技術と都市社会

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都市下層社会と「細民」住居論

著者名: 石塚裕道
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次
ま え が き・・・・・・・・・・2
Ⅰ 東京の開化の特質と市街地改造論・・・・・・・・・・3
 1 築地居留地・銀座煉瓦街と都市スラム・・・・・・・・・・3
 2 都市下層民と市区改正論・・・・・・・・・・8
Ⅱ 産業革命期の都市スラムと住宅問題・・・・・・・・・・13
Ⅲ 都市下層社会の変化と「細民」住居論・・・・・・・・・・23
 1 独占移行期における都市スラムの変化・・・・・・・・・・23
 2 「細民」住居論と都市計画・・・・・・・・・・28


まえがき
 本稿では,前年度の国連大学プロジェクト研究報告「東京史研究の方法論序説」(石塚執筆)をもとに,ほぼ関東大震災(1923年)までの東京の歴史が分析の対象としてとりあげられる。その場合,当時の都市スラムの住居構造に焦点をあわせて,「細民」1)住居論もその視野に含めて検討される。ここで,とくにそうした分析視角を設定するのは以下の理由による。
1 当時,都市スラムと下層民の住居(「長屋」)は市街地を構成する要素の一つとして,その主要部分を占めたのみならず,その基礎構造を形成していた。
2 都市スラムは火災・伝染病の発生の温床か,またはその被害をうけやすいということで,当時の「都市問題」の中心に位置づけられる。
3 日露戦争(1904-05)直後からの「都市民衆騒擾」期における下層民の動きとその都市民衆運動への参加の拠点が,それらの「細民」の住居にあり,そうした民衆生活の基底を明らかにする。
 以上の問題意識から,社会学(スラム)・建築学(都市計画)・歴史学(民衆運動史)との接点をもちながらも,日本近代史の分野で,従来,研究の視野から欠落するか,または,ほとんど扱われてこなかった「住居」の歴史が,ここでは検討されよう。

 注
 1) ここでいう「細民」の表現は,下層民一般という意味で使用している。

Ⅰ 東京の開化の特質と市街地改造論

 1 築地居留地・銀座煉瓦街と都市スラム
 19世紀後半,維新変革を契機に成立した明治国家は欧米列強による「半植民地化」の危機のもとで,「富国強兵」「殖産興業」政策を推進することにより,東アジアで唯一の「独立国」となった。
 1868(明治元)年,開市とともに東京は市街地の一角に外国人居住区(築地居留地)を設定することをよぎなくされたが,そのことは,まもなく建設を開始する銀座煉瓦街とあわせて,当時,東京が「半植民地型」の都市構造をそなえていたことを意味する。しかしその後,明治国家がすすめる富強政策にこたえ,東京は西欧都市にならって都市改造事業を施行し,「富国強兵」型の都市へ転換する1)。
 しかも,築地居留地と銀座煉瓦街が横浜―新橋間の官設鉄道の敷設により,当時,最大の貿易港であった横浜と直結された以上,海外に向けての表玄関を,政府が国家威信の強化のためにも整備する必要があった。その背後で,条約改正の達成が当面の至上課題になっていたことは,いうまでもない2)。
 築地居留地が外国人を対象としたかれらの居住ないし滞在の地域であり,銀座煉瓦街が日本人向けの洋風建築物であっても,いずれもそれらの建設には,当時,その基盤をもたなかった洋式建築技術の摂取・移植が不可欠の前提であった。
 1867(慶応3)年に布達された居留地規定の適用によって,東京開市とともに着工された築地居留地の建設は,隅田川右岸の築地鉄砲洲を中心に「ホテル館」と合計53区画(1区画当り・平均約500坪程度)を埋める洋式建築群の完成をその目標とした3)。
 外国人技術者の指導下にあったとはいえ,この未知の実験に取りくみ建築活動のにない手になったのは,江戸時代におもに民家建築を担当した町棟梁―職人―徒弟の系列を軸とした仲間組織であり,明治初年以降,かれらは請負方式で官庁または民間工事を手がけた。例えば,町棟梁から横浜居留地での「異人館」建築の実績をもって「築地ホテル館」「第一国立銀行」などを建設した清水喜助(第2代),あるいは一大工として居留地建築で技術を修得し,後に工部省で官庁営繕の第1人者となった林忠恕をあげることができよう4)。これらの若干例は,そうした居留地の建設工事の過程で,日本人の棟梁・大工たちが洋式建築の様式と技法を摂取したことを示している。
 当時の居留地の外国人住宅には,西欧の木造「コロニアル・スタイル」の建物をモデルに,単純な左右対称の平面構成をとり,壁体・外装も瓦葺・なまこ壁・漆喰塗りで,南面にベランダをつけるという形式が多かった5)。そしてそれらは外形は洋式建築であっても,細部の技術的処理は日本人技術者による伝統的な在来技法に基づいた「擬洋風」木造建築であったといえよう。
 銀座煉瓦街は,1872(明治5)年2月,銀座・京橋・築地一帯に偶発した大火を契機として,「帝都」の威容を整備するために,大蔵省と東京府が担当してすすめた最初の市街地改造事業であった6)。築地の外国人居留地を背後に,新橋停車場から北上する15間道路を軸線として,その両側に西欧の「新古典主義様式」を取りいれ,列柱廊に支えられるバルコニーをめぐらした2階(計画では3階)建の煉瓦家屋約1400戸が,ほぼ1877(明治10)年ごろに完成する7)。工事はイギリス人技師の指導のもとで,日本人の職人が多数動員された。建設資材として必要な赤煉瓦の大量生産を,小菅煉瓦所の新設・操業と瓦職人の転業で解決したうえ,大工・石工・とび職人まで雇用された。ロンドンの街区にならった銀座煉瓦街の造成は8),本来,東京全体を洋式不燃都市化するための試行実験としての意義をもつが,財源の不足,技術と経験の未熟,方針の不安定に加えて立退き問題などをめぐる民衆の抵抗などのため,当初の建設計画さえも後退したかたちで,しかも後半の工事の一部は縮小ついで放棄された9)。
 築地居留地の洋式建築とあわせて,銀座煉瓦街の建設は西欧都市の市街地の部分的移植・模倣であり,いわば日本におけるミニ・ロンドンの出現であったともいえよう。
 ただ,それらの街区と建築群は,明治初年以降も繰り返される大火に対して,家屋の外壁に煉瓦造・石造の不燃材を使用するなど,一応の防火対策の機能が配慮されてはいたが,その防災効果は疑問であり,しかも耐震構造については無防備に近かった。
 しかし居留地の外国人住宅や銀座煉瓦街の景観は,民衆にとって,幕末開港より20余年後に出現した日本のなかの「異国」であり,文明開化の象徴でもあった。「万国対峙」のための「上から」の欧米文化の導入は,一般民衆の間に少なくない「カルチュア・ショック」をもともないながら,隔絶した外国文化水準の高さとその基盤を固めつつあった明治国家権力の威信をうえつけたであろう。
 国家権力による都市改造事業が「上から」の都市づくりという性格で推進される場合,そこでは住民無視ないし住民不在のかたちで政策が強行される。築地居留地と銀座煉瓦街の建設についても事態は例外ではなかった。
 築地居留地が設定された地域は,当時「舟子漁夫の巣窟」で「市街狭斜,屋宇破壊,中央に一空地,塵芥山をなし……都人呼んで築地の原10)」といわれたように,その1部には,零細な漁家が集中する細民の集落がひろがり,また明石町には彦根・阿波・中津・福地山その他の諸藩邸が集中していた。居留地の建設に当り,政府は入札によって,これらの武家地と藩邸を有償買上げの方針で接収したが,貧困な下層民の移住について補償がなされた記録はない。
 また銀座煉瓦街についてはすでに検討したように11),その着工直前の新橋・銀座・築地一帯が小商人・職人・日雇・辻芸人などの下層民や雑業者の居住する都市スラムであったうえ,工事はそうした地域住民の強制退去を前提に推進された。またその地域の人力車夫・芸者屋などからの転居延期願も却下され,営業補償願いも無視された。しかも竣工煉瓦家屋の払下げ条件がその費用の分割払いを認めたにもかかわらず,高額であったため,結果としては,もとのスラム下層民をそうした地区から排除することになった。
 そしてそのような権力の行使を前提に,殖産興業政策と文明開化政策のもとで推進された官公庁営繕事業とそれによって建設された官庁・軍事施設・会社・銀行・学校その他の洋式建物の増加が12),この時期の東京の様相を変化させていったことは事実である。しかしまた同時に,当時,政府の一支配者が,その実態を「日本橋近辺一里四方位の開化」と指摘したように13),東京の開化は,基本的には旧江戸の市街地の形態を大部分そのまま残したままの洋式化であった。
 したがって一部の洋式建築物の増加とは対照的に,市街地人口の主要な部分を占める都市民衆(とくに下層民)の住居,具体的には江戸時代以来の多数の「裏長屋」に代表される零細で粗末な住居が洋式建築物に近接し,それを包囲する形態で存在していたことに注目したい。
 東京全区にわたって,その実態を表1からみよう14)。まず洋風または石造家屋のなかで京橋区に建築された合計922棟は,銀座煉瓦街を示し,そして西洋造・石造の合計95棟のなかには築地居留地の多数の外国人住宅なども含まれることは明らかである。また日本橋中心の「一里四方」の4区に洋式建築の大部分が集中していたことも伺われる。さらに下級家屋について,当時,おもに都市下層民の住居と推定される柿(こけら)葺〔うすい板葺の屋根〕や杉皮葺などの家屋がとくに集中していた地域は,日本橋区の約1万棟を筆頭に神田・京橋・芝の各区がそれに続く。そして日本橋を軸とした市街地中心部の各区では,家屋の総棟数のなかに占める下級家屋の比率が5ないし6割に達していた。そうした割合は15区全体についても変らない。
表1 構造別による東京15区の家屋棟数(1879=明治12年)
 また京橋区を始め,日本橋・神田の各区では,洋式家屋や上・中級家屋とともに,多数の下級家屋が併存していたことも示されている。つまりそこでは表通りの洋式や石造の家屋・瓦葺・塗家・土蔵などに対して,裏通りに多くの下級家屋が存在し,それらが集中していたところでは,都市スラムさえ形成していたことを推測させる。
 図1は,若干時期がずれるが,そうした市街地の状況を物語っている15)。例えば築地居留地に接してその北部一帯の京橋区内にも,零細な下層民の集住が指摘されるが16),そうした都市下層民とかれらが形成するスラムは,明治前期の東京全体で,当時,よく知られた地区のみに限っても,少なくとも110か町以上数えられる。
図1 1891(明治24)年ころの東京都におけるスラムの位置
 さきの「人民家屋棟数」に占める下級家屋の比率(6割弱)と,「東京市部におけるスラム」の地域分布を重ねあわせるとき,京都区の一角に建設された築地居留地・銀座煉瓦街そして若干の官庁洋式建築群と,それらをかこむかたちで全東京にひろがっていた都市スラムとの対比が鮮明になろう。
 2 都市下層民と市区改正論
 廃藩置県以前の東京市街地の構成は,ほぼ朱引の範囲に限定すると,全面積の7割弱(1170万坪余り)を占める武家地と,あわせて2割強に過ぎない寺社地(266万坪)および町地(270万坪)から成り,それぞれ,およそ50万人強の武士・町人がそこに居住するという,いわば山手の武家地に相当する「過疎地帯」と,下町の町地を中心とした「過密地帯」の2類型の組み合せを,その特徴として指摘することができる17)。
 江戸時代を通じて農村構造の変質・崩壊を背景に,江戸(後には東京)へと流入する没落小農・貧農層の増加が零細な小商人・職人,また日雇・人夫・辻芸人などの都市雑業者をも生み出し,またそうした多数の下層民の店借層の登場が,市街地内部に都市スラムを形成した。
 後の明治期に知られる東京の三大「貧民窟」(鮫ケ橋・芝新網・下谷万年町)が原初的なすがたで登場するのも,17世紀末であったといわれる。
 幕末期にそうした都市スラムは増大する流入人口を加え,『藤岡屋日記18)』などによれば,日本橋・京橋地区を取りかこむかたちで,城東・城北一帯また城西・城南地区にわたって,広範囲にひろがり,江戸の打こわしに参加した窮迫貧困者の有力な拠点になった19)。
 これらの下層民の実数は,明治初期に7万人余りともいわれ,また10万人ないし30万人とも記録され,場合によっては市中人口の過半が,それに相当したとも推定される20)。
 さきにみた東京の「人民家屋棟数」に占める「下級家屋」(表1)の存在も,1891(明治24)年の「東京市部におけるスラム」(図1)も,その延長にあったことはいう迄もない。
 都市スラムで,木造バラックかまたはそれに等しい劣悪な(ときには老朽化した)「細民」長屋に過密な人口が集中する場合,まず問題になるのは火災と伝染病の発生であろう。かつて「江戸の花」といわれた火災は明治初年以後も頻発し21),また「三日ころり」とよばれて恐れられたコレラその他の伝染病の大流行も22),ともに当時の民衆を直撃した深刻な都市問題であった。
 1872(明治5)年2月の大火が銀座煉瓦街の建設の契機になった事情は前述したが,そこで当時の府知事由利公正が煉瓦街と道路計画によって,東京市街地の不燃化構想を主張したのがその最初であった23)。銀座煉瓦街の建設事業は中途で挫折・後退したとはいえ,本来は全東京の洋式不燃都市化計画を意図しており,その後もそうした考え方は,後にみるようにたちをかえて,当時の市区改正論に影響を与えた。
 最初に市区改正計画が日程にのぼった時期は,1876年(明治9)年の第6代府知事楠本正隆のときであったが,その後,1879(明治12)年,つぎの府知事に松田道之が内務官僚から転任するとそれが具体化した。それを促進した契機は,とくにその年から,毎年,連続して市内に発生した大火災であった。とくに1879(明治12)年と1881(同14)年の大火は「明治の二大火災」といわれ,日本橋・神田などで各回ともに,1万戸以上の家屋を焼失するという大被害を記録した(表2参照)24)。これらのなかには,延焼しやすい柿葺や杉皮葺などの「細民」の裏長屋が,多数,含まれていたことは間違いない。
表2 東京市の火災統計と罹災危険率(1884~1912年)
 そのころ東京府は,市街地の中心部で最下層民の一集団居住地区であり,焼失した神田橋本町その他合計約6700坪を買収して府有地とするなど,とりあえず,部分的に市街地の改造事業に着手したことがあったが25),本格的な市区改正は,同府知事による「東京中央市区劃定之問題」(1880年)の起草とほぼ同時に,市区改正委員局が府庁内に開設されたころからであった26)。この松田府知事の市街地改造構想の特徴は,財政規模から「貧富雑居シ家屋定度ナキ」「中央市区」(旧日本橋・京橋両区および神田区の東半分で「下級家屋」の最も多い地区)の範囲を制限画定し,その地域を対象に,道路・河川・海岸の整備や火災予防・市街地改造事業などを施行して,「貧富」二民を分離させ,スラム・クリアランスを推進することにより,この都心部の高層化とビジネス・センター化を実現するという計画であった。
 この考え方は,その後,1882(明治15)年に第8代府知事(内務官僚兼任)に就任した芳川顕正にも引きつがれたが,そのころ,経済評論家田口卯吉が東京改造論・市街地改造論・火災予防論また福沢諭吉が煉瓦街建設論などを主張し27),また海軍軍医総監高木兼寛や医師松山棟庵なども,伝染病予防の立場から「細民」の住居改良論を展開するなど,その他の新聞論調ともあわせて市区改正に多くの関心が集中した。
 とくに田口の政治的立場は,反政府の自由民権派の考え方に共通していたにもかかわらず,その発想は市区改正審査委員の渋沢栄一などを通じて東京府の改造構想にも影響を及ぼした。
 かれの「細民」住居論に関連する主張は,「火災予防法」(1881年2月),「東京家屋の有様を改良する難からず」(1885年1月)などに代表されるが28),その要点として市区縮小・道路拡幅,住居の煉瓦化と高層化が説かれていた。しかしそこでは高層化論といっても,一階を商店,二階をその家族の住居,三階を書生・小官吏の居住にあて,4・5階に下層民を住まわせるという発想で,それは職業差別をともなった都市スラムの立体化論であったといえよう。
 それに対して府当局関係者その他の見解には「市区縮小・貧富分離論29)」が一貫して支配していた。それは支配者が都心から貧民を追放し,かわってそこを占拠するという,根本的には都市問題を未解決にしたままでの市街地の「近代化」「西欧化」であり,政府の富国強兵政策に対応する都市計画であったと考えられる30)。
 しかもそうした市街地改造の方針は,その後の火災予防・道路制限・家屋規制の実施の方向で具体化されていった。

 注
 1) この時期における首都東京の性格とその特徴について,筆者はすでに「東京史研究の方法論序説」(国連大学1978年度研究報告)のなかで検討を加えた。
 2) 前掲研究報告,9-13ページ参照。
 3) 『築地居留地』(『都史紀要』4)東京都 90ページ以降,『東京市史稿』市街編,第50~52,なお『東京百年史』第2巻117-27ページも参照。また居留地設置をめぐる建築技術関係史料は『日本科学技術史大系』17・建築技術(第1法規出版株式会社)に
重要なものが収録されている。築地ホテルについては,とくに堀越三郎『明治初期の洋風建築』(南洋堂書店)のなかで,その構造・規模が復元された。
 4) 稲垣栄三『日本の近代建築』(丸善株式会社)41-45ページ,『清水建設百五十年』同編纂委員会編,32ページ以降,伊藤ていじ『日本の工匠』(鹿島研究所出版会)235ページ以降。なお清水は現在の清水建設株式会社の設立者である。
 5) 時期はずれるが,当時の築地居留地の鳥瞰図が『米国聖公会雑誌』(スピリット・オブ・ミッションズ)1894(明治27)年3月刊に掲載された。これは小木新造・前田愛編『明治大正図誌』1・東京(1)(筑摩書房)141ページに,「東京のなかの外国」として復刻されている。教会やベランダつきの建物もうかがわれて興味ふかい。
 6) 前掲国連大学研究報告 9-14ページ参照。なお銀座煉瓦街に関する基本史料は『東京市史稿』市街編第52-59,『銀座煉瓦街の建設』(都史紀要3・東京都)および前掲『日本科学技術史大系』17・建築技術281ページ以降に掲載されている。
 7) 『東京百年史』第2巻932-34ページ。
 8) 桐敷真次郎『明治の建築』(日本経済新聞社)70ページ。ここで著者は,銀座煉瓦街の建設を担当したイギリス技師ウォートルス(T. Waters)がロンドンの中心市街地リージェント・ストリートをモデルにしたことを指摘している。現在のリージェント街は建築家ナッシュ(J. Nash)の設計で,改造以前には,もともと街路にそった両側の建物の前面に長い列柱廊付きのバルコニー・アーケードが配置された様式であった。しかしこのため建物内部が暗いという理由で後にそれが撤去され,現状のように改められた。つまり銀座煉瓦街の原型は改造以前のリージェント街に求められよう。しかも銀座煉瓦街と類似の建物は,かつて香港・シンガポール・カルカッタなどの中心街にも登場したことがある。こうした事実とともに,集団的な欧米外国人居住区(例えば「居留地」)をもっていた都市として,上海・マカオ・ボンベイなどをさきに例示した(前掲国連大学・研究報告9ページ)。以上からそれらの諸都市は,かつてのイギリスの植民都市であった。そのことは,銀座煉瓦街・築地居留地などを含む明治初年以降の東京の性格も,当時,そうした東南アジア・インドでのイギリスの植民都市にきわめて近い「半植民地型」の都市であったことを証明している。
 9) 稲垣栄三前掲書 115-17ページ。日本建築学会編『近代日本建築学発達史』(丸善)981ページ以降。冷牟田純二・川上秀光「明治5年大火後の銀座煉瓦街の建設事業について」『日本建築学会論文報告集』54,1956年 662-63ページ。
 10) 『東京繁昌記』(前掲『築地居留地』所収)340ページ。
 11) 前掲国連大学研究報告 13ページ。
 12) 石塚裕道『日本資本主義成立史研究―明治国家と殖産興業政策―』(吉川弘文館)表6-2-6参照。
 13) 『木戸孝允文書』青木周蔵宛書翰(明治9年6月11日),第7巻13-14ページ。なお日本橋周辺の一里四方の地域とは,当時の麹町区東部(丸の内)・神田・日本橋・京橋の各区に相当する。
 14) 小木新造『東京庶民生活史研究』(日本放送出版協会)表2-1および同書63-90ページも参照。本表の基礎になった調査が実施された1879(明治12)年は,一応,銀座煉瓦街の工事が終了した時点ではあるが,築地居留地については建設の途中であっ
た。居留地の建物・施設が整備され,その居住外国人数がもっとも多くなる時期は1890(明治23)年ころである。
 15) 図1に登場するスラムについて,例えば京橋区西部の銀座裏,あるいは下谷区(後には浅草区)北部の龍泉寺町などの記載が欠けていることからみて,ここに図示されているスラムは代表的な地域に限定されていたはずで,これら以外にも市街地全域にわたって,スラムが団塊状あるいは帯状にひろがっていたと考えられる。
 16) 築地居留地に北接する京橋区の本港町・新湊町・元島町・長崎町・松屋町・岡崎町(呉文聡「東京府下貧民の状況」,西田長寿『明治前期の都市下層社会』25ページ参照)には,江戸時代から,当地の旧藩邸の下級武士などの日常の需要に応ずる零細な小商人あるいは河岸地の荷役労務を担当する日雇稼ぎなどが裏長屋に居住していた(玉井哲雄『江戸町人地に関する研究』近世風俗研究会,181,185ページ)。
 17) 前述の武家・寺社・町地の面積は1869(明治2)年の数字。『区制沿革』(『都史紀要』5,東京都)2ページによる。
 18) 石塚裕道『東京の社会経済史』紀伊国屋書店 22ページ。なお『藤岡屋日記』については吉原健一郎『江戸の情報屋―幕末庶民史の側面―』日本放送出版協会 に詳しい。
 19) 南和男『幕末江戸社会の研究』吉川弘文館 6ページ以降,松本四郎「幕末・維新期における都市の構造」(『三井文庫論叢』第4号)も参照。
 20) 中川清「戦前における都市下層の展開―東京市の場合―」(上)(『三田学会雑誌』71-3号)67ページで,戦前において「都市下層一割」という指摘があるが,これは極貧者に限定された比率であろう。いわゆる下層民の基準をかえれば,当時の都市社会全体が「下層社会的性格」をもっていたとも考えられる。
 21) 『東京市史稿』変災編第5,小木新造前掲書90ページ以降。
 22) 石塚裕道「東京市区改正事業史研究序説―上水道改良事業と市会・ブルジョアジーの動きをめぐって―」(東京都立大学都市研究委員会編『都市研究報告』55,1975年)25-27ページを当面参照されたい。
 23) 由利正通編『子爵由利公正伝』399-401ページ。煉瓦街の建築による都市不燃化構想は幕末期に一部の先駆者により説かれ,19世紀始めからの都市計画のひとつの潮流であった。
 24) 本表にみる通り,1884(明治17)年から1912(大正3)年までの28年間の火災件数はきわめて多く,とくに神田・浅草・日本橋・芝各区の危険率が高い点が注目される。
 25) 神田橋本町は当時の神田川右岸・柳原土手の南部に当る「貧民」の密集地(現在の「東神田」地区)。ここには江戸時代以来,寛永寺支配の「願人長屋」があり,「願人坊主」(「門付け」などをする乞食僧)が集住する町として知られていた。かれらは「一種異様ノ窮民」で,「紛襍賃居,固ヨリ常産アルコトナク,活業時季ニ従テ転移シ……皆身外一物ノ財産ト称スルニ足ルモノアルナシ,故ニ今般ノ如キ火災ニ遇フト雖モ,他ノ罹災窮民カ悲観ノ切ナル如キ感覚」がないという最下層民集団であった(『市区改正と品海築港計画』都市紀要25,東京都,13-14ページ)。この時の措置により,かれらはこの地区から放逐された。
 26) 石田頼房「東京中央市区劃定之問題」(『総合都市研究』東京都立大学,第7号,1980
年)参照。本稿のこの部分は石田論文によるところが多い。
 27) 田口・福沢の意見については,石塚裕道「19世紀後半における東京改造論と築港問題」(東京都立大学都市研究組織委員会編『都市の成立とその歴史的展開』(2)所収)38-42ページ参照。ただしかれらの東京改造・築港論の全容については,ここでは省略し,また公衆衛生論の立場からの主張については後に触れる。
 28) 『鼎軒田口卯吉全集』第5巻102,183ページ以降。
 29) 前掲石田頼房論文29ページ。
 30) なお『朝野新聞』(明治19年3月3日)には,「細民住所の制限」の記事があり,このころに,かれらを本所・深川・千住一帯に移住させたいと,第9代府知事渡辺洪基が上申したと伝えている。

Ⅱ 産業革命期の都市スラムと住宅問題

 産業革命―産業資本の確立過程における都市社会の特徴のひとつに,農村から都市への加速度的な人口流入とその集中があり,さらにそのことによる都市民衆(労働者階級とそれに転化する産業予備軍を含む)の生活困難の発生がある。
 いわゆる「都市問題」とよばれる一般民衆の生活困難は,端緒的には前近代社会にも存在したが,資本主義の形成・展開に対応する一方での資本の無計画な集中と,他方での労働力人口の無秩序な堆積が都市民衆の貧困化をいっそう促進する。
 都市問題は,資本制社会において都市化がもたらす社会矛盾の帰結であり,それは都市民衆を破壊する,ないしはそれに導く社会問題(例えばスラム)あるいは環境問題(具体的には火災・伝染病・公害など)として現われる。そしてとくに人口が過度に密集したせまい都市空間であるスラムで,そうした社会問題と環境問題が結合する。以上のほか都市問題の内容には,過密がもたらす住宅・土地・上下水道また犯罪・非行その他の諸問題が含まれる1)。
 その意味で,かつて「貧民窟」とよばれたスラムは,都市における集積の利益を相殺する過密の弊害の根源であったといえよう。
 都市スラムとはなにか。従来,その定義をめぐって,いくつかの見解があり,必ずしも,その内容は確定していない。しかし,そのおもな特徴をいえば,まず,それは低所得(ときには失業・無職)の下層民の高密度集団居住地区である。そこでは,せまい不良の木造平家連続住宅(とくに「裏長屋」)に下層民の単身者ないし単婚家族が密集するが,劣悪な居住条件のため悪疫・伝染病が発生し易く,また火災の場合には類焼の危険度が高かった。なおスラム居住者のなかには特別な隠語を使い特殊な生活様式をするものがあり2),さらにかれらは非スラム住民に対して,閉鎖的意識をもつ場合もある。
 しかし以上のいくつかの条件がそろわなくても,劣悪な木造住居の密集地区一般をスラムとよぶことがある。
表3 東京府の窮民調査(1891=明治24年)
 明治期のなかばまで,こうしたスラムを形成する東京での都市下層民の実態については調査を欠いているため明らかでないが,表3に示した「東京府の窮民」の集計は,そうした数値を物語るもっともはやい時期の統計であろう3)。この統計は各警察署の管轄区域ごとにまとめられた結果であり,「窮民」といっても,警察に確認された極貧者に限定され,その意味では下層民の一部に過ぎなかったと考えられる4)。
 さきの図1によると,1891(明治24)年ころの都市スラムの地域分布について,市街地中心部と近郊農村の接点いわゆる「新町」「場末町」の一部に,それらが集中している事実をみることは困難ではない。
 とくに下層民の住居は,江戸時代以来の旧五街道(東海道・甲州街道・中仙道・奥州街道・日光街道)の要所であった四宿(表3の品川・新宿・板橋・千住宿)も含めて,海岸や河岸などのように利用目的が明らかでない地域(例えば芝新網など),あるいは寺院の集中している郊外(例えば浅草の一部),交通の便がよくて生活上有利な場所(四谷鮫ケ橋など),またさきの条件とあわせて軍事施設の裏町や低湿地・避病院・墓地・火葬場のそばなど,一般民衆が敬遠する地区に集まる傾向があった5)。
 1881(明治14)年を起点とした松方財政による資本の原始的蓄積の強行とその完了のもとで,土地を喪失した小作貧農=半プロレタリア層の都市への流入を背景に,そうした人口の膨張も加えて,この時期に,江戸時代以来のスラムとそれを中心とした都市下層社会がいわゆる「貧民窟」としてすがたを現わし,それらは産業資本の確立に連動しつつ拡大する。
 こうした東京の下層民の実態については,当時の新聞・雑誌・著書などに関連記事が掲載されている6)。
 ここではそうした都市スラム関係史料に一部の「細民」調査の結果も加えて7),産業資本確立期における東京の下層民を中心に,その生活構造(家族構成・職業・収支など)と住居形態を検討しよう。
 従来の研究で8),いわゆる都市の下層民について,「貧民」(不熟練筋肉労働者)と「細民」(家族労働によりようやく家計を維持しうる下層生活者)および「窮民」(その他の雑業者)の3類型が確認されているが,これらの区分は職種による類型化であって,必ずしも所得(生活)水準のそれではない9)。
 まず明治期なかばの下層民の世帯規模と家族構成についていえば,2人から数人までにわたって世帯規模は分散していたうえ,主婦1組に同居の子供も加えた寄合世帯であり,長屋の1室に必ずしも1家族ではなく,相当数の家族が同居人と起居をともにしていた。また子供を含む欠損世帯や単身者も,それにまじって雑居していたようである10)。
 そうした都市スラム居住者の職業が,きわめて多彩な内容を示していたことは前述したが,またそれらは,労役の必要度によって「力役型」(人力車夫・日雇その他の「貧民」に相当する)と「雑業型」(職人・小商人・芸人・雑業者などの「細民」「窮民」に相当する)の職業に2区分することも可能であろう11)。そして妻の大部分は「内職」に従事していたのみならず,年少の子供も生計補助(単身者の場合には自己の生存)のために就業せざるをえず,なかには乞食や非行・犯罪者も含まれていた12)。
 そうした下層社会で居住者の代表的な職業のひとつとして,松原岩五郎『最暗黒の東京』,横山源之助『日本の下層社会など』挙げているのは,まず人力車夫である。単純で原初的な都市内交通機関として明治初年に発明・創製された人力車は,手工的技術をもたないスラム下層民の手ごろな職業であり,また後には上京の「書生」の学資の収入源にさえなった13)。その大部分は「借車引き」の営業形態で,東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加し,低い下層民の職業収入のなかでは,多少,所得水準が他の職種をこえていた点が注目される14)。
 ついで「裏店借」の一部を構成する階層に職人層があり,かれらは問屋資本―荷主仲買人の支配下にあった居職人と,労働用具を持参して屋外に作業場をもつ出職人とに区分される。東京の場合,前者では民衆の日常生活に必要な「雑貨手芸品」などの生産者が多く,親方―徒弟制が中心で,後者には大工・左官・石工などの建築関係者が多く(前述したように火災の続発がその理由である),棟梁―職人―徒弟制によって生産活動がおこなわれていた。資本制生産の発展に対応して,かれらが賃労働者化しつつあったことについては,すでに指摘された15)。
 そのほか前述したように,各種の「力役型」の日雇人足,多彩な職業内容の「大道芸人」なども「裏長屋」の住民であったが,当初,かれらとともに,職工がそのなかに含まれていたことは重要である。
 産業資本の確立期に発展する大規模な機械制工場(例えば東京砲兵工廠・芝浦製作所その他)や紡績工場(鐘紡・東京紡),あるいは印刷・マッチ工場などはスラム下層民の労働力の一部を利用するため,その近辺に立地条件を求め,また「細民」のなかからも,しだいに工場労働者に雇用される例が現われる。
 日露戦争直前に編集された.『職工事情』(農商務省,1903年)が示す当時の男子職工の平均賃金は,「力役型」下層民とほぼ同水準であったが,その後,重化学工業の発展による資本主義の独占段階への移行に対応して,工場労働者の平均生活費の収
支が上昇すると,明治末期には都市下層からのかれらの離脱がすすみ始める。表4は,その段階での都市スラムの分化の契機を内包する下層民の職種別葺金の実態を示している16)。
表4 明治の末期の本所・深川区におけるスラム居住者の平均収入
 以上みた都市「細民」の生活構造を前提に,つぎにその住居形態の分析に移ろう。
 もともと江戸の市街地では問屋商人が集中していた日本橋一帯を除き,各地区平均して借家の比率は高く5~7割前後を占め,その状態は明治初期以降も同様であったといわれる。しかも裏通りや横丁に入れば,下層民居住の「裏長屋」が市街地の中心部や場末の町を問わず,東京全域にひろがっていたことについては前述した通りである。
 江戸時代から,毎年連続発生する都市火災は,それに強風などの自然条件が加わった場合,1回で焼失家屋数が500戸,1000戸,そして時には1万戸を超える大規模な人災となった。それに対応する防災方法は広小路や火除地などを設ける伝統的対応策か,木造家屋の不燃化などであったが,後者については,すでに銀座煉瓦街の建設の失敗により,当面,それを市街全域にまで拡大しえず,一般民衆は火災に対して,無防備な状況に放置されたままであった。
 こうした状態のもとで,貸家を建てる家主は平均3~5年で家屋が焼失することを予測し,その期間に投下資本を家賃によって回収する必要があり,低コストで高家賃(しかし「裏長屋」では,それにも限界がある)の木造住居を建築しなければならなかった。
図2 裏長屋(普通長屋)の見取
つまり当時の木造バラックに等しい下層民の住居の家賃には,いわば「火災保険料」に相当する部分の負担が含まれていたことになる17)。しかも粗末な柿葺や杉皮葺の家屋はまた火災に弱いという,いわば悪循還が繰り返されてきたといえよう。
 いわゆる長屋は,せまい敷地に低廉な建築資で建設される木造連続住宅であり,それは都市における貸家(借家)の基本形態である。
 その原型は図2に示されるように,井戸と共同便所(これらの上・下水道の近接した関係がコレラなどの「水系伝染病」の原因となる)を中心に,下水溝の両側に配置された各棟を,それぞれ数室に区切った形式をとる。
 区画された各室内部の構造については,図3のなかの「普通長屋」が,もっとも標準の例であった18)。
 いわゆる「9尺2間」(3坪)の裏長屋1室が1戸(同居人も含む)の間取りという場合がもっとも多かったが,なかには最低(1室)2畳から(2室)10畳以上,さらに3室を賃借する借家人もなかったわけではない(表5参照)。なお明治末期における都市スラムの冢屋構造の実態を集計した同表によれば,総計に占める(1室)4.0~4.5畳の賃借人の割合は,金杉下町では8割弱,万年町では4割強となり,後者の場合では,1室でもより広い部屋また2室を借りる例が増加していた。また後者では柿葺より亜鉛葺の比率が高く,同じスラムでも,住居の改善が進んでいたことを示している。
表5 家屋の構造別による下層民の住居(1911=明治44年)
 また図3の長屋のなかでも,とくに「共同長屋」は,1887(明治20)年の「宿屋営業取締規則」(警察令第16号,旅人宿・下宿・木賃宿に対する取締り規則)により1部の地域に木賃宿の建築が制限された結果,登場した新たな長屋の1形式であった19)。
 これらの長屋には,それらの生活環境,構造様式,老朽化の程度,また所有者(家主)の名称などによって,多くのよび方があった20)。
 通例,長屋をめぐる貸借関係は地主(または家主)―家守(大家)―店子の諸階層にわけられ,ふつう「大家」といわれる長屋の管理人(明治初年に「地所差配人」と改称)が借家人の「店子」を管理した21)。
 江戸時代以釆大家の権限は広範囲にわたり,かれらは長屋の入口の借家1室(1戸)を無償で供与され,「生活共同体」としての長屋の中心的指導者の役割も兼ねて,借家人の私生活にまでたちいり,長屋全体を支配した。
図3 「細民」長屋の平面図
 家賃支払いの方法は,明治期なかばにおいて日払が普通であったが,明治末期にはそれが全体の2割程度にまで減少し,月払いが6割まで増加している。そうした背後には家賃の不払いや延滞をともないながら,「流民」型の借家人にかわって,一定期間,裏長屋に定住する下層民の割合がふえてきたと考えられる22)。
 そして長屋内部で共同利用の井戸まわりを中心に,主婦などの炊事・育児・洗濯などの日常生活行為が情報交換をまじえながらおこなわれる(「井戸端会議」)。こうした共同生活圏としての長屋「共同体」は,それらが複数またはそれ以上集まって,銭湯・髪結床などを核とする共通の「コミュニティ」(「町内完結社会23)」)を支える基盤をなしていた。戦前東京の町内会の性格が検討される場合,このような地主(家主)―家守―店子の階層関係をたて軸とする下町の「長屋」の組織が,衛生・自警・兵事・祭礼・慶弔などの町務の一部を担当・代行した点で,いわゆる山手地区の「町内会」と異質なものであったことは確認される必要がある24)。

 注
 1) 国連大学研究報告 15-19ページ,前掲石塚裕道『東京の社会経済史』127ページ以降参照。
 2) 特別な隠語として,例えば「どや」(宿),「とうしろう」(素人)などの逆語,あるいは「だち」(友達)のような略語がある。そのほか下層民に含まれる人力車夫が,おもに使う隠語の例は「人力車夫」一車夫記『女学雑誌』(明治30年2月)に詳しい。また乞食のそれについては石角春之助「乞食裏譚」(『近代民衆の記録』4・流民,林英夫編,新人物往来社)に浅草の場合が掲載されている。なお本文でいう「特殊な生活様式」とは,例えば,前出の「願人坊主」などの例を想起されたい。
 3) これよりさきに『統計集誌』第48号(明治17年5月調査)に「東京府下乞食原籍別」の統計(乞食の総数348人,ただし概数),また『東京府統計書』(明治19年)に「府下国費救護人員」(区郡部の男女合計464人)が掲載されている。これは区郡別の集計で,なかでも日本橋区(68人)・芝区(68人)・浅草区(65人)・京橋区(56人)などが上位にあった。
 4) 石塚裕道『東京の社会経済史』22ページの表1-1に幕末江戸の「極貧者」数(1866年)を示したが,それ以降,明治期の「窮民」の統計は本表が始めてである。
 5) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史』129-30ページ。
 6) 例えば「府下貧民の真況」(『朝野新聞』明治19年3月24日~4月8日,西田長寿『明治前期の都市下層社会』所収),「府下貧民の統計及事故」(『国民新聞』明治23年6月15日~6月20日),「窮民彙聞」(同新聞,明治23年6月15日~6月20日),呉文聡「東京府下貧民の状況」(『スタチスチック雑誌』明治24年,第57号,『日本労働運動史料』第1巻所収),松原岩五郎『最暗黒の東京』(明治26年),「東京の貧民」(『時事新報』明治29年),「東京府下の寒食者」(『統計集誌』216,明治30年),横山源之助『日本之下層社会』明治32年)など。なお中川清前掲論文(上)60-66ページで,戦前の東京の都市下層社会の調査史料について,4つの類型に区分して整理しているのは参考になる。すなわち(第1期)明治中期から後期にかけての「貧民窟」調査,(第2期)明治末期から1921(大正10)年ころまのでの「細民」調査,(第3期)昭和初年から1934(昭和9)年までの不良住宅地区調査,(第4期)1929(昭和4)年以降の要保護世帯調査など。さきの新聞・雑誌掲載史料は,いわば(第1期)のそれに相当する。
 7) その代表に『細民戸別調査』(内務省,明治44年7月と翌年7月~大正元年10月調査)とそれを分析した津田真澂『日本の都市下層社会』(ミネルヴァ書房)がある。
 8) 隅谷三喜男『日本賃労史論』(東京大学出版会)108-11ページ。
 9) 以上の3類型の区分にしたがって,それらの内容を「昨今の貧民窟」(1)(芝新網町の探査)(『報知新聞』明治30年),横山源之助『日本の下層社会』などにより,例示する。
貧民―人力車夫・車力・土方・井戸掘り・井戸屋つな引き・人夫など。
細民―各種の手工業職人・職工(日常の衣類などの裁縫製品,雑貨や玩物・化粧具類などの生産者が,当時東京ではとくに多かった)。
窮民―各種の(大道)芸人や雑業者・流民・乞食その他。とくに当時の「辻」芸人には,大道講釈・かっぽれ・ちょぼくれ・軽わざ・こままわし・人形つかい・門付け三味線・住吉踊り・巡礼・角兵衛獅子などがあり,現在,それらのほとんどは消滅した。それらの具体的内容については『権田保之助著作集』第2巻(文和書房)所収の「大道芸人」(ただし大正12年ごろの調査)に詳しい。また平出鏗二郎『東京風俗志』(1901年)にかれらの風俗が図示されている。
 10) 「裏長屋」では「其風紀の紊れしは1人の女房が3,4人宛亭主を有ち居るもあり」(「百間長屋」『東京名所図会』小石川之部,第45編,明治39年)といわれたように,男女の婚姻外性関係も多く,また私生児も少なくなかったようである。
 11) 前掲中川清論文(上)72ページ。
 12) 「東京の貧民」(『時事新報』明治29年)には「乞食小僧」の見だしで,その実態が掲載されている。
 13) 人力車については斉藤俊彦『人力車』(産業技術センター),とくに第6章人力車夫のくらし,参照。
 14) 前掲横山源之助著書 40ページ。
 15) 資本制社会における「徒弟制」の特質とその変化については,隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』(御茶の水書房)68ページ以下参照。
 16) 表4において,当時のスラム全住民の平均的収入の低水準は,かれらの平均年収と官吏平均年俸とを比較すれば明らかである。すなわち前者は後者の約5割弱から3割程度であった。
 17) 1913(大正2)年の本所横川町(当時の代表的スラムのひとつ)における貸屋経営の例によると,坪5円の建築費の貸家(4畳半1間とすれば12.5円)を,1日6銭の家賃で貸す。その年間の家賃は21.6円となる。ただし家賃の滞納・不納者が全体の5割近くに達すると指摘している(生江孝之「細民住宅問題について」『慈善』5-1号,大正2年7月所収)。
 18) 前掲『細民戸別調査』(明治45年)によれば,当時,「普通長屋の割合」が9割弱に対して,「棟割長屋」「共同長屋」の合計は1割強に過ぎなかった。
 19) 「普通長屋」,「共同長屋」の構造とその生活実態の一部を,以下,若干紹介する。
前者は「夏の熱さに天日の差込む屋根を覆ふに由なく冬の寒さに吹荒む風を凌く壁なくて身は積り積れる労苦の為めに重き枕に就き1滴の薬餌だに見る能はず妻は千断万張のらん縷を身に纒い数年の久しき夫の病に血の涙を絞りたり後とて1滴の乳さへ出ざれば……赤子は……泣悲しむ……」(「昨今の貧民窟」(1)「芝新網町の探査」『報知新聞』明治30年掲載),後者は「(下谷)竜泉寺の三木長屋(共同長屋)……不潔,不体裁は言ふまでもなく,東と西の室を挾んで6尺幅の通路がある……真昼間でも薄暗く通路で突き当っても相手の面がハッキリ分らないまで採光が鈍い……便所は共同で階下に一ヶ所ある。きたないのと醜いので顔向けが出来ない……四畳の一室に八九人住まってゐる」(草間八十雄『どん底街視察記録』大正5年調査,前掲の林英夫編『近代民衆の記録』4・流民463-64ページ)などが,そうした例である。
 20) そうした若干例を挙げて,以下,整理してみよう。
生活環境―あひる長屋(満潮時に床下浸水する海岸近くの長屋)・なめくじ長屋。
構造様式―三畳長屋・トンネル長屋・背割長屋(せまい1室を表裏に分割した長屋)・和親長屋(共同長屋の別称)・棟割長屋
老朽化の程度―がたくり長屋・地震長屋・お化け長屋
生活状態―重箱長屋(重箱の中味のように超過密居住の長屋)
所有者(家主)の名称―万金長屋
 21) 鈴木禄弥「借地・借家法前史」(1)(『法学』東北大学法学部,26-2号,1962年5月)参照。
 22) ここで「木賃宿」にもふれる必要があるが,当面省略する。前掲石塚裕道『東京の社会経済史』131,254ページを見られたい。
 23) 前掲小木新造著書575ページ。
 24) 当面,中村八朗「戦前の東京における町内会」(国連大学1978年度研究報告)参照。

Ⅲ 都市下層社会の変化と「細民」住居論

 1 独占移行期における都市スラムの変化
 明治初期以降,政府の富国強兵・殖産興業政策のもとで,首都東京における資本制工業の発展には官営事業や軍事施設を中心とする国家資本が重要な比重を占めた1)。しかも生産部門における国家資本は,産業資本の確立とその独占移行期の東京で,資本の集積に先導的役割を果した。1900年代初めの東京に登場した会社・銀行資本(その中心は一部の官業払下げで発展の基礎を固めた財閥資本)の過大な度合は,例えば大阪・京都などのそれを引きはなして,すでにこの時期でも全国経済支配のうえで圧倒的優位を示している2)。
 そして他方で,資本主義の形成に応じた全国都市の発展のなかでも,東京は,地方農村における小農民経営の変質・崩壊により流出した半プロ層(貧農・小作人)の主要な部分を都市スラムに沈澱させたのち,その一部を独占資本の労働力に転化させる3)。
 この段階での首都東京は,政治・経済・文化の諸機能が,そこにいっそう集中すると同時に,それは,あらゆる社会的諸矛盾が都市問題のかたちで激化し始めた巨大都市に転換しつつあった。
 「都市」の包括的な定義が困難なように4),「大都市」についても明確な規定はない。従来の研究成果によれば5),過大な人口集中と地方に対する政治・文化的優越性そして経済的支配が,その一般的特徴として指摘されている。しかし基本的に「大都市」の特質を規定する要件には,まず資本の集積とそれに対置する人口(労働力)の集中があり,そしてそれらを前提とした都市交通の発展,商品市場の形成,社会的分業の展開などが挙げられる。
 そして,こうした大都市化の進行は都市人口の激増と,都市への資本の集中集積とともに,市街地の広域化(都市スラムの移動・拡散)をもたらすことになる。
 日露戦争後における東京の下層社会の変化について,横山源之助は「貧街15年間の移動」(『太陽』明治45年2月)のなかで,スラムの地価と家賃の騰貴による「貧民部落」の変化,千住・日暮里・板橋・巣鴨・新宿など(当時の市外地域)での雑業者の増加を指摘している。また木賃宿の改策および共同長屋の新設と深川・本所方面における工場地帯の発展などにも触れている6)。
 さらにその後,第1次世界大戦期にかけて,例えば下谷区万年町の住居改修(それは家賃の上昇に連動する)と下層民の郊外移住による人口の減少に示されるように7),東京の各地域の都市スラムが変化し始めた。そこでは市街地中心部から,都市のスプロール化によって膨張しつつあった近郊へと下層居住民が流動していったことが伺われる8)。
 それに加えて,すでに横山源之助も指摘したように9),独占段階とくに世界大戦期の東京における機械制工場工業の発展は,隅田川改良工事の土砂で造成した芝浦沖に芝浦臨海工業地帯(後の京浜工業地帯の一部)を登場させたうえ,ついで本所・深川両区と南葛飾郡に江東工業地帯を形成しつつあった。
 そこでは集まった多数の工場労働者により,寄宿舎(紡績工場の女子労働者が中心)と,長屋・木賃宿に居住した男子通勤労働者などから成るかれらの密集居住地区が出現した。その実態は表6に示した通りである。
表6 東京における工場労働者の住居条件とその比率(1912=大正元年調査)
 ついでその時期の都市下層社会の変化は,前述したように,そこから労働者階級を分化・自立させるとともに,居住者の職種の交替を促がすことになる。
 この時期に都市スラムの職業構成におけるもっとも重要な変化は,下層民のおもな職業であった人力車夫が,市電の発達などによる交通網の整備によって,急減したうえ,廃業した車夫の一部が「力役型」の単純労働者や雑業者に転業していったことである10)。
 都市下層民のなかで主要な職業のひとつであった人力車夫の減少とかれらの転職の動きは,スラム内部に変動をもたらしたのみならず,単純な筋肉労働による職種,例えば,人足や土工・運搬夫とともに煙突そうじ・葬式人夫・牛乳配達・よなげやなどの新たな雑業者の比重を増した11)。
 このように独占段階における都市下層社会は一方で地域の移動をともないながら,他方で居住者の職業構成においても急速に変りつつあった。
 スラムの基本的な住居形態が劣悪な木造密集連続住宅としての「長屋」であり,それが火災に対して無防備な構造であった点については前述した。
 それに対して「防火線及屋上制限規則」(東京府布達甲第27号,1881年)あるいは「長屋構造制限ニ関スル件」(警視庁令第3号,1907年)などが布達され,長屋その他の建築物に対して防災のための法的規制が加えられた12)。その結果,例えば前者により,日本橋―新橋間の「路線」の両側について,3か年以内に長屋建築を煉化・石造・土蔵造に改造させると同時に,裏通りの「路次幅」を「6尺以上」に規定するなどの措置が定められた。また後者により,伝染病の流行に対処する公衆衛生対策の必要から13),「貧民長屋」に対する全面的な建築規制が始めて施行された。この庁令の規定のなかには,例えば長屋1棟の戸数を12戸以内に限定し,また室内の換気・排水・採光の条件や共同便所の改善を指示するなど,違反者に対する罰則規定を併記した,包括的な内容が含まれていた14)。
 すでに表5で見たように,例えば1911(明治44)年当時の下谷区万年町において,「亜鉛葺」屋根の下層民の住居が増加していたことを指摘したが,そこからも,法的規制のもとで,都市スラム(長屋)の居住条件の改良が進んでいたことの一端を推測し得るであろう。
 ところで,第一次世界大戦を契機に高度な独占段階に移行した資本主義は,事務処理能力や専門知識をもつ管理部門の中級労働者・技術者の雇用を必要としたが,それに応じて登場したのが,いわゆる「俸給生活者」である。そうした「新中間層」としてのサラリーマンは下級官吏・会社員・軍人・巡査・教員などであり,階層帰属意識において,かれらはスラム居住の下層民とは異なっていたとはいえ,その所得と生活水準においては,当時の史料が物語るように,両者の間に明確な区別を認めることは困難である15)。
 第1回の「国勢調査」の実施期(1920年)に,約20万人と推計される東京の「小額俸給生活者」のおもな部分は16),職住分離を前提に,近郊から市街地の中心部へむけて定期通勤を必要とした。表7は,そうしたサラリーランが,職業別にみて特定の地域に集住する傾向を示すとともに,かれらの住居条件が平均6~9割の高率で借家に依存していたことを証明している。
表7 近効町村の借家数・借家率と市内への通勤人口(1919・1920年)
 すでに東京では,産業資本の確立期から,そうした「小額俸給生活者」の需要に応ずる営利貸家業が本格化し始めていたが,この段階になると,一戸建貸家が急増しつつあった。
 当時それらの貸家は「武家屋敷方式」を引きついで,門・塀・前庭付きの「独立型」一戸建家屋であり17),そこでは裏長屋にみられたような大家―店子間の支配・従属関係は消失し,対等の賃貸契約が一般化していた。
 しかもそうした新たな様式の貸家の登場とともに,従来の普通「中流住宅」についても,独立の個室と西洋風応接間,中廊下付きの和洋折衷型住宅が出現し始めた(図4参照)。
表8 東京の住宅不足状況
 しかし,多数の裏店借の下層民とその生活水準にほぼ等しかった「新中間層」に加えて,なお東京に集中する流入人口の増加は,表8が示すように,慢性的な住宅不足状況と家賃の引きあげ(上昇)をめぐる大家―店子間の「住宅争議」(借家人運動)に象徴される住宅問題を新たな都市問題として誘発させることになる。
図4 明治後期の中流住宅「和洋折衷住宅」の正面図と階下平面図
 2 「細民」住居論と都市計画
 『細民調査統計表』(内務省,1912年)の基準によれば,「細民」とは都市スラム居住者で,所帯主の月収20円以下,家賃月額3円以下の家屋に居住する階層をさしている。かれらの大部分が,いわゆる「裏長屋」の下層民であったことについては,すでに確認した通りである。
 これらの下層民に加えて,前述した「小額俸給生活者」が「洋服細民」とよばれたように,その当時の家計内容が,いわゆる「エンゲル係数」で60%に近く,第1回の国勢調査施行期に約20万人と推定されるその数値をさきのスラム居住者に加えれば,膨大な人口が都市下層社会を形成していたことになる。
 そして東京の市街地の中心部分をも占める「下級家屋」の「裏長屋」に対して,例えば,1880年代に田口卯吉がその改善策を提案したことについて触れたが,さらに産業革命期以降も,建築学(市区改正・都市計画)の立場から,あるいは公衆衛生問題,また社会福祉問題の視角から,「細民」住居論が展開されている。
 以下,それらの代表的な見解を市街地改造(都市計画)論とも関連させながら,整理・要約しよう。
(ⅰ) 建築学会での議論。1919(大正8)年4月,都市計画法(法律第36号)と市街地建築物法(同第37号)が制定されたため,同年の建築学会(当時の会長は曽禰達蔵)の大会において,「都市と住宅」の統一課題で「講演会」が開催された18)。これ以前にも,建築学者により,市区改正論との関係で住居改造論が主張されたことがあったが19),さきの大会での論議は当時の住居論(とくに「細民」住居論)を代表していたと考えられる。
 すなわち建築学会において,貸家を中心とする住宅問題は国家・社会にとって重要な都市問題のひとつであるという認識を前提に20),各論者が,住宅政策について,多様な提案を試みている。例えば都市計画の立場から,家屋の構造・高さ制限を含む「建築条例」制定の必要が検討され21),また住居地域の設定と建築線および敷地配列の重要性も指摘されている22)。さらに当時,地価・建築資材・労賃などの騰貴により激化する住宅不足(その結果の家賃の上昇)の打開のため,公共団体の投資によって,下級労働者や「小額俸給生活者」を対象とした住宅の大量供給の必要が提起された23)。総じて深刻化しつつある住宅問題の解決をめざして,総合的また体系的な住宅政策の積極的な推進が多くの建築家から説かれている。大正デモクラシー期に爆発した米騒動に象徴される民衆運動の高揚を契機として,「都市民多数の者を幸福に導く24)」ため,都市民衆の住居と生活の安定の必要を, 建築家も認識せざるをえない状況がその背後にあったことが,ここに明らかである。
(ⅱ) 「細民」住居の公衆衛生問題。低コストで建築される密集木造連続住宅としての「裏長屋」にコレラ・赤痢・腸チフスなどの「水系伝染病」や結核が多発し,居住者である下層民にそれらの感染の被害が集中したことは,長屋の構造における上・下水道の近接した位置(図2参照)からも容易に理解されよう。また「東京府下肺結核死亡調査」(1905年)などの統計やその他の諸史料もその実情を記録している25)。この問題について,すでに1885(明治18)年,医師松山棟庵が市区改正のなかでも,築港事業より「下等社会」=「裏店」の衛生状態の改善の緊急性を訴え,また同じく公衆衛生論の立場から,コレラなどの悪疫の流行対策として上・下水道とくに下水道の改良の重要性を長谷川泰が力説した26)。そのほか長与専斎も公衆衛生学の観点から,和風家屋の洋式を改めるとともに,「中等以上ノ西洋風借家」の建築,火災保険制度の新設,建築条例の制定などを勧告している27)。その後,前述の建築学会の大会では,同じく公衆衛生学者遠山椿吉が家屋の日照と結核その他伝染病の感染・発生率との関係について,西欧都市との国際比較を試みながら,日本の場合の統計的検討をすすめている28)。ここでは伝染病と日照との相関関係というよりも,とくにスラム居住者の生活全体のなかの諸因子(例えば所得水準や住居の過密性その他)との直接因果関係を検討することが重要であったはずである。しかし1918(大正7)年当時,日本での全国肺結核死亡率が最高の数値(人口1万人当りで25人)を示した時点で29),そうした視角からの住居論の展開は貴重な発言であったといえよう30)。
(ⅲ) 社会福祉(「救貧」「慈善」)の立場から。すでに幕末維新期に堆積されていた膨大な都市(ここでは東京)の窮乏・貧困の下層民に対して,政府は,若干の「授産」規定を布達した後,1874(明治7)年12月,「恤救規則」(太政官達第162号)を制定していた31)。しかしこの規則の施行は「独身老幼廃疾疾病」などの「無告ノ窮民」に限定され,それも家族的(ないし村落共同体的)扶養という,「人民相互ノ情誼」に救貧事業を委ねたものであり,「救貧」は「政府の職務ではない32)」とする方針に裏づけららていた。その後も,例えば1890(明治23)年12月,第一帝国議会に提出の「窮民救助法案」制定の応酬をめぐって「貧なるものは殖産興業の手足」(白根専一内務次官の提案説明33)の発言にみるように,むしろ多数のスラムや下層民の存在は国家権力の富強政策を支える「工手」「道具」であると政府に認識されていた。
 こうした政府の「救貧」政策の本質は,基本的にはその後も変っていないが,とくに産業資本の確立期以降,増加する都市への流入人口と都市スラムの拡大,下層民の集積に対して,内務省や地方団体は,その実態把握と対応をよぎなくされ,「細民調査」その他の社会統計の編成に着手する34)。
 当時,東京のスラムが地域によっては縮小・後退ないし移動しつつあったことについては前述したが,このころ,下層民の生活難を,より深刻にした問題に家賃の上昇があった。産業革命をへて,高騰の一途をたどり始めた市街地の地価とその直接の影響をうける家賃の騰貴は,下層民の住居費の負担を,いっそう過重にしつつあった。
 1913(大正2)年刊行の『慈善』は,そうした地代・家賃の問題にするどい分析を加えている。それによれば35),当時,東京の借地慣行として,地主対家主間の「片務的約束」を前提に,地主による地代の一方的な引きあげが家賃の騰貴に連動し,借家人がその被害をうけると指摘し,この10年間に地代の上昇が10倍以上に及ぶとその不当を指摘している。また生江孝之は36),「細民住宅問題」を取りあげ,貸家経営の実態を分析する(同論文によれば,投下資本=建築費に対して,家主は年間4割前後の純利益を収めるとある)。ついでその改善策として,住宅の品質改良,一室入居者の人数制限,家賃の引き下げ,住宅の供給(公共団体・会社・企業による「貸長屋の建設」)を提案している。これらの主張は,さきの建築家や公衆衛生関係者のそれらと接点をもちながら,ようやく,この段階で「細民」住居論が本格的な論議の対象となってきたという意味で,注目される必要があろう。

 以上,(ⅰ)~(ⅲ)にわたって,さまざまな角度からの「細民」住居論とそれに関連する諸見解をまとめた。
 これらの諸提案の背景には異なった発想があり,また各論者の立場も同一でないが,すでにこの時期に,下層社会の住宅問題が都市問題の解決において回避しえない重要な課題のひとつになっていたことが理解されよう。
 日露戦争期から第一次世界大戦にかけて,そしてまたそれ以降の大正デモクラシー期に,すぐれたブルジョア都市論をかかげながら,都市政策者・都市経営家として,理論と実践に多くの業績をのこした関一(大阪市長)や田川大吉郎(東京市助役)などについて,現在,関心が集まりつつあるが37),そうした活動家は突出した存在ではなく,すでにみたような多様な立場の主張のなかで,労働者階級の労働条件改善や生活向上をはかるなど,都市問題に対する政策構想を形成していった「時代の子」であったといえよう。
 そして米騒動の全国的波及と,その半年余り後に公布された都市計画法と市街地建築物法が,都市法制において,一画期をなしたとはいえ,その体質において,それはかつての東京市区改正事業の性格を継承していた。つまり,ここでも労働者階級(当時の下層民)の住宅建設などは無視されたまま,道路整備などに重点がおかれていたことがそれを証明している。
 日本の都市計画法制は,すでに指摘された通り38),当時の先進資本主義国イギリスのように公衆衛生法→住居法→都市計画法の序列で,いわば,「下から」制定されていった場合とは異なり,まず都市計画(とくに東京市区改正条例)が日程にのぼり,住宅問題がそれに追従する過程をたどった。
 しかもそうして制定された都市計画法は,さきの関一らのブルジョア的都市論や都市政策と対立し,その展開を制約したのみならず,大正期に成立した都市計画体制も,1930年代以降のファシズム・軍国主義政策のもとに後退・歪曲されることになる。
 「居住空間の貧困が人間として生きる権利を奪っている」現在の「住宅貧乏文化39)」を生み出した社会経済条件は,たんた第2次世界大戦後の高度経済成長政策に止まらず,さらにさかのぼって,江戸時代から,そしてとくにこの一世紀間の都市住居構造や都市政策にもかかわる日本の住宅問題の特質に規定されているといえよう。

 注
 1) 大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上 東大出版会第6章,前掲石塚裕道『東京の社会経済史』第2章2,第4章1を参照。
 2) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史』150-52ページ。
 3) 前掲津田前提書 112-13ページ。
 4) 柴田徳衛『現代都市論』東大出版会 11ページ。
 5) W. A. ロブソン『世界の大都市』鑞山政道監訳 東京市政調査会6-7ページ,宮本憲一「都市における資本主義の発達」(岩波講座『現代都市政策』Ⅰ,1972年)65-7ページ。
 6) 横山は,そのなかで当時の東京のスラムの動きを叙述し,最後に本文で言及していない他の特徴を以下のように要約している。すなわち工業労働者需要の増加,地方浮浪人の激増(関西人の増加顕著),人力車夫の衰退(貧街職業に一変動を与へた),寄子専業組合(理髪・料理・菓子・そば職等)の解体,個人または団体の社会的設備など。
 7) 深海豊二「東京市内各区の細民窟調査」(『社会政策時報』第4号,大正9年12月1日)148ページ,井上貞蔵『六大都市の貧民窟』(大正11年)9ページなどを参照されたい。しかしこの事実は,全東京の下層民の総数が減少したことを示すものではない。例えば,当時の警視庁の調査によれば,貧民の数12万9400人と報道されている(「此窮民を奈何せんや」『東京日日新聞』大正7年2月23日)。その基準は不明であるが,「極貧者」とすれば,幕末・維新期のその合計7万4000人より,かなり増加していることになる。
 8) 当時「いろは長屋―惨話いろいろ―労働者の九分迄は米の騰貴に苦しむ」(『万朝報』大正7年8月8日)と,米騒動の時期の都市下層民の実態が記録されているのに対して,他方で「細民の家は明るい……子供に貯金もさせて道具類も整って居る……鮫ケ橋辺の気楽な生活」(『東京朝日新聞』大正7年8月23日)という史料がある。米騒動の発生当初での前述の新聞記事にどこまで一般性があるか,なお検討を要するが,その実質的変化を示す材料として,一応注目したい。
 9) 注6)と同じ。
 10) 前掲斉藤俊彦書,172,298-310ページ。東京都養育院編『養育院百年史』107-09 ページ。
 11) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史』248-49ページ。
 12) 明治初期以降,続発する都市火災に対して,東京府は,すでに「防火上家屋建築制限」(1870年),「本家作見合」(1872年),「類焼町々家屋制」(1873年)などを布達したが,「防火線及屋上制限規則」(1881年)は最初の体系的な法令として後の大正期の建築法制の基本に位置づけられる。その後,1894(明治27)年に,「東京市建築条例」の制定が検討されたことがあったが,実現しなかった(『建築雑誌』第8輯87号所収の「東京市建築条例の制定について」参照)。「長屋構造制限ニ関スル件」(1907年)は,「長屋」のみを対象とした最初の包括的な規定として重要である。なおこの法令は1913(大正2)年と1918(同7)年に改正され,とくに後者の改正は施行区域の範囲を東京市以外の郡部の町村にも適用されたことに注目したい。以後,建築法令は1919(大正8)年の「市街地建築物法」に至って,始めて地方団体レベルから国法レベルへと拡大される(石村善助「わが国における建築法制の歴史的展開」『都市研究報告』東京都立大学第79-82号,1976年12月)。
 13) 「貧民長屋建築取締規則」(『建築雑誌』第19輯228号,明治38年12月),「長屋建築取締規則」(同誌第21輯241号,明治40年1月)を参照されたい。
 14) 同庁令の第3条(合計13項)には,当時の長屋の実態が反映されているので,以下,引用しよう。①一棟ノ戸数ハ―二戸以内タルヘキコト,②幅九尺以上ノ通路ニ面セシムルコト,③屋後及側面ニハ幅三尺以上ノ空地ヲ存スルコト,④牀[ユカ]下ノ地盤ハ前面ノ通路面ヨリ高カラシムルコト,⑤敷地ノ土質不潔ナルトキハ更ニ盛土ヲ為スコト,⑥建物ノ土台下ニ支石ヲ布置スルコト,⑦牀下ノ周囲ニハ適当ナル換気設備ヲ為スコト,⑧住屋ノ牀ハ地盤上高サ一尺以上タラシムルコト,⑨牀板ハ容易ニ取外シ得ル様施行スルコト,⑩住家ノ天井ハ牀上高サ七尺以上タラシムルコト,⑪屋根ニハ軒樋及竪樋ヲ設クルコト,⑫一戸毎ニ出入口ノ外相当ノ換気及採光設備ヲ為スコト,⑬共同便所ヲ設クルトキハ前面ノ軒下以外ニ於テ少クモ六戸ニ一箇所ヲ設クルコト但シ共同便所ニハ尿池ヲ附設スルヲ要ス。
 15) 権田保之助「労働者及び小額俸給生活者の家計状態比較」(『家計調査と生活研究』
 生活古典叢書7,光生館,)において,1919(大正8)年当時,労働者家計は「小額俸給生活者」家計の8割程度と指摘している(同書128ページ参照)。またすでに『社会雑誌』第7号(明治30年11月)では「薄給吏員の員数」(月給12円以下の官公吏合計5900人余り)が計上され,その後,米騒動期にかけて,例えば「火の車の巡査―惨めさは細民以上―」(『国民新聞』大正7年8月18日),「腰弁の悲哀―転職・内職・堕胎・避妊―」(『大阪毎日新聞』大正7年8月21日)など,関係記事はきわめて多い。なお『日本労働年鑑』第1巻(大正9年)もみられたい。
 16) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史』258ページ。
 17) 旗手勲「日本資本主義の発足と不動産業」(『法経論集』愛知大学,経済経営編Ⅰ,第88号,1978年10月)143ページ以降。
 18) その内容は『建築雑誌』第33輯390号(大正8年12月)に特集されている。
 19) その一例に三橋四郎「建築家が見たる東京市区改正」(『建築雑誌』第22輯254号(明治41年2月)がある。本論文は市区改正事業について批判的な意見も含みながら,おもに住宅問題をとりあげて,広告の制限や共同便所の改良などの建築規制の必要性を強調し,また家屋の洋式準耐火構造化と高層化をも主張している。
 20) 岡田信一郎「都市における住宅問題」(『建築雑誌』第38輯380号,大正7年12月)11ページ。
 21) 田辺淳吉「住宅に対する我々の態度」(『建築雑誌』第33輯390号,大正8年12月)31ページ。
 22) 笠原敏郎「都市の住居地域」(『建築雑誌』同号)6ページ以降。
 23) 片岡安「細民住居に就て」(『建築雑誌』同号)34ページ以降,関一「都市住宅政策」(『建築雑誌』第33輯391号,大正8年7月)76ページ参照。
 24) 前掲片岡安論文,34ページ。
 25) 栗本庸勝「明治三十八年に於ける東京府下肺結核死亡調査」(『東京医事新誌』明治41年3・4月合併号,『日本科学技術史大系』24・医学1所収),その他,例えば『都新聞』(大正2年12月26日),『報知新聞』(大正2年1月30日)などの当時の新聞記事を参照されたい。
 26) 松山棟庵「衛生上東京市区改正ノ必要ヲ論ス」(『大日本私立衛生会雑誌』第29号,明治18年10月31日)29-30ページ,長谷川泰「東京市区改正委員諸君ニ望ム」 (『大日本私立衛生会雑誌』第65号,明治21年10月27日)730ページ。
 27) 長与専斎「借家ノ説」(『大日本私立衛生会雑誌』第35号,明治19年4月24日)31ページ。
 28) 遠山椿吉「家屋に対する衛生上の要求」(『建築雑誌』第33輯391号,大正8年7月)をみられたい。
 29) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史』表4-4参照。
 30) なお公衆衛生と市区改正の関連については,今井洋子「公衆衛生の観点からみた東京市区改正」(日本都市計画学会編『都市計画』別冊・昭和54年度学術研究発表会論文集,第14号,1979年11月)343ページ以降も参照。
 31) 小川政亮「恤救規則の成立」(福島正夫編『戸籍制度と〈家〉制度』東大出版会)参照。
 32) 前掲小川政亮論文315ページ。日本社会事業大学救貧制度研究会編『日本の救貧制度』勁草書房 61-3ページ。
 33) 『大日本帝国議会誌』第1巻 471,480,578ページ。
 34) 「スラムに関する文献目録」(『住宅』15-5号,1966年)など参照。
 35) そのひとつとして安達憲忠「先決問題ともいふべき地代と家賃との関係」(『慈善』5-1号,大正2年7月)の論稿がある。
 36) 生江孝之「細民住宅問題について」(『慈善』同号)30ページ以降。
 37) 芝村篤樹「関一の都市計画論の歴史的意義」(『歴史と神戸』1974年6月),同「関一における都市政策の歴史的意義」(大阪歴史学会編『近代大阪の歴史的展開』吉川弘文館),成田龍一「若き日の田川大吉郎」(『民衆史研究』15号,1977年5月),同「田川大吉郎の都市論」(『歴史評論』330,1977年10月)など。
 38) 前掲今井洋子論文,343ページ。なお,注23)掲載の関一論文に,はやくもそうした指摘がある。
 39) 早川和男『住宅貧乏物語』岩波書店 194ページ。