金融制度

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朝鮮における金融組合

著者名: 波形昭一
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1981年
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目 次
1 はじめに・・・・・・・・・・2
2 朝鮮農家経済の植民地的窮状・・・・・・・・・・4
3 金融組合の設立とその地方統治的性格・・・・・・・・・・10
4 初期の金融組合・・・・・・・・・・19
5 発展期の金融組合・・・・・・・・・・25
6 金融組合の機能と限界・・・・・・・・・・36
7 む す び・・・・・・・・・・48

* 文献の引用にあたって,漢数字は原則として算用数字にあらためた。


1 はじめに

 戦前のわが国植民地金融機関のなかで,朝鮮金融組合は,植民地支配を社会政策的側面から支える施策の一環として活躍した。しかし,かかる特異かつ著大な意義をもちながらも,その研究1)は必ずしも進展しているとはいい難い。そのためか,「この金融組合というものは,朝鮮に於ける金融機関として非常に特色のあるもので善政の一つのシンボルだと言われております2)」,といった統治者流の論理が今日もなお命脈を保っている。「善政」とはいっても,しょせんは植民地支配の一環であることに変わりはない。ただ,「善政」と思わせる一面をもっていたことも確かな事実であり,3)ここにこそ金融組合の社会政策機関としての特異性がある。
 ところで,金融組合を日本資本主義による植民地政策の特質理解との関連でとりあげた研究がまったくないわけでない。比較的,問題視角の鮮明な見解をあげれば次のようである。
 第1に,金融組合を高利貸的搾取機関であったとする見解4)である。これは,金融組合の貸付金利が高かったこと,あるいは組合資金が地主の対小農高利貸付に転用されたことなどの事実に依拠した見解である。実際,金融組合はかかる弊害を完全に免れることができなかったのであり,その点では結果的には高利貸的に作用したといえなくもない。しかし,高利貸的搾取機関であったと規定したところで,金融組合が植民地金融機関として果した機能が,いったいどれほど解明されたことになるのであろうか。植民地金融機関は,そもそも,高利貸的搾取をすることで満足するような類のものであろうか。
 第2に,「金融組合は地主・自作農・自小作農上層のみの金融機関であった5)」とする見解である。後に詳述するように,金融組合を最も効果的に利用し,中心的な組合員をなしたのはこれらの階層であったから,この見解は事実に即した指摘といえよう。しかし,これらの階層の殆んども,植民地朝鮮においては一概に富裕でいったとはいえないし,全組合員の7割前後が自小作・小作層であったことを,どのように解釈するかという問題も残されている。また,わが国内地の信用組合にしても,上層農優位の傾向を完全に克服していたわけではないであろう。
 第3に,日本地主制の危機→その回避策としての「植民地的再生」→朝鮮地主制の発展という論理のなかで金融組合を「地主的金融機関」ととらえる見解6)である。その根底には,朝鮮地主制を「日本人」地主制としてとらえる,いわば日本地主制の「朝鮮の型7)」論があるように思われる。後にふれるように,都市組合については日本人が過半を占めていたし,地主層の比率が高かったから,こうしたとらえ方も一面では可能であろう。しかし,金融組合の根幹をなす村落組合には日本人はごくわずかしか加入していなかったし,村落組合に加入する日本人は殆んど小農層であったと推測される。したがって金融組合の性格規定を,朝鮮地主制の植民地的特質と関連づけて論ずることは重要であるが,これを日本地主制の植民地的再生=「日本人」地主制に直線的に関連づけるのは,事実関係のうえからもかなり無理があるように思われる。
 以上,最近の注目すべき見解を若干の批評を混えながら紹介してみた。確かに,これらの見解は金融組合の性格を鋭くついてはいる。しかし,それらは概して一面的な指摘にとどまり,金融組合の本格的研究を通して導びかれた見解ではないように思われる。一言でいえば,金融組合のもつ植民地金融機関としての意味と特質を明らかにしていないということである。そこで本稿では,金融組合が最も自生的な展開を示した第1次大戦後から満州事変の時期を主たる対象時期とし,この間における活動状況,さらに機能上の意義と限界を明らかにしていきたい。
 なお,本稿は,旧稿「朝鮮金融組合の構造と展開」(『金融経済』第170号,1978年6月)を全面的に修正・加筆したものであることをあらかじめお断りしておく。

 注
 1)戦前の研究としては,秋田豊編『朝鮮金融組合史』1929年,山口正吾「朝鮮における金融組合」『東亜』第3巻第11号,1930年11月,車田篤『朝鮮協同組合論』1932年,高橋亀吉『現代朝鮮経済論』1935年,静田均「朝鮮に於ける金融組合の発達」京城帝大法文学会編『朝鮮経済の研究』第3,1938年,文定昌『朝鮮農村団体史』1942年,などの貴重な文献がある。しかし,これらは資料的には価値があるが,時代的制約のために概して客観的・批判的考察という観点に欠ける。また戦後最近の研究としては,金斗宗「植民地朝鮮における1920年代の農業金融について」東大『経済学研究』第5号,1965年7月,秋定嘉和「朝鮮金融組合の機能と構造」朝鮮史研究会編『朝鮮と帝国主義』1968年,高承済『植民地金融政策の史的分析』1972年,などがある。
 2)水田直昌・土屋喬雄論述『財政・金融政策から見た朝鮮統治とその終局』1962年,52ページ。
 3)金融組合の「善政」の一例としてよく引き合いに出されるのが,1919年3・1事件の際の金融組合に対する朝鮮民衆の態度である。たとえば,「組合に対しては全鮮の何処に於ても来襲せられたるものなく,其の取引状況に於ても,組合員の組合に対する態度に於ても,異常がなかったと云ふ事は実に不思議とする処であって,又組合当事者の日常の努力を表した最良の機会と称しても過言ではない」(秋田,前掲書,129ぺージ)といった具合いである。
 4)たとえば,崔泰鎮「1920年代における日本帝国主義の『産米増殖計画』の略奪的本質」『朝鮮学術通報』第3巻第1号,1966年2月,45ページ,朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配』下巻,1973年,129ページ,全錫淡・崔潤奎(梶村秀樹・むくげの会訳)『朝鮮近代社会経済史』1978年,97-98ページを参照されたい。
 5)林炳潤『植民地における商業的農業の展開』1971年,221ページ。この点をより実証的に分析した研究として,金斗宗,前掲論文があり,またすでに戦前の研究書でも李清源『朝鮮読本』1936年,は同様の見解を示している(236ページ以下)。
 6)浅井良夫「独占確立期の金融構造』石井寛治ほか編『近代日本経済史を学ぶ』下巻,1977年,115ページ参照。
 7)これは,いうまでもなく,山田盛太郎『日本資本主義分析』1934年,で与えられた規定であるが(199ページ),この規定を応用した研究としては,浅田喬二『日本帝国主義と旧植民地地主制』1968年,山崎隆三「地主制衰退期における一小地主の植民地地主への転化」『経済学雑誌』第64巻第2・3号,1971年3月,のちに『地域史研究』第2巻第2号,1972年10月に再録森元辰昭「日本人地主の植民地(朝鮮)進出」『土地制度史学』第82号,1979年1月などがある。

2 朝鮮農家経済の植民地的窮状

 金融組合の具体的分析に立入る前に,予め朝鮮農家経済の植民地的窮状を概観しておこう。
 朝鮮における植民地的農家経済の創出の基礎は,いうまでもなく1910―18年に強行された土地調査事業であった。この調査事業は,日本にとっては他民族を植民地支配するための前提,すなわち資本主義的な土地所有関係を創出する「原蓄」政策1)であったが,朝鮮農民の大多数にとっては地主的搾取関係が強化されただけのことであった。しかし,この過程で創出された地主的土地所有関係をもって直ちに植民地的構造を云々することはできない。それが明らかに植民地的な構造性を帯びるのは第1次大戦後,とりわけ産米増殖計画2)が本格化した1920年代のことであった。
 周知のように,朝鮮の経済構造は,すでに併合前後から商業的農業の発展という形で植民地的にもモノカルチュア化されつつあった。しかし,これが決定的になるのは1917年のロシア革命,18年のシベリア出兵,米騒動を契機に軍事費の膨張,農業危機の発現が顕在化し,朝鮮経済が日本および戦地への米穀輸移出基地として構造化されてからのことである。図1のごとく,日本の米価は1918年から急騰しはじめ,その後激変を繰り返しながち金融恐慌,昭和恐慌下に崩落していくが,朝鮮における米価もまた,これに牽引された推移を示している。その意味で朝鮮の自律的価格体系はもはや完全に失われていたと言ってよい。
図1 諸物価の日本・朝鮮別推移
一般物価および土地価格が米価に規制される度合いについても,朝鮮の方がいっそう顕著であり,それだけに,米価変動が国民生活全体に及ぼす影響も,朝鮮がはるかに大きかったといえよう。朝鮮米穀生産のこうした食糧基地化は,当然に朝鮮における土地投機,土地兼併を促進し,土地調査事業によって創出された地主的土地所有関係を,さらに植民地的な構造に仕上げていったのである。
 朝鮮農家における階層分化の推移を示すと(表1),およそ1920年代前半に朝鮮地主制の植民地的成立の画期3)をみることができる。つまり,それ以前の時期にも自小作の減少はみられたものの,小作はそれほど激増というにいたらず,手作地主(地主・乙)および自作はむしろ増加傾向すらみせたのである。このことは,土地価格の上昇を凌ぐ米価の急騰によって曲がりなりにも農業経営が成り立ちえたことを示している。ところが,1921-23年に総農家戸数が減少するなかで,手作地主の停滞,自作の減少,小作の激増が傾向的に顕著になる。さらに産米増殖計画が本格化した1920年代後半にいたると,日本資本主義の不況を反映して米価は暴落したが,土地価格は土地が朝鮮における最大の投機対象であるために,米価ほどには急落しなかった。まさにここにおいて,中農的な農業経営の基盤は崩壊して,手作地主・自作・自小作は1931年にはついに50%を割り,地主・小作関係が朝鮮農業に定着した。しかもそれは,日本資本主義における独占資本の確立――農業危機の深化に起因して創出されたために,単なる朝鮮人同士の地主・小作関係ではなく,日本人巨大地主を頂点におく土地所有状況下での植民地的構造性の強い地主・小作関係となった。
 たとえば,地主的土地所有状況が進捗した1920年代から30年代初頭の土地集中度を民族別土地所有規模でみると(表2),日本人の場合はいずれの規模でも大幅に増加し,20町歩以上の大地主,100町歩以上の巨大地主の著しい増加に特徴がある。
表1 階層別農家戸数の推移
表2 地税納税義務者数の規模別・民族別推移
表3 経営規模別農家収益状況(1923年)
これに対して,朝鮮人の場合は,20町歩以上の大規模所有者数は逆比例的に激減し,他方,20町歩未満層に増加傾向がみられたものの,それは1町歩未満層の著増という形での増加でしかなかった。つまり,朝鮮における地主的土地所有の進展は,全般的に増加する日本人地主と,一部残存しえた朝鮮人大地主による大規模な土地集中であった。したがって,朝鮮人地主の多くは大土地所有への途を閉ざされ,中小・零細地主の地位を維持するか,それさえ不可能なものは自作・小作へと転落する危険に常にさらされていた。このような朝鮮人地主の矮小化された展開は,またそれに見合うだけの搾取基盤たる自小作・小作層を必要としたのであり,これこそ植民地朝鮮の農業生産関係を発展性のない,いっそう苛酷な地主・小作関係におしとどめたのであった4)。
 それでは,こうした植民地地主制下の朝鮮農家経済の窮状は具体的にどうであったか,収益面と負債面からこれをみることにする(表3,ただし前掲表1と一致しない)。まず総農家戸数の4.4%にすぎない地主をみると,20町歩以上地主とそれ未満の地主との間には,構成比でも純収益でも格段の開きのあることがわかる。さきにもふれたように,朝鮮人地主は純収益の低い20町歩未満層,とくに、5町歩以下の小・零細地主に集中していたのである。なかでも全地主中の43・2%を占める1町歩未満地主の年間1戸当り純収益は47円にすぎず,耕牛1頭の買入資金にもおよばない金額である。かかる零細な朝鮮人地主が土地集積を行なうことなどまったく不可能なことであり,むしろ自作・自小作へ転落する危険性の強い地主層であったといえよう。そこで,かりにこの零細地主層の純収益をもって下層農家の境界線と考えれば,1町歩未満の地主・自作,3町歩未満の自小作およびすべての小作・窮民がこれ以下ということになり,実に総農家戸数の84%が下層農に属することになる。さらに,3反歩未満の自小作,3町歩未満の小作および窮民を合わせた約47%(約127万戸)は,純収益をあげることさえできなかったのであり,これは表4に示した春窮農家5)の戸数および比率にほぼ匹敵する数字である(ただし,表3と表4は年次に開きがあり,また後者には窮民を含まない)。
表4 春窮農家戸数(1930年)
 そこで,これら貧窮農家の負債状況を若干みておく。朝鮮総督府の調査6)によれば,1929年末における小作関係農家(自小作,小作)のうち負債戸数の割合は75%にのぼり,1戸当り平均負債額は65円であった。最高負債額は咸境南道の1085円,各道平均420円にも達していた。かかる負債状況は自小作,小作だけの問題ではなく,自作についてもいえることであった。たとえば,階層別では慶尚北道の例しかもちあわせていないが(表5),負債の増加率は小作よりも自小作,自小作よりも自作の方がかえって高く,多少の上層農家では負債を免れることはできなかったのである。地主の負債状況を知る手がかりをもたないが,小・零細地主もおそらくその例外ではなかったものと推測できる。
表5 階層別農家負債(慶尚北道)
 要するに,第1次大戦後の朝鮮農家は,日本資本主義の強力な植民地化政策によって極端な階層分化を強いられ,地主,自作のような上層農にあっても,その名にふさわしいものはごく一部であり,小作,自小作だけでなく,自作,小・零細地主をも含む朝鮮農家の殆んどが貧農層に属していたといってよい。とくに問題なのは,農村社会の安全弁的機能を担う中農層,たとえば1町歩以上5町歩未満の小地主,1町歩以上の自作,3町歩以上の自小作といった層が15%にすぎず,その社会的機能を果すには不十分であった。朝鮮における農家階層のかかる偏倚性は,なによりも日本資本主義による強力な植民地政策の結果であったが,他方では,植民地支配の体制そのものを脅かす温床に転化する可能性を多分にはらんでいた。ここにこそ,金融組合が社会政策的な任務を担わされる根拠があったのである。
 そこで以下,貧窮下の朝鮮農家経済に対して,金融組合がいかに対応しようとしたか,まず行論の便宜上その設立時点にまでさかのぼって考察しよう。

 注
 1)この点の意義については,林柄潤,前掲書,143-52ページ参照。
 2)産米増殖計画の必然性を,日本資本主義の構造的特質との関連で究明した優れた研究として,同上書,153ページ以下を参照。
 3)馬渕貞利氏は,「第一次大戦期朝鮮農業の特質と三・一運動」朝鮮史研究会編『朝鮮史研究会論文集』第12号,1975年3月,において「未だ確定的にはいえないが,総土地所有面積に対する日本人土地所有面積が10%に達するのを,植民地型地主制成立の一指標とする」(152ページ)という仮説を提示されているが,10%の理論的根拠がいまひとつわからない。
 4)従来の朝鮮地主制研究は概して,土地調査事業による旧封建的社会関係の植民地的再編という視角と,日本地主制の「朝鮮の型」さらには「植民地的再生」という視角との接合をはかってきたように思われるが,少なくとも前者の「再編」という視角には疑問を感じる。これに対する理論的批判としては,桜井浩「日本植民地下朝鮮農業の封建制論について」『アジア経済』第13巻第3号,1972年3月がある。また,堀和生「日本帝国主義の朝鮮における農業政策」『日本史研究』第171号,1976年11月は,朝鮮地主制=日本人地主制という傾向の強かった従来の研究に対する批判的立場から,土地調査事業(=「近代的土地所有の法的設定」25ページ)後における朝鮮在来地主の植民地地主への近代的変質を実証分析され,「植民地地主を,日本人地主を中核としながらも朝鮮人地主の変質により形成される歴史的概念とすべきと考える」(30ページ),との意見を出されている。土地調査事業の基本的性格をどう把握するかは,朝鮮地主制の問題だけでなく,植民地支配全体の問題にかかわっているわけで,土地調査事業に関する新しい論争が,今後あらためて必要なのではなかろうか。
 5)これら春窮農家のうちでも,小作農にとどまることのできたものはまだましなのであって,「此等の階級者は一朝水害其の他不時の出来事に遭遇する時は,家財を放売して他に転業或は一家離散するの不幸を見るに至るもの多き実情」(李覚鐘「農村衰亡の径路に就て」『金融と経済』第103号,1928年1月,16-17ページ),であったという。ちなみに,転業農業者数15万115人(1925年)のうち9万9176人(66%)の転業先は,労働・傭人,出稼であった(善生永助『朝鮮の小作慣習』1929年,40-41ページ)。
 6)朝鮮総督府編『朝鮮ノ小イ乍慣行』下巻,1932年,145-46ページ参照。

3 金融組合の設立とその地方統治的性格

 (1)金融組合の設立意図
 朝鮮が日本の植民地支配下に完全に組込まれたのは,1910年の併合条約以後のことである。しかし,その方向はすでに日露戦時下の日韓議定書(1904年),第1次日韓協約(同年)でほぼ定まり,さらに1905年の第2次日韓協約(乙巳保護条約)=朝鮮保護国化,07年の第3次日韓協約へと押し進めていった終局が日韓併合であった。そして,この間の朝鮮植民地化過程は,そのまま貨幣・金融制度の植民地化=併合の過程でもあり,1907年5月発布の地方金融組合規則(勅令第33号)はまさにその一翼を担うものであった。
 金融組合の設立動機については,度支部長官荒井賢太郎の設立趣旨説明のごとく,「朝鮮の地方金融組合は従来朝鮮に行はれたる〓の制度と欧州諸国の組合制度とを参酌し,疲弊せる農民に低利資金を供給して,之が金融を緩和し,農事の改良発達を企図する為め創設せられたもの1)」,といった官製的説明が一般的である。しかし,問題はそう簡単ではなく,次のように考えられるべきであろう。朝鮮併合化の過程で日本が直面した経済的難題は,財政・貨幣整理事業であったが,それは技術的な意味での困難ではなく,この間に日増しに激発の度を加える反日・反帝義兵闘争がこれら整理事業の進捗を阻害した。わけても,地方農村にまでは日本への政治的・経済的支配の手がいきとどかず,これに対する有効な手段が緊急な必要事とされていた。つまり,1つには都市の銀行では処理しきれない地方における「総督府財政の遂行,幣制の整理」機関と,いま1つには,「直接地方大衆に交渉を有する第一線の政治機関」とを同時にみたしてくれる「何等かの方法2)」が求められたのである。
 この「第一線の政治機関」という点は,地方委員会制度と金融組合制度が,だき合わせ的に設けられたことに如実に示されている。たとえば,1907年5月,第15回韓国施政改善協議会の席上で,総督伊藤博文は次のようにのべている。「政府ト地方人民ノ意思ヲ疎通シ且又金融ノ円滑ヲ図ル為ニ相当ノ方法ヲ講セント欲ス凡ソ政令普及ヲ期セント欲セハ人民ノ脳裡ニ政府ノ趣意ヲ徹底セシメサルヘカラサルカ故ニ各地方ニ委員会及金融組合ヲ設置シ民情ヲ通シ融通ヲ図ルノ機関タラシメントス3)」,と。また別の資料によっても,「地方委員会といふのは各財政顧問支部の管下の各郡より一名宛代表を選出せしめ之を以て各支部毎に委員会を組織せしめ財務官が之が会長となり」,重要「事項につき諮問し又政府の意図を人民に周知せしむるのであって,金融組合の設定に当っても設立趣意の周知,組合(員ノ脱カ―引用者)募集等に相当利用せられて居たものゝ様である4)」と記されている。つまり,総督府は地方における最上級の有力者――その実態は大地主――を官意下達機関としての地方委員会に組織化して,反日義兵運動5)への対応措置の要としたのであったが,これを梃子として,金融組合の設立を進めていったところに同組合制度の基本的性格が読みとれよう。要するに,こうした「初期」植民地政策の課題を担うべく構想されたのが金融組合制度であり,地方農村を金融面から組合組織化することによって,徴税・貨幣整理の徹底,さらにこれと一体的関連において,義兵運動の物資的基盤=温床たる地方農村を懐柔・統治しようというのが,その主要なねらいであった。当然のことながら,第1次大戦後になると,その政策意図にも機能にも変化が生ずるが,この地方統治的性格は一貫していた。

 (2)組合長・評議員等の性格
 金融組合のかかる目的遂行を担ったのは,朝鮮各地方の名望家層から成る組合長・評議員・監事・設立委員などと,主に日本人から成る理事(のちには朝鮮人理事も相当多くなる)であった。これらの性格を検討することによって問題をさらに堀下げてみよう。なお,金融組合連合会役職者についてはここでは省略したが,議論の本筋には問題はないであろう。
表6 組合役職者の経歴(朝鮮人)
 まず朝鮮人役職者についてであるが,金融組合創設当時の全現職役職者を知る手がかりをもたない。そこで,一定限の範囲内ではあるが,牧山耕蔵編『朝鮮紳士名鑑』(1911年)と板垣文夫編『朝鮮紳士大同譜』(1913年)から現職・退職を含めて組合長・評議員・設立委員の経歴表を作成してみた(表6)。これによってわかるように,朝鮮人側の組合運営主体は面長(日本の町村長に相当),郡参事,地方委員,勧業委員,郡守,学校長など地方の首長・有力者であり,とくに地方委員が多い。これはさきにふれた金融組合設立の目的にかなうものであったといえよう。ただ,組合長と評議員との間には,経歴に若干の相違があるように思われる。たとえば,評議員には面長,面公銭領収員(実際は面長の兼務が多かった),学務委員など面段階での名誉職が多く,旧韓国官職でも参奉クラスの経歴者が特に目立つ。これに対して組合長は,面長が極端に少ない反面,中枢院議官,郡参事,地方委員など高級官職者が多い。このことは,朝鮮併合当初の金融組合が,面長クラスの地方有力者を設立・運営主体とする方針でありながらも,面段階までの地方掌握にいまだ成功していなかったことを示唆している6)。いわば,面長など地方有力者を評議員として取込み,そのうえに中央(総督府)直結の中枢院議官経験者や地方委員を組合長に据えるというのが,初期金融組合の朝鮮側役職者構成の実態ではなかったかと考える。
 ところが,1938年段階になると(表6),組合長の経歴は大きく変っている。この場合は現職組合長の経歴であるから,より正確にいえることだが,面長,面協議員,面書記,面会計員という一連の面段階を基盤とした組合長が多くなっていることに気づく。さらに郡段階としての学校評議員,郡農会議員・評議員,郡農会長,郡守の経歴者,道段階としての道会議員・評議員7)の経歴者が目立っている。このことは,1938年段階にはすでに朝鮮地方行政の植民地的掌握が完備し,面段階を基盤とする金融組合運営にこれが反映したものといっていい。かかる金融組合の地方農村の掌握は,中枢院参議経歴者の後退に逆の意味であらわれている。

 (3)理事の性格
 次に日本人側運営者,つまり金融組合の実質的運営者である理事について検討してみたい。朝鮮金融組合の特徴の一つとして,組合理事の選任に官選主義を採用したことだといわれる8)。しかし,この官選主義の問題点は,単に官選か民選かという形式上の差異にではなく,先述したように,「直接地方大衆に交渉を有する第一線の政治機関」として植民地支配機構の末端に協同組合制度が利用され,この目的遂行のためには組合制度の本来の意に反しても,理事を官選にしておかねばならなかったところにある。
表7 組合理事の学歴
 そこで,理事の性格・機能を知るために,民衆時論社編『朝鮮金融組合大観』(1936年)に紹介されている現職理事691名(日本人520名,朝鮮人171名)をベースにして,その学歴・年齢状況などを検出してみよう。表7からわかるように,金融組合理事の学歴について第1の特徴は,なんといってもその高学歴性にある。欧州,日本内地などの組合理事は一般的に1村1郷の名望家が選任されるケースが多かったが,朝鮮金融組合の場合には,大学卒だけで40%近くもあり,高等専門学校卒を含めると75%にもなるのである。こうした高学歴の理由は,朝鮮に新しい協同組合知識を急速に普及させるためでもあったが,なによりも,朝鮮総督府の意を体して「第一線の政治機関」たるだけの学識・能力が必要とされたからであって,金融組合が単なる金融組合でも産業組合でもなく,きわめて政治的使命をおびた機関であったことがここに示されている。
 学歴の第2の特徴は,私大・高商出身者および商科系出身者が圧倒的に多いことである。商科系の多い理由は,組合経営に簿記の高等知識が要請されたためであろうが,理事の学歴が私大・高商卒に集中していたことに注目しなければならない。たとえば,拓殖大学の例で考えてみよう。理事のうち7名中1名は同大学の出身者という多数を占めている。
表8 東洋協会専門学校卒業生の就職地
この点を理解するためには,同大学の前身である東洋協会専門学校にまで遡らなければならないが,ちなみに1908―10年の同校卒業生の就職先を調べると表8のごとくである。1910年10月現在でみると,就職地は朝鮮が最も多く,そのうち50%近くが金融組合に就職している。東洋協会専門学校の出身者が組合理事に選ばれた具体的な理由は,かれらのうち朝鮮語を習得したものが比較的多かったからであるが,より根本的な意義は次の点にある。すなわち,同校の設立母体たる東洋協会は,1901年に設立された台湾協会を日露戦後の1907年に「協会の勢力範囲を,満韓地方に拡張し,益々其旨趣と特色とを,発揮させる可からさる必要9)」から改組・
改称された植民団体であった。その事業の重要な一環として専門学校の経営があり,主に植民地統治の尖兵として働く人材,とりわけ植民地行政機構の中・下級官吏の育成を目的にしていた。つまり,同校卒業生の多くは日本官僚機構の末端に位置し,植民地経営に不可欠な尖兵として地方各地に配備されたのである10)。こうした機能は,東洋協会専門学校が拓殖大学に昇格したのちにも引継がれ,さらに時代の伸展とともに,かかる人材供給源がその他私大・高商11)に拡大していったものと考えられる。
表9 理事・副理事・事務員の学歴別構成
 なお,副理事と事務員の学歴別構成にも若干ふれておくと,平安北道における1932年末の例であるが,表9のようである。理事が日本人・高学歴者中心型であるのに対して,副理事・事務員は朝鮮人・中等以下学歴者中心型という構成が,概ね指摘できるであろう。副理事の位置づけを正確に行なう余裕をいまもたないが,かれらは主に支所に配属され,成績優秀な者は理事に抜擢された。したがって,副理事は朝鮮人理事の予備軍であったと同時に,理事(日本側)と農民(朝鮮側)との接点にあって,ある意味では買弁的機能を果たさざるをえない位置にあったと推測できよう。
 次に,理事の年齢構成をみてみよう。図2は1936年段階での現職理事のうち年齢が明らかな者619名を集計したものである。これによってみると,第1に,20歳代後半から30歳代が理事の大宗を担っており,40歳代は中だるみ的に少なく,50歳前後がある一定の層をなしていることがわかる。第2に,50歳以上層の理事は殆んど日本人で占められているのに対して,40歳代から徐々に朝鮮人理事も加わり,30歳代になると朝鮮人理事もかなりの厚みを増している。こうした2つの量的特徴との関連で質的特徴を抽出するならば,次のようにいえるであろう。
図2 組合理事の年齢構成
 第1に,50歳前後以上の理事は殆んど日本人理事であり,おおむね日露戦争から日韓併合の時期に青年期を迎えた年齢層といってよく,戦争を機に朝鮮に渡った軍人,会社員,一旗組から金融組合理事に転身したか,あるいは植民学校としての東洋協会専門学校出身者が多かった。そして,当該年齢層の理事こそ,初期の組合運営を担ってきた層といえる。第2に,40歳代の理事は第1次大戦期ないし1910年代に青年期を迎えた年齢層である。朝鮮の植民地化が急速に伸展するこの時期には,朝鮮人も事務見習などとして金融組合に徐々に入りはじめるが,それはいまだ一定の層をなすにいたっていない。なお,この年代は日本人理事も比較的層が薄く,大戦期における金融組合の停滞を示しているといってよい。第3に,20歳代後半から30歳代の理事は,第1次大戦後から1920年代に青年期を迎えた年齢層であり,組合理事の中核をなしている。青年理事による組合運営という伝統は,1930年代にいたっても貫かれており,植民地統治に果す金融組合理事の尖兵性がここに現れている。なお,高い学歴を有する朝鮮人理事12)が増大するのも30歳代以下に特徴的なことである。
 以上のように,日本の強権的な朝鮮併合化と朝鮮の民族的反抗の厳しい対立を背景に,協同組合制度を植民地統治機関の枢要な一環として応用したところにこそ,金融組合の歴史的意味がある。したがって,金融組合の自治組織性は初めからすでに第2義的な粉飾にすぎず第1次大戦直前の段階で日本が朝鮮を植民地化したことの歴史的特殊性と,それに基づく強力な地方統治の必然性に,金融組合の第1義的位置づけが与えられなければならない。組合長や理事の特殊な性格に,この点が如実に示されていたといってよいだろう。

 注
 1)秋田豊編,前掲書,449ページ。
 2)大蔵省管理局編『日本人の海外活動に関する歴史的調査』第8冊,40ページ。
 3)金正明編『日韓外交資料集成』第6巻上,1964年,453ページ。
 4)長浜(某)「金融組合創立前後の事情」『金融組合』第81号,1935年6月,130-31ページ。
 5)地方委員会と義兵運動との関連については,田中慎一「韓国財政整理における徴税制度改革について」『社会経済史学』第39巻第4号,1974年1月,に詳しい。
 6)同上,田中論文は,この段階での面長・里洞長はいまだ義兵運動寄りの立場にあって,在職中の面長は地方委員の選任から排除されたことを実証している(70ページ参照)。
 7)1920年7月の道地方費令公布によって,道会議員が道評議員(正確には道評議会員)に変更されたもので,両者は同じものと考えてよい。
 8)秋田編,前掲書,106-08ページ参照。
 9)徳富猪一郎『公爵桂太郎伝』坤巻,1917年,915ページ。
 10)たとえば,「設立委員(この場合は組合設立後理事になった日本人委員のこと―引用者)は各地方に於て組合設立の為め,ピストルや日本刀に身を固め徒歩や馬背で田舎道をかけずり廻り,組合員の募集に当って逐次組合の成立を見るに至ったのである」(秋田編前掲書,189ページ)との記述がその辺の事情をよく物語っている。同書,付録29-32ページの「金融組合及金融組合連合会理事在職中死亡者死名」によると,兇漢による惨殺,変死が7名を数えている。また,山根譓「宜しく金融組合運動の犠牲者の霊を祭るべし」『金融と経済』第60号(1924年5月)は次のごとく記している。「明治43年併合第1回の理事会同を黄海道庁に於て催されたるが,当時黄海道は八金融組合で理事八人,技手四人であった。右会同に出席せるもの理事,技手合せて12人であったのであるが,此第1同理事会同に出席したるものゝ内,現に生存せる者理事者で僅かに2人,技手又1人と云う悲惨な状態である。私は其の記念撮影を今所持して居るのであるが,何と云っても10人の内実に9人が斃れて居る。(中略)思ふに,兵士が戦場に斃れ,警察官吏が兇手に斃るゝと,我等組合運動者が其の運動の犠牲となると,其の死所を異にせるも,総じて其の職に斃るゝ一であって,国家国民の尊き犠牲と云ふべく……」(6-7ページ)。ここに一例としてあげられた理事の死亡状況がすべて惨殺・変死の類ではなかろうが,兵士にもたとえられる組合理事の任務が何たるかは想像できよう。
 しかし,理事各人の主観的意図はこのこととはまた別の問題であり,たとえば,平安南道江東金融組合の理事として副業奨励に多大の成果をあげたとされる重松髜修(1915年,東洋協会専門学校卒業,愛媛県出身)の『朝鮮農村物語』(1941年)には,組合理事が朝鮮農村の生活改善に若き情熱を傾けた様子がよく著わされている。
 11)高商出身者のなかでも,京城高商は別として,九州,四国所在のものが多い。これは地理的に当然の現象であろうが,また出身県別にみても九州および瀬戸内海沿岸諸県が多数を占める。九州6県(宮崎県を除く)と山口・広島・岡山・香川・愛媛5県の計11県で,全国519名の日本人理事中,実に285名(55%)である。
 12)日本人理事と朝鮮人理事の昇進年数を比較してみると,日本人の場合は金融組合に入ってから7年目にしてようやく理事に昇進したというのが最も長い例で,89%(406名中362名,不明112名)が2年以内に理事になっている。これに対して朝鮮人の場合は,最長年月を要した例が16年間で,2年以内昇進は58%(150名中87名,不明23名)である。この点では両国人別にはっきり差があるが,1920年代以降,朝鮮人理事の学歴が日本人理事のそれと同水準になってくるにつれて,この差は解消してきたようである。したがって,これはほぼ学歴差のあらわれといえるだろう。

4 初期の金融組合

 金融組合は,1907年5月発布の地方金融組合規則1)に基づいて翌6月に全羅南道に設立された光州地方金融組合をもってその嚆矢とする。その後の発展はめざましかったが,表10から知られるように,本格的な発展の緒に着くのは第1次大戦後のことであった。そこで本稿では,朝鮮金融組合制度の根本的改正(1918年の第1次金融組合令改正)が行なわれる以前と以後に時期区分し,その活動状況を主に資金の調達・運用両面から検討していくことにする。
 1907年,地方金融組合規則を制定した当時における金融組合の特徴を要約すれば,次の諸点を指摘できるであろう。第1に,設立趣旨に小農金融の疎通,農事改良指導,納税の便宜および貨幣整理の補助を掲げたことである。第2に,組合員資格を原則的には小農に限定し2),かつ朝鮮人に限ったことである。第3に,組合資金源を政府下付基金に全面的に依拠せざるをえなかったために,金融組合はあたかも恩恵的な政府貸付機関の体をなしたことである。第4に,業務を組合員に対する①農業資金貸付,②穀物の倉庫保管とそれに対する貸付,③種子・肥料・農具等の分配・貸与,④生産物の委託販売とし,特に②~④の勧農的業務を重視したことである。第5に,小農金融の建前から貸付限度額を1口50円と定めて短期・信用貸(担保をとる場合もできるだけ組合員の農産物をとること)を基本としたことである。
表10 金融組合業務概況
表11 資金構成と貸出金の推移(1907~1917年)
表12 種類別・預け主別預り金
 ただ,これら諸点のうち,かなりの部分は早くも1914年の地方金融組合令の制定で改正された3)。たとえば,第1に,農事改良指導を廃止したこと,第2に,組合員資格から農民の階層的制約を撤廃し,かつ日本人農業者の加入も認めたこと,第2に,層従来の加入金制度を廃して出資金制度に改め,組合員の権利・義務を明確にするとともに,組合資金源の政府下付基金からの独立をはかったこと,第4に,貸付限度額50円を特殊な用途に限って100円に拡張したこと,第5に,預り金業務(組合員預金だけでなく非組合員預金4)をも)を認めたこと,などが主要な改正点であった。
 このように,早くも初期の設立趣旨からはずれる面が徐々に現れてきた。しかし,1917年までの金融組合は,基本的には地方農村における徴税・貨幣整理機関として,あるいは小農に対する勧農的金融機関として,「初期」植民地政策の一端を担うべく活動したといっていい。
 ところで,当該期における金融組合の活動を,本来ならば業務全般にわたって検討すべきであるが,ここでは行論の便宜上金融業務に限っておくことにする。まず資金調達の面であるが,表11のごとく,特徴的なことは政府下付基金が圧例的な割合を占めていた点である。これは当時の金融組合が,いまだ政府貸付機関的な域にとどまっていたことを如実に物語っているが,1913年頃になると若干変化をみせるようになる。
表13 担保別貸出金
すなわち,設立当初には貸出業務が概して停滞的であったために,むしろ政府下付基金の未消化が顕著であった。ところが,1912年から貸出が急増し,政府下付基金だけではこれをまかないきれなくなっている。そして,出資金,借入金,預り金がこれに代位する動きをみせはじめるのである。だが,これらはいずれも積立金より低位にあるといった状態で,いまだ中核的な資金源とはなりえていなかった。
 ただ,預り金についてふれておくと,表12のように,貯蓄預金が圧倒的な割合を占め,かつ組合員預金が過半を占めていた。したがって,当該期の預り金は小口零細の組合員預金を主としたものであり,大戦後に急増する非組合員の大口定期預金はいまだごくわずかであった。
 次に,資金の運用面を貸出金についてみることにする。断片的な資料しかえられないが,以下のようである。1915年を除けば,初期の貸出も一応の増加傾向をたどり,17年度末には376万円に達した。しかし,この増加は必ずしも期待どおりのものではなく,1口当り金額もほぼ40円前後5)で,1914年からは特別貸付(限度額100円)が認められたとはいえ,殆んどの貸付は普通貸付の限度額(50円)内にとどまっていた。これを種類別にみると,1917年の数字6)しかえられないが,短期貸付が364万円強(1口当たり平均45円),長期貸付が11万円弱(同163円)で,前者が全体の96%を占めていた。
表14 使途別貸出金の構成 (1915年7月末)
さらに担保別にみると,表13のごとく,不動産貸と信用貸がほぼ半ばを占めあう関係にあって,農産物(主に米穀)による動産担保貸や委託販売前渡金融7)は殆んどみるべきものがない。また,使途別構成を表14によってみると,朝鮮南部に人夫貸その他農事費が多く,北部に自作地購入が比較的多いという相違を別とすれば,全般的に耕牛購入資金が大半を占めていたことがわかる8)。後述するように,大戦後に膨張する自作用土地購入資金がいまだごく僅かであり,旧債償還資金の貸出はまだ登場していないのが特徴的である。
 なお,農工銀行との関係にふれておくと,媒介貸付および貯蓄預金の取次ぎを行なっていた9)から,金融組合はあたかも農工銀行の支店・出張所のごとき観もなかったではない。しかし,それはいずれも小規模のものであり,第1次大戦後における朝鮮殖産銀行との関係のような,縦の資金関係から成る組織的なものではなかった。

 注
 1)地方金融組合規則およびその他内規類の詳細については,秋田豊編,前掲書,70-90ページ参照。
 2)設立当初の金融組合は,「組合員を絶対小農民に限らしめ,組合員の世話をすると云ふことを唯一の目標にしてゐた」(同上,183ページ)という。
 3)この点の詳細は,朝鮮金融組合協会編『金融組合の沿革と現況』1929年,9-11ページ参照。
 4)金融組合が非組合員預金の取扱いを早くも1914年から開始したことは,一つの興味ある点である。ちなみに,日本内地の信用組合に非組合員預金が認められたのは,1917年に市街地信用組合の設置が決定してからのことである。こうした差異がどうして生じたかは資料的に確認できないが,日本の産業(信用)組合には農商務省・内務省系統の影響が強かったのに対して,金融組合は大蔵省・朝鮮総督府財務局系統に属していたことの差の現れと考えられないであろうか。この点については,渋谷隆一氏のご教示をえた。
 5)朝鮮総督府財務局調査『金融組合要覧』第1次,1921年,21-26ページによる。
 6)同上,24ページによる。
 7)委託販売業務が不振であった理由については,下村充義「朝鮮と産業組合」『金融と経済』第76号,1925年10月,参照。
 8)前述したように,1914年の改正で貸出限度額を特殊な場合に限ってのみ100円に拡張したが,その目的は主に耕牛購入資金の貸付にあったようである。山根譓「金融組合概論(2)」『金融と経済』第95号,1927年2月,に次のようにのべられている。「限度を百円迄としたのは主として耕牛資金の関係であった。当時耕牛の価格は普通6,70円より100円位であったから50円限度では農耕に欠くことの出来ない農牛すら買ふことが出来ないと言ふ主張が與て力があった様である。故に限度の拡張をする為めに朝鮮総督の認可を受けるのは主として農牛資金であり,自作用土地の買入や土地の改良資金も往々加って居た様である」(22ページ)。
 なお,朝鮮における耕牛価格の高騰は,日本による植民地化過程との関連で生じた問題であり(軍需徴用と移出牛の急増),単なる物理的な需給関係ではなかったことに留意する必要がある。この点については,松丸志摩三『朝鮮牛の話』1949年,が参考となる。
 9)農工銀行との業務提携については,秋田編,前掲書,314ページ以下参照。

5 発展期の金融組合

 (1)第1次大戦後の環境変化と金融組合
 第1次大戦後になると,日本の朝鮮支配は一段と本格化したが,それは単なる支配の強化・拡大といったものではなく,国内的・国際的諸条件の変化に規定された質的転換を伴うものであった。その概要は次のようである。
 日本資本主義は,大戦中の異常な経済膨張を基礎に独占資本の確立期を迎えるが,他方,大戦終結後の反動恐慌と,それに続く慢性不況によって,体制的諸矛盾に逢着していくことにもなった。たとえば,国内的には,1918年の米騒動を契機とした農業危機の深化,反動恐慌以降の労働・農民運動の激化,1922年日本共産党の結成とその後の社会主義運動の展開などがそれである。独占資本段階への本格的な移行に伴うこうした社会体制不安に対処するために,一方では治安維持法(1925年)に代表される弾圧的な体制維持策が強化されるとともに,他方では,かかる国内矛盾を植民地・半植民地支配の強化・拡大によって解決していく必要が,以前とは比較にならないほど増大した。すなわち,日本の植民地支配はここにおいて,ようやく独占段階特有の内容を帯びるにいたった。
 しかし,他方国際的には,日本のかかる植民地政策の本格化を強く制約・妨害する諸条件が醸成されつつあった。たとえば,ベルサイユ講和条約(1919年),ワシントン会議(1921―22年),ロンドン軍縮会議(1930年)など,帝国主義体制はアメリカを中心に再編され,また,ロシア革命による社会主義国の誕生,これに強く影響された植民地・半植民地における反帝・反日民族独立運動の激化は,資本主義の一般的危機を東アジアにいち早く発現させた。そのために,日本の植民地支配政策は,それが本格化する段階で早くも障害につきあたり,いぜん帝国主義的侵略をその政策基調としながらも,ときには「国際協調」を建前とする柔軟姿勢を取り込まねばならなかった。
 こうした大戦後の環境変化は,日本と朝鮮との関係にもいえることであった。独占資本期への移行に伴い農業問題都市社会問題などが本格化し,さらに過剰資本,過剰人口の処理の問題が深刻となったが,日本はこの解決の一端を植民地朝鮮の再編に求めた。その典型が1920年から始まる産米増殖計画,さらに同年の朝鮮会社令,朝鮮関税令の撤廃などであった。だが,植民地的再編が強化されればされるほど,他方で三・一運動(1919年),朝鮮共産党の結成(1925),朝鮮共産党日本総局の組織化(1927年)などに代表される反日民族独立運動が高揚し,また小作争議も年々激発の度を加えた。それゆえに日本は,相変らず苛酷な弾圧を政策基調としながらも,他方では外面的にではあれ「文化統治」のスローガンを掲げざるをえなかった。たとえば,『東亜日報』,『朝鮮日報』の発行を許可し(1920年),また地主的組織である水利組合,朝鮮農会等を利用しながらであったとはいえ,自作農創設,小農保護といった社会政策的施策を植民地政策に取り込むとともに,小作調停立法の準備にさえ取組まねばならなかったのである。
 こうした日本と朝鮮との植民地的支配・従属関係をとり巻く国内的・国際的諸環境の一大変化に伴って,金融組合も大きく転換するにいたる。すなわち,「直接地方大衆に交渉を有する第一線の政治機関」という任務は基本的に変らないが,徴税・貨幣整理機関,あるいは小農に対する勧農的金融機関といった初期の性格から,大戦後には植民地支配体制の危機矛盾を弥縫する社会政策的な植民地金融機関へと転換していくことになった。
 それはまず,金融組合の発展となって現れた。たとえば1918―31年に,組合数は278から661(約2.4倍)に,組合員数は14万人強から72万人強(約5.1倍)に膨張した。なかでも特徴的な変化は金融業務の飛躍的な発展で,資金面では770万円から1億7400万円強(約22.5倍)に,また貸出金は700万円弱から1億2400万円強(約17.7倍)へと伸張した。
 かかる驚異的な発展が制度上の改編を伴ったことはいうまでもない。わけても1918年の第1次金融組合令改正1)の意義は大きく,主要な改正点をあげれば次のようである。第1は,各道に金融組合連合会(以下,道金連と略称)を設置して所属組合2)に対する資金貸付,預り金,業務指導,組合相互間の連絡ならびに業務上の便宜をはかったことである。これによって大蔵省預金部・日本金融市場―朝鮮殖産銀行―道金連―金融組合という縦・横の資金関係が整備・強化され,朝鮮における金融機構を1つの植民地的組織体として完成させることになった。すなわち,日本の国家資金,民間過剰資金を朝鮮社会の末端にまで投資する途を開き,また逆に農村,都市の零細資金を上部機関に吸いあげて拓殖資金化することをも可能にしたのである。
表15 資金構成と貸出金・預け金の推移(1918―31年)
第2は,村落組合のほかに都市組合を設立したことである。これは朝鮮の植民地化の進展に伴い,都市社会の膨張,日本人中小商工業者の大量流入,都市下層社会問題の堆積などの諸事象が顕在化したこと,さらに日本内地で市街地信用組合がその前年に開設されたことなどと連動した措置であったと考えられる。第3は,預り金・貸出金業務の肥大化を中心に,金融業務の専営化傾向が強まって「庶民銀行性の一面を大きく顕はすに至3)」り,「利貸資本化的傾向4)」をさえみせたことである。
表16 各道金融組合連合会の資金・貸出金関係
そしてこれとは逆に,委託販売,共同購入,倉庫保管など,農家経済の改善を目指した兼営業務を徐々に縮小する傾向が顕著になった。
 以下,上述した大戦後の変化を念頭において金融組合の活動を具体的にみていこう。

 (2)資本調達の特微
 まず,資金調達からみる。表15のように,1920年以降は借入金と預り金で全資金の8割以上を占め,特に預り金が1923年から4割以上でその支柱をなすにいたった。かくて金融組合の資金量は貸出金を大きく上回り,それとともに預け金が増大するというように,政府下付基金だけに頼った初期金融組合時代とは一変して,自立的な資金調達構造へと転換した。
 当該期における借入金増大の原因は,前述したように,大蔵省預金部・日本金融市場―殖銀―道金連―金融組合という資金関係が確立したところにある。そこで道金連の資金・貸出金関係を表16によってみると,次の特徴がえられる。1つには,資金中,1920年代前半までは普通借入金が中心であったが,後半になると政府・特別借入金と預り金に中心が移ったこと,2つには,貸出金は普通貸付の約75%,特別貸付の約20%という構成が一貫していること,などである。
こうした道金連の資金の出入を金融組合の借入金と照応させて考えたいが,目下のところ1919年と盟年の数字しかえられない(表17)。
表17 種類別借入金
これによれば,金融組合の借入金は全体的構成では普通借入金が圧倒的であるが,村落・都市別では,村落組合は普通借入金が中心,都市組合は特別借入金が中心という相違がみられる。
表18 種類別預り金
表19 規模別預り金(1931年度末)
したがって,各組合が道金連から借入れをなす場合,村落組合には道金連の普通借入金と預り金とから成る比較的高利の資金が流れ,都市組合には政府・特別借入金から成る比較的低利な資金が流入したということになる。
 次に,資金調達のいま1つの支柱をなした預り金についてはどのような特徴がみられたか。まず,表18から種類別でみると,定期預金への依存度が高まり,これとは逆に貯蓄預金の比率は,これに類する据置預金を加えてもかなり激しく低下している。
しかも規模別でも,定期預金の大口性,貯蓄預金の小口零細性という格差はますます拡大し,村落組合ほどその傾向が強い。さらに表19で確認すると,1口1000円以上(平均2145円)が全体の約50%であるのに対して,50円未満(平均5円)は約15%にすぎないことを知ることができる。いうまでもなく,これは金融組合預金が定期・大口預金に強く依存するようになったことの現れであるが,ただ,村落組合の組合員預金については,1000円以上と50円未満とが両極をなしていて若干様相を異にしている。これこそ後述するように,村落組合員がごく少数の富裕者層と多数の貧農層から構成されていたことを明示している。
表20 預け主別預り金
表21 職業別預り金(1931年度末)
 さらに,預け主別(表20)および職業別(表21)によってその実態をみれば,①非組合員預金が全体の80%近くを占めていること,②都市組合預金の比重が増勢傾向にあること,③村落組合では非組合預金,特に公共的預金が圧倒的で,その逆に組合員およびその家族の預金は低いこと,④非組合員預金のなかでも個人的非組合員(非組合員(2))の割合が1928年度末で全体の40%近くにもなり,この傾向は特に都市組合において著しいこと,⑤農業者預金の割合が低く,商工業者,とりわけその他(主に官吏,会社員,自由業者など都市中産階層)の預金の割合が高いこと,などの諸特徴がえられる。

 (3)資金運用の特徴
 ところで,大蔵省預金部・殖銀・道金連を通じた借入金,および非組合員や都市組合員の利殖的大口預金から成る膨大な資金は,どのように運用されたのであろうか。そこで次に貸出金について検討しよう。まず貸出形態を種類別・担保別にみてみると(表22),殆んど短期貸付ばかりであった第1次大戦前に比較して,大戦後は長期貸付も増大し,また都市組合の設立に伴い当座貸越,手形割引も行なわれるにいたった。
表22 種類別・担保別貸出金
さらに,産米増殖計画の遂行に従い,政府低利資金貸付も僅かながらなされるようになった。しかし,戦後においても短期貸付が,政府低利資金の短期貸付も含めれば,1928年度末でほぼ7割という高い比率を占めている。しかも,大戦前は保証貸と不動産貸がほぼ半ばを占めあっていたのに対して,戦後は保証貸が約7割と上昇している。その意味で,短期・保証融資機関としての金融組合の基本的性格は,戦後においても貫かれていたといってよい。
表23 使途別貸出金
 それでは,こうした短期・保証貸付の実態はどうであったか。表23によって貸出金の使途別構成をみると,村落組合の農業資金中心,都市組合の商工業資金中心という型は当然のことであるが,特に注目しなければならないのは,自作用土地購入資金と旧債償還資金といった社会政策的資金の供給に,組合貸出の重点が完全に移ったことである。1928年度末には,両者だけで全体の53・4%,村落組合にいたっては実に62.4%を占めているのである。ちなみに旧債償還資金は,同年度末で,かつては村落組合における貸出の大半を占めた耕牛購入資金を大きく追抜き,また都市組合でも店舗設備・購入資金,商品仕入資金に次ぐ第3位の貸付目的になっている。政府低利資金は全体からみれば少額であり,そのうち農事改良資金は肥料購入などに当てられたが,特殊産業資金は主に自作用土地購入のために貸付けられた。
 以上のように,第1次大戦後の金融組合は,金融業務を中心にめざましい発展をとげた。殖銀・道金連からの借入金と,非組合貝や都市組合員の利殖的大口預金から成る豊富な資金を背景に,大戦後における植民地政策の大きな変化に呼応して,自作農創設資金や旧債償還資金などの社会政策的金融に邁進したのであった。産米増殖計画を中核とする1920年代の日本の植民地政策は朝鮮における植民地地主制の進展を促して旧来の農業生産関係を破壊し,朝鮮農家の8割以上を占める下層農の土地喪失と負債増加を加速させたが,これは同時に,第1次大戦後における内外諸条件の変化ともあいまって,植民地支配の体制的危機の温床そのものを創出する過程であった。いわば,植民地支配の強化はそのものがそれ自体の危機を生むという矛盾に日本は直面していたのであり,金融組合の自作地購入資金や旧債償還資金の供給は,まさにかかる諸矛盾を弥縫しようとする政策意図5)から必然化されたものであった。
 そこで次に,こうした政策意図に基づく組合金融が,その目的にかなうべく具体
的にはどのように機能したのか,その成果と限界を確認してみることにしよう。

 注
 1)その後,金融組合令の改正は1928年(第2次),29年(第3次),31年(第4次)に行なわれた。第2次改正は主に貯蓄銀行令の公布,第4次改正は無尽業,信託業令の公布に伴う措置であったが,第3次改正は,①産業資財貸付,共同購入,委託販売など兼営業務の一部を廃止したこと,②普通銀行との競合を避けるために,非組合員預金の種類を貯蓄銀行の取扱う預金の範囲内に制限したこと,③非組合員預金に対する払戻準備金制度を整備したこと,④従来無制限であった組合員の出資口数を100口までに制限したことなど,ますます金融業務単営化が進むと同時に,それに伴って生ずるひずみを調整しようとするものであった。
 2)所属組合とは,朝鮮総督の指導下にある産業法人つまり金融組合,畜産同業組合・同連合会,漁業組合,産業組合のことである。しかし,その大部分は金融組合であり,ほかには若干の漁業組合と産業組合を数えるのみであった。
 3)前掲,文定昌『朝鮮農村団体史』189ページ。
 4)前掲,静田均「朝鮮に於ける金融組合の発達」京城帝大『朝鮮経済の研究』第3,59ページ。
 5)ちなみに,大戦後になると朝鮮「赤色化」の防波堤として金融組合の役割を説く論調が強まってくる。たとえば,殖銀頭取三島太郎の言葉を引用しよう。「細民を以て社会の無用物の如く考ふれば非常な間違で,吾々は寧ろ社会の基礎となるべき有力なる分子であると思ふのであります。即ち此等社会の多数を占めて居る分子が健全でないと到底国家の健全なる発達が出来ないばかりでなく1つ間違ふと露西亜の今日の状態の様なことが起らぬとも限らぬのであります。……然に茲に最も注意すべきは露国の状態でありまして,多数の細民の思想が不健全であった為に所謂過激派なるものの極端なる社会主義に感染し今や手の着け様もなき状態に陥って居ります。又独逸墺太利に於ても稍もすると同様の現象を見んとして居るのであります,……社会の多数の分子が不健全だと何時飛火がせぬとも限らぬのでありますからして細民の状態を改良し思想を健全にすることは国家的社会改良事業なのであります」(三島「金融組合並に同連合会理事諸君に望む」『金融組合』策6巻第1号,1919年1月,5-6ページ)。
その他同様の趣旨のものに,(浮浪学人)「文明の趨勢と金融組合」『金融と経済』第40号,1922年8月,児玉智吉「金融組合の趣旨と理事者の覚悟,上・下」同誌,第49,50号,1923年6,7月,(紫洞生)「組合主義」同誌,第60号,1924年5月,下村充義「金融組合の使命と運用の要義」同誌,第68号,1925年2月,堂本貞一「金融組合の使命と二三の希望」同誌,第92号,1927年2月などがある。
6 金融組合の機能と限界

 (1)組合員の構成と組織率
 以下,機能面について,1つには組合員の構成,組織化,いま1つには組合員による組合貸付の利用状況の2点に分けて考察する。
 金融組合員数は大戦後急速に増加し,1928年度末に53万人,1931年度末には72万人を数えたが,総農家戸数に対する割合,いわば組織率の点では,いまだそれぞれ約15%,約19%にすぎなかった。
この点を念頭において,まず民族別構成を全羅南道と平安北道の事例でみると,表24のごとくである。
表24 組合員の日・朝別構成
組合員の圧倒的部分をなす村落組合員は殆んど朝鮮人であり,その意味で金融組合は朝鮮人の組織であったといってよい。ただ,都市組合については,特に全羅南道など,地理的に日本に近いところでは日本人が過半を占めるなど,日本人による組織といった色彩がかなり濃い。しかし,金融組合全体を問題にする際は,この点をあまり過大評価すべきでないし,都市組合の性格規定の問題として,むしろ別個にとりあげるのが妥当であろう。
 次に職業別,階層別にみると,表25のごとく農業者の割合が圧倒的であり,村落組合に限れば約94%が農業者で,組織率もこの職業層が最も高かった。
表25 組合員の職業別構成
金融組合の基本的性格が農業組織であったといわれるのもこの点にある。したがって,この農業者の階層性が問題になるが,表26によってみると村落組合と都市組合とではきわめて対照的であることに気づく。
表26 農業者組合員の階層別構成
それは都市組合の農業者層の大半を地主が占めていたことであり,さきにふれた民族別組合員構成(表24)と併せ考えると,おそらくその多くが日本人地主だったのではないかと推測される。しかし,都市組合員全体に占める農業者の割合は1928年度末でも11%にすぎなかったから,これをもって都市組合の全体像を規定するのはかなり困難であろう。これに対して村落組合の場合は,地主(寄生地主)と地主兼自作(手作地主)を合わせて10%程度,自作でも20%前後にすぎない。残る70%の組合員は自小作・小作・火田民層だったのである。このように職業別・階層農別構成でみるかぎり,金融組合は下層農が大多数を占める組織であり,朝鮮農家の階層性をほぼ反映していたといっていい。
 しかし,金融組合の朝鮮農家に対する浸透度=組織率を階層別にみると,金融組合を必ずしも下層農的金融組織であったと割切ってしまうわけにはいかないようである。農業者階層別に組織率を知る統計資料をもたないので,これを資産別・所得別でみよう。
表27 組合員の資産別構成
表28 組合員の所得別構成(京畿道,1932年)
表27に明らかなように,資産家層ほど組織率が高く,しかもその格差がかなり大きい。1925年末の村落組合についていえば,賦課等級別にみて全組合員中10.4%にすぎない上等級層が組織率の点では35.7%と最も高く,3人に1人以上が金融組合に加入していることになる。中等級層で4人に1人の割合である。これに比して全組合員の半数を占める下等級層の組織率は8%でしかない。これは賦課標準額別,所有土地法定地価別の場合でも共通してみられる傾向である。さらに1929年になると,慶尚南道の一事例ではあれ,組織率の格差はいっそう拡大している。また,かかる傾向は表28に示した京畿道の所得別構成にいっそう鮮明に現われている。組合員構成と組織率格差は村落組合の方によりいっそう逆の関係として現われており,上層農への浸透度が高かったという金融組合の一面をよく示している。
 以上のごとく金融組合は,組合員の7割が自小作・小作層であり,さらに零細地主を含めれば下層農主体の組織であったといいうるが,組織率・普及率という点で朝鮮農家への階層別浸透度を問題にすれば,上層農主体の組織であった,という2面性を有していたのである。だとすれば,この2面性が金融組合の機能上にいかに作用したのか,つまり,金融組合貸付の利用状況において上層農組合員と下層農組合員との間にはいかなる差異があったのか,という疑問が当然出てくるであろう。次に,その点に考察を進めよう。

 (2)金融組合の利用状況
 図3と表29から,朝鮮における貸出金利と貸金業の推移をまず概観しておこう。1910年以前の貸金業者金利について正確な計数をもたないが,ただ少なくとも,金融組合の貸出金利が15%前後にまで引下げられた1910年代半ばからは,貸金業金利も近代的金融機関の金利に並行した推移と下落傾向をたどっているといえよう。
図3 朝鮮における貸出金利の推移
表29 貸金業者数と貸出高
しかも,一業者当りの貸出高は5000円内外に停滞し,前期的資本としての一定の限界につきあたっている。とはいえ,これがすべて金融組合の影響による現象であったなどとは決していえないし,事実,貸金業者数はかなりの増加をみせ,金利も1930年頃でもいまだ30~40%という高利であったのである。ただ,金融組合の組織対象が個人的貸金業の吸着基盤たる小生産者であるかぎり,少なくともこれら両者の間に「共生関係すらみることができた1)」,などという実証抜きの断定は避けるべきであろう。
 金融組合の活動が貸金業金利の低下に直接機能したかどうかは推論の域を出ないが,小農組合員の金利負担の軽減という点では,相当役立ったのではないかと思われる。たとえば,表30は金融組合員の利率別負債状況を示したもので,全道にわたる場合は担保・無担保別しかわからないが,平安北道の場合はさらに借入先別まで知ることができる。これによっていえることは,①担保の有る場合と無担保の場合とでは利率別負債構成がまったく異なり,前者の負債の90%近くが金利15%以下であるのに対して,後者の場合は金利10~15%の負債(55~60%)と金利30%以上の負債(16~20%)の両極分解型になっていること,②10%以下の金利で銀行から借入れ可能なのは有担保の場合にほぼ限られるが,無担保の場合でも55~60%位が金融組合から10~15%の低利で借入れることができたこと,③しかし,担保をもたない組合員のなかには,金融組合からの借入れを拒否される層もかなりあり,この層は金利30%以上の高利負債を余儀なくされていたこと,などである。
表30 組合員の利率別負債構成
 要するに,②のごとく,無担保者層であっても60%近くが,また有担保者層であっても銀行から借入れるまでにはいたらないかなりの層が,金利10~15%で組合から借入れることができるようになったわけである。当時における担保物件の殆んどは不動産=土地であったから,その意味では,小作,自小作など土地所有から見離された小農組合員層に対しても,金融組合は低利の借入れ機会を与えたといえるであろう。しかし他方,③に指摘したように,組合金融から排除された下層・小農組合員が一定の層をなしていたのも事実である。つまり,これら無担保者層は金融組合から借入れ可能な層と不可能な層に2分されていたのであり,表31のごとく,信用程度の低いものほど「その他」=高利貸への依存度が高いのである。
 とはいえ,金融組合がそもそも社会政策機関たろうとするならば,これら信用程度の低い組合員層の低利借入れ機会をできるだけ拡張してやろうとするであろう。その姿勢は表32にうかがうことができる。貸出金の配分が低額所得者層に多く,高額所得者層に少なくなる傾向を示しているからである。
表31 組合員の信用程度別・借入先別負債構成(平安北道,1932年8月15日現在)
表32 金融組合の所得別組合員貸出金(平安北道)
しかしその逆に,1人当り貸出額は,「上」に厚く「下」には薄くという傾向を強めているのが特徴的である。つまり,これは,社会政策的立場から積極的に増員を図らなければならない下層組合員に対しては,1人当り貸付額は縮小(「下」には薄く)しても,貸付配分を拡張して低利借入れの機会を増やし,反対に多額の資金需要者である上層組合員には配分自体は縮小しても,1人当り貸付額は増額(「上」には厚く)するという姿勢の現われである。換言すれば,金融組合という組織は,前述したように下層農主体的な側面と上層農主体的な側面の両面を有していたのであり,この2面的機能が組合貸付の階層別利用状況に反映したということができよう。

 (3)金融組合の限界
 ところが,金融組合がかかる2面的機能を果たそうとすればするほど,組合制度本来の目的とは逆の結果をもたらした。たとえば,慶尚南道金融組合連合会理事長の梅林卯三郎は次のように語っている。
 貸付金に就ては幾多の欠陥のあることは諸君の肯定されることゝ思ひます。就中用途の如き何割迄が正当であるか一寸吾々には見当が付きませぬ。直接業務に当って居る理事者諸君に判らぬ位であるから余儀ない次第であり,昔は保証貸付の大半は購牛資金でありました,或道の如き年々畜牛頭数は減じて居るに拘らず組合の購牛資金貸付額は年々増加して居ると言ふ奇現象もあります。近来は又土地購入資金が保証貸付金の大半を占めて居るやうな状態でありますが,之亦自作用土地は全鮮を通じて歳々減少しつゝあるのと対照して如何なものでありませう。或る組合の役員が宴会の余談に金融組合員位ひ堅歯健啖なものは無い,肥料を喰ふ位は朝飯前で,牛を喰ひ,土地を喰ひ,店舗を喰ひ,船を喰ひ,何物でも喰ひ竭してしまうと呵々大笑したことがありますが,私も苦笑を禁じ得なかったのであります2)。
 上の引用文は,要するに自作用土地購入資金や旧債償還資金の貸出が増大したといっても,その大半は目的どおりに機能していない現状を嘆じているのである。事実,「近頃自作用土地購入資金が多く出る様でありますが,実際に其のために使はれてゐるのは極めて少い。自作用土地購入と言へば金が多く借り得れる,多く借る為に使途を自作用土地とする3)」というように,金融組合の政策意図を逆用する傾向さえあった。しかし,朝鮮における下層農の負債理由の9割方が農糧・耕牛・肥料購入にあった1930年当時の状況4)で,あえて自作用土地購入資金や旧債償還資金を政策的に供給しなければならないことの無理が,金融組合のこうした機能麻痺の原因であったと考えるべきであろう。たとえば,表33は下層組合員に対する貸出状況の一例だが,短期・保証の借入れを毎年ほぼ同じ使途のために繰返し行なっている様子がよくわかる。返済後数日にしてまた同じような条件で借直している。すなわち,組合への返済に際して「高利貸の手を経たか左も無ければ耕牛其の他の所有物を損を見ながら売却して返済に充当5)」しなければならないような生活状態の農民の手に,組合の貸付目的どおりに耕牛や土地が徐々に増え,高利負債の借換えが順調に進む道理はなかったのである。
表33 下層組合員の組合利用状況
 金融組合の政策金融は,小作・自小作層の自作化や高利旧債の償還にではなく,全体的にみれば一部上層農組合員の土地集積にむしろ荷担し,地主的土地所有を促進するという皮肉な結果に陥ったのではないかと思われる。この点を組合員の土地所有状況から確認してみたい。
 長期の流れのなかで全金融組合員の土地所有状態を把握するのが至当であるが,現在,資料的に不可能である。そこで,1910~15年段階での慶尚北道における4組合の事例と1932~33年段階での平安北道の事例を対比して,一応の推論を試みることにした。
表34 村落組合員の所有地規模別構成(1) (慶尚北道4組合)
表34は,加入後平均5ヵ年を経過した組合員328名(全組合員の約1/36))のうち所有地規模別にその員数変化をみたものである。大邱組合のごとく両極分解型の動きもみられるが,4組合を合計すると,金融組合の創設当初にあっては組合加入後5ヵ年の間に組合員の土地所有規模が増大傾向にあったことを知ることができよう。ただし,この表は全組合員を包含していないために,所有地規模別組合員構成7)がわからないし,それ以上に,階層別ないし所有地規模別にみた1人当り所有地面積の増減を示していないという意味で,不十分な数字といわざるをえない。したがって,第1次大戦前における金融組合員の土地所有状況をこれから総括的に知ることはできない。
 しかし,大戦前の金融組合は自作用土地購入資金の供給に業務の力点をおいたわけではないから,表34の欠点はさして問題ではない。
表35 村落組合員の所有地規模別構成(2)(平安北道,1932年度末)
問題なのは1920年代から30年代前半にかけて,金融組合が積極的に自作農創設資金を放出した時期についてである。表35は平安北道だけの,しかも1932年3月末と翌33年3月末の数字を比較しただけの一例にすぎないが,一応の推測は可能であろう。これによれば,明らかに上層組合員の土地集積と下層組合員の土地喪失ということがいえる。1町歩未満の土地所有組合員数は,対前年比で1724人増加しているにもかかわらず,所有地面積では2106町歩減少するという逆現象をおこしている。したがって,この階層の1人当り面積は〓・田・垈の別なく激減し,階層全体でも1人当りでも減少するという最悪の事態である。1町歩以上5町歩未満層でも,最も重要な沓の面積が激減している点からみて,その下層は同様の危機状態にあったと想像することができる。かかる組合員階層の土地喪失は当然,土地を所有できない組合員層(小作,火田民)の異常な増幅となって現れている。これに対して,全組合員の11.5%にすぎない5町歩以上の組合員層は,当該階層全体で2万2417町歩も所有地を拡大し,1人当りでも,〓・垈にわずかな減少がみられるとはいえ,田を含めればわずか1年間で2町歩近くを増やしているのである。
 1町歩未満層および1町歩以上5町歩未満層の下層が失った土地は,員内地主と員外地主の両者に集中されたであろう。その際,員内地主は直接買上げ,あるいは貸金に対する低当流れの方法で土地を集中したのであろうが,その資金はどこから調達されたか。前掲表30~32に示したように,かれらは銀行のほかに金融組合からも,他の組合員より有利な条件で大口借入れをなしえたのであった。したがって,金融組合の貸出金は,同じ組合員間における一方の土地集中と他方の土地喪失の媒介手段になっていたとみてよい。要するに,金融組合が諸植民地金融機関のなかにあって特に社会政策的任務を担わされ,その任務を遂行しようとすればするほど「下には広く薄く」・「上には狭く厚く」を経営方針とせざるをえなくなる。組合精神,組合主義の善悪にはかかわりなく,結果的に,「広く薄く」は機能たりえず,「狭く厚く」だけが機能以上の機能を発揮したのである。そのために,「元来小農保護の為めの村落金融組合でさへも,概ね邑内に銀行然と構えて寧ろ農耕に携はらざる地主級の利用機関となり,小農は殆ど除外されたやうな観がある8)」,といった非難が常に発せられていたのである。

 注
 1)前掲,金斗宗「植民地朝鮮における1920年代の農業金融について」18ページ。
 2)梅林卯三郎「滅び行く組合精神を救へ」『金融と経済』第89号,1926年11月,27-28ページ。
 3)松本誠「金融組合への若干の要望」同上誌,同号,23ページ。
 4)朝鮮総督府編『朝鮮ノ小作慣行』下巻,144ページの地主・小作別負債理由を参照。
 5)金寿鉉「金融組合業務の理論と現実(2)」『金融と経済』第98号,1927年8月,70ページ。
 6)朝鮮総督府編『地方金融組合業務概況』(1915年10月)の同年3月末現在の数字による。
 7)大戦前における組合員の構成内容を正確に知る資料は皆無である。たとえば,1917年頃の資料によれば,標準組合員の農業経営規模を〓斗落(約2.5反歩)ないし7~8斗落(約3.5~4.0反歩)としている(星慶蔵「組合雑感」『地方金融組合』第4巻第7号,1917年7月,60ページ,遠藤与七郎「組合員の増募に就て」同誌,第4巻第8号,同年8月,54ページ参照)。前掲表34の組合員は加入後5年を経過した比較的恵まれた層(全体の約1/3)であり,それでも〓面積に限ってみれば40斗落(2町歩)次下が90%を占めているから,残り2/3を加えた全組合員構成の大多数は10斗落(5反歩)以下層であったと推測される。そのいみから,上記した〓5~8斗落(約2.5~4.0反歩)という数値はおおむね当っているのではないかと思われる。
 8)李覚鐘「朝鮮の農村問題」『朝鮮地方行政』第7巻第9号,1928年9月,20ページ。1930年前後における金融組合がこのような状態であったとすれば,創設初期の状況と本質的にはさほど変っていないのではないか思われてくる。たとえば,設立当初の資料は次のように伝えている。「地方金融組合の如きは,特に小農救済を目的として設けらるゝものなりと雖,尚之れが利便に浴するは,一部中以上の農民にして,多数を占むる小作農民の如きは,基の資力余りに薄弱なるが為,これが利便に與るを得ず」(『小農に関する調査』1912年,静田均,前掲論文,32-33ページによる)。あるいはまた,「現在ニ於テハ該組合ハ地方ニテ比較的資産ヲ有スル自作農ニヨリテ組織セラレ随テ其恩澤ニ浴スルモノモ少数ノ中農ニ止マルノ嫌ナキニ非ズ」(朝鮮銀行編『金羅南道ニ於ケル棉花裁培ノ状況』1913年,27ページ),と。

7 む す び

 以上のべてきたように,金融組合は日露戦後の朝鮮併合化の過程で農村地方統治という「初期」植民地政策の課題を担って設立された。そのために朝鮮金融組合は,単なる協同組合制度というよりも,きわめて政治的色彩の強い植民地統治の尖兵的任務を担うことになった。たとえば,設立初期の金融組合が主に徴税・貨幣整理機関として,あるいは朝鮮小農民に対する勧農的金融機関として組合業務を展開しながらも,特殊任務を帯びた高学歴青年理事を槓杆として,道→郡→面への地方行政の段階的掌握を究極のねらいとしていたのはここに意味があった。
 ところが,第1次大戦後にいたると,内外諸条件の激変から植民地統治体制そのものの危機・動揺に直面し,金融組合の尖兵性もその任務を大きく転換したのであった。すなわち,独占資本確立期における日本の植民地支配は,その後進国的特殊構造性のゆえに産米増殖計画を中心として再編・強化されることになるが,その結果は朝鮮における植民地地主制の成立を急激に促進した。
しかし,これはその反面で,朝鮮農家の大部分を占める小地主,自作農以下の農家層の没落を決定的にし,植民地支配体制を脅かす温床を創出する過程でもあった。こうした大戦後の新たな状況は,これを弥縫し,内部的に解決するための社会政策的施策を植民地政策にも盛込む契機となり,この尖兵的任務を金融組合に課することになったのである。そのために,金融組合の活動は自作用土地購入資金や旧債償還資金など救済的融資に集中し,そして,これを資金的に支えるべく,農村・都市の別を問わず,非組合員の利殖的な大口預金を吸収し,また殖銀・道金連等を通して,日本内地の国家資金,民間過剰資金の導入に邁進したのであった。
 このことによって,一定程度は下層組合員の低利借入の機会を増大し,高利貸の跳梁に対しても限定的にではあれ,制約的機能を果たしたのであった。しかし,金融組合に組織される度合いの高い上層組合員ほど組合の利用状況は有利であり,組織度の低い下層組合員ほど不利な利用状況にあるうえ,さらにかれらの借入は本来の使途からはずれた生計補充的な状態にあった。金融組合に組織された小農層でさえ,組合とのかかわりはこの程度であったから,それ以上の未組織層を含む小農民全体にとって金融組合がいかなる役割を果たしていたかは,さらにいうを要しないであろう(表36参照)。
表36 小作農の主要借入先(1930年頃)
 しかしながら,問題は,下層農民と金融組合とのかかわりが薄かったというだけではなく,それ以上に金融組合の社会政策的活動が結果的には地主・上層組合員の土地集積に荷担したところにある。その限りでは,最初の「はじめに」で紹介した金融組合を高利貸的搾取機関,地主的金融機関あるいは一部上層農組織とみる見解にも一理あるといえよう。しかし,重要なのは,金融組合のそうした現象的一面をとらえてその全体を規定することではなく,日本資本主義の植民地支配の段階的展開をふまえて金融組合の意義と限界を位置づけ,それによって組合の実態を浮きぼりにしていくことである。
 なお,本稿では第2次大戦下の金融組合1)をとりあげることができなかったし,また,第2次大戦後,今日の韓国における組合制度にこれがいかなる歴史的連関をもつにいたったかの問題2)は,今後の課題として残さざるをえない。

 注
 1)この点については,前掲,秋定嘉和「朝鮮金融組合の機能と構造」を参照。
 2)この歴史的連関の視角に立って今日の韓国における農協を扱ったものに,桜井浩
「韓国における農業協同組合の形成過程」滝川勉・斎藤仁編『アジアの農業協同組合』1973年がある。