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都市型中小工業の農村工業化

著者名: 竹内常善
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次
はじめに・・・・・・・・・2
Ⅰ わが国における貝釦生産の定着過程・・・・・・・・・・5
Ⅱ 明治期における生産機構の推移・・・・・・・・・・15
Ⅲ 第1次世界大戦期以降の生産工程・・・・・・・・・・22
Ⅳ 「製造家」を中心とした生産組織について・・・・・・・・・・29
Ⅴ 農村工業化傾向について・・・・・・・・・・41
結論にかえて・・・・・・・・・・54


はじめに

 本稿でいう都市型中小工業とは,明治後期以降,わが国の都市における潜在的過剰人口を直接間接に利用しつつ,労働集約的な中小零細規模の生産者層に担われた生産部門であり,かつ規模の零細性と零細化傾向にも拘らず,その生産水準が長期的に増大していったような部門を指している。また農村工業化という場合は,そうした都市型中小工業の一部が,農村における過剰人口を利用する形で移植され,定着していったケースを意味している。本稿では,おのおのの領域における導入ならびに定着と発展過程を可能にした諸条件のうち,直接的生産者自身の動向,彼らを外業部的に支配している商人層 ― 伝統的問屋商人ならびに外国商館 ― との関連,直接的生産者層内部の階層分化,などを中心に検討を試みることにしたい。
 具体的には,大阪市とその周辺農村部を中心に形成され,発展してきた貝釦生産の事例を取り上げる。時期的には当該部門がわが国に導入されてくる明治前期から,独特の生産機構が ― とりわけ農村部のものを含めたそれが ― 定着し,さらに外延的拡大傾向の見られた昭和初期までを検討してみることにしたい。
 ところで,貝釦生産も,他の多くの都市型工業と同様に,明治期以降にわが国で定着発展した一種の移植産業である。わが国においては,こうした移植産業のうち「基幹部門」に関しては,国家的槓杆を背景として当初から大規模,一貫,多品種生産を意図せざるをえなかった。そうした特定戦略部門を別とすれば,多くの場合は都市型中小工業として定着していった。また明治30年代以降本格化していく(農村からの)都市流入人口の増大傾向に対して,そこに不可避的に蓄積される相対的過剰人口の最も広汎な部分を吸収していったのも,こうした都市型中小工業 ― その最底辺部はしばしば「雑業層」とも呼ばれる ― の労働集約的生産過程であり,流通過程である。こうした領域では何よりも零細性と,時として姑息さまでが眼に余るような,中小零細業者こそが普遍的な担い手であるかのように登場してくる。
 しかも,こうした領域の社会的性格はいささか複雑面妖である。それはわが国の中小工業ないし中小ブルジョワジーの活動領域であり,零細業主や職人親方といった「旧中間層」の存在領域であり,1)同時に都市の低賃金問題,苦汗労働問題,「都市雑業層」2)問題と絡みあって推移している。しかもその底辺は都市スラムの形成や,農村過剰人口,低賃金労働力の存在圧力と分ち難く結びついている。つまり日本資本主義の諸々の底辺構造が重層化し,相互に規定しあっているような特殊領域を構成していると言ってもいい。殆ど人口に膾炙することもないささやかな特定業種を選択して,それを歴史的に遡及してみようというのも,こうした重層的絡みあいの幾つかの局面にスポットを当ててみる上で好都合だと思えるからである。そこにまた,日本型産業化の道程に付随した特徴点や問題性の一端を垣間見ることも出来るのではないかと思われる。3)
 貝釦生産という特定領域に視野を限定しているため,資料的制約は ― 筆者の努力不足は否めないが ― いかんとも覆い難い。このこともあって,本稿ではむしろ,限られた既存資料の筆者なりの読み込みに力点をおいている。個々の資料,文献の間の矛盾点をどう整理すれば一貫したプロセスとして理解できるかという点に作業を集中したことから,具体的な新事実の発見もなしに整序を試みた個所も少くない。このため一部では注が集中して,かなり読みずらくなっていることを予めお断りしておかねばならない。比較的最近の2,3の研究に対する若干のコメントは注のなかで言及することにする。
 また資料的制約に対しては,大阪府柏原市および藤井寺市,香川県大川郡を歩き,経験者の方々から得た話によって補うことを試みた。オーラル・ヒストリィに限界はつきまとうにしても,極力情報量を増やす必要に迫られたし,文献類自体に ― とりわけ業界関係のものなど ― 一定の恣意性が窺えた以上,これはどうしても必要な作業であったと考えている。調査期間中お世話になった各方面の方々とそのご好意に対して,十分な報告書を作り上げるまでに至らなかった点,深くお詑びしなければならない。また筆者の余裕のなさから,おのおのの文献の指摘に対する詳細な批判,誤記の指摘など,逐一指摘するに至っていない。既存資料の各所の細かい疑問点をすべて指摘することで,本論が煩雑になりすぎる危倶を感じたからである。この点,大方のご寛恕を請うものである。
 また業界内の用語,表現の不統一性にも悩まされた。そうした不統一性の残存自体が,旧時代的体質が遺っていることの証左であるとも言えるが,本文中では極力統一的に表現した。引用文中のものとは意味内容が異なることがあることをご留意願いたい。また,一貫性に固執することで,逆に中間的諸形態,過渡的諸類型の多様な存在が捨象されすぎる危険は避けられないが,あえて本稿なりの整理を試みさせて頂いた。このことに伴う論点の暖昧さと,展開の不十分さは,もとより筆者自身の責任に属することである。なお引用文中の字体は極力新字体に改めさせて頂いた。
 1) わが国における「旧中間層」という用語法には,欧米先進諸国における産業化の歴史的諸側面に関する諸研究の成果を安易に受容しすぎている側面が窺える。そのことに対するコメントは別に行うことにしたい。
 2) 隅谷三喜男『日本の労働問題』東京大学出版会,1964年。
 大河内一男・隅谷三喜男編『日本の労働者階級』東洋経済新報社,1955年
 隅谷三喜男・小林謙一・兵藤釗『日本資本主義と労働問題』東京大学出版会,1967年。
 3) 本稿の分析と同様の問題関心でこれまでいささかの作業を行ってきたつもりである。未熟な点も多く恐縮であるが一応下記に列記しておきたい。
 拙稿「我国における問屋制解体の一断面」福島大学『商業論集』第43巻第4号
 同「都市型中小工業の問屋制的再編について」〔Ⅰ〕広島大学『政経論叢』第25巻第1号,〔Ⅱ〕同第25巻第2号,〔Ⅲ〕同第26巻第2号

Ⅰ わが国における貝釦生産の定着過程

 貝釦生産の草創期のことに言及した比較的最近の研究としては,中小企業庁ならびに地方調査機関全国協議会の共同報告1)と,三宅順一郎氏のもの2)がある。おのおの,第1次世界大戦後の大阪市内ならびに河内方面一帯での分析についての労作であり,とくに三宅順一郎氏の研究は農村における寄生地主制の強固な基盤との関連にまで肉迫し,幾つかの注目すべき論点を提示されている。ただ当該部門の生産が移殖され,定着していった過程については殆んど昭和初期の大阪市役所の調査3)のみに依拠しておられる。このため大阪市役所調査の限界もあって,初期の生産手段の実体については殆ど理解できず,業界関係の方々のご協力4)によっても明治中期以前の土着的技術とその応用によって徐々に生産力が培われていった時代の生産手段については,単に呼称を聞いたことがあるという以上にでなかった。
 ところが筆者は偶然大阪市立大学図書館の書庫内で文献調査させて頂いた際に,業界関係者の子弟の手になると思われる手稿と,恐らくその参考資料として作成したものと思われる幾つかの資料を発見することができた。5)そこでこれらのものを手懸りに,以下,わが国における貝釦生産の確立過程とその特徴を見ていくことにする。
 わが国における貝釦生産はほぼ明治10年前後に始まっている。すでに維新前後から洋式兵制の採用,宮中における洋装の採用などによって需要は漸増していった。7)しかも,その価格の「甚だ安価ならざる7)」ことから,既存の鑪,砥石,翦刀などを用いて職人的手仕事として製品化する試みがなされるようになっていく。8)
 この場合に注目されることは,一種の移植産業でありながら,何ら新しい生産技術体系が導入されていないことである。生産者達はただ「輸入ボタンの完成品を唯一の手がかりとして9)」,それに近い製品を創り出そうという意欲に半ば徒手空挙で挑んでいったのである。
 彼らによる努力はそれなりの成果と進歩の跡を見せている。砥石による整形
も,膠によって貝殻片を固定し,複数個を同時に「表面摺り」することで一定の能率向上を見るようになっていく。さらに,鉄板に凹みをつけ,ここに貝殻片を膠着し,厚みを一定にする方法なども工夫されている。なお穴明けには発火に用いる舞鑽に類似した舞錐がつくられている。10)
 とりわけ有田林平による明治12年の貫透線の発明は,11)それまでの翦刀や鑪による繰抜きと荒整形の工程の能率化,さらには製品の均一化にとって大幅の改善をなすものとなった。この貫透線については業界関係者でも誰一人知らず,既存研究書でもただ名称と時期が示されていただけだったが,小林常太郎がペン書きで略図を残してあったことから大凡の見当がついた。要するに現在の木工用手廻しドリル状のもので,上部の「胸当」を胸で押しつけ,手廻ししながら,錐先を円筒にして周囲に針を並べ針金で固定したもので1個ずつ繰り抜いていったもののようである。職人1人でこれにより約500個の繰り抜きができたようであるが,この貫透線だけでは完全な繰り抜きは困難であり,鋏(やっとこ)を用いて捩じ切ったりしなければならなかった。さらに,丸味を出すために一升徳利にその繰り抜いた貝殻片と砥石粉末を混入し,「徳利振職」がこれを長時間ひたすらに振り続けるようなことまでしなければならなかったようである。12)
 改良は蝸牛の歩みの如くではあっても,その後も進められていく。貫透線は改良されて箱型となり,胸に直接おしあてて作業する必要はなくなり,同じ箱内に貝の受台も作られるようになった。また繰抜き部分の錐の内側にパッキンゴムを挿入しておき,錐が離れると貝がゴムの弾力で押し出されるような工夫もなされている。13)これについては第1図を参照されたい。さらに一棒台(別称ヤゲン台)や凹め台が作られ,ボタンの表面に模様付けをするための意匠がなされていく。14)前者は釦表面に楕円型の窪みをつけたり(一棒型釦と呼称された)それを60度の角度で三重に重ねて紅葉形釦と呼ばれる模様をつくられるようにしたものである。凹め台は平面を凹レンズ状に削ることができるようにとの意図で創られている。
 こうした努力は輸入品に近づけたいという意欲の現われであり,表面の角度を多くすることで国産アコヤ貝の艶を少しでも出させたい15)という気持ちの表現でもあろうが,そのための生産手段の改良が,国内の既存の技術体系に依拠しながら,職人層の着想を結集して即席にとでも表現しえるほど手短かになされている点が特徴的である。有田林平はこうした努力を西洋鍛冶の職人と協力して進めたとされている。16)貫透線の錐先は当初針を配列しただけのものであったという。後には鉄板の巻いたものを研ぎ出して利用するという方法が採られるようになる。また凹め台の加工部に利用されたのは庖刃である。これについては第1~3図を参照して頂きたい。
 こうして作られた製品は当初水洗いだけで出荷されたが,やがて少量の生灰を混入して煮沸し,加工中に付着した膠質をほぼ完全に除去するようになっていく。17)さらに佐々木秀太郎は梅花油で処理して釦表面に白粉の噴き出すのを防止することを思いつき,その方式では半年ほどの効果しかないとわかると,これにイボタ〓を塗る方式が案出されている。18)
 このような努力が進んだ結果,貝釦生産では次のような現象がみられるようになったのである。
 如斯本邦貝釦製造業は大阪の地を主として,次第に順当なる発達を為し来りしが,明治廿三年独逸人ヴィンクレル氏の外国貝釦機械の輸入によりて更に一般の進歩を来したり。
 ヴィンクレル氏は,神戸居留地八十五番の館主(今の百番)にして,本邦に鮑,真珠貝等の豊富なるを知り,貝釦製造を営むの有利なるを思ひて,明治廿三年,神戸小野浜に秘密工場を設け,広く職工を募集し,兵庫宮永工場製轆轤二百台,外国輸入ボール盤四十八台,穴台二十台を備へ,手廻し動力を用ひて鮑,〓螺蝶貝釦を製造したり,氏は大阪より,菊沢栄吉,佐々木秀太郎,石田柳之助諸氏を聘して職長とし,数百人の職工を養成したり。尤も輸入機械中利用せられたるは僅か二三にして,大半は本邦にて考案せられたる従来の機械を使用したり。穴明にも舞錐を用ひ,輸入機械は之を用ひざりき。後更に……独逸より……釦工を招致し,製造法の改良を企てたるも,輸入機械は消耗品たる附属器具の高価なる為,尚実用に適せず……19)(傍点は引用者による)
 莫大小や刷子など,のちに都市型中小工業の代表的な業種となっていた移植産業の多くは当初まず近代的工場経営の型で導入され,それが解体して疑似問屋制的諸関係の下に再編されながら定着し,それなりの成長曲線を描いている。20)
第1図 改良型貫透線見取図
第2図 一棒台見取図
第3図 凹め台見取図
それに比べれば貝釦生産の規模は小さく「重要輸出品」とも「成長産業」だとも扱われてはいない。21)しかしここでは,工場生産機構が導入される以前に,急速に伝統的技術の応用による対応がなされ,「数百人の職工」を有する大規模工場のスケール・メリットの可能性を危くするほどの水準に到達している。ただこの場合,広汎な低賃金労働の存在を前提とした労働集約的作業にとっての,その限りでの,有効な技術的前進がなされたのであった。先進国水準を一気に凌駕するような抜本的な技術革新が意図された訳では決してない。それでも技術的改良はこの後も倦むことなく続けられている。
 貫透線の錐先は明治10年代の間に鋼鉄を利用したものに代り,宮尾徳三郎(粂造)ら専門の製造販売業者も登場するようになってくる。22)
 明治24年には神戸の大野竹松が水車を利用して回転する樽の中に釦と鋸屑と水とを入れて摩擦による艶出法を試み,のちの化車(かしゃ)(或は加車(がしゃ)とも呼ばれている)の先駆例をなしている。23)
 またドイツ商人が持ち込んだ機械も,いかにも日本的に受容されていくことになった。動力式のボール盤(繰り抜き用),面削機(摺機とも呼ばれる),穴明機などがそうであるが,24)これらをわが国では数年のうちに独特の,しかも簡便な,代替手段に創り替えてしまっている。
 まずボール盤については,明治24年に大阪天王寺逢阪の雑貨業者が八十五番館に出入りしている間に輸入機械を見てその仕組みを理解するや,いち早く手廻式ボール盤を創り出している。その2年後には神戸の貝釦生産者岡田義明が足踏式ボール盤を完成している。大正時代に各地の農村で見られた繰抜機はこの改良型である。26)
 一方,擢機についても明治25年に大阪の縄田久太郎が轆轤を利用した足踏式摺機を案出している。27)日本独自の動力式自動摺機も明治末期には出来上っていたようである。28)
 さらに穴明機についても,岡本峰松が四ツ穴を一度に穿孔できる穴明機を開発,片手にヤットコ,片手に舞錐といった純然たる手仕事から一歩進めると同時に,ミシン用にはあまり不揃いとして不評だった製品の改善に寄与している。29)
 こうしたところから生産額は著しい上昇を見ている。明治中期の数字が不明であるが,大蔵省『外国貿易月表』によれば,明治29年に原料用貝殻の輸入高が30,818円となっている。輸出の方も明治29年からのものしか見ることができないが,同年の輸出高は174,425円で,外国からの輸入釦総額76,616円と上記原料貝輸入額を合計したものを遥かに上廻っており,貝釦を含めた貝生産業界の急成長ぶりを窺うことができる。貝釦輸出額が統計上の独自項目として設定されるのは明治35年であるが,その額は119,088円となっており,各種釦の輸入総額99,367円に原料貝輸入額22,743円を合算した額にほぼ匹敵するほどのものになっている。具体的な推移は第1表を参照して頂きたい。
 しかしながら,こうした生産額の上昇にも一定の隘路が存在していた。国内的には完成品のように思われていても,先進国の水準からすれば無漂白釦は「半製品」にすぎず,漂白技術のわからないまま,「利益の大部分は外国人に壟断されていた30)」状態だったからである。とりわけ貝釦生産の先進国ドイツからの買いつけが多かったが,彼らはこれを本国に送って漂白染色するだけでなく,日本国内のドイツ人経営の工場でも漂白加工して ― 前記ヴィンクレルのものなど ― ドイツ製品として「輸出」することもあった。さらに,そうした日本国内の工場に職人として雇われてきたドイツ人職工が「渡り職工」のように大阪府下の工場を渡り歩いて多少の熟練を要した磨き作業に従事する一方で,「唖の人」を使いながら「技術を秘密にして」漂白仕上をほどこすこともあったという。この場合,勿論そうした職工の「給料は高かった31)」。
 だが,この限界点も,ほどなく突破されている。明治30年代中期32)には大阪の「製造家33)」西原又佐衛門が漂白技術を開発したのである。彼は官報に掲載された農商務省技師の漂白に関する発明の報道を見て,それを貝釦に応用したようであるが,34)さらに明治30年代後期には,大阪府下に定住したドイツ人職人によって,塩酸を利用した艶出法が伝えられ,35)同39年には「難事とされていた染色法まで考案され36)」,「正々堂々と日本製貝釦なる名称の下に漸く世界市場に頭角を現すに至37)」ったと同業者の自負心を煽るまでになる。
 最後にこれまでの工程別生産手段と方式の概観できるように第2表を掲げておくことにする。
第1表 貝ボタン輸出の推移
第2表 貝釦生産手段と方式の変遷
 1)中小企業庁・地方調査機関全国協議会『輸出中小工業の実態調査』東洋経済新報社,1957年,なお以下同書のことを『実態調査』と略称させて頂きたい。
 2)三宅順一郎「河内地方における農業経営の変貌 ― ぶどうと貝ボタン ―」農業発達史調査会編『日本農業発達史 別巻 上』中央公論社,1958年,以下同論文のことを「農業経営の変貌」と略称させて頂きたい。
 3)大阪市役所産業部『大阪の鈕釦工業』大阪市産業叢書第五輯,1930年,以下同書を『鈕釦工業』と略称させて頂きたい。
 4)大阪市周辺の調査に関しては,下記の方々に特にお世話になった。
 山本竹五郎市,柏原市上市三丁目在住,同氏は大正初期からこの業界におられた人で,戦後柏原市方面の業界の組合化に奔走され,現在は引退しておられる。
 高萩実氏,藤井寺市川北三丁目在住,天然貝を利用した装身具生産を行いながら,同地方の商工会において,貝細工関係の生産者の結集のために奔走しておられる。
 5)小林常太郎『日本貝釦業及原料』(手稿),原稿は「大阪高商給品部」の原稿用紙に認(したた)められており,脱稿日は「大正七年師走中の五日」となっている。貝釦生産に関する纒まった論文としては最も古いものである。筆者については目下手懸りは得られていない。ただ「序」の記述から業界関係者の子弟であっ
て,同校在学中に作成したものと思われる。また,明治41年以来の日本釦同業組合員の名簿のうちに,明治43年に第2部(商業者の部として新設)に加入した者の中に小林常太郎の名前が見えるが,両者の関係については闡明しえなかった。(なお組合関係の事項は石井六治郎編『日本貝釦同業組合沿革史』同組合刊,1931年による。以下,同書のことは『同業組合沿革史』と略称する。)また小林論文は原稿用紙の通し番号をそのままページ数として表記させて頂く。
 6)大蔵省『外国貿易年表』によっても明治元年の輸入高が215円,翌2年が2,230円と急増傾向を示している。
 7)小林常太郎『日本貝釦業及原料』19ページ。
 8)同前書,20ページならびに前掲『同業組合沿革史』6~7ページなど。
 9)前掲『実態調査』878ページ。
 10)前掲『大阪の鈕釦工業』4ページ。
 11)大阪市四天王寺境内にある「大日本貝釦元祖有田林平氏の碑」には彼がわが国最初の生産者であったと記されている。ただし,初期の貝釦生産技術改善に果した彼の役割はともかく,彼以前にも生産を行った人物が皆無だった訳ではない。小林常太郎は明治7年頃に宇尾伝吉という職人の働いていたことなどを指摘している。(前掲論文,19-20ページなど)
 12)『日本貝釦業及原料』24ページ,長年生産に従事した経験のある天野弥作氏(香川県大川郡在住)に伺っても,この種の作業を30分や1時間くらい行っても「丸味」はとうてい出ないという話だった。なお,今回の調査中に天野氏は逝去された。特に記して謝したい。同時に哀悼の意を表したい。
 13)同上書,25ページならびに『同業組合沿革史』10-11ページ。
 14)『日本貝釦業及原料』22,27ページ。
 15)天野弥作氏談。
 16)『日本貝釦業及原料』22ページ。
 17)前掲『実態調査』828ページ,ならびに前掲『農家経営の変貌』335ページ,ただ両書ともにこの時期の固有技術の前進に関する指摘はかなり大雑把である。分析の力点が大正期以降にあるので仕方ないことかも知れない。
 18)『日本貝釦業及原料』24ページ,28ページ。
 19)同上書,28-30ページ,なお,この時代ではしばしば,人力で大型動輪(ドライバー)を回転させ,その軸(シャフト)から各工程の動輪(フォロワー)に移しかえて作業をすることが行われた。このドライバーを回転させることを専門にしている職工が存在することも多々あった。
 20)そのことに関しては拙稿前掲論文を参照して頂きたい。
 21)例えば高橋亀吉は明治後期からの重要輸出品目27品目をあげ,うち13品目を「成長産業」だとしているが,貝釦生産はいずれにも入っていない。(高橋亀吉『明治大正産業発達史』改造社,1929年,393-97ページ)。
 22)前掲『同業組合沿革史』11ページ。
 23)前掲『日本貝釦業及原料』32ページ。
 24)前掲『同業組合沿革史』16ページ,なお同書に限らず多くの文献では新技術を伝えたのはヴェルンシュテットというドイツ人ということになっているが,彼は前記ドイツ人経営者に職人として雇われて渡航してきたものであって,当初から直接生産手段を持ち込んでいた人物ではない。下記の文献はいずれもこの時期の実情について同様の誤解をしているようである。
 和歌山県中小企業総合指導所『田辺地方釦産地診断報告書』1974年。
 香川県労働基準局『釦製造業実態調査結果報告書』1959年。
 柏原市史編纂委員会編『柏原市史』(第三巻 本編Ⅱ)柏原市刊,1972年。
 25)前掲『日本貝釦業及原料』32,33ページ。
 26)香川県大川郡大川町六車実枝氏談。
 27)前掲『日本貝釦業及原料』33ページ。
 28)前掲『同業組合沿革史』51,52ページ。
 29)同上書,51ページ。
 30)前掲『実態調査』879ページ。
 前掲『農家経営の変貌』335ページ。
 31)前掲『柏原市史』260ページ。ただしここでの引用談話には多少の誇張が感じられる。同様の話は香川県大川郡津田町でも伺ったが,後の漂白技術の普及状態から見る限りでは,この職人ヴェルンシュテット自身で伝えたのは艶出し法だけだったとする前掲小林常太郎論文の見解の方が正しいと思われる。
 32)前掲『実態調査』によると明治37年,前掲『農家経営の変貌』335ページでは同33年,前掲小林論文35ページでは「明治参四五年」となっている。
 33)前掲『実態調査』879ページ。
 前掲『農家経営の変貌』335ページ
 34)前掲『日本貝釦業及原料』36ページ。
 35)同上書,35ページ
 36)前掲『大阪の鈕釦工業』5ページ。
 37)前掲『日本貝釦業及原料』37ページ。

Ⅱ 明治期における生産機構の推移

 大阪市を中心に明治10年代以降定着していったわが国貝釦生産は,当初,問屋資本主導下の「手工的小商品生産1)」として開始されていたと考えられる。大阪市の調査では,慶応年間に水牛釦を「家族的に製造し」貝釦についても「最初之に従事した人」として中村儀助の名前を上げているが,2)別の文献からも散見できるように,3)彼は小生産者としてでなく,商人として経営基盤を固めていった人物であり,出発点はともかく,主として「製造」に携わったのは彼の前貸しを受けた職人およびその家族だと思われる。
 しかし,貝釦も,幕末期以降にわが国に入ってきた多くの消費材生産の場合と同様に,国内市場の貧困を前提しなければならず,輸出を槓杆としてしか延びていけないという特殊事情を出発点から背負わねばならなかった。しかも原料も,当初こそ鮑,法螺貝などの国内産原料で間にあっていたが,明治30年代にはすでに高瀬貝を中心とする輸入貝が主流になっており,4)生産者は輸出入の両面で神戸の商館を中心とした外国人商人の圧力に苦しみながら生産の拡大を計らねばならなかった。
 こうした制約条件から,明治期の貝釦生産は,原料輸入と半製品輸出の両サイドを担う外国商人および彼らに結びついた国内商人資本の生産者に対する問屋制前貸し支配といった性格が強かったようである。だから直接原料輸入を試み,貝釦の生産過程に対して商人資本としての支配力を発揮しようとする日本人もまた,それなりに資本力の背景を必要としていた。
 貝釦ノ問屋即チ原料直輸入商ハ濠洲方面ヨリ貝釦ノ原料ナル貝殻ヲ輸入シ他ノ原料商ニ転売シ或ハ製造業者ニ之レヲ供給シ其ノ間ニ得ル処ノ手数料其ノ他ヲ以テ利得トスルモノヲ謂フ之等原料商ノ多クハ大ナル資本ヲ擁シ貝釦業者中最モ権威アルモノナルカ如シ。5)
 原料商ノ製造業者ニ原料ヲ供給スルヤ普通約束手形ヲ受領シ一二ケ月ノ後原料貝殻カ製品貝殻ト変シ之レヲ現金ニ換ヘタル後初メテ支払ヲ受クルカ然ラサレハ原料ヲ供給シテ製品ヲ納入セシメ時価ニヨリ製造業者ニ其ノ差額ヲ支払フモノトス。6)
 しかし,この決済は輸出の場合の「手数料」として華僑の場合で2%,インド人商人の場合で5%を「天引き」し,残額の70~80%がまず支払われる。7)約束手形との相殺になれば,生産者にとっては入金額は限られたものである。ところが輸出後,製品にクレームがあったとか,見本と相異していたとかいった理由で,残金支払いに際して一部しか支払わないといったいわゆる「下げぶり」がなされることも珍しくはなかった。8)
第3表 高瀬貝価格変動の推移
 とりわけ原料価格の変動は生産者にとっては苛酷なものとなった。第3表に見られるように原料貝はしばしば投機的思惑売買の対象となって暴騰し,相対的に安定しているように見える時でも,日々の値動きがあった。この結果,生産者の多くは次のような事態に再三悩ませられることになる。
 原料貝殻ノ騰貴ハ製造業者ニトリテハ大ナル打撃ニシテ一般製造業者ノ最モ恐ルヽ所ナリ原料騰貴ノ際ハ必ス製品タル貝釦モ自然昂騰スル理ナレトモ製品昂騰ノ割合原料ノ夫レニ及ハス貝釦ノ価格一割上カレハ直チニ原料価格ハ二割ノ高値ヲ示スカ如クカクシテ小資本ナル製造業者ハ到底之レニ堪へ得ルコト能ハス往々ニシテ破産ノ憂目ヲ見ルモノアリ……。9)
 商人資本がこうして一方で前貸し制をとりながら,一方で流通過程に依拠した固有の前期的蓄積を敢行することは,彼らの歴史的特性であるにしても,このことは生産過程に複雑な影響を与え,特異な編成替えを惹起することになっていった。まずこの前貸しの一種とも呼べる「延取引」について次のような批判がある。
 原料の購入は六十日の延取引なるに製品の販売は現金取引なるを以て,無資本家と雖も斯の製造業を容易に開始する事を得,従って斯業に何等経験のなきもの及び,商道徳を欠除せる職人輩の製造業を開始するもの少なからず、一朝不景気の時に当りて濫売投売を敢てし,反って,斯業全般を蠹毒する事多し。10)
 いささか主観性の眼につく表現ではある。「販売は現金取引」と断定したり,とりわけ商人の側の思惑買いや投機のことに一切触れず,上記のことだけから「延取引の弊害」を論じ,その廃止を主張していることは,この論文の依って立つ社会的背景を率直に表現している。ただここで問題にしておきたいことは,小生産者層が群生してくることによって,明治30年代の貝釦生産の主たる担い手だった「職人を50~60人も擁する」11)問屋制マニュファクチュアが解体をはじめたことである。第4表に見られるように,一工場当りの職工数が明治末期に急速に減少する一方,工場数は急増している。ただし,この『大阪府統計書』は明治期については零細経営をどの程度フォローしえていたのかについては疑問が残る。12)そこで補足する意味で,『大阪市統計書』から規模別工場数を第5表として掲げておくことにする。ただし,こちらは金属釦など他種釦生産を含んだ数字である。それでも,貝釦に限らず釦生産全体で,後に述べるような生産機構の編成替が進んでいるので,一応の指標にはなり得ると思う。13)このことについて三宅順一郎氏は「貝ボタン生産費の半ば以上を占める原料貝の価格が,輸入業者の投機の結果大きな変動をくり返し,それがマニュ的企業の経
第4表 大阪府下貝釦生産工場,職工数,1工場当職工数の推移
第5表 大阪市内の従業者規模別釦製造工場数の推移
第6表 日本貝釦同業組合発起人の営業履歴
営を大きく脅やかしていた」と指摘されている。14)
 こうした状況下に「粗製濫造を矯正シテ内外市場ノ声価ヲ維持」し,「価格ヲ一定シテ競争濫売ノ弊ヲ絶チ取引上ノ信用ヲ高15)」めようとする動き ― 同業組合結成への動き ― が出てくる。最初の申請は明治39年10月になされ,同業者内の異同などもあって翌40年12月に再申請,明治41年1月17日に設置認可を受けている。15)
 ところで,この申請書の末尾に出願者の経歴が略記してある。それを纒めたものが第6表である。彼らはほぼ明治20年代に生産者として出発している。ただし,経営者としてではない。石田源次郎,佐々木秀太郎,鐘搗仁三郎,高田音八などは,かつての有田工場の職人である。16)青柳正好のように商人としての性格を強くもった「貝釦製造業」― 申請書中の表記はそうなっている ― の経営主を別とすれば,殆どは雇われ職人,ないし職人親方として出発したものと考えられるのである。ここには登場していないが,有田工場で働いていた石田柳之助,石田禎三郎,松尾三郎17)らも明治41年1月27日の日本貝釦同業組合第1回総会の参加者名簿中には認められる。
 縄田久太郎は前述したように足踏式摺機の考案者であり,恐らく道具好き,工夫好きの職人親方として出発したものであろう。西原又左衛門もまた前記の如く漂白技術の開発者である。大正12年8月に同組合の組長となる大西宇兵衛も,もとは繰生地業に従事して,錐先の改良を行った人物である。18)
 こうした傾向の一面で,実はこの時期に極めて特異な現象が展開している。その一端は第6表からも窺知ることができるが,生産者として出発しながら,「販売業」とか「仲買」とかの商人的機能を持ちはじめている者が目につくことである。
 繰抜き用の錐先製造を創業した宮尾粂造はそれなりに腕のいい鍛冶職人だったことだろう。そんな彼は後に業界内で「仲買の元祖19)」と呼ばれるまでの敏腕の仲介商となっている。
 同業組合成立時にはともかくも東洋貝釦製造所20)を経営して生産活動を行っていた青柳正好の場合は商人への回帰傾向はもっと顕著である。彼は大正2年には仲買人によって組織されていた日本貝釦競売会の総取締に就任しているし,21)大正7年の調査では神戸市内の代表的「仲買及仲立業者」として紹介されている。22)
 こうなると,「貝釦製造業」との『日本貝釦同業組合沿革史』の記載も甚だ特殊な性格を持つものに見えてくるが,いま少し詳細に検討していきたい。第6表中の正垣卯之吉の履歴はこう記されている。
 ―明治二十四年貝釦製造業ヲ大阪市ニ於テ開始シ同二十八年河内国志郡柏原弓削両村ニ工場ヲ設置シ同三十年二月柏原ヘ移転一括シ三十七年五月沖縄県那覇監獄署ニ於テ製造シ三十八年十二月貝殻不充分ノ為メ同署製造ヲ中止シ爾今専ラ現住所ニテ製造ス。
 大阪府南河内郡柏原今町 正 垣 卯之吉23)
 同様に,長野忠実は愛媛県で,西原又左衛門は岡山で一時期経営を行っているし,24)前記大西宇兵衛もしばらく沖縄で「事業」活動をしたのち帰阪している。25)「工場ヲ設置シ」「事業」を行う者がこうも簡単に渡り歩ける原因は何であろうか。そこにこの産業が当時直面していた業界再編の大きな鍵があったといってもいい。このことに関して次のようないささか明確すぎるほどの説明をしてくれた人がいた。
 大阪で製造家いうたら要するにいろんな人間に注文を出して必要なだけの製品を揃えてみせることのできる人間や。工場(こうば)なんかなかってもええ。機械買(こ)うて賃仕事すんのは加工屋のやるこっちゃ。
 製造家のことを製造問屋いうて呼ぶこともある。そのほうが同じ品でもなんや安うできてるみたいに聞こえるがな。26)
 同業組合発起許可申請者の中には多少その系譜を異にする者達もいる。しかし彼らのうちの多くの者は問屋資本主導下のマニュファクチャアや家内工業の担い手として出発している。そしてこの時期には既にその性質に変化がみられようとしている。だが,それでは直接的生産者はどういう型で存在し,かっての問屋商人はどうなったのだろうか。

 1)前掲『実態調査』878ページ。
 2)前掲『鈕釦工業』3,4ページ。
 3)前掲『同業組合沿革史』139ページ,前掲『農家経営の変貌』335ページ。
 4)天野弥作氏談。
 5)農商務省農務局『大阪市及神戸市に於ケル貝釦取引状況調査』1922年,32ページ。この調査は第1次大戦期以前のことだけを扱っている点を留意しておいて頂きたい。なお,以下同書を『状況調査』と呼ぶことにする。
 6)同上書,33ページ。
 7)大阪府内務部『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』1930年,28ページ。
 8)大阪市北区,西川孝雄氏談。
 9)前掲『状況調査』33,34ページ。
 10)前掲『日本貝釦業及原料』182,183ページ。
 11)前掲『実態調査』879ページ。
 12)第5表のうち明治末年の数字を参照されたい。
 13)第5表中,明治37年と39年の項で200人以上工場とあるのは金属釦工場である。
 14)『同業組合発起許可申請』中の「組合ノ目的及業務ノ概目」の項中の記述事項(明治39年10月)。
 15)前掲『鈕釦工業』246,247ページならびに前掲『同業組合沿革史』93-110ページ。
 16),17)前掲『日本貝釦業及原料』24ページ。
 18)前掲『同業組合沿革史』56ページ,312ページ。および前掲『農家経営の変貌』365ページ。
 19)前掲『同業組合沿革史』の巻頭の業界功労者の写真中に彼の紹介がある。なお名前は粂造からのち徳三郎となっているが,11,105,111,321,442ページより同一人物であることは確認できよう。
 20)同上書,105ページ,ただしここでの記載事項には些か誇張がある。例えば前掲『日本貝釦業及原料』29,30ページを参照されたい。
 21)前掲『鈕釦工業』249ページ。
 22)農商務省農務局『神戸市ニ於ケル貝釦取引状況調査』1922年,11,12ページ,大正5年から7年にかけて神戸市内同業者中第三位の取扱高を保っている。
 23)前掲『同業組合沿革史』105ページ。
 24)同上書,104-106ページ。
 25)同上書,56ページ。
 26)西川孝雄氏談。

Ⅲ 第1次世界大戦期以降の生産工程

 明治前期,職人親方の家内工業的職場内で生産がなされていた時代には,貝釦生産の工程自体も少く,生産手段の範囲も限られていた。その一端はすでに第2表で見た通りである。しかし,第1次世界大戦以降になると工程は第4図,第5図のように複雑になり,しかも原料貝ごとに異なったものになってきている。ここでは貝釦の主流になっていた高瀬貝についてまずこの時期の工程を概観しておきたい。1)

(1)繰場
 操場と表記してあるものも多い。原料の高瀬貝からボール盤を利用して所定の大きさの貝を繰り抜いていくものである。ボール盤には動力式と足踏み式があり,後述するように農村部では第1次大戦後でも足踏み式が広汎に利用されていた。ボール盤の錐先が円筒型になっていて,貝を繰ったのち,内側のゴム芯で円型の貝を押し出すことができるようになっている。繰り貝のサイズは錐先を交換することで各種作り出せるが,職場ごとにほぼ一定していることが多い。
 原料の高瀬貝は螺旋状円錘型となっており,口の部分の周辺が平たい底辺を形成しているのが特長である。この部分は「初天」ないし「一の天」と呼ばれ,ここで繰抜きが終ると次は「一の横」と呼ばれる斜面部が繰かれる。「初天」と「一の横」との間の屈曲部は「耳」として,第1次大戦期までは屑扱いされている。繰抜きが終って荊棘状になった「耳」を金槌で落すと「二の天」が出てくる。以下「二の天」「二の横」「三の天」の順に作業がなされる。高瀬貝は大きさによって「大貝」「中貝」「小貝」と区分されている。「大貝」「中貝」では「四の天」「四の横」まで,「小貝」でも「三の横」まで可能である。現在では作業中錐先に対して絶えず水を流しているが,それでも白い粉状の削り屑が飛んで作業衣は火山灰を浴びたようになっていく。2)大正時代はそれもなく,作業場内は白塵と異臭が立ちこめていたという。3)平均1人1日に大きいサイズのもので3,500個,小さいもので6,000個を繰っていたようである。

(2)塩取
第4図 高瀬貝釦(平物)生産工程
第5図 ドブ貝釦(平物)生産工程
 天然の海産物原料であることから,繰抜いた段階で塩酸処理をして,表面を多少滑らかにすると同時に塩と呼ばれる白濁の表皮組織を取り去る工程である。ただしわが国では繰生地をサイズそのままにとって余裕を残さないため,貝生地の側面部を薬品に浸させてはならず,その部分を木〓とパラピン,マシン油を練り固めたもので保護しながら,天然の状態で露出していた部分のみを塩酸処理する。その分だけ手作業が増えるし,パラピンなどの中から,1個ずつ針で取り出してから,〓分の除去のために煮沸しなければならない。ただこの方法をとれば,側面部に多少の傷があっても製品化に支障をきたさないですむ。4)

(3)ロール掛
 繰抜いた生地はもちろん厚さが一定していないので,回転式のロールによって「厚」「中厚」「薄」「極薄」というように選別を行う。前工程の塩取と共に第1次大戦後に普及しているが,摺場の後に行っている場合もあった。

(4)摺場
 表面及び裏面の凸凹をとって平面に仕上げる工程である。明治期には既存の砥石を用いていたが,この時期になると金剛砥石に似たカーボランダムがアメリカから輸入され,利用されていた。摺機には動力式も足踏式もあるが,いずれも回転軸の先にカーボランダムが固着されている。押機と称するもので固定した貝の表面を扁平に仕上げるものである。作業は一瞬にして終るものであるが,サイズの小さいもので1人平均1日に16,000~35,000個ほど摺っていた。ただし裏穴釦の裏摺りの場合は裏面部の中央が突出していて,釦糸はこの部分(「足」と呼ばれる)を表面に平行に通るようになっている。この場合は単純な作業ではすまず,平摺作業に熟練したものがこれを担っていた。

(5)挽場
 面削機を用いて表面に模様付をするものである。模様の形式がそれぞれ「一番」「五番」などと呼ばれて100種を越えている時もあったという。5)両削機はやはり動力式,足踏式があって,固定した貝を回転させ,そこに包刃先を近ずけて各種の模様を刻んでいくようになっていた。必要とされる模様の種類の多さに対し,包刃は数種類であり,手先に神経を集中しなければならず,しかも数をこなさなければならない作業だった。サイズの小さいものなら当時で1日平均10,000~12,000個ほど仕上げていったという。
 ただし,彫刻釦や変形釦の場合は別で,前者の場合は小刀を用いた手仕事で1個ずつ菊形や雲井形の模様を施し,変形釦の場合は砥石を用いて三角形,六角形,菱形,桝形などに整形していったようである。第1次大戦後になると,一部の模様彫刻については動力式彫刻機械による作業が行われている。

(6)穿孔
 「穴明け」とも呼ばれている。縫製用の糸穴を施すのであるが,裏穴釦の場合は裏面の突出部(足)に横穴を一条穿つことになる。裏穴機と称する専用機が用いられることもあったが,通常の穴明機(穿孔機)を利用して行うものも少くなかった。一般的な釦(ヒラモノと呼ばれている)の場合は,「一つ穴」「二つ穴」「四つ穴」などの種類がある。各々錐が1本,2本,4本ついた穴明機を用い,錐先の回転しているところには押機に固定した釦をあてがって穿孔するもので,作業はこの場合も瞬時に終るが,小サイズもので通常1日に15,000~20,000個ほど仕上げなければ平均的な賃金水準に至らなかった。機械の手入れが悪いと釦を傷つけるが,これは他の工程でも似たようなものである。

(7)化車磨
 「加車」あるいは単に「ガシャ」とも言われていた。それまでの工程で生じた釦表面の砥石目,刃目,諸々の瑕疵を除去して釦表面を滑らかにするために行われるものである。一抱えほどの樽の中に水に房州砂と釦,時には単に水と釦だけを入れ,動力または人力で回転させるものである。この撹伴回転は3~5時間を要し,途中で樽内に生じる泡を消すために糠が投入されることもある。「ガシャ」というのは回転音から来た名称のようである。6)

(8)漂白
 「晒」とも言われている。天然貝は総じて褐色系色素を含有しているので,それを除去して次工程での艶出しの効果を一層高めようとするものである。輸出先の欧米での需要喚起には不可欠の工程であって,この工程が解明されなかった時代には「半製品」として外国商館に売り込むしかなかった。主に過酸化曹達と硫酸を配合し,そこから生じる過酸化水素を利用したものであるが,7)残留硫酸分によって貝が傷まぬように硅酸や舎利塩も投入されていたようである。この混合液の中に釦製品を入れて容器(桶や石油罐のようなもの)を密閉し,
加熱して50~60度に保つのであるが,明治末から大正期にかけては,この作業を1週間ほども続けねばならなかったという。釦が小さく薄ければ時間は短くて48時間ほどですむが,製品に応じた薬品の量や時間数などは各工場で最重要機密事項とされ,部外者は作業場に立ち入ることもできなかったという。8)液は通常24時間毎に交換されていた。

(9)艶出
 漂白と同様に業者間で秘事扱いされてきたことであるが,混酸(塩酸と硝酸との混合液)を用い,60度前後で数十分間保温していたようである。9)釦の大きさや量に応じた薬品の混合比,量,温度,時間については秘伝化され,同時に扱い方の熟練が要求されていた。生産者が10年余の歳月と苦労と費用を犠牲にしてやっと定着させた技術であってみれば,そうしたことも仕方なかったとも言える。処理の終ったものは液を捨て,冷水による冷却と薬品の除去が繰返される。

(10)乾燥
 オガクズによるもの,脱水機によるもの,両者の並用などがあった。第1次大戦期以前では天日乾燥も少くなかったようである。

(11)〓艶
 籾ないし大鋸屑にイボタ〓を浸潤させたものと釦を桶の中に入れ,10分間ほど撹伴回転させる。高瀬貝などはキャッツアイ状の光沢を持っているが,この工程で一層艶を増してくる。

(12)選別
 出来上った貝釦を厚さ,瑕疵などによって1等品,2等品,3等品,12込品,23込品など数種に分類する作業である。生産者にとっては製品価格に直接の影響を及すだけに極めて慎重に行われ,工場主自身が「これだけは人にまかせられない」と1人で行う場合も珍しくなかった。10)輸出用は2等品までで,3等品は下等品,ペケ品とも呼ばれ,国内向に回されていた。

(13)台紙付
 注文主の指示によって変わるが,一般的なものとしてはボール紙の表面にアルミ泊ないし銀紙を貼り,その上に貝を1つずつ縫いつつけていくのである。2ダース,3ダースないし1グロスが1枚の紙に縫いつけられていた。

 以上が高瀬貝の生産工程である。ただわが国の貝釦生産の原料は高瀬貝に限らない。原料貝の種類に応じて加工法もおのおの異なっているし,製品の種類となると,第7表にみられるように,型だけで29種,サイズ22種,原料貝13種とざっとこの乗数値だけで8,000種以上存在することになる。彫刻釦や変形釦,さらに裏穴釦などでは一層の意匠がこらされることとなり,昭和初期には彫刻模様だけで70~80種ほどあったという。12)
 問題はこうした多品種少量生産を,わが国においては,生産手段体系の高度化と汎用化によって克服するのではなく,手作業の複雑化と小生産者の長時間低賃金労働によって解決していったことにある。というのは,前述した分業化の進展によってマニュファクチュア制度が工場制生産に移行するのではなく,逆に各工程を各々担当する「加工屋」と呼ばれる小生産者が分離していく方向に進んでいったのである。そのことを次節で検討してみたいと思う。
第7表 貝釦製品の種類

 1)以下,工程に関する説明については下記のものを参照した。
 農林省農務局『分業的小工業ニ関スル調査』(稿本)1929年,196-203ページ。
 前掲『日本貝釦業及原料』第3章第2節。
 前掲『鈕釦工業』55-56ページ。
 前掲『実態調査』885ページ。
 2)作業については香川県輸出釦振興会の塚本勝美氏の協力を得て香川県大川郡大川町六車覚氏方で見学させて頂いた。
 3)阿部吉平氏談。
 4)山本竹五郎氏談。
 5)山本竹五郎氏によれば毎年の注文内容によって対応しなければならなかったようである。
 6)香川県大川郡津田町,讃岐釦株式会社での聴調。なお現在のポリエステル釦に対しても同様の工程は施されている。
 7)要するに下記の反応式の応用である。
 2NaO+H2SO4=H2O2+Na2SO4
 残留硫酸との中和式は次のようになる。
 Na2SiO3+H2SO4=H2SiO3+Na2SO4
 8)天野弥作氏談。
 9)化学的に見ればあえて混酸である理由はないようにも思われるが,貝釦生産自体が過去のものになりつつある現在では確かな理由を確かめることができなかった。
 10)大阪府立商工経済研究所『輸出向中小工業叢書』(第5輯 貝釦)1956年,33ページ。
 11)他に染色が行われる場合がある。通常艶出工程の後に塩基性染料によって行われていた。
 12)前掲『同業組合沿革史』59ページ,なお前掲『鈕釦工業』60ページでは100種以上上となっている。
Ⅳ 「製造家」を中心とした生産組織について
 第1次世界大戦期以降の貝釦の生産組織は,例えば第6図のようになっている。これは第7図に見られるような他の釦生産の構造と類似しているだけではない。ここには当時のわが国の産業構造の底辺を支えていた広汎な中小工業領域の殆んどの部門で共通に見られる特徴を鮮かに見てとることができるのである。1)
 それは1工程ごとに1業種が成立するといってもいいような特殊な分業関係が成立していったことである。つまり工場内での分業関係が ― 欧米経済史の常識とは全く逆転して ― ある時点で空間的に拡散し,まるで「分散マニュファクチュア」のような形態に再編されているのである。ただ,例えばイギリス綿織物業において認められるそうした形態は,工場制工業の新たな勃興を前にして,急速にその存在基盤を喪失し解体していったのに対し,ここでみられる生産機構は ― すでにヴィンクレルの工場経営について見たように ― 逆に工場経営そのものを後退させながら定着し拡大していったのであり,その点に,日本的産業化の底辺にあった特殊な表現形式を見ることもできそうに思われる。以下個々の業種を検討しておこう。3)
 貝釦業界の生産上の中核部門を担っているのは通称「製造家」「釦屋」と呼ばれている人たちで,彼らは原料貝を原料商から直接買入れて自分の作業場で ― しばしば自分自身の手によって ― 繰場を施すこともあるが,この時代にはむしろ繰生地業者(「生地屋」と呼ばれている)の手で繰られた貝を購入することが一般的になっていた。繰場工程が「独立」していったことについては次節で触れるが,繰生地業者が直接「製造家」の所に持ち込む場合と,仲買商人の手を経る場合とがあった。遠隔地から購入する場合は主に仲買商人の仲介によっている。4)
 そこから先の貝材料の流れは複雑である。「製造家」はそれを「黒屋」と呼ばれる加工業者に出す場合もある。「黒屋」では通例塩取,摺場,挽場の3工程を仕上げ,出来たものを「製造家」のところに持っていく。「黒屋」に出さない場合は,貝は「塩取屋」「賃摺屋」「賃挽屋」のところを順々に周って「製造家」の手に戻ってくるか,さらに「穿孔屋」(「穴明屋」とも呼ばれる)のところまでいってから戻ってくる。「製造家」は「黒屋」から来たものを含めて自己の作業場で穿孔工程を担っていない場合は改めて「穿孔屋」のところに持ち込まねばならない。
 こんなケースもある。「繰生地屋」から「黒屋」「穿孔屋」を経てから,初めて「製造家」の手に貝が渡る場合もある。商品の受渡しに際して個々の業者間で決済がなされるなら,それは一般的な自営業者である。ところが彼らは売上代金から原料代を差引いて自己の利潤を実現するのではなく,各々自己の作業量に応じた「賃加工代」を「製造家」から受取るのである。5)「製造家」は原料貝から穿孔が終るまでの間,自己の作業場での作業をなに一つとして行わない場合だけでなく,貝そのものを眼にしない場合もありうる。にも拘らず,注文と手配はすべて「製造家」の手でなされている。「製造家」以外の生産者は俗に「加工屋」とも総称されている。
 こうして殆ど作業らしいものを担うことのない「製造家」というのは,当時の都市型中小工業ではさして特異なものではない。「製造問屋」とか「製造卸」などとも呼ばれている層の殆どは,ここでの貝釦「製造家」と相似かよった立場にいる。ただ貝釦生産の場合の特殊条件とも言えるが,殆どの「製造家」が一様に担っている工程がある。それは「化車磨」「漂白」「艶出」「〓艶」ならびに「選別」である。
 「選別」が「製造家」自身の手でなされるのは極めて当然のことであろう。製品価格に直接的に影響するというより,納入先である釦問屋なり貿易商との取引の鍵となるものだからである。消費材を中心としたわが国都市型中小工業の製品の多くは輸出向であり,その多くは外国商館を通じてなされていた。貝釦の場合は昭和初期に入っても60%までは外国商館の手を経ていたが,その場合,製品は商館内の拝見場と称する所定の場所で字義通り逐一現物検査を受けなければならなかった。価格の実現がそこに懸っている以上,「製造家」自身の手による「選別」は厳格 ― ただ,いささか特殊な意味で ― を極める。これは他の生産の場合でも同じである。
 これに対して漂白を中心とした4工程の場合のもつ意味は多少異質である。それは「製造家」が奥儀秘伝視して.他の「加工屋」に対して作業現場に入ることすら厳禁したような領域である。
第6図 高瀬貝生産機構
第7図 骨釦生産機構
かつてドイツ商人は漂白仕上を中心とした工程を自分達だけが担い得たが故に,日本人の小生産者たちを半製品の下請加工業者として扱い,「利益の大部分」を「壟断6)」していた。それと同じように,この時期には「製造家」がこの工程を拠り所として「加工屋」に対する優越性を保持しようとしていたのである。しかも「製造家」のかなりの部分はかつては「加工屋」と同じような小生産者だった者達なのである。なお,上記4工程の生産上の秘密は単に取扱い薬品の名称や量加減だけにあるのではなく,回転桶による撹伴という方式自体も部外秘だったようである。7)
 いずれにせよ,そうした生産上の具体的根拠を有することは,他の都市型中小工業の場合といささか趣きを異にして,「製造家」の「加工屋」に対する優位性に独特の性格を与えている。そして,この性格は多分に前近代的な質的内容を持っている。
 下請業者(「加工屋」のこと)が他の製造家から仕事をたのまれたりするときは,いちいち自己の属している製造家の許可を得てからでなければ引き受けられないというのが原則的な慣習になっている。また工員を新しく雇ったり,解雇したりするときも同様の手続きをふむといった有様である。8)
 驚いたことに,この状態は第2次大戦後のものである。戦前期の状態についてはこれより「近代的」であったとは考えにくい。またこうした特徴は「製造家」や「加工屋」と,彼らの下で働く雇用労働者の関係からも窺うことができる。明治末期に成立した日本貝釦同業組合の昭和期に入ってからの定款にも下記のような規定が明記されている。9)

 第五節 使用人取締
 ……(中略)……
 第百六條 使用人ヲ雇入レタルトキハ五日以内ニ其本籍現住所身分氏名年齢ヲ具シ組長ニ届出使用人章ノ交付ヲ受クヘシ
 ……(中略)……
 使用人ノ住所身分其他使用人章ニ記載セル事項ニ異動ヲ生シタルトキハ三日以内ニ其旨届出使用人章ノ訂正ヲ求ムヘシ。
 第百七條 使用人ヲ解雇シタルトキハ三日以内ニ其旨組長ニ届出ヘシ。
 第百八條 使用人章ハ雇傭中ハ雇主之ヲ保管シ解雇シタルトキハ其裏面ニ年月日及事由ヲ記入シ捺印ノ上之ヲ本人ニ交附スヘシ。
 第百九條 他ノ組合員ニ属スル使用人ハ其雇主ノ同意ヲ得ルニアラサレバ雇傭スルコトヲ得ス。
……(中略)……
 第百十一條 使用人ニシテ左ノ各号ノ一ニ該当スル行為アリテ之ヲ解雇シタルトキハ雇主タル組合員ハ其事実ヲ詳具シ之ヲ組長ニ申告スヘシ
 一、身分氏名其他使用人ニ関スル重要事項ヲ詐称シ雇傭セラレタルモノ
 二、常ニ業務ヲ怠リ其ノ他服務上ノ規律ヲ紊スルモノ
 三、正当ノ理由ナクシテ賃金ノ増加又ハ貸金若ハ解雇ヲ強要シタルモノ
 四、故意若ハ重大ナル過失ニ因リ雇主ニ損害ヲ加ヘタルモノ
 五、他ノ使用人ヲ誘拐シタルモノ
 六、同盟罷業ヲ企テタルモノ
 七、雇主ノ許諾ヲ得スシテ他出シ行衛不明又ハ他ニ就職シ若ハ復帰セサルモノ
 八、禁錮以上ノ刑ニ処セラレタルモノ
 第百十二條 組長ハ前條ノ申告ヲ受ケタルトキハ之ヲ調査シ其事実アリト認定シタルトキハ評議会ノ諮詢ヲ経テ一ケ年以内ニ於テ期限ヲ定メ組合員ニ対シ其ノ者ノ使用ヲ停止スヘシ使用停止中ノモノ改悛ノ情顕著ナリト認ムルトキハ組長ハ評議員会ノ諮詢ヲ経テ之ヲ解除スルコトヲ得
 前二項ノ処分ヲ為シタルトキハ組長ハ之ヲ組合員ニ通知スヘシ
 ……(後略)……
 こうした縦の身分秩序を前提にしながらも,雇傭労働力が「小営業者」として分離していくことについては比較的容易に認められている。
 小製造業者(「加工屋」のこと)ノ多クハ問屋(ここでは「製造業」のこと)ヨリ原料ノ供給ヲ受ケ製品ハ之レヲ問屋ニ納入スルモノニシテ製造
業者ニシテ原料ヲ買入レ自ラ製造シ販売スルモノハ極メテ一小部分ニ過キス此ノ如クナルヲ以テ一般小製造業者ハ多額ノ原料買入ニ付テハ何等ノ顧慮ヲ要セス機械二三台ヲ購入スルヲ以テ足ル故ニ事業ヲ開始スルコト頗ル容易ナリ10)
 第1次大戦期の機械器具類の価格については50円前後のものが多い。熟練職工ならば1ケ月に30円前後の収入のあったことから考えると,11)開業はそれほど困難ではないと思われる。こうした工程分立が「製造家」に対して持つ意味はそれなりに明白である。固定資本設備負担を回避することができるし,労働時間は各小生産者の家内工業的作業場で生理的限界に近くなるまで引きのばされることも珍しくない。しかも「製造家」がそれを強制する必要はない。労働時間の延長と労働負担の強化は「自立」した者たちにとっては一種の企業努力の目標となり自発的な課題となってしまうからである。そればかりか,半ば無償の家族労働力の自発的引き出しすらも可能となる。さらにこうした外見的自立化は,不況期には景気調節弁として機能することを可能にする。このような現象は工程分立が進めば進むほど「製造家」に有利に作用するところとなる。しかも商品として市場に出す場合に不可欠の仕上工程を彼らが排他的に占有している以上,この優位性は動かし難いように見える。労働集約性に圧倒的に依拠しながらも,軽便安価でありながら一定の生産力水準を可能にした前記生産手段体系の成立は,これら工程分立の技術的前提である。さらに広汎な過剰労働力群の存在が,その社会的前提となっている。
 にも拘らず,「製造家」にとっても「加工屋」にとっても,その基盤が彼らおのおのの社会的上昇を保証するものには決してなっていない。このことを等閉することはできないだろう。まず「製造家」について見ていくことにしたい。
 というのは,具体的な取引関係や生産過程において,前期的諸関係の残滓が色濃く認められるにしても,「製造家」そのものの分立を禁止しえるような機構はどこにも存在していないのである。しかも「加工屋」の叢生が「製造家」の存立条件である以上,一方で同業組合とは無関係なアウトサイダーが形成されることは不可避の現象である。とりわけ好況期には生産に殆ど携わることのないブローカーが急増し,生産と流通の空隙に参入し,投機的思惑によって既存の秩序に動揺を与える。そうした彼らの行動は,一時的な幻想と飢餓的金銭欲と,最後にはおきまりの絶望感を撒きちらしていくことになる。
 例えば大正6年から7年にかけて兵庫県の「製造業」関係者は87名から75名へと12名の減少を見ているのに,「販売業」関係者は20名から37名へと急増している。そうした新規参入者の多くは「是等製造業者カ販売業ニ転シタルト尚見習中ノ店員カ独立営業ヲナシタルトニ依ル」とされている。12)ここでの「製造業」とは「製造家」をさしていると考えて差支えない。13)なお,大阪における同業組合員数の推移の一部を第8表から見ることができる。
 ここでは「製造家」は第1部に加入している場合も,第2部に加入している場合もあるので,より詳細な検討を試ることは難しいが,「製造家」ならびにブローカーの形によると思われる増加分が主として「職工の独立14)」にあったことだけは明記されている。同業組合への「加工屋」の加入は例外的なことである。15)こうしてブローカーや「製造家」の一部が投機商人的跳梁の限りをつくして駆けぬけた後には,お定まりの結果がやってくる。それは何も貝釦だけに限らない。
 仲買人ノ手数料ハ仲買人同志ノ売買ニテハ通例百円ニ付一円位ソレモ資金ヲ甲ヨリ得テ甲ノ為ニ買付ケ之ヲ甲ニ渡ス場合八百円ニ付五十銭位ニ過ギズト云フ,但シ仲買人ノ目的トスル所ヘ此ノ如キ些細ノ口銭ニアラズシテ思惑ニ依ル相場ノ高低及数量ノ見込ノ立テ方等ニアリ
 仲買人ハ買付品ヲ自己ノ出荷トシテ各地市場ニ送ル年ニ依リテハ巨利ヲ得ルコトアルモ亦往々損失ヲ来スコトアルヲ免レズ,而シテ此ノ損失ヲ来ス場合ニハ之ヲ売主タル生産者ニ転嫁セシメ前約ヲ履行セズ,従来此ノ間ノ弊害少カラザルモノアリ……16)
 こうして「製造家」は彼ら自身の分身ともいえる仲買人,ブローカー層との市場競争に悩まねばならなかったが,彼らはもう一面で,旧来からの問屋資本との関係を完全に払拭しきれてはいなかった。
第8表 大阪府下の日本貝釦同業組合員数
この貝釦生産部門そのものが新興部門であって,問屋制支配も暖昧な性格のままに推移してきたようであるが,それでも下記のような状況は存在していた。
 日本貝釦同業組合はすでに見たように明治40年に事実上結成され,明治41年1月に正式発足している。ここでの中心的担い手たちは小生産者として出発し,商人資本的性格をも併せ持ってきつつあった者たちである。ところが明治43年に「販売業者との協力関係」を確立するための組織の一部変更の動きが出ている。そして「販売専業者と懇談を遂げたる結果明治四十三年八月廿五日,大阪商業会議所に臨時総会を開催し17)」以下の決議をしている。

 同 意 書
 本組合ハ従来貝釦製造業ヲ以テ設置ノ処海外輸出漸次発展ニ伴ヒ今般貝釦販売業者ト合同シ定款ノ変更ノ件同意致候也
 (以下76名連署)18)
 こうして変更された定款の第1章総則の第2条は下記のようになっている。
 本組合ハ営業種類ヲ左ノ二部ニ区分ス
 第一部貝釦製造業者
 但シ第一部員ハ製造業者ノミニ止リ貝製品ハ販売業者則第二部員ニ販売スルノ外一切販売ヲナサヽルモノトス
 第一部員ニシテ販売業ヲナサントスルモノ更ニ第二部ニ名籍ヲ措キ且部ノ義務ヲ負担スヘシ
 第二部販売業者(小売業者ヲ除ク)
 第二部員ハ単ニ販売業ノミニ止リ製造ヲナサヽルモノトス
 第二部員ニシテ製造業ヲナサントスルモノハ第一部ニ名籍ヲ措キ其部ノ義務ヲ負担スヘシ19)
 これを契機に中村儀助,小林常太郎,太田宗助らが販売独占権を保証される形で組合加盟しているが,そうした「販売専業者」は僅かに10名だけである。組合の構成員の70%強は「製造兼販売者」となっている。彼らは1部と2部に同時に籍をおくことができるようになっているし,これらのことから同組合における「製造販売」のヘゲモニーの確立を指摘している文献もある。しかしそれなら,ことさら10名を迎えなくともできることである。また「製造販売」の中には問屋資本そのものが,流通上の優位性の上にたって工場を兼営するもの(前記青柳正好など)と,本節で指摘してきた「製造家」とが混在していることを等閑している。1ヵ月後の9月26日の役員改選では組長に青柳正好が選ばれ,副組長には組合結成以来の縄田久太郎と並んで入会間もない太田宗助が選ばれ,その太田宗助は大正4年に青柳正好から組長を受け継いでいる。20)
 ただし,この点だけは留意しておかねばならない。つまり,「製造家」が社会的に上向しうるとすれば,それは生産者としての合理性を追及することによってではなく.商人資本的性格を逞しくすることによってのみ可能なような,そんな状況下におかれていたであろうという点である。
 ところで,かつての問屋資本の側も活動領域に関して若干の後退を余儀なくされていく。業界内の粗製濫造と低価格化,21)原料貝の値動きの激しさと投機業者の介入。22)こうしたことから,彼らの中で原料貝を取扱う熱意が急速に消え去っていったのである。23)こうした傾向はすでに明治末年から顕在化しつつあった。先に第3表で見たように主要原料である高瀬貝の騰貴の波は明治43年から44年にかけて見られた。
 如斯暴騰ヲナセシ原因ヲ実地ニ就キ探聞スルニ貝釦業者ニ非ラザル本邦ノ有力ナル個人或ハ大会社ニ於テ輸入シ来ルモ皆一己ノ射利ニノミ馳セ需要者ノ利害得失貝釦業ノ盛衰消長ニハ更ニ意ヲ介セズ……本組合員中有志原料購買法ヲ講究シ以テ海外市場ニ於テ直接購買シ組合員ノ便利ヲ図リ事業ノ基礎ヲ鞏固ニセント刻苦努力セルモ……信用薄弱…24)
 まだ外国商館による原料輸入に頼っていた方が,価格変動に苦しまずに済んでいたのである。この傾向は第1次大戦時に一段と激しくなる。この時期以降の記録では,製品問屋と原料問屋は殆ど別個の資本によって担われていたとされているようである。というのも「製造家」が使用する繰生地は70%弱が「繰生地業者」からのもので20%強はブローカーによっている。しかもこれはかつてのように,前貸しや問屋の信用供与によるのではなく,単なる商品取引としてなされている。25)
 しかし,これらの事実から,貝釦生産の主導権が「製造家」に移り,問屋資本が単なる「仲介者の地位に転化」して,「製造家」が「事実上の産業資本家」になったとする見解26)には疑問が残る。しばしば「製造家」と総称されている層の中には,小生産者から上向して固有の安全弁ないし矛盾の捌口を持つまでになったものと,問屋が兼営マニュを擁している場合とが,混在しているからである。また他の部門で検討してきたことから類推すれば,27)そうした2類型のうち,相対的に安定した基盤とより大規模な経営規模を有するのは,総じて後者の場合である。それは資金力,市場支配力の点で優位に立っていることもあるが,彼らが「製造家」との密接な関係を切り捨てていくのは,そのことによって戦時相場の激変と売込み競争の激化からくる危険を回避しておきたいという主体的理由にも依っていると考えられるからである。
 また旧来からの商人資本が生産過程に全面的に乗り出すのは国内向製品の場合が多いことも指摘しておかねばならない。国内市場では貿易部面でのような市場の激変は少く,むしろ安定した市場条件の獲得が可能であり,それこそは一貫生産型工場経営の前提となってくるからである。この点で輸出向生産を中心として生産数量的には群を抜いていた大阪28)よりも,内需中心に緩慢に進んでいった東京で一貫生産が先に定着する29)のは皮肉な ― しかしある意味では当然な ― 現象と言わねばならない。
 ある小間物雑貨商によって創立され,すでに明治末期に工場制生産として安定的になっていたある釦工場の主たる売込先は「官衙軍鎮学堂公司工廠」となっている。30)一貫生産への移行の動きがないままの「製造家」なり「製造問屋」というのは,それだけ不安定な条件の下に跼蹐せざるを得なかったことの証左であるとも言える。そうした停滞を余儀なくした社会的歴史的背景への配慮なしに,個々の生産者が「事実上の賃労働」であるか「事実上の産業資本家」であるのかを論うことのそれなりの意図は理解できるが,本稿ではむしろ日本型の「産業化」の過程で,直接的生産者層の担わねばならなかった特殊な役割とその歴史的帰結を率直に見ておきたいと思う。
 さて以上「製造家」に関していささかこだわったが,次に「加工屋」について触れなければならない。彼らは「殆ど同業種の工員出身31)」であり,昔からの主従関係を多分に引継ぐようにして「製造家」に従い,各々の工程を受持っている。彼らを「事実上の賃労働者32)」と呼ぶことも可能である。ただ彼らの行動様式は多面的で複雑な志向性を持っている。そのことを次節で検討してみたい。
 1)それについては拙稿前掲論文のほか下記のものを参照して頂きたい。
 東京市社会局『東京市問屋制小工業調査』1937年。
 報知新聞経済部『中小産業の活躍』千倉書房,1930年。
 2)例えば下記のものを参照されたい。
 吉岡昭彦「イギリス産業革命と賃労働」(高橋幸八郎編『産業革命の研究』1965年)。
 Neil J.Smelser,Social Change in the Industrial Revolution・1959.
 Edward Baines,History of the Cotton Manufacture in Great Britain・1835.
 G.D.H.Cole,A History of the British Working-Class Movement,1789-1947・1948.
 3)以下加工屋と製造家の存在に関することは特に注記なきものについては下記の文献による。
 大阪府内務部『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』1930年,21-39ページ。
 前掲『鈕釦工業』25-30ページ,61-66ページ。
 大阪府立商工経済研究所『輸出向中小工業叢書 第四輯 貝釦』1956年,21-31ページ。
 4)香川県大川郡大川町 六車実枝氏談
 5)山本竹五郎談
 6)前掲『実態調査』879ページ。
 7)天野弥作氏談。
 8)前掲『実態調査』893ページ。
 9)同様の規定は既に明治43年の定款中の「第拾章 職工及雇人ニ関スル規定」に示されている。条文的には後期のものが遥かに整理されているが,内容は殆ど変っていない。なお定款全文は前掲『同業組合沿革史』に収録されている。
 10)前掲『取引状況』37ページ。
 11)小林常太郎の作成したと思われる『大正六年下半期貝釦職工賃銀表』によれば「男工」の「最高」日給がほぼ1円8銭から1円20銭の間である。
 12)農商務省農務局『神戸市ニ於ケル貝釦取引状況調査』1922年,16-17ページ。
 13)神戸は元来,仲買商人 ― 〓々彼等自身では「輸出商」と名のっているが ― が中心になっていた。前記青柳正好のことを想起されたい。
 14)前掲『鈕釦工業』27ページ。
 15)山本竹五郎氏談。
 16)前掲『農家副業及工業製品取引組織ニ関スル調査』14ページ。
 17)前掲『同業組合沿革史』136-37ページ。
 18)同上書,137-38ページ。
 19)同上書所収のものは記載に誤りがあるので,柏原市の寺田家文書から採った。また,この決議自体は「営業の自由に抵触する」との理由で大阪府内務部から通告(『商甲第1602号』明治44年5月23日)を受けているが,規約の方がのちに改められた様子はない。
 20)21)前掲『同業組合沿革史』141ページ,302ページ。
 22)前掲『日本貝釦業及原料』187ページ。
 23)なお前掲『実態調査』「輸出向中小工業叢書』などでは,原料問屋と輸出商の2類型が一貫して存在していたかのように指摘しているが,これは第1次大戦期以降の現象をそのまま前史にあてはめたものと言わねばならない。
 24)前掲『同業組合沿革史』167-68ページ,なお,この資料は明治44年時点のもので問屋商人は既に組合加入している。
 25)前掲『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』28,30ページ。ただ内地向製品を中心としたドブ貝製釦では大阪を中心とした輸入商の市場支配力は依然高く,彼らが同時に製品問屋であったことも考えられるが,現在のところ確認しえていない。
 26)前掲『輸出向中小工業叢書』17ページ。
 27)拙稿前掲論文を参照されたい。
 28)大日本産業調査会編・刊『大日本産業総覧』1914年,642ページ。
 29)東京府学務部社会課『職業調査』(第四輯)1935年,92ページ。
 30)大成会編・刊『大日本之実業』1908年。各種業界代表者の紹介書であり,頁数記載がないが「第九篇製作工業」の部に釦業界からは東京市京橋区新富町の永田安五郎だけが紹介されている。
 31)前掲『輸出向中小工業叢書』28ページ。
 32)同上書,27ページ。
Ⅴ 農村工業化傾向について
 貝釦生産が独特の分散的生産組織の形態をとることで定着し,「加工屋」による下請的生産の存在基盤が何よりその労働集約的な低賃金労働にあったことは前述した。しかしこのことは,都市における生計費や地代の上昇と相矛盾することになる。昭和初年の大阪府の報告書には下記のような指摘がみられる。
 貝釦ノ製造ハ大阪市天王寺町附近ガ元祖ニシテ数十年前ヨリ之ガ製造ニ従事セリ然ルニ大阪市ノ発展ニ伴ヒ地代職工賃其ノ他諸経費漸次高マリ経営難ニ陥リ漸次農村ニ移リ各地ニ於テ之ガ製造ヲ為スニ至レリ
 中河内郡楠根村ニハ今ヨリ約二十年間前同地ノ人宮野某氏大阪市ニ於テ之ガ技術ヲ修得シ製造ニ着手セルニ始リ爾後年ト共ニ製造家ヲ増加セリ
 近時ノ情勢トシテハ従業者ハ漸時農村ニ移リツツアリ……1)
 ただし農村の停滞的過剰人口2)や農家副業を低賃金労働力の供給源として利用するにしても,業界の繁閑調節の要求と農繁期および農閑期のサイクルとはおよそ一致するべくもない。また各地農村に分散的に「加工屋」が成立していくのを待っていられるほど,悠長に事態が推移するはずもない。また,いかに農村下請が構想されようと,対象になった農村が ― 地主・小作関係の成立とは別に ― 全くのアウタルキー的農村社会であっては意味がない。
 明治末期以降,都市型中小工業が徐々に農村部に浸透していくにしても,その影響下におかれていった農村というのは,江戸時代以降既に農村内部で広範囲な商品生産がなされ,社会的分業の進んできたような所であって,なおかつそうした農村的商品貨幣経済の展開が,ある水準で停滞するか,極度の困難に逢着しつつあるような,そのような農村地帯でなければならなかったのである。
 そうであるからこそ,江戸時代以来の「畿内先進地3)」が,明治末から大正期にかけて最も広汎多様に農村工業,農家副業(単なる手作業による農産物加工とは別に)の浸透していく地帯となっていったともいえる。ちなみに大正期から昭和初期にかけての大阪府の「農家副業的加工業」の品目と,広島県のそれの一覧を第9表,第10表として掲げておいた。
 大阪の場合は殆どすべての農村に複数の副業業種が成立し,その生産が本業たる農業生産額をすら上回りつつあった。
第9表 昭和初年に大阪府内務部が農家副業的加工業として調査検討した諸工業
第10表 大正期の広島県下農村の加工業副業生産品
第11表 大阪府東成郡生野村に於ける副業状態
4)東成郡生野村では大正初期に早くも副業生産が本業たる農業生産を上回っている(第11表)。これに対して兵庫県を除いた瀬戸内五県では農業生産に対する副業生産の比率は平均して50%前後である。5)なお序ながら,もっと後の時代になっても農家副業の成立が非常に未熟で,農村工業らしきものとしては村内有力者層を中心とした協同組合的農産加工場しか見られない地方というのも少くないことを指摘しておきたい。6)農民層分解の不徹底さが,過渡的な農村工業化を困難にし,逆に工場生産を部分的に可能にするのであるが,この場合,工場制工業が広汎に展開していく内的要因はずっと少いものである。
 こうしたことから都市型中小工業の農村進出という現象も,当該農村内部における一定の社会的条件の成立を前提としている。それは貝釦についても同様である。江戸時代以来の原棉栽培,木綿工業,そして菜種栽培と絞油業などがほぼ軌を一にして決定的に没落してくことが誰の眼にも明らかとなっていた河内地方,旧式製塩業の解体と,地理的制約からその維持が困難となっていた養蚕業を眼前にしていた香川県東部地域。こうした地帯に貝釦加工業が浸透していったのである。
 しかし,農村構造の諸条件に規定され,その農村工業化のプロセスには多少の差異が認められる。そこで,ここでは大阪府下の河内地方における事例について見ていきたい。
 同地方に貝釦生産が見られるようになるのは明治20年代のことである。前述した「宮野某」以外に関する記録としては次のような事例がある。明治24年に大阪で「製造業」を創めた正垣卯之助は28年に「河内国志紀郡柏原弓削両村ニ工場ヲ設置シ」30年に柏原へ統合している。7)その工場の雇傭人員は明治34年に男子職工39名,女子2名,翌35年には男子37名,女子5名となっている。8)当初50~60名を雇用する「かなり大きなマニュ工場」だったといわれているから,雇用規模的には多少後退している。また明治29年に大阪市内で開業した藤井兵太郎も,37年に中河内郡三木本村に工場を移し,当初の正垣工場の規模に匹敵するほどの規模を有している。10)
 彼らについては,前述した「宮野某」も含めて,次のような指摘をしてもよさそうである。
 (彼らの行動は)大阪の問屋的商業資本の直接的援助のもとでおこなわれる。……(ただし)この期にほぼ寄生化を完了した地主層乃至は新しい商業的農業への進出を始めつつあった自作上層,耕作地主などの蓄積が動員されたという例はきわめて少なく……これらの農村における担い手は大阪市に流出して問屋の職人や従弟となり,或いは立志伝的に問屋にまで出世したものの,帰村者や縁故者,農村での階層として見れば,むしろ下層農民の出身者がその主体となっていた……11)
 ところで,これらの工場は産業資本の常識からはいささか乖離した軌跡を辿っている。つまり,資本の有機的構成を高め,より高度の生産力的背景を持って市場競争での勝利をおさめ,より大規模な相対的剰余価値生産の実現を期待するというのとはおよそ異なっているのである。まず彼らは自己の工場の出身者を次々に「独立」させていく。正垣卯之助は弓削村の工場を文字通り閉鎖したのではなく,「土地の人が半製品の工場を」経営していけるように「指導」することで自分は柏原だけに退いている。さらに明治35年には自己の工場で技術を習得した小林嘉平に貝ボタン工場を開業させている。12)そればかりか,37年には正垣自身の工場を畳み,沖縄に渡って那覇監獄の囚人労働と現地産玉貝を利用した生産活動を行い,38年には原料不足に見切りをつけ,また柏原に舞戻っている。13)そののちの経営規模は,雇用規模から見る限りでは,一般と小規模になっている。14)
 こののちも同地方での貝釦工場の創業は続く。明治30年代末に「志紀村弓削の田坪八三郎,川端丑松,谷亀次郎」と続く。15)「各貝ボタン工場は職工数男女各七,八人程度」となっている。明治41年の寺田貝釦製造工場の雇用人員は「男四人女壱人」となっており,明治末期は総じて10人前後規模の「工場」が中心となっている。16)そして,こうした工場の零細化は,極めて広汎な農家副業をその周辺に作り出しながら進展している。
 例えば中河内郡大正村では「日露戦争後輸出ノ激増ト共ニ従業者増加シ」大正初期には村内農家総戸数400戸のうち110戸200名が貝釦生産に従事しており,「純収入」10,000円ほどが村民の収入になっていたとされている。17)また南河内郡では次のような普及ぶりを示している。
 貝釦ノ製造ガ南河内郡全村ノ農家子女ヲ賑シテ居ルコトハ寧ロ驚クベク
其種類ハ……約五百餘種ニ上ッテ居ル,昨年中ノ年額ハ古市村ガ十萬円,三日市ガ一千百七十四円,柏原ガ一萬四千四百七十五円,志貴村ガ三萬六千円,中村ガ六千四百円……。18)(傍点は筆者)
 このようにして大阪府下の貝釦生産において河内地方の占める比率は急上昇していくことになる。第12表に見られるように,明治37年に市内生産額との総計中で0,3%を占めるにすぎなかった河内地方は,明治39年に2,5%,大正元年に2,9%と漸増傾向を示していたのが,大正3年に一気に14,2%に達し,第1次大戦期のうちに35%の水準にまで達することになる。数量的に見ても明治37年に対して,大正元年には57倍,大正3年には177倍,そして大正7年には実に3,000倍以上に達するのである。19)これほどの異常な拡大が,何ら最新式の生産体系の導入によってではなく,殆ど手仕事を中心とした零細経営と農家副業のみによって達成されたのである。また,そのために定着していった工程分立と,縦断的生産関係こそ,同地方における貝釦生産の創業者たちの固有の蓄積基盤となったものである。彼らにとっては「工場経営」の維持拡大が目的だったのではなく,それは単なる直接的生産者の養成機関としての意味しか持たされていなかったと言える。だからこそ,正垣卯之助は時として工場を閉鎖することもあえてしたのである。また谷亀次郎らのように,直接的小生産者から比較的早期に「独立」していった者たちの一部には,同じように「製造販売業者」つまり「製造家」として上昇していった者もある。20)
 こうして一方に「製造家」,一方「加工屋」が成立し,前者の後者に対する「問屋制的」支配という形をとりながら,河内地方を中心とする大阪府下農村地帯での貝釦生産の普及拡大が見られた。ただ,そうしたコースが,かつて市内で見られた「工程分立」の単なる再現ではなかった。というのは,農村部は当初から一貫して限界供給者としての立場におかれており,その矛盾に克服されることがついになかったからである。
 このことを端的に表現しているのは,第1次大戦直後の生産額の推移である。大阪府全体で見た場合でも,戦後不況の惨状は覆いがたい。大正8年は生産金額こそ前年より増加していたが,数量の激減が目立ち,翌9年になると生産数量はピーク時の25%に激減,金額でみても30%弱に後退する。そして,この後退劇の最も深刻な部分を河内地方が担うことになる。
第12表 大阪府に於る貝釦生産の推移
大阪市内と同地方の府下生産の2本柱を構成していたものの,双方の産額合計中の河内地方の構成比は大正7年の35.0%から翌8年に28.0%,そして大正11年には6.4%にまで引下げられる。切捨てご免の扱いにも等しい。換言すれば,生産の安定的部分は市内業者の周辺で一貫して保持されていたことになる。
 地滑り的後退には別の要因も作用していた。農家副業を中心としたものは,一時代昔の生産手段を利用したものが多く,「どうしても技〓が劣る21)」だけでなく,俗に「ペケ品」と呼ばれる下級品生産の域を脱しきれないでいた。戦争という特殊な事態を悪用した粗悪品輸出に付(つけ)が回ってくるのは当然であろう。ただ,まともな時代的見通しを持つ余裕もなく,旧式の用具を購入し,22)彼らからすれば全く目新しく思えるこの製品に対するそれなりの関心を持ち,子供をも含めた家族労働まで動員して作業に取組んできた直接的生産者達と「製造家」となって極力固定資本負担を回避し,流通過程で思惑売買に奔走していた者たちと,さらに彼らの上部にいて戦争景気を最大限享受しえた輸出商人たちとを,十把一搦げに非難するのはいささか公平を欠くものと言えるだろう。
 それでも河内地方では昭和初期にかけて徐々に生産の回復を計っていく。そして,この過程は工程分立の諸矛盾をより純粋に表現することにもなっていく。
 まず第1次大戦後の河内地方の貝釦生産については,単なる繰生地工程に特化する傾向が一層顕著に現われていたことを指摘しておかねばならない。大正末期から昭和初期にかけ,「大部分中古機ヲ購入使用」し,「足踏ニテ機械ヲ運転」する繰生地業者(生地屋とも呼ぶ)は「中河内郡楠根村,玉川村,西六郷村,布施町,大正村,堅上村,南河内郡志紀村,磯長村」などの「農村ニ移リツツアリ」と大阪府の報告書は指摘している。23)従業戸数は41戸,従業員数は200人で「全部男」となっている。
 問題は,この時期になると,彼らと「製造家」や,かつての問屋商人との直接的関係が全く跡切れていることである。明治期には間違いなく両者が一蓮托生の関係で結びついていた。繰抜き機の錐先の改良に成功した大西宇兵衛がそのまま繰場工程を「下工場」に出したこと(つまり大西自身は「製造家」に転化していった)が,業界における「分立」の先がけになったとされている。この段階では当然「製造家」が「原料を供給するの立場にあった24)」。しかし第1次大戦後では,繰生地業者が,自己資本による「現金払」で,専業化した原料商から原料貝を購入するようになっている。しかも,製品は直接「製造家」に渡るのではなく,「大部分ヲ仲間商人(仲介商人)ニ販売ス仲間者ハ操生地百個ニ附キ約五銭ノ口銭ヲ取リ之ヲ製造家ニ販売ス直接製造家ニ販売スル者アルモ極メテ少シ」(傍点及び括弧は筆者)という関係になっている。25)
 このことを指して,製品の限界供給者の立場から自立し,特定加工部門の自営業者として,旧来の問屋制的軛を脱しえたと理解することも可能に見える。しかしそれは短見である。結論を急ぐ前に,上記の「仲間商人」とも呼ばれるブローカーたちがどのように形成されてきたのかを見ておく必要がある。大正時代の河内地方に関する次のような指摘がある。
 当時,堅下村の太平寺,平野のブドウ農家が庭の隅にボール盤を置いて貝ボタンをくりぬく作業をするようになった。こうした貝ボタンの半製品を太平寺の坂口という人が自分の家で市を開いて売った。この市には近くの製造家はもちろん,大阪,河内,和泉の業者が集まってきた。なかでも大阪の天王寺付近から買いにきたものが一番多かった。26)
 ところでこの坂口吉松(貞次郎)は,元来零細工場主だった。それが「製造家」となり,さらに日露戦争期や第1次大戦期の原料貝や繰生地の価格大変動の中で,旧来の商人資本の原料系路支配が後退したのに乗じて,仲買商人となっていったのである。27)こうして「地元の製造家」が繰生地ブローカーになり,一方で原料購入に手を出したりする傾向が強まってきた。それでも好況期の間は彼らも存分の思惑でかなりの利潤を手に入れることもできた。28)大阪の「製造家」が河内の村々に繰生地購入に出かけなければならず,時として「地元」の要求に妥協しなければならないこともあった。29)取引は現金取引であった。30)
 しかし大戦後の不況期に,彼らの相対的地位は納まるべきところに納まっていくことになる。製品は仲介商自身が「製造家」の所に持ち込まねばならなくなるし,代金決済は「半ケ月-一ケ月ノ延小切手」が一般的となる。それだけではない。河内地方からは「製造家」層が急速に消滅していくのである。昭和9年,同地方に対する問屋資本的支配力を有する「販売業者」「製造販売」は104名存在したが,すべて神戸,大阪市内在住であり,河内地方には1名の存在も確認できなくなってしまう。一部大阪市内などに移住したもの ― つまり,そのことによって農村部の小生産者との共通の利害関係からは離反することになる ― もありえたであろう。しかし多くは繰生地ブローカーのような形態をとり,商人資本による小生産者支配の組織網の中での中間職制的地位に落着くことになってしまう。そうした彼らが,自己の立場の社会的上昇を狙って最後に拠り所とするところは一擢千金を夢見る思惑取引である。その結果 ― 坂口吉松の例に見られるように ― 貝釦業界の底辺にも存在することを許されなくなるような,手ひどい打撃を蒙ることも少くなかった。そうした事実が少くなかったことは容易に想像できる。31)
 しかしながら,河内地方の農民出身の「加工屋」やブローカーにとって,分限に甘んじさえすれば,それなりの存在が許されるといった封建的温情が与えられていた訳ではない。市内の「製造家」にすれば農村部での低賃金労働力こそが問題であり,その原点が暖昧なものになるなら,それを見限って戦略目標を他の地方に移しかえることすらもやってのけたのである。
 由来貝釦ノ製造ハ市内天王寺町附近其ノ元祖ナリシモ大阪市ノ発達ニ伴ヒ家賃工賃其ノ他諸経費高マリ経費難ニ陥リ漸次府下農村各地ニ点々移転シ附近ノ農家ヲ職工トシテ養成シ,之ガ製造ヲ始メタルモノナリ……然ルニ最近之等農村ニ於テモ工賃漸次騰貴シ殆ド天王寺町附近ト異ナラザルニ至リ遂ニ一層工賃安キ奈良県磯城郡地方ニ於テ之ガ製造ニ着手スルニ至リ急激ナル発達ヲ来シ今日ニ於テハ貝釦製造ノ中心地ハ彼ノ地ニ移リシ形トナレリ32)
 こうして昭和初期には,大阪の「製造家」の入手する繰生地の60%は奈良県からのものとなり,しかも48%まではブローカー抜きに直接買いつける形になっていた。33)その際にブローカーたちのとった対応が問題になるが,それは別稿で取り上げることにしたい。1戸当り平均5人前後しかいないはずの繰生地業者には,34)さらに次のような指摘がなされている。
 …現在ニ於ケル府下生地操業者ノ如ク副業ノ本質ヲ没却シ多数ノ(!?)職工ヲ使用スルガ如キ状態ニテハ到庭大和地方ト対抗シ得ザルノミナラズ工賃ニ於テ常ニ圧迫ヲ被リ漸次衰微ノ止ムナキニ至ルヲ以テ之ガ組織ヲ改メ現在ノ製造業者ヲ中心トシ主トシテ自家労力ニ依ル小規模生地業者ヲ集団セシムルヲ要ス。35)(括弧は引用者)
 こうした内務省的発想に応じたのはむしろ「加工屋」の方であるが,そのことは後に触れよう。多くの農村内の小生産者層にとっては,資本主義的農民層分解すら許されぬまま ― 単に政治的意図のみならず現実的諸結果においても ― に,やがて都市中小工業の底辺部に組み込まれていったのである。しかし繰生地業者の逢着した困難はこれだけには止まらない。
 彼らは外見的には他の「加工屋」よりも自立化傾向が強いように見える。だが,そこにも商人資本的論理の働く余地が多分に残されていた。原料貝の激しい価格変動,取引関係の不安定性,それに伴い「蓋を開けてみなければわからないような36)」粗悪原料混入が頻々となされるような輸入事情,問屋商人や「製造家」達は直接的生産者に対する排他的支配力を多少後退させることによって,そうした危険負担を ― しかもこれは時として致命的なものにすらなりかねない性格のものであるが ― 繰生地業者や繰生地仲買商に転化することができたのである。また資金運用上の負担軽減や,繁閑調節の安全弁としてさらに有効に対応することも可能となってくる。これらの諸点について同業組合関係者は下記のような評価を下している。
 繰生地である注文品に対する撰択の自由と資本の活用は勿論分業生産に依る製品仕上りの時日の短縮を来し従って納期も又確実に履行せられ偶発的の不足等に対して容易に補給を為し得枚挙に遑なき好績を見る事が出来たのである而して是等の関係は更に仲介の商売を生じ半製品本位に依る農家の副業として最も安全に且つ金額の相当嵩む関係と云ふことから企業の不振の際に於ては反って其の旺盛を看る奇現象を惹起し羨望の有様であった。37)
 では次に各種「加工屋」について見てみよう。というのも,繰生地部門が急速に奈良・和歌山,さらに四国方面にまで広がりつつある状況下では,他の加工工程でも再編成なしに存続することが困難だったからである。
 この再編成の特長は一言で言うなら,各「加工屋」がその周辺により広汎な農家副業,家内副業を組織していったことである。例えば穿孔業者は,当初,女子労働力を直接雇用する形態で出発しながら,急速に家庭内職利用のものに再編成されていったという。38)南河内郡国分村では4人の受請業者 ― 穿孔以外も若干兼営 ― の下に50人の婦女子が「家内工業者」として働いていた。39)また「台紙つけ」も元来は「製造家」が直接家庭内職に出していたものであるが,昭和期には「台紙つけ屋」として家庭内職の利用を専門とする仲介斡施業者が成立している。40)国分村ではこの手仕事に従事する「女(小供)」は200人を数えるまでになる。41)
 こうして「加工屋」自身がますます生産過程から離れ,一種の仲介ブローカーに化し,個々の家内労働力に外する外業部支配を強めるという図式が成立する。「問屋制的」ヒエラルヒーが,直接的生産者の内部に入りこみ,一層リリパット的で,より過酷な形をとりながら,再生産されることになったのである。穿孔作業従事者の場合は,請負賃の「ほとんど半ばが,中間の穿孔業者(ブローカー)によって吸収されている42)」状態であり,「穴をあけている途中にボタンが一個でも割れたりしようものなら,四,五〇個分の工賃が弁償代にとんでしまう ― 請けた工賃を親方と作業者とが折半しておきながら,破損による負担はすべて作業者の一身に背負わされるわけである43)」。しかも「ひとたび貝ボタン工業から締め出しを食うとどの製造家(この場合は穿孔業者など)もその人間については雇用しないという不文律が ― (中略) ― 効力を保っている44)」有様だった。
 このようにして直接的生産者自体が縦断的小ヒエラルヒーを構成し,より広汎な家内労働の利用を押し進めることが,大阪府下農村部の貝釦生産拡大の根拠となっていったのである。

 1)大阪府内務部『府下農村ニ於ケル副業的加工業ノ概況』1929年,114ページ。
 2)これについては,さしあたり風早八十二『日本社会政策史』日本評論社,1937年を前提しておきたい。
 3)この点に関しては,さしあたり下記のものを前提しておきたい。
 古島敏雄,永原慶二『商品生産と寄生地体制』東大出版会,1954年。
 津田秀夫『封建経済政策の展開と市場構造」御茶の水書房,1961年。
 中村哲『明治維新の基礎構造』未来社,1968年。
 4)前掲『府下農村ニ於ケル副業的加工業ノ概況』のほか下記のものを参照されたい。
 大阪府副業調査会『副業調査報告書』1930年。
 大阪府内務部『農家副業成績品展覧会報告』1915年。
 5)詳細な検討は稿を改めて行いたい。差し当り下記のものを参照されたい。
 農林省農務局『地方副業主任者会議要録』1927年ほか。
 香川県『副業調査』1930年。
 愛媛県内務部『加工的副業状況』1921年。
 広島県『県下主要副業生産品経済主要市場ニ於ケル副業品取引状況調査』1926年。
 6)例えば下記のものなどを参照されたい。
 岩手県経済部『農村工業要覧』1937年。
 7)前掲『同業組合沿革史』105ページ。
 8)前掲『柏原市史』259ページ。
 9)前掲『農家経営の変貌』334ページ。
 10)前掲『同業組合沿革史』104-05ページ。
 11)前掲『農家経営の変貌』334-35ページ。
 現地での筆者なりの聴講によっても同様の感触を得たのは事実であるが,三宅順一郎氏の言われるように富農の商業的農業への傾斜,貧農層の農村下請経営への傾斜という関係が一貫して存在していたかどうかについてはなんとも判断できない。後続の新期参入者達が,殆ど無資本のまま元請業者の援助にだけ頼って創業しえたとは考えられないからである。なお引用文中の「立志伝的に問屋にまで出世」して帰村したと見るかどうかについては疑問がある。
 12)前掲『柏原市史』289ページ。なお同工場の雇用人員は男子16名,女子7名となっている。
 13)前掲『同業組合沿革史』105ページ。
 なお明治大正期を通じて我国大都市で商人修業を積んだ者達が,一定の生産力を有する遠隔地に出かけ,現地の小生産者に前貸し支配を行ったり,産物買い占めを行って短期間のうちに財をなし,すぐに昔の土地に引きあげる事例は多かった。沖縄にも当時そうした「ヤマトンチュー」が多数存在し,高級織物業のあった先島地方でも広汎に見かけられたという(沖縄県平良市西里7東凡平キヨ女談)。
 14)山本竹五郎氏談。
 15)前掲『柏原市史』259ページ。
 16)同上書,261ページ。
 17)大阪府内務部『農家副業成績品展覧会報告』1915年,402ページ。なお同村では,別に280戸が「燐寸箱張」に携っているほか,木綿起毛,刷子毛植,綿布などの農家副業がなされており,殆どの家庭が何らかの副業生産に従事していたと思われる。
 18)『大阪毎日新聞』1915年2月28日。
 19)『大阪府統計書』によって概算した。
 20)前掲『同業組合沿革史』中の歴代役員名簿の中に彼等の名前がやがて登場しはじ
める。組合の量的中心が「製造家」層によって担われていることは既に述べた通りである。なお他に坂口吉松らの事例があったことは山本竹五郎氏から伺った。
 21)「大阪府副業座談会」(大阪朝日新聞社経済部編『われ等の生きた副業を語る』1931年)96ページ。
 22)奈良県下では大正期でもまだ貫透線が使用されていたという(前掲『同業組合沿革史』320ページ)。
 23)前掲『府下農村ニ於ケル副業的加工業ノ概況』1929年,113-14ページ。なお,この報告書で「製造家」とあるのは,繰生地業者のことをさしている。
 24)前掲『同業組合沿革史』330ページ。
 25)前掲『府下農村ニ於ケル副業的加工業ノ概況』115-17ページ。他に大阪府内務部『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』1930年,30ページを参照されたい。
 26)前掲『柏原市史』(第三巻,本編Ⅱ)262ページ。
 27)28)山本竹五郎氏談。同氏は一時期坂口方で貝釦生産に従事していた。
 29)前掲『柏原市史』262ページ。
 30)前掲『農家副業及小工業製品取引ニ関スル調査』30ページ。
 31)山本竹五郎氏,高萩実氏談。ここでもわが国都市中小工業に宿命的に言われる世間的命題を聴かされた。「釦屋とデンボは大きくなれば壊れる」。
 32)大阪府副業調査会『副業調査報告書』1930年,44ページ。
 33)前掲『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』30ページ。
 34)前掲『府下農村ニ於ケル副業的加工業ノ概況』113ページ。
 35)前掲『農家副業及小工業製品取引組織ニ関スル調査』46ページ。
 36)前携『農家経営の変貌』370ページ。
 37)前掲『同業組合沿革史』53ページ。
 38)前掲『農家経営の変貌』368ページ。
 39)前掲『府下農村ニ於ケル副業的加工業ノ概況』272ページ。
 40)前掲『鈕釦工業』92ページ。
 41)前掲『府下農村ニ於ケル副業的加工業ノ概況』272ページ。
 42)前掲『実態調査』896ページ。これは第2次大戦後の調査報告であるが,戦前期により条件が緩やかであるとは考えられないので,ここで利用させて頂く。
 43)44)同上書,892,896ページ,ならびに前掲『輸出向中小工業叢書』32,38ページ。
結論にかえて

 これまで,大阪府下における貝釦生産の事例について,生産機構の変遷,その中での直接的生産者層の置かれた地位と彼らの行動様式,生産の一部の農村部への流出,「製造家」の実体,こうした諸側面について若干の実情は知ることが出来たと考えている。以下,既存の研究や資料との関係で留意しておきたい諸点を簡単に指摘することで,結論に代えたいと思う。
 まず工場制生産が決定的に困難となり,「製造家」を核とした独特の生産機構に再編されていった時期についてである。このことは換言すれば「工程分立」の見られる時期といってもいい。
 それについては『日本貝釦同業組合沿革史』も『大阪の鈕釦工業』も大正時代だと指摘しており,爾後の諸文献も同様に追認してきている。だが,既に見たように根底的な動きは明治後期に始まっている。大正時代には平均経営規模が5~6人のレベルで安定するようになってきているが,1)実は大規模層の内実がそれ以前から急速に変質してきているのである。そのことを第13表から窺うことができよう。つまり,大工場における労働者構成が圧倒的に女子中心のものに移行しはじめている。それは,大規模工場の営業内容が仕上工程に特化しはじめていることを示しており,恐らく,そこで「台紙付け」などの作業要領を得たものは,こののち,急速に家庭内職として作業を担うようになっていったものと考えられる。ちなみに,10~50人層での男女比率は明治37年で7工場(男126:女60)となっており,39年に8工場(214:82),41年(156:79)となっており,小規模層ほど男子比率の高かったことがわかる。こうしたことから,明治30年代には,大規模工場では,生産機構の編成替えに対する対応が完了していたと考えることができるのである。
 第2に,こうして形成されてくる「製造家」や「加工屋」層について指摘しておきたい。彼らを「事実上の産業資本家」「事実上の賃労働者」と性格規定するものもあれば,2)「製造家」を「問屋」だと扱っているものもある。3)そうした形態規定を無下に否定するつもりは決してないが,それではわが国の直接的生産者層が一貫してその体内に持ち続けていた特殊事情を明らかにすることにはならないのではなかろうか。
第13表 雇傭人員別経営数と男女職工数
わが国の「進歩的」歴史学者の一部には,支配体系の巧妙さや資本の論理の非人間性を論じ,被支配層や賃労働の困難と逆境を一般的に ― いはば当然のこととして ― 指摘するだけで,直接的生産者達の逢着していた諸矛盾が彼等の予想より遥かに複雑なものであることにはまるで無頓着でいられるような態度をとっていることが珍しくない。わが国の広汎雑多な直接的生産者層にとって,最も荷重だったことは,彼らが生産者としてでは社会的上向が殆ど不可能であった点にある。生産者内部の両極分解によって,資本制的秩序の形成がなされたのではなく,生産者は商人化すること ― 時として投機活動をも敢てするような ― によってしか,社会的に浮びあがることができず,しかも「事実上の賃労働者」が歴史必然的に字義通りの「賃労働者」となっていくのではなく,逆に後者の中から絶えず前者の予備軍が形成されていくという ― 西欧的常識からすれば ― 全く逆転した現象が強固に存在していたのである。だからこそ,商才に長じたものは一介の職人から「製造家」にも成り上っていけたのである。こうした社会関係の成立している限り,日本の資本賃労働関係は“Japanese opportunity”だとT.B.Veblenが指摘した以上の威力を発揮することになるのではないだろうか。
 本稿で見たような生産過程の編成替えのあった領域では,小生産者は何より商人化への道を志向する。それは直接的生産者内部で,いかに他の生産者を出し抜くかという行動様式への傾斜傾向を強めてしまう。「抜駈けの功名争い」はわが国村落共同体の日常茶飯事となっていたが,4)同様の社会的雰囲気が商品生産の舞台にも持ち込まれ,小生産者から小商人への転化の場面に至ると,それはもう極限的なまでの熱気を帯びて発揮されることになっていった。
 こうした傾向は直接的生産者相互の社会的連帯感を大凡疎外するものになる。同じような階層から出発し,似たような作業に従事していた者のうち,「製造家」になるか「加工屋」になるかで相互の関係は大きく隔ってくる。彼ら自身しばらく前には賃労働に従事していたにも拘らず,その賃労働従事者に対する規制の行使は,本論中で見たように,「近代」の常識からは多分に逸脱している。そのことは直接的生産表に独特の禁欲主義的行動をとらせることになる。
 個々の加工賃の半分は「製造家」や「穿孔親方」が懐にするにも拘らず,作業上のミスから廃品を生じると原料代を含めて,すべて直接的生産者の負担となる。しかも加工賃は農家副業的水準に絶えず切り下げられようとする。だから生産の担い手たちは,極度の長時間労働にも拘らず,検査も各々自身の手でやらねば納得できぬことになる。工程ごとに,この種の神経質な検査が繰り返されることになる。報われることの少い過酷な条件下では,不満は内攻し,時として異常な形で溢れ出す。
 原料ノ供給ヲ受ケ製品ヲ納付スル者ノ中ニハ之レヲ質屋ニ入レ或ハ同業者ニ典物トナスコトアリ或又問屋ノ下請人タル如キ製造人カ製品ノ全部ヲ納付スルコトナク直接之レヲ神戸外国商館ニ売込ミ即時ニ代価ノ八割ヲ取得スルカ如キモノアリ而シテ値段ノ折合ハサル場合ニハ之レヲ大阪迄引取ルノ費用ト煩労トヲ厭フノミナラス速ニ現金ニ代ヘンカタメ神戸三宮辺ニ於テ典物タラシムルモノアリト云フ5)
 独特の生産機構に付随した問題は別の形でも現れてくる。商人的抜駈争いが日常化する状況下では,小生産者層の固有の踏張りと,地味な努力に対する正当な評価判断力を,生産者自身で,大きく狂わせてしまうことになりかねないからである。
 確かにわが国の都市型中小工業で,ドラスティックな技術革新はなされなかった。それでも,既存の用具を動員し,簡便な生産事段を創案し,生半な欧米式工場生産を解体してしまうほどの力を,わが国の職人達は持ちあわせていた。大規模生産は難しくても,多品種少量生産と労働集約的生産過程を厭うことなく担っていったのも,この国の直接的生産者達の顕著な特徴だったと言える。この点を集中的に表現しているのが,彫刻釦と変形釦の生産である。
 貝釦生産の種類がいかに多かったかについてはすでに見た。その中で表面に包刃1本をもって「次から次へと変った模様を刻み付け ― 中略 ― 克く其の美観を発揮し哮好を唆つた6)」のが彫刻釦,変形釦と呼ばれている種類である。この種の作業にはそれなりに高度な熟練が要求された。しかし熟練がそれなりに評価されるよりも,売り込みの金額が問題になる状況下では,製品はファッション化し,製品そのものの仕上りよりも流行への追随度が優先されてしまう。要請される模様の種類が夥しくなるにつれ,個々の手作業への社会的評価は下降していくことになる。直接的生産者が自己の生産物に対するプライドを放擲して商人化しようとしたことも,こうした諸関係の下ではやむないことだったのかも知れない。また大くの民衆にとって消費資料が消費財ではなく,所詮消費材でしかなかったこの国においては,高級な貝釦がかつて欧米先進国では欠くことのできない花嫁の持参品であったこと,さらにそうした高級貝釦が実はわが国で作られていたことすら,殆ど知られることがなかった。そして昭和30年代の高度経済成長期に合成樹脂製品が主流になり,やがて貝釦の存在すら人々の記憶から消え去ろうとしていくのである。7)
 最近の釦生産の不振に対して,多くの調査がしばしば「高級化」「知識集約化」を口うるさく主張する。1例だけ掲げておこう。
 (最近の不振は)生産品種に比較的単純なもの多く,発展途上国と競合するためで,今後はファッション化に対応した製品の高級化を開発する等,製品の知的集約化が課題となっている。18)
 歴史を垣間見た者にとっては,まことに語るに落ちる指摘ではある。

 1)前掲『鈕釦工業』30ページ。
 2)例えば,前掲『輸出向中小工業叢書』ならびに『実態調査』など。
 3)例えば,前掲『農家経営の変貌』『取引状況』など。
 4)例えば,きだみのる『にっぽん部落』岩波新書,1962年,同『気違い部落紳士
録』時事通信社,1950年,などを前提しておきたい。
 5)農商務省農務局『大阪市及神戸市ニ於ケル貝釦取引状況調査』1922年,34ページ。
 6)前掲『同業組合沿革史』59ページ。
 7)こうした点については高萩実氏の談話によっている。同氏は貝釦生産そのものが殆ど不可能になっても,貝そのものの魅力が忘れられず,貝を素材とした装身具生産を思いついて,現在までやってきたと,静かに語っておられた。
 8)四国通商産業局『四国経済概観』昭和52年度版,76ページ。