繊維産業

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綿業における技術移転と形態

著者名: 加藤孝三郎
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次

1 課題・・・・・・・・・・2

2 在来綿業と移植型綿糸紡績業・・・・・・・・・・5
(1)開国と在来綿業の対抗・・・・・・・・・・5
(2)ガラ紡と二千錘紡績・・・・・・・・・・10
(3)大阪紡績創業の歴史的意義・・・・・・・・・・21

3 原棉輸入と混棉技術・・・・・・・・・・33


1 課題

 本稿は,幕末・維新期から第2次世界大戦終了までにいたる,いわば「戦前日本資本主義」の形成・確立・崩壊というその全生涯を通じて,その基軸的な産業部門を構成した繊維産業のうち,特に綿糸紡績業を(もうひとつの製糸業と対比しながら)考察する。
 すでに,19世紀後半,世界史的には,「大不況期」に突入してゆく段階で,換言するならば,独占段階移行期に,初めて幕藩体制下の日本は開国を通じて,世界資本主義に組こまれてゆく点をまず確認しておく必要がある1)。さらに,幕藩体制下の農民的商品経済は,領主的商品経済と対抗関係を示しつつも「3分化」を示すまでに社会的分業が進んでいたことも看過できない2)。
 したがって,先進国イギリス資本主義(が,後進国たるアメリカ・ドイツと交替を余儀なくされる歴史的条件の中で)を中心とした欧米資本主義諸国のアジア市場への進出・侵略に対してアジアの諸国・諸民族はさまざまな対応・対抗を示さざるをえない。日本の場合には,“半植民地化”の危機にさらされながら3)まさに“万国対峙”あるいは“輸入防遏”をスローガンとして,これに対抗していかねばならなかったのである。本稿の主題に即してみるならば,「産業革命の祖国」イギリスにおくれることほぼ1世紀余,しかも1850年代の開国を通じて締結せざるをえなかった「不平等条約」の下では,先進国の技術に学びつつ,それを移植し,さらに定着させてゆく努力を試みるより他はなかったのである。たとえば,中国を例にとれば,アジアにおける「近代化」とは,経済的側面では,「金融的支配―従属過程として特徴」4)づけられるにもかかわらず,「イギリス綿布に抵抗する障壁は,自家消費の綿布を自己の家内工主業によって自給する中国の広汎な小農民経営が,イギリス綿布の講買力を形成しないという側面にあるのみならず,むしろ[・・・],一定の解体をなしつつある,同じこの広汎な小農民経営の単純商品生産による中国棉布が,狭隘[・・]な都市市場において,イギリス綿布の強力な競争者となるに至っていた(傍点まま―引用者)5)」のである。
 この指摘は,極めて重要である。単に戦前期以降の「マニュ論争」を振返るだけでなく6),少なくとも最近の研究動向に照らしてみても7),かかる問題意識は十分には,日本近代史研究者にはうけとめられていないと考えられる。中国と日本という,2国間の問題でなくて,同時に,かかる指摘と,日本に,あるいは,広くアジアのインドに,パキスタンに……というように発展途上国に対していかにすれば科学的に適用することが可能か,問題提起と要求が現実的あるいは具体的であるだけに,極めて難問なのではあるまいか8)。
 逆にいうならば,本稿で展開する“移植型”(ひいては,技術の“移転”)という問題設定が,何故可能であったのか,あるいは,いかなる歴史的条件の下で成立しえたのか,問われ続けなくてはなるまい。
 周知のように,「移植型」綿糸紡績業に対して,「在来型」製糸業という対比を試みる場合9),後者の製糸業についてみるとき,「在来型」とはいえ,幕藩体制の胎内で在来綿業と同じく,在来絹業としては「3分化」を示すまでに発展をとげてきた製糸技術に加えて,イタリア式,フランス式の洋式技術を吸収・折衷しえて始めてl0),さらには,あわせて養蚕・蚕種の技術改良にも努力し、“原料まゆ”を大きく国内の農業生産(まさに,そこでの中心が水稲単作という自然的かつ社会的制約をうけている点に留意)に依拠してきた点に注目すべきかと思う。
 これに対して,「移植型」綿糸紡績業とは,前述したように,在来綿業が幕末段階までに「3分化」をとげるような社会的分業をなしながら,明治政府による殖産興業政策の展開の中で,いわば意識的・政策的に,国内棉作を放棄してゆくのであって,これはいうまでもなく,精紡機輸入に対応しているものといってよい。
 もちろん,この場合も直線的に,いっきにそれをなしえたのではなくて,いわば2段階を通じて初めてそれをなしとげえたものと考えられよう。
 つまり,在来綿業が,畿内を中心に高い発展をとげていたにもかかわらず,技術的には新しい段階をきり開くものではなかったといってよい。換言するならば,国内棉作につづく,手紡→綿織という工程をとるとき,前者の手紡は農家の副業であり,後者の綿織物業は,大阪の商人層による問屋制支配の下におかれていたと考えられるからである。11)そして,前述した開国による「西欧先進諸国よりの機械制生産による優良綿製品の大量的輸入は,こうした手工的生産の基礎を根底よりくつがえし12)」たのである。いってみれば,かっての「マニュ論争」へ回帰するのではなくて,中国綿業が“単純商品生産”段階にあったが故に,中国市場では,欧米先進国よりの輸入商品との競争で国内市場でうちかちえたのであり,逆に,日本の在来棉業は,「3分化」を生み出すまでに発展をとげていたがゆえに,きびしい競争の下にさらされ,苦境に立たされたものといえよう。ただこの場合も,19世紀末における歴史的条件の中での日本をいかに位置づけるか,必ずしも容易ではない。
 たとえば,3始祖紡績の1つ,薩摩紡績の創立事情をみても,五代友厚,グラバー,モンブランなどの努力で,イギリス留学が実現し,その留学生に同行した視察員が,「蒸気軍鑑,大砲・小銃・貨幣製造機・紡績機械など13)」を買付けようとするわけであるが,これら留学生からは,紡績業に定着するような人物はあらわれていない。後述する,1880年前後にロンドン大学に留学していた山辺丈夫の行動様式とは,大きな懸隔があるように思われる。


1) さしあたり,毛利建三『自由貿易帝国主義』東大出版会1978年139ページ,田中正俊「西欧資本主義と旧中国社会の解体」(『近代中国経済史研究序説』東大出版会1973年)189-200ページ,中村哲『世界資本主義と明治維新』青木書店,1977年,76ページ以下。
2) 山田盛太郎『日本資本主義分析』(岩波文庫版)岩波書店,1977年34ページ以下。
3) 羽仁五郎「東洋における資本主義の形成」(岩波文庫版)岩波書店,1978年,21ページ。
4) 下武志「資本主義=植民地体制の形成とアジア」『講座中国近款代史』1,東大出版会,1978年,38ページ。
5) 前掲,田中正俊『中国近代経済史研究序説』189ページ。
6) たとえば,拙稿「近代研究解説―経済」(旧『岩波講座日本歴史』17)をみよ。
7) 国際歴史学会議日本国内委員会論『日本における歴史学の発達と現状』Ⅴ,(東大出版会,1979年刊)第2章日本第6節近代をみよ。
8) さしあたり,赤羽裕氏の遺稿集『低開発経済分析序説』(岩波書店,1971年)序(大塚久雄氏執筆)および,53ページ以下もみよ。
9) さしあたり,石塚祐道『日本資本主義成立史』(吉川弘文館,1973年),および水沼知一「明治後期における生糸輸出の動向」(『社会経済史学』第28巻第5号1967年12月)をもみよ。
10) たとえば,加藤宗一『日本製糸技術史』製糸技術史研究会1976年9月,104-110ページ,丹羽邦男「明治十年前後における長崎県製糸業の存在形態」(徳川林政史研究所『研究紀要』昭和50年3月)358―162ページ,『富岡製糸場誌』上・下 富岡市役所,1977も参照。
11) 名和統一『日本紡績業史的分析』潮流社 昭和24年,82ページ,楫西光速『技術発達史』河出書房,1948年,17ページ以下。
12) 前掲,楫西『技術発達史』21ページ。
13) 犬塚孝明『薩摩薄英国留学生』中央公論社,1974年10ページ,大橋周治『幕末明治製鉄史』アグネ,1975年,59―60ページ。

2 在来綿業と移植型綿糸紡績業

(1) 開国と在来綿業の対抗
 19世紀後半に,開国を余儀なくされた日本における在来綿業は在業絹業とともに前述のように,「3分化」を示すまでに,社会的分業を深めてはいたのである。
 だが,イギリス産業資本の確立過程において,換言するならば,19世紀中葉までに,世界の原棉消費量のおおよそ5割を独占していたイギリス綿工業は,当初圧倒的にヨーロッパに市場を見出していたが,その地域に綿工業が発達してくるや,アジアや中・南米といった後進的市場へ比重を移してゆく。たとえば,インドの農村構造に潰滅的打撃を与え,さらには中国には開港を迫り,ついには,日本の鎖国を打破してゆくのであり,いわばイギリス資本主義の膨脹性ともいわれるその尖兵こそは,ランカシャー綿業であった1)。ことに,1820年6月,自由貿易のためのイギリス下院宛請願を契機に,前月末に設立が決定されたばかりのマンチェスター商業会議所が,その準備委員会の最部の行動の一つとして,次のようなアジア,就中東インドと中国に対する貿易についての請願を議会宛提出したのは,このような歴史的状況の下で十分に注目されてよい2)。すなわち「喜望峰以東の諸国,なかんずく中国は地球上の富裕で,人口の多いこの部分とのわれわれの通商を制約しているものが取除かれるならば,わがマンチェスター地区の綿業にとって重要な市場となろう3)」。
 ともあれ,この間のイギリス綿製品の輸出市場の地域的分布をみたのが,第1表である。
第1表 イギリス綿製品輸出市場の地域的分布とその推移(1820-1880年)
 ここでは,第1に,ヨーロッパ市場の占める比率の顕著な低下(特に,それは綿布輸出に著しい)と,第2に,東インドや中国における比重の増大,を確認しておけばよい4)。
 さらに,これをアジアにおけるインド・中国・日本を例示に,綿糸布の輸入動向をみたのが,第2表である。綿糸輸入からみれば,ほぼ1830年代以降,輸入量が一定量維持されている5)。とくに,綿布輸入と綿糸輸入の性格の差,いわば後者の生産過程を通じての変革の意義については,とくに軽視することは許されまい6)。
第2表 綿布・綿糸の輸入量比較
 そして,同じく中村哲の推計によれば7),開港後綿製品輸入の中心は綿布であったものが,アメリカの南北戦争終結後,1865年から綿製品の大量輸入が始まり,在来綿業は,深刻な打撃をうけ,とくに商品生産の進んだ地域ほど,影響は深刻であった。明治期に入って,国内綿布生産の原糸が急速に在来の手紡糸から輸入の機械製紡績糸に転換し始めてゆくにつれ,在来の手紡生産のうけた打撃は大きかったといえよう。明治10年代に移ると国内綿糸需要の62.9%は輸入紡績糸で占められていた8)。そして先進機業地帯を中心とする綿布生産の増大が,綿糸市場の拡大を,ひいては綿糸生産を刺激し,後述するガラ紡発明の前提条件をつくり出していったものと考えられよう9)。
 このような社会的分業の展開を地域別に示したものが,第3表である。移入関係の第1グループに属する後進地域における綿製品移入,とくに綿布の比重の高さと,逆に移出関係の第3グループに属する先進地域における綿布移出の比重の高さが対照的であり,さらに,新潟・富山・福岡といった裏日本諸県(後に,水稲単作地帯を形成してゆく前2県)の繰綿輸入に示される,綿織物業の発展にも注目しておきたい10)。
 そして,このような日本における在来綿業の再編成あるいは衰退の中で,先進国からの技術移植の努力は全くなされなかったものかどうか,若干の検討を試みてみよう。
 ここでは近時,内外の研究者の注目を浴び,比較研究の進められている『米欧回覧実記』を手掛りとしたい11)。廃藩置県後の明治政権の新しい展開と対応して,明治4年12月横浜港を出発した岩倉具視らの1年10カ月にわたる米欧派遣の最大目的は,いうまでもなく「条約改正」の準備交渉にあり,かねて条約改正の前提条件たるべき先進資本主義諸国の文物・制度・産業の視察・導入にあった12)。この報告書では,「英国の工場は最も多く視察したところであって,且つ最も詳細を極め13)」たのも当然であった。マンチェスター,ブラドフォード,ハリファックスなど,広くランカシャーからヨークシャーにわたる綿織物業地帯ないしは毛織物業地帯における諸工場見学をパークスの案内で試みている点に留意しておきたい14)。もちろん,隔絶した日英両国の間に生産力格差は現存していたと思われるが,われわれの関心のおもむくところ,精紡機を初めとする紡績機械の記述や評価には,必ずしも恵まれていないのである。
第3表 明治10年代前半の国内綿関係市場
ただ,ここでは,1870年初頭の時点で,はるばる先進資本主義国の典型たるイギリス,それも「大不況期」に突入しつつあるランカシャー綿工業の実態に触発され,それが,岩倉を始めとして大久保利道・木戸孝充・伊藤博文らを中心に,帰国後のいわゆる「殖産興業政策」の構想・施行に資したことは疑いをいれない。むしろこの点に,中国・インドといった他のアジア諸国との差違を銘記しておくべきであろう。


1) 毛利健三『自由貿易帝国主義』東大出版会,1978年,129ページ。
2) 前掲,田中正俊『近代中国経済史研究序説』106ページ。
3) A・Redford・Manchester Merchants and Foreign Trade 1794-1858。
 Manchester,1934,PP.69-70,113-114,前掲,田中『近代中国経済史研究序説』106ページ,より再引。
4) 前掲,田中『近代中国経済史研究』108ページ。
5) 中村哲「世界資本主義と日本綿業の変革」(河野健二・飯沼二郎編『世界資本主義の形成』岩波書店,1967年),418ページ。
6) 同上書,419ページ,注1)を参照。
7) 同上書,406ページ以下。
8) 同上書,409ページ。
9) 高村直助『日本紡績業史序設上』塙書房,1971年17ページ以下,揖西光連編著,『繊維上』交詢社出版局1964年43-46ページ。
10) 前掲,中村「世界資本主義と日本綿業の変革」435-37ページ。
11) たとえば,大久保利謙編『岩倉使節の研究』宗高書房,1967年,および田中彰,『岩倉使節団』講談社,1977年を参照。
12) 土屋喬雄「岩倉大使一行欧米巡回の維新経済史上の意義」(同『明治前期経済史研究』第一巻,日本評論社,1944年)5ページ。
13) 同上書,9ページ。
14) 久米邦武編『米欧回覧実記』(二)(岩波書店,1978年)151ページ以下。

(2) ガラ紡と二千錘紡績
 ところで,前述した薩摩藩留学生と同行した五代友厚らの努力で,鹿児島紡績所ならびに堺紡績所の成立をみることとなる。これがいわゆる「3始祖紡績」の創始であるが,その背景には,前述した大久保利通らの明治政府による殖産興業政策より早く,幕末期における薩摩藩主島津斉彬・久光・忠義らの独自な殖産興業政策の展開があったというべきであろう。1867年5月に竣工した鹿児島磯の浜における紡績工場は,ランカシャー綿工業の展開の基礎ともなった,機械メーカー,プラット社の設計で,その輸入機械は,スロッスル6台(1,848錘),ミュール3台(1,800錘)計3,648錘の精紡機を中心として,力織機百台も含まれていたという1)。
 ここで,われわれは,第1に当時の最高水準をゆく紡績技術を体現する精紡機を直接に輸入したことと,これらの機械の据付・運転の技術は,同じくプラット社の派遣技師E・ホームを中心に,イギリス人技師の指導を仰いだ点に着目しておきたい2)。もちろん,幕末維新期の政情や生活慣習の相違も加わって,「ある程度の品質の糸が製出され始めた段階で,もう鹿児島紡績所を見放し,熟練工や技術者の養成に手を伸ばすことがなかった。技術教育はなされなかったといってよい3)」,といわれるが,中国における清末の「工場制」工業の導入もまた,かならずしも円滑には行われていなかったといってよい4)。
 第2に,これと関連する労働力については鹿児島紡績所の創立に先立つこと10年余,近くの水車館で働いていた男子職工約40名を移したという5)。しかも,後述する技術者派遣や技術伝習の視点を考慮するとすれば,「始祖紡績」の歴史的役割を確認できよう6)。むしろ労働力として,水車動力による水準から蒸気力による水準への技術的対応も考慮できるのではあるまいか。
 第3は,この鹿児島紡績所の創設にも関係しながら,ほぼ1年間で帰国してしまった,前述のE・ホームらの後をうけ,さらには堺紡績所の創設を実現させた石河正重の歴史的役割を看過してはなるまい。文久三年(1863)と慶応四年(1868)の再度の建白書も示すように7),なみなみならぬ先見的知識をもって,本邦綿糸紡績業の移植・育成に努力していったのである8)。
 以上,いわゆる「始祖紡績」の歴史的役割に注目しつつ,その延長線上に「2千錘紡績」の移植・展開が考えうるかと思われるのであるが,それはさておきひとまず在来綿業の展開の頂点にたった存在ともいうべき「ガラ紡」に眼を転じてみよう。
 さて,「ガラ紡」とは,いうまでもなく「臥雲式紡績機械」をさすが,すでに,鋭く指摘されているように,明治維新政府の近代産業育成政策による洋式紡績機械の強力的な移植ないしはその圧倒的な〓透・展開の過程と対応していたものと考えられる9)。明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会では「本会中第1の好発明」といわれ,そこで出品「機械」がイギリスにおけるハーグリーブスのジェニー精紡機,あるいはまた,アークライトのスピニング機を模倣したが実用化に至らないものが多い中で,独り臥雲紡績機のみ,その独自性を発揮した,とされるのが通説である10)。だが,この臥雲辰致の発明にかかわる「ガラ紡」が手紡生産の最高水準(手紡に比べれば,4倍の効率を示す)にあることを前提とし,かつはっきりと確認した上でつぎの諸点に止目しておきたい。
 第1は,繰返し指摘しておけば,1880年以降の機械制綿糸紡績業の展開過程において,「糸質善良にして細太較や均一を呈し光沢繊状等特に見るべきものありて,殆んど洋式製にしてその劣等に位するものに優るものあるを見る11)」点はまず確認されてしかるべきであろう。つまり「ガラ紡に対する洋式紡績の絶対優位」12)論が前提にあるにせよ,この指摘は重要である。
 第2は,にもかかわらず,そして,ジェニー精紡機あるいはウォーター・フレーム,ひいてはミュール精紡機と,あたかも第2者を止揚するような形で,ミュール精紡機が創成されてゆく過程と対比して,これと前述の臥雲辰致の発明との(ほぼ100年という)時間的差も考慮しつつも,逆に臥雲自身の「我敢テ洋式ヲ学ブヲ好マズ,自家ノ意匠ヲ用ヒテ足レリ13)」とする点,についての通説的理解に対して,大きな修正が必要なのではないかと考える。
第1図 ガラ紡の構造
第4表 模範工場の営業状況
 というのは,後に大阪紡績の展開過程でもふれたい点なのであるが,具体的に指摘すれば,約1世紀の時間的ズレをふまえつつも,臥雲の発明した「ガラ紡」は,具体的にアークライトの梳毛機(ランタン・フレームともいう14))に極めて類似していることと,さらにもうひとつ。(ウォーター・フレームの改良型=)スロッスル精紡機―リング精紡機という原理と,ジェニー精紡機(〓ウォーター・フレーム)―ミュール精紡機という原理は異質な側面をもつからである。いうまでもなく,後者のミュール精紡機は,その言葉が示すように,“相の子”であって,前者の「連続的な」「伸捧方式」をも原理的に包含するのであるが,「断続的な」原理をも包含するミュール精紡機から「連続的な」原理のみのリング精紡機への転換は,一面では大きな転換なのである。
 それゆえ,第3に,つぎの指摘は,単に首肯できるのみならず,極めて重要だと考えられる。すなわち「即チ臥雲ハ糸巻ヲ固定シ,紡錘具タル綿筒ハ上下ニ游動ヲ可能ナラシメ……コノ紡巻ガ『ボビン』ニ当リ,綿簡ハ一種ノ『フライヤー』ニ当ルモノトスレバ,『游動フライヤー』ト『固定ボビン』トノ相対関係ヲ基調トスル,『リング』紡績機(ああくらいと・1775年)ノ原理ト同一デアル15)」と。
第5表 十基紡績の営業状況
 このような指摘をふまえて改めて考え直してくると,原型は,木製の「ガラ紡」は,イギリス産業革命の展開と1世紀の時間差をもちつつも,「連続的な」「伸捧方式」という原理を採用している点では,画期的であったとみるべきであろう。のちに,三河地方を中心に,中小企業の形態をとりつつ戦後に至るまで残存しつづけた点は除くとしても,その歴史的意義は高く評価し直すべきなのではあるまいか。加えて,かかる在来綿業(手紡)の発展の上に,「3分化」という社会的分業の深化をふまえつつ,「リング精紡機」の原初形態ともいうべきものが出現しえた点で,少なくとも中国・印度との内的発展の質的相違の証左とみなしては誤りであろうか。
 さて,前述の明治10年(1877)5月東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会にも具現されているように,明治6年末に設置をみた内務省を中心とする明治初期の殖産興業政策は,明治10年代に入るや,漸次その性格を直接保護的なものから間接保護的なものへ転じていったといわれる。すでに,明治8年(1875),欧米視察より帰国した大久保内務卿の下,勧業頭を兼任した松方正義大蔵大輔は,東邦綿糸紡績業育成のため,つぎのような3段階の方針を実現していったのである16)。
 第1段階 官立模範工場設置
 第2段階 十基紡機の年賦払下げ
第6表 紡機払下紡績の営業状況
 第3段階 輸入紡機代金の立替払い
 それぞれについて概述すれば,官立模範工場設置は,その立地条件のひとつに棉産地を含み,愛知県岡崎市付近に愛知紡績所,広島県安芸郡に広島紡績所が設置され,それぞれイギリスのマンチェスターより購入した2千錘規模の精紡機で水力を原動力としたのである。その営業概況は第4表に示す通りであるが,「官営模範紡績所」として愛知紡績所の生産性の高さに着目しておきたい。この点は,広島紡績所が,明治15年(1882)6月,工場未完成のまゝ広島綿糸紡績会社へ払い下げられたのと対照的である17)。
 第2段階たる十基紡機の払下げは,明治12年(1879),政府財政の起業基金22万9千450円により,無利息10カ年賦で第5表のように払下げられている(うち,佐賀物産会社は都合で玉島紡績へ売却された18)。
 いわゆる「十基紡」も模範工場と同様に,棉作地に,しかも多くは水力を原動力として創設されている。さらに,前述した石河正重の苦心の産地撰択の上にでき上った点も看過すべきではあるまい。
 第3段階の「紡機払下げ」工場も第6表に示す通りであるが,生産性などについてみても,模範工場に比してはるかに高いといえよう。しかも共通していえることは,1880年代のデフレーションの動向の中で,必ずしも収支状況は安定性を示していないといえよう(第7表)。
 たとえば,のちに後述する大阪紡績とともに明治期における代表的な紡績企業とみなされる三重紡績にしても,源流を尋ねれば,いわゆる「十基紡」に包括される三重紡績所につながるのであるが,その三重紡績所とても,度重なる機械代金の納付を延期せざるをえなかったのであって,その間の事情はつぎのようであった。
 すなわち,6回にもわたる「機械代金延納願」19)を提出していた三重紡績所は,第一国立銀行頭取渋沢栄一の援助を背景に,同行四日市支店長八巻道成と三重県の大地主九鬼紋七,さらに,紡績所関係者としての譲造業者伊藤伝七とが創立委員となって,明治19年(1886)7月,あらたに資本金22万円で三重紡績株式会社を創立し,四日市近郊川嶋の旧三重紡績所を買収し,付属工場として再発足してゆくのである20)。資料の語るところによれば,
 四日市港ハ勢州ノ咽喉ニシテ……運輸日ニ開ケ商業随テ進ミ全国屈指ノ
貿易地タル……綿糸紡績ノ如キハ棉花ノ購用大ニ便利ニシテ其販路モ亦多ク接壌ノ地方ニ係リ加之方今紡績糸ノ需用漸次巨数ニ至ル以テ一タビ起ルニ至ッテハ本港ノ商情一層殷盛ニ赴クベキコト期シテ望ムベキナリ本県三重郡川島村ニ設在スル紡績所ハ二三有志ノ合本私立ニシテ紡錘二千本ヲ装置シ明治十三年ヨリ紡糸ニ従事シ目下得失相償フト錐モ将来同業者ノ四方ニ覚立スルノ時ニ至ッテハ此一小工場ヲ以テ能ク衡ヲ争フベカラズ如カズ
より作製,原資料は『明治18年岡山県勧業年報』。
今日ニ在テ大ニ其規模ヲ拡張スルノ計無ルベカラズト是ニ於テ同所主幹伊藤伝七氏出京シテ之ヲ渋沢氏ニ謀リ方法ヲ審案シ計算ヲ確査シ則合本ヲ以テ一会社ヲ組織シ工場本部ヲ本港ニ開設シ川嶋紡績所ヲ以テ之ガ支部トナシ本支相合セテ紡錘一万二,三千本,工業ヲ起スベキ計画ヲ21)」
たててゆくのである。
第7表 2千錘紡績の収支状況(明治15-21年)
 ただ,ここでは,三重紡が後述する大阪紡と同じく,経営規模1万錘を計画予想としてもっていた点は,後進国的条件の下にあり乍ら,1890年代に急速かに展開をとげる本邦紡績業の先頭にたつ姿を暗示していよう22)。


1) 絹川太一『本邦綿糸紡績史』第1巻(日本綿業倶楽部,1937年)38ページ。
2) また,詳しくは,三枝博音・野崎茂・佐々木峻『近代日本産業技術の西欧化』(東洋経済新報社,1960年)136ページ,148-49ページ。
3) 前掲,三枝他『近代日本産業技術の西欧化』136ページ。
4) 北村敬直「辛亥革命と産業構造」(桑原武夫編『ブルジョワ革命の比較研究』筑摩書房,1964年)249-57ページ。
5) 前掲,絹川太一『本邦綿糸紡績史』第1巻48ページ。
6) 前掲,三枝他『近代日本産業技術の西欧化』136ページにおける「したがって鹿児島紡績所は,記録の上でこそ日本機械紡績工場の濫觴であるとはいえ,真の意味での日本紡績業の源流とはならなかった」とするのは一考を要するのではあるまいか。
7) 前掲,絹川『本邦綿糸紡績史』第1巻,146-48ページおよび150-59ページ,日本科学史学会編『日本科学技術史大系』18(第一法規出版㈱,1966年,127-29ページもみよ。なお,三枝博音「石河正重」(『三枝博音著作集』第9巻,中央公論社1972年)410-16ページも参照。
8) 前掲,絹川,第1巻,120,166,ページ,および岡本幸雄「薩摩藩紡績所の技術者・職工」(秀村選三編『薩摩藩の構造と展開』西日本文化協会,1976年)562ページ以下。
9) 相川春喜「日本型『産業革命』の技術的基礎」(大江志力夫編『日本の産業革命,(歴史科学大系10)校倉書房,1977)64ページ。
10) 楫西光速『技術発達史』(日本資本主義研究講座47)河出書房,1948年22ページ。
11) 新日本紡績協同組合『日本紡績史の中におけるガラ紡績史とその歴史的役割』(第2号,1978年)20ページより再引。
12) 同上書,21ページ。
13) 前掲,楫西『技術発達史』23ページ。
14) さしあたり,R. Gilbert,Textile Machinery.(H.M.S.O.London,1971)P.P.5-6,なお,通常臥雲の「ガラ紡」は,「僅かにポールの梳綿機に比せられ」(前掲,楫西光速『技術研究史』23ページ)ている。
15) 前掲,相川「日本型『産業革命』の技術的基礎」112ページ。なお,正確には,リング精紡機は,1829年にアメリカで発明されたとするべきであろう(H.Calting,The Spinning Mule,David & Charles,1970)p.p.183-184。
16) 絹川太一『本邦綿絲紡績史』第2巻11-12ページ。
17) 楫西光速『近代綿業の成立』(角川書店,1950)55ページ。
18 )同上書,170-74ページ。
19) 絹川太一『伊藤伝七翁』(伊藤伝七翁伝記編纂会,1936年)90ページ以下。
20) 同上書,141ページ。
21) 三重紡績会社『第壱回半季実際考課帖』1-2丁。
22) 最近,国際比較を試みた米川伸一「紡績業における企業成長の国際比較」(『経済研究』第29巻第4号,1978年10月)299ページ参照。

(3) 大阪紡績創業の歴史的意義
いわゆる2千錘=「十基紡」の経営不振や行詰りの中で,1880年代初頭に大阪紡績が,資本金25万円で創立・発足してゆくこととなる。
 全国的な綿糸紡績業の概況(第8,9表),ならびに,大阪紡を含む主要紡績会社の動向(第10表)は別掲のとおりであるが,以下では,本稿の課題に極力限定しつつ論点を検討することとしたい。
 第1に,「2千錘」紡績が経営不振であったとはいえ,創業期の大阪紡にとって労働者の技能教育,換言すれば「技術伝習」という点では,「2千錘」紡績に大きく依存せざるをえなかったことは是非留意しておきたい。
 そもそも,“萬国対峙”,“輸入防遏”のスローガンの下で,先進資本主義と対抗して機械制綿糸紡績業の移植・育成をはかる為に“3始祖紡積”について,前項のような,殖産興業政策を進めようとしたわけであって,工部省赤物工作分局における“2千錘”紡機10基製造の計画も,そのあらわれと考えられよう。しかし乍ら,その結果は,わずかに“1基”を1883年に試作したに止まり,日本の場合「まったく1基の作業機の自給もない産業革命1)」だったのである。
 そして,いわばかかる「輸入紡機依存体制」と関連し合って,輸入精紡機ならびに紡績技術の知識とその習熟をいかに拡充してゆくかが問題とならざるをえない。このために,「巡回教師」(技術者の派遣)ならびに巡回が急速にすゝめられてゆくのである。さらに,付言しておきたい点は,工部大学校(東京大学工科大学→東京帝国大学工学部)の機械科卒業者が,1880年代末葉の「企業勃興」の気運の中で,新しく民間紡績業の展開のために,技術的指導を積極的にすゝめていったである3)。
 たとえば,「2千錘」紡についてみれば,前述した「官営模範紡績所」=(工場)について,「栃木,山梨,静岡,愛知,三重、大阪の各府県」4)の各起業者より「紡績伝習生」が托されたものの,「機械工手に伴い機械研磨,据付手順,運転作業等につき多くは手真似,見真似に一亘り習得したものでありますが,英国に於て紡績機械発明後すでに一世紀間の歳月を経て其間に研練されたる操業技術などは未だ我邦に伝授されなかったことは慥なことに思われます。責めてこの機会にあたり模範工場に技能熱達の英人技術者を招き合理的な作業を指導啓発せしめば其効果同日の比にあらざりしものと痛感され5)」たというのが真実であろう。
第8表 綿糸紡績業の概況
 この点については,創業期大阪紡績の場合も余り差違はなかったのではあるまいか。当時の大阪紡の中心的な技術者であった岡村勝正翁の口述筆記によれば,「明治14年5月私は大阪紡績会社創立委員長渋沢栄一氏に初めて面謁し……佐々木豊吉,大川英太郎,門田顕敏三君と同時に社員に採用(され)……同年7月に参州岡崎町(現在の愛知県岡崎市)の付近額田郡大平村に在った工部省官設の模範紡績工場に我国最初の紡機大修繕組立が行はれ……之が見習として前記4名のものが出張を命ぜられ,同月14日山辺丈夫氏附添新橋を出発6)」……し,9月まで同工場,ついで大阪府下茨木市付近にあった桑原紡績所の大掃除組立替の見学,翌15年7月には岡山県玉島紡績の大掃除があり,それにも組立運転の見学をこころみているのである7)。そして,同年11月に大阪紡績三軒屋工場が落成,こえて翌16年1月に,イギリス・プラット社の組立技師ニールドが来朝するのであるが,彼は「単能工的技師で,紡機以外の機械やまた混綿8)については全く技術的に素人であったという。
第9表 明治20年代の綿糸の需給関係
 むしろ,この点で,「2千錘」紡績と同一の技術水準にある「ミュール精紡機」の輸入依存にたよらざるをえない歴史的条件の下で,山辺丈夫の行動様式に是非着目しておきたい。という意味は,山辺丈夫が,19世紀末葉の時点で,はるばる極東の一隅日本から大英帝国のロンドン大学(あたかも後進国ないしは植民地における留学生が,先進国ヨーロッパまたは本国イギリスである点に類似して)に留学したという絶対的な好条件を利用して,まず,キングス・カレッジに転じて,機械工学を修め当時の最高水準ともいえる,「産業革命の祖国9)」
イギリスでの技術習得の機会を十二分に利用しえたからである10)。もちろん,当時のイギリスの対日感情の問題も存在しえたであろうが,再三の努力がみのってランカシャー・ブラックバーンのW・E・ブリグス氏所有のローズヒル工場で技術習得の機会をえ,さらに,オールダムのプラット社での機械購入も可能となってゆくのである11)。
第10表 主要紡績会社の動向
いってみれば,同じ関連資料が物語っているように,山辺丈夫の技術修得を実現してくれたW.E.Briygs,は若き日,極東を訪れ,就中日本に立寄っていることも見落すことはできない。
 第2に,この点とも関連して,前述したブラックバーンのローズヒル工場に似て,創業期の大阪紡績は4層の建物であった。12)従来の研究では,工場を中心とした建物についての比較研究は殆んどないと思われるが,現在にいたるまでの本邦綿糸紡績業の工場様式は,多くは一層であるだけに今後の課題であろうか13)。
 さらに,この点は,最近の比較経済史学における一論点たる「作業物賃貸借制」の問題とも関連してこよう14)。大阪紡績の場合に限れば,当初の三軒屋工場建築用地は官有地であったが15),工場建物の建設や・機械の据付は明らかに,自己資金でまかなっており,賃貸借はしていない16)。さらに当初1万500錘という経営規模で出発した大阪紡が,1880年代では,イギリスの植民地たるインド(ボンベイ)における大紡績業の経営規模を下廻りながらも17),後発型としては,著しい発展をとげてゆくのであって,インドにおけるいわゆる「経営代行制度18)」の存在とも関連して,前述のように山辺丈夫らに代表される本邦綿糸紡績業の創始における紡績業経営での行動様式の対比・検討が今後とも要請されよう。
 かくて,第3に,創業を始めてすぐ,具体的には,明治16年7月初めから一部操業を開始した大阪紡は,早くもその8月から昼夜業を採用してゆくのであるが19),併せて,「2千錘」紡とは違った意味で,労働力給源に恵まれていた点も20),大阪紡の経営をますます名実させていったものといえよう。
 むしろ,ここでは,先進国イギリスにおけるミュール紡績工程における間接的雇用形態の存在が明確であるのに21),後進国日本では,直接的雇用形態が一般的であった点に注意しておきたい。もちろん,日本でも「請負賃金」は存在したが,「大抵請負賃金ナルモノハ練篠部三紡部綛部及び綛締部等ノ如キ仕事ノ区劃ヲ為スヲ得テ一人ノ出来高ノ明瞭ナル部属ニ於テ其単位ヲ定メテ以テ彼等ニ請負ハシメ其仕事ノ出来高ニ応ジテ賃金ヲ支給スル22)」ものであったという。つまり,「日給賃金」なり「請負賃金」という支払形態上の相違はあっても,雇用形態の差違を示すものではなかったといえよう。
 最後に,第11表にみられるような,移植型綿糸紡績業における製品綿糸の利点(さしあたりガラ紡綿糸に対する)を前提に,大阪紡績創業の歴史的意義を小括しておく必要があろう。すなわち,両者を比較すれば,「製造ノ精粗ヲ問ハズ,洋式紡糸ハ総テ臥雲紡糸ヨリ精強ニシテ其間著シキ階級ナルヲ見受23)」けたという。その理由としては,「1. 洋式紡糸の臥雲紡糸に優れる所以のものは,第一綿毛梳整を受け繊維能く整理するに因る,第二紡式真理に合ひ伸撚の方法完整なるに因る。
1. 臥雲紡糸の洋式紡糸に劣れる所以のものは,第一綿毛梳整を受けず繊維能く整理せざるに因る,第二紡式真理に反し伸撚の方法完整ならざるに因る24)」といわれている。
第11表 内外綿糸比較
 第11表はそれを示してあまりあるといえるが,さらに「故に夫れ彼我綿糸の優劣を比較すれば,彼は糸質佳にして毛茨少く強力大にして撚に不同なし之を縞織に用ゆれば縞柄を鮮明にするの能あり而して我は糸線に不同あり毛茨糸面に簇がり強力小にして撚斎からず之を無地織に用ひて織目を填実するの効ありと雖も未だ以て綺麗なる織物用に供するに足らず然るに我綿糸の長ずる所は染色吸収の宜しきと肌膚に温暖の感を与ふると毛茨糸面を覆ふが為めに能く久しく摩擦に耐ゆるの三徳あり25)」といわれている。この点は,国内の洋式紡績糸一般と臥雲式紡績糸についてもあてはまる面が少なくないであろう。かくて,大阪紡績に代表される機械制綿糸が生産性の高さにもとずくコスト低下を通じて,手紡糸ならびにガラ紡糸を駆逐してゆく役割を当然に担っていたものといえよう。すなわち「福島地方ニハ従来巨額ノ洋糸向キタリシガ紡績糸起リテ三軒屋(大阪紡績のこと―引用者注)王子(鹿島紡のこと―引用者注)及各所ノ製品共夥シク之ニ向ケリ(中略)洋糸ハ元来皆忌ミ嫌ヘトモ価ノ低廉ナルコトヲ得タルカ為メ洋糸ハ福島地方ニ全ク其跡ヲ絶チ(中略)手引糸ノ需用モ漸々其区域ヲ縮メ打綿営業ノ如キハ全ク閑隙ニシテ追々転業ヲ企ツルモノアルニ至レリ26)」(鹿島紡,鹿島卯之))という指摘はよくこれを示している。
 したがってここから「太平(模範工場の代表であった愛知紡績所のこと―引用者注)は,到底模範工場と為すことを得可からず,且官設のものは必ず官衙の法規に従はざるを得ざるもの故,我会社(大阪紡績会社のこと―引用者注)の工場等に比較するときは人員も多く随って冗費も少からず,只僅かに斯く為せば斯の如き棉花が糸に変形するものなりと言へる所を示すに止まるのみ27)」(大阪紡績,門田顕敏)と,痛烈なしかも自信にみちた政府の殖産興業政策への批判が生れてくるのである。
第12表 番手別生産量の推移
とすれば,いわゆる2千錘紡績が,かかる模範工場に範をたれたものであっただけに,近代的綿糸紡績業の今後の方針をどこに求むべきであろうか。いわば,私立にして独立独歩,本邦唯一の大紡績たる大阪紡績の見解は,次のごときものであった。
 第1ニハ,初メ工場ノ建設ヲ計画スルニ当ッテ最モ着目ヲ要ス可キ興業費ノ利子ヲ初メ,一般ニ係ル失費ノ算ヲ精ウセズシテ専ラ計ヲ収利ニ立テ,且只管ノ保護恩典ヲ仰ギ事業ノ計画ヨリ万般ノ事ヲ挙ゲテ皆之ヲ他人ニ委シ,己自ラ刻苦勉励其任ニ当ラザリシナラン,又其建設地ノ選定ニ当リテハ偏ニ己ガ郷里ノ近傍ニ之ヲ置カン事ヲ欲シ,他方ニ出デテハ決シテ建設ニ念慮ナク,其精神ハ宛モ彼ノ封建時代ニ在テ一国各其国ノ経済ヲ図ラント同一轍ニシテ意ヲ其他ノ便否ニ注グ事浅カリキ。実ニ位地ノ如何ハ運送ノ便否ニ関スルモノニシテ,運送ノ便否ハ本業盛衰ノ一原因ト云フテモ不可ナル事ナカラン。又製糸ノ販路ヲ遠キニ輪スモ其材料ノ綿絮ヲ近ニ求ムルノ適地ヲトセザルベカラズ,試ミニ製糸ノ運送ト原棉ノ運送トヲ比シテ考フベシ。原棉ニハ落棉或ハ屑棉トモナル可キモノ自ラ其中ニ含入レテ均シク運賃ヲ費ス事ナレバ,之ヲ遠キニ求ムレバ贅費愈々嵩ムノ理ニアラズヤ。
第13表 各紡績所製糸番号
第14表 各地需要製糸番号(明治18年)
第15表 洋式紡績糸の販売先(明17,18,19年)
 第二ニハ,各工場ノ状態ヲ見ルニ概ネ官府然トシテ,(中略)殆ド工場ノ分ニ過ギ経済上実ニ不利ナルモノノ如シ。社長ハ其地ノ金満家ニシテ名望アル可キ人ヲ選任シテ可ナルモ,其工場ニ接シテ業務ノ全局ヲ管理スルモノニ在テハ(中略)決シテ一時間ヲモ椅子ニ憑ル事ヲ得ベキモノニアラザルナリ(中略)
 第三ニハ,工場ノ割合ニ比シ雇員多シ。
 第四ニハ,職工ノ数割合ニ多ク,五十人ニテ可ナルモ百人ヲ用フ。
 第五,各所『ミュール』ノ回転数ハ頗ル遅ク,西洋ハ一分時間ニ其数五回ナルモ我ハ二回ナリ,稍三回トナレバ職工其労働ニ堪フル事能ハズト云フ。西洋ハ五回ノ運転ヲ為スニ我ハ三回ヲモ為ス事能ハザルハ抑モ怪シムベキ事ト云フベシ。是レ強チ彼ノ職工ハ強健ニシテ我職工ハ恃弱ナリト云フニモアラズ,唯管理者ノ職工ヲ指揮スルノ技能ニ乏シキト夫ノ回転ヲナサシムルノ方法ヲ知ラザルトニ職由セン(中略)『ミュール』ノ回転ヲ二回ニ進メシメバ凡ソ製糸百目ニ付一銭五厘位ノ工費ニテ之ヲ製スル事ヲ得ルニ至ルベシ。
 第六,西洋簿記ノ採用ハ肝要ナリ(中略)我大阪紡績会社ニ於テハ一人担任専務者アレドモ,2千錘ノ工場ノ如キハ1工場ニ1人宛之ヲ置ク或ハ其分ニ過ギテ贅ナラン28)」……
そうして,1880年後半のデフレ期,ひいては,「企業勃興」期を迎えてゆく中での各紡績所の製糸状況,その需要ならびに販売状況,を示したものが,次の4表である。


1) 山崎俊雄『技術史』(日本現代史大系)東洋経済新報社,1961年,24ページ前掲,岡本「薩摩藩営紡績所の技術者・職工」572ページ。
2) 前掲,岡本論文.573-584ページ。
3) 梅渓 昇「日本における工業化と教育との関係」(『社会経済史学』第40巻第5号)80ページ,および高村直助『日本紡績業史序説上』塙書房,1971年,141~142ページ。なお,日本と対比さるべき植民地インドにおける「技術家の欠除」については,フレダ・アトレイ著 中野忠夫・石田清二郎『極東における綿業』叢文閣,1936年,411ページ参照。
4) 高木修一翁口述『紡績懐舊談』(綿業調査資料第13輯)日本綿業倶楽部,1932年2ページ。
5) 前掲書,3―4ページ。
6) 岡村勝正翁口述『防績懐舊談』(綿業調査資料第12輯12ページ。なお,その折
の「紡績生徒修業心得書」については,前掲,楫西『近代綿業の成立』87~88ページをみよ。)
7) 前掲,岡村『紡績懐菖談』3ページ。
8) 前掲,三村博美他『近代日本産業技術の西欧化』145ページ。
9) 拙稿「比較経済史学の論点をめぐって」(『専修商業論集』第22巻第3号,1977年3月)。
10) 庄司乙吉・宇野米吉著『山邊丈夫君小伝』(紡績雑誌社,1909年)9ページ,および前掲楫西『近代綿業の成立』82ページ。
11) 前掲書,12ページ。なお,同書には,重大な誤植があり,本来ならMr.W.E.Briggsなるべきところを「グリブス氏」となっている点に注意してほしい,念の為。なお,この点は,ブラックバーン中央図書所蔵の”Blackburn Worthies of Yesterday”by G.C.Millerを参照。又,東洋紡績㈱経済研究所蔵『1789年山辺丈夫在英日記』でも確認しえた。なお,これらの原資料の採訪・閲覧については,東洋紡績㈱経済研究所長渡辺馨氏をはじめ,在英のシュフィールド大学日本研究所のスタッフの方々,ブラックバーン中央図書館司書Mr.Hollidayに感謝したい。
12) 前掲,岡村勝正翁口述『紡績懐舊談』,4ページ所収の「大阪紡績三軒屋工場上棟式」の写真を参照。
13) 堀江英一編『イギリス工場制度の成立』ミネルヴア書房,1971年,17,20ページ,および坂本和一『現代巨大企業の生産過程』有斐閣,1974年,22-27ページもみよ。
14) 大河内暁男「産業革命期の長期工業金融」(同『産業革命期経営史研究』岩波書店,1978年)161-63ページ。
15) 東洋紡績㈱蔵「大阪紡績会社第一回季考課状」によれば,明治15年3月「大阪府摂州西成郡三軒屋村官有地ニ於テ工場建築ノ為メ四千八百二十五坪余同年以後四十七ケ年間借用センコトヲ該府廳ニ清願シ」ている。
16) 前掲,大河内「工鉱業における作業場賃貸供制の展開とその意義」(同『産業革命期経営史研究』)183ページ以下にかぎらず,すでに早くから指摘されている。たとえば,中川敬一郎「イギリス綿業における工場制度の成立」(『経済学論集』第20巻第4・5号,1951年4月,のち大塚久雄・入交好脩編『経済史学論集』河出書房新社,1962年,277ページ)を参照。
17) 前掲,米川「紡績業における企業成長の国際比較」(『経済研究』第29巻第4号,1978年10月)295,297ページ。
18) さしあたり,清川雪彦「インド綿工業における技術と市場の形成について(上)」(『経済研究』第27巻第3号,1976年6月)246-49ページ。
19) 前掲,高村直助『日本紡績業史序説』上,102ページ。
20) 前掲書,80~81ページ。
21) 前掲,堀江『イギリス工場制度の成立』59~61ページ,および鈴木良隆「イギリス産業革命と労務管理」(『経営史学』第5巻第2号,1971年3月)30~34ページ。
22) 大日本綿絲紡績同業聯合會『紡績職工事情調査概要報告書』,同,1898年,65ページ。
23) 農商務省農務局・工務局『繭絲織物陶漆器共進会方弐區方二類綿糸審査報告』有隣堂 1885年(『明治前期産業発達史資料第10集(2) 明治文献資料刊行会,1964年複刻版)177ページ。
24) 同上書,177-78ページ。
25) 前掲,高木修一翁口述『紡績懐旧談』47-48ページ。
26) 繭糸織物陶漆器共進会『綿糸集談会記事』有隣堂,1855年(明治文献資料刊行会,1965年復刻版)99ページ。
27) 同上書,42-43ページ。
28) 同上書,52-58ページ。

3 原棉輸入と混棉技術

 大略,日清戦争終了後から,20世紀初頭にかけて,戦前日本資本主義の基軸的な産業として確立してゆく本邦綿糸紡績業は,本格的な「過剰生産恐慌」たる資本主義的恐慌を生みおとし,同時にそれへの対応策としての「操業短縮」を繰返しながら,急速に発展をとげてゆく。その概況は,第16表の示す通りであるが,その前提として1890年代前半の増錘・新設を通じての経営規模の拡大にも留意しておきたい(第17表)。
第16表 明治30年代の綿糸紡績業
第17表 規模別経営数の変化(明治25,30年)
全般的に紡績業労働者の状態をみれば,産業循環に対応しつつも,営業日数の増加(同時に,年間延労働時間の増加)がみられるものの,女子労働者の増大,女子平均賃金における男工賃金水準への接近等,総じて実質賃金の増大がうかがわれる(第18表)。
第18表 紡績労働者の状態
第19表 主要紡績会社の労働者の状態
第20表 主要紡績会社の労働者の移動状態(明治30年ごろ)
当然に,労働者保護立法たる「工場法」未成立の段階で(広く,イギリスを先進型とする後進国では,いわば産業資本確立の歴史的特質に由来して,保護立法の規制はおくれるかまたは,未成立といえよう),とくに半封建的地主制の存在形態とも関連して,いわゆる厚生的労働関係を示す「出稼型」賃労働を形成することとなるが1),主要紡績会社についての営業状態を示したのが,第19表,第20表である。紡錘数・綿糸生産高・繰綿消費高は共通して増大する(第21表)。
 それゆえ,後進国型資本主義における基軸的な産業として,ひいては後進国型綿糸紡績業の特質を明らかにするために,比較文的な視点から若干の特徴をあげておこう。
 ふつう「1897(明治30)年には綿糸輸出が,輸入を凌駕するに至り,また1900~01(明治33~34)年恐慌は,紡績資本にとって最初の過剰生産」2)といわれるが,明治26年(1893)からの印度棉花回漕開始,さらに翌27年の綿糸輸出税撤廃,つづけて日清戦争後の明治29年の棉花輸入税撤廃3)」の指標と併せて考慮すべきであろう。ここでは,すぐれて19-20世紀の交りの時点における国際的諸条件の動態が反映しているものといえよう。
 ところで,かかる本邦綿糸紡績業の特徴を考えるべく,まず,資本金と紡績設備の態様からみれば,まず企業形態としては「株式会社」形態をとっているものの,理論的な社会資金の動員といった実態にはほど遠く,大都市中心の綿関係商人を中心として「相当広範囲から資金を集中しているとはいえ,単純平均から判断する限りでは,社会的規模で零細[・・]な資金を吸収するという点ではなお限界(傍点は原文のまま)4)」があったといってよい。
 さらにより重大なことは,基本的生産手段たる精紡機について,先進国イギリスとは対照的にミュールからリングへ転換・統一されていた点であろう。いうまでもなくこの場合,先進国イギリスからの輸入に依存せざるをえないのだが,たとえば,日清戦争以前での増錘注文状況は,第22表のごとく,三井物産を代理店としてプラットからの輸入が81%を占めていたのである。この点,イギリス・ランカシャーにおける機械製造業の展開とその地域的集中に対応していたといえよう5)。
つぎに,原料棉花であるが,繰返しのべたように,上述の精績機輸入とも関連して,この時点までに,国内棉作を政策的にも放棄してゆくこととなる6)。
第21表 表主要紡績会社の内容
そして,この点をふまえて,問題は二重に展開されざるをえない。それは,まず基本的には日本紡績業は,あたかも先進国イギリスに類似して,「自国内に原棉生産基礎を持って7)」いない。そして「内地産棉に比し遥かに廉価な支那棉花の調花の調達こそ日本に於ける紡績業興起の主要な発條をなしたのであり,日露戦争の頃まで日本の棉花輸入量に8)」おいて中国は高い比重を占めていた。さらに,中国棉から漸次印度棉へ原棉消費の比重を移してゆく中で(第23表),先進国イギリスの綿業が支配的な位置を占めつづけている国際的な原棉市場に好むと好まざるとにかかわらず割り込まざるをえなくなったといえよう9)。いわば,かかる先進国的諸関係を展開させ乍ら,原棉輸入に依存せざるをえないのであって,ここに後述する混棉技術を充実させてゆくべき根因があったものといえよう。
 つぎに,雇用労働力についてみれば,前述したリング精績機の採用と,「工場法」未成立,すなわち「社会的には女子・幼少年労働者使用に対する法的規則の欠如10)」から,「出稼型」女子労働力に大きく依存し,賃金水準の上昇を防ぐためにも,労働力給源を遠隔地に求めてゆき,ここに「寄宿舎制度」が初めて一般化してゆくのである。
第22表 各紡績会社増錘注文協定分
そして,さらに,精績工程を中心に,出来高払制が拡大されてゆき,昼夜2交替制の採用と相まって,紡績資本の蓄積を高めていったといえよう11)。
 最後に製品販売の動向を綿糸を中心にみれば,一方の綿糸国内市場の拡大が綿布生産の拡大(もっぱら,国内綿布市場の増大によって)に支えられながらも,国内織物業による原糸需要に加えて,輸入綿糸およびガラ紡糸・手紡糸からの転換もあって,その需要に応えるべく機械製国産綿糸の国内供給量は,急速に増加していった12)。
第23表 紡聯加盟各社原棉消費率
他方の綿糸輸出市場については,いうまでもなく圧倒的部分は中国向けであった。しかも,日清戦争終了に伴う日清下関条約締結の結果日本も含めて外国資本による紡績工場設立(いわゆる在華紡」形成の端緒)の動きも活発化してゆくのであって,日本綿糸の対中国輸出は,インド綿糸との競争の中で16手ないしは20手を主力とし,かつ限定され乍ら輸出増大をはからざるをえなかったのである13)。
 さて,上述のごとき特質をもつ本邦綿糸紡績業は,以下に検討するように,(財閥系)貿易商社(さしあたり,三井物産を中心とする)に大きく依存しながら一層の展開とげてゆくのであって,まず原料棉花についてみれば,ふつう,内外各種の棉花について次のようにいわれている14)。
1. 日本棉は繊維が短〓の故に,太糸の紡出は可能であっても,中糸以上には適さない。ただし,色は青白く光沢美しく,染付けがよいので,一般に広く好まれる。
2. 支那棉は国内棉とあまり変りないが,色沢がおよばず,弾力にも弱い。
3. 印度棉は繊維が細長であるが,米棉ほどではない。しかし20番手から24番手の中糸を紡ぐには適している。色沢は茶褐色をおびている。
4. 米国棉は繊維細長で,色沢もまた美しく弾力も強く,最も細糸の紡績に適する。
 これら4つの原料棉花の序列こそ,本邦綿糸紡績業の発展過程と対応するものともいえようが,前述した近代的綿糸紡績業としての大阪紡績において,国内棉の最高といわれる「大阪上棉」をもってしても,洋糸17番手以上を紡出することは至難であったといわれている15)。しかも,明治20年代前半の原料棉花と製品綿糸の対応関係を5カ年平均でみれば(第24表),原料たる和繰綿の方がより高いのにもかかわらず,和綿糸の方がより安いのであって需給関係の不均衡が予想できよう。それゆえに,国内織物市場の原糸としても,太糸生産より,できうれば漸次20番手以上の中・細糸生産へ向うべく,そのためにも,より良質の外国棉花の輸入が要請されざるをえない。
第24表 内外繰綿および綿糸価格の比較
たとえば,当時の綿糸紡出の混綿率は,次のごとくであった16)。
 かかる原料棉花手当の条件を考えれば,明治22年(1889)本邦綿糸紡績業の先頭に位置した大阪紡績が,いち早く副支配人川邨利兵衛をば,農商務省書記官佐野常樹に随行させて,中国・印度の棉産地を調査させたのも当然の成行であった。そして,その翌1890年の不況に際会して,本邦最初の綿糸輸出をば上海経由厦門(アモイ)にむけて実現しえた反面,奇しくも同じ年の中国における棉花凶作の結果中国棉価格が騰貴したので,印度棉が大量に輸入されることとなったのである18)。
 ところで,繰返し指摘すれば,まさに,本邦紡績業にとって,かかる原棉輸入を実現するためには,貿易商社に大きく依存せざるをえず,その結果として,綿糸製造のために混棉技術が要求されざるをえない。
 しかし,比較史的にみれば,棉産国でもある「アメリカのように似通った品位の棉が手近に豊富にある国では,他国の棉を買い入れて混合使用するということは経済的にまず起って来る…19)」。これに反し,日本と同じ棉花輸入国のイギリスは「労働組合が棉花の使用について発言権を持っておるような事情もあり20)」混棉技術の発達が困難であったという。いってみれば,海運業の発達と貿易商社の発展を21)前提条件として,日本独自の混棉技術の形成・発達をみたものといえよう。いうまでもなく,棉花というのは,天然植物であるから,地域・気候などにより多種多様であろう。それに加えて,歴史的・社会的に,「米棉相場」を標準に市場価格が形成されてゆくのであって,「混棉というのは,所要の品質の綿糸を紡ぐのに必要にして且つ十分なる使用価値を備えた世界中の棉花のうちから,最も割安な棉花を選択して使用する技術22)」であると同時に「それを工場で使いこなす機械操作上の技術と23)」が合体したものであり,いわば「製品の品位を常に一定に保つためにも必要な技術24)」であったといえよう。
 ところで,第25表の示す原料棉花輸入の動向をみると,当該時点から第1次大戦直前まで,一貫してインドからの原棉輸入が最大であり,全輸入量の過半をこすことが普通であったといえよう。とすれば,「混棉技術」をより有効にすべく,さらに良質の原料棉花をより安く入手することは,紡績会社のみならず貿易商社としても緊急の課題とならざるをえず,いわゆる「産地直買」に着手してゆかざるをえないのである。
 この意味で,前述した明治22年(1889),大阪紡績副支配人川邨利兵衛のインド・タタ商会から数十俵(あるいはウエスタン綿300俵)の買入れに留意すべきであろうが25),印棉輸入に限ればほぼ,日露戦争前後に,各貿易商社に共通して従来の「総代理店」からの輸入方式を廃止して,産地からの「直接買い付け」方式に切換えてゆくようである26)。逆にいえば,三井物産を例示にとれば,インド棉・アメリカ棉に共通して「産地直買」方式が開始されてゆくのであって,「インド棉について内地直買を最初に試みたのは三井物産で,明治37年ナグボール地方で買付を試みた。その後同社の直買は順調に発達し,40年の直買高約6万担であったのが大正2年には約24万担に激増し,同社輸入インド綿の主要部分を占めるようになった27)」といわれ,「アメリカ棉についても物産は他社に先立って産地買付に乗り出し,39年9月には南部のオクラホマに出張員を派遣して,そこを拠点として買付を行なった。そして44年には現地法人南部物産会社(Southern Products Co.)をテキサス州ヒューストンに設立し28)」,また「中国棉についても物産は他社に率先して37年漢国から直輸入を開始し29)」てゆくのである(第26表)。
 とまれ,かかる貿易商社の役割(原棉ならびに紡績機械の輸入,製品綿糸布の輸出販売)の重要性は,基本的には後進的な本邦綿糸紡績業の特質と相互関連性をもっていたといえよう。
 逆説的になるけれども,イギリス綿業と対比しながら,その構造的特質を考えてゆきたい。
 すなわち,イギリス綿業では高度に水平的な専門化が形成され「綿業の主要生産工程を紡績―撚糸を含む―,織布および織物染色加工に3大別すると,英国綿業では主要工程のうちの1工程のみを担当する企業の設備保有率が非常に高い。……1911年には紡績錘数のうち77%が紡績専業工場に,また織機台数の65%が織布専業工場によって占められた。尤も1企業で2工場以上を所有するものもあったが,かかる企業は極めて少数であ30)」った。アメリカもこれとは対照的に紡織兼営工場が多いが31),日本も,同様な構造を示し大阪紡・鐘紡・三重紡を始めとして,後年巨大紡績に上昇する紡績企業の多くは,紡織兼営であった(第27表を参照)。そしてかかる「英国綿業の水平的専門化32)」に加えて,綿糸紡績業が2大部門に分けられ「米棉を主要原料として太番手・中番手綿糸の製造にあたる企業と,エジプト綿を主要原料として細番手綿糸の生産にあたる企業と33)」があり,「第1次大戦直前には,前錘数のほぼ4分の1はエジプト棉を紡績し,リング紡績機は米綿糸消費部門に普及した34)」といわれている。
第25表 棉花輸入に占める各国の比重
第26表 三井物産の国別棉花取扱高
つまり「マンチェスターから程遠からぬリヴァプールに世界最大の綿花市場がある。紡績業者は必要の時にいかなる棉花をいくらでも買入れることができる。したがって,ランカシャーの紡績業者は原棉の買付けには,別個の商業的活動と商業的組織を必要としない。彼らは専心紡績に全力をあげることができ35)」たのである。
 まさに,かかる産業構造が逆転して,のちに1920年後半以降のランカシャー綿業の構造的危機に衰退を招来する根因をなすと考えられるが36),少なくとも後進的な本邦綿糸紡績業との構造的相違を端的に示したものといえよう。
 さらに,「地域的集中」=特化も,ランカシャー綿業では急速に進んでいた。すなわち「織布業はランカシア北部一帯に織布専業工場のかたちをとって急速に発展し,ランカシア南部に発展を続けていた紡績との間に,地域化を基礎にした社会的分業関係がきわめて明瞭に現われてきた。それのみでなく,同じく南部の紡績地帯の内部でも,ボルトン及びその周辺の工場は専ら細糸紡績を営み,オウルダム及びその周辺の工場は太糸紡績に,マンチェスター地区の工場は縮糸紡績にそれぞれ専業化するようになった。それと同じように,ランカシア北部へ局地化した織布業の内部においても,プレストン及びチローリーの工場は,軽量の高級綿糸の生産に,ブラックバーンやダーウェンの一帯ではシャツ地その他比較的粗い綿布に,ネルソン,コルンは縞物にと,はっきりした専門化関係が発展していた37)」のである(第2図も参照)。これこそ,イギリスが支配した世界市場におけるさまざまな内容の需要が「ランカシアの綿業企業の特定品種の綿製品の生産への専業化と単一生産工程への特化を導き出した38)」のであって,かかる産業構造こそいわゆる「典型的な自由貿易主義的産業組織39)」であり,「逆にそしてそうした専業化・特化によって実現された生産費の低さが,ランカシア綿業の世界市場での覇権を保証していた40)」といわれている。
 このようにみてくると,本邦綿糸紡績業が,概していえば,関西以西に立地し,あたかも,在来型製糸業が「本山養蚕地帯」に立地するといった産業構造とは全く対照的であるばかりでなく,後進型綿糸紡績業の一層の展開,海外市場への進出には,大きく貿易商社の機能に依拠せざるをえなかったものと考えられよう。
第2図 ロランカシアにおける繊維産業の分布(1906)
第27表 紡績兼営織布における生産高(明治35-42年)
この点は,前述したインド(綿業)における「経営代理制度」の存在と制約,あるいは又戦前段階での中国民族紡績業における「工場管理担当者自体の腐敗,その寄食性41)」の存在とは異なっているものの,先進国イギリスにおける展開とは明らかに段階的にも相違していたのである。
 「特約紡績」として表現される貿易商社と紡績会社との密接な原料棉花輸入・信用供与の関係さらには製品綿糸布販売における役割についても,このような19世紀末ないしは20世紀初頭でのアジアにおける本邦綿糸紡績業の展開の特質をふまえておかねばなるまい。
ページ,第26表〕。(4)〔『経済理論』76・77合併号,100ページ,第44表〕より作成。
 たとえば,三井物産を例示にとれば,日清・日露戦争を経過してゆく中で,棉花ならびに綿糸布取扱い業務は,かならずしも安定した収益をもたらさなかったが42)」本邦綿糸紡績業の展開に対応して,原棉輸入販売ならびに信用供与を主要紡績会社に与えてゆく(第28表ならびに第29表)のであって,三井物産側からの不況対策も加わって,つぎのような「綿花依托契約」(いわゆる「特約紡績」)を明治34年(1901)6月から鐘紡との間に結んでゆくのである。
 すなわち,
注意ヲ要スル点ハ我社ト鐘紡トノ取引ナリ一方特約ヲ以テ同紡需要ノ大部分ヲ供給スルカ故ニ其高能ク総額ノ六割ヲ占ムルト錐トモ一方極メテ薄キ口銭ナルヲ以テ収益ハ甚タ尠ク僅カニ取扱高ノ五厘(千分ノ五)弱ニ過キス,之ニ反シ他紡績ニ対シテハ其売込高鐘紡ノ一会社ニ及ハスト雖トモ其収益ハ反テ多ク能ク二分七厘強ノ口銭収入ヲ得タリ。由是観之我社モ鐘紡
アリテ巨額ノ商買ヲ為スコトヲ得,鐘紡モ亦我社アルカ為原料買入ニ於テモ他紡績ヨリ利益ノ地位ニアリト謂フヘシ43)
と(第31表)。
第28表 三井物産による原棉販売の比重
 これに対して第30表に示したが,鐘紡側からの原棉買掛金の動向である
 いうまでもなく,かかる貿易商社との相互補完的ともいえる原棉輸入の関連性はまた,前述の「産地直買」方式を前提にしているともいえるが,この関係は,三井系内部のみの存在にとどまらず,尼崎紡績と日本綿花,そして又大阪紡績と内外綿との間にも,「特約」が結ばれていたのである44)。
 いってみれば,ちょうど第1次大戦を中に挟んで大正3年の東洋紡(大阪紡と三重紡との合併,内外綿不参加)ならびに大正7年の大日本紡(尼崎紡と摂津紡合併)の成立という六大紡の形成を遠望しつつ45),不況対策としての「操業短縮」を繰返しながら紡績業の集中を進めてゆく上で1つの重要な契機ともなっていたといえよう(第32表,第33表)。
第29表 三井物産による紡績会社の信用程度
第30表 三井物産と鐘紡との棉花売買額
第31表 鐘紡原棉買掛金
第32表 操業短縮の概況(第1-6次)
第33表 紡績業における集中度

1)山田盛太郎『日本資本主義分析』岩波書店(文庫版),1977年,44-45ページ,大河内一男「労働保護立法の理論に就いて」(『経済学論集』昭和8年11月,のち『大河内一男著作集』第5巻,青林書院新社,1969年)179-96ページ。
2)前掲,高村『日本紡績業史序説』上,246ページ。
3)楫西光速編『繊維 上』(現代日本産業発達史〓)交詢社出版局,1965年186ページ。
4)前掲,高村,250ページ。
5)津田隆『世界綿業資本の発展』 黎明書房,1948年,40ページ,中川敬一郎「19世紀イギリス経営史の基本問題」(『社会経済史大系』Ⅶ,弘文堂,1961年)135ページ。
6)名和統一『日本紡績業の史的分析』 潮流社,1949年,181ページ。
7)名和統一『支那における紡績業と棉花』(東亜経済研究 Ⅰ),1941年,79ページ。
8)前掲書,75ページ。
9)吉岡昭彦編『イギリス資本主義の確立』 御茶の水書房,1968年,33-41ページ。
10)前掲,高村『日本紡績業史序説 上』301ページ。
11)同上書,306-09ページ。
12)同上書.210-11ページ。
13)同上書,332-43ページ。
14)三辺清一郎「明治初期における我国棉花生産の凋落」(『明治初期経済史研究第一部』〔慶応義塾経済史学会紀要 第一冊〕巌松堂,1947年)97ページ以下。
15)前掲,岡村勝正翁口述『紡績懐旧談』44ページ。
16)前掲,三辺清一郎「明治初期における我国棉花生産の凋落」37-38ページ。
17)飯島幡司『日本紡績史』 創元社,1949年 93ページ。
18)小林良正『日本資本主義の生成とその基盤』 日本評論社,1949年,141ページ。
19)・20)関桂三『日本綿業論』 東大出版会,1954年,97ページ。
21)前掲書,97-98ページ。
22)・23)前掲書,95ページ。
24)前掲書,96ページ。
25)松井清他『日印綿業交渉史』(アジア経済研究シリーズ3) アジア経済研究所,1960年,104ページ。
26)前掲書,106-07ページ。
27)・28)・29)山口和雄編『日本産業金融史研究―紡績金融篇』 東大出版会,1970年,187ページ。
30)前掲,村山高『世界綿業発展史』260,261ページ。
31)前掲書,261ページ。
32)前掲書,262ページ。
33)・34)前掲書,263ページ。
35)前掲,有沢広巳・脇村義太郎『カルテル・トラスト・コンツェルン』367ページ以下。
36)前掲書,384-87ページ。
37)前掲,中川敬一郎「19世紀イギリス経営史の基本問題」134ページ,前掲,村山『世界綿業発展史』264-70ページ。
38)・40)前掲,中川敬一郎「19世紀イギリス経営史の基本問題」 136ページ。
39)前掲書,137ページ。
41)前掲,名和統一「支那における紡績業と棉花」33ページ。
42)加藤幸三郎「財閥資本」(大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上,東大出版会,1975年248-49ページ,第14表および第15表。
43)三井物産合名会社『明治三六年度事業報告』。なお,前掲,山口『日本産業金融史研究』168-70ページも参照。
44)高村直助『日本紡績業史序説』下,塙書房,1971年,132-33ページ。
45)前掲書,101-10ページ。