技術と農村社会

論文一覧に戻る

水利と指導者たち

著者名: 旗手勲
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
本ページのPDF版を見る
 目 次

Ⅰ 水利秩序と指導者・・・・・・・・・・2
 1 土地改良と地域対立・・・・・・・・・・2
 2 地主と官府・・・・・・・・・・2
 3 土地改良をめぐる資力と技術・・・・・・・・・・4
Ⅱ 水利用をめぐる地域的対抗・・・・・・・・・・6
 1 新村堰改修をめぐる大正5年の番水問題・・・・・・・・・・6
 2 梓川の土地改良事業をめぐる古田優先権・・・・・・・・・・9
Ⅲ 土地改良をめぐる指導者たち・・・・・・・・・・15
 1 梓川土地改良の代表者―上条安雄・・・・・・・・・・16
 2 技監的な指導者―吉沢秀雄・・・・・・・・・・28
 3 地域に根づいた指導者―藤牧進・・・・・・・・・・32


Ⅰ 水利秩序と指導者

1 土地改良と地域対立
 灌漑排水や区画整理などの土地改良は,一定の面積のまとまりを必要とし,ある程度規模の大きい方が一般的に効率が高い.しかし,1つには日本の農業では零細な小農経営が支配的であること,2つには水が高きから低きに流れるという流動性があるため,水利の拡張をめぐる農民間,あるいは部落間,地域間の対立は,きわめてきびしい.
 他方,日本の農業では零細な小農経営が支配的でありたがら,水田耕作を基軸にしているため,個別の農家だけでは水の利用を運営しにくい特徴をもつ.灌漑排水の施設建設や維持管理をめぐり,地域間の対立とともに,施設や利用を同じくする地域間の共同と融和が不可欠の条件となるわけである.
 しかも,江戸時代の自然村にあたる小字や部落,末端の個人耕地では,昔からの堰や水路などの水利施設や,補修や配水などの水利秩序が,そのまま持続した場合が多い.したがって,新しい灌概排水の工事や区画整理などによって,以前からの耕地条件や水利慣行を変化させることは,零細な農地で不安定な経営を続けざるをえない小農民のなかから,はげしい反撥と抵抗を生みやすい.そして一面では,農業生産の継続にとって不可欠な,この「保守的」な対応は,やがて地域の外からの圧力に対抗する地域内部の団結をよびおこし,地域的な利害対立を激化させざるをえない.そこで,これらの利害対立を調整できる人物や制度が必要となってくるわけである.
 なおこの場合でも,土地所有制度の変遷や,商品作物の展開,とりわけ大規模な土地改良事業の開発などにともない.水利秩序や指導者の間に変動がみられることはいうまでもない.そして,はげしい地域的な対立を経て,旧慣を前提にした新しい水利秩序や制度が再編成されるのである.

2 地主と官府
 江戸時代の後半ごろから明治期にかけて,地主制が展開したとはいえ,まだ明治30年代ごろまでは,在村の自作地主が支配的であった.地主には小作人に所有地を貸付け,小作料を得るとともに,同時に年雇などを使って,自分で直接に耕作する豪農や老農も多かったのである.とりわけ明治前期には,江戸時代の農業技術や村落支配が有効であったから,これらの在村地主たちは,その地方の有力者として,権威や支配力をもっていた.
 さらに在村地主たちは,自分の自作地や小作地の農事改良だけではなく,地域の指導者として農村の向上と平和をはかるという積極性が強かったのである.明治以降になって,地主たちが水利の開設や改良などを推進したのも,たんに開墾や開田,あるいは小作料の増大をねらうという個人的な利益だけではなく,地域全体の農業生産と農民生活を発展させたいという「使命感」にも支えられていたのである.いずれの地方の土地改良でも,これらの「名望家」たちが積極的に事業を推進したことによって,はじめて成功したとさえいえるのである.
 とくに,旧村内部の小規模な灌漑排水や区画整理などの場合,地域の有力者が施行したり,背後から支援したことなどによって,これらをめぐる農民間の対立などを調整することができた.しかし,数村から数十ヵ村,さらに数郡に及ぶような大規模な潅概排水事業になると,在村地主などよりは,ひとまわり大きな大地主や江戸時代からの大庄屋など,県会議員クラスの「声望家」の調整が必要になってくるのである.
 そして,農村や地域をまとめることのできた,これらの在村地主や豪農たちは,同時に,上からの政府による集権的な末端支配の機構に編成されるようになった.明治20年前後に確立した府県制や郡制,町村制などの地方制度,普通水利組合を通ずる内務省一府県一郡の管理統制,あるいは産業組合や農会による農村統制たどは,その動きの一端といえよう.
 このように,在村地主や豪農たちは,農村の指導者や調整者としての自治的た役割と,地主あるいは権力の系列につらなる支配者としての役割という,2面性をもっていた.
 しかし,明治30年前後から,工業や都市が展開しはじめ,これにともなって年雇の流出が進み,米価上昇によって小作料からの収益も向上するようになり,また有価証券投資の有利性などが高まってきた.こうなると,在村地主たちも農業生産を離れ,寄生化するものがふえてきた.
 とくに明治38年ごろから,灌漑排水が土地改良の中心事業となり,大規模な用排水工事がふえてきた.在村地主や豪農などの調整ではまとめきれない,複雑な地域的対立もふえはじめた.広域に土地を所有する不在大地主たちの発言力がまし,たとえば,新潟県蒲原平野の市嶋・伊藤・白勢・田巻・三菱会社といった「千町歩地主」や,山形県庄内平野の本間家などが主導した,大事業が進展したのである.
 土地改良の大規模化とともに,これの建設と維持管理にあたる耕地整理組合や普通水利組合,土功組合の役割が増大した.そして発言権をもってきた大地主たちは,支配力を強化するとともに,府県や政府を動かして,事業の推進や補助金の増大をはかった.やがて明治41年から,府・県営や府・県の補助をうけた土地改良事業にも国庫の補助が与えられるようになり,国や府県がしだいに発言権をましていくのである.
 他方,長野県のように,大地主の少ない地方では,地形的な条件も加わって,大規模な用排水改良や区画整理などは,在地から発起しにくかった.地主や豪農に代って,県庁の指導が大きな役割をもってきたといえる.

3 土地改良をめぐる資力と技術
 土地改良の計画において,地域間の対立調整が第1の難関であるとすれば,第2は資金の調達である.明治以降は,士族援産のための開墾事業などを除くと,土地改良の事業費は民費負担が原則であった.また,明治30年ごろまでは農業関係の専門的な金融機関がなく,一般の銀行や個人からの借用に依存した例が多い.しかし,資金の回転率が小さく,一般に利益率が低い農業では,融資にたよる土地改良事業は採算があいにくいものである.
 そこで,地域の対立を統合できる「名望家」とともに,事業推進のために「資産家」が登場したわけである.もちろん,明治初期には,両者が「相伴う」豪農なども現われた.しかし,事業が大規模化してくると,豪農などの「声望家」だけでは資金が調達できず,企業意識に富んだ豪商が参加したのである.たとえば,明治2年の下総佐倉・小金の開墾でも,三井・小野・島田組らの豪商たちが開墾に参加している.梓川流域の最上流に開設した波田堰でも,下流の既成用水堰との調整のほかに,資金の調達のために非常に苦しんだという.
 しかし,明治30年ごろから,豪商の役割は減退する.1つには,資本主義の展開につれて,豪商たちが土地改良よりは有利な他の産業や収益対象に投資しはじめたためであり,2つには,農業関係の金融機関が整備されはじめたからである.しかも,事業が大規模化するにつれて,自己負担金もとうぜん増大してきた.他方,農民運動も展開しはじめ,小作料を増大させることが,しだいに困難となってきた.寄生化した地主が行う土地投資に対する収益率は,やがて鈍化せざるをえない.そこで,工事費に府県や国から補助金を与え,また明治43年からは大蔵省預金部の低利融資を開始するなど,資金面でも政府の発言権が増大してきたのである.
 同時に,土地改良技術についても,民間から官府へ主導権が移っていった.もともと,地域内の小規模な用排水工事や区画整理・暗渠排水,あるいは牛ワクなどの防水や水害防御などは,江戸時代からの農民技術を基礎にした蓄積や改良が進んでいた.とくに,日常の維持管理や旧村内の工事,あるいは水害対策などは,「ムラ仕事」として運営されてきた.しかし,事業が大型化するにつれて,計画や設計,あるいは施工にも,西欧式の学校教育をうけた専門家を必要としはじめた.またセメントなどの資材が発達し,揚排水ポンプなどの機械が普及してくると,これまでの農民技術では対応しきれない部面がふえてきた.
 もちろん,これまでにも河川の堰堤や取入口などの取水施設,幹線用排水路の建設などは,江戸時代から支配者の分担すべき事業であった.関係する地域が広範囲にわたり,地元の有力者でも地域的な利害対立を調整することが困難であったからである.逆に支配者たちは,これらの基幹施設をテコにして,食糧の増産と支配の維持という「治安と治国」を確保することができたといえる.さらに,支・派線工事や,明治末期からの河川改修事業などについても,農民技術だけでは対応しきれなくなるにつれて,治水についてはもちろんのこと,土地改良においても,官僚技術が支配権をもってきたのである.

Ⅲ 水利用をめぐる地域的対抗

湛水灌漑に基づく水稲耕作を中軸とした日本農業において,用水の維持保全は不可欠な前提である.しかも,集約的な小農経営を構成分子とした日本の農村では,水の流動性という自然的条件に制約されて,地域的な結合を基礎にした水の利用や施設の維持管理を行わざるをえない.旧慣を遵守した水利秩序が重きをおかざるをえないのである.
 この場合,水利や耕地の維持の前提となるべき,洪水などの「外水排除・水害予防」などについては,比較的に広い地域にわたる同意や団結をえやすい.他方,湛水や浸水などの「内水排除」については,関係する小地域内の一致はまとまりやすいとはいえ,それに接続する上・下流の他地域とは利害が相反し,対立が激化しやすい.
 とくに,限られた水量や期間をめぐる水量の配分については,はげしい地域的な対立と抗争がひきおこされるわけである.たとえば,新規な水利施設の建設にともなう旧来からの慣行的な水利秩序の変更や,新用水路や開田・畑地灌漑などにともなう水利用の増大,あるいは旱ばつなどによる配水量の不足などである.
 梓川の右岸用水の場合,多雨時などにおける洪水被害に対しては,比較的に地域的た対立は少なく,まとまった水害対策が実施されてきたといえる.また,内水排除についても,この地方特有の複合扇状地地形が幸いして,あまり大きな地域的な対立はおこらず,用・排水の反復利用が一般的であった.
 したがって,この地域では,たとえば,波田堰の新設をめぐる分水問題,新しい水利施設の建設をめぐる水利慣行の変更問題,旱ばつ時などにおける分水・番水問題が,とくに地域的対坑の大きた要因となったのである.

1 新村堰改修をめぐる大正5年の番水問題
 一例として,大正5年5‐6月の大旱ばつ期における分水・番水問題にふれておこう.
 前にふれたように,梓川から取水する用水では,明治15年に完成した最上流の波田堰を除き,右岸の和田堰・新村堰と左岸の立田堰・温堰・横沢堰・庄野堰の6堰を上川といい,右岸の槫木堰・島堰・高松堰(後2者は合併して島内堰)と左岸の中菅堰・北方堰(現在はなく,どこかの堰に合併したのであろう)・真鳥羽堰・飯田堰(現在は不明)が下川と称した.上川6堰は,上流に位置するために,旱ばつ時でも必要量を導水できたため,下川では水量不足や断水に見舞われることが多かった.
 したがって,旱ばつの時には配水をめぐり上川・下川地域の対立は激しく,江戸時代からたびたび水論や訴訟がくりかえされたほどである.明治以後になって,旧来からの慣行をもとにして,渇水時には下川5堰の間でお互いに上流から少しずつ取水量を減らして分水を行ない,この取りまとめは下川の最上流にあたる槫木堰の代表が担当した.下川での分水を2度行ない,さらに水不足のときには,下川5堰から上川6堰に対して上川の分水を要求できた.この場合には,波田堰への分水門を閉鎖し,上川から下川へ分水し,2度の上川分水でもなお不足のときは,下川5堰が番水に入る.それでも水不足のときには,上川各堰の番水を要求できる慣行があった.
 以上は,激しい旱ばつの年における異常慣行であったが,そのような場合には上川でも水不足にたりやすく,上川が分水や番水を拒絶することもおこり,激しい水争いとなりうるわけである.
 とくに梓川からの取水において,もっとも有利な位置を占めていた和田堰は,渇水時でもまず安定した導水を行うことができた.また江戸時代の「天領」といった優越的な条件が加わり,以上の番水の場合にも和田堰はこれに加わらない慣行があり,他地域との水利紛争の要因となったのである.
 他方,和田堰に隣接した新村堰では,それまでは梓川に設けられた「穴口」とよばれる小さな取水口によって導水していた.しかし和田堰からの漏水や排水を利用できたため,これまた番水に加入したことがなかった.
 ところが,明治末期から梓川の治水事業が進行しはじめた.これに備え,明治44年3月には新村に水害予防組合が新設され,梓川筋の横道およびその付近の水害予防と水害復旧事業を行うことになった.この動きは,明治45年度に施行された,新村堰付近の県営堤防改修工事に対応したものといえる.そして,この工事に付帯して,新村堰の「揚口」も改修され,これまでの「穴口ト称シ僅カニ梓川ヨリ流水ヲ引入レタルノミ」の状態から,揚口に6間の水門を新設したのである.
 この工事は,とうぜん従来からの水利慣行に変更を与えるものであり,とくに下川5堰の取水量に影響を及ぼさざるをえなかった.しかし「平水ノ場合ニ於テハ格外ノ被害モナカリシ」ため,水利紛争にまでは及ばなかったのである.
 しかし,大正5年の5月下旬から6月16日にかけて,「近時稀なる」旱ばつにおそわれた.とくに下川5堰の流末では,灌漑不能の「窮状に陥り」,苗代さえ「乾涸」するなどの惨状となった.そこで,従来の慣行に基づいて,流末の下川筋では上流の上川5堰に対し,配水の融通を申出て,その分水をうけた.さらに水不足のため,上・下川の番水を求めた.とくに新村堰では,取水門が拡張になったため,以前の慣行とは異なり,新しく番水に加わるよう要求したのである.
 これに対し,新村堰の関係者は,旧来の慣行を主張し,番水に加わることを「断乎トシテ」拒絶した.このため,左岸の上川3堰から異議がおきたのであろうか,上・下川の番水が実行できなくなった.困窮した下川筋では,上川筋,とくに左岸の立田・温・横沢3堰の賛成をえ(和田堰は慣例によって番水から除かれた),その調整を用水組合の上級管理者である長野県知事に陳情することになったのである.
 すなわち,梓川の右岸下川の島内・島立村(上川の和田村と訴告側の新村を除く)と,左岸8町村の町村長名をもって,新村堰が番水に加入し,「公平二配水スル様」に説示方を申しいれている.そして,新村堰がこれに応じない場合には,その取入水門を縮小し,「旧来ノ穴口ノ状態ニ為シ多量ノ水ヲ引入ルル事能ハサル様」に復元工事を行うことを陳情したのである.
 その後の動きについては,詳細は不明である.しかし,その後も新村堰では番水には加入していないから,下川筋や左岸町村長の要望を通じなかったのであろう.ただ,旱ばつ時に梓川の水量が減じた場合に,下川5堰から分水を求められた時には,「その各堰または関係委員の連署した依頼書に依って,本堰用水使用上支障のない限度において」分水を行うとあるから,旧来の分水慣行を再確認にすることによって,長野県知事の調停が行われたのかもしれない.
 以上の例は,新村堰における取水門の改修にともない,従来の水利秩序を改変しようとする,地域的な対抗関係を明示したものである.そしてまた,地域的な水利対立が地域間では調整しがたく,ついには用水の上級管理者の介入を待たざるをえないという,日本における水利用の特徴をも示したものである.
 なお,これらの地域的な水利対立と官権に基づく調停の動きを前提にして,やがて大正10年からの農商務省による「農業水利調査事業計画」を実施させた.梓川の沿岸町村長は,ただちに同年に同調査を申請し,大正12年には「梓川農業水利改良計画」が完成した(農商務省の公表は大正13年).これに基づき,梓川右・左岸の合口を軸とした,いわゆる「第1期農業水利改良工事」が具体化しはじめた.これをめぐる和田堰と他地域との対立などの事情は,玉城論文が触れているので省略する.
 (本項は,和田村役場「大正五年五月上旬ヨリ六月十六日ニ至ル大旱魃ニ付梓川筋用水関係者ヨリ新村堰ニ対スル知事宛陳情書写,大正五年六月二七日信濃民報ヨリ」―長野県梓川土地改良区域,郷土資料編纂会『東筑摩郡,松本市・塩尻市 誌』第3巻,現代上―昭和37年―839‐843ページを参考にした)

2 梓川の土地改良事業をめぐる古田優先権
 大正15年から開始された県営の梓川沿岸第1期用水改良事業は,昭和5年10月に竣工し,はじめて梓川流域の合口が完成した.翌6年には,右岸の和田・新村・榑木・島内4堰を統合した梓川右岸普通水利組合と,左岸の立田・温・横沢・庄野・中菅・真鳥羽堰たどをまとめた梓川左岸普通水利組合が発足し,昭和8年3月にはこれら2組合の連合会が設立した.取水施設の合理化にともない,各堰ごとの独立性は残ったとはいえ,組織の拡大がもたらされたのである.そして,連合会と右岸組合の事務所は,梓川水系の「最優位」を占めた和田村の役場内に設けられ,会長・組合長は和田村長が「世襲」する慣例となった(左岸組合と代表者は最上流の梓村役場と同村長).
 しかし合口の赤松頭首口は締切堰堤によったため,梓川からの砂礫流入がはなはだしく,取水が困難となることも多く,また洪水時や旱ばつ時の被害も跡をたたなかった.かくて取入堰堤を水門式とするため,上流約2キロメートルに新赤松頭首工が昭和18年1月から県営第2期工事として着手された.なお,建設地は波田堰の水路にあたっていたため,波田堰の取入口変更について示談が難航し,ようやく合口の調整が成功したようである.その後も,戦局の悪化で工事は難航し,ついに昭和20年8月の敗戦によって一時は中断の止むなきにいたった.昭和22年1月になって,農地開発営団によって再開され,翌23年10月には国営に移管,昭和25年10月に完成した.
 なお工事費節約のため,新・旧頭首工間の距離を活用し,多目的発電を行うことになり,昭和25年10月に昭和電工の赤松発電所が竣工した.この第2期工事の結果,堰堤は水門式に変ったため,高水時の被害が減小した.しかし,旱ばつ時の水不足はなお解消せず,また新しい矛盾がおきてきた.たとえば,水路式発電のため,ピーク時の水位低下や,高水時の放流にともなう水位の急昇などの問題がおこり,水量維持のためのダム構想がおきてきたのである.
 なお,昭和24年6月の「土地改良法」の公布にともない,昭和26年9月には梓川右岸土地改良区が,翌27年1月には梓川左岸土地改良区が,以前の普通水利組合を改粗して新しく発足した.また27年6月には,両岸を含めた梓川土地改良区連合が設立され,それぞれの事務所と代表者は,前と同じく和田と梓川の村役場と村長が「世襲」した.
 ところで,昭和30年における天竜川の佐久間ダムの完成と前後して,電源開発を軸とした総合開発が時代の風潮となった.梓川流域でも,昭和29年11月に地元の代表が梓川水系総合開発期成同盟会(会長は上条安雄)を組織し,長野県の総合開発審議会において上高地ダムの請願を採択させている.この上高地ダムは,すでに昭和16年にも長野県の松本平西部大規模開墾計画の一部に含まれていたが,実施には至らなかった.
 その後も,有志の中にはこの上高地ダムの希望を持続している者がいた.たとえば,梓川の第2期用水工事が完成に近づきつつあった昭和24年にも,後にのべる上条安雄・吉沢秀雄らの地元村長などの代表が,上高地ダムの予定地点を視察し,計画の推進をはかったほどである.
 さらに,昭和30年7月には建設省むけの信濃川水系砂防工事促進期成同盟会(会長は上条安雄)が発足するなど,上高地ダムの計画はしだいに熱を加えてきた.
 他方,これらの計画に対して,地元から強力な反対がおきてきた.とくに昭和30年は旱ばつに襲われ,梓川下流の下川地域に被害がおきた.また事業などの工事費負担については,昔から一般に松本領であった梓川左岸では支出を好まず,批判をのべる例が多いという.これに反し,天領などの多い右岸地域では,必要ならば,新工事への支出をいとわない風習があるといわれている(現在の国営中信平―第3期―土地改良事業でも,分担金をめぐって右・左岸の対立があるという)
 そして,上高地ダムの施行にともない,ダム下流の放流量の減少や,旱ばつ時の水量獲得に懸念の強かった下川地域,とくに左岸末流の中菅堰・真鳥羽堰では絶対反対の機運が強まった.ついに昭和30年8月には,中菅堰の役員の大部分が辞職してしまうという事態になった.左岸土地改良区の組合員の約4分の1を占めた両堰の反対は,開発にともなって,やがて新規地区へも分水するようになるから,たとえダム建設でいくらか供給水量はふえても,旱ばつに苦しんできた下川地域では「古田」維持に不安があるという点が主張の眼目であった.用水不足に悩みぬいてきた下川農民にとっては,近代的た大規模事業に対しても,急には賛成できないことは,一面で当然なことといえる.
 しかし,これらの反対に対し,左岸土地改良区の理事長や役員は説得につとめた.とくに,上流にダムを作った場合でも,下流へは水に不自由させないという,左・右両岸改良区理事長の「一筆」作成によって,ようやく解決をみたのである.
 ところで,翌昭和31年10月に通産省が上高地ダム地点のボーリング調査を行なった結果,同地はダムとして不適当なことになった.しかし,翌32年3月に長野県の総合開発局が,上高地にかわる奈川渡のダム地点を調査し,以後これが新しい計画となったのである.同32年5月には中信平総合開発の国営調査が決まり,翌6月には東京電力が奈川渡発電計画の調査を開始している.かくて同年9月には,地元の土地改良区の役員を中軸とした中信平地区開発期成同盟会(会長は上条安雄)が発足し,いわゆる「第3期土地改良事業」がいよいよ具体化する第一歩が始まったのである.
 やがて,農林省による国営中信平農業水利事業の調査や設計が進むにつれて,既成水田の既得水利権を守ろうという地元の運動がおきてきた.たとえば,昭和40年10月の国営事業開始時の計画でも,古田5,263ヘクタール(うち梓川右岸2,773ヘクタール,同左岸2,490ヘクタール.ほかに,波田堰289ヘクタール,黒川堰172ヘクタール,その他568ヘクタール)の用水補給のほか,開田1,428ヘクタール,田畑りんかん333ヘクタール,畑地灌漑2,847ヘクタールが含まれていた.
 折しも,昭和33年のマユ価格の急落に前後して,開田ブームがおきてきた.
たとえば,右岸地域だけでも,同33年に神林開田が計画され,翌34年には大久保・宮原開田の竣工,35年に和田西原開田の着工などがつづいた.
 これらの事情は,昭和30年における左岸下川の中菅堰・真鳥羽堰の取水確保の懸念を,今度は左・右両岸の既成水田の所有農民に拡大させた1つの要因といえる.かくて梓川の両岸土地改良区を後楯としながら,別個の組織として,昭和35年6月以後に梓川右岸・左岸水利権擁護期成同盟をそれぞれ組織し,8月にはこれを連合した梓川水系水利権擁護期成同盟会(会長は三溝紫朗)を発足させた.同会は農林省東京農地事務局の計画部長などの責任者に陳情し,既得水利権を維持するための「古田優先」を強力に主張したのである.
 昭和37年8月には中信平地区土地改良事業の計画が公表され,ついに同年12月末に全体実施計画調査地区に決まり,いよいよ実施設計に入り,昭和40年度から着工されることになった.これに備えて,梓川土地改良区連合では,実質的な合併をはかることになった.そこで,昭和39年1月に新事務所を建設・移転したうえ,同年4月には梓川右岸・左岸の両土地改良区を合併して長野県梓川土地改良区に組織がえしている.
 このように,中信平土地改良において,国営とそれに付帯した長野県営(昭和42年度から実施予定),および関連の団体営の事業が設計計画を具体化し,それぞれの組織が整備されるにつれて,とくに国営事業と既成水田を中心とした梓川土地改良区との間に対立点が明確になってきた.
 その第1は新規取水位置の変更問題であり,第2は代かきの増水分5トンをめぐる水路設計と負担金の問題,第3は中信平右岸・左岸土地改良区など新規用水と梓川土地改良区の「古田優先」をめぐる取水協定の間題であった.
 第1については,国営事業の計画概要では当初は新規開発地域の取水位置を,梓川土地改良区の新赤松頭首工より上流の新竜島発電所の放水口の直下に設けることにした.梓川土地改良区では梓川本流の新赤松頭首工から引続き取水することになっていたから,新規開発の余水を利用することになり,古田が優先されないという反対である.この問題は当初から討議され,すでに昭和37年1月に国営事業計画を樹立したときにも,農林省東京農地事務局の計画部長が既設水利権についてはその必要水量を優先することを確約し,同意をえたものである.そして,国営採択後の本設計において,計画変更を行うことが約束された.
 しかし,いよいよ実施設計の段階になると,農林省はなかなか設計変更に応じない.さらに昭和39年9月の関東農政局設計課長の説明では,かえって新規取水の優先計画を発表し,梓川本流が減水しても,自動的に定水を維持できる調節機の設置なども立案された.こうなれば,「古田無視」として梓川土地改良区では強い反対が高まってきた.
 もっとも,新規開発にともなって受益効果の大きい左岸側地では,反対によって中信平事業が不可能になることをおそれ,「不本意だが農林省案を飲む」との意見もあった.しかし,右岸部は絶対に反対であり,ついに昭和39年10月2日に,①梓川土地改良区は国営中信平土地改良事業から分離し,計画に参加しない,②国営中信平新規開発用水路計画については,梓川土地改良区の既得収益を最後まで確保する.以上をまとめ,農林省関東農政局に陳情書を提出したのである.
 同月12日に,梓川土地改良区の理事代表は,長野県耕地課長らの立会のもとに,関東農政局の建設部長らに直接陳情した.ついに取水口設計について,農林省は再検討を行うことになり,新規用水と梓川土地改良区の合口を約束し,確認書が取り交わされた.かくて,第1の問題は,既成土地改良区の主張がとりいれられたのである.
 国営事業が着工予定の昭和40年に入ると,既成の水利権や慣行を保持しようとする梓川土地改良区と,農林省や新規開発地区との攻防が激しさを加えた.たとえば,国営の全体設計が発表される以前の同年3月下旬に,梓川土地改良区では農林省に対し,設計変更などの問題について,文書による質問を行なっている.その解答について,不満な個所に対して,同年5月6日に再び土地改良区理事一同の連署で,農林省に陳情書を提出した.
 すなわち,1つは,梓川用水頭首工から梓川導水幹線を分岐した共用隧道は,上海渡において,中信平右岸・左岸幹線,波田堰,梓川補給水(代かき期の増水5トン分)に4分する計画であった.しかし,梓川土地改良区では,わずか1ヵ月ほどの増水分のために莫大な負担金を出費するよりは,共同トンネルには参加せず,その量を梓川本流に放流してもらい,赤松旧頭首工においてこれを取水したいと主張したのである.
 これに対し,農林省では,梓川は伏流河川のため,本流に放流しても,下流で5トンを取水することは困難であると考えた.将来を考え,共用トンネルから分水した方が良いとして,設計変更に応じなかった.
 ついに,昭和40年9月に長野県農林部長が仲介に入り,5トンの共用トンネドの負担金との関連もあり,国営事業所の開設後に,設計変更について,「県と地元で国の御了解」を得ることで,妥協が成立した.その後の経過は不明であるが,設計の変更は行われていないから,おそらく梓川土地改良区の負担金について,なんらかの軽減措置などがとられたのかもしれない.
中信平用水系統図
 次に,新規開発地区と梓川土地改良区の「古田優先」の取りきめ問題が,第2の陳情点であった.梓川流域では,古来から渇水期における配水問題が,地域的な対立の基本的な要因であった.近くは,大正末期からの第1期用水事業においても,既得権の主張した和田村が合口に反対した例がある.また,明治後に新設された最上流の波田堰と,下流の梓川諸堰との対立もきびしかった.これらの先例から,「古田優先権」を主張する梓川土地改良区では,新しい取水協定をまとめる前提として,新規地域の確認を求めたのである.
 これに対し,おそらく新規地域でも異論はあったであろう.たとえば,昭和40年の新規の幹線別の毎秒計画用水量は,代かき期の最大について,上段幹線1.537トン(養期の最大2.632トン),右岸幹線3.776トン(同3.332トン),
左岸幹線6.313トン(同5.248トン)にすぎない.これによって,右岸で開田652ヘクタール,田畑りんかん147ヘクタール,畑地かんがい2,132ヘクタール,左岸で開田777ヘクタール,田畑りんかん186ヘクタール,畑地かんがい715ヘクタールを開発しようとしている.他方,既存堰の用水補給量は,代かき期だけで毎秒最大は,梓川右岸22.339トン(ほかに用水補給を加え22.582トン,計画水田2,773ヘクタール),梓川左岸18.683トン(同18.871トン,計画水田2,490ヘクタール,)である.
 しかし,ついに昭和40年8月になって,新規の中信平左岸・右岸土地改良区の両理事長と既成の梓川土地改良区理事長との間に,農林省関東農政局建設部長と長野県中信平農業水利改良事務所長の立会のもとに,次のとりきめ書が取りかわされた.すなわち,既成水田者は,異常に最大渇水時においても,「当然他の何者より優先的に取水出来ると心得」,新規地域が古田の取水優先権を確認することになったのである.
 以上は,新規の大規模な土地改良事業の実施にともない,既成水田の取水量や有利な水利秩序をできるだけ維持しようとし,地域的に激しい対抗や調整のあったことを明示している.
 いずれにせよ,昭和40年10月から国営の中信平地区農業水利事業が開始され(52年度に完成),県営の中信平農業水利事業も昭和42年から実施された.これにともない,昭和42年10月には,梓川土地改良区・波田堰・黒川堰のほか,新規の中信平左岸・右岸土地改良区を含めた,中信平土地改良区連合が任意団体として発足し(事務所は梓川土地改良区),昭和51年4月に正式に設立したのである.
 (本項は,梓川土地改良区連合『総会会議録』昭和35・37・38年,梓川土地改良区『総代会議事録』昭和39~51年,同『理事会議事録綴』昭和38~41・43・45・47・49・51年,梓川右岸土地改良区『広報』1~4・特集号,梓川土地改良区連合『広報』1~4号,梓川土地改良区『広報』5~15号などを参照した)

Ⅲ 土地改良をめぐる指導者たち

 水利用をめぐる水量配分や新規事業,あるいは工費負担などをめぐる地域的な対立は,零細な耕地に頼る小農経営を前提としている日本農業において,これらを調停し,統合しうる地元からの指導者を必要とする.
 とくに大正中期ごろから,土地改良における地主の役割が減退しはじめ,これに代って,国営や県営による大規模な事業が中軸を占め始めた.これらの官営的な工事を誘致するためにも,地元の意向をうまくまとめ,中央や地元の行政と接衝しうる,政治的な手腕に富んだ指導者が要請され始めたといえる.
 以下,今回の聞取調査に基づき,主として梓川右岸地域における土地改良の指導者たちの特徴を整理してみよう.

1 梓川土地改良の代表者―上条安雄
 昭和22年4月に和田村長に就任して以来,昭和51年5月に80歳で退職するまで,梓川右岸と梓川連合の代表を勤めた上条安雄(以下も敬称を省略)は,梓川流域における土地改良の第一人者として,特筆すべき人物といえる.

 (1) 生いたち
 上条安雄は,昭和29年4月に父の利伝次(大正12年3月に和田村助役,同14年2月27日~9月3日までの和田村長)と母きくよの長男として,母方の里の東筑摩郡芳川村で生れた.父の利伝次は明治32年3月に文官普通試験に合格し,以後は松本・韮沢・大町・豊科・木曾福島・伊那・長岡・岡崎・尾鷲などの税務署を転勤したあと,掛川税務署長を最後に,大正11年12月に退官している.したがって,安雄は「官員さま」の長男として,当時の知識階級に属し,かたわら農業を祖父母が行なっていた.
 しかし,父は転勤がちであり,安雄は幼時は祖父母に育てられたり,和田小学校に入学後も,小学2~4年は父の任地の豊科小学校に転校している.明治43年3月に伊那町立尋常高等小学校の高等科2年を卒業後,4月に県立松本中学に入学した(受験者550人,合格者120名中の100番であった).翌44年に2年生に進学したが,中耳炎をわずらい,英語の講義が聞きとれぬため,恨みをのんで退学している.
 直後の明治45年4月に長野県立上伊那甲種農業学校に入学,8月には級長に命ぜられた(翌年にも副級長).この間,耳鼻科医にかよい,ようやく左耳だけが助かっている.3年後の大正4年3月に同農業学校を卒業し,和田村にかえって農業を始めることになった.しかし「農具一切無く金も無い」ため,新村の青木氏から20円を借金し,資金とした.翌5年には蚕室を建築するなど,農業に力を入れ始めた.同年に長岡から松本の税務署に転勤してきた父から100円の援助をうけ,借金も返済した.
 しかし,このころから家庭内の不幸がつづくのである.父の任地先の長岡女学校を大正4年3月に卒業した妹のミサヲは,翌大正5年3月に(新潟か)師範を卒業し,新潟県の辺地の先生となった.ところが,過労のため肺病をやんで入院し,同年11月に和田村に帰宅し,翌6年2月にわずか19歳で死亡した.女学校や師範の卒業生は,当時の才媛である.最愛の妹を失った安雄の悲哀は,それから60年を経た現在でも持続していたと思われる.筆者の聞取をうけた昭和53年11月でも,妹の話に及んだ本人の目は,まさに潤わんほどの状況であった.
 これに加えて,同じ大正6年には米穀商を営んでいた父の弟の三七が,大麦相場に失敗して倒産した.本家の長男として,安雄は父に無断で叔父の援助をすることになり,雇人2人を使って精米業を引受け,甥の正己(塩尻農学校を退学)を引取ることになった.(父は松本から岡崎税務署に転勤,母は和田に残って農業の手伝い).
 大正7年になると,第1次世界大戦の景気も下火となり,農業不況が加わった.そこで安雄は4月から神林小学校の教員となり,母の手伝いをしながら毎月9円を入金したという.しかし,一時帰宅した父から,精米業を叱って止めさせられたため,叔母(叔父は松本で飲食店)に籾40俵を資本として与え,10月から貸水車を経営させた(甥もこの精米を手伝い,やがて精米業を行う).
 大正7年12月に安雄は結婚したが,翌8年3月に笹賀小学校に転じたため,教員をやめた.4月に松本税務署に雇となり,6月末に伊那税務署に転じているが,前年から尾鷲税務署長となった父の後援があったのかもしれない.それも束の間,同年12月に当時世界的に大流行したスペイン風邪にかかって入院し,その間に妻は長男を生んでいる.その後も病後の回復が思わしくなく,健康に自信がないまま,大正9年5月に税務署を退官し,いよいよ和田村に帰って農業に専心することになった.しかし,これらのことも,安雄と父との間がかならずしもシックりしなかった一因であったのであろう.
 大正11年に掛川税務署長を退官した父は,帰郷後は島立で飲食店を経営した.しかし父は,安雄がマユを売り,肥料の買入れなどの商取引を行うことが気に入らなかったらしい.永く税務署に勤め,あるいは「官尊民卑」の考えがあったのかもしれない.安雄の商取引上に不都合があるとして,父が廃嫡しようとしたため,親子の対立は頂点に達した.安雄は1週間後に家を出ることを約束したが,その後になって,父がこの件を取消したため,安雄は以後相続人に定まったという.時に安雄は満26歳であった.

 (2) 村の指導者へ
 大正12年3月から,安雄の父は和田村の助役となり,大正14年2月には村長に就任した.もともと父は政治ずきであったらしく,安雄の生れた明治29年ごろにも,和田村を2分した政争にも参加した.父は宮島清九郎(和田村長を明治23年9月―29年4月,同43年12月―大正3年12月の3期9年6ヵ月も勤めた)ずきで,安雄の命名も宮島が決めたという.父の助役や村長の就任も,おそらく宮島派の支援があったのであろう.
 しかし,この時期は,前にもふれたとおり,大正12年の農商務省による梓川水利改良計画を契機に,第1期の水利改良事業が具体化しようとしていた.安雄の父も,梓川流域の最高水利責任者として,参加したはずであり,この推進に努力したはずである.しかし,これに基づく合口計画が,和田堰(管理者は和田村長)の伝統的な優位権をそこなうとの反対がおこった.ついにその責任をとらされ,安雄の父は村長在任わずか6ヵ月余にして,辞任している.
 その後は,父は失意のままであったのか,2年半後の昭和3年3月に57歳で死亡している.これを相前後して,安雄の祖母が大正14年2月に76歳,祖父が昭和2年7月に80歳で,それぞれ他界した.かくて安雄は,本格的に一家の首長となったのである.
 他方,安雄は「投機」の才もあったらしく,米や株式の売買も行ない,その利益で農地を集めたという.やがて経営面積は1町7反(うち水田1町)にも及び(なお第2次大戦後の農地改革で1町5反を解放),農業に対する自信も加わってきた.
 このほか,妹の死や叔父の倒産,事業や職業をめぐる父との葛とう,自分の転職や病気などの経験から,人生や社会に対する思索を深めたようである.たとえば,河上肇が主催した『社会問題講座』を愛読したり,安部磯雄の「貧乏論」にも共鳴したという.現在でも,「自分は無政府主義者」だとのべている.おそらく,当時における大正デモクラシーや社会主義思想の良き風潮を,努力して吸収していたのであろう.
 以上の諸条件を前提にして,安雄は昭和2年4月に和田農会の地区総代にえらばれた.はじめて地域の指導者としての第一歩を印したのである.以後は,昭和5年1月に和田村信用組合の監事となり,翌6年4月に和田村農会の総代に再選している.やがて,昭和8年3月に和田村の衣外区長(昭和10年にも再選)となり,地域の代表者に上昇し始めた.
 日中戦争が始まる直前の昭和12年4月に,初めて和田村の村会議員に当選し(41歳),18年4月に退職するまで,6年間にわたり,村の指導者としての訓練をうけたといえる.この期間は,戦争の激化した折ではあるが,同時に,昭和16年ころから第2期梓川水利改良の計画が進み,また第3期の上高地ダムの構想も始まっている.とくに,第1期事業をめぐり,安雄の父が解任された経験があるため,地域的た土地改良の必要や,それをめぐる対立と調整のきびしさについて,身をもって体験し,また肝に銘じていたはずであろう.
 (3) 地域と水利の指導者へ
 昭和20年8月の敗戦によって,上条安雄の新しい活躍場所が開かれたといえる.敗戦後の農地改革にともたい,1町5反の所有地を解放したとはいえ,同時に農民組合長にえらばれ,若き日に吸収した「大正デモクラシー」や杜会主義思想の希望を具体化しようとしたといえる.
 昭和22年4月に,第1回の公選で安雄は和田村長に当選した.時に51歳の働きざかりである.和田村長は,同時に和田堰普通水利組合・梓川左岸水利組合・梓川水利組合連合の組合長もそれぞれ兼ねたから,安雄は「水利は全く知らない」まま,梓川水系の最高水利責任者になったわけである.事業が再開された梓川第2期工事や昭和23年の大旱ばつ,翌24年の洪水などでも,安雄は最高責任者として目ざましい活躍をした.
 さらに昭和26年4月に和田村長に再選され,同村が昭和29年7月に松本市に合併したあとは,翌30年3月まで松本市和田支所長を勤めた.そして昭和30年4月には,松本市選出の長野県県会議員に選ばれたのである(58歳).県議は「金がかかるので,後援者に酒を飲ませて」,再選を断わったという(昭和34年3月まで).いよいよ,長野県,とくに中信平の指導者としての訓練と抱負をみがいたといえる.
 その間,普通水利組合が昭和26年以後に梓川右岸・左岸の土地改良区と連合に改組された.安雄は,和田支所長退職後も,昭和30年11月に梓川右岸土地改良区の理事長(同時に右・左両岸連合の理事長)に再選して以来,昭和51年5月の退職まで,前後実に29年間に及び,梓川水系の最高責任者を勤めたのである.
 このほか,昭和29年11月には梓川総合開発期成同盟会長,翌30年7月には建設省むけの信濃川水系砂防工事促進期成同盟会長などに選ばれ,いよいよ第3期用水改良事業の実現に努力したのである.これらをめぐる,地域的な利害対立や,その調整については,前節でふれたので省略する.
 (4) 中信平開発と政治交渉
 ところで,発電とダムを含む,多目的で大規模な総合開発事業を行うためには,その費用分担の振りわけと地元負担金の軽減が,地域の指導者にとって不可欠な役割となっている.このためには,地元と県,さらには中央の出身政治家を動員し,陳情や圧力を加える政治的な交渉が現在では決定的な位置を占めているといえる.この動きを演出できる者のみが,はじめて実質的な指導者とたりうるとさえ断言できるであろう.
この例を,中信平開発事業における東京電力の奈川渡ダムの建設決定と,国営事業の決定過程からながめてみよう.
 まず,中信平地区開発事業の昭和38年度の採択(全体実施計画調査)をめぐり,農林省の予算折衝が始まる昭和37年7月から,陳情運動は熱をおびてきた.7月16日に中信平地区開発期成同盟会(会長は上条安雄)を結成したあと,翌日は地元選出の増田甲子七・唐沢俊樹・下平正一(社会党)の3代議士と県議5名を動員し,農地局の計画・建設・技術3部長に38年度採択を陳情している.
 以下,『長野県梓川土地改良区連合広報』第2号―中信平採択特集号(昭和38年3月20日)の「中信平経過報告」から抜萃すれば,次のとおりである.
(昭和37年)8月6日上条会長,松島・倉科副会長,塩尻市中島収入役,岩本秘書,中村所長一行,農地事務局長,計画・建設部長へ国営採択陳情・(中略)
 8月27日 増田代議士,野知参議院議員の案内により,農地局長,計画部長,建設部長,技術課長,かんぱい課長に,38年度国営採択について陳情
 9月4日 中信平地区開発調査事務所に於て,正副会長会を開催,今後の方針について協議し,農林省第1次審査に当り,増田・野知・唐沢先生に,農地局,関係者に国営採択方を,依頼打電す.
 これらの運動が功を奏し,農林省では国営採択が決定した.いよいよ舞台は,大蔵省の査定に移る.
 9月12日 増田代議士案内にて,大蔵大臣,大蔵次官,主計局長外へ,国営採択方陳情.
 9月23日 地元選出県議と正副会長会,合同会議開催.
 10月2日 同盟会員出県し,知事,副知事,関係部局長に,中信平総合開発案の促進について陳情.
 また,奈川渡ダムや発電所を建設する東京電力に対しても,次のような運動を行っている.
 10月23日 地元選出県議員連盟役員及び正副会長合同打合せ会開催,東電対策案について懇談した.
 10月30日 増田代議士,県相沢局長,尾崎・深沢・中田各県議,東京電力を訪れ,木川田杜長,白沢常務と懇談,奈川渡ダム着工について1日も早く意志表示をする様申し入れた.
 11月4日 増田代議士から10月30日の東電との打合せ事項について報告あり.
 11月13日 増田代議士,東電が奈川渡ダム実施の決定について記者会見をした.
 かくて,政治的な運動も加わり,ついに東京電力によるダムと発電所の建設が決定した.次は,いよいよ国営土地改良事業の採択である.以下,「報告」はつづく.
 l月7日 上条会長外上京し,参議院議員木内四郎氏の案内により,大蔵省に陳情.
 11月16日 松島副会長上京し,大蔵省へ陳情した.
 11月17日 増田代議士,地元選出県会議員は正副会長合同会議開催,中信平開発事業につき打合せ.
 11月20日 県農政部長,中田県議,横田県議上京し,農林省へ陳情.
 11月20日 正副会長,増田・唐沢代議士に陳情し,更に農林省,大蔵省へ陳情.
 12月8日 上条会長,松島副会長,木内参議院議員の案内により大蔵省へ陳情.
 12月13日 小松・時田・武田副会長,唐沢代議士に陳情し,大蔵省へ陳情した.
 12月18日 上条会長,倉科・松島副会長,木内・野知・重政庸徳代議士に陳情した.(中略)
 しかし,以上の努力にもかかわらず,12月22日の大蔵省第1次内示では,中信平地区は採択されなかった.そこで第2次内示をめぐって,激しい運動が加わったのである.すなわち,以後は速日,次のとおり.
 12月23日 上条会長,中村所長,上京,農林省陳情.
 12月24日 笠原副知事,宮坂開発局次長上京,農林省へ中信平地区採択方陳情した.倉科副会長,丸山助役,上京,上条会長と共に唐沢代議士に陳情.
 12月25日 上条会長,倉科副会長,中村所長外,増田・木内・野知代議士に陳情.
 12月26日 県酒井耕地課長,上京し,上条会長,中村所長等と増田代議士に陳情した.
 12月27日 知事上京し,酒井耕地課長,倉科所長,中村所長,小池係長,三村課長,上条会長,増田代議士に面会,農地局へ陳情.午後,唐沢代議士の案内により農地局へ陳情.
 12月28日 副知事,松島・武居・倉科副会長上京し,上条会長,酒井課長,中村所長と増田・唐沢・木内代議士に陳情.
 このように,地元の役員や選出県議,長野県や国の出先機関,および国会議員という,官民の総力をあげた運動の結果,昭和37年も押しつまった12月29日

の午前0時30分に,中信平の採択が決定したのである.
 これらの過程において,地元の最高責任者であった上条会長の活躍はめざましかったという.彼は,国営採択の苦心談を,『広報梓川土地改良区』54号(14号の誤植か,昭和49年5月30日)の中で,次のように述べている.
 増田先生が案内で田中大蔵大臣に自分1人で陳情した事は一生忘れられない場面だ.今の田中首相は……君万事承知した,宜しいとの一言で,中信平国営事業は採択されたのだ.この国営予算には元の大蔵省主計長官の木内先生の指導による主計官等の陳情の手引があったが,ここでは書けない.
(後略)

 (5) その指導力
 現在の土地改良事業が,国営・府県営と付帯した団体営を含む大規模たものが中軸である以上,国や県などに交渉して,これを計画・実施させ,また広範かつ利害の対立した地元を調整できる,外と内,いわば上と下とを統合できる指導者が不可欠である.いずれの大事業でも,そしていずれの大土地改良区でも,このような指導者が練りあげられるものである.
 中信平総合開発や梓川流域では,その最高の指導者が上条安雄であった.そして,上条にそれが可能であったのは,いかなる理由と条件があってのことであろうか.これは梓川の地域とその中に育った上条の個性,さらに長野県の位置や国政の方向,あるいは土地改良区の理事や地域選出の県議や国会議員たちの,複雑た相互依存と行動目標の組合せのたかから,醸成されるものであろう.簡単にはまとめきれるものではないが主だった点を整理すれば,次のような特徴をあげるであろう.
 まず第1に,上や外に対する交渉や説得についてみよう.上条は中信平地区1万700ヘクタール,組合員1万3千8百余名の安否を代表しているという責任感と自負に加え,この事業は地元の有志が発企し,この実施によって地域だけではなく国益にも連なるという自信に,いわば満ちている.上条は,80歳をこえた現在でも,6尺豊かの堂々たる体?から,熱情あふれる応答を続けることができる.ましてや,理事長時代には,その責任感と抱負に基づき,国や県,あるいは国会議員に対して「魅力的」ともいえる圧迫感と説得力を与えたといえるであろう.同時に,交渉や陳情において必要な手段や方法を,綿密に聞取り,あるいは調査し,地元の代表や県,国会議員をできるかぎり動員し,可能なかぎりの努力を傾けたのである.
 「上条理事長に会うと,かえって代議士先生の方が叱られているみたいだ」という話をきくのも,以上のような態度の1つを示しているものといえる.たとえば,代議士にとっても,選挙のために地元の利益を確保しようという意図とともに,上条の「気魄」に押されて,いよいよ計画実現に努力したという点があったのかもしれない.
 第2に,お互に利害対立の激しい広大な地域を調整し,計画実現のために,地元を統合して国や県,あるいは代議士に「圧力」を集中できる能力が問題である.このためには,利害対立を含みながら,これをこえて代表者に自分たちの願いを委任できる信頼性が不可欠であろう.この資質は,たんに村議や村長,水利組合や土地改良区の代表,あるいは県議や代議士などに選ばれただけでは,取得できるものではないといえる.
 上条は,少年時代から病気や退学,家族の不幸や父との不和,転職や災害などを経験し,人生や杜会の機微や対応について,人一倍の修練を経ている.一面では,義理人情的な気質の鋭い人といえる.たとえば,中日戦争中に上条が村会議員であったとき,大旱ばつの年があり,下流の村では配水ができたくなり,「白穂が出てこれに火をつけて焼いた.悲しい話」を聞き,心を傷めた経験もある.
 また,敗戦後に初の公選で和田村長となり,梓川水利組合連合会長を兼ねた1年後,昭和23年8月にも大旱ばつに襲われた.左岸下流の南安曇郡明盛・高家村では,15日間も水がかからず,水田は8角割れで,稲の葉は丸まっていた.上条は自転車で現地調査をし,下川の中菅堰を視察した.すると,1人の老婆が川の中の川止めに坐り,泥を自分の体に引きよせ,一滴ももらすまいと田に水をかけていた.老婆は「この水を下流にもっていくなら,殺してもっていけ」と叫び,上条はその「真剣な恐しい顔」は今でも忘れることができないほどで,返す言葉もなく引返したという.
 同時に,明盛村の集会所には,鍬をもった男女が100人以上も集まり,上流の水門を壊しにいくと気炎をあげていた.上条は,左岸水組合長(連合会の副会長でもある)を兼ねた梓村長の金井虎雄を督励し,「3時間待て,必ず全部の水田に水をかけてやる」と集まった人たちに言明した.そこで,まず左岸の水門を全部閉鎖させ,さらに右岸の全用水を左岸に廻し,明盛・高家村に「満々たる水」を流した.枯死寸前の稲は「ざわざわ」と音をたてて水を吸いあげ,「葉はみるみる開き,緑がよみがえるのを,並み居る人達と声もなく見つめていた」という.
 これらの旱ばつの悲惨な経験と,それへの対応から,「水は作物の命である.いや万物の命である」ことを痛感した.この教訓から,上条は「自分の使命はこれだと心に誓」い,それ以後は「水心以為心」を自分の精神としているとのべている.
 (以上は,上条安雄「理事長生活二十九年を顧みて」―全国土地改良区連合会『土地改良のしるべ』267号,昭和50年9月15日,などを参照)
 このほか,上条は和田村長時代には,個人の家庭相談に多くの時間を割いたという.村内の自治や融和のためには,末端の家庭内における矛盾について,相談にのり,できるだけ個人的な重圧を軽くしようと努力したのであろう.村民一般からの,上条に対する信望が深まるのは,当然のことといってよいであろう.なお,これは他面では,上条の積極的な開放的な側面を示すものといえる.しかし,このために多大の時間とエネルギーなどを費したはずであり,上条も「村長の方が,県会議員よりもむずかしい」と述懐している.
 次に,水利についても,地域的な利害対立を調整できる能力が,指導者にとって必要である.たとえば,上条が和田村長に就任する以前には,和田堰から下流への分岐点である柳間地において,渇水期などには水量を制限する慣行があった.このため下川地区の島内村から,配水量の制限を加減してもらうため,そのたびごとに酒2本を和田村に持参して,請願したという.上条はこれを不合理と考え,昭和22年に和田村長に当選すると,この「悪習」の廃止を決定し,酒2本を島内村に持参して,これまでの「非礼」をわびたという.
 このほか,中信平総合開発をめぐり,新規地区と「古田優先権」が対立したときでも,上条はこの調整に努力している.上条は,これらの最高責任者であるが,つとめて「独裁」にならないよう,できるだけ役員や地域住民と相談しあうことに力を注いでいる.しばしば会議がもたれたばかりではなく,総会や理事会などにはかならず挨拶をおこない,この時期における,地域や県,日本や世界の重要問題を消化し,わかりやすく説明している.
 とくに,地域の代表や住民との意志の疎通を深めるため,上条は広報活動を重視している.昭和35年1月からは梓川右岸土地改良区の(1~4号と特集号),昭和37年9月からは左岸を含めた梓川土地改良区連合あるいは梓川土地改良区の(1‐14号),それぞれ「広報」を発行している.しかも,この広報の編集は,毎号とも上条が陣頭指揮を行なったとみられ,さらに原稿の多くは上条自身が執筆しているのである.
 そして,これらの活動を通じて,上条は利害対立の調整をはかったのである.この「人の和」をうるために,上条は上からの「圧力をさけ,下から」まとめあげることに努力したという.「もめても良いから,だんだんとほぐしていく.ほぐれた糸は,外からほぐし,だんだんと消していく」のと同じことだと語っている.人情の機微をとらえた,苦労人というべきであろう.

 (6) その個性
 地元の意向を前提にして上や外に圧力を加え,また官の補助や国や県の「選良」との相互依存関係を背景にしながら,地域の利害対立の調整をはかるという,両面の接点にある指導者の能力は,どんな人にでも与えられるものではない.もちろん,これらの行動を必要とする位置に押され,その「責任」を果す過程で自己形成されるとともに,これらの「重責」を苦にもしない個人的な資質が不可欠であろう.
 上条の場合,「人がらの良さ」という生得の一面が,それを可能にしたといえる.談論風発,温顔から人に接する態度は,おそらく反対者でも上条の意見の一部を取りいれずにはおかない条件になったのかもしれない.これらの性格は,妹の病気や叔父の倒産の場合でも発揮され,その後は村議や村長,県議や水利団体の役員などの指導者を重ねることによって,さらに醸成されたものであろう.
 同時に,若い時から「仕事熱心」であり,とくに「時流を先取り」しようとする長所に富んでいる.大正デモクラシーや河上肇,安部磯雄などの「社会主義思想」にもふれ,現在でも,自分は「無政府主義者」と自称している上条である.また代用教員中のかたわら,「専科訓導」の資格をとったり,現在でもひきつづき『日本経済新聞』を購読し,「気を若くするるために1日に1‐2時間は,考えることにしている」という勉強家でもある.
 そして,若い時には「米や株式の投機」にも手を出し,その利益で農地を買い出したというから,相当の「現実対応」能力と「度胸」にも恵まれている.また県議就任中の昭和31年には60歳で小型バイクの免許をとり,さらに68歳の昭和39年には普通自動車の運転免許をえている.こういった「好奇心の強さ」や「新しさに耐える」能力が,敗戦直後の村長当選時代に,梓川第2期開発の発電計画をめぐり,それを理由に圧力をかけようとしたアメリカ占領軍にも,上条が対応できた1つの理由であろう.
 同時に,上条には反面では「人を寄せつけない」厳しさがあるといえる.たとえば,75歳の昭和46年から,「自分の家」を建てはじめ,成人した子供たちとは別に,自分だけで独居する期間が永いという.若いときからの人生や杜会の厳しさに対する体験と認識が,一面では「人柄の良さ」を醸成するとともに,他面では,それに対応しうる「自分」への激しさを修練したのかもしれない.老年になってからのバイクや自動車の免許も,一面の「若さ」とともに,他面では「自分」に対する働きかけの表現ともいえる.
 人生への苦悩や父や社会への批判が,社会思想への接近を生み,やがて自分自身への反省や,物事を客観的に外からも眺めるという態度を修練させたのかもしれない.部落や村,地域に生きつづけならがも,これらの利害の上に立って,それぞれの対立を,より大きな位置から眺め,これらを調整しうるという能力は,「私利私欲」をこえた立場からでなければ修得できないからである.
 これらの性格は,上条が中学時代に中耳炎をやみ,現在でも便秘症に悩むといった身体的た条件がそれに対応する過程で,さらに自己反省的な特徴を増幅させたのかもしれない.また『臼本経済新聞』を購読し,1日に1~2時間は「考える」時間をもつという,上条の生活が,その性格を強めたのであろう.水利団体の総会や理事会,あるいは広報のたびごとに,上条がのべる挨拶には,現在の地元の関心事に加えて,これに影響を及びすと考えられた日本や国際事情について,かならずといってよいほど触れているのである.
 そして上条は,批判し,考えるだけではなく,これらに基づいて積極的に行動をまきおこすことに特徴がある.水利団体の最高責任者である上条の言動が,地域に大きな影響を及ぼすことは,たしかに当然なことといえる.しかし,上条には,若い時代からの農業経営の経験という,地に足のついた生産と生活の体験がある.農業から浮いた指導者とは異なった説得力を,上条の言動は地域の農民に与えることができたといえる.
 そして上条には,日本農民に特有な「勤勉性」が身についている.これらについては,これまでの記述で明白であろう.たとえば,上条は自分の行動について詳細で綿密な記録メモをつけ,未公開ではあるが昭和24年以降について「我日記」として草稿をまとめているなどである.また「財産は身体」だと考え,身体のためには「仕事」が第1とのべている.現在の老人対策についても,「職を与えた」方が良いと考えている.なお体調の維持については,上条は「構造の生態」という哲学があるらしく,なるべく「機械的」な対応はさけ,たとえば難聴になっても,「補聴器」は使わないという.
 いずれにせよ,中信平開発1万ヘクタールの地域をまとめたのは,1万3千8百余名の農民からえり出された上条安雄であった.そして,上条を支えたのは,これらの人々と地域を充実しようという使命感であり,「水心以為心」の精神であったろう.これらの地域的な利害対立を調整し,上と外とに対して大事業の実現を交渉する過程で,上条の個性と相互に複合しあいながら,指導者としての資質が醸成されたことはいうまでもない.
 その場合,上条の資質形成や使命感を支えた背景は何であったろうか.おそらく,自営的な農家の長男に生れ,政治ずきの父が税務署員ややがて和田村長となった家庭に育ち,上条もまた教員や税務署員を経験したという,地域の指導者としての意識ではなかろうか.この上条の意欲が,やがて村議や村長,さらには県議や水利団体の責任者となって,さらに修練をうけ,名実ともに,そして内と外から,地元に根を張った指導者としての資質を強めていったのであろう.
 (本項は,「上条安雄の経歴」(自筆)などを参考にした)

2 技監的な指導者―吉沢秀雄
 上条安雄を梓川土地改良区の「表」の最高指導者とすれば,いわばその女房役ともいえるのが吉沢秀雄である(以下も敬称を省略).吉沢は,実篤かつ土木技術に優れた土地改良区の役員であり,「水利は全く知ら」なかった上条をたすけ,まさに「採長補短」,両者一体となって梓川の開発計画を推進したといいうるほどである.

(1)その経歴
 吉沢は,太平洋戦争に島立村の農業会の常務と専務を1期ずつ勤めたあと,敗戦後は村議に1期えらばれた.その後,推せんされて「止むをえず」島立村の助役となり,やがて村長に公選され,松本市に合併するまで在任した.若い時から,吉沢は水利に興味をもち,昭和初期ごろから槫木堰の堰守(1期)や,用水土木係(昭和6年の梓川右岸普通水利組合の設立以後は常設委員を永く勤めた.島立は槫木堰の水がかりであり,とくに梓川の下流に位置した旱ばつ常習地帯であったため,「水と村」とは深い関係があった.吉沢はこれらの経験から,水利や土木技術に詳しかったため,島立村の助役や村長に選ばれたという.
 事実,吉沢が助役時代の昭和24年に大水害に襲われ,豪水で牛ワクが流出した.対策に吉沢が陣頭指揮にあたったが,180の牛ワクをいれ,そのうち160が流出してしまった.村まで用水を取入れられないため,役場に帰るに帰られず,吉沢は牛ワクの上で苦闘しながら過した経験があるという.これは槫木堰の管理を,島立村の役場で行なっていたため,吉沢がその担当責任者となったためである.
 また,旱ばつ期や水不足の時には,島立村では村内の配水に苦労せざるをえなかった.槫木堰の水利は,北川(もとの榑木川)と南川に分れ,一般に後から開設された南の方が水不足になりやすく,とくにその北栗・三の宮部落の被害は大きかった.分水や番水は年中行事であり,榑木堰では,部落ごとに委員をおき,そのうえに南・北ごとに堰守と用水土木役(水利組合の設立後は常設委員)各1人をおき,村長(同,総代)がこれを統括した.このうち常設委員は,水不足地帯ではとくに重要な役割をもつため,村長は村議などと相談し,地域の代表となるべき人を直接に任命したという.したがって,堰守は普通は1期交替であったのに,常設委員は交替が少なく,同じ人が続ける場合が多かったという.
 吉沢は,永くこの常設委員を勤め,水利と土木技術に専念し,ほかの役職には目もふれなかった.しかし太平洋戦争中から,止むをえず農業会や役場の幹部に選ばれ,槫木堰の責任者となったのである.島立村長の退職後も,ひきつづき梓川右岸土地改良区の総代や理事に選ばれ,とくに工事担当に力を注いできた.上条理事長とは,共に村長時代からの旧知であり,土地改良区においても吉沢は総務や業務委員会の委員長として,上条を支援した.

 (2) その生いたち
 吉沢秀雄は,明治29年10月12日に東筑摩郡島立村の堀米新田に生れた(現在は松本市に合併).上条安雄と同年であり,聴取時の昭和53年11月には82歳であった.丸顔の温容を秘めた篤実な人物にうかがわれたが,眼鏡の底の眼光は鋭かった.比較的に寡黙な方であり,あまり自分を語らず,また「履歴書」なども得られなかったため,概略を記すにとどめる.
 父は,事業を好み,蚕種業中心であったが,焼岳が噴火して桑がやられたあとは,養蚕に変えた.兄が日露戦争で戦死したため,家を継ぐことになったという.松本市の私立中学を中退したあと,大正5年に兵役となり,東京の近衛師団に勤務した.大正7年の米騒動には,東京市内に出動したという.近衛兵というのは,当時の模範的な兵隊から選ばれたから,吉沢は学術優秀,健康優良な好青年であったのであろう.
 兵役を終えてから,本腰を入れて水田経営に力を注いだ.この地域は早害常習地であったから,吉沢は「夜に盗水」したこともあるという.旱ばつのため,堀米新田ではとくに水不足が激しく,水田を止めて桑畑にかえたものもあったそうである.このころから,水田と水利に「一生をかけ」るようになった.もともと「物しらべ」が好きな向学の士であったから,部落の水利や土木技術の勉強にも努めたのであろう.その実力を認められて,前にのべた堰守や用水土木係(のちに常設委員)に選ばれたといえる.
 前にふれたように,槫木堰は梓川右岸の下流島内堰や,左岸の中萱・真鳥羽・飯田堰とともに水量の不足な下川地域に属する.しかも,槫木堰は下川の最上流に位置し,下川地区のまとめ役も兼ねていた.吉沢は,用水土木係や常設委員に選ばれ,地域ごとの配水のほかに,旱ばつ時には下川のまとめや上川への配水交渉に苦労を重ねたはずである.この過程で,配水をめぐる地域的な利害対立の調整に修熟したことであろう.とくに旱ばつ常習地の多い榑木堰に関係した吉沢は,梓川最流末における水不足を解消する方法について,心を悩まし,また方法を研究したのである.

 (3)梓川総合開発の推進
 敗戦後に,吉沢は島立村の助役と村長に選ばれ,槫木堰や梓川土地改良区の役員になった.これまでの抱負を実現できる立場に昇ったといえる.
 折しも,昭和25年に梓川第2期の用水事業が完了した.水門式の堰場によって,高水時の水害はたくなったが,水量はそのままであったため,下流の旱ばつ被害はひきつづき残った.そのうえ,赤松発電所の新設にともない,ピーク発電などによる異常高水などのため,かえって水量が不安定となってきた.この対策を研究した吉沢は,水路式発電所には上流に逆調整池を付設することが法制化されていることをつきとめた.これが,ダムを併う,第3期梓川事業計画の発端の一因となったといえる.
 そして,土地改良区の最高責任者は,吉沢の同僚で旧知の上条安雄であった.上条の「川上の和田の一株の稲も,川下の島内の一株の稲も,いずれも同じ」という語を合言葉にして,吉沢はともにダム計画を推進することになった.土地改良区のほかの役員などを説得しつつ,しだいに梓川総合開発の計画は拡大していった.これらが具体化しはじめたのが,前にふえた昭和29年の梓川水系総合開発期成同盟会や,翌30年の信濃川水系砂防工事促進期成同盟会などである.これらの運動のその後の動きについては,前項にふれたので省略する.
 なお,これらの計画や運動において,吉沢は上条理事長を助け,その推進に力を注いでいる.たとえば,昭和29年11月には,吉沢は上条らとともに長野県の総合開発審議会に陳情などを行ない,ついに上高地ダムの計画を採択させているのである.このほか,吉沢は土木技術の研究と応用経験から,第2期梓川工事の技術的な欠陥を指摘したり,また第3期国営事業の設計変更についても,多くの地元案の基礎を立てたとみられる.地元出身の土木技術専門家として,大きな役割を発揮している.
 「用水は自分の魂」であったとのべる吉沢は,第3次梓川開発事業によって,永年にわたって苦しんだ下流の水不足がやっと解決され,現在では水を「水と思わない」ほどの発展を示したことに,感慨無量の思いであった.これまでに至った先人の苦心,とくに旱ばつ期の分水や番水,あるいは第1~3期の梓川用水事業にともなう地域的な利害対立など,現在の若い人びとは思いおこすことがなくなってしまうであろう.
 国営事業の終った昭和51年5月,吉沢は上条理事長をとき,永年にわたる梓川土地改良区の役員の地位を,共に去ったのである.

 3 地域に根づいた指導者―藤牧進
 上条安雄理事長や吉沢秀雄理事が退職したあと,梓川土地改良区の新理事長となった窪田一男を補佐し,右岸地区の長老的存在といえるのが,神林居住の藤牧進(以下も敬称を省略)であろう.藤牧は,現在は中信平土地改良区連合の理事を勤めるほか,梓川土地改良区の用排水委員長と和田堰担当理事を兼ね,また新和田神林堰協議会の会長に選ばれ,地域的な水利調整の最高責任者といえる.
 このほか,神林開田の推進者でもあり,現在も同地区を管理する神林土地改良区の理事長となっている.

 (1) 神林開田の推進者
 梓川の右岸地区では,昭和32年ごろから,揚水式ポンプによって畑地を造田する開田ブームがおこっている.たとえば,昭和33年には土地改良区による団体営の開田事業だけでも6地区を数えたという.昭和34年に完成した神林下神開田,大久保・宮原開田,あるいは,和田の太子堂開田(27ヘクタール),などである.これらは,比較的に小規模なものが多かったが,これに刺激をうけて,昭和34年からは神林開田(36年に完成,163ヘクタール)翌35年からは和田の西原開田(37年に完成,163ヘクタール)が始まった.
 1つには,そのころから繭価の暴落が目立ち,また畑作農産物の伸びなやみによって,畑地の造田意欲が増進しはじめたことが背景になっている.2つには,この地方で開発された保温折衷苗代などの新しい稲作技術が普及しはじめ,一本の線で管理する(これは古田の節水栽培を含むもので,梓川右岸土地改良区と神林堰用配水委員,町会長,一般農家から,それぞれ7名ずつ合計21名からなる水利統制委員会を新設した).③古田優先にて灌漑せしむる(神林地区全体の水利統制を行ない,水不足のある古田地帯に重点的に配水し,開田地帯への時間的給水を容易ならしむ).④各重要な分水には制水門を設け,水の運用を円滑にする.⑤新規開発せる農地を下横切関係者に有償にて再配分する(農家の水田面積に比例して分割,土地代だけを支払ってもらった.はじめは全面積の20%を予定したが,20町ぐらい,約15%でおわった).
 このほか,神林開発委員会のなかに,土地の評価を行ない,開田後に土地清算の資料をうるため,土地調整委員24名を設けた.また,これに基づいて交換分合を行ない,耕地の団地化をはかるため,8名からなる換地委員会を設けている.
 なお神林堰は,和田堰から分離したあと,和田の太子堂公民館の前にあった辻堂分水において上下にわかれ,昔からの慣行で水量を自由に動かすことができなかった.この2流は,鎖川を横断して下流の神林地区に及んでいた.このうち,上横切は,川西・南水寺の開田をはじめ,南荒井の末流にある町神開田などの新しい開田を多くかかえ,余水に乏しかった.そこで,下神・町神・梶漁渡に給水する下横切から,神林新田のための補水をえようとしたのである.
 かくて,神林地区内の同意がえられたので,昭和33年11月に開発委員会を神林開田組合と改称し,計画をさらに進めた.約182ヘクタールという開田に対し,他地域とくに水不足に悩んだ島立・島内地区の了解が不可欠なのである.これらをめぐる折衝は,開田組合の幹部たちが,多大の時間とエネルギーを必要とした.
 以下,同委員会や組合の代表者に選ばれた藤牧進の「神林開田について」(神林長寿会『思い出の文集』昭和51年3月)などから,主な経過を摘記してみよう.
 昭和34年2月18日 梓川右岸改良区へ開田計画の申込み.
 2月22日 和田堰関係理事,三溝・篠井・岩間3氏訪問す.(中略)
 2月27日 和田堰理事と懇談.
 3月6日 島立の理事吉沢・大久保両氏,島内理事島村・高山の4氏と懇談.


 3月11日 和田堰の総代と懇談,全員の決議を得た.
 3月19日 梓川右岸改良区神林総代と島内の総代と話合うことになっていたが,島内からは2人の理事が来たのみ.
 3月28日 島内支所において神林の総代理事と島内の総代理事と話合ったが,結論は出なかった.(中略)
 5月8日 理事及各部落開田組合長との合同会議において,この事業を県に申請することを決議した(注昭和34年度の新農村建設計画事業とするため).(中略)
 以上からも,部落ぐるみの開田意欲をまとめ,事業費の補助をひきだすため,新農村建設計画を活用しようとしたことがわかる.そして計画設計は長野県耕地課があたり,測量設計は県の土地改良事業団体連合会がおこない,松本市農政部(神林村は松本市に合併していた)がこれに協力することにたった.
 しかし,新規の配水や,神林堰における水利慣行の変更は,上・下流地域における懸念をなかなかはらしにくかったようである.これらをめぐる水問題の利害対立については,県庁からも昭和34年7月中旬ごろまでに,関係地域との間に協定書を作るよう要請されていた.
 これらをめぐる,土地改良区内での調査は,『土地改良区広報』の創刊号(昭和35年1月)によれば,次のとおりである.
 昭和34年7月28日 右岸理事会,神林地区開田問題につき協議.
 8月6日 右岸理事会,神林開田について協議する.
 8月11日 神林開田に伴う神林・島内の協定を松島地方事務所に於て行う.
 8月12日 右岸総代会を和田農協会議室に於て開催.
 かくて,とくに島内地区に対する古田優先の協定を終え,ようやくにして神林開田の決議をうることができたのである.同じ昭和34年8月に,神林開田組合を解散し,神林土地改良区設立準備委員会を結成した(設立認可は,翌35年4月).これは,一面では,事業費の自己負担金のうち,農林漁業資金からの借入をうけるための条件でもあった.
 昭和34年11月に起工し,竣工は37年8月である.組合員合計452人のうち,神林地区は413人(開田面積132.4ヘクタール),和田地区が23人(同5.9ヘクタール),今井地区が16人(同9.2ヘクタール)である.なお,総事業費1億1,779万余円のうち,補助金が130万円,農林漁業資金からの借入金が9,255万円,当初の自己負担金は2,394万余円であった.

 (2) その経歴
 神林開田の推進者であった藤牧進は,明治37年8月に,元の神林村町神に生れ,昭和38年11月の聞取時には78歳をこえ,梓川土地改良区の最長老である.しかし,水田2町,畑約5反,乳牛5頭,夫婦2人と年雇1人で自営する篤実な自作農であり,地域の指導者といったきらびやかさは見られなかった.
 祖父は和田堰の理事も勤めたというから,地域の有力者の家柄であろう.父は3男であったが,日露戦争に重砲兵として従軍したが,その後に中気にかかり,農業をついだらしい.伯父のうち,1人は村役場や税務署に勤め,別の1人も教員であったというから,村の上層知識階級に属している.また第2次大戦前には,神林・今井村の大地主で,籾1,200俵の小作米を集めた野口家が東京に移ったあと,藤牧の父はその管理人を勤めたという.もともと地域の有力者の家だったのである.
 藤牧は長男のため,農業を継いだが,弟は松本高校(一時は病気のため,小学教員を5~6年勤めた)・九大冶金をへて,住友金属や関東特殊鋼に就職し,現在は神奈川県の藤沢市辻堂に居住している.また,妹は山一証券の社員に稼したが,義弟は応召・引揚後,帰村して平地林工町の解放地を開墾し,現在は畑4~5町(借地を含む),乳牛50頭を飼育する篤農家になっている.
 藤牧は,華やかなことをあまり好まない地味な性格とみられるが,昭和30年ごろに神林村農協の専務に推され,1期のあと,前組合長が村長に当選したため,その後をついだという.以後は同農協が松本市農協に合併する昭和47年まで,17年間にわたって農協組合長を勤めた.このほか,主な役職としては,戦時中に農業会の理事になったという.
 さらに藤牧は,昭和30年ごろから梓川土地改良区の理事に推されたという.もともと,藤牧は「選挙」などは好まず,たとえば合併後の松本市会議員におされたこともあるが,ことわったほどである.土地改良区も,「時代が変ったから」出ろということで,引受けたと語っていた.村長や農業会などの経歴者が,土地改良区の役員になる例は多いが,この地方では,藤牧のように農協組合長が水利も担当することは珍しいといえる.地域のまとめや利害対立の調整者として,藤牧は信望を集めたのであろう.
 農協という実務や経営の修練を経た藤牧が,水利の理事になると,やがて神林開田の推進者となったのである.実業的な能力が,水利開発という新事業のまとめ役や調整役に最適であったのであろう.具体的な経済実態に応じながら,水利についても旧態を是正し,新規開田を推進するという難事業を行わせたといえる.
 昭和43年から,中信平総合開発の県営付帯事業によって,新和田神林堰が開さくされることになった.おそらく,藤牧は和田堰の上流に開設する新堰についても,その計画や実施にも努力したとみられる.工事の計画や負担,あるいは古田との調整などのため,この新堰に関係ある西原土地改良区(昭和35~37年に和田の西原に163町開田)・神林土地改良区(163町)・太子堂開田(27町)・川西開田(13町9反)・南水寺開田(9町7反)の5地区をまとめる新和田神林堰協議会が新設され,藤牧はその会長に就任している.この新堰の開設によって,これまでは旧堰からのポンプ揚水に依存していた約360ヘクタールの新開地は,すべて自然流下の用水に切りかえられ,豊富な水量によって,「昼夜の別なく」灌漑されるようになり,「古田と全く同じ条件」に変ったのである.

 (3) その人がら
 藤牧は,その後も用水の近代化や合理化について努力したとみられる.たとえば,昭和45年度から実施された付帯県営による,和田川・神田川の一本化工事についても,藤牧はその推進に力を注いだはずである.従来は柳間地で分水した和田堰は,上部において和田川と神林川に分け,両者が併行して流れていた.水利慣行の強さに基づくものであったろうか,これが昭和46年に合流されたわけである.
 開発の古い梓川地区では,水利慣行や古田優先が力をもつのは当然であろう.しかし,新しい開発計画や,これにともなう新技術によって,水利施設の「近代化」は著しいものがある.また作目転換や畑地灌漑など,新しい農業経営の方式もこれから大いに変化していくであろう.大正末期の第1次梓川用水事業から,戦中・戦後の第2次事業,さらに最近の第3次事業によって,中信平地区の水利事業は目ざましい変貌をとげた.まず洪水被害が減り,旱害常習地は昔語りとなった.施設の近代化や区画整理など,新しい農業技術を取りいれる基盤が整備されている.また開田地域でも,ポンプ揚水から自然流下水にかわり,水量も安定してきた.
 これらの動きの一つを支えてきた藤牧は,「水不足がある地域では,必ずボスみたいな者がくっついてきた」がこれからは「古田を優先しながらも,新旧を平等にする」ことが必要になってくるだろうと静かに語っていた.梓川地区は,中信平総合開発の中心だが,「今後のまとめが問題」になるだろうとのべている.
 永い間,藤牧は梓川土地改良区の連合理事を勤め,昭和39年の右・左岸合併後は業務委員会(1期)と総務委員会(5期10年)の副委員長に選ばれた.そして上条理事長や吉沢理事などの長老が退職した昭和51年以後は,藤牧は用排水委員会の委員長に押され,また神林地区からははじめてという和田堰担当理事をかねている.
 農業自営や農協組合長といった,永い実務に裏づけされ,現状を前提にしながら,しだいに水利をも合理化し,開発しようという藤牧の経験が,以上のような地域的な利害対立,用排水の調整という困難な役目に就かせているのである.
 なお藤牧夫妻には,3人の娘さんと2人の息子がいるが,いずれも他出している.長女は教員に嫁し,2女は東京,3女は甲府の細菌研究所,長男は静岡大学を卒業後に協同乳業,2男は東京の東洋電気(ソニー系)といった状況である.いまのところ農業の後継者がみられないといえる藤牧も,家庭や地域の経済基礎を固め,子弟や地域の発展を支えたという自信が,物静かな語り口の間にも,感ぜられたのである.