鉄鋼

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近代鉄鋼技術の発展と労働力

著者名: 飯田賢一
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1981年
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 目 次
1 まえがき――官営八幡製鉄所の設立過程にみる光と影・・・・・・・・・・2
2 人をつくらばその人工業を見出すべし――工業教育機関の整備・・・・・・・・・・7
3 近代鉄鋼労働力の形成――1920年代の到達点・・・・・・・・・・12
4 日本人技術者の力量と役割――ドイツ人技師重用の失敗・・・・・・・・・・18
5 近代鉄鋼労働力の定着――労務管理体制の整備・・・・・・・・・・22
6 職工養成所の成立と発展――その歴史的意義・・・・・・・・・・30
7 エリート熟練労働者の形成――4人の「宿老」について・・・・・・・・・・35


1 まえがき――官営八幡製鉄所の設立過程にみる光と影

 1901年,官営八幡製鉄業の創業をもって,日本鉄鋼業の現代がはじまる。この同じ年に,奇しくも世界最大の鉄鋼企業U.S.スティール社が資本金14億ドル,粗鋼年産規模1060万トンをもって発足した。
 日本の官営八幡の当時の年産目標はわずか9万トン,初年度,1901年の実績は鋼材6033トン。すでに資本主義的工業生産が爛熟したアメリカとくらべると,まるで巨人と幼児のような格差である。
 しかし,19世紀末には日本の鋼材需要は,主としてイギリスからの輸入に依存しつつ,18万トンほどに達していたから,日本はまずその2分の1の生産を目標として,国営の製鉄所を建設しようと,自力で計画を立てるところまで進んでいたのである。
 1891年の時点で,官営製鉄所建設の必要を最も明確に主張したのは,工学博士野呂景義(1854-1923)であった。1882年に東京大学理学部の採鉱冶金学科を卒業し,のちイギリスに留学してロンドン大学で機械工学と電気工学を学び,ついで3年間ドイツ・フライベルク鉱山大学で主としてA.レーデブーア教授に師事し鉄冶金学を専攻した野呂(1889年帰国とともに帝国大学工科大学教授に就任,1915年初代日本鉄鋼協会会長)にとって,製鉄所の計画・設計じたいは,何ら困難な仕事ではなかった。かれは1891年『鉄業調』と題する一種の製鉄所建設論を起草し,時の首相兼蔵相松方正義に提出したのである。
 「ソレ鉄ハ工業ノ母,護国ノ基礎ナリ。製鉄ノ業起ラザレバ万業振ハズ,軍備整ハズ,此業ノ盛否ヲ視テ,国運ノ如何ヲ知ルニ足ルトハ,能ク人ノ確認スル所ナリ」
――野呂の論説はこのような文ではじまっているが,軍備も法律も教育も,あらゆる文明は,「万業」の基としての鉄鋼業の確立を欠いたなら,根なし草でしかないことを喝破していることに,かれの技術思想の特質がある1)。
 そして,基本的にはこの野呂の主張が,前記松方首相のほか,明治政府の高官中,最も科学的識見に富む産業指導者であった農商務大臣榎本武揚(1836-1908)に受けとめられ,1895年12月開会の第9回帝国議会において,官営製鉄所創立予算案(409万余円)として協賛・可決されるのである。野呂と同じく技術と経済とのバランスのとれた発展を考える榎本は,自主的に漸進主義の道を選び,この議会につぎのように「製鉄所設立意見」をのべる。
 製鉄所ノ規模ニ付テハ,創業ノ際,単ニ利益ノ一点ニ着目シ,漫然大規模ヲ計画シテ巨額ノ資本ヲ放下シ,充分ナル諸機械ヲ購入スルモ,之ニ伴フ各種ノ材料,及ビ練熟ナル職工等,俄カニ多数ヲ給スル事能ハズ,為メニ機械ノ大部分ハ運用ヲ休ミ,且ツ年月ヲ経ルニ従ヒ,当初設立シタルモノハ往々欠点ヲ発見シ,改良ヲ加フル事少カラズ。故ニ本所創業ハ,先ヅ少数ノ機械及ビ模型ヲ購入シ,専ラ小規模ニ計画シ,後来多数職工ノ熟練,其他ノ物件充分準備ノ成ルヲ待チ,漸次ニ事業ヲ拡張スベキ方針ナリ。
 今日,たとえば中国に代表される第三世界の政治家は,工業近代化に当って「独立自立,自力更生を『主』とし,外国からの援助や協力を『従』とする」と,その方針を語る。かつて榎本農商相の選んだ道も軌を一にすると言えなくもない。私は官営八幡製鉄所設立前史の過程で――従来日本の研究者たちは見落しがちであるが――上記のように製鉄工業化の段階と,初期テイク・オフの過程における機械設備と労働・熟練との関係が,正しく理解されていたことを,まず注目したいと考えるのである。
 1901年の官営八幡の創業は,日本に新しい鉄鋼労働力が形成される第一歩であり,鉄鋼労働の現代史の起点を意味している。しかし,じつはこの計画が帝国議会を通過した1896年は,その前年勝利のうちに終結した日清戦争の余勢をかって,日本が「脱亜」を旗じるしに,欧米列強にならって,軍事力を背景にアジア大陸の植民地的経営をめざしはじめた時代でもあった。新しい資源開発技術を推進せずとも,植民地経営路線から資源獲得のメドがついた。このため,創業期の官営八幡は,一転して当初から大規模にヨーロッパ,とくにドイツ製鉄技術導入一辺倒の方針に向い,自主技術開発の道を大きく後退させた。そして榎本路線の正しさは,数年にわたる技術的失敗と国民経済上の損失をへたうえで,立証されることになる2)。
 もともと榎本や野呂は,当初から本格的な銑鋼一貫製鉄所を予定し,しかもその長期にわたる国営を堅持するという考えではなかった。民間に鉄鋼業が起るまで,「止ムヲ得ズ之ヲ官設ト為ス事」を,榎本は「製鉄所設立意見」にのべている。その草稿を書いた野呂は,「製鉄所ハ宣シク国民共同ノ所有トシ,農商務大臣ノ監理ニ付シ,鋼及ビ錬鉄ヲ製造スルヲ目的トシ,其ノ原料タル銑鉄等ノ製造ハ,之ヲ民業ニ委スベシ」といっている。官営製鉄所はまず製鋼部門に重点をおいて,関連工業を起すこと,そのためにすでに発達しつつある民間の釜石や中小坂の製鉄業(高炉技術)あるいは古来の山陽・山陰地方の砂鉄製錬業(伝統的なたたら技術)との共存をはかることが意図されたのである。
 野呂は官営製鉄所設立案に付した「諸器械説明」にこうのべている3)。
 銑鉄ハ成ルベク民間ヨリ買上ル目的ナリ。尤モ今,釜石及中小坂ヲ除キ,他ニ此業ニ従事スルモノナキガ故ニ,銑鉄供給不十分ナリト雖モ,一度政府ニ於テ製鉄所ヲ設立スル事ニ決定セバ,民間ニ此業ノ発達スル事,疑ナカルベシ。然レドモ,若シ着手後1ヵ年ヲ俟テ,尚ホ民業ニ委スル事能ハザル事ヲ知ル場合ニ於テハ,更ニ銑鉄工場ヲ起シ,特質ヲ要スル『ベスメル』鋼ノ原料ノミヲ製造スル見込ミナリ。然レ共,漸次民業ノ発達スルニ到テハ,銑鉄製造ヲ止メ,諸器械ハ之ヲ其ノ儘利用シテ,更ニ民業トシテ成立シ難キ鏡鉄,満俺(マンガン)鉄及ビ硅素鉄等ノ鎔製ヲ開始スル目的ナレバ,銑鉄工場ハ成ルベク小規模ノモノトス。
 要するに,政府主導のもとに製鋼業を起すことは,民間に諸工業が起ることでもなくてはならなかった。と同時にあくまでも「小規模ニ計画シ,漸次拡張スベシ」という方針が,まず打ちたてられたのである。
 第9議会で可決された時点での官営製鉄所の計画規模は,鋼材および錬鉄材年産6万トン(需要のおよそ2分の1)であり,その主要設備としてはベッセマー転炉7トン炉2基,シーメンス・マルチン平炉15トン炉4基,ルツボ炉1基,錬鉄炉0.3トン炉6基,各種圧延機9組などのほか,付帯的に60トン高炉3基およびコッペー式コークス炉80基などの製銑設備が計画された。野呂はすでに釜石鉱山田中製鉄所において,1894年から95年にかけ,わが国最初のコークス高炉法を確立させた冶金技術者である。したがって,かれの計画では注目すべきことに,たとえば製銑設備の大半はすでに国産をもってあて,一国の製鉄所の建設は,同時に自国の機産業,建設産業などの発展につながるべきであるという思想がみられる。
 ところが日清戦争を契機とする国情の変化,さらに足尾鉱毒事件の責任を負った榎本武揚の農商務大臣辞任(1897年3月),東京市水道鉄管疑獄事件のまきぞえをくった野呂景義の帝国大学教授兼農商務技師辞職(96年3月)といった先駆者たちの個人的不幸,なお19世紀末における欧米鉄鋼業の急激な躍進,等々が主な原因となって,官営製鉄所の建設は,榎本・野呂の路線で遂行されることは,現実化されなかった。ヨーロッパ,わけてもドイツ鉄鋼技術への全面的依存,そしてこれまでの計画よりはるかに大規模な,鋼材年産9万トンを目標とする「銑鋼一貫製鉄所」建設へと,切り替えられたのである。
 新しい計画は,ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社に,その設計が委嘱された。初代製鉄所長官山内堤雲(わずか1年3カ月在任で,和田維四郎と交代)と初代製鉄所技監(技師長)大島道太郎らは,1896年に製鉄所の立地を筑豊炭田を背後にひかえる北九州の八幡村に定めると,翌97年つぎのような創業方針を決定した。
 製鉄ハ本邦創始ノ事業ナルヲ以テ,技術官ヲ欧米ニ派遣シ,各国工場ヲ巡視シ,其信用確実ナル製造者ニ就キ,本邦製鉄事業ニ適セル機械,其他ノモノヲ供給セシメ,兼テ熟練工師ノ選抜及ビ本邦技術者ノ養成ヲモ委託シ,一ツハ本邦ニ於テ実地製鋼ノ技術ヲ伝習シ,一ツハ外国ニ在テ彼レガ秘術ヲ修得スルノ必要アリ。
 そのころドイツの鉄鋼技術は,アメリカとともに,産業革命の祖国イギリスの水準を追いこして,躍進の一途にあった。そのうえ,量産の国アメリカとちがい,ドイツは多品種少量生産という需要構造の面で,日本との相似があった。こうして大島技監――かれもまたフライベルク鉱山大学の出身者である。ただ非鉄冶金学が専門であった――を団長とする欧米鉄鋼事情視察団の一行は,官営八幡製鉄所のために「最モ好キ,且ツ最モ新ラシキ計画」をなし得べきものと考えて,主要製鉄設備の購入をすべて前記グーテホフヌンクスヒュッテ社に求めることとしたのである。鋼材年産9万tの新計画は,溶鉱炉165トン炉2基,コークス炉(コッペー式)200基,ベッセマー転炉10トン炉2基,シーメンスマルチン平炉25トン炉4基,圧延機(分塊・軌条・大形・中形・小形・薄板・中板用など)計22組などと決定された。
そして,これら機械装置の購入の見返りとして,10名の少壮の冶金・機械・化学技術者たち(大半は帝国大学工科大学出身者)が,ドイツ製鉄所の生産現場で実地訓練を受けることとなり,「海外製鉄練習生」として渡欧した4)。
 鋼材9万トンの生産規模は,今日からみれば一製鉄所の数日間の数量にもみたないが,民間製鋼工場は皆無で技術水準は低く,関連産業の未発達の当時としては,じつは実力をはるかにこえたものであった。問題は個々の機械・装置の大小ではなく,それらを駆使し,みずからの生産技術として自立・定着させることである。《小さく生んで大きく育てよ》――工業近代化の初期段階においては,これが技術史の立場からみた歴史的真理である。不幸なことに,官営としての会計法の枠にしばられ,予算の配分を誤まり,設備購入計画のズサンなことも加わって,新鋭ドイツ製鉄設備の導入は,大幅な支障を招来する。
 たとえばドイツ式160トン高炉(内容積494m3)は完成しても,その燃料(還元財)供給源としてのコークス炉は建設予算がなくなって,筑豊の三池コークスの購入や簡単なビーハイブ式コークス炉の建設をもってあて,とにかくに1901年2月,製銑作業を開始する。あるいは,分塊圧延機の完成がおくれて,同年5月,分塊作業なしに中・小形圧延機の運転を開始する。これに加え,高炉自体・平炉自体の設計が,「本邦産の原料に経験なき外国人」の手になるものであったから,技術上の失敗が相つぎ,ことに高炉のごとき,1902年7月についに中止のやむなきにいたった。この失敗とその科学的批判にもとづく技術自立の過程については,すでに別稿『日本鉄鋼技術の形成と展開』(HSDRJE-8J/UNUP-28)に詳述したところである。しかしここで,ふたたび技術指導の中心となって,八幡の製鉄技術を成功に導いた野呂景義が,『鉄と鋼』(1915年第10号)につぎのように指摘していることを銘記しておくことは大切であろう。
  世人は製鉄所の成績をみて製鉄事業は難業なりとするも,製鉄業は適当の原料と人と機械と資金とを以てせば,決して世人の信ずるが如き難業にあらず。……不成績の原因は職工の未熟にありと云ふと雖も,余は之に同意する能はず。
 問題は原料と人と機械と資金とのバランスにある。官営八幡製鉄所の創業は,さきにのべたように,たしかに近代日本の鉄鋼労働力が形成される原点であった。しかし,もし榎本・野呂ら初期計画時の近代化路線が貫かれ,たとえば高炉技術とその設備は民間の既成の製鉄所の活動が尊重され,官営製鉄所は日本でまったく未開拓の製鋼・圧延分野に力点が置かれ,こうしてしだいに工業化の歩みを進め,技術的力量を蓄積してゆくのであれば,鉄鋼技術の発展と労働力との対応は,もっと円滑な道を進み得たはずである。
 くりかえし言うが,第9回帝国議会に提出された官営製鉄所設立計画における「製鉄所ノ組織」と題する原案では,徹底して技術・経済の実際経験を重んじ,陸軍,海軍および鉄道という当時の最大需要先との連繋をはかり,また俸給基準に官等でなく,職務の軽重をあてるなど,今日の視点においても全く注目すべき技術思想が打ち出されていた。官庁予算の制約から製鉄事業経営が自由であることを目的に「特別会計法」という法律のわく組さえ考慮されていた。参考までに紹介しておこう5)。
 製鉄所ノ組織案(1895年)
 製鉄所ニ左ノ役員ヲ置ク。
 所長 1名 技監モシクハ勅任官ニシテ,技術ニ経験アルモノ
 技術部長 1名 技監モシクハ技師
 財務部長 1名 勅任官モシクハ奏任官ニシテ,会計法及ビ商業ニ経験アルモノ
 評議員 3名 陸軍,海軍及ビ鉄道局ノ高等官ヲ以テ兼任セシム
 技師 6名
 技手 25名
 雇 20名
 右ノ外,外国雇職工長 3名
 役員ノ俸給ハ職務俸ニシテ,官等ニ依ラズ。職務ノ軽重ニ従テ,之ヲ定ム。
 製鉄事業ノ経営ハ,別ニ定ムル所ノ特別会計法ニ拠ル。
 このような技術や産業の実際経験を重んずる考えは排除され,1896年3月に制定公布された製鉄所官制では「長官ハ勅任トス。農商務大臣ノ指揮監督ヲ受ケ,所中一切ノ事ヲ掌理シ,所属職貝ヲ監督ス」となって,職務給や特別会計法等の観念もまた消える。製鉄所のような作業官庁においても,技術を軽視し,形式的な身分・職階制を重んずる明治絶対主義政府の行政機構が適用されることとなったのである。
 たしかに官営八幡製鉄所の創業をもって日本の重工業化は始まり,その技術的発展と労働力の創出は,わが国産業経済のうえに,また民間製鋼業の育成のうえに,大きな役割をはたすことになる。しかし技術者,技術思想を尊重しない官僚機構のもとで運営されたことは,同時に鉄鋼労働力の形成にとって,少なからぬマイナスの面をともなったことは,認めざるをえないであろう。

2 人をつくらばその人工業を見出すべし――工業教育機関の整備

 レオナルド・ダ・ビンチの有名なことばの1つに,「理論は指揮官であり,実践は軍勢(兵士)である」がある。私の本稿におけるテーマは,官営八幡製鉄所を中心とする鉄鋼労働力の形成であるが,理論と実践とが切りはなせないように,労働力の創出がそれに対応して生れる技術者,すなわち実践の指揮官としての技術者は,どのように近代日本において形成されてきたか,――この問題を考えるみる必要があろう。
 わが国における近代工学教育組織の発端は,明治政府のなかの工部省という工業を管掌する部局がイギリスの機械工学者W.J.M.ランキンの門下H.ダイアー(1848-1918)を校長に招き,1873年に開校した工学寮(1877年工部大学校に改組)である。ダイアーの目標は,恩師ランキンの理想に沿って「ヨーロッパ大陸の工学理論とイギリス技術の達成」を,「英語ではじめて統一,体系化」することにあったといわれ,かれみずからイギリスにも存在しなかった意欲的な構想を,Engineering CollegeあるいはImperial College of Engineeringという用語で示している。当初は土木・機械・造家・電信・化学・冶金・鉱山の7科から成る6カ年制(普通教育2年,専門教育2年,実習教育2年)のCollegeで,学識ある専門職としての「工業の士官」を育成することが目指された。
 この大学をはじめに企図したのは,吉田松陰門下の長州藩士伊藤博文および山尾庸三で,1863年に向けイギリスに向け密出国しロンドンのマセソン商会に支援をうけた関係から,同社の斡旋でダイアーらお雇い教師の招聘となったのである。グラスゴー大学で工学を学んだ経験のある山尾は1871年4月,「広ク工業ヲ開キ大ニ国益ヲ起スハ,各科ノ工業ニ精達スル者ヲ成立スルヲ以テ基本トス」と,はやくも工学寮設置を当局に進言し,同年8月には工学頭に就任し,その実現を促進している。山尾はこの関係から,のちにわが国最初の全国的な総合工学会である「工学会」の初代会長に選ばれるが,日本工学会100周年にさいし,かれがつぎの信念をもって近代技術教育を創始したことが明らかにされている。「工業なくも,人をつくらば,その人工業を見出すべし」と。
 1871年当時,さしたる工業もないのに工学校建設は不要であるとの反対が強いなかにあって,まず技術者の養成を通じて西欧の技術を自主的に導入消化しようとする姿勢を堅持したことは,注目してよいであろう。
 なお,この工学寮の新設は,かつて(1858年1月)釜石鉄山に洋式高炉を建設し,近代製鉄技術の源流を導いた洋学者大島高任(1826-1901)の「坑学寮建設に関する意見」(1870年)に基づくともいわれる。かれはすでに1861年には洋学教育機関「日新堂」の建設を,みずからの属す南部藩の藩主に提出し,医学・工学・産業などを総合する技術教育を推し進めた(のちに日本の近代物理学を推進した理学博士田中館愛橘,国際人として知られる農政学者新渡戸稲造らは,その出身である)。
 高任はまた翌1862年,幕府から北海道の箱館奉行勤務を命じられると,同時に「坑師学校」を起し,現場において採鉱冶金技術教育をはじめている。さらに注目すべきは1863年,①教育,②軍備,③産業,④財政の4分野に関し「藩政改革」の上申書を藩主に提出し,その根底に総合技術教育を据える学校の設立を唱えた。実現はされなかったが,専門学校として,陸軍学校,海軍学校,工作学校,坑山学校を提唱し,工業だけでなく農業の近代化をも目ざし,「工・農の両全」をはかるものとしての「工作学校」を構想している。「百工利用の器械,百物製校の良法,農具の便利等を考へ,農を勧め,工を励して産物を興すの法より,山野を墾し港を開き,水道を利し橋梁を架し,道路を修め家屋を造り,城畳を築くの法等」を修業させるという先駆的な計画である。
 私たちは明治維新のまえに,すでにすぐれた教育立国論が,製鉄技術の実践家によって起っていることを,認識しておいてよいであろう6)。
 大島高任の属した南部藩は,明治維新のさい,反官軍,つまり薩長連合軍に対抗した側であるが,新政府を主導する長州の有名な教育者,松下村塾の主宰者吉田松陰(1830-59)は,たんなる尊王論の思想家でなく,工業教育について注目すべき識見をもっていた。かれは,『幽室存稿』という手稿に,「学校ヲ論ズ,付,作場」と題する一種の技術教育論を展開し,工作場を連繋させた学校の必要を説いている。
前記山尾庸三や伊藤博文は,松陰の門下であるから,その思想を工学寮において現実化させたと言えなくもない。松陰はいう。
 人材ヲ聚メ,国勢ヲ振フハ今日ノ急務タリ。而シテ人材一タビ聚マレバ,即チ国勢振フヲ期セズシテ振フ。……人材ヲ聚ルハ其品ニ随ツテ之ヲ叙用スルニ若クハナシ。故ニ余ニ策アリ。一ニ曰ク学校ヲ奮フ,二ニ日ク作場ヲ起ス。
松陰はこう言って,――人材巳ニ衆ケレバ,之ヲ学校,作場ニ置キ,然シテ後ソノ実材ヲ実能ニ科シ,宣シキニ従ッテ之ヲ叙用ス。……一器一芸,其ノ妙ヲ得,カクノ如クシテ国勢ノ振ハザルモノ未ダコレアラザルナリ。
と結ぶ。実践と理論とを結びつけ,一器一芸に秀いでた人材をつくることが,国を発展させる基本だというわけである7)。
 このようにして西の長州(いまの山口県),北の奥州(いまの岩手県)でも,近代化の基礎としての工業教育・技術教育の環境がすでに1850年代・60年代から整えられつつあり,その一つの到達点が工部大学校であったことは,理解されてよいであろう。
 いっぽう,徳川幕府によって,1855年,欧米の科学技術,ことにオランダに代表される科学技術を積極的に摂取するため,長崎に海軍伝習所が設立され,幕臣および諸藩の武士から学生が選抜され,オランダの海軍士官・技術官たちによる近代科学技術教育が開始されていた。これはペリーの率いる米艦隊の来航を機に,幕府が長崎奉行を通じてオランダ商館長に蒸気軍艦の建造を申し入れ,その操艦訓練のために,オランダ軍人・技術官の日本への派遣を要請したことが,その発端である。さきにあげた榎本武揚は,この長崎海軍伝習所の2期生で,卒業後1858年幕府の海軍操練所教授となり,1862年にはオランダに留学,海軍諸技術のほか,機関学・砲術・造船学・測量術を学び,67年帰国後は幕府海軍の重鎮となった。明治維新のさい,新政府に挑戦した人物であるが,その国際的教養と,科学・技術に対する深い力量の故に,いわゆる薩長藩閥政府のなかに,やがて逓信・文部,さらに農商務大臣として迎え入れられたのであった。
 さて,長崎海軍伝習所と前後して,1856年には,かつて天文方として出発した幕府の洋学所が蕃書調所となり,江戸(東京)でもヨーロッパの近代科学技術の摂取のための研究教育機関が発足する。もっとも,実験や演習の指導者がいなかったから,じっさいの技術教育は力弱いものであった。
表1 1887年における工業教育機関の概要
しかし,この蕃書調所が明治維新ののち文部省に属して開成学校となり,やがて1877年東京大学理学部となる。数学・生物学・物理学・化学などの諸学科のほか,工学関係学科をもつのがその特徴で,さきにのべた野呂景義は採鉱冶金学科1882年の卒業である。そして,1886年,東京大学理学部の工学関係諸学科(当時工芸学部とよんだ)と工部大学校とは合併して,新発足の帝国大学の工科大学となる8)。
 まず高等技術教育機関が明治政府の中で完全に制度化されたのである。
 帝国大学工科大学を頂点に,近代日本の工業教育機関はどのように整備されたか。
いま1887年という時点をとって,その年に存在し,あるいは計画されていた諸機関のリストを示すと,表1のとおりである。
 広島大学の三好信浩教授は,この表に即して,1887年にいたるまでの10年間の動きをつぎのようにまとめられている9)。
 ① 大学水準の工業教育は,帝国大学工科大学に統合され,文部省の管理下に置かれたこと。
 ② 東京職工学校が設置され,工業の専門学校へ発展したこと。
 ③ 札幌農学校において,農・工の専門教育が併存するようになったこと。
 ④ 織物工業地帯に同業組合による染色教育機関が成立し,中等工業学校の芽が出たこと。
 ⑤ 商工徒弟講習所が成立し,徒弟学校の芽が出たこと。
 ⑥ 工部省の修技校が逓信省の技術者養成のための学校教育へと発展したこと。
 ⑦ 民間有志の寄付金によって,私立の工手学校が設立されたこと。
 上記のうち東京職工学校は,はじめは地方の工業の実態に即した各種の職工学校のモデルとなることを期待されて発足したものであるが,高等専門教育への傾斜を強めると,織物工業地帯の染色講習所が公立の中等工業学校のひとつの源流となった。補助技手を養成するという目的にちなんで,その名称のついた1878年の工手学校は,私立工業学校の発端である。しかし,農業や商業にくらべると,工業の中等教育楼関は大幅におくれ,1891年12月に文部省専門学務局の調査した『公私立技芸学校一覧表』によると,公立学校25校のうち,商業は12校,農業・獣医・蚕糸・牧畜などは計11校であるのに,工業は美術・工芸関係中心の石川県工業学校ただ1校のみであった10)。
 木工や金工のほか機械や化学技術方面の学科をもつ工業学校が設立されるにいたるのは,1898年創立の佐賀県工業学校以後,つまり官営八幡製鉄所の建設がはじまり,日本の重工業化への胎動が大きくなってからである。
 「人をつくらば,工業を見出すべし」と唱えた山尾庸三のことばのとおり,明治維新後の工業教育は、まず工業人材育成の政策方針にもとづいて,トップレベルの大学水準の教育機関が整備された。これは農業や商業が高等教育の中に組みこまれるよりも,はるかに先であった。しかし,中等教育段階では,農業・商業部門がまったく先に成立した。ここには日本の工業教育のもつ特殊性がよく示されており,鉄鋼労働力の形成に対しても少なからぬ影響をもつことになる。
 三好教授も指摘するように,「工業教育が高等段階から初等段階へと順次下降していったこと」は,「それぞれの段階の教育が,自己充足的な完結性をもっていて,上下の連結がなされなかったこと」と結びつき,下方の教育機関の出身者をいわば「袋小路」に置き,階層化のもとに上は下を蔑視する傾向を生み出したのである11)。
 1910年,官営八幡製鉄所に設置された幼年職工養成所は,一般の工業学校における技術教育の批判のうえに,積極的に鉄鋼業の技能労働者を創出しようとして発足したものであるが,すぐれた成果を示しながら,国営のゆえに上記のような制度的構造から例外であることはできなかったことはいうまでもない。

3 近代鉄鋼労働力の形成――1920年代の到達点

 官営八幡製鉄所は,①軍用鉄材の供給,②普通の鉄材(鉄道・造船・機械等)の供給,を設立目的として,つぎの条件にもとづいて,1897年にその位置が決定されたものである12)。
 ① 軍事上防禦ノ完全ナル区域内タル事
 ② 海陸運搬ノ便利ナル事
 ③ 原料供給ノ便利ナル事
 ④ 工場ニ要スル水料ノ存在スル事
 ⑤ 職工ノ募集及ビ工場用品ノ供給ニ便利ナル事
 ⑥ 製品ノ販売ニ便利ナル事
 はじめ製鉄所設立候補地として選定された地域は,①東京横浜地方,②大阪神戸地方,③尾ノ道三原海峡,④広島呉海峡,⑤門司馬関(下関)海峡,であった。そのころ石炭は高炉用コークス以外に,すべての加熱炉および圧延用動力のエネルギー源として使用するものであった。製品年産6万トンの場合,鉄鉱石12万トンに対し,石炭は24.5万トンの多量が見込まれた。したがって,立地上の優劣の比較点は,「防禦完全ニシテ海港運搬ノ便ヲ有シ,石炭ノ供給ニ便ナル地」にしぼられた。これに対し,1890年代における日本の石炭生産のうち,ほぼ5割は筑豊炭田(北九州)によって占められ,その発展を支える輸送手段として筑豊炭鉱鉄道および九州鉄道などの民間鉄道業がほぼ完備し,1901年には東海道線(官営)および山陽鉄道(民営)と,北九州とは関門連絡船を通じて結ばれるところまできていた。これが関門海峡地域に属す八幡村が最終的に選ばれた最大の理由である。石炭立地であって市場立地ではない13)。
 したがって東京横浜あるいは大阪神戸地方のように,すでに工業化がある程度まで進んでいる場合とちがい,工業に経験ある熟練者を労働力に求めることは当初から不可能であった。わが国には古来“たたら製鉄″とよぶ地場製鉄産業が中国地方(ことに島根・鳥取・広島県)に発達し,1894年に釜石鉱山田中製鉄所における高炉製鉄(鉄鉱石の製練)に追いこされるまで,日本の鉄鋼生産の中心的存在であった。しかし,「村下(むらげ)」とよばれる作業長をはじめ,労働と職能は大体世襲制であり,鉄山師とよばれる大地主の保護のもとに「山内(さんない)」という特殊の村落を形成して居住し,賃金形態も米・みそなどの現物支給を主軸としたから,労働移動は望めなかったうえ,製銑技術システムそのものが,銑鋼一貫工場のごとき近代経営に対応し得るものではなかった14)。
表2 釜石鉱業所直轄夫の出身地方
 いっぽう,鉄鉱石立地にもとづく民間最大の高炉メーカーとしての上記釜石鉱山田中製鉄所にしても,1901年にはすでに約1万5000トンほどの銑鉄を工業的に生産していたが,製鋼および鋼材生産は未着手のうえ,距離的に北九州と東北地方とでは離れすぎ,労働者の交流をはかることは可能の状況にはなかった。労働市場はまだ地域性に強く拘束されていた。たとえば1925/26年期の調査結果をまとめた『釜石鉱業所施設概要』によって,釜石製鉄所(鉱山部門を含む)の常雇いの職工・人夫の出身地方をみると,表2のとおりで,これにつぎのような付記がある。
  総員ニ対スル7割5分ハ岩手県デ,1割6分ハ宮城県デ,其余ノ1割ガ其他ノ府県ニナッテ居ル。
表3 官営八幡製鉄所職工出身地(原籍)別人員調
表4 官営八幡製鉄所における九州・中国地方職工数の比重
 尤モ此ノ調査ハ本籍地ニ就テ調査シタノデアルカラ,若シ出生地ヲ基礎トシテ調査シタナラバ,8割乃至9割位ハ岩手県ニ編入スベキデアラウト思ハレル。
 釜石鉱山近辺の山岳地帯では,農閑期の「副業」として進んで鉱山業に従事しうる状況があった。さらに,いったん従事すると,安定性の面や他に適宜に変わるべき職業がないことから自由に出ることができないという状況があったと考えられる15)。
 すると,官営八幡製鉄所の鉄鋼労働力はどのように形成されたのであろうか。
 創業期の鉄鋼生産を担った労働者たちの多くは,北九州を中心に関門海峡周辺の農民(ことにその次,三男以下)で,このほか炭坑労働者(ことに鉄道開通によって遠賀川沿いの水上輸送から職をうばわれた者)から転じた体力壮健の未経験者が加わり,建設工事に従事する過程で機械作業などを習得し,やがて作業部門に転用されるというかたちであった。
 「人をつくらば工業起るべし」ではなく,「製鉄所をつくらば労働力起るべし」である。
 常勤職工の出身県別統計は,残念ながら古い資料を欠くので,表3,4によって1920年代における状況をみよう。この時点で九州が約80%で第1位,中国地方が約12%で第2位であるが,さらに詳細にみると,九州地方でも福岡県が4割強で他を圧倒し,ついで大分・熊本・佐賀各県の順,その次は関門海峡をはさんで対岸の山口県となっている。この状況は1901年の創業当時とほぼ同様であると考えてよいであろう(この統計には臨時雇いの要素をもつ職夫は含まれていない)。
 そして,この調査の時点では表5,6にみるごとく,すでに勤続20年以上に達した職工が2~6%存在する。かれらは創業期にドイツから雇用された十数名の職工長および熟練職工,ならびに釜石鉱山田中製鉄所から選抜派遣された「笹山兵二郎」以下10名の高炉職の現場指導のもとに,日本人技術者と対応しつつ,直接に実地作業に習熟し,次代を訓練しうる幹部職工へと成長し,鉄鋼労働力の重要な担い手となったのである。
表5 官営八幡製鉄所職工勤続年数別人員調
表6 官営八幡製鉄所職工年齢別人員調
 1920年代に日本の産業構造は,農業を中心とする型から,工業を中心とする型に変容をとげている。この時代はちょうど官営製鉄所の直接・間接の指導のもとに民間製鋼業,いわゆる平電炉メーカーが,京浜・阪神・東海等の各地方に確立された時期に当る。1人当り鋼材使用量も,八幡の創業時(1901年)にはまだわずか5キログラム台であったものが,この時代に一躍20-30キログラム台へと上昇している。
私たちは鉄鋼業の分野からみても,1920年代に日本は工業化を原動力とした経済的離陸期を迎えたと考えてよい。
表7 官営八幡製鉄所職工教育程度別人員調
 これを官営八幡製鉄所労働力においてみるに,表5のとおり平均勤続年数5年10カ月(1924年)ないし7年9カ月(1929年),5年未満はかつては半数を占めたものが4割を切り,年齢層も40歳以下20歳以上が7割台を占めるという,きわめて安定した段階に到達していることがわかる。教育程度の面からも,表7のように義務教育修了者が90%をこえ,わけても今日の中学校に当る高等小学校卒業者が全体の40%に達していることは,職工の質的水準の高さを示すものと考えてよいであろう。

4 日本人技術者の力量と役割――ドイツ人技師重用の失敗

 ここでふたたび官営八幡製鉄所の設立過程において示された鉄材(鋼材および錬鉄材)年産6万トン計画時における技術指導者,工学博士野呂景義の工業化段階論をふりかえってみることにしよう。「先ヅ小ヨリ始メ,漸次大ニ移ルノ得策ナル」ことを榎本農商務大臣とともに主張したのがかれであった。かれは「製鉄ノ程度及ビ創業ノ順序ニ関スル件」という1895年の草稿において,その技術的根拠を3点ほどあげ,つぎのように指摘する16)。
 第1,大事業を起すには,もちろんこれに応ずべき大資本を要する。その資本は主として機械の購入に使用するものである。しかるに「製鉄業ハ我国未ダ経験ニ富マザルガ故ニ,創業ノ時ヨリ直ニ多額ノ産出ヲ望ムベカラザレバ,大資本ヲ投ジテ購入シタル機械モ,此ノ間,唯其ノ一部ヲ使用スルニ止リ,悉ク之ヲ活用スルノ途ナク,随テ資本ノ大部分ハ不生産物トナルノ不利益アリ」。
 第2,製鉄所は規模の大小を論ぜず,その製出する鉄類はほぼ同一であって,そこに備えつけられる機械の種類に相違あることはない。ただ大規模の場合は,同一の機械を多数に要し,小規模の場合は,これを要することが少ない。だから両者の差異は,おもに機械の数にあって,その種類にあるのではない。そのうえ「製鉄用ノ機械ハ我国未ダ之ヲ製造スルノ経験ニ乏シク,且ツ製造ニ供スベキ材料不足ナルヲ以テ,機械ノ大部分ハ之ヲ海外ヨリ輸入セザルヲ得ズ」という状況にある。これに対し「今創業ノ規模ヲ小ニスルトキハ,先ヅ之ニ要スル少数ノ機械即チ機械各種ノ模範ヲ輸入シ,他日事業ヲ拡張スルニ至リテ,我製出スル材料ヲ用ヒテ,此模範ニ従ヒ,自ラ之ニ要スル機械ヲ製作スル事容易ナリ」。こういう利点がある。
 第3,諸製造事業の経験によると,その事業のためにはじめて設置した機械は,これを使用するにしたがって往々その不完全の点を発見することがある。だからもし,「当初ヨリ大業ヲ企テ,一時ニ多数ノ機械ヲ購入セバ,後日其ノ全部,若クハ一部ニ多少ノ改造ヲ加ヘザルヲ得ザルニ至ルナキ」を保し難い。これに対し,「先ヅ少数ノ機械ヲ以テ業ヲ創メンカ,能ク之ニ依テ経験ヲ積ミ,事業ノ拡張ニ際シ充分ノ改良ヲ加ヘテ,以テ新ニ完全ナル機械ヲ製作スル事ヲ得ベシ」。
 野呂がこのように漸進的な,しかも産業連関論的にみても,労働力の形成のうえからいっても,きわめて正当な自主技術思想を,官営製鉄所の計画時に打ち出すことができたのは,榎本農商相の産業政策と,かれの技術学的識見とが相まって,じつは1895年までの間に,多岐にわたる製鉄工業化試験を門下たちと共同して,農商務省内に設置された製鉄事業調査会において積み上げていた故である。
 1890年,野呂は深川骸炭製造所でわが国原料炭の性状にもとづくコークス製造のため,配合技術に先鞭をつけ,粘結性の弱い日本の石炭の有効利用によるコークス技術を開始し,やがて釜石鉱山田中製鉄所で,日本最初のコークス高炉法を確立させた。ついで,95年には同所でpuddling法によって粗製錬鉄を,直接還元法によって海綿鉄をつくり,鉄くずの絶対的な不足に対処して,廉価に製鋼材料を得ることに成功している。
 1892年,野呂の工科大学における教え子,今泉嘉一郎(官営八幡製鉄所初代製鋼部長,のちに日本鋼管取締役技師長,工学博士)は,農商務省技師補として,別子銅山の含銅硫化鉄鉱から銅をとり,その残滓を焙焼して高炉用製鉄原料とする試験研究を完成し,あわせて硫黄という煙毒源の対策技術として硫酸製造の道を開いた。
さらに94年には砂鉄を利用して錬鉄をつくる工業化試験を実施している。
 1895年,農商務省技手の金子増耀――大学出身でないため技術的実力を備えながら永く高等官に任官できなかった――は,東京砲兵工廠の小型平炉を用い,製鋼用錬鉄の代用として砂鉄を利用する「製鋼新法試験」を実施し,あわせてドロマイト煉瓦など,炉体材料の開発とその交換方式を打ち出した。
 さらにこのような成果のうえに立って,1895年秋,野呂たちは,釜石鉱山田中製鉄所に残存する旧工部省時代のイギリス式圧延機を修理復活し,自分たちで試製した鋼塊や粗製錬鉄を鋼材に仕上げた。「レール,板鉄,丸鉄,角鉄及び平鉄」の5種,製品の総計約5トンであるが,じつに1901年の八幡創業に先立つこと6年,かれらは自まえで鋼材をつくり上げるところまで,自主的に技術開発を行なっていたのである。この時,釜石の現場を訪れた榎本農商相は,その見本を本省に陳列し議員はじめ官民の名士に公開したのであった17)。
 第2章にみたように日本の工業教育制度は帝国大学工科大学を頂点に,多分に゛断層的重層性″という特異さをもつものであったが,1890年代までに,とくかく日本人技術者みずからの力で製鉄所を計画し,工業化試験を実施するところまで力量を蓄積していたのである。この過程は同時に自まえで技術上の蓄積と鉄鋼労働力の熟練層を築いてゆく過程でもあった。さきに紹介した野呂原案の「製鉄所ノ組織」(1895年)に,技術経験ある所長のもとに技師および技手を配し,そのほか「外国職工長」3名を雇うことが計画されているのは,あくまでも製鉄所運営は日本人技術者が指揮し,このもとに熟練した職工長を配して,労働者の訓練に当らせることを意味している。野呂門下の今泉嘉一郎が,のちに民間最大の製鋼会社として日本鋼管を創業(1912年)し,マンネスマン式鋼管製造という新技術分野の開拓に成功したのが,この方式である。また1880-90年代の日本の鉱山業で住友が別子銅山の近代化に成功したのは,外国(フランス)技師に計画は依頼しても,その経営の実権は鉱山の実際に明るい支配人(広瀬宰平)がしっかりと把握していたことによる18)。
 しかるに1901年,官営八幡製鉄所は創業時にどのような方式をとったか。ドイツの医学者で,日本における近代医学の開拓に功のあったE.ベルツは,その日記,1900年1月2日の項につぎのように書いている。
 先日,汽車の中で和田に出会った。和田は九州にある大製鉄所〔官営八幡製鉄所〕の管理をやっていたが,大胆にも,ドイツ人技師に権威をもたせて,日本人の上に立つようにした。これは普通日本で盛んに行われているやり方とは正反対である。どうか,よい体験を得てほしいものだ!」(ドク・ベルツ編『ベルツの日記』岩波文庫新版,上,191ページ)
表8 官営八幡製鉄所に雇用されたドイツ人技師および職工長一覧
 結局ドイツ設備の全面的導入にふみ切った八幡製鉄所は,表8に示すように,総数16名の職工長および職工のほか,製銑・製鋼・圧延技術をそれぞれ統括する3名の主任技師を雇い,このうちさらに1名を顧問技師兼作業長として,作業全部にわたる監督指揮を委任したのである。残念ながら,和田長官やベルツの期待に反して,このやり方は作業開始とともに失敗であることがすぐわかった。職工長たちは豊かな経験をもって,日本の技術者および未経験労働者たちを納得させたが,主任技師たちの学力および技術は,日本の技術者たちを決して心服させるものではなかった。和田長官は,作業開始後わずか2カ月の1901年4月5日付で,時の農商務大臣(林有造)あて外人技師の職務と技術管理システムの変更を上申せざるを得なかった。かれは「外国技師傭聘以来,其ノ技倆及ビ執務ヲ看,当外国技師ト本邦技術官及ビ職工等トノ関係ヲ観察スルニ,大ニ予想ト反シ,単リ予期ニ副ハザルノミナラズ,永ク現状ヲ将来ニ維持セントセバ,却テ一大禍害ヲ醸スノ虞アルヲ認ム」とのべ,その理由として,つぎの7項をあげている19)。
 ① 当所各工場ノ設計ハ,海外ニ於テ最モ著名ナル専門家ノ考案ニ成リ,諸般ノ機械及ビ装置ハ,経験上至便ノ方式ヲ執テ実行シタリ。
 ② 外国技師ハ実地経験ニ於テハ,或ハ本邦技師ヨリ優レリト雖モ,其学力及ビ大体ノ技倆ニ於テハ,本邦技師ヲ心服セシムルコトヲ得ザルヲ以テ,実際本邦技師ヲ指導,若クハ指揮スルノ実力ナキコト。
 ③ 言語不通ノ為メ,技術官及ビ職工等トノ交通不便ニシテ,事実ノ齟齬,若クハ時期ヲ失スル等ノ弊アルコト
 ④ 外国技師ト本邦技術官及ビ職工トノ間,異人種上ノ感情ヨリ互ニ猜疑ヲ生ジ,円満ナル協和ヲ欠クコト
 ⑤ 外国技師ノ其部下タル本邦技術官ノ待遇上穏当ヲ欠キ,悪感情ヲ喚起セシコト
 ⑥ 第③,第④ノ原因ヨリシテ,外国技師ト本邦技術官及ビ職工トノ間,互ニ其技倆ヲ疑ヒ,信用ヲ措カザルコト
 ⑦ 又,従来傭入レタル外国職工モ,外国技師ノ指揮ニ服従スルヲ欲セザルノ傾向ヲ生ジ,外国技師ト外国職工トノ間,亦円満ナラザルガ如シ。
 かくて外国技師と日本人技術者および職工との間の軋轢は日を追ってはげしくなり,和田長官は全力をつくしてその調停につとめたが,ついに1901年4月22日付をもって顧問技師G.トッペ(兼製鋼部技師)および製品部技師H.シュメルツェルを解雇,ひとり製銑部技師として『鎔鉱職心得』などの作業教範も書き実力のあったC.ハーゼのみをさらに1年間とどめた。同時にこのハーゼといえども大島道太郎を技術長とする日本人の技術管理のもとに置き,以後日本の技術者の指揮によってドイツ人職工長の協力をえつつ,職工の現場訓練に当らせたのである。前記の表8にみるごとく,ドイツ人職工長は大多数が契約期間を満了して帰国した。これに対し,
製鋼・圧延部門のドイツ人技師(トッペおよびシュメルツェル)は,自己の主担当作業の開始すらまたず解雇されたことになる。
 もとより建設を含む創業期における外国人技術者たちの役割を否定するものではないが,日本の労働者たちはもちろん,10名をこえる外国職工長たちも,実力ある日本の技術者のもとで働くことを好み,この体制にはいってから本格的に鉄鋼労働力の形成がはじまった。これは今日第三世界における技術近代化を考える場合,示唆に富むものといってよいであろう。

5 近代鉄鋼労働力の定着――労務管理体制の整備

 創業期の官営八幡製鉄所の歩んだ道は,以上の事実経過にみるとおり,決して平担ではなかった。経営上,技術上の欠陥,わけても当初における日本人技術者の軽視,それと裏腹の関係をなすドイツ技術と技術者への傾斜は,深刻な挫折の主要原因となった。しかし,こうした失敗経験のつみ重ねの中から,のちの発展を支える基礎が着実に築かれていった。鉄鋼労働力の形成と定着もまたその例外ではない。
 創業期の製鉄所が直面した最大の労働問題は,何としても労働力の確保であった。
釜石製鉄所や軍工廠の一部で小規模な鉄鋼の近代的生産がようやく軌道にのり出しているにすぎなかった当時の日本にとって,ドイツのグーテホフヌンクス・ヒュッテ社から最新鋭の技術体系にもとづく銑鋼一貫生産設備の大がかりな導入がなされ,わが国はじまって以来の大工場で生産作業が開始される。したがって,かかる近代製鉄作業に従事する労働者には,それなりの労働意欲,体力および技能熟練が必要であった。製鉄所の建設を知って,関門地域はもとより,各地から多数の労働者が参集したが,製鉄鋼作業に未経験であるのはやむを得ないとしても,近代的工場労働者として定着して作業を継続し得ない者が多かった。工務部長として八幡製鉄所の建設を統括した前記今泉嘉一郎は,こうした初期製鉄所労働者の状態を「出入常なきいわゆる『渡り人間』の多数を対手とする外なし」となげている20)。
 労働者自身がまた近代的労働者として十分に訓練されていないうえ,宿舎の不備など製鉄所側の受入れ体制や,本質的に不安定な建設や補助作業部門の作業量が多かったことなどが,労働者の就業状況が安定しない主な原因であった。ことに初期生産操業過程は,同時に工場の建設,諸設備の組立,整備,保全の過程とまったく重なり合うものであった。工業未開発の北九州の寒村に,突如として一大工場を建設すること自体,まず運河掘さく,築港,鉄道敷設,貯水池などを含む土地造成等々,膨大な作業量を意味した。また既成の阪神・京浜工業地帯からはるかに遠隔の地にあって,周辺に石炭・鉄道関係以外には見るべき工業をもたぬうえ,機械設備がこれまで日本に存在しないドイツ式最新鋭のものであったことは,とうぜんその修理保全から関連諸機械設備の微細な設計・製造までを所内で行なわざるを得ないという状況であった。これは今日の製鉄エンジニアリング部門の源流ともなるわけであるが,当時としては本来の製鉄鋼作業自体よりも,むしろこの分野の比重のほうが,製鉄所全体の作業量のうちで大きかったことになる。
表9 官営八幡製鉄所創業期各部別職工使役延人員
 労働力需要の内容はその生産作業の性格によって規定されるが,このように建設工事などの補助・関連部門が初期作業の大半を占めたので,「土方,鳶,製罐屋,大工,鍛冶屋等々の職人が処々方々から集って来た」。たとえば1899年(会計年度)に使役された「各種職工及び人夫」の総延数は,今泉の書いた『製鉄所建設工事概況』によると,じつに約60万人に達している。労働者の就業状態が不安定で,定着性が低かったことは,工事の進展によって作業量が伸縮的であり,熟練が横断的通用性をもつ補助的作業領域が労働力の大部分を占めた以上とうぜんの成りゆきでもあって,製鉄鋼主作業に従事した労働者まで流動的であったことを意味しない。いま1901-05年における八幡製鉄所各部別職工使役延人員を示すと,表9のとおりで,生産作業開始後もなおひきつづき工務部の比重が,かなり大きな部分を占めていたことがわかる。
 ただしこの表には製鉄所の直接の雇用による人員のみが示されており,供給人をへて間接的に雇用される人夫や,請負作業に従う人夫は含まれていない。もちろん工務部門には機械関係などの既成の熟練労働者が雇用されていたことも事実ではあるが,反面製鉄所の各部門にわたって補助労働に従事する不熟練労働者が多数雇用されていたことは,表10から明らかである。すなわち,所内雇用構造は,主作業に直接参加する労働者層以外に,①補助部門における大工,鳶などの技能者,ならびに,②製罐,鍛冶などの熟練労働者,および③多数の土木人夫などの不熟練労働者層があり,主作業部門においても,④一定の熟練を有する補助作業従事者としての工夫,ならびに⑤運搬雑役を主とする定夫などの層があったと考えられる。
表10 官営八幡製鉄所1902年における製鋼部雇用構造(直雇い常用職工)
 新しい技術体系のもとで,新しい技能を学び,熟練を身につけてゆかねばならぬはずの,製鉄鋼主作業労働者もまた就業さだかならぬ流動的性格が濃かったとすれば,問題は深刻である。しかし,1901年に,第4章にのべたような技術管理システムの方向修正があり,日本人技術者の力量がフルに発揮されるようになってから,相当数の労働者群が,かなりのテンポで所内に定着し蓄積されていった。労働者の訓練は製鉄所の困難な創業期を通じて,ことに1904年以後の技術の自立過程とともに着実に進行していった。かくて,近代工業の訓練をうけた労働者層は所内全体にわたって形成,定着していったのである。
 1909年,官営八幡製鉄所はこれら定着者に対して勤続表彰を行なった(「10年以上勤続職工特別賞与内規」1909年)。1926年時点においてこれら労働者の定着率をみると,表11のとおりで,熟練者の所外流出が激化した第1次大戦時代の民間企業躍進期の激動をへて,なお1910年以前入職者のおよそ3分の1が定着・残存している。近代鉄鋼労働力の基礎はここに築かれたといえるのである。
 もちろん初期宿泊・厚生施設の不備や,高熱重筋労働の苦痛に耐えかねて逃げ出した者も少なくなかった。基幹作業開始(1901年)にともなって新たに採用された者,ならびに建設などの工務部門から転用されて基幹作業部門労働力となった者――かれらの給源は釜石から派遣された10名の例外を除くと,つぎの4つの類型に分けられるが,いずれにせよ,製鉄機械ならびに技術体系はまったく新しいものであり,完全に未経験・未熟練者といってよかった。
表11 官営八幡製鉄所創業期入職者の第1次大戦後における企業内定着率(1925年)
しかし,大部分は伝習と試行錯誤の実地経験を積み,日露戦争(1904-05年)のころを境に作業自立をみ,外国人職工長も(転炉のマウレルを除いて)すべて帰国した時点には,すでに熟練労働者層に成長していたのである。
 ① 農地買収によって賃労働者化した八幡地区在住者
 ② 募集によって調達された近隣濃村出身者
 ③ 九州その他周辺地域から流入した未熟練者
 ④ 鍛冶などの工業労働経験者
 なお,かれらに一定の定着性がつちかわれた理由の一つは,その出身がおもに農村であったほか,製鉄鋼技術体系が他に類似のものを見ない高度に独自的なものであり,かつ同種工場はたがいに地域的に隔絶されていたから,「町工場と本当の製鉄業にたずさわった職工はちょっと違う」ことになり「帰れば百姓をするくらいでよそへ行ったところで全然役に立たん」という技能面における孤立性である。このことはさきの第3章に示した表2,表3によって,釜石と八幡の労働者出身地方別構成をみても肯定されるが,こうした定着性の根本をゆさぶったのが,第1次大戦を契機とする周辺地域の工業化であり,民間鋼業の勃興であったことはいうまでもない。
表12 第1次大戦後の労働移動率
 ただし,一般の工場労働移動率動向にくらべ,八幡製鉄所のそれは表12にみるとおり第1次大戦後,とくにその水準がいちじるしく低い。この事実は,製鉄労働者の定着志向性が,工業労働力一般に対し,格段に高いことを意味する。八幡製鉄所では,労働定着性をこれほどまでに高く維持するための制度的環境条件を整えていたことが注意されねばならない。たとえば,同所は国家的使命をおびた主導的官営工場であるゆえに,「新ニ当所ト同一種類ノ工場ヲ開始スルモノニシテ当所職工ノ転傭ヲ申出タルトキハ,一最小数ヲ限リ長官ト決裁ヲ経テ之ヲ転傭スルコト」(本所職工ヲ他工場へ転傭ニ関スル件,1913年)を認めなくてはならぬという面もあったが,自然流出に対しては通例解雇されるべき者でも特技一ある者は例外としたり(特別ノ技能ヲ有スル職工解職猶予ノ件,1908年),重工業他社27社と移動防止協定を結ぶ(職工移動予防ニ関スル件,1918年)など,極力防止につとめた。また自発退職以外の理由によって解職された職工慰労金の給与額を勤続年数に応じ,累進的に高めて勤続意欲を刺激し(職工慰労金給与内規,1907年),さらに毎年秋の起業祭当日勤続表彰を行なう(10年以上勤続職工特別賞与内規,1909年,同15年以上,1914年)など,定着化政策をきわめて積極的に行なった。
 福利厚生面における施策の展開も重視すべきである。創業当初から建設の進められた官舎施設をはじめ,共同購買会の組織で生活物資の安価販売をはじめたのが1906年であり,従業員の相互救済を目的として共済会が発足したのが1905年である。
同じ年に貯蓄組合も結成されている。これらはいずれも製鉄所の幹部職員がその役員となって運営されたのでもわかるように,企業の福利機能を実現する外延組織で,労働力の定着化政策として大きな役割をはたした。
 なお、鉄鋼技術の新しい発展と生産力の増強に対応して,質的にすぐれた若手労働力を,みずからつねに蓄積していくために,効率的な教育投資を行ない,そこで創出した鉄鋼労働力を工場内全般にわたって確保し定着させてゆくことが要請され,1910年には製鉄所幼年職工養成所が発足した。これについては次章で詳述する。
図1<主要製鉄所雇用労働者数の推移>
 以上のようにして官営八幡製鉄所における鉄鋼労働力は定着した。図1にみるように,第2次大戦前まで八幡製鉄所の雇用量は他の民間企業にくらべ格段に大きな規模をもっていたから,それは同時にわが国における近代鉄鋼労働力の創出の過程であったということができる。だが,第1次大戦後,国際的に高まった労働運動の波は日本にもおよび,1920年2月から3月にかけて,わが国労働運動史上に名高い大争議が官営八幡製鉄所におこった。そのころ物価騰貴による生活難のため,労働者たちは製鉄所内の各工場ごとに収入の増加,住宅料支給あるいは勤務時間の短縮などを当局者に要望していた。その声は大正デモクラシーの思潮,わけても普通選挙促進運動とも結びついた。
表13 官営製鉄所および付近工場待遇比較表 1919年10月調査
正義人道を旗じるしに自主的に労働組合を結成し,12時間労働制に代わる8時間労働制を基本とする労働条件の改善をはじめ,人格技術優秀な労働者の大抜擢と昇進の道の自由,不徳・無能・無用・有害無益な職員の大陶汰,労働者子弟のための文芸・美術・法津・工芸・宗教その他各種機関の設立,進歩完備せる娯楽・体育施設の設立,労働者の理想的集合住宅の建設等々を強力にうったえた。第1次大戦前まで,たとえ官僚的な身分制(職階制)によって上級職員への登用がはばまれていたにせよ,官営八幡製鉄所の労働者は,民間企業よりもはるかにすぐれた待遇によって,みずからエリートであることを誇りとしていた。ところが1919年9月現在をベースとして製鉄所当局者が同年10月まとめた資料(製鉄所及付近工場待遇比較表)においても,表13のとおりその優位さは失われていた21)。
 かくて1920年の大争議を契機として,官営八幡製鉄所は他の製鉄所に先がけて勤務制度を12時間2交替から3交替に改め,同時に労務管理体制(たとえば職場管理組織労働統括機構職場規律,指揮・命令系統など)を著しく整備,かつ強化した。
図2<第1次大戦後,官営八幡製鉄所合理化過程における労働生産性の増大>
 作業集団の管理組織としての職制機構は,第1次大戦前までは,組長―伍長―並職工という3階梯から成る形態(1907年「職工規則」によって制定)をとっていたが,大戦後の1910年1月,従来の組長のうちから個別作業集団内部の統括機構をこえて監督官の管理職能を補佐し,「工手,検査手又は助手」を兼任する「兼務組長」制を設け,さらに争議直後の同年4月には,職工昇進の最高位として雇員「宿老」制を置き,1926年にはこの宿老を所内かぎり「奏任官」扱いに高めた。同時に職工規則を改正して上級職工の準職員兼務を解き,宿老―工長―組長―伍長―並職工から成る5階層構成を確立させた。1924年に全所の労働力組織単位を115の職名に統一し,それぞれの職ごとに組・伍長を置いて職場統括組織を整備したことも,「労働密度をいちじるしく高めた。この結果,8時間労働,3直交替制実施後,雇用量の増加なしに,図2のとおり1920年の不況下の合理化過程を通じ,急テンポで生産性を増大させることができた。

6 職工養成所の成立と発展――その歴史的意義

 近代の生産技術は,それが進めば進むほど,より専門的な技術知識と高度の技能をもつ労働者を必要とする。1910年春,官営八幡製鉄所は一つの技能工教育機関を開設し,高等小学校卒業程度の青少年未経験工(満14歳以上17歳未満男子,第1回卒業者は41名)に対して,3カ年(のち2カ年)の技術教育を行ない,積極的に新しい技術段階に対応する技能者の養成に着手した。「製鉄所幼年職工養成所」がそれで,「製鉄所職工トシテ必須ナル技術ヲ授ケ,以テ適良ナル職工ヲ養成スルコトヲ目的」とうたわれ,所長には銑鉄部長技師服部漸が兼務のかたちで就任した。服部は野呂景義の工科大学教授時代の教え子で,製鉄所海外練習生をへて,1904年には恩師の指導をうけて製鉄所の製銑技術を確立させ,のちに製鉄所技監,工学博士,日本鉄鋼協会会長となった人材である。また創立委員として,この職工養成所の企画に当った技術者は,1904年海軍造兵少監(横須賀海軍工廠造兵部主管)から八幡製鉄所技師(鋼材部鋳鋼科長)に転じた向井哲吉ほか2名の技師であるが,向井はドイツのエルランゲン理科大学およびフライベルク鉱山大学の出身でわが国特殊鋼技術の開拓者である。官営製鉄所が青年技能工の養成にいかに力をいれたかは,これらの人事面からもうかがうことができる。
 開校にさいし,各現場の掛長に対しつぎのように設立の主旨が通達される。入学を許可された生徒たちはまず「製鉄所工場ノ職工」という身分を保証され,ただちに各掛に配属されたうえで訓練されることになったのである22)。
 幼年職工養成所設立ノ主旨ハ,言フ迄モナク優良ナル職工ヲ養成スルニ外ナラズ。而シテ此ノ目的ヲ達スルガ為ニハ,常ニ学術上ノ知識ト実際ノ習練トヲシテ平衡ヲ得セシムルヲ要ス。故ニ其名称ノ如キモ,普通行ハルルガ如キ徒弟養成等ノ名称ヲ用ヒズ,特ニ職工ノ2字ヲ挿入セルハ,設立ノ目的ガ学術ノ教育ヲ主眼トセズシテ,実地ノ習練ニ重キヲ置クノ主旨ヲ明ニセルモノナリ。
 さらにつぎのように記されているが,ここには当時すでに実業教育あるいは徒弟教育のあり方が,現場教育(企業内訓練)の実践的立場から批判の対象となっていることが表明されている。
 方今ノ実業教育,又ハ徒弟教育ヲ見ルニ,多クハ実際ノ習練ナキ者ヲ養成シ,卒業後直ニ普通職工ト伍シテ実地作業ニ当ルコトヲ得ザル者多ク,或ハ労働ヲ厭ヒ,或ハ労働ニ堪ヘザル者,比々皆然ラザルハナシ。是レ実業界ノ為ニ,洵ニ憂フベキ現象ト云ハザル可カラズ。
 このような,これまでの労働実践を軽んじた徒弟教育の弊害をさけ,真に現場の生産作業を前進せうる,しかも近代技術の理論を身につけた技能工を養成することが,八幡製鉄所の職工養成所発足にさいしては,明確に意図された。したがって現場掛長に対して,つねにこの点を留意して「其工場ニ配当セラレタル幼年職工ニ対シテ,体力ニ相当スル限リハ,勉メテ実地作業ヲ課ス」ことが必要条件とされたのである。
 もちろん1910年の時点においては,すでに生産作業の開始以来10年をへて,すぐれた技能をもつ熟練労働者は多く輩出していた。かつて釜石製鉄所から招かれた10人の職工長たちにしても,1910年代のはじめには8人までが退職し,まったく八幡製鉄所内で育った熟練労働者たちの世代になっていた。けれども,手工的なわざをもつ職人たちから多くの援助をうけなくてはならぬほど諸機械がまだ技術的に完成されていなかった時代は,すでに過去のものとなり,主要作業はもとより付属的な工程においても機械化,あるいは汽力に代る電力化が貫徹される大工業時代が到来しつつあったから,製鉄所はますます技術学的に武装された技能工の確保を必要としたのである。
 幼年職工養成所の入学者たちは,「修了後引続キ6ヵ年製鉄所ノ指定スル業務ニ従事スル義務」が付され,期限満了をまたず万一退職するときは,在学中の費用を弁償することが誓約させられた。しかし,在学中身分・賃金を保証され,しかも保護者の家計に教育費負担のかからないことは大きな魅力であった。そのうえ卒業後の収入は良好で,やがては幹部技術員にも昇進できるような印象さえ与えたので,「北九州から山口地方の高等小学校卒業者で成績優秀であるにもかかわらず,家庭が貧しいため進学できない」質的にすぐれた少年たちが殺到した23)。
 修業年限3ヵ年(1913年,2ヵ年となる)のうち第1学年および第2学年前期に表14のごとき時間配当によって一般授業をうけ,第2学年になると製銑,製鋼,製品(鋼材)の3科に分かれて,それぞれの専門学科と技能を学習した。
 ついで1912年になると,新たに在籍職工を再教育するための「補習部」と,在籍職工の子弟で尋常小学校を卒業した者を対象とする「別科」(1ヵ年教育)とが設けられた。
表14 幼年職工養成所教科目・授業時間数(週)
「補習部」は一般職工のための補習教育(1ヵ年)を行なう第1部と,組長・伍長といった役付職工に対する修業期間6カ月の第2部とに分かれた。このような教育体系の整備にともなって,幼年職工養成所の名は,たんに「職工養成所」と改められ,従来のコースは「本科」とよばれた。第1次大戦後の1919年9月から2回だけの短期に終りはしたが,1ヵ年課程の技術員養成所が設置され,養成所本科卒業後4年以上実地作業に従事した者および甲種(5年制)工業学校卒業後3年以上実地作業に従事した者に対し,「職工」から「技術員」への昇格の道が開かれたことが注目される。
 しかし,1920年には従来の養成所本科を廃止して「徒弟部」とし,1923年からこれに「補習部」を接続させ,他方では監督者養成のための「専修部」をおいて旧補習部の第2部の機能をひきついだ。そのころすでに幼年職工養成所(つまりのちの「本科」)卒業生は職場でも高い成績をあげ,なかには20代前半で「伍長」という最下級ではあるが,とにかく役付職工に昇進する者もあった。それにもかかわらず,官営製鉄所の身分的職制によって職員層(つまり技術員)に昇格することはできなかった。「比較的頭脳体力の優秀なるものを選抜せられたるが故に,彼等は自負して将来を嘱望したるも,卒業後は『職員に登用せず』との方針にはばまれ,不満をいだくに至り,機会を見ては他の民間工場に転出するものも亦現るるに至る」――八幡製鉄所の教育関係資料には,職工養成所における教育実施上の難点として,このように書かれている24)。第1次大戦後の労働運動の高まりのなかで,とうぜんその不満は爆発し,卒業者によるストライキが起こった。ほんらい「国民教育の充実を前提とし,その上になお技術的知識を付与することを通じて経営に対する忠誠心をもった熟練ある労働者を養成しようとする施策」は,その反面において「知育の発達の想わざる効果として,従業員よりむしろ労働者としての意識を生み出すという作用」を,あわせもった25)。1919年,20年の一連の変革はこのような事情を背景に生まれ,以後職工養成所の方向はしだいに既存の労働者,役付職工に対する再教育(成人技能教育)に重点をおくようになった。1910年4月入学の幼年職工養成所生徒が1913年に卒業して以来,この本科による青年技能者の養成は,1921年までに合計10回,654名の卒業者を送り出している26)。第1次大戦後の急速な技術革新期,そして合理化運動の時代には,むしろ所内で実地に作業を担当している経験を積んだ中堅職工層の再訓練こそが緊急の課題であり,忠誠心に富む熟練工たちは,この教育をへてただちに作業集団のすぐれたリーダーとして現工場に送りこまれたのである。
表15 官営八幡製鉄所役付職工学歴別構成比率(1930年)
表16 官営八幡製鉄所役付職工学歴別昇進比率,並職工学歴別平均勤続年数(1930年)
 表15,16に1930年現在における学歴別にみた役付職工の比率,並職工の平均勤続年数などを示した。この表にみるかぎり,若年職工の教育機関としての職工養成所は,官営上の職制のわく組,また一般学校教育そのものの階層的構造を反映して必ずしも十分に成功したとはいえない27)。
 しかし,ここで私は八幡製鉄所幼年職工養成所が日本の鉄鋼技術教育と技術学の発展のために,一つの大きな,かつ貴重な役割をはたしたことをつけ加えておかねばならない。ある段階まで達した技術は,その時代において社会的になる。技術の実際とその理論が細目にわたって書き記され,技術書(教範)のかたちで普及されるのは,技術の発展がある安定期に達したときである。製鉄鋼の諸分野にわたる技術のマニュアルとしての鉄鋼技術教科書,それも生産の現場から生きた素材を存分にとり入れた教範は,企業内訓練にとって最も有効な手段の一つであるが,これが養成所の開設を機に,まず八幡において続々と現われたのである27)。
 官営八幡製鉄所では1910年11月,つぎの各技師および嘱託貝が,養成所教科書編さん委貝を命ぜられ,それぞれ専門分野の技術教科書の執筆にあたることになる(カッコ内は所属部課)。
 鋼鉄製造術   技師 葛 蔵治(鋼材部)
   〃      〃 飯島諮男( 〃 )
 鋼鉄加工術及鋼材論〃萩原時次(鑑査課)
   〃      〃布目四郎吉(鋼材部)
 骸炭及炉材製造術〃 三好久太郎(銑鉄部)
   〃      〃 黒田泰造( 〃 )
 鉄冶金術大意及操炉術〃向井哲吉(鋼材部)
 銑鉄製造術    〃 瀬尾 功(工務部)
   〃      〃 川合得二(銑鉄部)
 電気学大意    〃 岸原重治(工務部)
 機械学大意  嘱託員 鈴木定一(庶務課)
 こうして現場経験豊かな第一線の幹部技術者(多くは工科大学出身者)の手で,鉄鋼技術の集成とその科学的基礎づけが意図される。そして作成された教科書は,養成所が一般職工・伍長,組長などの補習的教育,さらに技術員教育も行なうようになって,いっそう充実したものとなるが,注目すべきことに,これら鉄鋼技術教科書はひろく一般に公刊されて,わが国技術教育,ひいては鉄冶金学の発展に貢献をはたす。わけても,黒田泰造の『最近骸炭製造法及副産物処理法』(丸善刊,1912年)や布目四郎吉の『鉄及鋼の圧延作業法』(丸善刊,1917年)などは,他に類書もなく,ながく使用されたのである。
 つぎに鉄鋼技術の現場は,なにしろ大部分の機械・設備と,その操業技術とを,海外とくにドイツに仰いでいたために,日常の作業の円滑な遂行のためにも,統一的な鉄鋼用語の手びきを必要とした。職工養成所の創立と時を同じくして「鉄冶金に関する術語の統一」を期すため製鉄所職員中から委員が選ばれ,1916年に『独英和・英独和製鉄用語字彙』が完成する。近代製鉄技術用語の全般にわたる最初の字典であり,これによって鉄鋼技術の現場にもはじめて鉄鋼の技術と科学とを理解する共通の手段ができ,技術者(技師)と技能者(職工)とを結ぶかけ橋が成立したことになる。
 もとより1910年代のころには,東京帝国大学の鉄冶金学教授俵国一によって『金属組織学』や『鉄と鋼,製造法及性質』といった日本語の鉄鋼技術教科書が公刊されていた。前記向井哲吉(第2代製鉄所職工養成所長)は,1884年に東京工業学校(いまの東京工業大学)の機械科用として『応用製鉄術』といった教科書を著わしていた。しかし,これら一般向け専門技術教科書や用語事典の類は,上記のような製鉄所職工養成所を中心とする教範の作成を契機として,欧米先進国依存型をようやく脱脚し,いっそう充実したものとなっていったことはいうまでもない。

7 エリート熟練労働者の形成――4人の「宿老」について

 1920年における官営八幡製鉄所の大ストライキのあと,同所ではただちに8時間労働制の実施など,新しい労務管理体制を確立させるとともに,技能優秀で人格的にすぐれる職工長を,「職工」という身分から開放し,「職員」それも所内限り高等官扱い職員として生涯を遇するという制度を設定した。長老格で別格の職員という意味合いで「宿老」と名づけられ,1899年入所の高炉工田中熊吉を筆頭に1930年代までに合計7名の者が選ばれた。身分上の「袋小路」をとりはらって,職工にも上級職員昇進の青空をという労務対策の一環とも考えられるが,表17にみるように,このうち6名までが日本鉄鋼協会の技術賞をうけているから,技能面でも一般職工の模範たり得る力量を有していたことは否定できない。『八幡製鉄所50年誌』(1950年)には別資料Aのとおりその表彰理由が要約されている。
 高炉工田中熊吉および児玉藤八,築炉工小屋原総三郎,コークス工白石竹松については,それぞれ伝記が刊行され,1940年代の青少年工たちの社会教育用に利用されたことがある28)。それらによると,この4名のエリート熟練工たちの生い立ちは,別資料Bのとおりで,佐賀県の小農の3男に生まれた田中は,鉄道会社の鍛冶見習をへて1899年に「製罐職」として建設中の官営八幡製鉄所に入所し,作業開始とともに「高炉職」に転じ,1912年から1カ年ドイツにおいて実地研修をなし,1920年には第1回万国労働会議に関与している。
表17 日本鉄鋼協会賞を受賞した八幡製鉄所宿老
群馬県の小農に生まれ,田中と同じく建設中の八幡に入所した小屋原は,入所前においてすでに陸軍の東京砲兵工廠などで製鋼炉築造に従事した「煉瓦同業組合」という一種のギルドの親方であった。町会議員という公職経歴の持主でもあるが,職工として入所した以上,技能優秀で人格においてすぐれても長い間「職員」の待遇は与えられなかったのである。
 愛媛県のかなりの規模の農家の6男に生まれた児玉は,当時の職工としてはまだ高い比率を占めていなかった高等小学校卒業者であって,農業をへて1901年,高炉職として入所,10年の経験によって技能豊かな組長となり,職工養成所補修科で再教育をうけ,幹部職工となった。
 1904年入所のコークス工白石は,福岡県遠賀郡の山鹿という漁村に生まれ,小学校を卒えると家業の漁師をきらって筑豊炭田の石炭を運搬する川船頭となり,転じて製鉄所に入ると,八幡で独自に確立され発明された副産物捕集式コークス炉(黒田式コークス炉)の技術革新の歩みとともに,熟練工に育っていった。
 以上の4名はいずれも官営八幡製鉄所のみならず,日本各地,朝鮮,満州(中国東北)などの現場技術の指導に当り,民間企業の熟練労働力の育成に貢献したことで共通している。なお,八幡製鉄所の全職工(鉱夫・職夫を除く)は1902年3月末現在で2283名,1913年3月末で1万6044名,1933年3月末で1万6423名である。上記4名の略歴を示した別資料Bは,熟練職工の生い立ちを知るほんのわずかの事例にすぎないのであるが,かなりの類型を示すものとは言ってよいであろう。

 別表A  「宿老」たちの日本鉄鋼協会賞表彰理由

 (1) 製銑
  <服部賞金>
 1931年(昭和6年)
 溶鉱炉作業に貢献 田中熊吉
   1900年(明治33)入職以来,献身的に溶鉱炉作業に従事し,よく衆を率いて特殊の美風を馴致し,溶鉱炉操業をして今日に至らしめたものであり,また民間の諸製鉄所の溶鉱炉操業開始にさいしては,実際上の指導の任に当り,溶鉱炉操業の進歩発達に貢献するところ多大であった。
 1935年(昭和10年)
 コークス炉の築造ならびに作業 白石竹松
   1930年(昭和5)3月,わが国最初の黒田式複式コークス炉の作業を開始し,ひきつづき高炉ガス入作業に成功して,銑鋼一貫作業の基礎をつくるほか,内地はもちろん,遠く朝鮮および満州において築造された黒田式コークス炉の作業の指導に当り,コークス製造業の発達に貢献した。

 (2) 製鋼
  <服部賞金>
 1932年(昭和7)平炉操業に貢献 松木又二郎
   多年にわたり実際的技術と鉱石法および合併製鋼法の研究とにより,製鋼操業今日の基礎をつくり,また民間諸工場における平炉操業技術の指導に当り,斯界に貢献するところ多大であった。
 1933年(昭和8)
 各種製鋼炉築造上の改良 小屋原総三郎
   八幡製鉄所および兼二浦製鉄所等の工場建設に当り,平炉,混銑炉,均熱炉,焙焼炉等の築造を指導し,わが国製鋼炉築造上の発達の基礎をつくり,また各炉の築造上の改良により製鋼能率の増進に寄与するところ多大であった。

 (3) 動力
 <香村賞金>
 1948年(昭和23)
 タービン建設,運転ならびに調整による銑鉄の増産 山岡熊雄
   銑鉄の生産を維持し,かつまた上昇せしむる重大な要素として,高炉用送風タービンおよび発電用タービンの無事故,無休運転が要望されるが,その据付および運転保守ならびに調整に当っては,他の追随を許さず,永年努力研鑚による至宝的特殊技術をもってその至難な業務をよく遂行して,八幡製鉄所はもちろん,二瀬鉱業所,釜石,遠く華北,華中,大冶の各製鉄所における各種タービンの操業上に多大の功績を残した。

出所:八幡製鉄(株)八幡製鉄所編『八幡製鉄所50年誌』1950年。

別表B 「宿老」4名の略歴

(1)田中熊吉
1873 11月26日佐賀県三養基郡南茂安村に自作兼小作農の松永弥七の3男として生れる
 80 4月,南茂安村小学校に入学
 81 4月,同村の地主兼土木請負業田中家の養子となる
 91 請負業失敗のため養家没落する
 93 12月,熊本第6師団砲兵第6連隊第4中隊に入営
 94 12月,熊本師団に動員下り旅順へ上陸
 95 6月28日,帰国
 96 10月31日,満期除隊
 99 2月,小倉鉄道会社金田工場に鍛冶見習として入社,日給27銭給与
 99 11月,官営八幡製鉄所製罐職として入所
1901 2月第1溶鉱炉に転ずる。(3月28日付で定夫を命ぜられ日給80銭給与)
 04 伍長に命ぜられる
 05 2月,職工長を命ぜられる
 12 6月13日,製鉄事業研究のためドイツに出張を命ぜられる
 13 9月,帰国
 14 11月,北海道炭礦汽船㈱溶鉱炉吹立のため出張を命ぜられる(1915年2月帰幡)
 16 2月,広島・山陽製鉄所に出張
 19 朝鮮の三菱・兼二浦製鉄所に出張
 20 第1回万国労働会議代表者選定に関する協議に推される
 20 10月18日,宿老に補される。月俸110円,加俸月25円給与
 25 8月,内閣より失業統計調査委員を命ぜられる
 28 2月,9月,鶴見浅野製鉄所に出張
 31 4月3日,日本鉄鋼協会より服部賞金を授与される

(2)小屋原総三郎
1872 群馬県岩鼻村の小作農に生れる。小学校卒業後,岩鼻村所在の陸軍火薬製造所で煉瓦職の人夫となり,請負師桑原仁三郎を知る
 87 秋,東京の煉瓦請負職人桑原仁三郎の弟子となる
 89 煉瓦職人の世話役として,紡績会社や陸軍工廠などの築炉工事を担当
 96 東京市本郷区煉瓦同業組合取締役となる。これより宮内省の暖炉工事,ルツボ製造会社のルツボ炉築造,東京砲兵工廠の平炉(わが国最初)築造などにたずさわり,八幡の技師今泉嘉一郎に製鉄所入所をすすめられる
 99 8月3日,官営八幡製鉄所煉瓦職。日給1円20銭。高炉・平炉・ガス発生炉などの築炉に当る
1901 4月,職工長(八幡製鉄所で最初)
 08 9月1日,工手(職工の身分のまま監督技術員の補助役となる)日給2円
 15 4月,在職のまま黒崎町の町会議員となる
 18 4月,朝鮮・兼二浦製鉄所へ出張,築炉工事指導,このあと満鉄鞍山製鉄所(昭和製鋼所)築炉指導
 26 6月1日,宿老。月俸170円
 33 4月3日,日本鉄鋼協会から服部賞金を授与される

(3) 児玉藤八
1878 12月21日,愛媛県新居郡神拝村の農家の6男として生れる
 94 3月,高等小学校卒業,農業にすすむ
1901 6月,官営八幡製鉄所の高炉職(「鎔鉱職」)となる。日給50銭
 09 9月,伍長
 12 6月,組長,この年職工養成所補修科第2部入学,1カ年間技術教育をうける
 13 12月,北海道・輪西製鉄所第1高炉の吹入れを指導,ついで第2高炉(1917)火入れを指導
 17 6月,新発足の東洋製鉄㈱(のちの八幡製鉄所戸畑作業所)に職工長として転出 21 4月,東洋製鉄の八幡製鉄所委任管理にともない,八幡に再入職,高炉職組長。ついで工長となる
 30 7月,宿老となる
 40 4月3日,日本鉄鋼協会服部賞金をうける。

(4) 白石竹松
   福岡県遠賀郡山鹿(芦屋町の隣村)に漁師の3男に生れる。4年制の尋常小学校卒業後,石炭運搬の川船頭となる
1903 佐世保の海軍工廠で3カ月間働く
 04 八幡製鉄所入所,骸炭(コークス)職となる。日給40銭。日本人の設計,建設によるコッペー式コークス炉の火入れに従事する
 07 2月,副産物捕集式コークス炉・ソルベー炉の火入れに従事する
 14 5月,コッパース式コークス炉の火入れに従事する。伍長となる
 18 2月,組長となる
 19 三菱・兼二浦製鉄所のコークス炉の操業を技術指導する
 20 黒田式コークス炉の火入れに従事する
 26 6月,工長(職工身分のまま職員待遇)
   12月9日,黒田式コークス炉ガス燃焼室浄除法を改良し,多大の労力を節約したことにより,所内表彰をうける
 27 9月,判任官待遇の工長となる
 30 11月18日,宿老となる(奏任官待遇)
 35 4月5日,日本鉄鋼協会服部賞金をうける

出所:文献28)による。

 注
 1)野呂景義については『技術思想の先駆者たち』東洋経済新報社,1977年,官営製鉄所設立過程については『東京工業大学人文論叢』第6号,1981年を参照されたい。
 2)この過程を私たちはかつて三枝博音・飯田賢一編著『日本近代製鉄技術発達史』(1957年)において立証した。私の最近の研究では雑誌『IE』日本能率協会発行に「技
 術史断章・工学博士野呂景義につらなる人びと」というかたちで,今日の第三世界の問題とも関連づけつつ,提示している。(1979年4月-1981年9月連載)。
3),5)上記『IE』論文1980年8月号参照。
4),22)前掲『日本近代製鉄技術発達史』東洋経済新報社,1957年参照。
6)近代日本の工業教育の形成過程については,三好信浩著『日本工業教育成立史の研究――近代日本の工業化と教育』風間書房,1979年がくわしい。
7),8)『IE』1979年7月号の拙稿「新しい科学技術教育を求めて」を参照。
9),10),11)前掲文献6)による。
12)前掲2)の文献にくわしい。
13)『IE』1980年9月号の拙稿「九州の石炭と鉄道と長谷川芳之助」を参照。
14)たたら製鉄の労働力構造についてはつぎの2文献が参考になる。
①武井博明著『近世製鉄史論』三一書房,1972年。②たたら研究会編『日本製鉄史論』同会,1970年。
15)飯田賢一・大橋周治・黒岩俊郎共編著『現代日本産業発達史・鉄鋼』現代日本産業発達史研究会,1969年。この書の「たたら」と「釜石鉱山田中製鉄所」の労働力状況の項は,野原建一氏の執筆による。
16)『IE』1980年6月号の拙稿「戦争にゆるがぬ技術人精神」を参照。
17)『IE』1980年7月号の拙稿「産業指導者榎本武揚と新製鋼法」を参照。
18)飯田賢一著『技術思想の先駆者たち』(文献1))にく,わしい。
19)文献4)による。なお八幡製鉄所創業に寄与したドイツ人指導者たちについては,前記『IE』1981年3月および5月号に詳述した。
20)以下この第5章「近代鉄鋼労働力の定着」の記述は,前掲文献15)における慶応大学島田晴雄氏の研究成果に負う。第2次大戦前における日本の鉄鋼労働力の生成と展開については,いまのところこの研究をこえる論考はない。
21)飯田『鉄の語る日本の歴史・下巻』そしえて社,1976年,29ページ以下参照。
23),25)世界教育史研究会編『世界教育史大系32・技術教育史』講談社,1978年。日本鉄鋼業の企業内教育の項は岩内亮一氏の執筆による。
24),26)日本製鉄㈱資料整備委員会編『八幡製鉄資料・教育編』1947年5月。
27)前掲20)島田氏の論考による。
27)飯田『日本鉄鋼技術史』東洋経済新報社,1979年,231ページ以下参照。
28)第2次大戦中,青少年工教育の含みもあって,相ついで4つの宿老伝が刊行された。刊行年月順にあげるとつぎのとおりである。
①高田一夫著『築炉工小屋原総三郎伝』国民工業学院刊,1943年3月。②岩下俊作著『熔鉱炉と共に40年』(白石竹松の伝記)東洋書館刊,1943年7月。③志摩海夫著『鉄の人』(児玉藤八の伝記)工人社刊,1943年8月。④若杉熊太郎著『高炉工田中熊吉伝』国民工業学院刊,1943年12月。
 4人の著者はいずれも八幡製鉄所に勤務のかたわら「作家」としての著述活動を行なった人びとである。