交通・運輸

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鉄道導入と技術自立への展望

著者名: 原田勝正
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次
1. 外来機械文明としての鉄道・・・・・・・・・・2
2. 鉄道に関する知識の流入・・・・・・・・・・4
3. 鉄道の体験と建設への志向・・・・・・・・・・9
4. 鉄道の建設開始・・・・・・・・・・13
5. 技術自立の契機と展望・・・・・・・・・・18


1 外来機械文明としての鉄道

 19世紀の後半,欧米諸国の前に鎖国を解いた日本にとって,さまざまな機械文明は,そのほとんどが未経験の,そして異質の文明であった。鉄道という輸送手段も同様であった。幕藩体制のもとで,幕府は諸藩および民衆に対してつよい統制の枠をはめていた。国内における輸送手段についても,すでに全国的な商品流通網が形成されつつあった19世紀において,まだ陸上における大量輸送手段の開発は行われていない状態であった。それは政治的,軍事的理由による統制が,このような輸送手段の開発を阻害していたからであった。街道における車の禁止,大きな河川における架橋の禁止など,さらに重要な地点に設置された関所や,旅行にさいしての手形,すなわち旅行証明書の携帯義務など,旅客も貨物も,ともにきびしい統制の対象となっていたのである。このような状態では,とても大量輸送手段の開発など望むことはできなかった。したがって,「黒船」の威容に対する驚愕と恐怖とは,このペリー艦隊がもたらした機関車の模型や電信機に対する驚愕に通じていったといえるであろう。
 しかし,幕府・諸藩の役人たちも,また一部の知識人たちも,これらの「文明」におどろいているばかりではなかった。これらの人びとのなかには,すでにオランダ語を通じて欧米の文化に深い関心を示していた人も少くはなかった。鎖国のつづいていた200年あまりの間,ただ一国だけ貿易を認められていたヨーロッパの国オランダからは,わずかではあっても,新しい知識が流れこんでいたのである。したがって,いわゆる蘭学による欧米の機械文明の知識ないしは情報の導入は,必ずしも皆無ではなかったのである。
 そのために,開国とともに,新しい欧米文化に公然と接することが可能となると,これらを積極的に摂取しようとする動きはにわかに活発となった。その過程については後に述べることとするが,このような動きは,そのいずれもが,欧米諸国の文化水準との落差意識から出発していたことは注目してよい。すなわち,欧米諸国の支配力がアジア,アフリカに及び,さらに中国から極東の日本にまで及んできたという認識が,当時これらの人びとには一般的であった。
 そこで,植民地化に対する危機意識をも含めて,当時の識者たちは,機械文明の摂取に積極的な姿勢をとるに至ったのである。そのような動機がはたらいていたために,彼らはまず,兵器・艦隊の近代化に熱心な努力をかたむけた。すなわち,軍備の近代化こそ,彼らが第一に着手し,実現しなければならない課題となったのである。
 それとともに,経済的な実力を強めるための輸送手段の近代化も,軍備の近代化についで重視されたといえよう。それは,炭坑などにおける機械や,紡績機械と同様,生産・流通の近代化にとって不可欠の手段とされたのである。すでに幕府は,崩壊寸前の段階にあった1867年(慶応3),幕政改革の計画のなかに,このような構想を採用していた。そしてこの年,薩摩,長州などいわゆる西南雄藩の主導権のもとに成立した京都朝廷の政府,すなわち明治政府も,このような立場をそのままひきついだ。すなわち,政府のかかげた「富国強兵」というスローガンは,経済的実力の充実と軍備の充実とを,表裏一体と考えた当時の政府の方針をあらわしていたのである。
 鉄道の導入も,この線に沿って実現したわけである。1869年(明治2)に明治政府が鉄道建設を決定してから,1872年に最初の列車が運転されるまでの期間,鉄道を導入した政府の当事者は,未だ経験したことのない,さまざまな新しい問題と正面から対決することになった。これをのりこえ,鉄道をみずからの手で運営するにいたるまでの努力は,なみたいていのものではあり得なかった。
 それは,建設・運営にあたった当事者が,イギリスから資金を借り入れ,資材を購入し,技術者や労働者を雇い入れてこの鉄道を建設し運営するという方式をとったものの,それは当初のことであって,彼らは,遠からずみずからの手で鉄道の建設・運営にあたることをもくろんでいたからである。したがって彼らは,鉄道を,たんに外来文明,外来技術として,距離をおいて見るというわけにはいかなかったのである。他の分野,とくに軍事技術と同様に,鉄道の場合も,技術の習得が第一義とされたのである。
 すなわち,鉄道という機械文明は,日本に導入されたとき,いつかは日本人の手によってみずから運営されることがすでに決まっていたといってよいのである。ここに日本における鉄道導入の特異性がある。日本はアジアにおいて最初に鉄道を導入した地域ではなかった。しかし,日本の当事者は,これを独自に運営・発展させることを構想し,開業後20年たらずの間に,ほぼこの構想を実現したのである。その意味では,たしかに,この自立過程は目ざましいものがあったといわなければならないであろう。
 以下,この導入から自立への過程を,おもな問題点や時期を拾いながら見ていくことにしたい。この場合,前にも述べたように,欧米諸国との落差を「富国強兵」,すなわち,経済的実力と軍事力と,この両面における充実を通じて縮めていこうとした基本姿勢は,つねに念頭において考える必要があるであろう。したがって,この場合,イギリスにおけるように,産業革命の要請という前提はないということなのである。そこに,日本における鉄道の建設とその後における発展の特異な性格があるといわなければならない。このような問題点は,日本における近代史全体の問題であるが,鉄道史の場合も同様なのである。

2 鉄道に関する知識の流入

 日本人がはじめて鉄道という輸送手段の存在を知ったのはいつであったか,この問題については,現在明確な史料はない。しかし,この時期を1840年代と推定させる有力な史料はいくつかある。
 まず第一に,いわゆる「風説書」がある。これは当時長崎にあったオランダ商館の商館長(captain)が幕府に定期的に提出した海外情報である。Captainは新聞その他本国から得た情報をまとめ,オランダ語で幕府に提出し,幕府はこれを翻訳して「風説書」と名づけた。これには定期の「風説書」と,臨時の「別段風説書」とがあり,幕府が公式に海外事情を知る唯一の手段であった。
 すでに1830年代に鉄道の記事がこの「風説書」に掲載されたという説もあるが,たしかではない。現在までに確認できた最古の鉄道関係記事は,1846年(弘化3)の「別段風説書」に掲載されたものである。ここには,フランスがパナマ地峡に鉄道を建設する計画を立てているという記事がある。こののち,1851年(嘉永4)の「別段風説書」には,同じパナマ地峡にアメリカ合衆国が鉄道を建設する計画を立てているという記事がある。
 こののち,「風説書」における鉄道記事は,1852年(嘉永5)のスエズ地峡における鉄道建設をめぐるエジプトとトルコとの対立,1857年(安政2)のオーストラリア南部における鉄道の開通など,何回か拾うことができるのである。
 このような海外からの情報は,あるていどこれを読んだ人びとに,鉄道についての関心を呼びおこした。たとえば1854年(嘉永8)アメリカ合衆国使節ペリー(Admiral Matthew Calbraith Perry)が浦賀(Uraga:Jedo-Bay)に来航したおり,幕府の高官や通訳たちは,鉄道のトンネルのことや,蒸気船の汽罐(boiler)と機関車のBoilerとのちがい,さらにスエズ地峡における鉄道建設の状況などについてアメリカ人たちに質問したという。(F.L.Hawks:Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Sea and Japan, performed in the years 1852, `53 and `54,under the Command of Commodore M. C. Perry, United States Navy,3 vols. Washinghton, 1856)
 アメリカ人たちは,この質問にあらためておどろいたようである。この人びとが「風説書」から知識を得ていたことはもちろんである。しかし,それだけでなく,漂流してアメリカにわたり,帰国後アメリカのようすを報告した人びとから得た知識も含まれていたと考えられる。
 たとえば,中浜万次郎(Manjiro Nakahama or John Manjiro)もそのひとりである。彼は1841年,土佐(Tosa:Kochi Pref.)の漁師として出漁中漂流,アメリカ船に救われてアメリカにわたり,1851年帰国した。鎖国の当時,帰国者は厳重な取りしらべを受けるならわしであった。もともと海外渡航は死刑の重罪とされていたからである。万次郎は,その事情を認められ,後には幕府の通訳となるが,「漂流始末書」を提出している。この中に,鉄道についての記事がある。
 1845年,万次郎はアメリカ大西洋岸にいた。このころいわゆるゴールド・ラッシュで西部の開拓はすすみ,鉄道も開通していた。彼の報告によるとつぎのようである。
 平常,遠くへ出かけるときには,レイロヲ(railroad)という火車(火をたく車)に乗ってまいります。この仕組みは,船のような形のもので,大きな釜(boilerのこと)に湯をわかし,湯(すなわちsteam)の勢いによって,1日におよそ300里(1,200キロメートル)ほども走ります。屋形(家の形をしたもの,すなわち客車)から外を見ますと,飛ぶ鳥のようで,一向に,ゆっくりと見ているひまもありません。車の走る道には,鉄(すなわちrail)を敷きわたしてございます。
 1日に300里というと,江戸から福岡あたりまで行くということである。このような速度は聞く人からみればとても信じられなかったであろう。そのためか,彼は「飛鳥のごとく」といった表現でその速度を説明しようとするのである。
 同様の説明は,漂流者浜田彦蔵(Hikozo Hamada or Joseph Hiko)にもある。「飛ぶ鳥のように外をしっかりと見ることはできないが,車の動揺ははげしくはなく,少しぐらいなら書きものをすることはできる」と彼はみずからの漂流記に記している。
 このような体験記以外に,もうひとつ,いわゆる蘭学による知識が加わる。当時日本で読むことのできた欧米の書物は,オランダのものであった。幕府は,オランダの書物だけを許していたのである。そのなかの一冊に,P. van der Burgの“Eerste Grondbeginselen der Naturkunde”があった。1844年の出版である。この書物は,写真機,電信機,蒸気機関,蒸気船,蒸気機関車など,産業革命が生み出した各分野の機械の原理・構造・使用法などを説明していた。この中の蒸気機関車の説明には,断面図が入っていて,ボイラやシリンダの構造もよく理解できる。この説明は,日本にはいってきた蒸気機関車の解説の最初のものといってよいであろう。
 このほかにも,鉄道の説明を載せた蘭書は何冊かあったようであるが,この書物がよく知られたのには,ひとつの理由がある。それは,この書物が薩摩藩で翻訳されたからである。
 すなわち,薩摩藩の蘭学者川本幸民(Komin Kawamoto)は,この書物を日本語で口述し,それを門人の田中綱紀(Tsunanori Tanaka)が筆記した。この本は『遠西奇器述』(遠い西洋のヨーロッパで作られているめずらしい機械についての本という意)と名づけられ,1854年(嘉永7)に刊行された。この翻訳によって,オランダ語を解さない日本人も,各分野の新しい機械についての知識を得ることができるようになったのである。
 知識を得ると同時に,これを翻訳してその知識を多くの人に広めようとすることは,少なくともその知識の有用性を認識し,これを積極的に活用しようとする姿勢のあらわれである。このような知識の受容段階でみられる積極性は,模型の製作という面においても示された。
 日本人が見た機関車の模型は2つあった。ひとつはロシア艦隊がもたらしたものであり,他のひとつはペリーがもたらしたものであった。ロシア艦隊は,1853年8月22日(嘉永6年7月18日),ロシア海軍中将E.V.プチャーチン(Evfimii Vasilievich Putyatin)が旗艦パルラダ(Pallada)に坐乗,4隻の艦隊で長崎に来航した。かれらは,幕府に対して開国を要求することを使命とする使節団であった。この使節団に対し,幕府側は筒井政憲(Masanori Tsutsui),川路聖謨(Toshiakira Kawaji)らを派遣して交渉に当らせた。幕府側は,ロシア側の要求を拒否し,1854年1月8日ロシア艦隊は長崎を出港した。この間,ロシア側は幕府使節団に軍艦の内部を見学させた。そして軍艦の中のある部屋で,テーブルの上に敷かれたレールの上を走る汽車の模型を見せた。開明的な考えの持主であった川路は,日記にこのことを記し,また幕府に対する報告にも汽車の記事を入れた。
 さらに,幕府使節団以外にも,それよりも以前に佐賀藩士たちがこの模型を見た。本島藤太夫(To-dayu Motojima)や中村奇輔(Kisuke Nakamura)である。とくに中村は,佐賀藩に当時おかれていた精錬所(factory ?)の役人で,技術者であった。佐賀藩は,独自に軍事技術を開発する目的で,新しい機械を試作するための工場を設けていたのである。
 彼らは,アルコールを燃料としてテーブルの上の円形線路を走る汽車の模型に眼を見はった。そして,佐賀に帰ると,これと同様の模型をつくることを計画したのである。
 1855年夏のことである。中村は,同じ精錬所の技術者田中久重(Hisashige Tanaka),石黒寛二(Kanji Ishiguro)の協力を得て,汽船と機関車の模型製作にとりかかったのである。この模型製作には,モデルとした小蒸気船が1隻あっただけである。彼らは,これを分解して,蒸気機関の構造を知った。それ以外には,設計図があったわけではなかった。
 また工作機械もなかったから,ひとつひとつの部品の製作には,たいへんな努力を必要としたと考えられる。田中久重は,万年時計の製作をはじめ,「からくり儀右衛門」と呼ばれたほどの機械製作の名人であった。このような彼のもつ技術がもっぱら生かされたであろう。近世の日本にあった精巧な“細工”と呼ばれるような工作技術で,彼らは難関を突破したのである。
 その完成の日付は不明なので,どのくらいの日時を要したかはわからないが,しかし,彼らは,蒸気船2隻,機関車一輛の模型をそれぞれ完成させた。機関車は精錬所の庭で試運転に成功した。彼らを激励してきた藩主鍋島直正(Naomasa Nabeshima)は,藩の重役をしたがえてこれを見た。
 当時佐賀藩をはじめ,薩摩藩,長州藩などは,幕府に対抗して,強大な軍備の拡張,とくに近代的軍事力の強化をめざしていた。そのような方針が,こうした模型製作についての熱意となってあらわれたといってもよいであろう。薩摩藩でもこのころに機関車の模型を製作したといわれる。また福岡藩でも製作したという。このほか,長州藩では模型を買入れた。加賀藩でも買入れた形跡がある。
 こうして,模型製作への熱意は,この段階ではただちに鉄道建設にむすびつくことはなかったにせよ,新しい機械文明導入の熱意のあらわれを示している。この点は,第2の例についても言える。それは,例のペリー艦隊が1854年2月14日,2度目に浦賀にやってきたときのことであって,彼らはアメリカ大統領から将軍にあてた贈物をたくさんもってきた。そのなかに蒸気機関車と客車の一組があったのである。
 幕府は横浜の応接所裏に線路を敷設させ,アメリカ人の手によってこの汽車模型を運転させた。応接所の役人をはじめたくさんの人がこれを見学した。中には,走りまわる模型にまたがる者も出てきた。前掲ペリーの遠征記には,この人物を「好奇心むき出し」とも,また「こわごわ乗っている」とも評されている。その人物は,しかし実に詳細に,機関車や客車の構造を観察していた。
 また,伊豆韮山の幕府直轄地代官江川英竜(Hidetatsu Egawa)は,応接所に職務がないにも拘らず,何かと口実を設けては横浜へ来て,この模型の運転を見学したという。はやくから反射炉をつくって大砲の鋳造をおこなった江川も,このような機械に重大な関心をはらっていたのである。

3 鉄道の体験と,建設への志向

 知識の導入と普及から始まって,みずから模型を製作するという積極性は,鉄道そのものの建設というよりは,軍備の近代化という要請によるものであった。そこに,日本における「近代化」のひとつの問題点が孕まれていたことは言うまでもない事実である。
 とはいえ,このような積極性が,さらに他の方法の蓄積を通じて,しだいに,それが実際に鉄道を建設しようとする志向を促進し,また,その志向にとって一種の準備階梯となっていったこともまた事実であった。
 その場合の他の方法とは何か。それは実際に鉄道を利用するという,乗車体験である。この乗車体験を通じて,それまで,飛鳥のごとくというように,概念として把握してきた鉄道を,自分がある地点から他の地点まで運ばれるさいの,客車内のようす,列車の音,動揺,移りかわっていく窓の外の景色など,具体的な,しかも直接に感覚を通じて入ってくる認識によって把握しなおすことができたのである。それは,まさに「百聞は一見に如かず」ということわざそのままの有効な体験であった。
 すでに,前に述べたように,漂流してアメリカにわたった中浜万次郎や浜田彦蔵らがこの体験者であった。しかし,彼ら以上に,直接に,政策にかかわってくる立場にいる人びと,すなわち当時の幕府および諸藩の武士たちの体験は,鉄道の導入にとって,より大きな意味をもつこととなった。
 それは,1860年(万延元),日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカ合衆国におもむいた使節団の一行の体験に始まったのである。
 彼らが初めて鉄道を利用したのは,1860年4月26日,区間はパナマ(Panama),コロン(Colon)(当時アスピンウォールAspinwallと呼ばれていた)間の76キロメートルであった。この区間は,前にあげた「風説書」でも,フランス人が計画しているとか,アメリカ人が計画しているとかいううわさが日本にはいっていたところである。結局,この地峡に眼をつけたアメリカが,民間資本の手で建設し,1855年1月28日に開通していたのである。
 正使新見正興(Masaoki Shimmi)以下数十人の使節団は,この鉄道に乗った。アメリカ側はおそらく特別列車を仕立てたのであろう。一行は6輛編成の客車に分乗した。
 この乗車体験は,多くの人が記録している。副使村垣範正(Norimasa Muragaki)は,帰国後幕府に報告するという職務もあったのか,かなり詳細に観察し,その結果をまとめている。機関車や客車の構造,車輪と線路との関係,脱線しないためのフランジ(flange)の構造など,ゆきとどいた観察記録をつくっている。さらにまた,1輛の客車に何人もの人が同乗することにおどろきの眼をみはり,「1本の枝にたくさんの鳥が押し合うようにしてとまっているようだ」と述べている。
 この体験は,当時身体をよせ合って交通機関に乗る,すなわち乗合いの機会がほとんどない,少くとも陸上交通機関ではまったくないために,非常におどろくべきものであったにちがいない。また,上級武士として,彼は自分の身分より低い者が,身体を接して同席するなど思いもよらぬことだったであろう。それは,著しく彼の身分意識を刺激したにちがいないのである。
 鉄道の乗車体験は,こうした思いもよらぬ意識の変革を要求したわけである。彼らにしても,「かねて目もくらむようだと聞いていたが……」と,列車が走るときの予備知識は持っていた。出発前に,万次郎の取調書を読んだり,または,直接万次郎やアメリカ人などから聞く機会もあったであろう。だから,そうした知識はもちろん持っていたはずである。しかし,乗合いという方式が,どのようなものであるかは,やはり体験してみなければわからなかったのである。
 乗車体験の意味は,やはりこうしたところにあるといってよいであろう。このような上役と異なり,従者たちは,鉄道の構造について,かなり行きとどいた観察をしている。新見正興の従者玉虫誼茂(Yasushige Tamamushi)の記録は,そのなかでも出色といえよう。
 彼は,まず蒸気機関車の構造を説明し,ボイラ,シリンダ,ピストン,動輪と,機械のメカニズムに従って説明を加えていき,最後の気笛の構造や合図としての役割まで説明している。そのあとで炭水車を説明し,さらに客車に及んでいる。
 客車については,ボギー台車(bogie)を説明し,連絡器を説明し,曲線通過を可能とする構造がここにあることを説きあかしている。
 線路については,レール,枕木などの構造はもちろん,距離標,勾配,曲線,給水所など,線路とその付属施設にも説明は及んでいる。そればかりでなく,電信による合図も含めて閉塞区間や閉塞方式について述べ,電線の架設の方式,碍子も説明している。
 これらの説明は,アメリカ人などから聞いたものもあるであろうが,しかし,かなり綿密に観察して,それを体系的にまとめたとみられる。
 最後に彼は,「列車が走り出すと,左右の樹を見わけることができないほどである。音はやかましく,向い合った人と話しあってもよくきこえない。動揺はそれほど大きくなく,ゆったりとすわった状態であり,文字をうつすこともできよう。時々ガラス窓を開くと,涼しい風がはいってきて,暑さを忘れさせる。とにかく,この仕組みがよくつくられていることは,ただただおどろきいったことといわざるを得ない」と述べている。
 総合的に鉄道のメカニズムを知ろうとする積極的な姿勢が,ここにはかなりはっきりとあらわれているのである。
 こののち,1862年(文久2)には,ヨーロッパに使節団がおもむき,同様の乗車体験をもった。さらに,留学生も同様の体験をした。たとえば,同じ1862年,幕府は榎本武揚(Takeaki Enomoto)らをオランダに派遣した。彼らの乗車体験もまた遣米使節の場合と同様の啓蒙的役割をもつこととなった。これらの留学生のなかには,のちに鉄道の創業時代に,鉄道建設の中心となった井上勝(Masaru Inoue)もいた。彼は長州藩の密航留学生としてロンドンにおもむき,ロンドン大学で,鉱山・土木の技術を学ぶのである。多くの留学生が軍事技術の習得を目的としていたのにくらべて,彼の留学目的は異色であったといわなければならない。その動機はあまり明らかでないが,当時長州藩が,軍事技術と同様に,鉱山の開発や道路橋梁の改良などに注意をはらっていたこともその理由といえよう。明治政府の「富国強兵」政策の源流は,このあたりにあったのではなかろうか。
 そして,このころ,すでに国内ではかなり具体的に鉄道を建設しようという動きがおこりつつあった。これは,第一に薩摩藩士五代友厚が1865年京都―大阪間の鉄道建設をもくろんだことに始まり,1866年から翌1867年にかけて数件,外国人が鉄道建設を計画し幕府に出願した。薩摩藩の計画もフランス資本の導入による方式を考慮していたが,外国人の出願も同様に外資導入方式によるものであった。
 このような外資の導入は,もちろん計画者が利益を挙げることを目的としていた。さらに,そればかりでなく,鉄道利権の獲得は,投資対象国に対する経済的支配権強化の第一歩としての意味をもつものであって,幕府当局者がこの危険をどこまで認識したかは明らかでない。しかし,これらの出願に対してはいずれも拒否回答または認可引きのばしの手段をとり,みとめようとはしなかった。
 ただ1件だけ,1867年アメリカ合衆国公使館書記官ポートマン(A.L.C.Portman)が鉄道建設の出願をおこない,これに対し,1868年1月17日(慶応3年12月23日),幕府老中外国事務総裁小笠原長行(Nagamichi Ogasawara)はこれを認める回答を発した。
 もともと外国人の出願は,江戸―横浜間とか,大阪―神戸間のように当時の開港場と市場とを結ぶ区間に限られていた。このポートマンの出願もまた,江戸―横浜間を対象としていた。これより前1866年,幕府は江戸と関東北部,東北地方南部,および江戸と京都をむすぶ鉄道の建設構想を,ポートマンに対して非公式に打ちあけていた。とすると,幕府には,建設について一定の構想があったとみられるのである。しかし,当時の幕府は,国内の政治的紛擾の前に,すでにその存立も危い状態となっていた。したがって,独自に建設を実現することはとうてい望めなかった。だから以前からの経緯のあるポートマンに免許をあたえたのか。しかしこれも奇怪である。建設区間も短く,収益分配の方式もきちんと取りきめていない,利権を全部アメリカ側にとりあげられる内容のものである。このような取りきめをなぜみとめたのか,その真意はわからない。
 いずれにしても,この免許は,鉄道利権が日本に侵入する危険な徴候をはっきりと示していた。ただ,小笠原が免許を与えたとき,その約半月ほど前に,京都には,新政府が誕生していた。そして,国内で京都朝廷と江戸幕府との内乱がおこると,小笠原も箱館にのがれ,この免許は宙に浮いた。アメリカ側はこののち,この免許を楯にとって,鉄道利権の実現をはかった。しかし,江戸を占領し東京とあらため,東京を首都とした新政府は,アメリカ側にこの免許を認めなかった。
 このようにして,外国利権の設定は阻止されたのである。そして,その後は,明治政府が中心となって鉄道建設を実現する段階にはいっていくのである。

4 鉄道の建設開始

 言うまでもなく,日本の鉄道は,明治政府による官設・官営の方式で出発した。世界最初の鉄道を建設したイギリスのような民設・民営方式をとらなかったこと,またアジア・アフリカにおける植民地鉄道のような外国資本導入による方式をとらなかったこと,この2つの点において,日本の鉄道はきわ立った特色をもっている。
 しかし,この方式によったとはいえ,当時成立したばかりの政府が,独力で鉄道を建設することなど全く不可能であった。当時における日本の産業の発展段階は,問屋制家内工業やいわゆるマニュファクチュアがようやく封建的な支配体制の中で成長し,それが徳川の幕藩体制を崩壊させる経済的背景につながっていたところであった。したがって,また機械制工場を生産力の中枢に押し上げる産業革命までは,かなり距離があったといわなければならない状態であった。
 とすれば,このような状況で,ブルジョアジーの側から鉄道という新しい輸送手段を要求するという機運は,まったく熟していなかったといわなければならない。したがって,明治政府が鉄道を建設するという動機も,もちろん経済的理由というより,むしろ中央集権的支配体制の強化という政治的契機の方がより大きな比重をもっていたということになるのである。
 このようにして,経済的背景を欠いたままで鉄道建設に踏み切っていったというところに,日本の鉄道の特色がある。そしてこの特色は,その後の発展の過程においても,著しく現れてくることになったのである。ともかくも,このような状態では,計画を立てたとしても,これを実行することは不可能である。ということは,レールをとってみても,これを自国で生産し,供給するための製鉄・製鋼部門があるわけではない。機関車にしても,これを製作する車両工場などが成立するためには,機械工業部門が産業革命によって一定の発展段階に達していなければならない。線路,車輛の,どれをとっても,鉄道を建設する技術的・工業的基礎はまったく欠けていたわけである。
 そこで,これらの鉄道建設に必要な資材はすべて輸入にたよらなければならなくなる。また,その建設にあたっても,さらに運営にあたっても,ヨーロッパないしはアメリカの先進資本主義国からなんらかのかたちで,資材や技術者を導入しなければならなかったのである。すなわち,最初は,いわば「出来合いの」(ready made)鉄道として導入しなければならないという現実が,そこにはあったのである。
 明治政府が鉄道建設を正式に決定したのは,1869年12月12日(明治2年11月10日)であった。その背後には,当時日本駐在イギリス公使として,明治政府に対してつよい発言権をもっていたハリー・パークス(Harry S.Parkes)があった。パークスは,明治政府の首脳に対し,自国管轄方式で鉄道を建設することを極力すすめたようである。それまで植民地の獲得に全力を傾注してきたイギリスが,日本の鉄道を自分の力で建設・運営するという方式をとらなかったのはなぜか。とくに,当時明治政府に対してもっともつよい発言権をもっていたイギリスのこの立場が,日本の鉄道の植民地化を防ぐ,もっとも重大な決め手となったのである。したがって,イギリスのこのような姿勢は,日本の鉄道創業にあたって,現在にいたるまでの鉄道のあり方を決定する重要なかぎとなったのである。
 イギリスの要請は,日本の植民地化ではなく,通商・貿易の相手国の育成というところに集中していたといわれる。そこには19世紀なかばまでの,イギリスのとってきた政策が大きく変わったという事実がある。すくなくとも1840年代のアヘン戦争までのイギリスのアジア政策は変換し,それが1860~70年代の対日政策において反映してきたとみなければならない。日本における鉄道建設については,このような国際的背景を無視することはできないのである。
 1869年,イギリス側は,明治政府の首脳部に対して,かなり積極的に,自国の手で鉄道を建設することを勧めていたようである。3月には,前年燈台建設のために来日していたR.H.ブラントン(R.H.Branton)が,外務省の前身外国官に対して,鉄道建設の可能性を説いた意見書を提出した。また,パークスもしばしば外国官首脳と会見して,鉄道建設の必要性と可能性とを説いた。その交渉相手には,たとえば,外国官副知事,のちの官称名でみると,外務省の局長クラスにあたる大隈重信がいた。大隈は,佐賀藩の出身,かつて,藩主鍋島直正が,近代的軍備の導入をはかって,精錬所を建設した西南雄藩のひとつの出身であった。彼はこの佐賀藩の下級武士の出身であったが,政府のなかで重い役職についており,新しい施策に積極的であった。
 パークスは,このような大隈に,ひとつのねらいをつけ,彼を通じて政府を説得しようとこころみたとも考えられる。さらに,この交渉の過程には,かつて長州藩から密航してイギリスにわたった井上勝も介在していたようである。井上は,この前年,ロンドン大学を卒業して帰国していた。そして,東京に出てきて,政府の造幣頭兼鉱山正に就任していた。造幣局長兼鉱山局次長といった格である。英語を解する井上が,その交渉の場に立ち合ったことはおよそ想像できる。井上は,パークスの説得をつぎのように回顧している。
 たまたまこの年(1869年)東北,九州地方に飢饉がおこった。米価が非常に騰貴し,外国米を輸入して救済した。北陸その他の地方にやすい価格の米があまっているのに転送手段がととのっていないため,これを輸送して,東北,九州の危急を救うことができなかった。パークス氏はこの例をあげて,切に鉄道の建設を勧告した。(井上勝「日本帝国鉄道創業談」,村井正利『子爵井上勝君小伝』所収)。
 このように,おもにパークスは若手官僚を交渉相手として説得し,あるていど交渉が煮つまったところで,こんどは,大臣級と非公式会談を行なって正式決定のためのダメ押しを行なったのである。明治政府は,12月6日に行われたこの非公式会談において建設について最終的合意を政府内部でまとめあげたのである。
 ここで決定された事項は,つぎのような内容のものであった。建設区間は,東京から京都までの幹線と,東京―横浜間(幹線が中山道経由となる場合),米原―敦賀間,京都―神戸間などの支線とする。イギリスは,これらの鉄道建設に必要な資金を提供し,資材の導入,技術者・労働者の供給にあたっても便宜をはかる。
 このような決定が行われると,イギリス側と明治政府との具体的な交渉は一挙にすすめられた。明治政府といっても,交渉の当事者は,民部兼大蔵大輔大隈重信と民部兼大蔵少輔伊藤博文がその中心で,首脳部でもこの交渉を知らされていない者が多かった。というのは,政府内部にも鉄道建設に反対の意見がかなり強く,この交渉をはじめから公然化すると,反対の意志を,暗殺という手段に訴えるおそれが十分に考えられたからである。
 反対の主な理由は,ひとつには,「神の国である日本に,いやしい外国の機械文明をもちこむなどもってのほか」という排外主義の立場があった。また,西郷隆盛(Takamori Saigo)のように,明治政府の基礎をかためるには,まず軍隊の増強をはかるべきであって,鉄道の建設などに巨額の資金をつぎ込むことはよくないという軍備増強優先論もあった。
 このような状態で,鉄道建設については議論百出の状態であったのである。だから,大隈,伊藤は,交渉や取りきめの内容を政府全体に最初から明らかにするという方法はとらなかった。しかし,それがまた,さまざまな問題がおこったとき,彼らを窮地におとしいれる原因ともなったのである。
 たとえば,資金供給の仲介役となったイギリス人ボレーシオ・ネルソン・レイ(Horatio Neilson Lay)が,この資金をロンドンで公募したため,公募の公告がロンドン・タイムズに掲載され,外資導入の計画が日本側にも知れわたっていて,またそのレイが,日本側には知らせずに,日本側からは1割2分の利息をとりながら,公債利率は9分として3分の利ざやをかせごうとしていたこと,このような事実がわかってきたとき,大隈らは,政府内部から不信の眼でみられ,計画自体が破綻するかもしれないという危険な状態に直面したのである。
 彼らは,レイとの契約を破棄し,イギリスのオリエンタル銀行横浜支店に契約承継を委任し,この危機を切りぬけた。
 大隈は,のちになって,「あのころは,ローンということばの意味すらよくわかっていなかった」と回顧している。資金借入れという方法についても,レイに,かの有名な提督Neilsonという名まえがついていることから,レイが個人的に調達して貸してくれるものと信じていた形跡もある。このような予備知識の水準からみると,まことに大胆な交渉をすすめたと考えざるを得ない。
 したがって,鉄道についての専門的知識を彼らがどこまでもっていたかという点になると,ますますあやしいものがある。大隈は,かの精錬所で,模型の機関車が運転されるのを見たという体験があったという。しかし,鉄道についての知識がどこまで深かったかはわからない。伊藤は,井上勝といっしょにイギリスに留学した仲間のひとりである。しかし,鉄道については,大隈によれば,まるきり素人でわからないという。
 このような状態で,鉄道建設に踏み切ったわけである。したがって,最初の段階では,すべてイギリス側にまかせるほかはなかったであろう。
 1870年4月17日(明治3年3月17日),まず東京―横浜間の建設が命令され,イギリス人技師長(Engineer in chief)にエドモンド・モレル(Edmund Morel)を迎えて工事は開始された。測量から資材の調達などすべてイギリス側に委嘱しなければならなかった。軌間(gauge)の決定についても,大隈らはモレルにどうするかと聞かれても,ゲージの意味がわからず,説明してもらう必要があった。このような調子であったから,レイのように,レールはもちろん,枕木その他,日本で供給できるはずの資材まで高価な輸入品を買わされてもまったく抗議することもできなかったと思われる。
 その点モレルは良心的な技術者であった。彼は,日本の風土条件に適合した枕木は,輸入品のような鉄製枕木ではなく,木製のものでなければならない。しかも日本の国内には良質の木材が多い。したがって枕木の輸入はやめて,国内で木製のものを調達しなければならないと,大隈に述べていたといわれている。
 とにかく,輸入品のなかには,機関車やレールからはじまって,インク,鉛筆,洋紙などの筆記具まではいっていたのである。大隈らが当初予想していたよりもはるかに巨額の建設費が必要となることがわかってきた。
 ロンドンで公募した100万ポンド公債のうち,30万ポンドが,東京―横浜間とこれにつづく大阪―神戸間の鉄道建設に割り当てられた。しかし,その2倍以上の額を建設費として支出しなければならなくなったのである。
 こうして,鉄道建設の事業は,いわばまったく未知の世界へ政府当局者を引きずりこんだのである。日本最初の鉄道新橋(東京)―横浜間は1872年10月14日に開通したが,このような難関がいくつも横たわっていたのである。

5 技術自立の契機と展望

 1870年3月から開始された建設工事は,民部省のもとにおかれた鉄道掛が管轄した。しかし,その工事についての設計と,施工の指導は雇入れたイギリス人技術者が担当した。前記のモレルが技師長であり,その下にジョン・ダイアック(John Diack),ジョン・イングランド(John England),チャールス・シェパード(Charles Shepherd)らがいた。ちなみに,政府が雇入れた外国人の数の推移をみるとつぎのようである。

 このうち,1876年の外国人を国籍別にみるとつぎのとおりである。

 このように,イギリス人が圧倒的に多いことがわかる。その職務は,つぎのように各分野にわたっている。
 director, secretary, clerk
 engineer in chief, deputy engineer, engineer, assistant
 locomotive Super Intendent, fitter, foreman painter, painter
 traffic manager, engine driver, pointman
 store keeper
 draughtsman
 time keeper, inspector of railway police
 foreman quarryman & mason, mason
 boilermaker, foreman blacksmith, blacksmith
 foreman platelayer, platelayer

 主なものでもこのように分かれており,技術者だけでなく,労働者が多く含まれていたことがわかる。したがって,建設工事が竣工して,じっさいに営業が開始されたのちも,鉄道の経営はもちろん,列車の運転にあたっても,機関士はイギリス人が乗務するという方式をとっていたのである。
 すなわち,資材も人もイギリスからもたらされたのである。
 しかし,モレルは,このような状態では日本の鉄道が自立することはできないという立場に立ち,日本人技術者,労働者を急速に養成することを,政府当局に説いた。すなわち「日本は将来ヨーロッパ人の手を借りないで運営にあたる準備をしなければならない。そのため技術者の養成機関をおき,すぐれた少年を選んで教育し,技術を習熟させ,各分野の建設・運営に必要な技術者を養成するようにしなければならない。よろしく東京または大阪に技術学校を創立する必要がある」(『日本鉄道史』上)と述べた。
 この提案をしたモレルは,工事の竣工を見ることなく,1871年10月に病死した。しかし,彼の提案は,1871年8月工部省(1870年11月設置)工学寮というかたちで実現された。また,1877年5月には大阪に工技生養成所が設置された。鉄道以外の各分野についても,この工学寮では技術者の養成を開始したわけである。日本における技術自立の動きは,このように,技術導入と並行して開始されたのである。
 1871年9月には横浜―川崎間の線路が完成して,輸入機関車(当初10輛)は横浜で組立てられ,試運転を開始した。これらの機関車や客・貨車の組立てには,もちろんイギリス人が指導にあたったが,日本人労働者もかなり参加したと考えられる。また運転にあたっては,機関助手すなわちforemanは,日本人であった。これらの労働者は,じっさいの組立て作業や乗務を通じて,車輛の構造,運転技術を身につけていった。この点は建設の場合も同様であった。
技術者たちは,測量をはじめとして,施工の計画,順序,労働者の管理,監督など,イギリス人にしたがつて行動しながら,実地の作業を通じて建設技術を身につけていった。建設労働者には,多勢の日本人労働者が採用されており,工事の施工にあたっては,これらの労働者が直接作業に従事した。この場合も,切石や築堤などの大規模な土工や,路盤の構築や溝渠の開削などのいわば仕上げ部分について,やはり,イギリス人の方式を学んでいった。
 ただ,これらの土木技術には日本在来の技術がかなり発達していた。そのために,イギリス人の方式と日本人の方式とがくいちがって,ある場合にはトラブルに発展したこともあったようである。井上勝は当時鉄道頭(のち鉄道局長)として,日本側の鉄道管理者となっていたが,のちにつぎのように回顧している。
 橋の石垣を積むのに,上下の接する面だけを平らにすればよろしいのを,接しない4つの面もすべて平らに磨くということもあった。また軌道の枕木も,(レールに対して)直角に交るように限定したこともあった。(井上前掲「日本帝国鉄道創業談」)
 おそらくイギリスにおける工事の慣習がそのまま持ちこまれ,これが意見のくいちがいを生じたのであろう。日本では,すでにふるくから石垣構築の技術は発達していた。とくに中世以降城郭の石垣は,かなり堅固なものがつくられていた。その場合,井上の指摘したように,上下の接する2面だけを磨くのがふつうであった。したがって,日本における在来技術と,イギリス人の持ちこんだ技術とのくいちがいが生れることは,むしろ当然であった。
 このことは,同時に,ひとつの問題を提起している。すなわち,土木工事については,日本の在来技術が一定の水準をもっていたこと,そして,このような技術水準に立って,この新来の工事に,その技術を活用しようとする動きがおこってきたこと,以上のような技術導入のさいの注目すべき問題があるように思われる。
 在来技術の応用を実現できるかという課題は,当時の建設当事者には,およそ共通していたとみられるのである。
 例をトンネルにとってみよう。すでに17世紀前後から,日本各地では金,銀,銅などの鉱山がかなり発達していた。これらの鉱山では,坑道掘削の技術がすすんでいた。また,1666年(寛文6),富士山麓の駿河国(静岡県)東部の農民たちは,箱根芦ノ湖の水を,湖尻峠の下をトンネルで引き,灌漑に使用する工事を開始した。このトンネルは1670年に完成し,湖水は,10平方キロメートルの耕地に利用されている。このような用水トンネルを掘削する技術も,17世紀には成立していたのである。
 したがって,明治初年の日本人にとって,トンネルの工事は,すでに一定の技術水準に到達したものだったのである。日本最初の鉄道トンネルは,東京―横浜間にひきつづいて着工された大阪―神戸間で掘削された。ここでは,いわゆる山岳トンネルではなく,六甲山系から急な勾配で海に流れこむ河川が,しだいに河底の土砂の堆積によって,流域より高いところを流れていた。芦屋川,住吉川,石屋川の3つの川は,その川底の下を鉄道がくぐることとなった。いわゆる天井川のトンネルである。
 この工事は,イギリス人の設計・指導のもとにすすめられた。上部開削式が採用され,まず流路の半分を堰きとめ,ここを上から開削して,トンネルを掘った。この部分が完成し,覆工を終ると,流路を,この完成部分に変更し,残りの半分を同じ方式で施工する。このような工法によって,石屋川,住吉川では単線型,芦屋川では複線型のトンネルが建設された。
 この一連のトンネルは,イギリス人の設計・指導のもとにすすめられたが,この段階では,鉄道自体についての認識が,日本側ではまだ極めて弱かったため,すべてをお雇い外国人技術者にまかせるという方法がとられたものであろう。土工など全般についても同様のことがいえる。しかし,じっさいに工事をすすめるにともなって,いわば「これなら日本人でもできる」という分野がいくつも発見されていった。
 技術自立への展望は,そこからひらけていったとみてよい。このような技術の自立過程について,詳しく立ち入る余裕がないので,この点は,稿を改めて検討することにしたいと思う。いまここでは,このような展望が,具体的にどのような順序で実現していったかを概活的にみておきたいと思う。
 1875年には,官設鉄道の神戸工場(現在の鷹取工場)で,客・貨車の製作が開始された。これは,走行部分には輸入品を用い,車体を国産化したものである。
 1978年以降,大津―京都間の建設工事を開始,一部の橋梁設計をイギリス
人技師に依頼しただけで,延長約18キロメートルの工事をすべて日本人の手で完成した。この中には延長664.8メートルの逢坂山トンネルが含まれている。このトンネルは,日本人が最初に完成した山岳鉄道トンネルである。
 トンネルの完成は1880年6月28日であった。このトンネルの工事以降,各トンネルはすべて,日本人独自の手で完成させる態勢がととのった。
 1879年4月には,新橋―横浜間の列車に,初めて日本人機関士が乗務した。開業当初から,イギリス人機関士といっしょに乗務して,火夫の仕事をつづけてきた人びとが,運転技術を身につけて,列車の運転を独自に実施できるようになったのである。こののち,運転はすべて,日本人の手によって実施する態勢が急速にととのっていった。
 こうして,まず土木技術の自立がはやく実現し,それとならんで運転の自立もすすんでいった。車輛製造技術は,産業革命という背景がない当時の条件では,エンジンや走行部分を製作することはまず不可能といってよい状態であり,他の部分にくらべるとかなりおくれた。しかし,新橋―神戸に設けられた鉄道工場では,工作機械を輸入して,はやくから修理を実施していた。そのような経験の蓄積に立って,1893年には,神戸工場で機関車一輛がはじめて製作された。機関車の全面国産化の実現は1912年,開業後40年であった。客・貨車は,1890年代からはかなり国産化がすすんでいった。
 以上のようにして,技術の自立過程は着々とすすんだ。それはまた,国内における産業革命の進行と照応していたのである。