技術と都市社会

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「東京史」研究の方法論序説

著者名: 石塚裕道
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目次

 はしがき・・・・・・・・・・2
1 近代都市史とくに「東京史」研究の現状・・・・・・・・・・3
2 幕末・維新期の江戸=東京をどうみるか・・・・・・・・・・6
3 西欧都市をめざした東京の都市改造事業・・・・・・・・・・9
4 「東京史」における資本主義と都市問題・・・・・・・・・・15


はしがき
 国連大学受託調査の課題,すなわち人間と社会の開発のための「技術の移転,変容および開発―日本の経験」について,筆者分担のテーマは,「技術と都市社会」具体的には都市(ここでは東京)の歴史を素材に,「外国技術」の導入入とそこでの技術移転がもたらす社会的諸影響をあきらかにすることにあるが,それを,以下のように理解するところから始める。
 明治維新を契機に,日本は,旧幕藩制社会を否定し,欧米先進諸国による「半植民地化の危機」のもとで,その外国の圧力を排除しつつ民族の統一と国家の自立を達成した。
 またそれと同時に,明治国家は「富国強兵」政策(資本主義化と軍備拡張)を推進することにより,東アジアで唯一の「独立」国の途をたどった。
 かつての全国最大の城下町で,幕府権力の拠点であった江戸を土台に,京都にかわって,あらたに首都に確定した東京にも,そうした明治国家の形成の過程が集約されている。
 旧来の伝統的な都市構造とそれに内包される社会的諸矛盾(ここでは,それを一応,都市問題のかたちで把えたい)をかかえ,東京は,対欧米従属化からの脱却をめざす国家的要請にこたえながら,都市改造事業(「外国技術」)を通じて,西欧都市への志向をつよめる。
 明治初期以降,深刻化する東京の都市問題の要因の一つは,そうした「上から」の都市改造の技術が,その受容基盤に定着するか否かの適応性さえも検討されず,移植されようとしたことであり,加えて,産業資本の確立期を中心とした急速な資本・人口の集中集積が,それを加速化したことにある。
 本稿は,前記の問題意識のもとに,まず,従来の研究状況を整理したうえ,近代都市史とくに東京の歴史を,「東京史」と表現し,その学問的方法の枠組を提供しょうと意図している。
 したがって,ここでは,受託調査の課題にそって,旧来の研究成果を基礎に巨視的な理論の骨ぐみを構築することに目標があり,個々の微視的な実証分析の作業は,今後の問題として残されるであろう。
1 近代都市史とくに「東京史」研究の現状
 近年,いわゆる「封建都市」の研究は,中世の諸都市を始め,近世の江戸・大坂その他を対象に,問屋資本や株仲間の組織,「打ちこわし」などをめぐる従来の多彩な研究成果から1),都市下層民の構成,民衆の生活文化,町人地の実態,幕藩制国家の都市支配の特質などの領域まで視野をひろげて,一段と活発化している2)。
 他方,「近代都市」の歴史分析では,大阪・横浜などに関する地方史・誌の刊行に対して3),とくに東京については,研究が遅れているといわざるをえない。
すでに指摘されたように,江戸の研究に関心が集中した時期は,これまでにおよそ3度あったといわれる4)。すなわち,帝国憲法制定から日清戦争後までを含む第1期で,この期間には,旧幕臣などによる「江戸回顧5)」と,官府修史事業の『大日本史料』の刊行にならった『東京市史稿』(1906年,民友社の塚越停春を主任に発足)が発刊され,江戸関係の史料収集が始まった。その後,大正デモクラシーに当る第2期には,とくに関東大震災による東京の崩壊を契機に,焼失した明治の東京とあわせて,江戸をふりかえる動きがあらわれ,日本歴史地理学会その他を中心に,ようやく学問的レベルから,江戸の都市研究が開始されたといえよう。なお,1920年(大正9),後藤新平が東京市長に,また大震災後には,内相兼帝都復興院総裁に就任したため,「帝都」復興事業との関連もあって,前掲『東京市史稿』の編纂事業も,一段と推進された。第3期は太平洋戦争の空襲による東京焼失とその再建を背景に,戦後,地方文書などの利用による地方史研究の進展,封建都市研究をめぐる問題意識の深化,各地方自治体による区市町村史の刊行などともあいまって,江戸の都市研究は,冒頭に指摘したように,発展の方向をたどっている。
 それに対して,「東京史」研究の歩みは,どうであったか。
 まず,日露戦争後から刊行され始めた前掲『東京市史稿』合計127巻(1978年までの既刊分)が果してきた史料収集の役割が重視されなければならない。同史料は,本来,「近世・近代の東京市史」編纂の意図のもとに,皇城編以下,合計11編6)に区分して,編年体に史料を配列・収録しているが,既刊分絵巻数の8割近くが,江戸関係史料により占められている。その歴史的意義の重要性にもかかわらず,現在では,その編別構成の区分の仕方あるいは東京関係部分の刊行のたち遅れなど,「東京史」研究の発展のうえで,1つの問題を残していることは否定できない7)。
 その後,東京の歴史研究は,江戸研究の第2期に相当する大正デモクラシーのなかで,普選を要求する市政民主化,その背後での「市民」意識のたかまり,あるいは深刻化する都市問題の解決をめざす現状分析の一部として,すすめられた。当時,市政に登場した後藤新平の首唱で,1922年(大正11)に設立された東京市政調査会の活動成果のなかにも,都市史ないし「東京史」の研究が指摘される。
 しかし,戦前において,日本ないし東京に固有の都市問題に取りくみ,現在からみても高水準の業績を残した同会の仕事に対して8),当時,近代都市史ないし「東京史」研究の方法論が歴史家の側に欠如していたこともあり,それを土台に,本格的な「東京」の歴史分析がまとめられることは,ついになかった。
 戦後,若干の先駆的業績を除き9),日本近代史,社会経済史の分析対象が,一つは農村史研究に向けられた理由には,敗戦による連合国の対日占領=民主化政策下で,戦前からの「資本主義論争」の遺産と,比較西洋経済史学の方法に学びながら,社会変革の主体を,幕末・維新期の農村内部における「ブルジョア的発展」とそのにない手に模索しようとした日本史研究者の問題意識があったといえよう。だが,その後,近世農村史分析のゆきづまりが,商品流通史の分野とその延長に都市史研究を要請したのみならず,とくに1960年代における日本経済の「高度成長」期には,都市人口の過大な集中や激化する都市問題などへの関心を反映して,都市史・都市発達史に関する研究が,隣接社会科学の成果をも吸収しながら,しだいに深かめられるようになってきた。
 それは,例えば「東京の歴史研究会」などの共同研究や地方史家の活動,あるいは自治体による,各区・市町村史と『東京百年史』(東京都1972-3年)六巻,また出版社・新聞社などの編集による東京関係の啓蒙書の刊行にも現われ,それらが現在の「東京史」研究のおもな部分をなしている。しかし,それらのなかで,各区・市町村史についていえば,若干の例外を除いて,官庁編纂の制度・機構・政策史のわくのなかにとどまり,『東京百年史』は,多くの歴史家を動員したとはいえ,各巻に共通する統一的な方法論を欠いているため,そこから,まとまった過去の東京に関する歴史像を,引き出すことは困難である。さらに,企業による興味本位の啓蒙書に,学問的成果を期待することはできない。
 それに対して,ようやく最近,産業史10)・賃労働史11)・民衆運動史12)・都市計画史・都市問題の歴史13)などの領域で,その分析の対象の一部に東京を含めるか,あるいは,東京自体を対象とした歴史研究が現われつつある。まだそれらは,それぞれの視角から,「東京史」へのアプローチを試みたにすぎないが,そうした研究成果を蓄積することで,将来,東京全体の歴史像を組み立てる作業も,可能になるであろう。
 1)それらの諸成果を整理した研究史として,北島正之「日本の町―その研究史と問題点―」(地方史研究協議会編『日本の町―その歴史的構造―』雄山閣,1958年)は,現在でも,学問的価値を失っていない。なお,その後,「江戸町人」を中心にまとめられた研究史として,水江漣子「初期江戸町人」序章(西山松之助編『江戸町人の研究』第1巻所収,吉川弘文館)が有用であり,また高沢裕一「近世の政治経済Ⅰ・4都市と流通」(岩波講座『日本歴史』26・別巻3,岩波書店)にも,最近の研究動向が要約されている。
 2)前掲岩波講座『日本歴史』26・別巻3以後,とくに注目される業績として,玉井哲雄『江戸町人地に関する研究』(近世風俗研究会),南和男『幕末江戸社会の研究』(吉川弘文館)を指摘しよう。また,1973年5月には,社会経済史学会が第42会大会において「工業代と都市―その社会経済史的考察―」(『社会経済史学』39-6号に報告掲載)のテーマで討論を深かめ,1978年10月には,地方史研究協議会により,大会「都市の地方史―生活と文化」が開催されるなど,都市史研究は盛行にむかっている(同会編『地方史研究』154・1978年8月,大会特集参照)。
 3)近代の大阪については,『明治大正・大阪市史』8巻,『大阪百年史』などがあり,さらに『大阪府史』7巻が刊行を開始した。横浜については,『横浜市史』本文編5巻9冊が,すでに完結した。
 4)前掲水江漣子氏の論文63ページ以降参照。
 5)旧幕臣や佐幕関係者らによる当時の歴史編纂事業には,薩長藩閥を中心とした「勝者」の維新政府に対する批判的対抗意識が貫かれていた。
 6)それらの各編の各称は,皇城・御墓地・市街・遊園・変災・宗教・上水・産業・港湾・救済・橋梁編で,他に市街・皇城・上水各編に附図がついている。
 7)未刊の史料については,東京都公文書館に収蔵され,市政専門図書館・東京都中央図書館の東京関係史料とあわせて,現在,それらは「東京史」研究の基本史料であるが,目録の不備もあって,利用の便は,必ずしもよくない。
 8)東京市政調査会の活動内容とその評価については,当面,柴田徳衛『現代都市論』(東大出版会)115ページ以下をみられたい。
 9)例えば,前掲の地方史研究協議会が,1957~59年にわたる3回の大会で,毎年,「町」の共通論題を取りあげて,論議を重ねている。それらの成果は,同会編『日本の町<その歴史的構造>』(雄山閣),同『封建都市の諸問題<日本の町Ⅱ>』(同),同『幕末・明治期における都市と農村<日本の町Ⅳ>』(同),にまとめられた。だが,同会の問題提起にもかかわらず,当時学界では,それを継承して「都市史」の研究を,より発展させようとした機運があったわけではない。
 10)古島敏雄『産業史』Ⅲ(体系日本史業叢書12)山川出版社。
 11)津田真徽『日本の都市下層社会』(ミネルバ書房)第1編。
 12)宮地正人『日露戦後政治史の研究』(東大出版会)第2章。
 13)石塚裕道「19世紀後半における東京改造論と築港問題」(東京都立大学都市研究組織委員会編『都市の成立とその歴史的展開』(2)),この論文は,後に前掲『東京百年史』第2巻第3編に改訂収録。同『東京の社会経済史―資本主義と都市問題―』(紀伊国屋書店)。

2 幕末・維新期の江戸=東京をどうみるか

 過去1世紀にわたる東京の歴史的発展の過程は,明治維新期の戊辰内乱(1868-9年),関東大震災(1923年)による市街地の焼失,太平洋戦争当時の空襲と被災(1945年)という諸画期,つまり,内乱・天災・戦争によって,三つの時期に区分される。
 ここで,当面考察の対象とする第1期は,明治維新から大震災までの期間,に東京が,基本的には,旧江戸の市街地の形態を残しながら,資本制社会とその形成によって,その性格を変えてきた時期である。
 こうした出発点にある東京の特質をあきらかにするためには,19世紀なかば以降,とくに維新変革をきっかけに,江戸から転換した首都東京を,どうみるかという問題から始めることが,まず必要であろう。
 幕末開港によって,先進資本主義国へ(とくにイギリス・フランスなど)による日本の半植民地化の危機が,横浜・江戸などでの居留地の設定,とくに横浜への外国軍隊の進駐,フランスの援助下に具体化しつっあった幕府の「絶対主義」化構想,ああるいは火器などの輸入により,累積した幕府・諸藩の外債・鉄道・鉱山の利権をめざす列強の侵入などのかたちで,進行していた事実については,従来分析された通りである1)。
 幕末・維新期における江戸=東京の性格を物語る特徴の1つは,当時,最大の対外貿易港であった横浜との関連で,居留地がいかに形成され,またそれがどのような意味をもっていたかという点にある2)。
 居留地は,「コンセッション」(concession)または「セツルメント」(settlement)ともいわれ,これらには,設定国(外国)と相手国(日本)との交渉で,土地処分方式をめぐって,若干の相違がみられるが,いずれも,幕末期に締結された協定のもとで,国内の特定地域(開市・開港場の一角)に,外国人の居住と土地貸与を,日本が外国に公認した制度である3)。そこでは,居留地の行政・警察権は外国側に移譲をよぎなくされ,とくに横浜では,居留外国人の保護の名目で,英仏軍隊が駐屯した。従来の明治維新史研究で,これらの史実は,幕末・維新期の日本に,先進資本主義国により,半植民地化の危機が進行していたことを示す指標として注目されてきた4)。
 他方,江戸=東京の築地居留地は,総面積・居住外国人数において,山手地区を含む横浜居留地のそれの10分の1ないし15分の1程度の小規模にすぎなかったうえ,本来,それは明治新政府により,貿易市場として公認されたにもかかわらず,代表的な対外貿易の中心であった横浜の「内港」として,当時同港の輸出入品の7割を取扱う商品流通の仲継地の機能を果していた。しかも同居留地に住む外国人の大部分は,宣教師・技師・役人・医師・職人などで貿易商人は少なく,その点でも,それは政治・文化・宗教的性格のつよい居留地であった5)。
 築地居留地が,そうした特徴をそなえたおもな理由に,新政府は「江戸港」を交易の自由と外国人の滞在(居留)に利用させるために,東京の「開市」を許可し,「開港」(東京の商業貿易都市化)を拒否したという事情があった。つまり,そこには,新政府が,横浜を「防波堤」として,極力,欧米列強による日本の主権侵害が東京まで及ぶことを阻止するとともに,築地居留地の設定を許しながらも,東京を,日本の首都として位置づけようとしたねらいがある。
 しかし,国家の独立と民族の統一をめざした明治国家の意図(目標)とは別に,居留地制度は,幕末開港以降,半世紀にわたって存続した日本半植民地化の危機の象徴である(1899年,治外法権の撤廃とともに,廃止されるまで,居留地は続いた)。いわば,日本のなかの「異国」であった築地居留地の存在は,当時の東京が,横浜などとともに,中国の上海その他6),かってアジア各地の都市にみられた「半植民地」都市ないし「半植民地型」都市としての性格を免れなかったことを意味している。
 すでに指摘した通り,1868年(慶応4),新政府が外国代表あてに,東京の開港拒絶を宣告したことは,東京を首都(政治都市)として確定すると同時に,またそれを横浜に結合させ,いわばこれら2都市を1組として,旧幕藩制全国市場の中心であった大阪にかわり,あらたに統一政権にふさわしい全国市場のかなめに位置づけようとした方針とも無関係ではない。
 すでに江戸幕府は,「地まわり」経済圏の育成と,幕末期の商品流通規制を通じて,江戸を中心に全国市場の再編を試みていた。ついで,明治維新当時,新政府もまた,江戸=東京の軍事占領をすすめ,かって旧幕府が独占しようとした商品流通機構を受けつぎ,横浜を含あて,全国市場の統一に乗り出した。そうした全国市場をめぐる動きのなかで,大阪遷都論ついで京都・江戸二京併置論,江戸遷都論などが登場し,最終的に新政府の態度は,江戸=東京遷都に決定した7)。東京の重要性が増すにともなって,逆に,かって全国市場のかなめであった大阪の経済的地位は低下した。
 1872年(明治5),新橋―横浜(現在の汐留―桜木町)駅間に開通した最初の官設鉄道は,海外に向けての「窓口」の開港場横浜と,首都東京の表玄関新橋(近くには築地居留地とまもなく銀座の洋式煉瓦街が建設された)を結ぶ「文明開化」路線で,当初,客員輸送を主体とした8)。しかし,1880年代以後,官設鉄道(現在の東海道線)の延長,および,東京の市街地とその周辺における日本鉄道,甲武鉄道などの私鉄の増設に応じて,鉄道による貨物輸送量が増加していった。とくに当時,最大の輸出品であった生糸輸出の振興の立場からみれば,東京を中心に建設された鉄道は,首都東京と関東西部・山梨・長野諸県などの蚕糸業地帯とを放射状に結び,さらにそれを開港場横浜に連絡するあらたな「絹の道」の役割を果した9)。
 つまり,明治前期の関東・中部地方で鉄道網が拡大・整備される過程において,東京の経済的地位は,横浜に従属していたと理解されよう。それは,東京「開市」とともに,東京港が国内貿易港に位置づけられてから,横浜の反対もあって,その後も,対東アジア貿易港に限定されていた事情と共通している10)。
 この後,築地居留地が消失し,東京が「半植民地型」都市から,対外的にも「独立」した首都に転化し,しかも資本の集積を前提に,全国の政治・経済・社会の中心として,その支配力をたかめ,横浜に対しても経済的優位にたつのは,産業資本の確立期になってからであったといえよう。

 1) 当面,井上清『日本現代史Ⅰ,明治維新』(東大出版会),石井孝『増訂,明治維新の国際的環境』(吉川弘文館),同『学説批判明治維新論』(同),石塚裕道『日本資本主義成立史研究―明治国家と殖産興業政策―』(同),などを参照されたい。
 2) 後にふれるように,横浜・江戸築地の居留地については,それぞれ研究があるが,両者の関係に言及した部分は少ない。
 3) 『横浜市史』第2巻第4編,前掲石井孝『学説批判明治維論』98ページ以降。
 4) 歴史学研究会編『明治維新史研究講座』(平凡社)第3巻177ページ以降。
 5) 『築地居留地』(『都市紀要』4,東京都)339ページ以降。
 6) 「居留地」制度をとったか否かとは別に,そうした欧米外国人居住地区を,かってもっていた都市は,例えば上海のほかに,マカオ,ボンベイその他が指摘される。(古屋野正伍氏のご教示による)。
 7) 前掲『東京百年史』第2巻49ページ以降を参照されたい。
 8) 『日本国有鉄道百年史』(国鉄)第1巻89ページ以降,永井秀夫「殖産興業政策論―官営事業を中心として―」(北海道大学『文学部紀要』10)134―5ページ。
 9) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史』100ページ。
 10) 『東京港史』(東京都)第1編参照。

3 西欧都市をめざした東京の都市改造事業

 先進資本主義国の圧力と民族的危機の緊迫のなかで,明治国家が直面した課題の一つは,外国の勢力を排除するかたちで,国家の独立と民族の統一を達成することであった。
 その解決の方法は,欧米列強の先頭にあったイギリスをモデルに,明治国家自体が,資本主義国へ転化することであり,それを実現する経済政策が,政府による「富国強兵」「殖産興業」政策であった1)。
 明治初年,国家権力の主導により,首都つまり中央集権型の政治都市として構築された東京は,そうした「上から」の政策にこたえる体質を要請された。その意味で,東京は,「富国強兵型」都市として発足することになった。
 そうした首都東京の性格は,西ヨーロッパの諸都市にならって,明治期に繰り返された東京の都市とくに市街地の改造事業にも見いだされる。
 この時期の東京改造の構想とその具体化は,まずロンドンにならって街区の改装をすすめた明治初年の銀座煉瓦街の造成に始まった2)。
 江戸で,木造密集家屋の市街地を火災からまもる防災対策は,石造・煉瓦造による都市の不燃化,同時に高層化の構想として,すでに19世紀始め,先駆的洋学者により考えられ3),明治維新後,新政府の指導者も,江戸を「近代都市」化するため,全面的な市街地改造事業に着手した。
 1872年(明治5)5月にせまった条約改訂交渉開始をひかえて,「帝都」東京の威容を整えることが,新政府に当面の課題となった。それに偶発した銀座,京橋・築地の大火(焼失面積28万坪,全焼戸数3千戸弱,被災者5万人)が直接の契機となって4),同年4月から,東京府の布告により,建設工事が開始された。
事業は,最初,大蔵省と東京府が担当し,その後,工部省に移管されたが,後述するように,府民の反発や抵抗をまねき,また建設資金の未回収額の増加などにより,中途で挫折した。それとともに,当初意図されていた東京市街地全体の洋式不燃都市化構想も放棄されるに至った5)。
 以後,東京の改造事業は,建築規制による防火対策,日比谷中央官庁街の建設計画,および市区改正事業の3方向に分裂して,総合性および体系性,そして一貫性を欠いたままで進行する。
 明治期における東京の都市改造事業の次の段階は,1886年(明治19)に設置された臨時建築局を中心に,日比谷練兵場跡に構想された中央官庁の集中計画であった。
 立憲制の制定期に,井上馨の外交政策と結合した欧化政策(いわゆる「鹿鳴館時代」)の展開を背景として,当時,ドイツの建築技術に依存するかたちで,日比谷一帯に大規模な洋式中央官庁街を建設する準備がすすんだ。ドイツ人技師によって,「中央停車場」より「新宮殿」に至る中央街路を対称軸に,裁判所・警視庁・鹿鳴館・博覧会場などを両側に配置し,それに国会議事堂・外務省・司法省を建設する壮大な設計図がえがかれた。ここには,西欧建築にみられる本格的なネオ・バロック様式の移植をめざした建築家の姿勢があった6)。
 しかし,敷地に予定された日比谷練兵場跡の地質が,大規模な洋式建築に不適切であることが,現地調査から判明した。その結果,実際の工事は,日本人技術者の監督下に移され,工事も仮議事堂・司法省・裁判所などにとどまり,建築材料も木造に変更された。
 この中央官庁街の建築計画自体,日比谷の一角に限定されていたうえ,設計内容も大幅に縮小されたことから,以後の東京市街地の改造事業に影響するところは,少なかったといってよい。
 帝国憲法の制定前後から,以降,約30年間にわたり展開された市区改正の本質は,パリの都市再開発にならって,東京の都市構造を「帝都」に改装するための官治的都市改造事業であった。しかも,その内容は,前述の諸事業以上に、当時の府民に関連する局面が大きかった7)。
 市区改正事業は,1888年(明治21)3月に布告された「東京市区改正条例」をもって,内務省の主導下に,道路・河濠・橋梁・公園・鉄道・市場・火葬場・墓地などの都市諸施設の総合的整備とあわせて,とくに上水道の改良を「臨時事業」とした。全期間にわたる支出経費の総額のなかで,道路費が5割強,ついで上水道敷設・拡張費が2割を占め,とくに日清戦争後の4年間(1896―99年)に,上水道費が集中支出された。つまり,その時期に,上水道改良事業が停滞した道路整備事業にかわって,市区改正の主要部分となっていたことがあきらかである。
 この時期に,上水道改良の緊急性を府政担当者に認識させた第1の理由は,とくに周期的に激発したコレラなどの水素伝染病の流行であり8),ついで外国人による上水道敷設の要請であった。
 その改良事業は,東京市区改正委員会が中心となり,オランダ系の治水土木技術を導人することで,1888年(明治21)から着工された。
 しかし,それは市民の負担増加を懸念する敷設反対論や用地買収をあぐる反対運動などで,しばしば阻止された。また,いわゆる「水道疑獄」によっても遅延した9)。
 こうして,1899年,(明治32),完成した上水道改良工事は,本来めざした東京の都市改造が,当時の日本の後進国的条件のなかで,歪曲・変容せざるをえなかったことを示している。
 以上,銀座煉瓦街・日比谷中央官庁街の建設や市区改正事業などを検討したが,そこに共通して指摘される特徴として,次の点が指摘されよう。
 第1に,これらの都市改造事業には,当時,「石室ハ則チ英京ノ倫敦[ロンドン]ヲ模シ,街道ハ則チ仏京ノ巴擬[パリス]ス10)」と,銀座煉瓦街についていわれたように,ロンドン・パリをめざすというつよい西欧都市への志向性がみられたことである。
 煉瓦街の建設は,英国人技師ウオートルス(T.Waters)の指導下に,ロンドンの中心市街地リージェント・ストリートが模倣され11),これによって,日本建築史上,「イギリス時代」とよばれた煉瓦建築の移植期が開幕する。
 同様な事情は,市区改正事業において,当時,フランス第2帝政期のナポレオンⅢ世の支配下で,セーヌ県知事オースマン(G.E.Haussman)が,市街地・道路・公園・下水道などにわたって推進したパリの再開発が,東京改造のモデルになっていた点にも共通していた12)。
 しかも,そこには,幕末不平等条約の改訂交渉の開始とそれ以後の経過のなかで,新政府が,明治国家の「帝都」として,東京の市街地を整備するという「国際的契機」が貫徹されていたことは注目されなければならない。
 第2に,洋式建築において,重要な課題は,建築資材と労働力を,いかに供給するかであった。例えば,銀座煉瓦街の建設の場合,それまで製造された経験がない赤煉瓦の量産化のためには,ウォートルスの指導により,東京府小菅に煉瓦製造所が創設され,また零細な瓦職人や窯業関係者まで動員された13)。
このため,伝統的な屋根瓦生産者のなかから,煉瓦生産の職人に転業する者も多かった。なお建設工事の労働力については,多数の大工・石工・木挽・人足などが雇用された。
 要するに,西欧の建築技術ないし都市建設の技術の移植導入において,その受容基盤として重要な役割を果したのは,従来からの在来技術であり,それを具体的に支えた職人層などであった。しかも,移入された移植技術の内容自体,当時の歴史・社会的条件のもとで,改変を迫られる。日比谷中央官庁街の建設が木造建築に変更され,市区改正における道路整備その他の事業が優先された上水道改良工事によって,停滞せざるをえなかったのも,そうした例であった。
 第3に,ここに展開された都市改造事業は,いずれも住民無視ないし住民不在の「上から」の都市づくりという性格をもっていた。銀座煉瓦街についていえば,当時の新橋・銀座・築地一帯は,零細な小商人・職人・日雇・辻芸人などの雑業者かまたは下層民の民住地区で,いわば都市スラムであり14),建設事業は,そうした地域住民の利害関係を無視した強権的な強制退去の措置をとってすすめられたため,住民の不満が続出した。人力車夫・日雇・芸者屋などから転居延期願が提出された例がいくつかあるが,すべて却下され,営業補償もなかった。
 そうした住民の反発のなかで推進された煉瓦街の建設事業は,一部の居住者が煉瓦建築をまたず,被災地区で自己資金により木造家屋本建築に着工するのを追認せざるをえず,工事開始1年後に,はやくも後退をよぎなくされた。
 また竣工家屋の払下げ条件も,建築費総額の3分の1即納,残額3分の2を7カ年賦返済と,工費の分割払いを認めたが,それでも,このことは,そこから,もとのスラム居住者を,完全に排除する結果になったのであろう15)。
 そうした政府の姿勢は,後の市区政正事業でも指摘される。1884(明治17)年,内務卿兼府知事芳川顕正は「道路橋梁及河川ハ本ナリ,水道家屋下水ハ末ナリ16)」と主張したが,それは住宅・上下水道など,直接,民衆に必要な環境施設の整備よりも,産業発展や商品流通と同時に軍事的機能をあわせもつ道路・橋梁・河川(なかでも道路の拡張が最も重要)への公共投資を優先させる明治国家の都市政策の基本方針を確認したことを示している。それにも,かかわらず,当時,上水道改良事業が先行したのは,激発するコレラその他の伝染病の主要因が下水道の不備にあり,そうした深刻な都市問題の発生によって,「上から」の富国強兵政策の基盤がほりくずされるところまで,政府ならびに府政担当者がおいつめられつつあったからにほかならない。
1) 前掲石塚裕道『日本資本主義成立史研究』第1,2章参照。
2) 煉瓦街に関するおもな参考文献に,『東京市史稿』市街編と『銀座煉瓦街の建設』(『都市紀要』)があるが,基本資料は「東京府文書」(東京都公文書館所蔵)に収録されている。
3) 西川幸治『日本都市史研究』(日本放送出版協会)417ページ以降。
4) 『東京市史稿』変災編第5巻,994ページ以降。
5) 「都市計画事業としての銀座煉瓦街」の考察は,前掲『東京百年史』第2巻(筆者執筆)927ページ以降をみられたい。
6) 日比谷中央官庁街の構想については,『明治工業史』(明治工学会)建築編,『日本科学技術史大系』17・建築技術(第1法規出版株式会社)および稲垣栄三『日本の近代建築』(丸善)桐敷真次郎『明治の建築』(日本経済新聞社)などを参照。
7) 当面,石塚裕道「東京市区改正事業史研究序説―上水道改良事業と市会・ブルジョアジーの動きをめぐって―」(東京都立大学都市研究委員会編『都市研究報告』55所収),『東京市史稿』市街編第69巻,東京市区改正委員会編『東京市区改正事業誌』(1919年刊)などをみられたい。
8) 明治・大正期における伝染病の流行については,立川昭二『病気の社会史』(日本放送出版協会)169ページ以下,石塚裕道「明治初期の東京におけるコレラ病対策と民衆―都市政策史研究覚書―」(1)(『人文学報』東京都立大学,114号)。
9) 「水道疑獄事件」については,前掲石塚裕道「東京市区改正事業史研究序説」(『都市研究報告』55)30-33ページ。
10) 服部誠一『東京新繁昌記』(1874年刊,聚芳閣1925年再版)110ページ。
11) 桐敷真次郎前掲書70ページ。
12) 注(9)と同じ。
13) 前掲『東京百年史』第2巻,932ページ。
14) 当時の東京のスラムについて,その実態を示す史料はないが,取りあえず,前掲石塚裕道『東京の社会経済史』所収の表1-1(22ページ所収)を,参照されたい。
15) 払下げ価額の1部分割払いが認められても,煉瓦街の建築費の評価は,坪当り約75円(1873年の全国平均米価は,1石当り4・72円)という高価額であった。
16) 「市区改正意見書」(明治17年11月14日提出,『東京市区改正品海築 港審査顛末』所収)9ページ。
4 「東京史」における資本主義と都市問題

 さきに「東京史」の時期区分についてふれたが,そこで3つの時期を画す内乱・天災・戦争という指標は,東京の市街地の形態を,いわば「外から」偶発的に変えた現象的な諸要因である。
 関東大震災以前の時期,つまり「東京史」の第1期において,基本的には東京が旧江戸の市街地の形態を残存させながら,変容をとげてきたとはいえ,東京が「近代都市」である限り,資本主義の生成・確立・発展という資本制社会の推転に照応した資本主義的経済構成の変化にそくして,さらにその時期のなかが細分化される必要があろう。
 資本の原始的蓄積,産業資本の確立,独占資本の形成の過程で,都市は,そこに資本が集中する本拠であると同時に,労働力とそれに転化する産業予備軍(その一部は「出稼型」賃金労働者として,農村から都市へ流入する人口)が集積される拠点である1)。
 しかも東京は,明治国家の富強政策を推進する「司令部」として,かつての江戸=百万都市を土台に,資本主義化に応じて,以後,爆発的な膨張を重ねて巨大化する。さきに指摘した通り,そこでは,かっての三都のなかで,都であった京都,また全国市場の中心であった大坂との相関的地位を逆転させながら明治の東京のみが,横浜と結合さるかたちで,首都(政治都市)と商業貿易都市(経済都市)の機能をあわせもって,飛躍的に成長する。
 過度な国家権力の中央集権化と,急速な資本主義化によって,肥大化する「首座都市」(Primate city)2)としての東京は,その背後に広汎な農業経営の変質・解体があり,また,その発展を阻害される地方中小都市の存在があった。
 明治初期以降,資本と人口(その一部は労働力)が集中集積される東京では3),その市街地中心部の過密化と,近郊農村のスプロール化が進行し,それらは,ともに都市問題といわれる社会的諸矛盾を誘発する。
 東京における過度・無秩序な資本と人口の集中集積は,まず労働者を含む民衆,ついで政府や資本家に不利益をもたらし,それを深刻化する。
 通例,都市問題とよばれる内容はきわめて広範囲で多様であり,その総目録を作成するためには,多くの学問的手続きを必要とする。現象的には,それはスラム・住宅問題・土地問題・都市諸施設(道路・上下水道・公園など)の不備,あるいは犯罪や非行問題から,公害・職業病・災害の発生などにまでわたる。しかし,それらのなかで,資本主義の形成によって,都市民衆の生活を侵害・破壊する,ないしその恐れのある社会問題(その中心は都市スラム問題),あるいは環境汚染問題(その中心はコレラ・結核などの伝染病の流行と産業公害問題),とくにそれら両者を結合したかたちで現われる諸問題が,いわば都市問題のおもな部分を構成する4)。
 いわゆる「長屋」(木造平屋連続住宅)に代表される都市スラムの発生は,すでに幕藩制社会の成立とともにひろくみられ,過密・老朽化した住居と,上下水道の欠如,そしてコレラや結核などの「社会的」伝染病の侵入によって,劣悪な下層民(小商人・職人・日雇・土方・芸人など)の生活は,さらに悪化する。資本主義が確立する以前に,以上のような社会問題と環境汚染問題の組み合せとして指摘される都市問題は,いわば「前近代的」あるいは「古典的」都市問題といってよい。
 だが,ここでこの時期の都市問題の性格をより複雑にさせた要因に,各種の「差別」の問題がそれに結びついていたことに注目する必要がある。
 その一つは,被差別部落の存在である。1871年(明治4),太政官布告の「解放令」は,被差別部落住民に対して,その身分の称号廃止と職業の自由を宣言した布達ではあったが,それは部落住民の真の解放を意味せず,華士族・平民というあらたな身分制度の最底辺に部落住民を配置しなおす役割を果した。事実,明治初年の東京における靴と皮革類の生産は,全国でも上位にあり,そのにない手であった部落産業と部落住民は,かって部落住民を支配した弾左衛門の居住地とその経営する「弾製靴所」があった浅草一帯に集中していた5)。
 資本制生産の発展とともに,東京の被差別部落は,その一部が移動ないし解体され,また部落外の住民とも「混住型」のかたちを示すが,以後日本資本主義は,貧困な部落住民を身分差別のもとにおくと同時に,安価な労働力の給源として利用することになる。
 つぎに,在日朝鮮人問題が示す民族差別が挙げられる。1910年(明治43),日本によって植民地化された朝鮮から,土地を奪われた朝鮮農民の一部が,日本人の募集人の「甘言」によって集められ,東京その他に送りこまれて,労働者となった。1922年(大正11)当時,朝鮮人学生も含めて在京者は合計約4,600人を数え,なお増加し続けた。そうした朝鮮人労働者は,長屋・木造小屋・飯場などに居住することを強いられ,見習工や雑役夫,日雇・土工・人夫などになって最下級労働者として働かざるをえなかった。これらの朝鮮人労働者は,スラム居住の日本人低賃金労働者より,さらに下位の移民労働者として位置づけられ,日本資本主義を支える最底辺の労働力を構成した6)。さらに,性差別を背景に,農村の貧困と結びついた都市の遊廓と売春問題がある。「芸娼妓ノ買出シト女工ノ募集ヲ兼ネ行フ」7)周旋人が農村から多数の貧農の子女を集め,一方で都市の機械制紡績工場へ不熟練労働者として送りこむとともに,他方で遊郭の遊女として身売りをさせる。前者は,厳重な労務管理のもとに,強制的な長時間・低賃金労働(一部は交替制の徹夜操業)を強制され,後者は前借金に縛られた実質的な人身売買に等しい制度であった。しかも,都市における遊廓は,かっての軍隊(旧連隊)の配備と結びつき,また吉原と山谷の間にもみるように,スラム居住者(とくにその中心であった人力車夫など)とも無関係ではなかった8)。
 いずれも,こうした「差別」問題は,東京の都市問題の「最深部」を構成し,都市スラムとも,密接な関連をもっていたことは確かである。
 しかも,このような「差別」を内包する当時の東京の都市問題は,かっての東アジア各国の諸都市の一部にもみられ,その意味では,それは日本都市問題のアジア的特質ともいえよう。
 これに対して,産業資本の確立期から独占資本の形成期,またそれ以後に,高度化する産業構造が,民衆生活の環境を悪化,破壊する条件として登場する。資本主義の発展が,一つは結核などの伝染病を流行させ,他の一つは都市産業公害を拡大する。いずれも,新たな環境汚染問題であり,後者は前者の激化を促進する要因となる9)。またこれらは,資本主義化(西欧化)の過程で,資本の集積が生み出した「近代」都市問題であり,これ以後,旧新の都市問題の相乗・重合が,東京の民衆生活を直撃する。
 前述した通り,条約改正の達成を目標にそれに触発された東京の都市改造事業は,国家権力の指導下に,都市問題(各種の「差別」問題を内包する)のかたちで,社会的諸矛盾を深めつつあった「半植民地型」都市の東京を,明治国家の首都にふさわしい「富国強兵型」都市として,その外装と威容を整備する政策の一つであった。
 当時の東京が「富国強兵型」都市であったという場合,その意味は,以下のように要約される。
 明治政府による「殖産興業」政策の展開は,いわば「上から」国家権力による急速な資本主義の育成をめざすもので,それは国内での「下から」の自生的なブルジョア的発展を制約する側面をもっていた10)。こうした政策の基調が,民衆を無視して国益優先の立場から,首都東京の「街づくり」を推進した明治国家の基本方針と共通していた事情は,すでに確認したはずである。
 「殖産興業」政策の他の側面は,当時の国家の軍備拡張政策に,物質的また技術的基礎を提供したことである。国家資本を財源に創出された官営軍事工業とその諸施設(例えば東京砲兵工廠・造兵廠その他)が最も集中していた地域の一つは,東京であり,それに当時,配置されていた軍隊を加えれば,その「軍都」としての性格があきらかとなる11)。
 東京が「半植民地型」都市から,このような「富国強兵型」都市へと完全に転化した時点は,日清戦争後,産業資本の確立期であり,その段階で,東京は,横浜(商業貿易都市)を従属させるかたちで,「首都」としての地位を,実質的に確立した。
 それはまた,明治国家が条約改正の一部(法権回復と居留地の廃止)を実現して,対外的にも,一応「独立」を達成した時期と,ほぼ対応している。

 1) 当面,西川清治編『現代資本主義と都市問題』(島恭彦他監修『講座・現代日本の都市問題』1,汐文社)所収の諸論文参照。
 2) 林武編『発展途上国の都市化』(アジア経済研究所)20-29ページ。明治前期の首都東京が,「半植民地型」都市としての性格をもっていた側面については,前述した。当時の東京の都市構造と,現在の発展途上国(アジア,アフリカ諸国)における都市化の歴史像を重ねあわせる作業は,東京という都市の歴史のアジア的特質をさぐる点で重要な意味をもつ。
 3) とりあえず,前掲石塚裕道『東京の社会経済史』101-104,149-152,199-200ページ,および図3-2(102ページ)をみられたい。
 4) 同書128ページ。
 5) 中西義雄「日本皮革産業の史的発展」(1)(『歴史科学大系』21所収の『部落問題の史的究明』),前掲『東京百年史』第2巻1284ページ以降。
 6) 朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』第1巻(三一書房)所収の『在京朝鮮人状況』その他の諸史料参照。
 7) 『綿糸紡績職工事情』(農商務省)72ページ。
 8) 都市における遊廓と売春制度の問題をおもに江戸時代のそれに焦点をあわせて風俗史その他の立場からみた文献は多いが,明治期以降,都市問題(東京問題)の一つとして,科学的分析の手法で,検討した成果はない。ただ遊廓と軍隊の関係については,前掲『東京百年史』第3巻804-816ページ以降に,指摘がある。
 9) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史』173,216ページ。
 10) 前掲石塚裕道『日本資本主義成立史研究』11ページ。
 11) 前掲『東京百年史』第3巻794ページ以降。