳田国男『都市と農村』定本柳田国男集,第5巻,249ページ。
 10) 柳田国男『明治大正史世相篇』16ページ。

2 地方中心都市における伝統産業の展開

 (1) 加賀・能登地方の伝統産業と金沢
 北陸の風土的特色は,年間を通じて雨が多く湿度の高いことと,季節的温度差の大きいことである。年平均70パーセントを超える高湿度は,とくに漆器の製造工程などに最適の条件を提供し,また冬の低温は農作業を困難にし,屋内作業が農閑期の余剰労働力にとって必須の収入源となる。こうして輪島塗や九谷焼,あるいは和紙,上布,漁網などが,このような地域的条件をもつ加賀・能登地方に,地場資本によって定着してきた。しかし金沢を中心とする都市的な環境では,いささかその様態を異にし,むしろ外来資本や藩の出資によって,伝統的産業の興隆を見たのである。
 加賀・能登地方の伝統産業の成立期は,必ずしも明らかではない。しかし大方の伝統工芸が産業として成立したのは,藩政期以後であり,とくに19世紀に入ってその興隆を見た。それは,商業資本の蓄積ないし導入や加賀藩の資金援助などによるところが多い。地場資本が農家の余剰労働力を雇傭するかたちで成立した伝統産業は,能登地区の輪島塗,珠洲瓦,石崎なまこ,あるいは加賀地区の九谷焼,手首紬,深瀬桧笠などのように,庶民の日用品を製作するものを主とする。これに対して,加賀藩が資金を供出したものは,とくに金沢を中心とする金箔,仏壇,加賀鮎鉤,大樋焼,茶釜,加賀象嵌などの例に見られるように,武士階級の使用を主目標とする,工芸的な製品が多い。
 これらの,藩資金によって興隆した伝統産業は,金箔や象嵌のばあいのように,藩がいわゆる細工所を設立し,技術者に御用職人,あるいは細工師という特権を与え,採算を無視して,独占的に製品を藩に納入させたものもある。その他の職種も,藩の奨励によるものは,材料の供給や製作ないし移出に許可制をとり,これらに従事する技術者が各地から招聘された。藩の保護のもとに育成されたこれらの産業は,体質的に二つの弱点をもつことになった。一つは,技術者が初期の型を守ることにとらわれて,創造性の発揮に欠けたこと,いま一つは,維新の廃藩に際して保護者と顧客を同時に失い,存亡の危機に陥ったことである。そしてこれらの弱点を超克できる業種のみに,伝統産業として生き残る道が残されたのである。
 ところで技術者の外来は,藩の保護によるものには限らない。武士階級を対象にする前記の業種は,すべてその技術を京都から導入した。その他日用品の製作技術も,京都をはじめ,丹後,越前,近江,紀州,肥前などから,それぞれの専門職によって持ち込まれている。なかには漆器のごとく,移動木地師がもたらした技術もある。これらの事実は,18世紀の時点で,技術移転が広く国内に普及していたことを示す。導入された地域はこれを受けて,現地の資材を加え,新しい工夫を加味して,独自の作風を創造したものである。
 つぎに,能登と加賀の南部を除き,とくに金沢地区に形成された伝統産業につき,その成立条件と生産及び流通の条件に関する一覧表を掲げる。これは石川県高等学校野外調査研究会による『石川県の伝統産業』に載せられたものの一部を転用した1)。
金沢の伝統産業の成立と展開(概要一覧)
 (2) 金沢における伝統産業技術の成立と展開:二,三の事例について
 金沢に定着した伝統産業のなかで,もっとも独特なものの一つは金箔である。金箔は地域内の他の多くの産業と密接に関連するもので,これはその中核的な位置を占める。たとえば,金箔の製作工程に必須な特殊和紙,また加工用に用いられる漆器,象嵌,仏壇,友禅,九谷焼などとの関連である。およそ箔の製造は江戸幕府の統制下にあり,元禄九年(1696)以降,金箔は江戸,銀箔は京に限って許された。加賀藩はすでに早く京から箔打技術を導入していたが,禁令により一応中止した後,文化年間密造による製作を始めた。密造のためには,粗悪で少量な原料からも最大限の製品を生み出す必要があり,この必要性が当地独自の精緻な技能の開発を促進したのである。現在,金沢近郊の「江戸村」に陳列された箔打用具一式は,この技能の存在を裏付ける。
 維新の動乱に際して一時的に衰退した後,金沢の金箔は,その優秀な技術とコストの低位により,急速に販路を拡大した。明治30年代には,京都,名古屋の両市場をおさえ,事実上独占的な地位を占めた。その後,外国に進出し,また打箔機や圧延機の導入など,工程にも改良を見たが,作業の性質上伝統技法は踏襲され,手仕事の基本的性格は変らない。近年真空蒸発法による速成の新製品が開発され,銀箔は大きく後退したが,金箔については未だその伝統的な技術が重用され,製品は尊重されている。しかし技術者の平均年令は60才を越え,後継者の養成は困難を極めている2)。
 金箔と関連して,金沢の伝統産業を特色づける特殊技術に象嵌がある。これは前記のように,藩の保護・奨励を受けて成立した,彫金の一技法である。その渕源は古く東山時代にさかのぼり,後藤祐乗の創始した家風(さくふう)という,刀剣装具の装飾技術にはじまる。これが金沢に伝えられた経緯は,金沢市役所編刊の『金沢工業沿革誌料』に,つぎのように記述されている3)。
 豊臣氏ニ至リテハ聚楽桃山等ノ建築上諸種ノ装飾ニ之レヲ応用セシヲ以テ数多ノ名工ハ争フテ京師伏見及ヒ大坂ニ集マリ豊臣氏モ亦能ク之レヲ保護奨励セリ豊臣氏ノ亡フルヤ畿甸ノ内其需用頓ニ減シ工人ノ過半ハ四方二離散ス其中ニ豊臣氏往時ノ殊遇ニ感シ徳川氏ニ帰スルヲ快トセス豊臣氏ト交誼最モ厚キ前田家ニ来リテ仕フルモノ十ニ五六而シテ当時前田家ハ諸般工業ノ奨励ニ全力ヲ注キシ秋ナルヲ以テ其工人ヲ白銀師[シロカネシ]ト称シ頗ル愛護ヲ加へ且ツ上下後藤家ヲ聘シ毎年交互ニ金沢ニ在留セシメ自家刀剣等ノ装具ヲ造リ傍ラ子弟ノ教養ニ充ツ此ニ於テ金沢彫金ノ業ハ隆々トシテ進歩シ貞享ノ頃ニ至リ数多ノ名工ヲ出スニヨリ遂ニ後藤家輪番来沢ノ制ヲ廃セリ金沢ハ北陸ニ僻在スルヲ以テ幸ニ時流ノ刺戟ヲ免レ先人ノ遺法ヲ守リ得テ東山時代ノ温雅渾朴ノ技風ト桃山時代ノ壮麗緻密ノ鑽法トヲ伝ヘ所謂加賀彫ノ名誉ヲ今日ニ維持スルヲ得タリキ
 前田家が細工所を設けて各種職人に特権を与え,これを保護したことはまえに述べたが,象嵌師には御用職人,あるいは細工者として武士の身分を与えられたものも多く,市内には地金を扱う鍛治工の住む鍛治町に隣接して,象眼町が形成された。この地に定着したいわゆる加賀象嵌の技術は精緻をきわめ,他に追随するものがなかったといわれる。『金沢工業沿革誌料』には,以下のように採録されている4)。
 象嵌工ハ前田家ニハ之レヲ鐙師ト称シ其製品ノ精巧ナル海内独歩ト賞セラレシカ是レ亦彫金ニ同ク前田家カ大坂伏見ノ工人数家ヲ招致セシニ起因ス其嵌金法ハ地金ヲ広底式ニ鑽鑿シテ他ノ金属ヲ嵌植スルニヨリ其表面ニ露現スル図画ハ嵌金総量ノ三分一ニ過キス是ヲ以テ如何ナル衝動ニ逢フモ更ニ嵌植金属ノ脱出毀損ノ虞レナキニヨリ世ニ之レヲ加賀掛ト唱ヘ需用最モ多カリキ其他甲冑刀剣等ノ装飾ニ於テモ其実用ヲ兼ヌルヲ以テ称セラル
 藩の保護を受けた象嵌技術は,主として武具の装飾に用いられたことから,維新の廃藩は,その存続に決定的な打撃となった。すなわち,保護を失ったうえに,武器の廃止が加わって,細工所所属の多くの象嵌職人は,職を離れ仕事を失い,他業に転じるほかない状態に立ち至った。
 これに対する明治政府の対策は,士族授産を目ざす殖産興業であった。金沢地区での,この政策の一環としての施設は,区方開拓所(明治5年),石川県勧業場(同6年),士族授産工場(同13年)と変っていったが,大量の失職者の救済には不十分であった。このなかで,明治10年2月に設立された銅器会社は,地元資本による民間施設で,51人の金工職人を集めて,全国に知られるに至った。発起人は,当時金沢町総区長の職に在った長谷川準也で,早くから象嵌職人の救済を志した人物である。長谷川を社長とし,職工棟取に水野源六,副頭取に平岡忠蔵,山川孝治が就任し,職工監として米沢清左衛門らの名前があった。清左衛門は後にとりあげる米沢弘安(ひろやす)の父である。
 銅器会社の名が知られたのは,設立年の秋に開催された第1回内国博覧会で,その出品した一香炉が名誉賞を授賞されたことによる。翌11年には,パリの万国博に出品し,また宮内省の発注先ともなり,しだいに隆盛に向った。12年水野独立のあとを受けて,米沢が職工棟取となり,27年頃廃業するまでつづいた。この銅器会社が,廃藩以後の加賀象嵌技術を維持存続するうえに果たした役割は特筆に値しよう5)。米沢清左衛門という象嵌職人の仕事も,この企業体の存在が大きくその背景にあると思われる。

 1)石川県高等学校野外調査研究会編,『石川県の伝統産業』1977年,29-34ページ。
 2)同書297-301ページ。
 3)金沢市役所編,『金沢工業沿革誌料』明治38年(1905)61-62ページ。
 4)同書62-63ページ。
 5)銅器会社に関する記述については,とくに左記の書物に負う。田中喜男『加賀象嵌職人―米沢弘安の人と作品』,1974,20-23ページ。

3 伝統工芸職人の生活と意識―米沢父子の場合

 清左衛門が39歳で銅器会社棟取心得となった明治22年(1889)の10月,二男弘安が生れると同時に,米沢家は浅野川畔の旧宅から宗叔町に購入した家に転居している。この転宅の理由は,田中喜男によれば,「(1)居住地域が当時の金沢の繁華街橋場町に近く,ために知名人の家も多いこと,近所づきあいの多いことなどから職人気質の清左衛門には煩瑣であったこと,(2)自宅で鋳物を吹いたりする広い作業場が必要であったこと,(3)夫婦・子供合わせて8人の家族になり手狭まとなったうえに経済的にも繁華街に接した家は不経済であったことである」としている。当時の金工職人の生活の一面や,この人物の人柄などもうかがうことができて興味深い。
 伝統工芸技術の何たるかに拘わる問題であるが,当時藩の特権職人出身のひとびとには,独立後も藩政時代の技術を墨守するタイプが多かった中で,創意によってたえず新しい技法の開発を志すものもあった。清左衛門はまさに後者に属する。彼は,他の進歩的な漆師や蒔絵師,あるいは陶工などとの交流をとおしてつねに研さんを重ね,創意にみちた製品を生み出している。それは,特に明治の末期から大正年代にかけて,彼が国内国外の博覧会などに多くの製作を出品し,それぞれの賞を受けていることでも知られる。たとえば,セントルイス・ルイジアナ合併記念万国博覧会(1904),アラスカ・ユーコン太平洋博覧会(1907),石川県産業共進会(1912),東京大正博覧会(1914),サンフランシスコ・パナマ太平洋万国博覧会(1915)等々の受賞である。とくに最後のものは,第一次大戦の勃発にも拘らず開かれた288日間の劃期的大会で,清左衛門の得た銀賞は,石川県の金工技術の水準を示す絶好の証左であったといわれる。このようなアウォードが伝統工芸技術の真の発展に果たす役割は,後の弘安のばあいにも見られるように,きわめて大きいものがある。
 清左衛門は大正12年(1923),73歳で没したが,三男五女を設けている。明治10年生れの長男佐吉は,小学校卒業後,象嵌細工見習として銅器会社に入社,地域で著名な師匠たちについて日本画を学び,光雪と号し,会社の図案方となったが,後,名古屋に安藤七宝店の図案部主任として転出した。その後も二男弘安(ひろやす)とは仕事上の交流が繁く,名古屋から多くの図案を弟のために送っている。昭和21年(1946)没,70歳。
 弘安は,生来清左衛門から職の後継者として期待された模様があり,自己の職名弘正の一字をとって本名としている。弘安の象嵌技術の修業は,4年制尋常小学校を卒業,高等小学校に入学した翌年の11才にはじまる。これは兄の名古屋転出と時を同じくし,専ら父の職場で仕事を手つだう作業に従事した。後に2歳年少の弟清二もこれに加わったが,弘安は金工作業のほか,デザインの基礎となる絵の習得をも心掛けた。図案は主として兄と先輩画家玉井敬泉に依存したが,自ら原案を提供し,また与えられた図案にも補筆して使用した。弟は金工として,生涯弘安を助けた。その他弘安の修得したものは,中学講義録(東京からの通信教育)による基礎的教養科目で,とくに幾何学や三角法に集中した。また珠算塾に通う一方,各地の講習会,展覧会,講演会などに多くの時間を割いた。このような修学態度は,一生涯継続して変ることがなかった。
 結婚は29才,妻芳野は著名な表具師土方松平の長女である。結婚のとりきめには主として双方の父親の意向が強く働いた模様であるが,当人の間で見合写真が交換されたことは,当時の慣習としてはむしろ異例であった。「職人の女房は職人の家から」という,本人をはじめ親たちの意向の反映もあった。じじつ,すでに公務員の娘や,小学校教員との間にあった縁談は断ったという。
 弘安は職人であると同時に作家でもあった。彼の作品で最初に公表されたものは,「銅器白山爐」(皇太子行啓時1916年の出品)であり,賞を受けたのは「釣香爐」(同年美術工芸品展,三等賞)である。その後,国内だけではなく外国開催の展覧会等でつぎつぎと賞を得ている。特に主要と思われるのは,大正14年(1925)パリの万国現代装飾美術工芸展と,翌々年フィラデルフィア万国博でいずれも最高位賞を得たことと,昭和3年(1928)の帝展第四部(工芸)に初入選したことであろう。前二者では自作品が国外でも高い評価を得たことへの自信をもったこと。後者は,「文展」に置かれていない待望の伝統工芸部門が,はじめて「帝展」に設置された第2年目に,県出身の八作家(漆器,金工,陶器,木工,及び染色)とともに入選したことへのよろこびである。
 ところで弘安の晩年の談話に,このとぎの入選のよろこびを語る一方,つぎのような指摘があるのは重要である2)。
 入選の知らせを聞いたときァ,さすがに嬉しかったでスネ。……わたしァ,だいたい貧乏な家に育ったもんやから資金がないでしょう。パン代を稼がんなんでしょう。そこへ出品ということになっと,でっかい負担がいるがでス。出品作品に2カ月かかっとすりァ,金〓なる仕事ァ,やれんでしょう。……といって,出品しなァ,名ァ通らんしネ。また,出品しようということになりァ,金工のいろんな方面の研究を一通りやってとり入れんなんし―。まあ,勉強ンなるわいネ。 もっともネ,展覧会の作品は技術ばっかしでもいかんがで,デザインが相当大事でス。型破りのもんせんないかんがでス。去年(昭和42年)なんかの伝統工芸展では,わたしァ,2品の火箸を出したんでス。細かい細工をした高い技術を使った象嵌の火箸が落選して,長芋の形した,ズボンとした形の火箸が当選したんでス。長芋形の火箸ァ,近代的だとみなさんおっしゃいまスが,こういう傾向になっとるわけや。入ったけりァ,時代に合わせ出品せんな。伝統からぬけていかんなんがやネ。
 すなわち,入選は,作家にとって喜びであり,ひいては仕事へのはげみとなる。だが職人の立場からは,出品製作は時間のロスであり,収入を失う。しかし職人弘安は,出品の意義を認めていた。収入にはひびいても,その作業をとおして「勉強」になるからである。弘安にとって,伝統的な「高い技術を使った象嵌の火箸」の落選は残念だが,デザインに工夫をこらした「型破り」の作品を当選させるための努力は,ムダではないとの自覚があった。彼は,職人としても,「伝統からぬけて」いくことの必要性を,むしろ認めていたというべきであろう。
 さてこれらの受賞にも見られるように,昭和初期は弘安にとって,工芸作家としての地位が確定し,仕事上でも極めて充実した時期であった。金沢を中心として,さまざまな美術・工芸関係の組織が結成され,象嵌を含む金属工芸市場も,一応安定状態にあるかに見えた。ところが満州事変にはじまる戦時体制への移行は,一方に軍需産業の隆盛を促したが,他方零細な伝統産業は停滞ないし生産の低下を来した。この中で金属業従業者はしだいに減少し,後継者難に陥っていった。弘安も長男を後継者とすることを諦らめ,商業学校に進学させざるを得なかった。
 その後戦局がしだいに深刻化するにつれて,金属とくに銅・鉄の使用が強く制限され,金工界はますます窮迫に陥った。象嵌は陳情により,一定限度の生活を継続することができたけれども,昭和17年に至り,石川県芸術品取扱規程の制定,18年には美術工芸統制協会の設立を見て,弘安を含むごく少数の認定作家にのみ資材が支給されることになった。認定者以外は転廃業が必要であったので,金沢の職人社会は殆ど壊滅的となった。この僅かに残った工芸作家によって,戦後の工芸復興が企てられたのである。
 戦後弘安の身辺では,長男の戦病死,兄光雪の死,二女・三女の結婚,そして三女の夫の死等,悲しみの事件が多かったが,妻芳野とともにこれを乗り越え,とくに昭和24年以降,多くの秀作を発表し,42年,79歳の高齢まで,さまざまな展覧会で多くの賞を受けた。そして43年80歳で石川県指定無形文化財の認定を受け,また47年84歳で文化庁から「加賀象嵌の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択された後,同年10月に病没した。この選定について,田中喜男は,「金工技術が他の工芸にみられぬ程,肉体的な消耗を要することを計算しないで,この苛酷な重荷を84歳という年令に課したものであって,この後間もなく弘安が歿したことはこのことを證して余りある」と述べている。まことに同感というほかない。
 なお田中の記述によれば,戦前(昭和14年頃)金沢の象嵌職人は14人で,他の金工関係職人を加えて約二十数人の金属工芸職人が活動していた。しかし戦時中,その多くは転業して軍需工場に働き,弘安のほか一,二人が従来どおり金工の職に止まったに過ぎない。これらの多くの工場勤務者は,戦後も金工として復帰する意欲を失っており,復帰者は数人に過ぎなかった。この傾向は他の蒔絵や漆工でも同じで,その反面,作家を目ざす層は飛躍的に増大していったという。したがって展覧会などへの入選者もしだいにふえたわけである。
 田中も述べているように,これらの入選者の多くは職人の出身者であった。ここに,職人たることと,作家たることとの相剋の問題が生じる。まえにも触れたように,職人は,問屋などを通じて不特定多数人に販売される,量産商品の製作者であるのに対して,作家は,委託注文による一品の製作者である。しかし,伝統的な技術の保持者として,手仕事による特定品の製作者であることは,両者に共通する。問題は,職人が「作家化」してしまうことによって,伝統的な規範に拘束される職人社会が消滅するおそれのあることと,職人の身上とする「伝統的」技術が,作家の目ざす「創造性」によって破壊され,それが失なわれる懸念のあることに関わる。前者は,社会規範のあり方ないし倫理観の問題であり,これに対して後者は,技術観の問題であろう。
 しかしながら,いうまでもなく,過去の職人社会の規範が,そのまま近代ないし現代の社会条件に適合し得るはずはない。規範の崩壊は必然であるが,ほんらい合理性を身上とする職人精神は,規範を超えて存在しつづけるものであろう。それは狭い意味での技術の「伝統性」には拘束されないはずである。真の伝統的技術は創造によってこそ,常に生かされるものであろう。したがって職人と作家とは両立し得るものであり,弘安のごときは,まさにこの両立性を身をもって示した実例というべきではなかろうか。作家のなかに職人精神が生きつづける限り,田中のいう「職人社会の崩壊」は,さして憂慮することはないと思われる。
 ここで職人精神とは何かが,改めて問われなければならないであろう。再び米沢弘安にもどって,この職人兼作家の生きざまについて,やや詳細に検討してみたい。
 米沢弘安は合計69冊の「日記」を書き残している。これは明治39年(1906)18歳からはじめ,昭和47年(1972),7月3日,死の3カ月前までつづいた。もっとも,ほとんどありあわせの手帖などを用いており,断続的である。内容によって大別すると,主として日常生活を書き綴ったもの(31冊),仕事の記録に属するもの(27冊),旅行日記の性格をもつもの(11冊)となる。なかにはかなり,これらの入り交った部分がある。これに加えて,書翰や,田中喜男らによる談話の記録も若干残されている。日記の解読は必ずしも容易ではないが,行文に生彩があり,独特のリズムさえもつ。
 弘安の結婚は大正6年(1917)11月であるが,翌年1月1日の日記に次のように記している。
僕の一身に就いては昨年よりは非常に相違する事となった,昨年迄は両親の膝下に只家事のみ励めばよかりしが昨年10月には父の発病に依りて業務一切は僕の責任重く引受せさるべからざるに至ル,且11月嫁を貰ひしによりて此処一家軸となる事となれり,勿論,財政も自ら心配せさるべからず,僕の双肩には重荷が負されたのだ,そこで今後は只管に家事を励み一家を養ふと共ニ兄への贈金,清二又は養子等一切の処置,其他の重大なる事柄も一身に引受けた任来せねばならぬ事となった,一身の外に味方なしと思ひ励むより外なしと覚悟せり
 弘安の関心事として,まず「家」の問題があった。彼は次男であるが,前述のように長男が図案師として名古屋に移ったあと,後継者問題に苦慮した父親の意向でいったん分家し,そこに両親を迎える形をとり,制度上は分家創設,実質的には相続という措置がとられた。結婚が30歳まで延びたことの一因は,ここにある。
 しかしながら,弘安はこの問題を,伝統的な「家」の意識よりも,むしろ財政の問題としてとらえていたし,またそうせざるを得なかったと思われる。事実上,両親の住む家が弘安の居宅となったけれども,形式上は一分家として,この居宅の土地と建物の評価額1,200円を兄弟で三等分し,兄と弟に400円を分与する義務が弘安に負わされたのである。彼が「一家軸」となることの「重荷」とは,このような内容をもち,これが「励む」ことを「覚悟」する対象となった。しかしこれに対処する弘安の態度は,きわめて合理的に割切れていたと思われる。
 弘安の人間関係は,つねに理性的で,しかも暖みを保ち,甚だ進歩的でもあった。たとえば妻芳野への態度である。すべて昭和初期のことであるが,市内で映画や芝居を見るのにしばしば妻を同伴し,また見学旅行などに同行している。当時の環境で,この行動は勇気を要した。また製作の計画に妻の意見をきき,作品の批評を求め,これは来客を前にしての公然の所作であった。仕事のための旅行先から,しばしば書き送った手紙に,つねに理性と愛情があったのはいうまでもない。
 金沢在住職人のつねとして,弘安にも茶の湯,生花,あるいは謡曲の素養があった。大正8年(1919)12月3日の日記に,つぎの記述がある。
 夜,僕は茶湯けいこに行く,……床には梅室筆の面白いものが揃って居た,竹花入にはドングリ水仙寒菊が活られ,寒雲棚が飾られた,……今日掛って居た幅の文句ハはせ翁が千金の商人は心を苦しめ姿を楽む,一銭の商人は姿を苦しめ心を楽しむ,楽しきや大つこもりに飴の色,其後へ梅室が程よきハ程過きやすき夜寒かなと書き,梅室81の筆なりこれが31歳の職人の観察であり,感想である。また家の宗派は浄土真宗であるが,仏壇では禅宗の経が誦され,個人の信仰としては真言宗という,父親の自由な信仰態度を受け継ぎ,弘安は観音廻りをひとつひとつレクリエーションとして励行した模様である。大正時代の日記に多くその記述がある。また,「ふいご祭」など,金工職人としての宗教行事に従ったが,多忙のときは休業することもなく,臨機に対応したようである。
 日常生活にせよ,仕事にせよ,弘安につねに絶大な好奇心をもって行動したと思われる。展覧会や講習会への出席はいうまでもなく,度重なる旅行,旅行先での風景や古美術の鑑賞,同業者の訪門等は,すべてが直接,間接に仕事にも影響があったと思われる。日記によれば,昭和初年,収入少なく家計の苦しかった頃も,関東関西にしばしば出かけている。東京は主として展覧会の鑑賞のためであり,京都・奈良は古寺名刹の見学である。とくに正倉院には頻繁に足をはこび,製作上の参考にした。これらの費用は,すべて妻芳野の苦面と金策によるものであったという。
 交際の相手は,金工関係では棟梁格の水野源六,図案師玉井敬泉,鋳物師宮崎寒雉,蒔絵師大下雪香らをはじめ広範に及び,多くの同業組合などの結成や調停に奔走した。また近隣生活についても,生家のある宗叔町に町内会が結成される以前から,町内の連絡係を引うけており,結成後は町内会長に選ばれ,昭和7年(1932)には支那事変出動軍人並に遺家族慰問金募集委員を嘱託され,同年好成績をあげたとして市長の感謝状を受けた。更に17年には,企業許可令の指導に関して尽力したことによって,再び市長感謝状を受けている。更にまた,宗叔町を中心に他町内をも含めて,親交と繁栄をはかる目的で親交団を組織し,これは「風俗ノ矯正衛生上及道路ニ関スル件等行政庁ニ請願建議シ又諮問ニ応スル」ことなどを業務とし,その幹事に選ばれた。すべて家業に従事し,製作にあたる時間のうえに引受けた仕事であった。
 これらの事例に見る職人弘安の生きざまからは,大らかさのなかに抑制の効いた理性の保持が読みとれる。外に向って寛大な反面,自己に厳しく,その態度はつねに謙虚である。しかし時として躍動する作家的熱情から,会心の作品が生まれたと思われる。そしてその熱情を抑制するものが,技術者としての理性と職人的謙虚さではなかったか。日々仕事と取組み,工夫を重ねるなかで弘安が身につけたものこそがほかならぬ職人精神であり,結局これが作家となり切ることを拒否したのであろう。弘安日記は生き生きとこの事実を語って余りある。

 1) この項の記述には田中喜男『加賀象嵌職人―米沢弘安の人と作品』1974年に負うところが多い。
 2) 田中喜男『百万石の職人』1968,52-54ページ抜萃。

4 結 語

 日本で伝統工芸技術,とくに職人による手仕事の世界が注目されるようになったのは,大量生産による画一的な規格品の氾濫に,ひとびとが飽きはじめたことによる。ところがこの関心は,やや違った角度から,外国人にも持たれるようになった。たとえばつぎの記事は,その一面を物語る。
 ……最近,自動車工場に中国をはじめ各国からの見学者が相ついでいるが,彼らは一様に感嘆するそうだ。巨大な近代設備に,ではない。つぎつぎに流れてくる車体にとびつくようにして,多種多様の部品を瞬時に,誤りなく取りつける熟練工。その技と心。<設備はカネで買えばすぐそろうが,これは買えない>と。(『毎日新聞』「余録」1978,11.21)
 ここで注目されるのは,職人の伝統的な技術そのものへの関心というよりも,むしろその「心」,すなわち無形の職人精神が問題にされていることである。
 しかしながら,この職人の精神というものは,それほど簡単明瞭に解明できることではない。まず第一に「伝統」との関係が問われるであろう。職人はまさに伝統技術の荷担者でなければならない。しかし,一途に伝統を墨守することは,現代社会ではひとつの行きづまりでしかない。この点については,すでに述べたように,職人と作家との両立性に見られる,創造による伝統の否定と再生に活路を求めるほかないであろう。しかしそのためには,個々の職人が内に閉じこもることなく,互いに技を競うとともに開放的な立場で交流し合うことが必要である。生きた技術は孤立することでは得られず,協力によってこそ保持できるものだからである。
 創造的であるためには,強烈な個性に加えて,つねに他から学ぶ態度が要請される。それはまず伝統を身につけることに始まり,たえず異なるもの,新しいものに接して,これを自己の体験に対決させることであろう。作家的態度に特有な好奇心,これを満たすための旅行や展示会への参加はその機縁となる。この際,'主体者には当然,その対象を見分ける透徹した選択眼が要求される。その判断力を裏付けるものは,きびしい自己訓練によってはじめて得られる合理的精神にはほかならないと思われる。真偽を見分け,無駄を排除し,純粋なものをとらえる力がこれであろう。
 合理的な精神は,日常の生活行動においてよき市民であることと矛盾せず,いわばこれと裏腹のものであろう。市民生活のルールは,さまざまな側面で職人や作家の行動を拘束する。しかし合理的精神は,むしろ市民生活を先導し,そのルールをも先どりする性質のものであろう。職場や近隣で自発的組織の結成を促がし,あるいは奉仕活動を通して住民福祉を推進することは,すべて当事者らの理性にもとづく意識や行動によってはじめて可能である。象嵌職人米沢弘安の生活と意識が,このような意味での職人精神に叶うことは,先に述べたところからも明らかであろう。
 職人精神というものが,伝統技術と深く結びついていることはいうまでもない。この技術が,その荷担者である職人の生き方を規定し,そこに職人特有の態度・意識が形成されるとともに,この意識はまた技術に影響して,これを再生させることにもなるのである。このような技術の移転はもちろん可能である。しかしそれはほんらい地域性に根ざすものであるから,これを受け入れる地域にも,その定着を可能にする条件が必要である。この条件は広義の社会的・文化的なもので,換言すれば職人的精神の育つ基盤ともいえよう。しかし,ひと度受け入れた技術を停滞・枯渇させることなく,これに養分を補給し,つねに新鮮度を保持することは容易のわざではない。ここに,技術の担い手としての職人の役割が改めて注目を浴びることになる。この担い手が現代に通じる生きた精神の保持者となるとき,その技術もまた現代的な意義を獲得するのである。

 基礎的な文献
 横 山 源之助 『日本の下層社会』1898年。
 同 『内地雑居後の日本』1899年。
 同 『職人談』1903年。
 平 山 鏗二郎 『東京風俗志』上中下1899~1902年。
 遠 藤 元 男 『日本職人史の研究』
 同 『職人の歴史』
 同 『近世職人史話』
 同 『日本職人史』
 吉 田 光 邦 『日本の職人』
 同 『日本技術史研究』
 同 『日本の職人像』
 横 井 時 冬 『日本工業史』
 三 枝 博 音 『日本の知性と技術』
 西 田 長 寿 『明治前期の都市下層社会』
 津 田 真 澂 『日本の都市下層社会』