技術と都市社会

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金沢金工の系譜と変容

著者名: 田中喜男
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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目 次
はじめに・・・・・・・・・・2
1 近世金工集団の招聘とその裔・・・・・・・・・・3
2 工 房 制・・・・・・・・・・11
3 殖産興業策と金沢金工・・・・・・・・・・14
4 金工職人と図案・・・・・・・・・・29


はじめに

 本稿は「技術と都市社会」について,16世紀末から20世紀初頭にかけての金沢の金属工芸を事例に金沢金工が美術工芸品から殖産興業政策下に産物としての変容を強制され,藩御用職人・扶持工芸職人(藩細工所細工人)は他方に工房を残しつつ,工場制手工業の賃労働者としての労働形態をみせるに至った諸問題を解明しようとするものである。近世の金沢は内高130万石加賀藩の城下町であり,前期の豊かな財政下に天下の文府を指向した歴代藩主が金属工芸をはじめ,漆芸・陶芸職人を招いた結果,数百年を経過した今日の金沢に東京・京都と並ぶ金工・漆芸(蒔絵・平文・沈金)・染織工芸をもたらした。まず1章では近世における職人の招聘,2章では工房体制,3章では殖産興業政策下の職人および職人社会の変容,4章では殖産興業策下における意匠・図案に寄せる行政,職人の関心について見ることとする。
 なお,金沢における金工とは鋳物・彫金・鍛金・象眼等をさすもので,鋳物は溶解した金属を鋳型のなかに注入,鍛金は槌などで金属を展延伸縮,彫金は鏨[たがね]をもって金属を彫鏤,象眼は異質の金属をはめこみ,それぞれ製品とするものである。ことに象眼は金属象眼といわれ,平[ひら]象眼・高[たか]象眼・布目[ぬのめ]象眼・糸象眼・地[ぢ]象眼・錆込[とかしこみ]象点状,あるいは円形,扇状などに模様を彫り,その凹みへ金・銀・四分一[しぶいち]・赤銅などを地金[ぢがね]の面と同じ高さに埋めるものである。高象眼は高肉[たかじし]象眼といわれ,象眼する金属が地の金属面より高く盛上っているものである。布目象眼は他の金属面を布目様に縦横にやすり目状に筋を刻み,その上に象眼する金属を押当て,上から槌で叩き,上部の金属が底の布目様の筋と噛んで癒着する方法である。加賀象眼は平象眼の1種で,第1に象眼部分が外れにくいこと,第2には鐙[よろい]象眼の手法を採用していることである。四分一とは,銅4分の3・銀4分の1の合銀で朧銀[おぼろぎん]といわれる。まず,金属地に図案を描き,これを鏨で彫ることから始まる。鏨を親指,人さし指で固く摘まみ,鏨の頭を向うに,刃先を手前に傾けて金属地にあてる。同時に小指,薬指を地金あるいは台,万力様機器にあて,槌の鏨への衝撃を支える。一方,槌は右手の親指と人さし指で軽く摘み,小指を彫り線の部分を支えるようにして支える。こうして鏨を打ちながら図柄に沿って線彫り,肉[しし]取り,片截[かたぎ]りする。鏨を持ち手元が定まらないと,彫りに高低を生じ,また彫線に継ぎ目を生ずることになる。加賀象眼が外れにくいといわれるのは,この彫線に“アリ”がたてられているからである。”アリ”とは「アリたて鏨」で図のような型に彫ることをいう。藩政期には鐙[あぶみ]・刀剣等に多く用いられた。
また,鎧象眼とは象眼金属の上に重ねて象眼するもので,例えば地金の表面に硬い四分一を象眼し,この四分一の表面に銀を象眼,さらにこの銀の表面に金を象眼すれば鎧のように象眼が華やかになる。”アリ”をたてないと二重,三重の象眼はできない。

1 近世金工集団の招聘とその裔

(1)16世紀末から17世紀初頭

 前田氏百万石の経済力を背景に藩政前期の金沢に招聘された職工(以下『装剣奇賞』の呼称に従う)の数は多い。まず,初代藩主前田利家,2代利長時代に招かれた主な職工を整理したい。利家の七尾(府中)在城時代に招かれた職工に京都の後藤琢乘とその弟子後藤甚右衛門がある。琢乘は後藤祐乘の玄孫にあたり中世末期の京都の名金工と称され,利家の金沢入府と共に金沢に移り,のちに京都へ帰った。後藤甚右衛門も利家と共に金沢に移り,子孫は金沢に永住し能登後藤と称された。甚右衛門の弟庄兵衛も琢乘の弟子であるが琢乘と共に帰京した。
家系図1
 越後の出身といわれる白銀職人後藤清永[(定)]の嗣子清重は顕乘に学び,越中高岡城の利長に招かれて扶持米を受け,利長が歿すると金沢に移った。
 才次郎吉定は慶長18年(1613)利常に招かれて来沢し,後藤次右衛門と共に貨幣鋳造の吹座を命じられたことはよく知られ,加賀後藤の祖とされる。白山比咩神社蔵の大太刀の装具に「寛永五戊辰暦十一月吉日加州金沢住後藤才次郎吉定」とある。吉定の跡は兄清永の孫(清重の子)忠清が継ぎ,忠清の跡は七兵衛詮清の次男清左清門清定が継いだが嗣子を得ず絶家した。
家系図2
 清重の嗣子広清は利常より切米50俵を与えられたが,のちに4人扶持を給された。久清は葡萄と蜂の彫刻にすぐれ,宝暦2年(1752)代藩主重熈が北野神社に奉納した太刀の装具を作製した。清冷も名工と称され,寛政12年(1800)代藩主治脩の北野神社に奉納した太刀の赤銅装具を駒井甚助・高尾吉助と共に製作した。
 慶長年間,大坂の出身で顕乘に学んだ水野源次・源六父子は顕乘の推薦で金沢に来た。源次は本名を好栄といったが,天明元年(1781)刊行の『装剣奇賞』はその技術について「甚上手なり」と賞している。利長から5人扶持を給され慶安2年(1649)に没した。弟子に金沢居住の梅村曽兵衛があり,その子助三郎は桑村富久に技術を学んだ。源六は好房といい源次の2子であった。両家の家系は下記のとおりである。
家系図3
 2代源次は白銀師裁許,安永7年(1778)子がいなかったため,鞘師九蔵の次子元房が後藤東乘に学び8代源次を襲ぎ,藩細工所細工人に選ばれた。9代源次も細工人に列した。10代源次の子克則は廃藩と同時に廃業した。源六系では3代多光が「良工」(装剣奇賞)と称され,4代光政は金沢南町に住み「鏨の痕清楚にして甚巧なり」(同上)と評された。光和は安政5年(1858)白銀職棟取役にあった。
 利長に招かれた象眼職工には小市永政,種田次郎作等がある。小市の出身は明らかでないが,『装剣奇賞』は「凡加州の象眼工ハ其はじめ(略),伏見より寛永年中移る所にして,侯[(3代利常)]より御扶持を下されたるより,次第に其家わかれ,其弟子さかへて,今数家におよべり」と述べているように伏見出身と推察される。当時,京都は後藤氏を中心とした彫金,伏見には象眼職工が集住していたとみられる。小市永政は通称三郎右衛門といい,150石を給与された。
家系図4
 また,琢乘に学んだ種田次郎作は父国村の名をとって姓を国村とした。鐙[あぶみ]象眼にすぐれ次郎作彫と称されたが,寛永年問に50俵を給された。国久のとき姓を村沢と改めた。弟に五郎作吉重がいる。弟子の国安(与三左衛門),国平(三右衛門),国政(助左衛門),国長(八左衛門),国忠(権右衛門),国光(喜兵衛)は国永を姓とした。
家系図5
(2) 17世紀中期
 3代藩主利常代に招かれた彫金職工に後藤顕乘,後藤覚乘,後藤広清,桑村盛良,桑村盛勝,桑村克久,金子政光があり,象眼職工には勝木氏家,勝木盛貞,小市永政,辻山城,辻友重,定時,五郎作(吉重),宗吉等がいる。後藤顕乘は金工家後藤家7代目,5代徳乘の2男である。寛永年間利常に招かれて150石を給された。上後藤の覚乘と1年交替で金沢に来,藩用品を製作し,加賀金工の指導にあたった。後藤覚乘は上後藤,後藤長乘の子である。寛永年間小松城に隠居していた利常に招かれて30人扶持を給され,下後藤の顕乘と1年交替で来沢した。
 後藤広清は市右衛門清重の嫡子で,はじめ清次郎,後に清次郎といった。白銀細工に長じ「奇麗にして力あり,上手といふべし」(装剣奇賞)と評され,利常から切米50俵,後に4人扶持を給された。寛文10年(1670)3月22日歿。父の清重は越後の後藤市右衛門の1子であるが顕乘の弟子として知られ,利長が高岡城に隠居した際,越後より招かれ扶持を得,のち金沢に移った。「上手と賞せらるゝ作なり,其彫奇麗品も亦高し」(同上)と評された。弟忠清は叔父吉定が大聖寺藩に仕えたため養子嗣として入り5人扶持を受けた。
家系図6
また,久清も「上手なり,葡萄に蜂などの縁頭,殊に出来物也」(同上),清冷も「是又上手にして賞すべき彫工也」(同上),清左衛門は「細工ハ上手にして珍重すべき所なり」(同上)と評された。なお,久清の弟子駒井元申(甚助)は金沢桶町に住み,のちに勝木氏喜に師事したが「其彫さっはりとして上手なり」(同上)といわれ,この他久清の弟子に駒井貞歴(甚右衛門)があった。
 桑村盛良は摂津国大坂の出身,顕乘の弟子で招かれ金沢に住んだ。与四郎と称し,その作は「上手なり,其彫むっくりとして鏨目[タガメ]深し」(同上)と評された。盛良の子富久[とみひさ]は程乘の弟子であるが,富久の弟子に梅村曽兵衛の1子梅村助三郎がいる。盛征は弘良の弟子で「其作きれいに其品高く,上手といふべし」(同上)とされた。盛良の弟弘良は程乘の弟子,「上手」(同上)とされ大聖寺藩において100石を給されたが,のちに浪人して出家,浄空と号した。この弘良の弟子に埋忠[むめただ]信房(清之丞)がいる。通称を丈助といい金沢木ノ新保町に住み埋忠氏をつぎ「上手」(同上)といわれた。忠房の兄円右衛門は藤田氏をつぎ宗久と称したが「細工ねづよく,鮮明にして,上手といふべき位なり」(同上)と評された。
家系図7
盛良の弟,桑村盛勝は覚乘の弟子で「其作奇麗にして和[ヤハラカ]なり,尤上手といふべし」(同上)と評され,盛良の長子克久は伝来の寒風に創意工夫を加え桑村彫を創案し,その作は「上手なり」(同上)とされた。とくに克久について『装剣奇賞』は「桑村氏の工,此人を中興とす」と述べている。克久の弟子の土屋金七も「上手なり」(同上)といわれた。克久の弟良弘は弘良の養子となったが「上手なり,其彫奇麗にしてやはらかなり」(同上)と評された。
 盛勝の弟盛弘は覚乘の弟子で「其作,見おとらず,上手なり」(同上)といわれ,嗣子盛明もまた「上手なり」(同上)とされた。弟子に津田喜世三郎がある。盛弘の弟盛審[しげ]は演乘の弟子であるが「是又,上手也」(同上)とされ,その子盛津[ゆき]も程乘について技を磨き「其作きれいにして和[ヤハラカ]なり,上手といふべし」(同上)とされ,弟の盛慇も弘良について技を習得し「其彫甚た見事にして賞するにたへたり,是又父兄におとらざる上手なり」(同上)とされた。
 金子政光は程乘の弟子で金沢に住み,程乘のために作品の素工を提供したすぐれた白銀職工であった。また,彫金職工の駒井鑑虎は小右衛門といい,小松城下にあったが利常の命により刀剣の装具の製作を行った。子孫の貞次(小右衛門),元次(小右衛門),元直(久兵衛),元明(重次郎),貞直(吉右衛門),貞明(小右衛門),貞歴(甚右衛門)がいる。
 象眼職工の勝木氏家は顕乘の弟子,寛永年間伏見から招かれて金沢に移り50俵を給され象眼に従事した。その子氏重も寛永6年(1629)も25人扶持を給され小松城下にあって象眼に従事した。5代氏政から金子姓を名乗る。『稿本金沢市史』工芸編によれば,氏屋の弟として「上手なり」(装剣奇賞)と評された勝木永清,永清の弟氏宣(武兵衛)をあげ,氏家の子として氏喜(市之亟)をあげている。氏喜については「彫物の上手,甚だ奇麗にしほらしき作なり,是も本[モト]ハ象眼工なり」(同上)とある。
家系図8
また,2代氏家(大四郎)の弟子氏永の系統として,
家系図9
 がある。演乘に学んだ氏安(権吉)の弟氏春(宇兵衛)は「上手なり,奇麗にしほらしき彫なり」(同上)といわれ,後に富山藩に仕え,若林と改姓した。氏春の弟勝木氏広(吉郎兵衛)は「〓子[ななこ]の名人」(同上)であった。若林彦四郎は富山に住み「上手也こしぢ一の名家といふべし」(同上)と称された。若林氏春の技法を学んだ金沢の高尾甚七も知られている。
 勝木盛定は通称与三右衛門,承応年間に招かれて伏見から金沢に来,50石を給された。その子孫は金沢に居住し4代盛定(初め勘右衛門,後に半次郎)は「上手なり,綺麗にして活機あり」(同上)と評され,富山藩に仕えた。半次郎盛定は富山に住み「父におとらざる上手なり」(同上)と称され,その子勘右衛門盛定も「其工瀟洒にして上手,富山侯御細工人となる」(同上)とある。
家系図10
 この初代盛定の弟子に勝木盛光がいる。盛光は八兵衛と称し一子守良が跡を継ぎ盛光系として存続した。次表末尾の盛国は冑工となった。
家系図11
 また,富山に住む象眼職工島田理房も盛定の弟子で「上手也」(同上)と称され,見二[けんに]庄次郎ともいった。
 小市永政も寛永6年(1629)利常に招かれて金沢に来,15人扶持を給され細工人を命じられた。
 右のうち,文治永次は天明4年(1784)細工人となり40俵を給され,永秀も弘化2年(1845)細工人となり40俵を給され,ついで細工人小頭に進み60石を給された。
家系図12
喜三郎も安政三年(1856)細工人となり40俵を給された。
 辻山城は寛永年間,山城国伏見から招かれ150石を給された。山城の弟子辻友重(助九郎)も寛永年中伏見より来沢した。この他,山城の弟子辻友次(三郎右衛門),辻重次(喜八郎)も共に金沢に住み象眼職工として活躍したが,友次は「上手なり」(同上)といわれた。
 定時は俗称を平八というが寛永年間に伏見より招かれ300石を給された。弟子に定景(新右衛門),定次(吉次郎)がいる。
 利長のとき金沢に来た国永(次郎作)の弟吉重(五郎作)は寛永期に招かれ50俵を給された。五郎作彫と称され,兄の次郎作彫と共に加賀彫の元祖とされ「甚だ上手也」(同上)といわれた。弟子に吉則(庄九郎),吉国(孫右衛門),森方(源四郎),吉国(長右衛門),吉次(八大夫),吉平(善右衛門)がいる。
 宗吉は兵部と称し正保年間,伏見より来沢し100石を給され「上手なり」(同上)といわれた。弟子に宗次(次郎),宗長(九郎次)がいる。
 忠平は三郎兵衛と称し,正保年間に伏見より来沢し50俵を給された。弟子に忠清(庄太郎)がある。
(3) 17世紀後半以降
 5代藩主綱紀の治政は万治期に始まり,寛文・延宝・天和・貞亨・元禄・宝永・正徳・亨和にまたがる79年間におよんだ。この間,和漢の図書を蒐集して尊経閣文庫を立て,学者・文人を招き,百工比照を完成した。城内の細工所を完備し,利長,利常のとき招聘した工人や子,弟子たちを細工人として用い,また京都から後藤演乘,後藤程乘を招いて領内工芸の指導にあたらせた。
 後藤演乘は上後藤,覚乘の甥あるいは弟ともいわれるが覚乘の跡を継いだ。覚乘が残した後,悦乘と共に1年交替で金沢に来て御用製作にあたり,加賀金工指導にあたった。中頃,京都に帰ったが子孫は続いて30人扶持を給された。
 後藤程乘は下後藤,顕乘の子で理兵衛と称し,諱を光昌といった。寛文の頃,上後藤の演乘と1年交替で金沢に来,御用製作と加賀後藤の職工指導にあたった。作品は「甚だ奇麗にて,品高く,位そなはりて,誰が見ても作の物と賞する彫なり,其時代今より遠からねど,光乘などの風ともいはん古色あり,少したがねめ深く,つよくあざやかなり」(装剣奇賞)と評された。綱紀の信任厚く,来沢すると毎日登城してお伽に参加した。金沢では蓮池庭内の貸家(公用屋敷)を与えられた。程乘の次子,悦乘も150石を給され演乘と1年交替で金沢に来たが,子孫も従来どおり藩から扶持を給された。
 藩政後期には鈴木光弘,駒井貞歴,山川孝次,山尾次六,勝尾永次らが出た。鈴木尤弘は鈴見屋徳兵衛の子で通称を長左衛門といった。水野光政に弟子入りして白銀職人となり,細工人に登用され2人扶持を給されたが,2代兼弘も2人扶持を給された。長左衛門の弟子に米沢清左衛門がいる。米沢清左衛門も細工人見習に登用された。
家系図13
 山川孝次は山屋八十吉といい,天保年間江戸の柳川春茂に弟子入りし,文政年中に金沢に帰って彫金に従事した。はじめ茂孝ともいった。横谷宗珉の彫法を金沢にもたらしたが,その技術は「能く堂奥に達し,鏨痕優麗瀟洒」(装剣奇賞)で,加賀宗珉とも称された。文久2年(1862)細工人に登用され2人扶持を給された。
家系図14
 山尾次六は金沢の御門前町(のちの上松原町)紺屋善兵衛の長男,はじめ善太郎といったが後に次六と改め侶久と号した。技法について水野朗は「其師不明ナレドモ作風ハ後藤系ナリ」(加賀金工調査)と誌している。初代次六の伜が幼少であったため分家していた弟善六が2代次六を襲ぎ,また,3代次吉は父次六の残時に幼少であったため,8代水野源六の内弟子として入門,後に「名工」と称された。
家系図15
 駒井貞歴は先述の小松居住の駒井虎鑑の裔駒井貞明の子で,金沢に移り後藤久清の門に入って技を磨き,細工人に登用され3人扶持を給された。貞歴の長子元申も後藤久清に学び,ついで勝木氏喜,後藤東に学び,その作は「瀟酒にして巧妙なり」(装剣奇賞)と称された。3代元広は文化4年(1807)細工人に登用されて35俵を給与,元広は技術の習慣不十分のまま,4代を継いだことから藩の大砲方に転じた。
家系図16

2 工房制

 前田氏が招いた職工は,それぞれが工房の親方であった。わが国の手工業生産は古くから工房制によって支えられた来た。工房は親方とこれに従属する職工,内弟子からなり,親方の指揮下に職工,内弟子は工程を分担し下請した。したがって親方は伝統的技術保持者であり,今日でいうディレクター,コンダクター,かつ経営者であった。親方は本来,技術世襲者であったが権力と密着することにより血脈的世襲を強化し,さらに問屋と結んで工房経営者としての立場を強化していった。このため,工房経営者たる親方は奉仕する弟子に対して親方の世襲する姓や,名前の一字を与えて家父長制的工房体制を維持しようとした。このような事例は先述の系譜のなかで多く見たとおりである。
 文政年間,後藤家が加賀後藤家と称する金沢在住の後藤七兵衛清恒に対し出自をめぐり後藤姓の禁止を命ずる事件がおこった。史料3によれば文政13年(1830)8月,13代藩主前田斉泰の帰国に際し,京都から後藤東乘(勘兵衛)が三宅次兵衛,進藤源助と共に祝詞を申上げるべく来沢し,石浦町の旅宿北川屋文左衛門方に止宿した。この止宿先へ金沢の白銀職工後藤七兵衛が儀礼として菓子折を持参して訪れた。東乘は後藤を名乗る七兵衛の由緒を尋ねたため,七兵衛は東乘家の由緒につながる旨答えた。後藤七兵衛はおそらく先述した越後出身の市右衛門を祖とする加賀後藤の七兵衛清恒とみられる。東乘は七兵衛の答弁に対し,当後藤家には清恒の答弁にみる如き家筋はないとして,後藤姓の名乗りを禁止しようとした。幕藩制下において家格を示す姓を剥奪されることは工房の存立にかかわる問題であった。このため清恒は金沢在住の上・下後藤家門人の家柄にあった水野源次,水野源六等に調停を依頼し,文政13年(1830)8月,史料1に見るような起請文を提出した。このなかで清恒は
(1) 以後,加賀後藤の代替りには必ず後藤姓の許可願を上・下後藤家に提出する。
(2) 上・下後藤家,その門弟に対し後藤姓は名乗らない。つまり後藤姓は藩領のみに自粛する。
(3) 分家や弟子には後藤姓を遣わさない。
(4) 上・下後藤家伝統の「光」「乘」は号,実名にも使用しない。
(5) 加賀後藤では家紋として瓜のなかに唐花紋を用いているのでお届けする。
(6) 上・下後藤家が来沢の際は,接待はすべて加賀後藤がとり行う。
(7) 上・下後藤家の仕法,彫物は勝手に使用しない。
と約束している。これに対し東乘は,史料において加賀後藤が上・下後藤家と何の関係のなかったことを金沢の門弟である水野源次,水野源六,駒井久次郎,水野源四郎に通知している。
〔史料1〕
 一札之事
1. 私義従古来其御家より相別筋と申伝,代々後藤と相名乘彫物細工仕来り候処,此度段々御取調に相成候処,私家に申伝候合相違の儀御座候に付,右後藤の名字御召上げにも可相成候処,格別の御思召を以此度相改候て御門前に被成下,後藤の御名字被下置候段重々難有仕合に奉存候,然る上は以後代々御門弟に被成下度旨奉願上候処,御聞済被成下是亦難有仕合に奉存候,其御家代々且私家代替りの節は改て上京仕,御名字等御願可奉申上候,尤以来急度万端其家御大切に仕相勤可申事,
1. 御家〓御同家様方〓同事に不拘後藤を相認め候儀は相憚,決して仕間敷候,尤も門弟共へ後藤名字差遣候儀は是亦確[ママ]く仕間敷候事,
1. 御家御代々に相伝り候光の字,乘の字,実名等にも決して相名乘申間敷候,且又御家に紛敷紋所相用申間敷候,私家にては瓜の内に唐花紋所付来り候間此段兼て申上置候事,
1. 御家の御指支に相成候儀は決して仕間敷候,且此表へ御出府の節は不拘何事に急度万端御取持可仕候,尤私儀以来,御家の儀〓彫物の儀に付,一分ニ勝手ヶ間敷儀仕間敷候,此の表に於て旧来の御門前中へ万事急度申請候様可仕候,若平に落合不申儀共有之候共,決て自分一人之勝手に斗候儀は仕間敷事,
1. 私家より分家仕候者共に後藤と相名乗候儀は決して為致間敷候,尤門弟共〓後藤の御名字指遣候儀等是亦堅く仕間敷候事,
右五ヶ条の趣堅く相守可申候,若後に至り相違仕候儀も御座候はゞ,名字御取上げ御破門に相成候共,其時一言の申分御座無候,代々此一札を以急度為相守可申候,尤於相背ニ者天照大神,宮正八幡宮,春日大明神,別て稲荷大明神の可奉蒙御罰者也,仍て誓盟如件,
文政十三年八月 加州金沢の住
 後藤七兵衛印
 清恒判
後藤法橋東乘様
 〓御門弟衆中

〔史料2〕
此度其表七兵衛上京に付,右の趣神文為致相見届置候に付,則各中〓も為御承知之書取を以相達置候間,各々記録に相留め置可有之候事,
1. 此方〓七兵衛より紙面差越しの節は,各前?にては飛脚所差支えにも相成候事故,封し紙の上書,且金銀又は細工物等取置の請取書,此分各字相認め差越し候様相遣し置候間,此義乍序相達申候事,
 文政十三年寅八月 後藤東乘判
水野源次郎殿 水野源六殿
駒井久次郎殿 水野源四郎殿

〔史料3〕
後藤七兵衛一件は,先年勝千代様御入国恐悦として京都後藤勘兵衛,三宅次郎兵衛,進藤源助御三人此地下り,石浦町北川屋文左衛門と申宿屋にて止宿の砌,右後藤七兵衛と相名乘,御折菓子持参致見舞に罷越候処,勘兵衛申には後藤七兵衛と申は何人にて候と相尋候処,於当地に白銀彫物師の由相答申候処,彫物師に後藤相乘罷在候は何方の別れに候哉ととがめ候処,勘兵衛の別れと答候へば,則勘兵衛家別れなれは某家なり,左様の別れ無之と甚言高相成候故,右北川屋亭主罷出,様々わび候て其座相済候へ共,其より過て勘兵衛高つのる,何れ七兵衛方名字取上可申由にて,一向に了簡不致候故,後には如此大事に相成候,
右は誓紙神文之一件,後に分り申候故事之おこり一寸書調者也,
 嘉永二年十月夏 源六
 ところで,七兵衛清恒が東乘に提出した一札のなかに後藤家の仕法,彫物を勝手に使用しないことを約しているが,「後藤家の彫には特殊の鏨があって,此鏨を他の町彫の者が使用するときは後藤家より後藤家の誰から習ったかと沙汰したものであったから,町彫では此後藤家独特の鏨は使はぬことになって居った」(日本美術協会『日本美術協会報告』24輯)と福島靖堂は述べている。後藤家の作風は祐乘以来,赤銅・金以外の素材使用を禁じ,題材においても獅子・竜・花卉・能楽・人物などに限定し,同一手法の厳守を強要した。前掲福島氏は「此後藤家の図形と鏨は加賀金工の間には伝はって居ったが,段々末になると後藤家と縁が遠くなり,遂に此独
特の鏨も図形もなくなった。故に加賀金工も後藤家のものとは全然異った様にまで変遷して来た」(同上)と述べているが,少なくともさきの文政期一件にもみられるように後藤家の容喙は文政期になお,強いものがあった。
 寛政元年(1789)藩が水野源六に発注した際の史料に次のように書かれている。
 寛政元年ニ被為仰付候御絵形,御納戸ヨリ御渡シ,此通リ出来指上候様被仰渡候,其御絵形ヲ以,文化九年ニ被為仰付候,出来指上候
 加賀藩における金属調度品や金具類は後藤家の指図によったから,図柄は当然,後藤様であったことはいうまでもなく,製作者の水野家も後藤家の弟子系工房を経営し,後藤家の来沢が絶えたあとは後藤家の代行として領内金工工房を統制する立場にあった。水野家の裔,水野朗が「初代が元和元年(345年)京都より加賀藩主前田利長に扈従して金沢に来住以来,日本金工界宗家後藤本家に従属し,元禄5年演乘等の金沢出張廃止以来加賀白銀棟取として明治初年迄後藤本家の代理を勤め(略)」と述べてなかには水野家の立場をよく示している。

3 殖産興業策と金沢金工

(1) 輸出銅器の製作
 明治2年(1869)2月維新政府は社会の動揺を鎮めるため窮民救助,殖産興業を基本政策として打出した。そのひとつ,殖産興業振興のため4800万円を諸藩に貸付けたが金沢藩でも55万円を貸付けられた。しかし,諸藩への貸付金は本来の目的に使用されたのは37%余,残りは窮乏財政の補填に使われたという。この時期,金沢の人口は13万人,うち半分が侍および侍奉公人とその家族であり,残りの半分が旧町人であった。旧藩主慶寧は金沢藩知藩事に補され,6万7201.8石を知事家禄として支給された。藩知事個人の家計と藩財政がはっきり分離している。また,同年12月藩士はすべて士族となったが,3年(1870)9月には,一代足軽を除くすべての同心・足軽は卒族となった。また,家禄100石以下はすえ置き,3000石以上は10分の1,3000石御下100石以上は右に準じて藩庫から現米で支給され,300年間続いた藩主と家臣の主従関係はなくなった。同年10月草高による知行が廃止され,実給与高による知行政に改められ,高禄者の禄は大幅に削られた。それでも旧老臣の5万石本多氏は2144.052石,最下の1万1000石の前田氏で497.094石を給されるなど,軍役義務を有しなくなった上層士族に対する厚過は手厚かった。したがって士族は身分上の特権を失ったシヨックはあっても翌日からの生活に行き暮れることはなく,金沢の経済活動にも大きな支障はなかった。
 こうした廃藩置県前における金沢の金工界を見よう。当時の金工職人には,水野源六,山尾次六,平岡忠蔵,山川孝次,鈴木嘉平,木越三右衛門,泉清次,小浜弥太郎,原勘七,山川孝作,山川勘右衛門,鈴木嘉一郎,米沢清左衛門,水谷喜太郎,後藤清次郎,後藤次右衛門,平岡安太郎,村沢国則,小島為次郎,音田弥六,山尾作太郎,豊田喜兵衛,山川義左衛門,伊藤久治,音田弥之助,伊藤左之吉,塩谷治平,鋳師太平,浅野他三治,駒井元貞,平石親随,民野照親,和田多喜平,千葉小太郎,吉倉清在,越野吉平,越野吉太郎,幸村源四郎,宮崎喜三郎,高尾次作,森井弥三郎,加藤与三郎,浅野与三吉,鷺池小太郎の他に松本某,徳田某,清水某ら45人余がいた。いずれも工房の経営者,もしくは藩の細工人で町職人は入っていない。
 士族とは異なり,同5年(1872)の廃藩置県によって細工人は失職し,御用職人も藩の用命がなくなり呆然自失の体となった。
 同年,明治政府は翌年春開催予定のオーストリアのウィーン万国博覧会に出品する製品を各県に依頼した。石川県でも同年3月,政府の依頼に応じ金工職人に作品を製作させようと山尾次六に命じ大蔵省に出頭せしめた。
 本来,金沢の彫金は後藤氏の統制下にあったため,素材は赤銅と金であり,象眼も鉄地に金・銀・四分一[しぶいち](銅4分の3,銀4分1の合銀で朧銀といわれる)・赤銅などをはめこむものであるが,ウィーン博覧会への出品製品として青銅・赤銅などに象眼することは加賀象眼の一大転換であった。しかし、版籍奉還から廃藩置県の大変革のなかで模索する加賀金工職人にとって生き残るためにはこの試練に耐えねばならなかった。製作棟取に山尾次六,平岡忠蔵,水野源六,山川孝次,鈴木嘉平の5人が任命され,職工として小浜弥太郎(象眼),原勘七(彫金),山川勘右衛門(彫金),平岡保太郎(彫金),米沢清左衛門(彫金),水谷喜太郎(彫金),小島為次郎(透物),村沢国則(象眼),浅野他三郎(下絵),後藤次郎兵衛(彫金),山尾作太郎(鈩),音田弥六(彫金),鈴木嘉二郎(彫金),他に豊田喜兵衛.山川義右衛門,伊藤久次,音田弥之助,伊藤左之吉,塩谷治平,飾師太平が採用された。
 翌6年(1873)3月薄端[うすばた](花島模様象眼)9対,砂鉢3個,角切形兎足耳付(海女の玉取之模様),角大砂鉢(草花模様彫上金象眼)3個,足ナマ形砂鉢(長春蛇模様彫上)3個,足蘇鉄,その他に手箱,手ボタンを出品製品として政府へ提出した。同5年,富山県も出品製品として高岡において毛彫の名工と称された横山弥左衛門が中心となり,高さ5尺5寸の大江山山伏山入之模様大花生(花瓶)を製作することになったが,高岡職工では技術的に十分ではなく,金沢の吉倉清在,越野吉平,越野吉太郎をはじめ,さきの28人以外の職工を招聘した。製品が完成して大蔵省に納入する際,吉倉,越野等3人が同道したが,優れた技術を賞讃され,価格3000円の他に300円を加えられた。
 ところで銅器の海外輸出は越中高岡の米屋久兵衛に始まる。米屋久兵衛は嘉永期の末,横浜に出て高岡銅器をアメリカ合衆国に輸出する先駆をなした。しかし,銅器の海外輸出に力を尽し,明治政府をして殖産興業策に合致した製品として認めさせたのは高岡の商人金森宗七であった。明治5年(1872)自宅内に工場を設立し,金沢から平名真随および真随に従う輝親,政親を招き,前記横山弥左衛門,平象眼の関沢卯市らにより銅器の彫刻,象眼を行わしめた。ことに,ウィーン博覧会用の政府依頼花瓶の成功と製作過程での金沢職工の象眼技術が富山職工よりきわだってすぐれていたことから,明治6年(1873)3月糸象眼の村沢国則,浮模様彫りの駒井元貞や米沢清左衛門,原勘七,平名親随を招いた。このため「目先の早い高岡の問屋達は仏具の花立,香炉,置物等に象嵌をして売出し外人等の御土産」(米沢清左衛門「覚書」)にしようと同年3月,争って金沢金工職人のスカウトを行った。白崎屋へは山川孝次,泉清次,小浜弥太郎,水谷喜太郎,山川義右衛門,山川孝作,また金森方へも米沢清左衛門,原勘七らも招かれた。この他,和田多喜平,音田弥之助,豊田喜兵,千葉小太郎らも諸問屋に招かれて製作に従事した。これら職工のうちには生活のため高岡に居を移したものもあったが,金沢に帰るものも少なくなかった。このため,宗七は金沢彦三,壱番町六十八番地に32人の職工を擁する銅器製造の宗金銅器工場を開設した。金森宗七の同工場開設について『高岡史料』は「是レ実ニ宗七ガ私利ヲ主トセシニアラズ,高岡銅器ヲシテ其特産タラシメント欲スルト,一ハ失職困窮ノ職工ヲ救済セントスルノ外他意アラザリシナリ,斯ノ如クニ高岡・金沢二ケ処ノ工場ヲ有シ,年々缺損スル所頗ル多カリシトイフ,宗七ノ製作ヲ職工ニ命ズルヤ,若シ巳ガ意ニ適ハザレハ,如何ナル高価ノ物トイヘドモ,之ヲ其前面ニ於テ毀チ,巳ガ意ニ満ツルマテ之ヲ改作セシム,之ニ反シテ若シ優良ナル製品ヲ持チ来レバ,宗七大ニ之ヲ賞シ,饗スルニ酒肴ヲ以テスルヲ常トス,故ニ職工技術ノ進歩殊ニ著シカリシトイフ」と述べている。
 職工には村沢国則,米沢清左衛門,駒井元貞,原勘七,山川孝次,水野源六,鈴木喜平,山尾次六,平岡忠蔵,浅野太三郎,豊田喜兵衛,山川勘右衛門,幸村源四郎,宮崎喜三郎,水谷喜太郎,泉清次,小浜弥太郎,山川義右衛門,山川甚左衛門,寺尾次作,鷺池小太郎,松本某,徳田某,清水某,清水某[ママ],森井弥三郎,水野克則,加藤与三郎,山尾作太郎,浅野与三吉,吉倉清在,平岡保太郎ら32人の名がある。
 宗金堂の製品の特徴は,ここに勤務していた米沢清左衛門によれば「此時花生風者,クミ立花生,武士人物,花鳥等彫上,こうらん付花生也,此時分初テ四分一,銅,赤銅ヲ象眼ニ入ル事ヲ初」とメモしている。製品には「宗金堂〓」あるいは「石川県金沢〓宗金堂」と彫入れた。
 また,金沢総区長の長谷川準也は明治7年(1874)10月,金沢片町居住の商人円中孫平の後援でアメリカ行製品の発注を得たため金沢上柿木畠にあった区方観業場に鏨工方を置き,宗金堂雇用の職工から24人を抜き銅器製造を始めた。
棟取
水野源六 平岡忠蔵 山川孝次
工人
泉清次,小浜弥太郎,原勘七,天丸嘉吉,浅野他三次,水野克則,水谷喜太郎,山川勘右衛門,山川義右衛門,豊田喜兵衛,ノリ勘左衛門,音田弥之吉,松尾三五郎(鋳物),越野吉兵衛,吉倉清在,倉見鎌太郎,山川孝太郎,山川八十吉,名越某,白山某,平岡安太郎,
 ここで完成した製品は高さ2尺5寸の組立金銀四分一黒地大香炉(貝に波千鳥模様の象眼,摘み蓋は鬼瓦に鳩置の模様),高さ2尺の貝尽模様花生(竹笹模様台の台付),他に竜虎模様花生,六歌仙模様花生,太田道灌山吹模様花生などで,米沢清左衛門によれば「見事出来相成」るものであった。先述のようにいずれもアメリカ行きの製品であり,完成の8年(1875)10月鏨工方は閉鎖された。また,宗金堂においてもアメリカ行発注の富士巻狩模様花生の他7点が完成し円中孫平に納入したあと,8年11月に閉鎖された。『高岡史料』は「明治9年金沢ニ於テ工業会社ヲ設立セシニ付,宗七ハ其職工約50名ヲ該会社ニ譲與シテ,コヽニ金完[カ]銅器工場ヲ閉鎖セシト云フ」と述べている。その後,金森宗七は宗金堂を再興し,村沢国則,駒井元貞,山尾作太郎,桜井数明,金田為次郎,丹羽市二郎,国木春正,駒井元太郎,柚木慶太郎,梅村千太郎,桐山某を用いて銅器製造を行った。
(2) 銅器会社
 明治9年(1876)長谷川準也は金沢高岡町下薮ノ内の民家を改築して工場とし,40人余の職人を集めて銅器の製造を始めたが,さらにこれを民間企業として独立させるべく政財界人30人から資金を集め,10年(1877)2月長町川岸44番地に新工場を築き資本金5230円の「銅器会社」を設立した。社長が長谷川,副社長に弟の大塚志良,社員に佐野忠道,鈴木某が職工棟取に水野源六,副棟取平岡忠蔵,山川孝治を任命した。職工には天丸嘉吉,米沢清左衛門,原勘七,水谷喜太郎,山川孝作,平岡保太郎,水野克則,松尾三五郎,越原春久,井波宇助,島田勘六(明治15年神戸へ移転),伊藤久治,越野吉平,山川孝太郎,大沢文太郎,豊田喜兵衛,安田亥太郎,塩谷次平,山川義右衛門,近藤勘平,倉見渓太郎,佐野八十吉,亟田敬吉,中野小太郎,三木宗次郎,山尾次吉,浅野与三吉,駒井元貞,村沢国則,村沢亀久次郎,金子為吉,坂戸直吉,野村他次郎,桐山直吉,桐山直太郎,中村金次郎,駒井元太郎,水戸外吉,坂戸松太郎,磯部千吉,山本孝太郎,越山他吉,小池為次郎,野瀬与三郎,浅井ノ伝吉,高村辰男,山川重松,小浜常太郎,新保市太郎,越野安太郎,村田直次郎,矢部喜太郎,井口源六,中野徳太郎,大沢一久,丹羽市二郎,織田某等57人の他,下絵書の高木伊右衛門,浅野太三治が採用された。なお明治15年(1882)に副棟取の山川孝次が病歿し,代って嗣子孝作に任じられたが,同年島田勘六が神戸へ転居した(米沢清左衛門メモによれば15年9月の職工数は58人,正棟取水野源六,副棟取平岡忠蔵,惣代中村規三郎,水谷喜太郎,米沢清左衛門とある)。同年12月28日に山川孝次が病歿,19年(1886)に駒井元貞が病歿,21年(1888)5月に村沢国則が病歿(61歳),大正9年(1920)2月4日に村沢喜久次郎が病歿(61歳)絶家した。明治15年(1882)には中川他喜男,越山吉太郎,16年(1883)に内田宗近,19年(1886)に野崎茂三郎,倉見険三郎,宮田亥太郎,野崎茂平が加わった。
 銅器会社設立の趣旨について長谷川は設立2ケ月後の10年(1877)4月,社員,職工に対して次のように告示している。
当社ヲシテ漸次盛大ナラシメ銅器ヲシテ国産興隆ノ位置ニ進マジムルハ社員ノ尽力ト工人ノ勉励ニ因ルナリ。夫レ一社ヲ結ヒ同心戮力,一事業ヲ創立シ永ク一社ヲ維持シ工人ヲシテ自在ニ其業ヲ尽サシムル者社員ノ責ナリ,事業ニ勉励シ製品ヲシテ精功緻密ナラシムル者工人ノ任ナリ。各其責任ヲ尽シテコソ初メテ一社ノ盛大ヲナシ其製品ハ国産興隆ノ位地ヲ得テ社中工人ノ栄誉之ヨリ功ナル者非ルナリ。サレハ我銅器会社ノ社員ト工人トハ須ラク此責任ヲ尽シ,此繁栄ト栄誉トヲ求メサルヘカラス。抑我銅器ハ昨明治九年北亜米利加合衆国費拉府博覧会出品中既ニ特殊ノ称賛ヲ得タル処ニシテ,之カ製造ニ与カル者即チ我社員ニシテ之レカ工業ヲナス者即チ今日ノ工人ナリ。然ラハ則チ国産興隆ノ端緒ヲ開キ栄誉ヲ海外ニ求ムル事,実ニ我国ノ美事ト謂ハサルヲ得ス。之ヲ要スルニ只方ニ自在ニ工業ヲ勉サシムルト勉強シテ精功ヲ極ムルトニ有ルナリ。
既ニ当社ヲ創立シ此業ヲ開起スルニ付,社員ノ責ト工人ノ任トヲ両担シ以テ当社ノ盛大,国産ノ興隆ヲ祈リ益繁栄ヲ望ント欲ス。庶幾ハ各員孜々トシテ黽勉アラン事ヲ。
 すなわち,銅器会社は政府の殖産興業政策に対応すると同時に,これといった産業のない金沢における工芸の産業化に他ならなかった。また,朝野新聞が「旧藩当時の馬具,刀剣等の武器の職工及び旧藩の細工人の既に廃棄に属せる者を興起し,無用を転して有用と為すに在り」と述べているように藩の御用職工,細工所細工人の救済に大きなウエイトがおかれた。他方,工房制にとって旧藩金工社会の統領であった後藤氏(=藩権力)の代行者として領内金工職工を統率して来た水野氏は,後藤氏勢力の退去後,下級藩士(150石)出身の新官僚長谷川と提携することで金工工房,職工を再編成し,主導権を確保しようとした。しかし、明治12年(1879)10月,水野は棟取の地位にあった銅器会社を辞職,独立した。おそらく経営上の対立のためとみられるが,この水野の民間への転換は金沢における金属工芸職工の民間工場進出のきっかけとなった。
 他方,同10年(1877)第一回国内博覧会に鳳風模様花生,竜巻模様花生,波千鳥模様花生,鼓形雪鶴模様花生,兜形香炉,瓢形猩々模様香炉,蛸に貝模様菓子器,水鉢など12,3点を出品した。このうち香炉1点が名誉賞牌を受け、他の銅器についても太政大臣三条実美は県令桐山純孝に対し激賞したといわれる。金沢の政商円中孫平をはじめ綿野源右衛門をはじめ綿野源右衛門,県立工業学校教諭阿部碧海,この他越中高岡の職工,団体からも多く出品されたが,銅器会社出品製品だけが受賞したことは,金沢の金工職工に自信を与えた。翌11年(1878)パリ開催の世界大博覧会にも出品することとなり,諏訪蘇山をはじめ東京から画家春木南江を招聘して?形やデザインについての指導を受けると共に,職工を選んで上京させ,塗色・焼色の研究を命じ,博覧会開会中には前田肇,加藤順吉よ二人をパリに派遣した。11年(1878)10月4日明治天皇の北陸巡幸に際し,天皇は銅器会社に立寄り,およそ2000円余の製品を買上げたが,これを機に宮内省の用命を得ることとなり,また,旧藩主前田家の用命や輸出品の製造に活況が続いた。このような活況の続く銅器会社について朝野新聞は「工場は鋳造,轆轤より精粗の仕上げに至る迄,各席を別て場内の両側に羅列す。独乙人『ハーレンス』氏より注文になりし花瓶は現に製造中に在り。象眼の如き己に工を竣り正に研磨の工に就けり,其模様は殊に精密を極めたり」(鳳賛の光・御旛の湿)と報ずる程であった。
 銅器会社はその後,順調に業績をあげ経営の見通しも明かったが明治14年(1881)
の松方正義のデフレ政策により不況が寄せて来た。
 明治5年(1872)1月,華族・士族・平民の制がとられ,2月には家禄の消却が計画され,士族・卆族の悴,隠居らへの給禄は廃止された。11月には徴兵令が公布され,士族は家禄および身分的特権を主張する最大の口実をなくし,翌6年(1873)秩禄奉還の法が設けられたが,8年(1875)9月現米支給に代って同5年から7年間の平均米価で現金を支給されることとなった。いわゆる金禄であった。同9年(1876)金禄に代って金禄債券が支給されたが,一代足軽や卆族などを除いて士族社会はなお動揺が少なかった。同14年(1881)蔵相松方正義による不換紙幣の整理は深刻なデフレーションをひきおこした。当時,士族の金禄債券を目当に乱立していた金融会社は軒並み倒産し,士族のなかには破産者が続出し,明治18年(1885)8月には金沢士族の破産者は1090人に達した。中・下紙士族は居住地を売却し,東京,京都,北海道へ散った。東京へ行った士族の多くは巡査となった。なかには子女を芸妓に売る者もあらわれ金沢名物は「巡査と女郎」とさえいわれるようになった。
 こうした金沢の経済的,社会的状況のなかでは工芸職工の生活も暗澹たるものがあった。明治18年(1885)5月10日付の京都の「日の出新聞」も「輪島の漆器,九谷陶器などの工芸品は全然さばけず」と報じた。漆器,九谷陶器だけではなく金属工芸品においても同様であった。松方デフレ政策による旧士族の本格的な没落で政治資金の窮乏を来した長谷川準也は資金を銅器会社から持出した。こうして銅器会社は経営難におち入り,15年(1882)6月銅器会社の権利一切を野村清一に譲渡し,野村が社長,社員に佐野忠道,鈴木某が参加した。7月棟取に平岡忠蔵,山川孝次,職工に山川孝作,原勘七,平岡保太郎,山川孝太郎,水野克則,井口源六,野崎茂平,越原春久,佐野八十吉,中村金次郎,毛頭喜太郎,新保市太郎,中村他喜男,中野徳太郎,越山吉太郎,村沢亀久次郎の18人が採用された。12月山川孝次の病歿で16年(1883)3月嗣子孝作が棟取加人となったが,他に4月には村沢国則,駒井元貞,安田亥太郎,内田宗近の4人が加わった。また,17年(1884)7月会社は休業となったが10月に再開した。
 19年(1886)4月8日社名は「金沢銅器会社」と改められ,社長に松原直作が就任し,社員に宮崎韓,松原常松,佐野忠道が参加,棟取には平岡忠蔵,山川孝作,職工に原勘七,平岡保太郎,井口源六,水野源六,野崎茂三郎,米沢清左衛門,村沢国則,駒井元貞(明治19・8・30病歿),内田宗近,倉見険三郎,安田亥太郎,矢部喜太郎,中野徳太郎,中村金次郎,新保市太郎,中川多喜次郎,村沢亀久次郎が採用された。しかし,同年9月6日から休業状態に入り閉鎖寸前となったため,同月15日長谷川準也がこれを買収し再び「銅器会社」と改め,10月1日より生産を再開,社長に長谷川が就任,副社長に藤井鉄太郎,社長代理和角某が就任,社員に山口容銅,佐野忠道が参加した。長谷川はこの再設立に際し
今般,本社事業発起者へ〓復候義ハ,専ラ美術品ノ衰頽セン事ヲ慨キ,継続候ニ付テハ一層奮発勉励可有之ハ勿論ノ事ニ候得共,万一怠惰ニ因リ〓品粗亜ニ出来,或ハ例外之日数ヲ要之為メニ,高価ニ相成候テハ,自然損失ヲ招ク基ヒニ付,今後万端注意ヲ加ヘ,成立ノ速カナルト物品ノ精巧ナルトヲ勉励有之度,尚以後怠惰等之輩於有之ハ其都度用捨ナク出社指止メ,時宜ニ寄リ損失ヲ償セ可申,且一際勉励之輩ヘハ賞與可致候,前文之旨趣ヲ体認之一同奮起可致候也
 (銅器会社日記)
と述べ「棟取外工人一同江」厳しい態度で臨んでいる。社員に山口客銅,佐野忠道が,棟取には平岡忠蔵,山川孝作,一般職工には原甚七,平岡安太郎,山川孝次,井口源六,米沢清左衛門,水野克則,能崎茂平,倉見鎌三郎,駒井元貞,村沢国則,矢部喜太郎,中野徳三郎,中村金次郎,村沢亀久次郎,水登外三郎,新保市太郎,中川他喜男の19人がいた。明治27年(1894)に閉鎖された。
 ここで水野源六が創立した魁春堂について述べておきたい。12年(1879)10月水野が銅器製造工場を開き職工の募集をはじめると山尾次吉,和田弥平,佐山清七(鋳物),明珍徳平(鉄打出),春田勘七(鉄打出),浅野与三吉,樫田次三郎,仲田初三郎,高木辰次郎,平石盛親,水谷喜太郎,佐野久次郎,伊藤左之吉,伊藤武吉,伊藤武十郎,伊藤佐次郎,伊藤与一,唐津宇吉,唐津宗次郎,小寺某(下絵書)の21人が応じた。これらの職人の殆どは水野の弟子と下請職人であったようである。このあとに泉清次(泉鏡花の父で金沢で金沢下新町に住む,はじめ本野源六に学び,後,山尾次六の門に入る,明治26年54才で歿)をはじめ樫田次郎松,玄能自明(七宝),鈴木徳三郎,関沢弥平,浅野弥平,浅野弥吉,渡辺甚吉,瀬戸清吉,谷吉郎,水谷吉三郎,佐野外次郎(鋳物),沖田健次,三個某(三個駒次郎弟),米原某,島田某,金岡幸一,金岡幸作,米出三吉,白山孝忠,中越兵助,中越次郎,大野助次郎,岡村久太郎,奈良田勇盛,白山忠次,中村亥三男,滝吉次,角本時雄,横川弥吉(元起),松本某,高橋勇,伊藤某,寺島某,吉村栄太郎,椎名宗四郎らが加わった。
(3) 工芸への理解
 明治22年(1889)金沢は市制の施行により金沢市となったが人口は減る一方であり,かって12万を誇った人口も29年(1896)には8万3000人におちこんだ。街中にいたるところ,「邸宅は化して無住の空屋となり,更に田畑となり次第に空地」(北国新聞)を増加し,リンゴ・蓮根・胡瓜が栽培された。このような金沢市の零落を防止し,経済的復興を唱える人々は北国新聞によって石川県,金沢振興策を掲げた。例えば明治28年(1895)には「今後の金沢」「如何して県民を救済する」「金沢の将来」「金沢振興策」などが見られる。すでに明治26年(1893)には金沢市長長谷川準也は「前田侯爵に対する建白」として旧藩主前田氏の在住こそ石川県の繁栄の鍵であるとし,その帰住を要請した。31年(1898)に至っても地元北国新聞が社説とみられる「鉄道の開通に際して旧藩主の帰住を勧奨す」と題した一文を発表する程であった。こうした模索の中で金沢の産業として絹,綿織物業が注目されはじめていた。30年(1897)当時の主な工業品を表出すると次のようである。
表1 金沢市の主要工業品(明治30年)
 表1に見るように金工製品とみられる銅器・花簪彫刻数・金銀細工などの総額が7万600円に達し金沢市における主要産業の位置を維持していた。右について北国新聞は「金沢の工業は仏国の里昂を縮小せる京都的工業なりとは言ふべからずや,即ち金沢の工業は京都の工業に類似して然かも産額少なく其の土地は百万石の遺風を脱せざると共に其の工業も尚ほ半開の位置に在る者と言ふを得べきか」(明治32年)と論じている。美術工芸品が金沢の主要産業のひとつであったことは論を俟たない。このような美術工芸品に対する代表的な所論として26年(1893)の北国新聞が論説として掲載した「北陸の美術」であろう。以下煩を厭わず以下に掲げたい。「北陸の美術は寧ろ加越能の美術として論ずるを可とす、蓋し加越能の美術は,其始め前田三代侯,即ち微妙院の鼓舞作興保護奨励に起りたるものにして,当時美術工芸に関する大坂の諸浪人を召抱へ,安んじて其所長特技を専らにせしめたるものは,実に北陸に於て美術工芸の光輝を夙に放たしめたる原因たらずんばあらず。
 陶,銅,漆器,蒔絵,象眼,彫刻,鋳物等勃然として微妙院の時に興りしは,已に人知れる所なるが,就中蒔絵は足利家に珍重せられし五十嵐道甫の統を継承したる名匠,之れを振作して加賀蒔絵の誉を博し,鋳物に於ては大西浄清の門人にて出藍の宮崎寒堆聘せられ来りて韻致富謄なるものを造り,陶器に於ては後藤才次郎,有田に学びて更に唐山の雅味(明来の陶器)を写せり,古九谷の名を似て喧伝せらるゝもの即ち是れなり,将た大樋の長左衛門は大樋焼の元祖にして,其製品たる,気韻頗る高し,是れ亦た微妙院の時に係れり,彫刻に於ては後藤勘兵衛を京都に扶持して其技を保護奨励し,其子貞丈は召抱へられて本藩に来り居れり,鑑定に於ては本阿弥喜三次招き寄せられて寵遇を受け,宗旦の末子仙叟亦た聘せられて茶事に師範となり,小堀遠州に至りては利常・光高二侯が茶道に於て師事する所なりき,夫の幕府への献上物を以て有名なりし加賀鐙,即ち象眼鐙の如きも,微妙院の時に興り,北国正宗と賛称せられたる辻村四郎右衛門兼若,亦た此時代に出で,後ち越中守高成又は出羽守高成とは任官せられたり,京都の能役者武田権兵衛に三百石を与へ,狂言師三宅,大鼓石井,小鼓小松原の輩にも亦た京都に於て夫々扶持したるが如き,皆な微妙院よりぞ始まりける,夫れ已に右の如き源泉あり,其水の混々として流れ,其勢の洋々として漲るは当然なり,於是乎,九谷陶器には八郎右衛門,吉田屋,永楽善五郎,九谷庄三郎等相踵て起り,各一派を開き一家一を成すに至りぬ,彫刻には武田友月,浅阜忠平の如きその顕はれ,大野の辮吉亦た精巧を以て聞ゑたり,蒔絵に於ては孫六の徒ありて其美を継にし,絵画に於ては佐々木泉景,常信と□□[判読不能]して下らず,遂に法眼に叙せられたり,泉玄・泉龍其跡を継ぎたれども,今に伝らざるは惜しむべし,蒔絵の如き,今日他地方に於ては手を抜き労を省きて殆ど真正なるものを造り出さざるの例なるに,独り加賀は堅く旧様古法を守りて,狡滑譎詐に走り粗製濫造に流るるが如き事なきは賀すべし,将た銅器の如き,今尚日本一の呼声を博し居るものは,其工人が真面目に美術品を製造せんとの熱心誠実なる精神より出ずるものにて,其感化は遠く古君より来らずんばあらず,埋忠明寿一たび出でしより,刀剣の本鍜へを略しミズビシ鍜へ流行するに至りたるの当時,其潮流に動かされず,依然本鍜へを打って北国正宗の名を轟かせるものは,四郎右衛門兼若にあらずして其れ誰ぞや,
 加越能の美術は古に花を開き,今に其芳を存すること,巳に人の知る所たり,然れども此美術をして将来益々隆盛ならしむることを得べきや否や,
 旧藩にありて美術の光輝,此北陸に燦然たりしものは,主として君侯の保護助成によらずんばあらず,当時名工巨匠は其技芸によりて登用となり,曰く何石,曰く何俵,曰く何金,夫々禄を与へられ,現に能役者武田権兵衛の如きは五百石を拝領し,彫刻家後藤勘兵衛の如きは四百石を賜はり,同く彫刻家たりし武田友月の如きは三百石を給せられ,其他一技一芸に長ずるものにして委[(ママ)]棄せられたること無し,左れば彫刻家浅阜忠平の如きは餠板彫より一躍して禄仕の身となり,其他乞食類似の徒より俄かに扶持人に採用せられたるもの亦少からず,九谷の元祖後藤才次郎が武士の栄身を以てして,当時士人の最も賤みたる陶業の為めに有田に赴き,辛苦の間に其製法を伝受し帰りたるが如き例を見ても,前田家の美術工芸を保持奨励せられし度合を推知するに足れり,夫れ巳に此保護奨励あり,故に美術工芸の発達進歩那の如くにてありしなり,然れども今や藩侯無し,故に名工巨匠も一技一芸を以て収禄せらるゝこと復た昔日の如くなるを得ず,蓋し禄仕して技芸に従事するときは経済上の配慮を要せず,其費す時の如き,其擲つ金の如き,皆な君侯より許さるゝ処,復た二一天作を問ふの要あらんや,是に於て乎,金にも時にも構はずに,安んじて稀有なる珍物神品を造り出すを得るなり,然れども禄なく扶持なきものは,独立自活の道に余岐なくせられ,経済上割に合ふ仕事を撰まざるべからず,否[しからざ]れば則ち糊口に苦むを如何せん,是れ封建瓦解以来純粋美術に於ては,曽て大藩の保護の下に成りしが如きものを見るを得ず,応用美術に至りても亦た古に三舎を避くるものある所以なり,何となれば非凡傑出の妙手腕を有するもの,其生計上早く造りて早く売らざるを得ざるより,勢ひ故[ことさ]らに粗製濫造に陥るを免がれざればなり,此点を見ては吾輩工芸保護の議を政府に勧告す。
 将た美術の神品珍物は古に多くして今に少く,今人概ね古人に及ばざるの状勢なれども,然れども,亦た其の事物に就きては互ひに一長一短なくんばあらず,古人の発明し得ざる所にして今人易々之れを為すもの亦た稀れなりとせず,要,取捨斟酌を怠るべからず,若し漫に古にのみ心酔して其顰に倣ひ居らば,遂に古人に駕する能はず,寧ろ虎を画きて成らず,猫に類す,鵠[(こく)]を刻みて成らず,鶩[(ぼく)]に類するの譬喩と一般ならんのみ,然るに加越能の美術,漫に古にのみ心酔するの風あるは惜むべし。
蓋し美術には純粋美術と応用美術とあり,又た其応用美術を分ちて甲種と乙種との二となす,固より斯る区別あるが如く,其領分各相異らずんばあらず,然るに加越能の工芸は単に上級の領分に近似するのみを以て進歩と心得るが如き傾向あり,亦た誤れりと云ふべし,例へば応用美術の乙種は甲種に近似せるを以て進歩と心得,其甲種は純粋美術に近似せるを以て進歩と心得るの類,即ち是りなり,是れ恰も薬鋪が医者の領分に踏み込たるを見て,抑も社会の分業分類を知らざる亦た甚しと云ふべし,是に於て乎,帯に短し襷に長しの品を造り,或は純粋美術品としては価値無く,応用美術品としては高くて相手無しと云ふが如きもの,踵を接して起り,為めに其販路に苦むの失笑話を聞くにあらずや,是れ亦た反省を与へて,社会の分類分業を会得せしむるを可とす。
 其他加越能の美術に就きて言ふべきこと尚ほ多し,然れども,詳論は之れを他日に譲り,今は唯だ卑見の一斑を陳ずるのみ」
 長文を引用したが史実には多くの誤りを有するとはいえ,明治中期の金沢の知識人の美術工芸に対する理解のあり方を知る好資料といえよう。美術を純粋美術と応用美術に分類し,金沢の美術工芸が前者に位置するを最上とする価値観を批判し,美術品と産業との共存による進路を示している。
 また,28年(1895)藤岡作太郎は「金沢の工芸美術」と題するなかで「優々伝来の名器奇什を弄して,以て我金沢は美術地なりと称す,金沢の美術地といはるゝは,今に妙品を出すの謂にあらずして,古器の残存せるの謂なり」と指摘し,ついで「奮起一番,業を励みて衰へたる金沢を救はんとせば,先づ何の業をか治むべき(略)業の真の美術品にあるか,実用を旨とする工芸品にあるかを問はず,何れにもあれ,郷人は自ら玩ぶこと勿れ,たゞ他の為に作るべし(略)日々に玩弄する所の名器珍品は,須らく平常は博物館に預け置くべし,斯くて高閣に束ねて,広く内外人の観覧に供じなば,巳れ独り喜ぶると何れが勝れる,金沢には京都の如く大社巨刹名所旧蹟なし,されど若し巧妙なる古代美術工芸品を列ね置かば,聊か此地を美術地といふは虚名なりといふ誹を免かるべきか」(北国新聞)と工芸品の製作販売と博物館の設立を提唱した。
(4) 金工職工の処遇
 次に殖産興業政策下の職工の処遇についてみてみたい。明治6年(1873)の宗金堂の1日の勤務は朝の6時に始まり夕方の6時に終り,昼食時に一ときの休憩時間が与えられたのみであったからおよそ12時間の労働であった。しかも、19年(1886)の「銅器会社」心得書にみるように仕事中,大声で話し合ったり,席を離れて仲間
と私語することが禁止されており,実働は12時間とみられる。ただ,朝食と昼食は会社から支給され,14日,30日には仕事の終ったあと酒食が出た。休日は毎月15日のみであった。明治19年に再出発した「銅器会社」の就業規則を記した「心得書」四ケ条を掲げよう。
1.休憩時間多トモ自分物〓ヒ,一己人ヘ対シタル注文品ヲ製造スル等ハ一切禁止候事,但自己所有金銀類ハ素ヨリ何品ニ不寄,本社工業ニ必用之器具ノ外,一切持参致ス間敷,因テ時々役員検査スルモノトス
1.一己人へ対シ他ヨリ注文品有トキハ,其都度係員ヘ届出ルニ於テハ本社ニテ製造ヲ引受,原価ニ壱割ヲ加へ当人ヘ相渡之候間,該人ヨリ注文主ヘ対シ更ニ売価ヲ付之売渡スヘキ事
1.就業中高声等ニテ他ノ業務ニ妨害ヲ来スノ挙動ハ一切禁止候事.
1.就業中,必用[(ママ)]ノ外他ノ席ヘ立寄,私語スルヲ堅ク禁止候事
右のうち,第二条は会社に勤務する職工が請けた注文を会社が肩代りする際の条件を記したものであるが,他は就業規則である。すなわち,第1条では休憩時に個人の注文品の製作を行うことを禁止し,第3,4条において就業中の行動を規制しているが,他の工業における就業規則と比較すればきわめて簡単なものになっている。
 賃銀についてみたい。初期については明らかでないが,後期「銅器会社」における20年(1887)6月から9月までの賃銀は1日平均15.79銭から17.46銭,平均16.86銭である。
表2 工芸(金工)職工賃銀
表3 工芸(金工)見習職工賃銀
 表2によれば棟取と一般職工との隔差は十分理解できるが,一般職工間においても著しい賃銀隔差がある。これは,他の工業における熟練労働者と不熟練労働者の賃銀隔差と同様に技術の熟練度に応じた隔差を示すものである。したがって,明治22年(1889)1月14日に銅器会社見習として入社した米沢佐吉(清左衛門長男)の賃銀は1日平均2銭にすぎなかった。要するに賃銀は稼動人数であらわした出勤日数に熟練度による日給を乗じたものである。なお,7月に慰労金が出されており米沢佐吉は20銭を得ている。10日分にあたる。また,当時の勤務は会社において注文品のあった期間のみで,製作品のない期間は家宅にあって個々人の注文品の製作にあたった。しかし,金工職工は雇主から容易に馘首され,賃銀をカット,停止されることが多かったため,15年(1882)頃,「銅器職工同盟」をつくって地位の保全にあたった。「銅器職工同盟規定名扣」によれば加盟者は次の人々である。

第壱号
枝町四拾四番地 水 野 克 則
上柿木畠二拾六番地 山 尾 次 吉
穴水町五番丁六番地 倉 見 鎌三郎
三社古道五拾八番地 井 口 源 六
広坂通リ三拾二番地 野 村 八他次郎
桜畠九番丁二拾四番地 唐 津 宇 吉
河原町五拾番地 伊 藤 六良助
石坂助九良町北三番地 竹 村 岩太郎
泉町百六拾七番地 秋 山 庄 平
鱗町百拾五番地 牧 村 久 之
泉町二拾番地 付 橋 与三吉
長町壱番丁七番地 塩 井 又次郎
宝船路町拾壱番地 佐 山 清 吉
広坂通リ新建二番地 坂 井 鍋太郎
木倉町七拾八番地 安 田 亥太郎
長町五番丁壱番地 水 戸 外次郎
長町五番丁六番地 矢 部 喜太郎
 第貳号
上松原町二拾六番地 鈴 木 徳太郎
上新町九番地 中 島 喜 平
殿町七番町 宇 野 与 平
青草町四番地 平 石 盛 親
松原町五拾二番地 山 川 孝 作
高岡町薮ノ内十三番地 平 岡 保太郎
小立野上石引町三拾四番地 越 原 春 久
高岡町薮ノ内四番地 伊 藤 佐之吉
上堤町四拾七番地 小 間 九 平
中町二拾三番地 吉 倉 清 在
下堤町二拾二番地 村 田 菊太郎
大手町二拾六番地 森 嘉 平
新坂町三十五番地 塚 本 隆
木ノ新保三番丁四十八番地 塩 谷 与八郎
西町二番丁七番地 越 山 吉次郎
 第三号
彦三壱番丁六十八番地 村 沢 国 則
下今町三拾二番地 山 川 孝 次
下今町四拾九番地 柿 畠 長次郎
彦三壱番丁六拾六番地 宮 崎 彦九郎
下新町二拾三番地 泉 清 次
並木下町十六番地 小 浜 弥太郎
浅野下中島町九番地 和 田 弥 平
材木町五丁目四番地 原 勘 七
下新町六番地 藤 島 善 造
下今町三拾二番地 山 川 孝太郎
下新町四拾壱番地 佐 野 八十吉
彦三二番丁三拾八番地 坂 戸 直 吉
火除町二拾七番地 越 野 吉 平
材木町四丁目二十六番地 金 守 勘 六
材木町六丁目五十七番地 才 田 半 七
卯辰下町三番地 才 田 富次郎
木町二番丁四拾五番地 中 田 幾久松
母衣町拾番地 増 田 藤次郎
上田町七番地 室 井 吉三郎
味〓蔵丁下中町六十七番地 竹 村 孝一郎
材木町七丁目三拾三番地 
 (銅器職工同盟規定人名扣)
4 金工職人と図案
(1) 石川県勧業博物館・石川県工業学校
 以上のような県・区民の関心に対応した県や金沢区の政策としてあらわれたのが石川県勧業博物館であり,金沢工業学校であった。
 明治7年(1874)兼六園内で金沢博覧社による博覧会が開かれたのを機に,同9年(1876)3月成巽閣と山崎山麓との間の空閑地に常設の金沢博物館が設立され,4月に開館し,内外の産物を展示した。わが国の博物館の草分けといわれる。13年(1880)7月石川県勧業博物館と改称し,同館官員として岩田忠蔵,宮崎豊次,平岩晋が任命された。この年,装飾図案の第一人者であった岸光景(帝室技芸員,石川県工復興の父とされる東京美術学校教授島田佳芙[よりなり]〈図案学〉の師でもある)を商務局より特産産業教師として招き指導にあたらせている。なお,同年有志職工で結成した園考会なる団体を館内に置き,毎月1回研究会を行った。これは東京龍池会に倣っといわれる蓮池会の前身であろう。また,15年(1882)5月9日から11日の3日間,銅器品評会を東京で開催し納富介次郎が審査にあたった。これが後に金沢工業学校長となった納富が金沢に招かれたきっかけであったとみられる。
 また,明治20年(1887)7月納富介次郎・県官宮崎豊次(明治23年石川県勧業課長)の熱心な努力により金沢工業学校を開校,納富が校長に就任した。納富は周知のように肥前の出身で,政府の富国強兵策を支持し日本の手工業の近代化に尽した。明治6年(1873)1月のウィーン万国博覧会に出席し,金属工芸出品製品の野暮ったさの原因がデザインにあることをワグネルに指適された納富はデザインの重要さを痛感した。デザインを図案と訳したのは納富であるといわれる。こうして,殖産興業を推進していくなかでデザインをどのように日本の職工たちに学ばせるかが彼の課題となった。
たまたま,明治15年(1882)石川県に招かれ,石川県勧業博物館において県内工人の工芸指導にあたった。ところが,石川県滞在期間の終る20年(1887),県はかねて納富の念願する工業学校を設立することで納富の引留策とした。このための交渉にあたったのが宮崎豊次であった。宮崎は同11年(1878)石川県庁に勤務し,13年石川県勧業博物館事務を管掌する殖産課にあって県の殖産興業策を推進した。明治18年(1885)元石川県令桐山純孝は次のような一文を宮崎に寄せ功を?っている。
 人の知巧を開き工藝を勧むるや本邦維新と倶に其日浅く然りと雖も之を誘導勧奨力の如何に據りて進歩の遅速あるは論を俟たざるなり茲に石川県勧業の事たる博物館開設を以て智巧工芸を導くの針點と為し曩に該館を創建し其奏を期するは当局者のあるありて敢て一二者の能く為し得べき事にあらざれども其以来勤続以て熱望止ます既に創業以来以還十年周回の大会を開き其報告を得且つ本年五品共進会の列品を参観し大に感覚する所あり,之を前日に比すれば別天地と云ふも過称にあらざるを確信す,之れ博物館に基すと言はざるを得ず,果して然るときは君が本館に熱心の効多きに据るべし,抑博物館は恰も泉の如く勤労者は其水を得て活発なる力と清涼なる味とを加ふべきなり,然らば其水涸る事なく勤労止まざるときは,何たる点に歩を進むべきか,純孝は今日の成績を押へて以て多年の進度を待つものなり,純孝前年該県に令たりしとき本館創設の記あり,聊か精神を陳述す,爾来君は純孝が精神を補翼し其効を奏したりと云はざるを得ず,将来君が不撓の忍耐力を以て益実蹟[(ママ)]を與げ,純孝が目的を達せしめん事を希望す,今や大会開の当日に泝り「特地乾坤」の四大字を書し該館へ送致に際し,君に向って純孝が所見を概記し手簡に換ふ
明治十八年八月 東京の客舎に於て
 桐山純孝
石川県官
 宮崎豊次殿
 要するに,金沢工業学校は富国強兵・殖産興業の一環として開校しただけに,工房制の拒否につながるものであった。学科は専門画学部・美術工芸部・普通工芸部の3部となり,金工は美術工芸部に金属彫刻科,普通工芸部に鋳銅科が置かれた。しかし、区民の実業教育に対する理解は乏しく,本科25歳,速成科30歳とした入学年令と相まって一種の徒弟学校と目されたことから,工房制職人社会の反感を買い,22年(1889)に県立の石川県の工業学校に昇格し,年令が一応制限された後も職人社会から「工業学校卆業者になにができる」として白眼視され,無用の長物として廃校運動さえおこった。ともあれ,工業学校の開校は工房制に按座し,下請職人を頤使していた親方を動揺させ,職人の工房制離脱を徐々ではあるが進めていった。
(2) 米沢佐吉と北島清次郎
 工芸における県観業博物館の岸光景,金沢工業学校の納富介次郎の招聘は,いずれも宮崎豊次の先見の明と卓抜した行政手腕によるが,それはデザインの先駆的装飾図案,納富図案が以後の工芸を決定するとする理解にあったことはいうまでもない。したがって,金沢工業学校,つまり県立工業学校は納富の図案への執念を結実したものであり,また金沢は日本におけるデザイン発祥の地であった。そしてこの明治21年(1888)は近代日本におけるデザイン出発の年でもあった。
 ところで,近代金工においても彫金,象眼などの技術とデザインは造形の主軸であることはいうまでもない。ことに藩政期の”模様”は工房の秘伝であり”風”,”様式”,”流儀”の根底をなしており,絵画的素養なしでは職人としての存在は許されなかった。したがって,金工職人を志向する人々は絵画を習得することを第一の要件とした。
 昭和47年「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択された米沢弘安の弟佐吉の履歴書を下にあげよう。
履歴書
石川県金沢市宗叔町三番丁
平民米沢清左衛門長男
 米沢佐吉
 明治十年三月十一日生
明治二拾壱年象眼細工見習トシテ銅器会社ニ入ル
明治二拾三年垣内雲鱗画伯ニ就キ絵画ヲ学ブ
明治二拾五年山本光一画伯ニ就キ絵面ヲ修行ス
同年ヨリ銅器会社図案方被命
明治三拾壱年富山県工業学校長納富氏ニ随行シテ越中地方海岸ヲ図写ス
明治三十三年山本光一画伯愛知県図案勤務ノ処病気ニ付代理トシテ勤務ス
同年ヨリ名古屋市七宝焼商安藤重兵衛氏方七宝焼図案ヲナス
 米沢佐吉は象眼職人米沢清左衛門の長男であり,清左衛門から佐吉を後継者として期待されていた。履歴書に見るような垣内雲鱗・山本光一に師事したのは装飾図案の習得であったことは明らかである。このような図案の習得はひとり佐吉だけではなく当時の職人のすべてに共通するものであった。
明治41年(1908)4月石川県勧業博物館は石川県物産陳列館(大正9年10月石川県商品陳列所と改称)と改称し,「本県産業ノ模範トナリ若クハ商取引参考トナルヘキ内外国ノ物産」「県内ノ生産品ニシテ将来ノ移入又ハ輸出品ト競争スヘキ見込アル物品」「製造品顔料」「前各項ニ関スル図書及模型」「特許品,登録意匠,実用新案〓商権ノ見本雛形」を展示シ,「物品ノ出品又ハ委託販売」を業務としたが,そのなかで工芸品の位置は高く,金属器の位置も高かった。したがって明治45年(1912)7月工芸職工を主とした出品共励会を結成し,大正2年(1913)には機関誌『共励』を発行した。ことに工芸品の意匠,図案については大正2年(1913)4月「県下製品ノ意匠改善ニ関スル調査及研究,県下製品ニ応用スル図案又ハ之力参考トシテ必要ナル図案ノ調製,本館陳列品ノ意匠図案ニ関スル研究」を目指した図案部を新設して職人(大正期以降を職人とした)の指導,便宜を図った。また,同年11月には館内に
1.製作工芸品ニ応用スヘキ意匠図案ノ研究ヲナスコト
2.新意匠ノ標本ヲ製作シ当業者ニ模範ヲ示スコト
3.図案家ト製作家ノ関係ヲ密接ナラシムルコト
を目的とした意匠図案研究会が発足した。
 具体的な例をあげよう。
彫金・象眼職人北島清次郎は明治38年(1905)1月26日鋳物業を営む旧家関清太郎の二男として高岡市白銀後町に生まれた。大正3年(1914)高岡市立博労町尋常小学校3年を修了した頃,知人の連帯保証人として連証していたことで財産を差押えられ,金沢市柳町に居を移した。同年春,九歳の清次郎は金沢市英町専光寺辻で「美術金属器,貴金属装身具,輸出金銀器類並ニ宝石」を商う才田純幸堂(才田幸三)に奉公し夜は金沢市此花町尋常小学校特別学級に通った。同7年(1918)3月同学級卆業に際し「賞トシテ算盤一個ヲ授与」された。才田店で彫金・象眼の技術を習得しつつ大正9年(1920)金沢市立補習学校に学び修了,さらに図案を勉強するために県立工業学校補習科に入り日本画と図案を学んだ。その大阪へ出かけ金工技術の習得に務め大正末,西門通りの北島家へ入籍し,時計売買修理・指環類金銀銅細工・金物仏具象牙鼈甲修理・金銀銅鉄美術彫刻の「北島之清堂」の看板を上げた。時計業を始めたのは大正3年頃から「一○匁の金鎖,ウオルサムの提げ時計を腰に下げぬと男の風でなく」(宝百)とされ,懐中時計が東京・大阪ばかりでなく金沢にも流行し,懐中時計用鎖として喜平鎖・切子・角・遠州もの・片提げ・両提げが流行し金工職人の細工とされたからである。北島清次郎は藩政期からの伝統的職人ではなく町職人であった。しかし,清次郎が県立工業学校に通い,懸命に日本画や図案を勉強したことはそれが金工のみならず工芸全般の基本的教養であったためで,数多くの図案が残っている。因みに清次郎は昭和40年12月6日,62歳で歿した。
表4 大正元年石川県物産陳列館委託品販売高
表5-Ⅰ 九谷・漆器・金属の石川県商品陳列所委託販売高(明治42年―大正8年)
表5-Ⅱ (大正10年~昭和6年)