交通・運輸

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鉄道時代の道路輸送

著者名: 山本弘文
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次
1 工業化政策の修正と私設鉄道の認可・・・・・・・・・・2
2 日本鉄道の開通と物流の変化・・・・・・・・・・3
3 鉄道網の形成と道路輸送の変貌・・・・・・・・・・15
4 有力な鉄道貨物取扱業者の誕生・・・・・・・・・・20


1 工業化政策の修正と私設鉄道の認可

 維新政府の工業化政策は,当初,つよい官設官営主義によって彩られていた。幕府・諸藩から引継いだ鉱山・造船所などのほか,道路輸送や沿岸海運も,直営ないし直接的管掌のもとに置かれた。また電信や鉄道も,外国利権の排除と政権の確立に不可欠な施設として官設・官営とされた。新しい機械設備の導入と外国人技術者の指導によって補強されたこれらの官業群は,1870年に設置された工部省のもとに集約され,初期の工業化政策の担い手となったのであった。
 しかしこのような重事産業の直営ないし政府専掌政策は,廃藩後の経費の膨張と財政資金の涸渇,政府使節団の欧米回覧(1871年12月~1873年9月)にともなう新知見,市民の批判と抵抗などによって,程なく修正を余儀なくされた。とくに歳入額の一年分に近い戦費(4,200万円)を費した西南戦争(1877年1月~9月,最後にして最大の士族反乱)は,政府財政の困窮をさらに深め,直営企業に対する追加投資を困難にした。そのために1880年11月には,電信・鉄道・陸海軍工廠などを除く直営企業の払下げ方針(工場払下概則)が発表され,また鉄道についても従来の官設官営政策を修正して,私設鉄道の認可に踏み切ることになったのである。
 私設鉄道の認可申請は,東京・大阪周辺において,すでに1872年頃からあらわれていた。すなわち東京周辺では,横浜の政商高島嘉右衛門による東京-青森間の申請(1872年6月)をはじめとして,旧領主層出身の華族や華族組合の同様の出願が相継ぎ,また大阪周辺でも大阪-堺間の認可申請が,鴻池その他の豪商や高知県,堺県の有志から提出された(それぞれ1872年11月,74年11月,同12月)。しかし当初はいずれも政府のつよい官設官営方針によって却下され,実現のはこびにいたらなかったのであった。
 このような方針に変化があらわれはじめたのは,遣欧使節団の帰国後,内務省の開設(1874年1月)を経て,工業化政策の修正がはじまった75年頃からであった。すなわち同年1月には,さきに堺県有志から提出された大阪-堺間鉄道の敷設願書が認可され,また同年10月には,華族組合から提出された新橋-横浜間鉄道の払下げに対しても認可が与えられたのであった。これらの計画は,その後いずれも資金調達の失敗のため,実現をみることができなかった。しかしこれを契機に,従来民営鉄道の実現をはばんできた政策上の障害が取り除かれ,大きな展望が開かれることになったのである。
 このような状況のなかで,首尾よく敷設・開業に漕ぎつけたのは,華族組合によって1881年12月に設立された日本鉄道会社であった。同社の母体となった華族組合は,さきに秩禄処分(1877年1月)にともなう資金難のため,新橋-横浜間鉄道の払下げを辞退(1878年2月)するという失敗を経験していた。しかし交付された金禄公債を原資として第15国立銀行を設立し,また岩倉具視,松方正義などの政府高官の激励によってふたたび上野-青森間の鉄道建設を企画し,81年5月,池田章政(旧岡山藩主)ほか461名を発起人として,日本鉄道会社の創立を出願するにいたったのであった。
 この出願は東京府を経て同年8月認可され,同11月には,東京-青森間の敷設・営業の特許と付帯条項を定めた特許条約書が下付された。それによれば,鉄道用地は,官有地の場合無償貸与,民有地については「公用土地買上規則」によって買収のうえ払下げとされ(第2条,3条),いずれも国税を免除された(第4条)。また払込資本に対しては工事落成まで年8%の利子を交付し,開業後も純益年8%に達しない場合は,8%までの差額補助金を一定期間(東京-仙台間は10年間,仙台-青森間は15年間)交付することになっていた(第5条)。そして東京-前橋間の工事は,すべて工部省鉄道局によって施工されるものとされたのであった。このような保護と助成に対して同社は,構内電信・郵便局用土地・家屋の無償貸与,郵便信書および逓送員の無賃輸送,公務中の軍人・軍属・軍用品および警察官の運賃割引(5割引),事変・兵乱の際の政府の自由使用,50年後の政府買収の容認など,各種の義務を負った。しかしその内容が,全体としてきわめて恩恵的なものであったことはあきらかであった。いずれにしてもこうして,わが国最初の民間鉄道会社が発足することになったのである。

2 日本鉄道の開通と物流の変化

 建設工事は工部省鉄道局の手によって82年5月,川口-熊谷間で始まり,84年8月,第1区線の上野-前橋間が竣工した。ところで前記特許条約書によれば,鉄道局による工事の引請けは第1区線のみの予定であったが,会社側の準備不足のため,84年2月,第2区線(第1区線中間駅から白河まで)の工事が,ついで85年5月には上野-青森間全線の工事が鉄道局によって施工されることになった。以後同線の工事は,「公用土地買上規則」にもとづく用地の強制買収と工部省鉄道局の施工によって順調に進行し,87年7月大宮-白河間(第2区線),同12月白河-塩釜間(第3区線),90年11月塩釜-盛岡間(第4区線)と相ついで開通し,91年9月には,上野-青森間454マイル余の全通を見ることになったのである。
 他方列車の運行は,工事の進行にともなってすでに83年7月,上野-熊谷間で始まっていたが,同年8月には貨車の連結も始まった。しかし線路保全と列車の運転は,おなじく工部省鉄道局にすべて委託された。同社がこうした業務に習熟し,保全・運転・経営全般にわたって自主的な体制を確立したのは,上野-青森間全通後1年余を経た1893年4月のことであった。
 日本鉄道の開通は,沿線の貨客の動きや道路輸送に大きな影響を及ぼした。以下その模様を,福島地方を例にとって考察してみたいとおもう。福島県文化センター歴史資料館には,日本鉄道関係の用地買収や開通後の事情を伝える,豊富な資料が残されている。たとえば開通後の事情については,上野-塩釜間開通直後の88年1月7日付で,農商務省商務局長からはやくも影響調査の照会があり,これにもとづいて同1月12日,各郡役所宛の調査依頼が発せられた。その報告をまって福島県知事から発せられた回答(3月10日付)は,次のようなものであった。

 建第426号按
 東北鉄道線敷設前后ニ対シ物貨運賃及到達時限等ノ比例取調之義ニ付乙第5号御照会之趣了承,右ハ開始日尚ホ浅ク未タ充分ノ利用ヲ見ストイヘトモ,概略目今ノ景況后記之通ニ付,御承知有之度,此段及御回答候也
 知事
 農商務省商務局長殿

 鉄道開通以来,物貨運輸上景況ヲ通観スルニ,開始日尚浅ク未タ全般之レカ便益ヲ見サルモ,沿線近方及会津地方ニ著シキ利便ヲ与ヘタルハ到達時限ト運賃ナリ。今其速達ノ日数ヲ従前ニ比較スルニ,殆ト日数半ヲ早メ,随テ運賃壱割乃至三割強ヲ減シ,又従前東京ヨリ海上廻シ福島地方着荷ハ凡廿日乃至三十日ノ日子ヲ費セシカ,是亦鉄道ニ拠リ五日乃至十日間ニ到達シ,価格モ亦弐割強ノ低下ヲ見ルニ至レリ。即チ福島及若松ノ輸出入物貨ニ付,其比較左表ノ如シ。
東京福島間輸出入物貨運賃及致達時限比較
 東京若松間仝断
 又物貨集散上従前ニ比セハ,福島近方ノ輸入貨物中米及呉服太物ハ四割,塩ハ三割,石油・薪炭・唐物類ハ二割,魚類・酒ハ五割ヲ増セリ。其模様ヲ日用必需ノ品類ニ就キ云フトキハ概ネ左ノ如シ。
一 従来米ハ会津及相馬地方ヨリ,酒ハ米沢・会津ヨリ,魚塩ハ磐城・相馬ノ諸浜ヨリ福島近方ニ,又越後ヨリ会津地方ニ輸入シタル魚塩ハ今ヤ変シテ,米ハ仙台及野州ヨリ,酒ハ東京ヨリ,魚塩ハ総房及仙台ヨリ輸入スルモノ最多シ。故ニ従前ノ仕出元ニテハ価値甚タ下落シ,且幾分ノ販路ヲ縮メタリ。
一 管下石川及東白川郡ニ於テ常ニ価値ナキ薪炭・木材・木皮ハ,開通以前ニ比スレハ価格弐割以上ヲ騰貴シ,且輸出ヲ増シ,猶売主ハ甚タ気強ク,買主ニ於テ物品ノ精粗価格ノ昂低等ヲ彼是非難スルトキハ,之カ売却ヲ好マサル,景況ナリ。
 右ハ開通前后ノ景況概略前記ノ如シ。其他普通売買諸物品,従前海運ニ依頼シタルモノハ過半汽車ノ便ニ依リ別項ノ増加ヲ見タルモ,未タ支道積雪発馳セス。且各停車場ニ於テ大荷物取扱普ク開始前ナレハ,一般之レカ利用ヲ享受スル能ハサルノ現況ナルモ,漸次発馳陸路駄送ノ便ヲ得,荷物取扱普ク開始セハ,尚幾層ノ利便ヲ見ルニ到ルヘシ。

 以上の報告書は,開通後わずか1~2ヵ月の状況をとりまとめたものであり,その波及効果をすみずみまで捕捉し得たものということはできない。しかしその限りにおいても,その影響は,輸送時間の半減,運賃負担の低減,物流の変化など,かなり顕著なものであった。とくにここでは鉄道のメリットは,運賃の低減より輸送時間において顕著であり,また物流については米・塩など重量貨物のそれが,東西から南北の流れに大きく変ったことを知ることができる。いうまでもなく輸送時間の大幅な短縮は,値動きに敏感な高級貨物にとってきわめて重要な意味を持つものであった。その点生糸を主体とした福島地方の輸出貨物は,鉄道の恩恵を直接,もっとも大きく被ったものと考えることができるのである。軽くて運賃負担能力のある生糸にとってもっとも重要な点は,値動きに即応してすかさず輸出できることであった。駄送にくらべて割高な馬車路線を,横浜へ向けていちはやく開設したこの地方は(拙著『日本の工業化と輸送』参照),日本鉄道の開通によって新しい発展の手がかりを与えられたものと考えることができるのである。石川・東白川郡産の薪炭の値上りも,ひとつにはこうした製糸業の活況と燃料需要の増大を反映したものと考えることができよう。
 鉄道開通にともなって沿線にあらわれた第2の現象は,貨物取扱駅の増設と陸運物貨請負業および継立業の認可を求める願書のラッシュであった。すなわちまず前者についていえば,はやくも郡山-塩釜間開通当日の87年12月15日,二本松町の商人や輸送業者から,同駅における貨物取扱について日本鉄道会社へ願書が提出されたのをはじめ,翌88年1月には管轄の安達郡長からも同主旨の上申書が知事宛に提出された。そして2月には知事折田平内から同社社長奈良原繁宛に,次のような申し入れがおこなわれたのであった。

 拝啓陳者貴社鉄道当地方開通来,衆庶交通ノ便利ヲ得タル事今更喋々ヲ侯ズ候。然ルニ事ノ創始ニ係リ,百般ノ準備未タ全ク御整頓ナラサル為カ,又ハ貴社御所見ノアルアッテカ,管下福島・郡山・須賀川・白河ノ四駅ノ外各停車場ニ於テ普ク大貨物取扱又ハ間駅互送ハ当分御開不相成趣,右ハ早晩御開キノ事ト存候得共,管下二本松・本宮[もとみや]・桑折[こおり]・矢吹[やぶき]ノ如キハ人家稠密,商況梢奮ヒ,且其近在村落ヨリ輸出スル所ノ生産物及輸入スル所ノ需用品等ハ多分有之,二本松ニテハ小浜・針道・飯野・川俣等ノ諸部落ニ輸出入ノ物貨ヲ併セテ壱ケ年壱万駄,又本宮ハ会津・郡山ヨリ米ヲ持出シ,同地ニ於テ相庭ヲ立テ,福島及伊達郡地方ヘ運搬スル地ニシテ,一ケ年凡三,四万駄余,加之会津地方出入貨物ハ概ネ本宮ヲ通過スル等,又桑折ハ梁川・掛田・保原等ノ諸村アリテ生糸・桑苗其他雑貨,又仙台地方ヨリ仝地ニ入ル魚・塩・米ノ如キハ皆仝地ヲ経過シ運送スルノ地形ニ有之,然ルニ右四ケ所ニ大貨物ノ取扱御開キ無之為,従前ノ如ク駄送ニ係リ或ハ逆送スルモノアリ,依テ商業者ハ駄送ノ賃金ニ制セラレ折角開通ノ便ヲ普ク享受スル能サルノ感想ヲ懐クモノ不少趣相聞得,右ハ専ラ貴社御都合モ可有之候得共,将来地方生産業ノ消長ニ関係候条,速ニ御取扱相成候様イタシ度,希望ニ不堪候。右御依頼迄呈一書候。勿々不具
 折田 平内
 奈良原 繁殿
 以上の文書は,この地方が以前から豊富な輸送需要に恵まれ,各地に物流の中心地を成立させていたことを物語っている。上記の申し入れの主旨は,こうした在来の輸送需要や輸送市場を,鉄道駅を通じて全国市場に結びつけようとしたものと考えることができる。鉄道の開通は,こうした孤立分散的な地方市場を全国市場に結びつける,このうえない機会だったということができよう。
 他方こうした新しい展望のなかで,運送請負業や継立業の認可をもとめる出願も,相次いであらわれた。いまその一例を紹介すれば次の通りである。

 陸運物貨請負営業願
 私儀陸運物貨請負営業仕度候間御許可被成下度関係書類相添此段奉願候也
 福島県岩代国信夫郡松川村拾三番地
 明治廿年十二月十九日 桜内 協
 福島県信夫郡松川村外四ケ村戸長 中島鉄太郎
 福島県知事 折田 平内殿
(別紙1)
 家屋敷図面(略)
日本鉄道とその沿線
(別紙2)
 御届書
 陸運物貨請負之儀者内国一般ノ送達請負仕度候間此段御届申上候也
 福島県岩代国信夫郡松川村字本町十三番地
 明治廿年十二月十九日 桜内 協
 福島県知事 折田 平内殿
(別紙3)
 財産調
 福島県岩代国信夫郡
 松川村拾三番地住
 平民 桜内 協
 岩代国信夫郡松川村
一 田畑宅地反別三町八反九畝廿三歩
 地券面価格金壱千四百四拾八円拾銭二厘
 此売買価格金三千九百四拾九円拾九銭
 仝
一 山林反別四反六畝廿歩
 地券面価格金拾六円 仝
 此売買価格金四拾八円
 仝
一 建家九棟
 此売買価格金五百五拾円 仝
 合計金四千五百四拾七円拾九銭
 右私所有ニ相違無之候也
 明治廿年十二月十九日
 仝
 桜内協
 (別紙4)
 営業履歴書
一 元禄三年五月ヨリ引続明治二年八月迄松川村ニ二於テ諸侯(本陣)宿泊営業,明治二年九月ヨリ廃業
一 明治十年十一月ヨリ仝十八年七月迄通運会社営業,仝十八年八月ヨリ廿年三
 月迄陸運人馬継立営業,仝廿年四月ヨリ陸運物貨継立営業
一 明治十五年ヨリ仝廿年三月迄金貸会社営業
 右之通御座候也
 明治廿年十二月十九日
 右
 桜内 協

 以上の履歴書によれば,出願者は,元禄期以降明治初年まで,奥州街道松川宿の本陣を勤めた家筋に属し,その後も松川村において人馬継立業(運送請負業者や旅行者に対する人馬斡旋業)に従事した経歴の持主であった。したがって資産も多く金貸業にも一時手を染めたことがあったが,日本鉄道の開通と松川駅の開設にともない,いちはやく運送請負業(鉄道託送貨物をもふくめた貨物の発着取扱と運送請負)への進出をはかったものと考えることができよう。いうまでもなく鉄道はこれと平行する路線の人馬継立業を沿線から駆逐する反面,これと交叉する路線の人馬継立や鉄道貨物の発着取扱,集配,積卸しなどの新しい輸送需要を創出するからである。以上の出願は,こうした事情の変化にともなって,従来の継立業に加え,運送請負業への進出をはかったものということができる。このような継立業と請負業の兼営は,鉄道網の未形成な初期鉄道時代に固有な現象であった。事実この地方において前後して提出された願書は,第1表のように,大部分両業兼営を内容とするものであった。
 要するに日本鉄道のような,広大な地域に最初に敷設された鉄道は,駅近傍の集配需要や運送請負業のほか,僻地と鉄道駅との間の中・長距離道路輸送(継立業)をも,喚起することになったのである。現にこの時期には福島県や山形県下において,継立営業規則の制定や継立網の整備が一斉に進められた。
 たとえば福島県下では87年6月,伊達・信夫・安達三郡の陸運物貨継立営業規程の認可願が県に提出され,また88年3月には山形県からも同種の規程が福島県へ通達された。第2表は前者の継立業者とその継立地を整理したものであるが,それによれば継立地域は鉄道駅周辺にとどまらず,遠く宮城県(越河・渡瀬・湯ノ原・白石)・山形県(板谷・苅安)や,相馬郡(玉野・東玉野・佐須・二枚橋),田村郡(三春),安積郡(玉川)などに及んでいた。もちろんこうした中・長距離道路輸送は,鉄道網の形成にともなって,しだいに駅周辺の集配市場へ追い込まれる運命にあった。しかしこの時期にはまだ鉄道と共存し,それによってかえって助長される立場にあったとみることができるのである。なお前記三郡の継立営業規程によれば,継立方法は従来の「宿継ぎ」を原則とし,賃銭(配下の運送人または往還稼人に給付する駄賃)のほかその12%に当る手数料(人馬斡旋手数料)を請求するなど,ほぼ従前と同様であった。しかし荷主の求めや至急便の場合は,手数料の半額を間駅に支払って継通すことが認められ,また旧来の駄馬,駕籠のほか荷車,牛馬車も使用されるなど,いくつかの変化も現われていた。
 事実『日本帝国統計年鑑』によれば,福島県下の馬車台数は85年6月の375台から90年12月の2,736台へと急増した。日本鉄道の開通は,この地方の生糸を中心とした輸出関連商品(その他繭,蚕卵紙,桑苗など)の移出を容易にし,鉄道駅へ通じる道路上の物流を,つよく促進したものと考えることができるのである。
第1表
第2表
第3表 府県別馬車所有台数

3 鉄道網の形成と道路輸送の変貌

 日本鉄道の開業(1883年7月,上野-熊谷間)とその後の順調な発展は,私設鉄道に対する国民の関心をにわかに高め,1880年代後半から90年代前半にかけて,一種の鉄道熱時代を出現させた。新しい起業計画と認可申請のラッシュがはじまり,阪堺・伊予・両毛・水戸・甲武・大阪・関西・山陽・九州・北海道炭礦など各私設鉄道の認可と開業が相ついだ。また資金不足のため遅延していた両京連絡鉄道(官線)の工事も,中山鉄道公債資金の配付を受けて84年5月再開され,86年7月には路線を中山道から東海道に変更して,89年7月に竣工(新橋-神戸間全通)した。他方軍部のつよい要請によって,87年秋に急遽着工された横須賀線も89年6月竣工し,新橋-大船-横須賀間で一般運輸を開始したのであった。
 以上の結果わが国の鉄道延長は,1880年の157キロメートルから90年の2,727キロ,1900年の6,193キロとめざましく伸展し,1896年には門司-八代間,1901年には神戸-下関間など,列島縦貫幹線もほぼ完成した。また日本海岸と太平洋岸を結ぶ横断線もこの時期までに敦賀-名古屋間(1887年),敦賀-大阪間(1889年),直江津-上野間(1893年)が開通し,その他の一部開通線と相まって,しだいに縦横の鉄道網を形成することになったのである。
 このような鉄道路線の伸長と鉄道網の形成は,道路や橋梁の建設・改修にも大きな影響を及ぼした。いま『日本帝国統計年鑑』によってその推移を見れば第5表の通りであり,建設・改修費のなかに占める国道関係費の比率は,1885年以降着実に逓減し,1897年には全体の10%近くに落ち込むことになった(総額11,108千円のうち1,213千円)。このことはこの時期の工事の重点が,地方輸送に必要な地方道へ移ったことを意味するものであり,長距離道路輸送の回路としての国道は,鉄道路線の伸展のなかで,急速にウェイトを低下しつつあったものと考えることができるのである。
 このような鉄道時代の開幕は道路輸送に大きな影響を及ぼし,しだいにこれを自己の下部機構(各駅の集配部門)に編入することになった。もっともこのような道路輸送の再編成は,地域によってかなりの時間的隔差をともなった。そして一方では上述の日本鉄道の場合のように,最初の鉄道の開通によってかえって中長距離道路輸送を刺戟された地域と,鉄道網の形成によって集配部門に追い込まれ始めた地域とが併存し,複雑にからみ合いながら,全体として集配部門への傾斜を確実に深めていくことになったのである。
 このような鉄道を中心とする陸運体系の形成は,各駅において鉄道貨物の集配・発着取扱に従事する業者の激増をもたらした。いうまでもなく道路輸送業者がみずから隔地間の長距離輸送を担当した時期には,これにふさわしい資力や輸送組織が必要であった。たとえば1870~80年代をつうじて,全国的な道路輸送の中心となった内国通運会社は,政府の手厚い保護のもとで,各地に直営出張店や派出所のほか分社・取次所・継立所を設け,定期的な定便荷物の差立てや,受渡・継立・配達に従事した。このような輸送組織は当然相応の資力信用を要求し,全国的な運送請負業者の数を限定することになった。また政府もこうした事情にかんがみ,内国通運会社のような有力会社に対して積極的な保護・助成を加え,輸送網の整備に努力させたのであった。陸運元会社(内国通運会社の前身)に対して,内陸運送請負業の独占権を付与した1873年6月の太政官布告第230号は,その代表的なものであった。
第4表 鉄道営業線延長
しかし鉄道の発展は,長距離道路輸送に対するこうした保護政策の意味を急速に失わせたばかりでなく,その業務を各駅の集配・発着取扱に封じ込めることによって,小業者続出の道を開いた。事実政府は79年5月の布告第16号によって,さきの布告第230号を廃止し,運送請負業の自由化への道を開くとともに,1891年には,従来慣行的に内国通運会社に委託してきた官営郵便の請負業務を一般入札に切換えることによって,新業者進出の道を開いたのであった。
第5表 道路・橋梁費と負担区分
第6表 東京市内の陸運会社(1889年5月)
第7表 神奈川県下の陸運会社と店舗(1890年頃)
 1889年8月21日付の『中外物価新報』は,当時の事情について次のように報じてい。
 運送業の競争
 鉄路の延長,航路の拡張共に我邦運輸の事業を発達せしむる本にして運送会社は頻々勃興するに至りたるが,就中内国通運会社,日本運輸会社,日本郵伝会社,中牛馬会社等は,益々其事業を拡張するに汲々たるものの如く,其他の小会社及び組合等に至るまでを算すれば実に多数のものなるべし。然るに近来其事業に就ては益々注目するもの多く,現に内外逓運会社は百万円の資本を以て組織し,事務の整頓は已に近きにありと。其他尚是と同様の計画をなすものありて従来の駅伝組といへる一社を引継ぎ更に資本を増額して百万円となし,以て通運会社等と相頡頑するの計策ありて,逓信省の非職書記官某氏を雇聘するの契約既に成れりといふが,斯く同業者の増加するは貨主にとりて此上なき便利なるべけれど,同業者の間に生ずる競争も亦想ふべきことなりとて,人の疝気を頭痛に病む連中もありとか,兎角競争の世の中と云ふべし。

4 有力な鉄道貨物取扱業者の誕生

 以上のような輸送事情の変化と輸送政策の転換のなかで,もっとも大きな打撃を受けたのは,従来長距離道路輸送の分野で政府の手厚い保護を受け,圧倒的なシェアを誇って来た内国通運会社であった。いうまでもなく鉄道の伸展は,同社の蓄積基盤としての長距離道路輸送を急速に掘り崩し,これに対する政府の保護政策を消滅させたばかりでなく,鉄道貨物の集配・取扱業務において同社と競合し得る大小の同業者を続出させたからであった。とりわけ帝国議会の開設にともなって1891年度にはじまった官営郵便下請業務の一般入札は,従来慣行的に受託してきた同社に大きな衝撃を与えた。永年の間政府の保護に馴染んできた同社は,初年度の入札に敗れ,創立以来の危機に直面した。しかもこのような窮状のなかで同年には,前年秋から引続いた一部株主との紛争や,同年春福島支店で起った生糸荷預り事件などの難問が加わった。前者の紛争は同社の経理をめぐって前年9月頃発生し,同年に入って帳簿閲覧を求める裁判沙汰に発展した。また生糸荷預り事件は,同社福島支店員が取引先の懇請によって金融のための空券(荷預り証)を発行し,被害者の梁川第百一銀行と山形第八十一銀行から約9万円の賠償を迫られたのであった。そのうえ希望を託した92年度の郵便業務の落札も,ふたたび競争者の日本運輸会社に奪われ,4月6日にはついに,株主総会を目前にひかえて社長の自殺を招くことになった。まさにそれは,新しい鉄道時代の到来と,道路輸送における初期独占の崩壊の象徴的なできごとであった。
 このような危機は,同社に対して組織と業務内容の抜本的な改革を迫った。同社の再建は92年4月の臨時総会を機に,まず不良資産の切捨てと減資を手はじめとして本格的にはじまったが,他方これと平行して営業内容にも全面的な再検討が加えられ,93年5月には,従来の営業規則(事業区分条例)を廃止して各道の継立所を整理し,従来の提携業者のうち資力・信用のあるもののみをあらたに代理店・取引店および取次所として,長距離道路輸送から鉄道貨物の取扱業務へ思い切った転換をおこなった。そしてこのような基礎の上に立って同年6月には,商法の一部(会社・手形・小切手・破産編)施行(7月1日)を前にして臨時総会を開催し,社名変更(会社編にもとづいて株式会社の商号を加え,内国通運株式会社と改称)と営業種目の変更をはじめとする定款の改正や,前年来の整理・再建の経過を審議・承認したのであった。こうして同社は,鉄道時代の到来に対応する新しい態勢をほぼ整えることができたのである。
 鉄道貨物取扱業務への同社の本格的な進出は,新橋-神戸間,上野-青森間などの主要官私線の列車に対する同社専用貨車の連結をもって始つた。すなわち92年10月には鉄道庁と特約して新橋-神戸間および米原-金ヶ崎(敦賀)間の列車にはじめて専用貨車を連結したのに続いて,97年12月には日本鉄道会社とも同様の特約を結んで,専用貨車約20輛を上野-青森間の列車に連結した。こうして同社は,青森-神戸間の鉄道貨物の取扱業務において,有力な足場を築くことができたのである。
 専用貨車の連結に続いて実施されたのは,鉄道作業局によって98年8月1日に開設された貨物速達便の,一手受付および集配であった。速達便ははじめ東海道線の新橋・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6駅に限って開設され,同社との特約も配達だけであったが,その後開設駅は急速に拡大され,同社との特約も集荷・受付をふくむ全面的なものとなった。すなわち9月1日には東海道線の品川・国府津・沼津・静岡・浜松・豊橋・岐阜・大垣・米原・草津・大津・三ノ宮の各駅が,また11月1日には信越線の上野・飯塚(高崎)・軽井沢・小諸・大屋・上田・屋代・長野・豊野・高田・直江津の各駅が加えられ,さらに99年1月1日には北陸線主要駅にも及ぼされた。また98年9月1日からは,前述のように集荷・受付をふくむ全面的な一手請負となったのである。
 他方,手小荷物取扱の分野にも積極的に進出し,1900年10月には日本鉄道会社と特約して沿線各駅の小荷物配達を一手に請負い,また1904年12月には鉄道庁と特約して翌年1月から全線各駅の手小荷物の配達を一手に請負うことになった。その他99年5月には官線・日本鉄道および海陸運送舎と提携して,北海道-大阪間の海陸縦貫輸送に進出し,また1903年8月には大阪商船との間に台湾向け速達小荷物の,翌年3月には速達貨物の取扱契約を結び,1905年には京釜鉄道と提携して日鮮間の貨物連絡輸送にも進出した。一方東京市内では1902年4月から市内および地方との間の小荷物の集配を開始し,定時に集配人が巡回して一律5銭の手数料で集配をおこなった。その結果地方向け鉄道小荷物の受付量も飛躍的に増加し,同年8月新橋・上野両駅に同社が納めた鉄道運賃は,従来の5倍以上にのぼった。
 このような鉄道貨物取扱業務への積極的な進出によって,同社は1900年代における屈指の鉄道貨物取扱業者となった。時あたかも1906年5月,名古屋において鉄道延長5,000マイルを記念する祝賀会が開催され,官私鉄道に対する運賃多額納入者が招待されたが,その際同社は東海・北陸・中央西線の線区内の過去1年間の実績で第1位を占め,次位の日本逓業株式会社および3位の明治運送合資会社とともに表彰されたのであった。その際発表された過去1年間における3社の運賃納入額は次の通りであった。
 内国通運株式会社 1,604(千円)
 日本逓業株式会社 1,401
 明治運送合資会社 1,236
 他方1890年代から1900年代には,内国通運株式会社と並んで,わが国道路輸送業界の中心となった有力会社が,相ついで設立された。天龍運輸株式会社(1892年5月設立,資本金5万円),京三運輸株式会社(1897年11月設立,資本金10万円),日本逓業株式会社(1899年8月設立,資本金10万円),明治運送株式会社(1907年11月設立,資本金10万円)などがそれである。
 天龍運輸会社は1892年5月,資本金5万円をもって,静岡県長上郡和田村(現浜松市和田町)に設立された。創立者金原明善はこの地方の旧家の出であったが,はやくから公共の福祉に強い関心を寄せ,とくに天龍川の治水・治山に大きな業績を残した人であった。陸運業への進出も,流域の植林と木材の円滑な出貨が主な動機であった。1889年4月,東海道線が浜松まで開通し,貨物の輸送を開始した。よって彼は同郷の有志と相談して木材輸送のための陸運会社の設立を企て,天龍川岸の前記和田村に,天龍運輸会社を設立することになったのである。同社は開業に先立って,天龍川西岸の和田村半場に舟筏を繋留するドックと荷揚場を,橋場の仮停車場前に貨物積卸場を設け,その間に約1マイルの軌道を敷設した。その結果天龍川を流下する貨物は,半場で陸揚げされてトロリーに積込まれ,橋場の仮停車場に運ばれて貨車積みの後,鉄道によって各地に運ばれることになった。一方東京には新橋停車場前に東京支店が開設され,本社との連絡輸送に当ることになったのである。
 しかし開業当時の情況はかなり困難であった。運送品がほとんど木材に限られていたうえ,その扱量も年間8,OOOトン前後に過ぎず,またそれまで天龍川沿岸の貨物を独占してきた海運業者たちが,激しい競争を開始したがらであった。よって同社も鉄道当局に陳情して木材運賃の特別割引を受けるなどの対策を講じたが,当初は無配を重ねることが多く,第20期(1902年4~9月)にいたって,当時天龍川上流に進出した王子製紙・古河鉱業の貨物の確保によって,ようやく安定した基礎を確立することができたのであった。以後社業は順調に発展し,1904年11月にはあらたに隅田川駅に支店を設け,また1908年1月には秋葉原駅にも荷扱所を設けて,木材のみならず米穀・肥料・石炭・薪炭・砂糖・綿布などの発着取扱にも進出した。他方天龍川岸の施設もしだいに充実し,1908年8月には従来の30ポンド軌条を,本線と同じ60ポンド軌条に改修して半場河岸まで機関車を引入れ,1909年3月にはドックを拡張し,1913年3月には国吉までの線路を改修した。一方荷扱量の増加にともない1914年2月には芝区日蔭町に東京本部を設け,3月には横浜支店を,11月には両国・飯田町支店を設けるなど,京浜方面の営業網を充実した。その結果1914年7月現在の取引店数は500店を越え,年間70万トンの扱量と50万円の資本金を擁する,業界屈指の有力会社となった。しかしその後内国通運系および日本・明治系の系統会社間の競争激化にともない,1916年11月,以前から密接な関係にあった日本逓業株式会社に京浜地区の店舗を売却し,その友好会社としておもに東海・木曽地方において営業を続けることになった。以後同社は遠州電気鉄道・上松運輸・天龍トラックなど地方運輸会社への投資事業に進出したが,1945年7月日本通運株式会社との合併覚書に調印し,8月1日から日本通運天龍川支店として再発足することになったのである(天龍運輸株式会社『創立20周年記念誌』および『日本通運株式会社天龍川支店沿革小史』による)。
 一方日本逓業株式会社は,1899年8月,大阪市北区曽根崎2808番地に設立された。登記公告によれば,資本金10万円,1株50円で,うち半額払込済であった。取締役には東京市下谷区入谷町,岡崎惟素以下7名が,監査役には大阪市北区曽根崎,寺居寅二郎ほか2名が選任され,取締役のうち神戸市山本通,山口武が社長に選ばれた。営業目的は「日本帝国内ニ於ケル鉄道貨物運送取扱ニ係ル貸金其他運送一切ノ業務」とされ,設立と同時に東京市芝区芝口2丁目12番地に支店が設けられた。営業成績は当初からかなり好調で,払込済5万円に対して毎期5,OOO円前後の純益をあげ,配当率も1~2期の6%(年率)から3~4期の7%,5期以降8%と順調に向上した。以後1907年5月には50万円に増資され,1910年には30万円に減資されるなど曲折もあったが,1915年前後からめざましい発展を遂げ,16年11月には天龍運輸会社の京浜地方所在店舗および山口合名会社の大阪所在店舗を吸収して100万円に増資し,社名を日本運送株式会社と改称した。こうして同社は次にふれる明治運送株式会社とともに内国通運株式会社に比肩する有力会社となっためである。なお同社は1923年6月,東亜運送株式会社を合併して1,O00万円に増資し,社名を国際運送株式会社と改称した(『社史・日本通運株式会社』による)。
 次に明治運送株式会社は,1907年3月,東京市芝口1丁目8番地に設立された。登記公告によれば創立時の資本金は10万円,1株50円で,うち4分の1払込済であった。取締役には芝区芝口,山本吉五郎以下5名が,監査役には静岡県浜名郡浜松町口囲逸郎以下3名が選任されたが,うち4名(山口武,小野泰司,口田逸郎,牧季吉)は前記日本逓業株式会社の役員を兼ね,また1名(竹内徳平)は天龍運輸株式会社の取締役兼支配人であった。こうした点からいって同社は,前記2社と,当初から密接な関係にあったものということができる。営業成績は当初かなり乱調であったが,1910年頃からしだいに安定し,1914年の第1次大戦勃発以後は,毎期20~40%(年率)の配当をおこなうほどの好成績をあげた。その結果資本額も急速に増大し,1916年8月には30万円,19年2月には100万円,23年12月には300万円と高成長を遂げ,前記天龍運輸・日本逓業両社とともに,内国通運会社に対抗して業界を二分する有力会社となったのである(『社史・日本通運株式会社』による)。
 ところで以上のような有力会社の誕生は,荷為替取組に必要な貨物引換証の発行や運賃計算業務の増大など,鉄道貨物取扱業務の発展にもとづいていた。周知のように運輸業において旅客や貨物が複数の業者の手を経て目的地に送られるようになると,その運賃や手数料が元払いであると先払いであるとにかかわりなく,一定の貸借関係が業者間に発生することになる。このような貸借の決済は,大部分の輸送が封鎖的な地域内に限られ,また隔地間の輸送も特定の業者によっておこなわれた時代には,それほどの困難をともなわなかった。しかし維新以後国内市場が開け,頻繁で入り組んだ輸送がおこなわれるようになると,しだいに複雑さを増して行くことになった。とくに鉄道の発展は貨物取扱業者の取引範囲を一挙に拡大し,貸借関係の決済をますます煩雑化することになったのである。
 ところで内国通運会社の場合このような貸借の決済は,すでに1876年8月制定の「事業区分条例」において,一定の成規をみていた。それによれば本社と分社(代理店)間の貸借の決済は,本・分社の担当する路線を区分したうえ,たがいに交換する物貨の運賃を里程に応じて分配し,月末ごとに清算・送金することになっていた。この規定はこの種の計算制度(交互計算)のなかでもっとも古いもののひとつであったが,鉄道貨物の取扱がまだ取るに足らない時期であったことを思えば,迅速・確実な計算制度の必要性は,その後ますます高まったものと考えることができよう。事実浜松地方では,1889年の東海道線の全通にともなって1892年1月頃から内国通運会社の取引店(浜松・豊橋・岡崎)によって定期的な巡回方式による計算制度が立案され,実行に移された。92年4月29日発行の雑誌『通運』第1号によれば「東海道における巡回計算は実施後3回の成績に徴するに,自他の便多大にして,良結果を奏」したといわれている。この巡回計算はその後99年から通運本社の直営に移され,程なく官私鉄道の全線各駅に及ぼされた。『内国通運株式会社発達史』によれば,当時の巡回計算は「各加盟店をして,一定の時日内に,他の加盟店に対する請求書を本社に提出せしめ,本社は其請求書に依り,各加盟店相互間の貸借を相殺整理し,一定の期間内に決算書を作成し,毎月1回巡回計算員を各加盟店に派遣し,決算書に基き,債権の取立及債務の弁債に従事せしめ」たものであった。その際計算員の旅費その他の経費を賄うために,各加盟店を10等級に分け,1ヶ月30銭以上12円以下の計算費を徴収した。このような方式は1903年秋まで続けられたが,加入者の増加にともない,同年11月には通信方式による交互計算に切換えられることになったのである。
 新しい通信方式の交互計算は,計算員の巡回を廃止して月1回の清算を2回に改め,債権店へは清算後一定期間内に送金し,債務店へは債務額を通知して本社へ納入せしめるものであった。計算費は前年度の請求額にもとづいて12等級に分け,1ヶ月25銭(請求額500円未満)から12円50銭(同5万円以上)までとされた。また同社はその後,同社直轄店および取引店と他の一般業者との間に生じた貸借を清算するため,1913年4月委託取立計算制度を開設し,広く業者間の計算業務に関与することになったのである。1912年から17年までの同社の計算実績は第8表のとおりである。
 他方貨物引換証の発行と整理業務も,隔地間取引の発展と荷為替取組の増大にともなってしだいにさかんとなった。もともと内国通運会社は,前身の陸運元会社時代から証書引換渡の制度を設け(1873年10月,陸運元会社諸物貨取扱規則),また88年7月には第1国立銀行と特約して東京・横浜・仙台・福島などの営業所で荷為替証明を発行し,商取引の便宜をはかったのであったが,99年6月改正商法の施行によって貨物引換証があらたに物権証券としての性格を付与されるようになると,その取扱業務をさらに整備・充実する必要に迫られた。
第8表 交互計算高および委託取立計算高
第9表 貨物引換証整理実績
すなわち引換証は,この時から法律上運送品と同一の効力を持つものとされ,荷為替取組に当って銀行の設定する質権の対象として十分な法的能力を具えるとともに,その裏書または交付によって自由に流通し得るものとなったからであった。こののような事情にかんがみ,同社は1900年8月,貨物引換証整理手続を制定し,同社直轄店発行の引換証について,発行と整理に特別の注意を払うことになった。すなわち各直轄店が引換証を発行した場合には,一定期間内に本社に報告させ,また回収した場合には直ちに証券面へ回収月日を記入して本社へ送付させ,整理・保管をおこなった。また1907年9月には,従来の整理手続を廃止してあらたに貨物引換証整理規定を設け,一般取引店の分についても希望に応じて,直轄店と同様の方法で整理・保管することになったのである。1911年から17年までの同社の整理実績は,第9表の通りである。
 以上のような交互計算と貨物引換証の発行・整理業務の発展は,陸運業者の系列化を促進し,系列ごとにこれらの業務を集約する親会社を生みだすことになった。先にふれた日本逓業株式会社や明治運送合資(株式)会社がそれであり,これらはいずれもこうした業務上の必要にもとづいて誕生し,業務の発展によって急速な成長をとげたものであった。鉄道時代の道路輸送はこうして1900年代から1910年代にかけて,いくつかの競合する企業系列に組織され,鉄道貨物の集配,発着取扱網を全国に広げてゆくことになったのである。これらの企業系列が統合され,独占的な国策会社としての日本通運株式会社が発足したのは,日中戦争中の1937年10月のことであった。