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形成期のわが国自転車産業

著者名: 竹内常善
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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 目 次
序 章 課題と問題視角・・・・・・・・・・2
第1章 日露戦争期以前のわが国自転車産業・・・・・・・・・・4
 第1節 わが国への自転車の導入と定着・・・・・・・・・・4
 第2節 明治中期の生産者と新興商人の形成・・・・・・・・・・8
 第3節 明治中期における社会的分業の深化と社会的諸関係・・・・・・・・・・13
第2章 日露戦争期から第1次世界大戦期のわが国自転車産業・・・・・・・・・・23
 第1節 概 況・・・・・・・・・・23
 第2節 流通機構の整備と再編成・・・・・・・・・・27
 第3節 中小生産者の形成と社会的諸関係・・・・・・・・・・35
 第4節 大規模工場の形成と特徴・・・・・・・・・・45
 第5節 徒弟制度と雇傭関係・・・・・・・・・・53
終 章 結論と今後の課題・・・・・・・・・・58


序章 課題と問題視角

 本稿は明治期を中心としたわが国自転車産業の導入と定着過程に関する小報告である。わが国の自転車の生産と使用が本格化するのは第1次大戦期以降であり1),わが国中小工業部門の生産様式の典型ともいわれているアッセンブル方式が確立するのも、やはりその時期だとされている2)。その意味で,本稿は戦前期自転車産業分析のための基礎的作業にすぎない。
 ただ,よくいわれるように3),自転車が本来的にアッセンブル方式として発展したとか,生産者に対する問屋資本の支配力が一貫して見られるとかの指摘以前に,そうした形態であっても,そこに収斂する前史があったのではあるまいかという疑念がわいてくる。そうした前史の過程で何が継承され,何が捨象されたのかという関心が本稿作成の1つのモティーフになっている。多くの研究史で指摘されているように,輸入自転車の修理と,補修用部品生産から開始された生産活動が,第1次大戦後にアッセンブル方式として確立したとする見解はそれなりに説得的である。しかしすでに一定の成長過程にあったものが,諸々の制約条件をうけたために,生産者としての十分な発展を疎外され,ある中間的な水準に跼蹐してしまうことも考えられる。少くともこれまでの研究史では,そうした視角は準備されてこなかったように思われる4)。
 そこで本稿では第1次世界大戦期以前の時期に範囲を限定し,生産と流通の各々の担い手の形成過程と,その社会的特徴を多少とも明らかにすることに主眼をおきたい。それはまた,生産技術の受容と対応のあり方,生産過程と流通過程の各々の内部における社会的分業の形成,さらには個々の構成員相互の社会的諸関係のあり方と変遷,こうした諸点について検討を加えることでより具体化されるものと思われる。
 ところでわが国の機械金属加工部門は,明治期以降一貫して脆弱だと言われてきた領域である。そのことに関する説明原理も各様に与えられてきた。その1つの立場として,これを日本資本主義の「特殊性」から解明しようという立場があった。その内部にまた幾つかの流れが形成された。1つは農村の停滞性に規定された産業部門間の特異なアンバランスを中心に置いて見ようとするものである。これを仮りに再生産論的アプローチと呼ぶとすれば,第2のものは一貫生産型大規模工場制工業の未成立の状況に「特殊性」の本質を見るものであり,その中には一貫生産型大規模工場の成立に本来的資本主義の姿を求めようとする生産力説的アプローチに力点をおくものがある。また別に,商業資本の前期的支配力の残存度の強さと,そこから派生される旧時代的生産様式の広汎な存続の一つの典型として「特殊性」を見ようとする資本類型的アプローチもある。
 こうした流れとは全く別に,前者が「特殊性」として処理する問題を「帝国主義段階」における「後進性」のディメンジョンで把えようとする流れもある。概念構成の枠組を重視する点が特徴的であり,そこにこうした方法論を担う当事者の力点も置かれている。ただ残念なことに,こうした分析視角による特定産業研究がまだ少く,自転車産業についても殆ど言及されてはいない。さらに方法論的立場が明らかにされているにしても,個別産業分析の次元では「特殊性」と「後進性」の概念上の区分すら曖昧になっていることがある。
 また高度経済成長期以降は別の新しい方法論が抬頭してきている。それは初期点の低さにも拘らず,戦後に高成長の見られた点を何よりの根拠にして,それを可能ならしめた成長要因なり成長過程を時系列データを中心に整理証明しようというものである。そうしたものの中には現状に対する満足観を急上昇気味の数量カーブに代言させるだけの「分析」も少くない。ただその一部に,過去のデータを丁寧に定量化して処理し,その中に占める「伝統型産業」なり「前近代的経営」の比重の大きさに改めてスポットをあてる努力もなされはじめている。要するに,こうした産業部門の研究領域でも,一般的なわが国経済学の諸潮流がそれなりに投影されている。
 勿論現実の種々のアプローチはこうした種々の方法の複合の上に打ち出されており,近年特にその傾向は強い。極端に不自然な組合せすら認められる。しかし,当該産業部門に限った話ではないが,伝統的形態なり,旧時代的諸関係の残存を,そのまま日本資本主義の「特殊性」や「後進性」の根拠に援用してしまうだけの「分析」「検討」もまだ少くない。
 注意されなくてはならないことは,自転車産業のような移植部門では「伝統的形態」に均衡するにもそれなりの過程が必要だということだけではなくて,そこに至る以前にそれなりに対抗的諸潮流が形成されていたのではないかと思われることである。そうした歴史過程の中で採用選択されたものと,放棄されうち捨てられたものが明らかになることなしに,直接的生産者にとっての歴史認識はなされ難いだろうし,ある段階に対する歴史評価についてもコンセンサスの形成はとうてい望めないであろう。ただ残念ながら,当該部門の分析においてそうした課題を担うには,どうしても両大戦間の状況についての分析が不可欠である。それについては別稿を準備中であるが,この意味で,本稿は戦前期わが国自転車産業分析のための1つの前提条件を準備するものでしかない。
 また本稿自体についての限界や問題も多い,とりわけ自転車産業は金属素材,金属加工,工作機械などの周辺関連部門の水準は大きく規制されるものである。また再生産論的アプローチで指摘される「特殊性」を批判的に受けとめるためにも,そうした周辺領域に対する多少の分析努力は不可欠である。しかし筆者の限界もあり,そうした領域については殆ど触れられていない。とりわけ素材部門については手つかずの状態である。それらについては,別稿では可能な限り取りあげたいと考えている。


 1) 
 2) 例えば戦後の研究史のうち共同研究のもののみに限定してみても以下のものなどが指摘できる。
 揖西光速・岩尾裕純・小林義雄・伊東岱吉編『講座中小企業』1 有斐閣 昭和35年。
 大阪府商工経済研究会・大阪府立商工経済研究所『大阪における自転車産業の実態――流通編』同『大阪における自転車産業の実態――生産編』ともに昭和29年。
 3) 個人論文に限定しても,以下のものが指摘できる。
 子安浩「自転車製造業」『社会政策時報』175 号昭和8年。
 奥村忠雄「我が国最近の自転車工業」『社会政策時期』昭和14年7月号。
 村上太郎「堺の自転車」『経済評論』昭和29年2月号。
 竹内淳彦「日本における自転車工業の発展」『学芸地理』11号 昭和33年。
 相田利雄「一九二〇年代日本資本主義における中小零細工業の展開過程」(上)(下)『社会労働』第25巻3号 第26巻1号 昭和54年。
 4) 自転車産業振興協会『自転車の一世紀』昭和48年は,経済史的な分析に主眼がおかれたものではないが,そうした疑問を感じさせてくれるエピソードを沢山盛り込んでいる。

第1章 日露戦争期以前のわが国自転車産業

第1節 わが国への自転車の導入と定着
 初期のわが国自転車史については,なんとも曖昧なことが多い。例えば自転車がいつごろ伝えられたかについても実に多くの説がある1)。伝統的な社会の中に新商品が導入された場合の,諸々の文化的断層と,そこに惹起される社会史的,文化史的エピソードや悲喜劇についてはすでに『自転車の一世紀』ほかの好著がある2)。だから本節では明治の前半期を中心に,次期のわが国自転車産業発展の前史として,市場的条件と,生産ならびに流通の担い手達の社会的形成過程を見る。そしてそこに附随して見られる若干の特徴点にスポットを当てておくに止めたい。
 自転車は明治20年代前期までは多分に通俗的好奇心の対象であり,一時しのぎの娯楽物の域を出なかったようである3)。車輪を中心として木製部品が多く,ペダルは車輪に直結し,鉄製のものでも後輪の小さい「ダルマ型」などと呼ばれるものが多かったようである。自転車はまだ所有の対象としてではなく,「貸自転車」などの格好で普及したのであり,明治10年代に1000台を越えた東京府下自転車の殆どは「営業用」となっている4)。「貸自転車」は明治20年代初期までにほぼ全国の主要都市を流行廃り(はやりすたり)の波となって駆抜けていく。それら自転車の圧倒的部分は輸入品だったようである。
 こうした端緒的諸現象の中にも,それなりに見落すことができない諸事実を見てとることができる。
 その1つは,すでに明治初年の時点で日本人による「自転車製作」がなされていたことである。江戸末期の著名な職人の1人で「からくり儀右衛門5)」とも呼ばれていた田中久重はすでに江戸期に「萬年時計」に代表される時計類や,「雲流水」などの消火用放水装置の製作に成功し,その他にも果多しい機械,工具,工法の改良,発明を手懸けている。そうした彼の明治初年の「凡そ二十種に及ぶ」「工夫発明又は改良新案」の中に「自転車」も含まれている6)。
 また次のような記録もある。
 「明治四年に横浜の沼田という人が木枠の三輪車をつくり……翌五年二輪車を完成……つづいて三台つくり……その一台で東京まで乗り六時間かかったそうだ。この人は横浜市元町一丁目沼田敬次郎氏の父で日本人で自転車に乗った最初の人でキジロクロを発明,盛業し元町でも一,二の資産家になった……7)」
 貸自転車業が繁昌した明治10年代になると,各所で「木製自転車」の製造されたことが,当時の新聞に載り始めることになる8)。それらは「がたくり車」とか“bone-shaker”と呼ばれ,その名の通りのかなり手ひどい乗り心地のものであったが,それでも当時のわが国の「鍛治職人の工作能力で十分間にあった9)」と見ることもできるし,逆にわが国の職人社会のレベルがそうした新規製品に柔軟に対応できる程度にはなっていたと見ることも可能である。それについては後に改めて触れる。
 明治20年前後になると鉄製部品が中心のダルマ型の生産を手懸ける者も現われてくる。明治20年頃に東京の浅草三筋町にあった帝国自転車製作所がダルマ型の生産を行っていたとの記録があり10),さらに本稿末の付属資料「自転車創業者略年譜11)」の資料5にある梶野仁之助のように「工場制生産」に乗り出した事例もある。同工場は「最初は米国より材料をセットで仕入れ,臘付するに過ぎない全くの組立工場であったが,苦心の末,車輪,ハンドル等をはじめ自家生産ができるようになり」後に自身の銘柄車(金日本号,銀日本号)を売り出すまでになっている12)。
 そこで,これら草創期の生産者達を取巻く社会的諸関係を瞥見するために,田中久重の経歴について見ておきたい。それについては資料1を参照して頂きたいが,そこから解るように,江戸封建体制の「居住強制」下にありながら,彼がかなり自由に各地を移り,職人としても比較的容易に各地の職人社会に受け入れられていたことを窺知できる。さらに士農工商の身分秩序の下にありながら,教育の機会にも恵まれ,さらには士分に取りたてられてもいる。そればかりか,佐賀藩と久留米藩の二君に仕えることまで不可能ではなかったようである。
 こうした事情は,江戸時代末期の徳川封建体制の動揺をそれなりに反映しているとも感じさせる。因習と前例のみに頼っていては,もはや幕藩体制の維持が困難であったからこそ,彼も佐賀藩ほかの藩制改革や西洋技術導入策の中で登用され,幕府もそんな外様藩にまで汽鑵製造を要請しなければならなくなったのであろう13)。
 ただし,彼の経歴に見られる自由奔放な活躍がどの程度まで広汎に見られるかについては後に改めて検討を加えなければならない。彼自身は徳川末期から明治初期にかけての社会的変動期に登場した全く例外的な一天才人(ユニバーサルマン)であったからである。しかしともかくも,時代は一地方生れの一介の職人に対し,公家の邸宅で天文学を学ばせ,宮中からの宣旨によって多少の公的身分を付与させ,蘭学を学び,最下層とはいえ一応士分扱いで上海に渡航するまでの道を開かせるほどになっていたのである。
 こうした封建的身分秩序の変容が明治以降になると,全く時代を画するほど庶民の次元にまで拡大され加速されたものになったかどうかについては疑問が残る。それでも,梶野仁之助の事例もそれなりに注目に価する事実を伝えられている。徳川期の身分秩序の公的建前からすれば,商人層は職人層の下位に置かれていたのであるが,実質においては店親(たなおや)化していった商人層の力の方が強く14),商人が職人達を軽んずる傾向も根強く,商人の子弟が職人仕事に従事するケースは珍しかったようである15)。しかし天性の機械好きだった梶野仁之助には,そうした偏見もさしたる障害とは認識されなかった観がある16)。渡航してきた外国人の乗り回す自転車を見てその製造を決意する彼の発憤には,明治初期の中堅庶民の時代精神が感じられそうである。ともかくも彼らのそうした努力によってわが国自転車生産の端緒が形成されていったのである。
 ところで,こうした時期にすでに自転車を含めた交通手段に対する政策当局の対応が逸速くなされている点にも若干触れておきたい。
 明治4年4月に出された「平民乗馬被差許候事」の下達は,道路往来にも身分差別を強制してきた旧来の規制を一蹴するものであるように見える。少くとも以降,建前上は身分による乗物の規制は見られない。翌年には東京布達第六号「車馬規制」に見られるように,車馬の左側通行が決定施行され,交通取締の一前提が確定する17)。それはまた自由な交通往来の頻度が急速に増大していったことの一つの証左でもある。
 明治8年には車税公布施行の運びとなり,馬車2~3円に対し,自転車には1円の課税が定められている。大都市の一人前の大工職の2~3日分の手間代相当である18)。商品貨幣経済の浸透すら不十分な地方の多かった当時,庶民にとっては,たとえ中古車であっても,事実上の使用禁止事頃に近い。明治20年には車税取扱心得によって付加税としての府県税分が認められ二重課税の構造が制度的に確定している19)。

 注
 1) 例えば自転車伝来明治3年説をとるものとしては下記のものがある。
 石母田俊『東京から江戸へ』桃源社 昭和43年。
 加藤秀俊・加太こうじ・岩崎爾郎『明治大正昭和世相史』社会思想社 昭和42年。
もう少し早期の説をとるものとしては,神奈川県『神奈川県の百年』昭和44年,大阪府警察本部『大阪府警察史』第一巻 昭和45年。
逆に明治8年説をとるものとしては,明治工業会編『明治工業史』昭和5年,西田博太郎編『大日本の産業』化学工芸 社昭和3年。
また明治14年説をとるものもある。大阪市役所産業部調査課編『大阪の自転車工業』昭和8年。
 2) 自転車産業振興協会編・刊『自転車の一世紀――日本自転車産業史――』昭和48年,なお本論文は,同書,ならびに同書の執筆を担当された佐野裕二氏の助言に負う所が大きいことを特に記しておきたい。なお以下,同協会のことは自振協と略記させて頂く。
 3) 「然シテ之ニ乗ル者ハ大率ネ下等人ノ別返野郎ニ属シ,未ダ上等人ノ乗ル者有ルヲ見ザル也」(『東京新誌』第147号,明治12年)などのように穿った見解もある。
 4) 『東京府統計書』を参照されたい。
 5) 小林正彬「日本機械工業とからくり儀右衛門」関東学院大学『経済系』第82号などを参照されたい。
 6) 田中近江翁顕彰会『田中近江大掾』昭和6年 10ページ。
 7) 『輪友』明治35年6月号 8ページ。
 8) 例えば『東京日々新聞』明治11年6月26日付。他に,日本輪界新聞社『地方輪界の歩み』昭和34年 40ページ。
 9) 前掲『自転車の一世紀』6ページ。
 10) 前掲『地方輪界の歩み』40ページ。
 11) 以下,それらについては「資料」とのみ記し,番号を添書して示すことにする。
 12) 前掲『地方輪界の歩み』41,105ページ。
 13) 前掲『田中近江大掾』7ページ。
 14) 例えば三田村鳶魚「隣組につけて江戸と東京を眺める」『日本及日本人』昭和18年7月号 76ページ。
 15) こうした通俗的見解が明治期以降にも広汎に残存していたことは筆者も別の調査で再三感じさせられたことであるが,今回の聴調の機会でも何度かそうした事例に出会った。
 16) 『横浜成功名誉鑑』38ページなどを参照されたい。
 17) 詳細は日本の警察編纂会編・刊『日本の警察』昭和43年などを参照されたい。
 18) 自振協保存資料による。
 19) 明治29年には地方税に全て移されたが,府県税と,市町村税という形で二重課税は続けられている。

第2節 明治中期の生産者と新興商人の形成
 明治20年代に入ると,自転車を取巻く諸事情に大きな変化が見られるようになる。明治20年前後には貸自転車が全国主要都市における何度目かの流行を見るが1),その波が去ったあと,個人所有台数の顕著な増加傾向が見られはじめたのである。自転車はそれまでと異って,もはや「下等人ノ別返野郎」の乗物どころか,カメラ,猟銃と並んで富裕層のステイタス・シンボルとなっていったようである2)。
 明治31年に名古屋市内の本町通りで昼間行われた交通量調査によると,自転車は既に馬車を上回る利用度を示している。それらについては表1を参照されたい。
表1 明治31年8月16日,名古屋市本町通りの交通量調査
また『東京府統計書』によると,明治35年の東京府下自転車所有台数は営業用が857台に対し,自家用が4571台となっており,普及の基盤がはっきりと個人の所有の方に移ったことを示している。
 これらの新規増加分の多くは輸入車であったが,そのこともあって,東京に限定して見ても,多くの外国製自転車取扱商,輸入商,あるいは代理店の創業が目白押しである。
 明治25年には下谷同朋町で照井商店が開業し,輸入自転車のファースト号やワシントン号などの特約店となっている。27年には日本橋蠣殼町の飯塚商店がスペッシャル号などの輸入販売を始め,28年には銀座の伊勢善でクレセント号の一手輸入販売が開始されている。29年には岡本商店が外車販売と貸自転車業を始め,30年にはクリーブランド号を扱った仁藤商店が開業,同年にはディートン号輸入販売で一時期を画した双輪商会ができ,他に浜田自転車店も神田錦町に開業している。33年には共に輸入商であった石川商会と日米商店が自転車輸入の取扱いを始め,ほどなく両社とも自転車輸入販売を専業とするようになる3)。
 このうち,伊勢善,石川商会,日米商店,浜田商店などは他部門の貿易商として出発している。その経営者の多くは高学歴者であり,双輪商会の吉田鈍二郎は慶応義塾の友人達の自転車の一括購入を試みたことに始まって,輸入商に転じている4)。石川賢治,日米商店の岡崎久次郎については資料4,資料15を参照して戴きたい。また同時に,彼らは地域の顔役,世話役であることが多く,浜田商店主は富裕層の自転車遠乗会などの世話役を買って出たりするうちに自転車を扱いはじめたとされている5)。また岡本商店主は各種職人親方達との繋がりが広く,かつ指導力を持っていたようである6)。
 こうした中にあって,横浜の外国人商館の倉庫番から出発し,貸自転車家を契機に輸入商まで上向していった仁藤商店は例外的に見える7)。しかし,そうした階層間移動は明治末期になると広汎に見られるようになる。その意味で同商会の事例は1つの先駆例をなしている。
 彼らによって輸入される外国製自転車は,いずれも当時としては,極めて高価であった。しかもその販売利益率が異常なほどに高かった。日米商店では160円で卸したものを250円で売るように価格統制を加えていたし8)。センター号取扱商の話では仕入値130円に需要者渡し200円程度となっている9)。熟練大工職の2年間分の収入に近い販売価格である10)。もっと極端な例もある。秋田県大曲の地主榊田家で自転車を購入するため使用入を派遣して東京で新車を入手させた時の経緯は次のようなものであった。明治28年の事である。
 「榊田氏が外人の自転車をみて新車購入を思い立った時,塩田良吉氏と三森氏は自転車購入の依頼を受けて大曲より横手を経て三日がかりで黒沢尻に出て,東北線で上京,当時一流の直輸入商であった銀座の伊勢善商店からアメリカから着いたばかりのクリーブランド号,三台よりなかった中の最良品を三五〇円で購入して帰来。三森氏が(のちに)自転車商として大をなす機縁であった……11)」
 こうして輸入自転車とその取扱商人の黄金時代が暫く続くことになった。この時期,「安全(セーフティ)車」と呼ばれる型の自転車が主流となってくる。外見的には現在のものに近く,ダイヤモンド型フレームであるが,フリーホイールなどのない踏切り式であって,ブレーキもスタンドもついていなかった12)。車体はリムも含めて金属製が嗜好された。金属加工技術の立ち遅れもあって,旧型車中心の和製自転車にとっては困難な時代が続いていたようである。
 それでも明治25年に横浜の梶野工場は東京中央電信局の電信用に「木製車五台,鉄製硬質タイヤ五台」を納入している13)。それらはアメリカ製部品をかなり利用したものである可能性が強いが,同じ頃,国産部品主体の自転車生産の努力が幾つか見られるようになってくる。
 例えば鉄砲鍛冶だった宮田栄助は,明治20年代に入ってから,外国人の自転車修理を何度か依頼される間に,自転車に関心を持ち,23年に「宮田製銃所」の看板を出してほどなく,「5,6人の職工が一箇月近くかかって苦心の結果第1号車を完成」させている。タイヤ以外は全て自製品といわれており,以降,「製作を続けては希望者に販売」するようになり,25年には皇族用の自転車を上納したとの記録もある14)。
 ただし,別の記録によれば,同時期に製造に着手したが,完成にまで至らず,35年に至ってやっと「見本品」の完成を見たともされている。もっともこの時には「アサヒ号」の自社商標で出しており,「タイヤー,リム,スポーク,ボールの四品以外は全部出来る」と率直に技術水準が吐露されている15)。しかし明治32年には部品のための焼入技術の改善などに成功しており,一貫した努力は続けられていたと見ることができる。輸入部品に依存した形での組立ても何度かなされていたのではあるまいか。アサヒ号もアメリカのクリーブランド号をモデルとして製作されている。
 また能登半島七尾町出身の松下常吉は,機械工となって,石川島造船所,陸軍砲兵工廠,田中機械工場,芝浦製作所などで働き,明治31年には通い職工を続けながら,貸自転車屋を始めていた息子の店の角隅で試作に成功し,宮田についで東洋号として全国に市販し,名声を博した」とされている16)。
 こうした動向の中で,先発メーカーの梶野工場は明治20年代後期には「苦心の末,車輪ハンドル等をはじめ自家生産をできるようになり」自己商標の「金日本号」「銀日本号」を出し,明治28年の第4回内国勧業博覧会では「有功3等賞」を授与されるまでになっている。当時のわが国では一種の博覧会ブームがあり,民衆の新商品への関心が呼びおこされ,一方で、そこでの評価を通じて各生産者が技術を競い,さらに固有の技術への熱意をよびさまされる刺激をうけていた。政府もまた進んで欧米のそれに人材を送るとともに主催に力を入れていた。それらについての研究はまだ乏しいが,当時の生産者にとって博覧会の持つ意味は少くなかった点は注目されるべきである。
 また名古屋の鉄工所で「火造り」仕事に従事する傍で,依頼された自転車修理にも取組んでいた岡本松造も,明治32年に独立,次第に自転車修理業に力を入れつつ,34年以降は試作車の完成と販売に取組んでいる。彼については資料17に掲げた17)。
一方,明治25年に東京の浅草聖天町で人力車の製造を始めた高橋長吉は,ほどなく自転車の修理用部品生産に乗り出し,35年にはイギリスのセンター型を模倣してゼブラ号を生産販売するまでになっている18)。
 以上見てきたように,明治20年代から30年代にかけてのわが国の自転車の普及には,商人サイドで輸入車による市場拡大を進めようとするものと,生産者として固有の技術的基礎を獲得しながら市場の拡大に期待しようという対照的類型が存在していたことがわかる。この時期には,自転車という商品自体が多分に奢侈品的ではあったが,国産自転車の末端価格が輸入車のそれの半分近くであったことは19),それなりの市場開拓効果を持ち得たであろう。明治36年の内国勧業博覧会に於て,宮田製作所――明治35年に改称――の旭号は三等賞を得ると共に軍関係にも販路を得ることとなった20)。
 最後に,明治30年代に各地で出された「自転車取締規則」について触れておきたい。例えば東京の場合,明治31年6月1日,警視庁第20号をもって布達されている。その具体的内容は全7条より成っているが,その内一部は後段との関係で紹介しておかねばならない。
「第一条 号鈴号角等ノ装置ナキ自転車ハ道路ニ於テ使用スヘカラス
第二条 夜間行車スルトキハ灯火ヲ点スヘシ
……(中略)……
第七 条本則を犯シタル者バは一日以上十日以下ノ拘留又ハ五銭以上一円九十銭以下ノ科料ニ処ス21)」
 国民の私的行為に対する日常的諸規制を好む立法感覚は江戸時代以来のわが国の伝統とも言えるが,とまれこの規制の一部は,のちにある有名電気器具メーカーを誕生させる契機となったのである。

 注
 1) 『日本立憲政党新聞』明治18年4月10日付,『日の出新聞』明治18年4月23日付など,地方都市の状況については前掲『自転車の一世紀』73,74ページほかに詳しく紹介されている。
 2) 『輪友雑誌』第120号,明治45年6月,1ページなど。
 3) 自振協蔵『東京卸組合の歴史』(稿本)による。
 4) 前掲『自転車の一世紀』に詳しい。
 5) 前掲『地方輪界の歩み』40ページ。
 6) 『梅澤60年の歩み』梅澤製作所,昭和49年には同社創業者で希代の職人親方と言われた梅澤陣三郎と岡本英との関係が再三触れられている。
 7) 前掲『地方輪界の歩み』40ページ。
 8) 「輪界追憶座談会」『日米商店三十五年史』株式会社日米商店,昭和9年,25,26ページ。同書は数篇の作品が集められており,各々負建てが独立しているので,以下同様の表記にしたい。
 9) 東京自転車製造協同組合『日本自転車産業回顧座談会速記録』(稿本)自振協蔵,昭和35年,6ページ。以下同書を『座談会速記録』と略記。
 10) 明治20年代末の大工職人の1日当り賃金54~66銭で,1ヶ月当り平均実労働日20日として計算した。数字は『帝国統計年鑑』『横山源之助著作集』などによる。
 11) 前掲『地方輪界の歩み』30ページ,なおカッコ内は筆者による。
 12) 大津幾次郎氏談,なお(資料14)を参照されたい。
 13) 前掲『地方輪界の歩み』41ページ。
 14) 宮田製作所七十年史編纂委員会『宮田製作所七十年史』同刊社,昭和34年,9ページ,以下同書を『宮田七十年史』と略記。
 15) 「宮田栄助氏談話要旨」『輪友』明治35年4月号所収の彼の談話による。
 16) 前掲『地方輪界の歩み』40ページ。なお前記田中久重の工場は田中工場となり,明治11年に工部省に買収され,逓信省電信燈台用製造所となるが,二代目田中久重が15年に再興,26年に三井の手に渡り,芝浦製作所となり,のちの東芝の前身となった。それについては下記のものを参照されたい。
本村安一編『芝浦製作所65年史』芝浦製作所刊,昭和15年
東芝電気総合企画部社史編纂室『東京芝浦電気株式会社85年史』同刊社,昭和38年
 17) 岡戸武平『自転車万歳』中部経済新聞社,昭和49年,9―30ページ,ただここでの指摘は例えば『自転車の一世紀』のものなどそれ以前に出版されたものと多少矛盾した個所が目立つ。
 18) 前掲『自転車の一世紀』20ページ,なお前掲『東京卸組合の歴史』では創業が明治26年となっている。その頃から部品の製作や販売をはじめたのではないかとも思われる。前書によればハンドル製造などは34年となっている。
 19) 前掲『自転車万歳』30ページほかによる。
 20) 『第五回内国勧業博覧会審査報告書』巻四,明治40年,216ページ。『宮田七十年史』20ページ。
 21) 同規則は明治34年10月24日,警視庁令第61号をもって全17条の規則に拡充規制強化される。そこでは追越し禁止や車間距離の規制まで盛られており,些か生活指導過剰型の規制意識が働いてもいるが,道路行政の停滞の中で自転車通行がそれだけ急速に普及しはじめていたと見ることもできそうである。

第3節 明治中期における社会的分業の深化と社会的諸関係
 明治36年2月,同業組合準則に拠って,業界初の組合である東京自転車同業組合が結成されている。設立委員は双輪商会,梶野自転車製作所,仁藤商会,四七商会,日米商店,モーター商会の6社であり,組合事務所は東京府京橋区木挽町の双輪商会におかれている1)。
 この当時の同業組合の常として,組合には生産者と問屋商人が共に加わっている。ところが自転車の場合,小売業者までが加わっていたことと,その小売業者が卸業者や製造業者と区分がつき難い状態を呈していた。そのことは当時の1つの特徴でもあった。まず小売業者について見てみよう。以下は明治27,28年頃の指摘である。
 「そもそも自転車小売店という商売は,まず修繕を第一にして,販売は二の次にされた慣習が,この後も長い期間にわたって,自転車店といえば,半工半商のように印象づけてしまったといえるだろう。このように修繕を第一に生れた商売であるから,最初にこれに携わった人々は,旋盤工,鍛冶屋,ポンプ屋,時計屋または自転車競争の選手などから転向したり,あるいは片手間に修繕をするといった有様であった。しかし中には,国内で新しく始まった自転車工場に職人として入り自転車の構造を覚え,技術を身につけた後,自転車店を開業した者もあった。その頃の店舗は土間を修繕所に万力を据えつけ,野鍛冶から転じたものはフイゴを備えていた。(中略)客に自転車を買わせるための手段として各小売店は競って貸自転車を営むようになった。貸車の料金は,一時間十銭から十五銭くらいで,この収入は客が用たしに使うために借りるのでなく,自転車に乗れるように練習することが目的であったので,やがて一人前に乗りこなせるようになると,次には自転車を買ってもらえる楽しみがあった……2)」
 こうした貸自転車屋の中から松下常吉も出発したのだったし,岡本松蔵も当初は「土除の足小さい荷受けハンドル用ポスト等を自分一人で鞴と萬力位の設備にて始められ……3)」と言われている。要するに,小売業者も製造業者もおしなべて小生産的性格を有していながら,徐々に分化傾向を示しつつあったというのが当時の最大の特徴だとも言える4)。
 しかし,一方には旧来からの都市商人なり名望家層の出身者を中心とした貿易中心の販売業者がいる。彼らも当初は卸とも小売とも区別できないような次元から出発しているが,その商業資本的蓄積力ははるかに擢んでている。というのも,当時の自転車の末端価格の高さについては既述した通りであるが,一方輸入原価の方は(明治末期のものしかわからないが),かなり低い水準を示している。(表2)に見られるように,それは末端販売価格の実に1/4~1/5という状態なのである。
表2 輸入先別平均価格
 そこでこうした商人達と,生産者達との関連について若干見ておくことにする。まず宮田栄助の場合について見たい。実は彼は小石川砲兵工廠時代に大倉喜八郎の知遇を得,彼の商人資本的活動と助力を前提に「自立」したのである。明治17年の東京下町の大火災で全てを焼失した時でも,大倉組の融資によって再建されている。大倉組の融資によって再建されている。
 このことは逆にいえば請負納品の一切を大倉組が処理することを意味するし,事実そうであった。「三間間口の二階屋,万力二個,二尺五寸の鞴一個,鉄敷一個,および国友工場より借用した二尺の足踏旋盤一台」で出発した小規模の町工場としては,そうした問屋制的支配と表裏一体になっていた商人資本的庇護はむしろ「幸い」なことでもあったようである5)。
 だが,そうした関係の下では,宮田栄助の職人的技倆は発揮できても,一定の近代的合理性に則した技術水準の底上げは難しくなる。「製銃工場」とはいえ,(表3)に見られるように,同工場の明治時代の製作品目の広汎雑多ぶりはそうした実情の一端を示している。ここにはまた,当時のわが国の民間中小機械業者が多少とも軍需に依存することなしには経営の維持が困難だったありさまが示されている。事実,何度かの経営上の危機を救ったのは,それら軍需であった。
表3 明治期の宮田製作所の製作品目と開始年次
 同工場は22年に宮田製銃所と改称し,7馬力のボイラーや新型旋盤などを数種導入し,日清戦争期には陸軍御用工場として一層の拡張を進めている。しかし33年に狩猟法が改正され,猟銃需要が減退し,自転車生産を主力にすべく方向転換を計ろうとした時,大倉組は同工場(宮田製作所と改称されていた)との関係を一気に清算してしまったのである6)。
 問題はこの後の同工場の行動である。というのは,宮田製作所として「アサヒ号」という固有の商標は創っていたが,現実には新たに問屋資本と結びつく格好でしか,販売活動を続けられなかったのである。つまり彼らは販売地域を指定して,その内部での販売権を独占し,製品も問屋指定の商標で納入しなければ受入れなかったのだ。(表4)は日露戦争以降の同工場の販売先と思われるものである7)。その時期には一部地方商人との直接取引も僅かながら始まっているのが,日露戦争前の時期には東京の貿易兼営の問屋商の商標指定に従って市場開拓していくしかなかったようである。
表4 明治30年代の宮田製作所の販売先
それも当初は岡本商店の「扶桑」だけであった。その当時では,まだまだ売行き不振で文字をローマ字に改めたりしたという。日露戦争直前になって,仁藤商店の「ホイラー号」なども出るようになっている8)。それでも自身の商標はなんとか守られている。このことは,後の発展にとっての一布石となっていく。この点は特に第一次大戦後の時代を見る上で重要なことを指摘しておかなければならない。
 次に同種の問題を堺市の場合について見ておこう。そこでは後にわが国自輪車産業の一つの典型をなすような発展過程が見られることになるのだが,明治30年代初頭では市内の自転車台数はまだ数台にすぎず,32年頃になってやっと貸自転車屋が登場している状態だった。
 北川清吉,斉木幸三郎らの双輪商会がそれで,半年後には大津屋の大津由松も開業している。両店ともに後に卸商として一時期を画すことになるが,この段階では東京で見た初期の貸自転車屋,小売業者とさしたる差異は認められない9)。
 ただ双輪商会はほどなく荷物台などの生産に着手し,大津屋も組立中心から自身のフレーム工場を持ち,関西に典型的だった「製造卸」の先駆例となっていく。その場合に注目されることは,当初から彼らの下にあって修理や,部品生産に従事する者が存在していた点である。
 堺は中世以来の鍛治屋仕事の伝統があった町であり、刃物師,鉄砲鍛冶,鋳物師が多数存在していた10)。
そんなことから自転車などの新興機械金属産業に対する対応力もあり,北川清吉らは,創業当初の修理など実質的な作業は鉄砲鍛冶の近藤嘉市らの力を借りている。
 近くに大阪,神戸という一大消費地を抱えていることもあり,こうした契機が成立すると,小生産者による部品生産が急速に展開していくことになった。
表5 大阪府における部品生産の始まり
その一端を(表5)に見ることができる。そしてこれら初期の小生産者の殆どが伝統的鉄砲鍛冶などから転じてきたものである。
 彼らのような小生産者と、堺市内(さらには大阪市内)の問屋資本との関係は,次第に截然とした秩序関係の下に置かれるようになっていく。それがまた市場の急激な拡大や変動といった社会的諸条件の規定を受けながら,独特の社会的諸関係に変容していくことになる。
 さて以上,東京と堺について多少見てきたことからもわかるように,一部の商人資本を別とすれば,草創期の自転車関連の小生産者達一この時期では,部品生産,修繕,小売などの領域が混然一体とした層として存在していた一は,殆どが,既存の伝統的機械金属加工部の職人達から出発している。
 その多くは,堺のように伝来の金属加工部門に端を発している。といっても,全くの伝統的秩序の下からは形成されず,それらの中にあっても外国から伝えられた新しい技術に対する関心と適応力のあった者の間から,つまり既存の伝統的職人社会の中にあっては多少とも異端的な部分から,次の飛躍の契機が生れている11)。わが国社会の諸々の限界から,そうした飛躍の中にも幾多の制約条件がつきまとうことになるが,にも拘らず,彼らが一産業部門を開発し,定着させていく上でのなによりの駆動力となったことは疑えない。
表6 陸軍工廠小銃製造所の導入機械一覧
 一方,東京では,すでに述べた田中久重工場など,やはり伝統鍛冶から一歩踏み出した工場出身者が多い。宮田栄助の息子政治郎(のちの2代目栄助)も同工場で働いているし,松下常吉もそうである12)。それと並んで,この時期とりわけ眼につくのが,軍工廠の職工経験者である。宮田栄助とその息子2人,また松下常吉や梅澤陣三郎もそうした経験の持ち主であるが,明治30年代初期には東京で「砲兵工廠五人組」と呼ばれた自転車修理業者も活躍している。松下常吉もその1人であるが,他に浅草七軒町の三浦石之助,本郷の三尾俊泰,神田神保町の寺瀬吉松,神田仲町の内田義助の名があがっている。彼らについては下記のような指摘がある。
 「お客さんも現在とは違い商店の若旦那とか町内の顔役,官吏,軍人,医者など当時でいえば上流階級に属する人たちばかりで……何とか道具らしいものをもち,修繕らしいことができるのは機械技術の最先端を行った軍事関係が多く,砲兵工廠に働いていた五人組のみがプレスや万力や何かを利用してどうやら修繕ができるようになり,この連中が始めて自信をもって自転車店を開業した……13)」
 彼らの生産手段のレベルは堺のそれとは大差ないようである。「修繕も工具などは今の様に殆んど揃って居ない。タガネとレンチとハンマーとスパナー一丁之で全部直した14)」ような水準から,せいぜい輪,金敷,手動式旋盤といったところで,よくて簡単なプレスがボール盤が時たま見かけられる程度のようである15)。
そこでこうした小生産者を輩出させていった軍工廠について少し触れておきたい。まず以下のような記録がある。
 「(小石川陸軍砲兵工廠では)明治三十四年頃,数百人の職工が自転車製造を手がけ生産量も相当の数を算えていた。ここで習練された職人たちがその後民間にボッ興した自転車工場に入り幹部職人となって日本の自転車工業は花咲く時代に至るのである。砲兵工廠の自転車製造は陸軍戸山学校の自転車教官(当時陸軍では自転車の軍事的役割を重視,既に陸軍自転車教程も作成されていた)らによって指導されていた……15)」
 この指摘については他に資料がなく,どの程度信頼できるものであるか疑問であるが,のち宮田製自転車を扱った梅津旭商会の店主はこの「自転車教官」の経歴を持っており16),次章以下で述べるが軍や官公庁の需要はかなりのものであったこと,また工廠での生産がみられなくなったとされている明治末年からは宮田製作所などからの納入がなされている。こうしたことから17),明治30年代前期には,まだ工廠内で生産されていた可能性が強く,かつそれは多様な波及効果を形成しながら日露戦争期以降には打切られていたのではないかと考えられる。
 だが,軍工廠のわが国自転車産業に―のみならず,当時の民間機械金属産業全般に及ぼした内在的影響力はそれに止まらないと言わねばならない。それというのも,当時の零細な小生産者達は通常の場合,創業時は簡単な生産手段を用いて作業を行い,国産ないしは手造りの機械と道具を利用しながら,やがてその中の上昇部分が輸入機械などの導入に至っている。こうした初期の行動様式を支えた,当時の職人達の状況と,近代技術に対する対応の仕方の一つの原点が,明治期の工廠の運営され方にもあったのではないかと思えるのである。表6は陸軍造兵廠東京工廠に長く在勤したある陸軍技師の手で残された『大正12年関東大震災当日現在小銃製造所工作機械調書』のリストから作成したものである。途中の廃棄台数分が含まれていないので資料としては不十分であるが,明治期の工廠が輸入機械に頼りながらも,単に新式機械を海外に依存するのではなく,それらのコピーを極めて早い時期から作りはじめていることがわかっている18)。つまり,単に導入機械の操作なり一部の改良だけではなくて,それを土台に類似の機械や付属品を造り出す努力が一貫して為されている。それは同時に,そうした要請に応えられるだけの職人達が広汎に成立していたことも意味している。機械業者たると自転車業者たるとをとわず,やがて独立開業していった者達は,そうした性格を鮮明に受け継いでいったと言えるだろう。明治末期には民間の工作機械メーカーの一応の成果を感じさせる数字が現われている。そして自転車部品業者は,自分達の必要と感じる機械は自分達で設計し,自らも工作機械業者の職場に足を運んで完成させることも少くなかったという指摘を重ねあわすなら,その1つの条件は工廠の運営方式にも発しているといえる19)。勿論,職種のちがいを越えて直接的生産者相互の緊密な交流のあった点も等閑できない。それについても,宮田一族に見られるように,また後の島野庄三郎に見られるように,当時の工廠は再入廠者を含めて熟練職工に対しては極めて門戸を広くしていたことも,それなりの派生効果を見た遠因といえよう。

 注
 1) 前掲『自転車の一世紀』219ページ。
 2) 大阪府自転車軽自動車商業協同組合『小売店の回顧録』昭和54年,50,51ページ。
なお同様の指摘は前掲『座談会速記録』7ページなどにも見られる。
 3) 深谷亮次『中京輪界五十年の回顧』愛知県自転車リヤカー製造卸協同組合,昭和26年,9ページ。
 4) 詳細の分析は今回は行わないが,付属資料の多くから,そうした事例を窺知ること
はできるだろう。
 5) 前掲『宮田七十年史』3―5ページ。
 6) 同上書,14―16ページ。
 7) 地方問屋の創業年次は前掲『地方輪界の歩み』で一部確認できるので,そこから判断した。
 8) 前掲『宮田七十年史』17―21ページ。
 9) 堺双輪商会の北川清吉については資料42,大津由松については資料43を参照されたい。
 10) それらについては,堺市役所『堺市史』及び同続編を参照されたい。
 11) その見事な事例としては島野工業株式会社編・刊『島野庄三郎伝』昭和34年の,71ページと84,85ページを対照して頂ければよいかと思う。
 12) 同工場出身者には沖電気の創業者沖牙治郎や池貝鉄工所の池貝庄太郎らがいるが,彼らについては下記のものを参照されたい。
沖牙太郎伝記編纂係編・刊『沖牙太郎』昭和7年
花房金吾編『池貝鉄工所50年史』同社刊昭和16年
 13) 日本輪界新聞社『自転車産業の歩み』第1集,昭和32年,21ページ。
 14) 前掲『中京輪界五十年の回顧』9ページ。堺輪業協会,輪界商工新聞社『堺の自転車』昭和4年,35ページ。
 15) 前掲『地方輪界の歩み』2ページ。なおカッコは原著者,二重カッコは筆者による。
 16) 前掲『宮田七十年史』30ページ。
 17) 同上書21,24ページ。
 18) 最近式の機械導入は第1次大戦期以降も続いていること,民間からの購入は戦時期に集中していて,それら民間工作機械メーカーにとって軍工廠が必ずしも安定した取引先ではなかったことなど,この表に付随して指摘できることは少くないが,本稿の課題から外れるので,より詳細な検討は別稿を期することにしたい。
 19) 田嶋栄吉氏談。

第2章 日露戦争期から第1次世界大戦期のわが国自転車産業

第1節 概 況
 日露戦争を契機にわが国の自転車使用台数は急増傾向を示すことになる。表7にも見られるように,それまで全国で年々数千~1万台程度の増加台数だったものが,数万台単位の増加傾向に変容している。もっともこの時期の統計数字には十二分の信頼性があるとはいい難い。全国台数の推移も増加数の隔年現象が生じているようである。それでも増加趨勢に大きな加速がついたことは疑えない。この時期の幾つか目につく点をあげてみよう。
 まず第1に,明治39年から41年にかけてはわが国の完成車輸入台数がピークを迎えた時期であったことが認められる。
表7 明治末期の東京府下の自転車台数と全国台数の推移
 さらに第2点としては,明治39年以降に部品輸入が急増し,41年からは部品輸入金額が一貫して完成車輸入金額を上回っている。
 そして第3に,明治43年以降は国内保有台数の増加に対する輸入車台数の比率が急減している点を指摘できる。
 また第4に,全国台数に対する東京の台数の占める比率がかなりの落ち込みを見せていることが掲げられる。
 こうした状況を反映する当時の記録と回想談を若干紹介しておこう。当時のある業界誌には次のような指摘がなされている。
 「東京の自転車 衰へた様で却って盛今は手代小僧の乗物東京市内の自転車は市街電車鉄道の普及に連れて次第に衰へ行くやうに思はるれど其実は反って盛んに使用されつつある。(中略)三十五年より三十七,八年にかけては遂に自転車の全盛時代となり,中流以上の紳士等皆実用と娯楽を兼ねて之に乗り,他方にては商店会社等亦之を利用したり1)」
 また大阪の小売商の組合関係者は次のように指摘している。価格は卸値段であろう。
 「明治も日露戦争後になると,自転車は舶来物より和製品が段々と多く姿をみられるようになった。当時の値段は輸入車が八~九十円から百円,百五~六十円出せばとびきりのものが手に入り,一方国産品は三~四十円から最高五十円位であった2)」
また当時の国産大手メーカーの関係者は次のように述懐している。「日露戦争後は矢張り自転車工業も廷[ママ]びました。一般に景気が良かったものですから,四十年頃からは我々も骨を折らなくして売れる様になったんです。
表8 国別輸入台数と価格の推移
 ですから明治三十七[ママ]年ですか,大阪に第五回内国博覧会が御在いまして,これに出品しました。明治の結果とすれば完成車の一応の国産品として外国品に負けないものは出来たと云う事は云へると思います3)」

図1 自転車の価格帯と保有台数の推移
なお,この時期の末端標準価格帯の推移と保有台数の趨勢を図1に示しておく。またこの時期は,輸入車のうちアメリカ製が後退してイギリス製自転車が擡頭している。それは表8に見られる通りである。こうした変化を通じて,わが国の自転車が26インチのサイズに統一されていったこと,また国産車も含めて,殆どが「安全車」(セーフティー)と呼ばれる「外観上今日のような形状を備えた」ものに変っていったのも大きな事象について,生産と流通の両側面,及びそれらの相互関係について次節以下で検討してみたい。


 1) 『輪友』明治42年9月号,3ページ。 3) 前掲『座談会速記録』30ページ。
 2) 前掲『小売店の回顧録』51ページ。 4) 前掲『小売店の回顧録』97ページ。
第2節 流通機構の整備と再編成
 明治30年代中期から全国の自転車台数の増加傾向が著しくなり,一方で,それまで最大の消費地だった東京の相対的所有台数が減少したということは,とりもなおさずこの時期に地方都市や農村部への普及が進んだことを示している。その場合,市場の拡大に地域的な特徴ないし差異が認められる。そうした地域間格差の存在は,やや短絡的表現を許してもらえるなら,統一的な国内市場形成力の弱さなり,本来的な国民経済の基盤の脆弱性を表現しているとも言えよう1)。ただここでは,まず流通過程を担った者たちについて実体的に見ていくことにしたい。
 初めに関東地方以北に自転車が普及していく場合,そこに1つの共通パターンを見出すことができる。まず,地主,、医師,大商人といった地方名士達の同好会的集まりが創られ,それと相前後しながら商人が自転車取扱いをはじめ,修理は半ば専属の鍛冶屋を利用していくという経路をとるものである。
 例えば札幌では医師,商人などの間で明治30年頃から普及しはじめ,人的交流が進んで35年に札幌愛輪クラブの結成をみているが2),自転車は丸井呉服店と七尾金物店が扱い,36年には丸井呉服店自転車部主任の小柳周吉は40年に貸自転車中心の店を開業している3)。
 同好会も東京周辺部では町村単位でも形成されるのに対し,東北地方では旧城下町を中心に見られるにすぎない。それを示したものが表9と表10である。
 こうした点は自転車取扱業者の形成にも関係している。
表9 千葉県における自転車同好会組織事例
表10 東北4県における自転車同好会組織事例
 例えば福島市の場合を見ると,明治35年の洋物商鎌田屋が始めたのを筆頭に,39年にかけて,紙卸商富田邦吉,米屋薮内周太郎,鋸鍛冶屋斉藤松太郎,火薬店主長尾幸七,呉服商小槌屋と続き,殆どが商人の兼営部門として始められている5)。
 これに対して東京,神奈川の都市圏や東海北陸以西は山陰と九州の多くを除いて――やや様子を異にする。それは一部の同好会的社交の場を必要としないほど普及テンポが速かったこともあるが,自転車取扱店の形成についても特徴が見られるのである。
 例えば埼玉県川越の場合,明治28年に自転車を扱いはじめた旧来からの大商人桜井商店を別にすれば,他は日露戦争期以降の開業であるが,1業者を除いて他は職人的性格の強いものである。並記すると,横山長太郎は桜井商店に勤めていたが「自立心が強く,桜井家を出て独立して,旋盤などの機械を買いて修繕を引き受けていた」とされているし,大野栄太郎は「車鍛冶で修繕をしていた」もので,松江作太郎は「貸自転車から始まった……その後機械も置いて修繕も引き受けながら……新台も売るようになった。」と紹介されている。例外の1業者は肥料問屋だった横関商店が兼営したものである4)。
 名古屋市では明治34年以降日露戦争期以前には貿易商,綿糸商,繊維商,機械商などの兼営で始まっているが,日露戦争後になるとそれら商店で自転車を担当していた者が専業者として開業する事例が急速に増えている。沢井喜助,日比七右衛門は中村広吉商店から出ており,近藤代三郎は勝野駒太郎商店,深谷亮次は梅村鎌吉商店から各々「独立」している。勿論この時期にも「東海随一の製材王」と呼ばれた山岸清太郎商店や松岡洋紙店,名古屋商会などの「富豪」の新期参入はあるが,その名古屋商会からもほどなく清水光二郎が出ている6)。
 こうした傾向は関西地方で一層顕著であり,堺市の大津屋では堺,和泉,和歌山,奈良にかけ,数十名の自転車業者,修理職人を「独立」させていったという7)。兵庫県姫路地方一帯でも次のようなことが言われている。
 「修繕の元祖は坂本町の野田鉄工所である。福井友治氏や池本徳次郎氏などの親方でこの地の自転車技術の本拠としての役割を果しその門より多くの自転車職人をはい出した……8)」
 また輸出用絹織物の一大産地となっていった石川県では,表11のように県下初の自転車取扱者が鍛冶屋出身であり,以降それが1つの基調となり,大正期には山田千太郎工場から多くの職人が自家営業主として「自立」していったようである9)。
表11 石川県における自転車店創業事例
 勿論こうした事実を単純に先進地の事例として見ることはできない。というのは,この種の事態をもって,わが国の商家制度の伝統秩序の残存,別家制度や暖簾分け制度による同族団的結束の温存といった側面を指摘することも可能だからである10)。事実,それに類した事例を指摘することもできる。大阪における民間電気メッキの始祖的存在であり,こちに自転車用リムの生産を行うようになった宮林操三の工場では明治期には,まだ,下記のような制度が守り続けられていた。
 「(同工場では)男子の徒弟制度を採用し,工員は住込みで,必要な日用品は全部支給されていた。そして一郎二郎と順次名前をつけ,四十入郎でこれを止めた。但し二十二郎より二十九郎までは呼びにくいため空白になっていた。又幹部養成のために幹部級には宮林姓を与え,養子縁組をした11)」
 公私両面にわたる干渉と温情の上に経営が維持されているが,そこに旧時代的社会関係が色濃く残っていることは否定できない。新技術への関心が強く,職場秩序も007787々再編されなければならない新興生産部門でもなおこうした状況であるなら,流通部門では一層古色蒼然たるものであろうと考えることもできそうである。
 だが,急速な業者数の増大は,暖簾分けの水準を越えて,流通過程の担い手を徐々に卸専業者と小売専業者とに分解させていくことになったのである。まず名古屋地方について,下のような指摘がある。
 「初期及第二期(明治中期及び日露戦争前後)の店は何れも卸小売を兼ねたるが此の第三期(明治40年代)に至って卸専門の店が(それまで経営を続けていた者の内で)大部分になり卸屋とか問屋とか云へ得る様になった12)」
 こうした趨勢は辺境地区では一時期おくれ多少とも水割りされた格好で展開することになる。それでも基本趨勢としては同様のものが認められるようである。
 「大正から昭和の初期にかけては純然たる卸商というものは存在せず,小売を主体としたもので,だんだん業者が増え,品物が豊富となるに従って,卸の存在が必要となり,力の強いものが小売から卸に昇格した形をとっている。だから今日でも卸か小売か存在のはっきりしない業者も案外多い13)」
 販売業者の卸,小売への分解傾向は,それだけにとどまる問題ではない。地方における一部資本の優位化傾向は,実は,中央における広域大商業資本の活動と結びつくことによって,一層加速されたのである。
 東京,横浜,大阪,神戸に集っていた代表的自転車輸入商は明治40年前後で表12のように多い。彼らは明治30年代中期から,つまり地方に自転車取扱商人が勃興し始めるとすぐに各々の代理店形成に力を入れ始めている。しかも興味のあることに,この時代には急速に小規模業者の形成されてきた大都市とその周辺部にではなく,伝来の大商人の地域支配力の強い地帯での育成に力が入れられている。
表12 明治末期の輸入自転車と輸入業者
府県単位の販売高が低くても,一店当りの取扱い高が大きいという現象からみられたからであろう。そうした地域間の性格のちがいはあるにしても,代理店化の動きは同じ時期に進んでいる。それを示したのが表13と14である。ここではディートン号の双輪商会,ピアス号の石川商会と,後発のイギリス製ラージ号の日米商店のみを取りあげたが,他の多くの輸入商たちも同様の方針で臨んでいる。そのことは当時の業界誌からも窺える14)。そして,こうした場合の代理店契約とは,当時にあっては,下記のように片務的で,輸入商側の権威に満ちたものだったようである。
表13 千葉県における自転車輸入商の代理店組織事例
表14 山形県における自転車輸入商の代理店組織化事例
 「一,此度貴商会の代理店御願ひ申候處早速御許し被成下難有御禮申上候付ては左の條々堅く相守可申候也
 一,有価証券を担保に差入れ品物を買ったら代金月末払いの事(以下略)15)」
 ところで,一方で全国的な流通網の整備が進み,各地に小売業者が急増してくると,大都市を中心に,明治末期には,早くもある種の矛盾が露呈しはじめていた。
大阪の例を引いておこう。
 「大阪商家には尚ほ守旧制度の残れるものありて所謂児飼奉公人なるものあり,即ち十歳前後の小児を雇入れ十年或は十五年と年季を期し無事相当の期間を勤め上たるものには,幾多の資本を割き与へ主家の暖簾を分つと云へることは不文的一種の契約なるにも拘わらず,狡獪にも悪徳極まれるものに於ては其の契約を無視し,年季到達間際に於て種々の口実を設けて其約を破らんとするもの甚だ多きを認む(後略)15)」
 ずっと後の時代になっても,小経営の「自立」「創業」は間断なく続いている。しかしここで見られるように,その実体は明治中期のものと後の時代のものとでは,実体が異っていったのである。
 ところで矛盾の表面化は,末端販売機構の被雇傭者の次元だけに止ったものではなかった。市場の拡大にも拘らず,またすでに述べたような法外な利潤率一前期的な社会では日常的に見られることであるにしても一にも拘らず,大時代的な取引はそれなりに営業コストの嵩むものだった。
 「当初客筋は全部金持業者で貧乏人の格好をしていては相手にされなかった。(福島市の)伊藤氏の如きは人力車に乗って外交し,店の小僧でも学習院の生徒並の服装をさせたものだ。日露戦争のころはこのように有力商人の業者がほとんどだったが……17)」
こうした状況は明治末期から大正期に入る頃になるといささか勝手の異ったものになってくる。
 「宮田の車が六五円にうれて四割もうかった。大体三台うれば十分食えたし,月賦なんてものはなくすべて現金払いだ。だから,ふところ手をしていても商売していけたもので,余り利益がありすぎて知らず知らずに余分な支出をした習慣がついてしまった18)」
 「当時のお得意さんは……決って二人三人と組んで私を料理店に呼び出しておいて,一度に何台でも買うから負けうと衆を頼んでギリギリに値段をネギリ倒したものです。いっぱいの線で話を纒めたものの,料理店の勘定は人を呼び出しておきながら御親切様にこちら持ちで,(以下略)19)」
 こうしたことかち,「営利を目的とする同業者が,只殖える許りで,皆満足する成績を挙げたならば自転車屋万々歳であるが,そうは問屋が卸さない殖える一方不止得廃業する人も続々ある……20)」という事態が明治の末期には出てきたのである。
それも地方の卸小売業者に限らず,中央の輸入商の次元でも倒産廃業者が出はじめたのである。明治43年に石川商会は不振の中で整理再編を余儀なくされているし,同年双輪商会は廃業,「センターの大沢,スピードの渡辺,スパークの高梨等の廃業も此の時21)」といわれている。
 欧米各国の自転車生産過剰に伴う輸入価格の下落,明治末年の関税の引下げ,このように商人にとっては有利な事情が続いたにも拘らず,そうした事態が連続している。ということは,ようやく大衆化しはじめた商品としての自転車販売に対する,認識と対応に甘さがあったからだと指摘できるのかも知れない。
 それに対して,日米商店は当時最盛を誇っていた。それを可能にしたのは次のような諸条件を克服できたからではあるまいか。
第1に,日本人の体格にあう相対的に小型のイギリス車(ラージ社製)を中心にしたこと22)。
 第2に,明治39年にラージ社と直接契約して,代理店権を獲得してしまったこと23)。
 第3に,欧米の各会社とも直接交渉により代理店契約を取りつけたこと24)。
 第4に,明治37年以降,全国に代理店を置く方針で臨み,明治45年100店の組織化に成功したこと25)。
 第5に,代理店からは権利金を上納させ26),責任台数をおしつける一方27),成績上位の者には懸賞金を出すなど,刺激的反対給付金制度を採用し「代理店をして其の成績を競はしむる28)」方針をとったこと。
 第6に,当時庶民の間で人気を博しつつあった自転車競争に自社の選手と製品を登場させ,宣伝に大いに利用したこと2))。
 第7に,自転車実用車化傾向と見るや,大正2年レース界を脱退し,全選手を「解散」させるなど,不必要な無駄と拘泥を極力回避していること30)。
 第8に,明治42年台北進出,大正3年京城進出など植民地への早期の進出を行っていること31)。
 いずれを見ても商業資本的活動を中心に成長していった同社の基本体質を彷佛とさせるものではある。他社の不振の中にあって,日米商店は卸値160円,小売250円の線を崩さず,「それ以下に売ったら罰金を徴る」方式で臨んでいたが,小売店の方も一部ではまだ余裕があった時代のようである。
 「自転車一台(ラーヂなどは二百五十円位した)売り込んだら買主の家に一週間位泊り込みで乗り方を教えさんざん御馳走に預り一台売った利益で三ケ月の生活費が出たという事実もあった32)」
 注
 1) 経済史上の概念としての「国内市場」「国民経済」については差当り下記のものを前提しておきたい。
 大塚久雄『近代資本主義の系譜』上,弘文堂,昭和26年。
 2) 間島博「自転車と六十年」日本自転車新聞社『日本自転車興信銘鑑』北海道版,昭和29年,102ページ。
 3) 前掲『地方輪界の歩み』20ページ,丸井呉服店はのちに百貨店となっている。
 4) 同上書,43ページ。
 5) 同上書,27ページ,ただし,一時修理を引受けていたがほどなく他地に移ったという佐藤運入と,前職不明の小川秀吉は除いた。
 6) 深谷亮次『中京輪界五十年の回顧』愛知県リヤカ製造卸協同組合,昭和26年,3,4,17ページによる。
 7) 大津幾次郎氏談。
 8) 前掲『地方輪界の歩み』80ページ。
 9) 石lll県輪界史編纂委員会『石川県輪界史』昭和52年,15,16ページ。
 10) こうした現象に関してわれわれはすでに,中野卓『商家同族団の研究』未来社,昭和39年,立命館大学人文科学研究所『家業』昭和32年,足立政男『近江商人の別家制度』雄渾社,昭和34年,など一連の優れた成果を持っている。ただ,とりわけて伝統的な領域の持つ特殊性の中に,日本的な社会認識や行動様式の1つの説明原理を見ることの関心はつきないにしても,本稿での領域のように,絶えず新たな技術的基礎や担い手の形成が問われる領域に,直裁に援用することは出来ない点だけは確認しておきたい。
 11) 大阪鍍金工業協同組合『組合50年史』昭和42年,14ページ,なお宮林操三については前掲『大阪の自転車工業』8ページを参照されたい。引用文中カッコ内は筆者による。
 12) 前掲『中京輪界五十年の回顧』4―5ページ。カッコは筆者によるものである。
 13) 前掲『地方輪界の歩み』20ページ。
 14) 例えば『輪友雑誌』116号1ページ,1]7号21ページなど。
 15) 株式会社丸石商会『創業三十周年記念誌』昭和12年,63ページ。
 16) 『輪友雑誌』115号,明治45年1月,2ページ,なお,こうした事態は自転車に限らず他の多くの領域でも認められた。それについては下記のものなどが,簡潔に雰囲気を伝えてくれる。
高橋亀吉『経済評論五十年』投資経済社,昭和38年。
 17) 前掲『地方輪界の歩み』27ページ。
 18) 同上書,32ページ。
 19) 佐藤門治「北海道輪界思い出話」日本自転車新聞社『日本自転車興信名鑑』昭和29年,98ページ。
 20) 『輪友雑誌』120号,明治45年6月,13ページ。
 21) 前掲『自転車の一世紀』14ページ。
 22) 前掲『中京輪界五十年の回顧』6ページ。
 23) 「日米商店及び大日本自転車会社の現状」『日米商店三十五年史』所収,62ページ。
 24) 同上書,63ページ。
 25) 「裸一貫より光の村へ」同上書所収,76ページ。
 26) 前掲『地方輪界の歩み』64ページ。
 27) 同上書,43ページなど。
 28) 前掲「日米商店及び大日本自転車会社の現状」31ページ。
 29) 同上書,26―29ページ。
 30) 同上書,66ページ。
 31) 同上書,64,66ページ。
 32) 前掲『小売店の回顧録』52ページ。

第3節 中小生産者の形成と社会的諸関係
 日露戦争後のわが国自転車生産の特徴として,まずその生産が――完成品たると部品たるとを問わなければ――多少とも全国的に担われ始めた点を指摘できるだろう。『工場統計表』では五人以上層に調査対象が限られているが,明治42年度のものは各工場名がそのまま『工場通覧』として別に刊行されている1)。その「第12類船舶車輔製造業」246工場中の33工場,「第13類器具製造業」471工場中の2工場が自転車生産に関係しており,それを整理したのが表15である。これからすれば,ともかくも全国10府県,11市2町3村に及んでいること,岡山のように農村部での形成が見られること,小規模ではあっても機械動力利用の傾向がでていること,全体の70%近くは日露戦争後の創業であること,とりわけ明治40年以降のものが49%とほぼ半分に達しており,この部門での中小生産者が各地で勃興しはじめていたことが一応窺える。
 そこで東京の場合について見ておくと,表16のように流通過程中心の創業事例の多かった日露戦争前期に比べて,戦中,戦後にかけ,メーカーの創業事例の多くなっていることがわかる。とりわけ部品生産や一部工程の加工業が目立ってきているのが特徴的である。
こうした現象の背後には外在的要因もあった。当時の自転車の普及と生産者の叢生について次のような説明もなされている。
 「黒鉄リームがニッケルになり前後ブレーキフリー式或は,バンドブレーキとなったので日本人には乗り良く適当な車に成った為と更に明治四十年頃になると日本製のフレームも少しつつは出来る様になってゐたのであるが,米式フレームに要すメンラックの製造には内地メーカーは非常な困難をしてゐたので従而コストも高くつくので生産は上昇しなかったが其の時代に英式の廿六吋フレーム用材がフイッチングと称へて蝋付と塗装をすればフレームが完成する,つまりメインラック,パイプ,ホーク足,ホークチューブ,ヘット,小物,各種ピン等を取揃へられた材料がヒーリング商会へ輸入一般市販せられたので是れを材料として内地に新にフレームメーカーが続々と出来,フレーム生産状況も一変大に進み,続いてメインラック丈も入荷する様になり,又完成車輸入も英車の廿六吋が大部分であった2)」
表15 明治42年の全国の自転車生産者
表16 東京府における自転車関連業者の類型別創業事例
表17 日露戦争後の堺自転車産業の形成状況
 そうしたセット輸入の持つ意味も大きいようであるが,すでに国内でも――完成車メーカーとは別に――補修用を中心とした部品生産が進みはじめていた。堺市でも表17のようにかなりの部品に対する生産と技術獲得の努力が続けられている。それらの多くは表18に見るように,技術開発自体がうまくいかないか,かりに成功したとしても経営上の困難に逢着して頓座するなど,苦汁に満ちている。それでも一部から少しずつ限界の克服がなされている。そうした努力の連続がやがて第1次大戦期の集中的成功の礎石になっていったと見ることもできよう。また大阪,神戸一帯では表19のように,ゴムタイヤ工場が一斉に設立され操業に入っている。このうち最も大規模なものは外資系の日本ダンロップ護謨株式会社で,他はまだ小規模なものであるし,製作上の困難も多かったが,やがて一応の市場要求に応じるものになっているし,のちに輸出品として重要なものになっていった。
表18 明治末期から大正期における堺市の自転車部品別創業事例とその状況
 東京でも状況はさして変らない3)。補修用ハンドルはかつて高橋長吉が始めて以来,この時期には3工場が操業を開始している。必要なメッキ業者もすでに明治20年頃から成立し4),工場数も増えはじめている。
 ギアクランクでは大正初期に都築工場,小山ギアなどが創業している5)。フリーは大正2年に三光舎でバルブ造りが成功しただけで,完成品が成功するのは第1次大戦期であり,むしろ堺より遅れている。
表19 阪神地方に於けるゴムタイヤ工場の設立状況
 ペダルは小部品を卸商人の所で組立てるようになっていたらしく,ペダル用の小部品生産者が数工場出来ていたようである。6)。
 ベルは当時直鍮製であるが,英国製をモデルに作りはじめたところ,明治末には「ベルの和製品は顕はれたり舶来の如何はしき品々は顔色なしとの事なり7)」といわれるほどになり,大正末期にはヨーロッパまで輸出されるものになっていく。
 ケースは中村工場や小松長太郎に続いて金谷,高寺の両工場ができるが,両工場からはやがて「金谷系」「高寺系」と呼ばれるほど幾多のケースメーカーが「独立」していくことになる。その他,ヘッドハンガーなど小物類では大正初期に黒岩製作所が成立している。
 以上東京の部品業者,加工業者の成立について概観した。これら小工場がそのまま経営を拡大したとはいえず,この時期の堺市の事例と大同小異であるが,それでも技術や設備の改善がやがて第1次大戦期以降の小生産者群生の前提となっていった点でも同様であったことは確認できる。
 では次に,これら工場における生産の方式と技術などについて見ておこう。
 堺市の場合でも東京の場合でも,日露戦争前までは全くといって良いほど手工業的であった。鉄板は塾(たがね)で切り,シノと呼ばれる鉄心を用いて半曲し,上下面タップを嵌めて金槌で叩いて円筒にする。これを赤銅で蝋付けしてパイプが出来上る。これを用いてホークやハンドルが作られるが,曲げ加工は手で行い,材料が折れる危険がある時は,パイプに砂や土を入れて内圧を高め,局部に力がかからぬよう手で曲げていったという。旋盤は人力式であった8)。
 日露戦争後になると旋盤は動力式のものが増えてくる。パイプも引抜管などが用いられるようになったが,「戦後水雷艇の廃艦になったもののパイプを買入れ」たりすることが多かった。これは後の時代まで続くし,そのための材料商も登場してくる9)。抜本的な技術の改善がなされることはなくとも,小生産者としての創意工夫は各所に見られる。自転車部品や各種金属加工に不可欠となってきた研磨工程を担う工場のうちには,次のようなものも,明治末期に見られるようになる。
 「動力は電気がなかったので附近の動力貸屋より借りていた。これは自社で事業をするために蒸気エンジンを使用しているが,その余った動力を附近の工場へ木製滑車を使い,2吋位のマニラロープを3本かけて,次から次へと大体10軒位の工場へ貸していた。このような動力屋が何軒もあったが,借りている工場の作業が一度に集中すると回転が落ち発電機の電力は低下し,研摩機は廻らなくなり,その度に動力屋へ苦情をいいに行った……10)」
 のちには「動力貸」だけを専門とする「工場」も登場することになる。ところで各種多様の部品生産メーカーの中には急速に成長する事例も現われてくる。資料3に掲げた新家熊吉の場合がそうである。彼は本来は石川県江沼郡山中町の木地師であったが,のちに漆器商として産をなした。それを基礎に明治36年には自転車用木リムを売りに出し,明治40年代には国内では独占的地位をえている。ただ,金属製リムについては,この時期さしたる成功を見ていない。11)。
 また,この時期の今一つの特徴としては,部品のさらに小部品を作る者が,ホーク,ペダルなどで登場しはじめたことがあげられる12)。また,非常に限られたものとはいえ,機械や技術の改善にも見るべきものはあった。明治40年頃々ら自転車用工作機械の輪入も見られ,一部では工作機の改良もなされた。民間機械工業部門でのフライス盤生産の進展は表6からも垣間見ることができるが,「まだ幼稚な機械工作……舶来品と比較して匹敵すべくもない……」と言われつつも,「ギアの模様はプレスで打抜かれ,歯切には五十枚位を重ねてフライス盤のカッターで」切削加工するようにはなって来ていた13)。
 ところで,こうした中小零細規模の各種部品メーカーが形成されてくると,部品を中心に扱う問屋商人が現われ,次のような事態も生じてきた。
 「輪業界は中々変遷して来たわい,一流の自転車問屋がドンドン和製の模造品を造るとの事である。まさかその品はと憶ふのに沢山の自転車を舶来顔で卸してゐるとは,鳴呼々々……14)」
 では,それら商人と生産者はどういう社会的諸関係を結んでいたのだろうか。それについては,別に説明を必要としないほど,それ自体が雄弁に語ってくれそうな,そんな「契約書」が1通,戦前の文献に掲載されている。ここでは全文を転載しておきたい15)。
「 契 約 書 」
 生産者に圧倒的に不利な契約関係が後の時期までそのままにのこることはなかったにしても、こうした契約観の上に成立する社会的人間関係の中での上下意識は,この後も根強く残存したようである。本稿のための聴調でも,とりわけ年輩で,かつて大々的に問屋商人として活躍されたような人々の意識の根底には生々しく作用していることを何度か感じさせられた。
 最後に,もう一点触れておきたい。それは,この時期に生産技術上の新たな成果が定着していったにしても,旧来の方式や設備が,そのために廃棄されてしまうことは決してなかったことについてである。それらは,一部はかつての工場にそのまま残され,並列的に作業が続けられたであろうが,そうでない場合でも,急激に専業化し,増加していった小売店に持ちこまれ,そこにおいて十二分の機能を果しえたのである。明治40年代の状況について次のような指摘がある。
 「そのころの小売店の販売台数はまだ少なく,修繕がほとんど毎日の仕事だったから旋盤と鞴がなくてはならない商売道具であり,こうした機械を駆使して,足りない部品を一つ一つ買い集めたり,場合によっては自家製造をしたりして修理をしたのだった。……スポークも長さを切り縮めて『真鍮月嵐づけ』をし……ボールベアリングは一分丸のような小さいものでも『一箇二箇と買ってきて』補充をする……ハンガー内部の左右の固定ネジはよくゆるみ,なんども締めつける間にきかなくなり,部品もないので小売店が自前で直さねばならない……そうした技術は鍛冶職の経験者でなければ持てなかったから,自転車の小売店主はたいてい鍛冶職の熟練者か,金物の細工の経験を持つ時計師がなった16)」
 そしてまた,このような小売店,修繕屋から,逆に自転車部品の製造業に転じていく場合すらもあったのである17)。

 注
 1) 農商務省工務局工務課『工場通覧』明治44年。
 2) 前掲『中京輪界五十年の回顧』6ページ。
 3) 以下特にことわらない限り,東京のものについては日本輪界新聞社『自転車産業の歩み』第1集,昭和32年,48―51ページによる。
 4) 大阪鍍金工業組合『組合50年史』昭和42年,13ページ,なお東京の創業第1号宮川
電鍍工場の宮川由多加は前出の大阪宮林電鍍工場宮林操三の実兄である。
 5) 小山ギアはほどなく整理,佐藤ギアとなっている。
 6) 極東製作所石橋助司氏談。
 7) 『輪友雑誌』125号,大正元年11月,21ページ。
 8) 前掲『堺の自転車』21,22,36,37ページ。『小売店の回顧』96,97ページなど。
 9) 同上『堺の自転車』36,37ページ。大阪市役所産業部調査課「大阪の自転車工業』昭和8年26―33ページ。
 10) 前掲『組合50年史』16ページ,なおこの種の工場に関する纒った報告としては,大阪市役所『特殊形態工場の実例』大正13年,がある。
 11) 「輪界追憶座談会」前掲『日米商店三十五年史』所収,51―60ページ。
 12) 前掲『堺の自転車』37ページ。前掲『自転車産業の歩み』49ページ。
 13) 同上『堺の自転車』47ページ。
 14) 『輪友雑誌』122号,大正元年8月,20ページ。
 15) 前掲『堺の自転車』15―17ページ。
 16) 前掲『自転車の一世紀』221―23ページ。
 17) 「自転車をつくる村」大阪府立商工経済研究所『大阪経済の動き』No.25,昭和29年5月,33ページ。

第4節 大規模工場の形成と特徴
 すでに表19で見たが,明治42年に神戸に設立された日米ダンロップ護謨株式会社は日本の自転車市場の将来性に注目してイギリスから資本投下してきたもののようである1)。
翌43年には同社の敷地内にコベントリー市のプリミヤ自転車製造株式会社の分工場が創設され,わが国初の本格的一貫生産型大規模工場が創られた。同社は本国からコースター・ブレーキや三段変速ギアを取りよせるほかは,フレーム,ハンドル,リム,スポーク,チエーン,ギアクランク,フリーホイル,ペダル,ハブ,ブレーキ,ケース小物等金属部品全部の一貫生産を行ったといわれている。総発売元は石政商会の整理後,再編されて出来た丸石商会である2)。
 この年はまた「セット・フィッチング」と呼ばれる方式が本格的に導入された年だった。それは輸入商でセットになった分解部分品の輸入を行い,国内で組立,熔接,塗装をして完成品化するものである。この方式は旧型車では梶野仁之助の事例があるが3),いわゆる「安全車」(セーフティー)になってからでは,明治35年以降の角商会のものがある4)。その後,明治40年に双輸商会が東京でディートン号組立工場を創り,43年になってからは,二葉屋商会の東京自転車製作所(東京市四谷区),金輪社の松浦清三郎によるモノポール号組立工場(横浜),広瀬藤太郎の広瀬フレーム製作所(東京市本所区)などがいっせいに操業を開始している5)。これらはやがて「一流の自転車問屋株がドンドン和製の自転車を……舶来顔で卸してゐる6)」と批判されることになる。しかし,当時のわが国の完成車メーカーは,そうした動きに対応しえる体制を作らねば,解散整理に追込まれかねないという正念場に立たされたのである。
 岡本松造の岡本鉄工所は明治37年に本格的に「日本人の体格に適する常用車」の販売体制を作り,38年に1000台,41年には2500台と着実に生産販売台数を伸ばしていた7)。そして同社が明治43年に試みた「合理化」方針は,戦前の日本資本主義の諸条件の下で多くの企業が試み,なおかつ最も成功率の高かった,そのような「合理化」の模範解答みたいなものである。
 それは第1に,まず最近の工作機械を海外に求めたことである。明治43年,岡本松造は直接渡欧し,独,仏,英3国を回って一連の工作機械を購入してくる。その詳細な内容と結果が不明なのは残念であるが,それら「新鋭機が稼動すると……オシャカ(欠陥品)も少く頗る効果的となった」としている。彼はそれらを用いて折から出品中の共進会の展示作品を手直しして「三等賞」を得,一応の社会的評価を獲得する一方,会社組織を改め岡本兄弟合資会社とし,自社商標のエンパイヤ号を出している。工場は敷地1530坪,建坪905坪,社員23人,職工382人,原動力5基60馬力となり,この年の生産販売額は6200台に上昇している8)。
 だが,この成果は単に工場規模の拡大と新式機械の導入によってのみなされたのではなかった。「それは岡本自身もすでに自覚していたことであるが,部品は部品メーカーに任す方が,採算に合うのである9)」これが第2の鍵となったようである。
 両々相まった結果が大正初期の年間3万台という数字と大正3年の大正博覧会出品製品の「宮内省御買上」という実績に反映されているといえる10)。ただ残念なことに同社の下請育成の具体的方針や,それらの生産設備と技術の獲得経路についての直接的資料は残されていない。僅かに,名古屋の卸業者の遺した記録から,多少の実情を窺知れるだけである。
 「それ迄日本では只一つの木リムを製造しておられた新家リームの先代,新家熊吉氏がリム工業の視察に同じく英国へ行かれ帰国後は金リムが出来市販され……岡本工業の伸び行く姿に大きな刺激を受けた事も一つであるが,時代として各種各様な便宜を受け,大小とりどりのフレームメーカー及部分品メーカーが出来かかったのはこの時分である,材料に大きな便宜を得て,英式フレームが簡単に出来る様になりこれに準じて部品も英式のものが順次出来る様になった……11)」
 部品メーカーも,総じて中小零細層であるとはいえ,単に受身的に存在するだけでなく,この時代にはそれなりの展開力を内在的に持っていた。だからこそ,大規模工場の側も変貌する時代環境に対応しえたのだということになるのかも知れない。
 次に宮田製作所の場合について検討してみたい。同工場の場合,陸軍との結びつきが強く,日露戦争期は自転車生産を中止している。東京砲兵工廠の「御用工場」の指定をうけ,信管や担架の製作に集中したからである。しかし,その直前には軍旅団用自転車を400台受注し,軍用折畳式自転車も試作している。戦後の38年には伝令斥候用旭号に対し陸軍から「確認書」「実験書」が出され,軍用式自転車の製造販売を開始している13)。
 ところで,この時期までの宮田製品は米式踏切式であった,チェーン駆動ではあるが,フリーホイールないしコスターハブは使用されていない。完成車のうち自社製品はフレーム用パイプ13),ギアクランク,ハンガー,ヘッド,シート用小物,ハンドル,ハブ,ギア,ブロックチェーンなどである。購入部品は,リムが新家製木リム,泥除が飯田製作所製,他に実用車用のタイヤが三田土ゴム会社製のほか握りは木製品に皮革カバーのついた国産品だったとされている。輸入部品としてはサドルがアメリカのホイラー製,スポークが同じくトーリントン製,高級車用タイヤがアメリカのG&J社製ないしグッドリッチ社製で,鋼球は各国からの輸入品ですべてまかなっていたようである。
表20 日露戦争期以降の宮田製作所の新設備導入事例
 しかし明治30年代末にはフリーホイール付の英図製自転車に人気が集まり,これに対して宮田製作所は「旭コースター」で専売特許を取り,英式車の生産に入っている。さらに41年には在来の製品との関係を考慮し,ヘッドとハンガー部を英米式共通式に改良し,製作と補修の便宜を計っている14)。
 このような製品内容の高度化は,一方でのより高度な新規設備の導入と相応しながら進められている。明治37年から40年にかけて同工場が採用した主な設備は表20に示したようなものであるが,幾つかの興味のある事実が窺える。
 第1にすでに民間の機械工場で一定の工作機械生産が定着していることが指摘できる。フリクションプレスの応用は当時の小型鍛造部品生産上で最も進んだものであり,民間機械金属工業部門ではまだ十分には使いこなせていなかったものである15)。
 第2に民間機械関連業者間の交流がなされていることである。ブラウン・シャープ社製の一連の自動機械は少し前に精工舎に入っていたが,小型ネジ類の生産に頭を悩ましていた宮田製作所の経営陣が,精工舎の職工から吉川製作所を創業して「独立」した小工場主に相談をもちかけ,同人の斡旋で精工舎から譲り受けている16)。吉川製作所でも工作機械の改造や製品の仕上げなどについて,宮田製作所に相談を持ち込んでいる17)。
 第3に,にも拘らず,すでに表6でも見たが,当時は自動機械に関しては,国内で最高の技術力を持っていた軍工廠を含めて,まだまだ圧倒的に外国製品に頼らねばならなかったことである。
 こうした事と関連して,下記のような指摘もある。
 「本邦貿易の拡張によって種々の機械が流れ込んだのは明治四十年前後からであるが,その頃から自転車専用の機械も丼々輸入され始めた。自転車製造業者に依って機械の改良が考えられ出したのもこの頃である18)」
 自転車メーカーの経営者は同時に職人であり技術者であったが,彼らは必要な機械を創案すると単に設計図を引くだけでなく,工作機械メーカーの工場に泊り込んで共に工夫を凝らすことも珍しくはなかったという19)。
 とまれ,こうした一連の新規設備の導入はなされ,それによって後に同工場の固有技術のように言われることになった幾つかの工法が開発される。鋼板のプレス加工によるラックの製作,文字打抜模様のギアの製作などがそれである。これらは外国技術雑誌のチェックを担当していた宮田彦之助20),が『アメリカン・マシニスト』の掲載記事を見て実用化を考えついためだとされている。またりミットゲージ・システムが採用され,検査班が創設されて定員配置されたのも明治40年頃からである21)。
 こうした体制が整うと,需要急増期に入っていたこともあって,「順調堅実な22)」経営発展期を迎えることになった。
 「英米式アサヒ号及パーソン号自転車の吾輪界に孤々の声を挙ぎし以来未だ数年ならざる今日,製造既に月一千輌を超ゆると錐も,日として約定ある需要を満たす能わざる迄に販売倍々盛況なるに反し輸入自転車の現今は日を追い減退するに至れるは国家のため真に賀すべきことにして……(後略)23)」
 「我邦に於ける個人交通機関として自転車の実用は将にその全域を靡さんとす。蓋し都市に於ては公衆交通機関整備し,又自動自転車の乗用漸く盛んとなれる今日と雖も普通自転車の需要はより遙かに増大しつつありて,少許の走使にも尚且使用せらるるのみならず地方に於ては僻邑寒村到る処輪影の遍きを見るに至り,今や自転車の要望は都鄙一般の声となれりと云うも敢て過言にあらず,此の時に方り我邦自転車及其の部分品の製作漸く隆盛に赴き東京市に宮田製作所,愛知県に岡本兄弟自転車製作所の如き大工場を見るに至れるは好く時勢に適応したるものにして,曩に明治四十年東京勧業博覧会に於ける自転車の出品は外国品との比四と一なりしものが今回その比を代え一と二の比となれる外,初めて部分品の出品を見,又其の若干には進歩の跡歴然たるものあるを見るは聊か快心の至りに堪えず。又製作も改良を要すと認むべき点なきにあらざるも概ね現代的にして,構造堅牢,品質良好,価格又廉にして甚だ実用に適す。而して宮田の製品は別に意匠の薪新なるものなしと錐も其の製作練実にして斉整に内地製品中他に匹敵なく,岡本の製品は数個の新案特許の点あり24)」
 だが残された課題もまだまだ多かった。『東京大正博覧会審査報告書』でも「最後に一言附加を要するは,自転車の部分品たるボール,スポーク,チェーンの如き未だ之が製作に従事する者なく,一に外国品の供給を仰ぐは頗る遺憾とする所なり25)」と釘をさしている。ところが,実情はもう少し複雑であった。
 この後の時期をとってみると宮田製作所は自社製作品として「フレーム以外にハンドル,前後ブレーキ,ギアクランク,チェーン,前後ハブ,ペダル,フリーホイル,フレームポンプ,ヘッド,ハンガーシートの小物類等」までを掲げている。しかしそれらについても現実にはまだまだ輸入品の依存率が高く,自社製の「これ等の品を利用したのは主として九州地区(に販売する製品)で,名古屋および東京の四店(に出す製品)におもに舶来の部分品を使用していた」と同社社史で率直に述懐されている26)。
 「名古屋および東京の四店」とは,明治40年に関西以西の一手販売権を得た前田栄市商店と,すでに表4で見た岡本商店,照井商店,仁藤商店のことであろう27)。この時期の宮田製品は殆どこれら4商社の手によって販売されていたのが実情であるから28),自家製部品の比率はまだかなり低かったと見なければならない。事実,「宮田は横山より部品を仕入れて国産品を造っていた」という指摘すらある29)。横山商会とは明治29年に神戸で貿易商として開業,37年にはレロイ号自転車の直輸入元となった商業資本である。
 また明治35年に自転車への専業化方針を打ち出して以来,下請の育成にも力を入れている。『自転車の一世紀』には岡本銃砲店主の談話が紹介されている。
 「宮田さんが自転車の製造を本格的にはじめられてからまもなく,部品をつくることを手つだってくれないかとたのまれました。銃の仕事は夏場はヒマなので,その時期だけシートポストの製造を引き受けました30)」
 またチェーンケースに関しては下記のような指摘もある。時期は明治30年代のようである。
 「ケースのメーカーの先祖は,東京では番町に住んでいた中村某氏であるという。中村氏は宮田製作所のケース下請専門メーカーであったという……31)」
 のちには梅澤製作所も宮田製作所用のチェーンケース生産に入っている32)。さらに,ネジ類などの小部品は吉川製作所が行っている33)。
 要するに国内外注部品は社史に掲げられているよりかなり多く,下請関係の組織化も早くからなされている。ただ,問屋制的な下請の場合に比較して,部品生産者の相対的独自性が強いことは特徴的である。吉川製造所主が宮田製作所経営陣と友人とでもいえる関係にあったことは前記の通りであるが,梅澤製作所も,のちには自転車部品に特化するが,この時期にはカメラやラジオ部品などを手懸けており,ケース生産に関する特許をとったりもしている。
 ともかくも,こうした諸関係の存在は,下請関係の程度や形態は別にして,部品生産者の固有の発展力ぬきには,宮田製作所の「進歩ニ依リテ完全ニ実用向普通品ヲ製シ得ルニ至レル34)」歴史もなかったとも言えるだろう。
 つまり,利用可能な最新技術への対応力の早さ,固有技術の開発姿勢,職人的経営者を含めた関係業者との結束,部品生産者や加工業者の内にも存在した技術と生産に関する向上意欲拡大傾向を見せていた実用型車への進出,こうした諸側面こそは,貿易商の兼営組立工場には欠如していたものである。それらこそが,国内完成車メーカーの優勢化しえた諸要因になっていったと言えるのではあるまいか35)。
 このような積極性を示した大規模工場制工業による完成車メーカーも,実はこの時期,販売面に関してはまだまだ制約条件を抱えていた。明治39年に「実用向安価車」として「パーソン号」を新発売した時も,岡本商店には「エンゼル」照井商店には「ファスト」ないし「アーミー」といった問屋指定の商標で納めている。明治40年に名古屋の前田栄市と契約した際も,「パーソン号」で出すことにはなったが,「関西以西の一手販売」権を握られ,独自の市場開拓努力は放棄している36)。新聞雑誌等の宣伝にしても,まず問屋名と彼等の商標があって,末尾にやっと小さく「製造元宮田製作所」と記されていることが多い。下請メーカーの選択すらも問屋の手でなされたりしている37)。
 事態が変りはじめるのはやっと大正時代に入ってからである。大正初年に宮田側の提案で問屋商4社と宮田製作所の5者で「販売上の種々の問題を確認」する目的で二日会なる集まりが定例化されている38)。こうした動きがやがて宮田自身による全国販売網の整備へと繋がっていくことになるが,それは第1次大戦後の時期のことである。この時期に限っていえば,やっと第1次大戦期になって,新聞雑誌上の宣伝で生産者のブランドと宮田製作所名がなんとか中心におかれるところにまでいったに止まるようである。

 注
 1) 前掲『自転車の一世紀』217ページ。
 2) 同上書,218ページならびに山口佐助編『丸石の足あと』株式会社丸石商会,昭和29年,8―13ページ。
 3) 前掲『地方輪界の歩み』41ページ。
 4) 前掲『大阪の自転車工業』11ページ。
 5) 前掲『宮田七十年史』36ページ。
 6) 『輪友雑誌』122号,大正元年8月,20ページ。
 7) 前掲『自転車万歳』31ページ。
 8) 同上書,31―35ページ,186ページ。
 9) 同上書,38ページ。
 10) 同上書,41,43ページ。
 11) 前掲『中京輪界五十年の回顧』10ページ。
 12) ところで国内の軍用官庁用の自転車は「官公署用無税自転車」とされ,一般の「有税自転車」とは別扱いされ,鑑札も異なっていたが,国内では有税,無税別の統計がないので実情がわからない。僅かに昭和10年の朝鮮の数字を参照しうるだけである。それによると,民間使用の有税車に一部公用有税自転車のみでは朝鮮13道で合計27.2万台に対し,無税車13万台となっている。警察権力の強い当時の情勢下で,民間の無税車つまり脱税自転車は殆ど存在しえないはずだと自振協の佐野裕二氏は語って居られた。なお数字は西部輪界新聞社編『鮮満輪界要録』昭和11年1―3ページによる。
 13) 明治40年にフリクションプレスが入るまではまだ「鉄板を短冊型に裁断し真金を入れて,鉄槌でたたき管状になし……真鍮鑞付」という方法で製作している(『宮田七十年史』25ページ)。それでも民間の機械金属産業でプレスが導入され,しかもその応用の為の改善が加えられた点では自転車産業は先駆例をなすものであったようである。それについては,次のものを参照されたい。『プレス技術』9巻11号。
 14) こうした方式は宮田製作所内で「インターチェインヂェブル・システム」と呼ばれ1つの経営理念のようになっていく。
 15) 例えば「加熱鋲螺釘製造の草創期」『創立30周年記念式典誌』関東鋲螺釘工業協同組合,昭和43年,などを参照されたい。民間機械工業部門でフリクション・プレスの使用が一般化するのは第1次大戦後である。
 16) 前掲『座談会速記録』18ページ。
 17) 同上書,15ページ。
 18) 前掲『大阪の自転車工業』15ページ。
 19) 田嶋栄吉氏談。
 20) 宮田彦之助は所主の2代目栄助の実弟で東京高等工業学校附属工業学校卒,経営者が職工かちの「叩き上げ」であっても,子弟が高学歴化していく傾向は,この時期にはもう顕著になっている。
21) 以上宮田製作所関連の記載事実のうち,特に注を付していないものはすべて,『宮田七十年史』21―38ページによっている。
 22) 同上書,39ページ。
 23) 宮田製作所明治42年度の製品カタログによる。ここでは前掲『自転車の一世紀』225ページから転載した。
 24) 『東京大正博覧会審査報告書』第一巻,大正2年,58ページ。
 25) 同上書,59ページ。当時さかんに開催されていた官庁主催の各種博覧会は,単に国産奨励に限らず,輸入品にも門戸を開けながら,なおかつそれら製品に対する技術上の分析を行っている。だから各博覧会の『審査報告書』に国内の生産者にとっては,より高度の生産への展望と技術上の諸課題を確認する上での,技術指導書ともなっている。ついでながら明治40年の『勧業博覧会審査報告書』巻四,216―19ページでは当時の代表的輸入自転車のフリーホイール,引抜き鋼管,各種ブレーキ,コースターの構造と素材が丁寧に紹介されている。宮田製作所が独自のコースターで特許をとるのはこの頃である。
 26) 前掲『宮田七十年史』56ページ,カッコは筆者による。
 27) 梅津旭商会は廃業している。
 28) 例えば,前掲『宮田七十年史』21ページなど。
 29) 前掲『地方輪界の歩み』80ページ。
 30) 「先代岡本銃砲店主岡本光長氏の談話」前掲『自転車の一世紀』16ページ。
 31) 前掲『自転車産業の歩み』第1集,50ページ。
 32) 前掲『梅澤60年の歩み』35ページ。
 33) 前掲『座談会速記録』15ページ。
 34) 農商務省工務局『主要工業概覧』明治45年,365ページ。
 35) 日本資本主義のこうした側面に注目し,そこに何か強靱な特異体質を感じ,やみくもに積極的評価を与えようとする経済史家も最近は多い。総じて現実に交する安直な追従感覚に淵源しているかのようである。
 36) 前掲『宮田七十年史』24,34ページ。
 37) 前掲『梅澤60年の歩み』35ページ。
 38) 前掲『宮田七十年史』57ページ。

第5節 徒弟制度と雇傭関係
 明治末期には,自転車のみならず,多くの商店において奉公人制度なり年季制度と呼ばれるものが崩れつつあった。そのことはすでに述べた。だが一定の秩序の動揺と再編成がなされる時期というのは,それまでの制度の担い手が多様に分岐しはじめることでもある。そうした多元的状況の個々の局面が次の時代との関連において持つ意味を考える上でも,ここで多少の検討を試みておくことにしたい。
 当時の自転車店では10歳前後の少年が「奉公人」なり「小僧」(ボンサン)として入店すると,まず次のような生活が始まる。ここでは経験者の回想をそのまま引いておこう。
 「さて自転車店の小僧としての私の仕事は,朝晩の拭掃除,陳列商品の手入,これは必らず毎日一回やったものである。それから自転車の修繕の見習,手伝いで,自転車の修繕といえば,まあちょっと小鍛冶屋のような仕事で,店には旋盤やボール盤の設備もあり,これらの使用も見習ったのである。(中略)その当時は旋盤を回すのにも電力の設備などあろうはずはなく,職人が旋盤を使う手回しをやらせられたものである。これにはさすがに弱った。十分や二十分は元気よく力を入れてプーリーを回しているが,三十分,四十分になると疲れがきてだんだんと腕が鈍ってくる。すると職人に小金槌でコツンと頭をたたかれたものである。
 ちょっと考えると乱暴なようであるが,その当時の職人気質というものはすべてこんな手荒なもので,皆こうしてたたき込まれ,一人前の職人になるというような習慣の残っておった時代であるから,いかに悲憤慷慨しても問題にならない。否、問題にすることがすでに問題になるというような時代であった……1)」
 こうした徒弟生活は「その本人の才,努力にもより,店の養成方法にもよるが略々一年乃至一年半位2)」続くことになる。それから徐々に,前後車輪ハンドル,サドルの分解と組立て,チェーン,ペダル,リムの修理,部品の質の良否に対する判断力,フリーホイールやコスターなど複雑な部品の分解と修理,そのための旋盤などの操作能力,こうしたものの修業に3~5年を要することになる。この間店貝は殆んど住込みで生活する。年期が明け,「一人前」と呼ばれるようになっても引続き2~3年在店することが多い3)。
 問題はこの後である。東京では第1次大戦後の時期になっても「殆んど総ての商店が旧態の年期奉公制を取り,入店当初に契約して年期明けに……まとまった金を与へ,独立の際の資本に当てる様にして居る」とも言われている。有資格者となったものは「お礼奉公」とも言われる2~3年の在店期間中に「略々地盤を開拓し,顧客を得て後開業する」ようになっていた4)。
 それに対して大阪の場合,「各商店に就き其内情を見るに雇主と被雇人との間は頗ぶる冷淡にして……年季到達間際に於て種々の口実を設けて(主人の側から)其約を破らんとするもの甚だ多きを認む5)」と言われている。
しかしこの指摘は限定された意味で理解されなければならないようである。というのも,年季があけ,暖簾分けのための資金援助や顧客の手配などがよくなったにしても,それは必ずしも被雇傭者が自力で開業することを妨げるものではなかったからである。しかも,そうした趨勢は,卸業の場合でも昭和10年代まで,小売の場合なら第2次大戦後においても,まだ広汎に認められるのである6)。
まだ広汎に認められるのである6)。
 たしかに当時の一般的な商家使用人は住込み制の下で,私的生活に関しても24時間拘束を受けているような生活構造の下に置かれていた。日用品は支給されるが,月2日の休日といっても半日は主人の家の掃除などに使われた7)。主人を含めて目上の者が店で仕事を続けている限り,どんな深夜でも彼らは職場を離れることができない。最後の後片付け一切が徒弟の仕事だからである8)。
 私的な生活の自由が与えられず,しかも将来の「自立」の道も閉ざされてきたとなれば,雇傭関係が不安定化し,人間関係までも狂わせる時が出てきたりする。
「其の甚しきに至っては主家の貸物を窃取するもの主家の金銭を拐帯するもの等は往々見聞するところにして,殆んど監視人に盗心者を任ずるが如き……9)」
 しかし公私両面での拘束性が,そうした格好にのみ屈曲していくと見るのはやや性急である。そこでの人間関係が独特の教育の場たりえることもあったのだから。
今一度、当時の経験者の体験談に話を戻そう。
 「こういうような鍛冶屋の弟子としての見習のかたわら,また一面商店の小僧として,お得意先への使いや,また,主家の親戚縁者への使いなどをし,一面奥様から,物の言い方,御礼の仕方などねんごろに教えを受けたものである10)」
 「五代商店の主人は,船場の伝統に従って,店員のシツケも厳格であったが,商売について,はっきりした信念を持っており,値切る客があっても,利益を削る商売は長く続かないし,サービスも行きとどかないからといって断わり,自分が決めた価格から値引しない方針を固く守り,集金も厳格であった。同時に客に奉仕することを常に心掛け,得意先に売った自転車の調子を聞きにまわることから,得意先の方へは足を向けて寝ない心組みまで使用人に教え込んだ11)」
 この当時,大都市の伝統的商家の中には,「家訓」を掲げ,使用人のみならず経営主,更にはその家族構成員にも一定の行動準則を課す場合があった。些か独特の文体であるが,一例を示しておく。
「一 従先祖申伝之通家業専とし世事を重し奢無之様可相慎事
(中略)
 一 商人ハ主従とも友達之事ニ候へ者家来を慰み下よりハ主人を大切ニ忠勤を励家内権式無之様ニ心掛可申候自然子孫次兵衛身持不行跡成義於有之者手代共申合異見之加へ可申候其義不相用致我儘家不相続之品ニ相見へ候ハ,一家并別申両見世手代打寄相談上為致隠居名跡見立家督譲り替可申候……11)」
 勿論こうした準則は私的な領域で諸々の偏差をもって存在していたにすぎない。まして歴史的に純化され,社会的通念として普遍化されていった訳でもない。否むしろ,次の時代にはこうした自己規制を蔑ろにする形で,偏奇的な商品貨幣経済の浸透が進んだ側面すら窺える。そうした点については別稿で検討するしかないが,この明治末期という時代は,一個の自転車店員,一介の旋盤工が著名な経営者に社会的上向するための契機を掴める土壌が存在していた時代である。また逆に商店内の規律のなさを見限って逃げ出した人間が,大学に進んで経済学者になることすらも可能だった。そうした条件がともかくも存在した時代だったのである12)。
 そうした時代の雰囲気を,当時の職人達の行動様式にも見ることができる。
 「いづれの業種でも職人気質と言うものがある。メッキ職人も腕の良い者程頭株として同僚や世間から尊敬されたから職人は大いに腕をみがくことに専念した。
 大体大正初期は未だ,所謂“ぼんさん”からたたき上げた職人は少ない時代で,金銀のかざり職人,或は中年から研摩職人を志した人が多かったから,業種による特殊性をもった気質は目立たないが,“何々メッキの何某”と名前を知られるのには相当の努力を重ねた。“何某は1日に自転車ポストを何本研く,或は鏡枠を何ダース仕上げる[ママ],と言う様な噂は数少い同業の間にすぐに噂立って,本人も勿論誇りとするし,親方もそういう腕ききの職人を傭っていることを自慢にし大いに優遇した。
 “何々メッキの何某は腕が良い”と聞くと親方の許可を得て,その工場へ他流試合に出かけるようなこともあった。2,3日の間,先方の工場でその職人と一諸に働かせてもらって,そこの親方から腕がよいと認めてもらうと,これが自慢の種となり,腕ききの職人として大手を振って世間を渡れたものであった。自分愛用のパフ等を縄にくくって肩にかけ,大阪から京都あたり迄歩いて,(夜中に天満を出ると暁方京都へ着いたそうである。朝めしの代りにやき薯を喰べて7時迄にはさきの工場を訪れる)行ったという。
 親方がいい腕だとほめてくれると2,3日働いて日当ももらわずによろこび勇んで帰阪した。
 又,近畿一円の町々を渡って歩いた人もいた。町や村には,米つき水車を利用してパフレースを取り付けている処があり,自転車等の修繕物を研いて歩いた。
 メッキ着けは主に親方の秘伝で,あまり公開をしなかったので,職人も数少く,移動も目立たなかったが,地方を廻って仏具や,身廻り品の修繕がはやったらしい。そのためメッキ着け職人はいつも金の指輪を手ばなさなかったそうである。
 研き職人でも,生地研きの方は“研ぎや”或は“研ぎ師”と言われて,仕上げ専門の“仕上げ師”より一段格が上であった。仕上げに廻されるということは面子の問題であり,一層腕をみがくのに精を出した。
 メッキ職人は,研ぎ職人達がいたずらや,反感から研摩した品物にパフごみと油をねってぬり着けて置くのを文句も言わず鼻歌まじりで,アクで油取りしてメッキするぐらいでないと一人前の職人として扱ってくれなかった13)」
 自立心と,自己の技能に対する誇り,新しい技術への関心と仲間同士の自由な交流,そうした点を感じることができる。諸々の限界が眼につくにしても,多くの直接的生産者にとってはそれなりに闊達に振舞えた時代だったようである。
 徒弟制度を基軸とした雇傭関係は完成車メーカーでも同様に維持されている。宮田製作所の事例を見ておこう。
 「従業員も住込の弟子と通勤の職工とはっきり区分されていた。徒弟の仕込は特に厳しく,弟子はどんな仕事でもどんな機械にでも精通していなければいけない。
 鍛冶屋が休めば鍛冶屋もやる,旋盤工が休めば旋盤工にもなる。鑢の使い方も一人前でなければならない。従って年期も小学校卒の頃から,徴兵検査頃までで,年期が明けてはじめて一人前の待遇を受けた。……14)」
 とはいえ,こうした大規模工場では,幾つかの特殊な事態も認められる。同社はわが国では最も早く「日曜休業を断行した自転車工場」といわれているが,同じ明治40年頃に夜業も廃止されている。そして「休日しか出来ないシャフト,ボイラーの手入れは(栄助の)弟彦之助が受持つことと」なっている。「さらに所主は徒弟全部を市立工業補習学校に入れて夜間修学をさせた。また柏木の牧師外村某氏に依頼して月一,二回,休日の夜に修養講演を開き従業員とともに所主も聴講した」とされている15)。
 経営者自身の作業意欲,徒弟や職工との日常的接触,余暇管理,そして固有の技術力の高さと,経営と組織の「順調堅実な」拡大傾向,こうした諸要因が重なったことにもよるが,実は同工場からの離職開業例が,前記真島安太郎など早期の例を除いて殆ど見られない。それだけ近代経営としての安定軌道に入ってきたことと,本格的な資本賃労働関係の成立を示すものであるように見える。ただ被雇傭者にすれば自立開業するには高度の機械操作に慣らされすぎた反面,能力あるものは拡大しつつある職場組織の中でそれなりに登用される可能性が残されていたことにもよるのであろう。この点については商業資本の事例で見ておこう。
 この時期に貿易中心に業界最大手の取扱い商となっていた日米商店では,高等商業出身で明治45年以降衆議院議員にも出ていた社主岡崎久次郎を除けば,14,15歳で入店して丁稚奉公から出発している者も少くなかった。創業期の「小僧さん」下村斎次郎は,入店後に商業学校にも通い,25歳で大阪支店長,大正5年には理事となっている。江田忠吉も同様の経歴で入店,通学ののち,台北,京城,久留米の支店,出張所設置にあたり,やはり理事になっている16)。その頃の自転車選手佐藤彦吉ものちに会社幹部の1人となっている17)。貿易商としての必要から,明治40年頃からの入店組に高学歴化の兆が見えるが,それでも一様に倉庫番,出荷係などの手作業から出発させられている18)。経営主夫人も店頭で働き,職場はまだまだ家族的雰囲気と,道場的教練の場の性格を持ち,能力と努力によっては出自学歴も問題にされない状況が垣間見られた。明治末期から機構の整備と,人員の増大に伴い,組織中心の体制に急速に移っていくが,創業独特のエネルギーに溢れた時代は間違いなく存在していたようである。
 注
 1) 松下幸之助『私の行き方考え方』衣食住出版,昭和29年,19ページ。
 2) 東京府学務部社会課『職業調査』第三輯,昭和9年,124,125ページ。
 3) 橋本博文氏,大津幾次郎氏談による。
 4) 前掲『職業調査』125ページ。
 5) 『輪友雑誌』115号,明治45年1月,2ページ。
 6) そうした独立開業時に,かつての勤め先との直接的な競合関係に入らぬよう,製品や市場の選択に苦慮することは多かったようである。そうした事情については川村浩明氏,杉村陽氏,中谷寅蔵氏かちご指摘を頂いた。
 7) 中谷寅蔵氏談。
 8) 前掲『組合50年史』28ページ。
 9) 前掲『輪友雑誌』115号,2ページ。
 10) 前掲『私の行き方考え方』20ページ。
 11) 西村大治郎方「西村家家訓」による。こうした文面は三井家の「宗竺遺書」にも見られる。それについては三井文庫編『三井事業史』資料編一,三井文庫,昭和48年,ほかを参照されたい。
 12) 高橋亀吉『高橋経済理論形成の60年』(上巻)投資経済社,昭和51年。
 13) 前掲『組合50年史』17ページ。
 14) 前掲『宮田七十年史』39ページ。
 15) 同上書,38,39ページ。
 16) 中込清『ある老人の郷愁』(自家本)54―56ページ。前掲『裸一貫より光の村へ』100―02ページ。
 17) 同上書ならびに,前掲『地方輪界の歩み』34ページ。
 18) それについては前掲『ある老人の郷愁』に多くのエピソードが述べられている。

終章 結論と今後の課題

 本稿では事態の明るい側面にスポットを当てすぎたようにも見える。しかし明治中期から後期にかけては,中小の生産者,商人達の固有の禁欲主義と営業努力が,それなりに報われもした時代だったのではあるまいか。
 しかし,そうした結論には重要な留保条件をつけておかねばならない。当時のわが国の就業構造はまだ圧倒的に農業に偏っており,しかも農村における旧時代からの諸規制の一掃は,タテマエはともかく,まだまだ進んでいなかった。なにより農業経営は,地主制に停滞したまま変化の兆しに乏しかった。だから自転車などの資本制的商品も,都市の中流家庭,農村の名望家層以上にはほとんど浸透してはいない。より一層の市場拡大が問題になる第1次大戦後の状況に一応の結論が出るまでは,本稿で見たような中小の生産者と商人を中心とした生産と流通のあり方についての歴史的評価を下すことには問題が残る。だからここでは,明治期と一部大正初期のものに限定して.本稿なりに検討してきたことを小括するに止めなければならない。
自 転車産業は一般的には修理業と補修部品の生産から始まり,徐々に範囲と規模を拡大してきたとされている。本稿でもそうした通説に反論を試みはしない。ただ完成車メーカーはむしろ当初から一貫型生産を試みている。下請外注を導入することも並行的になされているが,むしろ事後的だったともいえるのである。
 明治期の自転車産業の主たる担い手が中小規模の部品生産者であることは疑えない。ただ彼らは修理業やときには小売業者とも入り混った社会層を形成している。
本稿で注目しておきたいことはそうした中小業者が広汎に形成される社会条件が成立しつつあった点である。以下並記する。
 徒弟制や丁稚奉公制はそれなりに厳格なものであった。しかし熟練職工として「一人前」になった者への評価は高く,彼らと職人親方的な経営者との距離感は殆ど存在しない。
 そうした熟練工は,また比較的自由に職場をかえ,多少とも主体的に自己の技能を高め,新しい技術への関心を追及することができた。なにより「独立開業」が容易であり,明治中期では,自分と関係のあった職工の自立を誇り高く思う職人親方的経営者も少くなかった。
 こうした中小経営においては,仕事の場が同時に教育の場でもあった。義務教育の普及が国民経済の産業化に対して果した役割を重視する意見も多いが,付属の資料の多くからも見られるように,何人かの経営者ではそうした義務教育もまともに受けていないことがわかる。むしろ,こうした中小経営内の職業観,倫理観の存在と継承の方が,後に著名となった幾多の経営者の経歴を見た場合,より重要な役割を果したように思われる。
 新技術への関心を持つ熟練工にとって,軍工廠の果した役割も見落せないようである。先端技術の導入と消化の場が軍事関係の国家施設にしか存在しなかった点に戦前期日本の基本体質と限界があったとも言えるが,多くの者が一応の生活を保障され,比較的自由に出入りし,雇傭,再雇傭もなされたことは,熟練工にとってより広い活動舞台を与えるものになったし,相互の競争心を刺激するものにもなったようである。
 このような諸側面に,日本社会の体質的強靱さの根拠を認めようとする見解も多い。現実にこうした世界と諸条件の下を生きぬいてきた経営者も比較的最近までのわが国財界人にはしばしば見られた。そうした現実の存在が,独特の日本型産業化謳歌論の社会的根拠にもなっていた。一方,こうした見解に否定的論者は,前記諸側面については「後進性」なり「前近代性」の表現形式にすぎないとして,殆ど関心を示してこなかった。そのことによって歴史概念としての「賃労働」の内包が貧困化することの意味もさほど配慮されなかった。
 問題は,上向転化を始めた一部経営者層にとってはどうであれ,広汎な直接的生産者にとっては,そうした諸関係が否定されつつ次の時代への移行が始まっていた点にある。そうした傾向はすでに一部の大規模工場などに見えはじめている。ただし,この点に関する判断は,第1次大戦期以降の時期の分析をふまえてからなされるべきであろう。
残された課題も多い。
 中小商工業部門に対する政府の保護育成策はこの時代には基本的にはなかったと言ってもいい。しかし,総じて規制的性格の強い幾つかの法律条項を,逆に中小商工業者が自己の活動の条件にしていくこともあったのである。それらについても次期との関連で別に検討されねばならない。また当時の博覧会が果した社会的機能については今後の研究がまたれる。少くとも当該部門の事情から見る限りでは,かなりの社会的効果を持っていた。
 次に,戦前期のわが国機械金属産業の発展が多少とも軍事的性格と結びついた性格のものであったことについて,機械金属産業全体の構造の中で,自転車やミシン,その他中小工作機械工業などの位置と諸条件が明らかにされなければならない。過大な問題でもあり,その幾つかは別の機会を期すしかないが,若干の諸点については別稿で試みたいと考えている。
 さらに,国内市場の深化に関しては充分なデータ上の整理をする余裕がなかった。
筆者の力の至らなかった点をお詫びするしかない。また,今回の調査においても多くの人に御迷惑をおかけしたし,今もなおそうした状態のままである。この場をお借りしてお詫びしたい。また資料作成などで再三御世話になった国連大学関係者各位にも改めてお礼申し上げたい。