雑貨産業

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眼鏡産業の発達

著者名: 上田達三
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次

1 雑貨産業の概要と問題点・・・・・・・・・・2

2 外来移殖産業としての眼鏡産業・・・・・・・・・・5

3 眼鏡産業の現状―大阪を中心に・・・・・・・・・・6
 (1)産地の概要・・・・・・・・・・6
 (2)需給状況・・・・・・・・・・6
 (3)企業規模・・・・・・・・・・8
 (4)生産形態・・・・・・・・・・10
 (5)流通事情・・・・・・・・・・12

4 眼鏡産業の歴史的展開・・・・・・・・・・14
 (1)明治維新以前の眼鏡の歴史・・・・・・・・・・14
 (2)眼鏡産業成立の背景・・・・・・・・・・14
 (3)第1次世界大戦を契機とする発展・・・・・・・・・・16
 (4)第2次世界大戦後・・・・・・・・・・17

5 眼鏡産業の技術進歩―大阪田島地区の眼鏡レンズ工業の経験・・・・・・・・・・18
 (1)第2次世界大戦前・・・・・・・・・・18
 (2)第2次世界大戦後・・・・・・・・・・22


1 雑貨産業の概要と問題点

 このサブ・プロジェクトは,大企業に対置される中小企業を研究領域としている。ここで取上げる眼鏡レンズ産業は,日本では一般的に雑貨産業として知られている。
 日本における雑貨産業は,明治以来,繊維産業と並んで,日常生活に密着した最終消費財を供給するとともに,輸出産業として日本経済の発展に寄与してきたといわれている。
 ところで,雑貨,あるいは雑貨産業の概念については定まった規定があるわけではない。しかし,雑貨産業に共通する性質として次の点を挙げることができる。
 1) 最終消費財の生産
 2) 製造業の中の軽工業の分野
 3) 需要ロットが小さい
 4) 中小企業の生産分野
 5) 労働集約的生産
 6) 高い輸出依存率
 7) 企業集団を形成する
 さて,以上は並列的に並べたが,これらは独立した事象ではなく,互いに原因,結果の関係にもある。需要ロットが小さく多種少量生産であるための機械化の制約,手工技術への依存,それによって阻まれる大企業の進出,手工性を強める相対的賃金の低さ,それに拍車をかける家族労働力・内職の動員,それらによって獲得された国際競争力・海外市場等々である。
 雑貨産業の具体的な業種としては,日本標準産業分類の製造業の中から,食料品・繊維の全部と化学・金属・機械のほとんどを除き,その他の製造業の多くの部分が含まれる。製造業の細分類数は全部で559(たばこ製造業の2細分類を除く)であるが,そのうち81分類が雑貨産業とみなすことができる(後掲・付表)。
 これら業種の大部分は,明治維新以後,わが国に導入された外来移殖産業で,徳川期以来の伝統的地場産業とは異なり,当初は主として大都市の消費地周辺に立地した,また海外市場を目あてに開発された,さらには関連産業の発達に原材料入手,流通機構の便に立地してきた,いわゆる都市的な雑貨工業である。これらのなかには,都市から都市周辺へ,さらには農村へ外延的発展をとげた業種もみられ,いったん定着すれば,集積の利益により一層の発展をとげ,地元需要を賄うのみならず,全国的な販売市場,海外市場を獲得している業種も多い。
 雑貨産業は多様な業種業態より成立っており,その発展の経緯も,経済動向も,それぞれの業種が,それぞれの特性に応じて異なっている。したがって,雑貨産業の問題点を一般化することは困難であるが,「日本の経験」を個別業種のなかに具体的にみる前提として,近年の雑貨産業をとりまく経済環境の変化と問題点を,まず概観しておく必要があろう。
 第1,昭和30年代以降,わが国工業構造ならびに輸出構造の重化学工業化の進展にともなって,雑貨産業の地位は大幅に低下し,加えて40年代に入ると,発展途上国の経済発展によって,その追上げが急となっている。労働集約的な商品分野,技術的程度の高くない産業分野において,発展途上国とわが国との競合を強め,わが国の一部雑貨輸出に大きな打撃をうけている。かつての輸出産業は絶対的,ないし相対的に国内市場への転換を行わざるを得なかったのみならず,さらに発展途上国からの輸入によって大きな影響をうけている。
 第2,内需についてみると,雑貨産業全般としては,経済の高度成長によって需要も増大したが,労働力の不足,賃金の上昇,原材料の高騰,輸入の増大,技術水準引上げの必要性といった諸問題を抱え,また,かつて輸出依存度の高かった業界では,輸出業者の内需転換による市場参入増加が起っている。さらに49年以降は経済成長の鈍化にともない,設備の遊休化の拡大,販売競争の激化となり,加えて需要拡大業種への大企業の参入,円高のもとでの先進国からの輸入増大がみられる。製品開発力や販売力のある企業とそうでない他の企業との間に企業間格差が拡大し,一部には転業,廃業企業も現われ,業界構造も変化しつつある。
 第3,大都市での立地条件の変化がみられる。都市および同周辺に立地する雑貨産業の多くは,今日,住工混合地域にあるが,このため用地難,公害の発生,交通の渋滞等,外部不経済が増大している。このため国内産地間の競合が激化している場合もみられる。
 第4,経済成長鈍化の不況下の今日においても,企業規模の零細性等から,依然若年労働力の雇用は困難である。また,賃金の上昇は,なお労働依存度の高い雑貨産業のコストを上昇させているが,その製品価格への転嫁は,競争のより激化している今日,ますます困難となっている。
付表 雑貨産業の業種(製造業細分類による)

2 外来移殖産業としての眼鏡産業

 わが国に眼鏡が渡来したのは,1530年にさかのぼるが,眼鏡が近代的産業として展開し始めたのは明治以降である。いわゆる外来移殖産業として,先進国からの技術移転をうけた眼鏡産業が,わが国の土壌のなかで変容し,独自の発展をとげてきたのである。
 それは,輸出向け中小企業の地域集団として,前節にのべた日本の雑貨産業のもつ性質のほとんどを産業内部にもちつつ発展し,かつ,今日,雑貨産業をとりまく経済環境の変化にともなう諸問題のすべてを内包する産業である,ということができよう。
 外来移殖産業としてスタートを切った眼鏡産業が,その発展過程のなかでいかなる変容をとげ,今日,当面する諸問題にいかに対応しようとしているのか。「日本の経験」を雑貨産業の個別業種のなかに具体的にみようとするに際して,眼鏡産業はかっこうの業種であり,雑貨産業における1つのモデルケースになりうるもの,ということができよう。

3 眼鏡産業の現状――大阪を中心に

(1)産地の概要――地域集団
 わが国の眼鏡産業の主産地は,東京,大阪,福井であるが,東京,大阪は眼鏡レンズを中心に,福井は眼鏡わくを中心に,それぞれ地域集団を形成しつつ発達してきた。
 これら産地別の眼鏡出荷額の推移ならびに全国に占める地位の変化をみると第1表のとおりである。過去10年間において,東京,福井の出荷額の伸びが大阪にくらべて大幅に高く,その結果,全国に占める地位(昭和40年と50年の対比)は,東京が27.2%から29.7%へ,福井が35.5%から40.2%へ上昇しているのに対し,大阪は24.1%から11.5%へ大幅に低下している。
 品目毎の眼鏡完成品,わく,レンズのいずれをとってみてもこの傾向は同様であり,完成品(主としてサングラスと考えられる),わくでは福井,レンズでは東京の伸びが高い。大阪はもともと眼鏡レンズ主体の産地であり,現在でも3者合計のうちでレンズが55%を占めているが,レンズの全国的地位では,40年の31.4%から45年18.5%,50年には12.3%に落ち込み,東京が52.0%と過半を超え,このほか高知県や長野県も勃興してきている。

(2)需給状況――輸出依存度の低下,輸入依存度の上昇
 わが国の眼鏡の輸出は,長期と短期では異なるものの,近年では発展途上国の追上げなどにより,数量的にみて減少傾向にある。昭和45年以降についてみると,眼鏡用レンズでは49年の1,890千ダースをピークとして50年は1,547千ダースで12%減(45年対比では43%増),非金属製フレームは48年の263千キログラムに対して50年は200千キログラムで24%減(45年対比では6.7倍の増),眼鏡完成品では45年の3,089千ダースに対して50年は2,162千ダースで30%減となっている。ただし金額的には高級化や物価上昇によって年々増加し,眼鏡類総額では45年の7,915百万円から50年には14,953百万円と5年間に89%の大幅な伸びとなっている(第2表)。
 他方,輸入についてみると,高級フレームを中心に西ドイツ,フランス,アメリカより数量,金額とも増加傾向をたどってきている。数量は,50年に入って不況の影響で前年比ややダウンしたが,金額ではさらに伸びて12,517百万円に達しており,45年の2,918百万円にくらべて4.3倍の大幅増加となっている(第3表)。
第1表 眼鏡類の出荷額推移
 以上(第1-3表)を総合して,昭和50年のわが国眼鏡の需給状況をみると,出荷額73,572百万円,輸出額14,953百万円,輸入額12,518百万円,差引国内向供給額71,137百万円となり,出荷の輸出依存度は20.3%,国内需要の輸入依存度は17.6%となっている。長期的にみると,輸出依存度は低下傾向,輸入依存度は上昇傾向をたどってきている。
第2表 眼鏡類の輸出推移(全国)

(3)企業規模――零細性
 大阪の眼鏡製造業は,田島町を中心とする生野区と同周辺,下松町を中心とする岸和田市に集中して,それぞれ産地集団をなしている。大阪府下には4事業協同組合と1工業組合,およびいくつかの任意団体があるが,昭和51年11月末における事業協同組合の組合員数は223企業,複数の組合に加入する企業を調整すると218企業,ほかにアウトサイダーが田島およびその周辺地区に約80企業,岸和田地区に約50企業,合わせて約350企業となっている。
 組合加盟企業の規模を従業者数でみると,6~20人層が78.7%と圧倒的多数を占め,ついで5人以下層が13.6%で,小規模事業者が92.3%に達する。
第3表 眼鏡類の輸入額推移(全国)
アウトサイダーもほとんどが5人以下層であり,最大規模は100人以上層に1企業(130人余)みられるにすぎない(第4表)。
 なお,組合員の製造品目別内訳は,レンズ業者約130企業,サングラス及びわく業者が74企業,拡大鏡業者が8企業と推測されている。
 眼鏡わくを中心に発達してきた福井産地は,鯖江市がその中心地であり,零細な下請を含めて総数1,200企業に及ぶと称されている。このうち一貫メーカーは約300企業,福井県眼鏡工業組合に約280企業が結集している。
第4表 眼鏡製造業の規模構成
 組合員の規模は,100人以上が7企業,最大は200人,30人以上では52企業,19%を占めており,大阪よりも福井の方が組合員の規模は大きい(第4表)。

(4)生産形態――外注・下請制
 生産形態については,まず,地域による品種分業がみられる。大阪の田島地区は,近視用,遠視用の眼鏡レンズ研磨業者およびサングラス業者が,岸和田市では乱視用,近視用,遠視用,および2重焦点用の眼鏡レンズ研磨業者,生野区巽(たつみ)地区にはサングラス業者が多い。
 従業員5人以下の家内工業的な企業では,ほとんどの企業が単一品目のみを製造し,従業員規模が大きくなるにつれて多品目を製造する企業が多い。たとえば,もっとも規模の大きい100人台の企業では,遮光レンズ,プラスチック製レンズ,プラスチックわく,セルロイドわく,眼鏡完成品,サングラス,同レンズ(ガラス製),同レンズ(プラスチック製),防塵眼鏡の9品目,40人台の企業では2重焦点レンズ,偏光レンズ,プラスチック製レンズ,サングラス(プラスチック製)の4品目を製造している。
 こうした上位企業といえども,多品目のすべてを自社で製造しているわけではなく,広汎に外注・下請を利用しており,完成品あるいは部分工程の外注依存度の高い企業もみられる。5人以下層の企業では,みずからが同業者を販売先とする下請的な企業がほとんどを占め,6人以上層になると,外注,下請を利用する企業が多くみられる。
 外注・下請工程の内容は,材料支給による包括的な完成品下請のほか,レンズ研磨,仕上,強化コーティングなど一部工程について行うケースも多く,これら全部を含めて,元方1企業あたりの外注・下請発注先軒数は,レンズ関係で4~5企業,サングラス完成品で7企業前後というのが平均的な数値であるが,なかには40業者もの外注・下請発注先をもつものもみられる。
 このような外注・下請生産方式は,この業界特有の多品種少量生産形態からくる様々な障害を,外注・下請という形での分業によって克服するという意味で,市況変動に対するバッファー・クッションとしての役割や,家族労動力主体の,生業的性格に起因する低賃金コストの利用というねらいとともに,大きく評価される必要があろう。それなりに合理的な存在といえるが,一面,この外注・下請生産方式への安易な依存が,技術高度化を含めた経営の近代化を阻害していることもまた否定できない。
 このような生産構造は,流通部門の生産部門に対する取引上の圧倒的な有利性ということと関連している。第1位取引先への販売割合が50%以上の企業が全体の55%に及び,30%以下の企業は19%にすぎない。いうまでもなく,規模が小さくなればなるほど生産品目の種類が少数に限定されてくるので,こうした傾向は規模の小さい企業ほど強くなっている。とくに国内取引の場合の代金受取条件,単価,受注ロット,クレームなどの各面で,生産部門は弱い立場に立たざるをえないのである。
 以上,主として大阪の眼鏡製造業を中心とした生産形態をのべてきたが,このほかの関連業者としては,素材(レンズ用ブランク,板ガラス,ポッペン),研磨材,カット,のし,強化,わく用ねじ,メッキ,塗装,機械など多数の業者から眼鏡業界がなり立っているのである。

(5)流通事情
 さきにみた大阪産地の生産額の品目別対全国シェアーからみれば,福井のわくと大阪のレンズが結びつき,完成品として出荷されるケースがかなり多いことが推測される。この場合,その結合の主体は,大阪の出荷額シェアーの低下からみて,福井に大きく傾いていることが明らかである。つまり,大阪のレンズ(とくにサングラス用)が福井に出荷されて,そこで完成品となるわけである。
 さらに注目すべきは,福井産地における,わく部門の集積の結果,大阪の金属わく部品の供給も,福井に依存するような体制がつくられつつあることである。
 ア 海外市場
 全国の眼鏡類輸出依存度は,すでに明らかにしたとおり(第1~2表),昭和50年において20.3%であるが,大阪の眼鏡類の輸出依存度は,これよりもはるかに高いとみられている。わく産地である福井向けに出荷され,そこで完成品となって輸出される分を含めると,大阪の輸出依存度は約85%というのが,輸出検査機関筋の推定概算額である。
 このような福井経由は大阪生野区田島地区で集中的にみられ,同地区の輸出依存度を高めている。一方,岸和田地区では,高級度付レンズのウェイトが高いこともあって,輸出依存度は50%程度とみられている。昭和50年の日本眼鏡普及光学器検査協会の資料では,大阪事業所内(うち大阪府のシェアー80%)の検査実績のうち,サングラス関係が61%,両面研磨レンズ関係18%,拡大鏡関係が8%という内訳になっている。
 輸出向出荷は,眼鏡製造業界のなかで上位規模階層に大きく集中しており,また同じ従業員規模でも,約90%が輸出向けとされるサングラス,とくにその完成品では眼鏡レンズよりも出荷額が格段大きい。したがって,小零細規模の眼鏡レンズ・メーカーでは内需向けが多数を占めている。
 輸出の受注割合は,商社が80%,バイヤーが20%であり,輸出市場の過半は米国である。近年,米国市場ではメキシコ,韓国,台湾の追上げが急であり,昭和45年と50年をくらべた日本製サングラス(ダースあたり2.5ドル以上のもの)の数量シェアーは,40%から26%へと低下しており,欧州製品も日本と同じ運命にあるといえる。
 この間,製品の高級化,高付加価値化が進んだため,金額的にはシェアー低下は小幅に止まり,さらに昭和51年からは回復がみられたが,52年後半の円高が新規受注面で大きな打撃をうけているようである。
 大阪産地での問題は,輸出検査実績におけるシェアーが,45年の63%から50年に50%へ低下し,今日,極度の輸出不振に見舞われていることである。眼鏡,とくにサングラスのファッション化の進展が,わく産地である福井に有利に働いたことに加えて,愛知,長野など新興産地の台頭も眼鏡レンズに関して目立っており,大阪産地の環境変化への適応が,他産地よりも一歩おくれをとったことは否定できないところである。
 イ 国内市場
 さきにもふれたように,大阪の小零細企業,とくにそのうちの眼鏡レンズ関係では,内需への依存度が大きいが,ここでもシェアーが縮小するばかりか,売上そのものに停滞の色が濃厚である。
 サングラスなどでは,価格の大幅上昇もあって売上高は増加傾向にあるのに対し,眼鏡レンズだけがこのような停滞状態にあるのは,国内市場における大企業の進出にそのおもな原因が求められる。さきにみた東京の眼鏡レンズの出荷額シェアーの拡大はこのことと関連している。東京には保谷硝子,日本光学など大企業が5社あるが,その上位1社で大阪産地全体を上回わる生産能力をもち,著名なブランド,大量宣伝と強力な販売ルートを背景として,中小零細企業の分野を蚕食してきたのである。
 その原料や製品の品質については,大阪の中小企業側からいわせれば,「変らない」ということであるが,たとえ東京の大企業が下請を利用して生産したものであっても,厳密な製品検査に裏付けられた品質の安定性が消費者の信頼と結びついていることは否定できない。そしてこのような動きは,眼鏡レンズからサングラスにも及びつつあり,ここでも中小零細企業のシェアー低下の傾向があらわれてきている。
 一方,輸入品は西独やフランス製の高級メガネわく,あるいはサングラスの進出が目立つが,眼鏡レンズではほとんど問題となっていない。むしろこれを迎えうつ大企業の企業行動が,結果として中小零細企業からなる大阪産地のシェァーを低下せしめるという面が注目されている。
 発展途上国製品との競合は,目下のところ輸出市場に限られ,品質の面からも,流通経路の面からも,当面国内市場での競合激化という事態にはならないであろう。しかし,韓国ではサングラス,台湾では金属わくやレンズのかなり有力なメーカーが成長しつつあり,保税加工制度,その他の政策的支援もあって,円高傾向に乗じて上陸する可能性を,業界としては注視している。一部では日本の資本がこれに関与していることも見逃しえない事実である。

4 眼鏡産業の歴史的展開

(1)明治維新以前の眼鏡の歴史
 わが国に眼鏡が渡来したのは,1530年代,後奈良天皇の時代に,天主教宣教師が大内義隆に眼鏡を献じたのが最初と伝えられており,現存する物では東照宮にある家康の遺品中に眼鏡2個が見出される。
 製法の渡来は製品の渡来におくれること約100年,1628年に長崎の浜田弥兵衛が南蛮人よりその製法を習得して友人に伝えたのが初であると伝えられる。この製法はその後長崎から大阪,京都,江戸へと伝わったが,しかし輸入品に圧迫されて製造するものは幕末まで数えるに足りなかった。当時わが国製造のレンズはおおむね水晶をもって作られ,ガラス製はオランダより輸入の「青板ガラス」を加工したものであった。
 眼鏡の製造が,科学技術にもとずいた産業として展開し始めるのは,明治維新以降である。

(2)眼鏡産業成立の背景
 明治6年,ウィーンで開かれた万国博覧会に渡航した朝倉松五郎が,眼鏡製造の技術学習を命ぜられ,翌7年,朝倉は眼鏡製造機械を携えて帰国した。
 当時,東京,大阪,長崎などの眼鏡製作は,手研磨であったから,1片(片眼)を仕上げるのに5~6日を要し,しかも度数の一定したものを製作するのが困難な状態であった。
 朝倉が持ち帰った機械は,52組分が1日1人で仕上げができ,しかもその度数が揃うという,品質と値段に格段の差があった。このように当時としては非常に進歩した技術ではあったが,朝倉が同9年,機械とその付属工具を政府より借用して工場を新築中に急死したため,この事業,技術は間もなく中絶したのである。
 一方,今日,眼鏡レンズの産地企業集団を形成している大阪生野区田島地区において,成立当初どのような事情にあったかをみてみよう。
 明治年間,現在の生野区田島町は,大阪府東成郡生野村字田島といわれ,摂津穀倉地帯の一翼をになう純農村であった。またこの地方は古くから河内木綿の産地として知られ,耕地面積のおよそ3分の1が綿作地であったといわれている。都市,大阪近郊において商品作物の栽培に従事する商業的農業の展開がすすんでいたのである。ところが,明治維新以降,外国からの輸入綿の圧迫から,明治20年前後を境として綿作はおもむろに衰微しはじあ,明治末期には,綿作は全くあとを絶つに至った。
 これよりさき,幕末のころ,同地の農家に石田多次郎なる人があった。幼年の頃,右脚の自由を失って農業に従事できなかったため,眼鏡製造の技術を習得して,この地で製造を始めた。安政4(1857)年のことで田島眼鏡の初めである。当時の技術は,鍋の底で1枚1枚手磨きするという,きわめて幼稚なものであったし,また眼鏡の需要もさほど大きくなかったため,明治10年前後になっても,業者数は2~3名を数えるにすぎなかった。
 その後,前述のように綿作が衰微するにつれて,田島地方にも相対的な過剰労働力ができ,また,貨幣収入を得るために,これら労働力を使用する必要にせまられるに至った。たまたま,この地に眼鏡製造場があり,需要もようやくでてきたため,技術を習得し,あるいは熟練者を雇用して製造を始めるものが多くなり,明治末年には著名なもの十数工場が数えられるに至った。しかし多くは自小作農が農閑期を利用しての副業にすぎず,大阪市内の問屋を販売先とし,著名なものといえども,同じく問屋の支配下にあって家内工業の域を出るものではなかった。当時の技術はいまだ幼稚であったから,高級品はほとんど輸入の欧州製品,ことにドイツ製品に圧倒されていたのである。
 資材の面よりこの当時の事情をみると,明治10年前後には,眼鏡製作に必要な金剛砂,ベンガラ,ピッチ,ラシャなどは国内産も用いられていたが,もっとも必要なガラスはすべて輸入の上等板ガラスに仰がねばならない状態にあった。しかしこれでは高価につくので,それら厚板ガラスの破損品を買集めて眼鏡レンズの素地としていた,というのが実状であった。明治21年に始めて眼鏡用板ガラスが輸入され,以後,眼鏡レンズはすべてこれをもって作られるようになった。国内で眼鏡用ガラス素地が本格的に作られるようになったのは大正時代に入ってからである。

(3)第1次世界大戦を契機とする発展
 第1次世界大戦の勃発によって欧州よりの眼鏡レンズ,同素地の輸入が杜絶したため,わが国の眼鏡レンズ工業は急速に発展し,技術的にも相当優秀な製品を生産しうるようになった。また,大正10年頃には田島町にレンズ素地を製造する3工場も設立された。
 加えて,大阪市の発達は徐々にその地域を東に拡大し,大正14年にはこの地も大阪市に編入され,農地の喪失から眼鏡レンズ製造専業者が増大した。昭和4年には,田島付近に,業者数百余戸,年産25万ダースを数え,インド,中国方面へも多少の輸出をみるに至った。
 大正末期から昭和初期にかけて電動機が導入され,従来の手磨は研磨機にかわり,生産力は急速に増大した。そしてこのような生産力の増大とともに,輸出市場への依存度も高くなり,昭和12~13年には,度付レンズの6~7割,サングラスの大半が中国,南洋,米国方面へ輸出されるようになった。
 こうして眼鏡レンズ工業は,戦前の最盛期をむかえたが,昭和16年頃から国際情勢が緊迫化するにつれ,眼鏡素地は次第に不足し,さらに太平洋戦争の勃発による良質素地の輸入杜絶は品不足を一層激しくした。当時,従来のドイツ製板素地に匹敵するようなガラスの生産を計画したところもあったが,諸種の制約によって実現するには至らなかった。しかし眼鏡レンズの需要はさほど減退せず,素地不足のため,ついに普通の厚板ガラスも使用された程であった。戦局の悪化とともに多くの従事者は出征し,また電力,生地の入手も困難となり,企業の閉鎖状態におちいるものが続出したが,企業整備も進展しないうちに,20年8月,終戦をむかえたのであった。
 一方,大阪府下において,生野区の田島地区とともに,眼鏡レンズ業者が地域企業集団を形成している岸和田市で,眼鏡レンズの製造を最初に始めたのは明治末期に朝倉レンズ(前記の東京,朝倉松五郎が死亡後,その子朝倉亀太郎が継続)において,技術を学んだ守田安太郎が岸和田市中町に住むようになってからである。守田のもとへ,岸和田市下松町の農家の子弟が5~6人習いにゆき,そのなかの1人である岩橋宗太郎が,大正10年頃,下松町に工場を立て,レンズの製造を始めた。この岩橋の工場は2-3年後,レンズの品質が劣っていたため,問屋からの返品がたまり倒産したが,大阪の眼鏡加工業の加井磯次郎商店が買取り,経営にのり出した。この工場には下松町の農家の子弟を含む20人位の職人が働いていたが,さきと同じような原因で昭和6年に倒産している。倒産後,職人は百姓に戻ったりするものもあったが,大阪や名古屋の眼鏡屋に職人として働きにいっていた。下松町の中野兄弟や西田某は,昭和10年頃下松町で再びレンズ製造を始め,こうして戦前,岸和田市下松地区で7工場がみられた。
 以上が戦前における大阪眼鏡レンズの地域集団の簡単な形成史である。明治期に農家副業としておこった田島地区の眼鏡レンズ製造業は,その後大阪市近郊の農村で零細経営化したものや,第1次大戦後急増した朝鮮人労働者等を安価な労働力として使用しながら,田島地区の都市化進展にともなって,都市的零細工業に展開したのである。これに対し,岸和田地区では,農家の子弟がレンズの製造技術を学んだのち,自宅の一角や納屋などを工場にし,家族ぐるみで工場を営みながら発展してきたといえる。

(4)第2次世界大戦後
 戦前における眼鏡レンズの生産は,昭和12年前後が最盛期で,大阪に170~180,東京に約40の度付業者があり,輸出は東アジア市場を独占して,12年には130万ダース,324万円にのぼっていた。
 戦後,大阪地区の度付業者はほとんど戦災をまぬがれ,設備も温存されていたが,戦時中,多くが企業閉鎖していたため,昭和22年頃までは戦前の生産の半ば程度にとどまっていた。国内需要は逐月増大していったけれども,外国市場は中国大陸の大市場を失ったため,23年になっても輸出はわずか4万ダースに足りない状態であった。また,輸入ガラス素地(レンズ用板ガラス)は,電力の統制もあって,24年頃まではもっぱら国内需要を満たすにとどまっていた。
 昭和25年に入って東南アジア,アフリカ,アメリカ方面よりの需要が伸びたことにより,メーカー数も旧に復し,以後年毎に輸出数量は増加して,27年,58万ダース,28年,86万ダースとなり,29年には140万ダースと戦前の最盛期を凌駕した。その後,輸出は順調に増加し,需要の増大によって新規参入の業者が増加した。このたあ,過当競争がおこり,輸出単価の下落や製品の品質低下という問題が生じた。他に有力な競争国の出現をみなかったが,東南アジア,アフリカ方面の需要は,その地域性から当然安物を要求し,取引が重なるにつれて買叩きが強くなり,「値に合わせて作る」という,品質の低下傾向がみられたのである。
 この事態に対し,業界では,昭和35年に日本輸出眼鏡類工業組合を設立し,37年より度付レンズの,38年よりサングラスの輸出数量制限を開始し,43年まで続けた。
 また,39年にはアメリカA.O.C社と日本の一時計メーカーとが合弁会社を設立し,大阪他4地区で二重焦点レンズの生産を行うようになった。昭和43年には大阪眼鏡レンズ業界で最初の共同工場が,大阪府と中小企業事業振興団の中小企業高度化事業の1つとして,東大阪市に建設され,協同組合日本眼鏡工業センターが入居,生産開始している。
 昭和40年代以降,現在にいたる需給状況,輸出の事情は,第3章にのべたとおりである。

5 眼鏡産業の技術進歩――大阪田島地区の眼鏡レンズ工業の経験

(1)第2次世界大戦前
 前述のように,明治6年ウイーンで開かれた博覧会に渡航した朝倉松五郎が,眼鏡製造の技術学習を命ぜられ,翌7年,眼鏡製造機械を携えて帰国したのが,海外移殖産業としてのわが国眼鏡産業の始まりであった。これよりさき,幕末の頃,大阪田島地区で石田多次郎が眼鏡レンズの製造を始めており,鍋の底で1枚1枚手磨きするという幼稚な技術に対して,その時,朝倉がもち帰った機械技術がどのように移転したかは,資料的には不明である。
第5表 全国めがね輸出額
 明治年間においては,田島地区はいまだ農村であり,自小作農が農閑期を利用しての副業として,手磨きによる家内工業生産が主流であったようである。
 大阪田島地区での眼鏡レンズ工業の本格的な展開は,国内で眼鏡用ガラス素地が作られるようになった大正年代に入ってからであり,第1次大戦の勃発とその時の電動機の普及によって,大正末期から昭和の初めにかけて手磨きから研磨機にかわり,技術的な発達がみられたのである。
 昭和30年に調査された『輸出中小工業実態調査』(大阪府立商工経済研究所)によると,昭和30年当時の技術・生産方式は,昭和10年当時に確立されていたとされており,これを要約してみると以下のとおりである。
 大阪田島地区における生産方法はC式研磨と呼ばれるもので,単位時間当り生産枚数のはなはだ多い生産方法である。機械は下(荒)磨機と仕上研磨機の2種類があるが,両者の区別はどのような研磨物(度皿)がつけられるかということと,型の大小の相違で,構造上の違いはない。下磨機4組,仕上研磨機6組が大体1人の持分である。
第6表 大阪府下めがね輸出額
作業工程は大体次のようである。
 まずポッペンあるいは板硝子よりレンズの大きさに円型のガラスを切り取る。ポッペンとはガラスを直径50~60センチの球に人口吹きしたもので専門メーカーがあり,板ガラスは主としてドイツから輸入する厚板ガラスである。1単位のガラス素地からいかに多く切り取るかが問題で,主人や家族があたる場合が多い。ガラスのうすい,すなわち度数の浅いレンズやサングラスは,回転式ガラス切りで簡単に切り取れるが,度数の深い,すなわち厚いガラスを要するものや,高級サングラスは,普通のガラス切りによって勘で切り取る。
 第2に,「のし」といわれる熱処理が行われる。これは板ガラスの場合はもちろんのこと,ポッペンにおいても所要のカーブが足りないため,必要なカーブをつけ,周囲を完全な円型にし,厚みを一定にするために行われる工程である。加工方法は切り取られたガラスをレンガ質のものの上にのせ,炉の中を通して軟化し,これを型物に入れてエアーで型押する。この熱処理過程は研磨工場にはなく,分業としてすべて外注される。
 第3に,「のし」されたレンズを,付木と称する台にとりつける「チヤン付」作業が行われる。付木とは下面が円型で上部が機械にとりつけるようになった木製品で,裏磨用の円型面は凹型に,表磨用は凸型になっている。この部分に洋チヤンと称する松脂,油,灰を炊き合わせた硬粘質物をとりつけレンズを貼付する。洋チヤンは10~15日の使用に耐え,レンズを炭火あるいは電熱器であぶって貼付ける。貼付け枚数は最低1枚から最高7枚までで,度の深いものほどカーブの関係から少ない。この作業はレンズの仕上りに大きく影響するため,貼付角度に注意が払われる。
 第4の工程は機械による下研磨,ついで第5の仕上研磨と続く。動力が使用されるのはこれらの部分だけで,1馬力から5馬力までの電動機が用いられる。馬力の大小は機械台数の相違によるものである。
 研磨はまず裏側が下研磨にかけられ,所要の度をつけ,ついで仕上研磨が行われる。下研磨から仕上研磨までおのおの同一の付木に一度貼付したままで行われる。機械に取り付けられた付木は,下の度皿とおのおの反対方向に回転する。度皿とは裏側下研磨の場合は山型に真中がつきでた(付木とは逆になった)所要カーブのついた円型の鋳物製品で,レンズとの間に金剛砂を入れて研磨する。機械2組をとおって下研磨を終る。機械2組について,4~5種の金剛砂が使用され,粒子は段々細くなる。
 仕上研磨はラシャが巻きつけられたラシャ皿を使用し,凹凸は下研磨と同様で研磨材には紅殻が使用される。縁当り,芯当り等3組の機械をとおる。
 こうして裏側の研磨が終ると,表側の研磨が同様に行われる。機械1組の加工時間は5~7枚磨の場合12~13分,裏側5組,表側5組をとおって結局2時間~2時間半で研磨は終るが,作業は順次流れているから12~13分毎に1組ずつ完成してくるわけである。肉体的にはあまり重労働ではないけれども,1人で貼付から裏表研磨の一連の作業を担当する場合が多く,かつ精度は人間の勘に頼る事が高いから精神的緊張の持続が必要である。1人前の熟練労働者になるには,男子で5年を要するといわれ,12~13日をもって100ダースをあげれば上の部とされている。
 ここで初めて検査が行われる。眼鏡レンズはその製品の性質上一点のくもり,あるかなしかのきずもその使用価値を失い,その商品価値は零に等しい。しかしながら,加工工程においては,レンズは塵埃,金剛砂,紅殻にまみれてこれらのきずは仲々発見しにくい。また,研磨工程における付木と土皿の間の圧力は各点とも一定であり,レンズの磨耗量も一定である。したがって同一付木につけられた各レンズの最初の厚みの差は,仕上研磨を終ってもそのまま残る。ポッペン素地は部分的に厚みが異なり,付木に貼付けの際これらの厚みの差はできるだけ排除されるが,それにもかかわらず,検査時における際の発見も少なくない。このような事情のため,検査の不合格は10~15%の多きに達し,腕と勘の加工方法に限界がある。検査は1枚ごとに目とレンズメーター,厚み計等が使用され,不合格品は手なおしされるか,廃棄される。ついで取引先の注文のある場合には縁磨り加工が外注されるが,多くは問屋,小売業者において加工され,輸出の場合も,度付レンズのほとんど,サングラスの高級品は縁磨りせずにレンズのみで輸出される。

(2)第2次世界大戦後
 以上にみた昭和10年前後に確立された生産方式は,戦後,部分的改良がなされたものの,腕と勘に多くを依存する方式が基本的には昭和30年代もそのまま引きつがれた。30年代の終り頃から40年代以降において,大阪の眼鏡レンズ製造技術に大きな進歩がみられたのである。
 まず,眼鏡レンズの原料面についてみよう。
 昭和40年代に入って,眼鏡レンズの原料としての板ガラスに代って,大手光学ガラスメーカーによってブランクが開発され,これの眼鏡レンズメーカーへの生産・供給体制が確立された。従来の板ガラス素地を「切取り」「のし(熱処理)」を行うという工程が全く不要となり,それがブランク・メーカーの自動生産に委ねられ,価格的にも有利,品質的にも保証されることとなった。しかし今なおレンズ生産の半ば近くは米国,欧州からの輸入に依存している。
 また,サングラスのレンズは,人口吹きの中空球型ガラス(ポッペン)を,高級品には輸入色板ガラスまたは研磨レンズを使用していたものが,40年代初期,国産色板ガラスが通産省,大阪府の補助と開銀融資によって開発され,JIS規格をはじめ,欧米の諸規格を充たすことができるようになり,ポッペンは一掃された。
 さらにガラスではなく,アクリル,アセチルを原料とし,これの表面に化学処理,あるいは被膜するプラスティックレンズが開発された。染色が容易であるという利点があるが,なお技術的に解決すべき点が少くなく,将来の成長が期待されている段階に止まっている。
 つぎに眼鏡レンズの生産工程についてみよう。原材料の革新等にともなって,生産工程はつぎのようになっている。
 ① ジェネレート(荒ずり)
 ② ブロッキング
 ③ スムージング(下研磨)
 ④ ポリシング(仕上研磨)
 ⑤ 仕上
 ⑥ 洗浄
 在来的低速研磨では,乱視レンズの場合は①→⑤の各工程,球面(遠・近視)レンズの場合は②→⑤の各工程を,それぞれ表と裏の両面について行う。この場合,6~8の研磨軸をもつ多数帖方式をとる。
 現在でも小零細業者では,ジェネレート工程におけるカーブ・ジェネレーターの導入以外は,部分的改良があるものの,基本的にはこの方法を採用し続けている。
 カーブ・ジェネレーターは,すでに昭和30年代初頭に自動化され,ジェネレート工程に要する時間が4分の1となったうえに,研磨の自動調整による熟練労働力の不要化と品質の向上,均一化に大きな威力を発揮した。
 これに対して,大手メーカーと一部の中小企業には,高速ないし中速研磨方式が導入されている。中小企業を対象とする高速研磨方式の開発・導入には,大阪府立工業奨励館の指導があり,昭和40年頃から実用化が始まった。この方式の特徴は,ブロッキングとジェネレートにおける砂かけ工程などが省略され,スムージングは7~15秒(低速方式では10分~40分),ポリシングは90~120秒(低速方式では1~4時間)となり,両面の同時加工が可能である。
 この方式が適用できない球面レンズの一部については,中速研磨方式が行われ,ブロッキングからポリシングまでの工程は片面加工され,その所要時間はスムージングで4~15分,ポリシングで30~40分となっている。
 ただし高速では1枚研磨,中速でも研磨軸は少いので,上記の工程の所要時間の差は割引して考慮されるべきである。
 そのほか,金剛砂,ラシャ,紅殻などを使用していた研磨剤にも,ダイヤモンド・ホイル,ダイヤモンド・ペレット,エア圧力,ポリウレタンなどが使用されるにいたっている。
 しかしこのような高・中速研磨方式は,少品種多量生産を前提とするので,小零細企業への導入は,強力な協業化が伴わない限りは困難である。
 したがって小零細企業では,低速研磨方式に部分的改良を加えながら,地域的集積の利を生かして,卸商を仲介として,あるいは包括的下請制を展開したり,さらにはジェネレートなど部分工程の外注によって工程を単純化するなど,独自のシステムをつくり上げることによって,これに対応している。
 サングラスのレンズの生産は,色板ガラスを切断し,これにカーブをつける工程がその中心となる。そのための設備は「のし機」であるが,この自動・連続化が,昭和39年,大阪府立工業奨励館によって開発され,40年代のはじめに至って,規模の大きい企業と,中小企業振興事業団法によって東大阪市に設立された日本眼鏡工業センター共同工場,あるいは西部眼鏡協同組合(大阪市生野区)の共同施設に導入された。
 在来的方法の10倍近い能率が上り,品質の均一化にもこたえられるが,これがまず小零細企業の共同化を背景として導入された点が注目される。

 戦後における大阪の眼鏡産業の技術進歩の過程において,公設技術試験研究機関は,業界に比較的密接に連携し,少なからぬ役割を果してきたといえる。
 色板ガラスの開発,高速研磨方式,「のし機」の自動連続化,FDA規格対策としての強化ガラスの開発などが,昭和30年代末期から,一部民間業者とも提携して進められ,さらに眼鏡レンズの自動検査装置の試作,射出成型眼鏡枠の着色法の開発や眼鏡レンズ自動はめ込機の試作なども昭和50年代に入って実現した。
 このような公設技術試験研究機関と業界との連携と努力にもかかわらず,業界全体の経営環境は悪化し,そのなかでも大阪の眼鏡産業の地盤沈下は著しい。
 それは業界の零細性,下請・外注制度,あるいは流通面からの支配などの構造的要因が,技術開発やファッション化の成果を自らのものとする過程での大きな障害になったことにもよるが,もっと基本的には,業者自らの研究開発への姿勢こそが問題とされなければならない。
 業界自体がデザイン開発,技術開発の機能とそのための情報機能を確立するために,個別的企業努力を重ねると同時に,これを組織化し,協同組合などが主体となってこの種機能の集約化,協業化が進められる必要があろう。規格統一,産地ブランドの創出の必要性はいうまでもないが,その前提にはこのような組織の確立がなされねばならない。
 公的技術試験研究機関の機能は,このような方向が推進される過程への様々な形での参加によって,はじめて真価を発揮し,同時に自らを方向づけることにもなるだろう。
 そしてその場合,下請・外注制度の見直しや適正規模化,あるいは組合組織の強化と業界の結束というような構造的な諸問題も,課題となるだろう。そこでは,技術系研究指導機関とともに,経営,経済部門の研究指導機関のこれと連動した協力も必要とされなければならない。