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日本鉄鋼業と「南洋」鉄鋼資源

著者名: 奈倉文二
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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 目 次
はじめに・・・・・・・・・・2
Ⅰ マレー鉄鉱石の占める位置と特徴・・・・・・・・・・2
Ⅱ 南洋鉱業公司の設立・・・・・・・・・・11
Ⅲ 預金部資金借入・・・・・・・・・・15
Ⅳ 鉱石採掘・輸送状況・・・・・・・・・・20
Ⅴ 営業成績・・・・・・・・・・33
結 び・・・・・・・・・・51


はじめに

 戦前日本鉄鋼業は先進欧米諸国の近代的鉄鋼業展開の側圧を受けつつ,先進技術を積極的に導入して「近代化」をはかってきたが、その過程で,鉄鉱石等の原料基盤はより後進地域である朝鮮,中国などの「大陸」に依存するか,あるいは英領マレーなどの「南洋」諸地域に依存してきた。そこでは,日本鉄鋼業はいわば「先進国」として資源開発に携わっていたのである。日本鉄鋼業の形成・発展過程を欧米諸国の先進技術導入による「近代化」過程として把握することは,従来の研究史で数多く試みられてきているし,本プロジェクトにおいてもすでに貴重な報告がなされている1)。そこで本報告では,日本鉄鋼業「近代化」過程の他の一側面である原料資源開発のあり方を考察することとしたい。
 具体的考察対象は英領マレー鉄鉱石の開発,とりわけ,南洋鉱業公司(後の石原産業2))によるマレー鉄鉱石の開発に限定する。


1)飯田賢一『日本鉄鋼技術の形成と展開』国連大学本プロジェクト,鉄鋼と鉄道研究部会,1979年。
2)合資会社南洋鉱業公司(1920)→石原産業海運合資会社(1929)→石原産業海運株式会社(1934)→石原産業株式会社(1943)
 現在の石原産業株式会社は化学工業全社であり(資本金69億5千万円,本社大阪,工場四日市:酸化チタンで世界有数,農薬でも業界屈指),鉄山開発事業とは何ら関係ない(銅などの国内鉱山事業も現在は行っていない)。

Ⅰ マレー鉄鉱石の占める位置と特徴

 考察対象を石原産業によるマレー鉄鉱石の開発に限定する理由を明らかにするために,まず,マレー鉄鉱石と日本鉄鋼業との関係(とりわけ官営八幡製鉄所との関係)並びにマレー鉄鉱石の資源的特徴などについて概観しておこう。
 日本鉄鋼業の輸入鉄鉱石依存については今更言うまでもないが、1920年以降の数値は第1表に示すごとくである。1920年代から30年代にかけては,全鉄鉱石需要中輸入鉄鉱石は7~9割を占める(移入高をも含めれば9割ないし9割5分)。輸入鉄鉱石の2大宗は中国と英領マレーであり,2ヵ国で輸入高の9割前後,年によっては殆ど全部を占める。1920(大正9)年までは輸入高中殆ど全部が中国鉄鉱石であるが、注目さるべきことは,21年からマレーが加わり,20年代後半以降急増し,29年には中国鉄鉱石を凌駕し,以後40年まで輸入鉄鉱石中首位を占め続けることである(41年7月米英蘭による対日資産凍結により輸入杜絶)。
第1表 鉄鉱石輸入高および中国・マレーに対する依存度
 こうした関係は八幡製鉄所(官営製鉄所,1934年より日本製鉄株式会社八幡製鉄所)の鉄鉱石入荷高内訳を見ればより明瞭である(第2表)。すなわち,マレー鉄鉱石の納入は1920(大正9)年度[・・]より開始されるが,28年度にはすでに中国鉄鉱石を凌駕する。こうした変化の背後には,官営製鉄所による鉄鉱石確保の特殊なあり方が存在する。
第2表 八幡製鉄所鉄鉱石入荷高内訳
 すでによく知られているごとく,官営八幡製鉄所の発展にとっては,いわゆる「漢冶萍公司借款」による中国大冶鉄鉱石の独占的確保が極めて大きな役割を果した。すなわち,1904(明治37)年以降,相次いで大蔵省預金部資金が横浜正金銀行(当初は日本興業銀行)を通じて漢冶萍公司に貸付けられ,その見返りに大治鉄鉱石(後に漢陽銑鉄も加わる)が官営製鉄所に供給され,その鉱石代金中より元利償還がなされる,という関係により,大治鉄鉱石の「低廉且つ安定的供給確保」が実現された。かかる関係の確立は,日本帝国主義による漢冶萍公司に対する金融的支配の確立を意味し,一方で官営製鉄所の発展要因をなすとともに,他方で当時中国唯一最大の石炭鉄鋼混合企業とも言うべき漢冶萍公司の衰退をもたらす一大要因ともなったのである1)。
 しかしながら,すでに筆者が別の機会に明らかにしたごとく,官営製鉄所による中国大冶鉄鉱石の確保は1920年代に入るとやや不安定になる。つまり,この借款関係の進展自体が漢冶萍公司の衰退をもたらしただけでなく,中国における民族的気運の勃興と揚子江一帯の戦乱とにより,日本側は契約通りの鉄鉱石確保が困難となったのである。そこで,日本側は鉄鉱石の新たな「安定的」確保策を模索する。たとえば,漢冶萍公司に対しては,新たな借款供与を行いつつ,新旧借款条件の緩和措置をとる。また,日本側は,大冶鉄鉱石の不足を補うべく,同じく揚子江中流域の桃冲鉄鉱石を確保するが,この桃冲鉄鉱石を採掘する裕繁公司に対しても預金部資金融通を行いつつ(「裕繁公司借款」),その直後から借款契約の緩和措置を講じる。だが,かかる漢冶萍・裕繁両公司対策も事態を根本的に改善するには至らない2)。
 このように,中国鉄鉱石の確保が不安定になる中で,マレー鉄鉱石の製鉄所への納入が開始され,急速に増大してくる。すなわち,石原広一郎によって設立された南洋鉱業公司は,1920(大正9)年より英領マレーのジョホール州バトパハ北方のスリメダン鉄山Sri Medam iron mine, north of Batu Pahat in Johore Stateの採掘を開始し,翌21年初頭より鉄鉱石を八幡製鉄所に供給し始めるが,とくに20年代半ば以降その供給量は増大し,中国鉄鉱石の代替的役割を果すに至るのである。しかも,南洋鉱業公司は,後に詳しく見るごとく,1924(大正13)年に融通された預金部資金をその後年々確実に返済している。このことは,中国漢冶萍・裕繁両公司に対する借款の元利償還が1920年代後半以降完全に滞る事態と対比した時,極めて注目されるものである3)。
 ところで,英領マレーの鉄鉱石開発は南洋鉱業公司によるジョホール州スリメダン鉄山のほかに,同じく南洋鉱業によるトレンガヌ州ケママン地方のマチャンスタウン鉄山(太陽鉱山)Machang Stawn mine, Kemaman District, Trengganu(1924年採掘開始,詳しくは後述),日本鉱業によるトレンガヌ州ズングン地方のズングン鉄山Dungun mine, Dungun District, Trengganu(1930年採掘開始)があり,さらに1930年代後半に入ると,飯塚鉄鉱株式会社によるジョホール州エンドウ地方の(ブキ)ランカップ鉄山Bukit Langkap mine, Endau Districtと南洋鉄鉱株式会社(日本鋼管株式会社系)によるケランタン州テマンガン鉄山Temangan mine, Kelantan Stateとが加わる。
第1図 マレー半島鉄鉱山分布図
第3表として,1930年代後半における英領マレー鉄鉱山の採掘状況一覧を掲げておく(第1図をも参照されたい)4)。
 これらの諸鉄山はすべて日本資本によるものである。マレー鉄鉱石の産出高・輸出高に関する統計資料は十分整理されておらず,確度の高いものは少いが,一応の目安として第4表を掲げる。当時英領マレー内においては,近代的製鉄業は存在していないので,産出高のほぼ全額が輸出され,しかもその輸出先は殆ど全部日本向けである5)。これら諸鉄山のうち,日本鉱業のズングン鉄山は規模が大きく,1930年代後半においては採掘量においても第1位を占める。しかし,日本鉱業の採掘事業は,南洋鉱業公司(石原産業)の経営的成功を前提としたものであったと言って良い6)。
 また,後に詳しく見るごとく,南洋鉱業公司による鉱石供給先は殆どすべて官営製鉄所である。したがって,マレー鉄鉱石の輸出=対日供給というのは,1920年代においては南洋鉱業公司による官営製鉄所への供給とほぼ同義である。マレー鉄鉱石の開発をもっぱら南洋鉱業公司(石原産業)に焦点を当てて考察し,しかも,とりわけ官営製鉄所との関係に留意しつつ検討せねばならない理由もここにある7)。
 なお,以下の分析の主たる対象時期は1930年代前半までに限られている。それは一つには,30年頃までに南洋鉱業公司(石原産業)によるマレー鉄山開発事業は発展の軌道に乗り切っている,という理由によるが,同時に,資料的制約からも1930年代半ば以降の鉄山事業は十分に検討し得ないことによる。


1)佐藤昌一郎「製鉄原料借款についての覚書」(『土地制度史学』第32号,1966年),安藤実『日本の対華財政投資』(1967年),等。
2)拙稿「官営八幡製鉄所による鉄鉱石の“安定的″確保策」(茨城大学『政経学会雑誌』第33号,1974年),拙稿「同・補遺」(同誌第41号,1979年)。
3)前掲拙稿「〝安定的″確保策」は,かかる視点からマレー鉄鉱石依存への急傾斜についても指摘した。本稿はその視点を継承しつつ,新たに調査・分析を加え,南洋鉱業公司の鉄山開発事業の検討としてまとめたものである。
4)英領マレーの主要鉄鉱産地はマレー非連邦のジョホールJohore,トレンガヌTrengganu,ケランタンKelantanの三州及び連邦州Pahangに点在する。つまり,鉄鉱床の主な賦存地帯はマレー半島を南北に走るケルバウKerbau山脈の東側である(ベラPerak州イポーIpoh鉄山の本格的開発は戦後のこと)。これら鉄鉱床はいずれも三畳紀の頁岩・硅岩中に生成された交代鉱床・残留鉱床であり,それら初生鉱床が湿潤多雨の熱帯の気候により強烈な風化作用(解析変質作用katamorphism)を受け,高品位良質の鉄鉱床が生じたものと言われる。
第3表 マレー鉄鉱山採掘状況一覧
第4表 マレー鉄鉱石生産高・輸出高調べ
鉄分は60%以上,時に68%にも及ぶ。主に赤鉄鉱であるが,褐鉄鉱,磁鉄鉱をも混えている。また,外的地質営力に因るいわゆる外成変質鉱床のため,鉱床の発達は地表に近い部分にのみ広く発展し,地下深部にまではおよんでいないことが多い。そして,風雨酷暑に基く鉱床の崩壊は滑落した鉱塊を山麓に堆積させ,いわゆる転石鉱床を生じせしめる。
 以上東亜研究所『南方諸地域の鉄鉱』第1部(昭和16年)11~15ページ。同第二部(昭和18年)2ページ。石川英助「馬来の鉄」(『日本鉱業会誌』No.684,昭和17年4月)19ページ。大谷敏治『マライの経済資源』(商工省農林省監修『南方経済資源稔攬』第6巻)昭和18年,306ページ,熊丸徹『日本製鉄と鉄鉱資源』(日鉄社史編集委員会事務局)昭和34年,301~323ページ,等。
5)本表の数値とは一致しないが,1928~38年については,前掲『南方諸地域の鉄鉱』75ページには全輸出高と対日輸出高の数値がある。それによれば,日本以外への輸出は最大200トン台(試産品として送られたもの)である。
 言うまでもなく,マレーはゴムと錫の産地として知られる。試みに1936年における英領マレーの輸出総額(627,761千ドル)中に占める割合を見るに,ゴム48.3%(303,315千ドル),錫22.5%(141,353千ドル)であり,この二つで7割を占めるのに対し,鉄鉱石はわずか1.0%(6,305千ドル)を占めるのに過ぎない。しかし,対日輸出額に限って言えば,やや様相を異にし,鉄鉱石の地位が上昇する。すなわち,対日輸出額48,207千ドル中,第1位はやはりゴム23,967千ドル(49.7%)であるが,鉄鉱石は殆ど全部対日輸出額であるため,単品では第2位の6,302千ドル(13.1%)を占め,錫5,101千ドル(11.0%)を凌駕する(他に対日輸出額ではベンヂン等石油製品が重要な地位を占める)。〔満鉄東亜経済調査局編『英領マレー』(南洋叢書第3巻)昭和13年,250ページ〕
6)ズングン鉄山は元トレンガヌ王族の所有にかかるものであったが,久原鉱業(日本鉱業の前身)が本鉄山を買収したのは1917(大正6)年であり,その限りでは石原広一郎によるジョホール州スリメダン鉄山の発見・採掘に先行している。しかし,英国の管理組織変更などの理由により,久原鉱業は改めて1924年探鉱権,26年採掘権の申請を行い,認可を得ている。「時しもJohore鉄山が開発され極めて有望となったため」久原鉱業は26年には八幡製鉄所に対し鉱区調査を依頼し,その調査結果によりズングン鉄山の有望なことが認められたため,翌27(昭和2)年製鉄所との間に年25万トンの購入契約を締結し,本格的採掘に乗り出すに至る(29年日本鉱業継承,30年出鉱開始)。以上,日本鉱業株式会社『50年史』昭和32年,693ページ,前掲『日本製鉄と鉄鉱資源』305ページ。なお、ズングン鉄山については,藤村幸一「馬来半島龍運鉄山に就て」(『日本鉱業会誌』第595号,昭和9年11月),日本鉱業株式会社「ズングン鉄山の概要」(同誌第684号,昭和17年4月)をも参照。
7)石原によって開始されたマレー鉄山開発事業については,戦前日本鉄鋼業にとって重要な意義を有するにもかかわらず本格的研究は今まで殆どなされてこなかったと言ってよい。とくに,八幡製鉄所(官営時代および日鉄時代)にとっては高炉操業の死命を制すとも言えるものであったはずだが,社史類(八幡製鉄株式会社『八幡製鉄所50年誌』昭和25年,日本製鉄株式会社社史編集委員会『日本製鉄株式会社史』昭和34年,等)にも殆ど記述がないことは意外なほどである。これは社史作成時期における原料問題に対する楽観論の反映と考えるべきであろうか。日本鉄鋼業史に関する文献のうち,マレー鉄鉱石について多少ともまとまった検討がなされているのは,日本鉄鋼史編纂会『日本鉄鋼史』第3巻第4分冊(昭和25年),第5巻第9冊分(昭和28年)ぐらいである。
 なお,石原広一郎は,マレー鉄山開発の経営的成功を基礎として,1930年代以降南方開発,国内政治「革新」を説く特異なイデオローグとして活躍するが,この分野の研究は比較的行われている方でもあるので本稿では全て割愛する。さしあたり,井東憲『熱血児石原広一郎』東海出版社(昭和14年),矢野暢『「南進」の系譜』中央公論社(昭和50年),清水元「石原広一郎による〝南進″の論理と心理)(正田健一郎編『近代日本の東南アジア観』アジア経済研究所,1978年)等を参照されたい。

Ⅰ 南洋鉱業公司の設立

 合資会社南洋鉱業公司は1920(大正9)年9月石原広一郎によって設立されたものであるが,設立に至るまでの特筆事項はスリメダン鉄山の発見から官営八幡製鉄所との鉱石納入契約締結に至る経緯と会社設立・鉱石採掘に必要な資金調達問題であろう。そこでまず,これらを中心に南洋鉱業公司創業事情を概観しておこう。
 石原三兄弟(広一郎,新三郎,儀三郎)は,1916(大正5)年頃から英領マレーのジョホール州においてゴム園開拓事業などに従事しつつも(新三郎のマレー渡航は5年前の1911年),その事業成績は芳しくなかったのであるが,広一郎による鉄鉱調査が実を結び,19(大正8)年8月,スリメダン鉄山を発見する1)。
 石原広一郎は早速ジョホール政庁に対し,スリメダン鉄山の試掘権許可申請手続を行うとともに,鉱石標本を携えて帰国し,中川小十郎台湾銀行頭取の知遇を得るとともに,白仁武製鉄所長官を訪問する(同年12月)。白仁長官がスリメダンに派遣した製鉄所技師の調査結果は「品質優良,安全鉱量750万トンの見込十分」というものであり(1920年3月),この間鉄山試掘権も許可された(同年1月)2)。そこで,石原広一郎は,さしあたり個人名義で製鉄所の間に鉄鉱石供給契約を締結する(同年4月)。
 その契約内容は,石原が1920年度2万トン,21年度5万トン,22年度以降10万トン以上の鉄鉱石を製鉄所渡しトン当り20円(鉄分65%以上)で供給するものとなっている3)。この契約は純然たる鉄鉱石の売買契約であり,この点が中国の漢冶萍・裕繁両公司の場合と大きく異なっていることをあらかじめ注意しておきたい。
 もっとも,この契約書は「供給請書」という形をとり,供給者側の石原が製鉄所側の鉱石購入事情に一方的に従わされるような不利な条項を含んでいる4)。しかし,この契約書締結は,官営製鉄所側が「豊富ナル資源ヲ探索シツツアリシ折柄」5)なされたものでもある以上,石原にとってはさしあたり鉄鉱石の安定的供給先を確保したことを意味する。一介の青年石原個人が官営製鉄所との間にかかる鉄鉱石供給契約を締結できたことの意義は極めて大きなものであった。
 こうして,石原は官営製鉄所との間に鉄鉱石供給契約を締結したものの,次の難問は鉄山採掘事業に必要な資金調達をはかることであった。そこで,石原は,中川台銀頭取により台湾財閥林熊徴を紹介され,林の個人保証という形で台銀35万円融資が実現することとなり,第1回分5万円は20年2月に実行された。しかし,戦後恐慌(同年3月)以降の日本経済の不振により,台湾財閥林も窮地に陥り,石原に対する協力不能を表明するに至り,台銀の残額融資が困難となる。そうした中で,石原広一郎は松方幸次郎川崎造船所社長の支援を得る6)。すなわち,石原は松方による百万円までの信用保証を得(松方所有の川崎造船所株式2千株を台銀に担保として差し出すという形),台銀融資契約を75万円に増額して締結し直すことが出来たのである7)。
 こうして,第2回分の台銀融資30万円が実行されることとなったので,ひとまず資金上の困難は解決し,20年9月,合資会社南洋鉱業公司(資本金10万円)が誕生する。その際,石原は,松方幸次郎に対する返礼として,鉱山権利半額を割り当てている。したがって,南洋鉱業公司創立当初の出資者は,形式的には,無限責任社員石原広一郎と有限責任社員松方幸次郎および田中慎吾(松方の代理)の3名となっている8)。
 このように,石原広一郎による鉄山採掘事業の開始に際しては,中川台銀頭取,白仁製鉄所長官および松方川崎造船所社長の援助が大であったが,同時にここで注目しておく必要があるのは,このような日本資本による鉄山採掘事業に対するジョホール州政府の好意的態度であろう。
 すなわち,ジョホール州政府は,石原に対し,スリメダン鉄山の試掘権許可に引続き,採掘権も許可していたが(20年7月),さらに,石原によるバトパハ河口の開港場指定要請に対しても,一部英人官憲の反対はあったものの,最終的には認可している(同年12月)。バトパハ河口が鉄鉱石積出港として認可され得なければ,鉄鉱石はバトパハ河口からさらにマラッカ海峡を80マイル南下して,シンガポールで本船に積み替えるという手数を経なければならなかった。したがって,石原の鉄山開発事業にとって,このバトパハ開港は鉱石低廉輸送上の必須の要件であったと言っても良い。ジョホール州政府がこのような好意的態度をとった背景には,マレー経済が第1次大戦後の産業不振(ゴム栽培,錫鉱採掘等),失業者続出,租税収入激減という事態に陥っていたということがあり,石原も州政府に対し,鉄山事業と積出港開港が失業者救済,鉱石輸出税収入等で多大の便宜があることを説いていたのである。ちなみに,海外において,日本人の申請により開港場指定がなされたのはバトパハ港をもって嚆夫とする,という9)。
 なお,マレー各州を支配する英国政府は10),マレーにおいては錫鉱業およびゴム栽培業を二大宗とする輸出品産業の開発奨励には努めつつも,鉱鉱石資源については,いささかの関心も示していなかった。何故ならば,英本国としては遠方のマレーにまで鉄鉱石を求める必要はなく,また,英領インドにおいて莫大な鉄鉱・石炭資源を有し,これを基礎としてインド製鉄業を育成せしめてきたからである。とくに第1次大戦を契機に急速な発展を示したインド製鉄業が,大戦後低廉過剰な銑鉄を主として日本への輸出にふりむけ,日本製鉄業にとって最大の脅威となったことは周知の通りである。また,英領マレー内においては,製鉄用原料石炭(コークス用粘結炭)がほぼ皆無であったため近代的製鉄業を興す条件を欠いており(市場的条件においてもインドより更に不利),たとえ,鉄鉱石採掘が行われたとしても,鉄鉱石のまま輸出されるしかなく,その輸出市場も日本に限定されざるを得なかったことは歴史的経過が示すごとくであった。英国政府がマレーにおいては鉄鉱資源に殆ど関心を示さなかったことは,石原によるスリメダン鉄山試掘権申請以前には鉄鉱石埋蔵量その他の調査が殆ど皆無という状態にも示されているごとくであり,このような事態は,さしあたり石原による鉄山開発事業を難行させる要素ではあったが,長期的に見れば,日英関係が悪化するまでは,日本資本による鉄山採掘事業にとっては好運な要因となったとも言えるであろう11)。


1)スリメダン鉱山はジョホール州バトパハよりバトパハ河および支流シンパンキリ河Sungai Simpan Kiriを遡ること約22.3マイル(35~37キロメートル),同河の左岸に位置し,河岸より約500メートルの近距離にある。鉱石は主として赤鉄鉱で珪酸その他不純分少い多孔質の良鉱である(ただし一部軟粗粒で粉化し易いものあり)。鉱量は製鉄所技師田上禎吉の調査によれば,可採掘量720万トン(大正9年),800万トン(同10年),856万トン(同12年)と調査のたびに増大しており,三菱製鉄の市村毅の調査(同11年)においては埋蔵量1千万トンとされた。以上,製鉄所総務部『東洋方面主要鉄鉱調』昭和4年,173~4ページ,市村毅「馬来半島鉄鉱に就て」(正式名称は「馬来半島トレンガヌ州マチャンスタウンの鉄鉱とジョホール州バットメダンの鉄鉱に就て」)(『朝鮮鉱業会誌』大正11年6月)。また,前掲『南方諸地域の鉄鉱』第2部(昭和18年)6~7ページ,前掲石川「馬来の鉄」212ページ,南方経済調査会『南方に於ける鉄鉱資源に就て』昭和12年,25~27ページ,前掲『日本製鉄と鉄鉱資源』317―319ページをも参照。
 なお,スリメダン鉄山は,もとバットメダン(石の野原の意)と呼ばれていたが,南洋鉱業公司創業1周年に当たり,ジョホール王国が石原の事業の前途を祝する意味においてスリメダン(光の野原の意)と変えたものと言う(石原産業株式会社『創業35年を回顧して』昭和31年,35~6ページ)。
2)石原産業海運株式会社『創業20年史』(昭和16年)3~9ページ,および前掲『創業35年を回顧して』6~14ページ。
 なお,製鉄所技師によるスリメダン(バットメダン)鉄山調査報告書の結論部分のみを掲出しておく。「本鉄山ハ少クトモ七百万瓲ノ鉱量ヲ有シ其鉱石ハ稀ニ見ル良鉱ニシテ採掘搬出ニ比較的容易ナルヲ以テ鉄山トシテハ優良ナル部ナリ而シテ該鉱石ヲ採掘搬出費約5円及運賃13・4円八幡着合計約20円ニテ得ルハ難事ニハアラザルベク価格ノ点ニ於テモ内地或ハ支那等ニテ適当ナル鉄山ナキ限リハ他ニ於テハ容易ニ見出シ得ザル安価ノモノト謂フモ誤チナカラン」(製鉄所技師田上禎吉「ジョホール州バットメダン鉄山踏査報告書」大正9年3月,『大正13年南洋鉱業公司関係』所収)。なお,本稿で使用する『南洋鉱業公司関係』という書類は官営製鉄所側で編纂された尨大な資料(現在駒沢大学所蔵)のごく一部である。
3)大蔵省預金部『南洋鉱業公司関係融通金ニ関スル沿革』(昭和3年)1~3ページ。参照書類第1。価格については同附属書類「鉄鉱ジョホール海岸渡ニ関スル請書」において,「ジョホール海岸渡ヲ要求セラルル場合ハバトパハ川口沖船渡大正9年度価格ヲ金5円50銭トシ(大正10年度以降毎年度協定)」とされており,20(大正9)年度はバトパハ河口渡しが採用されたようである。なお,前掲『創業20年史』10ページおよび『創業35年を回顧して』14ページでは,納入契約量を大正10年(暦年か)5万トン,11年10万トン,以後10万トン以上としている。
4)第1条但書,第10条参照。
5)前掲預金部『南洋鉱業公司関係融通金ニ関スル沿革』2ページ。
6)前掲『創業35年を回顧して』16~20ページ。
7)台湾銀行史編纂室『台湾銀行史』昭和39年,420ページ。日本経済新聞社編『私の履歴書』第22集(昭和39年)22ページおよび石原広一郎『80年の思い出』(昭和45年)47ページでは,松方が担保として差し出した川崎造船所株式は2万5千株となっているが,これは明らかに過大である。尚,『台湾銀行史』420ページによれば,台銀融資は当初円貸出ではなく,海峡ドル80万ドル貸出であり,大正11年末までに25万ドルを回収,残額55万ドルを邦貨換算65万円の東拓代理貸付としている。
 また,台湾銀行は南洋鉱業に対して,このような創業資金の融資のみでなく,運転資金についても,積送鉱石に対する荷為替の買取という形で資金円滑化をはかる(名倉喜作『台湾銀行40年誌』昭和14年,269ページ)。
8)前掲『創業20年史』12ページ,『創業35年を回顧して』21ページ。
9)前掲『創業20年史』14~17ページ。前掲『創業35年を回顧して』24~29ページ。
10)英領マレーは海峡植民地Strait Settlements,マレー連邦州Federated Malay States,マレー非連邦州Unfederated Malay Statesの三つの異なる統治形態の地域から成る。海峡植民地は英国の直轄領Crown Colonyであり,総督Governorがこれを直接統轄するのに対し,連邦州、非連邦州は各州ごとに国王Sultanが居り,州政府を代表する(前者は連邦を構成し,州議会のほかに連邦議会を有す)。しかし,連邦州,非連邦州ともに英人顧問Adviserを入れており,最高統治権は海峡植民地総督が兼務する高等弁務官High Commissinorが握っていた(前掲『英領マレー』35~45ページ,東亜研究所『南方統計要覧』上巻,昭和17年,158ページ,等参照)。その意味では,政治,経済の根本は英国側が掌握していたと言えるが,逆に言えば,日常行政は州政府の執り行うところであり,英国側が重大事態と判断しない限り,州政府の権限に委ねられていたことを意味する。ジョホール州,トレンガヌ州などにおいて,鉄山試採掘権の認可が州政府レベルにおいて行われたのはかかる事情によるものであろう。これら諸州においては,土地永租借権,鉱山採掘権,地上権等が外国人に対しても自国民同様に許可を与えられたのである(石原広一郎「南洋に於ける鉄鉱資源」,『日本鉱業会誌』No.500,大正15年12月)。ただし,英領マレーの鉱業法は,日本の法令と異なり,地上権と鉱山権を同一体としていた(石原広一郎「南洋の鉱業」,『南洋協会雑誌』第17巻第2号,昭和5年)。
11)前掲『南方諸地域の鉄鉱』第1部5ページ,第2部2ページ参照。石原広一郎がマレーの鉄鉱石について「平時[・・]安全に本邦に供給すると得べし」(傍点引用者),としているのは極めて示唆的である(石原広一郎「我製鉄原料鉄鉱供給の将来は憂慮の要なし」,『鉄と鋼』第12年第9号,大正15年)。なお,石原による英領マレーにおける鉄山事業の創始に際しては,日本の外務省,とくにシンガポール総領事は対英関係を考慮して消極的であったという(前掲『創業35年を回顧して』17ページ)。

Ⅲ 預金部資金借入

 1920(大正9)年9月の南洋鉱業公司設立後,鉄山開発は急速に進捗し,同年12月には早くも鉄鉱石採掘が開始され,丁度その頃バトパハの開港場指定も実現を見たので,第1回積出は予定を2ヶ月程早めて翌21(大正10)年1月初頭に行われるという進展ぶりであった1)。鉱石積出により台銀融資75万円の残額40万円も実行され(同年2月),南洋鉱業公司の鉄鉱石採掘事業はひとまず軌道に乗った。2)。
 創業当初の鉄鉱石採掘状況も20(大正9)年度1万9千トン,21年度14万トン,22年度20万トン,23年度24万トンと増大傾向にあった4)。この採掘量は,先に見た20年4月の官営製鉄所との鉄鉱石納入契約量(22年度以降10万トン以上)をすでにはるかに上まわっていることに注目しておきたい3)。しかし,会社の経理状況は必ずしも順調ではなかった。創業による多額の資金を要した反面,収入の方は第一次大戦後の鉄鉱石価格の急落により伸び悩んでいたからである5)。スリメダン鉄山は,当時年30万トン以下の採掘量では採算が合わないとされており,一層の増産が必要であった。さらに,鉱石原価に占める運賃の要素は大であり,とりわけ運賃市況の変動が激しいため,鉱山経営が不安定を余儀なくされていた。
 そこで,南洋鉱業公司はスリメダン鉱山の増産のみでなく,トレンガヌ州ケママン地方のマチャンスタウン鉱山6)の買収と,鉱石自家輸送を計画し,それらに必要な資金(鉱山買収資金,建設費,船舶購入資金等)合計300万円の預金部資金融通を大蔵省に願い出た(1924年=大正13年4月24日附,台銀・正金経由)7)。
 ここで注目されることは,まず,この南洋鉱業公司の事業拡張計画と政府資金借入願に対し,官営製鉄所側が積極的に支援し実現をはかっていることである。すなわち,白仁武製鉄所長官は南洋鉱業公司の上記申し出直後に大蔵・農商務両大臣宛に「製鉄所鉄鉱資源之儀付上申」という意見書を提出している(4月29日附)8)。
 それによれば,製鉄所側としては所要鉱石の不足傾向が指摘され(年104万トン中29万トン不足),不足が生じた理由として,漢冶萍公司による大冶鉄鉱石の契約数量通りの供給不能,その補?的役割を果すべき桃冲鉄山の埋蔵量の少なさ等が述べられている。つまり,白仁長官は,中国鉄鉱石供給不足を補うのにマレー鉱石の増大の必要性を説くのであり,具体的にはスリメダン鉄山の増産のみならず南洋鉱業公司によるケママン鉄山の買収を是とするのである9)。
 さらに,南洋鉱業公司による鉱石自家輸送計画に対しても,白仁長官の意見書は,低廉かつ安定的運賃による鉱石購入にとって妥当と判断する。すなわち,「両鉄山(スリメダンおよびケママン:引用者)ハ若松ヲ距ルコト二千五百浬ノ航程ニ在ルヲ以テ適々海上運賃ノ暴騰ヲ見ルニ至レハ其ノ影響ヲ受クルノ程度殊ニ多カラサルヲ得ス,従テ供給及購入ノ双方ニ於テ契約ノ履行ヲ困難トスルニ至ルノ虞アルヲ以テ現今ノ如キ船舶価格ノ低下シタル機会ヲ利用シ供給者ヲシテ運鉱船ノ設備ヲナサシメ,成ルヘク的平準ノ運賃ヲ以テ供給ヲ絶タシメサルノ方法ヲ講セシメサルヘカラス」10),と。
 以上のごとく,製鉄所長官は南洋鉱業公司の申し出を積極的に推進せんとするのであるが,預金部資金融通は実現までには若干難行した。すなわち,ひとまず24(大正13)年6月初頭,預金部・台銀・南洋鉱業公司間に300万円貸付契約が成立しつつも11),その直後に内閣総辞職があり(清浦内閣瓦解,護憲三派加藤高明内閣成立,大蔵大臣は勝田主計から浜口雄幸に交替),新蔵相のもとで緊縮財政と預金部資金整理方針が実行され,預金部資金融通は無期延期とされたからである。
 すでに筆者が別の機会において明らかにしたごとく12),この預金部資金整理方針のもとでは,新たな製鉄原料獲得のための常設資金案(「製鉄原料資金」構想)も最終的には破綻してしまう。ましてや新たな預金部資金融通は容易に承認されない。当時融資延期措置がなされたのは南洋鉱業公司のほか高田商会(500万円),台湾水力(1千万円)があったが,後二者はいずれも実現せずに終っている。ところが,南洋鉱業公司に対する融資は最終的には50万円減額して総額250万円に決定の上実行される(同年10月減額修正契約を預金部承認13))。資金融通状況は第5表に示す通りである。尚,南洋鉱業公司に対する資金融通のみが最終的に認可された理由は定かではないが,この間白仁製鉄所長官及び中川台銀頭取が「製鉄国策」遂行上南洋鉱業公司に対する資金援助が不可欠なことを大蔵大臣等に訴えていることに注目しておきたい14)。
 結局50万円減額分は船舶購入を5隻から3隻に2隻減少されることによって処理されることになる。借入金の使途内訳は第6表に示す通りであり,台銀借入金を返済した上で多額の資金が鉱山買収・建設資金並びに船舶購入資金という形で投入されたのである(この点も漢冶萍・裕繁公司の場合の実際の使途[ヽヽヽヽヽ]と異なっていることに注目しておきたい)。かくして,減額されたとは言うものの,わずかに資本金25万円(同年10万円から増資したばかり)の南洋鉱業公司に対して,その10倍の250万円という政府低利資金が主として設備資金(鉱山・船舶)として貸与されたことの意義は絶大と言って良いであろう。
 ところで,南洋鉱業に対する預金部資金融通関係の契約書によれば,南洋鉱業は鉱石(鉄鉱石毎年20万トン,マンガン鉱毎年3万トン)を八幡製鉄所に納入し,その鉱石代金を製鉄所が台銀に支払い,まず借款元利に充当するという取り決めとなっている15)。この形態に関する限りでは,「漢冶萍公司借款」,「裕繁公司借款」と同様の「鉱石代金による借款元利の優先払い」という形態であると言って良い。
第5表 南洋鉱業公司に対する預金部資金融通状況
第6表 南洋鉱業公司・預金部借入金使途内訳
しかし,南洋鉱業公司の場合は言うまでもなく日本資本であり,契約内容には,通常の資金貸借契約同様,契約不履行の場合以外は経営権が侵害される規定は存在しない。この点が漢冶萍・裕繁両公司の場合と決定的に異なる。したがって,南洋鉱業公司の以後の帰趨は,鉱石の契約量と納入数量との関係及び納入価格と生産費との関係いかんによってのみ決定されると言って良いであろう。以下,この点を検討するためにも,南洋鉱業公司の鉄山事業の実際を採掘,運搬,積込,輸送など(その間の労働事情も含む)について見ておこう。


1)この開発当初の工事進捗は非常な突貫作業によってもたらされたものである。すなわち,日本人数名が約300名の中国人・マレー人労務者を督励し,4ヵ月間にわたり午前6時より午後8時まで日曜祭日抜きで作業が行われ,この間,先きに台銀より融資された資金(第2回分30万円)も使い果したので,以後は第1回の積出が行われるまで貨銀支払を延期し,食糧およびアルコール類のみを支給する,という状態であったという(前掲『創業35年を回顧して』29~34ページ)。
2)南洋鉱業公司創業1年後の同社について,シンガポール総領事は次のように伝えている。「目下設備ノ重ナルモノヲ挙クレハ小蒸汽船4隻,モーターボート5隻,鉱石運搬用艀船(60トン積)32隻,敷設レール2哩,トロ百個,其他倉庫,住宅,病院等ニシテ創立日尚ホ浅キモ設備着々進捗シ称嘆ニ値ス」(在新嘉坡総領事浮田郷次「合資会社南洋鉱業公司ノ事業」大正10年10月29日,外務大臣内田康哉宛,前掲『大正13年南洋鉱業公司関係』所収)。
3)前掲『創業20年史』18ページ。この数値は年度であり,前掲第4表の数値とは異なる(第4表の数値は過小のものが多い)。
4)石原広一郎は,1922,23年(大正11・12年)頃,採掘事業がひとまず軌道に乗ったスリメダンの鉄鉱石とスマトラ・パレンバンPalembamg州のムアラエニムMearaenim石炭(蘭印政府直営)とを主原料とする日蘭合弁スマトラ製鉄事業を企図するも,関東大震災により挫折する(前掲『創業35年を回顧して』55~68ページ,前掲『80年の思い出』65~73ページ)。また,同計画についての紹介と論評は,拙稿「幻の日蘭合弁スマトラ製鉄事業」(雑誌『金属』1980年1月号)を参照されたい。
5)前掲『創業20年史』18ページによれば,日本国内の鉄鉱石価格は19(大正8)年のトン当り25~30円から12.50円にまで急落したという。南洋鉱業公司と官営製鉄所との間の納入価格協定にもこれが反映し,20(大正9)年度は製鉄所渡しでトン当り20円と協定されていたが,21年度は11.10円,22年度は10.80円となる(後掲第8表参照)。
6)マチャンスタウン鉱山はケママン河溯江約13マイル(約21キロメートル)のスンガイピナンSungei Pinangよりさらに4マイル半(7キロメートル余)に位置し,河の左河より約300メートルの地点にある。同鉱山附近は熱帯特有の処女密林で,湿地に富み猛獣毒蛇の棲息地であった。鉱床は,鉄鉱とマンガン鉱(正確には含マンガン鉄鉱)とから成り,元来の鉄鉱は大小不規則の鉱体をなして存し,一部分は崩壊して大小塊および砕片となり,または,いったん溶解した部分が他に移動集中していわゆる残留鉱床を形成す。鉱石はやや多孔質かつ粗鬆な赤鉄鉱で珪酸分少なく鉄分多い良鉱であるが鉱量は少ない(可採鉱量は大正12年の田上技師の調査によれば350万トン,同15年の田上技師および熊丸技手の調査によれば100万トン)。以上前掲『東洋方面主要鉄鉱調』および前掲市村「馬来半島鉄鉱に就て」等を参照。
7)前掲預金部『南洋鉱業公司関係融通金ニ関スル沿革』3・4ページおよび「参照書類第3」。なお,鉱石自家輸送に対しては,国際汽船社長でもあった松方幸次郎は不賛成であり(船舶所有による海運自営は不安定であり,鉱石輸送はむしろ専門的海運業者に委ねるべきとの意見),前記の台銀75万円融資の信用保証を解き,南洋鉱業に対し鉱山権利を返却する(前掲『創業35年を回顧して』43ページ)。そして,台銀借入金は預金部借入金中より返済されることとなる(第6表参照)。
8)前掲預金部『南洋鉱業公司関係融通金二関スル沿革』所収「参照書類第4」。前掲『大正13年南洋鉱業公司関係』にも収録されている。
9)ケママン(マチャンスタウン)鉄山は,1918(大正7)年現地人により発見されたが,石原のスリメダン鉄山開発が契機となって,ケママン在住の佐藤作次が21(大正10)年に鉱業権を獲得して開発を企図するも進捗せず(前掲『創業35年を回顧して』45ページ,前掲『南方諸地域の鉄鉱』第2部,13ページ,等)。これを石原が買収することになるのだが,ここで注目すべきことは,スリメダンとケママンの両鉄山により「資源ノ確立」をはからんとした製鉄所が,現地総領事等の意見をも吸み,「両鉄山ノ合同」(具体的には石原によるケママン鉄山の買収)を是としたことである。製鉄所長官「馬来半島鉄山ニ関スル件」大正13年6月6日,外務次官松平恒雄宛(前掲『大正13年南洋鉱業公司関係』所収)。
10)注(8)に同じ。
11)「台銀・南洋鉱業公司間300万円貸付契約書」(大正13年6月2日附),「預金部資金融通ニ関スル大蔵大臣ノ承諾書」(同年6月4日附)。ともに大蔵省預金部前掲書所収。なお,前掲『大正13年南洋鉱業公司関係』にも収録されている。
12)前掲拙稿「官営八幡製鉄所による鉄鉱石の〝安定的″確保策」。なお,「製鉄原料資金」構想は前記製鉄所長官の意見書(4月29日附)と「製鉄原料資源ノ扶植ニ要スル資金設定ニ関スル建義」(大正13年5月,大蔵・農商務両大臣宛,大蔵省所蔵「昭和財政史資料』5―153所収)とを発端として構想されたものであるが,5月21日附の「製鉄原料獲得ニ要スル資金ノ件」(大蔵省作成,前掲『昭和財政史資料』5―153所収)には次のごとく記されていることに注意されたい。「製鉄所ハ今預金部ニ対シテ漢冶萍既往借款ノ利下其ノ追加借款並「トレンガン」鉱山買収資金ノ要求ヲ為スニ先チ将来ノ製鉄原料獲得ニ要スル資金調達ニ関シ確乎タル方針ヲ決定スルコトヲ必須ノ条件ト為ササル可ラス」,と。つまり,この時点においては,大蔵省は漢冶萍公司に対する追加借款や南洋鉱業公司に対する資金融通をなすに先立ち,「製鉄原料資金」に関する基本方針の決定が必要との認識に立っている。しかし,6月初頭300万円貸付を承認した時点における「製鉄所長官,理財局長申合事項」(6月4日附,同じく『昭和財政史資料』5―153所収,前掲『大正13年南洋鉱業公司関係』にも収録されている)には,「製鉄原料資金特別会計法案」の提出または成立が遅れた時は,南洋鉱業公司が購入予定の船舶5隻のうち少くとも2隻は製鉄所側が同所予算により買取り,その代金をもって預金部融通金(の一部)を返償せしめる,との取決めがなされている。つまり,ひとまずこうした形で妥協をはかり,南洋鉱業公司に対する預金部資金融通の決定を先行したのである。
13)前掲預金部『南洋鉱業公司関係融通金ニ関スル沿革』6~11ページおよび「参照書類」第5~16。
14)中川台銀頭取の回顧(前掲『創業20年史』巻末)。
15)前掲預金部『南洋鉱業公司関係融通金ニ関スル沿革』6・7ページおよび「参照書類」第6~8。

Ⅳ 鉱石採掘・輸送状況

 スリメダン鉄山の初期の採掘状況は先に見た通り順調な増産を示しているが,以後のケママン(マチャンスタウン)鉄山の出鉱分も含めて,南洋鉱業公司(石原産業海運)による鉱石供給状況をまず概括的に見ておくと第7表のごとくである。本表からも明らかなごとく南洋鉱業による鉱石供給先は一部の例外を除いて全部日本向けであり,しかも,その殆ど全部が官営製鉄所向けである。
 スリメダン鉄鉱石の官営製鉄所への供給分について見れば,採掘当初から急増傾向を示しており,24(大正13)年の預金部資金借入時点において,当初契約量の20万トンをすでに越える24万5千トンを供給し,以後も25年28万5千トン,26年30万6千トン,27年51万5千トンと急増している。28(昭和3)年からはケママン鉄鉱石も加わり,両者合わせて28年81万トン,29年91万6千トンとなる。
第7表 南洋鉱業(石原産業海運)による鉱石供給先一覧
なお,ケママン鉱山のマンガン鉱についても,開発当初はごく少量であったが,26(大正15)年からは4万トン台となり,当初契約量の3万トンを上まわる。
官営製鉄所による「南洋鉱石」の毎年の契約数量・納付数量および価格は第8表に示す通りである。前表とは出所が異なるため,納付数量において多少食いちがいが生じている(いずれも年度であるが,南洋鉱業公司側からの積出数量のとり方と官営製鉄所側からの受入数量のとり方のちがいに基くものであろう)。しかし,大勢は前表と同様である。
第8表 「南洋鉱石」契約及納付数量調
第8表・付表 「ジョホール」鉱石の製鉄所への月別納入数量
しておく。
**印,拙稿「同・補遺」(同誌第41号,1979年)では,このほかに追加分として3,728トンを記載したが,これは14年度分の追加納付数量と考えるべきであろう。(備考欄参照)。
洋鉱業公司による順調な鉱石供給の結果,製鉄所側は毎年[ヽヽ]契約数量を引き上げている。しかも注目されることは,南洋鉱業公司はその引き上げられた毎年契約数量をほぼ確実に納付していることである。なお,29(昭和4)年4月以降33(昭和8)年9月までの製鉄所への鉱石納入数量の詳細は第8表・付表に示す通りである。31(昭和6),32(昭和7)年と減少を示すのは昭和恐慌後の契約量減少に基づくものであって,採掘量の減少によるものではない(このことは年度末の2・3月に納付数量が抑制され,4月に急増していることからも明らかである)。納入価格は,戦後恐慌による鉄価急落に合わせて,21(大正10)年にはトン当り11.10円と激落したが,以後は,昭和恐慌時点までは11円前後とほぼ一定に推移する。この間,トン当り生産費は「現地経費」(採掘から本船積込まで),運賃ともに急速に低下させ,毎年「利益金」を計上・増大させてゆく。運賃低下は言うまでもなく鉱石自家輸送とその拡張にもとづくものであり,「現場経費」の低さは,両鉱山ともに露天掘という好条件のほかに,採掘から本船積込に至るまでの「流れ作業」と現場労働者の統轄が成功裡に行われたことが寄与しているようである。この事情をより少し詳しく見ておこう。
 スリメダン鉄山の開発事業が順調であったことについては,まず鉄鉱石採掘自体が比較的容易だったことを指摘しておかねばならない(以下第2図を参照1))。スリメダン鉄山の採掘法は階段式露天掘であるが,鉱床が一次的本体鉱床と二次的残留転石層に分かれており,中腹部の転石層だけでも数年間採掘するのに十分であったため,当初は転石層の採掘から開始された2)。次いで本体の上向階段法を行い,やがて下向階段掘に移る3)。そして,さらに昭和初期には,グロリーホールglory hole方式4)を併用することとなる。なお,採掘機械については,南洋鉱業公司はいち早く削岩機も購入していたが,当初は転石層の採掘を主としたため,概ね手掘であり5),次第に本体鉱床の採掘に削岩機を併用するようになる6)。
 次に,運搬についてであるが,当初採掘現場の運搬糸銃は各段ポケット式によったが,のちにグロリーホール方式に改められた。採掘鉱石はインクラインincline等により山麓に集中される。山麓から河岸桟橋まで約500メートルの軌道輸送は当初は手押し式であったが,やがてエンドレスendless式に改善された7)。すなわち,採掘鉱石はグロリーホール末端からトロッコまたはティッピングワゴンtipping wagon
第2図 スリメダン鉱床略図
 備考:石原産業株式会社元重役 東条卓三氏作成(1979.7.19,同本社にて)
によりインクラインまたはエンドレスを通じて河岸桟橋まで次々と傾斜を利用して連続的に運搬され,桟橋で艀に積み込まれる(これも落し込むという形)。桟橋での積み込み作業も,当初は手返し式積み込みによっていたのを,昭和初期には運河桟橋を新設したことにともない,二艀同時転鍋式積込に改善され能率が一段と向上した8)。
 こうして艀(荷船,トンカン)に積み込まれた鉱石は曳船ランチに牽引されてバトパハ河口に至る。この間,中間地点のパリスロンPari Slongまでは艀1隻ずつしか曳けないが,パリスロンより先は5・6隻(のちには最大8隻)ずつ大型ランチにて曳く。しかも,バトパハ河は干満の潮流があるので下潮時に曳き下げ,空艀船を満潮時に曳き上げる9)。
 こうして山元から本船積込まで間断なく「流れ作業」的に採掘・運搬・積込作業が行われたので,トン当り採掘費,運搬費等の節約に多大な貢献をする10)。このような作業方法をとった結果,貯鉱場も殆ど必要とせず,「貯鉱」は大体グロリーホール内やワゴン中で済んだのであるが,他方では,本船滞在中は労働者は休日なし(原則月2日公休)で働くことを余儀なくされた(ただし労働時間は日中の休息時間を2・3時間とるので実働8~9時間であった)11)。なお,バトパハ沖での本船荷役作業も,12月と1月は雨期ではあったが,マレー半島東岸のごときモンスーンによる荷役作業不可能という事態には陥らずに済んだため(前掲第3表備考欄参照),年間を通じて鉱石積込・輸送が可能であったことも,スリメダン鉄山の採掘事業にとっては好要因であったと言える12)。
 次に,南洋鉱業公司(石原産業)の鉄山事業の特徴については,労働者の統轄が,人種別・職業別編成により,請負業者を通じて極めて巧妙に行われたことを指摘しておく必要があろう。
 労働者の人種別内訳は6・7割が中国人,残り3・4割がマレー人,ジャワ人,インド人であるが,中国人(「支那人苦力」)は採掘および本船積込荷役という最も筋力を要する労働を担い,エンドレス運搬はジャワ人,はしけ乗組員はインド人(南インドの漁師出身で泳ぎがうまく水上生活者に適す),ランチの運転はマレー人またはジャワ人という形で分担・配置された13)。1930(昭和5)年時点における石原関係事業14)の従業員一覧は第9表の通りである。このような人種別・職業別の労働者統轄が成功裡に行われたことも当時から注目されるところであった,という15)。
第9表 石原関係事業・従業員内訳(昭和5年5月31日現在)
 日本人以外のこれら現場労働者の雇用形態は,南洋鉱業公司(石原産業海運)の直接雇用という形ではなく,カパラ(クパラ)kepalaと呼ばれる公司頭(請負業者)を通じて雇用され,それぞれの現場ではマンドルmandurと呼ばれる苦力頭が現場監督を受けもっていた。会社側はカパラに一括して賃銀を支給し,マンドルを通じて労働管理を行っていたのである16)。労働内容は厳しかったが,労働者1人当り賃金は近隣のゴム園労働者や錫鉱採掘夫より相当高かったので17),労働意欲は高く,前記の人種別・職業別労働編成と相まって,労務管理は成功裡に行われ,争議らしい争議も殆ど起らなかった,という18)。しかも,前記のごとき「流れ作業」的労働を行った結果として,1人当りの相対的高賃銀にもかかわらず,トン当り採掘費・運搬費等は低下せしめられたようである19)。すなわち,英領マレーの植民地的労働条件を前提とした巧妙な労務統轄と採掘・運搬行程の合理化との結合,と言えるであろう。
 次に,鉱石トン当り運賃の低下に多大な貢献をした鉱石自家輸送とその拡張および海運業進出事情について述べておこう。
 先に見たごとく,預金部資金借入は50万円減額されたが,その減額分は船舶購入分5隻154万円を3隻104万円に減額されたものであった。したがって,南洋鉱業公司はひとまず1924(大正13)年7千トン級船舶を3隻購入する(金泉丸,銀泉丸,馬来丸20))。しかし,元々この社船3隻のみで増大傾向にある鉱石全部の輸送は困難であったので臨時船と合して鉱石輸送を行う。とくに,1924~26(大正13~15)年においては,「鉱石自家輸送」というものの,南洋鉱業は町田商会との間に共同配船部を設け(町田商会保有の7千トン級2隻と合し),配船業務を委託している。「安全且ツ一定運賃ニヨリ輸送センガタメ」21),配船ではエキスパートであった町田商会と組んだのである。その後は町田商会との共同配船を解き,文字通り「船舶自営」を行う。その際,やはり社船のほかに定期傭船(一定期間船舶そのものを借入)と臨時船(その時々の積荷輸送を他社の船舶に委託)とを組み合わせて運営している。このような社船・定期傭船・臨時船の組み合わせによる船舶運営は,その時々の海運市況をにらみながら極めて成功裡に行われ,円滑な船繰りと運賃コスト低下に大いに役立った,という22)。
 南洋鉱業公司の貨物運搬数量の船種別・貨物別内訳は第10表に示す通りである。
 社船による運搬は貨物総量の2~4割に過ぎない。貨物別内訳はやはり自社の鉄鉱・マンガンが圧倒的である(8割前後)。しかし,これらはマレーより日本に輸送するものであり,これだけでは往航が完全に空船となる。そこで社船の往航空船を利用して積荷を行ったのが石炭および雑貨類である。石炭輸送は当時三池・シンガポール,大連・マニラ間で行われた23)。
 このような南洋鉱業公司による「船舶自営」は鉱石輸送費の低下に絶大な貢献をする。第11表は鉱石トン当り運送費を1924(大正13)年を100として示したものであるが,それによれば,1928(昭和3)年頃より急速に低下を示し,1931・32(昭和6・7)年には73・74ぐらいにまで低下している。
第10表 南洋鉱業公司・貨物運搬数量内訳
この間,28(昭和3)年までは社船は前記の3隻であるが,29(昭和4)年には7・8千トン級4隻,30,31,32年には8千7百トン級のを3隻,1隻,2隻と購入し,さらに同じく32(昭和7)年には2隻を新造せしめている〔三菱長崎造船所に名古屋丸8,657重量トン,播磨造船所に浄宝縷(ジョホール)丸8,772重量トン〕。こうして,石原産業海運は,1932(昭和7)年末には,所有船舶合計15隻,約12万トンを擁するのであり24),新興海運業者としても急成長を示す。
第11表 鉱石トン当り運送費累年比較表
 すでに1929(昭和4)年に社名を石原産業海運合資会社と変更した同社が,本格的に海運業界に乗り出すのは1931(昭和6)年3月のジャワ航路(南洋航路)開発以降のことである。ここでは海運業界のことを詳しく述べている余裕はないが,ジャワ航路開設の経緯だけを極く簡単に述べておこう。
 石原産業海運は,すでに見たごとく,1929(昭和4)年以降所有船舶を急増させてきたのであるが,石原広一郎は,この所有船舶と南洋倉庫株式会社25)とを基礎として南洋貿易促進をはかるため,ジャワ航路の開設に踏み切る。当時の蘭印貿易のうち,日本からの輸入は約1割という状態で,日本商品の市場開拓の余地は多いと判断された。先に見たごとく,石原産業海運の社船は往航は殆ど空船という状態であったから,この船腹を利用し,「実費」をもって日本商品を南方に輸送すれば,輸出貿易促進に貢献する,という目論見であった。だが,当時南洋航路は,特定命令航路として,大阪商船,南洋郵船とオランダ汽船会社のJC(ジャワ・チャイナ・ジャパン・ライン)社とが配船していた(そのほか配船はしていないが日本郵船も権利をもつ)。そして,これら4社で雑貨運賃12円,1等船客250円という運賃同盟を協定していた。ここに,石原は鉱石輸送(年70―80万トン)の往航空船を利用して,雑貨8円,1等船客150円という廉価で月3回の運航を開始した。そこで,熾烈な貸物争奪戦が展開され,半年後には同盟側の運賃も5割方引き下げられる程であったが,石原は運賃低下による損失を意に介せず競争戦に打ち勝ってゆく(第12表のジャワ航路集荷率表参照)。この間の損失は3年間で2百万円にものぼったという。後に見るごとく,1932(昭和7)年下期には石原産業海運は大赤字を計上するが,その一つの要因はここにあると推察される。とくにJC社の積取率の低下は激しく,蘭印政府も邦品輸入制限に乗り出すこととなる。そして,日蘭政府間並びに日蘭海運業者間の対立は,日蘭会商(日蘭通商会議,1934年1月於バタビヤ)並びに日蘭海運会商(1935年1月於神戸)の開催をもたらすに至る26)。
第12表 ジャワ航路集荷率表

1)以下の採掘・運搬状況についての記述は,石原産業株式会社本社における同社元重役よりの聞きとり(1979年7月および10月,以下単に「聞きとり」と略す)に負うところ大である。
2)「此転石ヲ採集スル方頂部ノ鉄鉱ヲ採掘スルヨリモ作業容易ニシテ且採掘費廉価ナルヲ以テ現在ニ於テハ最初ノ計画ヲ変更シ当分ノ間中腹ノ転石ヲ採掘スル方針ニテ作業ヲナセリ」(製鉄所技師田上禎吉「スリメダン鉄山調査報告書」大正10年3月,前掲『大正13年南洋鉱業公司関係』所収)。また,前掲市村「馬来半島鉄鉱に就いて」によれば,転石層部分の採掘は「坪当の含鉄量多きときは拾噸余に達せり」,と。
3)石原産業株式会社所蔵『石原産業35年史』(稿本)。本資料は前掲『創業35年を回顧して』の草稿に当る。以下,単に『35年史(稿)』と略す。
4)露天坑井法:dra whole方式とも言う。掘った鉱石を坑井の中を通じて下の車へ積み込む方法。
5)「採鉱用トシテ削岩機十台エヤーコンプレサア及瓦斯発動機等購入シアルモ鉱山前述ノ如キ状態ナルヲ以テ当分ノ間不用ナリ」(前掲田上「スリメダン鉄山調査報告書」)。
6)「本体区の採掘には300馬力,200馬力ディゼル各1基の原動力をもって発電し,100馬力圧搾機2基によって多数の削岩機を運転し,一歩一歩合理化の線に進んでいった。」「排土もはじめは手堀が主体であったが,本体区の大量排土は27才(立方尺のこと:引用者)50馬力ディゼルエンジンショベル2基,同電気ショベル1基を用いた。採鉱車も次々と改良し,18才乃至27才木製及び転鍋式鉄車約200台を使用した。」(前掲『35年史(稿)』)。時期は不詳であるが,諸機械の導入・運用は発電所の完成(昭和6年頃)にともない本格化したという。なお,削岩機等の諸機械は当時は全て英国製(インガソル製等)のものを用いたという(「聞きとり」)。
7)前掲『35年史(稿)』および前掲『東洋方面主要鉄鉱調』175ページ。なお,以下に創業当初(1921年初頭),1930年頃および最盛時(1935年頃)の運搬設備・方法についての指摘をかかげておく。
 「採鉱搬出設備トシテハ上段下段及山麓ヨリ桟橋迄12封度2呎巾ノ複線軌道ヲ布設シ下段ト山麓ハ自動インクラインヲ以テ連結ナセリ。」(前掲田上「スリメダン鉄山調査報告書」大正10年3月)。
 「運搬系統はインクライン経由シャフト及ポケット落込等による各段よりの採鉱石運搬車の輸送能力を発揮し,新運河並に桟橋積込の円滑を計る為め回転式鉄索インクライン6ヶ所を設置せり(前掲『石原事業概要』昭和5年9月)。
 「昭和10年の最盛時における運搬設備を見るに北区転石層の鉱石と本体区の鉱石の一部は鉱車又は直接エンドレス上部に集中し,さらに,第1エンドレス約500米自然捲卸1日能力500屯,第2エンドレス約500米自然捲卸1日能力500屯,第4エンドレス約1000米捲揚捲卸1日能力1000屯,の3基のエンドレスによって捲卸され運河桟橋に集められ,主として本体の鉱石は第5エンドレス(約1,500米捲揚捲卸1日能力1500屯)によって運搬され,通称旧桟橋にて艀に積込まれた」(前掲『35年史(稿)』)。
8)前掲『35年史(稿)』。なお,石原合名会社,石原産業海運合資会社,株式会社石原産業公司,南国木材株式会社『石原事業概要』(昭和5年9月)によれば,運河桟橋完成により積込能力増大を実現するとともに,「雨期水量に増減あるとも積込能力に何等の影響を及ぼさざることになれり」と。
9)「聞きとり」による。なお,河口外約3カイリ沖合に碇泊する本船までの浮輸送も潮時を見はからって行う。鉱石積取本船には約1.5屯の荷役籠により沖荷役された。当初は荷役も小規模であったが最盛期の1日荷役能力は約2千ないし2千5百屯,曳船は15~100馬力型15隻,艀は80~120屯積60隻を使用したという〔前掲『35年史(稿)』〕。
10)このようなグロリーホール方式,エンドレス運搬等を活用した効率的採掘・運搬作業は当時注目されるところであり,日本の技術者が欧州からの帰途などによく立ち寄って見学した,という(「聞きとり」)。なお,昭和3年から7年にかけてマレー半島その他を放浪した金子光晴の紀行文にも当時のスリメダン鉄山の状態が記されている(金子光晴『マレー蘭印紀行』初版昭和15年,昭和53年出版中央公論社文庫版92~107ページ)。
11)「聞きとり」。
12)ケママン(マチャンスタウン)鉱山については,雨期(12月から3月)中の本船積込がほぼ不可能であったこと,山元からスンガイピナンまで4~7マイル(6~11キロメートル)の軽便鉄道による運搬を必要としたこと,などにおいてスリメダン鉄山より不利であったが,他の採掘・運搬事情はほぼ同様であり,規模はスリメダンに比してはるかに小さいことでもあるので,詳細は省略する(前掲『創業20年史』46ページ,前掲『創業35年を回顧して』48ページ)。なお,詳しくは,「トレンガヌケママンマンガン鉱視察報告書」(『大正13年南洋鉱業公司関係』所収),合資会社南洋鉱業公司「南洋鉱業公司ケママン報告書」(大正14年4月13日),「馬来半島マチャンスタウン鉄山満俺鉱」,「トレンガヌ鉱山状況報告書(8月末現在)」(以上『大正14年南洋鉱業公司関係』所収)参照。
13)「開きとり」。南洋鉱業公司創業1年後の「使用人」については次のように記されている。「日本人社員36名,支那人約550名重ニ採鉱ニ従事シ馬来人約5百名主トシテ陸上運搬ノ業ニ当リ印度人約二百名重ニ艀船ノ運搬ヲ司ル」(前掲在新嘉坡総領事「合
資会社南洋鉱業公司ノ事業」)。
14)石原関係事業とは第9表脚註の通りであるが,それらの相互関係については後述の通りである。
15)「聞きとり」。前掲『35年史(稿)』でも,このような人種別・職種別編成による労働者統轄について,「各人種の性質と特技に従い,あまねく人種の差別なくその運用よろしきを得たので人種間の軋轢もなく平和裡に事業は遂行された」と指摘している。ただし,日中戦争勃発直後には中国人苦力による罷業・総退山という事態が発生し,会社側はインド人苦力などと交替させるも採掘事業に支障をきたす(石原産業海運株式会社『第8期営業報告書』昭和12年下期,をも参照)。この頃から英領マレーにおける労働問題は民族問題と関連して複雑化していく(今村成男「南方の鉄鉱資源」,鉄鋼連盟『調査月報』第22号,昭和15年10月)。
16)「聞きとり」。
17)「聞きとり」。前掲市村「馬来半島鉄鉱に就いて」(大正11年[ヽヽヽヽ]6月)において,当時[ヽヽ]における[ヽヽヽヽ]スリメダン鉄山の中国人苦力の賃銀は1人1日1ドル30~50セント(海峡ドル)であり,これは朝鮮鉄山の朝鮮人労働者に比して高いことはもちろんのこと,トレンガヌ州ケママン地方の錫鉱山苦力の80セントないし1ドル30セントに比しても高価であると記されている。ところが,この労賃事情について,南洋協会編『南洋鉱産資源』(昭和15年)247ページ,大谷前掲『マライの経済資源』(昭和18年)326ページなどにおいては,典拠が何ら明らかにされることなく,出版当時の[ヽヽヽヽヽ]労賃事情であるかのごとく記されている。この部分のみでなく,この二著(とくに後者)のマレー鉄山関係の記述は,前掲市村論文や前掲『南方諸地域の鉄鉱』などの引きうつし部分が多いので利用には注意を要する。
 なお,前掲『東洋方面主要鉄鉱調』(175ページ)においては「労銀は従来約1弗(邦貨換算約1円20銭)なりしが,大正14年以来護謨相場暴騰の影響を蒙り同15年以降約2弗乃至1弗80仙を支払へり」とされている。
18)「聞きとり」。もっとも日中戦争勃発後の事態は異なる。注15)参照。
19)前掲市村「馬来半島鉄鉱に就て」では,1人当りの相対的高賃銀が採鉱費の膨張をもたらすとしているが,トン当り採鉱費・運搬費は,本文記述のごとく,低下せしめられたものと推察される。
20)船価等の詳細は明らかでないが,当時船価はかなり安く,大戦中1トン当り新造費1千円を要したものが,船令10年前後の7・8千トン級船でトン当り70円程度の相場であった,という(前掲『創業20年史』20ページ)。実際には7千トン級3隻を104万円で購入したのだから,トン当り船価は約50円という計算となる。
21)合資会社南洋鉱業公司「大正14年度事業予定並経常費予算表説明書」(前掲『大正14年南洋鉱業公司関係」)。同資料によれば,当時の運賃はトン当り5.35円とし,利益を計上したらその4分の1を南洋鉱業側が取得するが,損失を生じた時は全額を町田商会が負担する取り決めとなっている。なお,「鉱石自家輸送」を目的とした預金部借入金をもって購入した船舶をこのような形で他社と合して運営し,しかも,鉱石運送専用に使用する契約となっていなかったことは大蔵省側との間に若干のトラブルを生じたようである。
22)「聞きとり」および前掲『35年史(稿)』。
23)合資会社南洋鉱業公司『昭和3年度事業予定並収支予算書』(前掲『自大正15年至昭和4年南洋鉱業公司関係書類』所収)によれば,昭和3年度の石炭輸送計画は三池・シンガポール間が1万5千トン(運賃トン当り3.00円),大連・マニラ間が6万トン(運賃3・20円)となっている。また,「昭和2年度事業予定並収支予算書」の附属書類(同上所収)においては,直航を原則としつつも「船繰ノ都合ニヨリ現場重船ヲ来ス事アリ斯カル場合配船ヲ伸縮スルタメ並ニ採算有利ノ場合等ニ往航石炭運送ヲ為ス」として,両者の経費比較を行っている。
24)前掲『創業35年を回顧して』74・75ページ。前掲『石原事業概要』によれば,1930(昭和5)年時点において石原産業海運名儀[ヽヽ]の船舶は3隻(21,965トン)のみであり,他の10隻(81,668トン)は石原合名名儀であり,合計13隻(103,363トン)を所有していることになっている。なお,前掲『創業20年史』折込付表には所有船舶の推移が示されているが,そのトン数は著しく過少であり(例えば昭和5年13隻65,575トン,7年15隻77,026トン),ここでは採用しない。
25)南洋倉庫株式会社というのは台湾総督と台銀頭取の主唱により日本人と華僑との合弁会社として1919(大正8)年に台北に設立されたものであるが,広東,サイゴン,シンガポール,バダビヤ等の主要都市に倉庫を設け,同時に華南銀行を設立して地方金融の途をひらいていたが,すでに大正末期以降業績不振に陥っていた。石原広一郎は,この会社の更生依頼を,台銀に対する負債を肩代わりする形で引き受け,1930(昭和5)年以降最高顧問としてその経営に携わっている。前掲『創業20年史』25―27ページ。
26)その後,結局,1935(昭和10)年6月に至り,ジャワ運賃同盟は解消し,日本側関係会社4社はジャワ航路並びにその営業一切を1社に糾合し,南洋海運株式会社を創立する。しかし,石原は,通商擁護法即時発動などを主張するも容れられず,袂をわかち,翌36年4月南洋航路株式会社を設立する(日本海運株式会社の前身)。以上,前掲『創業20年史』25~31ページ,83~96ページ,前掲『創業35年を回顧して』70~86ページおよび前掲『35年史(稿)』。

Ⅴ 営業成績

 南洋鉱業(石原産業海運)の鉱石・輸送状況は上述のごとくであったから,鉱石のトン当り生産費も次第に低下したと考えられるが,資料的に確認することは容易ではない。第13表はスリメダン鉄鉱石のトン当り生産費を一覧表として示すために作成したものである。出所資料が様々であり,支出予定(予算)の場合もあるので,細かい比較には注意を要するが,大勢を見ることは出来るであろう。
 あらかじめ注意しておく必要があるのは,鉄鉱石の製鉄所渡し契約単価が安定的に推移していることである。先に見たごとく,戦後恐慌直後に下落した鉱石納入価格は以後昭和恐慌時点までは11円前後とほぼ一定である。したがって,この間のスリメダン鉄鉱石の採算は,トン当り生産費をどれだけ低下し得るかにかかっていた。
第13表 スリメダン鉄鉱石原価計算一覧表
ここにも,官営製鉄所という鉱石の安定的供給先を確保し得た南洋鉱業(石原産業海運)の利点がうかがわれる。
 さて,まず,大雑把に言って,大正未までの鉱石生産費は11円前後であり,製鉄所渡し契約単価とほぼ同値であるので,まだあまり「利益」は生じていない。しかし,やや細かく言えば,大正13年に生産費が契約単価を若干下まわり,14・15年は出所資料によって異なるとはいえ,大体契約単価に見合う状態にはなっていると言えよう1)。
 ところで,大正末までの鉱石生産費11円前後の約半分は運賃部分である。したがって,運賃低下のもつ意味が大きいのだが,大正末まではトン当り運賃の低下は殆ど見られず,本表では,昭和3・4年に大きく低下していることが明らかとなる。このことは前掲第11表とも符合する(第11表によると5・6年はさらに急低下)。
 昭和3・4年においては,運賃部分のみでなく,「小計」部分(採掘から本船積込までのいわゆる「現場経費」のほかに,営業費,利子,保険料などの諸経費一切も鉱石トン当りとして計上)も急低下を示した結果として,生産費合計も大幅に切り下げられ,契約単価との差額は一挙に拡大し,大きな「利益」を生ぜしめたことが推察されうる(ただし,昭和4年下期は「営業部経常費」の資料を欠いているためその部分が計上されていないことに注意)。昭和3・4年「小計」部分は大正12~14年に比べれば採掘費,輸送費,輸出税2)ともに大きく低下しているのだが,3年から4年にかけて,採掘費が激減していることが注目される。これは,昭和2年から4年にかけて採掘量が急増していったことと照応していると言えよう3)。もちろん,採掘量の急増のみならず,先に見たごとく,採掘・運搬行程の合理化が進められ,採掘から本船積込まで「流れ作業」的労働が行われたことも反映しているのであろう。昭和4年下半期のトン当り採掘費0.638海峡ドル(円換算0.727円)は生産費全体のわずか1割強(10.6%)を占めるに過ぎない状態にまで低下せしめられたのである(輸送費も全体の13%を占めるに過ぎない)4)。かくして,スリメダン鉄鉱石の採掘は,昭和3・4年頃には完全に採算がとれるのみならず,一大利益を生ぜしめるに至ったと言えよう5)。
 なお,昭和10年頃の数値も参考までに掲出したが,スリメダン鉄鉱石の採鉱費は上昇しつつも,輸送費が大幅に低下しており,「小計」分は同時期のマレー鉄鉱石生産費の最小推計値をも下まわっていることが注目される。
 次に,南洋鉱業公司(石原産業海運)の営業成績を全体的に検討しておこう(第14表および第15表参照)。
 まず,創業当初の営業成績は決して良好と言える状態ではなく,大正13年上期までは2期を除いて全て欠損を計上している。資金操も,資本金はわずか10万円であり,借入金依存率が極めて高い。つまり,この時点では,資金的には前述のごとき台銀借入金75万円により辛うじて経営を維持していたと言える6)。
 ところが,大正13年の預金部資金借入(250万円)の頃からやや様相を異にしてくる。すなわち,同年下期以降毎期利益金を計上し,とくに,昭和2年下期以降の利益率は74%,86%,105%という高利益率を示す。ここには鉱石採掘・運搬並びに自家輸送が円滑に進展したことが反映していると言える。しかし,当該時期の資本金自体はまだ25万円であり,利益金額自体はさほど高額ではなく,利益率105%の高率を示した昭和3年下期でも13万円余であった。試みに資本金に借入金を加えたいわば総資本額に対する利益率を計算すれば,昭和3年下期においても9.5%である。この点からも政府借入金の果たした役割の大なることがうかがい知れよう。
 もっとも,この時期の借入金が全て政府借入金というわけではない。前述のごとく,預金部資金借入により創業時の合銀借入金は一括返済されるが,翌年(大正14年)に再び台銀自己資金20万円の借入を行っている。これは,ケママン(マチャンスタウン)鉱山設備完成のために,一時的に資金不足を生じたことによるものである。
第14表 南洋鉱業公司(石原産業海運)累計業績
なお,この台銀20万円借入要請に対し,官営製鉄所としても,同鉱山のマンガン鉱増量を期待して,その要請を支持している7)。
 この台銀20万円借入により,南洋鉱業の借入金は合計270万円となるが,その後の借入金の趨勢は減少の一途を辿る。つまり,南洋鉱業は,この間預金部借入金を確実に返済しているのである。
第15表 南洋鉱業公司(石原産業海運)累年資本及び運転資金
 大正14年より昭和3年に至る各年度の「事業予定並ニ収支予算書」8)を見ても,事業の確実な進展ぶりが看取されるが,ここで注目されるのは,南洋鉱業の場合,第16表に示すごとく,各年度収支予定の中に借入金償還とその「資源」に関する計画をも折り込んだうえで,確実に剰余を生ずる「収支予算書」が作成されていることであり,実際にも,少くとも政府(預金部)借入金に関する限りは,所定期日に所定金額が償還されていることが資料的に確認される9)。
第16表 南洋鉱業公司収支予算並びに借入金償還とその資源
 ところで,前掲第14表および第15表は概括的数値であるので,より詳しい経理・決算関係資料が欲しいところであるが,一貫した資料は見当らない。大正14年上期
より昭和2年下期に至る3ヶ年の貸借対照表は第17表に示す通りである。これと第14表および第15表とはいくつかの点でくいちがいが生じている。例えば,利益金は大正15年下期および昭和2年上期の数値が大きく異なり,借入金は第17表の方が全体として高目であるだけでなく,大正15年下期には一時的に増大している。
第17表 南洋鉱業公司貸借対照表
また,第17表によると、積立金は大正15年下期より計上されている。
 第18表は,昭和3年上期および4年下期の2期分だけであるが,鉱山部,船舶部および営業部の各部ごとの業務損益計算書の収支のみを一覧表として示したものである(4年下期は営業部の資料を欠く)。本表によれば,昭和3年上期における鉱山部の損益は約3万海峡ドル(円換算約3万7千円)の損失となっている(とくにケママン・マンガン鉱の欠損が大)。もっとも,本表の鉱山部収入(経常費予算総額)というのは,「予算単価」に「実際現場積出量」を乗じたものであり,他方,支出(経常費決算総額)は実際の単価に「実際現場積出量」を乗じたものである。船舶部の収入も「予算単価」(トン当り運賃)に「実際運送掲高」を乗じたものであり,支出は各種目ごとの決算額である。したがって,本表の収支を第14表または第16表と直接比較することは出来ない。むしろ,本表の収支は,各部ごとに当初予期した(あるいは配分した)予算額に比して決算額がどれだけであったかを示すものと言って良いであろう。
 なお,本表によれば,船舶部の収支規模は鉱山部の収支規模を上まわっていることが注目される。鉱山部についてはケママンよりバトパハの方がはるかに大きく,同表付表に明らかなごとく,鉱石トン当り生産費もバトパハ(スリメダン鉄鉱石)の方がはるかに低い。ケママン(マチャンスタウン)の場合は,運搬費(貨車輸送分)が加わり,輸送費(艀輸送分)も高く,さらに営業費が高くついた結果,それだけ生産費を高めている。採掘費については両者ほぼ同等であり,ともに生産費全体に占める比率は極めて低い。バトパハ(スリメダン)の採掘費が3年上期から4年下期にかけて急低下し,それだけトン当り生産費全体の低下をもたらしたことは先に見た通りである。
 さて,再び第14表および15表に戻り,昭和4年以降8年までの営業成績を見ておこう。4年8月,南洋鉱業公司は資本金を一挙に6倍の1,500万円に増資し,商号を石原産業海運合資会社に変更する。そして,先に見たごとく,7・8千トン級の船舶を相次いで買収・保有し,鉱石自家輸送を飛躍的に拡大し,トン当り輸送費を大きく低下せしめる。その結果,利益金は4年上期以降18万6千円,20万円,31万1千円と増大する。利益率も6倍増資にもかかわらず27%から42%という高率を示す。ところが,6年下期以降利益率は急減し,7年下期には18万1千円の欠損を生じている。この一つの要因は,先にも見たごとく,石原産業海運が新たにジャワ航路開設に踏み切り,従来からの定期運航業者と激甚な競争戦(運賃引き下げによる貨物争奪戦)を展開したことにある。
第18表 南洋鉱業公司(石原産業海運)業務損益表
第18表・付表 鉱山部経常費決算総額内訳
6年上期以降7年下期に至る4期間,ジャワ航路による莫大な損失を鉱石による利益でカバーせんとしたが,7年下期においてはカバーし切れなかったものと言えよう10)。しかし,8年には再び業績を回復し,上期55%,下期31%の高利益率を実現する。この間の借入金の趨勢は8年上期まで一貫した減少傾向を示す。つまり,石原産業海運は引き続き政府(預金部)借入金の返済を順調に行っているのであり,資料的にいまだ確証は得られないが,8年度末(9年3月未)には全額返済しているもののようである(最終償還期限は昭和14年度末であるから期限前6年に完済したことになる)11)。
 なお,石原産業海運合資会社時代については,一部資料を欠くものの,『決算報告書』が残されている。そのうちの貸借対照表,損益計算表,利益金処分表を一覧表として示したものが第19表(a)(b)である。本表の数値は第14表および第15表と一部合致するが異なるところもあり,本表(a)は第17表とは接続するものと考えられる。しかし,本表の検討に入る前に,あらかじめ会社組織上の問題について留意すき事実を指摘しておく。
 先に述べたごとく,石原産業海運合資会社は昭和4年8月に商号変更されたものであるが,これに先立ち,同年6月には京都に本社を置く石原産業合資会社(資本金20万円)が設立されている。この会社は,南洋鉱業公司(石原産業海運)が船舶保有を拡大するにあたり,買収船籍の関係から(「日本内地置籍船所有の為」)設立されたもので,翌5年7月石原合名会社と組織並びに商号変更するとともに,資本金を250万円に増資している。同年9月編纂の『石原事業概要』によれば,石原産業海運の保有船舶は従来からの3隻分(221,965トン)であるのに対し,石原合名は新規購入船舶10隻(81,668トン)を擁している。石原産業海運は,この両者合計13隻(103,363トン)の船舶を社船とし,さらに,定期傭船(4隻,32,678トン)および臨時傭船を加えて一括運営する,という形になっている12)。
 さらに,石原産業海運の経理・決算関係資料を検討するに当り注意しておくべきことは,同社とシンガポールの石原産業公司との関係である。石原産業公司は,海峡植民地法にもとづき,大正14年8月に設立され,南洋鉱業公司設立以前からの石原三兄弟の事業である石原洋行を引き継ぎつつ,さらに「南洋に於ける合資会社南洋鉱業公司既設事業の一切を継承」したものである(昭和5年9月株式会社石原産業公司と組織並びに商号変更が行われ,資本金150万海峡ドルに増額)13)。つまり,シンガポールの石原産業公司がジョホール州スリメダン鉄山,トレンガヌ州マチャンスタウン鉄山等の鉱山採掘事業に従事し(本船積込までを担当),本船積込以降の鉱石輸送ならびに販売については石原産業海運合資会社が担当する,という分業体制がとられている。
第19表(a) 石原産業海運合資会社・貸借対照表
第19表(b) 石原産業海運合資会社・損益計算表および利益金処分表
しかし,これは会社組織上の区別であって,石原合名会社,石原産業海運合資会社,株式会社石原産業公司(シンガポール)の三社は,社長はいずれも石原広一郎であり,実質的には石原一族の同族会社として一体のものであることは言うまでもない14)。
 以上のことを前提にして第19表(a)(b)を検討しておく。まず,当該時期の石原産業海運は,鉱石自家輸送を大幅に拡大し,本格的に海運業に進出するにもかかわらず,「資産之部」の船舶がむしろ減少傾向を示しているのは,前記のごとく,新規購入船舶は全て石原合名会社名儀となっているからであり,旧来からの保有船舶の償却分だけ減少しているわけである。鉱区についても減少しているが,これも当初からのスリメダンとマチャンスタウンについては石原産業海運名儀であるが,その後試採掘権を獲得したものについては,海外は株式会社石原産業公司,国内は石原合名会社名儀となっていることによるものであろう15)。
 借入金の推移は前掲第15表の数値と全く同一であり,一貫した減少傾向を示す。その内実を「財産目録」によって検討すると本表計上分は全て政府借入金である。したがって,ここでも,石原産業海運は預金部借入金を年々確実に返済したことが確認される。
 次に利益金の推移を見ると,第18期(昭和4年上期)および第20期(5年上期)については第14表の数値と同様の高い利益金を計上しているが,以後の数値は異なっているばかりでなく,23期(6年下期)から25期(7年下期)にかけて3期連続欠損を生じている。この食い違いが何に起因するのかは定かではない。ここでは第19表の利益金の推移を収支内訳の趨勢を見ながら検討することにとどめておく。
 本表の「鉱石販売代金」は殆ど全て官営製鉄所に対する販売代金総額であり,「鉱石買受代金」は株式会社石原産業公司(シンガポール)に対する支払代金総額である16)。「運賃及保険料」は「運賃」が「社外船ニヨル鉱石運賃」であり「保険料」が「鉱石輸送中ノ保険料」である(船舶保険料は「船体費」中に計上)17)。今仮りにこの「鉱石販売代金」,「鉱石買受代金」,「運賃及保険料」の三費目により鉱石関係収支の趨勢を見ると(「船体費」以下の費目も鉱石輸送に関係しているが便宜上除く),22期(昭和6年上期)以降急速に縮小していることがわかる。これは何よりも,先に見たごとく,官営製鉄所に対する昭和恐慌後の鉱石契約数量の激減並びに契約単価の低下にもとづく販売代金の大幅減少によるところが大である。他方,貨物運賃等の海運関係収入は,この間の海運業への進出を反映して増大しており,「船体費」,「航漕費」,「荷客費」,「借船料」は全体として増大傾向にあると言うものの,海運関係収入の伸び程ではない。これらを仮に海運関係収支とすれば,もちろん欠損ではあるが,欠損廟が縮小していることになる。当該時期の石原合名会社並びに株式会社石原産業公司の経理・決算関係資料が見当らないので18),これ以上厳密な検討は不可能であるが,少くとも本表から見る限りは,昭和6・7年の利益金減少,欠損計上という変動要因としては,製鉄所納入鉱石代金の激減が大きいと言える(海運関係収支のマイナスはいわば構造的要因である)。
 ともあれ,石原産業海運は,前述のごとく昭和8年には再び業績を回復して高利益率を実現するのであり,9年3月には,株式会社組織に変更され,資本金240万円の石原産業海運株式会社となる。株式会社への改組後の事業拡張は,国内事業にも進出し―紀州鉱山銅・硫化鉱その他鉱山の経営および四日市工場の建設―,国外にあっては旧来からの鉄,マンガン以外にボーキサイト,錫鉱山(地域的には英領マレーのほか,フィリピン,ジャワ,海南島など)と多角経営を展開し,資本金も5百万円(9年下期),2千万円(12年上期)と急増していく19)。

1)大正14年予算において,生産費が上昇しているのは新たに償却費0.4円を見込んでいるからであり,これを差し引けばやはり生産費の方が下まわる。大正14・15年の生産費11.10円は石原広一郎自身は当時の鉱石市価を11.30円と対比して,0.20円の「利益」が生じる,として示したものである(前掲石原「我製鉄原料鉄鉱供給の将来は憂慮の要なし」)。ハトパパ鉱務所経費の大正14・15年の数値(10.25円および10.29円)が契約単価を下まわるのは当然であろうが,これに本店およびシンガポール支店営業費を加えた数値も契約単価を下まわることに注意しておきたい。
2)トン当り輸出税は大正11年の70セントから昭和3・4年の42・43セントへと低下しているが,それでも「小計」部分に占める比率は2割弱と比較的大である。採掘量・積出量は急増しているので,この間のジョホール州政府の財政収入はそれだけ増大する。昭和4・5年頃について言えば,ジョホール州財政収入総額約400万ドル中スリメダン鉄山の納税年額は約40万ドルと1割を占める(トレンガヌ州のケママン鉱山の納税は州財政の7%,いずれも前掲『石原事業概要』による)。州政府が石原の事業を積極的に支援したのも故なしとしない。
3)昭和3年度上半期の「実際現場積出量」は358,831トンであるのに対し,4年度下半期のそれは480,022トンと急増している(各年度『鉱山部業務損益表』)。なお,前掲第8表の製鉄所への納付数量の趨勢も参照されたい。
4)なお,前掲『南方諸地域の鉄鉱』第1部(89ページ)では,本表の〔参考2〕で示した数値等を掲げた上で次のように述べている。「採掘費が原価中に占める割合は極めて低く,高々1割内外にすぎない。減価償却費及び営業費の割合も採掘費のそれを多少超える程度のもので,以上三費目の合計が原価の約4分の1を占めている状態である。蓄し南洋の鉄鉱業は総て簡便容易な露天掘を採用しているので,南洋鉄鉱の生産費は坑道掘の場合に比較して設備費,材料等は少額で足り,更に安価な労務費と相まってその採掘諸費用が極めて低廉なのである。」と。次いで,山元・積出港間の「輸送費が,多い場合には総原価の3割に及ぶ事例が認められる。遠距牡の海上輸送費に比較して近距離の貨車・艀輸送費が如何に高価であるかは周知である。」と指摘しているが,スリメダン鉄鉱石の場合には,鉄道輸送を必要とせず,山元から本船積込までが「流れ作業」的に行われた結果として輸送費の割合は低下せしめられていたのである(昭和4年下期で全体の13%であり,10年にはさらに低下)。
5)前掲『創業35年を回顧して』(166・167ページ)では,大正13年頃のトン当り価格が八幡渡しで11.5円であったのに対し,運賃4.5円,「現場経費」は僅かに4円であったのですでに3円の「利益」が上り,昭和4年頃には運賃は4月以下,「現場経費」は3円に低下せしめたので「利益」は一層増大したというが,あまりに概括的数値にすぎるだけでなく,とくに大正13年頃の「利益」は過大である(前掲拙稿「官営八幡製鉄所による鉄鉱石の〝安定的″確保策」でもこれに依拠して述べたが,ここで訂正しておく)。
6)前掲『創業35年を回顧して』(165ページ)でも,この時期の苦しい資金操について,「資金の不足分は,鉄鉱船荷証券の割引に求めるほか,運賃支払には約束手形をあて,更に手形の無期延期をはかるなど,相当無理な金融で急場々々をしのいできた」,と記している。
7)「鉱石代積立金7万3千円解放及台湾銀行新規20万円貸出ニ関スル件」大正14年7月20日(前掲『大正14年南洋鉱行公司関係』所収)。同資料によれば,南洋鉱業公司は,この台銀借入金要請とあわせて,台銀の元に留保されていた超過積立の解放(南洋鉱業への交付)をも願い出ているが,これは鉄鉱石採掘・納入が順調に進んでいることを根拠に行われたものであることに注意しておきたい。
8)大正14年以降昭和3年に至る各年度「事業予定並収支予算書」または「事業予定並経常費予算書」(前掲『大正14年南洋鉱業公司関係』および『自大正15年至昭和4年南洋鉱業公司関係書類』所収)。なお,「昭和4年度事業予定書」は収支予定の詳細な数値を記載しない簡単なものとなっている。
9)石原広一郎より中井製鉄所長官宛「政府借入金報告ノ件」昭和2年6月15日および3年8月1日附。また,南洋鉱業公司より製鉄所宛文書昭和4年5月4日附,6月18日附および12月20日附(すべて前掲『自大正15年至昭和4年南洋鉱業公司関係書類』所収)。
 なお,南洋鉱業公司は,昭和2年4月には,借入金返済のための積立金(台湾銀行のもとで保留,鉄鉱石トン当り1.30円,マンガン鉱石2.50円)について,返済に不足を生ずる懸念あるときは,製鉄所の認定によりいつでも積立金を増率する旨を自ら台銀に申し出ている(昭和2年4月20日附南洋鉱業公司より台湾銀行宛書類,『自大正15年至昭和4年南洋鉱業公司関係書類』所収)。これは金融恐慌による台銀休業時のことであるが,南洋鉱業側の自信のほどがうかがわれる(漢冶萍,裕繁と大きく異なる)。
10)前掲『創業20年史』131ページ。
11)前掲『創業35年を回顧して』167ページでは預金部資金の完済を期限前8年の昭和6年としており,前掲拙稿「官営八幡製鉄所による〝安定的″確保策」でもこれに従ったが,前掲拙稿「同・補遺」で示したごとく(第10表),石原産業海運の預金部資金残存額は昭和7年度末までは示されており,8年度末(9年3月末)に初めてゼロとなる。前掲『台湾銀行史』421ページでも預金部資金完済時を昭和9年3月20日としている。しかし,前掲『創業20年史』132ページでは9年3月決算の政府借入金は90万円(他方で銀行預金200万円)としているし,第15表の8年下期末の借入金は130万円を示している。もし,8年度末(9年3月末)に預金部借入金を全額返済したとすれば,返済額以上の資金を借り換えたことになる。
12)前掲『石原事業概要』参照。なお,南洋鉱業公司が大正13年に船舶を購入する際も,輸入船の船籍の関係から大連に石原合資会社(資本金10万円)が設立されているが(前掲『創業35年を回顧して』165ページ),昭和5年時点ではそれらの船舶3隻は全て石原産業海運合資会社名義となっている。
13)前掲『石原事業概要』。なお,前掲『創業35年を回顧して』165ページをも参照。しかし,同書によると,シンガポールの石原産業公司創設時(明記していないが大正13年の預金部資金借入時の頃)の資本金を300万海峡ドルとしているが,これは明らかに過大である。
14)昭和5年時点の石原関係事業は,このほかに「南洋木材ノ輸入並販売」事業を行う南国木材株式会社(本社大阪,資本金10万円)がある(前掲『石原事業概要』)。
15)前掲『石原事業概要』参照。
16)前掲『創業35年を回顧して』166ページによれば,石原産業海運合資会社と石原産業公司(シンガポール)との関係は,前者が後者から鉱石1トン当り50銭の手数料をとって鉱石輸送と販売業務を担当するものとしているが,本表の数値からはそうした関係はくみとれない。また,同書および前掲『石原事業概要』の記述からは,両者の関係は石原産業公司(シンガポール)設立時から一貫しているかのごとくに受け取れる。しかし,少くとも経理・決算関係の処理のしかたは,後者の株式会社改組(昭和5年9月)前後で異なっているようである。昭和3・4年時点においては第18表のごとき「業務損益表」が残されているし,第19表(b)脚註に示すごとく,昭和5年上期までは,石原産業海運の側で採鉱費等が計上されている。なお,18期(4年上期)の『決算報告書』(民政署提出分)の表示のしかたは「鉱石買受代金」という表示である。あるいは,この期のみならず,二通りの決算書類が作成されていたのかもしれない。とすれば,第19者と第15表の利益金が20期(5年上期)まで一致し,その後食い違っている理由も推察され得る。また,第17表および第19表には積立金が早くから計上されているのに対し,第15表には6年上期以降しか計上されていないことも気になるが,ここでは前掲『創業35年を回顧して』166ページにおいて「鉱石1トンごとに50銭の簿外預金積立」が行われていたという指摘を想起しておくにとどめる。
17)石原産業海運合資会社『台湾銀行(大蔵省)提出決算報告書』(自昭和5年9月至昭和8年9月)。
18)石原合名会社については,改組前の石原産業合資会社『第1回決算報告書』〔自昭和4年6月1日(創業)至昭和5年3月31日〕のみ存在する。それによれば,当時の船舶保有は4隻,代価16万6千円で資産額16万8千円の大部分を占め,収支では,貸船料11万9千円が収入額12万円の殆ど全部であり,利子5万1千円などを差し引き6万5千円の利益となっている。
19) 前掲『創業20年史』132~134ページおよび折込附表。なお,当該時期の経理・決算関係資料は,前掲『35年史(稿)』に整理されたものがあり,『営業報告書』も昭和12年以降については見ることが出来る。しかし,経営多角化を進めているので,それらから英領マレーにおける鉄山事業の分析を行うことは困難である。ただし,シンガポールの石原産業公司の経理・決算関係資料として『新嘉坡会計報告書』,『新嘉坡総括報告書』(昭和9年から15年の各期)が残されている。本来であればその分析も行わなければならないところであるが,これは数値関係のみの尨大な資料であり,他方,当該時期については鉄山事業の記述資料に乏しく,すでに紙幅も大幅に超過していることであるので,残念ながら割愛せざるを得ない。

結び

 以上見たごとく,南洋鉱業公司(石原産業海運)は1920年代後半(大正末・昭和初期)以降経営的にも極めて順調な発展を示す。確かに,創業当初においては,台湾銀行融資に依存し,台銀頭取.製鉄所長官の支援を受け,さらに,大蔵省預金部資金の借入をも受ける等の形で,国家的援助が得られたことの意義は絶大である。南洋鉱業による英領マレー・ジョホール(スリメダン)鉄鉱石の開発は,中国鉄鉱石確保の不安定性増大傾向のもとで,新たな「鉄源」確保を模索していた官営製鉄所の「製鉄国策」と合致したのであり,そのことにより,南洋鉱業は発展の緒についたものと言えよう。
 しかし,南洋鉱業による鉄山開発事業が経営的に成功した要因は,かかる国家的援助のみによるものではない。すでに見たごとく,鉄鉱床自体の有利さもさることながら,採掘・運搬方式の改善,とくに山元から本船積込までの「流れ作業」により鉱石トン当り生産費を低廉ならしめたことは特筆さるべきであろうし,また,英領マレーの植民地的労働条件を前提としているとは言え,現地労働者の労務統轄(人種別・職種別分担配置と請負制)が成功裡に行われたことも重要であろう。さらに,鉱石自家輸送方式の採用と拡大は,鉱石の低廉且つ安定輸送に貢献するところ大であった。この鉱石自家輸送とそれを基礎とした海運業進出という事例は,第二次大戦後の鉱石輸送状況(鉱石専用船などによる大量輸送)をも考える時,極めて注目されるものである。
 南洋鉱業(石原産業海運)は,国家的援助を基礎としつつも,鉱石増産(採掘・運搬方式の改善)と自家輸送の拡大により経営発展の軌道に乗り,高利益率を実現するとともに,政府(預金部)借入金を着実に返済していく。このことは,中国の漢冶萍・裕繁両公司の事態と比較した時,正に対照的である。先に,政府資金の融資形態のみについて言えば,中国の場合もマレーの場合もほぼ同様であると述べた。政府(大蔵省及び官営製鉄所)側から見れば,両者に対する融資形態は一種の融資買鉱方式であろう。しかも,すでに述べたごとく,ともに鉱石代金による借款元利の優先払という返済形態をとっている。しかし,融資される企業は,一方は中国資本であり,他方は日本資本である。漢冶萍公司の場合,技術顧問と会計顧問が日本から派遣され,日本の金融的支配下に入っていたが,日本側は旧来からの腐敗した経営を立て直すことは出来ず,また,民族運動の昂揚を背景とした中国側の抵抗(「接管」問題等)に直面している。それに対し,南洋鉱業の場合は,石原一族が正に徒手空拳で設立し,鉄山開発を初発から行ったものであり,政府融資は受けたものの,一般的な資金貸借関係以上の支配従属関係は存在しない。したがって,結果的に見れば,資源確保のために日本資本が現地に企業を設立し,国内に資源を供給するという資源の開発輸入方式に近似していると言えよう(この場合は資源開発企業の経営内容が直接的な形で問われる)。しかし,融資買鉱方式であれ,開発輸入方式であれ,現地の諸条件との関係が問題となることは言うまでもない。その意味では,南洋鉱業(石原産業海運)に、よるマレー鉄鉱石の開発は,全く初発からの開発事業として行われ,英領下であっても英本国の掣肘を受けず,州政府との関係も友好的であったことがあらためて注目される。戦前日本の「資源確保型」帝国主義の展開過程においては,一般的には資源掠奪的傾向が濃厚であるが(「漢冶萍公司借款」関係の進展が漢冶萍公司による銑鉄生産を不可能とした事態を想起せよ),南洋鉱業(石原産業海運)によるマレー鉄鉱石の開発は,少くとも1930年代半ば頃までは,それとは異なる数少い事例と言えるであろう。1930年代末以降の日本帝国主義のいわゆる「大東亜共栄圏」構想にもとづく掠奪的「南方開発」は,石原産業等の資源開発を先駆として展開されるものの,その開発パターンは大きく変質してしまったものではなかろうか1)。
 さて,最後に,マレー鉄鉱石の輸入増大にともない,納入先の八幡製鉄所の生産技術の変容がもたらされるという事態を指摘して本稿を終えることとしよう。
 八幡製鉄所の受入鉱石の主役が中国からマレーに交替するということは,ただ単に国別輸入高や供給者が異なることを意味するだけではない。それぞれの鉄鉱石の品位が異なることにより,鉄鉱石製練技術上のちがいをももたらすはずである。
 第20表に昭和2年度における八幡製鉄所受入鉱石の主なるものの分析表を掲げる。それによれば,ジョホール(スリメダン)鉄鉱石は鉄分64%強と最高値を示しているだけでなく,珪酸が非常に少く,精錬に有害な硫黄分,鋼分も少いという点で極めて優良な鉱石である。ただし,燐分が他の鉄鉱石に比して高い。大冶鉄鉱石は優良鉱石だと言われるが,銅分が購入範囲制限値を越えており,燐分は他鉱石に比すれば低い方の部類だが標準含有率を越え,硫黄分もかなり高い,という点などを見ると,少くともこの時点ではあまり優良鉱石とは言えない。桃冲鉄鉱石は,硫黄,燐,銅が少いという点では優れているが,珪酸が非常に高く,鉄分が低目である。朝鮮産の鉄鉱石は,いずれも珪酸が高く,安岳は硫黄分も購入範囲制限を越える。
 以上のごとき品位の相違を前提として,中国鉄鉱石に代わってマレー鉄鉱石が主座の地位を占めるという事態を考える時,八幡製鉄所における酸性転炉法の衰退傾向が納得的に理解される。すなわち,八幡製鉄所における製出銑鉄は従来から酸性転炉(ベッセマー転炉)用としては燐分が高過ぎたため,転炉と平炉(塩基性)の合併法を採用するなどの措置を講じていたが,1927(昭和2)年11月未に至り,ついに転炉は作業休止となる。その第1の理由は高炉原料鉱石中の燐分が著しく増加したため製出銑鉄が酸性転炉用として不適当となったことにある2)。だが,このことは,マレー・ジョホール(スリメダン)鉱石増大は酸性転炉操業を不可能としたという消極面を規定しているだけではない。むしろ逆に,珪酸分が非常に少いジョホール鉱石を使用することにより,塩基性平炉用に最適な低珪素銑の製造が可能となる(この場合は燐分は多少高くても差しつかえない)。塩基性平炉製鋼用の低珪素銑需要増大傾向に対応して低珪素銑製造技術の確立が要請されつつも,わが国製鉄業全体としては,その技術は容易に確立され得ない中にあって,八幡においてはともかくも1924(大正13)年頃に確立したと言われるが3),かかる製鉄技術確立,製銑・製鋼方法変更をもたらした一つの要因はマレー・ジョホール鉱石の納入と増大にある,と言っても過言ではないだろう4)。
第20表 八幡製鉄所受入鉄鉱石分析表
第20表・付表 八幡製鉄所購入規格要点


1)石原広一郎自身が戦時下における日本軍部の「南方開発」に批判的になっていくという指摘はその意味でも注目される(清水元前掲「石原広一郎における〝南進″の論理と心理」)。
2)前掲『八幡製鉄所50年誌』92~94ページ。その他の理由としては,転炉製鋼は精錬歩留,製品鋼質の点で平炉鋼に劣ったこと,屑鉄より銑鉄原価が高くついたこと,が記されている。
3)堀切善雄「日本鉄鋼業における銑・鋼生産の変則的生産構造の形成とその技術的要因」(『社会経済史学』第42巻第2号,1976年)62ページ。同「大正期の鉄鋼生産構造における銑鉄生産部門の存在形態」(『土地制度史学』投稿原稿,第86号掲載)も参照。
4)スリメダン鉄鉱石の品質についての次の指摘にも注目:「硫黄分少キモ燐分稍々多キニ失スル欠点ガアルガ珪酸分少キタメ,低珪素銑製出高炉原料及ビ平炉装入鉱トシテ理想的良鉱デアル」(前掲『南方諸地域の鉄鉱』第2部,7ページ)。ズングンについても同様(同書15ページ)。
 〔付記〕本稿作成のための資料収集に際しては,石原産業株式会社石原健三社長,浅田一繁顧問,宮本照一社史編纂室副部長,木原健爾東京本社秘書部副部長および旧重役諸氏(東候卓三,田島健,故松川一夫,寺田隼太,安田正,緒方正三郎)の御厚意にあづかった。とくに,宮本氏はじめ社史編纂室の皆様には多大の御世話をいただき,兼備,田島,故松川の諸氏からは非常に有益なお話をうかがうことが出来た。末尾ながら記して深甚の謝意を表します。