技術と農村社会

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溜池灌漑地帯の農業生産と水利

著者名: 永田恵十郎
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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 目次

1 近世における畑作商品生産と水利用・・・・・・・・・・2
2 地主的土地所有の展開と疎水の管理・・・・・・・・・・8
3 中農層の成長と地主的用水管理方式の後退・・・・・・・・・・18
4 水田利用の集約化とあたらしい水利秩序の形成・・・・・・・・・・23
5 溜池水利団体における用水配分方法の変容・・・・・・・・・・36
6 農業経営の展開方向と圃場整備・・・・・・・・・・42


1 近世における畑作商品生産と水利用

 明治新政府が調査した「明治10年全国農産表」に掲載されている「農業生産並に農産物価格の状況は安政開港後の幕末の事情と大差」1)はないといわれている.したがって,この資料を利用することにより,われわれは淡河川疎水の受益地である加古郡の農業が,疎水開削前にはどういう姿を示していたかを知ることができる.
 つぎに掲げた第1表は,加古郡が属していた播磨国の各郡の米および麦類のうちで最も作付面積が多い裸麦の10アール当り収量と,実綿収穫量を比較したものである.
 この表をみて,気がつくことが2つある.第1は,加古郡の実綿収穫量は播磨国諸郡のなかでトップの座を占めていることであり,第2は,米の10アール当り収量は第6位で中位のレベルにあるが,裸麦の10アール当り収量は明石郡についで第2位となっており,高いレベルにあったことである.近世末期から明治初期にかけての加古郡農業の特徴は,なによりもまず,旺盛な綿作生産にあり,ついで麦作生産力の高さにあったということができよう.なお,麦には示さなかったが,加古郡の裸麦総収穫量は,529万5千キログラムで15郡のなかでは最も多い.
 第1表から読みとれた特徴は,播磨国と加古郡の各種農産物の生産額構成を比較した第2表でも確認できる.
第1表 播磨国諸郡の米・裸麦の10a当り収量と実綿総収穫量
第2表 農産物生産額(価格)の構成
播磨国に比べたときの加古郡は,米生産額の構成比は低いが,実綿と麦類,とりわけ前者の構成比は播磨国のそれをかなり上回っていることは明らかであろう.
 綿,裸麦等の畑作物の生産が盛んであったという以上の特徴は,その頃の加古郡には畑が多かったことを示唆しているように思われる.事実,最も古い耕地統計が得られる1814(明治17)年の加古郡の耕地面積を「兵庫県統計書」でみると,6300ヘクタールの耕地のうち,3938ヘクタール(62.5%)が水田で,残りの2362ヘクタール(37.5%)は畑が占めているのである.現在は,耕地のほとんどが水田であるにもかかわらず,なぜ当時は耕地の40%近くを畑が占めていたのか.
その最大の理由は,次に述べるような地形条件の制約をうけて,水田を開発するにふさわしい水源に恵まれなかった点にある.
 地形から見たときの加古郡は,加古川左岸の沖績地と加古台地の2つの部分から構成されている.このうち,沖積地や台地の裾にひろがる低平地は,近世初期の1660年頃までに水田の開発を完了しているが,加古台地はそうではなかった.東西は明石川と加古川,南北は播磨灘と美の川の間にひろがるこの洪積台地は,周囲を20‐60メートルの急崖で限られているため,わが国の伝統的な土木技術では,周囲の河川を水源として利用できなかったからである.したがって,西欧の先進的土木技術を利用した淡河川疎水が開削される明治20年代までは,台地内の浅い谷を流れる小河川や局地的な湧水に依存した水田の開発が部分的に行われてきたにすぎず,耕地の大半は畑が占めていたのである.
 われわれが主たる調査対象地としてえらんだ稲美町母里地区(以下,母里村と呼ぶ)は,台地中央部に位置していたため,そういった水利条件を最も典型的にそなえたところであった.1880(明治13)年時点での田・畑別面積を町村制施行前の旧村別に示した第3表でみると,台地内を流れる草谷川に沿って集落が形成された草谷を別とすれば,台地上に耕地がひろがる他の村落は,いずれも畑面積が水田面積を大きく上回っており,なかでも,印南は耕地の90%を畑が占めていることがわかる.郡平均の数字と比べたとき,母里村の畑面積の卓越ぶりは明らかであろう.
第3表 母里村の耕地(1880)
 畑面積の卓越は,地形条件による利水の制約だけでなく,乏しい水源を開発の古い村落が排他的に独占するという社会的慣行によっても生みだされた.この地方で“流”と呼ばれる溜池の自己集水流域は,局地的な湧水や地表水を水源としたものであったが,それは開発の古い村落の溜池に独占され,自由な利用はできなかったのである.そのため,たとえば母里村のなかで最も開発がおくれ,元禄~正徳期(1688‐1715)になって,ようやく部分的な開発が始まった印南では,何回となく溜池築造による開田が計画されたにもかかわらず,疎水が開削されるまで,この計画は実現できなかった.たとえば,印南が新たに築造する溜池の水源に求めようとした“手中の流”は,中世末期から近世初期にかけて開発が進んだ草谷,野寺等の溜池によって独占されていたので,これらの村落はその都度領主に願出て印南の計画を一蹴してしまったのである.
 以上の行論からわかるように,近世末期から明治初期にかけての加古郡農業の特徴,すなわち,綿と裸麦を中心とした農業生産形態を生みだした要因は,水利条件の制約から耕地のかなりの部分を畑が占めざるをえなかったことにあったのだが,この点を母里村の場合について,やや詳しく検討してみよう.
 母里村小学校の教師橘亀次氏が1907(明治40)年に執筆した「郷土史資料」によると,疎水開削までのこの村は,「土地元来高燥ニシテ水利ニ乏シク草谷川沿岸ノ地ハ梢水利ノ便ヲ得タルモ其他各村共に数個ノ小池ヲ有スルニ過ギズ随テ水田僅少ニシテ畑作大部ヲ占メ主要作物トシテ麦,大豆,大角豆,煙草,木綿ヲ産」するところであった.
 このような母里村の農業生産形態は,おそくとも近世中期には成立していたと考えてよい.1764(宝暦14)年の蛸草の「明細帳」をみると,裸麦,大麦,小豆,木綿,大豆,栗,黍,稗,大根,かぶら等が,その頃の畑作物としてあげられているからである.また,上記蛸草の「明細帳」および同年の印南の「明細帳」の記載によると,4月上旬から5月上旬にかけては木棉,栗,黍,稗,大豆,小豆の播種や煙草の植付が行われ,8月上旬には大根,かぶらの播種,10月下旬には菜種の植付,さらに11月上旬には麦の播種が行われていた.夏作では綿,煙草,雑穀,冬作では麦,菜種という畑の土地利用方式がとられていたわけである.
 以上の畑作物のうち,麦や雑穀は自給的性格をもったものであり,綿,煙草は後で述べるように商品生産を目的とした作物であった.この地帯では,すでに1700年代後半には綿,煙草を中心とした畑作商品作物が自給作物と併存しながら栽培されていたのである.
 もっとも,綿の栽培は畑のみで行われたわけではなかった.われわれが入手した1852(嘉永5)年の野寺の文書をみると,この年は降雨が少く,溜池の貯水量が少なかったために水稲の植付制限が行われ,その代替作として水田に綿が栽培されたた事実が記載されている.水利に恵まれないこの地方では,その年の溜池貯水量に応じて水稲の植付面積を制限する「歩植」と呼ばれる慣行が旧くから成立していたので,「歩植」割合に応じて溜池からの配水が停止された水田(=あげ田)では,畑作物の栽培を余儀なくされたわけである.播磨国諸郡のなかでトップの座を占めていた加古郡の実綿生産量の相当部分は,畑での綿栽培が支えていたと考えてよいのだが,同時に,その一定部分は「歩植」慣行にもとづく“あげ田”での綿作にも支えられていたことにも注意しておきたい.
 ところで,第4表はまえに指摘した自給作物と商品作物が併用するという畑作生産の構造が,近世中期以降,どういう動きをみせたかを知るために掲げたものである.
第4表 母里村印南における夏・秋作の作付構成の変化
この表に示した母里村印南の夏・秋作物の栽培面積は,原資料が村役人から領主に差出されたものだから,かなり控目な数字であることを考慮しなければならないのだが,少くともつぎのような傾向は指摘することができよう.
 第1は,畑が90%を占める村落であるため,水稲はきわめて少く,畑作物の作付が圧倒的で,なかでも,大豆,小豆,きび,粟,稗等の粗放な自給作物の栽培が全体の50%をこえていることである.第2は,その反面,綿,煙草等の栽培が全体の20~30%を占め,畑作農業における主要な商品作物となっていることである.第3は,表示した期間のなかで煙草は大きく減少し,それにかわって綿の作付がほぼ倍増し,寛政2(1790)年には14%だった総作付面積に対する割合も,1822(文政5)年には25%に上昇していることである.これは,近世末期におけるわが国綿作の中心地だった河内国の天保年間(1830‐1844)の綿作面積割合2)(33%)をやや下回る程度のもので,印南における綿作生産の旺盛ぶりを示している.と同時に,この第3の点は綿作が近世末期の畑作商品生産の基幹作物として,この地方で地位を確立していく過程を知るうえでも,有力な手がかりを与えてくれる.
 まえに述べたように,印南の開発が始まるのは元禄~正徳(1688-1715)からであり,橘亀次氏執筆の前記資料によると,以後「漸次諸方ヨリ人民移住シ来リ開拓ニ従事シ元文,宝暦ノ頃ニ至リテ戸口益々増加セリ」といわれている.ちなみに,1737(元文2)年の印南の「明細帳」をみると,畑150ヘクタール,水田1.5ヘクタールが耕作され,戸数195軒,人口990人,牛30頭を数えることができる.30‐40年程度の間に,かなり早いテンポの畑地開発と村落の形成が進んだといってよいのだが,それを支えた経済的条件は,同年の「明細帳」の記載から判断すると商品作物としての煙草作であった.この資料には購入肥料である干鰯を使用した煙草の栽培方法や乾燥方法が詳しく述べられており,当時の畑作農業において煙草作が重要な地位を占めていたことを推定させてくれる.この点からみると,元禄期以降における貨幣経済の展開によって,貢租源である稲作に依存した近世封建社会のなかでも煙草作による商品生産農業の成立が可能となり,そのことに促されて早いテンポの畑地開発と集落の形成が可能となったと思われる.
 ところで,そういった重要な意義をもっていた煙草作は,近世末期に近づくとなぜ減少し,かわって綿作が基幹的な商品作物として増加してきたのだろうか.
 考えられる理由の第1は,近世中期以降における大都市への人口の集中により,麻織物より安価な綿織物の需要が増大したこと,しかも鎖国によって世界市場から完全に遮断されていたので,国内産綿は相対的に高価格3)で綿作は経済的に有利だったことであろう.第2の理由は,加古郡を領有していた姫路藩が1821(文政4)年から木綿の専売制度を設け,領内における綿栽培を奨励したことであろう.加えて,姫路藩は,年貢の代金納を認めていたので,水利に乏しい畑作地帯の農民たちは,領主が奨励する有利な商品作物である綿作の拡大により,貢租源を確保するという行動をとったことが考えられる.ちなみに,1852(嘉永5)年の資料で印南の年貢納入方法をみると,実に85%が代金納で行われていることがわかる.
 さて,煙草にかわって畑作商品生産農業の基幹作物としての地位を確立してきた綿作は,農民の余剰労働力利用の有力な副業である綿花加工機織を,この地方に成立させた.播州葡萄園を設立するため,1880(明治13)年に母里村を訪れた福羽逸人の復命書4)は,疎水開削前のこの村の農業生産,農民生活の状況を教えてくれる.貴重な資料であるが,これによると「農家ノ男子ハ四時畦畔ニ従事シ女子ハ春秋ノ二季ヲ以テ専ラ綿花ヲ紡績シ機織ノ業ニ従事シ夏秋ノ間ハ耕転収穫ヲ助ケ」ていたことがわかる.製糸工程と綿織工程が分離していない家内工業が農閑期の女子労力を利用して営まれていたのである.
 こうした形態の綿花加工形態は,母里村のみでなく,ひろく加古郡全体に共通して成立していた.綿花加工に従事する労働力の点で,福羽逸人の復命書とくいちがってはいるが,「この(綿のこと―引用者)栽培は明治維新前より頗る盛観を呈し・・其実綿は農家唯一の副業として,老幼男女の区別なく,皆小車により糸となし木綿を織り,播州木綿と称して盛に大阪方面に輸出す」5)という『加古郡史』の記述はそのことを示している.水利条件に恵まれないため,自給的な畑作物の栽培と同時に,商品作物としての綿を栽培し,それを農閑期に加工して販売するという点に,疎水開削までの加古台地の農業生産と農民生活の特徴があったということができよう.
 しかし,綿作に代表される商品作物の増加は,畑作農業の生産力発展にもとづくものでなかった.畑作といえども,用水不足に悩まされることが多く,「夏季ニ桔槹棉林立井水汲ミ上ケニ忙殺セラレ而カモ早天続カハ作物枯死シ稼穡困難」引という低い生産力段階に疎水開削前の台地農業はおかれていたのであって,そういう条件のもとでの綿作は,一定の剰余を農民の手許に残しうる可能性は少く,むしろ貢租源を確保するための窮迫的商品生産だったと考えてよかろう.
 ところで,近世末期から明治初期にかけて,加古台地の農業,とりわけそのなかでも生産力の低かった母里村の農業は2つの困難な問題に当面した.

 第1は,毎年のように早ばつにおそわれ,もともと生産力の低かった村の農業が大きな打撃をうけたことであり,第2は,そういった状況のもとで,明治新政府が行った地租改正により藩政時代に比べ3‐5倍近くの重租が課せられたことである.低生産力段階の畑作農業と農民生活は,大きな打撃を受けたといってよいだろう.加えて,「維新後廉価ナル外国綿糸ノ輸入旺盛トナリ生産コストノ高キ内地綿ハ圧倒セラレテ需要減退シ綿布ノ販路又杜絶スルニ至」ったことは,それに追打ちをかけ,
「他ニ生産ノ途ヲ求ムルニアラサレバ立チ行キ難キ状態ニ陥」7)ったのである.
 「他ニ生産ノ途ヲ求ムル」ため,母里村では2つの方向が模索された.ひとつは,近世末期からの疎水開削計画を継承し,畑の水田化をはかる方向であって,これは母里村野寺の在村地主魚住完治等によって唱導されだ.もうひとつは,印南の在村地主丸尾茂平次が構想した「此地方ノ畑地千町歩ヲ葡萄園トナシ,此地方ニ於テ,葡萄酒ヲ盛大ニ製造セバ是亦6ケ村(母里村のこと引用者)ノ 鴻益タラン」
(丸尾家文書)という方向である.これは,西欧の葡萄栽培技術をわが国に移転するため,官営の播州葡萄園が印南に設立(1880年)されたことに刺激された構想と考えられるのだが,播州葡萄園自体がみるべき成果を納めなかった点からもわかるように,その当時のわが国農業に適合したものではなかった.そして結局は,第一の方向が現実路線として推進され,疎水開削工事の着工となって実を結ぶのである.

2 地主的土地所有の展開と疎水の管理

 疎水開削の推進階層となったのは,町村制施行前の旧村である村落の代表者であり,第1回帝国議会に代議士を送りこむほどの政治的動きを示した在村地主層および自作上層であった.疎水完通後間もない時期の母里村の資料によると,彼らはけっして大きな土地所有者ではなかった(第5表).が彼らは,1886(明治19)年設立の水利土功会議員となって疎水の完工に寄与しただけでなく,疎水と連結する溜池の増築や新築工事にも力をつくした.
第5表 初期水利組合議員の土地所有状況
 疎水開削計画の特徴はそれ以前に築造された自己集水流域(=流)をもつ溜池(=旧池)を増築して用水を補給し,利用水量と灌漑面積の増加をはかるとともに,その一方では新築された溜池(=新池)にもあらたい用水を供給することにあった.したがって,畑や山林を水田化し,その利益をうるまでには,疏水幹・支線開削費,溜池築造および用水路開削費,水田造成費等を必要とした.当初の計画によると,これらの工事費は幹・支線開削費約69千円,溜池築造および用水路開削費約59千円,水田造成費約53千円の合計181千円だった.ところが,「工事実施ノトキ即廿一年一月ニ至リテハ時恰モ山陽鉄道会社ノ鉄道工事ヲ起シ専ラ播磨国ノ工事ニ着手スルニ際会シタルヲ以テ労働者ノ賃金及ビ木石ノ類頓ニ騰貴シエ事費著シク増加」8)した.加えて,1892(明治25)年水害で幹線水路が決潰したので,その復旧工事費約178千円も調達しなければならなかった.
 疎水開削の推進者たちの努力は,なによりもまず幹・支線開削の工事費調達に向けられた.数ヘクタールから10ヘクタール程度の貸付地を所有するにすぎない彼らは,工事費の全額を負担する能力はなかったからであろう.この結果,着工前には45千円の国庫貸与金をうけ,また復旧工事にあたっては120千円の国庫補助と上記貸与金の補助金への切替えが実現した.しかし,復旧工事もあわせると幹・支線開削だけでも255千円の工事費を必要としたので,なお約90千円の資金調達が必要だった.しかし,「累年凶旱ノ災厄ニ遭遇セルト地租改正ノ為メ非常ノ増租トナリシコトニヨリ村民頓ニ衰幣名状スベカラザルノ惨状ヲ呈シ流離亡村ノ極ニ陥ラントセシヨリ 人民ヨリ出金シタル金額七千八百六十九円四銭四厘」9)にとどまったので,推進者たちは,その残額を加古川周辺の資産家や日本勧業銀行から借入れる努力も行わなければならなかった.
 彼らが行ったもうひとつの努力は,溜池築造および用水路用削工事の推進だった.母里村蛸草の場合は「溜池増築及養水路新設事業ノ為メ利益ヲ受クル土地ヲ以テ区域」(同組合規約第1条)とする普通水利組合が,水利組合条例により設立されており,規約によると,「利益ヲ受クル土地」は,関係反別115.4ヘクタール,要水反別93.2ヘクタールとなっている.なおここでいう関係反別とは「事業ノ為利益ヲ受ル土地ノ反別」で,また「要水反別ト称スルモノハ関係反別ニ含メル在来ノ田地ノ内在来ノ水ヲ以テ養フコトヲ得ベキ部分ヲ除キ全ク養水ノ補足ヲ必要トスル部分ヲ反別ニ換算セルモノニシテ即組合費賦課ノ目安ニ用ユル反別」(規約第2条)を指している.受益地を関係反別と要水反別の2つに区別する考え方は,この地域特有のものであって,疎水および溜池の管理方式を理解するうえでの重要なポイントであるが,ここでは後論の伏線として指摘しておくにとどめたい.
 同組合の資料によると,溜池増築および用水路開削のために要した工事費は,第6表の通りであった.この表をみると,3ヶ年間の収入7336円のうち,45%を借入金に依存していることがわかる.これは,「関係者ニ取ッテハ自今淡河川疎水ノ本線路費並支線路工費及畑地変換費等費額相嵩ミシニ耐兼ル候時節ニ向ヒ資力如何ヲ顧ルニ迚茂一時ノ徴収ニ堪ユル能ハズ」(明治24年9月27日議事録)という農家経済の状況を反映したものであった.
第6表 溜池増築等の工事費の内訳
 もっとも,借入金で工事費の一定部分を調達することについては,異論もあった.たとえば,1891(明治24)年7月27日の組合議事録をみると,「借入ヲ見合シ本工事ヲ当分中止シ農閑ニナリテヨリ人夫ニテ勤ムル事ニ致シタシト考フ」,「公借セバ後ニテ賦課ノ際不納者ノアリタルトキハ如何取扱ニ相成ルカ」等の意見,疑問が組合会議員の一部からだされている.が,「是迄賦課ニ成リタル壱反歩壱円弐拾銭ノ金ニサエ困却シタル事故 公借ハ不賛成ノ意ナレドモ熟考スルニ 公借シテ只今溜池ニ養水ノ乏シキ際一曽工事ニ熱心シ片時モ早ク竣工ニ近ズカシタルガ宜敷ト存」ずる意見が多数を占め,「滞納者アリタルトキハ…本人所有ノ財産ヲ不納金ニ充ッル迄差押シ公売処分ヲ執行スル」ことに決定されるのである.
 組合資料の記載によると,借入金の調達は2つの方法で行われている.ひとつは,疎水の推進階層であり,普通水利組合議員でもあった在村地主層からの借入であり,その利子は年利15%程度だった.2つは,同じく年利15%の借入金であるが,加えて元金に対し15%の借金周旋人手数料も支払っていることからみると,おそらく加古川周辺の資産家からの借入によるものと思われる.
 以上で述べたように,疎水開削の推進者たちは,幹・支線から溜池築造に至る一連の工事の完工のために,物心両面から力をつくした.この結果,「溜池ノ新築及在来溜池ノ増築多数ニ施工セラレ従前ノ畑地,山林,原野ヲ開墾シテ水田トナリ,従テ産米額及土地実価増額霧シ」10)という収益がもたらされた.1906(明治39)年の母星村の調査によると,その概数は,溜池新築(新池)による開田600町の1ヶ年の米収穫高12千石と溜池増築(旧池)による用水補給面積200町の増収高2千石の合計で14千石(米価換算218千円)の増収がみられ,これにより土地価格も1反当り100円から200円に上昇したほか,藁115千貫,麦5千石や「牧畜,家畜等の副産物もあり,彼比の副産物を総合すれば従前の綿産業を以て一村の経済となしたる当時よりも尚余裕あるに至」11)ったとされている.
 しかしながら,すべての村民がこれらの利益を享受しえたわけではなかった.地租改正による重租や疎水開削にかかわる一連の工事費負担のため,在村地主層あるいは加古川周辺の資産家等に土地が集積する過程が進行したからである.たとえば,加古台地の諸村のなかでも,とりわけ重租が課せられた母里村では,「地主の内,他の資産を以て差繰して納め得べき余力のあるものは十分の一もなく,皆其土地を抵当にして借入れるか,其土地を売りて租を償ふかの両様より外に差繰の仕方」12)がないというが,疎水開削前の状態だった.したがって,疎水開削にともなう一連の工事費負担は,そういった農家の窮迫に拍車をかけることになったのである.
 母里村の集落別の10アール当り工事費負担と疎水開発削による稲作の収益を比較した第7表をみると,工事費負担の村平均額は稲作の粗収益を上回っていることがわかる.稲作の生産コストを考慮にいれたとき,もともと,重租に苦しんでいた農家の経済と生活を,疎水開削の工事費負担が一層圧迫したことは明らかであろう.
第7表 10a当りの工事費負担と稲作粗収益の比較(母里村)
 こうしたことから,1877(明治10)年前後には830戸だった母里村の戸数は,1892(同25)年までの間に197戸も減少し,「人口八百人を亡産四方に流離せしむる」13)ことになった.1896(明治29)年の役場資料によると,村外土地所有者だけでも総耕地面積の45.8%を所有していた事実,また,加古郡の小作地率が明治期を通じて上昇している事実(第8表)等は,重租納入と疎水幹・支線や溜池築造等の工事費借入金返済のために土地を手離さざるをえなかった農民たちが多かったことを示すものとみてよいだろう.疎水開削は,「好成積を得たりと雖も実際疎水の利益は徒らに他の富豪者及中農夙上の利益となり 小農細民に及ぼさず,富者は益々富み貧者は益々貧に兼併の幣を助長せり」14)といわれるゆえんである.重租賦課を解決するために推進された疎水開削は,村外,村内の地主層への土地集中を促し,この地域に地主的土地所有を形成せしめた契機のひとつでもあったといわなければならない.「重租の為めに其土地を維持する能はず已むを得ず他の富豪者に只管依頼し畑一反歩を僅か三,四円に買ひ取り貫ひて其重租を避け而して其富豪者は其間も無く疎水の通すると直に水田となし年々米を二石以上収穫する様になし其元の地主は又其新地主に只管に頼みて其地を小作させて貫ひて一石以上の小作料を取立てられ」15)るという事実は,そのことを具体的に物語っている.
第8表 田畑別小作地面積並割合の変化(加古郡)
 ところで,1890(明治23)年公布の水利組合条例によって,従前の水利土功会は淡河川普通水利組合に組織替えされるのだが,この組合の運営に積極的に参加したのは,上記引用文でいう「他の富豪者」,すなわち,村外の大土地所有者ではなく,土地所有に基礎をおく村落社会での発言力と経済的実力をもった在村地主層および自作上層であった(前掲第5表を参照).たとえば,1890(明治23)年に施行される上記普通水利組合規約第8条をみると,組合会議員の被選挙権は,母里村,加古新村,天満村(いずれも現稲美町),平岡村,二見村(現加古川市の一部)に居住する男子組合員(但し,1ヘクタール以上の土地所有者)だけに限られており,地租改正から疎水開削前後に上記諸村に土地を所有するようになった不在大地主は選挙権のみを与えられている.彼らの組合運営への参加は許されておらず,普通水利組合の事実上の運営は,在村地主層等の手に握られていたわけである.もっとも,1909(明治42)年の規約改正で組合の関係区域に土地を所有する組合員で選挙権を有する男子には被選挙権が与えられることになったが,もともと,農業生産から遊離していた不在大地主層は,組合の直接的な運営に対する関心が弱かったので,その後も組合会議員への進出は全くみられなかった.
 在村地主層や自作上層は,水利組合の運営に参加しただけでなく,土地所有者のみで構成された溜池水利団体の管理,運営(詳しくは後述)も掌握していた.
 疎水から溜池に至るまでの全水利システムの管理,運営に,彼らが強い関心を向けなければならなかった理由としては,つぎの2つのことが考えられる.
 ひとつは,水稲生産の安定,拡大と深いかかわりをもつ疎水,溜池の運営は,各村落の農民に共通する関心事だったので,村落の代表者であった彼らは,つねにこの問題を追求しなければならなかったことである.2つは,地主という資格において,一方では重い地租を負担し,他方ではそれを小作料に依存しなければならなかったため,農民たちの関心事は,とりもなおさず,彼ら自身の経済的利害につながる問題でもあったことである.そして,この2つのことがよりあわさって,村外大地主の参加を許さない疎水,溜池の用水管理,すなわち,在村地主主導型の地主的用水管理方式が成立するのである.
 また,この点から考えると,淡河川普通水利組合は,村落連合と在村地主連合というニ面的性格をそなえた組織だったということができる.そしてこの性格は,山田川疎水着工後に普通水利組合法にもとづく近代的な組織の形式がととのえられた後においても,基本的には変化しなかったと考えてよい.普通水利組合法にもとづく新規約の審議を行った1909(明治42)年の組合会における水利組合当事者と一部の議員との間で行われたつぎのような議論は,そのことを示している.
 すなわち,「本組合ニ加入シ引用セル疏水ヲ管理者ノ許可ナク他人ト私約シ新タニ開墾若クハ地目変換ヲ為シタル区域外ノ土地ニ灌慨シタルモノ」,つまり,溜池水利団体がr勝手ニ水ヲ売リ区域外ノ土地ニ灌漉シタル場合」等については,疎水加入の取消し,または減水,停水するという規約原案に対し,「管理者ハ疏水ノ仲人トスル人間ナレバ嫁ノ仲立其ノ嫁ヲ聟ノ家へ連レテキテ三々九度ノ盃ガ済ダラ其レデヨイノデッマリ疏水モ水ヲ溜池ニ入レタラ其レト同様仲人ノ義務ガ済ム其レヲ根ヒツコイ或ル点迄立入ラナクトモヨイ若シ其迄立入ツテ旧流ノアル溜池ノ干渉スル様ニナル」,あるいは「池ノ水ヲ溜メルトスレバ如何ナル人力ヲ以テ水ヲ集ムルカモ知レンアマルカラ人ニヤルノナラバ疏水カラ水ヲヤル事ハ出来ヌト言フノハ圧制デハアルマイカ  コンナ方法ヲ設ケテ頭押ニスルトイフノハ  他人ノ権利ヲ障害スル」(明治42年通常組合会議事録)等々の反論が生じ,結局,上記原案のような事態が生じたときには,疎水団体は「組合員ノ権利ヲ保護スル為メ常設委員会ノ意見ヲ聞キ相当ノ処理ヲ施」すという修正が行われているのである.この発言は,溜池水利団体に対する水利組合からの一切の干渉を許さないという態度を示している.したがってこの反論は,村落的機能と結びついた溜池水利団体およびその代表身分である在村地主層の利害を超越した水利組合独自の管理,運営は行いにくかったことを意味するものでもあった.
 以上のことは,疎水幹・支線―溜池という水利施設体系の機能が,それぞれに異っていることからも生みだされた.
 前述したように,疎水は新池に用水を供給すると同時に,旧池にも補給水を送る目的で開削されたものだった.したがって,水利施設体系の基軸は用水の貯溜施設であり,自立的水源でもある溜池であって,疎水の幹・支線はこれらの溜池への送水機能をもつ補充的施設であった.このことが物的根拠となって,疎水団体は基幹的施設を自立的に管理する溜池水利団体の連合体としての組織機能をもつことになり,幹・支線から溜池に至る全施設体系の一元的な管理・運営は,この点からも困難であった.このため,疎水の幹・支線は普通水利組合(戦後は土地改良区)で,溜池の管理はそれぞれの溜池水利団体が管理するという二元的な管理システムが成立し,現在に至るまで,このシステムは継承されてきているのである.
 戦前までの溜池水利団体は,田人[タド]という呼称が一般的で,構成員も土地所有者のみで,経営耕地のすべてを小作する耕作者の参加は許されなかった.この水利団体の機能は,溜池,配水路の維持管理および溜池に貯溜した水の管理と水田への配水業務等であるが,その具体的内容の検討にさきだって,疎水と溜池とが結合した二元的管理システムの特徴を述べておこう.
 上記のように,疎水団体はそれぞれが自立した施設機能と管理機能をもつ溜池水利団体の連合組織である.したがって,疎水団体に対する溜池水利団体の関与は平均的,平等的で一定の序列はない.ということは,疎水団体は溜池水利団体が必要とする水量を可能な限り正確に供給しなければならないことを意味する.円筒分水形態をとる練部屋分水が,疎水開削の当初から設けられた事実は,均等な用水配分をつよく要求する社会関係がはたらき,それを保障するための物的条件としてこの施設形態が採用されたとみるべきであろう.
 しかしながら,溜池が必要とする水量はそれぞれの溜池の集水機能によって異なる.たとえば,自己集水流域である“流”をもつ旧池と,それをもたない新池とを比較したとき,両者の疎水に対する依存度には差があることは当然であろう.そこで,この差を調整するために,実際上の灌漑面積(=関係反別)にもとづいて疎水から用水の供給をうけるのではなく,まえに紹介しておいた要水反別によって疎水へ加入するという方式が成立したのである.このため,後掲の第9表に示すように集水機能の低い溜池水利団体は実際の灌概面積(=関係反別)以上の要水反別をもち,疎水加盟率は100%をこえるということも生ずるのである.疎水団体の水利費の徴収も,この要水反別を基準としており,したがってそれは,必要水量の供給に対して支払われるという意味をもつわけで,この点からも,比較的厳格な分水を可能とする円筒分水形態が,疎水開削当初から必要とされたのである.疎水開削の推進者たちがあみだしたこのような用水配分と水利費徴収の形式は,一種の量水制による水の商品化とみることができる.もっとも,用水の量ではなく,要水反別=面積が水利費徴収の基礎になっている点からいうと,名実ともに量水制の内容をそなえていない点もあるが,この形式はわが国における量水制,売水制の可能性を考えるうえで示唆にとむものといわなければならない.
 ところで,疎水開削後から戦後に至るまでの間に,溜池水利団体の管理が具体的にどのような方法で行われてきたかを,すべての水利団体について教えてくれる資料はない.そこで,われわれが1954,55年に母里村の全溜池水利団体について行った調査結果を利用して,管理方式の要点を述べると,つぎのようである.
 すなわち,年1,2回の全員総会(初参会とも呼ばれる)を最高の決議機関とし,ここで溜池管理業務を執行する水利委員を選出する.委員の任期は通常1‐4年であり,互選で最高責任者たる委員長をさだめる.そして,委員会は「水入れ役」「池守り」を任命するとともに,これらを監督して配水調整,溜池,配水路の維持管理等の責任を負うわけである.このうち,各水田への配水はもっとも重要な仕事であり,総会あるいは水利委員会で溜池の樋ぬき時期を決定し,その年の水田への配水が開始される.配水開始後の用水配分業務は「水入れ役」に一任され,個々の耕作者は配水路のみならず,自己の水田の用水取入口にすら手をつけることは,慣行として固く禁じられていた.この厳格な用水配分の慣行は,「水入れ役」を任命し,これに用水配分権限を事実上委任している水利委員会の統制力の強さを示していると同時に,一面からいえば,用水配分の一切を「水入れ役」にゆだねることによって,個々の耕作者の「我田引水」を防ぎ,量的に限定された溜池の用水を可能な限り平等に配分しようという溜池固有の用水配分原理の具体的表現とみることができる.もっとも,この用水配分慣行は,1960年代に入って崩れてきてくるのだが,この点詳しくは後で述べることにしよう.
 溜池の用水配分方法として,見落すことのできないもうひとつの慣行は「歩植え」である.この慣行が近世期に成立していたことは前述の通りであるが,淡河川疎水開削以後も,なお水量に乏しく,新池で40‐50%の水稲植付面積の制限(=歩植え)が行われたといわれる.しかし,山田川疎水開通後は水量も多くなり,植付面積の制限割合は低くなったようである.
 その年の水稲植付面積を溜池の水量に応じてどの程度に決定するかは,耕作農民だけでなく,地主層にとっても重大な関心事だった.「歩植え」の対象となった“あげ田”のその年の小作料は畑なみの低いものとされたからである.
 「歩植」は,その年ごとに溜池水利団体の全員総会にはかって決定されるが,事実上は水利委員会が権限をもつものであった.そして,田植後は「歩調べ」と称する一筆ごとの調査が行われ,故意に違反したと判断されたときには断水という制裁をうけなければならなかったが,やむを得ない事情がある場合には歩植超過水料を支払うことで許された.
 以上は,母里村の溜池水利団体に共通する溜池の管理方式であるが,ここで注意しておきたいことは,溜池築造以来の歴史的伝統が微妙に反映して,1955(昭和30)年時点における旧池の水利団体と新池の水利団体との管理方式には,かなり明瞭な差があったことである.たとえば,第9表が示すところでは,旧池では疎水開削前後の旧田,新田の差によって,疎水の水利費の負担方法に区別がある.水田の開発年次の差による旧い特権が容認されているわけである.これに比べ,新池の場合のそれは一率面積割である.また,溝さらえ等の水利施設の維持管理作業の出役方法は,旧池のほとんどが戸数割役となっているが,新池になると受益面積の差によって出役人数が区別されているところが多い.
 旧池と新池における管理方式の差は,一言でいえば,村落機構と溜池水利団体との結びつき方に由来するところが大きい.
 すなわち,旧池の水利団体は近世村落社会のなかで形成された用水管理組織を母体としたものであり,疎水開削にともなう溜池築造も村落的事業として行われた場合が多かった.したがって,土地所有を基軸とした近世村落社会の運営方式と,そのもとにおける用水管理方式が濃厚に継承されていた.一方,新池はもともと村落的結合が弱かった畑作地帯に多く,溜池の築造も村落的事業としてではなく,一定の範囲に土地を所有する人々の協同事業と呼ぶにふさわしいものであた.そのうえ,旧池のように近世村落と溜池水利団体との構成範囲の地域的共通性はもっていなかったので,近世村落の伝統的運営方式を継承し,存続せしめる条件にとぼしかったのである.
第9表 旧母里村の各溜池水利団体の運営方法(昭和30年)
新池は旧池に比べ,機能的協同団体としての性格をはるかに強くもつものであったといえよう.そして,このような管理方式の差を反映して,1960年代以降になって進行する水利秩序の変容形態も異っていることは,後述の通りである.

3 中農層の成長と地主的用水管理方式の後退

 前節では,資料の制約があったため,1954,55(昭和29,30)年の調査結果にもとづいて,溜池水利団体の管理方式を論じたのだが,ここでは再び時期をさかのぼり,大正期以降における加古郡および母里村の農民層分解の特徴を明らかにし,併せて溜池水利団体の管理方式や水利用の変化についてのいくつかの事実を指摘することにしたい.
 まず最初に,疎水開削後の加古郡の主要作物作付面積と耕地の地目構成を示した第10表に目を向けよう.
第10表 主要作物作付面積並耕地面積の変遷(加工郡)
 この表から指摘しうる第1の点は,淡河川疎水の開削に伴って水田化が進み,棉,雑穀,なたね等の畑作物の作付が大きく減少したことと水稲作付面積が伸びたことである.稲作は山田川疎水の開削が完了した大正初期になると,ますますその地位を確立してくるが,大正中期以降になると停滞傾向に入り,他方,それと表裏するかの如く蔬菜に代表される商品作物の増加がみられ,特徴の第2点となっている.
 この第2の特徴点は,地租改正,疎水開削の過程を通じて形成,確立してくる地主的土地所有が次第に動揺し始めたという農村構造の変化と照応している.前掲第8表に示したように,加古郡の小作地率は1907(明治40)年を境にして減少傾向に入り,この地域での地主制の凋落を知りうるのだが,同じことは母里村の動きからもいうことができる.資料の制約があるため,村段階での動向を知りうるのは1925(大正14)年からであるが,第11表によると,小作地率は郡の場合と同じく減少をたどっており,それは耕地所有規模別戸数の推移(第12表)のうえでも,50アール未満層の減少,50アール―1ヘクタール層および1―3ヘクタ一ル層の増加となってあらわれている.なお,在村地主層と目される5ヘクタール以上層に変化がないのは,小作地の自作化が,村外の不在地主の所有地で進んだからであろう.
 いうまでもないことだが,以上の動向は自作,自小作農家の増加となってあらわれており(第13表),農民的土地所有の前進,中農層の成長が進行していることを示している.
第11表 田畑別小作地面積並割合の変化(母里村)
第12表 耕地所有広狭別戸数の変化(母里村)
 このような変化は,大正中期からこの地域でも頻発する小作争議を機に村外大土地所有者が土地売却に向ったこと,第14表にみるような西瓜 蔬菜,煙草等を中心とした農民的商品生産の進展で耕作農民層でも一定の経済的蓄積が可能になったことなどが,よりあわさってもたらされたものであった.以下,その事例のいくつかを紹介しよう.
 事例1 この農家は,1897(明治30)年頃は.自作地50アール,小作地25アール,計75アールを耕作していた.1907(明治40)年頃から大根を40アール程度つくり,切干大根として販売した.大正期に入って煙草栽培を開始するが,丁度この頃,不在地主が土地を売り始めたので,これを購入し,大正末期には22ヘクタールまで経営規模を拡大した.1925(大正14)年には,集落で最初の動力揚水機を導入し,商品作物の灌水に使用した.
第13表 自小作別農家戸数及兼業戸数(母里村)
第14表 作物別作付面積の動き(母里村)
事例2 明治期は自作地30アール,小作地30アールの自小作農だったが,大正期になって村内で盛んになった藁加工品の仲買を始めて経済力をつけ,土地購入を開始した.1935(昭和10)年頃には1.7ヘクタールの自作農となり,戦後も集落一流の経営者として,溜池水利団体の委員長をつとめている.
母里村内における中農層形成の地域的な差異をみると,印南等の新池地帯に多く,それに比べると,旧池地帯の動きは,そうじて弱かった.新池地帯で中農層の形成が目立っている理由のひとつとしては,溜池の用水不足による「歩植え」の頻度が多かったことが,逆に“あげ田”を利用した商品生産の進展を促す条件となったことが考えられる.同時に地主層も小作料収入が不安定な土地所有に魅力を失い,売却するケースが多かったこともあげられよう.中農層は,かかる水利条件の不利を揚水機の導入等でカバーしつつ,自らの農業経営を充実させていったのである.
 ところで中農層の形成は,溜池水利団体の管理方式にも一定の変化を与える契機になった.新池のひとつである福寿池の場合にっいてみると,1926(大正15)年までは,在村地主F家(7-8ヘクタール所有)が管理の頂点にたっていたが,以後は1.5ヘクタールを経営する中農H氏と交替している.そして,ほぼ時期をひとしくして,それまでは戸数割だった出役方法も,70アール以下1人,70アール以上2人という面積割に改められている.大正末期における小作争議の激発に示される農村構造の変化を反映した役員層の交替とみてよいだろう.
 溜池水利団体の役員層の交替は,旧池地帯である野寺でもみられた.たとえば,1925(大正14)年以降の用水管理活動が詳細に記録されている「野寺水利協議日誌」をみると,1930(昭和5)年3月14日の戸主会総会の協議事項として,つぎのような事実が記載されている.
  水利委員解散二決ス
  戸主会,水利部ヲ別ニスル事
  水利委員長共七名置事二決ス
  戸主会長評議員共拾壱名二決議ス
  右改選ノ結果左ノ通リニ役員決定ス
  戸主会長H・M
  水利委員長N・S
  水利委員左六名(以下略)
 この記載は,村落の運営機構である戸主会から溜池管理機構を独立させることが決定されたことを示しているのだが,つぎの第15表は,その結果選挙で選ばれた水利委員の土地所有規模を,前年の1929(昭和4)年と比較したものである.この表をみて気がつくことの第1は,在村地主と目しうるU・丁氏が1930(昭和5)年には選出されなかったことであり,第2は,1929(昭和4)年にはU・A氏だけだった1ヘクタールの以下の零細土地所有者が,昭和5年選挙では2名に増加していることである.
 野寺における以上の変化は,近世的地縁集団である村落機構のなかに未分化のままで存続してきた溜池の用水管理機能が,それ自体として外化,独立したこと,しかもそれは同時に,土地所有を基軸とした村落の伝統的身分秩序が崩れ,溜池水利団体の管理の実権は在村地主層から中農層を中心とした耕作農民に移行するようになったことを示している.
 もっとも,野寺の場合は同じような事態が進行した福寿池とは異り,管理方式についてのみべき変化はない.前掲第9表が示すように戸数割出役や水利費負担における新田,旧田の差等は,1955(昭和30)年の時点でも解消されていないからである.近世的村落における伝統的な用水管理方式を長期にわたって存続させてきた旧池地帯と,疎水開削前は畑作であったがゆえに,そういった社会的伝統にとぼしい新池地帯との相異をみることができよう.この点,1960年代以降における用水管理方式の変化を理解するうえでの視点のひとつとして注目しておきたい.
 そのような相異をふくみつつも,農村構造の変化が進行する過程で,耕作農民自身が溜池水利団体の管理運営の舞台に登場するようになったことは特徴的である.同時にこの過程は,土地所有に基軸をおく地主的用水管理方式が後退し,それにかわって耕作農民の生産,経営の展開方向にそくした管理方式の形成条件が準備されてくる過程でもあった.そして,このことは村落連合と在村地主連合という二面的性格をもっていた疎水団体を,耕作者の協同団体的性格をそなえるようになった溜池水利団体の連合組織へ転換16)させていくことにつながっていくのである.
 戦後の農地改革は,この傾向を決定的なものにした.母里村の農地改革は相当に徹底して行われ,220ヘクタールの小作地を解放した後の残存小作率は4.1%にとどまるにすぎなかった.大正中期以降の農村構造の変化のなかで,醸造業等の経営に関心をつよめ,農業生産とのつながりを弱めてきた在村地主層の多くは,これによって社会的な指導力と発言力を全く失った.
第15表 野寺における水利委員の土地所有規模
農地改革後,村政,農業の指導的地位についたのは,大正中期以降に成長してきた中農層や小作争議を自作地の拡大できりぬけ,耕作者としての性格を強化してきた旧自作地主層など,農業生産,経営のうえでもすぐれた手腕をもった人々であった.そして彼らは,溜池水利団体の管理を直接的に掌握すると同時に,水団体の運営にも積極的に参加し,農業経営の充実を支えるにふさわしい用水管理方式の形成を推進するようになったのである.

引用文献
 1)古島敏雄「近世における商業的農業の展開」9ページ『社会構成史体系(第1部)』日本評論社 1950年.
 2)『日本農業発達史』第3巻117ページ中央公論社 1954年.
 3)『前掲発達史』第3巻106ページ.
 4)農林省『農務〓末』(復刻版)第6巻278-86ページ 1957年.
 5)『加古郡史』48ページ加古郡役所1913年.
 6)『淡河川・山田川疎水50年史』3ページ 淡河川・山田川普通水利組合 1941年.
 7)『前掲50年史』3ページ.
 8)『前掲50年史』62ページ.
 9)『前掲50年史』60,61ページ.
 10)『前掲50年史』107ページ.
 11)北条直正『母里村難恢復史略』(謄写刷)116ページ 母里村役場 1955年.
 12)『前掲史略』22ページ.
 13)『前掲史略』112ページ.
 14)『前掲史略』115ページ.
 15)『前掲史略』115ページ.
 16)『日本農業における個別的水利用の成立条件に関する研究』183ぺージ 水利科学研究所.

4 水田利用の集約化とあたらしい水利秩序の形成

 われわれの主たる調査地である稲美町母里地区農業の戦後,とりわけ1950(昭和25)年から60年(昭和35)年頃までの歩みを農業経営の側面から特徴づけるならば,戦前においてすでに開始されていた蔬菜生産が,水稲早期栽培の導入を契機として一層拡大し,水田利用の集約化が大きく進んだこと,しかもそのことに支えられながら疏菜作専業経営がひろく形成されたことをあげなければならないだろう.
 この地区では戦後のヤミブームのあとをうけて,“あげ田”慣行を利用した田畑輪換蔬菜作が拡大したが,それでも水稲早期栽培の導入が始まるまでは,やはり米麦作を基幹とする経営が多かった.しかしながら,1952(昭和27)年頃になると米麦作経営を集約化し,所得の増大をはからなければならない情勢が生れた.政府による麦の直接統制が撤廃されたので麦作の経営的有利性が低下するようになっただけでなく,冬期農閑期の遊休労働力を収益化してきた藁加工の衰退も進行したからである.
 この間題を解決するためには,なによりもまず,麦作のかわりに秋・冬蔬菜を導入し,土地利用の集約化をはかる必要があった.しかし,そのためには,表作物の作期との結合関係から,稲作をやめて夏蔬菜の面積を拡大しなければならなかった.しかしながら,米価に比べ蔬菜価格が不安定なもとでは,稲作減,蔬菜増という経営転換の方向はかなりのリスクを伴うものであった.
 そういった問題に母里地区の農業が当面していたときに,西日本におけるあたらしい水稲栽培技術として普及をみせ始めた早期栽培は,上記のような土地利用上の矛盾を解決し,早期水稲+秋・冬蔬菜という作付方式の成立を可能にする画期的な新技術として農民たちに受けとめられた.6月下旬に田植をし,10月下旬~11月上旬に収穫する従来の水稲栽培(=普通水稲)と結びつきうる後作は,おおむね麦作だけであったが,4月下旬~5月上旬に田植をし,8月上~下旬に収穫する早期水稲の後作には,価格のうえでも有利な各種の秋・冬蔬菜の導入が可能となり,農業経営の集約化をはかるうえでの作物選択の幅を大きく拡大したからである.第16表が示すように,水稲早期栽培の面積が急速に伸びたのも,それが水田土地利用の集約化=単位面積当りの所得の増大という経営転換の方向に適合した技術であったからにほかならない.
第16表 稲美町における早期栽培の導入状況
 では,その結果あたらしく生みだされた作付方式の収益性は,旧来の稲+麦体系にくらべてどのような有利性をもっていたのであろうか.やや事例的があるが,第17表でそれをみると,早期水稲と結びついた作付方式の収益性は,10アール当りの所得,労働報酬ともに,普通水稲と結びついた作付方式にまさっており,とくにそれは,四月下旬田植,八月上旬刈取の早期水稲と結びついた作付方式において目立っている.早期水稲導入の経営的メリットは,実はこのような新しい作付方式の高い収益性の実現にあったのである.
第17表 作付方式別の収益性比較(昭和34-35年)
 しかしながら,4月下旬~5月上旬に田植をする早期水稲を導入するには,6月下旬田植の普通水稲に適合するように形成され,存続してきた慣行的な水利秩序の改革,とりわけ,樋ぬき時期(=田植開始時期)の変更を伴わなければならなかった.いいかえるならば,約1ヵ月半の配水時期の繰上げを必要とする早期水稲を導入するには,その過程で必然的に衝突せざるをえない慣行水利秩序の改革が不可欠の前提条件となったのである.
 この水利秩序の改革は,旧池の溜池水利団体よりも新池のうちで積極的に進められた.たとえば,母里地区の溜池水利団体ごとの早期水稲,蔬菜作の導入状況を比較した第18表(第1図も参照)をみると,旧池の早期水稲導入率は,おおむね10%台にとどまっているのに対し,新池では20%以上の導入率を示すところが多い.また,蔬菜導入率も旧池をもつ集落は低く,新池をもつ集落のそれは逆という傾向をよみとることができる.
 このような差は,なぜ生れたのか.第1に考えられることは,もともと低湿な土地を中心として近世期に開発された旧池地帯には,排水不良の水田が多いのに対し,疎水開削後に高燥な畑が水田化した新池地帯は排水良好な水田がほとんどで,蔬菜の導入に適した耕地条件をもっていたことである.第2は,耕地の配置形態も前者では分散耕地が支配的であるのに対し,後者の場合は自宅近辺に集団化している傾向があり,集約的な管理を必要とする蔬菜作の栽培のうえで好都合であったことである.
第18表 新池・旧池別の早期栽培と蔬菜の導入状況
第1図 母里地区の水源
これは,新池地帯が散居制集落であるのに比べ,旧田が密居制集落であるという開発の歴史形態の差異にもかかわることであった.第3は,新池地帯の農民たちは,戦前から蔬菜生産にとりくんできたという経験の蓄積をもっていたことである.新池が疎水のみを水源とし,旧池は疎水と同時に独自の自己集水流域(=流)をもっていたことは,まえに述べた通りであるが,この水利条件の差は農業経営活動に対する農民の態度を規定するところがあった.水利条件に恵まれた旧池の農民たちは,総じて米麦作経営に安住し,水利条件が悪い新池の農民たちは,不安定な稲作を補充するため,個別的な経営努力をしなければならなかったからである.この努力は,“あげ田”への畑作物の作付を促すことになり,田畑輪換方式による蔬菜生産が,野井戸からの揚水や“流”からの「拾い水」(=事実上の盗水のこと)などに支えられて進んだのである.新池地帯では,溜池水利団体による厳格な用水管理方式の隙間をぬった水利用形態を探り出しながら,蔬菜作商品生産の方向が模索されてきたということができよう.
 だが,第18表でみたような新池地帯における早期水稲や蔬菜生産の高い導入率は,けっして,歴史的に与えられた圃場,水利条件や商品生産に対する過去の経験のたんなる延長線のうえで進んだのではないことにも注意しておかなければならない.新池地帯においては,昭和30年代に入ると,いちはやく共同的な土地改良投資を行い,歴史的に与えられた圃場,水利条件の不十分な側面を改善して,早期水稲や蔬菜生産の拡大を保障するにふさわしい土地・水の利用条件を,目的意識的につくりだしたからである.前掲第18表によると,早期水稲導入率と蔬菜導入率がともに高いのは上場集落の手中池掛りであるが,実はこの池掛りは,そういった過程が最も典型的に展開したところであった.
 第2図が示すように,上場集落の67ヘクタールの水田は,稲美町天満地区の溜池の集水溝(=天満の流)に養われる45ヘクタールを除いたほかは,すべて溜池に水源を求めている.溜池は,それぞれが自立した水源機能をもつ手中池,ぶどう園池,手末尾池,丸尾池の4つにわかれているが,上場集落の67ヘクタールの大部分は,49ヘクタールの受益面積をもつ手中池(手中小出池を含む)によって養われている.第3図は,手中池掛り水田の水路の配置形態を示したものだが,この図から指摘しておきたいことが3つある.
 第1は,一枚一枚の水田と結びついている水路のすべては用水路であって,排水機能はもっていないことであり,第2は,畦畔はくずれにくいように粘土で固められ,その高さも高いということである.
第2図 上場部落の水系図
第3図 水路の配置形態
最後の一滴まで用水を有効に利用しようという配慮が,末端の水利施設の形態に反映しているといえよう.第3は,天満の流掛りの水田を別とすれば,不規則な耕地形状の水田のすべてに水路が配置されているので,曲折や横溝が多く,それだけ水路延長を長くしているということである.
 これらを通じていえることは,用排水条件が各水田の水利用の独立性を保証していることである.水口の操作のみで各水田への配水がそれぞれ独立して行えるのである.だが,節水を目的にしているかにみえるこのような水路と水田との結合形態は,曲折や横溝の多いことによる不必要な水路の延長から,配水ロスを多くし,不足がちの溜池用水の有効利用を制約したともいえる.
 同じような水路と水田の結合形態は,微妙な差をふくみつつも,旧池の場合にもみられる.限定された用水を平等に利用する点に基軸をおいた用水配分秩序が形成される溜池灌漑地帯では,個々の水田の水利用の独立性を確保することによって不足がちの用水の平等配分ができるわけであって,それゆえにこそ,曲折と横溝を伴った配水路の配置が配水ロス問題よりも重視されなければならなかったのである.したがって以上のような水路と耕地の結合形態は,溜池的用水配分原理の物的表現として,新・旧池地帯を通じて広く確認できるのである.
 だが,手中池掛りで進展した事態の特色は,個々の水田がもつ水利用上の独立性を一層つよめると同時に,配水ロスの防止をねらった土地改良投資が溜池水利団体の共同事業として進められた点にある.
 1956(昭和31)年に着工して,1958(昭和33)年に完成したこの共同事業により,総延長9000メートルに及ぶ素掘りの配水路は,すべてコンクリート水路に改められるのだが,総工事費250万円を要したこの事業が一人の反対者もなく,短期間に行われた理由は,つぎの2点にあった.
 第1は,総工事費のうち,80万円は町からの補助をうけ,残額の170万円は手中池掛りにあった約2ヘクタールの水料田(溜池からの配水権をもたず,溜池の貯水量に余裕のある年にのみ一定の水料を支払って配水をうける水田)の溜池水利団体への加盟料(10アール当り約8万円)をあてたことである.つまり,農家は工事費を負担することなく,共同事業の効果を受益できないわけである.
 第2は,共同事業の実施により,早期水稲の導入が容易になり,したがって秋・冬蔬菜の拡大も可能になるという効果が期待できたことである.この池掛りでの早期水稲は,1955(昭和30)年までは仕付水および溜池の配水開始時期(6月下旬)までの養い水などが得やすい一部の水田で,慣行水利秩序の隙間をぬって導入されるにとどまっていた.ところが,1956(昭和31)年には3.2ヘクタールに増加し,早期水稲の田植時期にあわせるように,池の樋ぬき(=配水開始)時期を繰上げる要求がつよまってきた.早期水稲ならびにそれと結びついた秋・冬蔬菜の高い収益性が明らかになり,その拡大の必要性が多数の農家で痛感されるようになったからである.しかし,早期水稲の導入圃場は池掛りの区域のあちこちにちらばっていたので,樋ぬき時期繰上げは,どうしても配水ロスが増加することになるし,また,そのことに起因する麦作の湿害も生ずる.素掘り水路のコンクリート舗装は,これらの問題を解決し,慣行的水利秩序の変更を実現しうる事業として農家に受けとめられたわけである.かくして,はやくも工事途中の1957(昭和32)年には溜池水利団体の決定により樋ぬき時期の変更が行われ,慣行的水利秩序の隙間をぬってきた早期水稲圃場での水利用は,公然と可能になったのである.
 以上の配水路改修事業のほか,交換分合,農道の新設,拡張等も行われている.
このうち,農道工事についてみると,1950(昭和25)年から4年の間に延長2500メートル,幅員4メートルの農道の新設,拡張が,旧母里村からの補助金と地元の共同出役で行われている.これにより池掛りの全圃場の82%は小型トラックが通ずるようになるのだが,その効果は,まず,配水路改修工事の資材運搬にあらわれた.ついで,水路改修を機とした樋抜き時期の変更に促がされて拡大する蔬菜の出荷作業を便利にした.ちなみに,出荷作業が便利になったことは,たんに収穫物搬出労働の能率化だけでなく,販売を有利にする条件にもなった.その頃は,蔬菜の青田売が盛んに行われていたので,車が入らない圃場の蔬菜は安値で買いたたかれたからである.
 上述したように,手中池掛りにおいて,普通水稲の田植にあわせて固定化していた6月下旬の樋抜きが,溜池水利団体の決定で早期水稲の導入に適合するように変更されたのは1957(昭和32)年だった.この結果,1951(昭和31)年には3.2ヘクタールだった早期水稲面積は,1957(昭和32)年11.5ヘクタール,1958(昭和33)年19.5ヘクタールと増加していく.もっとも,この頃の早期水稲圃場への溜池用水の配水には,なお一定の制約があった.樋抜き時期が改められたとはいえ,1958(昭和33)年までは5月中旬から6月下旬までの間に断続的に溜池から配水するという方法がとられていたからである.
 ところが,1959(昭和34)年になると,この配水方法は4月下旬~6月下旬の間に連続的に配水されるように改められ,水稲栽培に関する限り,農家は全く自由に溜池用水を利用できる条件がととのえられるのだが,そういった事態の進展を促した直接的な契機は,早期水稲品種の多様化にあった.
 すなわち,それまで農林17号だけに限られていた早期水稲品種は,1959(昭和34)年から多様化し,早農林,栄光,越路早生等を利用した極早期水稲(4月下旬~5月上旬田植,8月上旬刈取),金南風を利用した準早期水稲(5月下旬田植,9月中旬刈取)等の栽培方法が出現し,農林17号を利用した早期水稲(5月上旬田植,8月下旬刈取)や普通水稲(6月下旬田植,10月下旬刈取)等の従来の栽培方法とあわせると4つのタイプの水稲栽培が行われるようになったのである.このような栽培タイプの分化は,早期水稲の刈取り,収穫作業と後作蔬菜の播種・植付作業等のため,8月下旬の炎天下にあたらしく形成された労働ピークを切崩し,家族労働力の範囲でいくつかのタイプの早期水稲と後作蔬菜の面積を一層拡大しようという経営集約化の要請にもとづいたものであった.しかしながら,この要請を具体化するためには,断続的な溜池からの配水を,連続的な配水に改める必要があった.まえに述べた1959(昭和34)年の配水方法の変更は,そういった経営集約化の要請にこたえるため,溜池水利団体の決定によって行われたものであり,これにより農家は溜池用水のいっそう自由な利用が可能になったのである.
 手中池掛りにおけるこのような水利秩序の変革は,後作蔬菜の水利用にまで及んでくる.すなわち,1960(昭和35)年には,いままで田畑輪換の夏蔬菜のみに許されていた溜池用水の利用が,1回に限って秋・冬作蔬菜にも認められ,さらに,1963(昭和38)年には3回までは公認されるというように,年を追うごとに,ほぼ年間を通じた水利用の自由度が拡大していくのである.ちなみに,昭和41年の秋・冬作蔬菜に対する海池用水の灌水面積は30ヘクタール,溜池水利団体は10アール当り1回100円の水使用料を徴収している.
 なおここで,手中池掛りにおける事態の進展を浮きぼりにする意味で,旧池地帯に属する野寺集落での早期水稲の導入過程と水利用との関係についても述べておこう.
 この集落は,旧池のなかでも早期水稲の導入率は高いところである(前掲第18表を参照).導入当初は手中池掛りと同じように慣行的水利秩序の隙間をぬった水利用が行われていたが,面積拡大の要求が関係農民の間でつよまったため,1957(昭和32)年からは経営面積の20%に限って池からの配永が許されるようになった.もっとも,毎年の溜池水利団体の決定事項を記載した「水利協議日誌」によると,早期水稲を導入する圃場の限定が行われており,配水路末端の水田や漏水のはなはだしい水田,あるいは隣接圃場の麦に湿害を与えるような水田での作付は禁じられてい

る.「水利協議日誌」の記載によると,この20%の枠は,1960(昭和35)年になると30%に拡大するのだが,しかし導入圃場の制限が依然としてあるため,圃場条件に恵まれない農家では,早期水稲面積を30%以下にとどめざるをえなかったのである.慣行的水利秩序は変化しているとはいえ,手中池掛りとくらべて,個別経営における水利用の自由,作付の自由は,なお制限されていたとみなければならない.しかも,この制限が末端配水路の未改修による圃場レベルでの水利条件の未整備と結びついていることからいえば,手中池掛りでの配水路改修事業が生みだした効果の大きさを,あらためて確認しうるのである.
 これに対し,手中池掛りでの水利秩序の変化は,まさに改革と呼ぶにふさわしい内容をもっていた.この池掛りの農家が,年間を通じて好む作物を,好む時期に,好む圃場に作付できる水利用形態が成立したからである.事実,そういった水利用形態の成立により,1959(昭和33)年には19.5ヘクタールだった早期水稲面積は,仕付け水の配水が連続的に行われるようになった1960(昭和35)年には38ヘクタールに拡大し,以後この面積は昭和40年代前半まで維持されたと同時に,かんらんを中心とした後作蔬菜の作付も大きく増加していくのである.「8月中旬には手中池掛りの50%は早期水稲後作のかんらんにかわり,8月下旬から9月上旬にかけては70-80%の水田にかんらんが植付られている」という1966(昭和41)年時点での手中池水利団体の責任者の言葉は,そのことを裏打ちしている.
 つぎの第19,20表は,水利秩序の変化が個々の経営の作付方式にどのような影響を与えたかを知るために掲げたものである.
 すなわち,水田の大半が個人有にひとしい丸尾池掛りにあるM・Y氏の場合は,手中池での水利秩序の改革が始まる以前の1956(昭和31)年においてもすでに早期水稲を導入し,多彩な土地利用をいとなむ蔬菜経営にいちはやく転換していた.
しかし,手中池掛りのみに水田をもつM・M氏の場合は,天満の流からの盗水で植付けた3.7アールの準早期水稲および田畑輪換の西瓜(9アール)を除けば,すべて普通水稲と結びついた作付が行われ,とくに稲+麦の作付方式が基幹となっていた.ところが,樋ぬき時期の変更が始まる1957(昭和32)年夙降になると,M・M氏の作付方式もM・Y氏のそれに近づき,1960(昭和35)年以降は両者の間の差はほとんどみられない.とくに1966(昭和41)においては,いろいろな栽培タイプの水稲と結びついた作付方式の減少,そしてトマトを中心とした作付方式の増加という点では,まったく共通しているといってよい.以前のように,個々の経営がもつ水利用条件の差による土地利用の差はなくなったわけである.
第19表 作付方式の変化(M・Y氏)
 ということは,個々の生産者は自らがもつ経営条件にあわせて好む作物を選択し,かつその作付規模も決定できうる水利用形態,つまり個別生産者の自由な意志にもとづいた農業経営の転換を支えるにふさわしい水利用形態が成立したことを意味している.このような形態の水利用の成立は,いうまでもなく手中池の溜池水利団体の決定によるものであったが,との決定を容易にした要因として見落しえないことは,早期水稲の導入とほぼ時期をひとしく進んだ淡河川・山田川疎水の県営改修事業であろう.
第20表 作付方式の変化(M・M氏)
極早期水稲から普通水稲にいたる各種のタイプの水稲栽培の導入は,水稲の在圃期間を延長させ,溜池用水の供給量をそれだけ増加させることになるのだが,上記事業によって溜池への供給水量が増大したことは,溜池水利団体の決定を物心両面において容易にする条件になったのである.
 だが,ここでとくに強調しておきたいことは,溜池水利団体の組織的自立性と,そのもとで形成される水利秩序の地域的完結性についてである.水利施設の形態と機能の規定をうけて,それぞれの灌漑区域ごとに水利用の秩序が形成され,用水管理主体(=溜池水利団体)が組織される溜池灌漑では,自然流下方式を基本とする河川潅概にみるような水利用上の利害をめぐる地域的相互関係は原則として存在しない.関係農民の間で水利用に対する経営的要求が一致するならば,その要求は水利団体の用水管理に直接的に反映し,慣行水利秩序の改革も進みやすいという条件が溜池灌漑の場合には存在しているのである.別のいいかたをすれば,関係農民の間でひとしい方向をもつ経営の合理化(=経営構造の転換)が一致して追求されるときには,そのことが起動力となって溜池用水の利用をめぐる慣行的水利秩序の改革が進むのである.手中池掛りにおける事態の進展は,その典型的事例とみることができよう.

5 溜池水利団体における用水配分方法の変容

 母里地区における溜池用水の配分方法の基本は,各水田の独立性を保障する用水路の配置形態を基礎とし,それに「水入れ役」という特定人格による配水業務が結びついて行われる平等配分にある.各水田の水利用上の独立性が保障されている水路の配置形態のもとでも,単純な機械的操作で平等な用水配分は行いえないので,「水入れ役」の人間労働がそういった施設機能の低さを代替し,溜池的用水配分原理の社会的な再生産を支えてきたのである.
 「水入れ役」は,用水配分に関する仕事のすべてを遂行するのだから,その池掛りの水路,水田を知悉し,平等な用水配分を行いうる熟練した技能をもっていなければならない.しかし,灌漑期間中はそういった水入れ労働に専念しなければならないので,経営規模の大きい農家から「水入れ役」を選ぶことはむずかしい.そこで,経営規模の小さい農村雑業層のなかから特定の人物を選び,その労働に対しては,一定の手当を溜池水利団体が支払うという方法が,旧くから行われてきていた.
 ところが,土地利用の集約化という経営合理化の要求にもとづいた慣行水利秩序の改革は,たんに配水開始時期・配水対象作物の拡大のみでなく,以上のような伝統的用水配分方法にも大きな影響を与えることになった.1966(昭和41)年に,手中池掛りの「水入れ役」S・丁氏から聞取ったつぎの事柄は,そのことをよく示している.
 S・丁氏がまず強調する点は,早期水稲の導入によって「水入れ役」としての労働期間が延長されたことである.水稲の栽培型が普通水稲だけのときは,6月下旬の田植から9月20日の落水までの約90日間の配水業務に従事すればよかった.しかし,栽培型が多様化した以後になると,早期水稲の田植が始まる4月下旬から,普通栽培の落水期まで,実に150日間働かなければならなくなったのである.
 水田利用の集約化過程は,「水入れ役」が身につけた用水配分の技能も形がい化させた.S・丁氏によると,普通水稲の配水は永年の“カン”でいけたが,早期水稲は深水をきらうので,水深の加減が面倒になったという.さらに,秋・冬蔬菜に灌水するときは,農家の希望する圃場の水口までの導水は「水入れ役」が行うが,水口から圃場への引水は耕作者が行うようになった.蔬菜の灌水技術は水稲に比べるとはるかに微妙なので,蔬菜栽培の経験をもたない「水入れ役」では,どの程度水を張ってよいかわからないからである.用水配分業務は「水入れ役」に一任され,個々の耕作者は自己の水田の水口にすら手をつけることが禁じられていた厳格な用水分方法は,秋・冬蔬菜の灌水については完全に崩れてしまったわけである.
 ここで,秋・冬蔬菜を栽培するうえで重要な意味をもっ灌水について,いま少し説明を加えておこう.第21表は手中池掛りのある疏菜経営(1.7ヘクタール)での蔬菜灌水状況を圃場別,時期別に示したものだが,8月中旬から9月にかけて頻繁に灌水が行われていることがわかる.かんらんを例にとると,まず,8月中旬~9月下旬の植付時に畦の高さ程度の水を畦間に流して苗の活着を助けている.その後は,晴天が続いたら5―7日の間隔で,適当な降雨があったときには15日位の間隔で2回目,3回目の灌水が行われる.
第21 表某農家の野菜への灌水伏況(上場部落)
さらに3回目の灌水が終った後でも,晴天が続いたときには「普通水稲の水を残して,もう1回ぐらいは溜池の水を疏菜にまわす」こともあるが,溜池の水がないときには,附近を流れる天満の流や疎水導水路からポンプで揚水(=盗水)し,ホースで圃場に送って灌水する.灌水がかんらんの収量に与える効果は,植付時に1回,15日目に1回の灌水では10アール当り240-300キログラムだが,植付後1週間おきに灌水したときには,500‐540キログラム位になるといわれている.
 このように,灌水は蔬菜の収量に影響するところが大きいので,個別生産者は「水入れ役」に一任した溜池的な用水配分方法を否定する意識をもつようになるわけである.たとえば,手中池の水利委員の1人であり,トップ・クラスの蔬菜農家T・M氏によると,「蔬菜灌水の日時を希望すると『水入れ役』が水路に水を流してくれるので,それを圃場に引水するのは個人の勝手だ」ということになり,また同じく水利委員の1人であるM・M氏は「稲作の灌水労働を個人でやったら大変なので,これは『水入れ役』に任せ,蔬菜については自分で灌水する」という考え方にたつのである.溜池的用水配分の人格的表現として「水入れ役」を意識するのではなくむしろ,個別生産者の稲作灌水労働を代替する機能をもつものとして意識しているのである.
 稲作を前提とした「水入れ役」の伝統的な配水技術は,蔬菜生産にはまったく適用しなくなったこと,しかもそのことにより,「水入れ役」の機能に集中的に表現されてきた溜池的な用水配分方法も蔬菜生産については全く崩れてしまったこと等を,以上で述べたいくつかの事実から指摘することができよう.
 手中池掛りでみたような変容の過程は,程度の差をともないつつも,1965(昭和40)年頃までの間に母里地区の多くの新池でみられたのだが,その後における事態の展開は溜池水利団体の伝統的な用水管理システムをも大きく揺れ動かすことになった.
 くりかえし述べたように,「水入れ役」は溜池水利団体の厳格な用水管理を人格的に表現する存在であった.ところが,高度成長期における農村労働力の農外への流出は,農村雑業層のなかから選ばれていた「水入れ役」の確保を困難にしたのである.
 新池のなかで,まず最初に「水入れ役」の確保が困難になったのは,手中池に隣接する葡萄園池であった.ここでは1965(昭和40)年以降,2人の「水入れ役」の確保が不可能となり,上層農家27戸が交替で配水業務に従事するようになるのだが,1967(昭和42)年になると手中池でも同じような問題に当面しなければならなかった.
 第22表は,この問題が発生した構造をより具体的に知るために掲げたものであるが,これをみると,1958(昭和33)年時点で,手中池掛りの水田を耕作する43戸の農家のなかで,世帯主が兼業に従事する戸数は10戸で,そのうちの9戸は70アール以下の零細農家で占めていること,しかもこの9戸のうちの5戸は農村雑業層というべき日雇兼業であることがわかる.この時点において「水入れ役」だったI・A氏(39アール,48歳)とS・T氏(60アール,58歳)は,実はそういった階層に属する人々で,それ玖前に「水入れ役」の経験をもつI・T氏(No.33農家,67アール,50歳)の場合も同様であった.ところが,昭和40年代に入ると,S・T氏は老齢のため「水入れ役」から退き,I・A氏は脱農し,その交替要員と目されたI・T氏も1962(昭和37)年から酪農を開始したので,「水入れ役」への再任を望まなかった.一方,高度経済成長に伴う地域労働市場の展開は,農村雑業層の存在を解消させ,「水入れ役」の後継者の確保を困難にした.たとえば,1979(昭和54)年時点での手中池掛りの全農家39戸の世帯主および長男の就業状況を示した第23表をみると,第22表に比べ家としての兼業は大きく進んではいるが,かつてのような農村雑業層はほとんど姿を消していることが指摘できる.「水入れ役」の収入や日雇兼業の収入等により,家計の維持をはからなければならなかった農村雑業層の労働力は,地域労働市場の展開に伴って農業外に吸収され,「水入れ役」が老齢化したのちの交替要員を池掛りの農家のなかからみつけだすことはいまや不可能になったのである.
 この対応策としてとられたのは,手中池掛りの水田を70アール以上耕作する農家28名で14名ずつの2つの班を構成し,それぞれの班が分担する区域の配水業務を,14名が1日交替(日当7000円)で行うという方法であった.「水入れ役」機能を代行する28名は,この配水業務のために,午前中4時間,午後2時間程度をさかなければならないので,かなりの負担となっており,とくに8.9月の農繁期には早期稲の刈取りやかんらんの定植作業と配水業務が鋭く競合する.このため,「水入れ役」が配水業務に従事していた当時と比べ,用水管理は一段と粗放化せざるをえない.
 たとえば,春の農繁期作業との競合をさけるため,28名の人々が配水業務を開始するのは,普通水稲の田植が完了してからであり,したがって早期水稲が必要とする用水は個々の生産者自身で引水するという方法が行われるようになった事実は,そのことを端的に示している.かつてのような厳格な用水配分の形式は,秋・冬蔬菜の灌水についてだけではなく,早期水稲用水にまで通用しなくなったわけである.
第22表 手中池掛り農家の就業状況(昭和33年)
第23表 手中池掛り農家の就業状況(昭54)
 いうまでもないことだが,このような事態は,低い施設機能を代替する「水入れ役」の配水業務に依存した用水配分方法が,高度経済成長下での農業構造の変動をうけて崩れ始め,「我田引水」も黙認せざるをえなくなったことを意味している.このことから,「水入れ役」に依存する用水配分方法を否定し,それを機械的操作によって代替しうるように水利施設機能を高度化することが考慮されなければならないのだが,この点については,次節で再度とりあげることにしよう.

6 農業経営の展開方向と圃場整備

 われわれの調査結果および農業センサス結果等を総合して,手中池掛りでの作物構成の動きを要約して示すと,第24表のように4つの時期に区分できる.
第24表 作物構成の時期区分
まず第1期では,米麦作を基幹とし,それにすいか,その他の小面積の蔬菜が栽培されていたが,早期水稲の導入が開始された第皿期になると,早期水稲+蔬菜という土地利用が支配的となる.第皿期には,田畑輪換のすいかの減少にかわってビニールトンネル利用のトマト栽培が増加する傾向がみられ,秋・冬作にも,より集約的な春はくさい(トンネル栽培),レタス等が出現する.水利秩序の改革にともなって,きわめて精緻に集約化した土地利用が営まれるようになった姿をそこにみることができる.しかし,第Ⅳ期になると,そういった精緻な土地利用は後退する動きがみられる.
 第25表は,第Ⅳ期における作物構成をもう少し具体的に知るために掲げたものである.詳しくは,後の事例分析にゆずるが第Ⅲ期にみられた多様な秋・冬蔬菜の作付は姿を消し,早期水稲の後作のかんらん(8月中・下旬植付,11月中・下旬収穫)だけに単純化したこと,夏蔬菜は第Ⅲ期のトンネルトマトにかわって無加温や加温のハウストマトが増加していることがうかがえる.と同時に,温室での花き栽培の面積が増加していることにも,後論への伏線として深く注目しておきたい.
第25表 手中池掛り農家の作物別作付面積(昭53)
 ところで,第Ⅰ期から第Ⅲ期への移行を促した基本的動因が,より大きい単位面積当り所得の追求にあったことは第1節で述べたとおりであるが,同じことは第Ⅱ期から第Ⅲ期への移行過程についてもいうことができる.ただしその場合,2つの移行過程における所得の追求目的には,一定の相異があることに注意しなければならない.
 たとえば主要作物の収益性水準を第26表でみると,第Ⅰ-Ⅱ期の代表的作物に比べ,第Ⅲ期の作物構成を特徴づけるトンネルトマトの10アール当り収益はずばぬけて高くなっている.この作物が第Ⅲ期に登場してくる直接的要因は,この点にあったといってよいだろう.
だが,ここで注目しておきたいことは,投下労働1日当り収益は,第Ⅰ-Ⅱ期の作物にくらべて激減しているにもかかわらず,なぜトンネルトマトの導入が進んだかという点にある.結論からいえば,第Ⅲ期の土地利用の集約化過程の収益性追求の基調は,単位面積当り所得の増大よりも,むしろ減少した所得の回復にあり,かつそれは労働力多投に支えられた収益性追求の方向であったということである.
第26表 主要作目の収益性
 では,この地区の経営は,なにゆえに“減少した所得の回復”を労働力の多投に支えられながらはからねばならなかったのだろうか.理由は,水稲,かんらんの収量水準の低下による収入減にあった.
 まず,早期水稲であるが,1960(昭和35)年頃までは,平均450‐480キログラム水準を維持していた10アール当り水稲収量は,地力の消耗,病害の多発,蔬菜との競合による管理の粗放化等によって,1965(昭和40)年頃には400キロ水準に低下した.かんらんについても事情は同じである.早期水稲が導入されてから,第Ⅲ期までの間に,同一圃場で平均して15回程度のかんらんの作付が行われたため,連作障害による病害の多発がめだち,収量の低下を招いているのである.
 このように,土地利用の一層の精緻化を内容とした第皿期への移行は,第Ⅱ期の段階で生みだされた土地利用上の矛盾を回避する点に経営的意義があったわけで,それは第Ⅰ期から第Ⅱ期への移行過程でみたような所得の増大のための集約化ではなく,労働力多投に支えられた所得水準維持のための集約化だったのである.
 しかしながら,土地利用上の矛盾を労働力の多投でカバーするという経営集約化の方向は,その後における農業構造の変動,とりわけ高度成長に伴う農村労働力の流出によって,たちまち新しい矛盾に当面し,第Ⅳ期へと移行しなければならなかった.第27表は,この新しい矛盾が発生してきた構造を具体的に知るために掲げたものである.
第27表 農繁期の作業員別の作業分担関係
 この表は,さきの第20表でも紹介したM・M氏(第25表のNo.3農家)の経営の第Ⅲ期における農繁期作業(8月21日―9月10日)の分担関係を,作業員ごとの投下労働時間の割合で示したものであるが,この表から以下の点を指摘することができる.
 第1.A(経営主,35歳)が単独で,あるいは主として分担している作業は,耕起・灌水・防除・蔬菜・苗床管理等である.
 第2.経営主以外の作業員が独自に分担する作業として注意をひくのは,D(母,60歳),E(雇用労働力,女子)のはくさい間引や稲刈取等である.
 第3.その他の諸作業,たとえば定植,中耕,追肥,等の手作業は,おおむね全作業員の脇同で行われている.
 以上のことから,M・M氏の経営において農繁期の作業組織は,機械を利用した諸作業(耕起―耕うん機,防除―ミスト,灌水―揚水機),あるいは苗床管理のように手労働でも高度の知識と技術が必要とされる作業は,基幹労働力たるA(経営主)が,熟練を要しない単純な手作業は,D(母),E(雇用)等の補助労働力が主として担っていること,また,定植,中耕,追肥等のように,栽培管理のうえでポイントになる作業は,経営主の指揮,監督をうけた協同作業で遂行されていること等の特徴をもっていたことがわかる.
 ところで,注意しておきたいことは,このような作業組織を編成するうえで,雇用労働力が無視できない役割をもっていた点である.上記のように,雇用労働力が分担する作業は単純な手作業が主であり,その限りではけっして重要な役割は担っていないのだが,以下でも述べるようにこの労働力の存在をぬきにして,M・M氏の経営の農繁期作業は処理できなかったのである.そのことは,第28表をみるとよく理解できる.
 この表が示すところでは,8月21日―9月10日の1日当り作業時間は,労働力の質が高いほど,また年齢が若いほど多くなっていると同時に,1労働日内で処理した作業種類の数も多くなっている.いいかえると,集約的な土地利用を営む蔬菜経営の農繁期は,多量の労働力投下を必要としているだけではなく,数多くの異った作業の累積によって構成されているという特徴をもっており,しかもこの特徴は,基幹労働力である経営主の場合に集中的にあらわれているのである.経営主は1労働日のなかのある作業ではより多くの力を,他の作業ではより多くの熟練を,第3の作業ではより多くの精神的注意深さ等々を要求されながら,長時間の労働に従事しなければならないわけで,精神的にも,肉体的にも万能選手としての機能が必要とされていたといえよう.
 このことから考えると,M・M氏の経営の農繁期雇用労働力が農作業遂行のうえで果す意義は,万能選手的機能を担わざるをえない経営主の精神的・肉体的苦痛を少しでも和らげる点にあるといってよいだろう.
第28表 農繁期(8‐21~9.10)の家族労働力の労働時間
もし仮に,雇用労働力を確保できなかったときには,経営主の労働時間は明らかに肉体的限界をこえてしまうだけではなく,1労働日のなかで処理しなければならない作業の種類も増加し,精神的苦痛に拍車をかけることになるわけである.それゆえに,作業機能のうえではさほどに重要な役割は担っていない雇用労働力の導入は,実はきわめて精緻な土地利用に基礎をおく蔬菜作経営の成立を作業組織編成の側面から支える重要な条件であったといわなければならない.
 そのような意義をもつ雇用労働力の供給源は,他産業での雇用機会に恵まれにくい社会的条件をもつ農村雑業層が部厚く滞留していた近隣の集落だった.ところが,高度成長に伴う地域労働市場の展開は,いままで雇用機会に恵まれなかった近隣集落の農村雑業層をも農業外に吸収し,集約的な蔬菜作経営の成立を作業組織編成の側面から支えてきた雇用労働力の安定的な確保は困難になったのである.労働力の多投に基礎をおく第Ⅲ期の経営集約化の方向は,新しい矛盾に当面したわけで,第Ⅳ期を特徴づけている精緻な土地利用の後退は,実はその矛盾を回避するための経営的な対応であったのである.
 新しい矛盾への経営的な対応,すなわち,第Ⅲ期から第Ⅳ期への移行形態には,いくつかのタイプがある.まず,その具体例をM・M氏の場合についてみてみよう.
 この地区の代表的な蔬菜作経営の経営者の一人と目されていたM・M氏は,雇用労働力の確保が困難になった以後においても,自家労働力の強化によって早期水稲とかんらんが結合した土地利用方式を維持しつつ,ハウストマトの面積も拡大するという方向をとった.しかし,この方向は3‐4年後には転換せざるをえなくなった.かんらんの連作障害が決定的になったうえ,補助労働力だった父が死亡したこともあって,最大35アールまで拡大したハウストマト栽培は,労働力利用のうえからも維持できなったからである.
 土地利用と労働力利用の矛盾に当面したM・M氏がとった経営転換の方向は,バラの温室栽培の導入だった.1971(昭和46)年のことである.1979(昭和54)年の調査結果によると,M・M氏は経営の転換をはかった46年に農業高校を卒業した長男および妻の3人で,4500立方メートルの温室と138アールの水稲栽培を営んでいる.なお,経営転換以後は早期水稲を全廃して普通水稲にかえ,後作は全く行っていない.温室経営に全力投球するためであって,もっぱら土地と労働力の利用に生産力的基礎をおいた経営から,固定資本が圧倒的な経営への質的転換が進んだ事例といえよう.
 つぎに,前掲第19表で紹介したM・Y氏(第25表のNo.17農家)の経営のその後の動きに目を移そう.
 第29表は,1979(昭和54)年の調査結果にもとづいて,第Ⅳ期におけるM・Y氏の経営の作付方式を示したものである.この表をみて,なによりまず気がつくことは,第Ⅲ期に比べ(前掲第19表を参照)精緻な土地利用が大きく後退していることであろう.それは,早期水稲+秋・冬蔬菜という年間三毛作の作付方式が減少し,早期水稲+秋蔬菜(かんらん)の年間二毛作,あるいは普通水稲だけ年間一毛作の作付方式が増加している点に,よく示されている.
 なぜ,そういう変化が生じたのか.理由の第1は,年間三毛作方式は連作による地力の消耗,病害の多発等のため,経営の採算からみてその限界が明確になったことであり,第2は,精緻に集約化した土地利用を支える有力な条件だった雇用労働力の確保が,M・M氏の場合と同じ事情によって困難になったことである.第Ⅳ期におけるM・Yの家族労働力は第Ⅲ期と同じく夫婦2人であるが,年間40人位の労働力を雇用していた第Ⅲ期に比べ,第Ⅳ期の1979(昭和54)年のこれは18人にすぎない.このような条件変化により,年間三毛作の作付方式は家族労働力に大きな負担をかけることになったわけで,この点からも第皿期の集約的な土地利用の限界は明確になったのである.ちなみに,第Ⅳ期の雇用労働力の給源は,近隣集落の農村雑業層を給源としていた第Ⅲ期と異り,県内の美方郡であって,もっぱら早期稲後作のかんらん定植作業に雇用されている.この雇用ルートは,蔬菜作経営の雇用難を解決するために,母里農協が1974(昭和49)年から開始した雇用労働力あっせん事業で開発されたものであるが,その賃金は1日6,500円(三食付,旅費は雇用者負担)で,第Ⅲ期に比べ割高である.そのために,雇用労働力に支えられた集約的土地利用の強化は,かえってコスト高を結果することになったという点も付け加えておくべきだろう.
第29表 M・Y氏の作付方式(昭和54年調査)
いうまでもないことだが,年間三毛作の作付方式の後退は,単位面積当りの農業所得の減少を招くことになった.そこでM・Y氏は,所得減少をカバーするために,トンネルトマトを全廃し,ハウストマト(無加温)の面積を増加するという対応策をとった.第Ⅲ期1966(昭和41)年には9.5アールの栽培面積をもっていたトンネルトマトは,第IV期の1979(昭和54)年には全く姿を滴し,かわってハウストマトの栽培面積が15アール(ハウス占有面積は22アール)に増加している事実(第19表および第29表を参照)が,そのことを示している.加温トマトとトンネルトマトの間をぬって出荷される無加温トマトの価格は相対的に有利であり(第30表),かつその収益性もトンネルトマトに比べて高い点に(第31表),上記のような対応策を生みだした経営的根拠があったとみてよいだろう.
第30表 母里地区におけるトマト出荷量と単価
 ところで,第Ⅲ期から第Ⅳ期への移行要因を考えるうえで,見落してならないことは,第Ⅳ期の1968(昭和43)年になると,母里地区は野菜指定産地(対象品目は秋・冬どりかんらん,秋どり白菜,春トマト等)の指定をうけ,それにともなって野菜生産出荷安定資金制度が導入されたことである.いままでの行論のなかで,その都度指摘してきたように,第Ⅰ‐Ⅲ期までの母里地区,とりわけ手中池掛りの農業経営は,蔬菜生産者の個別的努力と土地・水利用条件の共同的改善,改革に基礎をおいて展開してきた.これに比べ,第Ⅳ期における農業経営の展開には,野菜指定産地事業や野菜生産出荷安定資金制度等の国家政策の機能が一定の影響を与えるようになり,第Ⅲ期までにはみられなかったあたらしい経営展開の要因が登場しているのである.
第31表 主要蔬菜の収益性
 たとえば,第Ⅲ期の作付方式を象徴的に示している早期水稲+秋・冬蔬菜の年間三毛作は,秋蔬菜の価格が暴落したときに,冬蔬菜の収入で所得を回復するという経営的意義をもっていた.しかし,第Ⅳ期になると,そのような意義は後退することになった.指定野菜品目である秋どりかんらんに野菜生産出荷安定資金制度が適用されたことにより,価格暴落による所得の減少に政策的な歯止めがかけられるようになったためである.第Ⅳ期を特徴づけている早期水稲+秋蔬菜(かんらん)やハウストマトの増加には,前述した経営的要因だけではなく,国家の政策機能も影響を与えていたとみるべきであろう.
 では,第Ⅲ期までみられなかった要因,すなわち国家政策の機能にも支えられながら展開してきた第Ⅳ期の農業経営は,今後の方向をどのように展望しているのだろうか.第32表は,そのことを知るために掲げたものであるが,これによると,農地拡大,新作目導入を考える農家も若干にあるにしろ,圧倒的多数は現状維持の構えをみせていることがわかる.母里農協の資料によると,指定産地事業にもとづいて出荷された1979(昭和54)年産秋どりカンラン10万2559トンの60%は調査対象農家39戸のうちの24戸が生産しており,その意味では調査対象農家には,母里地区でも代表的な蔬菜作経営がふくまれていると考えてよいのだが,にもかかわらず,それらの経営はいきいきとした今後の展望をもっていないのである.
第32表 手中池掛り農家の今後の経営方針
 すでに述べたように,この地区の経営はいきいきとした経営努力に基礎をおきながら,精繊に集約化された土地利用をつくりあげてきた.そして,その過程で必然的に当面しなければならなかった土地利用,労働力利用上の諸矛盾や所得の減少に対応するため,M・M氏やM・Y氏のケースに代表されるような経営の再転換もはかってきた.しかしながら,再転換したのちの経営展開については国家の政策機能が働いているにも拘らず,具体的,計画的,組織的な展望を描きえない状況におかれているのである.第Ⅰ-Ⅲ期にかけて,きわめてドラステイックな自己展開をみせたこの地区の経営は,いまや袋小路に入りこんでいるといわなければならない.
 しかし,視点を生産力的側面に限定していえば,その袋小路からぬけだす道がないわけではない.圃場整備事業の実施によって,土地・水利用条件を根本的に変革することがそれである.
 手中池掛りは,1968(昭和43)年に発足した稲美南西部県営圃場整備事業の計画区域にふくまれているのだが,いまのところ,この事業に対する受益予定者の姿勢は消極的である.「土を動かすと土地のクセがわからなくなり,野菜がつくりにくくなる」,「圃場整備地区はどこでも排水が悪くなる」,「工事のため,一作は蔬菜が作れないので所得減になる」等々の問題をあげる農家が多いからだといわれている.が,われわれの調査結果によると,そのような受けとめ方は,宅地の周辺に耕地が集団化し,もともと蔬菜の耕作条件に恵まれている農家の場合に多く,逆にそういった条件をもたない農家では圃場整備実施に対する強い要求をもっている.「後継者確保のためにも,圃場整備は是非やりたい」,「農道が整備されたら,蔬菜をつくれる水田がふえる」,「工事のために蔬菜が作れなくとも,転作奨励金でカバーできる」等の意見がそれである.
 これらの点から考えると,圃場整備事業に対する消極的姿勢は,受益予定者の問の考え方の不一致にもとづくところが大きいように思われる.したがって,問題は圃場整備事業の経営的意義を受益予定者が共通して認識することにあるといってよいのだが,われわれの調査結果から判断すると,この事業の経営的意義は,つぎの点にあると考えられる.
 第1.事業によって機械の効率的な利用条件をととのえられたときには,疏菜作経営がかかえる労働力利用上の諸問題の解決,とりわけ農繁期労働を転減させる効果がもたらされること.
 第2.事業実施による農道の拡張,再配置や耕地集団化等は,蔬菜作付圃場を拡大しうる可能性を生みだすこと.
 第3.錯綜した小用水路の否定的再編や水利施設機能の向上が行われることにより,「水入れ役」機能を代行している専業農家の負担は軽減され,蔬菜作に専念しうる条件がととのえられること.
 第4.以上を通じて,蔬菜作の安定,拡大条件が創出され,農業経営が袋小路から脱却するうえでの一定の展望が与えられるだけでなく,個別生産者の努力によって確立されてきた蔬菜作生産地の地位を存続し,発展させていく条件もつくりだされること.
 ともあれ,留意しなければならないことは,圃場整備事業を,いかにして蔬菜作経営の生産力構造転換の外的誘導要因たるにふさわしいものにするかということであって,それゆえに,圃場区画,農道配置,末端での水利施設の形態と機能,圃場造成の工法等については,蔬菜作経営の生産力発展に適合した独自の内容が与えられる必要があるといわなければならない.