繊維産業

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綿業における技術の変容と開発

著者名: 泉武夫
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次
はじめに――分析視角・・・・・・・・・・2
Ⅰ 技術変革への取組み・・・・・・・・・・4
 1 紡績工程における技術変革・・・・・・・・・・4
 2 織布工程における技術変革・・・・・・・・・・13
Ⅱ 職工募集と職工教育・・・・・・・・・・26
 1 職工募集人制度・・・・・・・・・・26
 2 企業内職工教育・・・・・・・・・・34
Ⅲ 日本型合理化と国際競争力・・・・・・・・・・50
 1 日本型合理化の特質・・・・・・・・・・50
 2 日本綿業の国際競争力・・・・・・・・・・63
 おわりに――日本経済における綿業の位置 68


はじめに――分析視角

 本論の目的は当プロジェクトの主題の後半部分すなわち「技術の変容および開発」を日本綿業に関して吟味することである。したがって,本論の対象時期は1910年代以降に限定される。
 本論を叙述する際の分析視角を示しておく。日本の近代的綿糸紡績業と綿織布業は,江戸時代からの伝統的な生産様式とは全く断絶して,文字どおり独自な資本制的生産様式である機械制大工場のプラント移入という形態をもって創出される。そして,多くの場合,紡績部門と織布部門とは同一経営体のもとで兼営されて,紡績兼営織布業の形態をとる。日本の近代的綿糸紡績業は,江戸時代から続いてきた「在来型」の綿織業と区別して「移植型」と規定される。
 したがって第1に日本綿業はこの両型に分けて論じられなければならない。
 「在来型」のもう1つの部門である紡績部門は「移植型」の技術によって駆逐されて姿を消すわけであるが,綿織部門は,「移植型」綿糸紡績業に原料糸の供給を仰ぎながらも,国内市場に密着することによって独自の発展をとげる。
そして,「在来型」綿織業は「移植型」織布業の技術の刺激を受けて開発された国産力織機に依拠して,自から小規模ながら近代的工場へと転生し,やがて輸出市場向生産を指向するものも出てくる。したがって第2に「移植型」の織布業と「在来型」の綿織業との技術的なかかわり――相互影響――が論じられなければならない。
 第3に,技術者および労働者の資質の問題である。移植された技術体系を消化し,変容し,そして新たな技術の開発を可能にした技術者の資質,および,そうした技術体系に遅れをとることなく,それをよく操作することによって,技術の変容ないし開発を測面から可能にした労働力の資質が,論じられなければならない。
 第4に,経営者の経営態度の問題である。究極的には,富国強兵思想に根ざす輸入防遏と,殖産興業たる一国々民経済の自立化の標榜を経糸とし,他方では内外市場での激しい市場占有争いを緯糸としながら,新しい技術の摂取,開発に努力し,経営の安定と合理化を追求してきた経営者の経営態度は大きな要因となる。
 第5に,そうした技術の変容なり開発が伴っていた特徴,特に限界についても論じられなければならない。

Ⅰ 技術変革への取組み

1 紡績工程における技術変革
 (1)
 日本綿糸紡績業の技術変革への取組みの前提として,動力の蒸汽力から電力への転換が指摘されなければならない。世界史的には,1769年に蒸汽機関の特許がなされて以降汽力の普及が進み,大不況期のさなかの1880年に,発電機が初めて営利目的に供せられて,汽力から電力への原動力の転換が開始される1)。日本においては,水力発電が火力発電を凌駕した1906年以降,特に高圧長距離大送電時代の起点となった猪苗代水力発電所が竣工した1914年以降,電力の普及が急速に進む2)。
 これに照応して,日本綿糸紡績業界の電化が急速に進む。1日平均使用実馬力数では1922年に水力・ガスおよび電力(6万9000馬力,総実馬力の52.4%)が火力(6万3000馬力)を凌駕し,1930年前後には殆んどが前者によって占められる3)。これを原動機によってみると(第1表),1920年では,台数では電動機が他を完全にひき離しているものの,実馬力では蒸汽機関・蒸汽タービンとほぼ同じ程度にあるが,1923年では台数・実馬力ともに電動機が大きくなっている。また,産業別の電力使用量をみると(第2表),化学工業・機械工業・採鉱精錬業での電力消費量の高さは産業の性格上当然のこととして,染織工業がこれらに匹敵する高さを有していることが注目される。このことは,綿糸紡績業の動力源が,産業資本確立期の生産力に照応的な蒸汽力から,独占段階のより高度な生産力に照応的な電力へと転換したことを物語っている4)。1924年のイギリス,アメリカ,ドイツの紡績工場の電化率が,それぞれ19%,59%であるのと比較するとき5),日本の紡績工場の電化率の早さと高さとが止目に値するであろう。
 紡績工場にとっての電化の利益は,①機械の単独運転化,②動力費の節約,③動力の容易な分配,④工場配置の原動室からの解放,⑤動力機械の取扱簡便性,⑥照明,⑦瓦斯焼代用などが考えられるが6),その最大のメリットは単独運転(ユニット・ドライビング)であるといわれる。
第1表 綿糸紡績業原動機数・実馬力数
第2表 産業別電力使用量
工場の天井の中央を走る,蒸汽力によって回転する長いシャフトからベルトによって,各精紡台に回転エネルギーを伝導する集団運転(グループ・ドライビング)に対して,各台毎にモーターを設置してなされる単独運転は,(イ)精紡機生産高の増加,(ロ)工費の節約,(ハ)女工手節減,(ニ)糸の良質化,(ホ)障害危険の減少,(ヘ)塵埃の減少,(ト)冬期通風の便などをメリットにするといわれる7)。
 精紡機の生産力に関しては,1910年前後のスピンドル回転数は毎分7,000~8,000回転程度であったものが,単独運転による回転数の増加がはかられ,外国製リングが9,000回転を限度として設計されている下で,日本スピンドルの国産N・Sリングの開発(1928年)を画期として,1万回転以上が実現され,さらに人体に危険を及ぼす限界の1万4000回転までスピンドル回転数が高められる8)。
 糸質に関しては,スピンドルの巻糸の増量につれて巻取速度が早くなり,糸が切れ易くなるため,漸次モーターの回転速度を小さくして巻取速度を均一にする方法が行なわれるようになる9)。また糸切れについては,冬の乾燥期と夏の高温多湿期には,ことに糸が切れ易くなるため,工場の温湿度を一定に保つ密閉式2重装置(キャリアー・システム)が1920年代末頃から導入され,季節により糸質・効率の変動が除去されるようになる10)。以上の他に,単独運転の意義として考えられるのは,操業短縮を連続して実施してきた日本綿糸紡績業にとって,長いシャフトの端の方で僅かに数台の精紡機が回転しているといった操短時の不経済から解放されることになったということ11),そして何よりも,個人にしろ団体にしろ女工の請負労働制(等級出来高賃金制)と結合した各台間の競争による労働強度化の技術的基礎となったということである。これは単独運転の「資本家的な最大の利点」といわれる。
 単独運転の導入時期は,日清紡績株式会社亀戸工場の事例でみると,1908年を嚆矢とすると考えられるが,確実には富士瓦斯紡績川崎工場,倉敷紡績万寿工場,大阪合同紡績神崎工場の事例からして,1915年以降であろう13)。もしかも新設工場あるいは増設工場のみではなく,旧設の精紡機を単独運転に改修することも行なわれている14)。単独運転の普及率を数量的に示すことはできない。しかし,東洋紡績株式会社の場合,1910年代前半まではおおむねスティーム・エンジンによる各機の集団運転が専らであったが,1920年頃からエンジンを廃して電動機による運転にかえ,1920年代末には精紡機のみでなく,粗紡・練篠・梳棉・ワインダー・織機などもすべて単独運転に切りかえられて,従来のような長大なシャフトの影を見なくなったと言われている15)。それからすると1920年代に日本綿糸紡績業は急速に単独運転を実現しているものとみられる。
 最後に,単独運転の普及の結果として,シャフトから解放されたことによる工場規模の拡大が指摘されねばならない。第3表にみられるように,1914年時点でも大規模化の兆は,すでに確認できるわけであるが,しかし,1万~3万錘規模が圧倒的に多い。これに対して,1937年には,中心規模が3万錘以上に上昇し,10万錘以上規模工場が209工場中35工場(17%)存在するにいたる。日本の近代的綿糸紡績業開始の指標である大阪紡績株式会社が,1882年1万500錘で出発したのと比すれば,この工場規模の差は隔世の感がある。この規模の拡大によって,工場建築費・敷地内運搬費などが削減され,生産費の切下げを結果することは言うまでもないであろう。
第3表 紡績工場規模
(2)
 単独運転の基礎上に,紡績工程そのものの短縮がなされる。紡績工程は開棉→混棉→打棉→梳棉→練篠一粗紡(初紡)→始紡→間紡→練紡→精紡→仕上げといった内容から構成されているわけであるが,それを機械名と共に図示すると第1図のようになる16)
第1図
そのうちで最も手間のかかるのは,開混打棉工程であり,最も除去可能な工程は単なる経過的工程にすぎない粗紡工程ということになる。
 混打棉工程の短縮化は,混打棉機の連結による中打機の廃止といったような形で,1920年代に実現されるが,この混打棉工程のワン・プロセス化の普及は,1920年代末以降である17)。粗紡工程の省略化は,綿糸のドラフト率を高めることによるハイ・ドラフト精紡機の導入によってなされる。この場合,省略される工程は間紡の場合もあれば練紡の場合もあり,また,粗紡工程中の3紡機をそれぞれ幾分か削減させる方法もあるが,最も普通になされているのは練紡機の省略である。7万4,000錘規模工場についてプラット・ブラザース社の仕様書によると(第4表),56台の練紡機が全く不用となる。このことによって機械費15%,工場建坪10%,労働力10%が節約されると見積られている18)
第4表 ドラフト別所要機械台数比較
 欧米ではハイ・ドラフトの考案は,第1次大戦前に具体化されていたわけであるが,日本に移入されたのは戦後のことである19)。しかし,番手が中高度化したとはいっても,依然として低番手糸生産を基本とし,短繊維であるインド棉を基軸とする(第5表)独特の混棉方法20)を行なってきた日本綿糸紡績業に,欧米で開発されたハイ・ドラフト機がそのままで通用はしなかった21)。
第5表 棉花種類別消費高
そこで各紡績会社は,エプロン式を改良して,日本綿糸紡績業に適したハイ・ドラフト機の開発に努力することになる。その結果,大日本紡では今村奇男によるECO式ハイ・ドラフト機(栄光式索引装置)を,東洋紡では中村卓爾によるF・N式エプロン装置を,倉紡では小林益郎による独自の装置を,1930年代初期に考案する。これ以外にもOM式や日東式などがある22)。これによって,1930年代以降ハイ・ドラフト機が普及していくわけであるが,特にエコー式は「当時の日本の技術によく適合し,かつ東洋に最も多く使用されていたプラット型精紡機を改造して,簡単に装置できたので,非常な勢いで普及し23)」たといわれる。
今村奇男は,京都帝国大学工学部を卒業した工学士であり,のちアメリカ・マサチューセッツ工科大学に留学して摂津紡に入社した人物で24),日本の当時としては,最高の専門工学的技術的知識を修得していた技術者ということになる。今村はさらに,イギリスのインター・ロービング・フレームが6線式ローラーで不便が多いために普及をみなかったのを改良して,4対ローラーを考案してドラフト率を高め,粗紡工程をさらに短縮するシンプレックス・フレーム(単紡機)を完成させる25)。これがシンプレックス・ハイ・ドラフトである。これによって第6表にみられるような機械と人員の削減が可能にされる。在来紡機に比して,人員では実に44.6%の削減となる。
第6表 3万錘規模工場設備 人員比較
なお,1930年に東洋紡績がドイツのハートマンのスーパー・ハイ・ドラフト精紡機を,前紡機であるスライバー・コンデンシング機と一緒に購入して富田工場で試験を行なうが,取扱いが困難なのと経費が嵩むためにとりやめとなっている26)。戦前はスーパー・ハイ・ドラフトは実用化されなかったようである。


1)山田盛太郎『日本資本主義分析』岩波文庫版,1977年,203ページ。
2)電力供給高は,1914年71万6000kWから1919年には113万3000kW(増加率58.2%),1923年には206万3000kW(同82.1%),1928年には382万2000kW(同85.3%),1931年には465万7000kW(同21.8%)と増加する。森喜一『日本工業構成史』伊東書店,1943年,371ページ。
3)泉武夫「大正期綿紡の労働事情と合理化――日本の原生的労働関係との関連で――」『専修経済学論集』第10巻第2号,1976年2月,8ページ。
4)エネルギー源としての電力のもつ意味は比類ない集中性,分割可能性,効率性,低廉性にある。
5)有澤廣己・阿部勇「産業合理化」『経済学全集』第43巻,改造社,1930年,555ページ。
6)同上,556―57ページ。
7)同上。
8)守屋典郎『紡績生産費分析』増補改訂版,御茶の水書房,1973年,74―75ページ。
9)飯島幡司『日本紡績史』,創元社,1949年,235ページ。
10)守屋・前掲書,91ページ。
11)25台の精紡機を回転させる1本のシャフトを有する工場が操業短縮によって1台の精紡機のみを運転する場合,このために10馬力の動力とシャフトを廻す50馬力の動力とが必要であるといわれる。(飯島,前掲書,202ページ)。
12)守屋,前掲書,76ページ。
13)泉「大正期綿紡の……」9―10ページ。
14)同上,10ページ,表3。
15)東洋紡績株式会社『創立20年記念東洋紡績株式会社要覧』1934年,60―61ページ。
16)各工程の簡単な内容は次のごとくである。開混打棉工程は原棉を解舒し,混打棉を経過することによって原棉中に混在している葉滓,種子片,茎片,繊維屑,砂塵などの爽雑物を除去して,清浄な莚状のラップ(lap)を造る工程である。そこでは原棉は同種・異種の機械を幾度か通過しなければならない。梳棉工程はラップでは繊維の縺れや異種繊維の混入がみられるので,針布(card cloth)によって短繊維や繊維塊を除去しながら繊維を平行状態に揃え,紐状のスライバー(sliver)を造る工程である。練篠工程は太さの不均質なスライバーを数本合わせて太さの平均されたドローイング・スライバー(drawing sliver)を造る工程である。粗紡工程は,練篠工程から精紡工程に直接移行するにはスライバーが太すぎて困難なので,前もってスライバーにドラフト(draft)をかけて精紡機にかけ易いような粗糸を造る工程である。日本紡績協会統計分科会編,前掲書,87―102・ページ。
17)守屋,前掲書,80ページ。大日本紡大垣工場では1921年にワン・プロセス化に成功している(同上80ページ)。また,鐘渕紡績では1926年に混打棉機を連結することによって中打機を廃止している。鐘渕紡績株式会社蔵『技術回章』No.9)。
18)有澤・阿部,前掲書,560ページ。
19)日本に入ってきたのはエプロン・レザーを用いるカサブランカ・エプロン式(casablanca & apron),リーター3線式,プラットのソフトローラー付4線式,ドブソンの8線式などある。(東洋紡績株式会社蔵『東洋紡70年史史料』)。倉敷紡績ではリーター式ハイ・ドラフト機を25台輸入して1926年に早島工場で実際に生産を開始している(倉敷紡績株式会社『回顧65年』1953年,408―09ページ,430ページ)。
20)混棉割合については泉「大正期綿紡の……」16ページおよび泉「独占体的巨大綿紡資本の生産構造と搾取基盤」専修大学社会科学研究所『社会科学年報』第13巻,1979年,195ページを参照されたい。
21)倉紡では太糸生産をハイ・ドラフト機で実験するが失敗し,米棉を多く混入することによって可能となったといわれる(倉紡,前掲書,430ページ)。
22)泉「大正期綿紡の……」14ページ。
23)豊田自動織機製作所『40年史』1967年,157ページ。今村奇男の考案はローラー・パートセクレードルにとどまらず,ローラーの設置やスピンドル・ビームの位置についても特別の工夫がなされ,機台にも苦心が払われているといわれる。
24)同上,159ページ。
25)ニチボー株式会社『ニチボー75年史』1966年,198ページ。これを最初に試験採用したのは1931年大日本紡一ノ宮工場であり,全台採用は1932年呉羽紡井波工場および天満織物笹津工場であるが,普及をみたのは1930年代半以降のことである(守屋,前掲書,79ページ)。
26) 東洋紡績株式会社『東洋紡70年史』1953年,191ページ。

2 織布工程における技術変革
(1)
布工程の技術の変容に関しては,『移植型』の近代的綿糸紡績兼営織布業および近代的織布専業と,『在来型』の綿織業とは区別して考えられなければいけない。しかし前者は初めから輸入力織機や輸入自動織機に依拠していたので1),ここでの基本線は在来綿織業の力織機化にある。在来綿織業の力織機化も電動機の普及が前提となっている(第1表)。しかし,この場合は10馬力程度の小型電動機が中心をなす。
第1表 綿織業原動機・馬力数
 在来綿織業の代表的な一地方である静岡県遠州地方を例にとると,明治維新当時は高機を使用し,1870年代末にバッタン機が導入される。この段階の遠州綿織業は資本制的経営形態の最初のものである小営業段階にあると思われるが,1890年代に松田式足踏機が導入されて,農家副業から専業化が進み,問屋制家内工業ないしはマニュファクチャー段階へと進む2)。在来綿織業は,移植型近代綿糸紡績業に原料的には全面的に依拠しながらも,国内棉布市場と密着して,相対的に独自な発展過程を歩んできたといえる。こうした手織機に基礎を置いてマニュファクチャー,および織元=賃織関係を広範に展開した遠州綿織業は力織機を導入していく。1910年代初期に,当地方では力織機数が手織機・足踏機数を大幅に凌駕するに至っている(1910年力織機3,513台:足踏・手織機5,680台,1912年6,938台:4,597台,1914年8,119台:2,627台)3)。
 遠州地方の場合力織機の導入は,日露戦争前は未だ試験的なもので,本格的には戦後のことである。1910年代初頭の遠州地方における織機数は豊田式(676台),鈴木(道雄)式(206台),高柳式(176台),須山式(160台),中村式(142台),飯田式(122台),中山式(107台),足踏機を改良した織機(657台)などがあり,他にも池谷式,鈴政(鈴木政治郎)式などもみられ4),いかに多くの織機が開発されていたかを示している。
第2表 織機施設の変遷
そこには在来綿織業におけるまさに,「産業革命」的様相が現出していたといってもよいであろう。この力織機化の延長線上に,遠州綿織業は国内市場向けのみならず,輸出市場へも進出していくことになる。
 この力織機化の過程を全国的にみたのが第2表である。1920年代半以降急速な力織機化の進行が看取できるであろう。それはまた同時に広巾力織機による小巾力織機の凌駕過程でもある。こうした在来綿織業の力織機化の背景には国民1人当りの綿布消費額が1895-99年平均1円19銭,1900-04年平均1円32銭から1905-09年平均2円03銭,1910-14年平均2円51銭へと増大しており5),それが綿布需要を大幅に喚起したことが注意されねばならない。
 (2)
 これらの力織機の開発を担当したのは,当時の日本の小生産者であり,技術家であった家大工ないしは機(はた)大工であった。1906年に豊田式織機会社を,1926年に豊田自動織機製作所を設立した豊田佐吉は家大工であり,日本初の鉄製力織機を製作した(1903年)久保田石松は大工であり,鈴政式織機会社を設立し,のちの遠州織機製作会社の基礎を築いた鈴木政治郎は1904年に家大工から機大工に転換し(1908年に鉄製小巾力織機を完成),鈴木自動車工業の前身である鈴木式織機会社を設立した鈴木道雄は大工出身者である(1913年力織機完成),といった具合である6)。
 佐吉を例にとると,彼も発明家につきものの辛酸をなめて,力織機と自動織機を発明するにいたっている。彼は1867年遠州綿織業の中心地浜名郡に大工の子として生れ,自からも大工となり,当地方で行なわれていた手織機による農家副業としての綿織業に刺激されて,力織機の開発を志すことになる。こうした風土の他に,発明保護制度である専売特許条例が1885年に制定されたこと(88年に特許条例と改正),殖産興業政策の一環として第3回内国勧業博覧会が90年に開かれたことなどが,佐吉の発明に大きく影響していると考えられる7)。1890年に,範疇的には手織機に入る豊田式人力織機(木製人力織機)を発明する8)。足踏式糸繰返機の改良を経て,97年に石油発動機による日本初の小巾動力織機である豊田式木製動力織機を発明する。そして同年秋,綿布仲買商石川藤八(織元)と動力織機60台を有する乙川綿布合資会社を設立し,翌年国産力織機が知多木綿の産地で最初の生産を開始する。
 さらに彼は1900年に三井物産と共同で,合名会社井桁商会を設立し,ここで送り出し装置と織機を運転しながら緯糸を補給する装置を発明して力織機を完成させる。三井と不仲になった彼は,自から織布業(豊田商会,織機138台)を営むかたわら,その利潤で鉄工所を設け「38年式」,「39年式」,「軽便式」を製作する。1907年には東京・大阪・名古屋の財界人の資本を集めて豊田式織機株式会社(資本金100万円)を設立して力織機の普及に努める。第3表は同社の創立満2年に当る1909年3月時点での同社製織機据付台数別工場数,および種類を示したものであるが,在来綿織業向けの小巾織機の大いさがわかるであろう9)。
第3表 1909年3月現在豊田式織機据付台数別工場数及織機種類
 1910年同会を去った佐吉は欧米に旅行して自動織機の調査をなし10),念願であった自動織機の発明に自信をもち11),11年豊田紡織会社を設立して,その利益で自動織機の本格的開発に着手する。自動杼替装置の発明によって,一応不完全ながら自動織機を発明していた彼は,14年投杼桿受装置,経糸解舒および緊張装置を,16年安全装置を発明して旧自動織機の面目を一新し,23年より試験操業を試みて26年世界水準をはるかに凌駕する豊田自動織機を完成する。そして豊田自動織機製作所を設立して同織機の製作普及にのり出すことになる12)。
(3)
 創立から1935年10月までの豊田式織機会社の製造台数と型式を示すと第4表のとおりである。特に1910年代に入ってからの製造台数の増加はめざましい。なかんずく広巾織機の普及が確認できるであろう。
第4表 豊田式織機会社織機製造台数
第5表 遠州広巾織機増加
遠州地方のような,むしろ先進的ともいえる在来綿織業は,小巾織機だけではなく,1910年代以降に広巾織機をも設置していくようになる(第5表)。こうした広巾織機の生産は豊田式だけではなく,第6表にみられるように各種の型式が輩出してくるのである。
 こうした国産力織機は,在来綿織業の工場化に寄与すると同時に,従来輸入織機に依存してきた移植型紡績兼営織布業,ないしは織布専業にも採用され,そこで輸入織機を駆逐していく。たとえば,1923年から29年までの豊田式普通力織機の500台以上販売先を示すと,第7表のとおりであるが,殆んどの日本の紡績会社および織布専業会社にかなりの数量販売されている。また豊田自動織機も完成以来急速な普及をとげていく(第8表)13)。ここに,手織機の改良から出発した豊田佐吉は,力織機を発明して在来型綿織業の力織機工場化に貢献し,ついには移植型紡績兼営織布業と織布専業の国産自動織機化をも推進することになる。
 豊田自動織機製作所は織機のみでなく,前述した今村奇男のECO式ハイ・ドラフト機の製作にも関与して,本格的な紡機生産に乗出している。
第6表 遠州輸出綿織物工業組合永久社力織機分類(1937年3月現在)
第7表 豊田式普通織機販売先
第8表 豊田自動織機販売高
第9表 豊田自動織機製作所精紡機販売高
そして,1934年小巾精紡機,36年Jα改良ハイ・ドラフト装置を開発し,37年には100倍ドラフトを可能にした4線式スーパー・ハイ・ドラフト精紡機を完成させるに至る14)。同社の精紡機の販売高は第9表のとおりである。そして,同社は自動織機および精紡機を国内のみでなく,中国およびインドを中心に輸出するに至り(第10表)15),従来,外国製に依存してきた紡績機械と織布機械の輸入防遏,国内自給に大きく貢献するのである。
第10表 豊田自動織機製作所紡織機輸出台数(1927-42年)
第11表 紡織機械輸出入高推移
輸入防遏の状況は第11表にみるとおりである。その上,豊田自動織機製作所は世界最大の綿業機械メーカーであるイギリスのプラット社Platt Brothers & Co.,Ltd.に日本,中国,アメリカを除く諸国で豊田自動織機を独占的に製造,販売する特許権を1929年10万ポンドで譲渡する16)に至る。これはまさに日本からの先進資本主義国への技術輸出という意味をもつものである17)。
第12表 製造国及会社別精紡機並に織機台数
 本章を終えるにあたり紡績会社据付精紡機数と紡績兼営織布会社据付織機数の1920年11月1日現在における製造国名,製造会社名の一例を示すと第12表のごとくである。日本における精紡機の生産は全く取るに足りないものであって,むしろ試験段階に属するとさえいってもよい。これに対して織機は4万9,244台中日本製が36.4%を占め,すでにかなりの実績をあげていることがわかる。


1)自動織機が輸入されたのは1904~05年頃で,ノースロップ,スタッフォード,ドレーパーなどの機種がある。1920年代半はにはシュワーベン,ハートマン,ルーチー,ヘンリーベギーなどの機種を輸入されている。しかし初めは自動織機としては使用できず,自動装置を外して力織機として使用しており,自動織機として使用されるようになるのは20年代後半になってからで,またこの頃から力織機の自動織機への改良もなされている(『東洋紡70年史資料』)。
2)泉武夫「転換期における日本の綿業――明治末期におけるその構造変化分析――」『専修経済学論集』第8号,1969年6月,161―62ページ。
3)同上,173ページ。
4)同上,172ページ。
5)同上,152―53ページ。
6)一寸木(チョッキ)俊昭「明治・大正期の産業機械」『経営史学』Vol.7,No.1,東京大学出版会,1972年,49―52ページ。
7)揖西光速『豊田佐吉』吉川弘文館,1963年,14―6ページおよび31―32ページ。
8)これは従来の手織機に比して生産力を40~50%高めたといわれるが,1890年恐慌となって殆んど普及はしなかった。
9)国産力織機の急速な普及を可能にした最大の理由は1907年頃のドイツのハートマン社製4J杼力織機が872円であったのに対して豊田式織機が93円という低廉さにあったことである(揖西,前掲書,48ページ)。
10)佐吉が同会を去った理由は,同社の営利主義と佐吉の発明研究心とが対立したためといわれる(豊田佐吉翁正伝編纂所『豊田佐吉伝』1933年,112―13ページ。
11)佐吉はアメリカで1人の労働者が18台ないし24台の織機を操作しているのに驚かされるが,回転数が遅く,破損が多く,振動が甚だしく,経糸が切れ易く,製品の地合が不良であることなどのため「米国機恐るゝに足らず」と意を強くしたといわれる(同上,115―16ページ)。
12)同上,112―31ページ。
13)その主な販売先をみると,豊田紡織(2,084台),菊井紡織(1,662台),大阪合同(1,378台),鐘渕(1,160台),岸和田(1,045台),愛知織物(902台),呉羽(792台),出雲製織(681台),豊田織布(600台),福島(508台),河内紡織(500台),内海紡織,(400台),倉敷(250台),東洋(240台),富士(156台),大日本(72台)となっており,日本の代表的な会社は殆んど豊田自動織機を採用している(豊田自動織機製作所社史編集委員会,前掲書,117ページ)。
14)同上,158ページ。なお,日本最初の精紡機の製作はさきの豊田力織機会社で,当社は在華紡である同興紡の3万錘工場建設のために1921年に開棉機から精紡機までの十余種の機械を一貫製作して納入している。同工場は外国の機械を1台も使用することなく建設されるといわれる(豊田式織機株式会社,前掲書,3ページ)。
15)豊田自動織機製作所の紡織機種別販売高内訳を示すと補表のようになる。
16)豊田自動織機製作所社史編集委員会,前掲書,138―41ページ。
17)もっとも,プラット社が豊田自動織機の特許を購入したのは織機の製作が目的ではなく,特許の買潰しをねらったものといわれる。豊田自動織機製作所は1937年から自動織機を輸出するに際し,インドへ輸出の場合は1台につき3ポンド10シリング,インド以外の自動織機特許権を登録してある国への輸出の場合は1ポンド15シリング,特許権登録をしてない国への輸出の場合は1ポンドの口銭をプラット社に支払うことにして,自動織機の輸出を行なっている。同上,150―51ページ。
補表 豊田自動織機製作所紡織機種別販売内訳

Ⅱ 職工募集と職工教育

1 職工募集人制度
 (1)
 移植型の日本近代綿糸紡績業は,1920年代後半で20万人内外の従業者を雇用しているわけであるが,その大部分は女工である。この女工の70%内外は寄宿女工によって占められている。これら女工の年齢構成は,1927年時点で16―17歳が18万1,000人中24.3%で最も高く,次いで,18―19歳の20.6%,14―15歳の16.6%となっている。14歳未満―19歳が全体の63.5%と集中して高い。24歳までで85.8%となっている。未婚の若年女子労働力に依存する日本綿糸紡績業の特質が明瞭であろう。就業年数は3年未満が殆んどで,再雇用期間を加えても5年どまりであり,それ以上の就業年数はむしろ例外的ですらある。賃金体系も概して3年までの増加率が高く,それ以上の就業年数になると増加率が横這いになってしまい,短期就業に適したものとなっている。年齢別賃金体系は19歳までの増加率が高く,それ以上になると増加率が鈍り,24歳以上はむしろ減少してくる。ここでも若年労働力に適した賃金体系であるといえる1)。
このように,日本綿糸紡績業が短期間に集中して若年女子労働力を消費してしまう構造をもつとするなら,3年間あるいは再雇用契約の場合でも,5年間の就業の後には女工は工場を去ることになる。そのことは年々女工の30%以上の者が工場を去ることを意味しており,新たにその分だけ補充されなければならない。これは日本綿糸紡績業における労働者の移動率の高さを物語っている2)。日本で最も労働者に対する福利厚生施策が進んでいると認められている鐘淵紡績の労働移動についてみると,第1表(紡績工場)および第2表(織布工場)のようになる。勤続3年間とすると年々少なくとも60%以上の移動率が固定的となるわけであるが,本表は60%以下というのは例外的であることを示している。多いときは100%を超えている。したがって毎年少なくとも従業者の3分の1が補充されねばならないことになる。
第1表 鐘紡入退者および現在人員(紡績工場)
第2表 鐘紡入退社および現在人員(綿布工場)
 (2)
 そこで職工募集が大きな問題となる。日本綿糸紡績業確立期に,すでに「各工場の職工は其多くは地方に出てゝ募集したものにして工場に於て直接傭入たるものは実に僅少部分に過ぎざるなり3)」といわれるように,職工募集地が1,00㎞にまで及ぶようになる。ここに『職工募集人制度』が大きな比重をもつことになる。1927年の女工2万1,852名の就職経路に関する1調査によると4),会社指定の募集人が62.8%,会社直接が8.3%,親兄弟が5.6%,知人が5.1%,職業紹介所が0.2%となっていて,募集人の比重がきわだって高い。1921年に職業紹介所法が公布されて,公営の職業紹介所が開設されているにもかゝわらず,女工は全くそれを利用していない。
 職工募集人は内容によって次のように区分される5)。
 (1) 一定の手当を支給して募集人を置くもの。地方に1人ないしは数人の紹介者を置き,彼らに相当の給料を支払い,職工不足時に募集をなさしむる方法で,彼らは工場主の手足となって働く。
 (2) 地方在住の雇人紹介営業者と特約を結び,応募者あるごとに一定の手数料を支払うもの。これは一定地方に信用ある紹介業者と特約して紹介させるものであるけれども,紹介業者は手数料のみを目的として単に女工の数量を増そうとする結果,病弱者ないし希望しない者までも甘言をもって職工に勧誘する場合あり,弊害が多い。
 (3) 一定の手当を支給する募集人を置き,なお職工の募集をなす毎に手数料を支払うもの。これは前2者を折衷したものである。
 (4) 地方に募集員および特約紹介営業者を置くことなく,職工が欠乏するたびに会社の使用人を派遣して募集するもの。これは募集員ないし紹介業者に伴う弊害を除去できるが,費用がかさみ,必ずしも予定員数だけ募集できないなどの欠点がある。
 (5) 地方に募集員または特約紹介業者を置くと同時に随時使用人を派遣してこれらを監視せしめ,自からも直接募集をなすもの。これは前数項の欠点を補うための方法で,多くは職工が欠乏したときに行なわれる。
 彼らは甘言,嘘言,はては誘拐に近い手段を弄してまでも女工の募集に狂奔する。そのために各府県の地方自治体は「職工募集取締規則」を制定して募集人の募集行為を取締らざるをえないありさまで,それは1924年の内務省令「労働者募集取締令」として全国的画一的取締法規に結実する6)そこで女工募集の「自由競争時代」は終りを告げ7),各工場は前述した,(5)の方法によって各募集地に労務関係出張所を設けて募集を行なうことになる(第3表)。
第3表 労務関係出張所数(1939年)
募集費用は女工1人当りの日給が8~9銭の1897年頃ですでに「最多平均1人ニ付キ6円60銭最少30銭ニシテ職工ヲ連レ帰リノ費用平均1人ニ付キ最多8円45銭最少40銭8)」といわれており,それが1梱当りの生産費に占める割合も決して無視できるものではない(表4表)。
第4表 鐘淵紡績株式会社綿糸1梱当平均経費
そして,さきの1927年の調査によると,これらの女工の出身家庭の職業は「農林漁業」が67.1%で圧倒的で,次いで「商業」が6.7%となっている。「労働者」は6.3%で極端に少ない。また就職動機は「自活・嫁入支度のため」という口べらし的意味をもつのが17.2%でかなりの高さをもつが,圧倒的には「家計補充のため」となっていて,69.3%に達している9)。つまり,第2次世界大戦前の日本の農村を支配していた前近代的な半封建的寄生地主的土地所有制の下で,農業の低生産力と世界史的に異常に高い小作料と地代支払に苦しむ農家の生計を補充するために,工女たちは前借金を背負って農村を出て,都市の工場で短年間就業することになる。これ「賃銀の補充によって高き小作料が可能にせられ,補充の意味で賃銀は低められる10)」と定型化された所以である。
 以上,この職工募集人制度のもつ意味は次のように言えるであろう。女工を送り出す小作農ないしは零細自作農は,それ自体すでに事実上賃労働者と殆んど変らない存在であるが,彼らは,たとえ借入地にしろ土地と結びついている以上,自然発生的に賃労働者に転化することはなく,ただ潜在的に可能性として賃労働者であるにすぎない。こうした可能性として存在する賃労働者を現実の賃労働者に転化する媒体の役目を果すのが,職工募集人制度であるといえるであろう。こうして女工たちは,遠く生家を離れて工場の寄宿舎に収容される11)。なお,男工は殆んどが工場の門前採用であり,女工の一部もそうである。この場合の女工は多くは既婚者であって通勤工女と呼ばれる。


1)泉「大正期綿紡の……」30―41ページ。
2)ここで労働者の移動率というのは工場間の移動率というよりはむしろ工場と労働者の出身家庭との間の移動,つまり賃労働者化と脱賃労働者化とを示すことになる。
3)『大日本紡績連合会月報』123号,大日本紡績連合会,1902年12月25日,14ページ。
4)中央職業紹介事務局『紡績労働婦人調査』1929年,29ページ。
5)『大日本紡績連合会月報』前掲123号,14―15ページ。
6)進藤竹次郎『日本綿業労働論』東京大学出版会,1958年,68―70ページ。
7)細井和喜蔵『女工哀史』岩波文庫,1954年,55ページ。この間の事情を労使協調主義者宇野利右衛門(間宏『日本における労使協調の底流』早稲田大学出版部,1978年,「序」ⅲページ)は次のように記している。「会社の人事係なるものは,主として是等大募集人の鼻息を窺ふに汲々として,一に彼等の御機嫌を損ぜしめざらん事を,これ努むると云ふが如き実情であって,為に彼等に不等の金銭を要求せられる如き場合が,少なくないので,其の弊害の及ぶ所は中々大なるものがある…大阪地方に於ても,各社工場共,此募集人操縦策に苦しむこと少なからず,為めに募集人を使用せずして,募集をなさんとの希望を抱く当事者多く,或は社員をして直接募集せしめ,或は古参女工,若しくは職工の父兄を介して,募集せしめんとするが如き事を,〓々試みられた」(宇野『職工問題資料』第1輯,工業教育会出版部,1912年,256ページ)。
8)大日本綿糸紡績同業連合会『紡績職工事情調査概要書』1898年。ただし労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻,中央公論事業出版,1962,260ページ。
9)泉「大正期綿紡の……」44―45ページ。
10)山田,前掲書,91ページ。
11)寄宿舎は普通考えられているような福利厚生施設などではなく,女工の逃亡防止策であり,昼夜2交替労働制の客観的保障物であり,そして都市での女工の生活費を低廉にすることによって賃金を低水準におくためのものである。

2 企業内職工教育
 (1)
 かくして工場に吸収された労働者の教育水準は第1表に示したとおりである。1910年代においては女工は無学者および尋常小学校中退が過半数を超え,男工も高等小学校中退ないし高小卒がかなりの高さをもつとはいえ,やはり尋常小学校中退および卒業が中心となっている。これと比較すると,1920年代に入り,義務教育の普及徹底によって,尋常小学校卒業が圧倒的となり,1930年代には男工は高等小学校卒業の比重が大きくなってくる。そして無学者および尋常小学校中退はむしろ例外的存在となっている。これを第1表補表によって繊維工業全体と比較してみると,女工はやはり尋常小学校卒業が大部分であるが,1920年代ということもあって,尋小卒が最高となっているが,高小卒もそれに迫る高さを示している。したがって,紡績労働者の教育水準は繊維工業労働者全体についても妥当するものと判断してもよいであろう。日本綿糸紡績業の労働者の教育水準は,いちおう一定水準に達しているわけで,もし教育水準と労働力の質とが一致するとするならば,紡績労働者の質はかなり高いといっても許されるであろう。
 これらの労働者は,工場それぞれに独自の仕方によって,各種の教育を受けることになる。一般的な形態をみると,寄宿女工に対しては小学校,女学校,家事講習会,講演会,法話説教,図書室,機関雑誌,回覧文庫,処女会,婦人会,旅行,農園,運動競技,唱歌遊戯など,通勤女工に対しては主婦会,手芸講習会,講演会,こども会など。男工に対しては工業学校,成人講座,軍人分会,青年訓練所,徒弟学校,講演会,図書館,労務者講習会,旅行,戸主会などがある1)。小学校というのは無学者ないしは尋常小学校中退者に対してのものである。これは当然に工場内,多くは寄宿舎の傍らに設けられた私立小学校であるが,多くが尋常科のみで,中には高等科まで開設しているものもある。
第1表 紡績業職工学歴調
第1表―補表 繊維工業職工学歴調
第2表 紡績工場設置女学校の事例
授業は就業後1日連続して2時間となっている2)。場合によると,富士瓦斯紡のように廊下巡回学校と称して寄宿女工を対象に夜間寄宿舎の廊下で読み,書き,作文などを教えるものさえある3)。また,多くはないと思われるが,小学校を卒業した女工に対して,女学校を設置して,短期間ではあるが,より高度の教育を施す事例もみられる(第2表)。
 (2)
 こうした一般教育とは別に,就業に必要な技術を新入工男女に教育する方法が行なわれる。新入工の養成には,見習工として経験工の下に付けて実地に技術を見習わせる「見習法」と特別に養成室を設けて,そこで組織的に技術を修得せしめる養成法とがあるといわれる4)。当初は大部分前者であったと思われるが,特に1910年代になって,科学的工場管理法や標準動作研究が喧伝されるに及んで,大手工場を中心に後者の方法が行なわれるようになったごとくである。
 新入工女養成で最も組織的と思われる東洋紡の織布部の養成規程を,『女工哀史』によってみると次のようになっている。新入工女養成のため養成部を設置し,そこには養成部主任,専任助手,寄宿舎と工場との双方で新入工女の世話をする養成見廻り,技術教育にあたる師範工,公私にわたって新入工女の面倒をみる養成方心得が配置される。養成期間は3ヵ月以内とし,そのうちの初めを1期間1週間以上2週間以内の3期間に区分し,第1期では工場全般に関する説明と心得を会得させ,第2期では標準動作に関する段取りを習得せしめ,第3期では基本動作および標準動作の応用によって,請負工に編入されるに足るだけの技術を習熟せしめる。第3期卒業後は仮配として実地に就業せしめ,熟練工の傍で敏捷なる作業を見習わせる。この時期に新入工女に標準動作を完全に習慣とさせる5)。この養成期間を経た新入工女は,その技術に応じた等級(多くは最下等級)に編入されて,請負工として就業することになる。
 他方,新入工男養成は1916年より組織的に開始している鐘紡の事例でみると,次のようになっている。はじめに紡機部について6)。一般講話24時間,普通工務講話24時間,特別工務講話18時間の計66時間に及ぶ講話がなされる。
 新入工男(紡機)養成所規定
 1 技価アリ品位アル工男ヲ養成シ且ツ工場労働ニ馴レシムル目的ヲ以
テ各工場二養成所ヲ設ク
 2 新入工男ハ凡テ見習工ト称シ工男養成所ニ於テ養成スベキモノトスル
 3 養成期間ヲ左ノ如ク定ム 第1期 4週間 第2期 3週間
 4 見習工ヲ便宜上左ノ3種ニ分ツ(イ)技術ヲ要スル作業ニ従事スルモノ(ロ)労働ヲ主トスル作業ニ従事スルモノ(ハ)(ロ)に属スルモ将来(イ)ニ進ム見込アルモノ
 5 (イ)及(ハ)ニ属スル工男ハ1期及2期(7週間)ノ講習ヲ要シ(ロ)ニ属スル者ハ1期(4週問)ノ講習ヲ了,普通工男ニ編入ス
 6 講習時間 第1期 第1週 見習労働ナシ 自6時至12時実地指導 自昼時至2時構内案内 自2時至4時一般講話普通工務講話各1時間宛 第2週 12時迄見習労働 自1時至2時実地指導 自2時至4時一般講話普通工務講話各1時間宛 第3週 同上 第4週 同上 第2期 第5週 3時迄8時間見習労働 自3時至5時実地指導 自5時至6時特別工務講話 第6週 同上 第7週 同上
 7 講習中ノ日給ハ従来ト変リナシ 1箇月ニ2銭方昇給ノコト
 8 講習中ト掃除日ハ6時間乃至8時間ノ見習労働ニ服セシム(以下略)。
 次に同1916年に制定された織布工場の新入工男養成規定は次のようになっている7)。ここでは紡機部と同じ1から8までは割愛する。ただし,講話時間はそれぞれ毎日1時間30分となり,都合一般講話36時間,普通工務講話36時間,特別工務講話27時間,実地指導72時間となる。
 織布工場工男養成規定
 1~8 略
 9 専任養成担任ヲ置キ見習工養成中ノ諸事項ヲ担当ス
 10 養成講話担当者 一般講話 工務主任 職工係 普通工務講話 工務主任 養成担任 特別工務講話 工務主任 各科担任
 11 技術ヲ要セザル工男 原糸運搬方 原糸配当方 ビーム運搬方 クロース運搬方 緯糸運搬方 仕立方
 以上みられるように,新入工男女養成が1910年代半頃から大工場を中心に組織的に展開されだすのは,まさに1910年代から日本綿糸紡績業をめぐって起った2つの事実,本格的な合理化への取り組みと独占体制転化過程への突入とに照応するものであろう。
 (3)
 この新入工の養成とは別に,日々の生産過程で女工に対する実地の技術指導を行ない,新入職工の養成に直接あたる担当者や主席工の養成もなされる。彼らは生産現場では,いわば職工長としての役割を果すわけで,職工の中心から特に選択された者がかなりの長期間,たとえば1年から1年6ヵ月間,かなり高度な専門的知識および技術の教育を施される。その代表的なものは鐘紡の職工学校であり,東洋紡の職工教育所であるわけであるが,規程によってその内容をみよう。
 はじめに鐘紡職工学校についてみるが,これの淵源は1902年に兵庫工場に開設された幼年職工養成所にある8)。当養成所の成果については不明であるが,鐘紡では主席工ないしは上級職工に不足をきたし,1905年に営業部直属の鐘紡職工学校を開設する9)。その内容は次のとおりである。
 鐘紡職工学校規則10)
 第1条 本校は上級男工を養成するを目的とす
 第2条 年齢満15・6歳以上にして高等小学等卒業若しくは之と相当の学力あるものは学業試験と体格検査とを行ひ合格のものは入学を許す
 第3条 各店工場長は其店勤務中の職工及幼年工にして志望のもの又は志願者にして第2条により合格せるものを入学せしむることを得
 第4条 紡績業に経験あるものにして本校に入学を志願したる時は学力に多少の斟酌を加へ体格検査に合格のものは入学を許す
 第5条 本校は入学試験料及授業料を徴収せず
 第6条 入学を乞ふものは其父兄若しくは保護者連署を以て履歴書を添へ願出づべし
 第7条 入学を許可せられたるものは1週間以内に保証人2名連署を以て身元引受証に本人の戸籍謄本を添へ差出すべし
 第8条 保証人は成年以上の男子にして一家計を立て本人の身上に関し一切の責任を負ふに足るべきものに限る
 第9条 身元引受証に署名したる保証人,学校より召喚若しくは照会を受けたる時は直ちに登校若しくは回答せらるべし
 第10条 修学年限は1箇年間とす
 第11条 修学期を前後の2期に分つ
 第12条 前期には主に学科を教授し後期には実地練習を主とす
 第13条 学科は左の7科に分ち……(略)
 第14条 試験は毎学期の終に之を行ふ
 第15条 在学中は教科用書籍器具及び被服を給す
 第16条 在学中は当会社設立の男工合宿所に収容し社費を以て賄を給し又小遺として毎月2円を給す 但し父兄又は親戚の宅より通学するものには本条相当の金額を給与す
 第17条 卒業の後は本人の技〓に従い当社上給工男に採用し相当の位地を与ふべし
 第18条 在学中成績不良にして到底,学術技能,上達の見込なきものは退学を命じ会社の普通職工として採用すべし 但し此場合には会社より給与せし被服費及賄料等を弁償するに及ばず
 第19条 怠惰不品行又は相当の理由なくして欠課多きものには退学を命ずべし 但し此場合には会社より給与せし被服費及賄料等を弁償せしむべし
 第20条 家事の都合により退学せんとするものは其事由を詳記し保証人連署の上,願出づべし 但此場合には前条但書きに依る
 第21条 入学者は卒業後5箇年は他の同業者に雇はれざるを誓約すべし
 第22条 入学者は卒業後当社工場に3箇年間勤務するを誓約するを要す
 当学校の学課は毎日5時間ずつ前半期は紡機,算術,物理,図画,後半期は紡機,算術,応用機械学の科目に亘っている。そして,第1次大戦後には一般公募を止めて6ヵ月以上会社の工場で実務の経験をもつ者に限定される11)。本校の卒業生は3月と9月の年2回で,開校から1920年代上期までの卒業生は1,038名にのぼり,内死亡・退社が443名,在社が595名となっている。在社中のうち担任者が44名,担任待遇者が124名,主席工および主席工助手が179名である12)。1920年上期現在在社中のものの卒業年次と所属母工場を示すと第3表のごとくである。
第3表 鐘紡職工学校卒業生1920年上期現在工場別在社数
 しかし,紡績業の発展につれて職工学校卒業の技術では「工場の中堅として最も大切なる担任者」となるには不十分で,1915年7月から担任養成講習所が設けられている。そこで担任見習生は3ヵ月間担任になるための教育を施されるようになる13)。この担任が主として新入職工の養成に当ることはさきにみたとおりである。この担任養成講習はいわば補習教育の部類に入るものであろう。
 また鐘紡では職工学校より下級の「綿糸布工場工手養成所」を1922年に開設して,尋常小学校卒業以上の学力を有する者で入社後1年以上の者を,専門科実習5時間,専門科講義5時間,工場常識1~2時間,工場倫理1週1時間,1~2ヵ月に亘って再教育している14)。
 鐘紡職工学校と全く同じものと考えられるのが東洋紡の「職工教育所」である。これは1922年に大阪四貫島工場に開設されたものであるが,26年に山田工場に移転したものである。開設以来33年までの当所の卒業生は本科520名,紡織講習修了者174名,短期講習修了者1,280名となっている15。当初の規定によってその内容を示しておく。
 東洋紡績株式会社職工教育所規則16)
 第1章 目的及就業年限
1条 本所ハ紡織ニ必要ナル学術技能ヲ授クルヲ以テ目的トス
2条 本所ノ修業年限ハ1ケ年半トス
 第2章 学科課目
3条 本所ニ左ノ科ヲ置キ生徒ヲシテ其1ヲ専修セシム 1 紡績科2織布部
4条 各科ヲ次ノ各部ニ分チ各部ニ於ケル実地上ノ業務ヲ深ク研究練習セシム 1 紡績科 ⅰ打棉部 ⅱ硫棉部 ⅲ粗紡部 ⅳ精紡部 ⅴ撚糸及綛部 2 織布部 ⅰ準備部 ⅱ糊経(糊付・整経)部 ⅲ機織部 ⅳ仕上部
5条 各科ノ学科目及其程度ハ左ノ如シ 各科目ノ教授時数ハ時宣ニヨリテ伸縮シ,必要ノ場合ニハ授業時間外又ハ休業中ニ随時講演ヲ聴カシ又ハ練習ヲ課スコトアルベシ
第6条 学科教授時間ハ午前8時ヨリ午後4時迄トス 実習ハ工場昼専
紡 績 科
織 布 部
保全掛勤時間ニ準ス教練ハ山田工場ノ青年訓練所ニ依託ス

 第3章 学期及休業日
 7条 学期ハ4月及9月ヨリ始メ1ケ年半ニテ終ノレモノトス学期ヲ3分シ6ケ月ヲ以テ1分期トス
 8条 本所ノ休業日ハ左ノ如シ日曜日,祝日,大祭日,冬期ニ自12月30日至1月5日,但シ 工場ノ休業日ニヨリ変更スルコトアルヘシ
 第4章 入学,在学,退学
 9条 入学ヲ許可スベキモノハ品行善良志望鞏固ニシテ左ノ各項ニ該当シ入学試験及身体検査ヲ受ケ合格シタルモノタルヲ要ス 1.修業年限2ケ年ノ高等小学卒業又ハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スルモノ 2.年令特ニ制限セス 3.当社工場ニ1ケ年以上勤務者ノ志願者中ヨリ選抜サレタルモノ
 10条 志願者ハ左記ノ書類作製ノ上工場長ニ提出スヘシ イ.入学志願書 ロ.履歴書 ハ.戸籍抄本
 11条 入学試験ハ体格検査及学術試験ノ2トシ左ノ学科目ニ就キ之ヲ行フ但シ2ケ年修業高等小学卒業ノ程度ニヨル イ.書取 ロ.算術
 12条~16条 略(保証人関係)
 17条 在学中性行不良学業劣等出欠常ナラサルモノハ除名ス
 18条 規程ノ修業期間ヲ終へ卒業ノ資格ヲ認メタルモノニハ卒業証書ヲ授与ス
 第5章 待遇及義務,扶助
 19条 本所生徒ハ会社ノ職工トシテ取扱ヒ就業規則ヲ適用ス
 20条 本所生徒ハ在学中次ノ待遇ヲナス 1.教科書実習用諸道具ヲ貸与ス 1.授業料ヲ課セス 1.当所寄宿舎ニ無料収容ス 1.入所前工場勤務中ノ日給ヲ基トシテ月手当ヲ定メ之ヲ支給ス但シ食費ヲ徴収ス 1.制服費補助金1円ヲ支給ス 1.扶養家族手当及期末賞与金ヲ支給ス
 21条 本所生徒ニシテ其情状ニヨリ在学中費用ノ全部若シクハ其1部ヲ弁償セシム
各課目ノ内容
1.修身公民料 ①処生上必要アル事項 ②公民心得
 1.体操 ①一般体操
 1.国語,地理,歴史 ①普通文・講読,作文,地理,歴史
 1.英語,①初歩 ②工場英語
 1.数学 ①算術 ②代数初歩 ③工場用数学
 1.機械学 ①材料 ②機構 ③工作機械
 1.紡績 ①原料 ②紡績機械 ③附属機械 ④計算
 1.織布 ①原料 ②機械ノ機構 ③附属機械 ④計算
 1.標準動作 ①保全標準 ②運転標準
 1.工場設備 ①汽罐 ②汽機 ③電気 ④電灯 ⑤動力伝導 ⑥防火設備 ⑦換気 ⑧温湿度
 1.機械製図 ①用器画 ②簡単ナル機械 ③各部機械見取図
1.実習 機械ノ全般ニ対シテハ便宜見学セシメ専門部ニ対シテハ練習セシム(以下 紡織講習会規則,別科規則は略)
 以上に示したように日本綿糸紡績業は大工場を中心に大がかりで組織的な企業内職工教育を実施している。しかもこれに止どまらず,たとえば鐘紡では,高等工業学校卒業生および大学工学部卒業生を甲種技術見習生として,1907年以降「甲種技術見習生養成内規」の下に,1年間,最初の2ヵ月は機械の構造と動作の概要を,残る10ヵ月のうち前半の第1期は調合打棉より練篠機まで,後半の第2期は初紡よりバンドルまでの諸機械の構造,取扱方,保全法などを教育している17)。
 なお,鐘紡は1915年から女子事務員を事務に任用することとし,そのために女子事務員講習所を開設し,3ヵ月間女子事務員の養成を開始している18)ことを指摘しておくのも意味のないことではないであろう。

1)矢高実「教育なんてできるものか」『社会政策時報』1929年5月号48―49ページ。みられるように教育とはいえないような,むしろレクリェーション親睦会みたいなものもあるが一応列挙しておいた。
2)細井,前掲書,233―34ページ。
3)惣田太郎吉「最近労働者の教化に関する二三の傾向」『社会政策時報』1929年5月号,18―19ページ。
4)細井,前掲書,252ページ。
5)同上,252―67ページ。
6)武藤山治全集刊行会「武藤山治全集」増補,新樹社,1966年,396―98ページ。ただし,後述の「新入工男養成規定(織布工場)」によって補正してある。
7)鐘淵紡績株式会社蔵『技術回章」No.24による。なお「講話教案」は次のようである。
 ◎普通工務教案(36時間)
 1.紡績大要(3時間) (イ)棉の種類,品位,用途の大略 (ロ)紡績工程及機械名
 2.織布大要(9時間)(イ)巻糸 (ロ)経糸と緯糸の別 (ハ)管糸の取扱並に不正管糸発見規定 (ニ)綿布の種類 (ホ)織機の由来 (ヘ)製品検査と品位等級大要 (ト)賃金と等級制度 (チ)織布工程概要 (リ)綿布仕向地と外国製品との競争 (ヌ)九龍票の価値
 3.機械及付属品の名称並に常用熟語類(9時間) (イ)原動機 (ロ)伝導機 (ハ)紡績工場機械付属品 (ニ)織布工場機械付属品 (ホ)電灯用品 (ヘ)油の種類 (ト)掃除用品 (チ)保全道具類 (リ)度量衡の単位 (ヌ)常用雑語
 4 負傷予防心得(3時間) (イ)普通心得 (ロ)各科心得 (ハ)応急手当
 5.防火に関する心得(3時間)
 6.其の他操業上一般の注意及復習(9時間)
 ◎特別工務教案(27時間)
 1.所属科機械の部分的名称と取扱大要(12時間)
 2.所属科で使用する材料の名称及用途の大意(6時間)
 3.所属科操業上危険予防心得(3時間)
 4.受持仕事一般心得及復習(6時間)
8) これは欧州で行われていた職工養成方法を斟酌しているといわれる(『大日本紡績連合会月報』第111号,1902年4月25日,36ページ。規程は次のとおり。
 鐘渕紡績株式会社幼年職工養成規則
 第1条 当会社ハ模範トナルヘキ善良ナル紡績職工ヲ養成セムカ為メ広ク全国ヨリ幼年ノ男子ヲ募集ス
 第2条 応募者ハ左記各項ニ該当スルヲ要ス ①尋常小学校卒業ノ男子ニシテ年齢満13歳以上16歳以下ノ者 ②当会社嘱託医師ノ体格検査ニ合格セシ者 ③紡績職工ヲ以テ身ヲ立ツルノ希望ヲ有スル者
 第3条 前条ノ応募者ニシテ当会社ニ収容セシ者ヲ幼年職工ト称シ其修習期間ヲ満3ケ年トス
 第4条 幼年職工修習期間中当会社ノ精紡仕上両科ニ於テ先ツ工女同様ノ業務ヲ執ラシメ技術ノ熟達体格ノ発育ニ随ヒ各科機械ノ取扱及業務ノ順序方法等ヲ練習セシメ尚ホ且簡易ナル学校ノ設備ヲナシ日常業務ノ余暇ヲ以テ普通学ヲ教授ス
 第5条 幼年職工修習期限中ハ食料被服履物其他必要ナル日用品ハ総テ当会社
ヨリ支弁シ尚ホ毎月小遺銭トシテ各月ノ技価等級ニ応ウ左ノ手当金ヲ支給ス 1等金80銭 2等金70銭 3等金60銭 4等金50銭 6等金40銭
 第6条 幼年職工修習期限中ハ特ニ当会社ノ設備ニ係ル幼年職工寄宿舎ニ宿泊セシメ一切通勤ヲ許サス
 第7条 幼年職工寄宿舎ニハ監督者ヲ置キ各幼工ノ行状ヲ監視シ懇切丁寧ヲ旨トシ被服ノ仕立洗濯等ヨリ総テ日用品ノ供給ニ至ルマテ万事不自由不足ナカラシム事ヲ期ス
 第8条 養成職工修習期限中満2ケ年以上精勤シタル者ニハ2週間以内ノ休暇ヲ与へ望ミニヨリ旅費ヲ給シ帰国休養セシムルコトアルヘシ
 第9条 当会社所定ノ休業日以外ニ止ヲ得サル事故又ハ病気ニ依リ1ケ年中14日以内ノ休業ハ之ヲ欠勤ト見做ス
 第10条 幼年職工修習期限中疾病ニ罹リタルトキハ当会社費ヲ以テ当会社附属ノ病院ニテ治療セシム 但シ帰国療養ヲ希望スル者ニハ其技術勤務年月ノ長短ニ準ウ相当ノ手当及ヒ旅費ヲ給与シ帰国療養セシム尤モ病気ノ性質ニヨリ帰国ヲ必要トスルモノハ上文ノ制限ニ従ハス
 第11条 幼年職工修習期限中左記各項ノ1以上ニ該当スル者ハ退社ヲ命スヘシ
1.業務ニ勤勉セサル者 2.不正ノ行為アル者 3.技能熟達ノ見込ナキ者 4.不治ノ疾病ニ罹リタル者 但シ退社セシムル場合ニハ帰国旅費ヲ給スヘシ
 第12条 幼年職工修習期限ヲ終了シタル者ニハ職工適任証書ヲ付与ス
 第13条 幼年職工修習期限ヲ終了シタル者ハ本職工トシテ満3ケ年当会社ニ勤続スル義務アルモノトス
 第14条 前条ニ従ヒ本職工トナルノ契約ヲナシタル者ニハ一時金壱百円ヲ給与シ本人又ハ本人指定ノ親族若クハ後見人ニ付与シ尚ホ普通職工ト区別シテ特ニ之ヲ優待シ左ノ規定ニヨリ給料ヲ支給ス(略)
 第15条 幼年職工応募者ニシテ来社ノ旅費ヲ自弁シ能ハサル者ニハ当会社ニ於テ立替置キ修習期限終了後之ヲ返納セシム
 第16条 幼年職工トシテ許可セラレタル者ハ別紙書式ノ契約書ニ戸籍謄本添へ当会社ニ提供スルモノトス
 第17条 本則ニ規定ナキ者ハ尚ホ民法雇傭ノ各項ニ従フモノトス
附則
 1 幼年職工修習期限ヲ終了シ本工トナリタルトキハ其契約書差入ト同時ニ保信金トシテ金30円ヲ納ムヘキモノトス 但シ本項ノ納付金ハ本規則第14条ノ給与金壱百円差引スルコトヲ得
 2 前項ノ保信金ハ3ケ年勤続ノ後年1割ノ利子ヲ付シ還付スルモノトス
 3 本職工トナリ満3ケ年間勤続義務ヲ終了シタル者ニハ低廉ノ家賃ニテ社宅ヲ貸与スヘシ(同上36―37ページ。)
9) 武藤山治全集刊行会,前掲書,390ページ。当学校はドイツの各種の実業学校,なかんずく紡織学校に範をとったといわれる(同上書第2巻,140―41ページ)。
10) 同上書増補,390―92ページ。
11) 隅谷三喜男編著「日本職業訓練発展史』下,日本労働協会,1971年,116,118ページ。
12) 鐘紡所蔵資料『1920年上期営業成績報告書』による。
13) 武藤山治全集刊行会,前掲書第2巻,130―31ページ。
14) 鐘紡所蔵資料『技術回章』No.8による。
15) 東洋紡績株式会社『創立20年記念東洋紡績株式会社要覧』1934年,77―80ページ。
16) 社会局労働部『第17回工場監督年報』1932年,46―51ページ。なお,同所の紡織講習会規則および別科規則は以下のとおりである。
 紡織講習会会則
 当所内デ随時開会シ短期間ニ紡織ニ関スル必要ナル知識ヲ授ク
 1.講習期間ハ4週間
 2.講習生ハ当社工場ニ満3ケ年以上勤続スル在職者中ヨリ工場長之ヲ選抜ス
 3.学科・時数・要項 ①倫理2(国民道徳) ②数学5(四則分数,比例,百分算,平方立方根) ③機械学5(力学,機械学) ④工場設備4(工場,一般設備) ⑤専門学科7(紡績又ハ織布) ⑥専門学科計算7(紡績又ハ織布) ⑦製図6(機械部分見取図) ⑧特別講義3(最新ノ発明) ⑨工場見学3(以上合計43時間)
 4.講習生ノ待遇 ①講習中従来ノ給料支給,②往復旅費支給,③学用品支給,④寄宿舎ニ無料収容,⑤食費ハ之ヲ徴集セス
時間割
 別科規則
1.職工教育所ニ別科ヲ設ケ随時開催ス
1.別科生ニ対シテハ総テ職工教育所規則ヲ準用ス
1.別科生ノ修業期間ハ随時之ヲ定メ場合ニ依リ教育所生徒ニ編入スルコトアルベシ
時間割
17) 鐘紡所蔵資料『1908年1月4日,同6月27日各店宛通知書』による。
18) 武藤山治全集刊行会,前掲書第2巻,132―33ページ。

Ⅲ 日本型合理化と国際競争力

1 日本型合理化の特質
 (1)
 日本綿糸紡績業の合理化は1911年に公布された工場法と不可分である。その施行は1916年9月1日まで5年間の,さらに15歳以下の幼年工の夜業禁止は施行後15年間の,都合20年間の猶予期間を置いたものであったにしても,設備の休みないフル回転と結びつく昼夜2交代労働を最大の武器としてきた日本紡績業は,徹夜業規制に対してなんらかの具体的な対抗策をとらざるをえない立場に追いこまれたことを意味する。その現われが合理化へのとりくみであった。さきのハイ・ドラフト機の採用にしろ,自動織機の採用にしろ,職工教育にしろ,実はこの合理化の一環をなすものであった。そして,国際労働会議などの内外の批判の前に1923年改正工場法が実現され,29年には最終的に女工の徹夜業が禁止されるに至る。
 アメリカのF・テイラーが製鉄所で考察した科学的工場管理法,およびモーション・スタディによる標準動作を日本の紡績経営者は組織的に追求していくことになる1)。しかしこれ以前にも日本綿糸紡績業は,企業の経営力を高めるため諸方策を実行してきた。たとえば,1905年から固定資本償却制度を導入し,また諸積立を行なって資金の潤沢化をはかっている。この累積額は対払込資本比率でみると,固定資本償却金は1919年に71%台に達し,諸積立金は同年111.6%に伸びる。これとは逆に借入金および社債は,やはり対払込資本比率で1910年代初頭の40%から20年には11%まで低下する2)。1910年代に入り日本綿糸紡績業は驚異的な強蓄積によって内部留保資金を蓄積してきたといえるであろう3)。日本紡績業は,当初から綿業一貫体制として織布業を兼営してきたこと,さらに規模の巨大化をはかってきたこと,100%原棉を輸入に頼ることから,原棉費を最小にするために,独特の混棉方法を採用してきたことについてはすでに述べた。さらに,大阪3品定期取引所は綿糸の銘柄を標準品,相当品,格上品,格下品に分けて価格差をつける格付標準売買制度を1909年から実施して,各会社に糸質の高度化を奨励している4)。
 その上,日本綿糸紡紡績業は紡績計算や織布計算を実施して,工場間の生産費の比較を実施している。綿糸については,社員給料,職工給料,工場消耗品,電気用品,動力費,雑用石炭・電灯費,原棉諸掛,製糸荷造,製糸運搬,屑綿糸運搬,落棉・屑糸荷造,器械修繕,諸修繕,火災保険,職工諸費,人夫賃,旅費,通信費,運賃,事務所費,衛生費,需要品消却,瓦斯焼費の各項目について,また織布についても社員給料,職工給料,工場消耗品,湖付,電気用品,動力,雑用石炭・電灯,綿布荷造,綿布運搬,屑物荷造,屑物運搬,器械修繕,諸修繕,火災保険,職工諸費,人夫賃,旅費,通信費,運賃,事務所費,衛生費,需要品消却の各項目について,それぞれ棚卸表を作製して,綿糸1梱当りおよび綿布100反当り(ないしは打込数100万回当り,の経費を算出して,工場間の工費の比較をなしている。さらに,綿糸については,原動部,電気科,混棉科,打棉科,硫棉科,練篠科,初紡科,精紡科,撚糸科(合糸・撚糸・捲返),瓦斯発生科,瓦斯焼科,仕上科,ワインダー科,バンドル科,撰棉科,工務科の各工程について1梱当工賃,1日1人当工賃,1万錘当使用人員,1日平均出勤人員を計算して,各工場の操業方法を吟味する。同様に織布についても,原動部,電気動力,電気電灯,原糸室,繰返室,整経室,醗酵室,湖付室,引通室,織機室,仕上室,工務科について織布100反(ないしは打込回数100万回)当り工賃,1日1人当工賃,100台当り使用人員,1日平均出勤人員を計出して,各工場の操業を吟味している5)。これは鐘紡の事例であるが,当社は1907年頃から所属の綿糸布工場に検査官を派遣して,機械効率を労働能率増進のために組織的に調査を開始している。
 (2)
 科学的管理法およびモーション・スタディはまず標準動作の制定となって客観化される。標準動作は職工の動作に無駄のないように,熟練職工の最良の技術を各工程の作業動作の標準として規定したものである6)。たとえば,鐘紡の練篠科は従来各半台毎に単独に段取りされて,受持工全員の仕事に統一がなく,このために受持工女はたえず全体に気を配らねばならず,いつどの半台が満罐となり,また裏ケンスが空となるか予知し難く,その間むだが多かったといわれる。そこで「科学的ニ研究」した結果,1920年に受持全員の動作を組織的に統一し,歯車のくい込の差を利用することによって,女工の仕事量を増加させずに受持台を増加できたといわれる7)(第1表)。
第1表 練篠科持台数比較
 ひとたび各工程の標準動作が確定されると,設備,人員,効率などの基準が確定され,その結果,各工場間,異番手間の生産費や生産性の比較も容易にされる。ちょうど時期を同じくして,鐘紡はさきの綿糸工場棚卸諸経費報告表の改正を実施する。すなわち,従来の棚卸諸経費報告表は製糸種別に関係なく,単に各項目の支出額を合算して報告するために,これを基礎として作成した1梱当経費比較対照表は,種別綿糸1梱当経費を示すことにはならない。それでは各工場間の比較対照上不便であると同時に,実際に近い確実な工費は不明ということになる。そこで鐘紡では1921年に棚卸表を改正して,普通綿糸,撚糸,瓦斯糸,織布原糸,スプール,チーズ巻などをあわせて紡出している工場は混棉より精紡まで,合糸より捲返まで,合糸より瓦斯焼まで,仕上・バンドルの4項目に経費を分割して棚卸経費表を作成することになる8)。これは紡績計算の厳密化といってもよいであろう。
同様に東洋紡では第1次大戦後の不況で,各工場間の成績の精確な比較が必要となり,従来よりも精確な換算率の制定に向うことになる。同社は1921年頃に,当時イギリスのランカシャーで行なわれていたユニフォーム・プライス・リストの方法を採用することになる。これは製品のうち,最も生産量の多いものを基準品として1とし,他の製品はこれに一定の係数を乗じて,月々の工場の製品の原価計算を行ない,毎月の損益計算を出す方法である。これによって東洋紡では,綿糸では「赤」32番手1梱当り,綿布では「天竺2号」,のちには「粗布襲C」1万ヤード当り換算率を,他の品種と比較することによって,各工場の成績比較が可能となり,成績不良工場の是正が容易になったといわれる。そして,この換算率の方式を番手別原価計算にも応用して,当時50ないし60円であった20番手綿糸1梱当価格が,5~6年間に14円ほど引下げられたように,全工場の経営合理化を強力に推進したといわれる9)。
 標準動作の制定による労働強化の下で,徹底した人員削減がなされる。第2表にみるように,1914年下期から1926年末にかけて2~3の例外を除いて,鐘紡では大幅な人員の引下げが実現されている。こうした緻密な長時間労働に耐えうるような職工の養成が,さきに述べた企業内教育と結びついていることは,容易に理解できるであろう。そして,倉敷紡が1920年に「工手体格検査標準規程」を制定し,23年にさらに「職工適性検査標準規程」を制定して,職工の選抜を開始している例にみられるように10),日本綿糸紡績業は,一定の質をもった職工の確保をめざすようになるのである。それがまたさきの職工募集方法の変化ともかゝわってくる。
 日本綿糸紡績業がとりくんだ合理化はむしろ受持台数の増加による労働生産性を追求するものであることを,さきの第2表は紡績工程について示しているわけであるが,それは織布工程についても言えることである。
第2表 1万錘当り人員比較
「自動織機の主目的は杼換の自動化により,台持工の人員を大幅に節減することにある11)」と豊田自動織機の製造者に明確に認識されていたのである。第3表に示されるように,女工1人当りの持台は普通織機の3.3台から,自動織機の25台へと大幅の増加となり,それだけ人員と賃金が大幅に削減されることになる。ところが機械能率では,自動織機は普通織機に比して僅かな増加にとどまっている(第4表)。
第3表 織機1,000台当所要人員・労務費比較(1926年10月)
第4表 製織能率比較
1910年代から特に意欲的に展開された日本綿業の合理化は,手織機から力織機への転換を別にすれば,機械の生産力を昻めるものよりは,人員削減による労働生産力を高めるものであったことが一目瞭然であろう。
 こうした労働強度化に際して,女工の労働資質を動員するばかりでなく,精神的資質をも動員する方策がとられる。東洋紡姫路工場では1919年頃から「一時貫行主義」が行なわれている。それは社員と職工からなる実行委員に月別貫行事項を決定せしめ,それを工場内に掲示して,従業者間に励行を鼓吹するといったようなものである。たとえば1928年の例でみると,1月和衷協同,2月冗費節約,3月能率増進,4月訓育徹底,5月公徳奉仕といった具合である。3月の能率増進の内容についてみると,①各事務所に「能率増進」の掛札掲示,②「能率増進,品性向上」の大ポスター掲出,③「週問能率標語」を選定して各科掛に掲示,④各科別不良糸摘出量成績比較,⑤各人の従事している仕事の改良すべき点の懸賞募集,⑥奥丹震災1周年の思い出を能率増進に因めるポスター掲出,⑦品性向上のための特殊週間設置,a 不良品減少週間,b 機械器具清浄週間,⑧3月度各科出勤成績を角力番付と同様式で発表,⑨内務省勤倹奨励委員会発行「幸福は勤倹に芽ぐむ」ポスター掲示,⑩各科掛において計画改善実行した事項の取纒め,⑪従業員疲労調査実施――1日中で1番疲れを感じるのは何時頃か,1日中で1番仕事に身の入る時は何時頃か,⑫国武先生発案「合理的炊事法概要」の印刷物配布,⑬合理的炊事法講習会開催,⑭水上役場より寄贈される「能率増進」小ポスターを各所に貼布,となっている12)。1910年代から日本綿糸紡績業が取組んできた合理化は,極めて精神主義的色彩の濃いものであったといえるであろう13)。
 こうした,女工を精神的にも動員する方法が行なわれる一方で,特に寄宿女工に対して,1自然日の全時間をも規制する事例すら見られるに至る。東洋紡は1923年頃から全労働時間(起床から就業を経て寄宿舎に着するまで),休憩時間,睡眠時間の3項目に亘って寄宿女工の生活時間調査を実施し,その結果,洗面,着衣,食事,結髪,排便,入浴,稽古,学習,余暇時間なども規定され,睡眠時問は7時間(1928年からは8時間)と規定されるに至る14)。
 (3)
 1929年7月1日から改正工場法の実施によって,日本紡績業は出発時から続けてきた夜業を禁止される。1917年以来実施されてきた金輸出禁止措置が,1929年11月21日の金輸出解禁の省令により打切られて,1930年1月11日から金本位制が実現される15)。日本経済は,1929年10月24日,アメリカの株式市場大暴落に端を発した世界大恐慌に1930年劈頭まきこまれる。日本綿糸紡績業は,こうした事件に集中的にまきこまれるわけで,1929年から31年にかけて「組織的合理化」といわれるような合理化に邁進する。1928年から29年にかけての鐘紡の試験では,1万錘当使用人員では25.8%(第5表),40番手生産のための1日使用人員では29.5%(第6表)の削減を実現させている。また,この期にハイ・ドラフト精紡機,シンプレックス・ハイ・ドラフト精紡機,自動織機の採用が急速に伸び,この面からも大幅な人員削減を可能にするわけであるが,そのことについては,すでに述べた。
第5表 1万錘当り使用人員対照
第6表 40S使用人員対照 
 この人員削減を数量的にみると,第7~8表でわかるように,紡績工程では女工数が1926年の14万2,000人から31年の9万8,000人まで30.9%の削減を,また織布工程では同じく4万8,000人から2万3,000人まで実に52.2%の削減を果しているのである16)。
 最後に日本綿糸紡績業の特質を確認するために第7~8表を掲出する。紡績については,リング1錘当出来高が横這いである下で綿糸生産の増加を支えてきたのは運転錘数の増加であり,女工の受持錘数,したがって女工1人当りの出来高の増加であったといえる17)。また織布についても同様で,織布の増加を支えてきたのは,織機の生産力が高くなったことも然りながら,運転台数の増加によるものであり,女工の受持台数および1人当りの出来高の増加によることが大きいといえる。
第7表 綿糸紡績生産力の変遷
第8表 織布生産力の変遷
結局,綿糸の生産増加を担ってきたのは,究極のところ労働生産力と労働強度化だったのであり,それの中心的な主体であった若年の女工たちであったといわざるをえないであろう。ところがこうした労働強化にもかゝわらず,紡績業に関する日銀の1926年を100とした実質賃銀指数は29年96.4,30年86.8,31年74.5,32年65.9,33年62.5,34年61.3,35年60.5と大幅に低下していくのである18)。

 注
 1) この科学的工場管理および標準動作研究に日本紡績業で最初に取組んだのは鐘ケ渕紡績であろう。同社の武藤山治は,1912年に科学的管理法および標準動作についての調査を指示している(武藤山治全集刊行会,前掲書,365―66ページ)。
これが日本で最初に取上げられたのは東武鉄道運賃問題がおこった1910年から11年にかけてであるといわれる(東洋紡績株式会社『東洋紡績70史』同社,1953年,182ページ。なお,東洋紡績が標準動作の研究に着手したのは1917年であり,同年末に紡績と織布の2部門に分けて操業と保全とについてそれぞれ工程別標準動作を制定し,翌年確定したといわれる(同上,182―83ページ)。
 2) 泉武夫「1910年代における日本綿糸紡績業の展開――特にその独占転化に関して――」『専修経済学論集』第6巻,1971年6月,54―55ページ。
 3) この潤沢な資金を背景に日本紡績資本は在華紡という形で中国に資本輸出を組織的に展開してきたことは周知に属するであろう。なお,在華紡の形成については差当り泉武夫「日本紡績資本の中国市場進出に関する一考察――1920年前後のいわゆる『在華紡』について――」(『専修経済学論集』1972年2月)を参照されたい。
 4) たとえば1921年の綿糸20Sの格付検査標準は以下のようである(鐘紡『技術回章』No.8)。①1玉の量目は水気含有の紐を充分乾燥させた上一定の場所に24時間以上放置し,その後1貫200匁以上あるものを合格とする。②1?の糸数は平均80筋を以て相当とし,丸紐では1紐の長さが840碼あるのを相当とする。③紐一周の長さは54吋とする。紐枠の周囲が54吋を標準とする。④整調滓及光沢は100点を最高として85点以上を合格とする。⑤水気は天然水気のほかに35匁以上あってはいけない。ただし,天然水気は5%と見倣す。⑥撚度は1吋に付右撚16手は15,左撚20手は19以下とし,強力は9オンス以上有するものを合格とする。⑦伸力は1吋8分の1以上とする。⑧計算上番手に甚しく不同あるものは不合格とする。⑨製玉中括糸はすべて芝糸(綿糸)とする。
 5) これについての詳細は泉「独占体的巨大綿紡資本の生産構造と搾取基盤――第1次大戦期の鐘紡を事例として―」専修大学社会科学研究所『社会科学年報』第13巻,時潮社,1979年,202―06,217―24ページを参照されたい。
 6)泉「大正期綿紡の……」,18ページ。
 7)鐘紡『技術回章』Nα8による。
 8)同上。
 9)東洋紡『東洋紡績70年史』181~182ページ。
 10)泉「大正期綿紡の……」19~21ページ。
 11)豊田自動織機社史編集委員会,前掲書,118ページ。
 12)惣田太郎吉,前掲論文,『社会政策時報』,1929年5月号,20―22ページ。
 13)鐘紡の武藤山治は「科学的工場操業法」を「精神的工場操業法」と言いかえて「一口に言へは我社に従事する各員の精神を自己の仕事に集中せしむる事によりて操業上好成績を持ち来たさんとするもの」と説明している(武藤山治全集刊行会,前掲書,367ページ。なお,同書366―76ページを参照)。
 14)東洋紡績株式会社『東洋紡績70年史』243―46ページ。調査項目の内容は次のようになっている。A全労働時間①朝(昼勤者)または晩(夜勤者)の起床後,洗面,着衣,食事,結髪,便所等に要する時間。また持場に入って運転にかかるまでの時間,②持場で正味働く時間,③終業後寄宿舎または食堂へ着くまでの時間。B休憩時間 ④終業後における学校(工場内),稽古事,裁縫,洗濯,運動等の修養,遊戯等に費した時間,⑤就業中における休憩時間,⑥終業後寄宿舎内の食事時間,⑦入浴時間,⑧全然自由な時間(その間に何をしたか),C睡眠時間 ⑨就床時,⑩起床時,⑪寝つきの状況,⑫夢を見るか見ないか,⑬どんな夢を見るか,⑭就眠中眼がさめるかさめないか,⑮1番眠りにくいのは昼業又は夜業の何日目か,⑯熟睡の障害となるもの3つ挙げよ(同上,244ページ)。
 15) 阿部房次郎は「金解禁の本当の影響は無論これから真剣に来るので,……不景気はもっと深刻化して来るものと見なけれはならぬ。輸出の方面はどうかと云ふと我国の労銀及物価が為替高に逆比例して低下せない限り海外市場の競争に於ては従前に比してそれだけ商売が六ケ敷くなる訳である。我々工業家の立場としては産業の合理化により出来る丈け生産費を引Fげ輸出の促進に努め国際貸借の改善に精進すべきである。」(大日本紡績連合会『大日本紡績連合会月報』第447号,1929年11月号,1929年12月16日,27ページ。
 16) 深夜業廃止後大日本紡では従業員の半数を解雇し,東洋紡は従業員を著しく減少させ,両紡では役付男工が平男工の仕事をも兼ねるようになったといわれ,鐘紡でも工男の新規採用を一時見合せる決定がなされている(武藤山治全集刊行会,前掲書,527―28ページ。
 17) 第7~8表の女工の受持数および出来高は,あくまで換算女工に対するものであって,現実のものではない。実際には精紡工程の糸継工の受持枕数は1928年7月には101枕であり,29年7月には139枕まで拡大されたといわれる(鐘紡『技術回章』No.10)。
 18) 美濃口時次郎・稲葉秀三「最近に於ける我国産業労働事情の変遷と社会政策の効果」(ニ)『社会政策時報』1937年6月号,101ページ。

2 日本綿業の国際競争力
 インドおよびイギリスの綿製品の輸入を防遏して,国内綿糸布市場の自立化を達成した日本綿糸紡績業は,逆に綿糸布の輸出を促進していく。しかし綿糸輸出は1910年代の半ばを最高として以後激減して,全く問題とはならなくなる。代って綿布輸出が追求されていく。
日本の綿糸輸出の70~80%を占める中国は日本綿糸紡績業の文字どおりの最大の市場であったわけであるが,当市場で,1910年代初頭インド糸を凌駕したのもつかの間,中国紡績業の勃興と抗日排日貨運動に直面して日本糸の輸出は見通しのないものとなってしまう。そこで日本の紡績業者は中国に工場を建設して,いわゆる在華紡を展開させることになる1)。ところが,日本で生産される綿糸と,在華紡の生産した綿糸との間に20円の生産費差が生じ(第1表)
第1表 20手1梱日中生産費 (1929年8月調)
日本糸は中国市場で完全に輸出競争力を喪失してしまう。日本糸の生産費はインド糸に対しては対抗力を有するがアメリカ,イギリスに対しては問題にならないほど高い(第2表)。日本の紡績部門は国内の織布部門への原料供給部門へと収〓していくことになる。
第2表 綿糸1封度当生産費比較(精紡まで)
第3表 紡績賃金比較(千錘当)
 そして,日本綿業は綿布世界市場のシェアをめぐって,世界最大の輸出国であったイギリスと激しい競争戦に突入することになる。したがって,紡績工程の合理化なり低賃金なりは,輸出のための低廉価化というのではなく,織布原料の低廉価化というように,意味あいが変化したといってもよいであろう。第3表にみるように日本の紡績労働者の賃金は,アメリカ,イギリスはいうに及ばず,イギリスの植民地時代のインドよりも低いものとなっている。しかも生産性は(第4表),労働時間の大きさによって週当り棉花消費量はイギリス,アメリカよりも高くなってはいるものの,太糸生産に適したインド棉を初発から基軸原棉としてきた後進国日本綿糸紡績業は,原棉処理でみる限り,両国よりも生産性が低いものとなっている。紡績工程における合理化が,本質的には機械の生産力を高めるものではなかったということと,このことは照応関係にある。それでも,1920年代末には労賃の世界史的な低さと経営合理化の追求によって,イギリスよりもはるかに安価な原料糸を供給することを可能にしているのである。(第5表)。
 ところが織布工程にみると,事態は全く異なってくる。上述した安価な原料糸の供給と,織機の自動化率の差(第6表)と,イギリスの半分以下の職工賃によって2),日本の綿業は,イギリスの綿布生産差の3分の1より安く綿布を生産している(第7表)。しかも,生産力はむしろ日本の方が高い。このことは当然に日本綿布の輸出競争力を示すものである。
第4表 紡績生産性比較(千錘当)
第5表 日英綿糸1封度当生産費比較
第6表 自動織機比率
表7表 日英綿布生産力及生産費比較(金巾)
このように,日本の場合生産条件とは別の世界市場での有利な条件が加味されている。それは外国為替相場である。日本は1930年と31年に金輸出を解禁して金本位制に復帰するが,これは例外的で,17年からこの2年間を除いて金輸出を禁止する政策を行なってきた。そのためにポンドやドルに対してだけでなく,テールに対しても,ルピーに対してもかなりの円安となっている(第8表)。当面の競争相手であるイギリスに対しては特にそうである。このことは,日本綿布に対するイギリス綿布の競争力を大幅に減殺したであろうこと想像に難くない。
第8表 対円外国為替平均相場変動指数
為替ダンピングといわれるゆえんである。こうした合理化の追求,低賃そして為替要因などの相乗作用によって,日本綿業は世界綿布市場でイギリス綿業を圧倒していくのである。

 注
 1) 泉「日本紡績資本の……」を参照されたい。
 2) フレンダ・アトレー著,中野忠夫・石田靖二共訳『極東に於ける綿業』(原書名:Lancashire and Far East,1931)叢文閣,1936年,291ページ
おわりに ―日本経済における綿業の位置

 本論を終えるに当り,小括に代えて日本の国民経済における綿糸紡績業の位置を簡単に述べることにする。第1表は,日本の産業構成を鉱山を除いた従業者数5人以上の民間工場について,工場数と従業者数とでみたものである。繊維工業の異常な高さが目につく。特に従業者数は総数の過半を大きく超えている。それは1930年代になってはじめて過半を割るにすぎない。これが戦前日本の国民経済が繊維工業段階といわれるゆえんである。
 繊維工業の内訳は,1909年についてみると,工場数1万5,574中製糸業が3,720(239%),綿織と絹織を合わせた織物業が8,436(54.2%),綿糸紡績業が111(0.7%)であり,従業者51万6,200人中製糸業が19万8,600人(38.5%),織物業が15万8,900人(30.8%),綿糸紡績業が9万1,600人(17.7%)であるを製糸業と織物業が量的には繊維工業の大部分を占めていることになる。
 綿糸紡績業は工場数,従業者数ともに,総数のなかでも繊維工業のなかでも決して大きいとはいえない。しかし,1%に満たない工場数で,10%前後の従業者数を集積しているという特徴をもっている。このことは,綿糸紡績業が日本の民間工業の中で,大規模な近代的機械制大工業の形態をもっていることを示している。
 そもそも一国の国民経済が自立性ある近代的なものとして確立されるには,消費資料生産部門と生産手段生産部門との問に,バランスのとれた発展が介在することを大前提とする。その際,前者,特に衣料生産の質量的発展が先行する。戦前日本の場合,両部門間に異常なアンバランスが存在し,生産手段生産部門の極端なたち遅れのため,国家資本による先導に完全に依拠しなければならなかったほどであるが,そのような状況にあって,日本綿業は,国民経済の自立化と,資本制的なものへの推転に大きく貢献していたといえる。それを主導したのが日本綿糸紡績業であった。
第1表 日本の産業構成(工場および従業者)

1) 泉武夫「1910―20年代における日本資本主義の重化学工業化に関する1つの素描――特に日本鉄鋼業の推転を中心として――」『専修大学社会科学研究所月報』No.134,1975年11月,5―10ページ。