雑貨産業

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わが国ボタン産業史の一齣

著者名: 武知京三
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次

はじめに・・・・・・・・・・2
 和歌山県のボタン産業・・・・・・・・・・3
 (1)貝ボタンの生成と発展・・・・・・・・・・3
 (2)田辺貝ボタン争議一班・・・・・・・・・・12
 (3)貝ボタンから合成樹脂ボタンへ・・・・・・・・・・16
 奈良県のボタン産業・・・・・・・・・・20
 (1)貝ボタンの生成と発展・・・・・・・・・・20
 (2)合成樹脂ボタンと皮ボタンの動向・・・・・・・・・・26
おわりに・・・・・・・・・・28


はじめに

 雑貨産業とは,かなり便宜的な言葉であり,文字どおり雑多な業種がそこに包摂される。一般に地域経済の発展に寄与し,特定の地域を形成している地場産業ないし産地産業とよばれるものの中には,雑貨産業が多いのが実情であろう。いまそれらの一般論を展開する余裕はないが,管見の限りでは,雑貨産業の多くは日本資本主義の生成・発展の流れの中で形成されてきたものであり,他の産業部門と比較すれば,全体として小規模・小資本の業種が多く,機械化が遅れ,手工技術に依存する度合が高いことがその特徴の一つであるといわなければならない。もっとも第2次大戦後そうした事情は次第に変化してきており,相当の技術進歩がみられ,また問屋制支配の弱体化が目立ってきたといえようが,以下においては,具体的な個別産業としてボタンをとりあげ,さしあたりその変遷過程をたどることにしたい。
 ところで,ボタンは主として洋服・肌着などの衣料品の付属品として使用されるものであるから,元来,繊維産業の発達に付随してその歴史が形成される面があったといえそうである。さて,わが国にボタンが最初に伝わったのは,幕末から明治維新のころと思われる。しばらくは輸入に仰いだが,需要の盛りあがりとともに,国産化されるようになった。とくに,明治初期の陸海軍制度確立などによる制服の採用からその需要が始まったとみられている。これは金属ボタンであったが,その時期と前後して水牛ボタンや馬蹄ボタンがつくられ,やがて貝ボタンの生産も開始された。主として輸出産業として定着するにいたったのであるが,第2次大戦前段階の輸出入統計を示せば,第1表のとおりである。同統計は,輸出は種類別に,輸入はボタンとして一括されているが,大まかな趨勢をみるのには便利であろう。これによれば,明治29年(1896)にはじめて,17万4425円のボタン輸出がみえ,以後輸出は増大し,ここに輸入を防〓し,逆に輸出産業に転じたことが察せられる。とくに明治末期から輸出は激増し,第1次大戦でピークに達したことが判明しよう。このボタンをはじめ,わが国資本主義の展開過程において輸入防〓をめざして国産化を試みた産業部門のうち,比較的短期間で逆に輸出産業に転じたものがいくつかみられるが,これは輸出雑貨産業に共通するパターンであろう。
 上述の統計からもボタンの種類は察せられるが,現段階におけるその種類を素材別に分けてみると,①天然素材(貝ボタン,皮革ボタン,ナットボタン,木ボタン,竹ボタン,骨・角・蹄ボタンなど),②金属ボタン(黄銅ボタン,アルミニュームボタン,ダイキャストボタン,樹脂メッキボタンなど),③合成樹脂ボタン(ラクトボタン,ナイロンボタン,アクリルボタン,アチレボタン,ABSボタン,ポリボタン,ユリアボタン,エポキシボタンなど),④その他(ガラスボタン,陶磁ボタン,くるみボタン,編みボタンなど)に大別される。そして大まかにいえば,第2次大戦前のボタン産業は,貝ボタンを中心とする天然素材を主力に展開し,第2次大戦後のそれは合成樹脂素材とその加工技術によって多彩な展開がはかられたといえそうである。なお明治期におけるボタン業界の発展過程に関連し,業界の長老堤長七氏は,「関西方は元材料の関係から主に下衣[ママ]用の貝釦を中心として,輸出と内需に第一次製品として販路を求めたのに対し,関東方は政府のお膝元として軍官需被服への第二次製品として縫製業者への納入を主としたる経営の相違から今日に至っている1)」と回想しているが,いみじくもその後の産地形成につながる問題点が指摘されたといえよう。要するに,わが国ボタン産業の展開をかえりみた場合,第2次大戦を境にして大きな変化が認められるわけであるが,小稿では,大阪からの技術伝播を背景に発展をとげた和歌山・奈良両県下のボタン産業をとりあげ,その変遷過程をうかがうことにしたい。調査不十分という面も否めないであろうが,ボタン産業に関する資料はきわめて乏しく,とくに奈良県の場合は,主として既存の文献に依拠した素描にすぎないことを断っておかなければならない。ただ,これらの拙い作業を通じて,多少とも将来への展望が開かれたらと思う。

1 和歌山県のボタン産業

 (1) 貝ボタンの生成と発展
 和歌山県田辺地方のボタン産業は,明治34年(1901)ごろに始まる。西牟婁郡朝来村出身の一ボタン職工が大阪で技術を学び,帰村後農家の副業として着手したのが,その嚆矢であるといわれる。すなわち大阪貝釦工場の職工であった植田徳吉が同村の橋本保次郎にはかり,橋本が大阪の同業者を視察して帰り,自らその製造を試みたのが創始であったという2)。
第1表 ボタンの輸出入額
「始めは極めて小規模にして橋本氏が資本主となり植田氏は職工長として其製造方法を一般賃職業者に指導したるものなりき」3)と伝えられる。こうして純農村で現金収入の少なかった農家に普及していったが,貝ボタンの製造は富田川筋が盛んであり,田辺は実にその中心地となった。当地方は農林水産業を除いて,これといった産業がなく,余剰労働力が豊富であったこと,ならびにその製法が比較的簡単で資本を要しなかったことなどが好条件となり,副業として定着するにいたったのである。「日露戦役前後経済界不振ノ影響ヲ被リ一時殆中止ノ状態ニ陥」4)ったが,その後景気の回復とともに需要が増加し,再び盛況をとりもどした。ここで明治39年(1906)から大正7年(1918)にいたる貝ボタンの生産状況をみれば,第2表のようであるが,とくに第1次大戦による輸出増大が注目されよう。なお表には出ていないが,西牟婁郡がその中心地であり,明治43年(1910)を例にとれば製造戸数の80.0%,職工数の75.9%,生産額の88.8%は同郡に集中していた5)。この間貝ボタン製造業者の興亡が目立ったが,当時県の斯業奨励方針として,つぎの諸点が指摘されている6)。
第2表 明治大正期の貝ボタン生産額
 本業ハ作業ハ簡易ニシテ老幼者ニモ相当補助作業アリ農閑ノ副業トシテ普及セシムルトキハ細民授産ノ一助トモナリ傍ラ地方ノ特産物タルニ至ルヲ得ヘシ然レトモ原料ノ購入ニハ今尚多少ノ困難ヲ感シヌ製造場増加ニ伴ヒ職工ノ払底争奪トナリ又資金逼迫ノ為製品売急キノ傾アリ殊ニ本業ハ製品ノ価格ニ時々非常ノ消長アルヲ以テ之等救済ノ方法トシテハ同業組合ノ設立金融機関ノ設備ヲ為シ以テ順調ニ発達セシムルノ方法ヲ講セサルヘカラス
 貝ボタン生産の発展につれて,一方で原料供給の不足,製品販売の競争,職工払底などの諸問題が顕在化し,業界の組織化による解決が指摘されているが,もう少し詳しくいえば,こうである。すなわち貝ボタンの原料たるアワビ・サザエは,主として対馬・済州島などから購入していたが,原料高騰に悩まされたり,また製品販売にあたっても市況の暴落による打撃が少なくなかったのである。とくに原料および半製品入手の競争は激しく,これによる不利益は相当なものがあったといわれる。そこでこうした弊害に対処し,また新たな発展を期して,大正5年(1916)9月には紀州貝釦同業組合が設立された。しかし,大正9年(1920)に始まる戦後の反動恐慌の中で,この組合は解散してしまった。
 つぎに貝ボタンの生産工程を瞥見しておこう。原料の種類ならびに貝ボタンの種類によって相違があることはいうまでもないが,大正6年(1917)の調査によれば,一般に丸サザエの貝ボタン3分8厘の場合,工場内勤務は,主として「繰場」「裏摺」「挽場」「穴アケ」「釦寄リ」の作業工程に分かれており,また自家従業は「繰場」「裏摺」「挽場足踏」「穴アケ」「釦寄リ」「釦紙付ケ」に分かれていた。それぞれの作業工程に応じた賃金は,第3表に示すとおりである。なお明治末から大正初期にかけて,従来の足踏機と並んで動力式が登場するが,これによって生産能率は大いに上昇したようである。工場主は職工に対し,能率増進という名の奨励策を講じていたが,「賃銀の受渡しは月末に於て精算するものにして総て賃銀は千個に付工賃を附するものなれば其の日の製産高を通帳に記入し置くものとす7)」とされたのである。
 第4表に,大正5,6年(1916,17)における貝ボタン職工1ヵ月の賃金表を掲げておく。大正5年に比較して,6年の低落が目につくが,貝ボタン職工は,主として出来高給であったため,その賃金幅は相当なものがあり,また貝ボタン自身の市価に左右され,低賃金にすえおかれる傾向があった。
第3表 貝ボタン生産工程別賃金表
他方,貝ボタン職工の農閑期と農繁期の賃金差に注意を要しよう。前者の年度についてみれば,「穴アケ」は別として,「繰場」「裏摺」「挽場」の農閑期平均賃金は,農繁期のそれの1.6~1.8倍となっているのである。この点は,貝ボタン製造が農家副業として存立していたことを示す一指標となろう。
 ところで,さきに紀州貝釦同業組合の設立についてふれたが,同じころ西牟婁郡内の製造業者を網羅した一会社を設立しようとの構想がおこった。諸般の情勢から,これは実を結ばなかったが,一部の人々により二つの会社が誕生したことが注目される。一つは新庄村の紀州貝釦株式会社であり,もう一つは東洋貝釦株式会社の田辺町への進出である。前者は,大正7年(1918)2月資本金50万円で,橋本六之助を代表取締役とし,「貝釦ノ製造及売買」「貝釦原料ノ売買」「前各項ニ附帯スル総テノ事業」8)を目的として産ぶ声をあげたものであった。
第4表 貝ボタン職工1ヵ月の賃金表
第5表 紀州貝釦株主の地域分布
創業当初の資料は残されていないが,昭和2年(1927)段階の同社株主の地域分布は,総株主97名のうち82名までが地元西牟婁郡在住者であった。第5表に示すように,とくに新庄村,東富田村,田辺町在住者が多い。同表により上位株主への株式の集中度をみれば,100株以上の株主数は21.6%,その持株数は84.4%であり,少数大株主の優位が目立っていたことが判明しよう。反面,上述の3町村を中心に,25株未満の零細株主が多数存在しており,地方的産業会社としての性格をあますところなく示している。いずれにせよ同社は地元資本から成立っていたのである。後者は,橋本貝釦工場が業務拡張の目的をもって神戸市に本社を置く東洋貝釦株式会社へ事業一切を継承し,同社田辺支店となったことが,それである。時期は,紀州貝釦株式会社の設立と同様,大正7年(1918)2月のことであった。当時貝ボタン職工不足が問題となっていたが,これに関連し,同社幹部の1人は職工賃金について,「貝釦の不況に伴い工賃低くけれど,当工場の熟練せる男工は,月三十円の工賃を得,その他普通の者にても,少きも二十円を得つゝあり,女工は仕事にもよれど,多きは二十円となり,少きも七八円あり,此七八円の者は一ヶ月に十日以上休業するが為めにて,毎日通勤すれば月十六七円なるを……」9)と語っている。その他工場法の施行にともない,職工の優遇方法などが講じられつつあったが,ボタン工場の場合は,紀州・東洋をはじめ,2~3のところで,せいぜい年1回の運動会が開かれる程度であった。その後東洋貝釦株式会社は,田辺町から湊村に移転したが,この会社の所在地一帯は工員の宿舎や会社関係の人が多く住んでいたため,現在でも俗称ではあるが,「釦屋町」とよぶ町名があるほどである10)。
 これまで田辺地方の貝ボタンの生成過程をみてきたが,つぎに主として戦前昭和期の動向を瞥見しておこう。まず業界の動きとしては,さきの紀州貝釦同業組合が第1次大戦後の輸出不振の中で解散のやむなきにいたり,昭和5年(1930)7月和歌山県輸出貝釦工業組合が組織された。和歌山県内の産業は繊維を除けば,概して中小工業が多く,とくに数年来の一般経済界の不況により輸出向き産業は大打撃をうけていたが,当時県の貝釦の振興改良策として,つぎの諸点が指摘されている11)。

 貝釦ノ振興改良図ラムカ為左ノ施設ヲ必要トス
 1.既設工業組合ニ加入ナキ当業者ヲ速ニ加入セシメ以テ事業統制ノ実績ヲ挙クルコト
 2.原料,材料品ノ共同購入ヲ為スコト
 3.製品ハ統一セル組織ノ下ニ販売シ濫売ヲ防ギ需給ノ調節ヲ図リ益販路ノ拡張ニ努ムルコト
 4.適当ノ作業ニハ共同施設ヲ為シ以テ製品ノ統一原価ノ低下ヲ図ルコト

 上述の振興策実現のためには,和歌山県輸出貝釦工業組合が中心となるべき点が多かったが,必ずしも業界の組織化は強固なものとはいえず,業界の諸矛盾はなかなか是正されなかったようである。加えて一般経済界の不況は貝ボタンにも大きな影響を与えた。たとえば紀州貝釦株式会社は,昭和4年度(1929)の営業状況を,「前期末ニ於ケル我貝釦界ノ市場漸落ノ傾向ハ依然トシテ止マズ加フルニ金解禁問題ノ影響ハ益々製品ノ安値ヲ称フルニ至リタル」12)と報じている。さらに第6表に示すように,昭和5年(1930)以来県下の貝ボタン生産額は減少しているのである。「之は価格安の為で数量は寧ろ年々増加を示している。最も価格の下落した時には半値以下にまで惨落した」13)という。田辺町の生産額が県下の大部分を占めているが,「田辺に於ては大体専業で村部の方は副業によって経営してい」14)たようである。ただ貝ボタン製造の一分業たる家庭内職の「縫付け」が田辺町付近一円でみられ,「此れに従事する人員は約三千人で,一ヶ年三~四万円の工賃を挙げて居る」15)という状態であった。製品は,主として南米,欧州諸国,カナダなどに輸出された。
第6表 戦前昭和期の貝ボタン生産額
 その後昭和9年(1934)ごろには,金清釦工業株式会社が貝ボタンのほかに,大阪で製法が開発されたナットボタンの技術を導入している。南米のエクアドルから原料を輸入して大量に生産をはじめたが,第2次大戦が激化する過程で原料入手が困難となり,これに代わるものとして木ボタンを開発して終戦時まで続けたという16)。一方,昭和16年(1941)和歌山県の知事命令によってボタン工場の統合問題がおこった。いうまでもなく戦時経済体制を反映した動きであり,当時軍服用ボタン製造業者として陸軍被服廠の指定工場となっていた上述の金清釦工業株式会社を除き,その他の業者は統合され,和歌山県貝釦工業株式会社を設立したのである。統合にいたる過程はかなりの曲析があったが,会社設立後は終戦まで統合会社として貝ボタンの生産を続けた。

 (2) 田辺貝ボタン争議一班
 さきに田辺地方の貝ボタンの展開過程をみてきたが,昭和初期には,紀南地方における労働運動に一つのエポックを打ちたてた「田辺貝釦大争議」がおこった。それは,「日置木材大争議」「富田砥石大争議」と並ぶ3大争議の一つである。以下,先学に導かれながら,その概要をうかがいたいと思うが,まず貝ボタン争議関係の年表を示そう(第7表)。大正7年(1918)8月以降いくつかの貝ボタン争議がおこったことが判明するが,大きな盛りあがりをみせたのは,昭和5年(1930)5月および翌6年5月の争議である17)。
第7表 田辺貝ボタン争議関係年表
前者を田辺貝ボタン第1回争議,後者を田辺貝ボタン第2回争議とよんだりしているが,第1回争議とは,当時18工場からなる業者側の集まりである田辺貝釦相互会(相互会)が貿易不振などを理由として,下請の穴明同業組合に2割賃下げを通告し,さらに同年5月29日本工場の従業員にも同様の意向を示したことに端を発する18)。貝ボタン工場の女子労働者の多くは被差別部落出身であったから,この発表が出された夜,ただちに南紀州無産青年連盟(無青連),田辺浜仲仕組合青年部(浜青)の努力で工場代表者会議がもたれ,賃下げ反対の要求書を作成している。そして30日正午までに回答を求めた要求書を,堀熊楠田辺貝釦相互会会長に手わたしたが,業者側は彼らの要求を無視したため,5月31日6工場の従業員がストに突入したのである。穴明工場の従業員もこれに同調した。田辺で最初のストライキであった。スト参加数は6工場の従業員と穴明工場を含め,約200名,全貝ボタン工の70%に達したといわれるが,6月1日午後1時には,扇ヵ浜海岸に争議団の「慰安会」と称して人々を集め,バイオリンを奏し,蓄音機を持ち出して楽しんだあと,相当の人数が集まったところでデモ行進で業者宅へ向かったりしている。6月2日正午,工場主側は,「9月末までに2割賃下げし,採算をみたのち10月から賃金を協議する」と回答したが,争議団はこれを拒否した。さらに交渉を続けたがまとまらず,同夜7時から田辺警察署長が仲に入り,工場主側6名,争議団代表8名が会見し,午後10時半になって,「1割賃下げとし,犠牲者を出さず,歩引き統一,仕事をふやす」との条件で解決した。翌6月3日解団式を行ない,4日から就業した。労働者たちは賃金を1割減じたが,この過程で団結の力を痛切に感じて,同年7月1日田辺貝釦工組合を結成し,全熊野労働組合協議会(全熊)加盟をも決議した。宣言は,「今まで長いものに巻かれろ式に,どんな不当なことでも涙をのんで耐えて来たが,時勢の力はいつまでも我々を眠らしておくものではない。今回の争議は我々をして団結の力がいかに強いかを知らしめた。今後は各地の労農団体との固き握手の下に,無産階級の生活の向上を計る」といい,綱領には,①直接,間接の賃金値下げ絶対反対,②休業,閉鎖と産業合理化による失業反対,③健保全額工場主負担,④請負制廃止,日給制の確立,などがあった。組合長には撫養弥七が選ばれた。同日の田辺貝釦工組合結成大会には,森岡嘉彦ら太地労組や古座川木労の代表者も参加した。こうして東,西両牟婁郡の組織が結合し,全熊の戦闘性が強化された。なお朝来村にも貝ボタン工場があったが,組合結成後田辺地方の貝ボタン工場の賃金がよくなったため,朝来村三工場の従業員約30名は田辺と均等の賃金を要求して交渉を重ね,賃上げに成功後,ただちに田辺貝釦工組合朝来支部を結成した。昭和5年(1930)12月のことである。
 昭和6年5月1日田辺地方における最初のメーデーが行なわれたが,そのデモ行進の直後に始まる田辺貝ボタン第2回争議は,官憲の弾圧をうけて多数の犠牲者を出し,ついに敗北したとはいえ,この地方の労働運動に一つのエポックを打ちたてた大争議であった。第1回争議後結成された田辺貝釦工組合は,糸川寿一(当時田辺郵便局員,戦旗支局責任者)を非公然の組合書記とし,末広町を中心として浜青との交流の中で,しだいに階級的な労働者意識をもち始めていたのである。他方業者側の集まりである相互会は,不況を理由に賃下げを企てようとしていた。こうした情勢の中で田辺貝釦工組合は,①首切り,賃下げ,休業絶対反対,②万止むを得ず休業するときは休業手当を支給せよ,③組合員以外のものは使用絶対反対,④団体交渉権を認めよ,との4項目にわたる要求書を相互会に提出した。業者側は,困惑のうちに5月3日正午4項目の要求をすべて拒否したため,堀工場をはじめ15工場約100名の組合員がストに入った。最初の団交の席上,業者側は①の要求を認めたが,残りの3項目は認めず,とくに③の組合員以外の使用反対に難色を示した。組合側がこの要求に重点を置き,「組合員以外のものを使用する工場の賃金が低いため,組合員を使用する業者は販売競争で不利な立場にある。従業員を全部組合員として工賃を統一することは,業者間の乱売を防ぐためにも必要」と主張したのに対し,業者側は「その問題は田辺と朝来だけではできない,未加入の紀州貝釦をどうするか」と逆襲してうけつけず19),交渉はもの別れとなったのである。これを不満とした組合側は,5月7日夜から8日未明にかけて各工場主を個別に訪問,ときには暴力的な脅迫も加えて穴明工場主から第3項承認をとりっけた。そしてはじめの要求4項目のほかに,①争議費用全額工場主負担,②争議中の日給支給,③争議による解雇反対,の3項目を追加要求し,8日午後再び業者側代表と交渉を開始した。ところが組合側有利のうちに進められている団交席上へ争議団がデモを行ない,警官と小ぜりあいとなって3名が検束されるという事態が発生した。局面は一転し,団交中断,検束者奪還闘争が始まった。夕刻から降りはじめた五月雨の中で,デモ隊は検束者の釈放を要求して田辺署付近に集合し,メーデー歌を合唱,アジ演説を行ない,深夜の街に凄惨な雰囲気をみなぎらせた。夜半すぎ3名が釈放され,一同は凱歌をあげたが,争議そのものは持久戦となった。警察の介入は,業者側を力づけた。争議団側は森岡嘉彦が来援,最高指導部を組織したのをはじめ,各自の任務分担を明らかにし,街宣と資金獲得の一石二鳥をねらって生魚や石けんなど日用品を売ってまわる行商隊を組織し,持久戦に備えた。また争議団の家族は家族委員会を編成し,場合によっては児童の盟休を行なうことを申し合わせた。
 こう着状態となったまま,両者は声明合戦を演じたが,5月13日午後7時から争議団は有利な決着をつけるため,湊青年会館において工場主糾弾演説会を開いた。争議団,応援団員ら約200名,ほかに市民層の聴衆も多く,窓という窓は鈴なりの人だかりとなり,場外にあふれる盛況だったという。争議団員や来援の人々が演壇に立って発言すると,臨監の警官が「注意」「中止」を命じても,弁士に手を触れさすなと浜青組合員が仕事着姿で腰に手カギをさして演壇を固め,会場内は緊迫した空気であった。最後に登壇した山上為男が激しいアジ演説の終わりに,「工場主にデモをかけろ」とアジり,テーブルの上に飛び上って,「立て!」と叫んで上衣を脱ぎ会場へ投げすてたとたん,聴衆は総立ちとなって会場からなだれ出た。そして約2時間,デモ隊は街頭をかけまわった。このデモ隊は強硬分子と目される工場主の門灯や窓ガラスを破壊するなど暴動化した。一方デモ暴動化を知った田辺署では,管内非常召集をして御坊,南部署に応援を求め,深夜トラックで20余名の警官が来援した。翌14日午前2時には約50名の警官隊が争議団本部をはじめ,町内各署を急襲して「峻烈凄惨を極めた」検挙が行なわれた。女子を含めて約40名近くの検挙者を出した。多くの活動家を奪われて争議団の組織は壊滅した。全熊委員長もやってきたが,検挙の厳しさに呆然として戦意をなくした人々を前にして,手のつけようもなかったといわれる。完全な敗北であった。組合側は指導部を失ったまま最後の力をふりしぼって,5月18日「①首切り,賃下げ,休業は当分これを行なわざること,②取調べ事件関係者にはできる限り仕事を与えること,③その他の要求項目については,追ってこれを考慮すること」という警察と町内会役員の調停案をうけ入れ,争議は終結した。翌19日から就業した。相互会側では100円程度の争議費用を出したが,それも裁判費用にあてられた。起訴者は11名にのぼり,1名が3ヵ月の懲役と他は執行猶予ながら2ヵ月の判決をうけた。この弾圧ののちも田辺貝釦工組合は存続したが,その戦闘性は失われていくばかりであった。

 (3) 貝ボタンから合成樹脂ボタンへ
 第2次大戦後,さきの和歌山県貝釦工業株式会社は解散して,それぞれ独立し,従前どおり貝ボタンの製造を開始した。この間田辺市貝釦協同組合が発足し,田辺地方釦労働組合も結成され,人員整理や工賃値上げなどが問題としてとりあげられた。
 ところで昭和24年(1949)金清釦工業株式会社が貝ボタンの原料不足から,合成樹脂による化学ボタンの将来性に着目し,社内に専門技術者を招聘して研究を重ね,自社の生産品を切りかえ,増産体制をととのえるとともに,当地方の業者にも公開指導するようになって,この技術がやがて田辺市およびその周辺に普及していった20)。このため貝ボタン専業業者は徐々に転廃業のやむなきにいたり,昭和32年(1957)ごろからその生産は急速に減少した。合成樹脂ボタンにとって代わられたのである。
 昭和30年ごろの田辺地方のボタン工場は80有余,従業員4千名,内職などの関連部門を含めると非常な人数にのぼったが,その後企業規模の大型化で出荷額は伸びた反面,過当競争も加わり,自主廃業者や倒産者も相つぎ,企業数は減少していった21)。昭和44年(1969)当地方有力企業の金清釦工業株式会社は,社屋と工場を新築・移転したが,その竣工パンフレットには,「金清釦の過去五十年を顧みるとき,戦前の天然の資源を材料にした家内的手工業の時代から戦争中の代用品時代,そして戦後台頭したプラスチック時代へと転換,オートメ化された大量生産,開放経済をして貿易の自由化とあらゆる面にわたり,今や過去のどの時代にもくらべ最も多難な時代になった」22),と回顧している。そして昭和40年代後半には,田辺工業団地建設が議論される中で業者の団体は,田辺地方釦工業協同組合と南紀釦工業団地協同組合に分裂し,今日にいたっている。
 以下,昭和49年(1974)に実施された『田辺地方釦産地診断報告書』を手がかりに,当地方ボタン業界の概況および当面する問題点をうかがっておこう。
 まずわが国および和歌山県のボタン産業の推移を示すと,第8表のとおりである。昭和30年(1955)以降の事業所数,従業員数の全国推移をみると,大きな変化は認められないが,出荷額は昭和30年を基準とすれば15年間で約5.1倍の伸びを示している。輸出額は昭和35年(1960)を基準とすれば10年間で約1.7倍の伸びである。この間の県下の伸びはそれぞれ6.9倍,1.8倍であり,全国平均をかなり上まわっている。そして出荷額の全国シェアは昭和35年(1960)の13.9%をピークに,その前後5年間は若干の振幅がみられるものの,出荷額のうち平均43.9%が輸出に向けられ,わが国ボタン輸出の10数%を占めていることが指摘される。なお,表には出ていないが,その後の状況をみると,昭和51年(1976)には出荷額約48億円,その輸出額約17億円,輸出比率は35.0%である23)。最近の経済変動から輸出向けは減退し,内需のウェイトが高くなってきているといえよう。
第8表 わが国および和歌山県内ボタン産業の推移
 つぎに,主として昭和45年(1970)段階における規模別の事業所数,出荷額などをみると,第9表のようである。これによると,ボタン産業は従業員300名以下からなる産業部門といえるが,とくに従業員50名未満のところが全国の事業所数で96.9%,従業員数で69.3%,県下の事業所数で88.5%,従業員数で46.2%と圧倒的に多くなっており,同規模のところで全国出荷額の60.0%,県下出荷額の33.4%を産出していることが判明しよう。和歌山県の場合は多少大型化の方向がうかがえるが,反面全国的動向以上に企業間格差が目立っているのである。比較的規模の大きいところは,新技術の開発,経営合理化にも前向きであり,小規模のところとの格差はますます大きくなっている。
第9表 規模別の生産状況
 合成樹脂ボタンは他のボタンに比較すれば量産化が可能と思われ,ある程度大型化の方向がうかがえるが,基本的には下請を頂点とする中小零細規模という点にボタン産業の特徴がある。たとえばユリアボタンの製造は,「原料」「粉砕着色混合」「圧縮成型」「バリ取り」「艶出し」「撰別」「包装」「箱詰出荷」の諸工程を経て行なわれるが,一般に圧縮成型から撰別工程までの作業は下請である。さきの『田辺地方釦産地診断報告書』によれば,昭和49年(1974)ごろの業者総数26のうち会社組織は5,企業組合1,その他は個人企業であった。そして10社は自社生産(うち一部下請4)であり,他の16業者は下請生産と報告されている24)。なおアメリカ向け輸出については包装,箱詰の段階で工場周辺の内職が広汎にみられる。すなわち製造業者から完成ボタン,台紙,糸,箱などが元請内職にまわされ,さらにこれが各末端に提供され,台紙付および裏穴ボタンの糸通しなどの家庭内職が行なわれているのである。末端の内職人員は多いところで1社150名にものぼっており,産地全体からみればボタンに携わる人員は非常に多いといわれる25)。
 さらに流通状況についてふれておきたい。田辺地方のボタン流通経路は第1図のようである。まず原料入手は原料製造メーカー,原料問屋,原料商社などを通じて行なわれるが,とくに原料製造メーカーとボタン製造業者の関係が密接である。前者は後者に比較して大企業であり,原料入手にあたってはほとんど問題がなく,ボタン製造業者は技術上の指導,取引上の便宜を与えられることが多かった。しかし石油ショック以降は,原料不足に伴ない状況は大きく変わってきている。つぎに製品の販売であるが,内需の場合は,主として大手第1問屋,地方第2問屋を経て行なわれる。一部には小売または既製衣料製造メーカーへ直接販売を行なっているものもある。仕向け地は大阪が一番多く,ついで東京である。輸出の場合は,大手第1問屋,貿易商社を通じての間接輸出である。さらに取引関係であるが,全工程を一貫して生産しているところは10企業で,このうち比較的大きい元請企業は5ないし6である。これらの企業の下に16の下請工場がピラミッド型に系列化されている。原料の入手系列,製造に対する元請・下請,製品の販売系列は存在するが,元請相互,下請相互など横の関係はほとんどみられない。
第1図 田辺地方ボタン(合成樹脂ボタン)の流通経路
 最後に,田辺地方のボタン産業の当面する課題に言及しておきたい。第1に当産地の現況把握そのものが困難を伴うが,実はここにいくつかの問題点が内
包していると考えられる。そこで業界全体の発展のためには,県・市および商工会議所・商工会などの協力体制も必要であることを指摘しておきたい。もとよりこの点は業界自らの努力が要求されることはいうまでもなく,たとえば組合の一本化をはかることもその1つであろう。
 第2に,ボタン工場の多くは市街地にあるため,騒音・埃・廃棄物の処理など,いわゆる公害問題をかかえている。一部の工場は移転し,また産業廃棄物の処理については前向きの体制がとられているが,このほか職場環境の改善にも取り組むべきである。なお廃棄物の再利用も研究する必要があろう。
 第3に,新製品の開発があげられる。これまでの需要動向から商品の多様化,高級化は今後いっそう進むものと思われるから,消費者の嗜好,需要動向の調査ならびにデザイン,加工方法など,さらに研究する必要がある。またボタンは繊維製品の付属品であり,がんらい不安定な立場に置かれている性格上,ボタンの技術を生かした付加価値の高い商品もあわせて研究する余地があろう。
 第4に,中級品以下のボタンについては発展途上国の追い上げが急で,コスト面では完全にリードされていることが問題であろう。輸出の減退は一時的な不況が原因というより国際市場での競争力が弱くなったことを物語るものであり,根本的な対策が必要な時期にきていると思われる。ただ韓国・台湾にしても製造技術においては,わが国と比較して10年の遅れがあるといわれ,製品管理もまだ拙劣であるという。

2 奈良県のボタン産業

 (1) 貝ボタンの生成と発展
 奈良県に目を転ずると,やはり輸出向生産として外貨獲得に少なからぬ役割を果したものに貝ボタンがあげられる。主として南方産の高瀬貝や蝶貝などの貝殻を繰り抜き貝ボタンはつくり出されるが,奈良県に伝わったのは明治38年(1905)ごろのことである。貝ボタンは明治20年(1887)ごろ神戸でドイツ人技師の指導でつくりはじめられてから,30年ごろには大阪へ,さらに河内地方へ広まって奈良県にも及んだわけであった。その際,耳成村,上市町,川西村唐院・結崎で各1戸ずつ開始したといわれるが,その背景には木綿織の衰退,灯芯の斜陽化,農家の耕作面積の狭小さ,などがあった26)。すなわち大和木綿の賃織は農家の副業として農家経済を支えてきたが,これが不振をきわめたため貝ボタンが新たにうけ入れられたのである。やがて川西村に定着するが,荒木幹雄氏は,この点に関連し,「賃機の衰退にかわったものは貝釦の製造であった。すなわち貝釦製造は明治38年に大字唐院において開発されたが,明治44年には川西村の七戸が製造に従事しておりその後急速に発達した。大正4年頃には『川西村ニ於テ貝釦製造業尤モ盛ナリ業者約五十戸アリ其半数ハ同村大字唐院ナリ,産額五〇.四〇〇円数量二〇一.六〇〇ゴロスニ達ス』とある。原料は南洋産印度産琉球産などのものを輸入し,また製品は神戸の外国商館と地方商人を通して販売していた。釦製造に従事したものは下層農家のもので『大字唐院ニアリテハ下流農家ノ副業トシテ生活難ヲ救済スルニ足ル』とある」27)と述べている。
 農村家内工業としての貝ボタンは原料の前貸制度などがあって,かなりの速度で奈良盆地へ普及していった28)。大正10年(1921)ごろの調査は,奈良県への移行過程を,つぎのように述べている。やや長文であるが,仲買商の位置がよくわかろう29)。
 貝釦ハ専業職工以外多数ノ農業者其ノ他都邑附近ノ雑業者ノ内職又ハ副業トシテ盛ニ製作セラレツヽアルモ其始メニ於テ商人ハ是レカ製造ヲ教示開始スルニ当リ利益ヲ誇大ニ吹聴シ甘言ヲ弄シテ其ノ原料及器具ヲ貸与シ専ラ其ノ生産力ノ増加ニ努メシヲ以テ開始当時ニアリテハ其ノ製品ヲ有利ニ取引セラレシカ猥ルヽニ従ヒ漸次悪辣ノ手段ヲ弄シ製品多量トナルニ従ヒ些細ナル点ヲ指摘シテ所謂見倒シ買倒シノ手段ニ出テ更ニ当然買取ルヘキモノヲ委託ノ形式トセシメ原料ト交換スルトキハ原料ノ高価ニ見積リ製品ヲ廉価ニ計算スル等ノ悪手段ヲメクラスカ如キ風潮次第ニ盛トナレリ最近是レカ為大阪府下ノ生産力著シク減退シツヽアルヲ以テ商人ハ和歌山県及奈良県方面ニ漸次生産地ヲ求メ殊ニ奈良県下ハ最モ彼等ノ注目スル処トナリ盛ニ是レカ製作ヲ奨励シツヽアリ如斯シテ不正商人等ハ常ニ新ラシキ方面ノ開拓ニ努力シテ以テ不正ノ利ヲ見ルニ腐心シツヽアルモノヽ如シ
 つぎに明治40年(1907)から昭和11年(1936)にいたる貝ボタンの生産状況をみれば,第10表のようである。大正9年(1920)まではボタンとして
一括されているが,その多くは貝ボタンであろう。貝ボタンは内需より輸出に重点が置かれたが,とくに第1次大戦による好況で大いに伸び,大正8年(1919)には総製造戸数541戸,総産額412万3619円に達した。動力の導入で生産能率も向上し,その時期に奈良県は兵庫県をしのいで大阪に次ぐ全国第2位の生産県にのしあがった。しかし戦後の反動恐慌で製品価格が3分の1に暴落するという痛手をうけ,大正10年(1921)には総製造戸数179戸,昭和元年(1926)には86戸に激減し,生産額もそれぞれ最盛期の約8分の1,約5分の1に低落した。なお,表には出ていないが,後者の年度についてその地域分布をみれば,生産額は磯城郡が53万8815円と圧倒的に多いものの,製造戸数では北葛城郡が56戸と断然多く,磯城郡は15戸となっている30)。
 この間業界組織化の機運が数回起っている。とくに大正7年(1918)の好況期には,日本貝釦同業組合および兵庫県貝釦同業組合から奈良県の業者に組合設置の働きかけがなされたが,実現にいたらなかった。その理由は,奈良県の場合,完成品業者が少なく,副業として半製品を転売する状態で副業の強味を生かそうとの姿勢が支配的であったためといわれる31)。しかるに第1次大戦後の不況を経験して,昭和5年(1930)7月川西村唐院の福山幾三らの輸出貝ボタン製造業者によって奈良県貝釦工業組合が結成された。重要輸出品工業組合法による組織化であったが,当時奈良県の貝ボタン製造業者は,「概ねその規模小にして,資金に乏しく,且無統制なるために徒らに原料商,又は是等ブローカーに其の利益を壟断せられる状態」32)であったから,何よりもそうした弊害を是正しようとしたのである。組合では,唐院に総合加工工場を建設したり,三井物産との間に原料貝の輸入や製品の輸出に関し,特約をむすぶなど業界の発展に寄与するところがあったが,輸出価格の低下を理由にまもなく取り引きが停止されたりして苦難の道を歩まなければならなかった。そして昭和12年(1937)以降は,軍用貝ボタンの需要に応ずる方向に進み,さらに統制下に入ったのである33)。
 ところで貝ボタンの原料は20余種に及んだが,和歌山県のアワビ,サザエとやや事情を異にし,奈良県は高瀬貝が中心である。そこでいま少し,昭和初期の高瀬貝ボタンの生産状況などを瞥見しておこう。まず生産工程は,「原料」「繰場」「塩取」「ロール掛」「摺場」「挽場」「穿孔」「化車磨」「晒」
第10表 奈良県貝ボタンの生産額
「艶出し」「染色」「乾燥」「蝋艶」「撰別」「台紙付」の順序であるが,製造業者の同一工場で全工程を行なうものはきわめて少なく,各工程によって分業化されている。最初に分離したのは,繰生地(繰場)工程であった。大正初期にはじまったとみられるが,「この分離の直接的な契機となったものは貝ボタン生産費の半ば以上を占める原料貝の価格が,輸入業者の投機の結果大きな変動をくりかえし,それがマニュ的企業の経営を大きく脅やかしていたことによる」34)といわれる。ここに製造業者は相場変動の危険性を回避し,また原料ストックの資本的重荷からも解放されたわけである。繰生地業者は河内地方から,やがて奈良県磯城郡に移っていき,この地方の農家副業として主要な産地を形成した。
 繰生地業者の購入する原料貝は海外ものと内地ものに分かれるが,繰生地業者と輸入商間の取引方法をみると,先物を購入する場合と現物を購入する場合の二通りがあった。前者は「先ヅ註文金額ノ二割ヲ手附金トシテ輸入商ニ納メ現物引取リノ時残額ヲ決済シ」,後者は「現物受取リト同時ニ代金ヲ決済シ」ていた。運送料は繰生地業者の負担であった。繰生地業者と輸入商間の代金決済は,大正9年(1920)までは手形決済であったが,同年の恐慌に際して支払不能になるものが続出し,輸入商のうち破産のうき目にあうものが出たため,以後は現金決済となった。また繰生地業者から製造業者への経路は直接販売される場合といくつかの仲買商の手を経る場合に分かれるが,原則として現金取引主義であった35)。
 さて繰生地とほとんど時を同じくして穿孔と台紙付が分離し,さらに塩取屋,賃摺屋,賃挽屋などの基幹的工程の一部をうけもつ賃加工専門の小企業があらわれはじめた。そして昭和初期には,つぎのように大別されるにいたった。36)
 ①台紙付を除く全工程を同一の経営で行うもの
 ②繰生地を購入して摺,挽,穿孔,仕上げ,撰別を同一の経営で行うもの(穿孔のみ下請に出すものもある)
 ③自己の職場では仕上げ,撰別のみを行うもの
 これは,主として大阪府の状況を類型化したものであるが,当時①の形態はわずか2,3戸にすぎず,②の形態もしだいに減少し,③の形態が支配的な形になっていた。いうまでもなく,③の形態は,貝ボタン生産工程のうちで最も主要だと思われる全部を欠いている。奈良県についていえば,②の形態に関連する「黒屋」の存在が目立った。すなわち繰生地を購入してロール掛,摺場,挽場の3工程を行なうもので,5,6戸を数えた。その大きなものは自己の工場に3,4名の職工と工場外に5,6戸の下請をもつものがあったという。
 いずれにせよ貝ボタン製造は,まさに諸工程が分散独立し,農家の副業としての賃加工を基礎としながら展開したわけである。しかも「本業者ハ小資本経営ノモノ多キ関係上,其ノ資力ハ繰生地業者,製造業者ヲ問ハズ薄ク殊ニ繰生地業者ニ於テ甚シク該業中ニハ繰生地仲買商ヨリ原料購入資金ノ融通ヲ受ケテヰルモノモアル状態」37)で商業資本の従属下に展開されたというべきであろう。説明は不十分であったが,参考までに高瀬貝ボタンの原料取引経路ならびに製造関係を図示しておくと,下の第2図,第3図のようになる。
第2図 高瀬貝ボタンの原料取引経路
第3図 高瀬貝ボタンの製造関係
 なお当時,「高瀬貝百斤から普通の貝釦抜取数は一万二千個,之を形付に廻すと一万一千五百個となり,都合よく穴穿にかかるものは一万一千個,更に漂白して磨きに掛け,売品となる数は一万五百個」38)ということであった。
 最後に第2次大戦後の状況にふれておくと,統制撤廃で活気を取りもどし,昭和30年(1955)には4億4千万円にのぼる出荷実績をあげ,アメリカをはじめ西ヨーロッパ諸国へ販路を伸ばしたが,その後は合成樹脂ボタンの進出によって圧迫されはじめた。加えて原料高の製品安,受注の無計画性もあって,生産額は減少し,貝ボタン業者の転廃業が目立ってきた。製造は戦前同様,同一業者による一貫作業ではなく,各工程によって分業化されており,その実数はつかみ難い面もあるが,総事業数は昭和27年(1952)314であったのが39),昭和47年(1972)には170に減少している40)。また繰生地業者数は昭和30年(1955)ごろ200であったのが,昭和42年(1967)には50に減少している41)。ただ繰生地は,従来堅型のボール盤を使っていたが,最近は1分間1万回転という高速運転の横式繰抜機で能率をあげている。業界組織としでは,現在三宅町伴堂に奈良県貝釦繰生地協同組合,川西町唐院に奈良貝釦工業組合があるが,いわば親睦団体化したものといえよう。

 (2) 合成樹脂ボタンと皮ボタンの動向
 奈良県のボタン産業は磯城郡を中心とする貝ボタンが有名であるが,大和高田市のアクリル,ラクト,尿素ボタンといった合成樹脂ボタンも比較的よく知られている。現在では,この部門の方が生産額も多い。昭和初期森岡弥吉が水牛角の角質ボタン(オーバー,洋服用)を松塚で開始したのが元祖で,この技術が伝播し,ボタン産地を形成することになった42)。戦前の骨ボタン,ナットボタンから,いち早く合成樹脂ボタンに切りかえたため,比較的順調な歩みをみせたといえそうである。デザインの良否が販売を大きく左右するとのことである。
 なお橿原市の成興釦工業株式会社にもふれておきたい。同社は昭和14年(1939)の創業で,当初は南米エクアドル産のアイボリーナットを原料として輸出向きの男子洋服ボタンを製造し,戦時中は南洋産のヤシ殻を原料として陸軍軍服用ボタンを,内地産のツバキ材を原料として海軍外套用の木製錨ボタンをつくっていたが,戦後はアクリル酸樹脂を原料とする婦人用ボタンの製造を行ない,製品の60%を輸出しているのである。仕向け地はカナダ,北米,南米,中近東など世界各国にわたっている43)。
 さらに奈良県のボタン産業としては,もう一つ皮ボタンがある。わが国の皮ボタンは大正8年(1919)ごろ神戸市の戸田富蔵が陸軍被服廠から払い下げをうけた屑皮を原料として製造したのが嚆矢とされているが44),橿原市飛弾へは戦後の昭和23年(1948)大阪から技術を学んで定着することになった。現在同地方は皮ボタンの唯一の生産地であり,全国生産額の100%をほこっている。出荷額の約70%は輸出向けであり,主としてアメリカに輸出されている。
 皮ボタンの製造工程はきわめて簡単で,つぎのようである45)。①屑皮を切断機で羽織の紐状に切断し,②スキ機で皮の厚味を整え,③手で紐皮をボタン状に編む,④圧縮機で完全なボタン状に圧縮し,⑤ボタン型からはみ出した部分をはさみでつむ,⑥吹き付け染色を行ない,⑦乾燥機で乾燥する。このうち,①から⑤までの工程は下請業者であり,本業者の場合は,⑥⑦の工程が付加されるだけである。③および⑤の工程は内職労働によっている。皮ボタンの完成品をつくり得る本業者は7,下請業者は11,内職に従事する農家の主婦は2千余名にのぼるという。昭和40年代前半で,ボタン100個編んで平均40円,10時間熱中すれば1日1千個400円,相当苦しい仕事とのことである。
 最近の業者の悩みは,第1に原料屑皮の入手難と価格騰貴である。原料は皮革カバン,バンド生産で有名な和歌山市岡町から仕入れているが,昭和38年(1963)当時10キロ当り200円であったものが,ベトナム戦争による皮需要の増大で昭和41年(1966)にはその2倍に急騰したという。第2は問屋への納品をめぐって業者間に過当競争が起こることである。先般日本皮釦輸出組合を結成し,問屋に乗ぜられないよう納品価格の協定を行ない,各問屋にその旨通知するとともに業者自らも協定違反をしないよう自粛している。
 最後に,昭和37年(1962)から昭和49年(1974)にいたる県下のボタン輸出実績を示そう(第11表)。これによると,何よりも貝ボタンの減退に代わって合成樹脂ボタン,皮ボタンの台頭が注目されるが,後二者も海外市況には敏感であり,とくに昭和42年(1967)以降の合成樹脂ボタン,46年(1971)以降の皮ボタンの落ちこみは相当厳しく,楽観は許されないであろう。いずれもアメリカ向け輸出の停滞が主たる原因であったのである。
第11表 奈良県のボタン輸出額

おわりに

 以上,和歌山,奈良両県下のボタン産業の展開過程について粗雑な考察をしてきた。資料的制約もあって,かなり精粗のあるものとなったが,つぎに昭和11年(1936)以降の生産額および全国シェアの推移を示し,小稿を終えることにしたい(第12表)。
 戦前昭和10-11年(1935-36)平均の貝ボタン生産額をみると,奈良県は兵庫県,大阪府についで第3位で47万6千円を産し,全国シェア19.1%である。和歌山県は4位で34万7千円を産し,全国シェア13.9%である。戦後は合成樹脂ボタンの進出が目立ってくるが,昭和35-36年(1943-44)平均をみると,和歌山県は大阪府についで2位で8億2400万円を出荷し,全国シェア16.4%に上昇している。奈良県は第5位で4億900万円を出荷し,全国シェア8.1%となっている。その後は両県とも全国シェア10数%を占め,それぞれ2位,3位にランクされており,戦前戦後を通じてわが国有数のボタン産地を形成していることが指摘される。
第12表 わが国のボタン生産額推移
 現在和歌山県は貝ボタンの生産がほとんどなく,奈良県も減退してきており,合成樹脂ボタンへ進出をはかったり,また合成樹脂ボタンを兼営したりしているが,この傾向は輸出にも反映されている。すなわち全国的比率を示すと,かつてボタン輸出の60%以上を占めていた貝ボタンが,昭和35年(1960)には13%と約5分の1に減少し,これに代わって合成樹脂ボタンが8%前後から73%と約10倍に増加してきたのである。この原因は,主として,①戦時・戦後を通じてドイツ,フランス,イタリア,香港などが優秀なクリボール盤を使って貝ボタンの大量生産に乗り出したため,わが国の貝ボタンの輸出市場が狭められたこと ②貝ボタンに比較して合成樹脂ボタンの価格が非常に安いこと ③貝ボタンは原料が天然物であるため,その産地,品質などの関係で製品として全く同一のものができないが,合成樹脂ボタンは品質が一定しており,弱点である耐熱性の問題も改善されるなど品質の向上が著しいこと,にあるといわれる46)。
 いずれにせよ合成樹脂ボタンは,技術の高度化やデザイン面での研究が進んでおり,また大量生産によるコスト・ダウンも期待できる部門であるから,ボタン需要の増加とともに内需,輸出ともある程度の伸びが見込まれるだろう。他方貝ボタンは変色しない,光沢がよいという特質を生かし,高級装飾ボタンとして根強い地盤をもつものと思われるが,一般的退潮は否めないのではなかろうか46)。

 1)堤長七『釦業界の源流』東京釦裁縫用品卸協同組合刊,昭和47年,136ページ。
 2)和歌山県西牟婁郡田辺町編『和歌山県田辺町誌』昭和5年,544ページ。
 3)「西牟婁郡朝来村貝釦賃職業調査」和歌山県農会『和歌山県勧業月報』91号,大正7年,16ページ。
 4)和歌山県『和歌山県産業奨励方針調査書』大正2年,374ページ。
 5)同上,375ページ。
 6)同上,376ページ。
 7)「西牟婁郡朝来村貝釦賃職業調査(前号つづき)」前掲『和歌山県勧業月報』92号,大正7年,14ページ。
 8)「紀州貝釦株式会社定款」。同社は,その後昭和12年に原料供給地たる済州島進出を決意し,済州島貝釦工業株式会社を設立し,2年後の14年から操業を開始した。
 9)「牟婁新報」大正7年4月28日付。
 10)津越静之「後進国の追いあげをかわす田辺ボタン」(日本地域社会研究所編 『日本の郷土産業』4=近畿所収,新人物往来社,昭和50年)256ページ。
 11)和歌山県『和歌山県産業調査書』昭和6年,89ページ。
 この貝ボタン振興策に関連する動きとしては,さきに大正15年8月原料の共同購入などを目的に大阪,和歌山の同業者14名が日本玉貝産業組合を組織し,原料商は組合以外のものには原料を販売しないこと,また組合員も原料を組合以外から購入しないことを規約にうたい,相当な成果をあげたという。しかしやがてその結束はゆるみ,昭和2年解散のやむなきにいたった(大阪市役所産業部『大阪の鉦釦工業』昭和5年,45-46ページ)。
 12)「紀州貝釦株式会社第12回営業報告書」昭和4年度。
 13)和歌山県知事官房統計課『和歌山県特殊産業展望』昭和9年,126ページ。
 14)同上,127ページ。
 15)日本産業協会編『近畿の副業』同会刊,昭和5年,148ページ。
 16)津越静之,前掲論文 256-57ページ。
 17)以下,和歌山県教育研究所編『和歌山県社会運動史資料(戦前の部)』(昭和41年)13-18ページ。小川龍一『紀南地方社会運動史(戦前第2分冊)』(昭和43年)12-15,28-29,33-38ページ,池田孝雄「紀南の労働運動」(安藤精一編『和歌山の研究』第4巻近代編所収,清文堂,昭和53年)294-300ページ,などによる。なお池田氏には,このほか「田辺貝釦工組合ボタン争議てん末 ― 紀南初期労働運動の一断面 ―」(紀南労働運動史研究グループ刊,昭和37年)がある。
 18)田辺地方の貝ボタン工のうち,紀州貝釦株式会社の100名余は,すでに2割の賃下げを認めていたという。
 19)紀州貝釦株式会社の状況を「同社第14回営業報告書」(昭和6年度)によってみると,「此ノ如キ情勢ニ対シ吾社ハ専ラ受註売方針ヲ以テ臨ミ工賃給料ヲ引下ケ鋭意経費節減ニ勉メ隠忍持久ノ方策ヲ講シタリト錐モ尚大ナル経費節約ノ果断ヲ痛感シ富田工場ヲ閉鎖シ面削工及穴明工ノミヲ下請制トシテ残存シ止ムヲ得ズ社員十二名ノ解雇ヲ決行シ以テ重大ナル難局ニ対応セリ」とある。
 20)津越静之,前掲論文257ページ。
 21)和歌山県中小企業総合指導所『田辺地方釦産地診断報告書』昭和49年,2ページ。
 22)田辺市役所編『田辺市誌(2)』昭和46年,289ページ。
 23)紀陽銀行調査部「円高の地場産業への影響」同行調査部『経済月報』No.130,昭和52年,3ページ。
 24)前掲『田辺地方釦産地診断報告書』22ページ。
 25)同上,17ページ。なお以下の記述は,同診断報告書および帝国興信所和歌山支店の調査メモ(県議会用資料)に負うところが大きい。
 26)川西村史編集委員会『川西村史』(昭和45年)495-96ページ。三宅町教育委員会『三宅町史』昭和50年,571-74ページ。
 27)荒木幹雄「明治期奈良盆地における農民層分解 ― 奈良県磯城郡川西村の場合 ―」,日本史研究会『日本史研究』第55号,昭和36年,60ページ。
 28)千田正美『奈良盆地の景観と変遷』柳原書店,昭和53年,231ページ。
 29)農商務省農務局編『大阪市及神戸市ニ於ケル貝釦取引状況調査』大正11年,24-25ページ。
 30)奈良県『奈良県統計書』昭和元年,210ページ。
 31)石井六治郎編『日本貝釦同業組合沿革史』同会刊,昭和4年,449ページ。
 32)奈良県経済部『奈良県の商工業』昭和10年,139ページ。
 33)前掲『川西村史』322-23ページ,大和タイムス社編『大和百年の歩み』政経編,昭和45年,320ページ。
 34)三宅順一郎「河内地方における農家経営の変貌 ― ぶどうとボタン ―」農業発達史調査会編『日本農業発達史』別巻上所収,中央公論社,昭和33年,365ページ。
 35)大阪府内務部『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』昭和5年,22-26ページ。
 36)前掲『大阪の鈕釦工業』88-89ページ。
 37)前掲『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』29-30ページ。
 なお同書には,海外輸入業者よりみたわが国ボタン産業の欠点および注意事項が,つぎのように記されている(56-57ページ)。
 輸出業者ニ対スル注意事項
 1.見本品ト現実品トノ相異(略)
 2.積出期限ノ厳守(略)
 製造業者ニ対スル注意事項
 1.貝釦穴ノ大小アルコト……最近機械ヲ用フルコトヽナッタカラコノ苦情ハナクナッタ
 2.裏穴釦ノ穴ガ細スギルコト,或ハ一度穴ヲアケテ駄目ニナルト他ノ場所ニ再ビ穴ヲアケルヤウナ事ヲシナイコト
 3.釦コトニ裏穴ニ於テ〓ケタルモノヲ混シナイコト,穴ガ細イト糸ガ通ラズ又針ノ先ガ折レル〓ケテル場合ニハ釦ガ真直ニ立タナイ〓点ガアル
 4.厚サノ不揃,目方ノ不正
 5.選択粗末ニシテ品質ノ悪イモノヲ混入スル事
 6.磨キノ不充分
 7.高瀬貝ノ裏面ニアル所謂緑青色ノ残留除去ノ不充分
 38)前掲『近畿の副業』117ページ。
 39)日本商工会議所『輸出中小工業の実態』同会議所刊,昭和28年,377ページ。
 なお,当段階における奈良県貝ボタン産業の問題点として,①設備とくに使用機械の更新,②納期の厳守による信用度の高揚が指摘されている(同書,380ページ)。
 40)奈良県商工労働部商工課『奈良県中小企業の現況』昭和47年,16ページ。
 41)大阪府立商工経済研究所「新原料,新製品の開発にともなう中小工業再編の実態 ― その1プラスチック製品 ―」同研究所『経研資料』No.456,昭和43年,128ページ。
 42)大和高田市史編集委員会『大和高田市史』昭和33年,377-78ページ。
 43)橿原市史編集委員会『橿原市史』昭和37年,1005ページ。
 44)前掲『大阪の鈕釦工業』23ページ。
 45)以下,前掲『大和百年の歩み』322-23ページ。
 46)大和銀行調査部「ボタン業界の概況 ― 貝・合成樹脂ボタンを中心にして ―」同行調査部『経済調査』No.164,昭和36年,66-67ページ。