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技術の移転・変容・開発

著者名: 林武
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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初年度研究活動の性格

 今年度の研究活動は,現在の開発問題ないし発展途上国が直面している問題に即して,先進技術を導入し変容し自立させた日本の経験を吟味する,その第1段階であった。
 第1段階の特徴は,日本の開発問題をひとつのケース・スタディの対象とする日本人学者だけによる作業であった,というところにある。しかも,「日本から輸出した」技術が開発問題の解決に役立っているのか否か,そこに「日本の経験」を適用することで問題解決になりうるかどうか,という問題には立入っていない。その問題は,発展途上国での実態調査をふまえて,現地の専門家,研究者との共同作業として取組まれなければならないのに,それが今年度はできなかった。
 それ故,この報告は
 (1) HSDプログラムが方法的原理としてかかげる「対話」への導入部である。
 (2) この導入部に対するさまざまな反応が読者から寄せられることで,この「日本の経験」プロジェクトは次の段階である展開部に入るだろう。
 (3) 展開部は,さまざまのコメント・新鮮かつ具体的な問題指摘が第3世界から提出されそれがわれわれの作業に投影されることで,作業結果による回答という形をとることになるだろう。
 (4) その回答が第2の吟味と検討を受けることになるだろう。それが再び作業に生かされ,作業の結果でもって回答されるだろう。
 (5) こうした一連の「方法的対話」を通じて,「日本の経験」が日本だけの経験ではなくなることが理想とされている。「日本の経験」が,良しにつけ悪
しきにつけ,さまざまの方向とレベルで集約されるための第1着手がこの報告である。
 (6) だから,この報告で論理化され,結論づけられているものにしても,それはあくまでも一応の暫定的のものであって,修正も補足も,時には撤回も可能なものである。
 (7) 総括すれば,この報告は中間的性格・中範囲の理論化を試みたものでしかない。
 (8) その理由は他のところにも見付けられる。その第1は,日本の研究者がこれまでとってきた研究の方法にある。それ自体が日本の「経験」に属することであるが,日本の学者は,これまで,世界の最先進国と考えられたところをモデルまたは標準にして日本をそれとの距離ないし類似点に照準を合わせて日本の経験と歴史を批判的に吟味してきた。言うならば西欧をモデルとして,それに学び,それに到達することを目指してきたのであった。
 (9) そこで完全に欠落していたのは非西欧世界との「対話」であり,非西欧世界とのアイデンティティの追求であった。
 (10) そのことへの反省が強まったのは第2次大戦後のことである。勿論,それ以前から非西欧世界とくにアジアとの対話[・・]を続けてきた人びとはいた。だが,それは,日本との対話を求める人びとがアジア(および非西欧世界)に多くはなかったのと同じく,日本の中では主流派・多数派ではなかった。
 (11) それが今大きく変化しつつあることは確かである。けれども,非西欧世界への関心の強まりには,依然として,西欧で非西欧世界への認識が改まり関心が深まってきたから,という動機のものもある。また,非西欧世界における日本への関心のなかにも,そういう動機のものがないとは言いきれないであろう。そうした動機はどうであってもよい。それが真摯な対話の契機にさえなるのであれば。必要なことは「方法的対話」を発展・深化させることである。すべての民族が,すべての民族文化が,対等の価値をもつものであることの理解が深まり,そのことで,大文化(=文明)の隆盛が小文化を蚕蝕するものであってはならないし,大文化の〓透が小文化を消去するものでもないということを誰もが確信する手助けにすること,それこそがわれわれの願いである。
 (12) 第3世界における「日本の経験」への関心が,西欧回路ではなく,もっ
と直接の日常的経験に基づくことも多いに違いない。そういう仕方で「日本を経験した」人びととの「対話」はこのプロジェクトでは,未だ,果されていない。そのことは先に述べた通りである。
 (13) そのことでは,日本のインテリには幾分痛みに似た思いがつきまとい,「日本の経験」の美化に対しては逡巡をもって反応することが多い筈だ。それは「日本の経験」に根ざすことなのだが,近代日本の100年余の歴史は,他民族,他国民を傷つけてきた歴史であったからだし,そのことによって自分も傷ついてきたからである。
 (14) 日本のインテリは新しい世界秩序のために相応の責任を果したいと思っている。しかし,何が相応で,不可欠で,緊急なのかについては,確信がもてないのである。そういうことが日本のインテリを慎重(または臆病)にしているのである。そして性急な協力の要請に対して距離を保とうとさせるのである。ここにも「対話」の必要と重要性が認められるだろう。
 (15) 「日本の経験」が工業化の成功という点で検討に価する,と言う第3世界のインテリが多いことは知られている。だがしかし,工業化の結果として生れてきた公害問題・環境問題でいま日本が苦しんでいることもまた注意してほしいことなのである。工業化に伴う環境破壊や公害の問題はどの工業国にも共通のことだが,それは近年では国民社会の単位では処理しきれない問題ともなってきているので,発展途上国が直面する「生存のための」工業化問題には深い共感をもちながらもなお,共通の対策について合意の見通しも確信ももてないことが,日本のインテリを不安にかりたてているのでもある。
 (16) 緊急な課題をかかえて悪戦苦闘する発展途上国の人びとには,こうした日本人の態度が「無責任」に映ずることがあるようだ。とくに,日本を「経済大国」とみることが世界的な常識になってからは,そういう批判が多くなったけれども,GNPの成長率という単一の尺度で測定した「経済大国」論(つまりフローでだけ見てストックで見ない)に多くの日本人は戸惑う他ないのである。日本人の生活実感にそぐわないからである。ここにもコミュニケイション・ギャップがある。それがこの報告にも反映している筈である。
 (17) 近代「日本の経験」を日本人の眼で,たとえ西欧化主義の立場に他ならなかったにもせよ,検討する学術的な作業は,いわば日本の「近代」と共に始
まっている。その集積は厖大で多様で,しかも内に鋭い対立をさえ含んでわれわれの眼の前に遺産としてある。その一部を検討することでさえも高度で巨大な学術作業になる。そういう事情がこの78年度報告には一部反映されているとしても無理からぬことであろう。しかし本報告は作業的に多元論の立場をとるものである。
 (18) 多元論の立場は,5ヵ年を予定した作業計画全体のなかでは,「日本の経験」を産業別・主題別・地域別の研究を構想したところにも貫かれている。また,技術をハードな技術とソフトな技術に分類する方法をとっているところにも示されている。だが,予算の制約から,今年度は「地域研究」としては北海道の事例について予備的なフィージビリティの調査にとどめざるをえなかったし,開発問題としては今日の日本にとってそれに劣らず重要な沖縄の事例についても着手の可能性が不確実である。その意味では,多元論の立場さえ徹底的には作業化できなかった訳である。

 目 次

初年度報告の概要・・・・・・・・・・2
はじめに・・・・・・・・・・2
Ⅰ 明治維新の前後・・・・・・・・・・2

 (1) 黒船渡来・・・・・・・・・・2
 (2) 尊皇攘夷・・・・・・・・・・4
 (3) 政府負債・・・・・・・・・・6
 (4) 不平等条約・・・・・・・・・・7
 (5) 通貨問題・・・・・・・・・・8
 (6) 改 革・・・・・・・・・・10

Ⅱ 文明開化・・・・・・・・・・10
 (1) 西欧化・・・・・・・・・・10
 (2) 三大改革・・・・・・・・・・11
  (ⅰ) 教 育・・・・・・・・・・12
  (ⅱ) 徴兵制・・・・・・・・・・13
  (ⅲ) 地租改正・・・・・・・・・・15
 (3) 日本式雇用・経営形態・・・・・・・・・・17

Ⅲ 殖産興業・・・・・・・・・・19
 (1) 外国技術の導入・・・・・・・・・・19
 (2) 三大技術導入・・・・・・・・・・21
 (3) 製糸工場と紡績工場・・・・・・・・・・23
 (4) 製鉄所と外国人技師・・・・・・・・・・27


初年度報告の概要

はじめに

 1977年にこのプロジェクトのフィージビリティ調査に着手して以来,われわれは,HSDプログラムを中心にしてのことだが,国連大学が主催した多くの研究会議に参加した。その経験は特定国にかんする事例研究としての本プロジェクトの成果とりまとめの仕方について重要なヒントを幾つか与えてくれたので,コーディネーターの報告としては異例のものになるかも知れないが,個別報を総括・要約し,相互の関連を解説するという形はとらないことにした。このJEプロジェクトへの多様な関心に応えるためには,各個別論文で当然のことと前提にされている予備的な知識が多すぎるし,それに対する解説が必要であると判断したからである。
 多くの読者の負担を軽減するために,私はやや自由な仕方で,専門的,個別的な報告論文のためのガイダンスを試みることにした。<方法としての対話>の発展のためには,そのことが必要であり、重要であるに違いない。
 ここで述べられていることの多くは,これまでの専門家の業績に依存しているし,それは日本の学界において共通財産となっていることである。勿論,専門家の間に意見の相違があることも稀ではない。また,ある学者のすぐれた見解ではあっても学界全体の注目をひいていないこともある。そうしたものが,そのまま,または部分的に本報告に借用されていることがあっても,注記その他の仕方で明記することは省略してある。読者の便宜のためを思った,この総括の性格に即してみて,その方がよいと判断したからである。5年後の最終的な報告書では,そうした重要文献についてのリストが附される予定である。

Ⅰ 明治維新の前後

 1 黒船渡来 1868年9月,日本の政体は変った。それに先立つ10年余は近世日本史上未曽有の大混乱期であった。
 徳川幕府は約300年にわたって軍事・政治の実権を握ってきた。270の諸大名の中の最大の大名であった徳川家は,その実力を背景に諸大名の忠誠を要求し,忠誠に疑いのあるものを取潰して中央集権化された体制を確立していた。
 諸大名に外国との交易を禁じ,幕府が独占・専管してきた。諸藩が秘かに武力を貯えるのを制し,異教・異端の反体制的な思想の流入を阻止するためであった。
 他面でそれは,政治的統合に有効に作用して,地方ごとの特産品を開発させ,全国一円的な国民経済市場を次第に形成させることにもなった。士農工商という身分秩序は確立し,それぞれに固有の文化を定着させた。武士は騎士というよりは中央/地方の行政官僚として高度に訓練され組織されていた。それがやがて新しい国家体系と産業の組織の中で近代的官僚制にひきつがれていく。今日,外部からみた,日本的とみられる文化の型は,徳川政権の時代(政権が今日の東京,当時の江戸におかれたことから江戸時代1603-1867ともいう)にすでに,洗練された成熟の段階に達していた。
 外国との交渉がなく平和が続いた2世紀半余の時代に,商品経済の発達が逆転できない高い水準に発展しており,社会的には身分的な序列こそは低かったが,商人層の経済力は権力で抑えることができないところにまできていた。封建藩主の経済は彼らに依存することで維持されていた反面で,下級武士層の生活はすでに一般町人・職人なみに下っていた。封建的な身分序列は,事実上,解体されつつあったし,中央に絶大の権力として君臨する徳川政府は全国の主要地方に一族を配置し,いささかでも忠誠に疑念をもたせる地方藩主たちを取潰したり転封(=減石)したりしたので,その都度大量の失業武士を生み出した。
 とはいえそのことが直ちに徳川家専制の政治体制を動揺させる反発を武士層から生むことにはならなかった。むしろ米の生産に基礎をおいた財政の仕組み(名目上の実物経済体制)と商品経済との乖離で不利な立場におかれていた農民が,災害や凶作の折に負担の軽減を求めたり,臨時税や追徴税の徴収に憤って一揆に訴えることが次第に増えてくるところに,体制の危機は認められた。だが,それさえ実は体制の打倒を狙ったものではなく,悪政の排除または悪徳の小官僚や悪徳の特権商人に対する憎悪が爆発したものであって,たとえば「農民共和制」などの確立を目指したものとはならなかった。決定的な衝撃は外国からきた。1853年の「黒船渡来」である。アメリカの東インド艦隊司令長官が国書を携え軍艦4隻を率いて開港を迫ったのである。
 鎖国の国是は,黒船の威圧の前にあっさり覆えされ,翌54年日米修好通商条約が取結ばれ,続いて英仏蘭露の諸国と条約が締結された。当時の日本には海軍がなかったし,徳川政権は大船の建造を禁止していたので,それ以前にあった大型船の造船技術も失われていたのである。
 徳川政権が「黒船」の軍事的威圧に狼狽したのは紛れもないことであったが,ヨーロッパの軍事力に対する恐怖は,隣の大国清が第1次アヘン戦争(1840-42)で敗北したことで衝撃的に深まっていた。アメリカ公使ハリスが,英国は日本に対して清国と同一の原則でのぞむ方針である,ことを知らせてきたし,日米修好条約の調印によってアメリカは英仏の対日行動を調停する責任が生ずると説いたことが徳川政権の決断を余儀なくさせた。
 ペリー来航の10年以上も以前から外国艦船が日本近海に立寄り,交易を求めたり調査をしたりすることはあった。そうしたことが極く少数の知識分子に危機感をいだかせてはいた。彼らの情報は幕府がきびしい制限づきで外国(と言ってもオランダ1国であった)に向けて開いていた窓である長崎において,偶然に入手することができたオランダ語の文献に基づくもので,その国際情勢の知識もおぼろげなものであった。しかもそうした知識人は,医者が大方であり,近代ヨーロッパの理化学の知識はこうした医者の手でまず日本に紹介されていた。「黒船渡来」以後,こうした医者の中から軍事科学技術の紹介者・導入者が生れてくる。
 しかし,医者としても蘭法医は主流派ではなかった。大勢は在来の漢方医であった。また医者は特殊技術者であって,知識人の中核は儒教の政治哲学を修めた者である行政官・武士で,洋学者は医者と同じく,軽輩の特殊技術者であったにすぎない。だから,その一部のものが訴える警告の海防論などは,軽視されたり,危険な思想として弾圧を蒙ったのである。

 2 尊皇攘夷 徳川幕府が列国の軍事的威圧に屈したことは戦士を自任する武士層を憤激させた。それが士農工商の身分序列を形式化させてしまった。徳川体制に対する潜在的な不満と結びついて,新しいイデオロギーになっていく。
幕府批判は徳川家に冷遇されてきた経済的実力をもつ西・南部の諸藩から開国反対論として吹き出てくるが,その排外主義は,主従の身分的忠誠関係に基礎をもつ封建的割拠主義でもあった。とは言え,在来の体制そのものを全否定できないところに武士層の排外主義の矛盾があった。確かなことは,外からの脅威にさらされて,彼らは封建体制の批判ではなく徳川政権への批判を鋭くさせ,そのことで諸藩の支配機構の末端につらなる村役人,豪商,豪農までを同調させていったところに巨大な変化が生れてくる契機を含んでいた,ということである。
 政治権力としての徳川体制が対外条約の締結にふみ切ったことへの批判は,幕府の統治行為を正当化する権威としての機能をもつ天皇の存在に注目させることになった。ここで批判者たちは,国内体制の総体が危機に臨んでいるのに,体制護持のために徳川権力に協力するのではなく,全体制擁護のためにかえって徳川政権を否定し,それを正当化する根拠を見つけたのであった。
 ここで,形式的な最終手続きの執行者であり慣行的な儀礼執行者として,政治的には無力で,行政的な発議権も拒否権も事実上は持ち合せなかった象徴的な存在がにわかに政治化されたのである。幕府の外交権の行使が「違勅」の超権行為として弾該され出すのである。
 天皇を政治化することで反徳川を正当化した批判者たちは,そこで,天皇の権力装置化と攘夷主義とを結び合わせにした尊王攘夷イデオロギーに結集されていくが,反徳川派のこうした過激化はかえって徳川家への忠誠を相対的に縮小させつつあるグループをして,既存体制全体を危うくするものだという警戒を強めさせることになり,武家支配体制そのものの温存のためには徳川派に加担させるという反作用を抽き出すという一面もあった。
 外交問題をめぐって日本の支配層が,混乱の中に佐幕派と倒幕派とに二極化されつつあり,内乱の危機をはらんでいたが,それはそのまま列強の動向を代表する英仏両国の対日本政策にも対応していた。フランスが佐幕政策をとったのに反して,イギリスは内政不干渉の立場をとった。幕府の統治能力に疑問をもっていたからである。それ故にイギリスは倒幕派との関係を終始たち切らなかったのである。
 とはいえ,列強は攘夷論を懲らしめ「報復」することに怠りはなかった。1863年と64年に,強硬な攘夷論に結束していた薩摩藩と長州藩は,英国艦隊と四国連合艦隊の攻撃を受ける。「刀で軍艦は切れぬ」と思い知らされた両藩は一転して尊王攘夷論から「開国論」に変じ,かつは倒幕のクーデターにつき進み「一君万民」論という天皇中心主義をかかげるようになる。
 1867年10月,徳川家第15代将軍慶喜は「方今徳川家の武備衰弱して天下諸候を制馭するの威力なきのみならず,20年来の菲政を数え立てられなば弁解の辞あるべからず。……このまま持ち堪えんとすれば無理多くなりて罪責益々加わり,遂には奪われるは必然なりと見切りたり。……」と重臣,側近に語った。そこに統治無能力化したこと,失政の連続への認識と共に,倒幕による破滅を免れて政治的有力者として生きのびようという打算がはっきり見える。
 天皇がいまや政治の最高責任者の地位に押上げられたのである。それを明治維新とよぶ。
 執政者=将軍職が全国各地にもっていた直轄領を,新政府は全部召しあげた。徳川宗家は,地方小藩主の一人に転落した。この処遇をめぐって,新政権と徳川派は軍事衝突を始める。その内戦に江戸で敗北して徳川家は完全に政治的に葬られるが,江戸の街を最後の戦場にすることと,戦火が東日本全域に及ぶことを舞台裏で必死に押し止める工作をしたのは,生糸の産地が戦乱で荒廃することを何よりも恐れていた西欧列強の公使たちであった。

 3 政府負債 明治政府は政権を引き継ぐと同時に莫大な対外債務もまた引き継いだ。
 幕府は,反対派との対決が避けられなくなった時点1868年(2月)で,フランスのソシェテこゼネラル銀行から50万ドルを借款して銃砲兵器の購入に充てていた。期限7ヵ月,年利10%であったが,抵当には幕府が240万ドルの対仏借款で1865年に起工建設されたばかりの横須賀鉄工場が入れられていた。新政権は戦後処理の費用さえ調達しかねていた折に返済をせまられ,窮余の策として英公使パークスに依頼して英国のオリエンタル銀行から融資してもらって返済した。しかしこの新借款すら,期限1ヵ年・年利15%という他に横浜税関の施設と収入を抵当にすることが条件であった。まさに経済の危険は迫っていた。
 明治政府は直ちに各藩県に対して財政補充や軍備調達のために産物や権利を抵当に外国から借款することを禁じた。70年初頭の調査によれば,旧幕府関係の対外借款は横須賀製鉄所(=造船所)の施設・建設費の他に対長州藩攻撃(下ノ関戦争)の賠償全未払分・倒幕寸前の借款50万ドルを含めて600万ドルであった。また諸藩(計37藩)が内戦準備に認めた武器購入・艦船代金と外国商人からの現金借入れなど111件,400万円であった。どこでも,抵当には生糸や米その他に鉱産物が当てられていた。こうした対外債務の処理が新政権に重くのしかかってきたのである。逆に言うならば,徳川政権はこうした内外の経済問題を処理する能力を,すでに失ってしまってから政権を投げ出したのである。

 4 不平等条約 攘夷・排外のムードが最高潮になる1863年頃,横浜には常時20隻近い外国軍艦が碇泊して絶大な威圧であった。薩摩・長州両藩の攘夷主義に報復したあと,列国は「居留地の防衛」のために,横浜に軍事基地の建設をせまり,軍隊駐屯の権利を幕府に認めさせていた。総督公邸・兵舎・病院・火薬庫などを含む施設の建設費・修理費を日本側に負担させ,2万坪の用地を提供させている。明治2年に,「英国の兵員3,000あり仏これに次ぐ。米その他は海軍のみなり」という有様に,政府の報告書は「今や外国により我が国の可否を制するに至る。此の汚辱を洗浄するの実計果して如何」と述べている。
 居留地という外国人のための治外法権地区を条約で承認させられたばかりか,関税自主権も否認されていた。それも1854年条約では品目別に5~30%の従価輸入税であったものが,66年の江戸条約では一律5%の従量税に変更させられてしまっている。それが,輸入超過・正貨流出の原因となり,織物など在来産業に打撃を与え,国民経済の構造を歪めて,自立的発展に重い軛になったことは言うまでもない。
 新政府はそれ故不平等条約の改訂を繰返し交渉することになるが,列強はかえって開港地の増加を求め,かつはキリスト教の布教禁止を非難して改訂に応じない。「彼の欲するものはことごとく与え,我が欲するものは未だ一つも得る能わず」(伊藤博文)というありさまでは,「ビスマルクなども只に兵事と会計とのみ大事にあい勤め今般(普仏戦争に)大勝利を得候も兵気を得候丈の事にこれあるべく」,「国の興廃は兵力にこれ有る事勿論にて,只々急務は兵事にこれ有り」(大久保利通)という国際政治の認識に追いこまれていくのである。
 国家財政の確立と軍備の強化という教訓を列国関係のなかから引出した明治エリートのナショナリズムは,富国強兵・殖産興業という基本政策に結晶されていく。別に言うならば,国際政治のはざまに独立の政治主体たるには軍事的に強大でなければならず,強大な兵力をもつためには経済力が豊かでなければならぬ,という思想がこうして定着していく。直接には,輸出産業の振興であり,輸入代替産業の創出である。特に,軍事につらなる工業の創出が国家的な急務とされる。そこに早熟な軍国主義化への芽が認められる。
 不平等条約にはまた,新生政権の体質を左右する作用の他に,国民の生命を直接危険にさらす作用もあった。開国と同時にそれまでは日本にない病気が持ち込まれるようになり沢山の犠牲者を出した。数年ごとに大流行を繰返し,その都度数万人の死者を出したコレラがそれである。1876年,アモイの日本領事館からコレラ流行の通報を受けた内務省は,海港検疫と経由船舶隔離を列国公館と協議しようとしたが,英国公使パークスの拒絶にあって実施を阻まれた。ために同年は患者1万4千,死者8千を出して,以降3年にわたる大流行の端緒となった。翌年も日本政府の予防対策は米国・清国を除く英独仏蘭の公使たちに主権の行使を妨げられて79年には死者10万を出すに至った。さらに1885年には長崎の居留地にコレラが原発して再び10万以上の生命を奪ったのである。
 ついでに言えば,この疫病対策に在来医学は無能力であったところから,西洋医学のみが公認医学となり,漢方医の治療行為が新政府によって禁じられる契機となった。
 コレラの流行とその大きな被害を恐れた庶民は,警察や軍隊が動員される強圧的な防疫対策におびえ,食品の販売禁止による物価騰貴に悩まされて,しばしばコレラ一揆をおこした。それが衛生問題を警察に担当させることになり,(1886年)日本の医療体制の宿痾となる。

 5 通貨問題 明治政府の成立までも,その後でも,内乱の被害が最も大きかったのは庶民であった。各地方の庶民は通常の貢租の他にさまざまの追徴金を取りたてられ,かつ軍夫に徴用された。戦闘のあったところでは交通が杜絶し,さまざまの通貨が出まわって金融は混乱した。
 第一次の内戦が始まった1866年は大凶作であった。軍需の増加と流通の杜絶が加わって米価が空前の高価になった。戦費調達のために各藩とも〓換性のない「藩札」を乱発したことがその発端である。すでに商品経済から脱れられないほどにそれにまきこまれていた農民は,受取った通貨が購買力をもたないに等しいことを知り,再生産活動が不可能になったので,諸藩の地方事務所に押しかけ〓換券を求め「凡そ官の名義あるもの必らず之を毀焼す」る挙に出たり,商人・金貸しを襲うという百姓一揆が空前の規模で全国におきた。都市でも貿易商人・金貸し・質屋・米屋・酒屋などが強請と打ちこわしに逢うという無政府状態が全国にひろがった。
 内乱によって誘発されたこの無政府状態の根源には正貨問題があった。安政の5ヵ国条約で外貨が自由に持込まれるようになり,当時アジア貿易の国際通貨であったメキシコ・ドル銀貨が持ちこまれた。当時の日本の本位通貨は一両金貨で一銀貨は補助貨弊として1対5の対金貨交換比であった。かたわらで洋銀1ドル=1分銀3枚という交換比率が公定されていた。国際相場は金1対銀15であったから,メキシコ銀を日本銀貨と交換しその銀貨をさらに金貨に換金することで,座して3倍の世界通貨を入手できた。横浜の開港と同時に外商による熱狂的な金貨あさりが始まり,8ヵ月余の間に100万両もの金貨が流出した理由はここにあった。
 これに対抗するためには,金貨を改鋳して国際的な金銀比価の相場に見合うように金の純度を落すことしかない。それは,しかし,本位通貨の下落であり,別に言うならば物価騰貴に他ならない。それにもかかわらず,外圧による政治危機が幕府の通貨需要を増大させたから,通貨の濫造,改鋳はすすめられ,海防や武器の調達,政治活動の費用にあてられた。諸藩も自領でしか通用しない「藩札」を濫発していたことは先に述べた。
 明治政府もまたそれにならったので,新政権になっても都市騒擾や農民一揆は続いた。明治政府が末端の村々に至るまでの全国的規模で統治力を徹底させ,かつ正当な権力として認知されるようになるのは,1890年代のことである。
その間に,外交問題(対韓国政策)をめぐる政権内部の対立が発展した(1877年)内戦の危機をくぐりぬけねばならなかった。

 6 改革 新政権は内外に難問をかかえながらも幾つもの改革に着手した。それは士農工商の身分制度の廃止であり,行政を藩制から府県制に変え,職業の自由選択を許し,田畑の勝手作り・営業活動の自由を認めて,自由経済体制に入った。
 徳川専制体制を一新するものとして立憲議会制も布かれるが,自由民権運動の急展開におびえて,これは当初宣伝されたところからはるかに後退したものになった。言論結社の自由も原則的に認められるが,事実上は大きな制約が加えられていた。
 「封建制度は親の仇でござる」と言ってのけた明治初期を代表する啓蒙思想家福沢諭吉にしたところで,世の中が確かに変ることを確信していたものの,どのように変っていくのかについて確固たる展望をもっていたのではない。しかし,世の中が変ったという新鮮な解放感が国民に植えつけられたことは確かであり,解放感が未来への希望をふくらませたのであった。解放感が希望を生み,希望が新政府への期待となり,期待の大きさが失望に転じそこから政治批判に転ずる時には,政府はそれを封じ込めた。
 明治維新が革命としていかほど徹底的なものであったか否かについて日本の学者の間には未だ論争が続いている。しかし,それが日本の近代史における革命的な変化であったことについては意見が一致している。そして,中国・朝鮮の場合と比較すれば,日本では開国論と攘夷論の接合ないし接近が比較的円滑に行なわれたところに日本の近代化の特色がある,と指摘する学者もある。

Ⅱ 文明開化

 1 西欧化 「自由貿易」の破壊的な〓透力が開国10年余ですでに日本社会の最底辺にまで届いてしまったことはさきにみた通りである。それが弱肉強食の競争原理として貫徹されていく保証はまず軍事力にあり,その軍事力の格差を外交関係で立証しているのが「不平等」条約であった。
 そこで「従前の条約を改正せんと欲せば」わが国の諸々の法制・慣行のうち
「列国公法に相反するもの之を変革改正せざるべからず」ということになる。
(1871年,太政大臣三条実美)
 ここに明らかに西欧化を目標とする近代化の必要性が新政府の最高政治指導者の認識として語られている。そのための調査に一群の政治指導者が欧米に派遣されるのだが,全権副使の伊藤は「欧米各国の政治・制度・風俗・教育・営生・守産,概ね我が東洋に超絶す……此に於て,開明の風を我国に移し,我国民をして速かに同等の化域に進歩せしめんことを志し」てその任務に「夙夜励精」したのである。全面的無条件の西欧化志向がそこには認められよう。
 使節団は公式報告で英国について次のように総括している。「英国の富は元来礦利に基せり。国中に鉄と石炭と産出高の莫大なる事,世界第一なり。国民此の両利により,汽器・汽船・鉄道を発明し,火熱により蒸気を駆り,以て営業力を倍増し,紡織と航海との利権を専有して,世界に雄視横行する国とはなりたり。故に全国内に鉄冶の業の盛なる事,我が一行の目を驚かせし所たり」と。
 重工業としての製鉄と造船,礦業と紡績業への注目は,そのまま日本の殖産興業の柱となっていく。不平等条約の改正は,1888年にメキシコとの間に初めて対等な通商協定が結ばれたものの,治外法権・関税自主権とも1899年になって,やっと実現する。それは日本の産業革命が一応の達成をみた時点であった。

 2 三大改革 外に向けた「富国強兵」と内に向けた「殖産興業」は,同一の原理が異なる表現をとったものにすぎない。すなわち国民主義である。この時代のナショナリズムには,封建的束縛から解放された清新な気運がみなぎっており,勤勉と努力とが幸福を個人にも国家にも約束していた,そういうナショナリズム(素朴な国権論)であった。
 勿論,権威のシンボルであった天皇が政治にまきこまれるようになり実権を持たせられるようになった時,一部の古代制度が,復活させられ,8世紀初頭の令制にある最高官職で神祇の祭祀を司る神祇官の職位が太政七官の一つに設けられた。天皇の神格化を説き神道の国教化を目指した神祇官にたむろする狂信家たちを,新政権は,その基礎が確立していく過程で,あっさり格下げし,ついには教部省への併合を経て文部省の一部局にしてしまった。そういうプラグマチックなところが当時の国権主義・ナショナリズムには未だあった。
 近代国家への脱皮・変身に邁進する政府はさらに裁判権の独立,検事・弁護士制など司法・裁判制の近代化を計りもしたし,のちの日本において決定的な意味をもつ三大改革を併行して実施している。学制・徴兵制・地租改正である。
 (ⅰ) 教育 学制は,6才以上の男女のすべてに教育を義務として課すものであった。全国に5万3760の小学校,256の中学校,8つの大学を設置しようという野心的なものであったが,未だ藩制が残っている中は全国的な教育制度の確立が望めなかったので,廃藩置県(1871)という行政改革が行われ文部省が設置され(1871)て始めて教育施設の原則が固まったのである。
 1872年の「学制」頒布は,あまりに野心的にすぎて当時の新政府の財政能力にはとても及ばない規模のものであった。また有資格の教員を揃えることも,中学以上では無理であったに違いない。しかし,それが日本における近代的学校制度の起点であった。その精神は「人能くその才のあるところに応じて勉励して之に従事し,しかして後初めて生を治め産を興し業を冒にするを得べし。されば学問は身を立つるの財本とも言うべきものにして,人たる者誰か学ばずして可ならんや」と太政官の「被仰出書」は述べている。そこには,個人の資質を解放・開発するものとしての教育という思想がつらぬかれている。
 とは言っても,小学校で用いられた国語教科書がアメリカのウィルソン読本Wilson Readerを直訳したにすぎないものであったから,早晩改訂は必然であった。国民の必要に合っていないのである。だから79年,86年と改訂を加えられていくが,帝国大学・(尋常・高等)師範学校・中学校・小学校を基本体系にまとめられる制度的再編に当った,初代の文相であった森有礼は,その基本構想について「国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせん」ためとし「一国の富強の基を成すが為に無二の資本至大の宝源にして以て人民の品性を進め教育の準的を達するに於いて他に求むることを仮らざるべきなり」と述べている。
 教育を個人の能力開発から,国家目的のための教育(一国家の国際的地位を高め,富国強兵に利用する)手段としての教育という教育政策・教育思想の変質に注意しておこう。それは明らかに,新政権最大の危機であった1878年の内戦(西南戦争)を経験したことによる変化であり(もっとも伊藤などは早くから教育制度に不満をもち最初の政府使節として欧米に派遣された時も各国で熱心に学校を視察している),さらに,国会開設や憲法制定など一連の民主主義化・政治参加を求める下からの運動(自由民権運動)の激化を経験した上での国内外の情勢に対応した政治エリートの反応がたまたま教育政策・教育思想に示されたものにすぎないだろう。
 とはいえ,学制の施行によって,小学校教育が全国に定着し教員養成のための師範学校が各県にできた。しかし,各村の学校開設の財政的負担の大方は町村税や有力者の寄附など父兄のものであったし,成人一人の年間主食費以上の授業料を課せられていたから,国民の圧倒的多数を占める農民はその負担に耐えられなくて,1877年の就学率は30%に達しなかった。国民の大部分を占める農民にとっては不可欠の子女労働力を奪われることになったし,学校建設のために寄附や労働の提供を強いられ,それでもなお不足で村有林などの共有財産が売却されるということもあったから,教育義務化に反対する暴動がおきたところも多かったのである。
 大学開設まで含めて高等教育政策は(工場もないのに工学士を生産したので,官庁に入った一部を除けば卒業は失業であったし,学術研究のためのものではなく)マンパワー政策とみるべきものであった。けれども教育そのものは,「投資」に見合う出世(成功)を約束するものとして,すでに労働力過剰の中の有効労働力の不足という情況に対応しながら,総じて言えば,非常に短い間に普及し,文盲率が急に低くなっていった。1890年以降になると教育の普及と高度化は産業の発展によって拍車をかけられていく。
 (ⅱ) 徴兵制 1872年陸軍省は徴兵令を布告した。それは徳川時代の四身分制が解体されたことに対応して,士族も平民(農民・商人・職人)も「抗顔生食」は許されず「国家の災害を防ぐは即ち自己の災害を防ぐ」ことであると理由づけていた。兵役の身分差別を廃したことは軍隊の近代化=国民化である。民主化といってもよい。だが,それは志願制ではなく,強制であった。それにもかかわらず,身体的欠陥や犯罪歴の他にもいくつもの免除および猶余規定があった。官公吏,国立上級学校学生,留学生,医師その他特殊技能者,「家に故障ある」者つまり戸主および戸主代行者,270円(代人料)を上納した者,などは兵役を免除(ないし猶余)された。この結果,各家族の二男以下の者,人口の多数比としては農家の健康な二・三男だけが主として徴兵の対象となった。そこに上級マンパワー維持の政策・家族制度護持の政策と徴兵制度とを共存させようとした当局の意図がうかがえるだろう。
 とかく閉鎖的である農民子弟にとって,軍隊が,一種の広域的な社会的接触・集団規律の訓練の場となり,同年兵同士にクラスメートとしての結束が除隊後も維持されることになってこれまでにない社会集団を生み,社会的訓練の場とさえなった。しかも,軍隊が職業教育の機会となることもあった。しかし,在郷軍人会というクラブ組織が草の根レベルにおける権力の補助機関に転じて行なったのもまた明らかである。
 270円という大金を支払うことのできる富裕層が免除されたのは,一人を失うことでかえって多数の兵員を養う費用が調達されたからである。そこに金権主義が軍隊に〓透していった実例をみることができるだろう。そのことは,中小農の二・三男が多く徴兵されていたところに徴兵という名目による労働力の吸い上げ=賦役に他ならなかった,のに対応している。だから,さまざまな免役工作が行われて,1876年には壮丁30万人の中83%が免役者であったし,毎年1万数千人の兵員をやっと調達できるにすぎなかった。しかも,旧士族が士官・下士官などの職業軍人になっていたので,彼らの旧身分意識が軍隊固有の厳格な階級序列制と重ね合わせになって「百姓,町人,職人」出身の兵を苛酷にあしらった。こうして抵抗するすべのない下級者に対する制裁と強圧的酷使が「天皇陛下の」日本軍隊の内部における非人間的な構造と生理を特徴づけていくことになる。
 中央政権の富国強兵政策にもかかわらず軍隊そのものに対する一般の評価は格別高いものではなかった。日清・日露の両戦争での勝利が軍人と軍隊のプレスティジを高めることにはなったが,軍事拡張競争の時代が終り軍縮の時代になるとまた低下した。
 陸海軍の学校は,しかし,師範学校とともに教育費が必要でなかったために,高額の教育費を負担できない中産階級の中の優秀な子弟を集中させることになった。そのかれらが完全に近代化し国民化した軍隊の指導者層を形成するようになっていくのだが,1910年代なかばからのちの政党政治の腐敗が,将校たちを右よりに過激化させることになる。彼らの国粋主義的ウルトラ・ナショナリズムと,1910年代末に定着した批判主義的な左翼急進主義とには,国家中心主義と国際主義という決定的な相違があったとはいいながらも,内政問題に関しては,絶対値において相等しいところさえあったところに注目すべきではあろう。それは彼らの部下である兵士が大方貧しい農村の出身であり,徴兵が労働力を吸い上げて貧困をなおひどくすることに,将校として危機を感じていたからである。強兵論が社会改造論に接近する理由はそこにあった。
 (ⅲ) 地租改正―都市・農村問題の展開―これこそが明治政府の近代化努力の中で最も重大な改革事業であった。新政府も幕府と同じく最大の財源は地租であった。地租は大方が現物であったために,これを市場で換金しなければならず(それが特権商人の仕事であった)収穫の多寡に左右されて一定しないという不都合があった。政府は執権6年目の1873年から6年を費して地租改正を行ない,地券を発行してその所有者から地租を金納させた。地租は新たに設定した地価に応じて,その3%が全国一律に徴収された。地価の設定が割高であったために,納税者の負担は前政府時代と変らなかったし,そのことへの不満が一揆になったところもあったが,これで地租の地域的不公平はなくなり,米価市況や作柄に左右されない安定的な歳入を政府は確保できた。附加税ともでは収穫米価の34%に達する高額の徴税は,それ以外に財源がなかったからであり,しかも政府が導入すべき新産業と軍備のために巨額の資金がすぐにも必要だったからである。
 したがって,ここでもまた,日本の近代化を支えたのが農民に他ならなかったことが確認できる訳であるが,他方では地租の金納化が農民層の分解をうながし,次第に土地を集積していき,やがて産業資業家に転ずるものさえ出てくる富農層をうみ,かたわらでは小農・小作農に転落し,次いで脱農してプロレタリアートになるものとを出す契機になった。
 これに併行するのが旧武士層の給与打切り処置であった。40万戸,人口の6%200万近い旧武士層への支給は経常歳入の30%も占めていたので,1876年に支給を停止し,代って一時金を公債で支払った。旧藩主層は巨額の公債をえそれが銀行その他の産業資金に転じていくことにもなるが,一人平均で548円しか支給されなかった下級武士の多くは,公債の発行そのことも理由の一つであったインフレと,正貨の流出・対外信用の低下に狼狽した政府が一転して緊縮策に転じる(1881年)という経済変動の波にもまれて公債を手放して無産者に転じた。彼らが手放した公債は商人や金貸業者の手元に集められやがて新しい産業の資本に転成していく。役人や教員になった下級士族も少くはない。だが大部分の旧士族はいずれにせよ没落し都市窮民化したので,政府は治安対策の上からもさまざまの救済策を講じ授産に巨額の資金を投じたものの成果はさしたるものでなかった。農民は維新の経済負担の引受人であったが,旧武士層は新しい事態に対応できない落伍者・被害者であった。
 彼らと並んで新たに都市下層社会の一角を占めるようになったのは,武士層のみを顧客としてきた特権的職人層であった。彼らがもっていた高度の工芸技術は,金沢などで保護の努力がなされて,高級美術化したものは生きのびたが,産業化の過程で消滅してしまった。特権職人の他に離農して都市に流入する農民たちがいたが,戦乱のあとの地租改正で,災害,洪水や地震また家族の疾病などによって立ちなおれなくなった者たちである。こうして産業化以前にすでに都市問題は始まるのであった。職人層の一部とこうした底辺人口が新しい産業に吸収されていくのは数十年も後になってからであり,そうなってからも一部分が吸収されたところでそれに劣らぬ流入人口があったから,不良住宅の密集や伝染病の慢延などという問題は,失業問題と共に一向に解決への糸口がつかめなかった。こうした未熟練労働力,無特殊技能人口にも残されていた雇用・就業の機会は,土木工事・建築現場などの日雇い作業であった。その他に頑健な者ならば,鉄道・鉄道馬車と同時に登場してきた都市内交流機関であった。人力車の車夫という就業さきがあった。そのような仕事からの収入だけで家族を養うことはできなかったから子供たちまでがさまざまな家庭内の賃仕事をしていた。たとえばマッチ箱のレッテル貼りなどは最も割のよい仕事だった。
 また,行商や露天商も彼らの仕事であった。大都市や近郊の寺社の祭日を次々とたぐっていけば雨さえ降らなければ年間250日以上も営業ができた。そうした路上営業は零細な規模のものであったとはいえ取扱われる品目は多岐にわたり植木,花などの季節のものの他に書画・骨董・美術品・刃物その他道具類や金属雑貨・医薬品・書籍・中古衣類と並んでうどん,そばのスナックや菓子,飴・酒にまで及んで庶民の需要に応えていた。夕刻,日給を手にした者たちの必要を充たすために夜間も営業する小屋掛けの店の列はこの時代を特徴づけていた。部分的には,それは商品流通が政府の統制するところとなる第二次大戦まで続いたし,戦後復活して家庭電気器具の専門店街になったところさえ東京にはある。

 (3) 日本式雇用・経営形態 明治になって文明開化の風潮の中で新しく出てきた都市的な産業に,靴,鞄,下駄,鼻緒,荷車,煉瓦,帽子,石けん,マッチ,ガラス,鍍金,器械,印刷,西洋家具などがあり,それぞれが専業的な職人層を需要していた。自家営業には金銀細工,ガラス細工,皮細工,西洋洗濯,洋傘製造,ペンキ塗装などがあった。そうした職種には西欧化の洗礼をさきに受けていた中国人が多かったが,次第に日本人のものとなっていった。そういう仕事での職人・職工の賃金はきわめて低いものであったが,雇主との親族・同郷関係または個人的な信頼関係が雇用の理由になっていたから職工・職人その者の賃金は低くとも,職工・職人の妻子を雑役や見習い仕事,家庭内職に雇用して若干の労賃を与え,総額では餓飢線をこえるという仕組であった。これを全家族雇用制またはトータル・エンプロイメントと命名した学者もいる。家長の事故ないし引退にはその息子が代って雇用されるという例は,企業と雇用者の間に近代的な大企業でさえ今日においてもみられるところで,そこに特殊日本的な経営の形態(=情宣的・擬似家族的関係)だと,これをみる学者も多い。
 ただここで注意しておかなければならないのは技能者としての職人がもっていた特殊な訓練・修業の方法と意識である。新旧の全ての分野で,職人たちの職場への定着率は非常に低かった。その理由は,各地をまわりさまざまな工場や企業で働くことが技能を向上させる仕方であると信じられていたからである。その行動範囲は鉱夫であろうと料理人であろうと驚ろくほどに広かった。全国にまたがることもあった。それが職人“特殊技能者”としての履歴として高く評価されるのでもあった。事実彼らによって技術は広く伝達されたのでもあった。この“渡り職人”の技能を即座に見抜くほどの能力が経営者には期待されていたし,そうした雇用主のところには多くの有能な職人・職工が集まるのでもあった。彼らはときに師弟の関係をもち,一定期間を無給の徒弟として働くのであったし,独立の職人として渡るようになってからさえ給料は極めて低かった。高い技能の評価を誇るのが彼らの名誉であって高い所得ではなかった。この職人の貴族主義・美意識をこわしたのは徴兵制度であり,修行年限が20歳までになってしまったからである。また同時に技能レベルの頭うちも招いた。漂泊の技能者たちが定住への契機をもつのが結婚であったが,それはまたしばしば技能の後継者をつくることでもあったし,「一人では食えないが夫婦二人なら食って行ける」という全家族雇用のシステムと結びついたものでもあった。
 技能訓練を受けてないで都市に流入した脱農者の場合にも,似たよう仕組があった。それは親方・職人という関係ではなく,むしろpatron-clientsというべきものであったが,身元保証や確かな紹介がある者にかぎって,請負業者としての親方が衣食住から冠婚葬祭まで子方の生計一切をまかなってやるけれども給与は支払われない。年に二回一方的に査定されたボーナスが与えられるにすぎない。土木建築業や鉱礦山にもみられたこの社会的仕組みは,労働力の一方的な収奪という一面をもつけれども,雇用機会からも自由な状態におかれたプロレタリアートとしては私的な[・・・]社会保証をえていたので安定はあった。技能者が意識的に求める不安定と無技能者[・・・]の求める無意識の安定との対称性がそこに見出せるだろう。また別には,技能という無形の財産をもった者の誇り高さと,無形の財産さえない者の無気力さとも見ることができる。確かなことは,後者の親方のもつ高能率の組織力と指導力,そして両者に共通な堅固な人格的な関係は近代化されたセクターには見られないものである。
 日本の工業における終身雇用制度は,1930年頃までに,すなわち第二次の文明開化・殖産興業の時期に,有能な技術者・技能者を引留める策として,同時にまた次第に高まってくる労働攻勢への対策として定着していったものであるが,そこにもまた経営における擬似家族制の高次復活を認めることもできるだろう。それは,一方では企業内部における管理・職階制の展開につれて上昇志向に動機づけられた忠誠競争を激化させることにもなるが,他方ではその擬似家族主義の故に労働組合が全国的規模の職種別組織化を妨げながらも企業=家業の永遠性を保証する能力の有無で経営者をきびしく追求する任務を労働組合が企業別組合として持つという結果をもたらす。
 給与における年功序列制は,企業が従業員の忠誠と貢献を勤務歴で評価することに根源をもつ(したがって技能・職能の評価は相対的に低い)けれども,生計費の確保こそが第一であった戦後インフレおよび高度経済成長という名のインフレの時代に,労組さえ主張する給与・賃金体系として定着したのであった。

Ⅲ 殖産興業

 1 外国技術の導入 近代西欧の科学技術が日本に持ちこまれるのは明治維新になってから突然[・・]開始されたのではない。幕府時代にすでに始まっていた。だがそれは軍需が中心であった。明治になってからも軍需は引継がれるけれども民需が増えたことが著しい。新旧の政府の相違は,前には専ら器具・機械など完成品の購入が中心であったが後になるとそれを模倣して生産することが試みられるところにある。そこに大きな相違を認めることができる。操作の修得,維持管理および修理の段階から類似のものを工夫する国産化を目指した,という風に?んでもよいだろう。
 明治時代を特徴づけるのは,外国技術の導入の規模が一挙に拡大し多方面にまたがったということ,および国産化を試みたというところに特色がある。その理由は西欧の技術や施設が高価すぎたからである。勿論,国産化または代替品化の試みのすべてがすぐさま成功したのでもなかった。(そして,時には日本側に技術知識がないのに乗じて使い古しのものを法外の値で買わせることが少なくなかったからである。)しかし,失敗を重ねながらもともかくそれが熱心に試みられた。
 たとえば紡績機械の国産化は,1872年に官営で設立された工作機械工場(製鐵所と呼んでいた)で試みられたがみごとに失敗して英国から買付ける他なかった。成功したのは機関車であった。東京(品川),横浜間17.7マイルに開通したのが1872年のことであったが,アメリカの汽車会社に日本人技師の設計で発注されたものが到着すると同時に一台は直ちに解体され同じものが造られ出したのである(1893年)。その先に客車は国産化されており(1867年)台車は車体国産,枠輸入で生産されていた。
 そうした工場は,当時はすべて官営であった。民間にはそういう仕事に乗り出すに充分な資本が蓄積されてはいなかったからである。明治初期に造船所または製鉄場と呼ばれていたのは,本来の造船・製鉄を仕事としていたのではなく,礦山機械その他機械一般と船舶・紡績用原動機を製作する金属・機械工場のことであった。
 その最初のものは,オランダの協力により幕府が6万両の巨費を投じ3年半をかけた,海軍伝習所(1855年設立)に付置させた造船所であった(1876年に三菱に払下げ)。次いで1865年に起工されたのが横須賀製鉄所(兵器工場)であった。こうした前史があってでなければ,明治前半期の工業化は達成されなかったはずである。
 日本の工業化は,列強の軍事的脅威に動機づけられていたが,それはすぐさま経済的な脅威に連続していたためにやむなく強行されねばならないものであった。それ故,鉱(礦)業→製鉄→造船というヨーロッパの発展経路とその有機的結合を逆転させた,造船→製鉄→鉱(礦)業という筋道をたどるのだが,そこに幾多の困難と無理が生ずるのは当然である。明治エリートが対決させられたこの溯行的工業化が曲折をへてどうやら産業革命に到達するのは1890年代に入ってからであり,その完成は日清戦争(1894~95年)の賠償金によって押上げられたのであった。工業の動力が水力から蒸気力に主役を交替するのが1885~90年の時期であった。
 これに次ぐ段階は,鉄鋼産業が一貫生産の体系として確立し,鉄・セメント・ガラスなどの自給体制が整い,重工業と化学工業とが自立し,エネルギーの主役が電力になる1910年なかばから始まる。
 明治政府が,「百工勧奨ノタメ」に新設した工部省(1870~85年)は,新しく産業を興すために当初3,000万円の資金を用意したうち,54%が1873~76年に集中しており,その80%が鉄道敷設と官営鉱山に投じられた(他は電信および造船所などの重工業であった)ことは,経済開発のための技術移転問題を検討するさいには検討材料となるのではあるまいか。
 政府の方針は基幹鉄道の国有化,地方鉄道の民営であったが,財政難のためにその構想はなかなか実現しなかった。ために幹線さえ士族の公債を資金とする民間会社の手で敷設されることが多かったが,やがて政府が買収することで当初構想が実現されていく。
 これに対して海運は,最初から民間経営を強化する方針がとられていた。1874年の台湾出兵が契機で三菱が助成金を受け,次いで船舶の無償払下げを受けるなど,政府と特別な関係で成長していく。それはアメリカ太平洋郵船会社をわが国沿岸航路から駆遂という目的があったためである。三菱会社は莫大な利益をあげてわが国最大の海運会社になっていくが,同時にそれを国益の擁護と結びつけていた。代表的な実業家渋沢栄一に典型をみるように,明治時代の人びとを特徴づけているのはこういう国権意識であって,たとえば公債を資本にして発足したいわゆる士族会社の多くは定款にそのことをかかげている程である。それだからこそ,国家への忠誠にあついほどそれを国民への忠誠と換置しやすく,したがって地域社会への協力や環境問題への配慮を欠くという傾向さえみられるのでもあった。
 他方,道路の開発は中央政府が計画して地元が経費を負担するというものであった。この点で産業の発展がもたらす需要に応じたものではなかったし,産業を関発する狙いをこめてはいたものの,まず政治的・軍事的に動機づけられていたので(しかし最初の鉄道は英国で発行した国債で資金を調達している)陸軍が運行ダイヤの決定に参加していた。また採算性は当初から関心事ではなかった。
 輸出産品の産地と貿易港をむすぶ運送路は経済性の高いものであったから,短い鉄道馬車の時代からすぐ鉄道時代に入ったが,軽く嵩ばらない高価な商品(つまり生糸など)の運送に適していた。このように交通政策のうち道路だけは徳川政権の延長線上にあった。幕府が倒れる直前にアメリカ公使館員ポルトメンに江戸・横浜間の鉄道敷設権を認めていたのと鋭い対称をなしている。鉄道の路線をどこに通すかという問題は,軍事的・政治的配慮から外敵による破壊の憂いがないように本州中央の山岳地帯を通せという陸軍主脳の主張があったけれども,1878年の内戦の兵用輸送問題が太平洋沿岸に決定する契機になった。また幹線鉄道敷設は産業的需要にさきがけて,経済性や沿線住民の被害をかえりみることなく,強行された。

 2 三大技術導入 ある科学技術史家によれば,明治の外国技術導入で特筆すべきは大阪に開設された造幣所(1871年)・群馬県富岡の製糸工場(1872年)・東京横浜鉄道である,という。
 さきに開国と同時におきた金貨改鋳とインフレ問題にふれたが,明治維新もまた通貨制の混乱にまきこまれていたから,正貨問題は国際的にも極めて重要な課題であった。外国貨幣の精密な分析(その技術はすでに江戸時代に定着していた)の結果,どれもが純度均一であることを知り,近代国家としては洋式技術の導入が不可欠だという認識が政府に生れた。従来の鋳造から圧造に代えたのだが,その化学工程と機械工程のうちでは前者の方が金属学・化学の知識が必須なので難しいとされているのに,そっちはかえって幕末以来の造砲の経験が伝達されていたから,機械工程の方は比較的容易に習熟されて,標準化された模倣の困難な正貨が造られるようになった,という。そのさいに刀剣の鍔その他に彫刻する彫金工の伝統技術がその意匠とともに生かされたのだが,その彫金技術についてはお雇いの外国人も激賞したという。
 重要なことはこの造幣所開設によるメートル法と十進法の採用であって,それは確かに正貨問題や度量衡制問題を越える要素を含んでいる。
 製糸をとりあげる前に,ここで金属の問題が出たので,鉱礦山における技術導入問題に触れておかねばならない。正貨問題がらみで金銀銅鉱山をみれば,新技術が導入されたことで生産額が上ったことは重要である。特にそれまでの技術ではカスとして捨てられていたものから金属を採出できたのだから導入の利益は大きかった。
 また労働の側面でも,それまでには最大の問題であった排水と坑外への運搬が機械化されたことで能率は一挙に高まった。これで多くの廃鉱が蘇生する。その意味では在来技術の壁を突破した画期的効果があったのはこの分野であっただろう。
 しかしそれにもかかわらず,労働の技能と組織は在来のままでそれに近代技術が接木されたにすぎなかったことが逆に制約になっていく。鉱山でも礦山でも,労働の用具は簡単なものであったし,それだけに個人的技能差が生産に大きく反映する。そして,危険を伴う仕事だから技能の程度による秩序をもった家族同士またはそれと似た小集団ごとの人格的な信頼関係を軸にした作業単位を構成しているのが例であり(友子組織),各作業集団のリーダーは相互に評価され信頼される経験(技能と安全知識)をもつ者ばかりであった(友子間の関係)から,生産の能率を重視して現場リーダーの合意をとりつけない場合には激しい抵抗に遭わねばならなかつた。労働の安全性に対する配慮が強く求められるようになったのである。鉱礦山とも近代技術の導入は坑内事故の規模を大きくしたのである。
 鉱・礦業資源について特記すべきことがある。明治政府は,徳川時代の直轄鉱山開発制度を引継いだのであるが,執権6年目(1873年)に,地租改正条例の布告と同年に,日本坑法を定めて外国人の鉱山経営への参加,外国人の鉱山労働を禁止している。
 お雇い外国人として官営小坂鉱山の運営にあたりのちに東大教授となって採鉱・冶金技術の普及に大きな貢献をしたドイツ人ネットーは,開発にとって「緊急かつ容易な方法は外国人をして鉱礦山を営ましめることにある」として「欧州にない」日本坑法の制限に疑問をもちながらも,「外国資本に鉱山の開発を委ねれば低廉な中国人労働者が流入して厄介な外交問題に発展する危険がある」として,制約に理由があることを認めていた。
 ついでに述べれば,1850~60年代には中国の近代工業・近代労働の水準は日本よりも高く,日本よりはるかに多く自国語による科学技術書が刊行・普及していた。それはキリスト教宣教師たちの努力と工夫によるものであって,中国訳の西欧技術書はヨーロッパ語を解する者が極端に少い時代には決定的な影響力をもつのであった。
 科学および技術の導入には新設の海軍が最も熱心であり,その海軍が英国海軍にならっていたところから科学技術用語は幕府時代のオランダ語から英語にスイッチされていくが(産業革命達成後には医学とともにドイツ語が主力となる)その中継点に位置したのが中国語技術書で,伝統的教養をもつ者なら誰でもが親しむことができたものであった。

 3 製糸工場と紡績工場 繊維産業のこの二つの部門は,日本の工業化の前半史における花形であった。前者は専ら輸出むけで終始したけれども,後者は輸入代替産業として出発し,間もなく輸出産業ともなっていった。綿織物は,麻に代って大衆的需要に応えるものとなっていったが,絹は高級衣料で大衆のものではなかった。また,その主要生産地は絹が東日本,綿が西日本をそれぞれ中心とする産品であった。
 明治政府は,生糸が西欧商人のお目当て産品であることを知って,外貨を獲得しようとした。日本の生糸技術は中国に比べると劣っていたのだが,太平天国の乱で生産が停滞したことと,その先に欧州の生産地フランスに微粒子病が流行した故で,そして日本生糸が非常に安価(国際価格の半値以下)だったので,注目されるようになったのである。
 だが,製糸技術が違うところから色こそ白いけれどもデニールが不揃いで,ヨーロッパではタテ糸にはならずヨコ糸用にのみ用いていた。したがって,機械製糸に転換することで高価格品にすることができた。
 政府は官営模範工場を作って新しい技術の普及にのり出した。それが富岡工場である。設備・機械一式の外に外国人技師も雇って指導に当らせることにした。だがそこで問題はおきた。工女が集まらないのである。西洋に関する情報が極めて少い当時のことであり,流言蜚語に人びとが動かされやすく,まして地方の町村では信じ難いような迷信や因習の中に人々がとりこまれていた時代のことである。
 西欧人の飲むブドウ酒は人間の血であり,製糸工場に行く娘は生き血を吸われて生きて戻れない,ということが信じられたからであった。各町村から15名ほど13歳~25歳までの女子を差し向けるようにという政府の命令も守られなく,区長の娘が応じないのはその証拠だ,と噂されて窮したあげく,富岡に送りこまれるようになったことを,初期の工女の一人が記録を残している。(和田英『富岡日記』)。学区制制定の翌年なのに,そういう記録を残せるほどの者が工女になったということに注目しなければならないだろう。1878年頃から製糸工場が増え,女工の質は下り,女工という呼び方が蔑称になる。
 彼女は,他日この地(長野県松代)に製糸工場開設のおり支障なきよう覚えること,という父の命令に従ったものである。15歳の時に,彼女の応募が口火となって同調した同郷の16名とともに入所して,1年余で郷里に戻り,新設製糸工場の現場指導者となる。その工場のことを「富岡と違うこと天と地ほど」と言い「銅,鉄,真鍮は木となり,ガラスは針金となり,煉瓦は土間」という設備に驚いている。だがそれは,松代の人びとの資力に合わせた真剣な資本節約の工夫であったのだし,それでも製糸は可能だったのである。在来の技法に執着した人たちとの対立は,色の黒い彼女たちの生糸が何倍もの高価で外国商人に買取られることで解消されていく。
 富岡工場は,そうした資本節約な工場が各地にできたことで,採算割れして潰れていくが,その歴史的役割は立派に果し終えたと言えよう。
 富岡の製糸工場が操業する前に40キロほど離れた都市では,外国人技師をむかえて技術を習得することが抵抗にあって失敗している。それが富岡では克服されたのは,失敗の当事者の忠告を容れたこの責任者の説得が大きい役割を演じている。技術導入のチャンネルとエージェントの組合せいかんが文化摩擦ばかりか経済的緊張をも左右することを,この二者の比較は教える。前橋では,養蚕と製糸との分業がなかった上に,問屋の支配力が強かったのである。
 総じて言うならば,原料生産・製糸・織布・染色というAからZまでの工程をいかに技術的に合理性をもつ段階に分解するか,そしてどこを機械化するかが,経済的にも機械・技術導入の決め手になる。
 紡績の場合も事情は変らない。しかも,棉作・紡糸・綿織過程は江戸時代にすでに数段階の地域的分業になっていたから外国技術導入の問題が文化摩擦をうむことはなかった。ここではむしろ,安価な輸入品との競争が問題であった。綿作は農民経済にとって米作に次ぐ重要な商品作物であったから,それは農民の死活問題でもあった。紡績も官営模範工場を建設して実験したあと,2,000錘の小工場を各地に合計10ヵ所設ける計画を政府はたて,(紡績機械の国産化に失敗したので)英国から輸入した施設10基を,無利息・10年分割払いで民間有志に払下げることにした。
 案に相違して堅実なこの計画は10年経たずに3分の2までが倒産するという失敗に終った。理由は,①2000錘では経営規模が過少で固定費用部分の比率が大きくて経営を悪化させたこと,②動力としては水車が利用されていたので田植時期や夏期には渇水が理由で操業ができなくなったこと,③熟練の労働者・技術者が不足だったが外国人技師を雇うほどの資力が経営者にはなかったこと,そして設備能力をフルに利用するには原料の供給が質量ともに充分でなかったこと,にある。
 紡績業は,一転して,最進式の機械と設備を輸入した大型工場としてのみ成功した。そこでは当時は未だ高価で珍しかった電灯を工場に点けて,従前は避け難かった火災の危険を除くと共に,二交替制の昼夜業を行なった。それはインドの紡績工場を見習ったものである。しかもまた,この大規模工場では在来の国産綿花に依存せずインドの原棉を輸入したので注),西日本の棉作地帯は決定的な打撃を受けて沈滞した。その地帯が,やがてまた,それまでの都市型産業であった輸出むけの雑貨工業を不利ながらも引きこむことで新しい農村工業の拠点となっていく。ブラシ製造や眼鏡用レンズの研磨ならびに釦の製造がそれである。貝釦の製造は神戸の外国人商人が工場制で開始したものであるが,そこで技術を修得した者たちが生産工程を10以上の過程に分解し,製糸の場合と同じく資本の節約を工夫して,農家の家内副業に可能なところにまで単純化したために,近代的工場はついに破産に追いこまれていった。
 注 輸入にとって有益だったのは対インド貿易の日本船舶の戻り便が利用できたからであり,日本の貿易商社が安定供給のチャンネルを開発したからである。しかし,外国貿易で日本人商社が外商をしのぐのは20世紀に入ってからである。
 こうして,輸出産業としての製糸と輸入から輸出に転成した(1900年頃から)紡績業とは,労働集約・資本節約化=小規模化という方向と,大規模化・資本集約化という方向とに対照的な変化をみせながら,工業化の初期における最重要セクターになっていった。
 両部門とも,人口・耕地比が悪化の一途をたどる農村・国際経済の影響をますます強く直接に蒙むるようになった農村注),つまりは,単作化.専業化に追いこまれて行って窮乏化の程度を強めていた農家家計を背景とする農村からの婦女労働力の流出によってまかなわれてきた。長時間にわたる激しい労働は彼女たちの健康を蝕み,肺結核を国民病とする最も有力な要素となっていった。安い前渡金で束縛された彼女たちにできる唯一の抗議は逃亡であったが,それはもっと不利な雇用に甘んじるか,さもなくば醜業に転落か,という途の選択でしかなかった。そして,それさえ,彼女たちの弱みにつけこむ悪い奴らに確たる手段を提供することでもあった。
 19世紀末からの20余年は日本産業史が彼女たちの哀史で綴られた時期でもあったが,紡績にせよ製糸にせよ,最新の技術をマスターして帰国した技師長を三社で奪い合い,結局三社を一週二回づつ巡回するという例さえ出たが,そうした上級技師は別にしても,酷使による労働の消耗の激しさと有技能者の不足が女工の激しい争奪戦を生むようになる。募集経費の増大と前渡金の増大がかえって拘束と監視を強化させることになって,逃亡防止のための寄宿舎収容と強制貯金制度(逃亡者や一定期間内に退職する者には貯金を凍結没収すること)を一般化させることになった。
 争奪工作と引留め工作の激化は,大規模工場と小規模工場での格差を拡大し,前者では次第に福祉厚生施設の充実を招いたが,後者では暴力と奸計とが用いられるのであった。
 注 農民の窮乏化は小作争議の頻発という形で示されるようになってきた。政府の農業政策は一貫して自作農創出策であったけれども,こうなってきては.小作立法が重要性を帯びて浮上した。それが1924年の「小作調停法」であり,その任務を現場に近いところで果すべく警察権まで与えられて各県に配置されたのが「小作官」であった。この小作官制度がなければ,小作紛争にまつわる克明な記録は作成されず,第二次大戦後の「経済民主化」のための農地改革(=不在地主との排除と小作農の自作農化)が二年足らずの中に完全実施をみることは不可能であったに相違ない。

 4 製鉄所と外国人技師 徳川政府にとっては大砲の国産と海軍の創設が理想であったように,明治政府にとっても軍艦の国産化が念願であった。明治の工業化はそれが直接の狙いであったと言っても許されるかも知れない。軍艦は近代科学と近代産業の粋から生れるものであったから,そのためには先行条件となる二大分野の開発が必要であり,そして何よりも鋼鉄の生産が先決であった。だから明治政府は明治13年,2000錘紡績工場の開設の時にすでに東日本の岩手県釜石に製鉄所を完成させた。工場設置の場所や礦石の運搬路,燃料や水の調達の仕方,そして何よりも労働者の就業条件を重視する日本側の責任者大島高任の見解は,主任技師者として雇われた英国人の意見と対立した。当局は,しかし,すでに旧法で実績のある大島を排して,英人技師の主張を全面採用した。こうして火入した溶礦炉は火災,そして凝結事故で,ちょうど一年め,作業再開6ヵ月にならないで失敗,閉鎖に追い込まれた。
 次いでドイツ式による官営八幡製鉄所が20年後(1901年)に火入れしたがこれまた一年足らずで故障,5年再開して,やっと銑鉄の生産が軌道にのる。失敗の原因はどこにあったかといえば,ドイツをモデルにした製鉄所の設計が日本の原鉱・燃料の条件に合わなかったのである。また日本の原鉱ばかりでなく中国の大冶鉄を主原料にすることは火入れ前にきまっていたが,中止後は開欒炭を輸入することでやっと解決された。つまり,技術の導入・模倣はいかに精緻になされても,それだけでは成功も定着もしないという具体的事例がここにある。
 八幡製鉄所は失敗にめげずついに銑鋼一貫生産の体系を確立したとはいえ,それは結局外国の資源に依存する他ないもので,国内にあるのは熟練労働者を含むマンパワーとノウハウだけという特殊日本的な重工業であった。それにしてさえ,官営工場であったからこそ,当初の公害問題を訴える住民の声を押し潰しながら,技術的には成功した。とは言っても,採算はとれないまま10年以上も操業を続けて,第一次世界大戦による「鉄飢饉」で初めて赤字を解消できたのである。「鉄は国家なり」というのが製鉄マンの苦闘時代を支えたスローガンであったという。それなくてはできない長年月の苦労ではあっただろうけれども,一度ことが成功してからは逆に危険さえもはらむものであることは言うまでもない。
 製鉄所の計画を外国人の設計に委ねることに反対だった冶金工業者野呂景義は,八幡の創設期には斥けられ,第一回の失敗のあとになってから担ぎ出され,問題は燃料のコークスにあること,日本には良質の強粘結の炭が乏しいことなどを彼は指摘したのである。彼の苦心でコークス問題は解決されるが,国家的プロジェクトであればますます人選に人脈色・政治色が入るので,それだけ税金が浪費されることを,一度は斥けていた野呂担ぎ出しの例は物語るだろう。
 その野呂はこう言っている。「技術に国境なしとはいえ,実際の適用にあたっては各国それぞれの風土に適したやり方をあみ出さねばならない。この創造的な仕事を(技術の)受入れ国が分担することによって初めて成功の可能性がある」と。今日やかましい適正技術化をすでに今世紀の初頭にかれはこう言っている。
 いち早く成功したように思われる製糸の場合にしたところで,蚕という生きものを扱うだけに日本の風土に即した改変は一層不可欠であり,イタリア式の大枠直繰方式が小枠化され,フランス式の共より式より掛けが,ケンネルに交換されるのに,実に20年を要している。製糸以前の養蚕,桑の裁培にもさまざまの技術改良,品種改良が生物学,植物学などの科学知識を動員してピークに達するのが,第二次大戦直前であった。戦争が,製糸に保証していた安定市場を一挙に奪った。かくして適正技術による適正商品としての製糸の産業的生命は終ってしまったのである。しかし,かえりみて,「機械製糸と言っても生産の量と質は工女の指先ひとつ,それも主として索緒・接緒の技術に大きく依存していた」(奥村正二)のであり,「そもそも製糸のことたる機械の効用に訴うるの範囲極めて少なく,某大部分は工女の技価にまたざるべからず。故に之が作業の効果は器械の精良に求めんよりも,主として技術の功妙に求むるの遥かに勝れるに如かざるなり」と機械導入まもなくの頃の人が述べている。
 外国の技術をそのままに作動させるのではなく,適正化することが人間と社会の開発には必要であり,それが適正商品の生産に連続させられ,適正な市場をもってこそ技術として定着し開発されるという事例を最後にもう一つだけ加えておこう。
 このプロジェクトの中の一論文が指摘しているように,日本の農業は17世紀末~18世紀初頭にすでに限界に到達していた。
 明治以降最後に残されていたフロンティアは北海道であった。明治の開拓官僚はここでも外国人技師の意見を尊重した。それは牛を飼いバターとミルクをのみ馬鈴薯を作るのがよい,という北米式農法の勧告であった。確かに諸々の条件が北米に似ている北海道にとって,これは一見合理的な開発プランであった。その路線で一部はたしかに成功した。しかし,それはアメリカ式によってではなく皮肉にも,デンマーク式農法によってである。
 悪戦苦闘の結果,到達したこのデンマーク式農法の定着までの過程に,多くの入植農民は亜寒帯の北海道で熱帯作物である稲への執着を断たなかった。品種の改良は農民の手でばかりなされたのではない。大学や試験場の協力も確かに大きかった。今日北海道は日本一の米産地である。農民が本能的直感でかぎとったように,高緯度の北海道では春がおそく秋が早くとも,稲の成長,結実に必要な日照時間は本州より長いのである。これがまず第一の条件。それよりも農民が重んじていたのは米の腹もちであった。北海道で同一の面積から収穫されるカロリー量の総計は,米が小麦の二倍であった。栄養学者がそのことを発見したのは比較的最近のことである。このことからして農民の米作への執着は,合理的なものであることが明らかにされた。開拓使の役人やアメリカの専門家がいまこれをみたら何と言うか私は分らない。私が追加したいのは,米は小麦を作るより三倍の労働力を要するということだけである。農民は何故,そうした労力を惜しまなかったのだろうか,総カロリー量は半分でも労働投下量が三分の一ならば,小麦の方がよいという選択だって可能な良い選択である。何時までも今の選択が続くかどうか分らない。しかし,現状は米を選んでいる。
 蛇足を加える。戦後,世銀は根釧原野の開発に融資した。不毛の地に機械化農業が展開する夢をのせて入植した農民の多くは今ではもう入植地を離れた。世銀の専門家がつけた条件であるジャージー種の牛は適正な市場をついに見つけられなかったためである。面子をかけて,世銀プロジェクトを成功させようとして機械化農業=農業近代化の実験に熱心に取組んだ農林省の努力も空しかった。非合法を承知でホルスタインにスイッチした農民,冬期以外にも現金収入のために農場を離れることのできる農家だけが定着できたという。このことは,改めて,外国人「専門家」の有効性に問題をなげかけるのかも知れない。私は野呂景義を思い起こすのだが,農林省の野呂景義が人には見えないところで,入植者とともに,営々と努力していることを信じたい。