技術と都市社会

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町内会の組織と運営上の問題点

著者名: 中村八朗
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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 目 次
は し が き・・・・・・・・・・2
1 町内会組織の諸側面・・・・・・・・・・4
2 町内会運営上の問題点・・・・・・・・・・18
む す び・・・・・・・・・・25


は し が き

 筆者の前稿『戦前の東京における町内会』では,検討の中心に置かれたのは,町内会が順次成立して東京の殆ど全域にそれが組織されていった過程であった。したがってそこではまず町内の前身となったと思われる五人組,地主・家守組織,若衆会,氏子団体,衛生組合,睦的組織が取上げられた。次いで町内会の形成を促した契機として,日清・日露戦役,関東大震災,昭和7年の市域拡張,官公署の慫慂が扱われたのであった。戦前の東京における住民を網羅するようになった町内会組織が,これらの契機を経て出来あがっていく一方では,為政者の側はこのような組織化の進行に促されて町内会対策に考慮を払うに至ったのであるが,ただ前稿では焦点が形成過程にあてられていた関係上,いったん形成された時点での町内会の組織や運営とその問題点については,それに全然ふれなかった訳ではなかったとしても,末尾部分で僅かなスペースを割いたに止まった。
 現在の途上国では,地域住民の組織化が1つの大きな課題となっており,そのためコミュニティ・デベロップメントに関する論議が脚光を浴びたこともあった。これに対応して,地域住民,特に都市のスラム住民について,悲観的イメージを踏えた理論の中では1),住民の特質の1つとして組織化の欠如があげられ,逆に楽観的立場2)からは,強調される特質のうちに住民の組織化が含められることになる。
 都市における住民の組織化に関し,わが国では第一にあげられるのは町内会であり,したがってこの問題に関して,途上国が日本の経験をふり返るとすれば,当然町内会に眼差しが向けられることになる。たしかにわが国では,町内会の形成が都市住民の組織化に大きく寄与したことは否定できないであろう。戦前のかなり早い時期に,町内会の行う事業が枝葉末節にわたることを指摘した町内会無用論も説かれたことがなかった訳ではない。反面,その事業は,行政側がそのすべてをカバーすることの不可能なものでありそれなりの必要性に基いていると見て町内会を肯定する主張も現われたのであり,衛生,防犯防火,住民相互の協力態勢の増進には,決して無益であったとは言えないようである。したがって,国外でわが国の町内会に関心が寄せられるとすれば,われわれに町内会がいかに組織され,,いかに運営されたかを正確に伝えることが求められるであろう。ただし,正確に伝えるからには,組織・運営のメリットとともに,デメリットについても,客観的立場に立ってそれらを洗い出しておくことが必要である。
 本稿で扱おうとすることには,1つにはこのような意義があると思えるのであるが,ほかにも関連する点が考えられる。いま町内会のメリットとデメリットと述べたのであるが,今日では一般的に,メリットについては殆ど考慮の外に置いたまま,町内会を全くといってよいほど否定的に評価する見解が広く行きわたっているようである。最近の例として「いわばアジア的専制の基礎をなす伝統的共同体の都市版にほかならない3)」といった評価があげられるが,このほかにも戦時中の国家総動員体制に組み込まれた時の町内会を問題にするとか,戦前のファシズム体制を定着させる基底的装置であったと規定するなど,町内会に向けられる批判はいっこうに跡を絶たないようである。しかし臨戦体制下に入る以前までの時期を見る限り,これらの批判の多くが当を得ていないことは前稿で述べた通りであるが,とはいえそれまでの町内会にデメリットが伴ったことも事実である。ただし,本文で明らかにされるように,そのデメリットは今日の町内会批判論で説かれるものとは別のデメリットであった点には注意を払っておく必要がある。
 ところで当時の為政者は,町内会の組織化の進展と町内会のメリットを認識したというよりは,認識せざるを得なかったところから,なんらかの助成策を必要と感じるに至ったのであるが,反面,その助成にはデメリットの解消が不可欠と見做された。かくして町内会整備が検討の対象として爼上にのせられることとなるが,それがたまたまわが国が臨戦体制を整えようとする時期と重なったのであった。
 以上の関係から,町内会整備は,それが実現した段階では国民総動員体制のための基底を掘り起こす役割を担わされることになり,それがもとで今日においても,根強い町内会批判の種を播いたのであった。すでに述べたように,本稿では為政者が町内会整備対策に着手する直前の時期における町内会の組織・運営をそのメリットとデメリットを含めて扱うのであるが,それはこの対策に関連する諸事情の理解を深めるはずである。この理解が深まった場合,われわれはかえって,その後の町内会の一時的動きを以て町内会のすべてであると安易な結論を下すわけにはいかないと知るであろう。それでも臨戦体制の町内会をもってその本質的性格と見做し,今日においても町内会を糾弾するとすれば,同じ批判の矢は大学にも向けられねばならないことは,前稿で説いた通りである。
 本稿で扱うことがもう1つの関連を持つと先に述べたのは,以上のような意味からである。換言すれば,町内会が現在批判されるような動きをとるに至った過程の知識をより深めることにより,逆にその動きは一時的歴史要因に規制されたものであり,したがってそれをもって町内会の基本的性格とは把えられないという理解が得られるはずであるが,本稿にはそのような理解への手掛りになろうとする意図も含められている。

1 町内会組織の諸側面

 こと町内会に関する限り,その組織を扱う場合には,(1)区域,(2)機関と会員,(3)役員,(4)規約,(5)会費という5つの側面を見ていかねばならない。以下それらの側面を順次とり上げ,戦前の東京ではいかなる実情にあったかを述べることとする。
 (1)区 域
 町内会の占める地域的範囲については,その名称から推察して1つの町または丁目ごとに1つの町内会が組織されていたという印象が懐かれる。しかし昭和13年における町または丁目と町内会との関係については,次のような記録が残されている。
表1 町(または丁目)の区域よりみた町内会区域
 この表に示されるように,実は1つの町内会区域と1つの町または丁目の区域が一致する場合は,当時の東京市における町内会総数3063のうちの1017,すなわち3分の1に止まっていたのであり,ほぼ半数の1514町内会は1町または丁目の一部区域のみをその範囲とするもので,これが最大多数を占めていた。少数ではあるが,このうちに会員散在せるものが含まれていたこともこの表からうかがえるのであるが,それによって,1つの町内会の区域が連続しない場合,表現を換えれば,飛地状態になっていた場合のあることが理解できる。
 以上この表によっても,現実の町内会区域が1町1町内会という規則的対応を生むにはほど遠い状態であったことが知られるのであるが,区域が入り乱れていた点については,この他にも,その区域が2つの区にまたがっていた宮本町会(神田区,本郷区)と調布千鳥会(大森区,蒲田区),3つの区に及んだ洗足会(目黒区,荏原区,大森区)と大和郷会(小石川区,本郷区,豊島区4))といった例をあげることができる。混乱が特に顕著と見られたのは,複数の町内会の区域が重複した「混合地域」の存在であり,浅草区雷門1丁目では,東仲町会,西伸会,茶屋町会,材木町会,並木町会,南部町会という7町内会の間に区域の重複が起こっていた。また世田谷区下馬2丁目においても,同一地域が下馬2丁目町会と下馬2丁目一部町会という2つの町会に属する区域となっていた6)。このような混合地域の住民は,そこに重複して組織されている複数の町内会のそれぞれに会費を支払わねばならなかったのである。
 このように,個々の町内会の区域設定が現実にはかなり混乱状況に陥っていたのであるが,原則あるいは理想としては,1町につき1町内会という関係が考えられていた。したがって『小石川区史』は町内会について「一町を区域とし,町内に居住する世帯主を以って組織し……7)」と述べ,『芝区誌』の中では,「町内会は……1町若しくは1丁目毎に1町会が存在するのが理想的8)」と見做されており,その理由として「町名と町会名の一致は明瞭で而も便宜であることによる9)」と説かれていた。しかし現実の場合の大多数が,この原則から隔っていることの原因は,1つには町または丁目の区域の設定時にすでに区域の広狭があった点に求めることができる10)。しかしそれ以外にも幾つかの複雑な要因がからんでいたようであり,その一端は当時の町内会長が1町1町内会に区域の再編成を試みる案に関連して述べた次の意見にうかがうことができる。
 1町1町会を以て理想とするが,一例をわが赤坂区によるも相当の困難が予想される。1は1町と言っても5,6戸又は20数戸より成る小町内をどうするか。
1は1町内に小会派対立して和平を欠く所等をどうするか。更に戸数数千数百を有するも表通りの商家と裏町の住宅地とでは人情を異にするものあり。前者は適当に之を併合するに非ざれば費用の負担,事業の運営に不都合を来す可く,後者は之を分離した方が却って会務の円滑を期せらるるであろう……(赤坂区青山南町2丁目町会長,詫摩武彦11))
 また先にふれた「混合地域」や飛地状の町内会区域に関しては,別の町内会長の寄せた意見によって,それが形成された事情の一斑をうかがうことができる。
 現にある町会の中には選挙地盤として町会の幹部を壟断し,地盤の開拓の為めには町界など全く眼中になく飛び飛びに会員の入会を強要し(強要を容れる町民が愚かな様に見ゆるも実は愚にあらず,商売上の関係上両町会に会費を二重負担しても両方の町会員に懇意を結びて得意を双方に得る方が利益なる故,商売第一主義より町会の整備などは眼中に置かぬなり)居るの向あり……(麹町一番町町会長,河内保全12))
 (2)会 員
 東京市政調査会が大正14年に実施した町内会調査の報告書『東京市町内会に関する調査』によれば,町内会の会員資格は次の通りである。「町会は当該町内に住所を有し一戸を構うる世帯主を以て組織し,当該町内に,(1)住所を有すること,(2)構戸の事実あること,(3)世帯主たることの3条件を具備することを以て,その会員たるの資格をなすを通例とする。然しながら右の条件を具備せざる者雖も店舗,事務所,家屋,土地,工場,倉庫等の不動産をその町内に所有する者は,同じく会員となしつつある町会も相当多きものの如くである13)」。その後の町内会調査の幾つかの報告書においても,会員資格についてはほぼ同様の説明がなされており,店舗,事務所,家屋,土地,工場,倉庫等の不動産を所有する者に関しては,「町会によっては会員中に……区域内の病院,学校,営業所,工場,法人又は事務所を含んでゐるものも相当数に上って居ました14)」とも述べられている。
 ところで東京市政調査会の前記報告書は,さらに会員資格の取得について次の説明を補足している。「1戸を構うる世帯主にしてその町内に居住し当該町会に対し入会する意志表示を為すことにより足るものである。通例他所より移住し来るや,町会役貝は町会規約を送付し町内に居住して1戸を構うる世帯主にして,会費の納入を拒み,その他特に入会せざる意志表示を為さざる限り,当然に町会に入会せるものと看做すのである。……転住は会員資格の自然喪失である……15)」。会員の資格取得に関してここに述べられていることは,戦後になって町内会の性格を規定するに当り,その特質の1つとして「一定地域居住にともない加入が半強制的」と指摘されるに至った点であるが,言うまでもなくそれは町内会を保守的,前近代的組織として把える文脈に立つ指摘であった。
 しかし戦前において問題にされたのは,この点よりはむしろ町内会の会員数に関係する点であった。昭和8年に東京市の行った調査では,1町内会当り平均会員数としては,旧市内276人,新市域380人,全市では384人という結果が得られ,また過半数の町内会は会員数300人には達しない規模のものであった。とはいえこの調査では,次の表2に見られるような結果が得られており,個々の町内会ごとの会員数の開きがかなり大幅であったことが理解できる。さらにこの調査の報告書の中には,会員数が極端に少い場合と極端に多い場合の例も掲げられているが(表3),これによると最大の場合は3,700人に対し,最少では僅か9人に過ぎず,いかにその開きが隔絶していたかを知ることができる。しかも昭14年の調査では最大の場合(荒川区尾久町3丁目町会)は会員数4365人に及んでいた16)。
表2 会員数よりみた町内会数( )内は百分比
表3 会員数の極端な町内会
 断るまでもないことであるが,会員数大小に関する件は,人口密度の差を考慮しなければならないとしても,一般にはすでに述べた区域の問題と関連することになる。したがって会員数のことに関して問題が起こるとすれば,区域の問題と結びついてくることになるが,これは後に東京市が町内会の整備に着手する際に,1つの重要な課題となってくる。しかしこの点についていまはふれないでおき,後に改めて取上げることとする。
 (3)機関と役員
 一般に町内会においては,議決機関となったのは総会であり,その議決事項の執行機関として会長,副会長,理事あるいは幹事等の役員が置かれていた。総会は定期的に年1回開催されるのであるが,東京市政調査会が無作為に選んだ72町内会について調べた総会の権限事項は次の一覧表に示すような結果となっていた。
表4 総会の権限事項(調査町内会数72)
 これは対象72町内会の会則規約に掲げられた事項に基づく結果であるが,ただ実際の総会において進められた議事が,この成文化された規約に厳密に即していたか否かは明らかでない。その反面,役貝選挙が総会の権限事項として規約に明記されていない場合が72町内会に8町内会あったとしても,それらの町内会で,総会が役員選挙に全く関与してなかったとも断定はできないと思われる。したがって表4の一覧表が現実をどの程度正確に反映するかについては疑問が残るとしても,当時の総会に関する一般的傾向はこれからうかがい得ると思われるのであるが,そのように見た場合には,表に掲げた事項のうち,特に1から4までがどの町内会の総会においてもほぼ共通の議題もしくは議決事項となっていたのであろう。
 なお72町内会の規約には,臨時総会の規定も設けられていたのであるが,開催の条件として多くを占めたのは,「会員3分の1以上の請求ありたるとき」(24町内会)と「会員5分の1以上の請求ありたるとき」(21町内会)という規定であった。
 次に執行機関である役員については,まずその選出方法をみなければならない。表5は昭和8年における東京市のこの点に関する調査結果を示すが,市全域では60%が会員の直接選挙となっており,旧市内と新市域に分けた場合には,この比率は旧市内でさらに高くなる。ただ,会員の直接選挙は,形式的に合理的と見られるとしても,実際には背後で工作のなされる可能性とか,あるいは町内会に法的拘束が伴わないため,選挙された人が会長就任を固く拒む場合もあり,個々の町内会の実情いかんによっては,必ずしも合理的と見做されない場合の少くないことを考慮しておく必要があろう。とはいえ,今日一般に町内会について懐かれている一般住民の意向を無視したボス支配というイメージに照した場合,表5の結果は戦前においても町内会はすでにこのようなイメージでは律し切れない場合の多かったことを示唆するようである。
表5 会長選出方法別町内会数
 ところで表5は,上のような理解とは逆に,会員の直接選挙による場合が半数をやや上回る程度に止っていたとも解釈できる。したがって合理性を欠き紛争の頻発する町内会もかなりあったのではないかと想像されることにやるが,確かに筆者の集めた資料のうちには,町内会の紛争を思わせるものもある程度見受けられなかった訳ではない。しかしこの問題については後にふれることとし,次の役員に関する別の側面を見ていくこととする。
表6 会長,副会長の職業:大正13年牛込区50町会
 いま町内会について現在一般に懐かれているイメージに言及したのであるが,このイメージではさらに,支配的ボスの位置を占めるのは職業的には商店や小工場の経営者,年齢的には旧慣に埋没する老人層と見做しているようである。東京市政調査会の報告書にはこの点に関するデータ,すなわち大正13年における会長,副会長の職業(牛込区50町会の場合)と役員の年齢分布(京橋区,牛込区の場合)が掲載されているのであるが,これに基づいて筆者が作成した結果,表6と図1が得られたのであった。
 まず表6の職業分布をみると,一般的イメージの中で考えられている町内会役員の職業,すなわち自営商工業者に該当するものは,会長の場合,44.4%となっているが,恐らくこれはこのイメージの下で想像されたよりは少い比率ではなかろうか。
ただそれ以外の職業の中に,予備役将校,地主,無職があり,これを自営業者と同一カテゴリーのものと見做すか否か、あるいは単なるシンボル的存在であると思われる貴族員議員や内務大臣が見られる点について,そのようなシンボルを喜んで会長に載くことをどのように把えるか,という問題が残らない訳ではない。副会長の場合は,問題を残す種類の職業は減少するのであるが,ただし自営業者は57.1%と会長の場合よりやや高い比率となっている。とはいえ,この場合といえども,一般のイメージとの比較では,前と同様のことが言えるのではなかろうか。
 ただ,そのようなイメージと切り離して表6を改めて見直すとき,役員が特定条件の職業に備える傾向を認めることができる。自営商業の他に,弁護士,医師,僧侶,画家,工匠,著述業,予備役将校,退職官吏,地主,無職と取り出せば当然気付かれることであるが,これらはいずれも昼間においても自宅にとどまることの多い職業であるが,町内会役員は後述するように,かなり,多忙な事務を果さねばならないことに加え,日常町内の住民と常に接触を保つことが要求されるところから,必然的にこのような職業の偏りが生ずることになる。
 図1は会長,副会長,常任理事の年齢構成百分比を棒グラフに示したものであるが,当然とはいえ,一般に会長の年齢は副会長のそれよりやや高くなっている。これに対し,常任理事では45~50歳の年齢層に集中する傾向がうかがわれる。ところでグラフ中には各年齢層別百分比に加え,括弧で囲んで累積百分比も記入しておいたのであるが,それに示されるように50歳までの者は,会長ではほぼ半数の49.9%,副会長,常任理事はそれより高くなってそれぞれ55.5%,61.4%に達している。これらの比率を先にふれたイメージに照した場合,老人支配と想定していたほどには役員一般の年齢は高くはなっていないと言えるのではなかろうか。会長の場合でも
図1 町内会役員の年齢構成比(各区切り内の数字は百分比,カッコ内は累積)
56歳以上をとれば3分の1,61歳以上では4分の1に止まっている。もちろん,逆に61歳以上が4分の1も占めているという解釈も成り立つのであり,また図1は大正13年現在のものであるとすれば,当時の平均寿命も考慮に入れなければならないのであるが,ただ老人支配というイメージの下にすべての町内会を律することが,事実歪曲の嫌いのあることは否めないようである。
 (4)規 約
 ところで,もし老人支配のイメージをそれでも懐きつづけるとすれば,町内会事業を実施していくに当っても,成文化された明確なルールに則るのではなく,単なる伝承的旧慣に埋没し,すべては言い伝えられた慣習の命ずるがままに運営されるといった状態が当然想定されたはずである。しかしこのような想定も,すでに大正期において妥当性に欠けるようになっていたようである。
 東京市社会教育課編『町会規約要領』(大正13年)は町内会調査の記録としては最も古い文献であるが,これは関東大震災の直前に蒐集された町内会の規約を基本データとした記録である。したがって当時すでに多くの町内会において成文化された規約が設けられていることが理解できる。蒐集された規約について『町会規約要領』は次のように述べている。
 「今回の調査に際し集め得た東京市内町会規約或は会則と称するものは通計115団体であった。之を通覧すると,大凡次のような条項が含まれている。
 1 会 名
 2 会員資格,入会手続
 3 事務所々在地
 4 会の目的
 5 役員の種別
 6 役員の選出法
 7 役員の権限,事務分担,任期
 8 総 会
 9 議事法
 10 会費(定額,徴集法)
 11 寄付金受納の法
 12 監査,会計,諸報告
 13 資産の管理
 14 事業の要項
 15 慶事の支出金額及制限
 16 其他の事項
 以上の各項を数項に括って簡単に逐条記載したるものあり,又之を精密に敷衍して数十条に記載したるものあり,或は見出しに便するため条文の内容を分類して「章」を設くこと例えば,
総則 会名,会員,事務所,目的等
役員 役員種別,役員選出,役員権限任期
会議 総会,役員名,議事法
会費及資産 会費定額,寄付金,監査,会計
事業 事業項目
等の五章と為すもの,或は
組織 会名,会員,事務所
目的 目的,綱領
役員 役員種別,役員選出,任期
職務権限 分担任務,権限
会合及決議 総会,役員会,議事法
入会 退会,入会手続,退会,除名
会計 会費,寄付金,監査,報告
雑 則
の如く8章と為すもの等あれど,必ずしも事業の上の区別あるものではなく,
 要するに条文を記述する上の形式上の差違に止まるを一般とす17)。」
 以上の引用から十分推察されるように,条文記述様式は町内会によりそれぞれ異なる点があったとしても,ルールとして踏まえねばならぬ個々の事項に関しては,どの町内会にもかなり共通した認識が生れており,そうしてそれらの事項が関東大震災以前の時期に,すでにかなりの町内会において成文化されていたのであった。また規約にとり上げられた事項というのは,引用中の1から17までにあげられた諸項目から明らかなように,町内会を町内住民による公共的組織として合理的に運営するに当って不可欠と思われる点のほとんどを網羅しているものであった。ただし,このような規約が当時のすべての町内会において作成されていたものか,作成されていたとしても,それがすべて完備したものであったのか,あるいは町内会の会員すべてにそれが十分周知徹底されていたものか,さらに規約に盛られた諸条項が実質的に遵守されていたか否か,といった疑問については,今日では確証を得るてだてはほとんど残されていない。また断片的資料からは後述のようにこれらの点で問題が残されていたことを示唆する例が見当らない訳ではない。とはいえ,少くともこの成文化された規約が作成されていたということ自体と規約の文面とを考慮する限り,町内会を旧慣に埋没し,それに押し流されるだけの組織であったと見做すことは,一面的理解に止まると考えてよいようである。
 (5)会 費
 『麹町区史』には昭和7年現在における区内の全町内会について,それぞれの会名と会員が一覧表として掲載されているのであるが,これにはさらにほとんどの町内会における会費額の決定基準もあわせて示されている8)。以下にその一覧表をそのまま転載してみよう。
麹町区町内会費(昭和7年度)
 この一覧表には会費割当基準の欄が空白となっている町内会もある程度散見できるのであるが,その記述のある場合については,それらを一見して直ちに知り得るように,個々の町内会ごとに独立の基準が設けられており,しかもそれらは全く千差万別と言ってよいほどにそれぞれに異っている。東京市の昭和14年の調査では,この基準について一応の整理が試みられており,その結果次の9種類の分類が示されている19)。
 1 会員に等級を設け会費を徴収するもの(イ)普通会員1ヶ月10銭,特別会員1ヶ月30銭以上等の如く定むるもの(ロ)地主たる家主,借地人たる家主,普通借家人の区別により会費を徴収するもの
 2 賦課額に等級を作って徴収するもの
 3 一口の金額を定め適宜其の幾口かを負担するもの
 4 家屋の位置に依り決定するもの。(例へば表通り裏通りの別により,等級を付する等)
 5 借家人,家屋所有者の別に依り徴収するもの
 6 営業の状態による
 7 家屋の坪数による
 (イ) 使用面積の坪当り
 (ロ) 建坪1坪に付地主6銭5厘,借地人4銭,借家人3銭とする等
 (ハ) 坪当り5銭
 8 家屋の間口数に依るもの。(表,裏,中通りを区別し,間口の割合を以て徴収するもの等)
 9 家屋の推定賃貸価格に依り徴収するもの
 このような格差を設けた会費割当方法をどのように評価すべきかについては,断定的判断は下し難いであろう。見方によっては,会費負担に格差のある場合,高額負担者の側に優越感と恩恵意識を植え付け,低額負担者に卑屈感を味わせる恐れのあることが指摘できる。反面,現在は税制における累進課税に何等疑念が懐かれていないとすれば,戦前の町内会費割当に類似の方法がとられていたことを,極めて当然とする意見もあり得るであろう。公平か公正かは,人類社会にとって古代より常に識論の分れる問題であったのであるが,戦前の町内会では公正の方が選ばれてきたと言うに止めねばならない,とも考えられる。ただ公正を選んだとしても,その公正の基準設定自体も人類にとっての古くからの難問であるが,前記1から9までの基準がどの程度に妥当であったかについては,当時の個々の町内会の実情を詳しく探り出す方法のない以上,現在にあってはそれを判定するのは不可能なことである。ただし,それぞれの方法によって会費の割当てを続けながら,個々の町内会が維持されて来たということは,一般町内会員の側でその方法に特に強い不満が懐かれてはいなかったことを意味するのではなかろうか。
 注 ここでは町会費として不均一に徴収する場合についてのみふれた。実は各戸に均一金額の町会費を割当てる町内会も存在していたのであるが,昭和8年の東京市調査によると,調査対象1,558町内会のうち均一割当制をとるものは151町会,すなわち,全体の一割にも満たず,他はすべてここで扱ったような各種の方法による不均一割当を行っていた。(東京市役所『東京市町内会の調査』昭和8年64-73ページ)
 以上,戦前の町内会の組織について述べてきたのであるが,ただしそこで扱われたのは主要な特徴に限られていることをお断りしておかねばならない。組織数3,000以上に上り,しかもそれらが,成立過程,地域事情の違いによってさまざまな差違をともなっていた関係上,詳細にわたろうとするには,さらに相当の紙数を必要とする。逆に言えば詳細を知ろうとする希望があるとすれば,本章をその希望を満し得ないことになる。とはいえ戦前の町内会は,その組織に関しいかなる状況にあったかについて,ある程度はその実情を紹介されたと考えている。
 注
 1) オスカー・ルイスの「貧困の文化」がこれに該当する。この文化についてのルイスの詳しい規定についてはO・ルイス,柴田・行方訳『サンチェスの子供達』序文参照。
 2) A.Laquian“Slums and Squatters in South and South East Asia”in Jakobson and V.Prekash,Urbanization and National Development,(1974)がその一例。
 3) 松下圭一「市民参加とシビル・ミニマム」(広岡治哉,柴田徳衛編『東京・ロンドンの研究』1978,法政大学出版部),57ページ。
 4) 東京市役所『東京市の町会』,昭和15年,以下「東京市・15年」と略す,4ページ。
 5) 東京市役所『東京市町内会の調査』昭和8年,以下「東京市・8年」と略す,4ページ。
 6) 東京市・15年,4ページ。
 7) 小石川区役所編,『小石川区史』,昭和13年,793ページ。
 8) 芝区役所編『芝区誌』,昭和13年,613ページ。
 9) 東京市政革新同盟編,『東京の町会』,昭和13年,以下「同盟」と略す,5ページ。
 10) 東京市・8年,16ページ。
 11) 同盟,44ページ。
 12) 同盟,44ページ。
 13) 東京市・8年,11-12ページ。
 14) 東京市・15年,5ページ。
 15) 東京市・8年,15-16ページ。
 16) 東京市・15年,5ページ。
 17) 東京市社会教育課編,『町会規約要領』,大正13年,以下「市社会教育」と略す,38-40ページ。
 18) 麹町区役所編『麹町区史』昭和10年,788-92ページ。
 19) 東京市・15年,17ページ。

2 町内会運営上の問題点

 戦前の町内会において問題となった点は,次の5項目,すなわち,(1)区域と会員数,(2)指導層の確執,(3)選挙利用,(4)無関心会員の存在,(5)過大な行政依頼,に整理できるようである。(1)については,問題のあることが既にある程度前章で示唆されたのであるが,本章ではその点についていかに問題とされるかをさらに詳しく扱っていく。
 1 区域と会員数
 1町1町内会主義の立場からみた場合,現実の町内会の区域がいかに混乱状態にあったかは,前章で既に述べた通りである。特に所謂混合地帯では,その内部の居住者が複数の町内会から会費を徴収されていたのであるが,引用された当時の1町内会長の意見によれば,それを逆手に取る居住者も現われていた。
 ところで前章で区域の問題と会員数の問題は相互に関連しあうと述べたが,1町1町内会主義を言葉通り実施した場合,町によって人口数に大きな開きがあるこおから,町内会ごとの会員数の大巾な相違を生み出すことになる。したがって1町1町内会主義は1つの町と1つの町内会の機械的対応を目指すのではなく,町内会での会員数の適正規模とその均一化の意を含んでいたと思われる。かなり特異な場合と思われる前記混合地帯も町内会区域をめぐる1つの厄介な問題を惹き起していたのであるが,それ以外の一般の町内会においても,その意味よりする区域と会員数是正の必要が感じられることがあったようであり,その例として大正13年における町内会側の次のような意見が引用できる。
 「1町内に1町会と定めたし20)」(中込区赤坂元町赤城会)
 「本町内の戸数僅かに百戸内外の少数なるを以て隣接小町と聯合し小会分立の弊を除き経費其の他の充実を期せんと欲すれども旧慣による自町内他町内観念の存する為め実現困難なり21)」(小石川区西青柳町親交会)
 「町会の組織に就ては現在の如き各町々の区域にては一般に狭く且つ大小甚しき為め事業も種々異り,経営困難にして然も実績挙らざるの感あり22)」(京橋区采女町町会)
 このように町内会側の方においても再検討を必要とするという認識が生れたのではあったが,実は区域の混乱と個々の町内会ごとに大きく相違する会員数の件に関しては,それを特に問題視したのは居住者の側よりは行政当局の側であった。
 大正中期ごろからと思われるが,市当局あるいは区役所側では町内会が各地で次第に組織されるようになり,しかも,それが公共的性格の機能を果たすようになってきたところから,住民側の単なる任意団体として無視することが許されないと感じるようになったようである。東京市社会教育課が『町内会規約要領』を編纂したのも,そのような関心の反映と思われる。ただし実効性のある具体的政策に着手するのは,昭和13年4月に入って,東京市が「町会整備に関する東京市告諭」を布告してから以降のことであり,それまでは全く没交捗ではなかったとしても,「自由放任主義23)」とかあるいはせいぜい「放任監視主義24)」と批判される程度の接触にすぎなかったのである。
 とはいえ住民側に最も近く,したがって町内会とも最も接触の多い行政機関,すなわち各区の区役所では町内会に次第に強い関心を寄せるようになっていたようである。その様子は,昭和8年に東京市が町内会調査を実施した際,各区が徴した町内会に関する意見にうかがうことができる。それによると非常に多くの区が町内会に対しては1町1町内会主義による区域の編成と会員数の適正均一化とを必要とすることを指摘しているのであるが,大森区と目黒区の意見ではそれを必要とする理由についても言及がなされている。先ず大森区の意見の中では次のように述べられている。
 「昭和8年度に於いて戸数一戸に就き六銭の割合を以って町会に補助金を交付す。然るに町内の大小甚しく最大3,625戸,最小37戸,之等小町会に在りては金額極めて僅小にして実際運用上の効果疑はるる所なり25)」
 次に目黒区の意見では,町内会が400軒から500軒程度で組織されることを理想であると説き,次のようにその根拠を示している。
 「多きに過ぐは徹底に欠くる事あり。小に過ぎては煩雑なり,各戸にビラを
等配布の時は,1人最大4,5百枚位,会費等の関係より見るも1戸当り20銭乃至25銭を徴収するものとせば百円内外を徴収し得て経理上先づ可と見るべし26)」
 以上から推察されるように,町内会会員数の大小の問題は,区当局側の対町内会事務の煩雑性解消および町内会補助金利用の効率性という視点に立って検討が加えられている。行政側は町内会側とやや異った視点に立っているのであるが,しかし,両者は全く同一の結論に達していることになる。
 とはいえ,現実においては,町内会区域と会員数の是正については,それを強固に拒むと予想される難点が幾つか存在していたのであった。その最大のものとしては,氏子の地域的まとまりと町内会区域の結びつきがあり,さらに,富裕層と貧困層がひとつの組織に編入された場合や,商店と一般の勤め人が一括された場合に予想される反目や対立の問題があった。このため昭和13年以降,いよいよ東京市が町内会整備に着手した際には,「整備上の難問に数えらるる町内会合併の場合における氏子の問題,貧富両者の合併問題,商店と住宅街との合併問題27)」という指摘がなされていた。この他にも前章で引用した青山南町2丁目会長と麹町1番町会長のふれる内部小会派対立の問題,および本章で引用した青柳町親交会のあげる「旧慣による自町内他町内の観念」などもやはり容易には克服し得ない難点であったと思われる。
 2 指導層の確執
 戦前の町内会関係資料からは,町内会指導層の間に確執のあったことを示す箇所をかなり散見できる。次にそのような箇所をいくつか引用してみよう。
 「私共の町内はそれまでかなり政争が劇しかったので殆んど甲派と乙派のものは表で会っても口も利かぬというような極端なところであったのであります」(四谷区永住町会長 谷口守雄28))
 「当時町会長の選挙に際しても過去の弊風が改まらずして院外団迄連れて来て暴力に訴へてまで町会長の争奪戦をやると云う様な誠に見苦しき状態でありました。随って敗けた者で極端なものは挙って町会費を払わぬと云った様になり,8百余戸の内之れ等の者が180戸もあったのであります。遂に町が南北に分裂して了ったのであります29)」(浅草区三筋町会長 富田鹿之助)
 「当会は……町民大会を開き全町一致の町会町会温知会を組織完成したるに最近一部攪乱者の跳梁に因り又々動揺を醸し為めに会費の延滞者を出し町の平和発展を阻碍しつつある30)」(牛込区薬王寺温知会)
 「役員虚名を逐い会員多数を誇る町会の多くは紛争に終始し却って自治を破る」(小石川区指ヶ谷実業会31))
 「本会は創立の当初関口なる名称を冠する爾餘の3ヶ町を包含するの希望なりしも自治精神の幼稚なると,旧勢力又は党派的感情の為め数ヶ所の聯合は意の如くならざりき32)。)(小石川区関口自治会)
 「情実的慣習的に依る政党味を帯ぶる野心家あって種々の困難を生ず33)」(下谷区三四町会)
 「小石川区内先きに聯合町会を計画せしことありしが立派なる方々と自分天狗の集合なれば纒まりもならずじまひなり34)」(小石川区老松共賛会)
 ところで,以上を見る限り,戦前の町内会においては指導者の確執や協力的態度の欠如が日常茶飯事であったかのような印象を受けるのであるが,それとは全く反対であったことを示す場合が多少は見当らない訳ではなく,次にあげるのがその例である。
 「区域内居住者中産階級の集団にして,従て共同一致の精神に富み団体力鞏固なり35)」(小石川区指ヶ谷実業会)
 「当町の如きは小部分の区域にして役員間は円満36)」(小石川区指ヶ谷町西部町会)
 これらの例は紛争や確執を示す例と比較した場合,数としては後者の方が資料の中では多くなっているように思われる。ただ,問題を生じていない場合はそれが当然視され,したがって記録に残す必要がないと見做されるところから,逆に残された記録として問題を生じている場合に関するものが多くなっている可能性も考慮する必要がある。したがって現在においては確執や紛争の多寡についての断定は困難であるが,ただそれが確かに起ったことは否定できないことになる。
 前章では町内会の規約が扱われたのであるが,町内会をめぐる確執や紛争にはこの規約が一因となる場合も少くなかったようである。既述のように,たしかに戦前の町内会では,すべてを旧慣への埋没と一律に断定できないほどには規約が整備されていたのであるが,しかしそれが不備な場合も混っており,時にはそのことが紛争と関連を持っていたようである。次の文章はそのような関連のあったことを推察させる。
 「町会は元来,其の発生は任意的なものであり,其の基調は親睦的なものであると云う考へから,外部からも内部からも法的に整備されることを厭う傾向があった様でありまして,この為に其の規約中にも極めて不完全なものが多く,中には全然規約の作成のないものが12町会迄も存在していたのであります。その結果は種々の弊害を伴い,例えば役員選挙等に色々の紛争を生じ,各自勝手の解釈を下して容易に譲らず,而も之に決定的な解決を与える何等の基準もないと云う如き事態に立至ることも往々にしてあったのであります37)。」
 3 選挙利用
 大正14年10月と15年2月に東京市で行われた区議会選挙では,588人の新区議会議員が選出されたのであったが,東京市政調査会ではこれらの区議に質問状を送付し,選挙改良に計する意見,立候補の際の綱領主張にあわせて,同業組合や町内会などとの関係についてその回答を依頼した。依頼に応じた区議の数は181人であり,したがって回収率は三割にとどまったのであるが,ただ町内会との関係についは,そのうちの140人,すなわち77%が会長,副会長またはその他の役員として,現在また過去において町内会と関係を持っていた。しかも現会長副会長が64名,その他の役員は68名,合わせて132名,すなわち関係を持つ140人のうちの92%にも達していた38)。
 前稿で述べたように町内会の形成に当り関東大震災は特に重要な契機となったのであるが,その直後とも言える時点で,町内会は既に選挙において大きな役割を果すようになっていたのである。
 この調査では,町内会が選挙に関与することの是非について,何人かの区議からの回答も得られているのであるが,そのうちの肯定的回答では,選挙ブローカーの暗躍を防止し得るメリットがあげられていた。逆に否定的回答では町内会に政治を持ち込むことが町内の分裂を招き,しかも投票に対する町内有権者の自由意志を拘束するものであることが指摘されている39)。
 現在においては町内会の選挙関与は一般に否定的に評価されており,時には侮蔑の対象にもなりかねないと考えられるのであるが,戦前ではこの点に関する一般的評価が大勢としていかなる方向に傾いていたかは余り明確とは思われない。ただ同じ市政調査会の行った町内会調査では,選挙との関係について彼答を寄せていた308の町内会のうち,わずか4.5%に当る15町内会のみが選挙に関係ありと答えていた40)。町内会と関係を保って当選した区議の数と対照させた場合,この比率はやや低きに過ぎる感があるように思われる。おそらく選挙に関係したとしても,それを公然と認めることに恥じらいがあり,したがってホンネではなくタテマエで関係なしと答えた町内会がある程度含まれていたのではなかろうか。とすれば一般には,町内会の選挙利用が,問題として感じられていたことを示唆することになる,と推測できるのではなかろうか。また問題と受け止められていたからこそ,東京市政調査会は選挙と町内会の関係に対する調査の必要性を認めたのであり,また先にふれた町内会における政党的対立も,このことと関連していたのではなかろうか。
 4 無関心住民の存在
 筆者はかって東京都下日野町(後に日野市)と三鷹市において町内会調査を試みたことがある。その際多くの町内会役員からほとんど異口同音に訴えられたのは,一般の町内会加入者の間での無関心の問題であった。断るまでもなく筆者の調査は戦後に入ってから,それも終戦から15年もしくはそれ以上を隔てた昭和35年と38年に行われたのであるが,そこで知った上のような無関心と極めて類似した事態は戦前においても起っていたようであり,関係資料中にはそれを示す部がかなり多く含まれている。以下にその幾つかをとり出してみよう。
 「会員の大部分に於て町会なるものに冷淡にして月給取り階級に於ては別けて冷淡41)」(麹町区山貳会)
 「小学校の教員小新聞記者等が会務に甚だ冷淡である42)」(四谷区南元町々会)
 「全町殆んど会員なれども官吏,銀行会社員は自己の業務の外は余暇なき為め絶対に会務を分担する者なし43」(牛込区原貳自治会)
 「町会自治に関し町民の大多数が冷淡なるは吾人の最も遺憾とし不快とする所なり。殊に知識階級に於て其の現象あるは実に其の意を解するに苦しむ44)」(牛込区横寺町々会共有友会)
 「当町会内に戸崎町の一部飛地あり,戸数10余戸あり。当町会に加入せざれども火災盗難防禦の為め当町会にて任意此の部分をも警邏す。地形上如此は加入すべきものと思惟す45)」(小石川区指ヶ谷町西部町会)
 「会の事業に対しては下級者より上級者に冷淡な者が多い46)」(小石川区九櫻睦会)
 「地方と異り一般に愛町心乏しく殊に官公吏最も甚しき感あり47)」(本郷区根
津片町町会)
 以上に引用された部分は,すべて大正末期のものであり,したがってその頃から既に一般会員の無関心が多くの町内会の苦慮する問題となっていたのであった。ここで特に小石川区指ヶ谷町西部町会の場合に注意を払う必要がある。つまり,加入を拒む地域に対しても町内会事業によるサービスが提供されている点に関係するのであるが,事業の種類によっては,例えば蚊蠅の駆除作業のように,たとえ一部未加入者地域が含まれていたにしても,そこを除いた作業では効果が減殺されることになり,したがって実際には除外されないことになる。そのため,未加入者は会費支払いと労力提供は行わなくとも,作業の思恵には浴する結果となる。無関心や未加入の問題はこのような結果とも関連することになるのであるが,後に町内会への強制加入と町内会法制化が実現されたことに関しては,以上の事情からする町内会側の希望も一因となっていた。
 5 過大な行政依頼事務
 上でふれた筆者の町内会調査では,一般会員の無関心とならんで役員層の間の強い不満の対象となったのは,行政当局から町内会に依頼される末端事務の量が余りに過大なことであった。「役所の下働きばかりで,町内会本来の仕事には全然手が廻らない」という意味の苦情は,非常に多くの役員が述べていたのであるが,戦前の町内会はこの点についても戦後と全く同様の状況に置かれていたようである。そのことは,以下の引用で十分理解される。
 「町会は,町会規約に定むる所の事業を其予算の範囲内に於て運営するものであって,一回の人足費と雖も予算外の支出は許されない。然るに市区並に官公署は手許に給料を食む役人や使用人を多数抱え居るに拘らず町会を見ること恰も己の隷属者の如く考え,ポスターを貼れ,ビラを配れ,何々を調査報告せよ,甚しきに至っては,職務上当然為さねばならぬ係りの役人が,衛生講話をするから自動車賃や茶菓子弁当料を負担せよとか,或いは又当然職責上為す可き防火宣伝を消防署がするからと言って其費用を支弁して呉れのと,彼等の町会に対する所謂連絡なるものは大部分は殆んど之れ費用負担の強制であって,心ある会員にして憤慨せざるものはない48)」(赤坂区青山南町2丁目町会長 託摩武彦)
 「官公署より,周知方可然云々の依頼ある場合,掲示板に掲示する位にて足る事項なれば宜敷きも,必ず毎戸に周知せしむべき必要ある事項なれば,各町会各別に活版又は謄写版に付する次第なれば,其不経済は実に甚しきものあり。小額の金銭的補助を受くるも,真に周知の必要ある事項は必ず官公署にて各戸に配布するだけの印版物を交付せられ,町会は配布の任を執る丈けとせられ度し49)」(麹町区一番町町会長 河内保全)
 「当親和会は私の町会なれど,現今の如く市府区及官庁よりの用務非常に多く,町会事務所は区役所の下役人又は小使の如き感あり58)」(京橋区南槇町親和会)
 「官公衙は全然法令上認めざる町内会に対し,種々の調査若しくは宣伝等を依嘱し来るは聊か矛盾の嫌いなき能はず51)」(麻布区新堀町々会)
 「官公庁より依託さるる事項多数あり,之を町会に於て処理しつつあるにも拘らず,官公庁にて町会を認めず,将来町会を認められ,相当方法を講ぜられたし52)」(京橋区南新堀二丁目町会)
 以上から推察されるように過大な負担により,無償の名誉職である役員が極めて多忙に陥り,しばしばその負担が人力の限界を超える場合も起ってくる。そのため専任職員を置く町内会もかなり多く現れるのであるが,しかしこれも次の言葉が示すように,すべての町内会に可能なこととは言えなかったのである。
 「我々の如き貧弱なる町会では,事務員を置くというごとき大なる負担は,一科目に数百円計上するということは重大なる問題であります53)」(四谷区永住町会長 谷口守雄)
 これまでのところが示すように,町内会が行政の一翼を担ってかなり重要な役割を果たしていたのであるが,その反面,既に前記引用の一部が示唆するように,反対給付として町内会の法的認知を求める要望が強くなったのであった。先に一般会員の無関心が,町内会の法制化への一因となったことにふれた。町内会の法制化は戦時体制へ入った当時のわが国において,直接的には為政側の発意によるものであったが,実は町内会側にもこれに呼応する声があり,その声を盛り上げたのは,一般会員の無関心とならんで過大な行政事務委任に起因するものであった。

むすび―町内会整備の再考

 以上本文で戦前の東京における町内会の組織および運営上の問題を扱ってきた。時には日本人として自明の事と思われる点を扱ったと思われるが,既に述べたように,それは筆者が国外からの関心を意識したことによることをご諒解いただきたい。ただ筆者としては,そのような意識に立った以上,できる限りの客観的態度をとるように努めた積りである。こと町内会に関しては,研究者の間でかなり評価が異るため,特にこの態度が必要と思われるからであり,一部でやや擁護的表現に傾いたのは,ステレオタイプ化されたイメージに対しては,その方がバランスを回復できると考えたからである。
 とはいえ,資料の不足する部分も少くなく,そのような部分ではかなり推測を加えざるを得なかったのであるが,ただし推測は加えても,評価は加えないように自らを戒めた,と考える。一方資料の残されている部分では,かなり多くの引用を試みた。これも町内会については,研究者の主観的歪曲の混る余地が多く,それを避けるには資料をして語らしめることがひとつの方法と見做したからである。
 最後に,重ねて引用を挿入して町内会整備に言及しておくこととする。町内会の抱えていた問題について述べた所から理解できるように,その解決について,区域と会員数の適正化と均一化,行政指導(特に役員間の確執に関して),ある程度の法的承認といったことは,おそらく多くの人々が当然想定する方法であったと考えられる。一方で,町内会の持つ公的性格を考慮して,その建全育成のために東京市でも,このような方法に関心を寄せていた。しかも,その関心は下に掲げる引用で理解されるように,東京市の都市的現実の中で自治を回復しようとする意図に基いていた。反面既にふれた多くの障害を考慮して,無為に過さざるを得なかったのであった。とはいえ,もしこの関心が純粋に生かされていたとすれば,今日ほどには町内会は否定的評価を与えられなかったと思われる。
 「町会……は例外なく地域的最小単位制のものであった。従って現行制度に依る市,殊に大都市にあっては範囲が大きい程自治の要素たる相互扶助,共同利益等は薄くなり,加ふるに最近に於ける東京市人口の増加率年平均18万人の中,約7割は他市町村よりの移入で,恰も植民地なるが如き観を呈するに於ては如何に東京市は自治体だと言っても不自然であり,ピッタリ来ないのは誰も否めない事実である。さればと云って地方自治の区域より小ならしむれば,その公的施設益々小規模にし,且つ財的効果を減殺し,近代文化の要求に応じ得ないであろう。茲に同じ自治の名の下における大なる矛盾がある。要するに,市町村は自治体であるが,国の法制が割り当てたものであり,町会は多年に亘る実社会の必要が生んだ組織に外ならないからである。この矛盾を緩和し,将来自治体としては実質的価値を失うかも知れない東京市を救済する方法として着目したのが,町会を足場とする市の建直しである……54)」
 これは町内会整備の方針の解説中の一部であるが,この意図は今日でも十分承認し得るのではなかろうか。
 ただ不幸なことに,これに併せて国民精神総動員の有力な手段であることも謳われることとなった。これが一枚加わり,国家の強制力の裏付が得られてはじめ多くの障害の排除が可能であったのではあるが,ただ今日では,整備の理由となった以上2つの点のうち,後者のみが記憶されるようになったことに十分注意を払っておかねばならないであろう。

20) 東京市政調査会『東京市町内会に関する調査』昭和2年,以下「調査会」と略す,139ページ。
21) 同上,145ページ。同上,132ページ。60ページ。
22) 同上,132ページ。
23) 谷川昇,「御市における町内会制度の整備(下)」,『都市問題』24巻3号,昭和13年,60ページ
24) 同上,58ページ。
25) 東京市・8年,105ページ。
26) 同上,104ページ。
27) 同盟,21ページ。
28) 東京市役所,『自治振興座談会町会長の「体験を聴く会」』,昭和14年,以下「座談会」と略す,27-28ページ。
29) 同上,34ページ。
30) 調査会,141ページ。
31) 同上,142ページ。
32) 同上,143ページ。
33) 同上,171ページ。
34) 同上,144ページ。
35) 同上,142ページ。
36) 同上,144ページ。
37) 東京市・15年,8ページ。
38) 安達正太郎,「東京市新区会議員と町会の関係」『都市問題』2巻4号,大正15年,131ページ。
39) 猪間驥一,「東京新区会議員の選挙弊害感」『都市問題』2巻3号,大正15年,76-78ページ。
40) 調査会,105ページ。
41) 同上,130ページ。
42) 同上,136ページ。
43) 同上,139ページ。
44) 同上,141ページ。
45) 同上,144ページ。
46) 同上,145ページ。
47) 同上,148ページ。
48) 同盟,44-45ページ。
49) 同上,43-44ページ。
50) 調査会,159ページ。
51) 同上,162ページ。
52) 同上,159ページ。
53) 座談会,32ページ。
54) 同盟,「町内会整備の方針」より,9ページ。