交通・運輸

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鉄道技術の自立と規格化の進行

著者名: 原田勝正
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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 目 次
Ⅰ 技術自立の指標・・・・・・・・・・3
Ⅱ 技術自立の背景(1)・・・・・・・・・・6
Ⅲ 技術自立の背景(2)・・・・・・・・・・9
Ⅳ 規格化の進行・・・・・・・・・・13
Ⅴ まとめ・・・・・・・・・・19

 1890年代から1900年代にかけて,日本の鉄道はめざましい発展をとげた,1892年と1907年とについていくつかの要素を比較してみるとつぎのようになる
 営業キロは約2.5倍となり,とくに貨物輸送力が9.5倍に増加していることが目につく。すなわちこの時期は,1894-95年の日清戦争,1904-05年の日露戦争をふくみ,この間に,紡績部門を中心とする産業革命が進行し,それがさらに製鉄,製鋼部門を基軸とする重工業への転換を開始した時期にあたっている。このような資本主義経済体制の急速な発展が,鉄道の発達をうながし,また鉄道の発達が資本主義の発展を促進したと考えられるのである。 
 経済体制と鉄道との相関的な発達のありかたが,ここでは読み取られるのである。日本の鉄道は,この時期に陸上交通機関の「王座」を占めるにいたった。そして1906年には,「鉄道国有法」が公布され,幹線を構成していた私設鉄道17社は,1907年までにすべてが国有化され,いわゆる「国有鉄道」が成立することとなったのである。
 この鉄道国有化について述べることが本稿の主題ではない。ここでは,この間における技術の自立過程,とくにその完成期の状況を中心に,その発展過程を見ていくことにしたい。というのも,前に述べた経済的要請にこたえて輸送力を増大させるためには,技術の完全な自立が必要とされたからである。その意味で技術の自立過程を追うことは,輸送要請の側,すなわち資本主義体制と,これに対応する鉄道の側との相関的な関係を明らかにするための,基本的な視点に立つことになる。
 しかも,後にふれるようにこの輸送要請には経済的要因と軍事的要因という2つの要因が常に複合していた。そして技術の自立と同時に進行した規格化にも,このような複合がさまざまなかたちで影響をあたえていたのである。
 規格化の進行は,それと主体的に取り組むという点で,鉄道の建設,運営全般にわたってすすめられてきた技術の自立をさらに促進する動機をなす。そして,国内における重工業の発展とともに車兩,機械類の自給態勢を確立したとき,自立過程
は完了する。技術の自立と規格化には以上のような関係が展開するが,まず技術自立の指標と見られるものをいくつか列挙してみよう。

Ⅰ 技術自立の指標

 1880年代から1900年代にかけての技術自立の指標となるべき項目を,まず掲げてみることとしよう。そして,これらの技術の発展をうながした要因を次章IIで概観することとしたい。

 1 長大トンネルのへ挑戦
 日本列島は,その地形上の特色として山岳地帯の多いことで知られている。短い区間の,都市を中心にした鉄道の建設の段階では,ほとんど問題とならなかったが,当初からの目標であった東京・大阪・神戸間の幹線や本土横断線など中・長距離の線路を建設するとなると,当然山岳地帯を克服しなければならなくなった。山岳線の建設自体についてはつぎで述べるとして,ここではまずトンネル掘削の進歩についてふれておきたい。
 1880年に完成した大津・京都間の逢坂山トンネルは日本人が最初に掘削した鉄道トンネルであった。この後,長浜・敦賀間の柳ケ瀬トンネルは延長1352メートルで1885年に完成し,さらに横川,軽井沢間では延長546メートルのものを含む26個のトンネルを1893年に完成した。さらに,福島・米沢間では板谷峠越えのいくつかのトンネルを1899年に完成,これらの成果を集めたかたちで,八王子・甲府間のかなりの数にのぼる長大トンネルが掘削された。
 なかでも笹子・初鹿野間の笹子トンネルは延長4657メートル,1893年に着工してから1902年完成まで工期9年を要した。この間各トンネルではダイナマイトをはじめとする爆薬の使用や発電所建設による坑内の照明,ズリ運搬用機関車の運転などが実用化され,掘削の機械化がしだいにすすめられた。同じ時期に進行していた延長20キロのシンプロントンネルに比較すると,規模はまだ小さいといわなければならなかったが,長大トンネル掘削の技術はこの時期にほぼ確立し,1910年代初頭には,関門海峡海底トンネルの掘削の可能性も検討されるにいたったのである。

 2 山岳線の建設
 前に述べたように,1880年代以降に建設を計画された鉄道線路では,かなりの部分が山岳地帯を通過することとなっていた。平坦な地形に線路を建設するのと異なり,曲線,勾配など線路の規格は大きな制約を受け,また構造上にも築堤,切取などの大規模な土木工事を必要とした。さらにトンネル,橋梁など在来技術だけでは処理できない構造物の建設が必要となってきた。その意味で,土木技術の水準が問われることになったのである。
 1883年政府は,主として陸軍の要請にもとづいて東京・大阪・神戸間の建設を決定した。陸軍は太平洋岸を経由する東海道線を忌避し,中部山岳地帯を通る中山道線を採ることを主張した。これは敵軍が太平洋岸に上陸した場合を考慮した措置であった。この中山道線については,1870年代に雇英人技師長E.V.ボイル(Boyle)が実地踏査を完了していたので,これに従えば線路選定は比較的容易であった。
 しかし,海岸から100~150キロの間に標高1000メートルの高度に線路を上らせることは,相当の困難が予想された。そのため25/1000の連続急勾配と,スイッチ・バック停車場や馬蹄形曲線などを組合わせなければならなかった。それでも関東平野の西北端,標高386メートルの横川から碓氷峠を越えて標高924メートルの軽井沢に抜ける区間は11.1キロの間に約500メートルの高度を上らなければならず,多くの比較線が検討されたが,結局スイス,ドイツの登山鉄道で使用されているアプト式歯軌条を採角,66.7/1000の急勾配によることとなった。
 この工事には雇英人技師C.A.W.ポーナルが指導にあたったが,大小26個のトンネルや橋脚の長さが10メートルを越える橋梁などの設計と建設は,まったく日本人の手によって行なわれた。
1886年鉄道局長官井上勝の強硬な主張により,中山道幹線は東海道幹線に変更された。このため,碓氷峠越えをはじめとする山岳線は幹線から外された。しかし,この時期に到達した技術水準は,こののち官設,私設を問わず各線の建設において活用されていった。
日本鉄道会社の東京から青森までの線路(政府に工事を委託)や官設鉄道の中央線(八王子・名古屋間),同奥羽線(福島・秋田・青森間)など全国各地の山岳線は,1890年代以降,かなり困難な地形でもこれを克服できる態勢がととのっていった。しかも曲線でトンネルを避ける方式から長大トンネルで一気に山をつらぬくという進歩がこの間にみられることは前に述べたとおりである。

 3 蒸気機関車の試作
 1892年10月官設鉄道神戸工場では,神戸在勤の機関車監督官,R.F.トレヴィシック指導の下に1B1型タンク機関車の製作を開始した。この機関車は当時イギリスで採用されていた高低両圧の複式シリンダーをとり入れ,全長9652ミリ,運転整備重量40.7トンで,1893年5月26日に完成した。当時日本には近代的な製鉄工場がなかった。そのため台枠板,低圧ピストン,鋼鉄製の管類などはイギリスに注文したり,またはイギリス製品のストックを用いた。しかし鋳物製の高圧ピストンほかシリンダー,軸箱などの鋳物は神戸工場が製作した。トレヴィシックの報告(R.F.Trevithick:Locomotive Building in Japan,Proceedings Inst. ofMechanical Engineers,1895)によると,職長級の外国人が1人もいなかった神戸工場で,日本人技師と労働者の手で製作した点に意義があるとされている。
 こののち,北海道炭礦鉄道が1895年に,山陽鉄道が1896年に各1両の機関車を試作,1901年から汽車製造合資会社が製作を開始した。そして1911年7月関税自主権が確立し,政府が機械類の輸入関税を引上げたのを契機として機関車の輸入は一部の例外を除いて杜絶した。もちろんこの間北九州八幡の官営製鉄所が操業を開始し,前記の汽車会社をはじめ,日本車兩,川崎造船所,三菱神戸造船所などが機関車製作を開始したという条件の変化がそこにはあったのである。

 4 列車計画,運転技術の自立

 日本の鉄道関係者にはひとつの伝説がある。初期のころ列車計画は雇英人W.F.ペイジ(Page)が立てていて,その方法を誰にも教えなかった。彼は1874年以降運輸長として,列車計画,運転の事務を統轄していた。彼の計画の立て方は,一室にこもって誰も寄せつけずに仕事をし,運転時刻を表にまとめて一同に見せるという方法であった。しかもこの表によると,安全,確実な列車運転ができる。なぜ,どのようにしてこのことが可能なのかは誰にも理解できなかった。しかも彼は自室へ入ることも許さなかった。
 ところがあるときペイジが自室に鍵をかけずに外出した。そこへ偶然通り合わせた日本人職員のひとりが,ふと「ペイジ先生の秘密」が知りたいという気を起こした。机の抽出にも鍵はかかっていなかった。その職員は,抽出にしまいこまれている列車ダイヤを発見した。「秘密」はわかった。考えてみれは簡単な操作であった。縦軸に距離,横軸に時刻をとって,その上で列車の運行を考えればよい。
 現在国鉄の史料に残されているダイヤの最古のものは1890年代後期のものである。「秘密」が日本人に知れたのがいつかは不明であるが,1890年代前半かなかばごろではなかろうか。ペイジは1900年3月に辞職,そのとき勅任官待遇(各省の局長クラス)で月俸720円(内閣総理大臣の月俸800円)勲3等瑞宝章を贈られていた。
 この「伝説」がどこまで真実を伝えているかは不明である。一般に雇外国人は技術の提供に熱心で,これを秘匿するということはまれであった。ペイジだけがダイヤの技術を秘匿したというのもあやしい。
 しかし,日本人による列車計画作成は1890年代半ばごろになってようやく自立したとみてよいようである。このころから信号,保安まで含めた運転技術の自立が達成されたとみてよいであろう。

II 技術自立の背景(1)

 上にみたように,1910年代初頭の時期までに,日本の鉄道における技術の自立は,蒸気機関車の完全な国産化を最後として達成されたとみてよい。(もちろん,これには例外がないではない。こののち50キログラムレール,3シリンダー式蒸気機関車,各種電気機関車などの導入にさいして,1920年なかばまで製品の輸入が行われた。しかし,この多くは量産態勢の確立を前提とした試作品としての輸入であった。)
 このような技術の自立を促進した要素をどのような点に求めるかは興味深い問題である。技術の進歩は,その社会的背景を明らかにしなければ,その秘密を解明したことにはならないであろう。とくに日本のようにいわゆる列強よりおくれて出発した資本主義国家にあっては,列強との「落差」を縮小し,いわば「追いつき追い越せ」という目標をあらゆる面で国家的目標として掲げなければならなかった。
 そこでは,単なる産業革命にもとづく要請だけがはたらいたのではなかった。そのような経済的要請だけでなく,軍事的要請が,重要な,ある場合には経済的要請よりも決定的な作用をもたらす要請としてはたらいていたのである。
 このような観点から輸送要請の増大をもたらした要因について,まず第1に経済的,第2に軍事的要因をみることとしよう。

 1 産業革命と商品流通の拡大
 最初にかかげたように,1892年から1907年にいたる16年間に年間旅客輸送人員は,約2846万人から1億4232万人へ,5倍の増加をみせた。年間貨物輸近トン数にいたっては,272万トンから2591万トンヘ9.5倍の増加である。貨物の増加率が旅客の増加率の2倍近くとなっていることは注目に値する。貨物輸送量の増加,これこそ産業革命の進行が鉄道にもたらした影響を,物語っているということである。
 たとえば1890年代以降,産業革命の中軸ともいえる地位を築いた綿糸紡績部門では,工場数,原料需要量,綿糸生産量は,この時期において,つぎのように変化している
 この場合原料は輸入に比重を移しており,これらの輸入原棉は,紡績工場が,多くは海岸の港湾に近いところに立地しているため,鉄道便によるものは少なかった。しかし,製品については,国内市場むけはもちろん,輸出品も,取引の敏速を要求されるためか鉄道便によるものが多く,1908年における原棉輸送量は9万7982トン,綿糸輸送量は11万493トンとなっていた。
 鉄道の果たす役割は,当時の主要輸出品であった生糸の場合決定的ともいえるほどであった。繭,生糸の主要産地は,長野県,岐阜県,福島県,山形県など山岳地帯に分散しており,港湾や国内市場への搬出には,道路や鉄道に対する依存度は絶対的であった。しかも,繭,生産の市場における価格の変動は極めて大きく,これに対応するためには敏速な輸送手段を必要とした。
 例を長野県諏訪地方にとると,1893年に東京・上田間の鉄道が碓氷峠の開通によって直通すると,諏訪から中山道を大屋・上田に搬出することとし,従来の甲州街道による輸送に比してはるかに短時間で横浜に輸送することが可能となった。しかし,同地方の製糸業者は,甲州街道沿いに八王子にいたる鉄道,すなわち中央線の速成をたびたび請願,1904年日露戦争開始にともない国内各線の建設が停滞したときも,戦費獲得の輸出産業奨励という大義名分をふりかざして早期建設を要請し,1905年ついにこの地方まで中央線の開通を実現させることに成功した。
 同地方における生糸生産量は鉄道の開通によってかなりの伸びを示し,1905年の68万6220キログラムは,1910年には140万8496キログラムにまで増加したのである。
 最後に石炭についてみることにする。石炭の生産量は1893年に34万2098トンであったが,1903年には1008万8312トンとなり,1908年には1482万4580トンと急増した。これらの石炭産地は北海道の空知,夕張,福島県の磐城,北九州の筑豊や長崎,佐賀県の各地に分布しており,炭鉱から搬出港まで,また大都市付近の港湾から石炭を使用する工場,企業までは鉄道が輸送を分担する方式がとられた。
 北海道の最初の鉄道(幌内・手宮間)や,日本鉄道磐城線(現、国鉄常磐線)はいずれも石炭輸送を主要な目的とする線路であり,筑豊炭田地帯には,1900年代にかけて,大都市付近と同様の稠密な線路網が形成されていった。
 鉄道が1年間に輸送する石炭の量は優に1000万一1500万トンに達し,全貨物輸送量の40-50%に達するほどになっていったのである。それは産業革命の進行を象徴する様相を示していたといってよいであろう。

2 軍事輸送の要請
 以上のような経済的要因に加えて,軍事的要因を無視することはできない。この期間には,前にも述べたように,1894-95年の日清戦争と,1904-05年の日露戦争というふたつの大きな対外戦争を経験した。そして,国内における出港地にむかう兵力の輸送には,鉄道が大きな役割を果たすこととなったのである。
 鉄道の幹線は,日清戦争開始の直前に,山陽鉄道会社の線路(現,国鉄山陽本線)が広島まで開通し,青森・広島間の縦貫幹線が開業していた。すなわち,青森・東京間は日本鉄道会社,東京・神戸間は官設鉄道,神戸・広島間は山陽鉄道と,3つの企業にわかれてはいたが,線路,車両の規格は基本的に統一されていたために,列車の直通運転は可能であった。
 鉄道に対する軍部の要請については,のちにまとめて述べることとするが,このような直通運転方式によって,兵力の能率的な輸送態勢をとることができたのである。
 軍部は,東京の外郭線をなしていた日本鉄道山手線の新宿から青山練兵場(現,神宮外苑)へ引込線をつくり,ここを兵力輸送の中継基地とした。当時上野・東京間の直通線がなかったため,このような措置がとられたのである。さらに,山手線と東海道線との接続駅品川や,東海道線の横浜では,従来スイッチ・バックの方式がとられていたが,陸軍は品川については大崎・大井町間,横浜については神奈川・程ケ谷間にそれぞれ直通線を応急的に建設し,スイッチ・バックによる時間のロスを省く方法を講じた。
 とくに後者は,戦後この直通線が本線としての性格をもつこととなり,従来の横浜は支線の駅となっていく。
 日清戦争の輸送実績は不明であるが,能率的な輸送態勢によって出港地である広島に大量の兵力を短期間に集中させることができたことは確かであった。
 一方日露戦争については,官設鉄道における輸送実績が記録されているので,まずそれをみよう。
 鉄道作業局運輸部『明治37-8年戦役軍時輸送報告』から作成。
 帰還輸送は復員兵力全体にわたってはいない。
 列車走行キロはマイルをkmに換算した。
 のべ出動兵力l00万人という大規模な対外戦争の軍事輸送であり,しかも兵力の動員は開戦時をふくめ,大会戦の直前に集中的に実施された。このため,一般列車の間を縫って輸送するという方式はとても不可能であり,戦時中に適用するための軍用列車を主体とする列車ダイヤを2種類つくった。ひとつは普通運行表で,一般列車を主体としておき,他のひとつは,軍用列車を主体とする特別運行表で,東海道線の場合,等時隔,等速度で1日上下各14本の軍用列車が運転できるようにした。
 この軍事輸送は,緊急時における大量輸送の要請に対して鉄道が十分に対応できる弾力性と柔軟性を持っていることを証明した。しかも当時官設鉄道と私設鉄道とが複雑に入り組んでいた国内の鉄道網を考えると,このような輸送態勢が可能とされたことは驚異に値する。(このときの経験から日本の鉄道は1906年以降列車ダイヤ作成に際しては,まず軍用列車のスジを引くことからはじめてダイヤを完成し,必要なときは一般列車の運行を変更することなしに軍用列車をいつでも運転できるようにした。)
 そこで,以上のような大量,敏速な輸送態勢を可能にした条件を,いくつか挙げてみることにしよう。
III 技術自立の背景(2)

 以上述べてきたような輸送要請の増大が,技術の最初的な自立を促がす基盤を形成したことはいうまでもない。要するに,そこではそれらの要因が大量かつ敏速な輸送の態勢を早急に整えなければならないという要請として作用したのである。
 もともと,大量,高速輸送は,鉄道が輸送手段として本来もって生れた特性であったといえよう。このような特性が,産業革命の進行とともに鉄道を生み,また鉄道の発達が産業革命の進行を促進するという,産業革命と鉄道との相互連関を形成したのである。
 しかし,日本の場合,鉄道は産業革命によって生みだされたのではなく,中央集権的国家体制の確立という政治的要請によって生み出された。最初の動機がそのような点にあったことから,その後における日本の鉄道の発展には,このような性格が長く定着して,日本における鉄道の特質をつよく規定したのである。
 技術の自立完成にあたって,軍事的要請がつよく作用したというのも,こうした特質を反映しているとみなければならないであろう。そして,技術の自立は,同時に技術の統一,さらに規格化という要請をはらんでいったのである。以下,このような統一ないしは規格化をもたらした要素について見ていきたい。そのうえで,このような規格化の進行の実態を次章で扱っておこうと考える。

 1 私設鉄道に対する統制の必要

 日本における鉄道創業のさい,政府が「官設官営」の方針をとったことは周知の事実である。これは郵便,電信,電話などの通信手段についても同様であった。交通,通信手段を政府みずからの手で建設,運営することは,中央集権体制強化という目的からして必要不可欠の方法と考えられたのである。電信にいたっては,官用,軍用を優先し,「余裕ある場合に限って民間の利用に供する」という原則を初期には立てていたほどであった。
 私設鉄道を計画することは,このような政策からみても,資金の面からみてもとても実現の可能性はあり得ないものとして,いわば考慮の外におかれていた。しかし,東京・横浜間や大阪・神戸間の鉄道建設に予想外の資金を要し,さらにその後の線路の延長は,当時の財政状態からみておよそ不可能という状態となると,民間の資金を集めて鉄道を建設すべしとする意見が出てきた。
 関西地方では商業資本,江戸時代以来の富豪である三井家や鴻池家,島田家などを中心に政府が指導して鉄道会社をつくらせようとした。関西鉄道会社とよばれる。また東京では華族が中心となって,華族組合をつくり,これが京浜間の鉄道の払下げをうけて運営しようかという計画ももちあがった。
 前者は実現しなかった。後者も,このときには実現しなかったが,1881年華族や士族から資金を集めて日本鉄道会社を創立するところまで漕ぎつけた。当時華族,士族は,江戸時代以来受けていた俸禄を打ち切られ,退職金というべき公債証書を交付されて,なんらかの職業を持つことを要求された。ところが西南戦争(1877)にともなうインフレーションによって,一片の公債証書はあたらしい職業のための資金にも,また職業を得るまでの生業資金にも足りなくなった。
 そのため,宮内省の華族監督長官ともいうべき督部長であった岩倉具視が,華族組合以来の組織を活かして,鉄道会社の創立を薦めたのである。すなわち第十五国立銀行に公債証書を預けさせ,この公債証書を引当てに政府が資金援助を行ない,銀行出資を中心に鉄道会社を創立させるという方式であった。
 こうして政府は,いわば例外措置として私設鉄道会社の創立を認めた。この日本鉄道会社は,その名の示すとおり,日本全国に鉄道を建設するという目標を立てたが,さしあたり政府が計画している中山道幹線の東端,東京・高崎間と,さらに東京・青森間の建設を実施することとした。
 この場合,政府は建設工事をみずから実施し,用地買収は地方官庁が行ない,さらに会社に対しては利子補給をするという方針を立てた。要するに同社を資金提供企業としたのである。したがって購入資材も,施設,車両の規格も,すべて官設鉄道と同一の規格によっていた。
 この私設鉄道は,大方の予想に反して大きな利益を上げた。というのは,品川で東海道線と接続させたことにより,群馬県高崎,前橋に集中する同県や長野県産の横浜に積み出す生糸の輸送がそれまでの中山道や利根川による輸送からほとんど鉄道に転移したからである。しかも,この1885-86年の時期に,日本では農民分解がおこり,労働力が都会に集中しはじめ,同時にあらたに紡績業を中心とする資本主義企業への資本投下が急速に開始された。
 ここから各地で私設鉄道を計画する人びとがあらわれたのである。その多くは政府による補助を期待したり,または株の売買だけを目的とした投機的なものであったが,それでも,山陽,九州,甲武(飯田町・八王子間),関西(名古屋・大阪間)など幹線を構成する鉄道会社の計画が実現した。
 そして,1889年には840キロメートルと官設鉄道の881キロにせまり,1890年には1357キロと官設鉄道の営業キロを大きく引きはなした。日本の鉄道はこのころからむしろ私設鉄道が主体となるほどの勢いを示したのである。
 ところが,これらの私設鉄道は,たとえば九州鉄道がドイツから技術者を招き,資材を購入するとか,また北海道の場合は幌内炭坑から小樽港に石炭を輸送する鉄道が,最初開拓使が鉄道を建設したとき,北海道開拓に深くかかわっていたアメリカ合衆国の技術を導入し,それが民間に払い下げられて北海道炭礦鉄道という私設鉄道会社の運営に移されてからも,米国式の鉄道として運営されていた。
 さらに官設鉄道でも,当時イギリスにかわって国際市場に進出しはじめていたドイツやアメリカ合衆国からレールその他の資材を購入するなど,英,独,米各国の技術,資材が導入されはじめたのである。
 これは,非常な不統一をもたらすおそれがあった。政府にとっては早急に私設鉄道に対する統制を強化する必要が生じてきたのである。

 2 鉄道政策における政府,軍部の主導性の確保
 政府の統制政策というより,むしろ軍部がまず積極的に発言した。創業当初鉄道建設に消極的であった軍部は,1877年の西南戦争に際して,京浜間の鉄道が,横浜から九州に海路輸送する軍隊の集中に大きな効果を挙げたことにあらためて注目した。そして1879年には,陸軍は鉄道の輸送力について詳細な調査を実施した。そのころ従来のフランス式軍制からドイツ式軍制の採用に転換しつつあった陸軍では,プロイセン・フランス戦争においてプロイセン軍部が兵力の敏速な移動に鉄道を活用した事実からも教訓を得たと考えられる。1881年日本鉄道会社創立の際同社に与えられた特許状(特許条約書)には「非常ノ事変兵乱ノ時二当テハ,会社ハ政府ノ命二応ジ政府二鉄道ヲ自由二使用セシムルノ義務アル者トス」(第24))と定められた。
 さらに1884年2月25日太政官達(工部卿宛)において「鉄道ノ布設変換ハ軍事ニ関係有之条,処分方詮議ノ為陸軍省へ協議可致」と,建設や改良工事にあたっては陸軍と協議すべきことが正式に決定された。前にもふれたように東京・大阪・神戸間の幹線の経路決定にあたって陸軍の長老山県有朋が強く中山道経由を主張したことも,これとかかわっている。こうして,陸軍は鉄道の建設,改良について強い発言権を確保した。1887年5月18日には私設鉄道条例が公布され,官設鉄道との規格の統一が法制化された。
 この年までに軍部は清国との戦争を決意し,本格的な戦争準備にはいっていた。その前年7月井上鉄道局長官の熱心な説得によって幹線の経由地点を東海道に変更することを認めたのも,すでに陸軍が「守り」の態勢から「攻め」の態勢に入ることを決定していたからとみてよいであろう。
 しかも,陸軍はさらに積極的に鉄道の軍事的利用の方法を構想したのである。1887年6月,私設鉄道条例公布の1ケ月後,当時の陸,海軍にわたる作戦中枢機関であった参謀本部は,本部長有栖川宮熾仁[たるひと]親王の名で建議書を作成し,この書類を井上鉄道局長官に諮問した。参謀本部は,鉄道の幹線の一部が海岸を経由しているのは危険であるから,さらに本州,九州の中央部を縦貫する幹線を建設すべきことを主張した。そして,この幹線は,従来の3フィート6インチ(1067ミリ)の軌間では軍隊の大量輸送に十分機能を発揮できないから4フィート81/2%インチ(1435ミリ)またはそれ以上の広軌を採用すべきこと,またこの幹線は全線を複線で建設すべきことなどを内容に盛りこんだ。
 井上長官は,このような改良工事には厖大な費用がかかるから,すぐには賛成できないと述べた。しかし井上自身も私設鉄道の発展にはつよい反対の立場をとっており,軍部のこのような計画には正面から反対の立場を主張したわけではなかった。
 その翌年1888年4月,参謀本部陸軍部は,『鉄道論』と題する論文をまとめ,鉄道の軍事的利用のための諸方策を列挙するとともに,鉄道のもつ軍事的機能について政府内外の認識を喚起しようとした。とくにそのなかで注目すべき点は,陸軍が鉄道政策全般にわたって干与する態勢をとるべしと主張したこと,幹線計画の決定,複線化の実現,既設停車場その他の設備の軍事目的にかなうような改造を主張したことなどである。
 これに対する反響については知ることができない。しかし,1890年以降毎年1回陸海軍の大演習が実施され,兵力輸送はその重要な一環として行われた。また砲車その他を貨車に積みおろしするときの便宜のため,プラットホームの高さを貨車の床面の高さと同一にし,ホームの両端は砲車その他の揚げおろしに便利なように傾斜面とするなどの工事が実施された。
 このような工事にも,軍部の意向が反映していたことは言うまでもないことである。
 そして,官設,私設を問わず,軌間の統一が,局地的な,たとえば路面軌道などを除いて実施され,客貨車などの基本的な規格の統一もなされたのである。それが法制化されたのは1900年代のこと,そこにいたるまでには,1892年の鉄道敷設法など,まだいくつかの迂余曲折があった。次章では,規格化完成にいたる過程をめぐっての問題を検討することにしたい。

IV 規格化の進行

 1892年6月21日鉄道敷設法が公布された。この法制は,政府が,将来建設を必要とする線路を予定線として指定し,このうちとくに緊急必要と認める9線を第1期予定線とし,これを12ケ年間に建設することとし,その資金は,特別会計によって支弁すること,また6000万円を限度として12ケ年間に公債募集することなどを定めた。また私設鉄道買収の権限を政府にあたえ,予定線路について私設鉄道が建設を出願した場合は議会の承認の下に許可することはあるが,政府の買収権限はもちろん保留することとなった。
 この法律は,鉄道政策についての政府の強い主導権を確立したものとして画期的であった。この2年前1890年に,最初の資本主義恐慌が到来し,私設鉄道経営者のなかには,鉄道の国有を要請する動きが起った。このような情勢をみた井上鉄道庁長官(鉄道局は1890年内閣から内務省に移り鉄道庁と改称した)は,1891年「鉄道政略に関する議」を内務大臣に上申,この際一挙に私設鉄道を国有化しようと試みた。
 このことが動機となって,この法律は制定された。政府内外には,このような国有化に賛意をあらわさない動きもあり,とくに議会では,各地方の利益を代表する議員たちが,必ずしも国有化に賛成しないという立場をとっていた。そこで,法制化された内容は,井上の最初の意図とは異なるものとなった。しかし,政府,軍部の主導権は,この法律によって確立した。とくにこの法律によって鉄道会議が設置されたが,鉄道政策について意思決定を行なうための内閣の最高諮問機関であるこの会議では,議長の椅子には参謀次長がすわることとされた。この会議には議会の代表や資本家代表も加えられた。しかし,軍部代表と政府官僚代表が多数を占めていて,これらのグループの発言権が優位性を保つようになっていたのである。
 こうして1892年を境として,私設鉄道に対する国家権力の統制は,法制上の裏づけを得ていくこととなった。本稿が最終的に意図する技術自立の完成と規格化の進行との関係は,このような条件のもとで,政府軍部の主導権把握によって展開していったのである。
 そこでこの章では3つの問題をとりあげてみようと思う。すなわち第1は,鉄道敷設法制定前後を中心とする時期における規格化の問題である。第2は1900年公布の鉄道営業法にもとづく規格化の問題である。この法制化によって規格化の法制的根拠は完成したとみてよい。第3は軌間変更の問題である。はるかのち1964年開業の東海道新幹線にいたるまで,軌間問題はながく日本の鉄道にとって重視され,議論がくりかえされてきた。この問題のおこりはこの時期にある。
以上のような点を通じて,技術の自立と規格化の進行とのかかわりを,通観してみようと思う。



 1 1890年代後半における技術水準

 とくに建設部門についてみると,曲線や勾配ないしは線路の構造などについては,これまでは個々の場合に応じて定めていたことが多かった。それは雇イギリス人技術者が持ちこんだ技術をそのまま施工したためともいえる。そのため線路の規格はもちろん,トンネルの断面や橋梁の強度などについて,かならずしも日本の風土的条件に適合しないという場合もあった。
 しかし,1886年幹線の経路が中山道から東海道に変更され,しかも500キロにも及ぶ区間を約3年の工期で仕上げなければならないという期間の制約が加わった。このとき井上鉄道局長官は,全区間をいくつかの工区に区分し,同時に工事を進行させるという方式をとった。この場合,各工区で線路の規格が一定していないと,開通後輸送力に格差が生じ,ある特定の区間で輸送力が落ちるおそれがある。そこで,最小曲線半径は20チェーン(約400メートル)とし,最急勾配は平地では10/1000,山岳地帯では25/1000とし,山岳地帯(この場合,国府津・御殿場間と大垣・柏原間,それにすでに建設されていた大津・京都間)では補助機関車を連結して,輸送力の低下を防ぐ措置をとった。また橋梁については,中部山岳地帯から太平洋に流れる富士川,安倍川,大井川,天竜川などに800~1000メートルの長大橋梁の架設が必要となったが,これには安倍川を除き規格化された200フィートダブルワーレントラスを使用することにより工事の進捗をはかった。また橋梁の負担力はそれまで機関車の軸荷重11トンであったものを,このころから14トンとすることとなり,規格化とともに輸送力の増大をはかった。
 トンネルの規格は,従来起拱線の幅を14フィート(4.3メートル)としていたがこれを15フィート((4.6メートル)とし,施工基面からの高さは15フィート6インチ(4.7メートル)から16フィート(4.9メートル)とされた。
 このような規格化によって東海道線の工事は短時間に能率を上げることができた。同時にこのような規格化によって構造物の保守は容易となり,また全線にわたって均斉のとれた輸送力を実現することができるようになったのである。
 この工事は,もちろん外国人の指導なしに実施された。当時すでに工部大学校やその後身である帝国大学工科大学(現,東京大学工学部)の卒業生のうち土木工学の基礎および応用技術を習得した者が,毎年何人か技術官として任用され,これらの人びとが各工区の責任ある地位について工事の指揮,運用にあたった。ここでは,初期のころ雇外国人技術者から経験を通じて習得してきた技術の基礎理論を通じて体系化し,したがってこれによって幅広い分野に応用させることが可能となっていったのである。
 そして,作業現場で直接工事にたずさわる現場技術者の場合にも,一定の理論的基礎にもとずく応用技術として習得させるという方式が生まれてきた。これは土木技術だけでなく,車両の運転や修理,保守にあたる人びとについてとくに顕著であった。彼らは基礎理論から応用技術にいたる広汎な分野について簡単にまとめられた教科書などによって速成の教育を受け,ただちに作業現場で応用できるようになっていったのである。
 このようにして,工区の責任者から直接担当技術者にいたるまで統一的な技術体系によって作業をすすめる態勢がととのえられ,その意味では「技術の規格化」が進行したとみることができるのである。
 さらにこのような統一は,官設鉄道や私設鉄道において共通の基準に立つことになった。それは前に述べたように政府,軍部の要請があったためでもあるが,帝国大学工科大学のような養成機関や教育内容の統一,また同じ技術者がいくつかの鉄道会社で建設を担当するという慣習によってもいた。こうして技術の自立と規格化とは同時に進行することとなった。

 2 鉄道営業法にもとづく規格の法制化

 1890年代には,工事の促進,輸送力の向上といった要請から規格化がすすめられ,官設鉄道においては,土工定規(1893年),鉄道局隧道定規(1894年),建築定規(1898年),停車場定規(1900年)などの法制化が実現した。しかし,私設鉄道について統一的な規格を法的根拠によって規制するという措置は,この段階ではとられていなかった。
 しかし,この間政府は官設,私設を問わず,国内の鉄道について,最低限の規格を定めるための予備調査が実施されていた。そして1900年3月16日鉄道営業法,私設鉄道法を公布し,その第1条で「鉄道ノ建設,車両器具ノ構造及運転ハ命令ヲ以テ定ムル規定ニヨルヘシ」とした。これは規格を法律によって定めるとすると急速に進歩する技術からみて十分な対応ができない。そこで,政府がみずからの手で改廃できる命令形式をとるという趣旨によるものであった。従来私設鉄道については私設鉄道条例がその基準を定めてきたが,このとき私設鉄道法に改正され、同法は規格,基準については直接規制を行わず,鉄道営業法にもとづく諸規程が官設,私設の両鉄道にわたって規制するということにしたのである。
 同年8月10日鉄道建設規程,鉄道運転規程,鉄道信号規程,鉄道運輸規程,鉄道統計規程などが定められ,同年10月1日鉄道営業法および私設鉄道法施行と同時に施行された。
 鉄道建設規程は,鉄道技監野村竜太郎がイギリスに赴いてモデルを求めたが適当なものが得られず,ベルリンで同地に滞在中の日本鉄道株式会社汽車課長田中正平(純正調オルガンの製作者としても知られる)の援助を得てドイツ鉄道の建設規程を参考にして作成したといわれる。この規程では軌間を3フィート6インチ(1067ミリ)とし,最急勾配25/1000(40/1000以上を禁止)最小曲線半径15チェーン(約300メートル),最小軌道負担力1両当り10トンとし,このほか軌条重量,道床厚,プラットホームの最小幅,停車場における本線有効長,軌道中心間隔,橋梁,トンネルの各規格を定め,さらにはじめて建築限界,車両限界を定め線路構造物と車両との関連を明らかにした。
 この規程の特徴は,ヨーロッパの鉄道の設計基準を参考にしながら,1067ミリ軌間と日本における輸送状況に見合った基準を理論的に再構成した点にあった。勾配,曲線,縦曲線,軌道中心間隔,軌道および橋梁の負担力,建築限界および車両限界はすべて計算的基礎をもったのであった。
 こうして建設基準は統一され,しかも日本独自の輸送要請に対応する技術水準を確立したのである。
 運転,信号,保安についても同様であった。運転最大速度,推進速度,転轍機付帯曲線,通過設備,入換設備,停車場,車両の整備・検査,車両の標記,列車の制動機数,貫通制動機の設備,列車編成,信号機およびその取扱,連動装置取扱などの原則がこれらの規程によってすべて統一されることとなった。
 これらの規格化によって官設,私設両鉄道における列車の直通は可能となり,とくに軍部の要請にこたえる態勢は完成した。そして各鉄道は,これらの規制のもとで,輸送力増大のための努力を重ねた。たとえば山陽鉄道が八本松・瀬野間に22.5/1000の勾配を設けた以外,全線の勾配を10/1000以下に抑えたこと,官設鉄道も前に述べたような東海道線の局地的な25/1000の連続勾配を解消するために,改良工事の計画を開始したこと,また官設鉄道がASCE(American Society of Civil Engineers)規格による60ポンドレールの採用を決定し,さらに東海道線など通過列車量の多い区間で75ポンドレールを採用するなど重軌条化の方向に踏み出したこと,日本鉄道が磐城炭輸送のために軸配置1D1(この軸配置では世界最初,Mikadotype)の大型機関車を採用したことなど,さまざまな分野で輸送力増強のための措置がとられたのである。


 3 広軌改築問題
 日本の鉄道が4フィート6インチ(1067ミリ)のいわゆる狭軌を採用したことは,鉄道のもつ輸送力を増強するうえで基本的な障害となった。そこから,国内の鉄道を国際標準軌間である4フィート81/2インチ(1435ミリ)またはそれ以上の広軌に改築すべしとする議論は1880年代の末から1910年代にかけて何回も繰りかえし主張された。そのなかで最初に広軌改築を主張したのは陸軍であった。
 前にふれた参謀本部陸軍部『鉄道論』では軍事上の理由から国際標準軌間の採用を強調していた。軍部とくに陸軍は,こののちも広軌改築を主張した。1893年には鉄道会議議員であった陸軍中将谷干城[たてき]が,これも軍事上の理由から広軌改築を主張した。
 日清戦争後,国内における資本主義の発展にともない,こんどは民間実業化のあいだから広軌改築の主張が表明され,1896年には,政府は鉄道管理官庁であった逓信省に軌制取調委員をおき,広軌,狭軌両軌間の経済的得失,改築のための方法や経費などを審議させた。この委員会においても,参謀本部はつよく広軌改築論を主張した。
 しかし,逓信省内では改築経費が大きいこと(総額約1億7300万円,当時の財政規模が年間約2億円,軍事費はそのうち40-50%)などから改築を断行しようとする機運が盛りあがっていなかった。そのため,1899年この委員会は廃止された。しかも当時ヨーロッパに派遣されて軍事輸送の調査にあたっていた陸軍少佐大沢界雄が帰国し,軍事輸送の機能を高めるためには,軌間の問題は主要な要素ではないという論文を発表した。大沢は,広軌改築よりも,狭軌のままで軍事輸送の機能を高めるための施設,車両の改築を行なうことによって十分に成果を挙げることができると述べた。このため参謀本部でも広軌改築論はしだいに弱まり,日露戦争を経過するまで広軌改築論は唱えられなかった。
 しかし,政府は,朝鮮で建設する鉄道については,国際標準軌間を採用した。ソウル・仁川間の京仁鉄道と,ソウル・釜山間の京釜鉄道とがそれで,このような鉄道建設の海外進出については,最後の「まとめ」でふれたいと考えるが,朝鮮で建設された最初の鉄道に,日本は国際標準軌間を採用したのである。
 これは,すでに建設がすすんでいた中国における軌間に合わせたものと考えることができる。日露戦争後ロシアからその利権を獲得した南満州鉄道について,ロシア経営当時の5フィート(1520ミリ)軌間から国際標準軌間に改築したのもそのためであった。ロシアが鉄道創業にあたって,ヨーロッパ諸国の軍隊の侵入を防ぐためにわざわざ広軌を採用し,これをシベリアから中国東北まで延長したのとは対照的な措置であった。
 「日本国内で実施できない技術をアジア大陸で実施する」という志向が,鉄道技術の場合にもあらわれていったのである。

V まとめ

 以上,資本主義体制確立期における日本の鉄道の技術自立の過程を概観してきた。そして同時に,この時期においてさまざまな面での規格化がいちじるしく進行したことを明らかにした。たしかに技術の自立は,創業以来鉄道関係者の努力目標であったし,それが創業30年にしてほぼその目標を達成したのである。その意味では大きな成功を収めたといわなければならない。
 そして同時に進行した規格化も,それを日本人がみずからの手で実現させたという点に重要な意味があった。創業当時,もっとも根本的な規格である軌間を「与えられ」てから,施設,車両の規格は,いわば「あなたまかせ」で導入された。そのため当初はさまざまな混乱が生れた。しかし,日本人はみずからの手でまず経験,知識により,つぎには理論的体系にもとづいて規格化をすすめた。それは技術の自立の進行と密接に結びついていた。
 その意味でも技術の自立と規格化とは同時進行性をもっていたのである。技術者たちの主体性が,それを可能にした。
しかし,以上述べてきたように,この規格化を促進し,最終的に仕上げる作業の中心には,常に軍部があり,政府があった。しかもこの権力機構は,近代国家の外装をととのえてはいたが,民衆の意志を反映させる機能をもつことは少ない機構であった。
 もともと規格化は,資本主義の経済的要請が求める一定の合理主義から出発する。それがいわば古典的近代国家における特質であった。もちろん明治国家も,政府の機構や軍隊の組織,軍備に徹底した合理主義を実現させていった。陸軍が日清戦争前に,日本独自の創案にかかる村田連発銃で歩兵の装備を統一し,しかも小銃弾もふくめてその全面国産化に成功したことは,技術自立と規格化との同時進行の典型とみることができる。このようにして合理主義の追求は軍隊においてもっとも重視されていたのである。しかし,このような合理主義は,当時おこりつつあった資本主義のあらたな要請とは無縁であったし,またそこにおこってきた資本主義体制も,いわば近代市民社会における民衆の権利意志と結びつくというよりも,大陸進出をはかる国家権力の意志とよりつよく結びついていたのである。
 ここにおいて,いわば「上からの」規格化というコースが成立した。本来資本主義体制における合理化,規格化には,そのような要素がつきまとうことはいうまでもない。しかし,明治国家の場合には,権力による規格化が,資本主義体制の求める規格化より先行し,しかも後者を誘導するような性格をもったのである。それは殖産興業政策以来の,権力主導型ともいえる規格化の典型であった。それが,この技術自立の完成期にあたって,ある明確な特性を描き出したと見ることはできないであろうか。
 そして,そのような特性が,鉄道の場合最終的に形をとってあらわれたのが,鉄道国有化ではなかったか。1906年に法制化され,翌年までに完全に実施されたこの国有化についてふれることは,本稿の目的ではない。このことは冒頭にも述べたし,またこれにふれる紙数もない。しか,日本鉄道,山陽鉄道,九州鉄道など日本国内における主要な幹線網を構成してきた17社の私設鉄道会社を国家が買収し,私設鉄道をごく局地的な地方線以外すべて認めないとする方針は,規格の最終的な統一をはかる国家権力の意志を反映するものではなかったであろうか。
 もちろん鉄道国有化の実現にはさまざまな目的がかかげられていた。前にもふれたように私設鉄道の経営者のなかには,景気の沈滞とともに国有化を要請するような安易な姿勢もあった。そして国有化の計画は,日清戦争後に1回具体化した。そして日露戦争の最中に,政府は戦後における日本の国際的国内的状況への展望を踏まえて,国有化の実現という方針をかためたのである。ここでは,私設鉄道の経営者の立場は問題ではなかった。
 そして,政府がかかげた国有化がもたらす効果3つのなかには,運輸の疏通,運賃の低減とならんで,設備の統一という1項が設けられていたのである。このことを述べた「鉄道国有ノ趣旨概要」では,この点について「現在各鉄道ニ属スル異式ノ車両及各種材料ノ統一ニ依リ,各線共通使用上ノ利便ヲ将来シ,将来運輸経営上便益ヲ得ルコト鮮少ナラズ」と述べられていた。
 このようにして,規格化は鉄道の国有化という政府主導の方策において,その重要な効果として期待されたのである。技術の自立と規格化の進行という最も根元的な努力目標は,以上のような要因によってよりつよく動機づけられ,仕上げられていった。そこにこの時期における日本の鉄道の基本的な特質を見ることができるのである。