技術と都市社会

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都市居住における適応技術の展開

著者名: 古屋野正伍
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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目 次
まえがき・・・・・・・・・・2
I 都市設計における宅地の細分化と裏長屋の形成・・・・・・・・・・2
Ⅱ 道路の建設と細民街の成立・・・・・・・・・・9
Ⅲ 盛り場における社寺の役割・・・・・・・・・・16
Ⅳ 細民層の人口動態と居住意識の展開・・・・・・・・・・23


まえがき

 わが国の都市居住が,都市そのものの設計のなかで,道路や住宅の建設との関連で,どのように形成されてきたか,とくにその居住者が制度や組織の面でこれにどう対応してきたか,を検討することをとおして,日本の都市居住にかかわる適応技術の展開を考察する。ここで道路を,都市と居住との一接点として設定し,また居住者については,とくに雑業に従事する低所得層を注目して,その生活行動を考察の対象におくことにする。これらの小市民は,とくに維新以後の社会変動のなかで,自由民権や文明開化に正面から身を投じた下級武士や上層町人とは,かなり異質の対応を示したもので,かれらに着目することは,ひとつには江戸と東京との比較とともに新首都東京と他の地方都市で対比してこれをとらえるためにも有効と判断したのである。

I 都市設計における宅地の細分化と裏長屋の形成

 古く『洛中洛外図屏風』(文化庁所藏本)に描かれた京都の街では,街路に面するかたちで街区の四周に町家が並び,その中央の部分が空地になっているのが印象的である。この空地は,その周囲を方形に囲む町家の裏の土地で,ここに井戸や厠が描かれており,この場所は,その街区を構成する幾世帯かの町家によって共有されていたものである。この一群の町家は,同一の家主の持家であったことも考えられるが,いずれにせよ,この屏風の描かれた室町時代に,町家がひとつの空地を共用していたのは興味深い。このような,方形の街区の中央に共用空地を残した京都風の町割は,江戸でもほぼ同様な形態のものが見られた。
 ところで江戸幕府による京都の居城である二條城の周辺の大名屋敷は,周囲を町家で囲まれた街区の中央につくられたものが多い。これは『洛中洛外図屏風』に見られるように,街区の中央部が空地であったところに建てられたもので,京都ではこのようにして町家の共用空間が失われていったと思われる。
 共用の空地は共同広場でもあったが,これが個別化され,ついに消失していく経過には,そこに住み着く商人や職人らの経済力の発展によるものもあった。島村昇らの技術者グループは,京都の一町内を集中的に調査した結果にもとづいて,つぎのように述べている。「町家に挟まれた街路は,流動的な空間であり,相対する家によって町が構成され,方形の家並が囲む内部の庭には井戸,便所,物置,蔬菜畑などがしつらえられた共同広場として,四つの町の人々がコミュニケートする空間でもあった。乱世の戦火をくぐってグリッドはなお生きつづけ,近世商工業者の躍動期に入ると,町人たちの経済力の上昇に裏打ちされて町家は中世の中庭へのびる。クラやハナレが作られ,共同広場の個別化が進行する。と同時に中庭を媒介とするヒューマン・コンタクトは薄らぎ,街路を挟んで向かい合う家に,町の緊密性が増大し,町家はグリッドの中であたうる限りの空間を機能的に内部化し,高密近代都市住宅の典型として完成され,現代に流れ込む1)。」
 この記述にはやや飛躍の感がないでもないが,この経過を図化したもの(図1)にも見られる,空地から街路への推移は示唆的である。いわゆる都市広場の存在を認め難い日本都市の原型を示すものがそこにあり,道路をはさんで向かい合う家並がひとつの町をつくり上げ,そこにはやくから町組と呼ばれた町民の自治組織の成立する萠芽を見ることができる。
図1.京の町内街区の変遷
同時に,街路そのものが或る程度広場の役割をも兼ねるようになることとも,無関係ではないと思われる。
 江戸のばあいはどうか。玉井哲雄によって三井文庫に収藏されていた土地台帳が紹介され,日本橋本町,本石町のあたりの宅地割が復元されたものによると,それは宝暦年間(1751‐63)から幕末にかけてのもので,この辺の街区は中央に会所地としての空地を残すものが多く見られる。しかし一部には,この会所地にあたる土地が宅地として細分化されているものもある2)。こうして古い町家のなかの空地がしだいにつぶされて,新しい町家が建設され,居住密度が高まるとともに,そこに新しい町内組織が形成されていったと思われる。
 宅地分割について,武家屋敷の場合はやや趣を異にする。例を金沢にとってみると,武家屋敷であった長町は,幕末にはすべて宅地であったが,明治末期には相当部分が畑になったことが,土地台帳から明らかである。しかしその後,鉄道の開通とともに,いったん減少した人口が再び増加に転じたことによって,長町は大正年間に入って再び宅地化しはじめた。武家の場合は,明治維新以後失職したことによって,その宅地を分割して売ったり,あるいは敷地内に借家を建てるものも多く,かれらの土地・家屋はしだいに人手に渡ることが多かった。こうして長町の宅地も,昭和初年に至ってさらに細分化がすすみ,宅地規模も当初の3分の1にまで減少している3)。
 このような武家屋敷の細分化の実態は,同じ金沢の武藏が辻に接する石屋小路の一角について,かなり顕著に見られる。4)ここは城に近接する高禄武家地であるが,図2と3に対比して示すように,天保当時(1830年代)と明治中期(1894年)との間には,大きな変化が読みとれる。武家地の跡が茶畑やリンゴ畠と化したほか,商家による細分化がすすみ,新設の石屋小路をはじめ,多くの裏通りが形成された。これは武家が去ったあとの新しい町づくりでもあったわけである。その後戦前までのあいだには,更に細分化されて,新しい街区が形成されたことはいうまでもない。
 城下町の町家は,通例同一職種を集めて構成されたことはよく知られている。たとえば職人の場合は,大工町,鍜冶屋町,木挽町,畳屋町,左官町,瓦町などであり,また商人の場合は,革屋町,塩屋町,油屋町,紙屋町などがある。これらの町名は現代までそのまま残存するものもあるが,しかしその町名に見合う職種が現存することはほとんどない。
 たとえば金沢の大工町の場合を見ると,犀川沿岸道路の裏道に,初期に120戸ほどの大工を集めてこの町がつくられた。これらの大工は藩の仕事とともに町方の仕事にも従事したと見られるが,藩主の隠居にともない一部は高岡に移住し,当初からの大工町に残ったものは,1811(文化8)年当時で50戸ほどであったといわれる。しかし現在の金沢の大工職の住民はいない。しかし住民に流出したが,大工町の宅地は,現在まで藩政時代のほとんどそのまま受け継がれている。この傾向は金沢に限らず全国的に見られるが,各戸の宅地が極めて零細化しているのも共通である。そしてその多くは借家であった。
 江戸の町方住民には,地主(家持),家守(家主),地借,および店借の4階層が設定されており,借家人は店借層に属する。店借には,表通りに住む表店借と,裏通りに住む裏店借とがあり,低所得層の主体は,「九尺二間の裏長屋」を住居とする裏店借であった。そして1802(享和2)年には,町方住民の半数以上が零細所得層のの細民であった5)。
 裏長屋の1棟の包摂する軒数は,2軒ないし10軒程度で,奇数も偶数もあった。
図2 金沢石屋小路居住図(天保頃)
図3 金沢石屋小路居住図(明治27年)
長屋1世帯の居住スペースは3坪から10坪で,6坪くらい(間口2間,奥行3間)が標準である。江戸の町人地の標準居住規模は,間口5間,奥行20間であり,この一筆規模の土地を長家化したものには,中央に約1間幅の通路を設け,その両側に長屋を建てるか,または,片側に通路をとって,梁間の広い長屋とするものもあった。各戸別とは専用の井戸と厠がなく,それは共同利用であった。その形態は図4に示したとおりである。6)これは京橋柳町の長屋であるが,5軒長屋から9軒長屋まで計6棟の長屋が,間口10間,奥行20軒の区劃に建てられており,合計41世帯が8カ所の厠と,1個の井戸を共用するという過密状態が見られる。
 長屋は江戸時代における都市への人口流入と,町人の階層分化に伴う細民の増加によって,かなり急速に形成された居住形態であり,わが国の集合住宅の起源をこれに求めることができる。
図4 江戸京橋柳町の長屋
その形態は,明治期に入って日本の不動産業の生成期に,もっとも基本的な賃貸住宅として普及したものである。これらの賃貸住宅は,地借人が建設して貸家業として営んだものであるが,前記例に見られる京橋近辺の借地では,裏通りで「地主1ケ年の利益2丁5分,悪シキ3分4分,良キハ6分7分極テ稀也」という評価にあわせて,地借人として利益をあげ得る程度に家賃が設定された。それは,間口二間,奥行3間の1棟に数戸の住宅をつくって,月額50銭から1円程度であった7)。
 賃貸集合住宅としての裏長屋は,江戸時代から明治中期頃まで,その形態を基本的に変えることなく維持された。明治中期以降,産業革命の進展とともに,地租改正や貨幣経済の浸透によって労働力の需要が高まり,さらにこれに対応する離農者や各種職人の流入があった。これらの流入者の住宅需要にこたえて,従来の裏長屋はますますその規模を拡大し,いわゆる細民街の形成がすすんだのである。これらの細民街は,後にみるように,都市内のいくつかの特定場所に集中するかたちをとったが,その位置は都市間を結ぶ主要道路との接点におかれる場合が多く,また個々の細民街の地域内も,込み入った裏通りや露路で結ばれた。この区域内で,長屋住まいの細民は,家主を軸とする親密な近隣関係を結び,いわば肩を寄せ合って生活上の有無を通じた。しかしそこに見られる大家・店子の関係は,昔日のものにくらべれば,しだいに異なる様相のものに変っていった。それは「人情」よりも「利害」の先行する関係への変化というべきであろう。

1)島村・鈴鹿他,『京の町屋―生活と空間の原理』1971年,12,13ページ。
2)講座・比較文化,第五巻,『日本人の技術』1977年,334ページ。
3)この項の記述は平井聖「都市の建設―町割と宅地割」前掲講座317‐340ページに負う。宅地の細分化は,町家の場合よりも,武家屋敷の場合に特に顕著に進行した。その理由は,江戸時代に土地処分の制限が法制上の建前となっていたこと,しかし武家屋敷や寺社地の場合はその制限が比較的緩和されていたことによると思われる。このような土地処分の法的緩和は,借地慣行を誘発することになった。たとえば江戸では,幕末期の総家数のうち,外神田・湯島・本郷地区では20%以上,北本所・小石川地区で5%前後,平均して10%以上が借地であった。とくに日本橋区内の借地は,問屋2876軒のうち,その約6割にあたる1648軒に達した。これは土地面積の約6割が武家地,2割が寺社地で占められた江戸の場合で,この割合は江戸初期にはもっと差が大きく,仙台・名古屋・金沢のばあいも,ほぼ同様であることが次表からも明らかである。
江戸時代初明(1650年頃)における諸都市の住区別面積
* :本データは,復元史料欄に示す各都市絵図を1万分の1の現状図に内藤が復元計測したもの
**:京都の都市域は御土居内としたので空地が多いことに注意
資料出所:内藤昌「江戸―屏風絵に見る都市づくり」『歴史読本』1978‐12,31ページ。
4)迎四三雄編『石屋小路町史』1973年,巻末2,3ページ。
5)『東京市史稿』救済篇第2,812ページ。当時の町奉行は,細民救済の見積りとして,その割合を町方住民の半数強としている。
6)一色史彦「日本における集合住宅の歴史」ジュリスト総合特集17号『集合住宅―居住性と維持・管理』1980年,61ページ。
7)小木新造は1879(明治12)年,「各区借家料貸地分合並約定」,「各区借地借家賃代価」にもとづき,東京15区内の裏長屋の家賃一覧表を作成して示した。(小木新造『東京庶民生活史研究』)1979年,89ページ。)裏長屋の家賃は区によって差があるが,各区共通としては,中通り並横町,二階瓦・板葺の借家で1円50銭から2円,藁茅葺,間口三間奥行四間のものは,表通りで1円,裏通りでは25銭から30銭,そして裏長屋では間口2間奥行3間の瓦・板葺の1棟数戸が35銭から75銭と計算している。

Ⅱ 道路の建設と細民街の成立

 江戸の初期から,参勤交代のため,特に必要に迫られたのは道路の整備であった。これはいわゆる五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州道中)の建設を中心に,全国的な道路網がしだいに形成されるにつれて,宿駅と伝馬の制度の充実が急がれたことにあらわれている。こうして陸上交通の便が進むとともに,他方河や海をめぐる水上交通の技術にも進展が見られた。とくに目立つのは瀬戸内海や琵琶湖の舟運の進歩であるが,他に千石船による海上交通が開かれ,これによって江戸に向けての大量の米の輸送もしだいに確保されてきた。こうして街道による陸上交通と,舟による海上交通とは,江戸時代の交通体系の両翼となったのである。
 このことはまた,都市間の交通を容易にし,参勤交代制の必要から生まれた交通路の整備は,国内各地の人間交流をも格段にすすめる効果をもたらした。とくに注目すべきは,近江商人や富山の配置売薬商人などによる商業活動の拡大と,大工・左官をはじめとする渡り職人や,さまざまな芸人集団の移動の活発化したことである1)。
 定住者である村人は,漂泊者として町から来る職人や芸人に対し,かれらの技術や芸能への関心はもちろん,重要なインフォーマントとしても歓迎する風があった。職人のなかには,大工・左官のほか,鋳物師,ふいご師,鍜冶師,木地師,漆師,など直接生産に関わるもののほか,下駄,傘,食器類の修理にたずさわるものもあった。また芸人集団としては,万才,猿廻し,獅子舞,傀儡師のほか,座頭,白柏子のたぐいがあった。これらの職人や芸人は,町では総じて細民として,零細,狭小な裏長屋に住んだ。その住居が,巡業等に便利な街道の近縁に集中していたのも特徴的であった。横山源之助の『日本の下層社会』(1898年)に記されたいわゆる3大貧窟として,四谷鮫河橋,芝新網,および下谷萬年町などがある2)。鮫が橋は甲州街道に面し,また萬年町は奥州道への出口に近かった。
 江戸時代以降,東海道をはじめ,都市間をつなぐ五街道の整備はかなり急速に進み,その機能には当時として見るべきものがあったが,都市内の道路はおしなべて狭隘,不揃いで,通行上の不便が大きかったといわれる。江戸の道路建設はどのようなものであったか。
 東京の前身である江戸の町づくりは,基本的には伝統の城下町型にのっとるものであったが,道路の設計などには,かなり斬新な手法も見られた。それは一言で要約すれば,江戸城を中核とする将軍の居町の整備と,日本橋を基点とする下町の道路設計との二極構成といえる。しかし道路の設計に際して,自然の景観との調和をはかろうとしたことや,下町の造成が時期的に大名の藩邸よりも先行したことなどは,かなり異例であった。これは家康の入城後,京都から移籍,江戸町奉行に任命された板倉勝重らの設計によるものである。
 下町の造成については,1590(天正18)年,第1期工事として,奥州街道に通じる日本橋以北の通町と,これに交差する本町通りの町割を,約1カ月半で完成している。ところが通町からは湯島台の突端,すなわち神田明神の丘が望まれ,またこれと87.5度の角度で交差する本町通りは,正面に富士山を望むことになる。第2期の工事は,関が原戦勝後,大名入居の必要から,1603(慶長8)年にはじまり,神田山を崩して「四方三十余町」の埋立てを基礎とし,南方品川までの土地造成である。通町はこのとき架設された日本橋で角度をやや西に変えているので筑波山が北望され,これと西に並行する掘割の更に西側には,上野忍ヶ岡を望む大名小路がほぼ同時に造成され,この近辺は後に政商三菱に払下げられた丸の内ビジネス街にあたる。さらに京橋以南の通町は後の銀座通りであり,これは芝増上寺山内の丸山を指呼する方向にある。こうして,江戸城の東側を囲むように,放射状の市街地がの構成された3)。
 これは図5に示すように,方形設計の組合せであるが,城を中心に環状形態をとることと,商家の集中する埋立地の術路から,近景の台地や遠景の富士・筑波がほぼ同じ仰角で望まれて,これらが町のアイ・ストップとなっている点は興味深い。
図5 寛永・承応期江戸市街中心部構成図
それが意図的な設計によるものか,単なる偶然かは必ずしも明らかではないが,ここに住み,あるいは道路を往来する庶民が,これらのアイ・ストップに何らかの象徴を見出し,日常行動のアクセントとしたことは容易に想像し得る。屋外にてごろな広場をもたない日本の市民にとって,これらの景観と結びついた道路空間は,そのまま都市広場の役割をも果たし得たであろう。しかし彼らによって,変動期を生き抜くための市民連帯の場を,そこにつくり得たとはいい難い。それはむしろ公衆浴場など,はるかに卑小なものであった。
 街路を挟んで向い合った町並がひとつの町を形成するのは,庶民による日本に特有な町づくりである。これは武家の支配下に,下請け的な機能を果たした,いわゆる「縁坐制」による町内完結社会としての自治組織であった。4)それはまたひとつの祭礼集団でもあり,江戸はこのような小自治体としての町の集合体であったともいわれる。しかしそこには,地主,家守やもり,地借ぢがり人,店借たながり人という厳然とした町人身分があり,地借以下は法制上の「町人」の範疇にも入れられなかった。
江戸の総人口は,幕府による最初の人口調査が行われた1721(享保6)年当時,町方のみで50万をすこし超えており,これとほぼ同数の武家方人口や僧侶・神官などを加えて,100万人以上に達していた。ここで特に印象的なのは,この町方人口の性比がきわめて大きかったことで,男32万強に対して女18万弱であった。この性差はその後しだいに縮少し,幕末(慶応3年9月)には,ほぼ同数に達している。この変化をもたらしたのは,江戸中期から幕末にかけての流入人口の構成によるところが大きいと思われる。すなわち,前期にはとくに男子の流入者が多かったのに対して,後期は男子がむしろ減少し,女子の流入者がふえたためであろう。1797(寛政9)年の人口調査で出生地別(江戸と他国)統計を含めた結果,1843(天保14)年7月に29.8%であった他国出生者が,1867(慶応3)年9月には21.7%に減少しており5),これは幕末にかけての流入人口の相対的減少を示すもので,上記の傾向をある程度説明し得るものと思われる。
 江戸の町方人口は1843(天保14)年7月で,出稼人を含めて58万7458人に達しており,これをピークとして6),その後やや減退した。ところでこれを層別にみると,1791(寛政3)年の段階で,名主262人,地主1万8876人,家守1万6727人となり,1家族平坪5人とすると計約18万人になる7)。つまり町方人口の約3分の1強がこれらの上層町人で占められ,残りの大部分が中下層の町人である地借と店借層であったことになる。そして1802(享和2)年において,町方住民の半分以上が低所得の細民であったことは,先にも見たとおりである。
 これら細民のが店借の雑業層であることはいうまでもない。明治初期における雑業層の分布を,いわゆる六大区の別にみれば表1および表2のようになる。
 各区の位置・管轄範囲は図6に示すとおりであるが,このうち第一大区と第五大区とがそれぞれ特色ある性格をもつ。両者に共通するのは戸数が他の区に倍する点であるが,第一大区は江戸時代からの都心地区として,最も都市的色彩が濃く,中心に近い日本橋・京橋地区は大商人の居住が多く,それをとり囲む隅田川沿岸は下層の店借人の居住を主とした。こうして他区よりも目立って多い商・工業者は,上層と下層の両極を擁していた。
表1 明治5年六大区の職業分類比(その1)
表2 明治5年六大区の職業分類比(その2)
図6 東京六大区の図(『東京市史稿』市街篇52より
 これに対して第五大区は,外神田から浅草,上野を含む隅田川上流に囲まれた地区で,奥州道に通じる場末でもある。そしてとくに雑業層が多く居住し,商・工業者も第一大区に次いで多い。しかし第一大区と異なるのは,総じて低所得層を主としたことである。このうち雑業層を中心に,とくに職人と日雇稼ぎの細民の居住状況を考察しよう。
 職人が居職人と出職人とに区別されることは,横山源之助の記述からも,よく知られている8)。居職人は,錺職・下駄・鼻緒・袋物・蒔絵・縫箔・製本・裁縫・塗物・煙管・提灯等の従事者に多く,出職人は,大工・左官・石工・瓦葺・塗装などを業とする。前者は多くは筋肉労働に従事したがなかには自前の店をもつものもあり,総じてオタナと称する問屋の支配下にあった。これに対して後者は,もっぱら労力を売って生計を立てるもので,個々の職人が得意場あるいは出入先と称する一種の雇傭関係をつくっていた。しかし双方ともある程度以上の特殊技術を要し,それは親方との強い結びつきによって習得・維持されたもので,農民などから容易に転換できない都市的職業でもあり,また低所得層のなかでも比較的上層に位置したわけである。職人層のなかには,店借よりも地借が比較的多いのはこのためであろう。ただ,出職人は,その得意場との関係が,時代の変遷につれ次第に崩れて,凝集性が弱まり,それだけ自立性を増したのに対して,居職入に対する問屋の支配力は,むしろ強化される傾向が見られた。
 かつての浅草・下谷の2区の合した現在の台東区には,図7に示すような業種別の問屋街が集中的に存在するが,これらのうち,①と②の履物関係と,⑪の人形関係は,いずれも明治初年から存在するもののようで,これらが隅田川の水運の便と,主要街道としての奥州道に通じる地区に立地していたことは興味深い。⑥の神具・佛具関係も古く,これが社寺の集中地点に近く存在したのは当然のことであった。
 つぎに日雇などを中心とする細民の居住地であるが,その一大集中地点は,下谷萬年町・山伏町であった。横山源之助は日雇(日稼人足)を6種に分け,(1)道路修繕,(2)土木工事(土方),(3)会社の使役者,(4)大工左官石工の従属者,(5)物品運搬(車力),(6)運搬者の従属者(立ちん坊)としている9)。これらの多くが道路交通に関連の深いことは容易に察知されよう。職人と親方との関係の緊密さについては先にふれたが,これらの日雇人と親方との関係は一般に稀薄であったらしい。横山はこのことに関して,「昨日道路修繕に出でたるもの今日橋梁の架換に出で,親方に対しては何等の徳義なく人情なし。併しながら一人の親方に所属して前借し,関係より離るるを得ずして僅に25,6銭の賃銀に,縄なきに縛られ居るも珍しからざるなり11)。」と述べ,その微妙な関係の一端にふれている。
 有数の細民街であった萬年町,山伏町は,浅草寺を中にはさんで,奥州道を結ぶ合羽橋通近辺の低湿地にあり,横山の記述によれば,「稼業は人足日傭取,人力車夫に次いで屑拾頗る多し,寧ろ萬年町の特色なりと言ふを得べきか11)。」とある。すなわち,土地が低湿で地価・家賃が安いこと,奥州道に近くさまざまな雑業の機会にめぐまれたこと,寺院や墓地を控え,かつ江戸から東京を通じての盛り場である浅草地区にあったことなど,日雇雑業層の居住地としての立地条件をほとんど完備していたといっても過言ではなかろう。
 それぞれ生業を異にし,下町の裏長屋に集住する雑業の低所得層は,横山も指摘するように,その居住様式の物理的条件からも,地域内で相互依存,有無相通の生活態度を身につけ,そこにひとつの生活完結社会を形成し,そのなかから無自覚のうちにも,潜在的な抵抗の精神を育てていったと思われる。日露戦後の1905年9月,講和反対の国民大会につづく民衆暴動(日比谷焼打事件)の被検挙者が,下町の雑業層を筆頭に,各種職人,下層労働者,小商人を主としたことは,これを裏付けるものであろう。かれらの多くは,隅田川沿岸の本所,浅草,下谷などの,いわゆる貧窟の住民であった。その集合地点が,浅草寺を含む寺社の境内や,市中の小公園であったことにも注目しておきたい。
図7 東京・台東区の問屋街

1)これらの職人による技術者集団と,芸能者の集団の移動にとくに注目したのは,柳田国男である。柳田のかんがえる都市は,農村と峻別される地域社会ではなく,都市は村人によってつくられることを強調している。江戸の中期以後の人口増加が,主として農民の流入によるものであることは,人口学的にもこれを裏付ける。さらに柳田は,「田舎の力の何としても否み難い一つの証拠は,町に祭りとか大きな催しとかのある度に,土地の賑ひの半分過ぎは,いつも村の人が来て作ることである」とする。しかしながら,村人が都市を見る目は,生産者としての優越感といったものだけではなく,都市は村人にとっての「世間」であり,知識の源泉であったことも指摘することを忘れていない。
(柳田国男『都市と農村』(定本柳田国男集,第16巻,241-317ページ)。
2)横山源之助『日本の下層社会』1898年初刊。1949年岩波版22ページ。
3)桐敷真次郎「江戸・東京の都市史および都市計画史的研究(1)」,東京都立大学,都市研究組織委員会『都市研究報告』24,1971年,1‐22ページ。
4)原田伴彦『日本町人道―市民的精神の源流―』1968年,133,134ページ。縁坐制とは五人組による連帯責任制で,室町幕府がこれをはじめ,戦国大名がこれを強化し,近世に至って成文化された。犯罪・反乱の防止と租税の完納を主目的とする制度である。
5)南和男『幕末江戸社会の研究』1978年,3,4ページ。
6)江戸最盛期の推定全人口は,130万人とされる(小木新造,前掲書,36ページ)
7)南,同書,4,5ページ。
8)横山,前掲書,73,74ページ。
9)横山,同書,28ページ。
10)横山,同書,29ページ。
11)横山,同書,24ページ。

Ⅲ 盛り場における社寺の役割

 雑業層など都市の低所得者の居住にとって,盛り場への近接がひとつの条件となるらしいことは,さきに述べた。江戸―東京の場合でいえば,浅草などはその一典型であろう。盛り場は一般に,商業活動が活溌に行われる町の一角であると共に,祭りを含む何らかの宗教活動との関連も深いのが通例であり,一種の広場的性格をも具えるものといえよう。そこで,盛り場をいわゆる広場との関係で考察し,盛り場が庶民の居住に対してもつ意義や役割を検討してみたい。
 広場はほんらい西欧世界に発するものと思われ,その起源は,古代ギリシャのヘレニズム期に成立したアゴラ(Agora)や,降って古代ローマのフォラム(Forum)に求められている1)。それは都市地域内の建造物に囲まれた,ある拡がりをもつ空間であるが,形態はさまざまであうたらしい。すなわち,アゴラにも,整然とした建築物を柱廊によって方形に囲んだ,格調高い古典古代的なもの(イオニック型)と,不整形・不定型で,様式化されない自由な空間としてのそれ(アルカイック型)とがあった。しかしいずれにせよ,この空間はその都市にとって何らかのシンボリックな意味をもつものとして,そこに市民の集まる場所であり,これを中心にさまざまな方向から,街路が集中していたことに変りはない。
 ところで,古代ギリシャの経済活動が発展期をむかえた前7世紀頃から,このようなアゴラが,しだいに商業的機能をもつに至ったありさまが,マンフォードによって次のように描かれている。「一群の職人の仕事場が並んでいて,通りがかりの人々に開かれていた。また,中央に仮の屋台や露店があることによって市の日であることが分り,農夫がにんにくや青野菜やオリーブを町に運んできて,壷を手に入れたり,靴を靴屋に直してもらったりしたことであろう2)」。しかし,ギリシャ市民による商業活動の蔑視により,アゴラの市場的機能は,もっぱら非ギリシャ人の手に握られることになる。こうしてアゴラは,しだいに市場広場として機能するようになり,市場に行くこと,ないし買物をする行動じたいが,アゴラザイン(agorazein)と呼ばれるようになったといわれる3)。こうして西欧では,この広場が,商業的色彩をもつ盛り場の原型であったと思われる。事実ギリシャ都市の繁栄が,主としてこのアゴラの活気に充ちた商業活動によって支えられたことは,疑えない事実であった。しかし同時に,そのシンボル空間としての価値への認識も,決して失われなかった。
 さて,アジアの一角にある独立王国,ネパールの首都カトマンドゥについてみると,市内最大の広場は,旧王宮前のカスタマンダップである。王宮建物のハタマン・ドゥカや,これに附属するヒンドゥ様式の木造パゴダは,すべてネワール族が17・8世紀につくったものであるが,この広場は,少なくとも3つの機能をもっている。それは,(1)権威ある公的行事や集会の場として,(2)祭りなど宗教的行事の場として,および(3)周辺の常設店舗を含めて,青空市場における商取引の場として,である。これらのうち,日常的に絶えず行われるのは第3の活動であり,これがカトマンドゥ市の広場を特色づける最大の要件である。そして常設店舗としての商店街を維持するのは,主としてネワール族であり,周辺地帯から農産物等を持ち込んで,青空市場を開くのは,ネワール族をはじめ多様な種族の人びとである。しかしこれら各種族の営む商業活動そのものが蔑視され,またその取扱う商品の種別によって,取扱者がランクづけされる根拠は,ヒンドゥのカースト原理の影響によるものである4)。これは古代ギリシャにおける商業の蔑視と同質の現象ではないが,この広場を活気に充ちた魅力あるものとし,ひいては市の経済を大きく支える商人たちが,ネパール王国の支配権力から除外されていたことに疑いはない。
 以上から推察される西欧古代の都市広場と,アジアの一角にあるネパール王国首都の広場との類似性が,何らかの関連によって結ばれているとはかんがえられない。しかしその類似が偶然としては処理しきれない局面のあることもまた否めない。それはとくに,広場の内包するエトスと,これを承認したうえでの開放性にかかわる。
 これに比して日本の場合はどうか。都市住民の集まる全市的な行事として,たとえば京都の祇園祭や大阪の天神祭,あるいは博多のドンタクや長崎のオクンチなどがあり,江戸―東京の場合はやや局地的であるが神田祭がある。しかしこれらの祭礼行事は日常的なものではなく,その発生の特定空間を求めれば,それは一神社の境内に落着くことになる。神社の境内は日常的空間であり,商業活動とも結びつくが,開放性には問題がある。このことは後に改めて検討したい。これに対して,市民生活にとっていっそう身近な日常的空間を求めれば,近隣広場の性格をもつと思われる「横町」や,町内の集合会場,あるいは更に狭く「井戸端」,「湯屋」,「髪床」となる。しかしこれらは,すべて一種の矮小感をまぬかれず,広場的エトスに欠けるというほかないであろう。
 カトマンドゥの場合でいえば,全市的広場は旧王宮前のカスタマンダップであり,それは全く開放的である。また近隣広場としては,水汲場(ヒティ)があり,それはシンボリックなエトス性を保持している。都市広場の一般的要件として,シンボルとしてのエトス,日常的(経済)活動,および市民への開放性を求めるとすれば,日本にはおよそこれらを充たす都市広場は,いちおう存在しないといわなければならない。
 ここで江戸から東京への変遷をとおして,市民参詣の中心となった浅草寺の場合を検討しよう。浅草の中心に広い境内をもつ浅草寺は,徳川家康が寺領500石を与えたことによって,江戸最大の寺院となった。その本坊が伝法院であり,本堂への直接の入口である仁王門から,南に直線に延びて浅草広小路に面した雷門に至る縦三筋の仲見世商店街が,門前町の形態をとる。境内には,浅草寺のほか,三社権現をはじめ多数の神社が軒を並べ,神佛混淆の一典型を示している。境内の中心である本堂に向って,四方から大小6本の道路が通じ,その沿道に商店街ないし見世物街を形成している。これらの商店は,境内に存在する34の寺院がそれぞれの寺領を貸して地代を徴収したものであることが,浅草区誌に記されている5)。しかし主要通路は前記の雷門から仁王門を経て本堂に至るもので,他は裏道ないし横道で,形態にも広さにも大きな格差が見られる。ここで本堂の北部をとくに「奥山」と呼ばれたことに注目しておきたい。
 浅草寺の西北に設けられた遊廓新吉原は,1657(明暦3)年の大火災で焼失した江戸最大の遊廓であった日本橋葺屋町の吉原を,強制的に移転設営したもので,道路による浅草寺とのつながりは偶然的でしかない。また浅草寺の東北で大川(隅田川)に近い演劇場である猿若三座は,1842(天保13)年の改革令によって,都心地区から立退かされ三劇場が,猿若町に再建されたもので,これも浅草寺との結びつきに必然性はない。これらの遊楽施設は,いわば偶然的に浅草寺の近辺に設置されたに過ぎないものである。したがって,道路による浅草寺との連結にも,計画性は全く見られない。浅草寺が庶民の娯楽と決定的に結びつくのは,伝法院西側の境内六区に常設の見世物小屋が設置されるようになってからであろう。浅草寺とその周辺との位置関係は,図8に示した。
 しかし,見世物小屋が浅草六区に常設されるまでには,さまざまな曲折があったようである。それは開設を希望する地元の要求も,取締り当局としての東京府ないし警視庁の意向との齟齬による点が大きいと思われる。取締りの焦点は,見世物の内容と,その設定地域の性格判断にかかっており,とくに府が浅草寺境内を公園地として認定することをめぐり,その利用につき見解がわかれたと考えられる。これはたとえば,1873(明治6)年,府知事による第五大区戸長への布告に見られる。「浅草寺境内之是迄諸見セ物楊弓場等差許置候処,右場所ハ公園地可〓相成〓取調ニ付,御確定ノ上ハ一時引払申付候儀ノ可〓有〓之,其節差掛難渋不〓致様兼テ此旨可〓申聞置〓事6)」というのがこれである。
 当時の見世物は,香具師やしの差配下にある芸人による奇術,軽業,曲芸,舞踊,武技などを中心とし,その他奇人や珍奇な動・植物を見せるもの,またからくり,生人形などの細工物があったが,これらは1881(明治14)年頃はとくに浅草区に集中しており,浅草寺境内では本堂北側の奥山地区がその中心であった。しかしそれが庶民の関心を集め,観客が増すにつれて,これを新開の六区に移す動きがおこったようである。
 当時流行した道化踊についてみると,1879(明治12)年まで深川と下谷の一部以外は興業が禁止されたものが,同年末解禁されたことにより,1886(同19)年5月,根岸浜吉なるものがこれを六区に開きたい旨出願したのに対し,一応は不許可になった。しかし同年11月,全市に散在する道化踊を浅草寺など3カ所の公園に取纒ては如何という府の通達に対し,警視庁は次のような回答を寄せている。「元来公園地は府民の間を得る者,塵埃場裡より来りて幽雅なる山水の勝を眺め美麗なる鳥禽の声を聞いて心目を一洗するの園囿たり,故に其地たる最も閑雅清致を要す。是を以て従来梢々高尚なる演劇場すら尚ほ之を許さず,況んや野鄙醜猥見るに堪へざる道化踊の興行場を此地にて允許すべけんや……」
図8 浅草近辺(江戸~明治)
しかし,道化踊の観客動員力は大きく,1881‐82(明治14,15)年当時,一劇場で月間1万5千人を上下する客と,60万円を前後する興行収入をあげている8)。1明治19年に前記の如く強硬に拒否した警視庁が,その翌年6月には道化踊の開設を浅草六区に認可したのは,このような庶民の強い関心と要望に抗し難かったからであろう。
 右の経緯からみて,とくにわれわれの注目を惹く点が少なくとも2つある。第1は,警視庁など市民生活の安全に責任をもつ当局の姿勢に,庶民の娯楽をとかく野卑・低級なものどして蔑視する傾向のあったことにかかわる。この態度は,犯罪防止などに直接関係のあるものではなく,それにも拘らずこれを直ちに醜猥などときめつけることは不当である。第2に,寺社の境内など,庶民の信仰の対象への参詣や来遊の場所を,制度的に公園化することによって,その開放性を損うことに問題がある。殊にこの空間を,「間を得る」という表現で一部少数の高所得有閑者の利用を主とし,一般庶民を排除するかに見える政策はあやまりであろう。これらは明治初年の,富国強兵政策による欧風化を急いだ時期の所産とも思われるけれども,このような庶民不在ともいえる取締りの方策が,都市広場の成立を阻んだことも否めない。こういういわば不利な状況のもとで,明治の庶民は,その強い必要性にもとづいて,いわゆる盛り場をつくっていったと思われる。
 このような盛り場の要所に,寺社の存在が見られることは重要である。前記の取締り当局の態度に見られるような,庶民娯楽の蔑視ないし軽視が,どのような歴史的・社会的条件によって成立したかはここでは問わない。しかし庶民が「遊び」に対して少なくとも積極的価値を付与せず,これを社寺への参詣の付随行為,ないし,参詣を主とすることによって許される行為とした日本的伝統の存在を否定することはできない。少なくとも寺社と盛り場との一接点は,このような庶民のメンタリティに求め得るであろう。
 しかし寺社は庶民にとって,単なる遊楽のための弁解的存在ではなかった。祭礼に注目してみよう。たとえば神田明神の祭礼は,山王権現のそれとともに,江戸を二分する全市的に近い大行事であった。それは将軍の「上覧」もあって,上覧等,天下祭りなどとも呼ばれた。またその祭神が平将門であったことも,江戸庶民の反権力意識と結びつきがあったようである。こうして神田祭の名は全国に知られたが,明治維新後,その祭礼行事が新政府によってことごとに抑圧される傾向があらわれた。例えば1876(明治9)年の東京府布達には,つぎのようなものがある。「神仏祭典開張等の節奇異之風体ヲ為シ参詣候義無〓之様,去ル六年三月中諭達及置候通之処,尚此節未明ヨリ太鼓等ヲ鳴シ騒々敷参詣致シ候者モ有〓之,衆庶之安眠ヲ破リ甚以不都合之所業ニ付,右等之者ハ屹度差止メ,心得違之者無〓之様区内無〓漏可〓及〓告諭〓,此旨相達候事9)」。
 これは年中行事としての地域の祭礼に,平素の生活苦や欝積した不満感を,爆発させて消去しようとする庶民の願望を無視するものというほかない。しかもこの明治9年は,神社の意向で祭神の平将門を別殿に移し,代りに少彦名神を本殿に合祀した年であって,この事を知る庶民には異和感があったはずである。然るにこの年の祭りが官許による新祭神迎えの特別行事として行われたこともあって,庶民の熱狂的参加が見られたという10)。
 このいきさつには,複雑に曲折した庶民感情が露呈されているように思われる。即ち,神社の祭神は庶民にとって信仰の対象であり,その実体は重大な関心がもたれる。しかし祭神が何であれ,祭礼への参加の欲求は何にも増して強烈である。他からの抑圧があるほど,この意欲は強化されよう。しかし祭礼参加そのものへの官の抑圧には敏感であり,それは無いに越したことはない。こうして明治9年の神田祭りは,例年になく盛大に行われたわけである。
 こうして庶民の信仰を具体化する場でもある寺社に対して,参詣する庶民はその対象に何を見出すのであろうか。浅草寺の場合,広小路に面する雷門から仲見世を通って仁王門へ,そして本堂へというのがオーソドックスの参詣順路であり,本堂の裏は「奥山」である。そこには表から裏へ,そして奥へという方向性が顕著である。神田明神の場合は,湯島の通りから鳥居をくぐって桜門に至り,これを抜けて拝殿正面に出る順路があり,拝殿の奥に本社があるがこれには立入れない。本社の裏は行き止まりである。参詣者は「何ごとのおわしますかは」知らぬ本堂や拝殿に向って進むのであるが,そこまでで終りであって,その奥をきわめることはできないし,また自らもしないのである。これは槇文彦のことばを借りれば,「零収斂」である11)。しかしゼロといっても,それはひとつの存在である。「奥」には立入れないが,それはなければならないものである。この前提のうえで,「奥性は最後に到達した極点として,そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへたどりつくプロセスにドラマと儀式性を求める12)」という槇の意見に,全面的に賛成したい。
 こうして盛り場は,「そこへたどりつくプロセス」において成立するものと考えられる。逆にいえば,奥にあたるものが存在することによって,盛り場は成り立つともいえよう。寺社はこういう意味で,盛り場にとって不可欠の存在となる。さらにまた,寺社は祭礼行事をとおして,庶民の全市的広域生活と町内的地域生活との結節点として,公的と私的,マクロとミクロの接点に位置づけられる。それにもかかわらず,前述のように,寺社は広場性には欠けるところがある。とくに問題になるのは,その閉鎖的性格であろう。火災などの有事に際して,浅草寺はその雷門を閉ざして,市民を収容しない。こうして広場的性格を持たない日本の寺社は,盛り場に内在する「奥」的存在として,その意義を獲得し,ひいては盛り場を庶民の都市生活における日本的広場たらしめる役割をもつということができるであろう。

1)上田篤「市民と広場」,岩波講座『現代都市政策Ⅱ,市民参加』1973年,259‐282ページ。
2)Manford,『歴史の都市・明日の都市』,生田勉訳,1969年,174ページ。
3)上田篤,前掲論文,266ページ。
4)古屋野正伍「盆地都市の社会・経済構造―カトマンドゥ市の類型的考察―」『日本都市学会年報』第14号,1980年。
5)『浅草区誌』下巻,第五編第2章,旧時遺聞,1914年初刊で,1968年復刻版,692ページ。
6)『東京市史稿』市街篇,第55,305ページ。(小木新造『東京庶民生活史研究』1979年,335ページ。)
7)笹川臨風『明治変態風俗史』1934年,146,147ページ。(小木新造,前掲書,343ページ)。
8)小木新造『東京庶民生活史研究』1979年,343ページ。
9)『東京市史稿』市街篇,第58,306,7ページ。(小木,前掲書,568ページ)。
10)小木,前掲書,569‐573ページ。
11)槇文彦「日本の都市空間と『奥』」,『世界』1979年,157ページ。
12)槇,同論文,同ページ。

Ⅳ 細民層の人口動態と居住意識の展開

 細民層の人口は,江戸から明治への社会的激動期における,東京の人口変動のなかで,いかなる位置を占めていたであろうか。その動向は,居住意識の形成に何らかの影響をおよぼしたはずである。これらの住民意識の動向を,江戸の打こわし運動への参加をとおして検討してみたい。
 さきに江戸の人口について,1721(享保初年)当時,町方で50万強,武家・僧侶等を加えて100万人以上に達していたこと(天保のピーク時には約130万),また町方人口の男女比が大きく,男32万対女18万くらいであったこと,しかし幕末にかけてこの性差は縮小したけれども,町方人口総数は減少傾向に向ったことなどを述べた。これは明治期に入ってどう変ったであろうか。
 『東京府志料』による1872(明治5)年の東京市部人口の合計は,表3に示すように,57万8千人強で,これはさきに見たピーク時の半数以下に激減している。これが再び増加に転じて,江戸最盛期の人口を回復するのは,表4に見るように,明治20年代に入った後である。また性比については,同じ表にあらわれているように,明治2年でほぼ同数に近づいている。しかし,その後この差は再び開き,明治20年代以後,男女差は10万人を超えた。その原因は何であろうか。
 さて,表3には,各大区別に本籍人口と寄留人口が掲げてある。ここでは両者をあわせたものを現住人口とするが,寄留人口の本籍人口に対する比率は全市で約14%となり,その比率は1‐4大区では平均より高く,5‐6区では低い。この点をもっと立入って検討してみたい。それはとくに,明治初年から中期にかけての寄留人口の増加傾向についてである。
 表5は,1889(明治22)年の時点で,本籍人口と現住人口との比較を男女別に示したものである。表の下部に見られるように,本籍人口に対する現住人口の増加率は,明治19年の61%から,21年の66%へ,さらに明治22年には68%へと増勢をたどっている。中でも麹町と京橋区では,現住人口から本籍人口を引いた数が本籍人口を上まわる。現住人口から本籍人口を差引いたものが,そのまま寄留人口をあらわすとはいえないまでも,その大部分は寄留者と見て差支えない。そうだとすれば,さきに見た明治5年の平均14%とくらべて,寄留人口は驚くほどの激増を示している。そしてこの増加は,とくに京橋,日本橋,芝などの下町区1)に集中しており,また浅草,本所,深川でも増加が目立つ。
表3 明治5年東京市部人口集計一覧
表4 東京15区人口一覧表
表5 明治22年本籍人口・現住人口対照一覧
これらの下町における寄留人口の増加現象は注目にあたいする。
 さらに表5で男女別にくらべてみると,この寄留人口と思われるものでは,一般に男子が女子を大きく上まわっており,全体では男女差が11万人強に達している。すなわち,明治22年の現住人口における男女差の13万人に近く,この現住人口における過剰男子人口は,その多くが地方からの寄留者であることになる。
 この寄留者の性格を,小木新造はつぎのように推定している。「おそらく実質的には東京に根をおろした他府県人が,かたくなまでに本籍の移動をこばみ,意識的には東京は単に働く場,腰掛け都市の性格を帯びてきた様相は動かしがたく……いわば東京を生活の場としながらも,精神的には常に本籍のある故郷回帰型の寄留人口が多かったものと思われるのである2)」これは極めて興味深い仮説である。現在これを実証し得る材料はないが,現代の南アジアの大都市の状況がきわめてこれに近い。それらはマイグラント・シティと呼ばれ,そこで一定限度の収入を得れば,目的を達成したものとして出身故郷に引きあげる,いわゆるターゲット・ワーカーが多く居住する。かれらには現住地への市民意識が薄く,自治活動への参加にも関心を示さない。これは,当時の東京寄留民の意識構造につながるものではなかろうか。
 明治期における東京居住人口の職業別構成はどうであったか。1872(明治5)年の,「明治五壬申年本籍職分総計留3)」によれば,雑業10万7316人,商業8万3358人,農業6万9343人,工業5万3052人となっている。工業人口とは,手工業的生産に従事した職人層人口にほかならない。そしてこれらはすべて,本籍人口である。
 つぎに1877(明治10)年から81(同14)年までの毎年の職業統計が,『東京府統計表』に見られる。これには,本籍人口と寄留人口が男女別に記載されている。この記載を用いて,小木は,官吏には寄留人口が多いのに対して,商業・工業職には少ないこと,および実数において,商・工職人口は一進一退の停滞現象を示すことを指摘している4)。これで見ると,明治10年代前半では,寄留者は主として官吏層に属するもので占められ,また本籍定住者としての商・工業職の者はあまり増減がなく,安定していたことになる。
 小木はまた,その後の『東京府統計書』を用いて,1882(明治15)年,1888(同21)年,1900(同23)年の3期をとって,商業・工業・および農業人口を区別に算出している。これによると,明治21年まで,すなわち明治10年代後半も,商業人口は漸減,工業人口は停滞的であることがわかる。もっとも農業人口のみは急減している。ところが明治33年になると,商業人口は21年の3.4倍(7万6千人から23万
9千人)。に,工業人口は2.6倍(4万4千人から11万4千人)に増加を示している。これはいうまでもなく,単に数の増加ではなく,産業における質的・構造的変化がおこっていることを示すもので,とくに工業人口は手工業的・職人的な性格から,工場労働者的な性格へと転換をとげ,またこの増加のなかには,多くの寄留的性格のものが含まれたと思われる。このことは,巨視的には東京の都市構造の変動にかかわる一方,微視的には近隣社会や町内の人間関係をドラスティックに変えたであろう。雑業層の就業形態や仕事内容が変るとともに,大衆・店子間の身分制支配関係も大きく崩れたにちがいない。しかしそのなかから個人としての市民的自覚が生まれ,政治関心が芽生え,組織の形成にもつながる自治の精神が育ったかどうか。それは甚だ疑問である。
 江戸の庶民は「将軍の膝元」という権力による庇護のもとに生活を営んできたといわれる。先にも見たように,江戸の町づくりにも,庶民の生活に潤いを与えるような配慮にもとづく設計がなかったわけではない。また武家を顧客とし,あるいは傭主とする主従関係に似た庇護iを受ける機会も少なくなかったこともたしかである。こうして将軍家を筆頭とする武家の温情のもとに生計を立てるという認識が,江戸庶民のあいだにかなり定着していたことは十分にうなづける。このような庶民感情を大きくゆるがしたのが維新の争乱であり,将軍家の没落とともに新しく侵入してきた薩長の勢力であったことはいうまでもない。
 前に明治の東京庶民による平将門信仰の事にふれたが,これをプロ徳川・アンチ明治政府の一表現と見ることは可能であろう。しかし,この程度の抵抗は,所詮力弱く,組織的且つ継続的な運動とはなり得ない。神田明神の本殿から祭神としての将門が左遷されても,庶民はこの理不尽への反抗よりも,これに伴う官許の新祭神迎えの祭礼行事の方に没入していくのである。薩長侵入者への江戸庶民の嫌悪感が,明治新政府への抵抗精神につながることは事実だが,この限りでの反権力は絶対的なものではなく,過去の権力による庇護への郷愁をともなうところに,その弱さがあったと見るべきであろう。このような体制依存を脱皮しきれない庶民体質のひとつのあらわれは,大きな権力に対抗するため,身近な力にたより,これを利用する態度ではなかったかと思われる。以下,町方騒擾ないし打ちこわし運動について,江戸の場合と,またこれが明治以降,どのようなメカニズムのもとに行われたかを検討する。
 江戸の人口増加の主因は農民の流入という社会的なもので,これらの流入者は細民・窮民として,江戸の下層社会に雑業層として蓄積されていった。しかしその増勢は1700年代に入って,とくに享保年間(1716‐1735)の初期で停滞を示すのである。当時農民の都市流入は,米の不作など農村経済の悪化による押出要因が働くためであるが,農村の不作がつづき,殊に大飢饉をひかえた享保期に江戸流入人口が停滞したのは,幕府による流入への禁令に基づくところが大きいと思われる。事実,1713(正徳3)年以降,この禁止措置は繰り返されている。同年出された「江戸端々借家之儀,前々之通御停止之事」という禁令,1721(享保6)年の新地家作改,あるいは人別改の強化,などにこれが見られる6)。幕府のこのような処置は,主として,江戸に無宿者が増加して種々の都市犯罪を惹起することへの対応策であった。享保以後,寛政期の「旧帰農奨励会」は帰農希望者を募るものであったが,天保期の「人別政令」は強制送還を企図するものであった。幕府の人口対策に,このような緩急相反するものが出はじめたことにも問題があるが,享保,天明,天保と,約100年の間に発生した三大飢饉は,江戸市民による打ちこわしというかたちで,幕府権力に間接の反抗を試み,ひいては幕藩体制の崩壊につながることともなった。
 1733(享保18)年は,江戸における最初の打ちこわしの起こった年である。庶民の要求はまず,仲買によって米価をつり上げる悪徳商人の摘発に向けられ,1713(正徳3)年には,家持・地借・店借をあわせた「惣町中」のものが名主層を動かして,町奉行に請願書を提出した7)。このように庶民が名主を運動に巻き込む動きは,1732(享保17)年の大飢饉に端を発する打ちこわしにつながるものであった。この飢饉は中国,四国,九州の蝗害を主とする大規模なもので,多くの餓死者が出るとともに,江戸の米価も急騰した。
庶民による米価引下陳情は,とくに17年末から翌年正月に集中し,これらの底辺には裏店借の貧民層の結集があり,名主たちもこれに巻き込まれた。打ちこわしは,日本橋本船町にあった幕府の米穀御用商人高間伝兵衛宅の襲撃であり,約2000人がその家財道具をこわして大川に投げ込み,帳簿を破り棄てたという。高間は幕府から500石の格式を与えられて,大坂米の買上げなどで米価調節の中心的役割をになわされた人物である。したがってこれの襲撃は,痛烈な幕政批判を意味するものであった。
 享保の打こわしは,その後天明年間,および慶応年間に起こったいっそう大規模な騒擾の発端をなすものであり,これらの騒擾は,これに先立つ大飢饉と,米価をはじめ諸物価の騰貴に対応するかたちで発生している。その共通の特色と思われる点は,つぎのように整理することができよう。
 まずその襲撃の対象であるが,それは米穀商を中心とし,加えて天明期に見られたような食料品などを扱う商家で,これらは物価高騰の影響で利益をあげたと見做されるものであった。破壊されたのは店や居宅や倉庫であり,直接の人身事故はなかった。第2に参加者の主体は都市の下層貧民であるが,大工などの職人が目立っており,それに日傭い,奉公人などが加わった。そして「土地のもの」,「町内の者」が多く,平素交流のある近隣の住民が集団で加わった形跡が濃厚である。このことは,第3に活動が計画的であって,偶発的な要素は少なかったことと関連するように思われる。天明の打こわしに際し,町奉行所による被逮捕者への判決文につぎのようなものがあることはこれを裏付けよう。「去々年以来米穀高直二而妻子育兼候故 …一同申談,去年五月廿日夜伝次郎方江一同罷越……申合置候通一同伝次郎方江踏込,見世建具家財等打こわしあはれ候9)」。そしてこれらの騒擾が,間接的にもせよ幕政批判をこめて敢行されたことは,前にも述べたとおりである。
 なおつけ加えれば,これらの騒擾を契機として,幕府の下層民に対する取締りが,加速度的に強化されたことは,騒擾のひとつの帰結であった。逮捕された者への刑を酷しくすることもあるが,これにはさまざまな限界があった。そこで下層民そのものを排除する方策が立てられ,たとえば,人足寄場の設置や,町会所の設置などに,これがあらわれている10)。しかし,幕末にかけて,下層民による騒擾が日常化してきた傾向も見のがせない。
 それはとくに慶応年間の騒擾に見られる。打ちこわしが発生したのは,1866(慶応2)年5月であるが,その経過は過去の天明の場合などと大差ない。下層民が多く参加し,とくに職人層が中心であった。ただ子供がこれに加わるようになっていたことと,幕府に対するいやがらせと思われる行動がふえたことなどは特色といえよう。町奉行所の門前に「御政事売切申候」とか「諸式高直品物払底,能役人一切売切申候」などという落書や張札があらわれたという11)。
 この騒擾がいちおうおさまった後,慶応2年7月には将軍家茂が大坂城で病死し,その遺体が品川に着いた同年9月頃から,貧困民が市中各地に屯集し,武家屋敷や富裕商人から施しを受けて集団生活をする様子が見られた。かれらは町名を記した幟などを立てて昼間市内を横行することもあったが,一般交通のさまたげにはなったものの,乱暴はおこさなかった。屯集の場所は寺院境内が多く,浅草寺はその中心で,とくに多くの窮民が集合し,その数は1000人に達したという12)。幟に町名があらわれたように,集合の単位が町内であったことは,騒擾参加様式の一面をあらわすものとして興味深い。時に集団行動に逆らって乱暴を受ける役人などもあったが格別の打ちこわしはなく,ここに騒擾が日常行動化した様相が見られる。こうして1867(慶応3)年にはじめて発生したといわれる「お札降り」につながっていくのである。
 さて維新以後,明治新政府の時代に入ってから,国と東京府と地域住民との相互関係を知ることに役立つ,ひとつの事件がおこっている。それは1869(明治2)年から8年間にわたって継続した,いわゆる「小石川水車一件」である。その経緯はこうである。国の民部省土木寮は,明治2年,江戸川末流の船河原橋の際に堰柵を設け,水車を運転し,百杵にのぼる臼をおいて,御用米等の脱穀作業をはじめた。この堰柵設置によって,江戸川上流の早稲田村,中里村,小日向水道町などは水害を受け,農作物を失った。そのうえ,道路の通行にも支障をきたし,脚気などの病気の発生をも見た。そこで被災地の住民は再三堰柵撤去の嘆願をしたが土木寮はこれを無視したうえ,深川東永代町の住民西村七右衛門に官物である水車を払下げて,この民間人に営業を続行させた。この間全く聾桟敷に置かれていた東京府は,江戸川水系住民の嘆願を重視し,西村に対して,まず堰の水嵩の低下を命じ,さらに水車堰の全面撤去を命じた。これを不服とした西村は,東京府を相手どって民事裁判を起こし,事件は法廷に持込まれた。この間東京上等裁判所,大審院上告,さらに大阪上等裁判所で再審されるなど,8年余を経過した。政府は終始強硬であったが,1877(明治10)年11月,突然態度を急変して,内務卿大久保利通の名で政府買上げを決定し,12月「該訴訟双方示談行届」となって事件が落着した13)。
 この事件の経過のなかには,さまざまな問題が含まれていて,これを簡単に要約することはできない。しかしとくにわれわれの興味を惹く点は,明治新政府が地方自治体としての東京府に対する姿勢,東京府が府下の住民と政府との間にあって双方に示した対応,そして住民側の政府及び東京府に対する処置のしかたなどである。
 政府の東京府に対する姿勢は強圧的であり,最初はこれを無視し,後に東京が事件に介入し,住民側に立って政府に水車徹去の申入れをしたのに対しては,かえって水車税の取立を命じるなど,極めておしつけがましいものがある。しかし最後に一転して示談に応じたことには理由があって,裁判の過程でしだいに事態が解明されるにつれ,政府の責任が明白になるとともに,住民運動の盛り上りからも,東京府との対抗を深めることを,中央集権にとって不利と判断したことによると思われる。
 東京府は,維新草創でまだその権限が明確でなかったという弱点があったが,府民の難儀を黙視できず,地域の年寄らに事実の調査と,これにもとつく報告(上申書)の提出を求めている。その報告書の内容が極めて妥当なので,府はこれをもって民部省土木寮に掛け合ったわけである。その回答は先記のように強圧的であったが,裁判の経過は府に有利に展開した。
 地元地域住民の立場は最初弱いものであったが,地域内に住む当時の多くの名士・有力者らに働きかけて,この人々を運動に巻き込み,この運動が東京府をも大きく動かした模様である。政府に対してはひたすら嘆願を重ねるほかに策もなかったが,近隣の名士と,ついには東京府を味方に引き入れることによって,その初志を果たすことができたと見られる。庶民はこの事件をとおして明治新政府の圧政を体験し,反権力の意識を強めるとともに,近隣・町内の結束の重要性を知り,また東京府という地方自治体の存在意義についても,何ほどかの認識をもった筈である。
 しかしながら,特に下属民の生活行動に焦点をおいてみるとき,かれらが江戸期に体験した打ちこわし運動への参加と,明治期以降の住民運動とがどうように関連するものか,それは全く疑問というほかない。また江戸・東京という,尨大な下層民の集住する巨大都市における末端組織や,これに加わる庶民の意識・行動が,他の地方都市の場合と,如何なる点で異なり,また共通するものであるかも,まだ解明されていない。ただここでわれわれの関心を大きく惹くひとつの点は,今日の発展途上の大都市の様想とあまりにも相似点の多い江戸―東京の社会状況を,改めてこれら途上国の大都市との比較において,深く検討することの意義についてである。


1)ここで下町とは,東京都公文書館所藏の『順立帳』(1870)の記載にもとつく小木新造の分類により,神田,日本橋,京橋,芝,下谷,浅草,本所,深川の8区とし,これに対して,麹町,麻布,赤坂,四谷,牛込,小石川,本郷の7区を山の手としておく。
2)小木新造,前掲書,44ページ。
3)『東京市史稿』市街篇五十三,174‐191ページ。(小木,同書,45ページ)
4)小木,同書,46‐48ページ。
5)小木,同書,49‐50ページ。
6)南和男,前掲書,122,23ページ。
7)『正宝事録』第一巻,三十三,486,87ページ。(南,同書,206ページ)
8)南,同書,209ページ。
9)「吉田家旧書類」,国立史料館藏。(南,同書,227ページ)
10)南,同書,244ページ。
11)南,同書,284ページ。
12)南,同書,289ページ。
13)「小石川水車一件」,東京都公文書館所藏文書。(小木,前掲書,544,45ページ)