雑貨産業

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わが国掛時計製造の展開と形態

著者名: 武知京三
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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 目 次

はじめに・・・・・・・・・・2
Ⅰ わが国掛時計製造の定着過程・・・・・・・・・・4
Ⅱ 掛時計製造の発展とその論理・・・・・・・・・・9
 (1) 明治後期から第1次世界大戦まで・・・・・・・・・・9
 (2) 第1次世界大戦から第2次世界大戦まで・・・・・・・・・・11
Ⅲ 生産機構の特質について・・・・・・・・・・22
おわりに・・・・・・・・・・28


はじめに

 わが国における時計製造の歴史は比較的古い。16世紀の中ごろスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが来朝し,周防国の領主大内義隆に贈った「大きな精巧な時計」がわが国へ伝来した最初の機械時計であるといわれており,その後17世紀に入ると,外国品を模倣した機械時計が製作されるようになった。しかし,鎖国により日本の時計技術者たちはヨーロッパの技術から切り離され,わが国伝来の手工業技術に基づく,美術工芸品的な時計を製作し,いわゆる和時計とよばれる特殊な機構の時計に退化していった1)。この和時計の生産は,幕府諸藩からの特権的な保護をうけて,永い伝統をほこり,明治初年まで約2世紀続いた。もっとも時計の基本的な原理や機構にこれといった進歩がみられたわけではなく,動力装置はほとんどが旧式の重錘式のものであり,ゼンマイ式のものは数えるほどでしかなかった。調速も冠形脱進機によっていた。この間ヨーロッパ諸国やアメリカでは時計の世界に大きな変革がみられたのである。和時計は,こうした技術的遅れに加えて,明治初年以来大量に輸入されはじめた安価なアメリカ製ボンボン時計に圧倒され,1873年の改暦によって致命的な打撃をうけ,文明開化の波の中に消えていった。
 ただこの間,からくり儀右衛門の名で知られている田中久重が,1850年400日巻自鳴鏡を完成したことや,1862年留学生としてオランダへ向かった一行の中に大野弥三郎規周という時計技術者が含まれていたことは注目に値する。とくに大野は,1867年に帰国してから1886年に死亡するまでの約20年間に,東京や大阪などで多くの時計技術者を養成し,彼の指導をうけた時計技術者が明治初期に創設された時計製造会社に入り,技師あるいは技師長として,日本の時計産業の発展に大きな貢献をしたといわれる2)。日本時計産業の黎明期の一齣として重要な意義をもつ点である。
 さて時計は,一般にウォッチ(携帯時計)とクロック(掛・置時計)に大別されるが,本稿では,後者とくに名古屋の掛時計製造に焦点をあわせ,その展開過程をあとづけることにしたい。最近は急速にその地位が低下してきたものの,名古屋の時計産業は永い伝統をもっている。しかし,名古屋時計産業史の調査を志して,同地を訪れても大した成果は期待できない。戦災による資料の散逸に加えて,現在では斜陽化してしまったため,資料蒐集そのものにも意欲がうすらいでいる面も否めないのである。この点は名古屋地区時計製造業の基盤とも深くからみあっていると思われるが,一般に日本時計産業史に関する研究は,欧米諸国と比較して,必ずし
も十分な蓄積があるとはいえない。時計学会の歩みも平担なものではなかったようである。数少ない時計産業史の研究者山口隆二氏も,つとに指摘されるところであり,かつて氏は,「日本時計学の貧困を克服する途は先ず時計文献の蒐集と利用から始めねばならない3)」と注意を喚起し,多くの先駆的な仕事をされた。最近の成果としては,「大阪時計製造株式会社―フィリップ・ヘンリ・ホイーラーと日本携帯時計産業成立の由来―」(1)~(5)(国際時計通信社『国際時計通信』第1巻第3号~第2巻第1号,1960~1961年),「日本時計産業史覚書」(1)~(5)(同上誌,第7巻第2号~第9巻第4号,1966~1968年),「日本時計産業史はどのようにすれば可能となるか?」(1)~(V)(同上誌,第20巻第1号~第20巻第11号,1979年)などがあり,本稿作成にあたっても少なからぬご教示をえた。さらに,さきに注記したとおり,同氏が監修を依頼された,『時計史年表』は時計業界の歩みを鳥瞰した1つの成果である。
 また平野光雄氏も,『明治前期東京時計産業の功労者たち』(1957年),『精工舎史話』(1968年),『服部金太郎翁伝覚書』(1971年),『時計王服部金太郎』(1972年),『吉川鶴彦伝』(1973年)などを発刊され,日本時計産業史研究に貴重な1頁を築かれている。その他ごく最近株式会社服部時計店資料室が開設・公開されたことは,今後の時計産業史研究にとってきわめて大きな意義をもつと思われる。同資料室では内外の時計産業に関する資料や文献蒐集をめざしており,また経済史・経営史の専門家の指導をあおぎ,日本時計産業史の編纂を計画しているという。目下社内向けにセイコー・ライブラリーの発刊や時計技術史に関するヒヤリングを行なっており,その成果が注目される。このほか株式会社堀田時計店でも,『時計文献蔵書目録』を発刊するなど,その文献蒐集に努めており,業界では異色の存在といえよう4)。
 ところで,山口隆二氏は日本時計産業史の時代区分を,次のようにされている5)。
 第1期 機械時計の日本への伝来(1549~1578年)
 第2期 機械時計の日本における製作(1579~1638年)
 第3期 和時計の時代,機械時計の日本化(1639~1861年)
 第4期 日本時計産業の黎明期(1862~1891年)
 第5期 日本時計産業の発展期(1892~1945年)
 第6期 日本時計産業の世界市場への進出(1945年以降)
 日本時計産業の本格的な展開は,氏のいう第6期以降のことであり,この時期は別名日本時計産業史の本史ともよべるとされている。したがって第1期から第5期までは日本時計産業史の前史というわけであるが,本稿の対象たる名古屋地区時計製造業は,後述するように,いわば山口隆二氏のいう前史がその華やかな時期であったといえそうである。

Ⅰ わが国掛時計製造の定着過程

 江戸時代には封建諸侯の需要と保護のもとに和時計手工業が栄え,藩直属の御時計師が存在していたが,明治維新の変革をへて,こうした和時計製作技術が黎明期のわが国時計産業を成長に導く大きな要因となった。とくに尾張藩では,1605年ごろオランダ製重錘時計を模倣して,わが国最初の機械時計をつくった津田助左衛門6)が御時計師として代々尾州家に仕えており,その技術をくむ時計職人がかなりの数にのぼったといわれる。また下級武士の内職の中には錺屋職が多かったが,これらの大部分はのちに時計技術者に転化したという。こうして時計製造は,御時計師とその下職たちの多く住んでいた東京・名古屋・大阪・京都などの諸都市に展開していく。とくに東京と名古屋がその中心地であった。
 さて明治維新の変革によって御時計師が失職し,また従来の和時計に代わって,アメリカ製の大量生産による安価なボンボン時計が輸入されるようになった結果,わが国にもボンボン時計の製作が移植されることになった。こうした社会的,技術的背景の中に,名古屋が東京とならぶ時計生産地を形成することになった一つの要因が求められる。
 このような状況の下で,名古屋の時計産業を企業化したのは,本町の時計販売商林市老の息子市兵衛であった。すなわち父市老は従来当地方で製造される櫓時計の販売にあたっていたが,アメリカ製のボンボン時計も取り扱うようになり,1871年には横浜のクロック商館と直取引をはじめ,中部地方における一手販売商となっていた。息子の市兵衛も,当時父のもとで時計の販売に従事していたが,この時計の輸入防遏を思い立ち,その国産化の第一歩として,1880年4月最も熟練な錺屋職人3,4名を募集して,掛時計製造機械である歯割機械製作の枅究をはじめ,打抜機・カナ製作機・真挽機と順次研究を進め,さらに東京に赴いて電信機製作所にあったアメリカ製歯割機その他を研究して,1883年になってようやくこれらの諸機械を製作したので,自宅に作業場を設けて,アメリカ製品を模して掛時計の製造に着手したのである。当初は設備の欠点と技術上の不熟練とのため,よい結果をえられなかったが,さらに苦心改良を加え,1886年にいたってはじめてその製造に成功した。そこで、つぎに外箱の製造に着手し,椹材を用い,これに漆を塗って仕上げ,時計機械を取り付けて,自宅の柱にかけてその成功を祝した。翌1887年自宅の作業場が狭隘になったので,工場を杉の町に設置し,時盛舎と称して販売用時計の製造を開始したという。その後1889年になって,すでに販売した時計の外箱から樹脂が噴出して時計機械に粘着し,故障をおこすというので返品が続出し,事業は危機に直面したが,市兵衛は苦心研究の結果,材木を用い,塗料もニスを使用することによってこの問題を解決した。そして1891年には需要も増加したため,工場の狭隘を感じ,工場を松山町に新設し,同時に時盛舎を改めて林時計製造所と称した7)。
 林時計製造所は,1892年には「日の出鶴」の登録商標をうけ,漸次事業を拡大していくが,その後愛知時計製造合資会社,加藤時計製造所など同業者が相ついでおこり,日清戦争前には早くも舶来品の輸入を減じたばかりでなく,1894年には進んで清国に対して輸出を開始するようになる。日清戦争に際して,輸出杜絶のため斯業の発展は一時頓座したが,戦後の企業熱の勃興と相まって,斯業は再び活況を呈し,1895年には新たに明治時計製造合資会社,96年には尾張時計製造合資会社などが創設され,明治30年代に入ると,高野時計製造所,金城時計製造所,神谷時計製造所などが創設された。
 さて1897年ごろの全国主要時計工場は,第1表のようである。これでみると,当時東京の精工舎らとならんで名古屋の掛時計製造は相当な地位にあったことがわかる。ただ東京,大阪,京都には株式会社形態の時計製造所がみられるのに比較して,名古屋の場合は個人企業ないし合資会社の形態にとどまっており,製品は掛時計が主力であった。それはともかく,わが国時計生産高は漸次増大し,一部の高級ものを除いて輸入を防遏するまでになった。
第1表 1897年段階の全国主要時計工場
 つぎに,1902年段階における名古屋の主要時計製造所の状況を第2表に示しておく。同表は,同年東京高等商業学校の一学生が夏季休暇を利用してまとめた調査報告書を手がかりに作成したものであるが,この種の調査報告書では最も古いものの一つとされている8)。
第2表 1901年段階の名古屋の主要時計製造所概況
 これによると,生誕期の名古屋時計産業界の概要が察せられるが,職工数,1ヵ月生産高などは,ほぼ1901年段階の数値であり,いわゆる経済界の不振を反映して,概してその規模を縮小している点に注意を要する。規模でみると,斯界の鼻祖たる林時計製造が群をぬいていた。1892年までの生産高は微々たるものであったが,それ以後は急増していく。同時計製造所は販売商から製造家へ転化したケースであるが,販売部門が消滅したわけでなく,1889年から1894年までの状況は,第3表のようであった。もっとも,1895年以降の状況は不明であり,また社名変更が1892年のことで,製造と販売の関係も詳らかでない。
 林時計製造所では,第3回,第4回の内国勧業博覧会をはじめ,いくつかの博覧会に掛時計などを出品し,褒状をえている。機械器具製造にいたるまで,多くは林市兵衛の考察するところであったという。職工は,1892年ごろは30~40名であったが,職工の不熟練には悩まされたようである。そこで,1897年から,「職工養成ノ法ヲ近県赤貧子弟ヲ博ク募集シ寄宿舎ヲ設ケ衣食ヲ給シ兼テ教育ヲ授ケシニ成績頗ル良好ニシテ漸次拡張スヘキ見込ナリ9)」と,工場内に寄宿舎を設置したことが注目される。
第3表 林時計製造所の生産高と販売高
1902年ごろには,その数60名余に達した。職工管理の方法は,時計の製造に直接関係するプレス以下10課(10課の分業法)を総括管理する職長を置き,これに管理上一切の責任を負わしめ,また各課に取締および取締補が置かれた10)。
 販路の開拓には熱心で,すでに1897年に店員を清国に派遣しており,日清戦争後の1895年には三井物産と特約をむすび,輸出をはじめるようになった。仕向地は清国その他南洋地方である。
 引き続いて,各時計製造所の状況を補足説明しよう。尾張時計製造合資会社は,元来個人経営であったが振わず,1896年2月,「社員土着の人及び従来の職工上りの者のみを以って組織」されたものである。すなわち今井藤吉,近藤太兵衛が資本金1万5000円でおこしたものであるが創業当時の職工数は30有余名であった。漸次規模を拡大し,1900年には職工数80名を数え,生産高も一ヵ月平均2,500個に達している。
 愛知時計製造株式会社は,斯業の先覚者林市兵衛の試みにつぐもので,1892年水野伊兵衛,長谷川喜七らが東橘町に水野時計製造所を設立し,掛時計の製造を開始したのに端を発する。翌1893年には五明良平が加入して,資本金2万円の愛知時計製造会社となり,さらに1895年には水野静太郎,加藤兼次郎,加藤助次郎の3名を加え,資本金5万円の合資会社となった。しかし職工不熟練のため振わず,毎期欠損が続いたため一大改革を決意し,鈴木摠兵衛の入社を契機に,資本金8万円の株式会社組織に改めた。当初の会社発起申請書は,つぎのとおりである11)。
 愛知時計製造株式会社発起申請書
 本邦時計ノ製造ハ日ヲ追テ隆昌ニ趣クト雖モ国運ノ進歩ニ伴ヒ海内ノ需用ハ勿論海外輸出ノ途モ年一年ニ増加シ之レカ必要益々多キヲ加ヘ候ニ付今般株式組織ヲ以テ会社ヲ設立シ其製造ニ従事致度候間御認可相成度別紙仮定款目論見書相添此段奉願候也 明治三十年一月廿一日
発起人 鈴 木 摠兵衛
 五 明 良 平
 五十川 卯三郎
 加 藤 兼次郎
 水 野 松 造
 水 野 静太郎
 長谷川 喜 七
 農商務大臣子爵 榎本武揚殿
 上述の発起申請書にもうたわれているように,組織変更は海外輸出の途を開くためであったが,同社社史は,その方針を,「神戸横浜ノ各貿易商へ多額ノ見本品ヲ送リ其注文ヲ受ケ多少ノ損失ヲモ顧ミズ販路ノ開拓ニ努メ製作品ノ大部分ヲ輸出ニ傾注セリ」と伝えている。
 加藤時計人力製造所は,材木商加藤周三郎の個人経営ながら,時計製造にとどまらず,輸出向け人力車の製造にも手を拡げている。およその生産状況は,第4表のようである。
 この製造所の場合も輸出が中心であるが,名古屋の時計製造業者は,主として神戸をへて輸出するのに対して,同製造所の製品の多くは横浜経由で積み出された。というのは,清国向けの輸出人力車と関連させて時計の取引を行なう場合が多かったからである。
第4表 加藤時計人力製造所の生産高
8明治時計合資会社は,伊勢の鍛治屋横田栄三郎が大野徳太郎,尾張大野の時計師竹内徳次郎らと協力して,時計製造を開始したことに端を発する。のちこの時計製造所は横田栄三郎個人の経営となったが,1895年岐阜県の素封家松岡善兵衛が出資して,資本金1万3,000円の明治時計製造合資会社と称し,成瀬初太郎,高木隣吾らが経営に参加した。その後漸次活況を呈し,1897年ごろには100名余の職工を使用し,平均1ヵ月1,600個の生産をするまでになった。なお製品の検査日数は普通1週間であったが,この製造所では,「時計なるものは24時間回転せしむれば,善悪を知るに足るなり」との方針をとった。1週間も試すのは,その時計の粗製なるを意味するにほかならないとの考えからである。
 高野時計製造所は,さきの林時計製造所と同様,販売商から製造家に転化したケースである。高野小太郎は,以前林時計製造所主人林市兵衛の本店時計販売店に雇傭されていたが,時計の輸出開始以降,同業者が乱立し,粗製濫造の弊害に陥って,販売にも困難をきたしたため,自ら製造にも乗り出すことになったのである。堅牢なるアメリカ製品を駆遂しようとの意志をもって,いわゆる外注に委ねることなく,厳重な監督の下に製作するところに特徴があった。製品はほとんど内国向けであったが,堅牢なるためその値段も高く,最下等品であっても,他の時計製造所の輸出品と比較すれば,1ダースにつき5,6円,多いときは12,3円割高であった。
 以上,生誕期における名古屋時計産業の状況をみてきたが,1901年以降は経済界の不振を反映して,輸出は減退し,生産規模を縮小せざるをえなかった。また粗製濫造の弊害がつきまとった。名古屋商業会議所の求めに応じた1902年5月の上海領事商況報告は,その状況を,つぎのように伝えている12)。
 昨年来輸入に係る本品の多くは一層その製作粗造にして,而もその荷造に至るまで不完全なるがため,途中動もすれば破損の恐ある等益々顧客の嗜好を害せし感なきあたわず。……当地にて本邦製時計中評判の最も良しからざるものは名古屋市某商店の輸出品にして今尚幾分の好評あるものは尾張時計合資会社の製品なりと聞知せり。
 要するに,名古屋製時計は粗製濫造のため海外市場において信用を失墜してしまったが,「只管廉価の点のみに力を尽して物品の改良を図らず」というところに問題が潜んでいたのである。

Ⅱ 掛時計製造の発展とその論理

 (1) 明治後期から第1次世界大戦まで
 名古屋製時計の粗製濫造問題については,業界内部でも組合をつくって対処しようとする動きが,1901年4月ごろから具体化してきた。また上海領事商況報告においても,組合結成の必要性は指摘されたところである。こうした経緯をへて,重要物産同業組合法に基づき,1903年6月愛知県時計製造同業組合が設立され,粗製濫造の弊害はいく分改善の兆しがみえた。愛知時計製造株式会社社長鈴木摠兵衛がその組合長となったが,主たる課題は,つぎのとおりである13)。
 (1) 製品の標準を定め標準以下の製産を禁ずること
 (2) 製品の検査を行ひ且其製品には本組合規定の證票を貼付すること
 (3) 時計に関する内外需用地の商況其他諸般統計上の調査を為すこと
 (4) 製品及原料の見本又は模型等を蒐集し当業者の参考に供すること
 (5) 職業傭使に係る取締方法を定め諸般の弊害を矯正すること
 (6) 同業者に於ける紛議を仲裁すること
 さて日露戦争勃発による物価騰貴とともに時計価格も高騰したため,生産数量はやや減少したが,金額はかえって増加した。そして戦後は中国市場が拡大し,斯業はかってない活況を呈した。1908,1909年の反動的不況期には落ちこみをみせたが14),概して日露戦争後の伸びは著しく,製造戸数は横ばいながら,1913年には生産額が100万円を突破した。つぎに,第1次世界大戦にいたる発展の状況を,第6表に示しておく。
第6表 名古屋地区時計製造業の発展(1902~1913年)
 ここで主要3社の1904年から1910年にいたる生産額を示すと,第7表のようである。これによると,愛知時計製造株式会社以下で,名古屋の時計生産額の30数%を占めており,改めて他の時計製造所の零細性が察せられる。
第7表 名古屋の主要時計製造所の生産額
 尾張時計株式会社は,1904年2月に火災にあう不幸に見まわれたが,当時肥料問屋を経営していた三輪嘉兵衛が資金的援助を与え,その後1906年5月資本金10万円の株式会社組織に改めた15)。同社の製品は掛・置時計で,原料の木材は塩地または朴を用い,鉄針ならびに塗料は外国製を,その他の装置重要品は内地製であった。原動力は瓦斯で,職工100名を使用し,その生産高は1ヵ月約4,000個におよんだ。販路は輸出向け,内地向け半々である16)。
 愛知時計製造株式会社,明治時計製造合資会社とも,掛・置時計を生産し,原料その他もほぼ尾張時計株式会社と同様であった。愛知時計製造株式会社は,1901年には経済界不振のため事業を中断し,翌1902年7月資本金を8万円から4万円に減資している17)。しかし,やがて景気の回復とともに事業を再開した。1906年1月には定款を改正し,時計製造および販売のほか,「諸機械製造及販売ヲナスコト」「清国人ニ対シ雑貨ノ委托販売ヲナスコト」を加えた。前者は海軍造兵廠,陸軍砲兵工廠からの用命にこたえたものであり,後者は時計を清国人と取引する傍ら,煙草・扇子・織物などの買い付けを委託されたことに基づく。このような業務の多角化に伴い,同社は,1910年には資本金を8万円,翌1911年には15万円に増資し,また工場狭隘のため,東川端町の名古屋製函株式会社を合併し,工場を同所に移転した18)。なお明治末期の原動力は瓦斯および電動機で,職工は200名,1ヵ月の生産高は約6,000個,販路は輸出向け60%,内地向け40%である。
 明治時計製造合資会社は,原動力は瓦斯を使用し,職工50名余,1ヵ月の生産高は約1,500個,販路は輸出両け70%,内地向け30%である。
 表には出ていないが,林時計製造所は,名古屋時計製造業の鼻祖として,その後も事業は順調であり,1909年には資本金5万円の株式会社組織に改めている。しかし,1913年京都伸銅所に譲渡し,平松武兵衛が社長となり,林一族はこの時引退してしまった19)。

 (2) 第1次世界大戦から第2次世界大戦まで
 つぎに第1次世界大戦以降,戦前昭和期の動向をみることにする。第1次世界大戦の勃発とともに,中国向け輸出を中心とした名古屋時計製造業は一時苦境に陥った。特に鋼リボンの輸入杜絶のためスプリング原料が欠乏し,大きな打撃をうけた。
 名古屋商業会議所の調査によれば,1914年10月前後の製品販売の状況は,「内地,輸出向共ニ不況ニシテ前月ニ比シ三割減」,原料需要の方は,「原料モ漸次低落シ時局発生前ト略同様トナリシモ鉄類ハ約一割高,亜鉛板ハ頗ル高価ニシテ殆ンド真鍮ト同価格ヲ示シ硝子モ亦高価ヲ示セリ」という状態であった20)。1915年9月多くの業者は大阪砲兵工廠と交渉して軍需品の請負製作に従事することによって打開策を見い出した。
 このように名古屋時計産業界は,第1次世界大戦の影響を蒙ったが,やがて交戦国の時計生産力の減退に伴って,1917年から1919年にかけて生産高はしだいに回復した。しかし,時計製造用の鋼材不足問題は解決したわけではなく,1917年末から1918年にかけて,愛知時計製造同業組合などが窓口となって八幡製鉄所へ鋼材払下げの運動を展開し,若干の成果をえたようである。ただこの鋼材は,在来の輸入品のように半製品でなく,製作に相当の日数を要し,機械の故障を渉発するなどの欠陥を伴った。そこで,少額ながらアメリカからスプリング原料を輸入し,窮状を脱した21)。
 ところで1920年は,戦後の反動的不況のため斯業は少なからぬ打撃をうけ,また海外市場においては低廉なドイツ製品の競争があり,生産額は一時減少した。しかし,まもなく1923年の関東大震災によって,精工舎をはじめ,東京地区時計製造業が潰滅の状態に陥ったため,名古屋の斯業はにわかに活況を呈し,とくに東京方面との取引が目立って多くなった。ただ業者の中には眼前の利益にとらわれて粗製濫造に陥り,関東方面から続々返品をうけたものもあったという。その後東京地区の回復は目ざましいものがあり,また1929年以降,世界的不況の影響をうけて,生産高は数量・金額ともに減少したが,満州事変を契機とする好況の到来に伴い,1933年から回復の兆しをみせ,1936,1937年には未曽有の生産額を記録し,かつ製造業者もすこぶる増加した22)。この間の推移を,第8表,第9表に示しておく。
 つぎに,当段階における各時計製造所の状況をみておこう。まず名古屋経済会の調査によれば,1917年ごろの名古屋地区時計製造業の資金関係は,会社組織の場合,「本工業ハ全部近県資本家ノ手ニヨリテ経営セラレ,殊ニ名古屋市ノ資本ニヨルモノ多ク,啻他方ノ供給ハ,愛知時計電機株式会社ノ日本勧業銀行ヨリスル,借入金五万円アルニ過ギズ23)」という状態であった。個人経営のものはいうにおよばず,会社組織の場合も,いわゆる地方的産業会社としての性格を脱していないことが明らかである。
 参考までに,1921年段階の全国主要時計工場を示すと,第10表のようであり,東京の精工舎と比較すれば,相当な懸隔があったことが再確認できる。一部を除き,名古屋の時計製造業は多数の中小メーカーがひしめきあっていたのである。
 さて1923年における名古屋の主要時計製造所の資本金および1ヵ年生産額を示すと,第11表のようである。同年の名古屋地区時計生産高は,数量で52万個,金額で281万2,000円であるから,この5社で,それぞれ40.9%,42.2%を占めていることになる。
第8表 名古屋地区時計製造業の発展(1914~1937年)
第9表 全国および精工舎・愛知県の時計生産額(1922~1926年)
したがって明治期同様,他の時計製造所の零細性が改めて指摘されよう。なお表中の名古屋商事株式会社は,1917年村瀬銀行の傍系として,京都伸銅所の経営する林時計株式会社を譲りうけ,時計部を新設して経営されるようになったものである。
第10表 1921年段階の全国主要時計工場
 名古屋時計産業界では,愛知時計電機株式会社の規模の大きさが目につくが,同社は時計製造のみを専業とせず,飛行機体ならびに軍需品製作に傾倒し,むしろ時計製造は事業の一部として隷属している状態となった。動力使用の状況は,しだいに電動力となったが,大部分は東邦電力から供給をうけている。
第11表 1923年段階の名古屋の主要時計製造所概況
 時計製造以外への進出は,第12表に示すように,その後さらに比重を増した。上述の愛知時計電機のほか,明治時計製造合資会社は瓦斯メーター用機械,合資会社高野時計金属品製作所は兵器関係,尾張時計株式会社は蠅取器および内燃機関用着火栓にも手を拡げたのである。こうした傾向は,準戦時体制から戦時体制への移行とともに,いっそう拍車をかけられ,漸次軍需工場化していくが,いま昭和初期の斯業の状況を,名古屋市総務部勧業課の調査によってみると,(1)貿易振興策を講ずること,(2)利害の共通政策を立てること,(3)作業の改良を図ること,(4)金融関係の改善をはかること,(5)競争品の対抗策を立てること,(6)専門知識の発達を図ること,などが当面の課題とされていた24)。
 ここで時計の販路について改めてみておこう。1894年に林時計製造所が清国にはじめて輸出を試みたのを皮きりに,その後同業者もしだいに輸出を行ない,名古屋地区時計製造業は輸出産業として発展することとなったが,移輸出額の推移は,前掲第8表に示したとおりである。満州事変の勃発した1931年の移輸出額は20%弱に落ちこんだが,この年を除くと,平均70%近くにその額は達した。上述の調査報告書でも指摘されたとおり,斯業の盛衰は海外販路の商況に依存した度合がきわめて大きく,したがって貿易振興策は急務とされたのである。
 当初,輸出は中国を第1位とするアジア市場が主体であったが,第1次世界大戦以降は欧米諸国,アフリカへも販路を拡大した。
第12表 1932年段階の名古屋の主要時計工場概況
名古屋商工会議所調査の1936年段階の地域別輸出額は,第13表のとおりである。
第13表 1936年段階の地域別輸出額
 同表にもみられるように,名古屋製時計は掛時計・置時計の二種が中心であった。ただ前掲第9表にみえる電気時計が1929年から商工省編『工場統計表』にも独立して記載されるようになったことが注目される。とくに1936年以降電気時計は花形時計の一種となったが,精工舎では,同年5月と11月の2回にわたって同社製の一般掛・置時計とともに電気時計の特別売出しを行ない,好評を博したという25)。ところが,第14表から察せられるように,名古屋製時計は懐中時計・腕時計などの製品は絶無であり,また電気時計への対応の面でも東京製に比較して遅れをとっていた。その理由は,1924年の名古屋市調査がいみじくも指摘した,つぎの諸点に起因していると思われる26)。
 名古屋市に於ける時計製品は,置時計・掛時計の二種に限られ,懐中時計の製造は絶無である。其原因は二,三にして止まらざるべきが,主として懐中時計の生産に就ては,置・掛時計に比して機械製作に尠なからざる資金を要する機械工場を必要とし職工に於ても,頗る熟練優秀なる技能者を要する次第なると一面,多年瑞西,米国,独逸等の精工品が続々輸入し来れる関係上,此等と競争せざるべからざる事となり,之は実際問題としては頗る困難とする処で,要するに,資金の関係と外国品との競争に耐ゆる丈の精工品の生産が困難であると云ふ事に帰着するものと看做して大過ないのである。
第14表 1936年段階の全国主要時計工場
 名古屋製の掛時計と置時計の生産比率は,生誕以来,前者の方がまさっている。最初に製造されたのが掛時計であることは,前に述べたところである。東京製と比較すると,置時計は劣勢であったが,掛時計の方は優れており,両者あわせた生産額においても,第15表に示したとおり,はじめは優位にあった。すなわち1913年までは,名古屋の方が優位にあり,同年の場合,名古屋が102万円弱,東京は84万円強である。しかるに1916年には前者75万5,000円,後者122万円余と,遂にその地位を東京に譲ってしまっ却。この趨勢はその後ますます顕著となり,1937年には東京1,527万円,名古屋434万円余となった。
第15表 東京と名古屋の時計生産額(1907~1937年)
 ところで東京の時計製造業が関東大震災によって大きな打撃をうけたにもかかわらず,急速に回復したのは,部分品のほとんど全部を自己の工場において生産し,いわゆる一貫作業を行なう大規模の近代工場を経営している点に大きな原因があった。これに対し,名古屋の場合は,詳細は後述するが,その1,2を除いて経営規模が小であって,部分品は概してこれを工場外の小専門業者に分業的に生産させており,ここに進歩の遅々たるゆえんがあったのである27)。
 最後に,1939年段階の名古屋の主要時計工場を,第16表に示しておく。これによると,名古屋地区時計製造業の系譜が察せられる。いわゆる技術移転の形態を類型化するまでにはいたらないが,一応時計販売商など商人層から時計製造家へ,また林時計製造所などのメーカーで時計製造技術を修得し,独立・継承していく型を確認できる。
第16表 1939年段階の名古屋の時計製造所とその系譜
その他時計修理業から時計製造家への転化も考えられるが,詳細は今後の調査にまたなければなるまい。
 ここに示す工場一覧は,日本時計工業組合加入のものであるが,同組合の沿革を簡単に述べると,さきの愛知県時計製造同業組合に続いて,重要輸出品工業組合法に基づき,1931年7月愛知県時計工業組合を設立していた。組合の管理地域を愛知県一円と定めたが,1935年6月には製品の向上,業界の統制のために,新たに大阪・兵庫・三重・岐阜・静岡の1府4県を組合地域に編入して,日本時計工業組合と名称を改めたのであった。組合事務所は名古屋市中区大池町に置かれた。なお1939年には定款を改正し,時計附属品の製造を専門とする業者を組合から除外したため,これら除外された業者は,同年新たに名古屋時計附属品製造工業組合を結成している28)。

Ⅲ 生産機構の特質について

 これまで,名古屋地区時計製造業の展開過程をあとづけてきたが,ここで生産機構についてみておこう。一般に,名古屋の斯業は家内工業的色彩が濃厚であったが,当初林市兵衛が掛時計の製造をはじめた段階では,生産高も少なく,まだ部分品製造の専門業者は存在せず,部分品の製造から組み立てにいたるまで,すべて同一工場で行なわれていた。
 しかるに東京地区と異なり,部分品専門業者があらわれたのは,おそらく初期の時計工場における職工が熟練し,同時に時計に対する需要が高まった日露戦争前後のことと思われる。日清戦争前後以降,同業者は増加するが,「それらの工場には林工場の職工及び卒業生大概雇はれ29)」たという。
 時計の製造は大別して,プレス製造・ダライ製造・飾工・木工・塗工・挽物工・鍛治工・穴明・歯割・仕組の10課となるが,このうち時計の諸機械など重要な部分は,製造家の厳重な監督の下に工場内で製造し,これに従事する職工は1日30~80銭以内の日給をえていた。他方,比較的重要でない部分の製造加工,たとえば塗工・木工・挽物工などは,いわゆる時計製造家とは全く独立し,工場外における請負的仕事であった。林時計製造所では,その後,「愛知県監獄署の囚人をもって時計箱製造及び木工塗工,挽物等を請負はしめ」たという。いうまでもなく賃金は,請負量に比例して支給された。したがって,これまで述べてきた時計製造戸数とは職工を雇傭している製造家であり,製造家の委託をうけて,仕事の一部を請負ったものは部分品専門の家内工場であった。
 当時の東京と名古屋の時計製造業の相違について,精工舎の服部金太郎は,「機械力と人工の程度を名古屋地方と比較すれば名古屋は機械力三分と手力七分の割合なるべく東京は機械力八分,手力二分の比例なるべし」と述べ,あわせて,「掛時計の名古屋と東京」の状況を,つぎのように指摘しているが,まさに至言である30)。
 精工舎製は機械的に進歩せりと云ふを得ん名古屋は人工的に進歩せり東京は技術に於て進歩し名古屋は価格の低廉なるに於て一頭地を抜けり技術の巧拙は東京製に比すべくもあらざれども掛時計は其の機械簡単なるが故に名古屋の或る部分に於ては殆んど戸々に副業的に機械の一部一部の分業せらるゝは其の低廉なる唯一の源因なるが如し故に名古屋には百軒時計屋の称号あり其個々の機械を百軒より集めて一個の時計を製造する謂ひなり。
 こうした形態は,大正末年においても昭和に入って後もほとんど変化がなかった。すなわち1924年の名古屋市調査によれば,「本市―(引用者)の所謂製造工場は概ね時計の製造に於ける機械例へば,之に附随せる振子,鈴及鈴台,鍵,アンクル,ゼンマイ等を製造するものにして,外面及其の附随せるもの即ち文字板,硝子及硝子縁,外面の塗工,仕上等は,多く市に存在せる専門的家内工場,若くは専門独立工場で製作して居る31)」状態であった。もっとも愛知時計電機株式会社,尾張時計株式会社,明治時計製造合資会社などの大規模業者は,部分品の全部もしくは大部分を自家工場において製造しており,部分品専門工場に依頼する度合はきわめて小さかった。たとえば1924年1月の尾張時計工場見学記は,つぎのように述べている32)。
 従前門口には「縦覧謝絶」との木札が掛かって居ったように記憶するが,今日は其の木札よりも「見習職工大募集,但し十三才以上,当工場」と,筆太に掲示広告した框立が眼に着く。そこに関東震災が斯界に与へた好影響―工場多忙―の程も窺はれる。
 門を入って右横に,黒塗り土造建一棟と接続して居るのが事務所で,筆者が御尋ねした時は,丁度会計日で御忙しいとの事であったけれど,技師長の御案内で木工部から運転部,硝硫部,検計室,仕組場,荷造場と,次から次へと説明を煩はし,最後に常務今井藤吉氏に御目にかゝる。
 本社は木製掛時計と全置時計との製作が本業で,蠅取器も盛に製作して居る。是れは本社の元祖専売特許品で,発明品博覧会に於て宮内省御買上の光栄を賜り,世界的商品と成って居る。
 筆者が拝見した折は,主として掛時計の内,震災地向の丸形時計を多く製作して居るとの話であった。
 木工場では,北海道産の「シホヂ」板と,当地方産の「カツラ」板とで,時計の外面を製作して居る,製品は部屋一パイにギッシリ積み上げられて,歩くにも困難な位であった。シホジを使ふのは,ニスを塗った下に木理を見せる上等時計で,需要は内地との事,カツラは木理が悪いので,ニスで塗り消す,そして支那向き品に使用される。震災以前には支那向き三割の割合であったが,現在は主として関東向きに忙殺されて居る。
 運転場では,時計機械部分品を製作する為め,約百台の機械を据付,十五馬力の動力で運転させて居るとの事であった。亜鉛板とゼンマイ用鋼條は米国よりの輸入に仰ぎ,真鍮板は京都から取り寄せて加工する。機械は全部内地製で,唯一台独乙製の歯割板を最近据付けたと指示される。独乙製は自働的で,一連五十枚の真鍮円板に歯割をする,其の時間が十五分かゝる,内地製歯割機では十分間でよいけれど,自働的でない為め,職工一名附ききりの欠点があると説明して頂く。
 長い鉄の線を真直ぐにして,又一定寸法に切って心棒を作ることでも,真鍮板へ歯をつける,孔をあける,心棒に歯車を差し込む事でも,何もかも皆んな機械の仕事で,加工の点には鋼鉄の刀とか錐とかが鋭利に光って居る,タイヤで廻転すると上の方から種油と機械油とを交ぜた油が滴下し乗って,加工に伴ふ摩擦より発生する熱を調節する。
 運転場で作り上げた部分品は,硝硫場で洗條されて附着して居た塵埃や垢が去られ,キラキラと光沢を発する。
 組立場では,十人ばかりの職工が,部分品を組立てゝ居る。組立てたものは,其の横の検計室に運ばれ,木棚に掛けられる,組立てた時計が正確に動くか動かぬかを検査する所で,合格すれば外面に篏められて時計となる。
 外面には,グレシャム(円形)だの,角丸スリゲールだの,木地丸,花紋,彫丸など,色々の名称があり,文字板の大小で,小長,中長,大長,特大などとも区別する。本社使用の商標は地球馬印で,愛知の時計が世界を馳け廻るとは思ひ付きの商標であると首肯される。
 また1931年の愛知県内務部調査によ,れば,1ヵ月3,000個内外を生産する時計工場の組織は,第1図のような形態であった。製造工程の中枢的職務を担うのは工場監督係であったが,各部に対して相当な苦心をはらったようである。なお時計製造の原価計算は,およそ材料50%,工賃35%内外,雑費15%であり,これに若干の利益金を計上したのが販売価格といえる33)。
第1図 主要時計工場の組織
 さらに生産機構に関して,1942年刊の『愛知県特殊産業の由来』上巻(山口隆二氏執筆)には,「東京のは現代のアメリカ掛時計産業組織とやゝ似た点がある,比較的大資本をもった時計会社が,自己の工場内だけで,総ての時計部分品を一貫的に生産して一個の時計を完成する所謂単一工場であるが,名古屋の方は十九世紀末のドイツ黒森地方の時計産業組織に類似し,家内工業的なものである。即ち愛知時計電機株式会社(時計部)とか,明治時計製造合資会社とか,その他若干の工場を除けば十万円に満たない小資本を以って経営する小規模工場であって,中には一万円に満たない矯小工場(部分品の工場ではない)もある。そうした関係から,時計工場では,時計機械(ムウブメント)だけが生産せられ,他の部分品(ゼンマイ,アンクル,振竿,剱,パイプ,振子),外面及び附属品(文字板,硝子及び硝子淵,外装金具附廻り,ギボシ,柱,梵針,鍮台,巻鍵等)は,それぞれ時計工場外で分業的に生産し,それらは最後に時計工場で取まとめられて一つの時計となる。所謂家内工業的工場である34)」と記されており,その組織形態を,第2図のように示している。
 この型の工場では,いわゆる時計機械だけでなく,時計外面(外箱)をも製造し,ただ部分品と附属品だけを工場外から購入しているのである。しかしこの型の工場はごく少数であり,多くは時計機械だけしか製造していない。
 つぎに時計機械および時計外面の生産工程を暼見すると,以下のようである。すなわち掛時計の場合,まず時計機械の製造に必要な真鍮,鉄などの金属材料を,主として名古屋市内の金属材料商から購入する。これらの材料は工場内のプレス部で打抜機で一定の型(枠板,車輪,車軸など)に切断され,粗大な基本的工作が施される。
第2図 名古屋時計産業組織図
つぎに車輪は歯割部で歯割機によって歯割され,車軸は施盤部でプレス機および施盤によって加工される。この際一番車軸は鋳物屋に廻され,万力車の真鍮鋳物がはめこまれる。つぎに飾部で車軸に「カナ玉」を差し,鋼鉄製のピンを差し,ランタン,ビニオンを完成し,車輪あわせをして部分的に取りまとめ,仕組部でこれら出来上った時計部分を組み立てるのであるが,まずゼンマイはゼンマイ製造所から,ゼンマイ蓋は材料商から,短剣用パイプは時計管製造所から,機械の組み立てに必要なネジ,ビス,鋲および振竿ハサミなどはそれらの製造所から,それぞれ購入して一個の時計機械に組み立て,それに試験用の振子と剣とを取り付け,機械検査部で性能試験を行なう。こうして検査に合格した機械は取附部に廻わされて,外面に取り付けられるのである。なお不合格の時計機械は,再調のうえ試験を行なう。これらの試験は,日本時計工業組合の検査員が各工場に出張して行なうことになっていた。
 つぎに外面の方をみよう。まず名古屋市内の材木商(これは製材所をも兼営している場合が多い)から材木を購入して製材所で製材したうえで,工場内の木工部で外箱をつくり,ついで木材挽物はゴマヤと称する木挽物業者に挽かせる。また時計外面の彫刻は彫刻師に委ねる。彼らは名古屋市内の古くからの仏壇彫刻師から転化したもので,当時時計外面彫刻の専門家であった。さらに外面用のミシン仕事はミシン屋に廻される。なお時計彫刻師の中にはミシン仕事をも兼業している場合が多いという。附廻りは附廻り製造所から購入する。これらをそれぞれ外面に附加して,つぎに塗師部で塗装させる。このの塗装にはラッカー仕上げと漆仕上げがあるが,時計工場ではそれに使用する塗料を塗料商から購入する。さらに蝶番製造所,外装金具製造所から,それぞれ附属品を購入して,組立部で外面に取り付けて外面は完成するのである。こうして組立部から完成してきた外面は取付部で鍮台を取り付け,さらに梵針製作所から購入した梵針(鳴金ともいう渦巻状のもの)を鍮台に取り付け,機械検査部からきた機械を外面に取り付け,文字板製造所からきた文字板を取り付け,剣製作所から購入した長短剣を取り付け,振子製造所から購入した振子を取り付けて,時計は一応完成するのである。完成した時計は製品検査部へ持ちこまれて,外面の良否と時間の正確さとを検査するのであるが,東京の中央時計工業組合の検査規定には正確性の標準が示されているが,名古屋の日本時計工業組合の検査規定にはそれが明示されていない。合格した時計には,組合の合格の印章が外箱の内側に添付される。そして製品は巻鍵を添付して,荷造のうえ出荷される。この荷造用荷箱は工場内の木工部でつくる場合もあるが,多くは荷造屋から購入したという。
 なお小規模な時計工場の場合は,工場内では時計機械のみを製作し,木工所に外面を注文し製作してもらう。木工所では購入した用材で外箱をつくって,多くは木地のまま時計工場に納入する。ただし木工所の中には,専属の塗師屋をもって木工所で外面全部を完成して納入するものもあった。そして時計工場では,木地のままの外面を塗師屋に出して塗装させる。さらに附廻りは附廻り製造所に注文し,ゴマヤ,彫刻師,ミシン屋,外装金具製造所,硝子および硝子淵製造所,蝶番製造所,文字板製造所などに,それぞれ注文して外面を完成し,取附部で機械と結合されるのである。
 以上が,名古屋時計産業の生産組織であるが,すでに述べたことから明らかなように,いわゆる時計工場とこれをめぐる多数の部分品専門工場とをもって構成され,しかも後者がすこぶる重要性をもっているところにその特徴があった。その理由は,広汎にわたる各部分品を同一工場において製造する場合には,原料および半製品の在庫が多額となり,しかもその製造価格が専門的部分品工場におよばないなどの不利益があるからであった。しかし,この点は反面,斯業が近代的大規模経営にすすみ難い一因となったのであり,また名古屋がその生産額における優位を東京に譲ってしまった主要な原因はここにあると思われる。たしかに愛知時計電機株式会社など,一部の大規模業者は,部分品専門工場に依頼する度合は小さかったが,これらの業者の中には時計製造を専業とせず,しだいに飛行機その他の機械製造を兼営するようになり,時計はその附帯事業として営まれたことに注意を要するる。したがって,名古屋地区時計製造業において重要な地位を占めたものは,いわば商業資本的性質を多分にもつ中小の時計製造業者であった。一般に,群小の部分品工場の存在をまって,はじめて時計製造が可能な状態であったから,斯業は,未だ産業資本の段階にまで高まっていなかったことが推察されるのである35)。

おわりに

 以上,名古屋地区時計製造業の生誕以降,戦前昭和期の動向をみてきた。ここではその要約をくり返さないことにし,第2次世界大戦後の状況を簡単に述べて,本稿を終えることにしよう。
 わが国の時計産業は,第2次世界大戦後急速な発展をとげ,質量とも現在世界第一級といわれているが,それらは東京を中心とする動きであり,最近は,とみに名古屋の斯界の不振が目立っている。
 主として第2次世界大戦後における名古屋地区時計製造業を分析したものとしては,愛知県経済研究所の成果などが注目されるが36),いま戦前の時計生産の推移をみると,第17表のようである37)。
 これによると,戦前時計生産のピークは,腕時計・懐中時計が1940年,目覚時計・置時計が1937年,掛時計が1936年であるが,戦後経済復興期には,それぞれ相当な回復を示している。しかし,東京とならんで時計生産の二大地区を形成している名古屋の回復は甚だ遅れており,1955年においても,主力の掛時計は全国生産高ではほぼ戦前のピーク時の水準に回復したにもかかわらず,名古屋の場合は57万個で,戦前ピーク時の62.7%にしかすぎない。また1948年から1955年にかけて,新機種の電気時計が登場したが,名古屋では1955年以前にはその生産が開始されていない。
 さらに腕時計は,1957年に明治以来の掛時計メーカー高野精密工業株式会社がその本格的生産に乗り出したが,優秀な技術陣を擁しながらも,販売網の弱体や伊勢湾台風による打撃が重なって,莫大な負債をかかえ,1962年には市村清のリコー時計株式会社に引き継がれた38)。
 ところで戦後経済復興期に著しく回復の遅れた名古屋地区時計製造業は,昭和30年代以後の高度経済成長期においても,発展の遅れを取り戻すことができなかった。この時期には,電気時計・腕時計の生産も開始されたが,全国生産の伸びに比較すれば,立ち遅れは否めず,しかも目覚時計が1957年には皆無となり,その後若干の生産回復がみられたものの,低い生産水準に低迷している。
第17表 第2次世界大戦後の時計生産高
 掛時計生産は全国的にも伸び悩んでいるが,名古屋の場合はとくに甚だしく,「昭和30年に対するる40年の伸びは全国が11%増に対し,名古屋地区は逆に7%減であり,全国シェアーも昭和30年の56.7%から昭和40年には47.6%に低下している」のである。
 掛時計メーカーの市場占拠率を示すと,第3図のようである39)。多数の弱小メーカーがひしめきあっているという感じをうけるが,とくに名古屋地区にその傾向が甚だしい。1954年の掛時計メーカー24社のうち,尾張時計株式会社,塚本時計製造株式会社,ダイア時計株式会社,草間時計株式会社,飛球時計製造株式会社,協立時計工業株式会社,武田時計株式会社,株式会社津田時計製造,愛工舎時計製造株式会社,株式会社日比野時計製造,高野精密工業株式会社,佐藤時計製造株式会社,林時計製造株式会社,明治時計株式会社,愛知時計電機株式会社の15社は,名古屋のメーカーである。東京の精工舎をトップに,愛知,明治などの市場占拠率が高いが,ただ明治時計はその後大きく減退しており,たとえば1954年を100とした市場占拠率をみると,1959年7月には精工舎が112.4,愛知が88.9,明治が42.5である。愛知時計電機株式会社は,その後1960年6月には3週間巻きの出現などで回復し,126.0となっている。その他東京の株式会社栄計舎が1959,1960年と著しい伸びを示しているが,これは30日巻の好評によるものとみられている。
 なお図示はしなかったが,置・目覚時計では,精工舎のほか,リズム時計工業株式会社40),東京時計製造株式会社の市場占拠率が高くなっている。とくに後二者の伸びが著しく,精工舎の市場占拠率は急激に低下している。
 いずれにせよ,第2次世界大戦後の名古屋地区時計製造業はきわめて低調な歩みであったといわなければならないが,その原因は,およそつぎの諸点が考えられる。第1は,なによりも生産技術面における立ち遅れであろう。1955年前後にみられた目覚時計の没落も,東京地区の優秀な生産技術に圧倒された結果であると業界ではみている。この点は,つまるところ資本力の差であり,いわゆる研究開発費の不足に起因していると思われる。第2は,生産機種が停滞業種たる掛時計に著しく傾斜していることである。この点は,第1の原因と切り離しえない関係でもあるが,東京の場合は,掛時計専門メーカーはほとんど皆無の状態であり,腕時計・目覚時計・電気時計など成長機種の専門ないし兼業メーカーが大半を占め,名古屋地区とは対照的な生産体制にあることに基づく。また戦前から続く分業化した特殊な生産機構にも問題があろう。
第3図 掛時計のメーカー市場占拠率の変化
第3は,販売力の弱体な点である。この点は,とくに精工舎製の販売機関たる株式会社服部時計店を頂点とする販売網にくいこむことが困難な問題ともからみあうのである。
 このような停滞要因を是正するため,1947年には名古屋の中小時計メーカーの共同施設として日本時計伸銅株式会社が,翌1948年には同じく日本時計工業協同組合が設立された。さらに1956年には,通商産業省の指導で,名古屋市内に日本時計生産技術開放研究所を設置し,中小時計メーカーの生産設備の立ち遅れを解消しようと試みたが,こうした協業化は十分な成果をあげえなかった41)。
 最後に,昭和40年代以降の掛時計生産高の動向をみると,名古屋地区の地盤沈下はいっそう進行したことがわかる。すなわち,1966年の全国生産高111万4,484個に対し,名古屋のそれは41万8,605個で,対全国比は37.6%であったが,1976年には全国生産高79万677個に対し,それぞれ9万9,989個,12.6%に低下しているのである42)。工場数も,1969年には1けたの9社に減少し,現在では5社になってしまった43)。
 注
 1) 詳しくは,平野光雄『明治前期東京時計産業の功労者たち』(同刊行会,1957年),山口隆二「序説」(河合企画室時計史年表編纂室編『時計史年表』所収,1973年)などを参照のこと。
 なお和時計については,山口隆二『日本の時計―徳川時代の和時計の研究―』(日本評論社,1942年)がある。
 2) 山口隆二,同上論文・序説ⅩⅠページ。
 3) 山口隆二「時計学の貧困―日本時計業界の発展のために何をなすべきか―」(日本時計学会『時計とレンズ』第1巻第2号,1951)3ページ。
 4) 株式会社堀田時計店は,創業100周年記念として,『風流時圭男堀田八二朗自伝』(1979年)を出版している。
 その他,朝比奈貞一監修,倉林春男『時計師の見た時計史』(時計技術者協会,1957年)も貴重である。
 5) 山口隆二,前掲論文,序説Ⅳページなど。
 6) 津田助左衛門については,黒田鉱一「時計師津田助左衛門」(1)~(3)(名古屋郷土文化会『郷土文化』第8巻第4号~第10巻第2号,1953~1955年),山口隆二「津田助左衛門―日本時計史ノートより―」(1)~(4)(国際時計通信社『国際時計通信』第3巻第3号~第4巻第8号,1962~1963年)などがある。
 7) 愛知県実業教育振興会『愛知県特殊産業の由来』上巻,1942年,213~15ページ。
 名古屋市『大正昭和名古屋市史』第2巻工業編,1954年,235~37ページ。同「大正昭和名古屋市史編纂資料」工業3(履歴書林市兵衛)。
 なお名古屋の時計製造起源については,「明治維新の後,始めて時計の製造せられしは,十七八年の交,岡崎の人中條勇次郎,本市水谷駒次郎と共に,一年有余を費して,二個の掛時計を製作したるに起り,両人は之を舶来時計の販売業林市兵衛に示して,
 本事業に投資せんことを請ひしが,市兵衛快諾して其製造権を譲り受け,二十年四月杉ノ町に時盛舎なる工場を設立し,本市時計製造の基礎を置けり」(名古屋市役所『名古屋市史』産業編,1915年,159~160ページ)との説もある。』
 8) 日野須磨子編「日本時計産業史料」(1)~(4)(前掲『時計通信』第6巻第9号~第7巻第1号,1965~1966年,原史料は,森千代松「名古屋ニ於ケル時計製造業調査報告」(1902年)による。
 9) 前掲「大正昭和名古屋市史編纂資料」工業3(履歴書林市兵衛)。
 10) 前掲「日本時計産業史料」(3)(前掲『国際時計通信』第6巻第12号,1965年)401ページ。以下,とくに断らない限り,主として同史料による。
 11) 愛知時計電機株式会社『愛知時計電機株式会社創立二十五周年記念誌』1923年,3ページ。愛知時計については,主として同書による。
 12) 前掲「日本時計産業史料」(4)(前掲『国際時計通信』第7巻第1号,1966年)30ページ。
 13) 間瀬三郎『名古屋地方家内工業調査報告書』東京高等商業学校,1909年,117~18ページ。
 14) 1908年9月の愛知県時計製造同業組合員および名古屋時計卸商同盟会員を示すと,つぎのとおりである。
第5表 1908年段階の名古屋の時計製造業者および時計卸商
 15) 尾振精機株式会社『会社七十年のあゆみ』1976年,18ページ。
 16) この辺の記述は,とくに断らない限り,名古屋商業会謙所『名古屋商工概要』1910
 年,48~49ページによる。
 17) 愛知時計製造株式会社は,1902年4月大阪の日本時計製造株式会社解散に際して,同社の機械部分品などを購入し,これによって相当な利益をえたという。
 青木鎌太郎『中京財界五十年』中部経済新聞社,1951年,51ページ以下参照のこと。
 18) 前掲『愛知時計電機株式会社創立二十五周年記念誌』10~11ページ。
 19) 吉田浅一編『名古屋時計業界沿革史』商工界,1953年,21ページ。
 20) 名古屋商業会議所『欧州戦乱の名古屋市に及ぼせる影響調査』(第5回)名古屋商業会議所月報号外,1914年,28ページ。
 21) 名古屋商業会議所『月報』第130号,1918年,28ページ。同第133号,1918年,35~36ページ。同第135号,1918年,33ページ。
 従来,わが国の時計製造業者は,ほとんどスプリング材料の鋼材をイギリスから輸入していたが,第1次世界大戦の勃発によって杜絶したため,以後はアメリカから供給をうけていた。しかし,それも1917年に輸出禁止となり,やむなく名古屋の諸工場では,本邦製鋼材をもって間にあわせようとしたのである。その後再びアメリカ製鋼材が輸入されるようになって,ようやく愁眉を開いた。
 これに対し,東京の精工舎では大戦が勃発すると間もなくスウェーデン製を輸入したので,スプリング材料には不自由しなかったという。(平野光雄『精工舎史話』1968年,151~52ページ)。
 22) 前掲『大正昭和名古屋市史』第2巻工業編,240ページ。
 23) 名古屋経済会『工業資金ノ調査』1917年,55~56ページ。
 24) 名古屋市役所総務部勧業課『名古屋市における生産品と其の販路』1927年,69ページ。
 25) 前掲『精工舎史話』269ページ。
 26) 名古屋市『産業調査第3輯,時計に関する調査』1924年,36ページ。
 27) 前掲『大正昭和名古屋市史』第2巻工業編,246~47ページ。
 28) 前掲『愛知県特殊産業の由来』上巻,217ページ。
 29) 前掲「日本時計産業史料」(3)401ページ。以下,この辺の記述は,主として同史料および前掲「日本時計産業史料」(2)322~24ページによる。
 30) 中外商業新報,1903年5月7日付。
 31) 前掲『産業調査第3輯,時計に関する調査』32ページ。
 なお時計製造上における機械作業と手作業の一般的特質は,つぎのようであるという。(同書,70~71ページ)。
 1. 機械作業の特長
 製品を一定し得る事
 生産能力を増加する事
 工賃を安価ならしむる事,但し多量生産の場合に限る
 1. 機械作業の欠点
 工賃は安価なるも固定資本を増すの弊ある事
 材料の寸度硬度の一定不変なる物を必要とする事
 1. 手作業の特長
 少量生産の場合は機械作業より容易にして安価なる事
 凡て作業に技巧を凝らし仕事に融通し易き事
 1. 手作業の欠点
 工賃の高き事
 製品の斉一ならざる事
 32) 近藤龍雄「尾張時計株式会社」(愛知県商工陳列所『愛知商工』第148号,1924年)75~76ページ。
 33) 愛知県内務部『時計製造概況調査』1931年,45ページ。
 34) 前掲『愛知県特殊産業の由来』上巻,227ページ。以下,この辺の記述は,主として同書による。
 35) 前掲『大正昭和名古屋市史』第2巻工業編,249~52ページ。
 36) 第2次世界大戦後の名古屋地区時計製造業を分析したものとしては,名古屋産業振興調査会・名古屋商工会議所『名古屋産業振興調査報告書』1953年,愛知県商工経済研究所『調査資料No 13,愛知県の掛時計工業』1956年,(これは,のち中小企業庁・地方調査機関全国協議会編『輸出中小工業の実態調査』1957年,に所収された),愛知労働基準局「産地ルポ,名古屋の時計」(労働者労働基準局『労働基準』第9巻第5号,1957年),東海銀行調査部「時計工業の現況と問題点」(同銀行調査部『調査月報』第128号,1958年),愛知県経済研究所「再編過程にある中小企業,時計工業」(同研究所『あいち経済時報』No 80,1966年),中京大学産業調査部「第1部時計産業」(同大学産業調査部『はぐるま』創刊号,1967年),愛知県産業貿易館『愛知県の輸出産業の展望』1968年,などがある。
 その他,愛知県商工経済研究所(のち愛知県経済研究所と改称)「愛知県中小企業の経営動向」(同研究所『動向資料』No 3~No 35,1955~1967年)および東海銀行調査部「産業動向」(前掲『調査月報』第138~第198号,1959~1968)でも,それぞれの段階における状況が報告されている。
 37) 以下,とくに断らない限り,主として前掲『あいち経済時報』No 80,1966年,による。
 38) 高野精密工業株式会社からリコー時計株式会社への転換については,上野益男『時計の話』早川書房,1965年,210ページ以下に要約されている。
 39) 以下の記述は,主として大倉耕治編『最近の経済事情(時計白書)』セイコー・ライブラリー,1960年,10~15ページによる。
 40) リズム時計株式会社は1950年11月に創設されたが,前身は,1946年賀川豊彦の提唱で,農村工業化を目的として農業団体が出資して設立された農村時計製作所である。1953年には,シチズン時計株式会社と資本提携し,技術,販売面を強化した。詳しくは,ダイヤモンド社編『クロック・メーカーひとすじに,リズム時計工業』創立20周年記念,(1971年),リズム時計株式会社「時を刻んで二十年―目で見る二十五年史―』創立25周年記念特集,1976年,を参照のこと。
 41) 日本時計生産技術開放研究所については,同研究所編『紹介』パンフレット,1960年,を参照のこと。
 42) 愛知県『昭和42年愛知県生産動態統計年報』1968年,50ページ,同『昭和52年あい
 ちの生産動向』1978年,38ページ。
 43) 最近の時計に関する調査報告書としては,通商産業省機械情報局『時計先端技術開発動向調査報告書』1978年,日本統計協会『時計に関する生産,輸出入統計』1979年,などがあることを付記しておく。

〈付記〉
 1 各時計製造所の創設年月は,文献により若干の誤差が散見されるが,本文の記述以外は,一応原典のままとしたことを断っておく。
 2 本稿作成にあたり,いろいろとご高配を賜わった関係各位は少なくない。氏名・機関名を列挙することは省略させていただくが,末筆ながら,ここに記して謝意を表したいと思う。