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郵便貯金の発展とその諸要因

著者名: 迎由理男
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1981年
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目 次
はじめに・・・・・・・・・・2
1 大衆貯蓄と郵便貯金・・・・・・・・・・2
2 わが国銀行資本の特質と郵便貯金・・・・・・・・・・9
3 特定3等局制度の展開・・・・・・・・・・21
4 郵便貯金の利子と経費・・・・・・・・・・25
5 貯蓄奨励運動の展開と郵便貯金・・・・・・・・・・30
おわりに・・・・・・・・・・36


はじめに

 日本の急速な資本主義的発展を可能にした一つの条件として,政府の積極的かつ多面的な財政・金融活動があげられる。周知のごとく,明治前期に展開された殖産興業政策をはじめ,資本主義確立期における鉄鋼・鉄道業の官営や海運・造船業への手厚い補助金支出などは,わが国資本主義の成立・発展に大きな意義をもっていた。また,金融面でも,様々な国家的金融機関(特殊銀行)が政府の補助のもとに設立され,貿易金融や農業金融,植民地金融に主導的な役割を演じている。
 こうした政府の財政投融資活動や特殊銀行の活動の中で,その原資とし重要な役割を担ってきたのは大蔵省預金部資金であった。同資金をぬきにしては,鉄鋼業や鉄道業の急速な発展,あるいは農業金融の展開は語りえないといってよい。
 同資金は,政府の各種特別会計預金,特殊銀行・会社の預金,政府の保管金・供託金など様々な資金から構成されていたが,圧倒的部分が郵便貯金からなっていた。
 この郵便貯金は,「他のあらゆる金融機関の資力との比較において世界的には最大の優位を占めている1)」といわれ,「明治政府の作り出したもっとも独創的な,またもっとも成功した作品2)」と評されるほど,急速な発展を遂げている。
郵便貯金のかかる発展はいかなる根拠に基づくのであろうか。本稿では,政府の財政投融資の原資となった明治期の郵便貯金発展の諸要因を検討したい。


1)大内兵衛「郵便貯金における小市民性と社会性との矛盾」『大内兵衛著作集』第4巻(1975年)359ペ一ジ。
2)吉田震太郎「近代日本財政の諸段階」東北大学『経済学』第130号(1978年1月)85ペ一ジ。

1 大衆貯蓄と郵便貯金

 (1) 郵便貯金の成立
 まず,郵便貯金の成立過程と発展の概要を簡単にみておきたい。
 郵便貯金制度は,1861年イギリスで設立された。その契機となったのは,発展した信用制度のもとで,広く普及していた民間貯蓄銀行がしばしば破綻していたことと,国債の膨脹に対処する必要が生じてきたことからであった1)。零細預金を安全に保管するとともに,国債消化に役立てるというのが創設の主旨である。国営貯蓄機関として郵便局が活用されたのは,それがすでにイギリス全域をカバーしていたので,新たな財政負担を要せずに預金吸収網を築くことができる,という理由に基づいていた2)。イギリスだけでなく,他の多くの欧米諸国も,民間貯蓄銀行の破綻などを契機として,同制度を導入している。
 では,わが国の場合はどうであったであろうか。わが国の郵便貯金制度創設にあたって重要な役割を演じたのは前島密であった3)。彼は,イギリスから帰国すると直ちに郵便制度を創設し,1873年(明治6)には早くも郵便貯金の法案を作成している。この法案は実施に要する財政支出や資金運用について,大蔵省との調整ができなかったため,実施の運びに至らなかったが,翌74年には協議も整い,「貯金預り規則」として制定された。
 かかるわが国における郵便貯金制度の設定は,国内的にも国際的にもきわめて早いものであった。というのは,当時,いまだ近代的信用制度の核となる中央銀行=日本銀行すら設立されていなかったし,郵便貯金の利用者となる労働者や農民層は,前者はまだ形成されておらず,後者は多分に自給的側面を残していたのである。わが国の郵便貯金制度は,欧米諸国と異なって,資本主義が発展の緒につく以前に,民間貯蓄銀行に先立って設立されたわけである。
 国際的にみても,イギリス植民地を除けば,イギリス,ベルギー(1870年)についで3番目の創設であった4)。
 わが国における早熟的ともいえる同制度の導入は,客観的には次のような意味をもっていたといってよい。つまり,先進資本主義から著しく遅れて近代化を開始したわが国では,急激な資本主義化を課題としなければならなかったが,民間資本の形成は大きく立ち遅れており,それをカバーするためには,国家的企業や金融機関が主導的な役割を果たさねばならなかった。郵便貯金事業も,零細預金を安全に保管・運用するというだけでなく,そうした機関の一つとして,全国に分散し,1株にも満たない零細な資金をかき集めて,資本主義的生産に投入してゆかなければならなかったのである。
 設立者の前島もこの点はよく認識していて,創設時にこそ,貯蓄思想の涵養という点を強調していたものの,1880年頃ともなると,「国家経済の要具5)」としての郵便貯金の意義を,次のごとく力説している。すなわち,彼によれば,通貨は全国に分散し細分されて中等以下の人民の手に落ちたままになっていて,通貨本来の活動力を失っている,商業や工業が振わないのは,活動力を失った通貨が夥しい数にのぼるからである,「之を集合して工業貿易の資に供し其活動力を鋭敏ならしむるもの則ち貯金預所を開設するの一途あるのみ6)」,というのである。
かかる考え方のもとに,郵便貯金は1880年代には,「国家経済の要具」として定着してゆく。すなわち,西南戦争によって濫発された不換紙幣の回収と公債価格の維持のために,郵便貯金制度は急速に整備拡張され,全国的な吸収網が形成されたのである7)。
 さて,以上のごとき過程を経て定着した郵便貯金事業は,以後,民間貯蓄銀行と競合しながら,著しい発展を遂げてゆく。その発展のテンポはどの欧米資本主義国よりも速く(第1表),1910年にはわが国大衆預金の29%を占めるに至っている(第2表)。
第1表 主要諸国における郵便貯金の増加率
第2表 大衆預金の推移


1)大蔵省理財局『預金法規改正ニ関スル諸取調』(1911年)。
2)『同書』
3)前島とは別に,木戸孝充らも郵便貯金創設のためにドイツ人マイエットを招聘しようとしていたから,政府高官も積極的な創設の意向をもっていたといってよい(前島密『郵便創設談』1936年,133ぺ一ジ。
4)ちなみに,主要資本主義国の成立年次を順次あげると,1876年イタリア,1881年フランス,1911年アメリカ,1939年ドイツ,となっている。
5)6)逓信省『郵便貯金局郵便貯金事務史』第1編,1910年,8-9ぺ一ジ。
7)『同書』15-16ぺ一ジ。

(2) 郵便貯金の性格
 第2表で示しておいたように,郵貯は膨大な資金を集積したが,急増の要因を検討する前に,この増大はどのような層に支えられ,どのような性格の資金であったのかを,貯蓄銀行貯蓄預金などと比較しながら検討しておこう。
 まず第3表によって,郵貯利用者数の増加をみると,当初数千人に過ぎなかった貯金者は,1908年(明治41)には850万人に達した。1局当りでは50人から1164人,人口1000人当りでは0.1人から162人となり,その急速な普及ぶりをうかがうことができよう。
第3表 郵便貯金利用人員の推移
 次に,1回当りおよび1人当り貯金額,職業別貯金額比率をみると,第4,5表のごとくになる。
第4表 郵便貯金・貯蓄銀行貯蓄預金の1人当り貯金額
第5表 郵便貯金・貯蓄銀行貯蓄預金の職業別比率
これによれば,1890年(明治23)頃までの,1回当りおよび1人当り貯金額はそれ以後の時期よりかなり多い。いま,1884年(明治17)をとると,1回当りでは6.7円,1口当りでは37.3円である。同年の製造業男子労働者の1日当り賃金は22銭であった1)。
1回当り預け高はその1ヵ月分にあたるから,相当高額と言わねばならない。当時の職業別貯金額の統計が存在しないため,当該期の貯蓄者がどのような階層の人々なのか全体としては不明であるが,利用者としては官吏,商業者が多かったと推定される。とくに10年代末から20年代初頭には,「往々富民ノ利用スル処トナリ甚シキハ一時金融ノ都合ニ依リ巨額ノ商業資本ヲ郵便貯金トナスカ如キ傾向3」」があったとされ,郵貯は政府の意図した「細民の貯蓄機関」と大きく様相を異にしていたのである。
 では,20年代後半以後はどうか。第4表によって1905年(明治38)をみると,1回当り貯金額は2.1円,1口当り貯金額は9.2円である。1回当り貯金額は,同年の製造業男子労働者の1日当り賃金が60銭4)だから,1回当りでその3.5日分,1口当りでその半月分に相当する程度である。当時,3円未満の貯金者が全体の60~70%を占めていたことを考えあわせると,これはきわめて少額な貯蓄であったといってよい(第6表)。この零細性は国際的にみても際立っていて,日本の郵貯の1口当り貯蓄額は,各国のそれに比較すると,イギリス,ロシアの約12分の1,イタリア,フランスのそれぞれ10分の1,9分の1にすぎなかった5)。
第6表 郵便貯金貯金額別人員比率
 職業別の比率では,農業が圧倒的に多く,商業がそれに次いでいる。この農業者,商業者は,1回当りあるいは1口当り貯金額の零細性からすると,明らかに地主や大商業者ではなく,中小農,小商業者であったとみてよいであろう。郵貯は,こうした中小農や小商業,換言すれば小商品経済に基礎を置く人々の零細な貯蓄によって支えられていたわけであるが,とりわけ農民の貯金が多いという意味で,農村の貯金であったといってよい。
 これに対し,郵貯とともに貯蓄性預金を主要な資金源として営業活動を展開していた貯蓄銀行の貯蓄預金はどうであっただろうか。前掲第4,5表によれば,貯蓄銀行貯金も郵貯とほぼ同じ水準の零細な貯蓄であることが判明するが,職業別では商業者が最も多くなっている。また,郵貯と比べて大都市を抱える東京,大阪の比率がかなり高い(第7表参照)。郵貯が農村の貯金であるとするならば,貯蓄銀行貯蓄預金は都市の貯金だといえよう。
第7表 郵便貯金と貯蓄銀行貯蓄預金の都市集中度
 ところで,以上のような預貯金は,当座預金のように資本の循環過程で生じる一時的な遊休資金とは異なっている。いわば資本の運動の外部に生ずる資金で,景気循環に直接的には左右されない資金であり,その動向はいうまでもなく貯蓄率の高さと個人所得の趨勢によって規定されるのである6)。
 こうした預貯金を大衆預金と呼ぶとすれば,いずれの資本主義国においても,この大衆預金は金融機関の資金源として重要な役割を果たしている。わが国でも,さきほど検討してきた郵貯や貯銀貯金のほか,現在の「普通預金」に相当する「特別(小口)当座預金」,あるいは信用組合の貯金などがあり,貯蓄銀行はもちろん,中小の普通銀行もかなりの預金源泉をこの大衆預金に依存していた。
第8表 各種預金1口当り金額
 もっとも,同じく大衆預金とはいっても,特別(小口)当座預金と郵便貯金とでは,1口当りの預り額はかなり異なっている。貯蓄銀行を保護するために,普通銀行では,1口5円未満の預金は取扱えなかったからである。実際の1口当り預貯金額をみても,第8表に明らかなように,1916年,郵便貯金が1口当り20円に対し,特別(小口)当座預金のそれは97円に達している。郵便貯金と貯蓄銀行貯金が正面から競合したのに対し,郵便貯金と特別当座預金は預け額の差からみて,比較的競合面が少なかったといっていいだろう。
 ただ,地方の中小銀行では,こうした特別(小口)当座預金もかなり小口であったと言われているから,競合面を過小評価するわけにはゆかない。後述するごとく,恐慌時には,この特別(小口)当座預金が,郵便貯金へ大幅に預けがえされているのである。
 ともあれ,これらの大衆預金は,1890年(明治23)頃までは郵貯が多く,それ以後1900年代頃までは小口当座預金,貯蓄銀行貯金,郵貯の順となっていた。しかし,1910年頃からしだいに郵貯が貯蓄銀行貯金の増大を凌ぎ,1930年には,小口当座預金をも凌駕して大衆預金の35%を占めるに至った(前掲第2表参照)。


1)大川一司他『長期経済統計 8 物価』,1967年,243ぺ一ジ。
2)1884年7月から翌年6月までの宮崎県12郵便局での調査によれば,531名の利用人員のうち,官吏が205名(39%),士族198名(37%),商業79名(15%),農業48名(9%),医師1名となっており,官吏と士族が多い(高橋善七「明治前期における郵便貯金発達の研究」『金融経済』第83号,1963年12月,32ページ)。預け入れ人員では,商業者はあまり多くないが,貯金額では人員比率以上に高い。
3)「郵便貯金条例制定ノ件」『郵政百年史資料』第5巻(1970年),47ページ。
なおこの郵便貯金の大口化は,当時利子が7.2%と高く,預り制限も撤廃されていたうえに,連年不況であったからであろう。その状況を『東京経済雑誌』は次のように述ベている。「近来商業益々不活発なるより,商店は物品を仕入れば忽ち低落し損毛を来たすの場合ありて,殆んど御店向は休業とも云ふべき有様なれば,奔走して損毛を為さんより寧ろ駅逓局へ貯金を為し,幾分の利を見るの安全なるに若かず」。
4)大川一司他『前掲書』243ページ。
5)下村宏『貯蓄機関論』1911年,339-40ページにより算出。
6)わが国においては,低所得にもかかわらず,貯蓄率がかなり高かったことはよく知られている。中でも,地主や農家の貯蓄率が高い。1917年の『租税負担調書』からの推計によれば,地主52.1%,農家41.0%,個人経営者36.1%,政府職員16.7%となっている(篠原三代平『経済成長の構造』1964年,72ページ)。

2 わが国銀行資本の特質と郵便貯金

 以上のごとく,郵便貯金は農民を主体とする零細な貯金に支えられて急速な発展を遂げてきた。零細な大衆預金が何故に他ならぬ郵便貯金に集中してきたのだろうか。その第1の要因は,わが国銀行の特質に求めることができる。われわれはこれを,都市有力銀行1)と中小銀行および貯蓄銀行2)の2つの分けて検討してみよう。


1)ここでは,東京・大阪などの大都市に本店を置き,広い営業エリアと大規模な資金量を有する銀行を都市有力銀行とし,その他の銀行を中小銀行とする,この両者が若干の交差を伴いつつ,1910年頃に都市銀行と地方銀行に最後的分化を遂げる。この分化過程と,都市銀行・地方銀行の規定については,石井寛治「地方銀行の成立過程――地方銀行と都市銀行の分化」『地方金融史研究』第3号,1970年12月参照。
2)普通銀行と貯蓄銀行の区別については,(3)の注3),4)を参照されたい。

(1) 都市有力銀行と郵便貯金
 まず,都市有力銀行と郵便貯金との競合関係の有無を,都市有力銀行の動向から検討を加えてみよう。
 後年,都市銀行としてわが国の金融界に君臨した都市有力銀行といえども,1900年頃までは,その資金源は日本銀行からの借入金や官公預金とともに,零細な大衆預金に大きく依存しなければならなかった。しかし,1900年代になるとそうした状況は大きく異なってきた。有力銀行の動向を,当時の最有力銀行であった三井銀行の状況からみてみよう。
 同行では,1889年8月から1口1円以上の貯蓄預金の取扱いを開始して,零細預金の吸収に乗り出した1)。貯蓄銀行条例の制定後,貯蓄預金は取扱えなくなったものの,事実上その多くは小口当座預金に引継がれている。
第9表 三井銀行の預金構成
第10表 都市有力銀行の小口当座預金の無利息化実施状況
第9表から明らかなように,同行の預金総額に占める小口当座預金の比率は,1900年頃まで最大44%にも達しており,同行にとっても零細な大衆預金は無視しえぬ状況であった。実際,同行は零細預金を積極的に吸収するべく,貯蓄専業の子銀行の設立さえ計画していた2)。しかし,同行はこの貯蓄銀行の設立計画を中止したばかりか,1900年代に入ると,小口当座預金の吸収に対してはきわめて消極的になっていった。同行社長三井高保の次の発言はそれをよく示している。すなわち彼は,「小口当座ト称スル貯蓄類似ノ預リ金ニ至リテハ最モ面白カラズ,貯蓄銀行ハ元来営利的ニスベキモノニアラズ。国家若クハ慈善的ニナス可キモノナリ。(中略)故ニ小口当座ハ漸次之ヲ廃止,預金ハ定期預金トナスベシ3)」と述べたのである。この方針は具体化され,同行は1903年7月より,残高50円未満の小口当座預金を本支店とも無利子としてしまった4)。同行ばかりではなく,第10表のごとく,かなりの都市有力銀行が小口当座預金の無利息化に踏み切っている。この頃になると,都市有力銀行,とくに財閥系の銀行は,同一系統の大企業の遊休資金を当座預金としてかなり吸収することができたうえ,信用力も高かったので,比較的多額の個人預金も定期預金として集めたから,恐慌のたびに取付け騒ぎに発展する零細預金の吸収にはそれほど積極的になる必要はなかったし,積極的になりえなかったといってよい5)。三井銀行の場合,1900年前後から小口当座預金は殆んど増大していない。それに対し,定期預金と当座預金は大幅に増加し,両預金の伸脹によって資金量を拡大させていることが,前掲9表から窺うことができよう。
 こうした有力銀行はまた,地方進出についても概して消極的であり,あまり支店網を拡大していない。第11表に示したように,後の5大銀行をはじめ有力銀行は,隣接県のみならず遠隔地の主要都市にまで支店を設けはじめてはいるが,いずれもせいぜい15~16余りの支店網を築いているにすぎない。店舗数自体でいえば,その活動がほぼ1県内に限られているとしても,中位の預金規模をもつ地方銀行の方がむしろ多いくらいである。
 資本主義の展開に伴って金利が全国的に平準化しつつあるとはいえ,第1次大戦前においては,いまだ地方農村部は高金利が支配的であった。したがって,資本主義的大企業を主たる融資対象とした有力銀行にとっては,貸出対象を地方で見出すのは困難であったし,高利で預金を吸収したとしてもそれほどメリットはなかったであろう。三井銀行でも,一時34店舗にまで支店を拡大したが,成績の芳しくない店舗を漸次閉鎖し,支店網を縮小している。
 以上から明らかなように,都市有力銀行は郵便貯金が基盤とする零細貯蓄,とりわけ農村部のそれに対してはいたって消極的であり,預金吸収をめぐって郵便貯金と鏑を削ることはまずなかった。したがって,むしろこれら銀行にとっては,自らは吸収しえない地方の零細貯蓄は国家的機関によってなされるべきであり,有力銀行関係者はしばしば郵便貯金制度の強化さえ主張したのである。すなわち,元老井上馨が組織し有力銀行家が中心的な会員であった「有楽会」は,貯蓄銀行条例改正に対する意見の中で,「多少競争となるも今日貯蓄銀行の不完全なるもの多き場合,国家事業として貯金を奨励するは事情止むを得ざることと信ず7」」と述べ,郵便貯金の強化を主張した。また,三井銀行理事の早川千吉郎や三菱の荘田平五郎は,貯蓄事業国営論あるいは慈善事業論を唱えたのである8)。
第11表 銀行の支店数と支店分布


1)三井銀行80年史編纂委員会『三井銀行80年史』1957年,372ページ。
2)進藤寛「明治時代の貯蓄銀行」金融経済研究所『日本の銀行制度確立史』1966年,335-36ページ。
3)前掲『三井銀行80年史』160ページ。
4)『日本金融史資料』,明治大正編第6巻,660ページ。
5)なお,有力銀行の中でも,傘下に有力企業をもたなかった非財閥系銀行や預金規模が下位にあった銀行は,子銀行として貯蓄銀行を有し,貯蓄預金を積極的に吸収していた。前者の例としては,安田銀行と金城貯蓄銀行(1919年,安田貯蓄と改称),川崎銀行と川崎貯蓄銀行,後者の例としては,加島銀行と加島貯蓄銀行,京都商工銀行と商工貯金銀行などがあげられよう。
 これらの銀行は,前者についていえば,中小企業や問屋などへの長期の融資が多かったためとされており(進藤寛「前掲稿」239ページ),後者についていえば,前者と同様の融資対象を主体としていたうえに,都市銀行と地方銀行との分化過程が進行する中で,預金規模で後れをとっていたからだと考えてよい。
なお,第一銀行も東京貯蓄銀行を子銀行とし,その代理店業務を行なっていたが,東京貯蓄銀行の資金運用中,同行への預け金比率は低く,両行は資金関係ではそれほど密接ではなかった。
6)同行はすでに1877年には34店舗を有していた。もっともこれは,大蔵省為替方を委任されていて,各地の官金取扱いを行なう必要から設置されたものである。1882年に日銀が設立されて為替方を解かれたあとは,支店網を縮小している。それでも1893年にはまだ24支店存続していた。同年以降,中上川の手によって,三井系企業との取引を中心とする業務方針を採用して以来,さらに支店数を縮小した(以上,『三井銀行80年史』による)。
7)『銀行通信録』第180号,1900年11月,723ページ。
8)早川千吉郎「郵便貯金に割増金を付するの議」『実業之日本』第4巻第15号,1901年8月,10ページ。荘田平五郎「貯蓄の本旨」『同書』第5巻第1号,1902年1月,15ページ。

(2) 中小銀行・貯蓄銀行と郵便貯金
 郵便貯金と殆んど競合しなかった都市有力銀行に対し,中小銀行や貯蓄銀行と郵便貯金は激しい競合関係に立っていた。郵便貯金が何故優位になっていったのか,この点をこれら銀行の業況からみてみよう。
 わが国の中小銀行は,きわめて強い資金需要の故に,その多くが貯蓄銀行業を兼営し,積極的に零細預金を吸収した。また,同じような事情から,多数の専業貯蓄銀行も設立されている。しかし,その多くが投機的で不健全なものであったといっていい。
 はじめに,1880年代半ばの貯蓄銀行の業態をみれば,第12表のごとくになる,これによれば,預金量が資本金を超えているのは19行中わずか8行にすぎず,その貸付利率も低くとも1割以上,「往々二割五分ノ高位1)」であった。さらに,預金の支払準備は極度に少ないといっていい。当該期の貯蓄銀行は社会的資金の吸収を通じて高利貸資本を駆逐してゆくどころか,自ら高利貸的な活動を展開していたのであり,その後9行も廃業していることからも明らかなように,きわめて不安定だったのである。
第12表 1883年における貯蓄銀行の業務状況
第13表 預金規模別預貸率別専業貯蓄銀行数
 では,1900年代頃の貯蓄銀行はどうであったか2)。まず,全国貯蓄銀行の預貸率をみると,60~80%で当時の普通銀行の預貸率に比べるとかなり良好のようであるが3),預金規模別にみれば,預金30万円未満の中小貯蓄銀行はその多くが100%以上のオーバー・ローン状況を示し,旺盛な貸出活動を展開していることが窺える(第13表)。しかも,その貸出も「確実ナラサル会社ノ株券又ハ債券若クハ価格ノ不安定ナル商品等ヲ担保4」」とした貸出が多かったといわれている。1897年の数字をとれば,株券を担保とする貸出が全貸出中の47.4%を占め,普通銀行の35.9%をはるかに上回っているのである5)。また,有価証券所有は中小の貯蓄銀行ほど所有比率が小さく,所有していても自行の重役関係会社の株券や小会社の株券が多数を占めて,公債は少なかった6)。
 ところで,貯蓄銀行の中には,以上のごとく自ら積極的に貸出活動を行なう銀行のほか,その資金の殆んどを親銀行に預け入れる銀行も相当数あった。前掲第13表に示した預貸率50%以下,とくに10%以下の貯蓄銀行がそれである。かかる貯蓄銀行も親銀行の破綻とともに破綻を強いられることが多く,不安定なものであったとみていい。その指標として,1901年恐慌の業種別支払停止銀行数をあげると,休業52行のうち,専業貯蓄銀行11行,普通銀行兼業貯蓄銀行13行であったが,専業貯蓄銀行11行のうち9行が普通銀行の子銀行であった7)。
 要するに,明治時代の貯蓄銀行は,一部の有力貯蓄銀行を除けばきわめて不健全な営業を行なっていたのであるが,大多数の中小銀行についても同じことがいえるといってよい。すなわち,その多くは貯蓄銀行以上のオーバー・ローンであったし,いわゆる「機関銀行」として,不確実な担保や信用で,一個人や一企業に多額の固定貸しを行なっていたのである8)。当然こうした銀行は,恐慌に弱く,恐慌ごとに多くが支払停止,あるいは休業に追い込まれた9)。そして,その恐慌ごとに郵便貯金は急増したのである10)。
 こうした中小銀行・貯蓄銀行の脆弱性とともに,郵便貯金が優位にたった要因として,今一つ貯蓄銀行の大都市偏在性をあげておかなくてはならない。すでに述べたごとく,貯蓄銀行貯蓄預金は郵便貯金に比べて,大都市の比率がきわめて高い(前掲第7表)。確かに地方にも多くの銀行が設立されたけれども,わが国の農村地帯は小農経営が広範に残存し,近代的な利子範疇が容易に成立し難く高利貸資本の跳梁する地域であった。かかる地域においては,近代的金融機関が発展する余地に乏しく,設立されても高利貸と選ぶところがない状況で,その経営基盤も弱体たらざるをえなかったのである11)。

1)『明治財政史』第12巻,875ページ。
2)当該期の貯蓄銀行の状況については進藤寛「前掲稿」を参照。
3)全国貯蓄銀行の預貸率は,1900年代では1901年の82%をピークにほぼ60~80%となっている。これに対し,その間,全国普通銀行の預貸率は150~100%で著しいオーバー・ローンを示している。これは,専業貯蓄銀行では,預金支払準備として預金額の4分の1以上を公債で供託する義務があり,有価証券保有率が比較的高くならざるをえなかったからである。
4)大蔵省銀行局『本邦貯蓄銀行制度の沿革』1901年,84ページ。
5)進藤寛「前掲稿」267ページ。
6)菅谷幸一郎「本邦貯蓄銀行資金運用の方法」『銀行通信録』第44巻第263号,1907年9月,343ページ。
7)協和銀行『本邦貯蓄銀行史』1969年,84ページ。
8)当該期の普通銀行の性格については,加藤俊彦『本邦銀行史論』1957年,130ページ以下参照。
9)大蔵省『銀行事故調』に基づく破綻要因別件数の集計によれば,事故原因総数203のうち,経営・貸付の放漫32,重役や重役関係企業への貸付22,重役・支配人・行員の行金費消35など,不健全なる経営によるものが圧倒的に多い(渋谷隆一「『銀行事故調』解題」駒沢大学『経済学論集』第6巻,1975年3月,3ページ)。
10)例えば,1900-01年,1907-08年,1920-21年などの恐慌では,貯蓄銀行・中小銀行預金が急減し,都市有力銀行と郵便貯金へ預貯金が集中している(『銀行通信録』第189,190号,1901年7,8月,『日本金融史資料』第22巻540ページ,加藤俊彦『前掲書』149ページ,などをみよ)。
11)資本主義の確立とともに,徐々に高利貸資本の運動も自立性を失い,また利子率の平準化が進むが,明治時代にはこれも十分に進展していなかったと考えてよい(渋谷隆一「我が国貸金業の統計的考察」『農業総合研究』第16巻第1号,1962年1月,184-85ページ)。
(3) 貯蓄銀行政策と郵便貯金
 以上のような中小銀行・貯蓄銀行の信用不安のために,郵便貯金は総体としてこれら銀行を圧倒し,優位にたっていたとはいえ,都市部を中心として貯蓄銀行と激しい競合関係にたっていた。例えば,1902年(明治35)東京府は次のごとく逓信省に報告している。「預金者ノ多数ハ殖利ト資金運用トニ急ナル事情アルト,銀行及ヒ保険会社ハ預金者ノ利益ヲ計リ競争ノ地位ニ立チテ目下ノ趨勢容易ニ郵便貯金ニ転セシムルコト困難1」」と。政府はこうした郵便貯金と民間金融機関との関係をどのように考え,中小銀行,貯蓄銀行に対してどのように対処したのであろうか。ここでは,貯蓄銀行政策と郵便貯金の関係をみてみよう2)。
 明治期の貯蓄銀行政策はたびたび変更されている(第14表参照)。すなわち,自由主義的な放任政策から,1880年代半ば(明治10年代末)以降には一転して,営業制限を厳しく課した取締政策となり,1893年(明治36)にはこれを徹底させた貯蓄銀行条例が制定された3)。しかし,1895年には,銀行側の激しい運動によって同条例の改正が行なわれ,貯蓄銀行は運用を大幅に緩和されて事実上貯蓄預金をも取扱う普通銀行に転化していった4)。
 こうした貯蓄銀行政策のたびたびの変更は,基本的には,「健全性」の要求と貯蓄銀行の量的発展との矛盾にあった。つまり,預金者保護および資本形成の観点からすれば,貯蓄銀行は健全な発展を要請されていたのだが,政府が健全化政策を採って貯蓄銀行の監督を強化する限り,その発達は萎縮せざるを得ず,量的発展促進のために監督を寛大にすれば,投機的脆弱性を免れえなかったのである5)。
 しかし,政府・大蔵省の政策は,日清戦後の恐慌によって多くの貯蓄銀行が破綻して以降,ほぼ一貫してその制限に向かう一方,貯蓄機関としては,国営貯蓄機関を主とし民間貯蓄機関を従とする方針を打ち出している。いまその代表的事例として,「国立貯蓄銀行法案」をみることにしたい。同法案は,1902年およびその翌年に,大蔵省を経て閣議に提出されたが,閣議決定に至らず廃案になったものである。その概要は第15表に示したごとくであり,当時としては並外れて巨大な資本規模をもつ銀行案であった。
第14表 貯蓄銀行関係年表
第15表 国立貯蓄銀行法案の概要
 この国立貯蓄銀行の設立意図は,一つには,資金吸収・運用の両面で郵便貯金・大蔵省預金部の補完機関たらしめることであり6),いま一つには,不健全な貯蓄銀行の改善を目ざしたものであった。前者の点はしばらく置くこととし,ここでは後者に絞って検討しよう。
 『国立貯蓄銀行法制定の議7』』によれば,不健全な貯蓄銀行の改善方法として以下の改正案をあげている。
 ①新たに完全な貯蓄銀行法を制定すること。
 ②貯蓄銀行条例を改正して不備の点を補修改正すること。
 ③貯蓄銀行条例を廃し,貯蓄預金はすべて郵便局に取扱わせること。
 ④新たに半官半民の中央貯蓄銀行を設立し,併せて貯蓄銀行条例を改正すること。
 このうち,第1,第2の案については,法規の制定だけでは貯蓄機関の内部に立ち入って十分に監督することができないとし,第3案に関しては,わが国の貯蓄制度発展の沿革上,貯蓄銀行廃止は実行上困難であるし,この方法によると,地方零細資金の中央集中に伴い地方の開発に支障をきたすおそれがあるとしている。こうした理由から,結局第4の方法を採用し,「中央貯蓄銀行ヲシテ貯蓄銀行ヲ監督保護セシムルト共ニ漸次基礎ノ薄弱ナル貯蓄銀行ヲ吸収合併セシムル8」」との方針を,大蔵省は決定したのである。
 こうした,国営貯蓄機関を主体とする考え方は,当時の同省の基本的な方策であったといっていい9)。だが,かかる国営貯蓄機関論も,貯蓄銀行だけでなく,資金調達のために子銀行として貯蓄銀行をもつ多くの中小銀行の強固な反対によって,その実現はきわめて困難であった。また,営業制限厳格化を目ざしてたびたび立案された「貯蓄銀行条例改正案」も,これら銀行側の猛反対の前に実現を阻まれていた10)。そこで政府・大蔵省は,既設の国営貯蓄機関たる郵便貯金制度を強化拡大してゆくのである。


1)逓信省通信局『各府県郵便貯金奨励実況』1903年,21ページ。
2)中小銀行政策については,後藤新一『本邦銀行合同史』1968年,をみよ。
3)同条例は,複利の方法を以て預金業務を営み,1口5円未満の預金を取扱う銀行を貯蓄銀行とし(第1条),その健全性を図るために以下のごとき規定を設けた。
 第1には,取締役の責任を連体無限責任とし,退職後も1年間は在職中と同様の責任を負うこと(第3条),第2には,貯蓄預金を保護するために,払込資本金の半額以上を国債で供託すること(第4条),第3には,資金運用の制限であり,同条例は,期限6ヵ月以内の国債・地方債を質とする貸付,支払能力につき疑う余地のない者2名以上の裏書のある為替手形・約束手形の割引,国債・地方債の買入,などに資金運用を限定した(第5条,6条)。
4)改正の要点は,①資金運用に対する諸制限を撤廃したこと,②従来,払込資本金の半額以上の供託金を,預金総額の4分の1以上とし,預け入れるべき証券に地方債を加えたこと,③取締役の無限責任を2ヵ年に延長したこと,などである。
 同改正によって,貯蓄銀行と普通銀行は,資金運用上の区別はなくなった。貯蓄銀行は複利の方法で1口5円未満の預金を取扱う銀行であり,普通銀行は銀行条例に基づいて設立され,1口1回5円以上を取扱う銀行ということになるが,普通銀行でも事実上複利計算を行なっていたので,両者の区別は1回の預け入れ金額だけということになった。
5)白井規矩稚『日本の金融機関』1939年,148ページ。
6)拙稿「大蔵省預金部制度の成立と展開」渋谷隆一編『明治期日本特殊金融立法史』1977年,523-24ページ。
7)前掲『本邦貯蓄銀行制度の沿革』6ページ。
8)『同書』7ページ。
9)浅井良夫「貯蓄銀行法の成立と独占的貯蓄銀行の形成(上)」成城大学『経済研究』第64号1979年2月,98-100ページ。
10)前掲『本邦貯蓄銀行制度の沿革』によれば,1899-1906年の間に,8度にわたって改正案が閣議に提出されているが,いずれも成立していない。
3 特定3等局制度の展開
(1) 特定局制度の成立
 郵貯が急増した要因として,以上のごとき競合する金融機関(貯蓄銀行)の脆弱性と都市偏在性という条件に加えて,政府の積極的な貯金業務の整備と吸収政策があげられなければならない。政府は,貯蓄銀行の破綻とそれに対応した貯蓄銀行の強化策(貯蓄銀行条例の改正)の挫折後,「貯蓄者保護」を図るとともに,財政資金調達の一助とするために郵便貯金業務を急速に強化,拡充して郵貯増強を押し進めてゆくのである。その拡大過程は第16表に示したごとくであるが,ここではこれら拡充過程についての分析は割愛し,郵貯発展の原動力ともなった吸収網の整備過程を検討してゆくことにしよう。
 郵便局=郵貯吸収網は第17表に示したごとく,わずか十数年のうちに全国に張り巡らされている。
第16表 郵便貯金業務の拡大過程
第17表 郵便局数の推移
郵便局の全国的な配置は,資本主義の発展基盤を整備するという意義に加えて,軍事的,警察的にも不可欠な意義をもっているが,この整備は,とりもなおさず莫大な財政投資を必要とする。しかし,当時,地租以外とりたてて財源もなく財政基盤は脆弱で,こうした財政投資を不可能としていた。この「財政の脆弱性」と「整備の緊急性」の矛盾を解決したのは特定3等局制度の採用であった。第17表にみられるごとく,郵便局の殆んどがこの特定3等局である。
 同制度は,明治10年代末から20年代初頭に成立するが,郵便制度成立の時点から,前島の手によって事実上推し進められていた。すなわち,前島は,当時いまだに根強く残存していた封建的意識を最大限に活用して,官吏の名称とひきかえに局舎を無償で提供させ,とるに足らない手数料(口米)で業務を遂行させたのである。彼はその意図を次のごとく述べている。「其時代は役所という名は自然尊重な意味を人々に感じさせ,従って役人と言われて役所の事務を執ることは,地方の人々などは別して名誉としていた……。是も矢張実費を掛けず虚栄を利用して,斯業を発達させる私の一つの方略でした1)」。
この前島の「方略」は明治10年代末から20年代初頭に,3等局長および取扱人の採用,服務,給与,経費などに関する諸規則が制定されて,制度として成立した。
局長の特徴を列挙すると以下のごとくになる2)。
 (1) 満20歳以上の男子で,実価300円以上(貯金取扱いの場合)の土地,家屋を有すること
 (2) 判任官とするが,俸給を支給せず,「手当」として1ヵ年400円以下を支給
 (3) 局舎等の土地建物は無償提供義務を有する
 (4) 渡切経費を以って,職員の給料その他局務一切の費用を請負う
 (5) 原則として兼業の自由を有する
 (6) 損失は局長が賠償の責をとる
 ここから明らかなように,3等局長は,きわめて特異な性格をもっている。つまり一面では名誉職的な官吏でありながら,他面では渡切経費をもって適宜従業員を雇用し,給与も自由支給できるという,独立した請負業者としての性格をもっているのである。
 こうした特定局長は,郡区長,府県知事の推挙をえて任用されたが3),当初は名誉職的な性格が強く,旧庄屋層(いわゆる「名望家」層)などが多かったといわれている4)。しかし,資本主義の発展とともに郵便業務,とりわけ,貯金業務が増加して特定局事務が繁忙化していった。こうした事務の繁忙化は特定局長を単なる名誉職としてとどめておかず,特定局長も業務を負担せざるをえなくなり,独立小営業者的側面を強く持ち出してくる。しかし,渡切費の採用はもともと「一ハ会計ノ手数ヲ減スルコトーハ請負トナス為ニ経費ヲ節約スルコト5」」にあったのだから,業務量の増大や物価の上昇にもかかわらず据え置かれがちであった。このため特定3等局制度は,はやくも困難な事態を迎えることになった。
 その第1は,多くの特定局長が辞職し,郵便局の増大が非常に困難になったことである。いま試みに政府職員録で新潟県の動向をみると,同県では1892年(明治25)から1897年(明治30)までの間に,161局中約3分の1にあたる55局が廃局ないしは局長が他人に交替しているのである6)。かかる状況を,ある雑誌は「近年有為の士にして其職を辞するもの続々たり7」」と報じている。名望家層に依拠してきた郵便局網の拡大が行きづまりを生じてきたのである。
 第2に,独立小営業者的側面を強くもちはじめた彼らは,結束して政府と対抗しはじめるに至った。すなわち1894年,これまで3等局長の郵務研究と事務上の打ち合せ機関であった郵務研究会が「3等局長協議会」として発足した。同協議会は法的には郵務研究会の協議事項に電信事務の協議が加えられたにすぎないが,それまでほとんど論議されなかった局費問題や局員問題がとりあげられ,政府への突き上げを盛んに行なうに至っている8)。さらに,彼らは経費増額の陳情や請願運動を積極的に展開していったのである9)。
 第3に,3等局の経営の悪化は,雇員に転化され,局長と雇員間の矛盾が生じるとともに郵政労働者の雇用難に陥った。
 郵政労働者の低賃金と重労働の状況は,例えば,次のように報じられている。「悲むへく燐む可きは社会の最も尊重すへき秘密を取扱ふ三等局傭員なり 彼俸給は局長受負額の範囲内を以て極めて低廉に苛酷に使役せられ孜々汲々夜を日に継き其勤労は遙に一二等局書記補を凌駕せり……(傭員に)人を得さる所以は他なし其報酬の以て衣食住の資に供するに足らざるが故なり其 異動の頻繁なる実に驚くへく朝就暮去僅に半歳の間勤続者も稀に見るの状態10)」であると。当時の賃金水準をみても,1898年(明治31)で郵便集配人の日当は34銭以下であり,大工はもちろん人夫の賃金にも及ばなかった。かかる低賃金と重労働のために,各地で郵便局員,とくに集配人の欠乏が生じただけでなく,同盟罷業も発生するにいたっている12)。
 政府は以上のような3等局の廃局あるいは経費増額要求,労働強化に伴う人員不足にたいし,各級郵便局あるいは郵便為替貯金管理所への女子職員の採用に踏み切る13)一方,1903年(明治36),「特定三等郵便局経費支給規定」によって特定局制度の手直しを図った14)。すなわち同規定によれば,従来渡切費として一括支給されたもののうち,事務員給料,逓送人給料,集配人給料が「直轄経費」として直接事務員や集配人などの本人に支給されることとされ,雑費とこれまで無料であった局舎料の2種を渡切経費とした。同時に,局長の賠償義務の緩和と局長手当の増額を実施する一方,局長には他職の兼業を禁止することとした。
 以上の措置は,独立の請負業者として広範になされていた逓信労働者の中間搾取を廃して庸員を確保する一方,局長を下級官吏として組み込んでゆく措置であった。
しかし,特定局長は,以前同様「俸給」は支給されず,局舎料も実情に合わないほど低額であり,局員の雇用も局長に任されていたなどの点で,いまだ強く小営業者的な側面をもっており,根本的な解決案ではありえなかった。
 しかし,さしあたりこの「特定局制度」の修正によって,不安定であった郵便局=郵貯吸収網は1900年過ぎからようやく順調な拡大を続けてゆくのである(前掲第17表参照)。


1)前掲『郵便創業談』108ページ。もっとも,『郵政百年史資料』によると,前島をはじめ駅逓寮では,こうした措置をあくまでも一時的なものと考えており,将来は官設を目ざしていたようである(『同書』第9巻,215ページ以下)。しかし,実際には財政事情がゆるさず,3等局制度として定着してゆく。
2)「三等郵便局長採用規則」「三等郵便局長服務規約」「郵便貯金預所取扱人採用規則」
「郵便貯金預所取扱人服務規定」による。
3)郵便貯金預所取扱人採用規則」第6条,「逓信省訓令第4号」1880年2月,第2条。
4)特定局を担った階層については必ずしも明らかではないが,印旛県の創設時の郵便取扱人は,35名中16名が旧名主ないしは庄屋であった(薮内吉彦『日本郵便創業史』
1975年,172ページ)。
5)「郵便局経費渡切規則案説明」1903年3月。
なお,逓信省令第3号に基づく3等郵便局長手当年額表によると,手当支給額は官等級に従い,400円から9.6円までを支給するとされているが,大部分の3等局長は最下級の10等下級であった。
 この点を新潟県でみると,1888年,3等局長164名のうち,8等下級(年支給額36円)1名,9等上級(24円)1名,9等下級(18円)3名,10等上級(12円)32名,10等下級(9.6円)127名,となっている(内閣官報局『職員録』による)。
ちなみに,同年の文官の1人当り平均年俸をみると,勅任官3,989円,奏任官890円,判任官211円,雇員114円であった(東洋経済新報『明治大正国勢総覧』による)。
6)前掲『職員録』による。
7)『交通』第16巻第158号,1897年7月,40ページ。
8)全逓『郵政事業研究報告書』1958年,253-54ページ。
9)『交通』第17巻第168号,1898年12月,26ページ。
10)一幽生「三等局員の待遇に就て」『同誌』第16巻第156号,1897年6月,37ページ。
11)全逓『全逓労働運動前史』上巻,1965年,83-84ページ。
12)例えば,高松郵便電信局では,集配人が「給料の件に就き」同盟罷業した。同局では,「重立ちたる者5名を免職'し止を得す1人の集配人をして数名分を集配」せしめたという(『同誌』第17巻第161号,1897年9月,31-32ページ)。
13)1900年7月に実施。なお,下村宏(郵便貯金局長)は女子職員の採用理由を次のごとく述べている。「種々と仕事が増加して来る一方予算が充分に取れない。増員は事務の逓増に追い付かない。そこで女子の雇員を採用しようといふ(ことになった――引用者)。女子事務貝は割合に安く使えるし,人を得ることも容易である」(逓信省『逓信事業史』第1巻,1940年,167ページ)。
14)「公達第294号」1903年3月28日。

4 郵便貯金の利子と経費

 (1) 貯蓄性預金金利の動向
 郵便貯金の利子いかんは,その増減に大きな影響を与える。そこで,この動向をみておこう。郵便貯金は大蔵省預金部を通じてその大部分が公債に運用されているところから,公債利子を標準としてその金利が決められたといわれているが1),民間金融機関の貯蓄性預金金利と比べて,実際にはどのような水準にあったのだろうか。第1図は郵便貯金金利の動きと東京有志銀行の「定期預金」および「小口当座預金」金利の動きを示したものである。これによれば,まず第1に,郵便貯金金利は他の預金金利の動きに比べて非常に固定的であること,第2に,「定期預金」に比べると下回ることが多いが,一時的には上回っていることもあること,第3に,「小口当座預金」に比べると1892年(明治25)以降は上回っている時期が多いこと,などが判明する。
 次に第2図と第18表によって郵便貯金金利を貯蓄銀行貯蓄預金金利と比較してみると,東京・大阪の大貯蓄銀行に対してほぼ同程度かやや下回っているのに対し,地方貯蓄銀行や都市弱小貯蓄銀行(ここでは川越貯蓄銀行あるいは興業貯蓄銀行)のそれに比べると,かなり下回っていることがわかる。
 もっとも,郵貯と貯蓄銀行貯蓄預金の利子支払方法の違いを考慮すると,郵便貯金の実際の利回りは都市大貯蓄銀行貯蓄預金よりやや下回る程度になると思われる。というのは,1900年(明治33)頃から,貯蓄銀行では日歩勘定で利子を付与するのが一般化してきたのに対し2),郵便貯金は預け入れと払戻しの月には利子を付さない,いわゆる「両落ち」であったからである。1909年(明治39)頃郵便貯金の表面金利は,5.04%であったが,実質利回りは4.5%を上回ることはなかったといわれている3)。
第1図 郵便貯金と東京有志銀行の損貯金利子の推移
第2図 郵便貯金と貯蓄銀行貯蓄預金の預貯金利子の推移
第18表 郵便貯金・貯蓄銀行貯蓄預金利率
 しかし,この点を考慮に入れたとしてもなお,郵便貯金金利は都市有力銀行の「小口当座預金」や大貯蓄銀行の貯蓄預金とほぼ同水準にあったとみていい。大都市部では,郵便貯金は他の金融機関の貯蓄性預金と金利面においてもかなり対抗できたのである。
 こうした金利水準は郵貯が民間金融機関に対して競合主義的な金利政策をとり,積極的な資金吸収を目ざしていたからに他ならないが,その競合主義的な利子政策の典型をわれわれは1898年と1904年の利子引上げにみることができる。両年ともむしろ一般金利は低下気味であったにもかかわらず,資金吸収の必要性から,引上げを断行したのである4)。そのために,郵便貯金金利は定期預金や大貯蓄銀行の貯蓄預金金利を上回ることとなった。
 こうした金利政策は,欧米先進資本主義諸国とは大きく異なっている。例えばアメリカでは,民間金融機関と競合しないようにとの目的で,それらの貯蓄性預金金利よりもかなり低利に据え置かれていたのである5)。それにひきかえ,わが国では,民間金融機関,とくに都市部のそれとは金利面でも強力な対抗勢力になりえたのであった。民間金融機関に対する信用不安とともに郵便貯金増大の要因であったといっていい。


1)郵政省貯金局『郵便為替貯金事業80年史』1957年,37ページ。
2)進藤寛「前掲稿」264ページ。
3)下村宏「郵便貯金利子問題」『銀行通信録』第287号,1909年9月,313ページ。
4)『郵便為替貯金事業80年史』377ページ。
5)大内兵衛「郵便貯金における小市民性と社会性との矛盾」『大内兵衛著作集』第4巻,1975年,354-55ぺ一ジ。
第19表 大蔵省預金部資金のコストと運用利回り

(2) 郵便貯金の経費
 多くの中小銀行や貯蓄銀行が,高利の預金吸収のために高利の資金運用を余儀なくされていたのに対し,郵便貯金は以上のように金利が民間金融機関と対抗しうるほどの水準であったにもかかわらず,資金運用は公債投資や地方低利資金の供給などかなり低利の運用であった。郵便貯金の有価証券収入利回りは5%前後にすぎなかったのである1)。運用利回りがこのように低いにもかかわらず,貯金金利を比較的高くしえたのは何故であろうか。その理由は,郵便貯金の独特な運用機構にあるといっていい。
 第19表は,資料の制約上少し後の時代の預金部(郵便貯金の運用機関)資金のコストと運用利回りを示したものである。これによれば,預金部資金中の郵便貯金のコストは,例えば1923年(大正12)では4.465%で,その99.5%が支払利子となっており,経費率は非常に低い。この経費率の低さが,相対的に利子の高い割には低利運用をなしえ,なおかつ相当な運用利益をあげうる理由なのである。
 しかし,実はこの「経費率」は郵便貯金の実際の経費率とは大きく異なっている。というのは,大蔵省預金部が負担する「経費」中には郵便貯金事業経費が含まれておらず,同事業に要する経費は,一般会計の逓信事業費から支出されることになっていたからである。
 郵便貯金事業は創業当時においては独立経営であり,経費は貯金支払利子と運用収益の差,つまり利差収益でまかなっていた3)。すなわち,運用先である大蔵省から受けとる収入利子は,1881年(明治14)を例にとれば年9%であり,郵便貯金者への支払い利子は年7.2%であったから,この利差(1.8%)で事業費をまかなっていたのである。ところが,大蔵省は運用利回りが低下したことを理由に,支払い利子を郵便貯金金利と同利率の7.2%に引下げるよう要求し,これを実現した3)。郵便貯金事業にとっては,大蔵省への預託利子と貯金者に対する支払い利子が同率になったために,経営上からは貯金金利の引下げを余儀なくされたわけである。しかし,貯金利子の引下げは同事業の発展を妨げる。そこで,貯金金利を引下げず,しかも取扱い経費に支障をきたさない方策として採られたのが,大蔵省は預金者に支払う利子だけを預託金利子として支払い,取扱い経費は一般会計負担にする,という方法であった4)。つまり,郵便貯金の運用機関たる預金部は,この一般会計負担によって膨大な資金を吸収しえ,かつまた低利の運用が可能となったのである。
第20表 預金部資金・郵便貯金・普通銀行の預金コスト(1930年度)
 では,郵便貯金の実際の経費率はどの程度であっただろうか。この点については,第2次大戦前には郵便貯金事業特別会計が存在しなかったために,直接に把握することはできない。しかし,1925年(大正14)の大蔵省預金部改革で大蔵省預金部特別会計が制定され,同会計を通してある程度郵便貯金事業の経費が把握しうることになった5)。そこで第20表により,1930年の大蔵省預金部資金と郵便貯金のコストおよび運用利回りを,普通銀行と比較しながらみてみよう。
 同表でまず目につくのは,郵便貯金が預金部資金全体に比べてかなりの高コストとなっており,独立運用ならば大幅な逆ざやとなる,という点である。郵便貯金を資金の大宗とする預金部資金は,他の低コストの預金によって低利な運用をなしえていたといってよい。
 第2に,郵便貯金は,支払利率では普通銀行を上回っているものの,経費率が普通銀行の4分の1強しかないため,普通銀行預金よりも低コストになっている。もっとも,一般会計負担分を含めた郵便貯金経費の推計によれば,預金部資金全体でも逆ざやになりそうな状況であり,一般会計負担が郵便貯金の低利運用と有利な貯金利子を可能にしていたことが,ここからも窺える。
 しかし,この一般会計負担分を加えても,普通銀行に比べてかなり郵便貯金の経費率は低い。これは,一つには郵便貯金事業が逓信省の付帯事業であるところから,人件費,物件費を低廉にしえたこと,ことに,すでに述べたごとき特定3等局制度によって,大幅に経費を節減しえたからに他ならない。また,地方自治体による貯蓄奨励運動や学校等を通じた資金吸収によって,集金費・勧誘費を殆んど負担せずにすんだからでもあった。勧誘・集金費が大きな負担となっていた貯蓄銀行とは異なっていたのである。


1)1907年から11年の利回りは,5.45%(1907年),5.16%(1908年),4.82%(1909年),4.23%(1910年),4.22%(1911年)であった。
2)『郵便為替貯金事業80年史』426ページ。
3)4)『同書』427ページ。
5)同会計によれば,郵便貯金事業経費の一部,運用手数料,預金部事務取扱費,営繕費などを預金部が負担することとなった。1925年では,郵便貯金取扱経費の半額を負担していたが,その後半額負担から8割へと漸次増加した,といわれている(郵政省『続逓信事業史』第7巻,1960年,247ページ)。

5 貯蓄奨励運動の展開と郵便貯金

 郵便貯金発展の要因として,最後に,貯蓄奨励運動とその特質を検討しておこう。
 第2次大戦前のわが国では,ほぼ恒常的に貯蓄奨励運動が展開されていたといってもよいほどである。明治時代においてとりわけ積極的に展開されたのは,明治10年代末(1880年代半ば),日露戦争前後(1902~5年頃),明治末期(1908~11年頃)の時期である。いずれも,財政危機が進行した時期であるとともに,日露戦争前後は戦争に,後の2期は農村疲弊に直面した時期であった。

 (1) 奨励運動の展開過程
 もちろん,これらの運動は単に郵便貯金の増大を目ざしたものでなく,村落支配のテコとなっていた共同体的諸関係の維持あるいは再編成の一環として展開された運動であった1)。しかし,その展開過程においては,しばしば郵便貯金への預け入れが半強制的になされることがあったし,奨励運動ごとに郵便貯金が著増しているのである。
 では,貯蓄奨励運動がどのように展開されたのかを,明治10年代末と明治末期の事例からみてゆこう。
 10年代末の運動は,松方デフレ政策を契機に惹き起こされた農民の没落と農民騒擾の続発に対処するべく展開された。その主旨は,1885年(明治18)5月に布達された「済急趣意書」,ならびにその徹底化・具体化のために地方へ派遣された官吏の「出張官心得書」で明らかにされている。まず「済急趣意書」は次のごとく述べている。「四民已ニ今日ノ疲弊ニ沈淪セリ,貯蓄ノ余裕ナキハ固ヨリ其所ナリ。然リト雖モ精神一タヒ到ラハ何事力成ラサラン,如何ナル困難辛苦ヲモ凌キ日用減スヘカラサルノ諸費用ヲ減シテ貯蓄ノ計ヲナスヘシ,然ラスンハ将二眼前ニ逼ラントスルー大危難ヲ如何ニシテ避クヘキヤ。……二要点(勤倹と貯蓄-引用者)ヲ実行スルニハ官民誓テ力ヲ合セー意此ニ従事セサルヘカラス,即地方官ハ宜ク倶ニ人民ヲ勧誘シテ,只管斯ノ二途ノ挙行怠ラサルニアリ2」」。また「出張官心得書」の要旨は次のごとくである。①蓄積は必ずしも現金を要せず,②蓄積の取扱いは勧業委員または当地の「資産アル名望家」に担当させる,③蓄積金の利殖方法は郵便貯金へ預け入れる,④蓄積方法は各地に適した規約を設けて一般に実行されるようにする3)。
 ここから窺えるように,この運動はきわめて精神主義的であり,奨励というよりは激しい労働強化と節倹を強いるものであった。そして,上下官僚機構を総動員し,各地農村の「資産アル名望家」=村落支配者層を軸として,村民を根こそぎ動員しようとするものであった。
 例えば石川県では,政府当局のこうした方針を受けて,まず県下に「勤倹貯蓄ノ告諭4」」を発するとともに,郡区長宛に「人民ノ方向只管斯ニ傾クノ風習ト相成候様一層誘導5」」することと達し,各郡区での奨励運動の組織化を指示した。県当局の勧諭は再三にわたって出され,管下に主旨の徹底化が図られた6)。こうして同県各郡で運動が展開してゆく。その事例を1,2あげると,能美郡では節倹の手段として,祭礼祝日結婚死生等に際し,様々な慣習を廃止させた。石川郡では,管下人民に,地租額に応じて全員に定期的貯蓄をなさしめたうえ,労働時間を従来より2時間以上延長する運動を展開した7)。
 かかる運動の推進機関として活用されたのが郵便貯金制度であった。すなわち,「出張官心得書」に示されているごとく,政府は貯金を郵便貯金に預け入れるよう「強制」する一方,全国の郵便局で貯金業務を取扱うこととした8)。同時に政府は,これら郵便局に,戸長と協議のうえ奨励運動の組織化を図るよう通達し,貯蓄の普及と組織化に努めさせたのである。多くの町村で実施された勤倹貯蓄演説会や貯蓄組合結成に果たした郵便局の役割は,この上なく大きかったといってよい。
 郵便貯金への預け入れが指示されたのは,すでに述べたように,民間貯蓄銀行が非常に不健全であったうえ,都市に偏在していたのに対し,郵便貯金が安全性はもちろん,この頃に「山間僻地ノ人民ト雖モ容易ク貯金ナサシメル10)」体制を築きえていたからである。
 明治末の1910年前後にも,以上とほぼ同様の手順で,以上にもまして大々的な運動が展開されている11)。まず「戊申詔書」が換発され,続いて「勤倹貯蓄に関する通牒」が出される。中央官庁-各府県-都市町村の各機関を通じて奨励方針の周知と運動の組織化がなされてゆく。すなわち,「勤倹貯蓄に関する通牒」では,「貯蓄奨励の方途一ナラサルモ多数共同シテ組合規約ヲ設ケ郵便官署ヲ介シテ規約貯金ヲ実行セシムルハ既往ノ経験ニ徴シ其効果多大ナリトス 依テ……組合ヲ設立セシメ共同制裁ノ下ニ励マシ且ツ余業ニ努メ以テ貯金ヲ得セシム12」」ることとされ,「随意ノ引出ノ弊ヲ防ク13」」ために規約貯金や組合貯金に依ることが指示された。これを受けて,各府県では郡市長に奨励の主旨と具体的な奨励方法を指導してゆく。奨励の主旨とは,奨励運動は貯蓄思想の涵養にあるという点から,貯金額の増加よりも貯金人員の増加と節約による消極的貯蓄以上に勤勉による積極的貯蓄を図るというものであった14)。各府県が採った主要な措置は以下のようなものである15)。①村落単位での貯蓄組合の設置,②学校・青年団・処女会・婦人会など各種任意組合での奨励,③副業の奨励,④奨励状況の視察と督励のための吏員派遣,⑤奨励運動に貢献した団体,篤志家の表彰,⑥各種団体及び部落有財産の郵便貯金化。
 少し長い引用であるが,かる一連の奨励過程を福井県は次のように報告している16)。
戊申詔書ノ渙発セラルルヤ郡市長ヲシテ聖旨ヲ奉体シテ之ヲ郡市民ニ伝へ以テ勤勉ノ効果ト貯蓄ノ利益トヲ鼓吹セシメタルガ四十三年五月郡市長会ニ於テ四十一年度末郵便貯金額百四拾六萬万余円ヲ五十年迄ニ約一千萬万円ニ達セシメンコトヲ議決シ爾来一層之カ奨励ニ尽瘁セリ 其方法トシテ各郡長ハ自ラ郡内ヲ巡回シ各市町村民ヲ集メテ詔書ノ御趣旨ヲ敷衍シ又ハ勤倹貯蓄ノ必要ヲ説示シ或ハ郵便局長ト相提携シテ貯蓄鼓吹誘掖ニ努メ或ハ貯蓄組合奨励監督規程ヲ設ケテ郡書記ニ委員ヲ命シ各町村ノ相当区域ヲ定メ町村役場吏員ト共ニ各町村ヲ巡回セシメ組合指導ニ努メシムルアリ 而シテ郡ハ既ニ組合ヲ設置シタルモノニ対シテハー面夜業ヲ奨励シ或ハ藁細工養鶏等ノ副業ヲ奨励シ其収入ノ幾部ヲ貯蓄セシメ或ハ四十四年ノ如キ米作ノ増収ト米価ノ騰貴ヲ機トシ特ニ警告ヲ加へ作付反別一段歩ニ付米五升ヲ標準トシテ臨時貯金ヲ奨励シ或ハ漁郡ニ在リテハ豊漁ニ際シ漁獲物ノー部ヲ貯蓄セシムル……
第21表 福井県の貯蓄組合と郵便貯金の推移
 こうした奨励運動の結果,同県では貯蓄組合や郵便貯金が第21表のごとく急増した。同表で,とりわけ注目されるのは貯蓄人員の著増であり,この運動が広範な人民を巻き込んでいったことが窺えよう。


1)これらの貯蓄奨励運動の社会・経済的背景については,原口清「静岡事件の社会的背景」1955年10月(明治史料研究連絡会『民権運動の展開』1958年所収),大島美津子「地方財政と地方改良運動」古島敏雄他編『明治大正郷土史研究法』1970年,宮地正人『日露戦後政治史の研究』1973年,参照。
2)『明治文化全集』第2巻,1928年,475-76ぺ一ジ。
3)「八農区出張官心得書」1885年6月『前田正名関係文書』249。
4)「石川県諭第7号」1885年5月『類聚公報』第5号1887年11月。
5)石川県令達「郡区長宛勤倹貯蓄誘導ノ事」1885年5月,『前田正名関係文書』253。
6)前掲『類聚公報』および『前田正名関係文書』によれば,1885年2月,5月,8月に県令の諭告が出されている。
7)『同文書』253。
8)この結果,貯金取扱局は1884年の1644ヵ所から一躍4496ヵ所に増大した。また,零細貯蓄を奨励するためにこれまで10銭以上5銭単位で預かるとしていたのを,単に10銭以上として,預け入れの便を図っている。なお貯金取扱局は,その後,実績のない局は取扱いを中止させたり,郵便局の閉鎖によって減少している。
9)「貯金勧誘方通達」1885年6月『郵政百年史資料』第23巻,1971年,241ページ。
10)「農商務省達甲第117号」1885年8月。
11)この運動の契機については,大島美津子「前掲稿」,宮地正人『前掲書』参照。
12)『勝田家文書』67-61。
13)逓信省郵便貯金局『各府県郵便貯金奨励状況』1913年,36ページ。
14),15)『同書』17ページ以下。
16)『同書』44ページ。

(2) 貯蓄奨励運動の特質と意義
 以上のごとく展開された貯蓄奨励運動は,時期により差異もあるが,おおよそ次のような特質をもっていた。
 まず第1に,きわめて国家主義的な性格をもっていたことである。中央・地方を問わず,官僚の訓示,告諭などには,貯蓄は何よりも「国家経済ニ貢献スル功1」」であることが力説されていた。本来,内部的欲求に基づいた個人的資本の蓄積である貯蓄が国家目的に常に従属させられているのである2)。
 第2に国家主義的であっただけに,貯蓄は個人の自発性を待つのではなく,行政機関の指導の下に設立された官製的組織による共同制裁という半強制的形態を採らざるをえなかった。すでにあげた「勤倹貯蓄に関する通牒」や夥しく設立された貯蓄組合の規約はそれをよく物語っている。その際,貯蓄奨励の組織化にあたっては,解体しつつあるとはいえ,強固に残存する村落共同体的な規制が活用されたことに留意しなければならない。多くの貯蓄組合は,村ぐるみあるいは旧村落(大字)ごとに設立され,この組合によって,貯蓄だけでなく社会生活全般に対する相互監視がなされたのである3)。
 第3に,わが国の奨励運動は非常に精神主義的であった。その典型は,すでにみた「済急趣意書」である。そこでは,「精神一タヒ到ラハ何事カ成ラサラン,如何ナル困難辛苦ヲモ凌キ日用減スヘカラサルノ諸費用ヲモ減シテ貯蓄ノ計ヲナス2」」ことが強調されていたのである。
 以上のごとく,わが国の貯蓄奨励運動は国家主義的,官製的であり,それだけに「強制」的,精神主義的であったが,貯蓄の増強や貯蓄習慣の普及それ自体には,大きな役割を果たしていたといってよい。
 しかし,この運動が広範な人民を動員しえたのは,単に政府によるかかる運動が功を奏したというわけではない。その背景には,農村不況のもとで没落の危機に瀕した農民の積極的な対応があったことに留意しなければならない。高率地租とその金納化によって強制的に商品経済に取り込まれ,その重圧にあえいでいた農民にとって,小地片を維持するためには,自らの再生産費を引き下げてまでも貯蓄にすがるしかない。
商品経済のもとでは,もはや自給自足的生活はありえず,自己防衛の具は貨幣を措いてないからである5)。すでに述べた農民の高い貯蓄率の根拠は,実はここにあったといってよい。
 明治10年代末や明治末期の不況過程において,危機に直面した農民は,村ごとに様々な勤倹貯蓄運動を展開していた6)。また,組合貯蓄の目的は,教育・産業資金や基本財産蓄積,学校建築資金など,貯蓄者個人の消費に充てるのではなく,「国家目的に従属する税金的性格7」」をもつものもかなり多かったが,それ以上に,備荒,農具・肥料購入といった生産にかかわるものが多かった(第22表)。
第22表 千葉県における目的別貯蓄組合数
 政府による貯蓄奨励運動の「成功」は,何よりもかかる農民の危機意識をかき立てたことにあったのである。


1)北海道庁長官園田安賢の訓令(1901年)。
2)大島美津子「地方制度」『日本近代法発達史』第8巻,1959年,74ページ。
3)夥しく設立された貯蓄組合の規約にこの点をみることができる。ここでは,1899年郡長-村長主導の下に設立された奈良県波多野村勤倹貯蓄組合の規約を一瞥しておこう。
 同組合は,村民が全員加盟(第2条)し,「取締上便宜ノ為メ」村内13部落に組合支部を設立した(第3条)。貯金は10年間「如何ナル事情アルモ中止又ハ解約スルヲ得ス」(第5条)とされ,規約の実行にあたっては各部落の連帯責任がとられている。役員は,委員長には村長自ら就任し,監事12名には村会議員が充てられ,委員と貯金世話係が各部落ごとに選出された。
 こうした体制の下に,日常生活に関するきめ細かい「節倹」事項が定められている。たとえばこうである。婚姻――嫁の持参荷物についてまで規定し,「最上ト雖モ夜具二組蚊帳一帳四季時服各十領付属品各十点ヲ越ユルヲ得サル事」(第19条第4項)。出産-生家よりの贈与祝は産衣ひと通りを越えないこと,出産見舞の物品贈与は長男長女の内1人に限ること,次子以下は親子兄弟の他見舞わないこと(第20条)。衣服-神事祭礼の式典や婚礼葬式の他絹布を着用しないこと,婦女子は羽織を着ないこと(第25条)。この他,還暦・厄除の祝,吊悔,養父入や諸講,興行,盆踊などについて,こまかく規制されている。
 さらに,村民は「身分」に応じた定期的貯金の他に,家屋の新築・出産・結婚・初老祝ごとに蓄積金を強要され,その蓄積金は各部落の共有金とされた(第33-38条)。
 そして,以上の規約に違反した時は,違約者の属する部落の蓄積金から違約金を没収し,蓄積金が不足する場合には部落全員で負担する(第41-44条)のである(以上,群馬県内務部『勤倹貯蓄善行奨励並救済慈恵事業実況綜覧』1900年,14,294-314ページによる)。
4)『明治文化全集』第2巻」,475-76ページ。
5)吉田震太郎「日本における大衆貯蓄の構造」『金融経済』第25号,1954年4月,8ページ。
6)原口清「前掲稿」,大島美津子前掲「地方財政と地方改良運動」83ページ。
7)大島美津子前掲「地方制度」74ページ。

おわりに

 以上,われわれはわが国における郵便貯金の発展とその要因を検討してきた。
 郵便貯金制度は,維新後イギリス留学をへた前島密らによっていちはやくわが国に移殖され,1880年代前半には全国的な貯金吸収網を築きあげた。そして,1株50円の株式にも満たない零細な農民の貯金によって支えられ,資本主義の発展とともに急速な増大を遂げたのである。
 郵便貯金にこうした零細な貯金が集中してきたのは,次のような理由に基づいていた。第1には,都市有力銀行の零細預金吸収の消極性と貯蓄銀行や中小銀行の脆弱性のためであった。中小銀行や貯蓄銀行は,勃興する小企業の旺盛な資金需要に応えるべく活発な産業金融を展開したが,それだけに不況期には関連企業の不振とともに破綻しやすく,事実恐慌のたびに多くの銀行が破綻したのである。また,これら民間金融機関は,全国的な郵便貯金吸収網に対して,いずれも都市に偏在していた。
 第2の要因は,きわめて積極的な貯蓄奨励策である。まず政府は,局舎の無償提供と業務請負を柱とする特定3等郵便局制度を活用し,全国的な吸収網を築いた。さらに,貯金業務の整備改善を図る一方,民間貯蓄銀行に対抗的な預金利子政策が採られた。低利運用と有利な預金利子の維持という矛盾は,郵便貯金取扱経費の一般会計負担によって解決された。
 これらの基盤の上に,貯蓄奨励運動が展開されてゆく。この運動はきわめて国家主義的であり,それだけに,組織による共同制裁,とりわけ村落共同体的規制の利用によって,半強制的なものとなり,精神主義的な運動とならざるをえなかった。急速な商品経済の浸透のもとで没落の危機に瀕した農民は,自らの地位を維持するべく,このキャンペーンに貯蓄意欲をかきたてられ,この運動に駆り立てられていったのである。