地域研究

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北海道開発と技術移転

著者名: 関清秀
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次

地域開発の社会的文化的影響評価の方法 関 清秀・・・・・・・・・2
 ――北海道の事例研究を基礎として――
北海道の鉄道網形成に関する若干の資料と考察 谷内 達・・・・・・・・・・17
北海道稲作の成立過程と将来展望 高橋萬右衛門・・・・・・・・・・39

本調査に参加した他の共同研究者とその報告書のタイトルは以下の通りである。

 治水技術の受容と石狩川治水 山村悦夫
 北海道の住宅および住様式の変容 住谷 浩
 北海道における薬草栽培の技術導入 山岸 喬
 海外技術特に社会・経済・文化様式の受容過程 三木 毅


地域開発の社会的文化的影響評価の方法 関 清秀
 ――北海道の事例研究を基礎として――

序 説
1 北海道開発経験の意味
2 開発効果の測定
3 開発事業と環境計画
4 開発事業効果の類型化
5 社会的文化的影響評価の方法
6 事例研究
結 語

序 説

 この小論の目的は,開発事業効果の測定法を検討し,特に社会的文化的影響評価の指標を提言することにある。対象地域は北海道であり,対象とする開発事業の内容は2つ,すなわち農業開拓事業と多目的貯水池の建設事業とである。事例研究として前者についてはパイロット・ファーム,後者については,かなやま湖をとりあげる。
 北海道を対象とする理由は次の3つである。
 (1) 近代科学技術の手法による開発の歴史が浅いため資料の蒐集が容易であること
 (2) 一島一自治体であるため,開発行政の浸透過程が簡明で把握し易いこと
 (3) 新しい開発社会の形成とその後の変動に関する追跡研究が比較的容易であること
 北海道における技術移転は,主に中央政府の主導下に国家政策として実行されてきた。いうまでもなく民間団体または個人による自主的な技術導入も行なわれなかったわけではないが,政府の果した役割が著しく大きい。いずれにしても,それらは巨視的にみれば北海道開発を目的とした技術移転である。
 一般に地域開発の目的はなにかといえば,地域住民の生活の質の改善向上にある。したがって,技術移転の問題をふくめて,地域開発事業の目的がどの程度達成されたかを測定し評価することが,技術革新と産業発展および社会変動問題把握の究極目標であるといえる。

1 北海道開発経験の意味

 明治初期以来,北海道は新生日本にとってフロンティアであった。北海道は,その自然的条件も歴史的・社会的条件も,本土にとって異質の存在であった。このフロンティアを本土に馴化するためには,まず第一次産業を中心とした天然資源の開発,すなわち水産業,鉱業,林業等の振興のための外国技術の導入とその受容が必要であり,また稲作の辺境拡大をはかるための農業技術の改良普及をはからなければならなかった。また来住移民の定着のためには風土環境にふさわしい都市計画,農村計画等の集落建設の技術も外国から導入しなければならなかった。これらと相伴って,治水,交通,建築,医療等の技術も外国に学び,かつ工夫創案もしなければならなかった。
 第二次大戦以降においても人口収容と食糧増産の点で,北海道は重要な役割を果したが,特に注目すべき大規模開発事業は次の三者である。
 (1) 農業開発におけるパイロット・ファームの建設
 (2) 多目的貯水池の建設
 (3) 苫小牧工業港の建設
 本稿において事例研究として論及するのは(1)および(2)についてである。(3)についてもすでに調査に着手しており,その方法論的枠組としては,本稿に述べる方式をモデファイして適用可能と考えている。
 こうした北海道の開発経験に関する研究が,今後長期に亘って開発事業の遂行が予測される第三世界の開発にたいして,なんらかの示唆を与えるであろうことが期待されるのである。

2 開発効果の測定

 北海道開発初期においては,北辺防備という国防上の目的が優先していた事情もあって,人口密度を濃化する必要上,各種の補助金政策によって移民の積極的導入がはかられた。その政策効果に関する評価ないし外部からの公然たる批判は殆んどみられなかった。しかし,開発行政担当者すなわち初期における開拓使や後の北海道長官等が中央政府の方針に対して意見を述べるとか,天候による凶作に際し寒地農業の確立策を講ずるなどは,一種の政策評価とみなすこともできる。
 戦後においては公然と民衆が政治的意見を表明しうる時代となったので,中央政府の開発政策にたいする批判や地元自治体からの提言が積極的に行なわれるようになった。また,開発効果測定や環境影響評価に関する技術も著しく発達した。すなわち経済指標としての費用―便益分析法や公害および自然破壊に関する技術的アセスメント手法の開発である。
 費用―便益分析法は,戦後の日本において各種の公共事業計画の立案に際して使用された。いうまでもなく事業実施に伴って生ずる経済効果の測定を主眼とし,投資効率の大なる事業に優先順位を与える方法である。戦後初期の北海道開発計画に関してもこの方法が採用され,事業効果を測定するための各種の経済指標が考案された。また,開発効果を批判する際にも主として経済効果の大小が論議の対象とされることが多かった。
 1960年以降,経済の高度成長期に入り,大気汚染,水質汚濁等自然破壊の現象が顕著になるにつれて,1970年頃からこの種の公害を抑制するための環境アセスメント手法の開発が課題となった。経済効果よりも,地域住民の健康,福祉が強調されるようになったのである。北海道においては,苫小牧工業地域に主要関心が向けられた。しかし,現に論点となっている環境アセスメントの手法は,開発事業の進行に伴って変動する住民生活の実態を深く追究し,そのメリット・デメリットを評価するというよりは,むしろ自然環境の汚染度を測定するための技術的領域にもっぱら関わっている憾みがある。
 環境影響評価とは,本来,「いかなる環境が住みよいか」すなわち人間生活の“住みよさ”(habitability)を評価すること,換言すれば,住みよい環境づくりのための手法の開発という積極的な目的をもつものであるが,現在のところ,環境アセスメント=イコール=公害アセスメントすなわち「どの程度自然破壊が行なわれているか」と消極的に“住み難さ”を測定することと同義に使用されているきらいがある。社会的文化的環境の変動についてはアセスメント手法や客観的評価基準が確立し難いために,この分野の研究が立ち遅れているのであろう。本稿においては,これまでの研究結果を要約して,地域開発の社会的文化的効果測定の方法を提言したいと思う。

3 開発事業と環境計画

 開発行為を単に経済的行為とのみ見るのではなく,開発事業から生じた各種の効果をメリット,デメリットも含めて総合的に評価しようとする立場は,これを環境計画的観点と呼ぶことが適切である。ここにいう環境計画とは,(1)環境の質向上のための開発,保全および創造に関する事業の計画立案(planning),(2)その事業の環境に及ぼした影響の測定(assessment),(3)測定結果に基づく見直しと再計画(replanning)の三作業をふくむ動的過程を意味する。この場合,環境とは社会的自然的構造連関体として理解されている。
 ところが,その事業内容はいかにもあれ,環境計画事業によって惹き起される環境変動は複雑多様で多方面に及ぶし,地域の社会的自然的特性に応じてその発現形態も一様ではないから,評価測定基準は必ずしも固定不変というわけにはゆかない。ましてその事前評価は容易なことではない。ある特定の事象に関する理念型的モデルの作成という意味で事前評価は有効でありうるが,事業実施の影響を万般にわたって予測し,これを事前に評価することは殆んど不可能に近い。またテクノロジー・アセスメントにより,現代科学の粋を尽して評価基準を定めたとしても,現実に生起する変化はモデル通りの軌跡を辿るとは限らない。
 最も基本的な課題は,複雑多様な環境変動過程を学際的協力によって分析解明し,これを総合統一化する方法を発見することである。そのためには,事前評価の技術モデルの作成に止まらず,既に実施した事業効果の追跡評価を行ない,この事後評価の方法と成果とを事前評価の中にとり入れることを繰り返し,それを積み重ねる作業が必要である。ここでは特に追跡事後評価の重要性を強調したい。筆者のいう環境影響評価とは
 (1) 事業実施の事前調査に基づく予測的評価
 (2) 実施結果の追跡事後評価
の両者を含むものである。

4 開発事業効果の類型化

 開発事業効果は,前述のように,現実には複雑な形態をとって現われている。
したがって,この事業効果を測定する場合には,測定者それぞれの立場によってさまざまな観点から測定基準を設定することができるし,その基準のとり方によっては同一事業にたいする評価も異なったものとなる。そのために各種の誤解や混乱を生ずることが少なくない。そこで,まず各種の基準に対応した開発事業効果の理念型を考案し,これを整理しておくと測定の際に便宜である。それは次のように類型化される。
 (A) 時間基準型
 (a) 効果発現の速度を基準とする分類
 (1) 短期的効果―事業実施後,短期間内に急激に現われる効果
 (2) 長期的効果―長期間にわたって徐々に現われる効果
 (b) 発現効果の持続性を基準とする分類
 (1) 一時的効果―短期間内に主要部分が消滅する効果
 (2) 継続的効果―長期間にわたって持続する効果
 (B) 地域基準型―効果発現範囲の広狭を基準とする分類
 (1) 局地的効果―事業施行地内に現われる効果
 (2) 広域的効果―事業施行地の周辺を含めたかなり広い地域にわたって現われる効果
 (C) 内容基準型一発現効果の意味を基準とする分類
 (1) 経済的効果―産業部門に現われる物的貨幣的効果
 (2) 社会的文化的効果―人間関係的福祉的精神的生活部門に現われる効果
 (D) 形式基準型―効果の発現形態を基準とする分類
 (1) 単一的効果―一種類の単純な形で現われる効果
 (2) 複合的効果―各種の複雑に錯綜して現われる効果
 (E) 目的基準型―事業目的にたいする効果発現の適合度を基準とする分類
 (1) 第一次的効果―目的に直接対応して現われる効果
 (2) 第二次的(副次的,派生的)効果―第一次的効果に随伴して生ずる効果
(F) 媒体基準型―効果発現過程における媒体の有無を基準とする分類
 (1) 直接的効果―中間者を介することなしに現われる効果
 (2) 間接的効果―中間者を介して現われる効果
 (備考:目的にたいする適合度から,直接的効果,間接的効果と表現する場合もある)
(G) 効力基準型
 (a) 効果発現の強度を基準とする分類
 (1) 弱小効果
 (2) 強大効果
 (b) 発現効果の有効性を基準とするもの
 (1) プラス効果(メリット)
 (2) マイナス効果(デメリット)
(H) 総合判定型―上記分類中の(1)と(2)とにそれぞれ対応して総括的に表現する分類
 (1) 部分効果
 (2) 総合効果
 以上のほかにもなお各種の類型化がありうるであろう。効果類型設定がこのように複雑であるのに対応して,効果測定法もまた多様でありうる。しかし,具体的な政策課題としての事業効果の測定評価に当っては,ここに挙げた諸要因を科学的に十分検討した上で総合判定を下す必要がある。地域開発事業のメリットもデメリットもふくめて,前記各種の効果を等分に厳密に測定評価するのでなければ,偏狭な独断論に陥るを免れない。
 戦後の復興のための開発事業およびこれに続く高度経済成長時代の開発事業にあっては,前述のように経済効果のメリットのみを測定基準とすることが一般であったために,地域住民の健康,福祉,文化等の社会生活面に関する配慮を欠き,そこに生ずるデメリットを計算する術も知らなかった。まして,そのデメリットが,やがて生産上のメリットそのものすら脅かすにいたるであろうことには思いも及ばなかった。それは費用―便益比による効果測定法しか使用されておらず,社会文化的効果の測定法が開発されていなかったことにも大きな原因があった。現在はこれと対照的に,開発事業のデメリットを強調するの余り,反面に生ずべきメリットを軽視ないしは無視する弊に陥ることを警戒せざるをえない状況とさえなっている。いずれの場合においても,公正かつ客観的な測定基準の確立を要することは論を俟たない。
 本稿においては,開発事業効果の主として社会的文化的効果の測定を問題とする。それを時間的にも空間的にも,また形式的にも内容的にも,総合的全体的に把握しようとする。例えば,ダム建設による人造湖造成事業とこれに伴う開拓事業についていえば,発電,灌漑,農地開発等生産面に現われる第一次的直接的効果を対象とすることはいうまでもないが,それだけではなく,これらの事業を通じて,広くその周辺の地域社会に長期にわたって徐々に現われ,地域住民の社会生活にプラス,マイナスの影響を及ぼす効果をも視野の中に入れようとするのである。それは,本来,開発事業は手段であり,住民の福祉向上こそ目的であるという観点に立つからにほかならない。この場合,前者を開拓効果(局地的,部分的),後者を開発効果(広域的,総合的)と呼ぶと問題の所在が一層明確になる。
 では,そのような効果測定は如何にして可能であるか。次にその方法を述べなければならない。

5 社会的文化的効果の測定法

 測定基準を(1)流動性(mobility),(2)居住性(habitability),(3)接近可能性(accessibility),(4)連帯性(solidarity),(5)広域性(regionality)の5指標とする。その内容は次のごとくである。
 (1)流動性
 人口の流動性は,逆に言えば,人口の地域への定着性の問題である。この場合,地域の範囲をどのように画定するかという基本的問題が生ずる。国土計画における地域設定の方法論について筆者は既に見解を述べたことがある1)。北海道開発計画に関しては,北海道が前述のように一つの島であるから,全島を一開発単位地域として対象にできるが,ここでは開発事業効果の強く及ぶ範囲としておく。この地域内の人口流動率を算出する。可能ならばその流動率大小の理由を明らかにする。開拓地を例にとるならば,入植者の定着率,その前歴,入植事情,家族関係,パースナリティ等の聴取調査を行なう。離農者については離農原因を詳細に調査する。
 (2) 居住性
 居住性とは“住みよさ”であり,地域住民の生活水準の全体的把握を意味する。前記の開拓地を例にとるならば,定着した農家の生活水準の動向を明らかにするために,家計調査により生計費内容の変動を分析する。すなわちケース・スタディによる来住前後の生計費の比較,周辺集落における既存農家との比較,経営形態が異種または同種の村落における農家との比較,都市勤労者および一般市民との比較,本州農村との比較研究を行なう。
 (3) 接近可能性
 これは地域社会の文化度を測定する指標である。一般に文化度は,地域社会内に立地する社会公共施設の量を以て表示されることが多いが,問題はそれらの施設の質,運営,及び利用度にかかっている。それは環境水準といってもよい。ここでは保健医療,教育文化,福祉衛生等の施設や機関への接近可能性を,これら諸施設,ならびに機関の量及び利用状況,上下水道や屎尿ゴミ処理施設等の生活基盤施設の整備状況,さらにこれらを利用するために必要な道路および交通機関の近代化,ならびに自家用車の保有率等により明らかにする。上記の開拓地を例にとるならば,学校,保育園,診療所等への接近の難易,読書の程度,テレビ・ラジオの視聴率,所によっては神社の祭りや年中行事の実施状態等も文化度測定の指標となしうる。
 (4) 連帯性
 地域社会に形成された諸集団ないし諸階層間の相互関係,右の諸集団内における人間関係の親疎の状況,地域住民の家族生活ならびに精神的態度の安定性等を確証するために,地域内の住民運動(特に開発事業にたいする),労使関係,自発的ならびに行政上の住民組織率,核家族化の動向,親族組織のネットワーク,離婚率,家族崩壊率,犯罪率および少年非行率,交通事故発生率,精神疾患発生率等を分析するとともに,これら諸要因間の有機的連関構造を解明する。
 重ねて前記開拓部落を例にとれば,(イ)部落内部における社会関係,入植者相互間の結合度,日常生活上ならびに生産上の協同状況,実行組合の活動状況,近隣関係―安定しているか,紛争が多いか―,フォーマルな関係とインフォーマルな関係,権力構造等を分析し,集団加入や社会参加を通じて,全体としての村づくり活動への貢献度を測定する。また,(ロ)この開拓部落と周辺集落との関係を,例えば日常生活圏の検証,相互活動地域の画定,上級集落への依存度,通婚圏の分析等を通じて解明することにより,集落社会としての安定度を判定することができる。
 (5) 広域性
 開発事業の実施が,周辺の地域社会に与えた影響を,広域的効果として測定する。指標としては投下資金の流動状況,広域生活圏の変動(通勤・通学圏,購買圏,医療圏等を含む),交通機関・交通量の変化,地価の変動,集落パターンの変化,事業実施によってもたらされた自然破壊,汚染等の公害にたいする住民の態度等があげられる。これらは前記(1)~(4)の指標と関連するものが多い。
 以上は,開発事業効果測定(一種の環境影響評価)の方法論的枠組の概要を述べたものである。これを実際に適用する際には,開発事業内容と,地域社会の実情とに即応して,評価基準と調査項目とに工夫を加える必要がある。

6 事例研究

 ここでは,それぞれタイプの異なった二つの対照的な事例を紹介したい。一つはパイロット・ファーム,他は,かなやま湖の建設事業である。前者については,広大な原野の中における新しい集落の計画的設定が何を要因として安定化するか,また,それは周辺地域にいかなる波及効果を及ぼすかに研究の焦点があてられた。後者については,この人造湖の造成によって水没した一集落の消滅が周辺地域社会にいかなる影響を与えたか,また地域住民は,これをどのように評価しているかを解明することに主眼がおかれた。両者の比較考察は,集落(community)の誕生と死滅という全く対照的な社会変化のもつ意味を明らかにしうる点で,極めて興味深いものを含んでいる。

 (1) パイロッ卜・ファーム社会の形成
 根釧(こんせん)パイロット・ファームの建設経過とその歴史的意義につい
ては,ここではパイロット・ファームの社会構造を開発効果という観点から概説するに止める。社会構造とは入植農家相互間の連帯関係をいう。入植農家間の日常的生活関係が,農業の生産効率に影響を与え,また農家の定着性をも左右する。連帯関係が強い場合には生産効率も上昇するし,したがって村落生活の安定化も早期に実現して離農が少ない。
 パイロット・ファームにおける入植農家の連帯関係は,その家族のタイプに依存している。新しい開拓地へ入植してくる農家は,その社会的背景も,過去の営農経験も多様で,入植後の営農条件(地形,土壌,水利等)もまた必ずしも等しくはない。全く新たな土地へ新たな条件で入植したこれらの家族が,与えられた自然的,社会的環境に適応し,またこれを改変して生活をたて,新しいコミュニティを形成していく過程は,現象的に見れば複雑多様で,そこに統一的な集団構成の原理を発見することは困難にみえる。
 しかし,深く観察すると,そこにも社会学的統一原理が作用している。それは,これらの家族が開拓家族として成立した契機によって,
 (1) 一家入植型家族
 (2) 分家入植型家族
に分類されること,そして,この二つのタイプを基盤として,入植後における農業生産上の協力関係や,日常生活上の相互扶助及び親睦関係など,パイロット・ファームの各種の社会組織が形成されているということである。経営形態において酪農重点主義か畑作重点主義か,個人経営を選ぶか共同経営に志向するか,営農意欲や定着感が強いか弱いか等は,明瞭にこの家族類型と関連している。開拓効果を増進するためには,この家族的条件を無視することができない。
 「一家入植型家族」とは,パイロット・ファーム(移住するに当って前住地の財産を整理し,一家をあげて入植したもの,「分家入植型家族」とは,前住地の本家から新たに分家となってパイロット・ファームへ入植したもののことである。開拓農家としての成立契機を基準としてみれば,どの農家といえども,この両類型のいずれかに属さないものはない。
 この家族類型は営農類型と密接に関連している。すなわち「一家入植型家族」は酪農重点主義のジャージー飼育型経営に専念するものが圧倒的に多く,一部はホルシュタイン飼育型経営に志向するものもある。これに対して「分家入植型家族」は殆んど畑作重点主義に集中する。このタイプの家族は若夫婦二人のみの一世代家族で,大家畜の多頭飼育を行なうためには労働力が絶対的に乏しい。加えて,若夫婦のため妻は妊娠するものもあって,出産から育児期間中は十分な稼働力たりえなくなる。こうした労働力不足をカバーするために,これらの家族は相互に協力し出資しあって,適度な農業機械(主にトラクター)を購入し,共同経営を行なうものが多い。これと対照的に,「一家入植型家族」は二世代家族ないし三世代家族で,世帯主の年令が高く,世帯主夫婦のほかに稼働力たりうる生産年令に達した子女たちがいるために飼育乳牛頭数も多く,したがって畜産収入額も大で,個人経営を指向して共同化を好まず,政府の指導方針に忠実にしたがうものが多い2)。
 以上の事実からして,「一家入植」,「分家入植」という日本の家族制度の特色がもたらした家族類型が,このパイロット・ファームの社会構造や営農方式と密接な内的連関をもつことは明瞭である。パイロット・ファームは根釧原野に新設された開拓部落であるから,既存の一定の生産条件があって家族形態を規制しているのではなく,家族集団というここに新しく与えられた社会学的事実が,生産上の協力関係や日常生活上の親睦扶助関係を形成する基盤となっているのである。この開拓部落において,人間社会形成の原初的段階,現代における村落共同体成立の原型を見ることができると思う。
 もちろん,筆者は家族類型,営農類型のみをもって開拓集落の社会構造のすべてを割りきることができると考えているわけではない。しかし,パイロット・ファームの外に調査を実施した北海道サロベツ原野における豊富(とよとみ)町,落合(おちあい),豊里(とよざと),豊栄の三開拓部落および十勝原野における更別(さらべつ)村,勢雄(せお),士幌町新田の二開拓部落の社会構造も,この家族類型の適用によって解明することができた3)。
 家族類型が,その農家の経営方式や部落の生産組織,および社会構造と密接な内的連関をもっているという事実を基礎として考えるならば,将来新しい開拓地を設定する場合に,
 (1) ここにみられたような家族的条件を考慮して入植者の詮衡を行なうこと。
 (2) 家族類型別に入植農家の適当な組み合せをすることにより,新しいコミュニティづくりを設計すること
 (3) 営農方式と共同経営の集団構成を工夫すること
 等によって開発効果を一層促進することが出来るし,また,既存部落にたいしては,その社会再組織(community reorganization)のための示唆を与えることができる。科学的研究の関心は,あわせて実践的課題の解決にも貢献しうるのである。

 (2) 多目的貯水池の建設
 金山ダムの建設によって造成された多目的貯水池かなやま湖は,北海道空知郡南富良野町のほぼ中央部に位置する。南富良野町は,石狩川の支流である空知川上流の山峡部を占め,狩勝峠を隔てて十勝原野に接続する細長い地形的条件をもった農林業の町である。昭和38年(1963)着工,昭和41年(1966)完成の金山ダムによって生じたかなやま湖のために,町の中央部が水没することとなった。筆者は,ダム建設着工前の1962年から64年にかけて,当時の南富良野村および隣接の占冠(シメカップ)村を含む地域社会について,金山ダムの建設と,北落合及びトマム地区の開拓事業とによって生ずる変動過程を解明するための基礎調査を行い,いくつかの問題点を指摘した4)。
 当時の主たる関心は,人造湖の建設によって,この地域社会環境がどのような影響をうけるかを測定するために,その社会生態学的構造を解明しておくことにあった。すなわち,この人造湖の出現にともない鹿越(シカゴエ)地区は水没して村は分断され,上流部幾寅(イクトラ)地区と下流部金山地区との有機的連関は著しく阻害されることとなり,一つの自治体としての村の機能維持は渋滞せざるをえない。経済的観点からすれば,建設事業そのものは,少なくとも一時的に村財政および関係住民にプラスの影響を与えるはずである。しかし,この事業は,村の農業生産力のほぼ30%を占める豊かな農地を水没によって消滅させ,またこの水没地区に居住する農家103,日雇労務者57,給料生活者50,商家29,無職その他10,合計249世帯,その人口1,229人を離散させ,その結果,地元の農業協同組合,商店,病院,寺院,学校等の経営にも強い影響を及ぼすので,これらについて,長期的展望をもった追跡調査によって,総合的決算報告書を作成しようというのである。ここでは,現在の南富良野町民が町の現状をどのように理解しているか,すなわち住民意識へ反映された結果を通じて開発効果を把握する方法をとり,その一部を述べる。
第1図 南富良野町集落配置図
 1962年度調査の報告書においては,南富良野地域社会の歴史的発展過程,日常生活圏を中心とする集落相互間の機能的連関,水没地帯の社会経済的性格,人造湖建設が幾寅市街,金山・下金山市街および東鹿越市街の商店,工場,公共施設等にもたらす社会経済的影響,農業協同組合および村財政に与える影響等を正確に記録することに努めた。
 1976年秋から再調査を開始し,第一次調査以降15年間の経過を追跡し,1978年秋現在もなお調査を継続中である。特に居住地の水没により離散した家族の追跡調査に,強い関心を抱いている。
 今次の2年間にわたる態度調査によって解明された南富良野町民の生活意識は,およそ次の如く要約される5)。
 (1) 南富良野町の自然環境については,その満足度が地区部落ごとに差異がある。特に気候に関しては,かなやま湖を挟んで南西部に満足度が高い。
 (2) 人情の篤さについては町民相互に概ね満足している。しかし,冬の生活を改善すべき必要性に関しては各地区とも強い意欲を示している。
 (3) 各種の生活基盤施設の充足に関する要求度は町内各部落毎に異なる。市街地においては下水道整備,北落合においては電気施設にたいする不満が極めて高い。
 (4) 医療施設整備への欲求は特に金山・下金山地区において高い。
 (5) 社会福祉施設および防災施設については概ね満足している。
 (6) 家族のメンバーがみんなで楽しむ場を要望する声が強い。
 (7) 畑作地帯,低階層そして高齢者ほど,日本農業の将来は暗い,と予測している。特に女性の中には明るい予測をもつものがいない。
 (8) 畜産地帯では前途に明るい希望をもち,生きがいを感じているものが比較的多い。
 (9) 稲作地帯では離農指向が強い。
 (10) 個別経営を主体として,これに機械の共同利用を加味した営農を指向するものが多い。
 (11) 政府の農業政策については,下層へ向うほど所得保障制度への支持率が低く,価格制度への選択は逆に高くなる。
 (12) 町民は,日常生活物資の購入はほとんど町内で充足しているが,他都市との結合を強く保持しているのは,富良野市(月に1~2回58%),旭川市(同47%),札幌市(同24%)で,帯広市との関連は比較的簿い(同19%)。
 (13) 鉄道の運行時刻と運行回数についてはかなり不満を感じている。
 (14) 町内への定住指向度は,林業,鉱業を主とする部落では低い。特に年令層が若いほど移住指向が強い。
 こういった町民意識は,いうまでもなく,町内における環境変動のみによって形成されているものではない。ダム建設と相前後して経験した日本経済の高度成長と石油ショック以後の社会経済変動がその背後にある。産業的にみれば,自然の恩恵の極めて乏しい北海道内陸山間地帯の一つの自治体が,その住民にたいして,住みよい豊かな生活環境を保証するためには,どのような施策を講じなければならないか,この調査結果は示唆を与えている。
 最近の国土計画においては定住圏あるいは環境圏構想が提案されている。しかし,“住めば都”という俚諺はもはや昔通りには通用し難い時代となりつつある。過疎地帯の自治体の深刻な苦悩は,かかってこの点にある。
 かなやま湖の造成による環境影響に関しては,15年後の住民意識にみる限り,顕著なプラスの効果は発見し難いといわなければならない。

結 語

 以上,地域開発の一部に関する北海道の経験を述べ,それらの中から得た開発効果測定の方法論に基づいて,特に社会的文化的影響評価のための5指標を提言した。
 今後急激にまた長期的に開発を実施していく国々,なかんずく第三世界の地域開発に際しては,一国全体としての巨視的開発計画を立案するだけではなしに,地域社会に即した具体的開発行為に関する事前評価と,事後評価とを繰り返し,開発事業の中にそれをとりこんで,よりよい成果をあげることが期待される。経済効果の測定および汚染,災害,自然破壊等に関する技術アセスメントと並んで,ここに強調した社会的文化的アセスメントを実施することを忘れてはならない。
 いわゆる“さら地”(未開の原野)を,西欧科学技術の受容によって開発してきた北海道開発百年の経験が獲得した教訓には,学ぶべき点が少なくないと信ずる。

 注
 (1) 関 清秀「国土計画における地域設定の方法論―地域社会学的研究法の試み―」『北海道大学文学部紀要』第11号,1963年。
 (2) 関 清秀「開拓集落の社会構造と家族類型―北海道パイロット・ファームにおける『一家入植型家族』と『分家入植型家族』―」『社会学評論』第52号,1955年。
 (3) 関 清秀「開拓事業効果調査年度報告書」第1~5号,北海道開発局,1962~66年。
 関 清秀ほか 『サロベツ総合調査中間報告書』第1~5号,北海道開発局,1966~70年。
 関 清秀ほか 『サロベツ総合調査報告書・泥炭地の生態・社会経済部門篇』北海道開発局,1971年。
 (4) 関 清秀ほか 『南富・占冠地域社会の構造分析』北海道開発局,1963年。
 (5) 関 清秀ほか 「環境計画と環境影響評価―人造湖建設による環境変動の学際的追跡研究(中間報告)―」『北海道大学大学院環境科学研究科紀要』第1号,1978年。


北海道の鉄道網形成に関する若干の資料と考察 谷内 達

 はじめに
 1 「フロンティア」としての北海道とその内国化
 2 1879―1895年
 3 1895―1915年
 4 1915―1935年
 む す び

はじめに

 本稿の目的は,北海道における鉄道網1)の形成過程を,北海道「開拓」の巨視的過程との関連において概観することにより,特定地域への技術移転としての鉄道の導入・発展の基本的背景を考察するための若干の資料を提供することである。
 地域研究として北海道の事例を取上げるに当っては,北海道の地域的特殊性に関連した視点を設定しなければならない。通例,日本の他地域と比較して北海道の特色として取上げられるのは,①冬季に寒冷・積雪という気候的特色,②いわゆる「フロンティア」的特色,の2点であろう。本稿では,後者の視点に主眼を置き,前者の視点は必要に応じて取上げるにとどめる。
 研究対象期間は1879年から1935年までとした。1879年は,北海道の最初の鉄道が開業した年(1880年)の前年であり,鉄道以前の状態を表わすことができる。また十分に詳細な人口分布データの得られる最も古い年でもある。
1935年は,一般に第二次世界大戦前に到達した平時の水準を代表する典型的な年である。さらに,後述するように「フロンティア」的段階がすでに終わっていると見なせるとともに,自動車輸送との競争による影響がまだ顕著でなく,鉄道を陸上輸送の主役と見なせる時期でもある2)。
 以下,資料として作成した第1~第6図を用いて概観する。
1 「フロンティア」としての北海道とその内国化
 本稿では,そもそも北海道を「フロンティア」と認識することの是非には立入らず,単に外見的・操作的に,①人口増加,②制度的特殊性,の2点から把握する。
 人口諸指標は,地域の総合的・基礎的指標として,また現実的な資料入手可能性の点において,「フロンティア」的性格を認識する最も簡便な操作的指標とみなすことができよう。社会増加,すなわち人口流入によって人口が急激に増加し,人口分布が変化している地域をフロンティアと仮定すると,北海道全体としては1920年頃まで3)がその時期に当る(第1図)。
 制度的特殊性,すなわち全国的枠組に対して特殊な制度的枠組が適用されている地域をフロンティアと仮定すると,北海道の場合には,ほぼ1880年代後半までにフロンティア的特殊性が確立し,1900年前後を転換点として,しだいにフロンティア的性格の希薄化,すなわち内国化が進んでいったとみることができる。第1図の若干の指標について年表風に列挙すれば次のとおりである。
<行政>
 1886 北海道庁設置。以後,形式的には1947年まで府県とは異なり,海外植民地に準ずる形態が続く。
 97 北海道独自の地方自治制度成立。全国(1888年)よりも遅れ,自治能力も限られていた。
 1901 道議会発足。
 02 帝国議会選挙。
 27 地方自治制度改正(全国なみに準じた体制となった)。
<強制的労働力導入>
 1874 屯田兵入植開始。
 81 囚人労働開始(とくに1880年代後半から本格化)。
 90 屯田兵入植本格化(平民屯田)。またタコ労働(後述)開始。
 99 最後の屯田兵入植。
 1925 タコ労働の公的(形式的)規制開始。ただしタコ労働は1946年まで残る。

 以上の過程は,海保によるアイヌ内民化過程とも一致する(第1図)。
 このような巨視的過程に照らして,北海道の鉄道網形成における制度的枠組の変化をみると,次に示すように,時期的に若干のずれがあるとはいえ,同様の過程がうかがえる(第2図)。
 1892 鉄道敷設法(全国)。ただし北海道は除外された。
 96 北海道鉄道敷設法。これによって鉄道網形成の枠組が確立した。これは前述の巨視的過程における1880年代後半の段階(北海道の特殊な枠組の確立)と,全国的枠組に準じたものとしての内国化の端緒としての段階との,両者の性格を合わせ持つ。
 1905 それまでの事実上の北海道庁所管から,全国的(一元的)鉄道行政機構に組み込まれた4)。
 06 国有化(1907年に完了)。
 22 鉄道敷設法改正。これにより北海道も他地域と同列に置かれるようになった。
 以上述べてきた諸点と,鉄道網形成の進展および人口分布の動向とを考慮し以下の各節において,①1879‐95年,②1895‐1915年,③1915‐35年の三期に便宜上区分して,技術移転としての北海道の鉄道網形成を概観する。

2 1879‐95年

 1879年には(第3図‐1),交通路,港湾,集落すなわち人口分布は5),海岸地帯に限られていた。これらの殆んどは,17世紀以来の江戸時代における和人の進出・活動にその起源をもとめることができる。いいかえれば,北海道は,たとえ先住民族の存在を無視して和人の活動のみを取上げるとしても,まったく白紙の土地だったわけではなく,北海道のいわゆる「近代的」開発の起点とされる1869年までには,すでに海岸地帯全域に,和人による最低限の拠点およびネットワークが存在していたのである。
 したがって,過去の遺産の上に立つ新しい進展の中心は内陸への進出であった。すでに1879年以前に札幌への道路,すなわち本願寺街道6)(1871),札幌本道(1873)が建設されていた。とくに札幌本道は日本最初の馬車道路といわれている(第3図‐1,第5図)。しかしそのほかは徒歩・馬・日本型帆船に頼っており,技術的には江戸時代と大差なかった。1879年に整備された駅逓制度も,その基礎は江戸時代のネットワークであった。
 内陸への道路建設が本格化するのは1880年代後半以降(道庁設置以降)であった。主として囚人労働により,道路がのびていった(第3図‐2,第5図)。また札幌周辺を中心に馬車道路への改良も進んだ(第5図)。この道路と鉄道(後述)の建設にともない,内陸への入植が進み,フロンティア的性格が顕著となったことは,前節の巨視的段階に照応している。この内陸入植の主役は屯田兵入植(とくに1890年以降)であった(第4図‐1,2)。道路に比べて,鉄道は必ずしも当初から中心的役割を与えられていたわけではなかった。開拓の指導・助言にあたっていたアメリカ人技術者の意見の大勢は道路説であり,技術的経済的見地からは鉄道建設に消極的であった。鉄道建設を決定する上で最も主導的役割をはたしたのは開拓使(黒田)であり,その背景には国防的配慮があった(〔3〕,〔21〕)。
 この時期の鉄道は,資源型鉄道とみなされうる次のような特色をもっていた(〔2〕,〔3〕,〔21〕)。
 (1) 炭田と港を結ぶ石炭輸送路線として建設され,収入の大部分を貨物輸送(およそ半分が石炭)に依存していた。
 (2) 官営時代・私鉄時代(北海道炭鉱鉄道)を通じて,炭鉱経営と一体であった。
 しかし,次のように,単なる資源型鉄道と見なしえない諸点にも十分留意する必要がある(〔2〕,〔3〕,〔21〕,〔32〕)。
 (1) 開拓使は当初から北海道全域の開拓のための鉄道建設構想を持っていた。
 (2) 石炭輸送が主体であったとはいえ,石炭以外の貨物および旅客の輸送が総収入の6割前後を占め,かなりの一般輸送的性格が認められる。
 (3) 開拓地における総合鉄道7)としてのアメリカ型鉄道の性格を受けついでいた。これは次に述べることと関連する。
 北海道の最初の鉄道はアメリカ人技術者の指導によって建設された。本州の鉄道がイギリス系,九州の鉄道がドイツ系といわれるのと対照的である。アメリカ系技術によって北海道の鉄道が出発したことのもつ意味としては,次の諸点をあげることができる。

 (1) すでにふれたように,開拓地における総合鉄道としてのアメリカ型鉄道の性格を受けついでいた。建設・運営費も比較的低廉であつた(〔32〕)。
 (2) 当時のアメリカ鉄道の世界的水準を反映して,先進的技術が採用された8)。
 (3) 外国技術の導入が,本州等を経由せず直接に,かつ開拓全般におけるアメリカ技術の導入の一環として,行われた。本稿の文脈に即していいかえれば,北海道独自の地域的枠組において導入された。
 このようにして導入された鉄道技術が,主として人的側面においてどのように移植されていったかについては,必ずしも十分な記録がないが,その移植過程はきわめて急速であったと考えられる断片的情報を以下に列挙する。
 (1) アメリカ人技術者の滞在期間はきわめて短く,1883年までであった(〔21〕)。
 (2) 当時外貨負担が深刻で,自立化を急ぐ事情があった(〔32〕)。
 (3) アメリカ人機関士が活動していた時期にも,すでに日本人が交代要員として運転していた。その後,汽船機関手であった日本人が担当するようになった(〔19〕)。
 (4) 輸入車両の組立・修理にあたった車両工場では,いわゆる「職人」的熟練労働者が鉄道関係技術を向上させていった。客車・貨車はもとより,1894年には日本人だけによる国産機関車(日本で2番目)を製造するに至っている(〔12〕,〔19〕)。
 (5) 2本目の鉄道は測量はじめすべて日本人の手で建設された(〔21〕)。
 (6) アメリカ式の除雪車は北海道の実状に合わなかったので当初から独自の除雪車が考案された(〔12〕,〔21〕)。
 すでに述べたように,1880年代後半からの囚人労働による内陸への道路建設が,北海道のフロンティア的開拓過程の巨視的一段階を表しているが,鉄道においては,①鉄道払下げ(1889年)による北海道炭鉱鉄道の成立9),②同社の新線建設におけるタコ労働の発生(1890年),③釧路鉄道建設と硫黄採掘における囚人労働(1892-96年)などに,対応する事例を見出すことができる。タコ労働は,形式上は自由募集であるが,囚人労働に匹敵する苛酷な労働条件による一種の強制的労働形態であり,北海道の鉄道・道路等の建設工事において長く存続した10)。より巨視的には,江戸時代のアイヌ人使役,屯田兵入植,囚人労働,タコ労働,そして第二次大戦期の朝鮮人,中国人強制労働などを,植民地的性格の北海道における特殊な形態として一貫してとらえることができる(〔26〕)。
 このように,1879‐95年の時期には,道路建設を主体に内陸への入植が進むとともに,外国からの鉄道技術の導入が一応完了し,鉄道網形成の基礎的条件が整った。またフロンティアとしての北海道の特色を示す諸条件が出そろった時期でもあった。

3 1895‐1915年

 この時期には,北海道鉄道敷設法(1896年)にもとづく幹線鉄道網(第6図)がほとんど建設され,これに伴って開拓・入植が大幅に進展した。内陸(および東部)への入植において鉄道が主要な役割をはたしたことは図‐3,4からうかがい知ることができる。人口の面からは,もっともフロンティア的な時期であった。
 しかしフロンティアにおいて開拓・入植(人口増加と人口分布変化)が進むことは,それ自体,しだいに本州等との差が小さくなり,フロンティア的性格が希薄化する契機を内包している。この時期には,すでに第1節で述べたように,国有化をはじめ制度的枠組における内国化過程が進展していったのである。
 その意味で,北海道鉄道敷設法による鉄道建設計画は,フロンティア的側面と内国化的側面とを合わせもっていた。
 この時期の鉄道網形成におけるフロンティア的性格は,次の諸点に表われている。
 (1) 市場(人口・産業)に先行し,むしろ市場を創出(開拓・入植)する役割を期待されていた11)。いわゆる「開拓鉄道」的性格を有していた(〔3〕,〔15〕)
 (2) 急速に鉄道網を拡大するために,技術的水準を切下げ,建設費の低下をはかった。当初簡易な基準で建設し,後に改良する方式や,軽便鉄道法(1910年)による軽便線の建設が私鉄のみならず国鉄においてもみられたことなどがその例である(〔12〕,〔15〕,〔21〕)。また,前節で言及したタコ労働も,この文脈でとらえることができる。
 (3) 国防的考慮が,経済的不確実性を補った。このことは,北岸(稚内)および東岸(釧路・根室・網走)に到達することを骨子とする鉄道網構想(第6図),経済的見込みが小さくかつ開拓的根拠に乏しい小樽・函館間の路線の国防的見地からの正当化(〔2〕)などに表われている12)。
 これに対して,主に技術的進展は,内国化過程の中で,全国的枠組で進められた。
 (1) 第1節で言及したような鉄道行政一元化(1905年)および国有化(1906-07年)にともなって諸規格の統一・整備が進んだ(〔21〕)。
 (2) たとえば車両工場の熟練労働者におけるように,東京など本州からの転勤が1904年ごろから増加した(〔18〕)。
 (3)職員の組織内教育13)が1900年から始まった。さらに09年(国有後)から全国的な教育体制の一環として本格化した。
 なお,フロンティア的性格とならぶもう一つの北海道の地域的特殊性である寒冷・積雪対策においては,全国的な制度的枠組という時期にありながら,北海道独自の進展をみせた。
 (1) 従来人力および簡易な除雪車に頼っていたのに対し,1910年にアメリカからラッセル車が輸入され,日本で最初に北海道で使用された(〔12〕,〔21〕)。
 (2) 日本で最初の防雪林は東北地方においてであったが(1893年),北海道では1908年の苗木養育開始以来,独自の樹種選定研究を含め防雪林の開発・増備を進めた(〔12〕)。
 以上のように,1895‐1915年には,北海道全域にわたる鉄道網の骨格が形成され,開拓・入植が一応の完成をみた(第3図‐3)。同時に主に制度的枠組における内国化が進み,フロンティア的性格の希薄化が進行した。

4 1915‐35年

 この時期には,鉄道網がきわめて密に発達した(第4図‐5,6,第3図‐4)。こをは,改正鉄道敷設法(第6図,1922年)による国鉄の鉄道建設の進展と,多くの私鉄・殖民軌道の建設(第2図,第3図‐4)によるものである。しかしこれらの新しい鉄道の多くは連絡線や培養線であり,開拓・入植(人口分布の変化)との関連は前期に比べて著しく弱く,かつ一部の地域に限られるようになっている(第4図-5,6)。したがって北海道全体としての人口増加は鈍化し,人口分布の全体的パターンに大きな変動はみられない(第3図-3,4)。むしろ北海道内部における人口減少地域も現われ,フロンティア的地域がしだいに一部に限定されてきている。
 いいかえれば,かつての市場,人口に先行するタイプの鉄道建設から,既存の市場・人口に対応して鉄道網を拡大・充実するタイプへと(したがってフロンティア型から内国型へと)その性格を変えてきたとみることができる。しかし,既存の市場・人口は,鉄道建設を正当化するほど十分には発達しておらず,若干の政策的・技術的特色を生み出すこととなった。
 この点で注目すべきは北海道庁の役割である。北海道庁による鉄道への関与は,1905年以降形式的にはなくなっていたが14),1917年以降次のような形で北海道の鉄道網形成を推進する役割をはたすようになった(〔9〕,〔10〕,〔15〕)。
 (1) 1917年より,国鉄建設資金の利子を拓殖費から鉄道会計に繰入れることにより,鉄道建設を繰上げあるいは追加した15)。
 (2) 1920年より,地方鉄道に対する鉄道院の利子補給(5%)に加えて,2%を追加して計8%とするとともに,地方軌道に対しても年8%の利子補給を始めた16)。これにより私鉄建設が促進された(第2図)。
 (3) 殖民軌道を1924年より建設した17)。この殖民軌道のほとんどは最も簡易な馬車軌道にすぎず,動力機関車のあった路線はわずかであったが,沿線地域の人々にとっては,道路よりも水準の高い輸送機関であった18)。第4図-6における東部の人口増加の多くは殖民軌道建設に帰することができる19)。
 このような北海道庁の関与は,鉄道行政一元化の枠組の中で,地域的開拓政策の中に再び鉄道を一定程度組みこむ動きとしてとらえることができる。また私鉄・殖民軌道の建設促進は,開拓鉄道のもつ低廉性・簡易性という要求を反映しているととらえることができる20)。このことは前節において言及した技術水準の切下げに通ずる。

 最後に,この時期を象徴する技術的事項として自動連結器位置上げ(1924年)に言及しておこう(〔12〕,〔21〕)。
 北海道が独自にアメリカから導入した先進的技術の一つに,自動連結器がある21)。しかし本州の鉄道がようやく自動連結器へ一斉に移行(つけ替え)することになった際,連結器の高さが異なるため,北海道側の連結器の高さをずらして(位置上げ)本州側の高さに合わせる作業が1924年に行なわれた。すなわち,北海道の方がこの点では進んでいたにもかかわらず,現実には本州側に合わせざるを得なかったという意味で,象徴的である。
 なお,この結果,青函貨車航送が1925年より開始され,実質的にも北海道の鉄道網は全国ネットワークの一部に組みこまれたのであった。

む す び

 本稿は結論をはっきりと示すというよりも,むしろ今後の研究への出発点としての,基礎的作業に伴うスケッチにすぎないので,今後の展望を含めて次の諸点を指摘して,むすびに代えたい。
 (1) 北海道の鉄道網形成は,北海道「開拓」の巨視的過程としてとらえることができる。ただし「フロンティア」の意味を鉄道の場合に即して具体的(操作的)に規定する必要があろう。
 (2) 技術移転の概念は本質的に地域的概念を含む。北海道の鉄道の場合,外国-日本のディメンジョンよりも北海道-全国(道外,本州)のディメンジョンの方が重要である。
 (3) いわゆる「開拓鉄道」の概念は,少なくとも操作的には,資源開発・開拓入植・国防・低廉簡易性等の諸点を整理する上で有効である。諸点のうち,とくに低廉簡易性を,初期の鉄道や殖民軌道について,研究を進めることは重要である。
 (4) 本稿では初期の道路を除いて鉄道以外の交通機関は取上げなかったが,異種の交通を総合することによって地域における技術移転の分析はますます効果的となる。
第1図 北海道の人口増加,1870~1935
第2図 鉄道の拡大,1880~1935
図3 北海道の交通網と人口分布,1879~1935
図3 (1) 1879
図3 (2) 1895
図3 (3) 1915
図3 (4) 1935
図4 北海道の鉄道網形成と人口の社会増加,1879~1935
図4 (1) 1879-1888
図4 (2) 1888-1895
図4 (3) 1895-1905
図4 (4) 1905-1915
図4 (5) 1915-1925
図4 (6) 1925-1935
図5 道路網
図6 鉄道敷設法による予定路線
 注
1) 国有鉄道だけでなく民営の鉄道・軌道,殖民軌道をも含む。したがって馬車軌道も含まれる。ただし専用鉄道・軌道(森林鉄道など)は除外した。
2) 1935年前後は「いわゆる鉄道の黄金時代」〔12〕であった。
3) 少なくともこの頃までの,すなわち人口が200万人に達するまでの北海道の人口増加は,国際的に見てもカリフォルニア,テキサス,オーストラリア等に匹敵する急激なものであった〔34〕。
4) これについては中央の鉄道当局の反対意見があった。反対理由からは,北海道の鉄道が「開拓地」故に採算上不利であること,遠隔地故に人事的技術的に画一的運営に難があること,など,北海道の特殊性に関する認識がうかがえる〔21〕。
5) 初期の人口統計におけるアイヌ人口の把握は不十分であり過小評価されている。したがって第3図における内陸部の空白についてはこの点に留意する必要がある。ただし,全道的な人口分布の大勢には重大な影響はない。
6) 東本願寺が信徒・僧・アイヌ人労働力により建設した。
7) たとえば客車設備は当時の新橋・横浜間の鉄道とくらべても高い水準にあった〔32〕
8) たとえばテンダ機関車,ボギー客車,簡易自動連結器,貫通式空気制動機など〔12〕。

9) 鉄道と同時に炭鉱が払下げられた。炭鉱では官営時代からの囚人労働が1894年まで続いた〔27〕。
10) このタコ労働については,単なる雇用側の不法な行為とみるよりも,労働力の不足という状況で急速かつ低廉に建設工事を進めるために行政当局側の容認を伴った構造的なものとして把握する必要があろう〔17〕。
11) 1898-1905年の官設鉄道(すなわち石炭輸送路線は含まれない)では毎年損失を計上していた。しかし1910-15年(国有後で石炭輸送路線を含む)には,石炭輸送を差引いても十分な利益をあげるに至っている〔21〕。
12) 北海道がその辺境的性格から,国防的考慮が重視されたという点ではフロンティア的であるが,国家的判断という意味では内国的である。
13) すぐれた人材を確保することの困難な北海道において,組織内教育は重視された。
14) ただし道路・港湾・森林鉄道は北海道庁の所管であった。
15) 「本費は大正6年法律第10号に依り本道拓殖を促進せしむる為,原野の開発を目的とする国有鉄道建設の資金利子を特に拓殖費より鉄道会計に繰入るるものなり。蓋し本道に於ける未開の広野と未発の利源開発促進上,鉄道は道路港湾と共に最も急務たるは論を俟たざる所にして,既往に於ける拓殖促進の効果と実績が鉄道敷設に及ぶものなき事実に徴し亦明かなり。従って各地方の鉄道の速成を期待する事頗る大なりと雖,国有鉄道の建設改良は鉄道省の主管に属し,全国一般の交通上の必要,緩急又は経済等を比較考究の上適当なる計画を樹立するものなるのみならず,拓殖鉄道は初期に於ける収支相償はざる等の関係上此の要求に適応せしむる能はざるもの多く,拓殖計画進行の先駆たる施設として甚だ遺憾の点ありしを以て,(中略)鉄道省の一般的建設改良計画以外に本道拓殖促進の為急務を要する路線に対する繰上又は追加の建設計画を樹て,之に要する建設資金の利子を拓殖費より鉄道特別会計に繰入るるの特別制度を設け」た〔10〕。
16) その後,利子補給の率,期間は改正された〔10〕。
17) 「本事業は新開植民地に12封度乃至20封度の簡易なる軌道を敷設して,物資の輸送及交通に便し且輸送費の軽減を図る等,以て移民の招来並農村の開発に資せんとするものなり。而して拓殖進展に伴い移民の入地箇所は漸次奥地に及び何れも市街を距ること遠く為に農作物及日用品の運搬に不利不便甚しく,斯くては移住者の消長に及ぼす影響大のみならず,既に入地したる者に在りても定着の念を泪喪せしむる等,開拓不振の一大原因なるを以て(中略)47線5百哩を敷設せんとするに在り。而して建設後約10年間は地方住民の任意使用に委し設備しある台車の配給を受け各自所有の馬力に依り運行せしめ,附属倉庫は使用者の団体を組織せしめて物資の一時保管に供し,将来当該地方の開発並経済状態を稽量して,漸次之を町村又はその他団体等の運輸経営に移管し,(中略)助成を行い以て漸次独立の域に進むるの計画なり。」〔10〕。
18) 道路輸送はむしろ冬の馬そりよりも夏の泥道での馬車の方が困難なことが多く,殖民軌道は歓迎された〔14〕,〔25〕。
19) ただし1929年ごろからは自動車通行可能な道路が建設された〔33〕。一般に開拓入植地における道路の建設・維持には開拓民の農閑期労働力を利用し,開拓民の収入確保策をも兼ねることが多かった〔33〕。
20) このほかに専用鉄道から一般鉄道に変わった例がある。これも人口・市場が不十分で単独では鉄道を正当化できない場合における対応の一つであろう。十勝地方の十勝鉄道・河西鉄道が製糖会社の専用鉄道(ビート輸送用)から一般営業路線となったのはその例である〔22〕。
21) 自動連結器といってもその種類・水準はさまざまである。しだいに改良・比較を経て統一が進められたが,本稿ではその詳細には立入らない。

参考文献
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〔34〕拙稿「北海道の人口増加をめぐる国際比較」『北海道地理』第52号,1978年。


北海道稲作の成立過程と将来の展望 高橋萬右衛門

緒 言
1 北海道への導入
2 耕地の拡大と北進
3 近代多収品種の原型
4 世界新品種育成への貢献
結 語

緒 言

 稲が,いつ頃,どのような経路で日本に入り,作物として定着していったかは,次の事実以外いまだに詳かでない。それは西南暖地と中部地方の太平洋沿岸の二千年前の地層から炭化米が出土することである。ゆえに少なくとも,その時代にはすでに稲との接触はあったと考えてよい。いまこれをもとに,当時の稲作地帯を推定してみると,もし気候もいまと同様であったとすれば,年平均気温で14℃から15℃の地帯が生育北限であったことになる。すなわち現在の主要稲作地域である北陸,関東,東北地方は全くの圏外というわけである。その後,これらの地域にまで稲作が及び,日本の本州をあまねくおおいつくすのに千数百年の年月が流れている。これはつまり年平均気温が11℃ないし12℃の地帯にまで稲作が北上するのに,このような長い期間が必要であったことを意味する。しかし,このように限界を拡げていっても,ここ百数十年前までは,日本の最北部の島,北海道には,稲作はおろか農業それ自体が皆無だったのである。
 日本では,1868年を頂点として大規模な国内戦争があった。そしてその結果,主として敗者の側の人々が北海道への移住を余儀なくされた。雪深いこの島は北緯41.3度から45.5度に位置し,年平均気温は好条件の西南部でも6℃ないし8℃,その他では5℃であり,無霜期間は年の半ばはおろか,島の北東部では4ケ月程度に過ぎない。稲作はもちろんのこと,他のいかなる農業も存在しなかったから,本州からの輸送食糧にたよらざるを得なかった。しかしこれは,種々の事情,とくに冬期積雪による輸送路の閉鎖のため,程なく重大な危機に直面することとなった。かくして人々は未知の環境の下で,いかなる困難があろうとも,農業を開発定着させることを決意するのほかなかったのである。
 現在の北海道はヘクタール当り玄米4トン以上の収穫をほぼ確実にあげているが,これは日本全体でも中位の成績である。北海道の稲作の歴史,それはまったくの白紙から出発して,緑がそれを彩り,塗りつぶすに至るまでに払われた,多くの人々の創意と努力の跡を,あたかも昨日の出来事のように鮮明に描きだすことのできる,日本はおろか世界でも稀な農業発達史である。厳しい環境に,いかに立ち向い,克服していったか。またそこに得られた知識と智恵がいかなる形で世界稲作の上に開花していったか。それらの一端を主として育種と耕作技術の側面より記して,今後の農業開発に向けての参考としたい。

1 北海道への導入

 もし一株でも植えたことが北海道稲作の始まりだとすれば,1685年に南端の渡島地方で一人の在住者によって試みられた記録がある。当時は僅かにこの場所にだけ漁業により人々の生活が営まれていたといってよく,農業は皆無というのが正しい表現であろう。しかし,このような篤志家はその後もあとを絶たず,彼らは本州の各地,とくに東北地方から種々の在来種をとりよせ,北辺の地でも稔るものを探し求めつづけていた。その結果,二百年の歳月の間に幾つかの有望な稲が見出されていたのである。これらは現在の尺度からする品種ではないようである。しかしそれはその後の個人ないしは協同での試作,努力などを通じて南端部の初期の稲品種の原型となり,さらに北海道稲作の母体をなすものとなっていった。つまり,これらは貴重な育種素材というべきもので,それは本州の名の通った品種から由来したものではなく,むしろ山間部に無名のままあった稲のなかに潜んでいたのであった。これらを見出した人々こそ,北海道の最初の稲作農家であり,最初の育種家であり,そして彼らによって北海道品種成立の途を開くための準備がなされたといってよい。1870年に入り,日本は外国と大規模な交流を始めた。いわゆる欧米文化の流入時代に突入したわけで,言い換えればそれは,すべてをこれら先進国に仰ぐという時代でもあった。当時の日本政府は北海道の開拓のためにはアメリカ合衆国の顧問が必要であると考え,その推挙をグラント大統領に依頼,そして来日(1871年)したのが,時の農務局長官ケプロン(Capron)である。彼を最高峰とする米人顧問団に北海道農業のあり方につき意見を求めたところ,「稲作に不向き,畑作を指向すべし」というのがその答であった。これは当時としては,むしろごく自然な,理にかなった意見であったが,その波紋は決して小さなものではなく,ある意味では,その当否は現在でもなお重要課題,すなわち「北海道農業の真の在り方」という課題として残っているのである。
 ともあれ,現実にはこのような出来事にもかかわらず稲作への意欲は決して消えることはなかった。しかもそれは主として開拓農家自身と,その熱意に動かされた一部の開拓使庁関係の人たちによって,政府の保護と協力の圏外でひそかに続けられていたのである。
 農業の立地条件の最大のものは気象である。いまここで北海道のそれを他の国と比較してみると,まず気温では北海道(道庁所在地札幌を代表とする)は年平均では7.5℃という低温ではある。しかし第1図のごとく東京よりも台北(台湾),マニラ(フイリピン),ペナン(マレーシア),バンコク(タイ)よりも季節変化が激しく,短期間ながら夏期気温は相当に高い。初夏(5月)から初秋(9月)までの平均気温をみると,西南部で16℃,東部で15℃,北部では14℃,となる。
第1図 米作地の月別平均気温
これは現在の知見と技術をもってすれば,稲作が不可能な程の低温ではない。しかしこの期間内に,たとえ4,5日の短時日でも,この気温以下になることがあれば,積算温度の高さにかかわりなく,重大な被害が現われることは現在でも避け難い。また無霜期間が短いから,栽培期間も非常に限られてしまう。
 これらのことは,高緯度地方,すなわち北方地域の宿命である。しかしはたして,高緯度のすべてが稲作にとっての悪条件であろうか。われわれはここに緯度が高ければそれだけ夏期日長が長いことを忘れてはならない。札幌の夏の日長は,15時間以上にも及び,それは熱帯地方より3時間も長い。これを植物生理学のうえから考えれば,北国では,植物が太陽エネルギーにより自己の生活維持に不可欠な光合成反応を営む時間は,それだけ長く,それに応じて乾物生産も多くなる可能性が存するわけである。しかも夜は短く,夜温は高くないから,その間の呼吸による乾物の消耗も少ない。要するに,“収量=光合成-呼吸”とみるなら,北海道の稲作には,それなりの対策が可能なはずである。また水利についても,縦横に走る山系と冬の積雪は,人為によってはむしろ有利な条件に転化しうるから,世界の各所でみられるような,水不足が限定要因となることもない。
 このように見てくると,残された問題は,短い無霜期間内にいかにして稲の全成育期間を安全に納めるか,春の苗立ちをどう確保するか,突発する夏の異常低温の被害を何をもって最小限にくいとめるか,などに絞られてくる。しかしこれらは,現在の眼で解析したに過ぎないのであり,当時としてはこのような見通しがたてられていたわけではない。

2 耕地の拡大と北進

 北海道品種の祖と一般にいわれている品種「赤毛(アカゲ)」が,農家により選び出され,それが篤志家中山久蔵の手で石狩平野の一隅に試作されたのは1873(明治6)のことであった。その結果は,この品種が充分に早生の性質を現わし,寒冷にも耐えて稔ることが示された。これは真に画期的なことで,続く数年間に稲作は石狩平野内陸部である程度の面積を占めることができたのである。当時の成績はヘクタール当り玄米1.5トンであるから,これはまさに北海道の気候風土に基本的には馴化した地方種が生れたことを意味する。しかもここで初めて,開拓使庁は従来の批判的態度を改めて,1893年(明治26)には札幌近郊に稲作試験地を設けることになったのである。
 すでに農家により可能性が開かれた稲作農業が最初に目指した技術開発の方向は,まず栽培面では生育初期の肥培管理につき本州農法とは全く異なる方法を確立することであり,育種面では在来種中よりの大規模な選抜により,早生で耐冷性の個体ないし系統をとり出すことであったが,前者についてはほどなく一つの解決に達した。それは田植え,すなわち移植栽培をやめ,籾を本田に直播する方法の採用である。春は水温より気温の方が低い傾向にある北海道にとり,これはみごとな着眼であり,近代品種が現われるまでの長年月,冷害回避の上でも大きく貢献した。すなわち,限られた期間内に生育期を納めるのに役立ったのである。また後者については,当時北海道に取寄せられていた在来種は,元来が特別の育種操作なしに成立していたものであるから,たとえ単一の品種名が冠せられていても,なお多数の系統の混合とみるべきものであった。これは欠点であるとともに,育種素材ともなりうることを意味し,いわゆる純系を選抜する方法を適用することにより,期待に応えるように,「赤毛」に続いて「坊主」や「魁(サキガケ)」などの早生系統がとり出されてきた。これらの多くは稲作北進に新品種として生かされていったことはいうまでもない(第1表)。
第1表 北海道の奨励改良品種の数(もち米を除く)
 さて,現在の育種学でいう純系分離育種法の理論(1910~27年)はヨハンゼン(Johanssen)の純系説に拠っている。しかし北海道ではこの時すでに純系分離が育種の実際に意図的に用いられていたのである。また遺伝のメンデル(Mendel)法則の再発見は1900年であるが,北海道にこの学説が知られ,その実証的研究の行なわれたのは僅か3年後,また遺伝子組換えを意図して稲の交配育種が開始されたのも僅か12年後のことであった。しかもこの新知見に力を得て,前述の多数の系統・品種は,交配育種用の新素材とし,その用途を拡大していったのである。これがすなわち,1913年から1925年に及ぶ,いわゆる北海道品種内交配による品種育成時代であった。かくして「赤毛」,「坊主」,「魁」などを含む交配をはじめ,多数組合せから,より優れた品種が作り出された。「赤毛」の保有する耐冷性と「坊主」や「早生坊主」が担う早熟性とは,その後も形を変えて多くの後続品種に伝えられていった。なおこの時代に「魁」×「坊主」の交配組合せから極早生品種「走坊主」が生れている。これは,その後に育成された「農林11号」と共に世界にも稀な早熟品種である。
 1927年からは本州品種が交配の一方の親として用いられ始めた。その目的は交配により遺伝変異の幅を広め,品種と収量性の改善に役立つ種々の形質を導入することにあった。晩熟な本州品種を交配に用いることができたのも,1920年に植物の光周性現象がガーナー(Garner)らにより明らかにされ,技術的には日長処理法により出穂期の制御が可能となったからである。稲の光周性の研究は1926年を最初とするが,1929年には早くも北海道でそれが育種の実際に活用されており,これは日本全国の最先端をいったことになる。
 「坊主」とその系譜にある品種が現われた結果として,栽培限界は驚くべき早さで北上していった。いまその経過,すなわち品種の成立とそれによる耕地の拡大北進の関係を示すと第2図のごとくである。図の左は7,8月の平均気温,右は品種改良による北進過程であり,等温線と新品種の出現とがまったく一致して,稲作限界を規定する最大の要因が早熟性と耐冷性であることをよく物語っている。

3 近代多収品種の原型

 ところでかかる,むしろ急激ともいえる北進の結果は,ここに新たな問題を生じた。
第2図 気候条件と米作地
それは冷害の頻発と,それに伴うイモチ病の被害を通じての,徒らな拡張北進への疑問と反省であった。それらにこたえるべく新たに作られた品種のうち,特記すべきものが「富国」,「栄光」および「農林20号」である。
 これらの品種は従来のものに較べ,低丈,多蘖,短穂で草姿は直立しているのを特徴とする。これは現在あまねく知られている多肥多収性の稲の具うべき形態的要件に近いものである。では当時,この草姿のもつ作物栄養学的な意義につき,すでに気付き,あるいは予感のごときものを持っていたのであろうか。実は残念ながらそうではない。肥料の主体を?粕,大豆粕または菜種粕に求めていた当時としては,それに伴うイモチ病の頻発もあり,草丈の高い従来の品種は容易に倒伏し,それが著しい減収をもたらしていたのである。したがってともかくも,稈を短縮することが至上目標とされていたというのが真相であった。
 しかし肥料の種類が変わり化学肥料が多用され,温床苗代による育苗法の開発に伴う移植法への切換えと密植化が進行するにつれ,この草姿が実は増収効果と密接に結びついていることが判然としてきた。それは稲の一株ずつにとっては必ずしも好ましい形態ではない。しかしこの草姿は密植集団となった時は従来の姿型すなわち展開型に較べ,太陽エネルギーを良く利用し,光合成の能率をより高める立体構造であることは,現在の育種学,栄養学,生理学の説くところである。これを模式的に表わしたのが第3図である。「富国」や「栄光」は,正にその名のように,育種史上でも特筆さるべき品種といってよいであろう。
 「富国」以後の品種の歩みは,結論的にいえば,これまでの延長線上において,足らざるを補う形で進んでいる。このことは北海道はもちろん,日本全国をとってみてもそうであるから,これ以上は触れない。ただある時期に日本全体として,北の地域ほど収量が高い傾向にあったことを指摘しておこう。新しい型の取入れの早さがそこには端的に現われていたのであった。
第3図 作物姿勢と葉冠構造

4 世界新品種育成への貢献

 以上のような北海道稲作の成立過程をよくふまえていた北海道の稲育種家は1964年にマレーシアで二期作用品種として有名な「マリンジャ(Malinja)」と「マスリ(Mahsuri)」を作ることに成功した。多期作化はこの地方の自給度を高める一つの方向であるが,それはまた用水の確保技術と短期生育品種の育成との組合せにより,はじめて可能となる。短期生育すなわち早生化についての北海道品種の「坊主」や「走坊主」の功績は既述の通りである。
 また北海道品種が最初に示した草姿の真価はまた国際稲研究所その他の注目するところとなった。同研究所は1966年に「IR-8」,翌年に「IR-5」なる新品種を公表したが,これがいわゆる奇跡の米(miracle rice)として一時宣伝された多収型品種である。農業試験場や篤志家の圃場など好条件のところでは,ヘクタール当り6ないし7トンの収量を記録した。東南アジア諸国の平均が1ないし2トン,また多収の日本でも4.5トンであるから,本品種の多収性はきわ立っているといってよい。
 東南アジアの従来の農法下での在来品種は一般的形態として,草丈高く,茎数多く,葉幅広く,葉身展開し,栄養生長は旺盛,したがって籾よりも藁の部分が多いことである。この特性は数千年に亘り,稲が天水田(自然の降雨に直接に依存する田)の深水状態のもと無肥料で生育し,かつ旺盛な雑草との競争に勝って生き残ってきた歴史的な適応現象の所産である。かかる稲に施肥すると過繁茂となり,はては倒伏してしまう。したがって肥料投与の割に多収とならぬのみか減収にさえつながったので,一時はこれら地域での稲作の向上はないものとさえ誤信された。コロンブスの卵とも言うべき着眼が正に北海道品種から与えられたといってよい。近代品種の原型はこれであるとの認識がようやく世界的なものとなってきたのである。
 「IR-8」は在来品種とは逆に,いわば栄養生長を制限し多肥でも倒伏し難いよう作られたもので,それはインドネシア産の一品種の生理的能力と台湾産の一品種の短稈性とを組合せて具現された。特徴とする直立構造のため,日光は下葉までとどき,したがって太陽エネルギーの有効利用に優るうえ,多肥でも倒れず,増収する。また開花後も光合成能力が高く,それによりさらに増収する。加えて早熟であり,全生育期間は120日程度,感光性も低いため,もし灌漑水に余力があれば年3回の栽培も不可能ではない。藁に対する籾米の比,すなわち籾藁比は従来品種の0.6に対し1.6と改善された。
 かかる多収性は,永年低収水準から脱脚しえなかった開発途上国の稲作に,かつてないほどの衝撃を与えた。多数の国々が本品種の作付を前提に増産計画をたてたのも無理からぬことである。しかし,現実にそれを受け入れるべき側の事情はどうであったろうか。ここに各国農家が直面した問題点の主なものを列記すると次のごとくなる。
 (1)短稈種はとかく苗が小さく浅水の田植えとなるが,それは灌排水施設の整った水田でなければ困難である。
 (2) 深水は野ネズミや雑草を抑えるが,浅水栽培に変えた場合,稲を守る別の手段を考えねばならない。
 (3) 「IR-8」を植え8トンないし9トンの収穫を得るには120~150キログラムの窒素を施すことになるが,そのための資産をどのように求めるのか。
 (4) 本品種はアジアに広く分布する白葉枯病(bacterial blight disease)に弱い。また罹病度は施肥により増大する。
 (5) 精米過程に砕け米を生ずる。
 以上のことが共通的な意見としてクローズアップされてきた。「IR-8」による緑の革命という,一頃の受取り方とは大きな違いである。
 「真実は中央にあり」との諺がある。新品種の「マリンジャー」や「IR-8」,それら自身をただちにアジアの生産増に当てる品種とみるよりも,それらはアジア農業の近代化に必要な方向とその道程の最初の一里塚とみなすことに,より高い価値と意義があると私は思うのである。高収量品種の出現により惹き起された問題とその波紋は実に大きいが,それにより,初めて開発途上地域の農業の向上に必要な諸改善要因が浮彫りにされた。それは洪水の防止,灌排水を含めた圃場基盤の整備,肥料・農薬などの供給のチャンネル,農家の購買力,集約的労力投入のあり方,生産物の貯蔵・調整・流通の改善など,種々の場面に具体的な問題を提供したことを意味する。そしてかかる課題をふまえながら,その後にいたり,それぞれの地域に,より適応する新品種がつぎつぎに生みだされていっている。

結 語

 ところで,北海道の稲の育種にとり,従来はもとより,今後とも大きな課題となりつづけるものに,冷害とその回避策の一つとしての耐冷性の向上とがある。稲の冷害は過去100年間に25回,すなわち4年に1度の割で頻発している。そして冷害の型に遅延型と障害型の2型のあることが知られたのも北海道においてであった。前者は長期にわたる低温の影響で生育や開花が遅れ,また秋の冷気により登熟不良を起こすという型であり,後者は生育期間中で最も温度に敏感な生殖生長期に当る夏の最中に不時の低温に遭い,受精が不首尾となり不稔を結果する型である。たとえば盛夏に5日間,15℃以下の短期低温でも大被害が現われる。また低温は稲のイモチ病抵抗性を失わせるため,それによる被害をも助長する。
 詳細は省くが,かかる問題に対する基礎研究と対応策も常に準備されている。たとえば第4図のごとく,ヘクタール当り同じく25トンなる収量であっても,それは1925年では豊作を,1945年では平年作,1965年では不作を意味することになる。
 北海道稲作が生んだかかる成果もまた,世界の稲作技術の向上に大きく貢献しつつある。なぜなら,暖地や熱帯地域でも,耕地の拡大につれ,水田は高地へ及び,また多期作化のため栽培期間も延長され,それらの結果として低温下の栽培を余儀なくされているからである。
第4図 過去90年間の北海道の稲収量の推移
 ともあれ,稲の北限地域,北海道の稲作は100年目で定着し,その地の主要農作物となったのみならず,日本渡来数千年の後に,再びその原産地ともいえる熱帯地方へ錦を飾ったのである。
 追記 計量経済学的なアプローチによって,日本の稲の基礎研究,育種技術,品種作出,品種変遷を解折し,将来を展望し,今後の課題を提起した次の論文は,いささか専門に過ぎるうらみはあるが,品種改良の農業における位置を明確にするのみならず,広く作物の育種目標の設定,すなわち育種戦略に資するところ多大である。

 参考文献

 崎浦誠治 「水稲品種改良に影響する諸要因」,崎浦誠治『農業経済研究』46の3,1974年。
 同上 「戦後の水稲品種改良と品種選択」,『農経論業』31集,1974年。
 同上 「戦後改良品種の普及パターン」,『農経論業』32集,1976年。