交通・運輸

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日本における道路技術の発達 II

著者名: 石井一郎
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次
ま え が き
IV 第2次道路技術革新・・・・・・・・・・3
V 第3次道路技術革新・・・・・・・・・・11
VI 日本古来の技術の発達(石造アーチ橋の歴史)・・・・・・・・・・24
VII アメリカの最新道路技術の導入(スリップフォームペーバーによるコンクリート舗装)・・・・・・・・・・28


ま え が き
 前の報告書でⅠ,ⅡおよびⅢについて述べたが,本報告書ではⅣおよびⅤについて述べる。なお,Ⅵにおいて,Ⅱの日本古来の道路技術のうち外国から伝来し日本で吸収して日本の技術として消化してしまった石造アーチ橋の例について,その技術の日本に定着した歴史について述べ,Ⅶにおいて,Ⅴの第3次道路技術革新時代,これは第2次世界大戦後の日本の道路技術が一番発展した時代であるが,このときに如何に日本が欧米の最新の道路技術を吸収したかの実例として,スリップフォームペーバーによるコンクリート舗装について述べる。

Ⅳ 第2次道路技術革新

 大正時代から昭和初期つまり戦前までの時代で,明治維新以前の徒歩交通のための道路を,出現した自動車交通のための道路として,失業対策も兼ねて整備し始めた時代である。

1 大正時代と昭和初期の国道17号線
 明治後期に日本に初めて出現した自動車はその後全国に普及しはじめ,大正時代の第1次世界大戦の好景気を背景にして自動車交通が増えてきた。しかし,昭和に入ると大戦の好景気の反動から,世界的な不景気となり,日本の町々には失業者があふれた。そこで政府はその失業対策事業の重要な一環として道路整備を全国にわたって始めた。
 国道17号線の場合,東京と埼玉県とを結ぶ玄関口の戸田橋は明治8年に初めて木橋が架けられてからは,その木橋が古くなると逐次架替えられていたが,自動車交通量の増加から,初めて鋼橋として架替えられることとなり,昭和4年(1929)4月13日,2/3国庫負担,東京府と埼玉県とで残りを折半負担にて工事に着手し,昭和7年(1932)10月10日に鋼橋の永久橋が完成した。架橋地点は木橋の上流約100メートルである。橋の延長は528.7メートル,幅員11メートル,工費は当時の金で,101万9000円であった。
 戸田橋より大宮市にかけて中仙道は人家連担地をくねくねと通っている上に交通量も多いので,新しい国道を作ることとなった。昭和6年(1931)に着工し,昭和10年(1935)には戸田橋より大宮市大成町まで開通した。コンクリート舗装の車道9メートル,全幅員15メートル,浦和市街地と大宮市街地では歩道が設けられた。この新しい国道は旧中仙道に対して新国道と呼ばれるようになった。
 大宮市以北については旧中仙道もある程度の幅員があり,かつまた自動車交通量も大宮市以南に比べて少なかったので,旧中仙道を部分的に拡幅しただけで,ほとんど旧中仙道のままで,全幅員約9メートルにてアスファルト舗装を施工した。施工年度も戸田橋と大宮市間とほぼ同じく昭和6年(1931)から昭和10年(1935)にかけてであった。途中の埼玉県と群馬県の県境にかかる神流川橋については,昭和9年(1934)9月に従来の木橋から橋長410.4メートル,車道幅員7.5メートルの連続合成桁の鋼橋として完成した。
2 幾何構造
 明治新政府になってから,幅員とともに,勾配,曲線半径などが内務省訓令として決められていたが,実際の道路でこれに合格する道路は少なかった。その理由は当時未だ自動車交通は出現せず,馬車交通も都市内だけで,地方では歩行が主体であり,陸上交通機関の主体は当時急速に整備を行なっていた鉄道に依存していたからである。しかし,鉄道馬車から発達した電気軌道つまり路面電車が都市交通機関として当時としては画期的な要素を備えていたため,都市では軌道が大発達し,道路の幾何構造として路面電車の軌道を考慮したものであったことは特筆するに値する。
 明治32年(1899)に日本に初めて輸入された自動車は大正時代に入ると実用的交通手段になると共に,第1次世界大戦の好況に支えられて経済は発展し,物資の輸送の需要が増大し,鉄道輸送だけではその需要に応ずることができなくなってきた。そこで道路整備の要請の声が高くなり,大正8年(1919)に道路法が定められた。そしてこれにともなって同じく大正8年(1919)に内務省令として道路構造令が発令されて,道路の構造に関する基本が決められた。例えば幅員は国道が7.3メートル以上,府県道が5.5メートル以上,曲線半径は55メートル以上,縦断勾配は国道が1/30以下,府県道が1/25以下と決められた。これらは主として馬車交通を主体として考えられたもので,これに国道では自動車交通,都市では路面電車を考慮に入れている。以上の道路構造令は明治維新以降の日本の経験をもとにして,ヨーロッパ諸国の道路幾何構造基準を参考にして決められたものである。
 大正時代の後半から昭和の初期にかけて自動車が増えはじめた。それで道路交通も,人,荷馬車,自転車,自動車の混合交通の時代となった。そしてアメリカ補助道路,イギリス,フランス,ドイツなどの新しい道路構造令が日本にも紹介された。また欧米の道路に関する研究論文も日本に紹介され,例えばカルフォルニア州のグラム技師の運転の反応時間を考えた停止距離を求める方法などもこの時期に導入された。またアメリカのHOLLAND TUNNELの1車線あたり190台/hrの交通容量のことが紹介されたのもこの時期である。日本でも物部長穂による一定速度の道路交通の研究,藤井真透の混合交通の交通容量の研究,金子柾の幅員と速度の研究なども行われた。以上の成果をもとにして昭和10年(1935)に道路構造令が改正された。
3 舗 装
 明治時代は砂利道ばかりで,一部にレンガまたは板石を用いたものはあった。しかし明治時代の道路交通は馬車交通の時代で,砕石道路が馬の足掛りが良く,したがって明治時代には砕石道路が普及したに過ぎない。しかし明治36年(1903)に初めて東京に自動車が出現し,明治44年(1911)に自動車交通に対応するため,日本で初めて木塊舗装,シートアスファルト舗装,アスファルト・コンクリート舗装の試験舗装が施工された。
 日本で本格的アスファルト舗装が施工されるようになったのは大正時代に入ってからである。施工された道路は,京浜国道,阪神国道,明治神宮外苑道路である。このとき用いられた施工機械は殆ど外国からの輸入品であって,アスファルト材料も国産のもあったが輸入品も用いられた。なお,注意すべきことは,初めての本格的アスファルト舗装であったため外国人技術者の指導のもとに行われることが多く,日本の道路技術者はこれにより施工技術を習得して行った。
 昭和時代に入ってからは,わが国でも外国人技術者に頼らずに日本人技術者だけでアスファルト舗装を施工するようになった。そして当時は第1次世界大戦後の不況時代でもあったので,国家財政と自動車交通量に合せて,高級舗装,中級舗装,簡易舗装に分けられるようになった。
 セメント・コンクリート舗装は大正時代に入って試験的に施工されるようになったが,本格的に用いられるようになったのは関東震災のあとである。
 一方,外国との技術交流も盛んに行われるようになり,世界的に這路に関する国際会議も開催されて,日本も参加するようになった。この頃,世界的にセメント・コンクリート舗装に対する評価が高くなり,そのうえセメント・コンクリート舗装は建設費,維持費,車両運転費を総合すると一般に経済性が高いことが判明し,また当時不況にあったセメント業界を救う必要もあり,昭和6年(1931)から始まった失業救済産業振興のための土木事業は道路事業が重点となってセメント・コンクリート舗装が多く施工されるようになり,国道など幹線道路はすべてセメント・コンクリート舗装となった。
 なお,セメント・コンクリート舗装の施工機械も初めは外国から輸入されたが,アスファルト・コンクリート舗装と同様に昭和時代に入ると国産化されるようになった。
4 測 量
 測量用の器械類,すなわちレベル,トランシット類は欧米各地で製造され,わが国は明治初期においては殆どを輸入に頼っていた。しかし,明治の初期から測量器械類の国産化をはかり,明治2年(1860)には烏口,明治6年(1873)にはコンパス類,明治20年(1887)には箱尺,明治25年(1892)には鋼巻尺,明治33年(1900)には麻布巻尺,明治34年(1901)には転鏡経緯儀,明治39年(1906)にはトランシットおよびレベル,明治40年(1907)にはプラニメーター,大正2年(1913)には1秒読みの天文経緯儀まで国産化されるようになった。
 大正4年(1915)第1次世界大戦が始まると,測量器械類は逆に日本からアメリカその他へ輸出されるようになった。それは測量器械類はドイツが一番発達して,諸外国はドイツから輸入することが多かったのであるが,戦争のため連合国側にドイツ製品が入らなくなり,その代りとして,徐々に国産品を作って実力を養っていた日本製品が諸外国に輸出されるようになったわけである。
 これを契機としてわが国では多くの国産測量機メーカーが設立され,測量器械の生産も多くなった。また技術向上のため大正15年(1926)にはウイルド製万能経緯儀が輸入され,技術的にも向上し,昭和時代に入ると,測量器械については質的にも量的にも世界一流といえるようになった。

5 土 工
 自動車交通がまだ発達しない大正・昭和初期は,日本の近代化の急速に進んだ時代であるにもかかわらず,それ以前の経験技術を集約した形で,道路も築造されていた。明治中期以降,掘削および運搬機械が輸入され,土工の機械化がはかられるようになったが,わが国の経済基盤が未熟であったうえに,軍事予算に多額の予算を廻し,それがために社会資本,特に道路建設に投資される予算が少なく,したがって大規模な機械化施工を行なうに適した工事が少なかったために,これら施工の機械化の足取りは遅々たるものであった。
 また,当時日本の労働賃金は欧米に比べて著しく低かったこと,殊に大正末期から昭和のはじめにかけて失業対策のために政策的にも人力施工を推奨することとなり,施工の機械化を押える結果となった。また請負業者の資本力も小さく,かつ封建的下請制度に立っていたこともあって,建設業者自体が大規模な建設機械を駆使する近代的機械化土工を施工するまでには至らなかった。
 しかし,土工の科学的基礎となるべき土質力学の知識は,明治年間にクローン,ランキンの土圧論がわが国に導入されたのをはじめとして,昭和時代に入って昭和4年(1929)にテルツァギの土質力学がわが国に紹介されている。このように外国の技術がわが国に導入されると同時に,わが国でも大正13年(1924)に内務省土木試験所が発足し,昭和5年(1930)には鉄道省土質調査委員会が発足して,わが国としても独自に本格的研究をはじめ,世界的にみて創世期の土質工学の発展に寄与することとなり,わが国の土質工学の水準を高めることとなった。
 以上のように道路建設における掘削技術は第2次世界大戦以前は人力を主とした手工業的技術であった。当時使用されていた掘削道具を図8に示す。すなわち,土砂にはスコップ,クワ等を使用し,硬い土や軟岩にはツルハシを使用した。

6 トンネル
 大正時代に入ると自動車の登場により道路トンネルは自動車交通を対象として改築や新設が行われるようになった。
 一方,鉄道は大正末期から昭和初期にかけて鉄道網が全国に拡がっていった。この中には,難航を続けた丹那トンネル,機械施工を大規模に試みた清水トンネルのほか,数多くの長大トンネルが含まれている。これらの施工に当っては,当時の欧米の技術に刺激され,現地視察や文献調査などを行なってわが国に取り入れて施工に当っている。その結果,わが国のトンネル技術は向上し,日本におけるトンネル全盛時代をもたらした。このとき,トンネル会議の開催や各種委員会の熱心な研究討議がなされ,その経験は貴重な各種工事記録として残され,その後の日本のトンネル技術の向上に役立っている。
 しかし,丁度当時は国内経済の極めて悪い時代で,その不況対策として土木工事が選ばれたことから,小規模のトンネル工事では失業救済をはかるために機械類の使用を極力避けた旧式な施工も行われた。
 この時代のトンネルの地質調査は,小規模トンネルの場合は明治時代と同様に勘と経験による事前調査なしの施工が行われていた。しかし大規模トンネルの場合には欧米の技術導入により,ボーリングや弾性波などによる物理探査法によって行われた。
 ボーリング調査のわが国での初めての施工は国鉄関門海底トンネルの事前地質調査であって,大正8~9年(1919~1920)に行われた。日本では初めてであるので,試錐機械はクレリウス式AB型試錐機を輸入し,技術指導のためにノルウェー人を招いて,ハンドルはノルウェー人に握らせて,日本人はそれを見て習得した。
 次に本格的な事前地質調査を行なったのは国鉄の丹那トンネルである。丹那トンネルは崩落の大事故を起したため,未掘削区間の地質不良箇所について地表からボーリング調査することとなった。深さは150メートルもあって当時のわが国では経験が無かったので,大正12年(1923)に,スウェーデンから技術指導の人を求め,前記クレリウスAB型試錐機を用いて日本人が施工した。
 弾性波による物理探査法は,わが国では昭和初期に入って東大の地震研究所などで,海外文献などを参考にして研究が続けられていた。これを実地に利用したのは関門鉄道トンネルであって,昭和11年(1936)に,海底部トンネル通過地点付近にダイナマイトを使って爆発を起して振動を起させ,微動計を用いて震動を測定し,記録計により記録した。なお,これは外国人の技術指導を受けずに,海外文献調査のみによった。
 トンネルの悪土質区間の施工方法としてのシールド工法は欧米では早くから用いられていたが,わが国で用いられるようになったのは大正6年(1917)国鉄羽越線の折渡トンネルである。このとき設計は外国文献資料をもとにして国鉄で行ない,シールドの製作も国産で行ない,日本人だけの手で施工もなし遂げた。続いて丹那トンネルの悪土質である温泉余土の通過時にも使用され,圧気工法も併用された。そして昭和12年(1937)から昭和19年(1944)にかけて,関門海底鉄道トンネルの施工にも使用され,海底という悪条件のもとに薬液注入の工法も使用して,わが国のシールド工法も完全に成功するに至った。

7 橋 梁
 日本の古来の橋梁技術は木橋である。この伝統ある木構造も,橋梁構造と力学の中心となったのは外国からの輸入した知識であり,優秀なわが国の職人技術が招へいした外人技術の要望に応えたものである。
 大正時代に入っても橋梁として最も普遍的で多用されたのは木造橋であった。輸入技術を導入するところも多かったが,維持管理上から橋板の摩耗と腐蝕の対策として橋面に土や木塊を用いたり,またコンクリートを施工するようになった。第9図および第10図参照。
 上述のようにわが国の橋梁は木橋をもっぱらとしたが,九州および沖縄地方では始祖をポルトガルおよび中国からの技術の導入で17世紀中葉から数多く建設された石造りアーチ橋は日本独自の技術体系を整え,定着してしまった。しかしこの伝統技術による石造りアーチ橋の架設は,全国にわたって大正の末までつづけられたが,鉄筋コンクリート橋や鋼鉄の普及で終焉を迎えるに至った。この石造りアーチ橋については,第Ⅵ章にて詳述する。
 明治後半において鉄筋コンクリート橋が日本でも架設されるようになったが,特記すべき鉄筋コンクリートの性質として,割合と造形が自由であり,加えて,表面仕上げと化粧のしやすい点がある。それでわが国でも,鉄筋コンクリート工学の発達から,大正時代と昭和初期には,特に都市部において,景観の点から鉄筋コンクリートのアーチ橋が多用された。
 明治末期になると,橋梁材料としての鉄は鋼がはっきりと橋梁部材としての位置を占めるようになった。これは欧米先進国と比較して20~30年の遅れである。
 わが国が八幡製鉄所において明治34年(1901)に製鋼を始めてから鋼材が完全自給するのに昭和の初めまでかかっている。当時は軍需用が大きかったので,橋梁としては大正の初めに自給率は30%ぐらいで,大正時代の平均が40~50%であり,昭和時代に入って初めて自給体制に入って第2次世界大戦まで大きな変化はない。

8 発展途上国と日本の対比
 現在の発展途上国が日本の過去の発展過程において,どの時代に当てはまるかは興味ある問題である。道路技術だけの面からとらえると次のようなことがいえる。
 幾何構造に関しては,発展途上国の大部分が植民地であった時代を経験し,それが故に宗主国の幾何構造をそのままうのみにしていることが多い。例えばインドやネパールにおいて,都市内の平面交差点はイギリス式のロータリーを用いている。新しい都市づくりにおいてでもである。チャンネリゼーションの考え方は無い。これらのことから,自動車交通量も考え合せて,発展途上国の幾何構造に関する現在の道路技術水準は大体日本の昭和初期に当るといえよう。
 舗装に関して発展途上国の現状を見るに,同じようにわが国の昭和初期を見るようである。セメント・コンクリート舗装は高級舗装として少なく,アスファルト舗装も,国家財政と自動車交通に合せて,高級舗装,中級舗装に分けられている。ただ,現在の発展途上国は,わが国の昭和初期に比べて交通量も多いので,その分だけ舗装延長は多い。特に地方部に多いが,それは全幅員は舗装せず,1車線だけ簡易舗装しているところが目立つ。施工技術もアスファルト舗装において常温混合式が多く,補修において機械類が殆ど用いられない手仕上げであるので,これらの現在の技術的水準はわが国の昭和初期に似ている。写真2参照。
 測量器械および測量技術については,発展途上国が植民地から独立して日が浅く,高級な測量器械を製作するまでには至っておらず,わが国の大正時代よりも以前の明治時代と同じように考えられる。
 土工に関してはわが国の大正時代と昭和初期が現在の発展途上国と同じといえる。それは当時のわが国の情勢と非常によく似ていて,経済基盤が未熟で,社会資本,特に道路建設に投資される予算が少なく,したがって大規模な機械化施工を行うのに適した工事が少ない上に,失業対策上の雇用問題から,政策的にも人力施工をせざるを得ない情勢にある。これが現在の発展途上国の施工の機械化を押えているのも止むを得ない。
 トンネル技術は鉄道の発達に負うところが多い。発展途上国の鉄道は殆どが植民地時代に建設されており,それが宗主国によって行われたものであるために,その技術は残されていない。トンネルはこのほかに道路や水力発電用として建設されるが,発展途上国には日本のような山国は少なく,道路自体も山を避けることができる。むしろ水力発電用のトンネルが発展途上国の独立後の課題であった。発展途上国にはトンネル技術を有しなかったために,計画設計から施工に至るまで,外国の建設コンサルタントや建設業者に頼ることが多い。以上のことからトンネル技術に関しては,現在の発展途上国は日本の明治時代に当るといえる。
 橋梁の技術に関しては,それぞれの国の個有の材料と技術があり,近代的橋梁技術が必ずしもその国に適したものであるかどうかはいえない。その上,植民地であった発展途上国には,宗主国が政策的に技術を残さなかったために,近代的橋梁技術は発展途上国に定着せず,日本の大正時代か昭和初期か国によっては明治時代と思われる国さえある。よって独立後発展途上国にて建設される近代的橋梁は,外国の先進国の建設コンサルタントや建設業者や橋梁メーカーにおんぶせざるを得ない。
 ただ橋梁技術の中には,その国の古来の技術を有し,その国の資本を生かしたものがある。これは近代的橋梁技術とは別個のものであると同様に,技術的には対応するに十分なものがある。実例として日本の木橋の技術は木材の豊富な国として独特に発達したものであり,明治維新後,科学技術的に裏付されたものであるが,耐久性に欠けるところから現在は衰微するに至っている。これに対してヨーロッパから中国に伝わって中国で発達した石造りアーチ橋は,1200年前に建設された安済橋が現在でも健在であり,長年にわたるその技術の発展保存から,現在ではスパン100メートル,クリアランス14メートルのものまで施工されている。これらは良質の岩を有する国土であるのも原因であるが,他の先進国にも見られない独特の中国で発達した技術である。この技術は先進国の近代的橋梁技術とは別に発展し,保存され,現在でも活用され,中国の殆どの橋梁がこれによって建設されているところに意義がある。
 中国の鋼橋の技術は現在の中華人民共和国政府が樹立されてからに始まる。それまでの中国は一応独立国であったが,技術的には植民地と同様であった。中国が近代的橋梁を建設したのは長江武漢大橋である。これは下が鉄道で上が道路の併用橋であるが,当時仲の良かったソ連から全面的に技術指導を受け,青写真から主要な鋼材の供給までソ連が受け持ち,中国側はあまり技術的に得ることが少なかった。これに対して長江南京大橋は,下部工の完成した段階でソ連側が青写真1枚に至るまで持ち去って技術指導を打ち切ったため,残りの上部工を中国側が出来上っている長江武漢大橋を見本として設計から製作架設まで独力で建設したところに特徴がある。これは中国に製鉄所と橋梁工場とが多少なりとも存在していたこともあり,長江武漢大橋という外国の技術指導による見本があったことも幸いし,中国人の近代化への並々ならぬ努力の結果がもたらしたものといえる。だが近代的橋梁技術という点からみれば,中国は未だわが国における大正時代と昭和初期の頃に似ているといえる。
 以上からして発展途上国の現状は日本の発展の歴史上からみて,道路技術の点からだけいえば,多少の凸凹はあるが,大体50~60年の遅れがある。日本の大正時代と昭和初期に似ているといえる。

Ⅴ 第3次道路技術革新

 昭和20年(1945)に日本が歴史上初めて敗戦の憂き目に会って再建の道を進むようになったが,当時のわが国の道路技術も,時治維新以来欧米先進諸国の技術を導入して少しずつ追い付きつつあったにしても,未だ20年の差があったといわれている。
 以上のような技術格差と敗戦というどん底から,戦後わずか30年にして欧米先進国に追いつき,部分的には抜きん出るようになった。これは道路技術だけのことではなく,広くわが国全般にいえることであるが,このような異常と思われる底力を発揮し得たのは何が原因であろうか。一般的には次のようなことがいわれている。
(1) 日本の教育水準が世界一高く,文盲率は0.1%と世界一に低く,大学進学率も38%とアメリカと競っている状態である。戦後アメリカ占領軍が日本人の靴磨きが新聞を読んでいるのを見て驚いたという逸話参あるが,日本人からみて不思議でも何でもない話が,外国人からみて珍らしいこととなるぐらいに日本人の教育程度は高い。これは明治維新後に明治政府が貧乏財政の中から教育に一番力を注いだこともあり,また戦後日本の教育制度改革の中で,アメリカ教育使節団の強制に近いアドバイスがあったにせよ,戦後の苦しい国家財政の中で義務教育を6年から9年に延ばしたことも好影響をおよぼしている。
(2) 日本には階級とか身分差というものが無い。これは封建社会であった江戸幕府が倒れて,下級武士階級であった人々が明治政府の中心を握ったことが大きく影響している。以後東大を中心として官僚養成機構を設け,優秀な人材を教育して,重要な地位につけ,所を得しめるような政策を採った。よって日本の国は社会主義国家ではなく,君主国家ではあるが,封建的社会ではなく,優秀な人材はそれぞれ高い社会的地位と経済的にめぐまれて活躍できる社会となった。これは努力すればそれだけめぐまれるという社会の気風が生れ,勤勉な国民性をかもし出す原因ともなっている。その上に戦後アメリカ占領軍によって貴族社会も崩壊に導かれ,さらに民主的風土が助長されるようになった。一介の農民の子孫でも,努力の結果では総理大臣までなれるという国はアメリカを除いて先進諸国では日本ぐらいといわれている。
(3) 日本人は他国から貧慾に技術を導入して自分のものにしたいという慾望が古来から存在している。陶器の技術は豊臣秀吉が朝鮮征伐のときに強制的に日本へ連れて来た朝鮮人の陶工たちの技術の伝承であり,日本にはこのような例が多い。それと共に封建社会において狭い地域において自給自足の努力をして独自の携術を育てるようにした。江戸時代には日本は鎖国をしていて諸外国とは交流が無かったために先進諸国の新しい技術は入って来てはいなかったがその代り自給自足のために日本独特の技術を低いレベルながら開発し保持していた。この日本独特のものを持っていたことが重要で,明治維新とともに欧米諸国の新しい技術を導人しても,日本古来の技術で間に合うところは従来の技術を生かし,欧米の新しい技術と融合させ,日本独特の新しい技術として発展させたところに特徴がある。すべて外国の技術をうのみにしていない。

1 戦後の国道17号線
 荒廃した戦後の日本も,見返り資金による道路工事をスタートとして戦後の道路整備が始まった。というよりも,わが国が近代的な道路整備を始めたのが前述のように昭和初期であったが,戦争のためにそれが中断し,戦後それを継続復活したといっても良い。
 国道9号線と呼ばれていた中仙道も戦後間もない昭和21年(1946)に熊谷市付近から改良工事に着手し,車道幅員9メートルとした。これはいわゆる1次改築で,前近代的な日本の道路を,ともかく自動車のすれ違うことのできる2車線の舗装道路を建設しようとするものであった。そして路線は旧道が人家連担する場合には拡幅することを避けてバイパスにすることを基本方針としてすすめ,昭和26年度(1951)には熊谷-深谷間のバイパスの改良工事が完成した。なお,鴻巣-吹上間は人家がないので現道拡幅で昭和25年度(1950)に改良工事が完成している。
 だが,日本の道路網は前時代的な旧街道時代の路線をもとにしていたので,戦後の実情に合わず,昭和27年に道路法が改正されるに至った。そのとき中仙道であった国道9号線も道路体系の編成替えとともに消え,東京日本橋を起点として旧中仙道を通って高崎で中仙道と分れ,前橋に入って旧北越清水越往還に乗り,これを通って清水越の代りに三国峠を越え,新潟に達する1級国道17号線が誕生した。なお,このとき中仙道とは昔のように本庄で分れ,旧北越清水越往還を伊勢崎から前橋と通る路線を国道17号線とする案もあったことを付け加えておきたい。そしてガソリン税を目的税として昭和29年度(1954)をスタートとする道路整備5ヶ年計画が発足するとともに,道路整備は急速に進むようになった。
 国道17号線と名も新たにして,1級国道の中でも重要幹線とされた17号線は,1次改築も他の路線に比べて急速に進められた。渋川以北の山間部を除いて,関東平野部の国道17号線は昭和33年度(1958)に改良工事を完了し,翌昭和34年度(1959)には舗装を完了している。車道幅員は大部分9メートルであったが,一部7.5メートルのところもあり,そして都市部では熊谷市のように戦災復興事業で車道幅員17メートル,全幅員28メートルにしたところや,前橋市のように都市計画事業で広くとってあるところも部分的に存在した。
 元1級国道が全国的にみて概成したのが昭和40年度(1965)であり,国道17号線が山間部を含めて全線改良舗装を完了したのが昭和39年度(1964)であることをみても,平野部の国道17号線が昭和34年度(1959)に完了したのは,重要路線であるとともに交通量の多いことを物語っている。
 次に1次改築で自動車のすれ違いできるようになった舗装道路が,自動車交通量の激増により交通マヒするようになって,バイパスまたは拡幅により激増する交通需要に応ずることのできる幅員の広い近代的な道路を建設する2次改築が始まった。
 戸田橋より大宮市大成町に至る間は戦前昭和初期に全幅員15メートルの道路として改良舗装されていたが,大宮―鴻巣間については旧中仙道が昔の街道としては割合に幅員があったので,1次改築としてはそのままでアスファルト舗装を行なった。したがって,この大宮―鴻巣間は人家連担しているうえに車道幅員は約6メートルしかなく,2次改築の必要性がいち早く生じた。この新しいバイパスは起点の地名をとり,大宮バイパスと呼ばれるようになった。
 この大宮バイパスの線形として戸田橋―大宮市大成町間の新国道をそのまま北へ延長し,旧中仙道の東側を約500メートル離れてほぼ平行して北上し,上尾市,桶川町,北本町,鴻巣市の市街地をバイパスして,鴻巣市の北側にて旧中仙道に取り付くルートを選定した。この新しい大宮バイパスは旧道とあまり離れないで市街地のそばを通っているので,文字どおりのバイパスであり,旧道にとってみれば市街地に不要な通過交通を吸収してくれる道路であった。
 改良工事は昭和33年度(1958)より起点の大宮市側より着手し,昭和35年度(1960)に完了し,舗装工事はコンクリート舗装にて昭和35年度後半に着手して昭和37年度(1962)に完了した。幅員は車道13メートル,全幅員20メートルの4車線道路で,市街地には歩道を設けた。なお,市街地でなかったところも,その後バイパス周辺の市街化が進むにつれて歩道設置の必要性が高まり,残りの殆どは昭和42年度(1967)に交通安全対策事業として歩道が設けられた。
 大宮-鴻巣間の4車線の大宮バイパスの開通にともない,2車線の戸田橋-大宮市大成町間の道路の対策が必要となった。根本的には新しいバイパスを建設するとして,さしあたりの対策として,昭和37-38年度(1962-63)に,戸田橋―大宮間の全幅員15メートルのうち9メートルの車道を11メートルに拡幅し,歩道を切削したり,歩道のないところには歩道を設けた。11メートルという数字は最少限度の4車線というつもりであったが,実際には交差点で右折車線が設けられるだけで,単路部では2車線の効用しか果さなかった。
 大宮-鴻巣間の大宮バイパスの開通により,たちまち交通のネックになったのは吹上町内であった。市街地では一番狭いところで全幅員は6メートルぐらいしかなく,大型車同志のすれ違いに困難を来たした。そこで東京オリンピックに間に合せる目標で,昭和38-39年度(1963-64)に2次改築として全幅員20メートル,車道4車線,歩道および中央分離帯付の吹上バイパスが完成した。
 大宮バイパスと吹上バイパスとの間にとり残された鴻巣市内では,沿道に人家が殆どなかったので,現道拡幅により前後のバイパスと同じように,全幅員20メートル,車道4車線,歩道付の道路が昭和40-41年度(1965-66)で完成した。ここで大宮市-吹上町間の約30キロメートルの歩道付4車線道路が完通した。
 一方群馬県内でもバイパスによる2次改築が行われた。狭い新町の市街地をバイパスする延長4.2キロメートルの新町バイパスは昭和34-40年度(1959-1965)で車道4車線一部歩道付で建設された。商業都市高崎市と県庁所在地前橋市とを結ぶ延長9.1キロメートルの高前バイパスは昭和36-40年度(1961-1965)で,車道6車線,歩道および広い中央分離帯付のデラックスな道路として建設された。また人家連担し,道路も狭く,市内で直角曲りする渋川市内も,市内を避けて新しい延長2.6キロメートルのバイパスが昭和38-41年度(1963-1966)に車道4車線,歩道および中央分離帯付の道路として建設された。なお,新町バイパスと高前バイパスを結ぶ倉賀野も昭和43年度(1968)に着手され,やがて国道17号線の群馬県内の主要部分を占める新町-倉賀野-高崎-前橋間は4-6車線の道路で結ばれる予定である。
 一方,東京-大宮間は,戦前にできた新国道と呼ばれる実質2車線道路だけであった。そこで東京都内の練馬区で国道254号線から分岐し,途中で首都高速道路5号線と合流して笹目橋を渡って戸田市内に入り,浦和市,与野市の西部を経て大宮市北部で現国道17号線にとりつく新大宮バイパスが計画された。そのうち,笹目橋の1部が東京オリンピックに合せて昭和39年(1964)に開通したが,東京都内から大宮まで2車線ながら開通したのは昭和44年(1969)で,その後交通需要に合せて車線数を増しているが,全幅員も,全線も,昭和54年(1979)現在完成していない。新大宮バイパスは完成後は4車線の高架高速車線のほかに8車線(1部6車線)の平面緩速車線を持つわが国最大の大規模バイパスである。

2 高速道路
(1) 戦前の計画 戦前のドイツのアウトバーンやアメリカのターンパイクの建設に刺激されて,旧内務省土木局において,昭和15年(1940)から17年(1942)にかけて重要道路整備調査が行われたのが日本における高速道路の計画のはじまりである。続いて昭和18年(1943)には全国自動車国道網計画が樹立され,続いて名古屋-神戸間の実施調査が行われたが,戦況の悪化のため実現するに至らなかった。
(2) 名神高速道路 昭和26年(1951)になると朝鮮動乱の特需景気によって日本の経済は立ち直り,鉱工業生産もほぼ戦前なみに達するようになった。それで産業の開発と経済の振興に役立てるために,外資を導入して自動車専用道路を有料道路として建設しようという気運が盛り上った。戦前の計画書をもとにして,技術調査や経済調査の検討がなされたが,それと平行して外資導入のための信頼性を得るために,外人コンサルタントに調査を依頼した。これがコーター報告書であり,ウォーマック報告書であり,パーカー報告書である。これらをまとめて昭和31年(1956)に名古屋-神戸間が最優先に整備されるべきものとされて,名神高速道路の建設計画が公表された。そして世界銀行から外資導入するためのワトキンス調査団が日本に招へいされた。その結果,日本に初めての高速道路が実現するようになった。
(3) 高速道路網 名神高速道路が具体化するとともに,これを含めて国土を縦貫する高速幹線自動車道を全国的に計画建設することとなった。これにより最先に計画された高速道路は中央自動車道と東名高速道路であった。これらが建設されて,東名高速道路と名神高速道路が結ばれて東京-神戸間の高速道路が全通したのは昭和44年(1969)5月であり,これでわが国も初めて高速道路の時代に入った。
 その少し前の昭和41年には国土開発幹線自動車建設法により約7600キロメートルに及ぶ日本全土の高速道路網の予定路線が定められた。高速道路はあらゆる産業の生産性の向上と国民の生活領域の拡大とを通じ,国土の均衝ある発展をはかるものであること,およびわが国の基本的な流通施設として効率的な役割を果たすことを設定方針として予定路線が選定された。
(4) 都市高速道路 昭和30年(1955)頃から東京都内の幹線道路の交通渋帯が激しくなり,主要交差点の立体交差が立案された。交差点の立体交差を連続させることにより交通の流れを良くしようと計画されたが,これが発展して都市内の連続高架道路を計画することとなり,さらにこれを有料道路として建設することとなった。これが首都高速道路の発端である。東京に刺激されて阪神地区でも都市内に自動車専用の道路を建設する計画が樹てられ,これが阪神高速道路の発端となった。この2つが都市高速道路の始まりであって都市交通の改善に大きな役割を果すようになった。その後,名古屋地区や福岡地区でも計画され建設されるようになっだが,このような都市高速道路は現在日本以外には存在しない。
(5) 本州四国連絡架橋 本州と四国とを橋で結んで陸続きにするという発想は明治時代にあった。昭和の初期にすでに内務省でその構想を持っていたが,調査する段階までには至らなかった。戦後になって昭和30年(1955)に宇高連絡船が沈没するという紫雲丸事件が発生し,これにより国鉄が連絡鉄道の調査を開始し,昭和34年からは建設省が道路橋として3ルート調査を開始した。この連絡架橋はどのルートをとっても大きな長大橋となり,世界的な長大橋梁であり,しかもそのうち2ルートは鉄道と道路との併用橋であるので,小さい橋梁から少しつつ実績を重ねて行くことにより日本独自の技術で完成を目指している。

3 幾何構造
 敗戦により日本の自動車交通は激減すると同時に道路は荒廃していた。しかし進駐してきた連合軍は主体がアメリカ軍であり,これが戦後の日本の復興に大きく幸いした。アメリカ軍は進駐するとともに大量の自動車を持ち込み,それが起爆材となってわが国の自動車台数は増え続け,戦後わずか3年にして戦前のピークを超えるに至った。それとともに自動車の大型化と重量化と高速化という質的変化をももたらした。
 このような事情から道路構造令の改正が必要となったが,日本は早くからモータリゼーションの進んだ欧米とは異なって道路交通工学の分野の技術的蓄積は殆ど無かった。欧米の資料をそのまま適用することも考えられたが,わが国は国土も狭く地形状況も欧米と異なり,わが国では道路交通は混合交通を主体とせざるを得ないという実情から,欧米の資料は参考程度にしかならなかった。
 かくしてわが国独自で欧米の資料を参考にしながら研究を開始した。戦前の道路構造令は自動車力学の立場から研究し制定されたものであるが,戦後は運転手の人間工学的立場から研究し制定されたところに一番大きな差がある。
 かくして昭和33年(1958)に新しく道路構造令が制定されたが,その特徴は
(1) 構造基準の区分を決め,設計速度を定めたこと。
(2) 計画は概ね20年後の自動車交通量を推計すること。
(3) 混合交通を前提として,また将来交通量を考慮して数多くの車道幅員を定めたこと。
(4) 交通容量という概念を導入したこと。
(5) 市街地には歩道を設けることを義務づけたこと。
 以上の道路構造令には不備な点が色々とあった。しかし当時のわが国も国の財政が貧乏で十分なことができず,また欧米に比べて道路整備も非常に立ち遅れている現状から急速に整備しなければならない実情にあったため,とにかく安い費用で道路の形だけを整えなければならないという実体に即したものであった。そうしてこれにより第何次かの道路整備5ヶ年計画を実施した結果,わが国も急速に道路整備が進んだ。
 昭和40年(1965)を超えると,わが国も或る程度幹線道路の整備も進んで,モータリゼーションの進み具合も経済の高度成長とともに早くなった。欧米の自動車交通時代に近づいたのである。そこで欧米との間には技術交流も盛んとなるとともに,わが国独自で研究開発も行われた。その結果,欧米の近代的道路網に対応するため,昭和45年(1970)に道路構造令が改正された。その特徴は,
(1) 構造基準の綜合的な体系化。
(2) アメリカ式交通容量の考え方から日本の研究による日本的交通容量へと改訂した。
(3) 日本の経験から車線主義と自転車および歩行者を分離した。
(4) 平面線形と縦断線形との調和をはかった。
(5) 交差点の設計の適切化をはかった。
(6) 交通安全施設の整備をはかった。
 以上はあくまで日本独自で研究開発したものであって,欧米の資料は参考にはしたものの,物真似はしていない。
 なお,昭和40年(1965)代の後半から自動車交通が激増し,そのために交通騒音,交通振動,大気汚染,日照,粉塵などの交通公害問題が顕在化するようになった。欧米でも研究はしていたが,わが国は国土が狭く急速にモータリゼーションが発達したせいもあって,日本で独自に研究した項目も多く,この点ではわが国が逆に世界をリードするようになった。この結果,わが国では環境施設帯という世界でも初めての道路構造が考えられるようになった。

4 舗 装
 戦後はアメリカ軍より貸与された機械および材料により,主として軍関係の道路が舗装されるようになった。そして昭和25年(1950)にアメリカの原本を真似てアスファルト舗装要綱が制定された。
 昭和30年代に入ってわが国は道路事業が急速に拡大されたが,前時代的な道路を財政の乏しい当時のわが国として少しでも舗装の延長を延ばす必要があった。それでステージコンストラクションの考え方もあって舗装整備の基本方針としてアスファルト舗装を重点とするようになった。そうしてアスファルト舗装を施工した結果,その技術的結晶をもとにして,単なる外国技術の紹介にすぎなかった旧アスファルト舗装要綱をわが国の気象や土質や経済性に合致させ,新アスファルト舗装要綱を昭和36年(1961)に制定した。
 一方,セメントコンクリート舗装は戦後アメリカ軍からセメントを支給され,施工機械も貸与されて,京浜国道や横須賀国道など軍関係の道路で施工された。これらの施工の経験から,わが国はアメリカの機械化施工によるセメントコンクリート舗装技術を学んだ。
 昭和26年(1951)には日本のセメント生産量は戦前の最盛期に達するとともに,品質も良好なものに回復するようになり,昭和27年度(1952)からは本格的にセメントコンクリート舗装が施工されるようになった。そして昭和29年度(1954)には82%がセメントコンクリート舗装であった。これはアスファルトの原料である石油が殆ど輸入であるのに対して,セメントは国産であり,またわが国は砂利が豊富であることも主たる理由であった。この施工経験をもとにして日本独自の経験から昭和30年(1955)にセメントコンクリート舗装要綱が制定された。
 前述のように昭和30年(1955)代に入ってアスファルト舗装が延び,相対的にセメントコンクリート舗装の比率が減少し,昭和40年前後になると,セメントコンクリート舗装は年間施工実績の比率が10%を割るようになった。皮肉なことに,このころアメリカ0)AASHO道路試験の結果が紹介されて,セメントコンクリート舗装の有利性が認められるようになった。そして昭和44年にセメントコンクリート舗装の新しい大規模施工法であるスリップフォームペーバーによる施工法がわが国でも導入され,これを契機としてわが国でもセメントコンクリート舗装の大規模機械施工が定着するようになった。このスリップフォームペーバーによるセメントコンクリート舗装については,第Ⅶ章にて詳述する。
 セメントコンクリート舗装の施工機械については施工実績が少ないため国産メーカーが育たず,施工機械は国産するよりも輸入する方が安価につき,国産もあったが,輸入する方が多い。これは施工機械の技術レベルが低いということではなく,あくまで経済的な理由である。アスファルト舗装の施工機械は国産の方が多かった。
 以上のようなセメントコンクリート舗装の施工実績と日本独自の研究成果をもとにして,昭和47年(1972)にセメントコンクリート舗装要綱が改訂された。
 なお,わが国はたびたびの国際会議や視察団の派遣などを通じて諸外国の新しい技術情報を絶えず取り入れ国内でも試験施工を行なっている。これがため舗装技術も世界のトップレベルにあり,例えばスチールファイバー・コンクリート舗装とか表面処理のグルービングなどは欧米諸国と同じレベルで行われている。なお国際会議でのわが国の活躍も積極的になった。

5 調 査
 わが国において初めての全国的な交通調査が行われたのは昭和3年(1928)である。初めのうちは人力だけで行われていたが,そのうちに戦後の昭和31年(1956)に初めて交通自動観測器が用いられるようになり,昭和33年(1958)にはOD調査(出発地目的地別調査)が行われるようになった。OD調査は,一般交通量調査では把握できない自動車交通の出発地,目的地,運行目的,1日の運行状況などを調査することによって,自動車交通の質的分析を可能にし,また,人口や経済諸指標などと関連づけた自動車交通の将来予測などを通じ,道路計画の基礎資料として,有効に利用されるようになった。
 また,昭和38年(1963)に富山・高岡地域において「生活圏行動調査」が行われたが,これがわが国における最初のパーソントリップ調査である。パーソントリップ調査は,交通の発生の源である「人の動き」に着目し,人のトリップのOD調査を実施することによって,交通施設計画を立てようとするものである。すなわち,あらゆる交通手段による人の動きの実態を知り,交通の目的,距離,時間,交通費用,自動車保有,収入などの要因と交通機関の選好性向との関連性の検討を通じて,将来の交通機関別交通需要量を求め,道路や鉄道など都市の交通体系全般にわたって,総合的に計画を検討しようとするものである。

6 土 工
 昭和23年(1948)連合軍総司令部は日本政府に対して建設機械と資材を援助して,道路の維持修繕を命じた。これにより日本の道路技術者は皮肉にも敗戦によって,近代的な外国製のブルドーザー,グレーダー,スクレーパーなどの土工機械になじむようになった。この実例としては,昭和23-28年(1948-53)に,戸塚国道において関東ロームや砂利などの地質に対して,ブルトーザー,ショベル,キャリオールなどを使って掘削を行ない,昭和24-25年(1949-50)には大津国道で,ブルドーザー,キャリオール,パワーショベルを使用して施工した。
 わが国の道路技術者はアメリカ軍の指導援助があったとはいえ,直ぐに修得し,ブルドーザーも早速国産化され,昭和24-25年(1949-50)には北海道の道路工事で国産のブルドーザーで施工された。
 このようにして,昭和20-30年(1945-55)の間に,わが国では土工の機械化がめざましく進歩した。しかしこの時代はまだまだ人力施工と併用されており,全面的に土工の機械化が行われるようになったのは昭和30年(1955)以降である。昭和30年(1955)以前の土工は主として地表から数メートルの深さ,つまり表層の土砂層が対象であったのに対して,昭和30年以降の道路土工は深い切土を施工することが多くなって,岩を掘削する機械が多く用いられるようになった。
 当初,道路土工の施工機械は発註者側が購入して,請負業者に貸与するのが普通であったが,その後請負業者の実力がついて自分で購入するようになった。これが建設機械メーカーがその生産態勢を整える原因となり,建設機械メーカーが飛躍発展するもととなり,道路土工の近代化ともなった。以後,わが国の道路土工は大量の大規模土工工事でも少人数で短期間に施工できるようになった。

7 トンネル
 わが国において換気設備などの設備を有する近代的な道路トンネルの建設が始まったのは戦後のことである。この戦後の道路トンネル技術の発展の特徴は,本格的な道路交通の進展およびトンネルの長大化によりトンネルに換気や照明や防災などの設備が不可欠なものとなって,これら諸設備に対する設計手法が確立したことであり,また鋼アーチ支保工が全面的に用いられるようになって,大断面掘削工法が採用されて,施工の機械化と大型化が著しく進展したことにある。
 以上の戦後の道路トンネルは,ひとつの大きな大規模トンネル工事を経験するたびに,その技術は段階的に発展したものであって,大きな長大トンネルの施工が道路トンネルの発展段階を区切る工事として行われた。そのトンネル工事の代表として,関門海底国道トンネル,名神高速道路の天王山トンネルと梶原トンネル,首都高速道路の千代田トンネル,栗子トンネル,恵那山トンネル,第2六甲トンネル,東京港海底トンネルがある。特に関門海底国道トンネルは戦時中に着工されたが,戦中と戦後の混乱で一時中断され,戦後数年たって工事が再開されてから,当時の最新の欧米の技術を採り入れるとともに,独自の研究開発を重ねて設計施工が行われた。この関門海底国道トンネルはわが国で初めて換気,照明,防災などを有するトンネルであり,わが国の近代的道路トンネルの建設技術の基礎を作ったものである。

8 橋 梁
 明治維新より約80年の年月をかけて諸外国の技術を学び,それを培養して日本の各方面の技術は戦前には相当の水準にまで達していた。橋梁の技術も同様であった。戦中および戦後の混乱期にも途絶えることは無かった。しかし戦後橋梁工事が昭和23年(1948)から本格的に施工される頃には未だ欧米先進国と技術の遅れの差が数年もあった。
 わが国の橋梁技術の発展に大きく寄与したものに,まず製鋼技術の発展がある。戦後高強度鋼が開発され,SS41やSM50といった鋼材が橋梁の普通の部材となるようになり,SM58のように60Kg/c㎡クラスの引張強度を有する鋼材も使われるようになり,またアメリカのT-1鋼に匹敵する70キロ以上の高強度鋼も橋梁に使われるようになった。
 橋梁への高強度鋼の採用とともに戦後の特筆すべき技術の発達の転機となったのは橋梁への熔接の利用である。これは昭和30年(1955)頃に突合せ熔接からとり入れられ,徐々に長尺のすみ肉溶接に適用された。現在では橋梁製作上最も多く使用されており,高能率法,多電極法,門型またはマニプレータ型の専用の機械化装置などが種々実用化され,全自動制御装置をつけたサブマージアーク溶接法が使用されるまでに進歩するに至った。
 コンクリート橋は戦前までは鉄筋コンクリートしか存在しなかった。戦後昭和27年(1952)にプレストレストコンクリート(略してPC)が初めて橋梁に使われれようになった。当初はフランスからの技術導入があったが,昭和30年(1955)代に入るとPC鋼材も体系化され,昭和30年(1955)代の後半から急速にPC橋梁が多く架設され,工法も部材もわが国独自で発達した。新山清路橋のようにディヴィダーク工法によるPCのアーチ橋が世界で初めてわが国で架設されたのも昭和40年(1965)であった。

9 交通安全および道路運用
 交通安全および道路運用については殆ど戦後発展したものである。
 交通安全施設としては,防護棚は従来から駒止石やコンクリート柱といった初歩的な防護棚はあった。しかし,昭和30年(1955)以降,欧米の技術導入はあったが,わが国でガードレールなどの実験研究開発が行われ,実用化された結果,わが国は世界で一番多く防護棚が用いられている国であるといわれている。
 道路照明については,戦前および戦後の初期において屋外照明はせいぜい防犯灯または商店街の装飾灯ぐらいに過ぎなかった。しかし自動車交通が増えて交通事故も増えるようになると,交通安全のために道路照明が行われるようになった。特に昭和41年(1966)に道路照明用の灯具が規格統一されたことがその後の普及に大きく寄与し,現在わが国の道路照明灯の整備は欧米各国には決してひけを取らない。
 道路運用施設として交通信号機が初めてわが国に用いられたのは大正時代である。戦後自動車交通量が増えるに従って交通信号機が増設されるようになり,昭和40年代に入ると,コンピューターを使って全面的に制御するようになった。このコンピューターを使っての交通制御は現在わが国は欧米各国に比べて決してひけを取らない。
 道路標織標示は戦前からわが国にあったが,それは時速4-5キロメートルの歩く人や馬車のためのものであった。それが近代的に整備されるようになったのは昭和30年(1955)代に入ってからである。殊に昭和40年(1965)代に入ると良質の反射性シートを用いるようになった。わが国の道路標織の整備は高速道路については欧米諸国に比べて遜色無いまでに至っているが,一般道路については,大きさおよび数について未だ欧米先進諸国に及ばないところがある。
 わが国は豪雨地帯が多く,欧米諸国に比べて湿度の高い雪(通称ベタ雪)の降る地域も多い。昭和38年の北陸豪雪を契機としてわが国も道路の雪寒対策を実施するようになった。それまでは雪が降ると道路交通は止まるのが当然であった。初めはスウェーデンなど雪寒対策の先進諸国を視察して真似したに過ぎなかったが,わが国で消雪パイプのような独自のものを開発して除雪消雪防雪対策が十分行われるようになった。それで昔は冬は道路交通が止って当然であったが,現在では四六時中通行できるようになった。

10 道路技術導入のパターン
 他の技術導入も大体そうであったが,道路技術導入は前述のように戦後において急速に著しいものがある。導入したパターンとしていえることは,
(1) その技術に関して先進諸国へ視察団を派遣したり,文献を収集して,情報を最大限に集める。これは日本の教育程度の高いことが役に立った。
(2) 外国製の最新式の機械を当初1台だけ購入し,その機械の取り扱いについて外国人に指導を求めて,日本人はたちまちその技術を修得した。これは日本人の器用さが役に立った。
(3) 日本の従来の技術と合せ,古来の技術で役に立たぬところは捨てて,欧米の新しい技術のうち日本に合わぬところは捨て,両方の良いところだけを合せて日本の新しい技術とした。
(4) 吸収した新しい技術は日本国内で大いに用いると共に,外国へ技術輸出するようになった。
 以上が大体の技術導入のパターンである。次に明治維新前における外国先進技術導入の実例として石造アーチ橋の歴史をⅥ章に述べ,戦後における外国先進技術導入
の実例としてスリップフォームペーバーによるコンクリート舗装をⅦ章に述べる。

Ⅶ 日本古来の技術の発達(石造アーチ橋の歴史)

 日本の橋梁技術は豊富に生産される木材を用いていた。木材は耐久性が無いが,安価な材料であるのと架設が容易であるがために木製の橋梁,すなわち木橋が日本では原則として用いられ,木橋の技術が発達した。
 木橋の欠点として長大スパンは架橋できない。それで日本のように台風の多い国では洪水により木橋が流されてはまた架けるという悲劇が繰り返えされた。この洪水によっても流されない橋,そして耐久性のある橋が求められるようになった。

1 徳川幕府時代の外国との交流
 日本が欧米先進国と交流をし始めたのは,沖縄を初めとする南西諸島を除いて平戸(ひらど)であった。まずポルトガル人が平戸に来て日本と交易を始め,続いてスペイン人がフイリッピンを征服後,ここを基地として平戸に渡来した。平戸は地理的に日本の西端でありヨーロッパ人が渡来するにしても便利が良く,天然の良港でもあった。続いてオランダ人が渡来し,ポルトガル人やスペイン人を追い出してひとり占めするようになった。オランダ人は平戸に石造のオテンダ屋敷を作った。その西洋建築の洋館の窓は天井がアーチの形をなしており,平戸の石工たちはその技術を習得した。それで平戸ではそれを応用して小川や溝に小さな石造アーチ橋が幾つか架けられた。それを写真7に示す。
 島原の乱が起きて幕府の大軍が島原に押し寄せた。そのとき平定後,幕府の高官たちは平戸に立ち寄り,オランダ人の最新軍事技術を見た。殊に大砲の技術を見て驚き,これが原因となって幕府は平戸を閉めて,オランダ人達を長崎の出島に押し込めることとなった。
 徳川幕府は鎖国してからは長崎の出島だけが外国との交流の場であり,相手もオランダと中国とに限定された。

2 沖縄での石造アーチ橋の発達
 沖縄は江戸初期の慶長14年(1609)に薩摩藩が沖縄征討を行なってその属領とするまでは日本とは別個の独立王国であった。独立王国というよりも中国に対して属領的立場にあった国である。それで当時の沖縄としては中国の封冊使を送迎するために,首都の首里から港町の那覇まで,中国の技術導入により多数の石造アーチ橋を架けた。ただこの時の記録は残っていないので,どういう風にして中国から技術導入したかは判らない。ただいえることはその後九州に導入された石造アーチ橋とは異なった趣を持ち別系統の技術であるということである。
 沖縄で初めて石造アーチ掩が架けられたのは享徳元年(1452)に美栄橋と安里(あさと)橋であり,以後前述のように多数架橋され,宮古島でも1506-21年に架橋されている。この沖縄の石造アーチ橋の技術は当時薩摩藩との密貿易を行っていた関係上から密貿易港である薩摩(現在の鹿児島県)坊の津港の町に伝播し,吉野大鼓橋が1604年に,中坊橋が1721年に架橋されたとされている。

3 長崎での石造アーチ橋の発達
 長崎興福寺の住職である如定は中国の江西省出身で,人徳のある名僧で,長崎市内の中島川が度重なる洪水で木橋を流されて悩む地元の人達の不便さを見かねて,自分の祖国にて数多く架橋されている石橋を架けることを発意し,資金を集め,中国ではこういう橋があるとして,ざっとした図面を描き,平戸の石工を呼んで石造アーチ橋を中島川に架設した。平戸の石工たちはオランダ洋館を作った技術と小川に架けた技術があり,如定は専門家ではなかったが当時としてはインテリーに属し,その指導により平戸の石工たちは日本で初めての石造アーチ橋を寛永11年(1634)に架橋した。これが二連で水面に映るとき眼鏡に似ているところから眼鏡橋と名付けられた。
 当時は鎖国中で外国人と接触することは禁じられていた。しかし彼は国禁を犯してまで外国人と接触して勉強した。外国人といってもオランダ人である。オランダには石造アーチの技術は無かったが,藤原林七はオランダ人から円周率を用いる用孤計算を学んだ。藤原林七は国禁を犯して外国人と接触を持ったことから官憲の眼を逃れ武士を捨てて肥後の国の阿蘇山麓の種山村に身を隠した。そして百姓と石工を生業とし,アーチの計算法や石積法を自力で研究開発した。この石工を生業として小さな石橋を作り,これを実験橋として自らの橋梁技術を掴みとっていた。
 種山村を根拠地として藤原林七はその子供にも技術を教えて石工の集団を作っていった。これを種山一族とも種山組ともいわれる石工の集団ともなった。そして肥後の国では多くの石造アーチ橋が架設されるようになり,水路橋も設けられるようになった。この肥後の国の石造アーチ橋は長崎のそれと比較して少し異なる。まず壁石の積み方が変った。長崎のそれは整然と水平積みを重ねて行くのに対して,肥後のは乱れ積みである。また長崎のは扁平なアーチからなる橋が多いが,肥後のは半円形に近いアーチ型式が多い。高欄も異なる。これは長崎の橋は鎖国前にポルトガル人から石造アーチ橋の設計技術を詳細に教わったために完成された設計技術から安心して扁平なアーチとし,外国を真似して水平積としたと考えられ,肥後の橋は円周率を用いる円孤計算を修得しただけで後は自分で研究したことから半円形に近く,外国の実例を教わらないので日本式に乱れ積となったと考えられる。
 なお,前述のように長崎へは各地から測量術や天文学とともに石造アーチ橋の技術修得に人々が集って来たので,その中には肥後の国からもあった。それで肥後の国で数多くの石造アーチ橋が江戸末期には架けられたが,技術的には前記の種山一族と末次一族の流れをくむ2つの流れがあった。

4 鹿児島県下(薩摩)の石造アーチ橋
 薩摩藩の石造アーチ橋は島津藩の財政が良くなって城下町の鹿児島の治水や交通の便を良くするために石造アーチ橋を架けることになった。財政が貧乏ならば長崎へ勉強に出してからということになるが,豊かな財政をもとに,熊本つまり肥後の国から石工の棟梁である種山一族の藤原林七の息子三五郎とその一族を招いて架橋を始めた。天保11年(1840)で幕末に当る。
 橋は鹿児島市内を流れる甲突川で,費用は全部島津藩が出し,架橋の責任者は三五郎1人にまかされていた。三五郎(苗字帯刀を許され岩永三五郎)は次から次へと架橋し,甲突川に4連のアーチ橋を5橋架橋し,更に鹿児島市内を離れて地方でも数多く架けた。この甲突川の4連のアーチ橋は現代技術からみても立派であり,幕末当時の日本の石造アーチ橋の技術の成熟したものが見られる。そしてこの橋が現存し,自動車交通に供用されている。
 なお,前述のように同じ鹿児島県下でも坊の津港の町に残る吉野太鼓橋や中坊橋は沖縄の流れをくみ,中国系の技術である。鹿児島市内の甲突川の5橋は円周率を用いる円孤計算を習得しただけで後は自分で研究して日本の城郭建築の技術も取り入れたことから純日本系の技術といえる。これに対して長崎の20余の石造アーチ橋については設計技術がポルトガルの直輸入であるのでポルトガル系の技術といえる。九州には以上の3つの技術が混在融合したのである。
 ただ,ここで疑問が残るのは素人のお坊さんが,当時のインテリとはいえ,自分の祖国中国にこんな橋があるとして,円周率の計算も判らないのに素人の石工が架橋できるかということである。現実に現存する長崎の眼鏡橋を調査すると,とてもそんなことは考えられない。
 もともとアーチの原理を発見したのはイタリアの西部にいたエトルリア人といわれる。これがローマに征服されるとともにアーチ技術も伝承されてローマ帝国時代には数多くのアーチの構造物が建設されている。それがシルクロードを通って中国に渡り,中国は良質な石材を産するところから石造アーチ橋の技術が発達し,中国独得の架橋技術をなすに至った。その実例として先に述べた中国の安済橋(写真4)であって,1200年も前にこれだけの石造アーチ橋を架橋する技術を有するに至っている。この発達した中国の石造アーチ橋の技術を素人の僧が平戸の石工に教えて,眼鏡橋を作ったとは常識上考えられない。
 ポルトガルはマカオを植民地とし,1543年には種子島へ来て鉄砲を伝え,次いで平戸に来航して貿易を始めている。オランダより早い。次いで長崎の出島が開港した。このときに長崎代官で末次平蔵というのがいて,外国人との交際を通じて外国の文化を学び,特にヨーロッパで発達している石造アーチ橋に興味を持ってその設計法をポルトガル人から修得した。
 以上から発意者の僧如定は祖国中国の石造アーチ橋を思い出し,その人徳から資金を集め,末次平蔵の設計技術と,平戸の石工たちの経験から長崎の眼鏡橋は完成したものと考えられる。
 長崎の眼鏡橋が完成して翌年の1635年に幕府は鎖国令を発し,さらに4年後の1639年にはポルトガル船の来航を禁止した。オランダとは貿易を長崎出島で行なっていたが,オランダは石材を産しない国なので石造アーチ橋の技術を有しない。鎖国後も中国とも貿易をしたが何故か中国の石造アーチ橋の技術の伝来は無い。これは後で述べる。
 ポルトガルとの交流が無くなったために,石造アーチ橋の設計技術を有するのは末次平蔵だけであった。そして未次一族の秘伝として閉じ込められてしまうようになる。
 当時長崎には在留中国人が多かった。それは当時の中国は明で政情は不安であり,やがて清に滅されるのであるが,それで日本へ亡命した在留中国人が多かったのである。そして在留中国人は日本へ来て貿易で栄えるのであるが,平和な日本への感謝の気持から,私財をはたいて眼鏡橋につづいて長崎市内の中島川に次から次へと石造アーチ橋を架橋した。眼鏡橋以外の橋は一連の単一アーチ橋でアーチが扁平なので眼鏡橋とは区別されて呼ばれた。そしてそのうちに官費で架橋されるようになり約70年間に20橋以上も長崎市内で架橋されるに至った。
 長崎の石造アーチ橋の噂は,またたく間に九州一円に広がり,永久不壤の橋と評判を得て,各地の石工はその秘伝を学ぶために長崎に赴いたという。そして円周率などの基礎理論を学んだものと思われる。

5 熊本県下(肥後)の石造アーチ橋の発達
 長崎奉行所に勤めていた藤原林七(1756生)という武士がいた。彼は進歩的で好奇心の強い武士で,勤務する長崎市内にすでに20橋以上も存在していた石造アーチ橋に興味を示した。長崎以外には殆ど無かったのである。

6 石造アーチ橋の技術の伝播
 この石造アーチ橋の技術は中国から沖縄へ,ポルトガルから中国の影響も受けつつ,長崎へ伝来している。長崎の技術は前術のように熊本(肥後)をはじめ九州全域に伝播し,鹿児島(薩摩)で最後に日本の架橋技術の花を咲かせている。この技術が九州以外に伝播しなかった理由として,一子相傅という封建時代独特の技術継承方式もあるが,一番大きいのは徳川幕府の対諸藩政策である。
 徳川幕府は治安対策上江戸へ向う重要な術道筋には架橋を認めそいない。ただ九州あたりで立派な石橋が幾ら完成しても,九州は江戸からみれば西の果てであって心配は無い。石橋のことは長崎が幕府の直轄地であったから十分情報は江戸の幕府に判っていたのである。幕府は九州以外に石造りアーチ橋を架けさせなかった。例えば岡山の池田藩では技術の修得に藩士たちを長崎に出した。藩士たちの帰藩する以前に池田藩で城内の庭石を少し動かしたところ,幕府から堡塁を作るものとしてとがめられた。事前の警告である。池田藩ではすべてをさとり,藩士たちは長崎から帰藩することができず,九州で石工として暮すこととなった。
 明治維新になっても石造りアーチ橋は日本の橋梁技術として各地で架けられた。勿論九州地方が多かったが,東京でもそれまで木橋であった宮城の二重橋をはじめ,江戸橋,日本橋,万世橋など,多くの橋が架けられている。全国的にみて石造りアーチ橋は大正時代まで続くが,鉄筋コンクリート橋や鋼橋の出現で終末を迎えるのが大正時代の末である。

Ⅶ アメリカの最新道路技術の導入(スリップフォームペーバーによるコンクリート舗装)
 スリップフォームペーバーによるコンクリート舗装,略してスリップフォーム工法の元祖はアメリカである。そしてまず早速,フランス,イギリス,オランダ等のヨーロッパ先進諸国が導入したが,これら諸国は型枠を用いた従来のコンクリート舗装の技術を既に持っていたので,技術導入は簡単であった。アメリカから機械を輸入し,アメリカの施工現場を見学し,アメリカから技術者を呼んで初めての施工に立会わせることだけで技術を学ぶことができた。元祖のアメリカが何故スリップフォーム工法を開発したかといえば,人手不足が原因であった。建設労務者の賃金が高いのは,すべての労力費の高いアメリカでは当然である。高いだけでなく人手が足りない。戦後,アメリカはInter-state Highwayを大々的に整備することとなって道路事業量が増大した。この増大した膨大な事業量を消化するためには,同じ人員で施工量を延ばす以外にはない。材料費が多少高価についても施工量を延ばすことによって人件費が安くなって,総体の工事費が安くなれば良いのである。そのうえアメリカではAASHO試験の結果から一時全盛を極めたアスファルト舗装に代ってコンクリート舗装の良さが見直されるようになり,しかもアスファルト舗装よりもスリップ工法のコンクリート舗装の方が一日の施工延長が長いということから,アメリカでスリップ工法が主として高速道路を初めとする幹線道路で大々的に用いられるようになったのである。

1 日本の技術導入の背景
 日本の道路舗装は,大正の中期から昭和35年(1960)頃までは主要道路の舗装は殆どがコンクリート舗装であった。その後道路事業が急激な増加をみた昭和35年(1960)頃から主要道路にもアスファルト舗装が採用されるようになった。以後早期に供用開始ができ,作業性に富み,平坦性が良く,なおかつ維持修繕が容易であるなど,数々の特徴を持ったアスファルト舗装が急激に脚光をあび,昭和40年(1965)頃には国道舗装の40%以上がアスファルト舗装で占められるようになった。その頃からアスファルト舗装の弱点も指摘され,アスファルト舗装万能に対する批判も出始め,道路交通量の急激な増加による舗装の破壊に頭をかかえざるを得なくなり,またアスファルト舗装の総厚が1メートルを超え,アスファルト安定処理層以上の厚さが30センチぐらいになるに及んで,必ずしもアスファルト舗装の方がコンクリート舗装よりコストが安いとはいえなくなった。そして1962年(昭和37)にアメリカの州道路技術者協会(AASHO)が約10年の歳月と100億円に及ぶ巨費を投じて大規模な舗装の試験を行ない,その結果が発表されたことなどによって,わが国においてもコンクリート舗装の良さが再認識されるに至った。
 一方,コンクリート舗装用の機械は,昭和35年(1960)以降施工量の激減とともに,施工機械も十分償却されず機械の進歩も停滞し,舗装業者も将来のコンクリート舗装の伸びの見通しとの関連から積極的な設備投資を行なわなかった。
 以上のような日本の国内情勢から,道路事業量が増大しコンクリート舗装の拡大を計画するにあたり,アメリカで新らしく開発され大規模に施工されつつあったスリップフォーム工法を取り入れることとなった。スリップフォーム工法が用いられた理由のひとつに,欧米先進諸国に用いられている道路技術について,同じ先進国の仲間である日本もそれを修得して同じレベルに達して置く必要があったからである。それが日本の国情に合致しているかどうかは別であった。

2 機械の輸入と技術導入
 わが国では新しい建設機械を用いるときには発註者である役所側で購入して請負業者に貸与して施工するならわしがあった。そしてその建設機械が普偏化するに至って請負業者が所有しても経済的にペイするようになり,それで初めて役所で購入せず請負業者が所有するようになっていた。スリップフォームペーバーも例外ではなかった。
 わが国もヨーロッパ先進諸国と同じように,型枠を用いた従来のコンクリート舗装の技術(セットフォーム工法)を多少数年の技術の遅れはあったにせよ既に持っていた。フランス,イギリス,オランダなどの諸国と同じパターンで十分技術導入できる自信があった。
 昭和43年度(1968)に建設省では建設機械整備費で7千万円の予算を計上し,スリップフォーム工法の舗装機械を購入することとなった。スリップフォーム工法の中心をなすスリップフォームペーバーは国産が無理でヨーロッパ諸国がアメリカから購入したと同じようにアメリカから輸入することとし,他の機械は国産することとした。スプレッダーはアグリゲートスプレッダーを少し改良するだけで2層打ちの場合の1層目の打設用に用いることとし,2層打ちの場合の2層目の打設用に用いる横取機は国産することとした。メッシュカートも国産することとした。
 以上の舗装用の機械を選定するにあたり,アメリカからスリップフォーム工法の文献を取り寄せただけで検討して決めた。スリップフォームペーバーがアメリカから輸入され,国産の舗装機械も勢揃いしてから,わが国からアメリカヘスリップフォーム工法の現地調査団が派遣されたが,これは逆であった。若し現地調査団が先に派遣されていたならば,恐らく舗装機械の選定は異なっていたであろう。
 とにかく,昭和44年(1969)4月に,22名からなる官民合同のスリップフォーム工法調査団がわが国からアメリカへ派遣された。4月12日からの15日間である。
 一行は先ずサンフランシスコに到着して,シカゴを経由して,ケンタッキー州のルイスビルのREX-CHAINBELT社を訪問した。このメーカーは日本が購入したスリップフォームペーバーのメーカーである。ここで担当者からスリップフォーム工法について,スライドおよび資料により説明を2日間にわたって受けた。続いて一行はミシシッピー州のジャクソンに飛び,その郊外で施工中のスリップフォーム工法の現場を一日中見学した。一行は更にニューオリンズ,ニューヨーク,ワシントンを経て,ノースカロライナ州のシャーロッテに飛び,その郊外で施工中のスリップフォーム工法の現場を一日中見学した。一行はワシントンからロスアンゼルスおよびハワイを経て帰国した。
 往復の所要時間を含めて15日間のわずかな時間であったが,一行は日本におけるコンクリート舗装について,それぞれの専門の分野でエキスパートであった。従来の工法であるセットフォーム工法の経験しか無かったのであるが,REX-CHAIN-BELT社における説明と質疑応答,そして2ケ所の施工現場における一日中の見学により大要を修得して帰国した。

3 日本における施工
 スリップフォーム工法のコンクリート舗装は昭和44年(1969)に国道17号線の新大宮バイパスで延長約13キロメートルの2車線で日本で初めて施工された。はじめは空地を利用して約70メートルの試験施工を行ない,あとは本線で施工した。REX-CHAINBELT社から技術員が派遣されてその指導を受けたが,3日間ほどで,スリップフォームペーバーの操作に関して細かいところのノーハウを修得した。
 スリップフォーム工法は施工能力が大きいので,アメリカあたりではコンクリートプラントを専門に設けることが多いが,日本では色々な制約があって生コンクリート工場から供給を受けざるを得なかった。これがため,生コンクリ一ト工場のコンクリートの供給能力に一日の施工能力が限定されることになった。それでも1車線で一日1140メートルも施工する実績を残した。これは従来のセットフォーム工法による実績の約10倍であった。そして仕上りはアメリカで視察した現場と何ら損色はなく,従来のセットフォーム工法によるコンクリート舗装と劣るところは無かった。施工に要する人員はスリップフォーム工法もセットフォーム工法もあまり変りはなく,ただ施工能力の大きい分だけ人件費がスリップフォーム工法の場合に安価であった。
 新大宮バイパスに引き続いて,国道20号線甲府バイパス,国道50号線佐野バイパス,国道6号線水戸バイパスで施工された。それぞれ好成績を納めて,日本の施工業者も技術を修得しえた。

4 技術導入の成果
 スリップフォームペーバーによるコンクリート舗装,つまりスリップフォーム工法のコンクリート舗装も日本はその技術を直ぐ修得して欧米各国なみに自分のものとし,機械メーカーの中には早速輸入したREX-CHAINBELT社の機械をみて国産品を製作したメーカーもあった。しかし上述の4バイパスの施工を終了すると,日本ではスリップフォーム工法を修得しただけで2度と施工することは無かった。
 以上のように日本で折角修得した技術を何故活用しなかったかというと,まず,スリップフォーム工法に適した大規模な現場が日本には少ないこと,横断構造物が多くてスリップフォームペーバーを有効に活用できなかったこと,生コンクリート工場の能力に制約を受けてコンクリートの供給が十分でなかったこと,スリップフォーム工法に適した連続鉄筋コンクリート舗装を日本ではあまり使用していないこと,が原因であった。簡単にいえば日本の国情に適した工法では無かったこととなる。ただ,これにより日本も欧米なみにスリップフォーム工法の施工も出来るという自信が得られた。そして特筆すべきことは,これを契機として,セットフォーム工法によるコンクリート舗装の大規模施工が日本で施工されるようになったことである。スリップフォーム工法の大規模施工能力をそのままセットフォーム工法に活用し,従来の能力の数倍の施工能力を持つようになった。スリップフォーム工法の日本への導入は,セットフォーム工法によるコンクリート舗装の大規模施工能力の向上ということで日本に技術能力の向上というみのりをもたらした。
参考文献
〔1〕 日本道路協会『日本道路史』
〔2〕 石井一郎『バイパス計画論』理工圓書
〔3〕 太田静六『眼鏡橋西洋建築』西日本新聞
〔4〕 斉藤公男『架構技術の遺産と創造』カラムNO.70
〔1〕 石井一郎『スリップフォームペーバーによるコンクリート舗装』日本道路建設業協会