経済思想

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移植型大工業と在来産業

著者名: 長幸男
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次
まえがき――方法論的スケッチ・・・・・・・・・・2
1 実業観の対立・・・・・・・・・・7
2 前田正名の在来産業重視・・・・・・・・・・9
3 福沢諭吉の大実業家的自由主義・・・・・・・・・・14


まえがき――方法論的スケッチ

まず「経済思想」分科会のテーマについての自己了解をスケッチ的に述べておきたい。
近代産業社会が生成するためには,農(林業・牧畜・漁業をも加える)・鉱工の両面における一つの飛躍が必要である。その「飛躍」は多角的に究明されねばならない文化的諸側面をもっているが,ここで必要な範囲で叙述すれば,次のようにいうことができよう。財・サービスの生産拡大が社会成員一般の意識的活動の目的となり,そのためのテクノロジーの開発と利用がたとえ初めは蝸牛のように緩慢であっても徐々に速度を加え,社会全体が拡大再生産(GNPの継続的成長と資本財ストックの累積的形成)を競争による不可避の,必然的な運動法則(主観的に表現すれば「インセンティブ」)とする社会が形成される。それは,19世紀初頭に高くかかげられた「人類の進歩」を実現するための経済的過程にほかならない。こうした飛躍・発展が,イギリスを中心とし牽引力とした西欧社会において――西欧諸国間における量的・質的格差を伴いつつ――遂行された。そして,近代西欧産業社会は世界市場を形成し,そのテクノロジー・インパクト(工業製品の輸出・原料エネルギー資源の輸入・対外投資)を非西欧社会に加えることによって,それら社会の伝統的経済構造の分解をおしすすめながら,あるいは,伝統的経済構造の上に重層的に「近代産業社会」化のプロセスをおしすすめながら,今日開発途上国問題と第三世界問題とよばれる複雑かつ困難な課題をかかえる地域を形成した。
しかし,他面においては,OECD諸国に含まれるいわゆる先進諸国が,近代産業化の結果として,ユートピアに到達したわけではない。途上国に数倍する1人当り国民所得を生産している先進国も,失業やインフレになやみ,公害・環境問題も重大性をおびてきている。産業化による「豊かさ」の追求が,労働力・資源の人間的・効率的・均衡的配分に成功をおさめているわけではない。しかも,この事実が,資源エネルギー供給問題,そして途上国自体の開発問題と深くからみ合っていることはいうまでもない。
したがって,われわれがここで問うのは,先進国のテクノロジーを途上国に輸出する方法いかんといった狭義の(ないし,ハード・ウェアーとしての)ハウ・トゥ的な技術移転の課題ではない。近代産業の形成過程で,テクノロジーが当該社会の風土的歴史的諸条件に媒介されつつ,いかに社会的生産諸力の有機的構成部分として定着していったかという歴史的社会的経験を考察し,テクノロジーの利用による貧困や社会的災害克服の途をさぐりもとめることであろう。
産業化は環境主義者から多くの非難をうけている。また,しばしば文化人類学者は伝統社会のホメオスタシスのもたらす安定性を讃美する。たしかに途上国において地球的エコロジカル・サイクルに悪影響をおよぼすほどの乱開発が先進社会のGNP高成長を支えるために進められていたり,途上国の内部に生産諸力の未発達にもかかわらず,早熟的といっていいような公害が発生していることも事実である。しかし,途上国の一見平安に思える伝統社会的ホメオスタシスが,飢餓・疾病・貧困・人権無視などの悲惨さをメダルの裏側としていることもまた否定しえない。今日の世界経済は各国間の情報交流・交易濃密化を不可避としており,相互依存を強め,産業化とそれに伴う社会関係=構造変化をおしとどめがたく進めている。したがって,われわれは,産業社会化が途上国の悲惨を加重する面と解決する面とを,G・フランクの指摘するような「低開発の開発」という結びつきの側面に目を閉ざすことなく,しかし,あえて肯定面と否定面とを識別し,宿命的にではなく創造的に産業化の進むべき方向を模索してゆかねばならないであろう。この課題は,テクノロジーの進歩と社会の福祉向上に極めて楽観的であった歴史観への反省を含むとともに,ほとんど人間的省察をはなれて自動的に開発の道を進む傾向をもつ巨大テクノロジーを,いかに人間的に制御するかという,現在の世界史的課題を含んでいる。
明治以降の日本におけるテクノロジーの移転・転型・開発は,一つの歴史的個性的経験であって,それ自体として右のような広い展望の中での規範的モデルであるわけではない。しかし,人間は過去の経験に影響され,支配されるだけでなく,それから応用可能な意味ある知識ないし理念を抽出することができる存在である。われわれの部会は,いわばテクノロジーにおけるソフト・ウェアー,すなわち,日本においてテクノロジーを駆使した価値観・思考様式あるいは人間関係(職場・企業体・社会など)を考察することを課題としている。日本における経験を単に日本の特殊現象として個別化することではなく,その経験の含んでいる諸現象を普遍的に了解可能な事例研究として分析し表現したいと願っている。
私自身は当面の研究主題を,明治前・中期における前田正名を中心とした実業団運動の意義の究明にしぼる1)。
イギリスないしヨーロッパを中心にして地図を画くと日本は極東である。しかし,中国や東南アジア諸国の産業化や生活形態と比較すると,日本はむしろ西と東の融合点である。もちろん,東とか西,アジア的とかヨーロッパ的とかの尺度は何か,という点を論じはじめれば,議論は比較文化論のはなはだ複雑な問題に首をつっこむことになる。今はその迷路に足をふみ入れることなく迂廻することとしよう。テクノロジーの問題に限って考えれば,日本は福沢諭吉のいうところの「脱亜入欧」をみごとになしとげたといっていいだろう。ただし,アジア的というより日本的なるものを全く脱ぎ去ってヨーロッパ化したものでないことは言うを待たない。その点では佐久間象山の「東洋道徳・西洋芸術」という把握が的を射ている。しかし問題は更に「東洋道徳は西洋芸術を何故そして如何にして受入れたのであろうか」という,道徳と芸術(象山の用語法は美を表現するアートを意味するのでなく,広く技芸と学術を含む)との関係である。つまり,西欧では東洋とは異なった精神的伝統が17,8世紀の啓蒙思想を生みだし,その精神が近代テクノロジーを形成した。古代・中世では,中東・西欧の天文・土木建築・医学・軍事等の分野における自然科学・技術の高い達成にもかかわらず,それらは広汎な生産者たちの生産性を高めるテクノロジーとして普及・発展をとげることがなかった。近代合理主義ないし啓蒙主義は市民社会の形成を基盤として近代テクノロジーを生み出したのであった。したがって,「脱亜入欧」が可能であったとしたら,近代テクノロジーを受容するに適合した思想的態度ないし社会関係が,その概念構成や形態において西欧とは極めて異なっていながら,日本にも用意されていたのではないか,という点が問題となる。西欧の2千年近い思想的伝統とは文脈を異にする「東洋道徳」――日本の神々信仰や仏教と混淆しつつ儒教を主体とした学問体系で表現されてきた日本人の価値体系または思考方法――の中に,近代西欧文明における形式合理性(その意味で抽象的中立的で他の価値体系と接合可能性が高い)の精華であるテクノロジーを受入れ応用しうる思想的基盤が用意されており,それが明治以降の産業化を可能ならしめたと推論することができよう。そして,近代テクノロジーの受容を,19世紀前半に確立した西欧の工場制機械体系の輸入という視点だけでなく,むしろ,日本の在来産業・中小企業のはぐくんできた技術や組織との相関関係から考察しよう。
日本の場合徳川末期までに,農業に結びついた在来産業あるいは都市の職人ギルドにおける手工業的技術は,家内工業あるいは工場制手工業としてかなりの発展をとげていたといってよかろう。そしてまた,開国維新後の日本の輸出はこれら在来型諸産業によって支えられたのである。狭い意味での自給自足ではなく,国際分業の中に自国経済を組み入れながら,直接投資または間接投資の他国資本に過度に依存してその規制に従属することなく,(輸入資本元利は結局は輸入資本を活用して生みだした価値によって支払われねばならないから,輸入資本をいかに有効に機能させるかという受入国の主体的能力が決定的に重要である),自国経済の拡大再生産を可能とさせる産業構造=分業体系を形成する(つまり,国民経済の自立を維持達成する)ことが開放化と産業化にとって枢要点である。そのための生産力的基盤は農業を主体とした在来産業であったのである。
しかし,今日の開発途上国がそうであるように,先進国製品の流入や交通・運輸・通信・軍事等をふくむ高い技術のインパクトは,在来産業の再編成を余儀なくさせる。封鎖体系やほぼ同水準の外国経済との交流(水平的開放体系)の場合であれば,在来産業は競争のインパクトをうけながらも,比較優位の格差が質的隔絶ではないために,相対的に緩慢にテクノロジーの向上と企業規模の拡大を進めることが可能であろう。つまり,在来型手工業技術の改良または伝統技術を基礎とした技術革新によって,いわば連続的にテクノロジーの進化が行なわれるであろう。しかし,ある特定の在来産業が自己の技術水準を隔絶した生産力の外国産業のインパクトをうければ――つまり,垂直的開放体系の下では――,その在来産業は競争に敗れて消滅するか,在来技術を放棄して外国と同水準(ないしそれ以上)の技術を導入して新産業として再出発しなければならない。これが在来産業の転型・発展の第1パターンである。わが国の綿紡績業の場合がその良い例であろう。それは,外国綿花を輸入し(したがって,在来綿花栽培は消滅し,農業経営そのものを変化させる),外国から輸入した機械を用い(したがって,在来の手工業的家内紡績業は駆逐される),それを商業ベースに適するように改良し(伝統的に蓄積された技術や発想法が新体系の中に生かされ),日本的経営法(労資関係・労働慣行を含む)によって外国資本に対抗しうる輸入代替的近代産業に転身するのである。こうした隔絶した外国技術の導入の場合は,それが全く外国資本による植民地的経営になるのか,それとも,民族資本がその技術をマスターし,自国の経営者・技術者・労働者の総合力によって,模倣から自前技術開発へすすむ民族経営になるのかが,問題である。わが国の場合,合弁企業であった場合でも,結局は自前の民族経営になったといってよい。外資導入・外国人技術者雇用は自己資本の不足と技術の未成熟を可能な限り短期間に乗りこえるための方法であって,民族資本は単にレントナーとして利子・配当収益に甘んじ経営の真のリスクを回避するといった買弁型の資本にはならなかった。そうありえた背景には,日本の資本が商人資本・高利貸資本にとどまることなく,リスク・テイキングな固定資本形成に参加する産業資本的志向も持ちつつあったということができよう。少なくとも,幕末・明治中前期に買弁型の道に抵抗して,民族資本を形成しようとする運動が,組織的(殖産興業政策や実業団運動など)に,あるいは企業家の進取的改新的経営として個々的に,広汎に存在したといえよう。日本の場合,外国資本への依存というよりは,国家への依存(政府出資・補助金・技術援助から種々の特権供与にいたる多様な形態での国家の援助の享受)であり,主観的には国益擁護というスローガンでその特権享受を合理化する家産制的国家主義が強かったといってよかろう。
第2のパターンは,右のような輸入対抗型または輸入代替型の高水準テクノロジー移転・形成ではなくて,後発国に通常である輸入超過(それが国内における不生産的奢侈・軍事支出または輸入品に向う消費パターンの変化のためにであろうと,あるいは,内部蓄積を上まわる高成長のための生産手段・原材料等の輸入増加による場合であろうと)をまかなうための在来産業のテクノロジーの転型・発展である。開放体系以前においては,在来産業は,国内市場向けの諸商品にかかわる地方的産業であった。徳川封建制下での藩際交易の制限や株仲間の形成は在来産業の技術と規模を地方的なものとしたが,そうした地方的産業が封建的領主経済の下でも貢租や納屋物の流通などのルートをとおして全国的市場へ段々と広がっていったのであり,また,三都を中心に多くの城下町の職人的手工業も封建的市場制限の中に自然に開かれた細い通路をとおして名産品として全国的市場へと流れ出ていった。国家統一と開国とは在来産業諸生産物に国内市場を開放しただけでなく,生糸・織物・米・銅・茶・石炭・漆器・陶磁器等々の在来産業に広い海外市場を提供した。こうした市場の拡大に対応してこれら輸出型在来産業が生産技術や販売方法においていかに変化をとげたか――このような在来産業テクノロジーの近代化が第2パターンである。
従来ともすれば第1パターンの移転・変容(日本型への改良)・開発が日本におけるテクノロジー近代化の主流として注目され,在来産業におけるテクノロジーの変化や,その変化が国民経済全体としてのテクノロジー近代化に占める意義が不当に軽視されてきたように思われる。しかしそれは再評価されねばなるまい。
(1) 第1パターンが可能になった基盤には,家内工業・工場制手工業のような中小零細企業によって構成されている在来産業によって培われてきた伝統的技術・経営経験等がある。そしてまた,近代的大工場工業はすべてを一貫して内製するだけでなく,多くの外業部ないし外注・下請工業の存在を必要とした。そうした分野で近代的工業生産に必要とされ,したがって近代的テクノロジーに対応しうる器機や部品の生産が行なわれ,在来産業から育ってきた職人・職工・親方層がその担い手となった。そうした意味において,第1パターン成立のための有機的構成部分あるいは土台として在来産業の一定の発展が必要である。現代において途上国に先進国大企業の海外工場が設置される場合,部品工場(本国における下請工場)が同時に進出を余儀なくされる理由の一つは,途上国における在来型中小企業の停滞性にあるといえよう。
テクノロジーの移転・受容にとって在来産業技術と先進技術をいかに接合するか――いいかえれば,在来産業のテクノロジーの近代化こそが大型新鋭技術の都市型導入にもまして重要である。このような中小企業の育成なくしては,工場制大工業の真の定着は技術的にも経済的にも困難であろう。中小企業レベルにおける技術者・労働者の水準の高さなしには大型近代工業の技術の質や操業度も著しく低下してしまうし,また,中小企業の発展が大工業製品の国内市場を形成する重要な要素でもあるからである。
(2)在来産業重視の第2の理由は,それら産業が産業化社会の形成過程において外貸獲得のための当面の輸出力であるのみならず,途上国における産業そのものの支配的部分を形成しているからである。農林漁畜産とその関連加工業をふくむ在来産業の発展はそれら諸産業の担い手たちの生産力向上と所得増大をもたらし,国富の増大・国内市場の拡大に結びつき,第1パターンのテクノロジーの導入を国民経済自立にとって有意義ならしめる土台を形成する。
以上,(1),(2)の理由からして,本小論では第2パターンの問題を主たる焦点において考察を進めることにしよう。

1 実業観の対立

福沢諭吉は,1897年(明治30)3月28日に,「明治15年始めて・・・・・・発兌してより・・・・・・唯実業の推進にのみ力を尽して其発達を冀望したりし2)」『時事新報』紙上に「農商務省の大改革」と題する論説を発表し,あえて直接に名指してはいないが,元農商務省次官で,当時農商務大臣就任の呼び声もあった前田正名を痛烈に非難した。
斯くて当局者を更迭せしめて其後任は如何と云ふに,本来農商務省の如きは実際に有るも無きも差支なきものなれば,苟も現任者ほどの不始末を演ぜざるものならんには,如何なる人物にても我輩に於ては敢て異論なしと雖も,爰に断じて許す可からざる一種の人物こそあれ。即ち彼の珍らしくもなき精神家なる者にして,本来無識無学,文明の思想に乏しく普通の感識さへなくして,固より商売実業発達の理勢を知らず,区々たる人為の保護干渉を以て興業殖産の目的を達し得べしなど盲信する輩にして,其所論都て聞くに足らずと雖も,此の輩が訳けもなく漫に実業談を弄び,多識多能と自ら称して,能く其底を叩けば真実の無識無能にてありながら,物に触れ事に当りて如何にも深切らしき其郷愿の熱心こそ,却て凡俗社会の衆愚を動かして意外の辺に勢力ありと云ふ。畢竟当局者として今回の如き愚案を提出せしめたるも,其輩の熱心与て大に力あるよしなれば,或は更迭談に就ては是種の熱心家を後任に擬するものあるやも図る可らずと雖も,若しも万一かかる事実を見ることもあらんには,一般の迷惑は如何なる可きや。国中の実業家は恰も狂人の監督の下に立せらるゝも同様にして,剣呑至極,溜るものに非ず。既に前年農商務省にて勤勉儲蓄などの行脚政略を演じたる先例もありて,熱心狂の運動は最早や懲り懲りしたる所なれば,今更ら其再発は断じて御免を蒙る可し。然るに若しも政府が何かの情実にて是種人物を後任に据うることもあらんには,我輩は実業の利害の為めに決して黙するを得ず,農商務省を無用の長物,否な,有害の毒物と認めて真正面より其廃止を唱う可し。妥に一言し置くものなり3)。
この極めて政治的な直言が発せられた背景を知ることが,この文章の含意を理解するのに必要である。
この論説の出た翌日,1897年(明治30)3月29日に榎本武揚農商務大臣は辞任しており,その職を大隈外務大臣が兼任したが,11月になって大隈が退任し山田信道が就任している。榎本の後任として前田正名の可能性もあったことは,福沢のこの激しい論難によっても推測されるが,それはついに実現しなかった。『時事新報』を使っての福沢のジャーナリスティックな政治運動は功を奏したといってよかろう。
榎本の辞任は,同年同月3日,足尾鉱毒の被害者2千余人が大挙して東京に向い,館林・佐野・古河などで警官隊と衝突し,東京では8百人が日比谷に集結し,農商務省をかこみ鉱業停止を強力に請願したという騒然たる世情への責任を問われたのである。これより先,榎本は同月18日,右の事態に関連し,同年2月4日に提出されていた質問書に樺山内相と連名にて答弁し「之を等閑に付し去るにあらず」との政府の立場を説明するとともに,翌19日には谷干城,津田仙らが被害地を巡視し,22日には榎本自らが津田らとともに被害地を巡視した。榎本は巡視中に冷淡とそしられたが,帰京して大隈と相談のうえ閣議にかけ,内閣に足尾銅山鉱毒調査会を設けた。しかし,榎本の辞任を三宅雪嶺はこう評している――「榎本は江戸子気質にて一図に感ぜるにや,解決の困難を察し,局を遠ざからんとしてにや,農相として斯かる被害あるを知らざりし責任ありとて,辞職・・・・・・4)」。

祖田修教授の研究によれば,1896年(明治30)9月に松隈内閣が組織されようとした時,『興業意見』構想において真向から前田と対立して前田・高橋(是清)ら農商務省側の意見を押しつぶし流産させた松方が,前田を再び同省大臣に起用しようとしたが,前田自身がことわったという事情があったようであるが,祖田教授自身もそのいきさつは不明確であるとしている。松方は前田と同じく薩摩閥の出身であり,興業銀行構想をめぐって決定的に対立したものの,前田の産業運動に全面的に反対していたわけのものでなく,前田の組織した大会に出席したり,前田の法案請願に応じたりしている。したがって,日本勧業銀行法・農工銀行法が公布された(1896年=明治29,4月20日)後においては,松方の前田起用の可能性が絶無であったとはいえないだろう。もちろん,松方デフレ期における前田の地方分権的興業銀行構想と,日清戦争後のこの時点での勧銀・農工銀行設立とは,それが日本の経済構造を方向づける意味では,役割は大きく変ってきていることは否めない。しかし,精神家前田といえども歴史を元へ戻すことの不可能性は充分わかりきったことである以上,彼が実業団運動を通じて要求しつづけた勧銀案が日の目をみた以上,両者の対立は緩和されていたと考えてもよいだろう。

2 前田正名の在来産業重視――『興業意見』と『産業』

では,福沢の激した発言はなにに由来するのであろうか。それは福沢と前田との「実業観」の相違という経済思想の中にその根因を求めるべきであろう。
では,福沢にとって「御免蒙る」我慢のならない前田の実業観はどのようなものであったろうか。
『興業意見』巻2で次のようにのべている。
抑々今日ノ不景気ハ,十余年来頻リニ国力不相当ノ事ヲ起シ,民力不相当ノ品ヲ買ヘルト,商業ノ不慣ナルヲ以テ,祖先伝来ノ金銀ヲ失ヘルニ因ルナリ。5)
すなわち,在来産業の伝統的技術から一挙にとびはなれた外来産業にとびつき,そのために国民的貯蓄をこえた輸入をして貿易収支を悪化させ,準備金を失い,国内購買力を萎縮させ,不況を惹きおこした,というのである。したがって,わが国の不景気は互に貿易戦争を対等に営む英国・和蘭・米国などの諸国がある国の貿易不均衡を引き金として連動的に不景気をもたらすのとは異なっている。わが国の生産力水準は自由競争,対等=自由貿易以前の段階にある。まず,貿易立国を可能ならしめる国内の自生的(または土着的)生産諸力を高め,生産的人民を豊かにすることが先決である。
当時(アンリ四世をさしている――引用者)仏国ノ富ヲ致セルハ豈偶然ナランヤ。其他英国ノ商業,独国ノ農業・・・・・・皆是レ明君賢相ノ賜モノナラサルハ無シ。偶然ニ起リ偶然ニ盛ナリシモノ・・・・未タ曽テ有ラサルナリ。富国ノ道他ナシ,人民ノ生活ヲ裕カ・・・・ナラシムルニ在り,之ヲ求メテ得サランカ,焉ンソ求テ得サルノ国,得サルノ時アランヤ6)。
前田はわが国を自由競争以前の重商主義的段階にありと見て,「明君賢相」,要するに政府の保護育成策によって「殖産興業」を進めることを説いているのである。そして彼は巻11の「精神」の「第2興業ニ要スル精神」「其5土地ニ適スル業ヲ起ス可キ事」において次のように主張する。
我日本国ハ如何ナル物産ヲ以テ適セルモノトナスカ。又其命脈ニ係ル所ハ,何等ノ物産ニアルカ。府県ニ於テモ,各其地ニ最モ適スルハ何ノ物産ニアルカヲ詳細考察セサルヘカラス。即チ京都府ノ織物,鹿児島県ノ煙草若クハ砂糖,群馬,福島二県ノ製糸ニ於ルカ如キ是ナリ。仏国ハ葡萄,織物,英国ハ石炭,鉄ヲ以テ其国々ノ百般事業ヲ振作シ,富強ノ基礎ヲ鞏固ナラシメシニアラスヤ。
勧業上ノ事ハ一大重事ナリ。其主任者カ計画ヲ定ムルニ当テハ,最モ鄭重新[ママ]密ナランコトヲ要ス。決シテ自己ノ好悪ヲ以テ勧業ノ方向ヲ定ム可ラス。凡ソ自己ノ精シキ事ニ偏シ,土地ノ適不適ヲ考ヘスシテ業ヲ勧メ,又世ノ風潮ニ連レ流行ヲ逐フテ業ヲ奨ムルハ,啻ニ益ナキノミナラス,一地方ノ経済ヲ攪乱スルノ害アリ。主任者ハ深ク注意シ,土地ノ適不適ヲ考へ,経済上ノ前後緩急ヲ考ヘテ勧業ノ基本ヲ定メ,百年ノ計ヲ立テサル可ラス7)。
前田が「明君賢相ノ賜モノ」という表現で含意せしめた殖産興業政策は,コルベール主義にみられるような,軍事と奢侈の財源をしぼりだすための王立集中マニュファクチュアや特権商人による貿易独占を意味するのではない。地方の在来産業の生産諸力の向上による民富の形成を意味していたのである。しかもそのような地方在来産業は決して当時としての巨大規模産業ではない。
地方今日ノ現状ヲ察シ又其実力ヲ考フルニ,農事ナリ,工業ナリ,社ヲ結ヒ資ヲ併セ,大ナル起業ヲ企ツルノ時ニアラス8)。
故ニ地方今日ノ現状ニテハ,資力不相当ノ起業ヲ為サンヨリハ,農家ニテハ一段ナリ一畝ナリ,自己所有ノ地面ニ就キ,肥料栽培其他ノ改良ニ注意セシメ,又其土地ニ適スヘキ植物ヲ裁植セシムル等,先ツ其卑近ナル処ヨリ誘導センコトヲ要ス。工業者ニモ亦漫リニ大機械ヲ備へ,工場ヲ設クルカ如キハ,後日ノ企望ニ附セシメ,従来ノ器機ヲ改良シ,徐々ニ其歩ヲ進マシムル様ニシ,専ラ注意ト勉強ヲ惹キ起スコト肝要ナリ。9)
そして,彼はこのような漸進的な在来産業育成=近代化(技術の向上改革と組織・規模の拡大)のためには,「金融ノ道ヲ開キ,資本ヲ助ケ」るよりは,衰頽をきわめた農商工を「放任」「看過」するのでなく,「政府ハ将来ノ計画ヲ立テゝ、之ヲ救済スルニ責任ヲ有スル」とする。それ故,前田は巻11 「第3 興業ニ要スル法規」において,在来産業の生産能力向上のための諸法規・諸施設について細かく具体的に列挙するのである。前田は,「法律発布ノ精神」「諸設置ノ精神」(傍点は引用者)と精神という表現を用いているが,それは単に倫理的観念的な心の持ち方を意味するのでなく,法律・設置の基本目的という実際的内容を意味していることを注意しなければならぬ。同巻の「第1 精神ノ主旨」において「法規ト資本ヲ活用スル所ノ精神是ナリ。此精神ナクンハ,万ノ資本百ノ法規アルモ死資ノミ。精神ハ五分ニ居リ,法律規則ハ四分ニ居リ,資本ハ僅ニ一分ニ居ルノミ10)」との記述は,たしかに,『興業意見』未定稿における興業銀行案消滅後の前田の屈折した挫折感を弁解しているとも読める。しかし,ただそれだけでなく,前田にとっては精神=妥当な目的・意義を内実とした法規・設置の実現,言いかえれば,農商工業者が開港後の内外市場の拡大に対応する活動規範と組織(生産・流通のための器機・施設と組織)の整備は何よりも重要であったのである。このことは「第3 興業ニ要スル法規」の「其3 農ニ係ル法律規則其他ノ精神」「其4商ニ係ル法律規則其他ノ精神」「其5 工ニ係ル・・・・・・(略)」「其6 本省庶務ニ要スル法律ノ精神」等の内容を一見すれば明瞭であろう。彼の実業団運動はこれらの目標を農工商業者たちみずからの力で実現しようとすることであった。
前田のこうした在来産業中心主義はほぼ一貫しており,保護主義(在来産業・幼稚産業哺育)の方針も変らない。
彼は1879年(明治12)にパリ万国博事務官長・在仏内務省勧商局および大蔵省商務局御用掛の仕事をおえて帰国し,その年の10月に『直接貿易意見一斑』を政府に提出し,後の彼の産業運動の原型となる直輸出と農商工業者の団結の発想を,胚芽のもつ単純さと濃密さにおいて表現しているのであるが,それに先立つ1877年(明治10)にフランスから7年ぶりに帰国し三田種育所を創設した頃,彼は峰源次郎11)に次のように語っていたという。
当時君の言に曰く,方今天下の事兵刃攘夷論の時代既に去れり。而して尚ほ攘夷せさるへからさるものあり。我が外国貿易是れなり。・・・・・・故に我輩努力奨励し而して貿易を以て外商を制せさるへからす。・・・・・・方今自由保護両貿易論紛々乱れて麻の如し。殊に「スチュアート・ミル」氏経済書の伝播するや苟も経済を言ふものは口を開けば自由を説かさるなし。是れ「スチュアート」氏の大家たる所以に由ると雖とも,畢竟我邦学者の実地の経験に乏しく道聴途説「スチュアート」氏の微意の在る所を知らす,徒に雷同するに過きさるなり。余は自由説を否拒するものに非らす,又保護説を死守するものに非らす。今日我邦実地の宜に適従し,保護すへきは保護し,終に我邦人民をして英国の如き自由の貿易を為すを得へき地位に至らしめんことを期するものなり。子以て何如をかすと。
前田の発想は全くフリードリヒ・リストの歴史学派の思想に通ずるものであり,リストの翻訳者大島貞益の『情勢論』(1891=明治24年刊)の主旨に符合するものである。そしてまた,「殖産興業ニ関スル建議書」(1874=明治7年)に表明された内務卿大久保利通の方針に合致するものであった。「建議書」はこう述べている。
大凡国ノ強弱ハ,人民ノ貧富ニ由リ人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ係ル,而シテ物産ノ多寡ハ,人民ノ工業ヲ尋ルニ,未ダ嘗テ政府政官ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザルナシ。・・・・・・工業物産ノ利ヨリ水陸運輸ノ便ニ至ルマテ,総シテ人民保護ノ緊要ニ属スルモノハ,宜シク国ノ風土習俗ニ応ジ,民ノ性情智識ニ従ツテ其方法ヲ制定シ,之ヲ以テ今日行政上ノ根軸ト為シ,其既ニ開成スルモノハ之ヲ保持シ,未ダ就緒ナラザルモノハ之ヲ誘導セサル可ラス。……我国天然ノ利ノ在ル処ヲ測リ,而シテ物産ノ増殖スベキ者将幾許アルヤ,工業ノ奨励スベキ者果シテ何ヲ以テ専主トスヘキヤ,能ク研究尋択シ,之ヲ人民ノ性情ト其知識ノ度ニ照応シテ,一定ノ法制ヲ設ケテ勧業殖産ノ事ヲ興起シ,一夫モ其業ヲ怠ル事ナク,一民モ其所ヲ得ザル憂ナカラシメ,且之ヲシテ殷富充足ノ域ニ進マシメン事ヲ12)
この方針は前田の『興業意見』の方針と一致しているが,それは大久保が岩倉使節団に加わって得た欧米の見聞によるとともに,建議書の内容自体に前田の在欧経験にもとづく殖産政策に関する意見が反映していたともいえよう。前田は1873年(明治6)3月,パリで大久保に会っているし,1877年(明治10)3月,帰国早々京都で大久保と会談している。そして同月31日,前田は大久保内務卿の下で御用掛・勧農局事務取扱に就任しているのであるから,「建議書」執筆自体に前田の意見がとりいれられていたと推測しても不当ではなかろう。
『興業意見』は緊縮財疎・信用引締の松方デフレ下の国民経済の苦難期を背景に作成されているので,「天然ノ利」と「人民ノ性情ト智識」に合致した「遺利」(前田がよく用いるところの輸出貿易の大宗を占める在来産業)の育成に力点をおいている,あるいはそれら産業を「専主」としているととが読みとれるのである。
前田が『所見』(1892=明治25年3月)刊行以後いわゆる「前田行脚」を敢行し,日本貿易協会を創立して会頭に就任し(1893年2月),全国茶業大会の開催に成功し(同年9月),雑誌『産業』を同年10月に創刊して,実業団運動が全国に広がりはじめ,彼の活動が上昇期にあった1894年(明治27)3月,前田は京都商業学校において演説し,彼の経済観・産業観を次のようにのべている。
余ハ此ニ特ニ一言セサルヘカラサルモノアリ,観察ノ標準如何ト云フノ一事ナリ。例ヘハ甲乙二者等シク日本ヲ以テ病者ト診定スルモ甲ハ微恙心ヲ労スルニ乃ハスト為シ,乙ハ危篤ニ瀕ス施治1日ヲ緩フスヘカラスト云フ。即チ甲ハ日ク電信蛛網ノ如ク鉄路殆ト全国ノ半ヲ貫ケリ,教育普ク山陬海陽ニ及ヒ輸出入ノ額年ニ其ノ数ヲ長ス,只町村ノ自治未タ全ク行ハレス法治国ノ体面未タ大ニ備ハサルヲ憾ミトスルノミ。乙ハ日ク甲ノ云フ所多クハ是レ虚影ノミ。夫レ町村ハ国家ノ基礎ニシテ農工商ハ立国ノ大本ナリ,然ルニ町村是未タ定ラス実力年毎ニ減シ,浮華奢侈ノ風漸ク長シテ良風美俗頓ニ地ヲ掃フ。農工商業ハ利益日ヲ閲シテ減シ,農ハ地力ヲ尽スノ余裕ナク収支常ニ償ハス,工ハ目前ノ活計ニ苦シミ粗製濫造ノ弊今ヤ往日二十倍ノ品ヲ出シテ,其当時ニ収メタル利益ノ百分ノ一ヲ得ル能ハサルモノ多シ,商ニ至テハ商権固ト自己ノ有ニアラサルカ為メ真正対等ノ商業ヲ営ム能ハス,乃チ価ヒスヘキ価ヒヲ以テ物品ヲ販鬻スルノカナク,僅ニ農工二者ヲ苦メテ同胞ノ膏血ニ衣食スルノミ,曽テ彼等ノ手ヲ以テ国利ヲ増進シ国力ヲ富強ナラシメシコトナシト云フモ過言ニアラサルヲ信ス。正名ハ実ニ乙者ノ説ヲ取ル者,而カモ是正名ノ意見ニアラス,其言皆調査ノ結果ニ出ス,豈ニ異邦殊域ノ書籍ニノミ倚頼シテ無責任ノ言論ヲ為スモノト同シカランヤ13)。
文中に前田自ら述べているように彼の立場は「乙」を代表する。後述するように,前田との鋭い対立を明らかにした福沢諭吉は,「甲」を代表しているといってよい。前田は開国維新以後の日本経済発展を楽観・悲観ノ2相においてとらえ,悲観的観察を調査に基づく実相として積極的に支持しているのである。この甲・乙の相対立する2つの観察は,当時の日本経済が対立するいずれかの像としてのみ存在していたということを示すものではない。むしろ「観察ノ標準」がどのように立てられたかによって――いいかえれば,社会的利害状況=社会的分業体系=生産諸力配置構造のいかなる地点ないし階層に自己を位置づけるかによって2つの様相が浮びあがってきているというべきであろう。輸出入貿易の増大や電信鉄道施設の普及などにみられる発展面は「虚影」であって,国の経済力=国富の源泉である直接生産者は衰頽におちいり,日本経済は「危篤ニ瀕ス」と前田は診断しているのである。それだけでなく,直接生産者の没落と内外商の収奪こそが輸出入の増進にみられるような「虚影」を生みだしているのだ,と主張しているといってよかろう。したがって直接生産者――範疇的表現をもちいれば,封建的大土地領有制の解体(=廃藩置県・地券交付)から生じたいわゆる地主制体系に包摂されつつある小自営農,農林水産に密接に結びついた小営業,伝統的技術に基礎をもつ都市の小商品生産者――の「危機」を救済して,国富を増進することに前田の実業団運動の目標があったのである。

3 福沢諭吉の大実業家的自由主義――『実業論』と『貧富論』

しかし,この前田演説の前年1893年(明治26)に福沢は『実業論』を刊行した。それは,『時事新報』社説として同年3月30日から4月15日まで15回にわたり発表された論説である。したがって,前田の主張はすでに福沢によって代表されていたような「実業」観に対する批判であったといえよう。では,福沢は日本経済をどのようにみるか。
福沢は『実業論』の序で「近年は商工界にも稍や活気を催ほし,外国の貿易,内国の製造,着々歩を進めて年1年に面目を新にし,前途将さに住境に入らんとするの風光は,即ち実業革命の期近きに在るを示す」とのべ,彼の日本経済観が,前田の述べるところの「甲」の観察に類することを明らかにしている。
同書の主張の目的は,これまで官界政界に職を求めていた士族・学生(=インテリゲンツィア)らを実業界に誘導し,政府の保護干渉を排除して,私的資本の自由競争と自由貿易をすすめ,わが国を「尚商立国」の経済大国たらしめることにある。その主張を裏づける論証の中に福沢が「発達を冀望した」実業の性格が示されている。
福沢が特に注目するのは紡績業の如き輸入代替的大機械工業である。彼は明治21-25年の輸出入品増減の統計をもとにして考察し,「輸出の数も2倍半の増加は全体のことゝして姑くさしおき,屏風の16倍7分より何百倍何千倍のものを挙れば,帽子,綿氈,羽二重,絹布類,洋傘,マッチ,地蓆類にして,何れも皆日本人の手に成り器械に成りしものゝみ。就中帽子,洋傘,マッチの如き単に輸入品のみを用ひたりしに,今は内に余りて外に出すもの甚だ少なからずして其進歩も亦速なり。又従前生糸は輸出すれども絹織物は迚も覚束なしなど云ひしものが・・・・・・西陣の織物には仏蘭西のゴブランを圧倒するものあり。又洋紙紡績糸の如きは・・・・・・外国品の輸入を防ぐは甚だ難からず。其海外に出るの日も遠きにあらざる可し。殊に紡績業の進歩発達は両3年来の出来事にして注意の価あるもの・・・・・・14)」とのべ,輸出量の増加に注目し,その発展の急速であることを誇示している。しかし,輸出諸商品の単位価格の下落(いいかえれば,交易条件の悪化)や輸出向生産者たちの稼得の窮迫状況にはふれていない。前田が指摘するのは貿易の絶対量の動向ではなく,まさにこの点なのである。
福沢は輸出増大の原因をまずわが国の学習能力または適応力に求める――「近年は職工の輩も知らず識らずの間に文明の新事業に慣れ,且技師も漸く効を奏して実地に用ふ可き者少なからず15)」。そして,日本人が商工事業に適している特性を次の3点に求める。
「第1,日本国人は性質順良にして能く長上の命に服し,正直にして盗心少し。是れは数千年来の宗旨世教の然らしむる所ならん16)」。それは,心学の道徳体系にみられるような,神儒仏を混淆した民衆の日常道徳である。ただし,福沢は心学者のように倫理それ自体に高い価値をおくのでなく,功利主義的立場で評価しているのである。
「第2に,日本国人が清潔を重んずるの一事は,商工の事業上より見て容易ならざるものと認めざるを得ず。・・・・・・之を実業に及ぼして自然に其業の秩序を助るの効力に至りては更に大なるものあり17)」。日本人の潔癖症は,作業が各個人の恣意にまかされる家内的手工業から脱出してマニュファクチュア,工場段階の技術および経営の近代化に進むのにとって適応した資質であることはいうまでもなかろう。この資質は,日本人の日常生活様式から芸術等にいたるあらゆる行動様式にしみとおっている,いわば民族性の一部である。
以上の2点の国民性に加うるに,福沢は「工場の事業に昼夜を徹して器機の運転を中止することなきと,職工の指端機敏にして能く工事に適すると,之に加ふるに賃銀の安きと,此3箇条は英国の日本に及ばざる所なり18)」として,「絶対的剰余価値生産条件」の具備,すなわち長時間労働・労働密度強化・低賃金による促進条件の具備をあげている。彼は以上の3つの条件がそろっている以上,「此[ママ]事業(紡績業のこと―引用者)に就て我国人の眼中既に印度なきのみならず,世界に高名なる英国の紡績にても永く日本に抵抗することは覚束なかる可し19)」と論断しているのである。すなわち,テクノロジー向上のもたらす労働生産性上昇による(「相対的剰余価値」生産)は,「絶対的剰余価値」生産の高さと結びつくので[ママ],ますます増大するのである。
これらの主張の示すように,福沢は輸入代替産業とりわけ紡績業のごとき外来技術による機械工業を重視し,それが輸出立国のかなめであると考え,加工輸出型の国民経済形成過程における国内市場問題(=国内分業と民富形成)を比較的軽視しているのである。レトリックとしての誇張を含むとはいえ,「日本外に市場こそ多けれ,自国用に余るものは持出して売る可し。否な海外の販売を主にして其余るもの内に用ふ可きのみ20)」とまで言いきっている。
福沢はこうした実業の発達にとって,政府の干渉は害悪であるとして排除する。彼の主張を列挙しよう。
「偶ま政府の筋より手を出し喙を容るゝことあれば,不知不案内なる官吏輩が思付きしまゝに事を企て国益など称して騒々しき沙汰のみなれども,実際に益を為したる例は甚だ少なし。旧工部省を始め諸府県庁の実跡[ママ]に照らしても其無益なりしを証するに足る可し21)」。
「忍ぶ可らざるは民間の実業に関する法律規則の不都合にして干渉の甚だしき一事なり22)」(取引所条例,鉄道法等が例示されている―引用者)。
「民間の実業は政府の為めに妨げられて,例の入らざるお世話に苦しめらるるもの多きを発明することならん23)」。
福沢が政府干渉を不用にして害毒と断ずるのは「実業は政府に依頼せずして独立の進歩甚だ易し。・・・・・・実業は啻に独立するのみならず,社会全般の原動力と為りて政治の方針をも左右するの勢を成すは,我輩の信じて疑はざる所なり。・・・・・・金力の向ふ所に敵なきは文明自然の勢なり24)」として,実業が「政府の奨励を要せず。否な其奨励干渉こそ実際に於て却て厄介なれ。利に走るの人情は之を推進せざるも走るべし」とし,ホモ・エコノミックス=実業人に全幅の信頼をよせるからである。この『実業論』を貫くイデーは『西洋事情外論』その他の福沢の経済学に関する哲蒙書にみられる自由放任理念と連なっているのである。
このような実業観は,福沢が1891年(明治24)4月27日から5月21日まで13回にわたって『時事新報』社説として連載した「貧富論」において,露骨に示されている。明治23年には日本ではじめての資本主義的恐慌がおこっており,同年1月農商務次官に昇任した前田は5月には陸奥宗光の農商務大臣就任とともに辞任においこまれ,同省の前田一派は追放されている。
「貧富論」の立ち入った分析はここでは略すが,福沢は資本制市場経済における富と貧と双方の対極的蓄積を必然として認め,両者の対立による社会的危機を回避するために,「宗教を奨励し」,「教育の過度」を防いで「実用の実学を奨励し」,「富豪は随時に私財を散じ」公益慈善をたすけて「人言を静ならしめ」,さらに「海外移住を奨励助力」することを提案しているのである。封建社会から近代実業社会への移行・形成の必要と必然性を説くに精彩をはなった福沢は,実業社会の矛盾を解くについてはまことに貧弱といわざるをえない。
しかし,福沢のこの論文は,彼が封建的儒教体系から実学への思想的転換軸ととらえた「数俚」の立場に立って,恐慌下の現実をリアルに認識しようとしている。「抑も開国の国は鎖国の国に異なり,既に国を開て海外と文明の鋒を争ひ競争場裡に国家の生存を謀らんとするには,内の不愉快は之を顧るに遑あらず,仮令へ国民の貧富懸隔して苦楽相反するの不幸あるも瞑目して之を忍び,富豪の大なる者をして益々大ならしめ,以て対外の商戦に備へて不覚を取らざるの工風こそ正に今日の急務にして,識者の奨励する所なり25)」。福沢の説くところは「人情は熱し易くして教理は常に冷なり26)」と自ら記すごとく,冷徹且客観的といわざるをえない。福沢はいう――「中等の種族は次第に進歩して富域に達すべきやと言ふに,是亦甚だ易からず」「常に進まざるのみか,尋常一様の場合に於ては寧ろ退歩の勢あるものの如し27)」「何十年来日本の富源は大に増したるに非ず,或は養蚕製茶の事業その他に製造殖産の新利益を開きたるものありとするも,一方には人口の繁殖即ち貧民の増加年々に際限なくして,新利益の進歩と新貧民の増加と相互に平均することなれば,詰り国中富有の厚薄は昔年に等しと言はざるを得ず28)」福沢はかかる惨状の展開を「取りも直さず文明開化に伴ふ一種の不幸なれば29)」と見極めるのであるから,それは前田の見解とは全く対立せざるをえない。前田は福沢のいう「精神家」なるものであって,「物ニ問ウ」調査を重視したが,まさに「熱し易」い人情の人であり,このような惨状を坐視しえない。両者の思想の対立は実業観の対立としてあらわれ,福沢の都市型大産業に対して,前田の地方型在来中小産業の重視となってあらわれるのである。
日本の実業形成はこの2つのタイプの実業の並存と緊張の中で行なわれるのである。(未完)
〔続稿において実業思想と実業団運動について叙述したい。〕

1)私の前田正名に関する論文に次のものがある。本小論はすでに論じた問題をさらに焦点をしぼって解明しようとするものである。各論文は発表の目的・形式が異なっているので,内容・資料的な重複がある。
「明治前中期の小営業―前田正名の『産業」誌の主張をめぐって」(川島・松田編『国民経済の諸類型』)岩波書店,1968年。
「ナショナリズムと『産業』運動」(長・住谷編『近代日本経済思想史』Ⅰ)有斐閣,1969年。
「総合解題『前田正名と農事調査』(長・正田監修『明治中期産業運動資料」第1巻),日本経済評論社,1979年。
「解題『産業』」(同上第20巻(1)),同上,1979年。
「総合解題『前田正名と実業団運動』」(同上,第19巻),同上,1979年。なお,前田に関するまとまった伝記・研究書としては祖田修『前田正名』吉川弘文館,1973年,同『地方産業の思想と運動――前田正名を中心として――」ミネルヴァ書房。1980年がある。
2)『福沢諭吉選集』第3巻,岩波書店,1951年,183ページ。
3)『福沢諭吉全集』第15巻,岩波書店,1961年,638ページ。
4)三宅雪嶺『同時代史』第3巻,岩波書店,1950年,116ページ。
5)『明治前期財政経済史料集成』第18巻,改造社,1931年,36ページ。
6)同上,36ページ。
7)同上,436ページ。
8)同上,436ページ。
9)同上,436ページ。
10)同上,433ページ。この文章については,有泉貞夫氏の評価がある。核心の1つであった興業銀行構想を失った現行『興業意見』が『興業意見』未定稿の残骸にすぎず,この文章は,前田の精神主義のあわれな醜態を示すものと読んでいる。有泉氏の未定稿分析が『興業意見』研究における劃期的なものであり,未定稿と本稿とのギャップを衝いたその成果の意義を高く評価するものであるが,私の見解は本文のとおりである。有泉貞夫「興業意見の成立」(『史学雑誌』78巻10号,1969年)参照。なお,拜司静夫「不動産銀行の構想と農商務省」(『文経論叢」2巻2号),同「日本興業銀行条例案の挫折と農商務省」(『金融経済』130号)も参照。
11)『産業』第38号。
12)『大久保利通文書』第5巻,561-66ページ。
13)『産業』第5号。
14)前掲『福沢選集』211ページ。
15)同上,211ページ。
16)同上,213ページ。
17)同上,214ページ。
18)同上,220ページ。
19)同上,216ページ。
20)同上,222ページ。
21)22),23) 同上,198ページ,199ページ,201ページ。
24)同上,202-03ページ。
25),26),27)同上,322ページ,323ページ,300ページ。
28),29)同上,316ページ,325ページ。