技術と農村社会

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溜池と社会形成

著者名: 友杉孝
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1980年
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目次

はじめに
Ⅰ 自然から文化へ・・・・・・・・・・3
Ⅱ 溜池の維持管理と分水・・・・・・・・・・7
Ⅲ 村落社会の連携と象徴・・・・・・・・・・12
Ⅳ むすび――社会変化と溜池・・・・・・・・・・14


はじめに

前年度の報告「経済蓄積の形態と社会変化」1)において、筆者は、経済蓄積の一定の形態と一定の信仰形態が対応することを論じた。すなわち、日本農村にみられる多様な神と仏の信仰はけっして乱雑に存在しているのではなく、この多様な神と仏の間には一定の関係が措定できるであろうと議論した。そして、この一定の関係は、歴史的にみて継起的に展開した経済蓄積の諸形態の間に存在する関係に対応するであろうとした。2)このようなことを問題にした理由は、生産技術あるいは経済を文化の一形態として把えるためにである。現代社会では、生産技術と経済はあまりにも大きな比重をもって人々の生活を支配しているから、ともすれば、私どもは技術万能の考えにとらわれやすい。文化としての技術という視点が忘れられ易すいのである。
 そこで、文化としての技術を具体的に明らかにするために、1978年、長野県松本平の一農村の実態調査が行われた。非常に高い生産力を発揮する技術が、何故、可能であるかという問題についてである。一般的にみて、同一技術がある社会では有効に機能するが、他の社会ではまったく機能しないということもある。技術の国際転移は成功するとは限らないのである。
 この松本の実態調査は、高度に手段合理的な技術が超合理的な信仰と共存していることを明かにした。むしろ、このような信仰によって手段合理的な技術は一定の意味が与えられ、技術の有効な機能が可能となっているのである。多様な神と仏に対する信仰と技術の基礎となる経済蓄積との対応関係である。超越的な神と仏のもとで、経済蓄積は極度に効率的に利用されて、高い農業生産力が実現されてきた。
 本年度の報告は問題を一層限定して、経済蓄積一般ではなく、土地に対象化している経済蓄積を中心に議論を進めたい。水田についてである。というのは、日本農村を特徴づける経済蓄積は水田にほかならないからである。自然の土地は、人間労働によって、文化形成の基盤となった。ヨーロッパの天水による畑作とはもとより、東南アジアの灌漑農業と比較しても日本農業の土地利用は格別に精密である。日本の水田稲作は園芸にもなぞられることが可能である。たとえば、周到な水のかけひきである。稲作に必要な水のかけひきは、十分な灌漑施設と経験を前提にして始めて可能となるのである。
 さらに、水田はたんに稲作技術の対象としてあるだけでなく、「先祖の土地」という言葉でしばしば表現されるように、超経済的な意味を強くになている。超世代的な家の存続を可能とする物質的基礎であることにより、水田は個人の経済的利害関係を超越する側面をもつ。しかも、水田に不可欠な水は個別農家の労働だけではけっして確保できない。一定の地域的な拡がりをもつ農家の間の協力関係によって始めて必要な水が確保できる。したがって、文化としての技術をみるためには、水田、信仰、社会関係などの相互関係を解明せねばならない。
 なお、本稿の記述の対象である兵庫県印南野の農業生産、農業経営,潅漑水利慣行などについては、他の諸論文が詳述しているから、本稿はこれら事項については可能なかぎり重複を避けたい。

Ⅰ 自然から文化へ

調査村である野寺と上場が立地する印南野は、明石川、加古川、美嚢川で限られる洪積台地で、これら河川により30-40メートルほど高い位置にある。台地は東北より西南にわずかに傾き、草谷川と曇川の小さな谷が西北方向に台地を刻む。したがって、台地の大部分は,河川よりの引水によって灌漑することの大変困難な地域である。事実,明治にいたるまで、台地上の多くの土地は原野あるいは畑地であった。3)
 しかしながら、現在この台地上の土地の大部分は耕地化しており、しかも耕地面積の90%以上は水田である。いうまでもなく、この圧倒的に高い比率の水田は、台地上に作られた大小多くの溜池の水に完全に依存しているのである。台地上の水田適地の15-30%が溜池の敷地に当てられるという。4)このように高密度の溜池群は日本でも顕著な事例であり。香川県と並んで日本の代表的な溜池農業地域のひとつとされている。
 直接引水できる河川がないため、安定的な稲作、さらには水田の拡大にとって、溜池建設は不可欠であった。しかも、台地上の起伏を利用する溜池であるから、おのずから皿池状の浅い溜池であり、溜池敷地も大きくならざるをえない。ともあれ、台地上では原野あるいは畑地から水田への変換は溜池の水の獲得によってであり、この水の確保は非常に困難であったことが確かめられる。それだけに、河川からの引水が容易な農村に対して、台地上の溜池は貴重な存在であった。
 ところが、台地の全面をおおうかのように見えるこれらの大小の溜池の多くは、明治24年に完成した淡河川用水の開通以後の築造である。しかし明治以前においても、台地上の凹地では自然の湧水とか「流」と称する自然の細々とした地表水の流れを利用した溜池が存在していた。この溜池の水を利用して、台地のあちこちの低地では小規模の水田も開かれていた。古くから農村はこのような水田を基盤にして成立していた。したがって、池水の利用は村落の強力な共同体的規制のもとにあり、個別農家の自由な利用は認められていなかった。調査村落のひとつ野寺はこのような村落の事例である。村落は溜池の維持・管理あるいは利用に関してひとつに統合され、時には溜池に流入する流の獲得をめぐって他村落と死者も出すような激烈な争いを経験してきた。
 古くからの溜池は経済的に重要であるだけではない。宗教的な神聖さも付与されている。5)後で詳しく見ることであるが、溜池のほとりに神社を設けるとか、溜池築造にまつわる説話とかが伝承される。6)僧侶・山法師による読経とか、人身供養7)などの説話である。水田に不可欠な溜池は、象徴のレベルでは神聖な超越性のイメージに変換しているのである。溜池は経済的と超経済的な神聖性との両面を強くあわせ持つ。
 淡河川による用水が開通した後で築造された溜池には、このような神聖性は乏しい。説話の伝承もない。もうひとつの調査村落である上場はこのような溜池に依存する村落である。野寺とは対照的に、上場は新しい村落である。すなわち、溜池の古さあるいは新しさは、溜池に依存する村落の歴史も語る。上場の水田は、野寺に比較して、一筆当りの面積は大きく、形態より規制的で四角に近い。池水の利用をめぐる共同体的規制もより緩かである。このような両村落の相違は、後で見るように現代の経済変化に両者が対応する仕方の相違にも及ぶ。
 再び野寺の溜池の神聖さに話題を戻そう。野寺には5つの溜池がある。経之池、辰巳池、中池、穴沢池、芦池である。この中で、経之池は特に古く、口碑では707(大同元)年築造とある。経之池の名の由来は、築造に際して僧侶・山法師が経を唱えたからであるという。仏教の超越する力を媒介として、荒ぶる自然が人間の支配下に入った。すなわち、自然が文化に変換した。芦池の東縁は小高く土地が上がって山と言われ、山の上には氏神の天神社がある。草谷の天神社の若宮である。天保の絵図でまとまった水田がある土地は、これら2つの溜池の下流だけである。芦池下流の水田は入ヶ池に連なる。野寺のすぐ西に立地する古い溜池で、714年築造とされる。
 入ヶ池は非常に興味深い伝承がある。蛇の化身である美女が現れ、この美女の人柱によって溜池が完成したという。美女は祀られ、川上真楽寺が創められた。この伝承は僧侶の霊力を媒介として、荒ぶる自然が人間の支配化に置かれる過程を神話的によく表現しているから、加古郡誌から引用しておきたい。
此三年(大化)春雨降夏照續故水田無足則谷川登事二十五丁此處而廣谷在足幸于同二年春堤築處大水而切流翌年春又如形築未央成時不思議乎雨不降于水出堤不成就故不及人力捨處和銅七甲寅二月二日彌吉郎(藤原彌吉四郎ノコトカ)孫藤原光太衞□□靈?云汝父度丈此上谷池築云供不成就是考上源□貳厘餘掛水強故翌如何成堤築供不成就是築者堤六枚屏風形于築又大水除者北方山際堤下築其所而可越必終日美女來其女可爲人柱全池成就也話隨爰覺□則三月十八日而始如話池築四月十二日如案一人美女來直切伏堤柱入仕處其後池不切全爲成就故女以靈名則入池名附□池掛谷川三筋有
 南谷 谷形百五十間程奥不知
 中谷谷形千八百間程奥不知
 此中谷養老三年巳未大雨降故村長年以也様子見行時満水在中谷者水強谷成于見者池外堤形出來爲水満々被打在故池北際下堤切水半日間也不思議成者此時池外堤形無也溜水池來又満水成從此是中谷儀外波谷川號名
 北谷 谷形七百五十間程奥不知
 此谷北干白雉年中干寺立則埜寺號當郷致布施寺居
 此北谷天平十戌寅年四月中頃當郷者埜寺榮歸干入之池地方回利北谷而變生逢形女丈六尺餘目丸以毛赤姿〓々成者出郷人驚馳戻彼化粧呼留云我形鬼成供全不在佐和銅七甲寅年四月十二日池堤之爲人柱成成者也我元此山于五百餘年住居蛇也人〓來故替姿美女成行干不思切伏堤柱其時怒起相果於今者仍池成就民思恩喜事無限我其後根白止池姿何所顯供如今是元化粧界不出故也願者汝歸里事申而我菩堤爲串池守民安可爲繁昌得云捨失行郷而如此物語故爲化粧菩堤于則池水慕所吉里内字下澤而谷川邊十二日爲忌日賴?藥師如來號川上眞樂寺去年三月立從是北谷號鬼川原云々(傍線筆者)
 上記の引用文は入ヶ池と川上真楽寺の名称の由来を物語る。蛇あるいは鬼で形象化される自然の力が守護神に変換することが示されている。ここで語られている真楽寺は北山の薬師堂で、旅僧行基の作とされる薬師如来が現在でも安置されている。11)無住の寺であるが、先年まで年老いた婦人が寺のお守りをしていた。現在でも北山の有志が毎月1日、12日、22日の3回、お守りする。また、鬼が現れたことに由来する鬼川は野寺と北山の境にあり、後で述べるが両村落の水論の土地である。
 野寺の溜池が神話的に語られるに対して、上場の溜池には何の伝承もない。上場所在の大池である葡萄園池は淡河川疎水以後の築造である。明治の地租改正に基づく地租納入が母里村を苦無のどん底に陥し入れ、村は多額の負債を負った。この負債を軽くするために耕地の一部が国有財産となり、この土地に試験的に葡萄が植えられた。この葡萄園が池敷に転用された。すなわち、入ヶ池の伝承にみられた超自然的な力は、葡萄園では貨幣の力に変換しているのである。入ヶ池の伝承は土地に対する経済蓄積の開始を物語るが、葡萄園池の築造は貨幣が主要な蓄積形態になりつつあることを示す。したがって、後でみることであるが、2つの村落は共同体的に溜池を維持管理するが、維持管理の仕方にはすくなからざる相違も見出せる。この相違は、2つの村落の経済変化に対応にも影響を与える。
 恐るべき荒ぶる自然を象徴する蛇が僧の霊力を媒介として生活を守護する存在に変換し、寺で祀られるに到ることをみた。これと構造的に同じ行事は慣習として長く行われてきた。雨乞いである。旱天が続くと、野寺の人々は芦池に集まる。神社に参った後、人々は池の周囲を松明をかかげ、「大雨小雨、天にしずくはないかいな。」と、口々に唱えながら行列する。村落の池をつぎつぎとすべて廻る。すなわち、荒ぶる自然である旱天は、人々の祈りの対象である神を媒介として恵みの雨に変換する。
 超越する存在を媒介とする自然の文化への変換は、単に溜池での雨乞い行事に限らない。野寺の村落生活全体に深く習慣として定着していて、高薗寺を中心とする多くの年中行事が営まれる。12)高薗寺は白雉年中(650-54年)に創設されたと言われる真言宗の古刹である。13)集落を含めてこの近辺で最も高い土地にあり、この土地は寺の本堂の観音堂にちなんで観音堂の山と呼ばれる。寺の創設が先の経之池、入ヶ池よりも古いと口碑が示すことは注目すべきである。寺が象徴する超越する力を媒介として溜池の築造が可能になったからである。さきにみた芦池の傍らの神社も寺の守護神として位置づけられる。溜池にもとづく農業生産力が寺を創ったのではない。逆である。もちろん、溜池が完成してしまえば、溜池に依存する農業生産力が寺を経済的に維持するに役立ったことは明らかである。
 村落が超越的な力の加護のもとにあることを示すために、高薗寺で行われる年中行事のひとつを紹介しておこう。毎年2月9・10日の追儺である。午後4時頃村の青年団の人々が寺の庫裡に集まり、青鬼と赤尾にの衣装を整えるのを手伝う。青鬼はモスグリーンの衣に白い太い綱を体に巻きつけ、赤尾にはえび茶の衣に同じく太い綱をつける。それぞれ一体である。檀家の世話人がお酒を青鬼と赤鬼に捧げ、その後、一同でお下がりの酒を頂く。5時頃、鬼は観音堂に行く。住職は大般若経を読経している。住職が読経する前で、青鬼と赤鬼はれぞれの面をつける。写実的な怖しげな面である。さらに、手袋をつけ、大きな草履をはく。青鬼は刀を、赤鬼はまさかりを手に大きな槌を背にさして観音堂より出る。松明を振りかざし、踊りながら観音堂の周りを走る。まず反時計廻りに5回、ついで時計廻りに4回である。走りながら、つぎつぎと火のついた松明を群衆の中に投げる。人々は競って松明を奪い合う。この松明は特別に霊力があり、厄除けになると信じられているからである。最後の一廻りは梅の木をかついで廻る。鬼が観音堂の周囲を廻っている間、ずっと法螺貝がふかれ、太鼓が乱打される。観音堂の周囲を鬼が廻った後、人々は鬼の面に頭を触れようと競う。これも魔除けである。観音堂の境内は人々で賑わい、夜店がいくつも出ている。翌日、鬼の担いだ梅の木の小片、餅、お礼が各家に届く。この梅の木と礼を苗代に挿す。
 この追儺の行事でも、僧の霊力を媒介として怖るべき鬼の力は人々の生活を守護すべき力に変換する。先に引用した説話と同じ構造である。水田もまた鬼の力で護られる。守護神に変換した鬼の力で、野寺の人々も土地も安堵する。水田は農業生産の場であると同時に、超越する存在によって安堵された土地でもある。安堵された土地であるからこそ、農業生産が可能になるのである。 上場ではこのような行事はない。野寺で大部分の家は高薗寺の檀家であるが、上場は多様である。高薗寺、円光寺、常泉寺その他の檀那寺は分かれる。神社も上場にはない。上場の氏神は、印南の吉住神社である。すなわち、野寺と相違して、上場は特定の個別的な超越する霊力のもとに村落全体が安堵することはない。

Ⅱ 溜池の維持管理と分水

 神話的な視点から溜池の神聖性についてみた。もちろん、説話が伝承する出来事はいわゆる歴史事実ではない。しかし人々の溜池に対する強い情念が明確な形態をとって表現されている。歴史事実によって構成される現実とは別の次元において、説話は人々にとって真実を象徴する。説話が象徴する真実は人間の行為による具体的な出来事の意味づけをする。歴史事実である。すなわち、歴史事実は、不可視の神話的な事実を具象化する出来事である。
 野寺の溜池の超越的な神聖性は灌漑水利慣行によって歴史的に具体的に現実化される。個別農家の具体的な利害対立は水利慣行によって調停される。したがって村落内では、水をめぐって利害対立が表面化することはない。そして、水利慣行は溜池の神話的真実を世代から世代へと伝承させる。
 野寺の灌漑水利慣行のもっとも印象的な特徴は、個別農家の自由な水利用がまったく認められていないことである。14)すなわち、6月20-23日頃から9月彼岸までの稲作期には、野寺の5つの溜池からの用水は「水入れ人」に一任される。水入れ人が一筆一筆の水田に水の取水口を開閉する。耕作者自身は水田の水のかけひきを直接に行うことは出来ない。水入れ人は村落の水利委員会の雇人で、委員会の指図ですべての水田の水の取水口を開閉する。したがって、耕作者は水利委員会に申出て、水入れ人に用水を自分の水田に入れてもらう。
 水利委員会は池掛りと呼ばれ、野寺の5つの溜池の維持管理、用水路の維持補修、農業用水の分配に全責任をもつ。野寺のすべての農家は水利委員会に加入している。ほかに、野寺のため池からの水を用水として利用する近隣村落の農家も一部加入している。しかし、他村落の加入者には水利委員の選挙権も被選挙権も与えられていない。水利費を負担するだけである。この結果、事実上、水利委員会は野寺村落の灌漑水利に関する組織といえる。灌漑水利は村落の内と外を峻別して行われ、内部では平等を、外部に対しては明白な支配の体系を構成する。
 野寺の水利委員会の総会は初参会と呼ばれ、毎年開かれる。村落と水利委員会は一体であるから、村落総会の議事終了後、集会は水利総会に切替わる。水利総会は任期2年の水利委員を12人選び、この中で委員長1人が互選される。戦前は地主と自作だけが水利委員になった。水利委員長は区長になるような人、つまり村落でもっとも有力な人であった。水利委員会に雇われる水入れ人も野寺の人である。耕作する土地を持たない人がなった。この水入れの人の仕事は非常な重労働で、しかも水田一筆一筆の事情を細密に心得ておらねばならない。戦前、反当り1升5合―2升5合の報酬があり、報酬は物価により年変動した。水入れは人は野寺の村抱え的な性格をもった。高薗寺の僧侶と同じく、村落内分業の一つである。特定の溜池に依存することが、ひとつの完結度の高い世界をつくったのである。すなわち、小宇宙としての村落である。河川灌漑の農村では、このような完結度の高い世界は見られにくい。
 水利委員会が溜池のすべてに責任を持つから、当然、溜池の樋抜きの日も水利委員会が決定する。6月20日―23日の吉日である。この日、溜池の樋の傍わらに頭つき魚、酒、洗米が供えられる。樋抜きの安全を願ってである。水入れ人が裸になり、池に飛び込んで樋を抜く。危険な作業である。樋抜き後、一斉に村落では田植えが始まる。
 しかし、年によっては雨量が極度に不足して、溜池の水量が水田面積を灌漑するにはまったく不足する場合がある。この時、歩植えが実施される。すなわち、植付制限で、一定割合の水田面積にしか植え付けが認められない。たとえば、八分植え
は、水田面積の8割にしか植付けられない。もちろん、この歩植えも水利委員会の決定である。歩植えのときは、非常に忙しく、緊張した仕事が強いられる。歩植えの割合に応じて、一定面積の水田に対する配水を停止させる。盗水に対しては米3斗の罰金を課す。米の多少よりは社会的名声あるいは恥の問題である。事実上は、盗水はなかった。配水停止の水田は「あげ田」と呼ばれ、その年は畑作への転換が強制された。
 この歩植え制で注目されることは、徹底した形式的平等性である。15)水不足の場合、平等で損害を負担する制度である。たしかに、この平等性は野寺村落を構成する人々の間の用水に関する平等な社会関係を示す。用水を媒介として、人々の平等な社会関係が再生産される。しかしながら、この平等性は形式的であって、必ずしも実質的ではない。すなわち、水田面積の保有規模に応じて、歩植えによる実質的な損害負担は相異する。当然、耕作面積が少ない農家が受ける打撃はより大きいはずなのである。原初では、形式的平等と実質的平等は事実上まったく重なったいたであろう。ところが、村落内の経済格差により、これら2つの平等性の間にずれが生じた。実質的な不平等は、水利委員会の委員構成にもすでに見られた。委員になる人は地主であって、けっして小作人ではなかった。これら2つの平等性の間のずれは、野寺村落内の相互平等性の規範と村落外部の利潤追求との交渉の結果から生じた。すなわち、村落外部での貨幣経済の発達にもかかわらず、村落内部の個別農家は利潤追求を目指して独立した農業経営を行うことは困難であった。溜池からの用水は水利委員会を媒介にせねばならなかったからである。したがって、同一溜池の利用という地緑性を基盤にして、村落内部の社会関係は平等性の枠組を残さざるをえなかったといえよう。では、溜池に関する灌漑水利慣行は何時から成立して、どのように変化したのであろうか。溜池の灌漑水利慣行の成立時代は必ずしも明らかでないが、しかし近世において、すでに現在の慣行とほぼ同じ制度が成立していた。2つの資料をみておこう。16)

規定連制之事
1.稲植付候ヨリ刈取候迄田毎養水之義水入役入之儘ニ致シ自分ニ水少茂入申間舗候若相背候ハヾ其時事之依軽重科料可差出候事
 右之通先年規定連制仕候得共為年数候得者心得違之者有之由甚タ相聞依之此度規定連制如件
 明和8年卯12月
1771(明和8)年の文書であるが、現在の慣行と同じく、植付けより刈取りまでの期間、個別農家の自由な引水は完全に禁止されている。水入れによらねばならない。さらにこの慣習に違反する人の多いことに違反に対して科料を課すことなども言及される。すなわち、個別農家の利潤追求と溜池に関わる村落社会の平等性との対立が明白となっている。もうひとつの文書も引用しておこう。
 (前略)去年ヨリ日和続キニ而降雨無之候付(中略)大井ニ困入申候也、廿五日ニ田植相談仕候得共照リ上リ廿八日ヨリ東田分ニテ五分植之相談ニ相極メ候也(下略)
 1848(弘化5)年の「覚書」の一部である。旱天時の歩植え慣行がすでに成立していたことを示す。5分植えである。耕作地の半分にしか植付けしないことは、日照りの激しさと同時に、村落社会の統合が強力に実現していたことも意味する。引用の2つの文書は、近世の貨幣経済の展開のもとにあって、個人的に利潤追求を目指しながら、同時に溜池に関わる村落社会の平等性に頼らねばならない農業経営をよく示しているのである。
 野寺の灌漑水利慣行を村落社会を構成する家々の社会関係として記述してきたが、野寺と対照的とされる上場についても少し述べておきたい。すでに近世において灌漑水利慣行を確立していた野寺に比較して、上場の歴史は新しい。上場の村落形成は近世に始まるとされる。水利条件が極めて悪く、古くからの溜池はなかった。綿作を主とする畑作の村落である。わずか地表水の細流を利用した小規模の溜池が個別農家によって築造された。たとえば、上場の草分けである丸尾家による丸尾池で、個人所有であった。したがって、野寺で確立していたような村落の社会関係としての灌漑水利慣行は成立するはずもなかった。
 しかし、明治21年、淡河川疎水工事の完成は上場の農業を一変させた。手中池、葡萄園池、中場池など築造されて、畑地は水田に変わった。これら溜池からの用水は、当然一定の水利秩序の形成を促がした。大規模な溜池であっても皿状であるため、貯水量には限度があるからである。拡大した水田が要求する用水に無制限に応ずることは、とても不可能であった。不足する用水を平等に分配するための水利秩序が、上場においても形成された。新しい水利秩序は、野寺など古い村落における水利慣行に倣った。
が行えなかった。すなわち,個別農家は自立した稲作を行うことは出来ず,水利委員会の機能と合体して,ひとつの完結した稲作が可能となった。しかも,水利委員会の統制は,野寺のような古い村落よりも厳しかったといわれる。というのは,古い村落に比較して,新しい村落は,自然條件からみて,本来的には水不足地域であるからである。不足する用水を平等に分配するために,厳しい水利統制が行われねばならなかった。
 このように古い村落での灌漑水利慣行に倣ったとはいえ,上場の水利秩序には古い秩序とは大きく相異する点もみられる。それは水利委員会がより農業水利に限定されて機能的組織されていることである。野寺にみられたような村落社会と水利委員会の一体化とは明白に異なる。たとえば,手中池,葡萄園池,中場池の各溜池にそれぞれ独自の水利委員会があって,上場の村落社会からは相対的に分離している。また,水利委員会の初参会は,たとえば手中池掛りでは,5 月,堤防上の樋の前で行われ,樋抜きの期日を決める。上場の部落総会ではないから,他村落の水利受益者も参加するのである。
 水利秩序が村落社会全体から相対的に分離し,機能的に編成されていることは,経済変化に対処して,水利秩序を適合的に再編成することが,比較的容易である条件でもある。17)30年以後の経営変化の過程でこのことは実現された。すなわち,30年代に稲作の早期栽培と蔬菜(かんらん)の2期作が上場全村落に普及した。稲作の早期栽培のためには,溜池の樋抜き時期を従来の6月下旬から1月以上も早くした5月初旬から断続的に行わねばならなかった。慣行で決められた樋抜き時期をこのように大幅に変えることは一般には必ずしも容易ではないのである。
 野寺にも稲作と蔬菜の二期作は導入された。しかし,上場のように全村的には普及しなかった。一部の農家にとどまってしまった。野寺の水利委員会(35年水利協議日誌)は,稲作の早期作付反別を耕作反別の3割以内にすることと決定している。この結果,特別に水利條件のよい耕地でのみ二期作が可能となったに過ぎない。樋抜き時期も従来の6月下旬が5月上旬と6月下旬の2回に変更されたにとどまった。
 このような2村落の水利秩序の相異は,30年以降の経済高度成長下の社会変化にも密接に関わる。すなわち,関西を中心とする都市の膨脹にともなって,上場では稲作と蔬菜の二期作が全面的普及し,収益の高い作物がつぎつぎ導入された。かんらん,スイカ,トマト,レタスなどである。カーネーションの温室栽培も行われるようになった。1,2へクタールの小規模な耕地を可能な限り精密にそして多角的に利用する園芸的農業が展開したのである。他方,野寺では兼業化が進み,農業は停滞した。植木職人など関西の都市への出稼ぎが盛んになったのである。加古川,神戸の人が村内の耕地1町5反ほどすでに購入しているといわれている。

Ⅲ 村落社会の連帯と象徴

灌漑水利慣行は村落社会あるいは特定の溜池を単位にして実施されてきた。すなわち,個別農家を超越する集団である。この集団の構成員であることによってのみ,個別農家の用水利用は可能であった。野寺では溜池水利は村落社会と一体となっている。したがって,個別農家の共同労働に基づく溜池と用水路の継持と修復は,同時に村落社会を物質的に補強することでもあった。この共同労働を可能とする人々の連帯の精神は,村落社会を社会として統合させる精神でもさった。共同労働の成果である溜池と用水路は,個別農家を超越して村落社会統合の象徴となるのである。
 溜池と用水路は物理的な建造物であるばかりでなく,むしろ村落社会統合の象徴であるから,用水をめぐって他村落との争いは極度に激烈にならざるをえない。言うまでもなく,用水獲得は稲作の出来あるいは不出来を直接に決定する。しかも,台地上では水は不足し易い。したがって,他村との水争いは激化し易い。しかし,他村との水争いの激しさは経済的な側面だけでは十分に説明できない。後でみるように,水争いは村落社会全体をあげての争いであり,この争いに参加することで人々は自分の村落社会への帰属を強化しているからである。利害を異にする他村落との対立によって,村落は自からの存在を確かにしてゆく。水争いという非日常の事態において,村落社会の人々に対する超越性は顕在化する。水争いは村落社会の統合を非常に強化したのである。さきにみた神話のレベルにおける溜池の神聖性は,非日常の事態において,個人に対する村落社会の超越性の基盤となる。用水不足は溜池の機能を著しく低下させ,溜池と用水路をただの物理的な建造物にしてしまう可能性をもつ。
 野寺の事例を2,3あげておこう。野寺は古くからの村落であるだけに,用水をめぐって他村落とは深刻な争いを経験してきた。水争いは台地上の細流である流の獲得をめぐって起きた。明治21年の淡河疎水工事完成以前においては,溜池の主要な水源は流であったからである。淡河川疎水が通水した以後においても,流の水をどのように獲得するかが争いの焦点であった。もちろん,流の水の獲得は慣行により細かく規定されてはいる。流の水路の幅を拡げたり,あるいは深くしたりすることは,いささかも許されない。わずかな変更も,上流あるいは下流の何れかに不利に働くからである。流に設ける堰の高さも材質も慣行が一定に決めているのである。

 野寺の水争いの中で古い事件は入之池郷との間に起きている。寛文年間である。野寺の経之池の灌漑面積が増加したために用水不足となり,芦池より補給することにした。このため芦池下流の鬼河原に堤防を築いて,水量の確保を図った。ところが,入之池郷より百数十人押寄せてきて,この堤防を切り崩した。入之池の水源確保のためである。野寺と入之池郷とは繰返し争いがあり,戸板で運ばれる怪我人も出した。延宝元年の手形は,入之池の鬼河原谷は幅1間,長さ700間であるが,芦池流のため300間だけ入之池郷が溝浚えすると規定した。この規定は現在まで守られているのである。
 草谷との間でも激しい水争いを経験している。均石での分水をめぐってである。均石で柿木沢流と宇内裏流が合流し,さらに降雨の際の地表水が野谷よりここに集まる。つまり均石は野寺の溜池の重要な水源である。ところが,均石のすぐ東の野々池は草谷の支配下にある。そこで,用水期間中の春彼岸から秋彼岸までは,草谷が均石の上に泥堰をして野々池の用水を使用した。秋彼岸から春彼岸までは,野寺がこの泥堰を切り落して流を利用した。草谷の用水期間中であっても,夕立ちがある場合,堰を切って,野寺への引水を図った。この際均石より北30間の位置にある分岐点の土管も密閉した。このような慣行があるため,豪雨があると野寺の水利責任者は水入れ人と人足を率いて現場に駈けつけた。鍬をもってである。旱魅であったが,8月に豪雨があり,均石に流水があった。この流水をめぐって,野寺から駈けつけた人々と草谷からの人夫との間に激論が発生し,負傷者を出した。加古川警察署より警官多数が出動してくる騒ぎになった。18)

 以上引用したように,溜池の水源をめぐる争いは,村落社会全体をあげての戦さであった。他村落と争うことによって,自分の村落社会の統合は著しく強化される。このように他に対抗して形成される社会統合は,水利以外においても機能する。たとえば運動会である。とくに選挙は他村落に対抗する機会である。もちろん,国会ではなく町議会選挙である。自分の村落の利害を主張するために,どうしても地元出身の人物を当選させねばならない。こうして選挙候補者は村落推薦となる。村落の人々の投票はほとんど村落の役員の計算通りであり,予想得票数とほぼ一致するとされる。選挙においては,自分の村落社会に対する帰属意識あるいは忠誠心を人々は問われるのである。


野寺に比較して,上場は他村落との争いの経験はあまりない。上場の水利秩序が淡河川疎水の通水以後であるために,近世あるいはそれ以前にさか上るような古い水利慣行はないことによる。ただ,上場村落内を通る岡流については騒ぎがあった。古い村落である岡は,古くからこの流を用水としていた。このため,新しい村落の上場は,岡の上流に位置しながら岡流の水を自由にできないという慣行が形成された。上流の上場が下流の岡に対して用水の使用料を支払うのである。上場が岡流の水を自由に使おうとして騒ぎが起ったことがある。岡の人々 が鍬をもって押しかけてきた。警察が調停に入り,岡流の使用料が引下げられることで一件落着した。野寺とは異なり,上場では用水もより機能的にとらえられていて,用水を村落社会統合の象徴として高める程度は少ない。

IVむすび―社会変化と溜池

 溜池のもつ2つの側面,すなわち,神話的レベルにおける神聖性と,水田の用水にとって不可欠な物理的な建造物であることをみてきた。歴史的には,両側面は村落社会を構成する人々の共同労働によって実現されてきた。こうして溜池は村落社会統合の象徴であり続けた。人々は溜池の用水のために,全村落社会をあげて他村落と戦ってきたのである。
 しかしながら,30年代以降,溜池をめぐる状況はまったく一変する。第1に,水田稲作の比重が著しく低下し,非農業を職業とする人々が激増した。第2に,水田稲作の目的も変化した。稲作は自分の生活の糧である米を直接的に獲得する活動というよりは,貨幣収入を直接の目的とする。商品としての米である。そこで,商品を生産する土地は工場と同格となる傾向をもたざるをえない。第3に,水田稲作の方法の画期的変化である。稲作の技術革新は目まぐるしいばかりで,新品種,化学肥料,農薬,農業機械についてはいうに及ばず,革新は作付体系そのものを変えてしまった。年寄りの経験に基づく稲作技術の多くはスクラップ同様となった。第4に,水田稲作に従事する人々の意識変化である。工場と同格の土地で新しい技術を使って稲作を行えば,自ずから人々は自分の生活と工場労働者あるいはサラリーマンの生活を比較する。人 の意識は工場労働者,サラリーマンの意識に接近する。
 生活の都市化である。かつては,溜池の用水のために人々は一身をなげだして戦った。村落社会への献身である。しかし,現在では米価要求により大きな関心を払う。注意すべきは,米価は全国を対象としていて,直接には村落社会と何の関係もない。すなわち,人々を統合する象徴は村落社会においてよりも,全国的規模をもつ事柄に移行した。第5に,村落社会の比重低下である。以上みたすべての変化は,核家族を単位とする個別農家の自立性を強める方向に作用した。人々の村落社会に対する帰属意識は希薄になりつつあり,村落社会の役員になることは必ずしも名誉と感じられなくなってしまった。しかし,このことは村落社会が崩壊したというのではない。選挙にみられるように村落社会は現在でも大きな影響力をもっている。ただ,村落社会は確実に変化しつつあると述べているだけである。村落社会を構成する人々の生活が大きく変化したのであるから,当然,村落社会も全体として変化し,これがかつての村落社会かと思わせるほどに変りつつある。
 30年代以降の経済高度成長の過程でみられた大きな変化を要約した。言うまでもなく,この変化過程にあって,さきにみた溜池の2つの側面のもっ意味も変化した。溜池そのものは客観的存在であるが,溜池のもつ意味は人々が溜池に付与するものであるからである。溜池と用水路の維持についてみてみよう。
 野寺の用水路を廻ってみて何よりも驚かされることは,用水路のよごれである。ビニール袋,空罐,瓶などがごろごろしている。時期が2月で非灌漑期間でもあるが,それにしてもよごれが目立つ。池水もきたなくなった。かつては,夏になれば子供達は溜池で泳いだ。事故死があれば河童の仕業にした。ところが,現在では溜池で泳ごうとする人は誰もいない。溜池の青く澄んだような水は,今ではすっかり濁ってしまっている。もちろん,溜池の水の汚染は水源の汚染による。上流での家庭用水,下水,農業用水などである。池水の汚染の原因が何であれ,このような溜池の水と用水路の状況は,溜池のもつ意味にも大きな影響を与える。むしろ,溜池の意味の変化がこのような状況をつくりだしたとすべきであろう。農業用水は命がけで守るべきものから,使わるべきたんなる水に意味変化を遂げたのである。
 用水路の維持に当る共同労働も変りつつある。毎年植付け前に用水路の溝さらえを共同労働で行うことになっている。水利委員会が指定した日に人々は集まり,委員会が決めた部分の溝さらえを行う。1戸1人の割合で必ず出役せねばならない。しかし,現在では出役しないで野寺では代金納(6000円)を払って済ませる世帯もある。職業が多様化しているから,委員会が指定する日がたまたま都合の悪い人もいる。くわえて,どんなに都合が悪くても,村落社会の行事に参加することに意味を見出していた気風は薄くなってしまったようである。
 用水分配の方怯にも変化が起っている。水入れ人制度によることは以前と同じであるが,野寺では水入れ人は3人から2人に減少した。上場も水入れ人制度によるが,10年ほど前から,水利委員会の雇用者としての水入れ人はなくなった。代って,上場の農業従事者が2人1組で交代して水入れ人を勤める。この結果,かつてのように水利委員会を媒介として雇入である水入れ人に用水を依存していたことは異なって,個別農家がより直接的に用水に関わることになった。水入れの当番に当った人は,用水の分配を機能的に行うための分業を分担することになった。19)ちょうど,工場生産が分業体系であることに類似する。
 溜池にまつわる神話的意味が消えるだけでなく,溜池そのものも取潰され,非農業地に転用される事例も台地の他地域では増加している。大久保,岩岡地域である。池敷地を売却する場合,売却金の半分を土地改良区に納入する義務がある。このため土地改良区は大変な収入があったと言われる。溜池掛りの水田がどんどん宅地とか工場用地に転用されてしまえば,当然溜池敷地も売却されることになるのである経済高度成長の過程で個別農家の自立性が著しく高まり,村落社会も変化した。溜池の神話的意味も薄れた。このような社会変化は,当然,村落社会を意味ある秩序として自然の混沌から隔てた宗教儀礼にも影響を与えた。さきにみた野寺高薗寺の追灘行事をもう一度みてみよう。20)
 戦前に比較すれば,現在の追灘行事は随分と簡略化されている。昔は鬼の役をする青年は7日前から寺院に籠って,仏の霊力に祈願した。この期間に,使用する大きな草履をぬい,梅の木を用意した。餅もついた。これら霊力を象徴する物はお籠りで特別な状態に移行した人がつくった。現在は,寺院でのお籠りは全くなくなった。行事の準備はすべて野寺の公民館で行われる。行事そのものの主催者も寺院から野寺の青年団に移行した。この世に究極的な意味を与えていた宗教儀礼が形式化して,儀礼のための儀礼と娯楽化しつつある行事とに変化しつつあるのである。
 追灘行事に参加する観衆にも大きな変化が起った。かつては,行事に参加することはこの世での安心立命のためであった。すなわち,広大無辺の仏の霊力によって望ましき方向に変換させられた鬼の異常能力は,人々の生活の安堵のよりどころであった。人々は家族の健康と農業の豊作を祈った。現在,行事はなかば見世物である。ある年寄りの婦人は行事の翌日こうぼやいていた。孫2人を連れて行事をみにいってきたが,夕暮れで寒く,孫は風邪をひいてしまった。孫を風邪ひかせ,娘夫婦に叱られたと。鬼の霊力に対する信仰より,むしろ,鬼役が松明をかざして踊ることに,人々は興味を集中するようになった。
 寺院の霊力に頼って生活を安堵させることは決定的に出来なくなった。追灘行事で風邪を引いた孫の熱は医者に診てもらわねばならない。稲の豊作も梅の小片よりは近代技術に頼る。溜池の神聖性も薄れてしまった。しかし,かつての寺院とか溜池にあった神話的霊力に交代するものは何であろうか。現代は,神話的霊力は以前よりずっと薄められながら多様化しているようにみえる。たとえば,孫の風邪を診る医者は科学者であると同時にそれ以上の能力をもつものとしても遇されるであろう。僧侶が特別な存在として崇められたことに似る。
 溜池の神話的意味は薄れた。代って,最近の農法が登場した。とくに,農業機械の普及は驚くほどである。コンバィン,田植機,トラクターなどである。これら農業機械の経済的有用性は明白である。水稲と蔬菜の二期作は,農業機械の普及によって可能となったからである。溜池の用水は水不足地での水田を可能とした。現在の農業機械は二期作を基本とする新しい農法を可能とした。農業機械に対する支出は,すでに経営合理性を超えてまでも行われているのである。
 農業機械が独自な魔力を持つことはすでに明らかであるが,農業機械購入を可能とする貨幣の魔力はさらに大きい。溜池と農業機械の対比は,仏の霊力と貨幣の魔力の対比に相当するであろうか。(溜池/仏の霊力=農業機械/貨幣の魔力)
 村落社会が変りつつあることをみた。しかし,貨幣の魔力のもとですべてが全国的な市場経済に統合されてしまわない限り,新しい村落社会は形成されよう。農業の基盤である土地は,本来的に地方的であって全国的ではないからである。そこで,かつての寺院とか溜池に相当するような神話の担い手が何であり,どのように形成されるか。村落社会と母里農協あるいは土地改良区の結びつきには大変興味深いものがある。しかし,どのような社会であれ,土地に基づく超越的な象徴を創出することは必然であろう。かつての溜池が担った神話的意味を担う象徴である。

1)友杉孝『 経済蓄積の形態と社会変化』 アジア経済研究所 1979年。
2)グループAを構成する諸要素間の関係を,グループBの諸要素の間に存在する示差的特徴で表示する仕方は,分類原理としてのトーテミズムに類似する。このトーテミズムとの類似性については,機会を改めて議論したい。また,経済蓄積の諸類型にっいては小著を参照していただければ有難い。
 Tomosugi,Takashi,“Three Types of Accumulation”in A Stractural Analysis of Thai Economic History,Tokyo:Institute of DeveloPing Economies,1980.
 とくに,土地に対象化している経営蓄積,いいかえればストックとしての土地については玉城哲氏の論文が詳しい。玉城哲『風土の経済学』 評論1976年。一般的には,経済蓄積を道具・機械に限定して議論する。すなわち,生産力の発達を道具・機械のみを基準にして議論する。しかし,このように,経済蓄積を道具・機械に限定してしまうことは,事実上では,経済発展のモデルをヨーロッパの近代化のみに限ってしまうことになる。ヨーロッパ農業は天水畑作で,まさに道具・機械を主要な経済蓄積型にしていたからである。日本あるいはアジア諸社会でみられる非道具・機械型蓄積とこの蓄積を基盤とする経済活動に目を閉じることになってしまうのである。ヨーロッパの経験に基づくモデルを性急に他地域に押しつけることでもある。本稿では,経済蓄積を経済の再生産を可能とするストックと定義している。したがって,道具・機械のみならず,再生産に貢献する他の要素もまた経済蓄積のカテゴリーに入れねばならない。たとえば耕地である。土地改良を実施すれば農業生産力が増大することは明らかである。ヨー口ッパのモデルにはないことであるが,耕地も重要な蓄積形態である。とくに精細な耕地である日本の水田は土地型蓄積のひとつの極限を示す。
 さらに経済蓄積のシンボリズムについても一言つけ加えておきたい。経済蓄積は時間の経過に従って行われ,人間労働の成果として存在する。すなわち,経済蓄積には歴史が刻印されている。歴史をつくった時間の経過が,経済蓄積として空間的に象徴されるのである。
3)北修直正『農政改革論』,同『母里村恢復史略』。
4)竹内常行「播州平野東部の溜池灌漑」『 現代地理学講座3・平野の地理』所収。稲見悦治「台地の開発と水利施設形成過程」『地理学評論』28―2。
5)一般に,自然から文化への変換を媒介する存在には,特別な意味が与えられる。たとえば火である。火を媒介として,生のもの(自然)は煮たもの(文化)に移行する。火は物理化学的な存在であると共に,火の神を象徴する。水もまた自然と文化を媒介する。したがって,水は水の神を象徴する。日本の民俗から2,3の事例をあげておこう。小野重朗「水の神」『講座日本の民族宗教3・神観念と民俗』弘文堂1974年による。
 その1 鹿児島県高山町塚崎。大きな灌漑溜池があり,この池のほとりに水神をまつる大きな石詞と田の神石像(1946年作)がある。旧8月22日が祭りの日で,水神の旗をつくり,青年が水神詞の前で鉦踊りする。
 その2 宮崎市花ケ島の水田の水神祠では,旧8月13日に水神講がある。子供達が相撲をとり,青年は臼太鼓踊りをする。水神の前には奉納水徳神のノボリがたつ。
 この小野論文は水の神を2形態に分類する。第1は生活用水に関わる神である。飲用水,洗濯場,水汲場でまつる。第2は農業生産に関わる神である。用水堰,用水溝あるいは水田のほとりでまつられる。農業に関わる神について,水口祭りを手がかりに次のような注目すべきことを指摘する。山→水の湧き口→田の水口→田の各地点で水神がまつられることは,水の神,山の神,田の神が相互に深く関わることを示唆している。
 末永雅雄『池の文化』学生社も,池についての多面的な記述がある。とくに,「池と信仰」,「池の名と伝説」は,本稿との関連で興味深い。
  東南アジアの池については,石沢良昭「東南アジアの池」,森浩一編『池』所収社会思想社1978年,が参照さるべきである。カンボジアの池が王権の象徴であり,神聖な存在であることを論述している。
 6)原野(自然)が開墾されて耕地(文化)となり,さらに溜池が築かれて耕地の拡張あるいは安定が図られる状況を,日本神話が生々と記述している。常陸国風土記行方郡の記事である。後述の入ケ池の人柱伝承と比較のため引用しておきたい。これら2つの説話は,荒ぶる神が祭られて,自然が耕地に変換することを物語る。
  「古老のいへらく,石村の玉穂の宮に大八洲馭しめしし天皇のみ世,人あり。箭括の氏の麻多智,郡より西の谷の葦原を截ひ,墾闢きて新に田に治りき 此の時,夜刀の神,相群れ引率て,悉盡書に到来たり,左右に防障へて,耕佃らしむることなし。俗いはく,蛇を謂ひて夜刀の神と為す。其の形は,蛇の身にして頭に角あり,率引て難を免るる時,見る人あらば,家門を破滅し,子孫継がず。凡て,此の郡の側の郊原に甚多に住あり。是に,麻多智,大きに怒りの情を起こし,甲鎧を着被けて,自身伏を執り,打殺し駈逐らひき。乃ち,山口に至り,標の枝を堺の堀に置て,夜刀の神に告げていひしく,「此より上は神の地と為すことを聴さむ。此より下は人の田と作すべし。今より後,吾,神の祝と為りて,永代に敬い祭らむ。冀はくは,な崇りそな恨りそ」といひて,社を設けて,初めて祭りき,といへり。即ち,還,耕田一十町余を発して,麻多智の子孫,相承けて祭を致し,今に至るまで絶えず。其の後,難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り,壬生連磨,初めて其の各を占めて,池の堤を築かしめき。時に,夜刀の神,他の辺の椎株に昇り集まり,時を経れども去らず,是に,磨,声をあげて大言びらく,「此の池を修めしむるは,要は民を活かすにあり。何の神,誰の神ぞ,「風化に従

 ざる」といひて,即ち,役の民に会せていひけらく,「目に見る雑の物,魚虫の類は,憚り懼るるところなく,隋盡に打殺せ」と言いろはる応時,神しき蛇避け隠りき。謂はゆる其の他は,今,推井の池と号く。池の回に椎株あり。清泉出づれば,井を取りて他に名づく。即ち,香島に向ふ陸の駅道なり。(秋本吉郎校注『風土記』岩波日本古典文学大系2)以上に引用した説話は,これまで多くの人々によって論じられてきた。本稿との関連で二,三文献を参照しておきたい。原野が耕地に変換する過程を象徴のレベルでとらえた論文と,現実的な経済のレベルで議論する論文である。
 1 山口昌男は,麻多智を素戔鳴尊に,夜刀の神を八岐の大蛇にそれぞれ入れ換えれば,この説話の前半は八岐の大蛇の説話に換ると論じる。「人の田」は秩序に,耕作の妨げは反秩序に属する。夜刀の神は反秩序(自然,混沌)で,麻多智は混沌と秩序の境界を明確にする役割を演じる。したがって,麻多智は異常な力をもつ英雄である。神をまつる社が山と耕地の境界,すなわち,山口であることも注目される。
 山口昌男『文化と両義性』岩波書店1975年 4ページ。
 2 小松和彦は占有儀礼という論点から,この説話を取上げる。夜刀の神は谷を支配する神で,土着勢力がまつる水神であるとする。新来勢力の麻多智は武力で夜刀の神を追い払い,神の土地と人間の土地を明確に区別する杖を立て,土地を占有する。そして,敵対する神のための社を設けた。征服者(祭るもの)と荒ぶる神(祭られるもの)との間に,占有儀礼がある。
  小松和彦「日本神話における占有儀礼」『日本神話と祭祀』有精堂 1977年。
 3 古島敏雄氏は,古墳造成を可能とする土木技術と労働力調達は,谷頭の溜池建造をも可能にするはずと推定する。小さな谷の奥の溜池であり,最初の人工灌漑施設である。しかし,このような條件のよい谷頭の溜池でも,貯める水量が多くなれば,建造が困難であると論じて,この説話を事例にあげる。葦原10へクタールを開墾した後で,溜池を築いて生産力を高めた順序にも注意するようにと議論される。古島敏雄『土地に刻まれた歴史 岩波新書1967年 52,53ページ。
7)人柱として美女が現われることについて,柳田國男のすぐれた論考がある。すなわち,人柱は,歌舞に秀でた遊行の宗教者であるという。この遊行者は,この世と超越する世界とを媒介するシャーマンの役割を果すのであろう。柳田國男『妹の力』定本9。
8)『稲見町文化史概要』10ページ。口碑による年代。正確な事実としての年代ではないであろうが,経之池が野寺村落の形成と同じ程度に古いと人々に意識されていることは重要である。
9)『稲見町文化史概要』10ページ。
10)『加古郡誌』名著出版45―47ページ。
11)『加古郡誌』名著出版 47ページ。
 旅僧行基の登場は非常に興味深い。旅僧は他次元からの訪問者で,霊力の所有である。引用文の霊僧と同一である。さらに,僧侶と美女の組合せは,行基と巫女の関係を示唆する。
 なお,行基の水利事業については次の文献が詳しい。社会経済史の視点からである。亀田隆之『日本古代用水史の研究』吉川弘文館[973年187―200ページ。
12)村落の祭りに2つの類型があることに注目すべきである。第1は,自然から文化への変換を象微する行事である。これまでみてきた溜池に関する神話,行事はこの類型に属する。第2は,文化から自然への変換を象徴する。文化の活性化を図る行事である。たとえば,夏あるいは秋祭りで,神に祈った後,必ずどんちゃん騒ぎ,喧嘩とか派手な消費を行う。文化が排除した混沌のエネルギーが取込まれるのである。第1の類型の祭りでは,このような騒ぎはみられない。言うまでもないが,これら祭りの2つの類型は,同一構造の2つの現われ方である。
13)『加古郡誌』367―69ページ。
 高薗寺の略史である。康歴2年(1380)赤松兵部少輔義則は東西20町南北5町の土地を寺領とする。多ぐの仏閣が修復され,32坊も軒を連ねたという。しかし,天正6年

(1578)三木の兵乱で焼失した。
14)野寺と上場の灌漑水利慣行の記述は,永田恵十郎の研究報告書に基づく。
 永田恵十郎『日本農業の水利構造』岩波書店 昭和46年。上掲書所収の「溜池灌漑地帯における水利秩序の変容過程」は,印南野台地における30年代の水利秩序と経験発展の関係を詳細に報告している。筆者の現地調査もこの報告書を基礎にし,若干の事実を付加しているにすぎない。
15)形式平等性については,旱ばつの階層性として永田恵十郎が詳しい資料をもとに議論している。永田前掲書205,206ページ。
16)永田前掲書180,181ページ。
17)永田前掲書の主題である。
18)野寺の水争いについての記述は,すべて大住新吉からの要約的な引用である。文章は若干変更してある。紙数の都合で全文引用は困難である。 大住新吉『 野寺の水利史』 私家版昭和34 年。小冊子ではあるが,このような文書が著わされること自体,濯概水利が村落社会にとって深刻な意味をもっていたことを物語る。なお,現地調査に際して,大住計夫氏からもいろいろとご教示いただいた。感謝いたします。
19)永田前掲書249―254ページ。
20)追灘行事に参加するようにと誘って下さった魚住早苗氏に感謝いたします。