技術と農村社会

論文一覧に戻る

私の農民教育の実践

著者名: 浪江虔
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1981年
本ページのPDF版を見る
目 次
Ⅰ 問題意識をもつまでの経過・・・・・・・・・・2
Ⅱ 戦前の日本の勤労農民が受けた農業教育・・・・・・・・・・5
Ⅲ 独創的な調査に着手する・・・・・・・・・・11
Ⅳ 生産技術に関する常識の実態・・・・・・・・・・17
Ⅴ 私の農業技術書著作のしかた・・・・・・・・・・42
Ⅵ 生活にかかわる常識の実態・・・・・・・・・・57
Ⅶ 農民の社会常識の実態―農民解放令に関して―・・・・・・・・・・68
あとがき・・・・・・・・・・74


Ⅰ 問題意識をもつまでの経過

1 私が初めて知った農民の生活
 まず私が,どういう経過で農民教育にたずさわるようになったか,それも学者研究者でもなく教職員でもなく行政担当者でもない全くの一個人として,農民教育に激しい使命感を覚えるにいたったか,これを明らかにしておきたい。
 東京のサラリーマンの家庭で育った私が,はじめて農村に入って農民と生活を共にしたのは1930年の秋から31年の終りまでである。ちょうど世界大恐慌のすさまじい嵐の中にまきこまれた日本の農民が,寄生地主的土地所有制度の重圧を従前にも増して堪え難く感じていた時で,いたる所で農民組合が結成されつつあった。そのひとつ,全国農民組合東京府連合会のボランティア書記として,1931年3月以前は葛飾地方に,3月の下旬から12月末までは南多摩郡鶴川村に,常駐したのである。
 この当時の日本の耕地は,およそ半分が小作地であり,小作地では収穫物のほぼ半分が小作料として地主に徴収されていた。田の場合は米の現物で,畑の場合は主に金であった。このような高率小作料収奪の制度は,明治維新以前の日本において,封建領主と百姓との間に一般的に存在していたものに似ているが,領主と百姓の関係は,完全とはいえないまでも,明治維新で崩壊した。そして1880年代はじめに自由民権運動が敗北した後,日本が資本主義的発展を官僚指導型で強行するに当って,寄生地主の強力な収奪と支配の機構があらためて形成されたのである。
 この制度下では,地主がもし5ヘクタールの田を持っていれば,小作料収入だけで,つまり労働することなしに,一家族のつましい生活を維持することができた。10ヘクタールあれば上層サラリーマンなみの生活が可能であった。そればかりでなく,貸付地の広狭は,その地域における人間の格付けの最も重要な基準であったし,小作料に支えられたゆとりある生活は,地主の多種多様の公的私的な活動を可能にした。
 地主がこれほど有利であったということはそのまま,小作人が著しく不利であったことを意味する。極端に高い小作料は,豊作の年においても収穫物のゆとりを小作人の手に残さなかった。凶作の年には完納は不可能であったから,小作人は小作料の減額を個々に哀願するか,団結して要求するかであったが,これはしばしば地主から“土地取上”の理由とされ,耕作権の不安定におびえなければならなかった。
 地主制度の重圧の他にもうひとつ,借金という重荷があった。これはむしろ自作農の方に重かった(小作農は担保力の不足から,ある程度以上の借金はできなかったので)。土地取得を主目的とする生産条件のための借金ももちろん大きかったが,生活上の必要から生じた借金も,非常に多かった。しかも金利はかなり高く,この借金の元利返済は平常時でも相当に困難であった。1930年に,農産物価格が総体としてほとんど半分に下ってしまったために,借金の重圧はいっぺんに2倍の重さになったわけである。その結果,当時の農民の負債総額は,米1石が20円前後のとき,50億円から60億円に達すると見られた。それは,1年間の農業総生産額(もちろん自家消費分もふくめて)の,ほとんど2倍であった。これは貸主借主双方にとってもはや絶望的であり,程なく負債整理組合の半強制的設置が全国的に進行するのであるが,この重い借金は,借り手にとっては精神的にもきわめて重々しい負担であった。もし豊作に恵まれたり生産物が高く売れたりしたとしても,生じたゆとりをまず借金返しにあてなければならなかった。それを後まわしにして乳牛を入れたり,機械を買ったり,果樹園を開いたりすることは,到底許されることではなかった。
 借金返済の犠牲になったのは,農業の発展だけではない。子供の教育にしても,借金をしょっている間は,世間なみ,つまり小学校高等科までということになる。新聞をとる,ラジオの受信機を買う程度のことさえ,債権者に気がねしなければならなかった。
 ちょうどこういう苦難の時代の農村に,私は農民組合書記としてとびこんでいって,とにかく1年数ヵ月,農民と生活を共にしたのである。それは私の20―21歳のときであった。

2 農村に住みついて農村図書館を開く
 この時の農村生活が1931年末で終ったのは鶴川村を管轄区域にふくむ町田警察署の態度が硬化したためである。こうして農村から離れた私は,当時のごくふつうの成りゆきで非合法運動に入り,1933年9月に,治安維持法違反で検挙された。この1年10ヵ月に及ぶ拘禁生活の間に,私は不退転の決意をもって将来の方針を決めた。
 その根本は必ず農村に住みつき,村人として生活するということであった。以前の根無し草的な農村滞在へのきびしい自己批判からである。
 この根本方針を支えるものとして,最少限度の農学勉強をすること,結婚して妻とともに農村民の生活向上に努力すること,農村図書館を開設することなどを計画し,着実に実行に移していった。
 まず農学勉強であるが,1936年4月から1年間,東京府立園芸学校第2部に学んだ。学校はもちろん当時の中等農業学校であるが,第2部は今中等学校卒業生を入れて,1年間でひと通り農学の各部門を学ばせるところであった。この1年間私は最も熱心で積極的な生徒であったから,卒業後,なお執行猶予中の身でありながら,母校の職貝として採用され,生徒の実習指導などにあたった。そしてここに在職中に,大目的である農村定住を実現したのである。1939年1月のことで,場所は以前農民運動をしたゆかりの村,鶴川村である。ここから園芸学校までの通勤は,小田急線の鶴川一経堂を中にはさみ,双方に自転車を使うことで,十分可能であった。
 “結婚して妻と共に”の構想は,妻が婚約期間中に助産婦の資格をとり,村に住みついてしばらくしてから開業し,35年ほどその仕事を続けたということで,計画どおりにいった。昔の農民組合仲間が,私たちを鶴川村に受け入れる気になった一番の要因が,妻の助産婦資格にあったことは明らかで,村人から見た魅力の点では,農村図書館は到底これに及ばなかった。
 農村に定住しても,そこで村人のために役立つ活動をしなかったら意味はない。私のような者がある程度効果的にやれる仕事として農村図書館の開設が最も適切であろうという考えから,この計画を確定したのは1935年秋のことである。それ以来,将来の開館を念頭に置いての本集めに執念を燃やした。
 その準備期間中に私は,前述のように1年間,生徒として農学を学び,その後はほんの僅かだけれども生徒に教える立場に立った。この経験から農業生産にとって学問が非常に大切であり有益であることを覚った。当然のことに集める本の中で農業関係の本と雑誌の割合が次第に多くなっていった。
 当時の農業図書出版は決して活発でなかったから,開館までの準備中に,当時市販されていた農業図書の大半は買ったと思う。雑誌は『農業及園芸』『実際園芸』『農業世界』などの数年分を揃えた。
 この頃の日本の町村部(この当時は市部と町村部の区別が非常にはっきりしていた)の図書館事情をちょっと見ておこう。さいわい文部省が1936年4月1日現在で行った調査の報告書が1978年に日本図書館協会によって復刻されているので1),それによることにする。
 この時,全国に130市・1703町・9673村があった。このうち図書館のある市町村(私立もふくめて)は,121市(93.1%)837町(49.1%)3143村(32.5%)であった。
 道府県立もふくめての公立が3240館,私立が1369館,合計4609館の蔵書の概況をみると,1千冊未満が3055(66.3%)もあり,1千冊以上5千冊未満の1238(26.9%)を加えると4293と,実に93%をこえてしまう。5千冊以上の全体が316であるが,道府県立41,市立137の他に有力私立が40~50あったことから推すと,町立図書館で5千冊以上というのは,せいぜい1割見当ではなかったかと思われる。
 図書館が全般的に低水準であった中でも,農村部ではさらにそれがひどかった。しかもこの乏しい蔵書の多くが,すでに価値を失った本であった。この時の調査では購入冊数は調べていないが,1950年の文部省調査で町立・村立図書館の平均蔵書数と年間購入冊数とをみると,町立244館の平均蔵書2967冊,購入平均238冊(8.0%),村立418館のそれは773冊・93冊(12.0%)である2)。
 蔵書中に農業の本がどれくらいあったか,どういう農業書が備えられていたかなどについては,いかなる調査も行われなかったが,戦後になって私が各地の図書館を見て歩いた時の状況から推察すると,農業の本や雑誌の収集につとめていた図書館は極めて稀だったのではないかと思う。農村部における図書館運営の基調は修養と健全娯楽におかれていたし,後にのべるように,農業図書は農民の読みものではなかったから,これは異とするに足りない。
 したがって農業図書に特に重点をおいた私の図書館は,開館準備時代から異色であったと思う。私は自分の思いをやや誇張して,“私立南多摩農村図書館は,村の農業生産を応用科学の水準に高めることを目指している”などと言ったこともある。この図書館の農業図書や農業雑誌が,農業に熱心な農民にも一向に読まれないという事実にぶつかって,私の問題意識は本格的に目覚めたのである。


1)文部省社会教育局『昭和11年4月現在全国図書館ニ関スル調査』。復刻版の書名は『全国図書館に関する調査1936年』で,社団法人日本図書館協会1978年7月刊。
2)日本図書館協会『図書館白書1980』の2ページに文部省の調査報告書から私が算出したこのデータがのっている。

Ⅱ 戦前の日本の勤労農民が受けた農業教育

1 親から子への体験伝達など
 親が子に,農作業を“仕込む”方式で教えることは,約600万戸あった日本の農家のほとんどすべてが,一応行っていたことである。つまり幼い時から農作業を手伝わせつつ,1年中の農作業の処理のし方を仕込んだのである。どこの家でもこれは行ったが,ひとつひとつの作業について,なぜそうするのがよいか,そのりくつを教える親は,ごく稀であったと考えざるを得ない。
 親から子への伝達のほかに,先進的農民から一般農民への伝達もあったが,この場合でもりくつが教えられることは,きわめて不十分であったし,教えられる内容についても,理論上の正しさは期待し難かった。
 農民の会話では,たとえ話がよく使われる。それはある場合には理解を助けるが,時には正しい理解を妨げることもある。作物にとっての肥料を,人間や家畜にとっての食料にたとえることは,ごくふつうに行われ,農民の日常会話でもよく聞かれるが,これが葉の働きという,植物の最も重要な営みに対する,甚だしい無理解の一因となっているのではなかろうか(葉の働きに関して,いかに無知であったかは,後に実証的にのべる)。

2 高等小学農業科の教育の実態
 戦後間もなく各地の農村をまわり歩くようになった私は,そこで話しあう相手に対してしばしば“高等科で教わった学科の中で,何が一番嫌いだったか”ときいてみた。そして“農業科”という答が群を抜いて多いことに驚いた。
 一般農民の子にとっては,高等小学は最後の学校であった。だからそこでの農業教育はきわめて重要で,上述の親から子への伝達にほとんど欠落している“りくつ”を,よくわからせる責任があった。もしそのような教育が行われていたら“一番嫌いな学科”のトップに立つことはなかったろう。
 実際どんな教育が行われたか,その実態を明らかにすることは困難であるが,農業科の国定教科書がどう書かれていたかを見れば,およその推測はできる。そこで“土”を例にとってその書かれ方を見てみよう。土についての正しい知識は,すべての農民にとって最もだいじなものでありながら,実際は甚だしく欠けていたもので,もちろん親から子への伝達ではほぼ完全に欠落していた事がらである。
 高等小学1年2年の農業科教科書から,土に関係深い課目(教科書内容の区分け)を拾うと,1年が“土壌の種類”など5課目,2年が“土壌の由来”など9課目もあって,事柄はほぼ余さずにとりあげられている。だからもしそれが生徒の理解をつちかうように書かれていれば,非常に役に立ったはずである。
 問題は本文の記述のし方である。1年用から“土壌の水”を,2年用から“土壌の成分”を,ふりがなも括弧内に記して引用すると,次のようである(原文はもちろん縦書きで,漢字は略体でなく正式の字体であった)1)。
 “土壌の水は雨・雪・地下水などに由来する。土壌は保水力と毛管力とを有す
る。保水力は水を保持して其の滲透し去るを防ぎ,毛管力は地下水を引き上げて之を表土に供給する。
 土壌には又蒸発性と透水性とがあって,過量の水は自ら除かれるが,久しく雨雪なく地下水もまた低い場合には,土壌中に水の不足を来すことがある。是等の作用が宜しきを得ることは作物の生育上大切なことである”(以上1年用)。
 “土壌は水分及び固形分から成り,固形分は更に之を有機分と無機分とに分けることが出来る。
 有機分は灼けば揮発する部分であって,主に腐植である。
 無機分は珪酸・燐酸・硫酸・炭酸・塩素・礬土(はんど)・酸化鉄・酸化満俺(まんがん)・石灰・苦土・加里・曹達(ソーダ)などで,此の外アンモニア・硝酸の如き窒素化合物もある。無機成分中最も多量に存在するものは珪酸と礬土で,酸化鉄が之に次ぎ,窒素・燐酸及び加里は其の量が極めて少い。
 土壌の成分中窒素・燐酸・硫酸・鉄・石灰・苦土・加里は植物の最も大切な養分である。養分中直ちに植物に吸収せられる状態にあるものを可給態といひ,然らざるものを不可給態といふ。”
 1年の方の“保水力”と“毛管力”に関する内容上の誤りは一応不問に付して,もっぱら説明のし方についてだけ論ずることにする。
 ひと口にいってこれは,生徒の理解力に対していささかの配慮もせずに書かれている。つまり書かなければならないと思うことを,ただ書き並べているのである。だから“有機分は灼けば揮発する成分であって”というような,かなりの物理化学的基礎知識のある者でなければ正しく理解できないはずの事柄についても,何の説明もつけてない。生徒の常識の程度を推測してみると,たとえば“植物の最も大切な養分”としてあげられている7種の物質中,窒素は空気の主成分であり,硫酸はビン入りの劇薬であり,鉄は金属の鉄である。つまり“植物の養分”とはなりえない姿のものしか知っていないのである。それとはちがった形をしているという説明が全くないのだから,生徒は迷わされる。
 こんなわけで,農業科の教科書は,生徒に何ひとつ正しい知識を与えることができないばかりでなく,まじめな生徒が理解しようと努めれば努めるほど頭が混乱してしまうような,不親切きわまる記述になっていた。
 それでももし,実験道具が整っていて,有能かつ熱心な教師がよく教えてくれるというような条件があったら,教科書の欠陥もいくらか埋められたかもしれない。残念ながらそのような備品は殆んどなかったろうし(少なくとも農業科の教師の使えるものは),教師の教育者としての能力も決して高いものではなかった。
 農学校まで進学できたのは地主か上層自作農の息子にすぎなかったから,戦前の大多数の農民の子は,こんなおそまつな農業教育しか受けていなかったのである。

3 日常の会話から推測した農民の常識
 私が最初に農民と接して暮した1年あまりの期間では,自分が全く農業知識を持たなかったために,いわゆる“百姓話”にはほとんど加わることができなかった。農村定住の決意をかためた後,とにもかくにも1年間,園芸学校の生徒としてかなり熱心に勉学し,卒業後も職員として残ったから,1939年に鶴川村に住みついてからは,近所の農民と農業関係の会話も交すようになった。ごくかんたんな日常会話の中に,むしろ農民の常識を示す話が出るものであるが,たとえば次のようなことがあった。
 禅寺丸柿は当時の鶴川村の農民にとってはかなり重要な産物であった。完全な隔年結果ではあったが,成り年の秋には,ちょっとした現金収入源であったし,家族一同のおいしい食物でもあった。しかしへた虫の害が年ごとにひどくなってきていて,自然とこの虫のことが話題にものぼった。それから推測すると,当時の平均的農民の頭では,へた虫は春に“わいて”柿の実のへたの近くにとりつき実を落とす憎いやつで,秋になると消えてしまうものであった。柿の実も葉もおちてしまった秋から,全く実をつけさせない次の年とその冬とをどこかで生きながらえていて,2年目の春を待っているのだという理解は,とびきりの精農家以外は持っていなかったようである。
 作物の病気については,どれもこれもひとまとめにして“くせがついた”といっていた。へた虫のような昆虫でさえ,上述のように考えていたのだから,微生物が主たる病原体である作物の病気について,正しい理解が持たれていたはずはない。村中でほとんどトップに立っていたある精農家(農学校卒業)でさえ,鼡糞状をした菜種の菌核を見ても,それが何であるかを知っていなかった。
 ところで実をいうと,農民のこういう無知について,私は身につまされる思いがあった。子どもの頃“科学少年”だった私は,中学2年(正しくは武蔵高等学校尋常科2年)ごろからキリスト教に熱心になり,自然科学を軽視するようになった。当時の武蔵高校の自然科学教育はかなり優れたものであったのに,そうと知ったのはずっと後のことである。
 したがって1932年12月から始まる第1回の未決生活で,自然科学の勉強に力を入れることにしたのは,このだいじな分野について,自分は何ひとつ知っていないと自覚したからである。独房内での独学という条件だから,もちろん系統的な学び方はできないし,疑問が生じても辞書事典以外には相談相手がない。それでも手当り次第に読んでいるうちに,だんだん自然科学の知識体系らしいものができ上ってきた。何といっても読書時間が豊富でたくさんの本が読めたからである。
 旧制高等学校を卒業した私が,自然科学の基礎知識を全く欠いていたことから推察しても,小学校卒業がふつうの農民が,科学書の精読にとりかかる前の私よりよく知っていると判断するのはムリであった。
 日常生活のはしはしに示される,当時の農民の農業常識は,私の想像よりさらに悪いことはあっても,よくて驚かされるということは全くなかった。

4 農民には読めなかった農業書
 農村図書館であるからには,農業図書・農業雑誌をできるだけ多く揃えようと努力したことはすでにのべたとおりである。
 1939年秋に開館した時,買い集めていた農業書のうちで私が最も期待をよせたのは,その前年から発行されはじめて非常に好評だった明文堂の『実用農芸全書』であった。これならば熱心な農民は読んでくれるにちがいないという,悲願に近いものさえあった。冬の農閑期が訪れてきた12月下旬に,隣村の岡上村(神奈川県だけれども小田急線鶴川駅のすぐ南にある隣村)の農事研究会員十数人が利用者として登録し,私の奨めをうけ入れて『実用農芸全書』を何冊も持っていった時は,開館以来最高の感激を味わった。
 しかしその後の利用状況は,私の期待を甚だしく裏切るものであった。その当時は私はその原因をつかめなかった。おそらく岡上の農研メンバーは,私があまりムキになっていたので,本がわかりにくいという不満を言いそびれたのであろう。
 後でわかったことだが,この頃出されていた農業書は,農学校を卒業した者でなければ,読むことさえむずかしかったのである。
 上記『実用農芸全書』中でも格別好評で,たちまち版を重ねたものに,千葉県農業試験場園芸部の渡辺誠三技師が書いた『果菜』『葉菜』『根菜』という三部作があった。この中から今,『葉菜』をひもといて,目次にあげられた野菜の名のうち,やや読みにくそうなのを拾うと次のとおりである。
 萵苣・〓蒿・薤・土當歸・葱頭・菠薐草・塘蒿(セルリー,これだけはカナつき)・石●拍・野蜀葵
 これらの読みを順を追って示す。
 チサまたはレタス・シュンギク・ラツキョウ・ウド・タマネギ・ホウレンソウ・セルリー・アスパラガス・ミツバ。
 ところでこの本の序文の一部にこう書いてある。
 之が編述に当りては本全書の実用の名に背かざらんことを旨とし,著者の体験と見聞とを基礎とし,以て自ら斯業を営むの人士には素より農業指導員,学生諸士の参考となすに足るべく,又農業練習生の教科書として恰適するであらう2)。
 この当時の農業図書出版事情からすると,生産農民だけを相手とした出版は成功する見込みが立たないから,出版社も著者も“農業指導員,学生諸士,農業練習生”を無視するわけにいかなかった。これらの人は農学校卒業生か高学年に在学中の者であって,上にあげたような字にもあるていど馴らされていた。そういう人たちを念頭におくと,著者は“玉ねぎ”とか“三つ葉”とか書くわけにはいかなかったのであろう。
 当時は農学校では,これらの字が読めたり書けたりするようになることを,教育内容のだいじな1項目としており,生徒に教えるに当っては,たとえば“三つ葉”はあて字であって“野蜀葵”が正字だなどと説いていたのである。
 生徒の方も,一旦覚えてしまえば,覚える苦労を忘れて,読んだり書いたりできることに誇りを感ずるようになるものである。
 このようなおかしな相互作用が働いて,実用を旨とした本でも,それを読むのには少なくとも農学校ぐらいは出ていなければならなかったのである。ほとんど全員が高小卒だったらしい岡上の農研メンバーが,『実用農芸全書』をあまり読もうとしなかったのは,内容がかなり実用的であったことから見て,まさにこのような呪わしい字に主たる原因があったといわなければなるまい。


1)小学校の国定教科書のうち,理科系のものについては,1935年ごろから,かなりいい書き改めが行われた。農業科は一番後まわしになって,一年用のができたのが1944年で,2年用のは原稿段階で終戦となった。したがって1年用のが使われたのは1年間と,次年度1学期だけであるが,この頃の高等小学では,正常な授業はもはや行われていなかった。したがって戦前に日本の高等小学校で使われた農業科の教科書は,事実上このひどいものだけであった。
2)渡辺誠三『葉菜 実用農芸全書11』明文堂,1938年8月,序文1ページ。
Ⅲ 独創的な調査に着手する

1 問題への接近
 戦争が終って,農村には躍動的な気運がみなぎった。鶴川村のように東京からの買出しがやり易いところでは,増産がそのまま増収になったから,農民の増産意欲は著しく高揚した。
 そうなるにはもちろん,前述した二つの重荷から解放されたということが,土台になっている。借金の方はいかなる行政的措置も講じられることなく,インフレと買出しによって雲散霧消してしまった。長いこと返すあてのない借金に苦しめられ続けてきた農民にとって,本当に思いがけない幸運であった。
 寄生地主的土地所有制は,戦時食糧政策で既に大きな打撃をうけていたが,GHQの農民解放令の線で進められた農地改革によって,少なくとも耕地に関するかぎりほとんど崩壊した。
 鶴川農談会の第1回勉強会は,私の図書館を会場にして,1946年1月に開かれた。
その第何回目かの会の講師は肥料学の権威者三井進午博士であった。三井博士の話にきき入る農民諸君の眼の輝きから,私は“時こそ来たれ”と有頂天になり,図書館の本棚から肥料に関する本をみなとり出して,半強制的に一同に貸し付けた。しかしこの試みは不成功だった。誰も読もうとはしなかったのである。
 農談会の勉強会は10回ぐらい開いたと記憶する。その半分ぐらいは私が人選して招いた講師の話であった。しかし農談会のメンバーに農業の本を読ませるということは,最後まで成功しなかった。
 1945年10月から3年間ほどは,鶴川村三輪の内田一男君宅に,私の図書館の分館という形で,部落文庫がおかれ,内田君がその運営にあたった。これは私の図書館よりもずっと地域住民に密着した存在であったが,ここでも農業の本は一向に利用されなかった。
 本の方が悪いのではないかという疑問は,次第にはっきりしてきた。戦前から出されていた本はもとより,新時代を迎えた農民のために,すぐれた学者が書いた本もまた,わが図書館ではさっぱり読まれなかった。たとえば次の3著はみな,著者は折紙つきの人たちで,著作の意図も農民向けであった。しかし読んでみると,農学校か中学校でかなりしっかり勉強した者でなければ,理解できないような書き方が,随所にあった。
 吉岡金市著『新農法の理論と実際』八雲書店,、1946年7月刊
 野口弥吉著『農の科学』河出書房,1947年5月刊
 福島要一著『農学の学校』八雲書店,1947年9月刊
 (いずれもB6判の手がるな形の本)
 この3著についての私の論評は,明かるい教育社の『あかるい教育第11号』1948年にのった。この雑誌全体が1979年に復刻されたので今調べることも可能であるが,ここに私の論評の一部を採録しておく。どれについても,はじめに長所をとりあげて評価したあと,批判に移っているのであるが,以下の引用はこれらの本が読者に対して不親切な部分である。
 まず野口弥吉著,『農の科学』について。
 37頁に染色体の説明があるが,その前おきとしてこうある。
 総べての生物は多数の細胞から成り立っていることは誰もよく知っているが,それらの細胞は元来たった一つのもの卵細胞と精虫,植物でいえば花粉との結合からできたから段々と分かれたものである……
 このあとに細胞分裂の話がでてきて,染色体の説明にうつってゆくのだが,「すべての生物は多数の細胞から成り立っている」というようなことさえも,けっして「誰もよく知つている」ことではないところに問題がある1)。
 次に福島要一著,『農学の学校』について。
 この本でも,実際の農村の人たちにまだ決して一般的になっていないことが,予備知識として考えられている。たとえば117頁の炭素同化作用のところにC・H・Oの化学式が出てくるが,Cがタンソ,Hがスイソ,Oがサンソであることの説明はない。わかっているものとされているようだが,このへんまで,少なくとも注による説明がほしい。また77頁に「物象で学習したところであるが」というような文があるけれども,農村青年の大多数は『物象』など教わっていない。またそのすぐ後の「湿度の測定は,普通乾湿計というもので測られることも,極く普通の教科書に出ているから詳しく説明しないが……」という文なども,農村の勤労青年にとっては不親切である2)。
 おわりに吉岡金市著『新農法の理論と実際』についての部分から。
 しかし,全体としてみて惜しいと思うところもある。第一は漢語が多いことだ。日本ことばに改めれば改められる漢語がかなりある。たとえば
 澎湃・煩瑣・旱魃・遭遇する・(研究の)経緯・偏差・惨たる・摘播・萠芽的・躊躇・膨軟・播種機・鎮圧・踏圧・亀裂・膨脹・選択・短稈・滲透・殲滅・多蘗性・撒布・錯綜のようなことば。これらはちょっとした工夫で本来の日本語にすることができる3)。
 1947年に私は貴重な経験をした。1949年度から小中学校の教科書に検定制が導入されることになったので,その2年前から民間での教科書づくりが始まった。戦後早々と結成されていた民主主義科学者協会のいくつかの部会がこれにかかわったと記憶するが,私の属する農業部会も「中学農業』の原稿作成に意欲的にとりくんだ。10人前後の中堅と若手の国立農業試験場技師が,それぞれの専門分野について第1稿を書き,それを私が教科書向きに書直すというやり方で仕事を進めた。この共同作業を通して,私はふたつのだいじな結論をつかんだ。
 第1は,農業の専門学者には,分り易い本を書く意志があっても書く力はないという認識であった。そして第2は,わかり易い本の著作はさしあたりは“共同著作”によるより他はあるまいということである。最少限度,内容の専門家と表現の担当者の共同である。もし画家が加わればなおよい。この共同著作でかんじんなことは,専門学者が謙虚であることと,表現の担当者に相当の科学的教養のあることである。それなら実作業は,2人のうちのどちらが先に第1稿を書いてもうまくいくはずである。
 教科書の仕事が一段落ついたとき,私は社団法人農山漁村文化協会の理事に迎えられ,1948年の夏ごろから『通信農民講座』の編集と執筆に精力を注ぐことになった。これは結局1949年秋までに4号(各号B6判約100ページ)出してストップしてしまうが,各号のほぼ半分を「技術編」とし,その部分を私が書いた。「麦の科学的増産」と「ジャガイモの科学的増産」は,まず私が書いて専門学者が校閲する方式,「新しい農薬をわがものにしよう」はまず専門学者が書いたのを私が手入れし,もう一度専門学者が校閲する方式であった。
 この『通信農民講座』を本当に生産農民にわかり易いものにするために,この講座の執筆と並行して,私は精力的に農民の農業常識調べを行った。
 その方法と,それによって得られた結果とが,本報告の主内容をなすのである。

2 “農民の常識調べ”の方法
 私が“農民の常識調べ”に着手したのは,1948年秋からで,49年春までは,特に集中的に行った。前述の『通信農民講座』をできるだけ分りよくするためという,さしせまった目的があったからである。しかし初期に得られた答があまりひどかったので,事の重大性をあらためて思い知らされ,かなり長期にわたって断続的に行うようになってしまった。
 調査するといっても,大学教授が学生を指導しつつやるような,ふつうの方法は,もちろん私にはとれなかった。私ひとりでできるきわめて手軽な方法をとるより他はないので,およそ次のようなやり方をした。
 「調査対象」は私の講演を聴きにくる人たちであった。私の講演内容はかなり多方面にわたったので,対象も随分いろいろだったが,集中的に調査をした最初の半年は,農業生産の中心になっている壮年層・青年層が主であった。いつの場合でも私の講演の聴衆であるから,聴く気になって会場まで足を運んできた熱心家である。だから少なくとも平均よりは高い常識をもつ人々と見ていいであろう。
 「調査方法」は,講演開始前に“問題”を示し,配った小紙片に書いてもらうやり方がほとんどであった。したがって出題は大体2問か3問に限定した。筆記用具も持たずに聴きにくる者が多かったから,短い鉛筆を数十本持ち歩いたものである。
 なお提出は決して強制しなかったし,氏名も書かせなかった。性別と年齢はなるべく書いてもらうようにした。問題によっては,それ以外のこと,たとえば職業・学歴等を書かせたこともあるが,これは例外的である。
 「問題の選び方」は,最も重要でかつ苦心のいるところであった。一般的にはその時集まった聴衆にとって大切な事がらでありながら,おそらく確かな知識は欠けているだろうと思われることを選んだ。調査をはじめて程なくわかったことは,“試験”で自分の知識の不確かさを自覚した聴衆が,私の話をよく聴くということであった。したがって私が“試験”をする目的も,最初は農民の常識の実態をつかむことにあったが,次第に“注意深く聴く態度をとらせる”ということの方に移行していった。
 個々の問題について,なぜそういう出題をしたかは,それぞれの所でのべることにする。

3 なぜこういう調査をしなければならなかったか
 いかに零細経営であろうと,とにかく自営農の形態で600万戸の農家が存在し,千数百万人もが農作業に従事し,国民食糧の大部分と工業原料の一部とを生産していたわが国で,この人たちがどの程度の農業常識を持っているかという,きわめて重要なことが,全く調査されていなかったのである。これはどう考えても許すことのできない怠慢であった。
 この怠慢について,まっ先に責任を問われるべきは,やはり文部省であろう。もし文部省が何年に1度という程度でも,この調査を実施していたら,農業図書の著者たちも,もっと早くから,分り易い本を書くことととりくみ,相当の成果をあげることができたであろう。学校教育から離れてしまった生産農民に対して農業教育をすることについて,文部省が有効適切な機構や施設をその所管下に持っていなかったことは事実である。
 しかし文部省は,小学校高等科の農業教育に関して,文部省自身が著作した教科書を使わせていたのである。この一事だけをとっても,教育の成果がどの程度上っているかについて,定期的に検証する責任があったろう。
 文部省はまた,帝国大学農学部・農業関係専門学校(その中には“農業教育専門学校”もあった)を直轄していたし,数百の中等農業学校を所管してもいたのである。農民の農業常識の実態調査をすることの必要性を,もし文部省が少しでも考えていたら,これらの大学・学校による調査を示唆するなり援助するなりの方法をとり得たはずである。
 農林省の責任も,文部省に劣らず大きかったといえよう。農業技術指導の機構は,農林省の所管下または影響下にあって,全国にいきわたっていた。政府が市町村に対して財政的援助を与え,技術指導に専念させた農会技術員は,大正の初期に5千余名,大正の末年には1万名をこえ,昭和にはいってもふえつづけて最高は4~5万人に達したといわれる4)。合併前の町村(ほとんどが人口1万人以下)に少なくとも1名,多いところは数名いて,生産農民に対する技術指導に当たったのである。農事試験場で研究開発されたものを実行させるという方向が基本であったとはいえ,これだけ多くの技術員が直接生産農民に接していたのであるから,農民の農業常識欠落が重要な障害をなしていることに,全く気付かれなかったはずはない。しかしそれをとりあげて,実態を明らかにするという方策は,ついにとられなかったのである。
 このことについては,農林省自身の自己批判がある。農林省は戦後,アメリカ合州国の農業教育方策をお手本にして“農業改良普及事業”を発足させたが,この新事業の理念や,従前の方策との相違を,次のようにのべている5)。(*はそこに部分的省略があるの意)
 新しい普及制度には,その指導理念においてわが国の従来の指導にはほとんど見ることのできなかった新しいものをもっていた。その特色の第一は,普及活動の対象として,農家――人が大きく前面に押し出されてきたことであろう。
かつての農事指導は人よりも,むしろ物に重点がおかれていたといってよい。農業改良普及事業においては,戦後農地改革を始め幾多の農業改革が行われ,画期的な農村民主化が進められたが,これらを背景とし,これを基盤とし,またその一環として,自主的な農家を育成しようとするのが第一のねらいであった。*生産者の主体性こそが中心に置かれなければならぬとする戦後の民主主義理念の,まさに赴くべき方向であったともいえよう。*わが国の農政,農事指導における農家人の再発見であったともいえよう。
 これはたしかに率直で,かつ的を射た自己批判であった。こういう正しい自己批判をしたからには,“再発見”した“人”について現にどれだけの農業常識を持っているのかを何よりも優先して具体的に調査すべきではなかったか。
 農業改良助長法が公布されたのは,1948年7月15日,施行は8月1日であった。しかし農業改良普及員を農村に送りこむ方は,法律制定のようにす早くはできず1949年度にやっと250人の予算措置が行われ,翌年2500人増加の予算措置がとられるという状況であった。どう考えても農民の常識調べを十分に行う時間的なゆとりはあったのである6)。
 問題は時間的ゆとりの有無などではなかった。事がらそのものの認識がなかったのである。この認識欠徐はいつまでも改良普及事業についてまわった。たとえば農業改良普及員の資格試験の項目をみても,普及員自身が農業に関する科学技術を身につけていさえすれば,十分な活動ができるはずと,首脳部が考えていたことは明らかである。それは下記のようであって“生産農民を教育する方法論”も“実践術”も全く考慮の外におかれていたのである7)。

 必須項目
 1 作物及び園芸
 2 土壌及び肥料
 3 病害虫
 4 畜産
 5 農機具
 6 農業経営
 7 農政時事問題

選択項目
 1 農業気象
 2 植物生理
 3 家畜生理及び衛生
 4 家畜飼料
 5 農畜産加工
 6 農業簿記
 7 林業一般
 8 農業土木

 この改良普及事業がスタートした1948年は,私自身が『通信農民講座』の編集と著述にとりくんだ時でもあって,深い関心をもってこの新事業をみつめていた。また各地の熱心な普及員と知りあい語りあった。だからこの新事業が本格的に軌道にのって発展することを祈念する点では,当事者にも決して劣らなかったつもりである。そういう気持の私にとって一番気がかりだったのは,普及員が“民衆教育家”としての訓練を全く受けずに農業に関する知識だけ身につけて農村に送りこまれてくるということであった。熱心な普及貝は全く体当りでこの難問ととりくまされ,もみくちゃにされながら,教育者としての能力を自己訓練したのであった。この事業の推進にあたった農林省関係者は,前掲引用文が示すように基本的な発想においては正しかったけれども,その正しい発想を事業の最前線まで行きわたらせることはできなかったのである。
 こんなわけで文部省も農林省も全々手をつけずにいたから,農民の農業常識の実態は,客観的には全く明らかにされていなかった。たといどれほど不完全不十分であろうと,この実態をつかむことなしには一歩も前進できないと思った私は,本当にやむを得ず,自ら実態調査に着手したのであった。


1)浪江虔「民衆の教科書」『あかるい教育』11号,明かるい学校社,1948年,43ページ。
2)前掲論文,45ページ。
3)前掲論文,46ページ。
4)農業改良普及事業十周年記念事業協賛会『普及事業十年」(同会1958年)6-7ページの記述による。
5)前掲書,24-25ページ。
6)前掲書,44-45ページ。
7)前掲書,77ページ。

Ⅳ 生産技術に関する常識の実態

1 はじめに
 私が常識調べをするに至った理由はすでにのべたとおりである。この調査を度重ねていくうちに,私自身の発想にも変化が生じた。初めの1-2年で,私にとってさし当り必要なこと,つまりわかり易い本を書くために心得ておかなければならないことの実態は,ほぼつかめたように思われた。その段階で一応次のような結論を出した(1949年晩夏の執筆)。
 誤解されるといけないからいうが,私のテストは決してアナウンサーの採用試験のように,相手のスキをねらってヒネくったものではない。私が今までの経験から覚ったこと――農民は一番大事な基礎知識に欠けているということ――これがいったいどの程度なのかを明らかにしたいと思って,選んだ問題であった。だから,そのどれもが,最も大切な基礎知識にたいしてさぐりを入れたことになっているつもりだ。そして,予期以上に(悲しい予期以上だ!)その答は雄弁であった。
 もとより,私のテストはまだ対象の数も少なく,方法も上々とはいえない。しかしおえら方の迷文にたいする私の批判が当っていることを証拠立てるのには,これで十分だと私は考える。そして,わかりやすく書くということが,文章や言葉だけの問題では決してないことも,これによって十分に明かになったことを思う。
 少し注意深い人は,農村の最も進んだ人々の頭の中にさえ,実に奇妙な物の考え方やインチキ知識が,科学知識と仲よく,向う三軒両隣りをつくっているのに,何度も気がつかれたことと思う。酵素農法1)のようなものを,すでに身につけている科学的な基礎知識だけから,ポンとはねつけるか,少なくともこれはマユツバものだぞと考えることのできる人は,平均して一つの村に果して幾人ぐらいいるだろう。
 酵素農法やインチキ肥料2)や、怪しげな農薬や,動かない機械などに対して,学者がそのまちがいや不正を証明することはよいことだし,必要でもある。けれども,たたいてしまえばすむと思っていられてはこまる。インチキをインチキと判断できない農民の頭こそ,問題の根元なのだ。科学的な考え方の訓練が,さっぱりできていないこと,科学的な考え方をしようにもできないほどの基礎知識の極端な欠乏,これに全力をあげてうち勝つことこそ何よりも大切である。
(中略)
 民衆教育15年の私の体験が,私に教えたことを一つの言葉でいいあらわして,私はこの長しゃべりをおしまいにしようと思う。
「どんな予備知識も,あるときめてかかってはならない」3)
 この文の中にもすでに私の考え方の変化が少し示されているが,私は常識調べをしたり,講演をしたり,本を書いたりしながら,農民の行動の仕方を注意深く見守っていた。そしてそれがどうも理屈に合わないと思えたときには,何か思いちがいがあってのことと推察し,思いちがいの正体をつかみ出せるような“試験”をすることにしていたのである。

2 成分含量によって2種の肥料のねうちを比較することは至難のわざ
 下肥(人糞尿)4)は長い間日本農民が使い続けてきた肥料で,戦後も5年間の肥料統制時代には最も大切なものであった。これを全く使わなくなったのは“高度成長”で労働力が激しく流出し,一方兼業化の進行で現金収入がふえるという状況下においてである。
 昔から使いなれた肥料で,その使い方はいつとはなしに身体で覚えてしまうから,性質とか成分含量とかについて,とくに考えたりする必要はなかった。
 しかし戦争中から戦後にかけての肥料配給統制期(1939―50)には,頭で考えなければならない問題があったのである。つまり1俵4000円もするヤミ硫安を買うか,都市の下肥を買うか(トラックの運転手に白米なり現金なりを渡すことで,遠くまで運んでもらう),その場合運ばれる下肥の量と買うに必要な経費とから,ヤミ硫安と比較しての損得を知る必要があった。
 そこで初期の常識調べで,11回にわたって出題したのが,次の間であった。
 Q 硫安を何倍の水にとかしたら,下肥のチッソ分と同じぐらいの濃さになるか
 11回中10回分については,主催者・回答者の年齢その他が記録として残っている。主催者は農協が4回,公民館と農事研究会が各2回,農民組合と青年団が各1回で,女性の参加は青年団の場合に限られた。年齢は20歳以下が14人(9.7%),21-30歳が80人(55.6%),31-40歳が31人(21.5%),41歳以上が19人(13.2%)で,合計144人,年齢不記入が32人あった。学歴については年齢以上に無記入者が多かったが,中等学校(農学校をふくむ)卒業者がおよそ2割であった。
 なお記録の失われた1回をふくめて,回答者総数は230人,そのうちこの問題に答えなかった者が40人いた。その他に答案用紙を全く出さなかった者が少数ながらいた。
 講演会の開催地は栃木が5ヵ所,福島が2ヵ所,千葉・大阪・広島が各1ヵ所で,もちろん純農村地帯であった。
 さて,得られた回答の数値を全部列挙すると,次のとおりである。
 この答は一見して,各人があてずっぽうで倍率を書いたとしか言いようがない。表には現れていないが,答をとった時の状況では,大阪の場合,高い倍率が多かった。距離の関係で,使い切れない程下肥が運びこまれる地域である。一方純農村では低い倍率に傾いていた。もて余し気味の所では下肥を成分の薄いものと思い,足りない所では濃いものと思っていたようである。とはいえ,とにかくあてずっぽうの答え方が多いのだから,この傾向も,そういう例が多かったという程度である。
 念のためグラフ化してみた。その方法は別に説明してある。ふつうであれば正解に近いほど人数が多くなり,富士山型になるはずだけれども,最高になるはずの40~50あたりも一向高くなく,5倍から100倍まではアルプス連峰になっている。
表1 硫安を何倍の水にとかしたら,下肥(のチッソ)と同じぐらいの濃さになるか?
11回で190人から得られた答(他に無記入40)

 ところでこの設問には初めにのべたような現実性があるはずだった。しかしくり返し出題しているうちに,問題そのものが,農民の日常の行動や,その指針となるべきりくつや考え方と,ほとんど全く無縁のものだということに気づいたのである。
 硫安のチッソが20%で,下肥のそれがおよそ0.5%だということを覚えている農民でも,それから20÷0.5=40という計算をすることは容易でないのである。別にのべるように,農民が苦労せずに使える割算は,たとえば10のミカンを5人の子に分けるというような,即物的な割算だけであって,成分%などという抽象的な数字の場合は,割るのか掛けるのかの見当も容易につかないのである。
 もし同じ事柄を,実際に水を張った肥桶をそこに置き,硫安を紙の上にひろげて,
図1 硫安を何倍の水にとかしたら下肥(のチッソ)と同じぐらいの濃さになるか(190人の答)
図1のグラフは、片対数のセクションペーパーを使って書いた。下端にまず倍率の数値(2倍から4千倍まで)を入れ、次に一定間隔(原図で5ミリ)の縦線を引き(後で消去)、2本の縦線内ごとに、そこに属する回答数を合計し、2本の線のちょうど中央に回答数のマークを印した。したがってたとえば四の8人は4.2倍を含んでおり、五の17人は4~5倍の2人を含んでいる。当然のことながら、図中のマークの位置と下の倍率を示す数値の位置との間にはズレが生じている。
注:この他に40人の不記入者があった

“サァこれから麦の追肥をします。いつもは下肥を使っているのでしょうが,きょうは硫安でやりますから,いつもの下肥のときと同じぐらいの成分がやれるように,硫安をつかんで桶に入れて下さい”といって,入れる前に各人の握った硫安の重量を測ったら,たぶん40―50倍あたりを中心にして,富士山型の頻度のグラフが画かれたであろう。
 私の出題のし方には,すでに説明したようにそれなりの合理性はあった。しかしこの“試験”をくり返したことによって,農民のものの考え方について覚ったことが多かった。よくいえば“即物的”であるが,異なった条件には応用がきかない考え方なのである。

3 施肥量の計算は非常な難問である
 肥料をどれくらいやったらいいかを,農民に説明するにあたって,誰もが窒素(燐酸・カリ)の成分量で示している。窒素肥料が硫安・硝安・塩安・尿素等といろいろあり,化成肥料も多種多様のが出まわっている以上,一般的には各成分量で何貫何百匁あるいは何キロというより他はない。言う側とすれば,あとは個々の農民が計算をして,自分の使う肥料の使用量を決定するだろうと予測するわけである。
 私もはじめはそれを暗黙のうちに想定していた。“硫安を何倍の水に”の試験を度重ねてやっているうちに,この想定がいいかどうかが疑わしくなってきたので,1950年に千葉県のある郡で開かれた夏季講座にさいして,はじめてこの“計算問題”を出してみた。
 Q 窒素成分で600匁を施すには,下肥・硫安・硝安・尿素を,それぞれどれくら
いやったらよいか。但し使ったことのない肥料は書かないでよい”
 この時の私の心境は,各町各村から数名ずつ夏季講座に集ってくる人たちなら,大体できるのではないか,悪くすると“バカにするな”という反撃さえあるのではないかというのであった。
 ところが68人中白紙が19人,全然わけのわからない答をしたのが21人,計40人(58.8%)は落第であった。
 ほぼ完全な答(aクラス)はわずかに2人,答は合っているが答を得るまでの方法が記されていない者(計算を答案用紙にやって,消さずに残すよう,再三注意した)と,成分含量に思いちがいがあって答が狂ったものをbクラスとすると,これが9人,ab合せて11人で16.2%にすぎなかった。
 合格11人と落第40人の間に17人いたが,中身はいろいろである。使っていないはずはない下肥を書かなかった者,ケタをまちがえた者などが主であるが,計算方法はほとんどが正しくなかった。1例として30歳の男性の書いた答をあげておく。
 下肥5%=12貫
 硫安20%,1貫=200匁,3貫=600匁
 硝安35%=2貫
 下肥の成分量は1ケタちがい,硝安も少し狂っている。それに硝安の場合,計算が誤っていて(しないで)あてずっぽうである。おそらくこれは,硫安で3貫なら硝安で2貫でよかろうというあたりであろう。
 書いたが落第という21人の中から,23歳の男性の答を1例,紹介しておく。計算は全くしていない。
 下肥3貫,硫安200匁,硝安20匁,尿素多少
 窒素成分で600匁施すのに,硝安20匁で足りるというのである。尿素の“多少”はおそらく20匁よりさらに少い量のつもりであろう。
 同じ時期に同じ問題を,神奈川県川崎市の農村部落の農事研究会貝にも出してみた。ただ窒素成分量を700匁として,メノコ勘定がやりにくいようにしたことと,参加者の使用状況からして下肥・硫安・硝安・石灰窒素にしたことを,ことわっておく。
 出席者がわずか10人だったためか,計算を残すように注意したにかかわらず,ほとんどが残してくれなかった。人数が少ないので,誰が書いたかがわかってしまうのを嫌ったのであろうか。
 10枚の回答を全部列挙しておこう。
イ(計算方法はないが答はほぼ正しかった26歳の人,この人だけは漢数字・タテ書きであったが,引用にあたって横書きにした。)
 下肥 140貫(下肥窒素分0.5%)
 硫安約3〆500匁(20.6%)
 消(硝)安約2〆100匁(32%)
 石灰窒素約3〆600匁(20%)
ロ(38歳下肥を不記入)
 硫安(窒素成分20%) 3〆500匁
 硝安(窒素成分33%) 2〆100匁
 石灰窒素(窒素成分16%) 4〆400匁’
ハ(41歳この人も下肥は不記入)
 硫安3〆500匁×20%=
 硝安2〆400匁×30%
 石灰N3〆500匁×20%
(この人のはどういう方法かで答を出してしまって,そこへ成分含有率をかけている。)
ニ(25歳“暗算す”とことわり書きしているが,式は硫安20%÷7=35〆と書き,÷7を抹消した。“暗算”は式とは逆で7を20で割っている。ケタは全部まちがっている。)
 人糞の場合0.05
 硫安 20%÷7=35〆
 硝安 35%   20〆
 石灰窒素 16% 45〆
ホ(26歳ごく大ざっぱなカンで書いている。)
 下肥 1石内シ(ないし)1石5斗
 石灰チッソ 5貫匁
 硫安 6貫匁より5貫匁
 消(硝)安 3貫匁より4貫匁
ヘ(年齢不記入かなり狂っている)
 下肥
 硫安 2〆5百匁’
 石窒 2〆5百匁
 硝安 2〆匁
ト(40歳あてずっぽうで,下肥はケタちがい)
 人糞尿 15〆
 硫安 4〆
 硝安 3〆
 石灰N 5〆
チ(年齢不記入)
 石灰チッソ17%÷700匁=6〆200匁
 (÷の印の下にうすく×と書いてある。計算は式と反対にやって,だいぶまちがっている)
 消(硝)安 700匁÷25%=3〆
 硫安 700匁÷15%
 下肥
リ(年齢不記入)
 下肥
 流(硫)安 14〆
 消(硝)安 7〆
 石灰窒素 17/100%
ヌ(32歳)
 下肥 1石2斗
 流(硫)安 8百匁
 消(硝)安 5百匁
 石灰チッソ 1〆6百匁
 これが大都市の市域内でりっぱな野菜づくりをやっている農事研究会会員の答案なのである。成分含有率の数字で成分必要量を割って答を出すということが,いかに理解しにくいことであるかを,これらの答はまことにみごとに示している。
 このような重大なことについて,肥料の本の著者は誰一人として配慮してくれなかった。単位面積当りで各肥料成分の必要量を示しさえすれば,個々の農民がその成分量を,それぞれの肥料の成分含有率で割って,実際の肥料の目方を算出し,それをさらに各自の耕地面積によって再計算し,本当の施肥量をはじき出すであろうという前提で,本を書いているのである。面積の相違による計算は,個々の農民にまかせるより他はないとしても,“必要成分量を含有率で割る”という,まことに抽象的で覚えにくい計算の方は,もっと具体的に理解させ,誤りなく計算できるように説明する責任が,肥料の本の著者にはあるはずである。
 私はそれを1962年に,主として農家のかあちゃんたちに読んでもらうつもりで書いた『誰にもわかる土と肥料』5)の中で試みている。この本はむしろ“土”の方に重点をおいたものであるが,前編が土で後編が肥料となっている。そして“付録”として「誰にもできる肥料計算」をつけた。その中から最も重要な部分を抜き出してここに掲げておく。

 1 計算なしではすませない。
 肥料の計算は,誰にでもできます。そして誰でもがしなければならないことなのです。肥料をどれくらいやったらよいかは,いろいろと本や雑誌に書かれていますが,その場合「チッソ成分で2.5キロ施す」という風に書かれてあるのが,ふつうです。チッソ肥料にもいろいろあるので,硫安なら何キロ,尿素なら何キロと一々書くわけにはいきません。(中略)したがって農家のほうで,成分で2.5キロなら,肥料でいくらになるのかを,計算するわけです。自分で使おうと思う肥料だけでいいのですから,わけはありません。(中略)
 読者のみなさんの中には,そんなことをわざわざ説明しなぐたってけっこう,という方々もおいででしょう。しかし私が調べたところでは,この計算のし方のわからない人が案外多いので,一応は説明しておかなければならないと思うのです。

 2 実例をつかってやってみる
 わかりやすいために,例をつかいましょう。
チッソ成分で2.5キロ施したいと思う。これを尿素でやろうとすれば,いくらやったらよいか。(中略)
 尿素は,成分の率が46%です。したがって,1キロの尿素の中にはチッソが460グラムあるわけです。(中略)かりに尿素が1キロずつ小袋に入っていると考えてください。当然,1袋中のチッソ成分は460グラムです。
 さて,2.5キロは2500グラムですが,チッソ成分460グラム入りの小袋をいくつあつめたら,2500グラムになるかがわかればよいわけです。
図2をごらんください。2500グラムに達するまで,小袋をあつめてみました。5つと少しです。
 こういうことを,一々図を書かないで知る方法は,いうまでもなく割り算です。2500グラムを460グラムで割ればよいのです。
 2500÷460=5.43
 こうなります。実際は5.4で十分でしょう。この単位がキロになることは,図でおわかりと思います。1キロ入りの小袋がいくつ必要かを知るための割り算ですから。
 もしこれが硫安だったら,硫安1キロの袋の中には210グラムしかチッソが入っていませんから
 2500÷210=11.9キロ
となります。実際は12キロでいいでしょう。
(以下略)
図2
4 理想的な改良便所の普及を,糞尿についての思いちがいが妨げた
 日本では今,おどろくべき勢いで便所の水洗化が進行している。下水道のできていない所でも“浄化槽”によって,おかまいなしに行われている。そして排尿のたびごとに,その10倍かそれ以上の“飲める水”を使って洗い流している。流れ流れて行った先の近海では海水の“富栄養化”という厄介な問題が起きている。
 糞は疑いもなくきわめて不潔なもので,これを溜めて汲みとる方式の便所は,どう考えても好ましいものではない。しかし尿は全く別である。新鮮尿は通常無菌であるし,貯溜後使用しても少なくとも寄生虫卵を媒介することはない。肥料としては,速効性の窒素分を約0.5%,カリをその半分,燐酸をさらにその半分ふくんでおり,塩分を含むという欠点はあっても,価値ある物質である。
 発展途上国が,日本で今進行中のこの愚かしい行為の後追いをすることはない。
 日本でも1950年代には,はるかに賢明な方法が考えられていた。当時の日本農村では,回虫や十二指腸虫の寄生率がかなり高かったので,人糞を肥料に使うことは好ましくなかったが,そういう心配の全くない尿を棄てるのは資源の浪費であるから,糞と尿が別々にたまる方式の便器と便槽が考案され,その普及が図られた。考案者は神奈川県衛生研究所長の児玉威氏である6)。
 当時私は,合理的な肥料の使い方を農民の間にひろめるために『誰にもわかる肥料の知識』を書き(1950年9月,社団法人農山漁村文化協会),ひきつづき1951年に塩島角次郎氏との共著で『これからの自給肥料』を書いた。この本の第1章の「長所を生かし短所をためてうまく使おう下肥を」は,この本の最も重要な章で,私が特に苦心したところである。「小便の精と人間の対話」を5回にわけて織りこみ,小便と大便がいかに根本的にちがうものであるかを,おもしろおかしく,かつ皮肉たっぷりに表現した。小便に一番縁が近いのは汗であり,その次はオッパイであって,糞とは“出口が近い”ということ以外に近似点は何ひとつないのだとも説いた。そして,まぜてしまうことがいかに愚かしい行為であるかも力説した。
 『誰にもわかる肥料の知識』が非常な好評を博したため,農村各地に“肥料の先生”として招かれることも多かった。そのさいも,新肥料である尿素や各種の新しい化成肥料などの上手な使い方を話すだけでなく,下肥の上手な使い方についてもよく話した。しかし大便と小便が別々にたまる便器と便壺の考案されていないことは,私の話の説得力を弱めていた。
 『これからの自給肥料』の第2刷が出た直後,私は児玉氏の研究を知り,直ちに訪ねていって教えを乞い,また神奈川県下の実験部落にも度々足を運んで,この考案がきわめて価値あるものであると覚った。
 そこで講演の中に織りこんで大いに推奨したのだけれども,聴衆の反応がどうも思わしくない。その原因を推量していくと,いくつか思いあたることがある。ひと口でいうと,人糞尿についての大きな考えちがいである。少しテストしてみると予想どおりであった。糞尿分離式改良便所の優秀さが理解できない原因はおよそ次の三つの思いちがいにあることが,程なくわかった。それで途中からは,その考えをうち砕くために答案を書かせることをやり続けたものである。
 誤った考え方の第1は,尿もきたないものとしていることである。実をいうと古来,もっと正しい認識があった。“野良でけがしたら傷口を小便で洗え”というのは,きわめて適切な対策であった。野良でのけがでは傷口に土のつくことが多く,これはきわめて危険である。使える無菌の液体は新鮮尿以外にない。“無菌”という認識はなかったろうが,度重なる経験でたしかめられた合理的な措置であった。
 この健全な常識をうち砕いて,排泄物はすべてきたないと教えこんだのは,明治以来の学校教育や家庭教育,警察が掌握した衛生行政などの総合作用であったと私は思う。
 誤った考え方の第2は,糞と尿の生成量を半々か四分六ぐらいと思っていることである。後で調査結果を示すが,10人以上から答をとって平均したら,殆んど確実に糞40―50%,尿50―60%のワク内に入ってしまう。実際はどうかというと糞は10―15%なのである。
 誤った考え方の第3は,肥効についてである。人糞尿の肥料分では,尿の窒素が第1だと知っているのは,意外と少数で,多くの農民の常識では,こってりした糞の方が,水みたいな尿より効き目がありそうだとしているのである。
 糞尿分離式の長所は,①尿はきれいで糞はきたない,②尿は大量で糞は少量である,という事実に立脚し,③きたなくて少量の糞を,きれいで大量の尿にまぜることで全体をきたないものにするのは愚の骨頂である,④だから最初から別々にたまるようにし,尿は長くおかずに(おけば窒素が逃げる)どんどん使うことができるようにした,というところにある7)。
 『上記のように誤った考え方が三重構造をなしていては,糞尿分離式便所のよさがわかるはずはなかった。
 こういう経緯があって,糞尿についての常識調べをいろいろと行ったので,その要点を報告する。
 Q 100貫の人糞尿は糞何貫・尿何貫がまじったものか(何パーセントを占めるかというような設問でなく,きわめて即物的に出題した)
 1952年2月に長野県下伊那郡の2ヵ所で,186人から得た答を全部ならべてみると,次のとおりである。
 大40・小60が54人(29.0%)で最も多く,大60・小40と大30・小70とが33人でこれにつぐ。そしてほぼ正解の大15・小85はわずか1人であった。総平均は46.3対53.7である。
 この問いは各地で20回ほど出したが,平均値を出すとほとんど常に糞は40-50の間になる。糞が50をこえたことは2回,40より低かったことが1回あっただけである。だから尿より糞がほんの少し少ないというのが,日本農民の常識であったといえよう。
 Q 糞と尿とを別々にして,肥料としての特性はどうか
こういう問題は“難問”に属する。まず糞尿を別々に考えるということがひどく困難であるらしい。千葉県のある郡の夏季講座で,各町村(もちろん町村合併前の小さな町村)から数名ずつの熱心家が集まったときに出してみたところ,68人のうち44人が白紙であった。もっともこの時は3問出して,これが3番目だったので,とくに白紙が多かったのであろう。書いた24人の中にも
イ 尿60% 糞40%
ロ 尿1 糞5
ハ 尿3 糞7
ニ 尿7/10 糞3/10
表2 糞尿の排泄量についての“常識”
 のように出題の意味を理解していない4人や
ホ 尿 アンモニア 糞N分
ヘ 硫安と同じ様に尿や糞は作物を早く大きくするものに追肥として使用される
ト 尿 窒素,糞 窒素 リンサン其他
チ 尿 窒素,糞 窒素 有機質
リ 尿 液状,糞 固体
ヌ 尿 質(窒か)素分,糞 アンモニア分その他
ル 尿 精分なる(なしか)
ヲ 尿 全量水なり,糞 固形物より成る
 などの8人は問題外である。
 まあまあ少し分っていると見られるのは,次の9人ぐらいであろう。
ワ 尿は気(揮)発性にとみ速効性であること
糞は完熟せぬ場合はち効生にして効果なし。
カ 尿 水分90%以上,尿素態N
糞 蛋白質・繊維等有機物
ヨ 尿ハ多ク尿酸体ノNヲ含ミ土壌ニ施ストアンモニア体ノ窒素トナリ速効性ノ窒素肥料デアル 糞ハ肥料ノ3要素ヲ含ミ遅効性ノ肥料
タ 尿の方が速効性に富んでいる事が特質である。尿の方が成分含量も多い。
レ 尿は塩分多し,糞は腐熟したものを用ふ
ソ 尿はNを主とす成分を持つ
 糞はNを主とするもPKの若干を含む
ツ 尿 窒素大部分ナリ80%,糞 燐酸分ト窒素分ト同成分ヲ有ス
ネ 尿 塩分多くあまり多くやると酸性になる 水分が多い,糞 N分が多い
ナ 尿 速効性,糞 ちこうせい
 次のように重大な思いちがい(とくに糞について)を示す答もあった。
ラ 尿 水分多く,塩分を多く含み畑の乾燥期の肥料によく,糞有機質を多く含み,肥料的に見てよろしい
ム 尿 Nが尿素体で流出が早い,糞 Nがアンモニア体で土壌によく吸収される
ウ 尿 尿素を主とせる窒素肥料,糞 Nがアンモニア体である。其の他小量のPKもある。
 さて糞尿の肥料的価値についての常識調べでは,少しちがった問いも出してみた。
 Q 人糞尿100貫の中には,
 大便からきた窒素・燐酸・カリ小便からきた窒素・燐酸・カリが,それぞれどれくらい(目方で)あるか
 これはかなりの難問で,よほど甘くみないといけないのだが,その評価の仕方は後でのべる。この問題を出すと,この6成分の目方の合計が100貫になる答が,必ず1割以上,多い時には1/4にもなった。時には合計200貫になるのもあった。例示す
ると次のようでここにも糞の過大評価が見られる。
表3 人糞尿100貫の中に,これだけある!?
 この問題に対する答の合格判定の基準は,次のように甘いものである。
 小便からきた窒素が最高で,かつそれが100匁から1貫目の間で(0.1~1.0%)他の成分がどれも500匁以下(0.5%以下)。
 この甘い規準をあてはめても,千葉と山梨でとった87人のうち,合格は6人にすぎなかった。
 1回だけ,この問題の次に別の問題をおき,そのあとに“人糞尿中の窒素・燐酸・カリの含有率”を書かせてみたことがあった。おどろいたことにこの2問に対して,全く別々に答えているのが大部分であった。双方の数字がきちんと合ったのは,60人中7人にすぎず,一部一致(たとえば窒素だけ)が3人あった。あとの50人は,二つの問題を別のこととして扱っていた。だから,成分含有率の数字を覚えているということから,それを理解していると考えるのは早計なのである。

5 葉の大切さがわかっていない
 旭川郊外のある農家で見た異様なひまわりを,私は今も忘れることができない。丈は2メートルもある堂々たるもので,頂に大きな花をつけているが,葉はそのすぐ下に3枚あるだけであった。ふしぎそうにそれを見る私に,その家の主人(中年の働きざかりの農民)は,こう説明したものである。
 「ひまわりはわき芽をとらないと,てっぺんの花の種がシイナになるんで,わき芽かきのときついでに葉をとってしまいました」。
 それまでにも私は,葉の働きについての農民の無知の証拠物件をたびたび見させられていた。“麦の根”のところでのべてある,とろけた紙がかぶさった麦の葉もそのひとつである。食糧不足時代には農家非農家を問わず,かぼちゃを作ったが,うりばえを防ぐために灰を葉一面にまぶしている例もよく見た。
 そこで初期には何回か“植物の葉の働きのうち,最も大切だと思うものを二通り
書きなさい”という出題をした。この当時は私もまだ農民の常識を過大評価していたので,炭素同化作用の方は大ていの者が知っているだろう,もう一つとして呼吸を書くか蒸散を書くか,これについてどの程度の答が得られるかと期待して出題したのである。ところが空気中から窒素を吸うというのがたくさんあったり,中には“景色をよくする”とか“夏の日陰をつくる”とかいうのまであったりするので,方針を変えて次のようにした。
 Q 葉の働きの中で一番大切だと思うことは何か
 千葉県のある村の公民館が開いた夏季大学(おそらく1949年)によばれていった時,50人をこえる受講生に対して,この形で出題し,答をとった。その答をそのままここにのせたいと思う。誤字もそのままのせ,かっこ内に正字を入れておいた。誤字中,全くそんな字がないというのは正しい字に直してある。かっこ内の数字は年齢で,*印以下の省略は,この問題に関係ないことが書かれていたものである。
イ 根からすひ上げた水分と日光とによつて炭素同化作用を行ひ,澱粉を作りそれが其れ々々の作物の部分に畜(蓄)積されて子実や球根となる。 (23男)
ロ 日光を受ける事によつて炭素同化作用によつて澱粉を作り* (24男)
ハ 空気中の炭酸ガスを吸収し酸素を排出する。即ち同化作用である。* (22男)
ニ 空気中の炭素を吸収して同化作用を行ふ。 (24男)
ホ 同化作用に依り澱粉を作り作物の子実を刑(形)成せしむる作用をす (28男)
ヘ 植物は地中より養分を取り葉にて日光及び空気等に植物に必要な澱粉其他を造り植物に送り同化作用をおこのう (24男)
ト 炭素の同化作用を行ふ (28女)
チ―ヌ 同化作用 (16,17,25男)
ル たんは(ぱ)く質を作る同化作用を行ふ (?男)
ヲ 葉より酸素を吸収して銅(同)化作用する (22男)
ワ 動(同)化作用 (39男)
カ 炭酸ガスを発さん,酸素を吸収し,水分の発さん等 (?)
ヨ 水分ノ発散,酸素ヲ発散 (42男)
タ 空気中のサンソヲ吸しうする (32男)
レ 空気を吸入成分の働を捕(補)助す (19女)
ソ 葉緑素に依り草木のこきうすものなり (40男)
ツ―ナ 呼吸作用(文意同じ3答) (18男・26男・20女)
ラ 地上の要素をきゆうしゆうする約(役)目をはたす(?)
ム 酸素出すタンサンカシを吸い植物の発育をヲヲ(旺)盛にする (42男)
ウ 空気中のさんそ吸シウ又日光によりデんプんをとる (18男)
ヰ 根からすた要(養)分を太陽の光線で (?)
ノ 水をすい上げる (20女)
オ 太陽熱を吸収して植物の成長させる (28男)
ク 空気中より太陽の熱を吸収し (22男)
ヤ 成長させる (23男)
マ と(糖)分をし(す)う (18男)
ケ 葉はよう分おくく (20男)
フ―セ (15人全然記入なし)
 このうちイとロは,よく分っていると見ていいだろう。ハは重大な思いちがいを示している。この思いちがいはだいぶ広くひろがっている。それは“動物の呼吸作用は酸素をすって炭酸ガスを出し,植物の同化作用はその反対に炭酸ガスを吸って酸素を出す”というものである。今でもこういうまちがいは,くり返し教えこまれているかもしれない。
 ニとホは分っているかもしれないし,言葉の上だけかもしれない。少なくもこれだけでこの人たちはわかっているとはいえない。
 ヘはかなり混乱している。
 トからヌまでは,言葉だけの答で,本当によく分っているのではないだろう。時間はかなりあったから,分っている人だったらもう少しは書くだろう。
 ル~ワはドーかと思われる答で,わかっていない証拠が顔を出している。
カからラまでは,呼吸や蒸散という葉の大切な働きの1・2を書いている。炭素同化作用にふれてないのは大きな欠点だが,少しばかり点を与えてもいいだろう。
 ム以下はいろいろである。なお15枚の白紙があったことも重要である。
 全体としていえることは,植物の葉の最も大切な働きについて,よく分っていない者が圧倒的に多いという寺とだ。農民の場合まさにその葉の働きに,自分たちの生活がかかっているというのに。
 Q 植物は生活に必要なものとして,空中から何をとり入れるか
 1950年に,新潟県のある郡の農協が主催した夏季講座で,郡下各町村から数名ずつ集まった青年たちに話をすることになり,少し趣きを変えた問題を出した。各町村の優秀メンバーが揃ったようだったので,上のように出題した。
 回答総数84,白紙はわずか1枚であったが,まず“炭素”(炭酸ガスと書いたのもふくむ)を書いた者が60人,書かなかった者が23人であった。また酸素を書いた者は54人,書かなかった者は29人であった。一方窒素を書いた者が24人もおり(豆科植物に限ってとことわり書きしたのは含まない)“日光”を書いたのが7人(光線・紫外線をふくむ),葉緑素も2例あった。
 全体としては成績のいい方であったと思うが,各町村から数名ずつ選ばれて来た
夏季講座の出席者でも,この程度なのである。

6 根の伸びぐあいもわかっていない
 私が集中的に常識調べをしたのは1948年初冬から49年春までである。当時,ほとんどの農民は麦を作っていた。麦まきが終ると農作業は一段落で,農閑期に入り,各地で講演会や講習会が開かれるというのが,当時のならわしであった。
 かねてから農民が作物の根ののび方についてかなり無知であるらしいと気づいていたので,ちょうど畑でせっせと根をのばしている麦について,根ののびぐあいをどのていどに考えているか,調べてみる気を起こしたのである。
 年がかわると麦の追肥も施される。下肥が主に使われていたが,麦の頭からかける農民が少なからずいて,施したあとは下肥中でとろけていた紙がまた乾いて,麦の葉にこびりついているのをよくみかけた。1月2月では麦の地上部分はまだ小さいので,何となく根もそれくらいと思い,畦間に追肥をしても根にとどかないと考えているらしい。だから頭からかけているのである。
 実際はどうかというと,麦,とくに小麦は深根性の作物で,種をまいて50日もすると,根の先端は1メートルに達する。もちろん横にもひろがって畦間をみたす。その後もどんどん伸び続け,地下水が高くさえなければ先端は地表下2メートル以上になる。3.6メートルに達した例もある。
 農民の伝承的知識のひとつに,根は横の広がりも縦の伸長も,枝や茎の張りと伸びにほぼ匹敵する,というのがある。そういう話しあいを私は何回か耳にしたが,その時の話しぶりは,根というものはそれほど深く広くひろがるものだそうだナァというようなニュアンスをもっていた。これでは疑いもなく根の伸長を過少評価しているのだけれども,伝承の常識として一定の評価はしていいものである。とはいえ1月2月の麦の追肥の場合などでは,これが裏目にでて,頭からかけるというバカな行動をすることにもなるのである。
 “麦の根はどれくらいの深さまで達するか”という設問は,前記の“硫安を……”と大体いっしょに出した。回数はこの方が2回少なくて9回,得られた答は160枚で,そのうちこの問題に答えなかった者が16人いた。出題にあたっては,“主にどれくらいの深さにあるかを聞いているのではない,一番深いものについてだ”と必ず念をおした。
 答を列挙すると次のとおりである。
 1組から5組までに区分けしてみたが,それは答えた側の頭の中を私なりに推定してのことである。
表4 麦の根はどれだけの深さに達するか
(尺寸分で記されたのはすべて寸単位に,漢字かカナでセンチとしたものはすべてCで示す)
 1組 ヒッコ抜き組 茎か刈株をひっこ抜いた時の根が,根のすべてと思う
 2終 耕土止り組 自分が耕やしてやっている軟い土の所で終っていると思う
 3組 もう少しは深そうだと思う(数が多いので,a,bにわけた)
 4組 茎丈と同じ位と思う
 5組 科学常識を身につけている
 この回答は,私が行った数多くの試験の中では,マアマアいい方だったといえよう。4組以上を一応及第とすると,40.3%になる。もっとも不記入の16人を加えた総人員160人に対しては36.3%であるが。
 しかし一方に1組2組のようなひどい答もあって,これの合計は27.1%であるし,これに不記入を加えた55人の対総数比率は34.4%にもなる。現に麦を作っている生産農民で,こうなのである。
 しかしこの点については,学者研究者や農民教育機関にも大きな責任がある。どこにでもよく掲示されている稲や麦の生育図(ポスター)は,絶対に稲や麦の生育図ではなくて“稲(麦)の地上部分の生育図”である。また著名な学者が農民を対象として書いた本を少し調べただけでも,次のような,根の生育を全く無視した図を発見することができる。私見では地上部分の生育図の10倍もの数で,根の生育図を示すべきだと思う。根の生育は10年20年農業をしていても,なかなかわからないものなのだ。
図3 不親切な図
7 畑土についての思いちがいと,田の土についての新知識の消化不良
 土の学問はむずかしいと思いこまれている。しかし農民にとって,土は何より大切な生産上の条件であり,扱い方で条件のよしあしにもかなりのちがいが生じるものである。そういう農民の実践と結びついた土の学問が,何から何までむずかしいなどということはない。
 たとえば土の中には空気がたくさん含まれているものだ,含まれていることが,作物の根ののびにとって非常に大切なのだ,ということなどは,少しも“むずかしい”ことではなくて,しかもだいじなことなのである。
 初期の調査で,“麦の根”などといっしょに次の出題をしたが,提出された答案用紙150枚のうち,この問題について不記入が39枚もあった。
 Q よく耕された,ころあいのしめりけをもった畑の土について,土粒(固形分)と水と空気とが,どの位の割合で(体積)まじりあっているか
記入のあった111人のうち,三つの数字の合計が100にも10にもならない14を除いて,土粒・空気・水のそれぞれについて割合を示すと,次のとおりである。

土粒の占める割合
90%以上 12人
80 〃 90%未満 25
70 〃 80 22
60 〃 70 16
50 〃 60 17
    50 5

空気の占める割合
10%未満 35人
10%以上 20 〃 36
20 〃 30 〃 16
30 〃     10

水の占める割合
10%未満 18人
10%以上 20 〃 27
20 〃 30 〃 29
30 〃 40〃 15
40 〃    8

 空気の比率については0.5%,1%などという答もあり,総じて空気の占める比率がかなり低く,土粒の占める比率が高すぎた。“試験”が終ってから,よく耕された土では,土粒の割合は40~50%ていどであることを話すと,びっくりしていた。そしてこのようなことはこれまで一度も教わったこともなければ考えさせられたこともないという者が何人もいた。
 日本の農民にとっては,水田は畑よりはるかに重要度が高い。大部分の水田には,その造成のために多くの資金と労力をかけている。ところで水を張った田の土の状況について,確実な知識を持つことは,米の生産を高めるために,そしてそれをなるべく低いコストでなしとげるうえで,きわめて有益である。
 このことに関して,正しい知識の普及のために多くの努力が払われた。ひじょうにわかり易く書かれた,農民向けのパンフレットの一つに『秋落田とその改良』(農民叢書・農業技術協会刊)がある。
 全体で41ページのうすいもので,発行当時,わかり易く書かれていることで評判になったものである。その構成は次のようである。
 はしがき 1ページ
 秋落ちする田の土はどんな特徴をもっているか(図が1) 13ページ
 稲の秋落はどのようにして起るか(図が2) 11ページ
 秋落を防ぐにはどうしたらよいか 13ページ
 秋落防止に関する2・3の試験成績 2ページ
 あとがき 1ページ

 このテキストを私は,秋落がかなり深刻な問題になっている地域の4Hクラブ
員9),または農事研究会員にあらかじめ読ませておいて,このパンフレットの内容のうち,最もだいじな事がらについて試験をしたのである。
 この試験では,村でかなり熱心な農民が,新知識をちゃんと消化して身につけることができるか否か,知識の消化不良症があるのではないかにさぐりを入れることにした。そのため第一の質問には“落し穴”をつくっておいた。実施したのは4地区,得られた答は59であるが,カンニングが明白な3枚を除いた。
 Q(1) 田の土と畑の土とのちがいのうち一番根本的なことは,つぎのどれか
 1 田の土では灌漑水のために鉄分が流される
 2 田の土が畑の土より肥えている
 3 田の土の中には酸化層ができるが,畑の土にはそれができない。
 4 田の土の方が畑の土よりも粘土分が多い
 5 田の土の中には酸素のない層ができるが,畑の土にはそれができない
 6 田の土の方が畑の土よりも,バイキンの働きがさかんである
 7 根本的なちがいはない
 8 はっきりおぼえていない
 Q(2) 秋おちを防ぐには客土をするといいといいますが,そのわけは
 1 土の中に還元層ができなくなるから
 2 酸性を中和するから
 3 老朽化した土の組立てをなおすから
 4 客土した土の中にふくまれている鉄分が硫化水素の毒作用をおさえるから
 5 客土した土の中には3要素が適量に含まれているから
 6 鉄の溶脱を防ぐから
 7 はっきり覚えていない
 第1問の正解である5の方では、“還元層”という言葉をさけて“酸素のない層”というもっとわかり易い表現を用い,落し穴の3の方には“酸化層”という言葉を使った。しかしこの“落し穴”がそれほど意地悪でないことは,読ませたテキストがこう書いていることで明らかである。
 “この酸素のないところ,つまり還元層が作土の中にできるということが,水をたたえた水田の土と,水をたたえることのない畑の土との一番大きな,また根本的なちがいなのです。”
 さて回答はどうであったか。“最も主なちがい”という出題なので,二つに○をつけたのは各1/2,三つに○をつけたものは各1/3として計算した。
 1 6人2/3
 2 3 5/6
 3 30 1/3
 5 10 2/3
 6 5 1/3
 7 0
 4 6 2/3
 8 2 1/2

 上記のうち,3・7・8を除くと33人1/3で,1題の平均は6人2/3になる。これを一応1~6の“自然得票率”と見なすと,正解の5は,4人だけ上まわっているにすぎない。しかし3は4倍半もとっている。この高い得票はおそらく“落し穴”である“酸化層”という言葉の魅力(?)のためであろう。もしこの方を“酸素のある層”とし,5の方を還元層としたら,たぶん答は逆転したと思う。
 ところで,誤って3に○をつけた者と,正解の5に○をつけた者との,第2問に対する答をくらべてみると,前者の方がやや勝っている。具体的にいうと,(1)で3だけに○をつけた19人中,(2)で3に○をつけたのが9人,4に○をつけたのが10人で,みな正解である。ところが(1)で5だけに○をつけた10人では(2)の答で3が6人,4が1人のほか,2・5・7が各1人いた。
 これから推察すると,(1)の正解者が本当によく分っていたとは考えにくい10)。
 このテストによって,私が予想した知識の消化不良症は,かなりみごとに正体をさらけ出したように思える。田に水を張ると,水にとけている酸素が絶えず補給されるうすい表層以外が還元層になるということの“りくつ”を,ちゃんと身につけるのは,容易なことではないのだ。物理化学や生物学のだいじな基礎知識が身についていないから,個々の新知識を消化して,自分の知識の体系を一層充実したものに高めていくことができない。新知識はその一つ一つがバラバラにわりこんできて,不当に重要な位置をしめたりするのである。

 8 “なぜ”が考えられない状態
 “なぜそうなのか”“なぜこうするのか”ということを,理づめで考えていくことは,ひじょうに大切なことである。農業生産では“正直な”作物や家畜を相手にしているので,こういう考え方が身についていれば,失敗した場合でもそこから教訓をひき出して次に備えることがやりやすい。
 ところが理づめて考えるうえで,欠くことのできないのが,基礎知識なのである。そのかんじんの基礎知識が欠けているため,理づめで考えていくことはほとんど不可能に近く,またそうする習慣も身についていないのである。
 このことを非常によく示すのが,次の質問に対する答であった。
 Q チッソ肥料はなぜ必要か
 この質問に対する農民の答として,私は決して多きを望んではいなかった。具体的にいうと,次の3項目がどうやら分っていさえすればそれでよいと考えて出題し
たのである。
(イ) チッソは植物のからだのだいじな組立て材料だということ
(ロ) 植物はそれを土の中からすいとるということ(空気中にたくさんあるチッソはふつうは利用できないということ)
(ハ) 土の中には十分にはないということ
 この程度のことは農学校なら必ず教えていることであり,戦後の中学教育でも教えているはずである。そしてまた,肥料について聞いたり読んだりするときにも,くりかえし接したはずの,全くの常識的事項である。
 ところがこういう基礎的なことがちゃんと頭に入っていないところへ,いろんな“新知識”が注ぎこまれる。かんじんの“消化作用”ができない頭の中は,こういう“新知識”が雑炊状になっている。“ナゼ必要か”というめったに考えたこともない試験問題を前にして,脈絡もなく“新知識”がほとばしり出る。
 新潟県のある郡の農協が主催した夏季大学(これは“5 葉の大切さがわかっていない”の中の“Q 植物は生活に必要なものとして空中から何をとり入れるか”を出した同じ対象)で得られた答は,そういう傾向がとくに著しかった。
 まず得られた85枚を大まかに分けるとこうである。
 よくできたもの 2
 ややよいもの 12
 消化不良の知識を示すもの 35
 必要だから必要だという程度のもの 29
 白 紙 7
 このうちまず消化不良の例をいくつか,原文どおりあげてみよう。
イ 植物がNを吸収して,葉緑素によってNが糖化されて植物の栄養となる為
ロ 土壌中のアルカリ性を窒素(酸性)化物によって酸化鉄分となし作物の緑葉を大(太)陽の熱によりデン分化す
ハ 窒素は葉又は根になくてわならないものであります。窒素は地中にをいてシヤナミドタイトなりアンモニアにかわり稲に吸収せられる
ニ 植物の成育の主体をなす物は大体に於てNPK成分より成る。成育の主体を構成する物,植物,外形,及び構成する性分なり
ホ 植物のクワンゲン作用に必要なため,澱粉を作るタメ
ヘ 炭水化物と窒素の比率が大きければ大きい程,あらゆる病気体や疾病に対しての抵抗力が大となるから,ぜひ共に窒素肥料を必要とする。
ト 窒素は植物の生気を大にし,又サンソのきうしう率を大にする。
チ 植物は上下に於けるアルカリ性を非常に多なるので植物のさいぼうは此に属す。地下には鉄分が平均にして少ないのです。
リ 窒素肥料は作物の緑素を増し成育に細胞みゃくより炭かん同化作用し,根葉の発育に
力づける肥料なり
ヌ 直物の生酢用は窒素/炭素の公式で表される様にNの必要は重大なり
ル 動植物が生長するためには栄養が必要である。人体における熱源がなければ生存し得ないと同様に,植物においても人体に於ける熱源と同作用をなすNが必要である。
ヲ 葉緑素形成
 核分裂
 炭水化物生成
ワ N肥料は植物の径(茎)葉を繁茂し並びに生長を助長するに必要な肥料であり,C/N問題も重要視される今日に到り其の必要性と需要量は三要素中最大のもの也
カ ○窒素肥料は土壌分かいする
 ○石灰分が入って居てドジャウ類を殺し土壌を肥かす
 ○窒素は3要素の一つとして,稲が穂を出す時にはぜひ重要な肥料
ヨ 炭素同化作用の際,澱粉を作るに必要なものなり。特にどこに必要といふわけはないが,植物体には各所にNを含有して居る(茎葉の発育にはその役する所大なり)(この人は22才で農業科教員だ!)
タ アルカリの中和
レ 作物生育上澱粉を作る上に必要なり,色素の達成
ソ 導(同)化作用に依り緑化を増進して日光を吸収して繁茂に必要なる根茎の進(伸)長を図る
 次は“必要だから必要だ”というものである。(今あげた答の中にも,そういうのがある)
ツ 窒素は植物にとって発育一番大切な3要素である
ネ チッソ肥料,3要素ノ一ツニシテ植物ノ生育ニ重要ナル要素ナリ
ナ 植物ノ生育上窒素分ナクテワ不能故是非必要ナリ
ラ 植物生育上一大養素である
 別の質問では既述のように成績はいい方であったこの時の参集者も“なぜ”の前にはかくのごとく無残な姿をさらけ出してしまったのである。この時の最良の答は次のものであるが,この回答者が工業学校を卒業した青年であったことに注目しておきたい。
ム 植物自体ヲ構成スル成分中ニN2が存在スル事ハ明ラカデアル,従ッテ外部ヨリ之ヲ植物ガ成長スル為ニハ供給セネバナラヌ,豆科植物以外ハ空中ニ多量ニアルNヲ固定スル能力ハ持タナイカラ肥料ノ形デ根毛ヨリ吸収サセナケレバナラナイ11)
 全く同じ問題を,3年後の1953年5月に,栃木県下某市の農村地帯の,かなり熱心な農事研究会員に対して出してみた。さすがにだいぶ上出来であったが,それでも“必要だから必要だ”式の答が41人中26人もあった。また消化不良症を示すものが9例あった。

1)戦後の肥料不足の状況のもとで,爆発的に流行したインチキ農法の一種。
2)やはり肥料不足時代には,実に多様なインチキ肥料が横行した。群馬県農業試験場の塩谷正邦技官が毎日新聞社で発行していた月刊誌『農政評論』に発表したデータを,『通信農民講座2』(農山漁村文化協会1949年1月刊)に私がグラフ化して採っている。それによると,成分含量の検査をした全点数のうち規定どおりの成分含量があったのは10%,肥料分はあるが規定含量に達してないもの26%,全く肥料分のないもの60%,有害成分をふくむもの4%という,おどろくべき状況であった。(23ページ)
3)浪江 虔『科学技術に依る民衆教育の確立」(『教育と社会」第4巻第11号1949年11月22,23ページ)この論文の題は,雑誌編集部が筆者に無断で改悪したものであって,正しい題は「うちたてよう民衆教育の科学と技術を」であった。
4)下肥という言葉は,人によっては生のままの人糞尿にふろの捨て水などをまぜたものと解しており,実をいうとあいまいである。言葉としては人糞尿よりはるかにいいので,これを使うが,出題のときはうすめないもので考えるよう示唆した。
5)浪江 虔『誰にもわかる土と肥料』農山漁村文化協会,1962年1月,212-14ページ。
6)もっと前から厚生省が5槽式または3槽式の改良便槽の普及を図っていた。排泄された糞尿が,障壁をくぐったり乗りこえたりした後,汲みとられる方式で,これなら生きた寄生虫卵は汲みとられることがない。しかしこの方式は衛生的に安全を期すると肥料として値打ものの窒素分の損失が大きくなるという欠陥が内在していた。糞尿分離式にはこういう理論的矛盾はない。なお,この便所の話を各地でしているうち,興味深い体験談をきかされた。兵士として中国に行ったある人が,20世紀初頭にドイツ軍が作った青島の兵舎で一時暮した。その兵舎の便器は中央にガラス板があって,便器が前後半分ずつに区切られており,糞尿が別々にたまるしかけになっていたという。児玉氏の考案より半世紀も前に,ドイツ人はちゃんと考え出していたわけである。
7)人尿に過燐酸石灰を少量まぜておくと窒素の損失が防げるうえ,人尿に僅かしか含まれていない燐酸分を補うという効果がある。
8)浪江虔『農村教育の砂漠』長野県農村文化協会,1954年2月,13ページ(原典は秘してある)。
9)4Hとは,次の4語がみなHで始まるところからきている。Head・Hand・Heart・Health。アメリカに範をとった戦後の農業改良普及事業において,これの育成が重視された。数多く作られたが自主性自発性が十分でないものが多い。
10)正否いろいろの回答を用意して,マークをつけさせるテスト方法を,私はほとんど使ったことがない。自分がつかみたいと思っていることにあまり役立たないと感じていたからである。この場合はもちろんこの方法を最適と思って使った。
11)この“試験”についての記録は下記からとった。
浪江虔「部落でやったテストから」(『教育』第2巻第9号1952年9月)60-61ページ。
浪江虔『農村教育の砂漠』長野県農村文化協会,1954,24-30ページ。
Ⅴ 私の農業技術書著作のしかた

 1 農業常識調べでつかんだこと
 以上のべてきたような農民の農業常識調べを総合的に吟味することによって,私はおよそ次のような結論に達した。
(a)(この当時の)生産農民は,農業生産に関する科学的知識を,ほとんど持っていない。しかも基礎的な科学常識に特に欠けている。物理学・化学・生物学などの最も初歩的かつ基本的な知識を持っていない。少しだけ例をあげると物質の不生不滅,生物の“自然発生”がありえないこと,とか,元素とはどういうもの,化合するとはどういうこと,植物のからだが育つとはどういうこと(とくに体内での変化,つまり細胞を頭において考えること)などである。
(b)このような基礎知識は,それ自体が大切な内容を持っていると同時に,他の様々な知識を消化する“消化液”でもあれば,個々の知識をまさにそれがあるべき所に整理し配置する“知識の整理棚”でもある。
(c)理づめで考えていく能力に欠けており,そうする習慣も身についていない。
 基礎知識がしっかりしていれば,おのずからそれを活用して,理づめで物を考えるようになる。そうする条件があまり乏しいので,理づめで考える習慣もできていない。
 常識調べをやっていた頃,次のような問題を出してみたことがある。
 Q 流れ星は,ふだん空に見えている星のどれかが流れるのか,それとも別のものか。
 これをやった回数は多くなかったし,記録も残っていないが,光っている星が流れると答える者がいつも何割かはいた。そう答えた者でも,少なくとも次のことは知っているはずである。
 ○地球上の一番近い天体は月である。
 ○地球上の大気は決して月まで届いていない。
 ○流れ星は,地球の大気中で,物体が空気の摩擦で高熱を発して光るのである。
 この三つを結びつければ,光っている星が落ちてくるのでないことだけは明らかなのだが,日頃理づめで物を考える習慣を身につけていないから,せっかく一応の基礎知識があっても活用できないのである。
(d)農業生産にたずさわっている関係で経験に即した知識は一応持っているが,
ナマの5官で知り得ることに,ほぼ限られている。持って生まれた5官の能力を補強することはほとんどない。顕微鏡はもちろんのこと,虫眼鏡さえもめったに使わないから,作物の病徴についての認識も不確実であり,病原体の正体については,もう全くお手上げである。
(e)このような状況のところへ,いろいろな“新知識”が持ちこまれてくる。だからたちまち消化不良を起こす。その事例は既にいくつも紹介してある。“微量要素”について新知識を仕入れたある農業熱心な青年が,3要素の重要性についてのそれまでの理解を,そっくり頭の中から追い出してしまった例を私は知っている。同じような事例はいくらでもある。また,関係のないことが結びつけられてしまう場合も少なくない。
 一口でいって知識の消化不良症である。
 かなり優秀な農民が,インチキ農法やインチキ肥料にひっかかるということは,しばしばあった。売りつける側は,知識の消化不良状況をうまく逆用するのである。
(f)上述のように多くの知的欠陥をもちながらも,農民はすでに何年となく農業生産にたずさわっており一応の成果はあげている。それは農業が基本的に自然力に依っているおかげである。しかし合理的でない考え方と,それと結びついた効果的でないやり方を改めることで,よりよい成果をあげ得る可能性は大きい。
 とはいえ特に研究心の盛んな人たちを除くと,自分のやり方を自ら吟味して,改めるべき点を見つけ出していくことはしないものである。だから多数の農民は,正しい考え方と誤った考え方が混在する状況のまま,毎年の作業を一応“大過なく”やっているわけである。そして自分では,ひと通りのことは心得ているつもりになっている。
 以上,(a)から(f)までにわけてのべてきたような状態にある農民に,働きかけていかなければならない。それが何らかの意味で農民教育にたずさわる者の共通の責務なのである。“責務だったのである”といっておいた方が穏当かもしれない。30年前にくらべて,生産農民の教育水準はかなり高まった。最近の状況については,私自身,何も実態調査をしていない。日本の学校教育の現状を思うと上述のような知識の状況が根本的に改められたと想像することは楽観的にすぎるような気もするが,いずれにせよ,私が農民の常識調べをしたのは30年前のことであり,その“無知とのたたかい”に精力を集中したのも,それからせいぜい10年ぐらいまでである。今のことについて責任をもって物を言う資格は私にはない。
 2 農業技術書を書くにあたっての私のねらい
 上述のような状況にある農民に対して,どのような教育活動が行われるべきか,それを一般論としてではなく,私自身の体験と結びつけて述べていくことにする。私は農民教育に関しては,いわばボランティアであって,本を書くことと,招かれて話をすることの二つの方法でこれにたずさわったにすぎない。話の方は形のあるものが何も残っていないし内容的には本とあまりちがいはないから,以下は主として私の書いた農業技術書を例にとって,農民教育の急所ともいうべきものを明らかにしようと思う。
 私が何よりも強く念願したことは,私の本の読者が,実用的なことがらをくみとりながらも,それだけに止まらないで,少しずつ基礎知識を身につけていくことであった。農民にとって本当に必要かつ有益な農業書は,それを読むことで基礎知識の土台ができ,考え方の訓練が行われ,知識の骨組みが次第にでき上っていくようなものであるべきだ,というのは,私の信念でもあり執念でもあった。そうかといってすでに生産活動に入ってしまっている農民が,物理学・化学・生物学などの基礎知識を順序立てて学習することなどできるわけはない。だから今すぐ役に立つような実用性の高い内容と巧みに結びつけながら基礎知識を少しずつ身につけてもらうという方法をとらざるを得ない。
 この場合,手法として効果的なのは,農民が現にその生産活動で行っている様々なやり方のうち,理にかなっている部分についてはそれを評価しながら,その行動が正当であるワケを明らかにすることである。これは反対の場合にもあてはまる手法で,合理的でないやり方については,それが“損”であることと,なぜそれがいいやり方でなく,そして損を招くかということを明らかにするのである。そして教育的効果からいえば,後者の方が大きいにきまっている。今やっていることを改めさせることにつながるからである。しかし前節(f)でのべたように,一応はこれでいいのだと思って何年もやってきていることを改めさせるのであるから,かなり手きびしい攻撃を加える必要がある。
 すでにのべたとおり,私の“常識調べ”は,初めのうちこそ私自身のために,つまり本当にわかり易い本を書くための,欠くべからざる資料あつめとして,行ったのであるが,やがてそれは,今のべた“攻撃”の意味をもつようになった。どういう思いちがいをしているかの見当は,前もっておよそ分っている。それを“思い知らせる”ような設問をして,かなり惨めな答を書かせる。そうしておいて話をすると,熱心に聴いてくれたものである。
 この手法をそのまま本にあてはめることはできないけれども,著述にあたっては可能なかぎりこの方式を織り込むようにつとめた。
 さて私は次のような“肥料の本”を書いている。発行はみな農山漁村文化協会である。(後の記述の便宜上ABC等をつけておく)
 A:誰にもわかる肥料の知識,1950年9月,8章156ページ
 B:改訂増補,誰にもわかる肥料の知識,1952年11月,13章262ページ
 C:誰にもわかる肥料の知識=31年改著,1956年11月,12章270ページ
 D:続 誰にもわかる肥料の知識=植物の栄養生理,1956年2月,11章251ページ
 E:同改訂版,1969年2月(小規模改訂)
 F:誰にもわかる土と肥料,1962年1月,土16章,肥料5章223ページ
 G:これからの自給肥料(塩島角次郎氏との共著)1951年4月,7章136ページ
 H:同上増補版,1952年8月,8章154ページ
 I:全化成肥料早わかり,1955年5月,216ページ
 A・B・Cは同じ本でありながら,かなり大がかりな改訂増補が行われている。Aは,その年の1月から月刊雑誌『農村文化』に連載したものに多少の手を加えて本にまとめたもので,連載中の評判からかなり売れそうだと予測はしたものの,不安材料も多くあって,当時経営的に非常な苦境にあった農文協の命運をかけるような気持で出版したのであった。内容的にも“快心の作”というには程遠かった。しかし非常な好評だったので,思い切って旧版を破棄し,大幅な増補をしたBを出したのである。
 全く新しい章として“イモチ作りはよしましょう=チッソのやりすぎと作物の生理=”と“これは尿素の専売特許=葉かけ肥のリクツと実際=”をまず加えたが,これは“りくつ”に重点をおいた章である。それと,初版では全く扱ってなかった化成肥料と固形肥料にそれぞれ1章をあて,また章を分割して詳しくしたりもした。実用的な内容と基礎知識とを結びつけてのべるという点では,この版が一番はっきりしている。
 しかしその後,植物生理に関する1冊の本Dを書いたので,Cの版では“りくつ”部分がやや減っている。つまり章にまとめて扱うことはせず,注をたくさん入れたり,話題として挿入したりする方法にした。この時の改著で特に努力したのは,章ごとに要点をまとめて読者の理解を一層確実なものにすることであった。
 こんなわけで,以下は主としてBを材料として,“農民のための農業技術書”のあり方をのべていくことにする。
 3 『誰にもわかる肥料の知識』はどのように書かれているか
 実用的な農業書では,通読する読み方の他に,必要に応じて一部分を読む読み方が当然行われる。専門書の場合だと読者は索引で必要な個所を探し出すわけだが,索引の活用に不馴れな多くの読者のことを考えると,索引をつけるよりも,目次を詳しくして索引的に使えるようにした方が,はるかに親切である。そこで私は詳しい目次をつけることにしている。しかもこの『誰にもわかる肥料の知識』は初版の時から“小見出し”に一連番号をつけた。Aでは119まで,Bでは209まで,Cでは216まである。これは,ある個所で,他の個所に言及するときに非常に便利であり,読者にも好都合であると思う。そこでその番号も省かずに,まず目次全体をここに採録する。
 改訂増補 誰にもわかる肥料の知識 目次(1952年11月初版,56年8月までに11版)
第1章 にげるチッソをにがさぬ知識
 第1節 アンモニアの空中脱走
 1 コエタメにあるはきたない水ばかり
 2 空にこやしをまく人もある
 3 失恋の悲しい旅路をアンモニアはゆく
 第2節 硝酸のかけおち
 4 心ウキウキ硝酸娘
 5 風と共に去り雨と共にゆく
 第3節 忍術つかって消えうせるチッソ肥料=全層施肥はなぜ必要か=
 6 手のこんだ脱走計画
 7 フタとミのある田の土
 8 知っておきたい科学常識,酸化と還元
 9 失われた青春!還元は還元でも元のからだにはもどらない
 10 アンモニア監禁術―ふか層(全層施肥)
 第4節 微生物のいたずら
 11 まかり出ました人形つかい
 12 細菌の経営する硝酸工場
 13 サンソ嫌いのサンソどろぼう
第5節 チッソ争奪戦=チッソ飢餓のこと=
14 恩しゅうの彼方に
15 そのチッソちょっと拝借
第2章 イモチ作りはよしましょう=チッソのやりすぎと作物の生理=
 第1節 チッソ肥料はなぜ必要か
 16 危険信号の色は赤とはかぎらない
 17 お光さまと大差がない
 18 おそろしいのは知識の消化不良症
 19 チッソ肥料はなぜ必要か
 第2節 細胞の正体
 20 細胞の働きを忘れては動植物の生活は全くわからない
 21 細胞のしくみ
 22 植物細胞はこうして大きくなる
 第3節 チッソのやりすぎはこれだからこわい
 23 チッソはタンパク質の重要成分
 24 すぎたるは及ばざるがごとし
第3章 カリのねうちも知らないで,増産できようはずがない
 第1節 せめて一度はおえらい人に刈らしてみたい倒れイネ
 25 なぜイネが倒れるのか
 26 バカにされていたカリ肥料
 27 作物のすいとるカリはずいぶん多い
 28 三要素試験のウソとマコト
 29 農民諸君 だまされてはいけない
 30 カリは明らかに不足している
 31 ムギにあらわれるカリ不足は
 32 イネではどうか
 33 マメやイモはもっとひどい
 第2節 カリの働きの話とカリをかり出す話
 34 茎こえであって茎こえでないもの
 35 カリはエンの下の力もち
 36 水に浮き,水を燃やす金属
 37 カリは自然界にたくさんある
 38 海の中のカリはどこからくるか
 39 自然の恵み,地下の大肥料倉庫
 40 荒野を緑の野にかえる 魔法使も及ばない力
 41 カリ不足より認識不足の方が問題
第4章 狩野抜作さんが刈尾保さんになる話=つけたり 各種カリ肥料の使い方=
 第1節 一番大事なカリ肥料は?
 42 これはこれは思いのほか
 43 カリ肥料としての堆廐肥のねうち
 44 値ぶみをしても
 45 認識不足もはなはだしい
 第2節 あなたは堆肥のつもりでいても調べて見ればゴミの山
 46 やはり大事なにげ道ふさぎ
 47 水とかけおちするカリの量
 48 とけない形に変ること
 49 堆肥のつもりがゴミの山
 50 カリは茎や葉からもかけおちする
 51 ひと雨あたるとほとんどヌケガラ
 第3節 堆肥原料のカリ成分
 52 堆肥の原料にはカリがどれだけ含まれているか
 53 数字のとり扱いに気をつけよう
 54 さりとて無用の長物ではない
 55 海藻は大事なカリ資源
 56 家畜の腹を通したら
 57 抜作さんか保さんか
 第4節 各種のカリ肥料の使い方
 58 塩化加里の性質と使い方
 59 硫酸加里の性質と使い方
 60 そのほかのカリ肥料
 61 灰にはピンからキリまである
 62 灰はどれくらいやったらいいか
 63 使う上の注意は
第5章 リンサン上手に使いたければ これだけはぜひ知っとこう
 第1節 リンサンと作物のいのち
 64 リンサンは実肥か?
 65 リンサンが足りないと
 66 発芽すると消え失せるフィチン態リンサン
 67 フィチン態リンサンの働きどきは?
 68 リンサンはどんな働きをするか
 69 知っておきたい細胞分裂の話
 70 すべての生物の生長は細胞分裂あればこそ
 71 核こそ細胞の生命と生活の中心
 72 複雑きわまる核の分裂
 73 分裂は細胞一生の最大事件である
 74 リンサンは細胞分裂の立役者
 第2節 土と根とリンサンの三角関係
 75 リンサンはどこへズラかったのか
 76 燈台もと暗し
 77 花嫁のおリンちゃんを横取りするもの
 78 土のリンサン吸収力をお忘れないように
 79 どういう場合に吸収力が強いか
 第3節 リンサン貯金の払い戻し
 80 リンサン貯金は相当にできてる
 81 ほっといても少しは払い戻してくれる
 82 酸性を弱くすること
 83 堆肥をたくさんやろう
 84 乾土と焼土
 85 水をたたえること
 第4節 上手な使いこなしのあらまし
 86 リンサン肥料はこう使えばよく効く
第6章 田畑に硫酸たくさんまいて,秋おちだ酸性だとコボすバカ=新肥料がなぜよいか=
 第1節 正気のサタか
 87 290万トンの硫酸を国中の田畑にまく話
 88 お百姓さん知らぬがほとけ 田畑はどんどん悪くなる
 第2節 土の酸性に賛成?
 89 ドロボウに追い銭
 90 ピーエッチPHとはいったい何か
 91 土を酸性化する肥料
 92 石灰を補えば取返しはつく
 第3節 秋落ち田では使ってならぬ 硫安・硫加・過燐酸
 93 秋おち田に硫酸きちがいに刃物
第7章 うまく使えば一石三鳥石灰チッソのすばらしさ
 第1節 私の素性
 94 私は誰でしょう
 95 ヤッカイチッソとはあんまりな
 96 私の生い立ちの記
 第2節 私の特技
 97 七変化とまではいかないけれど
 98 毒はまた薬である
 第3節 こう扱ってくだされば,張り切って働きます
 99 変化をうながすものと変化をさまたげるもの
 100 ききめコンクールなら硫安にまけぬ
 101 このように使っていただければ本望
 102 まぜあわせにはよほどご注意
 第4節 これは使いよい粒状石灰窒素
 103 チットも飛ばない石灰窒素がある
第8章 進んだ農家が好んで使う 硫酸ふくまぬ新肥料(1)=尿素の特性と使い方=
 第1節 その正体
 104 小便の結晶ではない
 105 小便中の尿素とは,けれどもやっぱり同じもの
 第2節 その特性
 106 硫安1本ヤリはこんなにおそろしい
 107 湿気にはあまり強くない
 108 土の中の水にとけてからは?
 109 硫安みたいに あとは野となれ山となれではない
 第3節 その使い方
 110 湿気を防ぐ注意が大切
 111 雨に洗い流させないこと
 112 私は毒ではないつもり
 113 濃すぎると害がある
 114 やりすぎとムラが禁物
 115 まぜあわせたらすぐ施す
 116 ききめは速効生
第9章 これは尿素の専売特許=葉かけ肥のリクツと実際=
 第1節 まず知ってください 葉の働き
 117 葉っぱこそは植物のご本尊
 118 葉っぱ工場のしくみのあらまし
 119 天下一品 草木の緑
 120 葉緑素の正体は
 121 葉っぱではタンパク質も作られる
 122 チッソ輸送の近道がみつかった
 第2節 葉かけ肥はどんなききめがあるか
 123 これくらい早くきく肥料はない
 124 穂肥にはもってこい
 125 霜や嵐のあとの回復には一番いい
 126 タンパク質の量をふやす
 127 根の働きのにぶった時
 128 薬といっしょに肥料がやれる
 第3節 実行する場合の注意
 129 まず実験してみて経験をつむこと
 130 濃さはどれくらいがよいか
 131 分不相応の期待をかけられてはこまる
 132 葉かけ肥のやり方一覧表(作物別)
第10章 進んだ農家が好んで使う 硫酸ふくまぬ新肥料(2)=硝安と塩安の使いこなし=
 第1節 硝安の特性と上手な使い方
 133 硫酸排斥野党連合
 134 ききめの早さ天下一品
 135 悪い成分など何一つない
 136 やりすぎご用心
 137 田の土は大そうニガ手
 138 穂肥になら田でも使えぬことはない
 139 畑でも逃げ足は早い方
 140 まだある逃げみち
 141 湿気の誘惑にトロリと参る
 142 爆発のおそれも少しはある
 第2節 塩安の特性と上手な使い方
 143 この野党 少し与党かぶれか
 144 ソーダ工業の副産物として
 145 秋おち田での効果
 146 センイ作物とは一番のあい性
 147 ふつうの作物の茎を強くする
 148 タバコの火つきをわるくする
 149 イモ類や砂糖作物にもよくない
 150 土の酸性化に気をつけよう
 151 まぜあわせと取扱いに注意
第11章 進んだ農家が好んで使う 硫酸ふくまぬ新肥料(3)=新しいリンサン肥料の話=
 第1節 素性は同じ鳥の糞でも 性質は過燐酸と大ちがい
 152 リンサン肥料のニューフェイス
 153 原料は別に変らない
 第2節 リンサン七変化
 154 一番自然な姿はリンサン三石灰
 155 水にとける形のリンサンー石灰
 156 弱い酸にならよくとけるリンサン二石灰と四石灰
 157 もう一つのすがた
 158 植物性のリンサン
 159 骨の中にある動物質リンサン
 第3節 熔成燐肥の性質と使い方
 160 現代科学の生んだ熔成苦土燐肥
 161 そのききめはごらんのとおり
 162 イネにやるにはどうするか
 163 ムギにやるにはどうするか
 164 クワやその他の作物には
 第4節 おも立ったリンサン肥料の性質と使い方
 165 悪口いってはみたものの,やはり過燐酸は横綱格
 166 名前は似てても硫酸のケもない重過燐酸石灰
 167 廃物から生じた宝物トーマス燐肥
 168 ハイパーホスとはどんなもの
 169 日本人の発明した新肥料の焼成燐肥
 170 秋おち田やリン欠の畑ではぜひ新しいリンサン肥料を
 171 枸溶性リンサン肥料は必ず元肥に使うこと
第12章 アバタはアバタ,エクボはエクボ=化成肥料の性質・使い方・損のない買い方=
 第1節 化成肥料とはどんなものか
 172 舞台に上った化成肥料
 173 化成肥料の仲間入りの条件は
 174 うなぎのぼりの使用量
 第2節 作り方と性質のいろいろ
 175 種類はやたらに多いけど,製法はそう多くない
 176 どんな原料がつかわれるか
 177 千代田化成は高級品(高成分)
 178 燐硝安は日本で産声
 179 ダイヤエヌ・あずま・かみしま・真珠・国益・帝国などの作り方
 180 トモエ・日の本・公益・宝田など
 181 みずほ・つかさ・にしきなど
 182 ホスユリアン・日東尿素・ホスカアン2号など
 183 アルカリ性配合肥料の軍配肥料,完成配合
 第3節 化成肥料の特色
 184 肥もちのよい化成肥料
 185 成分の組みあわせができてしまっている
 186 しけにくいのが多い
 187 ふくまれる硫酸の害
 188 単肥配合とのききめくらべ
 189 堆厩肥を補うことが大切
 190 他の肥料とのまぜあわせ
 第4節 高いか安いかを調べよう
 191 計算するのはワケはない
 192 カンではわからない,カンジョウでいこう
 193 ねだんの計算にあたっての約束
 194 まず3要素の貫当り標準値段を出そう
 195 標準値段で値ぶみする
 196 実際の計算は現地の相場で
第13章 悪条件の田畑でも,これなら増収うたがいない=固形肥料の特色と使い方=
 第1節 固形肥料が作られたイキサツ
 197 全層施肥はどこでもできるとはかぎらない
 198 実用にならぬ硫安ダンゴ
 199 泥炭で成功
 200 畑用のも作られた
 第2節 固形肥料の性質とききめ
 201 ふくまれる成分は
 202 チッソのムダは固形肥料が最少
 203 増収はたしか
 204 鉱毒地の農家には耳よりなはなし
 第3節 固形肥料の使い方
 205 いつ施すのがよいか
 206 どこに施すか
 207 根つけ肥は必ずやろう
 208 追肥をやるやらないは,イネと相談して
 209 魚肥・油カスよりも固形肥料の方がトク
 章の題節の題小見出しのいずれも,その中身がおよそ推察できるようにつけてあるので,あまり説明しないでいいように思うが,さきにのべた,りくつにあわない損なやり方への攻撃,いわゆる“衝撃療法”は,全巻を通じて,くり返しくり返し行われている。この本の最も著しい特色はこれである。その中から1ヵ所だけ引用してみる。
 64 リンサンは実肥か? “リンサンは実肥”……これは常識ですね。調べてみてもたしかに,リンサンは実の中に多くふくまれている。いろいろの植物で,種と,茎や葉とのリンサン含有率をくらべてみると,種の方が2~3倍から5~6倍といった濃さでリンサンを含んでいるのです。
 農家の経験からいっても,実取りの作物では,リンサンのききめはテキメンです。(中略)
畑ではリンサンをやるやらないで,実取りの作物の出来ばえは大ちがいです。
 けれども,このことから,リンサンは実だけに必要なのだ,と思ったら,それはとんでもない話。実だけにとは思わぬまでも,実以外の部分にはあまり大切ではあるまいぐらいに思っている人は,どうも少なくないようです。これでは作物が泣きます。
 “これでは作物が泣きます”で“これは大変”と覚らせるのである。
 実用的内容と基礎的知識とを結びつけてのべることも,全編を通じてできるかぎり採用した。小見出しを詳しく見れば大体わかると思うが,それでは推察できない部分もある。全体にわたってつけた63もの注の半分ほどはかなり立ち入った基礎知識なのである。たとえば小見出し1の中の注2では,気体の分子というものがいかに身軽に動きまわるものであるかについて,オナラまで引き合いに出して1ページ半にわたってのべている。以下少し列挙すると,小見出し4,注6・7では土のコロイドと土中の肥料成分について1ページ,小見出し8の注10では気体分子が水にとけることについて1ページ,小見出し87の注24では硫酸の総生産量とそのうち肥料製造にまわされる分の異常に多いことを示すグラフつきの1ページ,小見出し90の注26ではスイソイオンの濃度についての詳しい説明で1ページ半(これを読まなくても一応わかるように,簡略な説明と2本立て),小見出し93の注28では硫化水素の生成と害作用に関するマンガ的さし絵つきの2ページ,小見出し120の注42では葉緑素の分子構造まで示した1ページ――などである。
 読者が覚えやすいようにという点にも苦心した。あまり上品でない言いまわし,擬人法などは,読み易さよりは覚え易さをねらったものである。アンモニア態のチッソは土の粒子によくすいつけられ,硝酸態のそれは雨水などに流され易いということを一旦覚えても,しばらくするとどっちがどっちだか分らなくなるものである。“心ウキウキ硝酸娘”と覚えればもう大丈夫である。
 4 病害防除の本での私の試み
 作物の病気はその原因(病原体)のほとんどが,ナマの5官で認めることのできないものなので,農民にとっては非常な難物である。病害防除しなければよい生産はあげられないから,薬かけはせっせとやるのがふつうだ。そしてそれは“防除暦”などに記されたように実施している。この作業をする上では,病原体についての正しい知識は必ずしも必要ではない。しかし作業をする以上は“敵”の正体を知っていた方がいいにきまっているし,知らないために思わぬ所で手ぬかりすることもある。
 病害防除の本は当時でも何冊も書かれていたが,私の目で見て,これは農民向きと思えるようなのは全くなかった。“敵”の正体を分らせるための格別の工夫がしてないのである。もちろん病原体の顕微鏡写真なり写生図なりはたくさん出ている。しかし農民のナマの5官で知っている病徴と,拡大された病原体とが,どこでどうつながっているのかの説明がないのだ。それがある場合でも,微生物についての相当の基礎知識がなければわからない書き方なのである。
 この欠落を補うような本を,私自身書かなければなるまいという気が次第に強まってきて,ついに野菜の病気の権威者である滝元清透氏と共著で出すことにし,次の本ができた。
 『これで防げる野菜の病気』農山漁村文化協会,1953年11月,(なお1957年8月に改訂増補版を作った。)
 滝元氏の書いた専門書を,できるだけ農民向きに私が書き直し,それに誤りがあれば滝元氏が直す,というのが,この本の共著のし方であった。総ページ数の10分の1ぐらいの“前編病気を防ぐ基礎知識”は,必ずしも滝元氏のものだけでなく,理科事典なども大いに活用して,かなり自由自在に私自身の発想で書いた。もちろん滝元氏の校訂は行われた。
 この部分の節と小見出しを記すと次のとおりである。
第1節 まず知ろう カビの正体
 病気防ぎの近道はここに
 こんな小さい種もある
 カビはどうして生えるか
 カビとキノコは親類同士
 敵ながらあっぱれ
 戦術では人間に歩がある
第2節カビの戦術のいろいろ
 おどろきいった胞子海戦術
 長距離飛行自由自在
 落下サン部隊来襲
 てっとり早い根の出し方
 カビの戦術は空気伝染だけではない
第3節 病菌の生活にある いくつかの難所
 冬こしの苦労
 病菌の侵入には色々な条件がいる
 作物の方にも防ぐしくみはある
第4節 細菌の侵入戦術
 細菌も一役買ってる野菜の病気
 単純な生活とすごいふえ方
 雨風とともに
 モグラ戦術
 種にくっついて
第5節 戦術のちがう敵、バイラス
 ケンビ鏡でも決して見えぬ
 バイラスの性質
 バイラスはどうしてうつるか
 アブラムシはバイラスの同盟軍
 自分の手に気をつけよう
 バイラスの伝染を防ぐ急所
第6節 病気にやられない作り方
 病菌だけが原因というわけではない
 強い品種を選ぼう
 輪作について
 害のひどい時期をさける
 畑はきれいに,病株処分は早く
 この中から一部をとって,どのような書き方をしているかを示しておく。
 こんな小さい種もある
 タバコの種はとても小さい。目方でいうと米粒のおよそ300分の1しかない。ところがこんな小さいタバコの種も,とてもくらべものにならないほど,おそろしく小さい種がある。長さも太さも,タバコの種の20~30分の1見当だから,かりにタバコの種の中へつめこんでみると,何千粒もはいる計算になる。こんなチビ助だから,なかなか目に見えない。
 そんな種がほんとにあるだろうか。あるとすれば,いったい何の種だろう。そんな小さい種で,種としての役目が果せるのだろうか。
 たしかにある。しかもちゃんと種としての働きをもっている。このチビ助の種のために,実は私たち日本中の農民が,さんざんに悩まされているのだ。
 もうおわかりと思うが,大事な作物の病気をひきおこすわるものが,この種なのだ。病菌の胞子とよばれている奴だ。
 もっとも作物の病気には,この“胞子”とはちがうわるもの(・・・・)のために起るのもある。けれども病気の7割方はこの“胞子”といわれる小さい種によって起るものだ。これが作物の葉や茎にとりついて,そこで根を出すことから,病気は起る。だから私たちはまず第1に,この胞子の正体や性質をよくよく見きわめなければならない。
 これを知らずにいて,作物の病気を防ごうというのは,加持祈濤でチフスや赤痢をなおそうとするのと似たりよったりで,現代農民のなすべきことではない。
 カビはどうしてはえるか
 モチなどのカビの生えたのをちょっと乾かしてポンとたたけば,パッと粉がとぶ。とび散った粉はたちまち見えなくなってしまうが,もちろん粉の一つ一つは決してなくなってしまうわけではない。ごく軽いやつだからそよ風にのって遠くまでとんでいく。やがてどこかへたどりつく。何万というドエライ数の粉がとび立ったのだから,その中には運よくお気に入りの場所に着陸する奴もある。お気に入りの場所というのは,養分と適当なしめりけをもった場所だ。たとえばモチとしよう。この粉がモチにとりつくとまもなく根を出してモチの中にわりこみどんどん養分をすいとりながらさかんに根を張る。そして根の所々からモチの表面をつきぬけて外へ枝のようなものを出す。カビから見れば堂々たる枝かも知れないが,人間の目からみると,まことにかぼそいニコ毛だ。この毛の先に玉ができる。これが前に飛びちった粉と同じもの,とびちった粉の子にあたるわけだ。
 この粉が,カビの胞子である。胞子は“種”の役目を果すものだ。
 ところで,作物の病気も,多くはカビの仲間によってひき起される。イモチ病・サビ病・ベト病・疫病・タンソ病・菌核病等々,ありふれた病気のモトは,多くはカビの仲間である。(カビという言葉を広い意味に使って,これらをみな“カビ”と呼ぶことにする。この本でカビというのは,私たちが日常使うカビという言葉より広い意味をもっている。)
(本ではここにトウガラシのタンソ病の病斑の一つを250倍に拡大した図をのせてある。その説明は“針の先ぐらいの黒点をタテに切ってみる”としてある。)

5 ⅣとⅤむすび
 Ⅳでのべた“農業常識調べ”とⅤに記した著作活動とは,表裏一体である。そしてこれは1948年からおよそ15年間の私の最も重要な仕事であった。本当ならもっと早く,責任ある機関が組織的に調査し,対処すべき重大事業なのに,それが全くなされていなかったのである。
 私個人と,当時はまだ極めて弱体であった農山漁村文化協会との協同作業のような形でこの仕事は遂行されたが,幸にしてかなりの成果をあげることができたと思っている。
 農民にとってわかりよくて役に立つ本の出版は,1950年代の終りごろまでには,ほぼ軌道にのったといえるだろう。多くの学者・研究者がわかりよく書く能力を身につけたし,農民の方の読む力も高まってきた。
 私がこの問題ととりくんでいた当時は,農民向けの農業雑誌(全国誌も県単位誌もあったが)には,おそろしくむずかしい論文がのさばっていたものである。私は『農村教育の砂漠』の「第2章これでは砂漠はなくならない」の「第1節チンプンカンプンの農業雑誌」の中で,とくに悪い例を10ほどあげて徹底的に批判した。これが効いたかどうかは,たしかめる術もないが,読者に丸っきりわからないような論文は,その後かなり急速に農民向け農業雑誌からは姿を消していったようである。

Ⅳ 生活にかかわる常識の実態
 これまでは主として,農業生産にかかわる農民の常識についてのべてきた。しかし同じような事情が農民の日常生活の中にあるだろうことは,当然予測されるわけで,調べてみるとやはり予想通りであった。
 以下,それについてのべる。

1.わが子の歯の生え方も知らない
 私は武蔵高等学校尋常科(中学相当)3年のとき,人体生理について非常にいい教育を受けた。先生は和田八重造氏で,本当の科学教育家であった。中でも歯について教わったことは,その後常に私の実生活に役立っている。要点をのべると,次のようである。
人間のからだはどこも健康状態をとりもどす力をもっているが,歯の表面だけは例外で,なおる力がない。
 第1大臼歯は,ものをかむ上で最も大切なものであるが,早くから生えるので,虫歯になりやすい。一生使わなければならない歯だから,悪くなりかけたら早目に歯医者にかかった方がよい。
 私は和田先生の教えを活かし,歯の治療はいつも早目にしているから,歯痛というものはほとんど知らないし,70歳になった今でも入歯はわずか2本で,26本はまだしっかりしている。クラウン・インレイは施してあるけれども,根は抜いてない。
 こういう教育が,本当の教育の一例であろう。幸いこういう教育を受けることができた私は,逆に,歯についての人々の常識が,そうひどいものとは思わずにいた。
 ところが八王子の奇特な歯科医,須田松兵衛氏と親しくなり,同氏が幼稚園を開いた動機をきかされて,驚いてしまった。須田氏の説はこうである。日本の母親は“6歳臼歯は永久歯”という一番だいじなことを知らないために,子供のこの歯がどんどん虫歯になっていく。どうしても子どもの6歳臼歯が生えるころの母親を再教育しなければならない。自分が歯科医でありながら,幼稚園を開いた目的の一つは,園児の母親の再教育にある。
 興味ふかい説であったが,6歳臼歯が永久歯だということに,母親たちがいかに無知であるかという点については,当時はよく知らなかった。
たしか1949年の秋,神奈川県の農村部にある中学のPTA総会に招かれ,“子供の教育と農村文化”について話すことを求められた。この時フト須田氏の話を思い出して,歯の生え方についてのテストをしてみたのである。
 問題は次のようにした。
 1 子供の歯(抜けてしまう歯)は何枚か
 2 永久歯はどれが最初に生えるか
 3 永久歯の奥歯は何歳ごろ生え始めるか
 もちろん永久歯についての説明は詳しくやった。
 得られた63枚の答をまず,問1について整理するとこうである。

表5 乳歯の本数についての母親の知識
 正解の20本は6人で1割弱,思いのほか多かったのが24本の28人(44.4%)であった。この中には,6歳臼歯を子どもの歯と思っている人も相当あったろうと思う。
 問2については,第1大臼歯であることが確実だったのは,5人の子をもつ母親ただ一人で(この時は子の人数を書かせた),ほぼわかっていそうなのが他に4人あっただけである。前歯と書いたのが30人いて,これは予想どおり。乳歯臼歯と感ちがいした者が5人,糸切歯が7人,意味不明9人,白紙7人であった。
 問3の答は表6(次ページ)のとおりである。
 これはもうデタラメというより他はない。
 この後,この試験問題は随分度々使った。2と3を合せて“最初に生える永久歯はどこに,何歳ごろ”と問うことにしてである。
 乳歯の数の正解は,ほとんど常に1割以下であったし,第2問の正解も同様であったから,2問とも正解は100人に1人いるかいないかだとわかり,しばしば私の著書を賞品として2問正解者にあげる約束をして試験したものである。ある時,中年婦人の正解者に賞品をあげたところ,あとでその人が以前,歯科医を開業していたときかされ,おどろいたこともあった。ふつうだったら賞品は辞退すべきだろう。
表6 永久歯の奥歯はいつ生え始めるか
 須田さんの所説“母親は6歯臼歯が永久歯ということを知らない”は,まさにその通りでめった。
 今,どうであるか私にはよく分らない。しかし今の“教育ママ”たちも,当時の農村のかあちゃんたちと,この点では大差ないのではあるまいかと私は思う。こういうかんじんなことをしっかり教え込むという教育は,今の日本には僅かしかないようだ。それともう一つ,われわれ日本人の生理衛生に関する知識の大半は,薬の広告宣伝に伴って入ってきているという事実がある。薬の売りつけに直接間接有効でないような知識は,それがいかに大切であっても,ほとんどとりあげられないというのが実態であろう。
 保母や幼稚園と小学校の教師たちにたいする,このことでの教育は,どのように行われているのであろうか。

2 生活常識に関する私の著作
 この分野での私の著作は,肥料とちがって至って乏しく,わずかに次の2冊があるにすぎない。
 『農村の恋愛と結婚』農山漁村文化協会 1956年1月
 『成功する家族計画』高口保明氏と共著 農山漁村文化協会,1957年11月
 『農村の恋愛と結婚』に関しては,次の節でのべる。
 『成功する家族計画』が,高口さんと私の共著になったのは,次のような経過をたどってのことである。
 戦後の日本では人工妊娠中絶が爆発的に流行しはじめた。農村にもどんどんひろがってきた。農山漁村文化協会でもこれを黙視することができなかったから,中絶でなく受胎調節で目的を達するように農民を,とくに婦人たちを,教育する仕事の一端を受けもとうと考え,いい著者をさがし求めた。ちょうど,神奈川県平塚保健所の所長であった高口保明氏が,非常にわかりよい話を管内農村各地でやっておられることを知り,1・2回それを傍聴させていただいた。そしてこの人なら農家のかあちゃんたちにもよくわかる本が書けるにちがいないと判断し,執筆をお願いしたのである。お願いするときも,“お話しなさる時の気持で”ということは念入りに申しあげておいた。
 書きあげられた原稿を見て,私はすっかり失望してしまった。言葉こそはわりあい分りよいけれども,発想が全く学者的なのである。いろいろ思いまどったあげく,私は高口さんの原稿を脇において,サラの原稿用紙に,全部書直してしまった。この頃までには,私の方はかなり経験を積んでいたし,本の中身については妻が助産婦で受胎調節実地指導員でもあったから,何とかやりとげられる自信はあった。完成してから,二通りの原稿を持っていって,高口さんと直接話しあい,結局私の書直した方を本にすることで完全な合意に達した。“共著”とすることもきまった。
 この時の私の書直しの重点は,主要な読者と想定される農家のかあちゃんたちが,ちゃんとわかるように,可能なかぎり話の運びを工夫することであった。
 具体的に例示すると,この本では当然女性の生殖器に関する正しい知識を持ってもらうことが先決なので,その解説の部分が初めの方にある。高口さんも,原稿用紙を前に置いたら,医学博士の方が前面に出てしまったとみえて,卵巣から説き起しているのである。読者は誰一人として自分の卵巣なんか見たこともさわったこともない。話がそこから始まったのでは,もう最初から雲か霞の中を歩かされるようなものである。
 この部分について,私は次のように書き直した。これは「夫のからだのしくみと働き」の次にくるものである。なお本ではかなりルビをふってあるが,ここでは省いた。
 妻のからだの妻のからだの方は,だいぶこみいっています。それは,夫の方がしくみと働き「種つくり」と種の送りとどけだけですむのに,妻の方は「種つくり」と,夫の種をうけ入れるしくみと,受精卵を10ヵ月かけて赤ちゃんまで育てあげるしくみとがいるからです。
 しかも妻のからだのだいじな部分(性器)は,ほとんどがおなかの中にはいっていますので,女の人自身,かんじんのことがよくわかっていない方が多いようです。これは,受胎調節の成功失敗に関係がふかいので,つぎの説明をしっかりよんでください。おなかの中のことですから,図をよくみて,自分のからだにひきくらべながらよむことが大切です。
 わかりやすいように,外から見えるところから話をはじめましょう。
 イ 入口とそのまわりこみいったしくみをもっている妻の性器の,ほんの入口だけが外からわかります。その入口を,左右からかこむようにしているのが,小陰唇と大陰唇です。左右の小陰唇が上の方であわさるあたりに,陰核という小さなものがありますが,これは,「感じ」の上で大切な役目をはたすものです。
 (以下は説明の部分を省略して,小見出しだけを並べておく。
 ロ 膣(ちつ) ハ 子宮 ニ 卵管 ホ 卵巣 ヘ 卵巣のはたらき ト 卵管のはたらき,卵子と精子のめぐりあい,子宮のはたらき
 話を「卵巣」からでなく,「入口とそのまわり」から始めなければ,よくわかる本にはならない。このような“話の運び”は,他のことがらにもひろくあてはまるはずである。

3 新しく,そして正常な結婚への道
(1)正しい知識は力である
 明治憲法下の日本では,妻は甚だしく無権利な状態におかれていた。それを特にはっきり示すのは,民法の次のような条文であった。
 第789条 妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ
 夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス
 第801条 夫ハ妻ノ財産ヲ管理ス
 第804条 日常ノ家事ニ付テハ妻ハ夫ノ代理人ト看倣ス
 夫ハ前項ノ代理権ノ全部又ハ一部ヲ否認スルコトヲ得
(このほかにもっとひどい条文,たとえば妻をほとんど準禁治産者なみに扱う第14条などもあった。)
 これらのほか,女には選挙権・被選挙権が全くなかったし,それを獲得しようとする運動も様々な干渉を受けた。
 したがって“戦後民主主義”が女性に与えたものは,男性に与えたものよりも一層貴重であった。“強くなったのは女と靴下”というジョークも生まれた。
 私は“戦後民主主義”をこの上なく貴重なものと考えると同時に,それを国民ひとりびとりが自分の努力でつかみ直すことによってそれに魂を入れることをしなければならないと考えた。しかしこういう行動を一般の人々が起こすのは,理屈や大義名分からではなくて“身につまされる”ことと結びついてである。
 こういう観点にたって考えると,憲法や民法の条文の上で男と対等になった女性が,その権利を少しでも現実化するために行動する最も有力な契機は,恋愛とそれにもとづく結婚であるといえる。それはまた男性が女性を対等の人間と考えるようになるためにも,最も有効な契機でもある。だから私は戦後間もなくから,農村の青年男女の間に,本当の愛情が芽生え育ち,それを結婚にまで進めていくことがひろがっていくことを期待し,その鼓舞激励にいろいろとつとめてきた。
 さきにあげた著書『農村の恋愛と結婚』はこのことをめぐっての何年にもわたる農村青年男女とのふれあいの経験を土台として書いたものである。そして信濃毎日新聞の書評で“これは愛情にもとづく結婚のための戦略戦術教科書である”という意味の評価をされた。私は全くそのつもりで書いたので,この評価をたいそう嬉しく思ったものである。
 戦後の日本農村の世相できわめて特徴的だったことの一つに,恋愛と結婚についての談義の大流行があった。青年団などの研究集会で,いくつかの分科会を設定して討議をしようとしても,どの分科会もみな,恋愛と結婚を論じることになってしまうような有様であった。
 しかし農村における結婚の現実は,憲法精神に即してどんどん変ってくるというような甘いものではなかった。前述の民法条文なども,実は日本の農家の現実をその背景としていたのであって,妻の人権の確立は,容易ならぬ大仕事なのである。それを自分のこととして取り組む勇気の源泉は“この人とでなければ”という強い愛情であり,そしてそれを結婚まで貫くことこそ,この場合の人権闘争の実践である。
 ところであちこちの農村で,青年男女とこの問題で話しあっているうちに,正しい知識に欠けていることが彼等にとって大きなマイナスになっていることがわかってきた。
 そこで,愛情にもとづく結婚に向けて,自信をもって前進していくことへの“つまづきの石”となるものをいくつかつかみ出し,啓蒙活動を精力的に展開したのである。
手法としては,やはり“常識試験”を主としたので,その主なものをのべることにする。
(2)遺伝する病気,しない病気
 青年団でかなり活発な活動をしている青年から,個人的に結婚問題の相談をもちかけられることは度々あった。ある時,“自分の親が,相手の女性は血統が悪いから
結婚を認めないと言っている。どうしたらいいだろう”という相談をうけた。“血統が悪い”というのは具体的には昔,親戚の誰かがらい病だったという程度であった。しかも似たような相談を2度,かなり接近して受けた。その時の対話で,青年団の幹部級でも,らい病が伝染病であって遺伝は決してしないということに確信をもてないという事実をつかんだ。このことから,いくつかの病気について“遺伝するかしないか”を問う常識調べをしようという発想が生まれた。設問は便宜上,次のように作った。
 Q 次の病気は遺伝しますかしませんか イ 結核,ロ らい病,ハ てんかん,ニばい毒
もちろんあまり正確な出題ではない。てんかんは症状から来た名称で,原因は一様ではない。しかしこの種の設問では許されるていどのものであろう。
 この試験はかなり多くの回数実施してみたが,大まかな正解率は結核が75%,らい病とてんかんが50%,ばい毒は25%であった。1回ごとの正解率も,少し人数が多くなれば,これから大きく外れることはなかった。
 ところでこの“正解率”を,このまま,たとえば“らい病は遺伝しない”と考えている者が二人に一人はいる,という風にみたら大まちがいである。“するか・しないか”どちらかを書かせるのだから,全く分っていない者が,でたらめに書けば,正解率は50%になるのである。だから正解率75%の結核でやっと,二人に一人はわかっているとみなせる。正解率25%のばい毒にいたっては,結核とちょうど反対で,二人に一人は遺伝すると思いちがえていると見なければならない。
 いずれにせよ,答のとり方がラフだから,この答からあまり重要な結論を引き出すことはすべきでないし,私もそうするつもりはない。むしろ試験をして考えさせ,これらの病気の原因についての正しい知識をもたせることが主眼であった。
 なお,ばい毒を遺伝病と思っている者が多かったのは,胎内感染と遺伝との区別がよくできないからである。生物学的に見て全く別のことであるばかりでなく,対策も全く別でなければならない胎内感染と遺伝の区別が,なかなかできないというのが実態であった。
 ところでもし,結婚の相手の“血統が悪い”ということで親から反対されたとき,遺伝病ではないと確信していたら,必ず親にわかってもらおうという決意が生まれるはずである。親が信頼しているお医者さんから話してもらおうというような知恵も働くことだろう。自分自身の知識があやふやで,親の方が誤った考え方を信じこんでいたのでは,とても勝味はない。
(3)婚姻届には誰と誰のハンが必要か
 これも,愛情にもとづく結婚に対する障害とたたかうためのだいじな知識である。二人とも成人に達していれば(あるいは成人に達するまでがんばれば),親の承諾なしにちゃんと届が出せるのだ,そしてそれは正式に受理され,二人だけの新戸籍簿が作られるのだと知っていて,親にわかってもらう努力を重ねるのと,はっきりした見通しを持つことができずに親の承諾を乞うのとでは,天地の差がある。この問題もずいぶん度々使ったが,実態を調べるのが目的ではなくて,婚姻届の説明を本気できく気持を起こさせるためであったから,正確な記録は残っていない。
 記憶にもとづいていうと,これもやはり正解はごく少ない。“当事者二人と証人二人”が正解で,これはほとんど出ない。“証人”でなくて“保証人”というのは,わりあい多く出るので,準正解ぐらいの扱いをするが,事柄は保証ではなくて証明であるから,これはずいぶん甘い措置である。親・戸主などを書くのはかなりあり,市町村長などというのも時たまあった。
(4)憲法24条の中身を知っているか
 結婚に関する基本的な考え方は,憲法第24条に明確に示されている。これを自分の血肉にすることは,何より大切である。そこで上記のような,“戦術的”な知識とあわせて,あるいは単独に,憲法第24条についての試験をかなりしばしば行った。
出し方は大体次のようにした。
 Q 憲法第24条には,新しい結婚のあり方が,どういうものであるかについて,一番土台になることが書いてあります。それはどういうことでしょう。
 なお説明を加えて,こまかいことは他の法律できめている,憲法は土台になることだけ書いているのだから,条文をよんだことがなくても,考えれば大体近い答が書けるはずだ,条文の文章などでなく,中身だけでよいといって書かせた。
 1950年8月に,群馬県下全体の4Hクラブ女子指導者講習会で得られた答23のうち,旧制高等女学校,実科女学校,農学校等の卒業者8人の中から4人分をまず紹介する。
イ 婚姻は神聖にしておかすべからず
 婚姻は夫婦を対照(象)として行ふ
 夫は妻の権利を認め,妻は夫の権利を認める
ロ 結婚は同(両)性の同意のもとに行はれるべきであること
 男子は万(満)25才以下
 女子は万(満)22才以下
 は親の同意を得ること
 き婚者はすべて成人とみなされる
ハ 一.男女のけつ合によって生活する
 二.シソンの為に立派な子供をそだてる
 三.自分の意志により結婚する事が出来る
 ただし責任は自分で負ふ
ニ お互の意志尊重
 次に高等小学・新制中学,青年学校等の卒業者15人の中から8人の答
ホ 両性の合意
ヘ 正しい,まじめに
ト 女子―16 男子満18才以上は両方の父母のかんりはいらない
 以下の方かんりが必要である
チ 男は満16才
 女は満18才
リ 人生の幸福をもとめる事
 人間で有る以上人並の事
 どこまでも男女共貞操を守る事
ヌ 自由
 見合
ル 結婚は幸福のものである
ヲ 婚姻は両性の合意の下に行われる
 但し18才未満の者は親の承認を要する
 県下各4Hクラブから1名だけ選んで集めた“指導者講習会”としては,あまりいい結果ではなかった。
 同じ問題を何回も出しているが,村単位で行ったものは地域差が大きかった。その原因はおそらくこの問題に関して何等かの教育活動が行われたところと,そうでないところとのちがいであろう。
 同じ1950年8月に千葉県のある村の公民館の夏季大学で行ったものでは,次のようであった。男性10人と女性3人の回答があるが,男性の5人と女性全員とを紹介する。
ワ 成年者は自己の意志に依って婚姻(但し未成年者は両親の同意ヲ得る事が必要である)を為す事を得
カ 婚姻は男女両性の意志に依って成立する
ヨ 男満18才女満16才以上の人は両性の合意の上で結婚できる。
タ 結婚は自由意志により男女両性の誰れにはばかる事なきに自由に出来る
レ 婚姻は満20才以上は自由
 満20才以下は保護者・立あい人がいる
 以上が男性で,以下は女性である。
ソ 男女いっしょになる
ツ 憲法24条は知りませんが,婚姻とは男と女が結ばれることで,相(双)方理解し合力て(協力して)夫婦になることです
ネ 婚姻とはお互に正しい性を行ひ平和日本さいけんのため
 なお男性で白紙を出した者が3人いた。
 同じく1950年8月に,静岡県のある村の青年団主催の講演会のさいに行ったもの。男性9人,女性13人の答が記録してあるが,その中から男5人女7人のをのせる。
ナ 婚姻は両性合意にのみ成立する
 結婚後は自分達の籍が親達から分離して一家を独立させることができる
ラ 男女満20才に達すれば,法的に結婚を認められる
 相互間の合意に基き自由に結婚する事出来る
ム 同人の意志にて可
 18才以下親権者の同意を受け
ウ 一.両性の合意にもとずく事
 二.イ 同とうのけんり
 ロ 未成年者にかぎり親の(許)可あるべし
 三.三親統(等)内の血ぞくはいけない
ヰ 一.男女20才にして結婚の自由をみとめる
 二.三親トウ内の結婚を許るさず
 以上が男性で,以下が女性である。
ノ 婚姻は満18才から当人どうしの意志により親から強制されるべきものではない
オ 男子20才以上,女子17才以上なるものは親の意志なくとも本人同志(士)の意志により結婚する事が出来る
 離婚の場合には理由によっては財産の分配と云ふ事もある
ク一.結婚は本人同志(士)の意志を主体とする
 二.やむなくして離婚した場合,平等に財産を分けて戴ける,小(子)供の成長する迄の生活費を請求出来る
三.満で女は17才,男は19才より結婚出来る
ヤ 一.両性共成人に達した場合は自由な結婚が出来る
 二.結婚してからも,夫,妻どちらでも好きな性(姓)を名乗れる
マ 18才以上は両親の許しがあれば結婚はす。20才以上になれば,両親の承諾なくしても結婚することが出来る
ケ 男は満20才女は満18才にて,結婚を許可する
フ 健康診だんしょうの交かん
(5)飯能市に生まれた憲法24条会のすばらしい活動
 私が各地で行ったこの憲法24条の“試験”には,すばらしい後日言譚がある。もちろん受けとめた側の創意性や実行力が主因だけれども,私の話が“種”になったことも事実である。
 1953年頃,埼玉県飯能市の青年団に招かれて行ったとき,やはりこの“試験”をした。その時の答は残っていないので,詳しいことはわからないが,マア普通のできぐあいであったと思う。この日は青年団の元活動家たちも来ていたが,その諸君にとっては,こんなだいじな問題で必ずしも満足すべき答が書けなかったということがショックであったらしく,私のこの時の話が相当強い印象として残った。中でも小学校からずっといっしょだった仲よし6人組は,いずれここ何年かのうちに結婚する自分たちの身にひきつけて,憲法24条を考えるようになり,私の話の1年後,仲間の一人が結婚することになって,5人が記念品を贈るにあたって,それまで名のなかったグループがみずから“憲法24条会”と名乗ったのである。
 そして1956年5月3日,仲間の一人で最も活動的だった内沼宗雄君と,やはり青年団の活動家であった小熊須美さんがまことにすばらしい結婚式を,公民館で挙行したのである。それは本当に憲法第24条の精神を具体化したものであった。
 二人の交際は青年団時代からで,いつとはなしに愛情が育ったようである。この二人の結婚式を,仲間の努力で理想的なものにしようとする話しあいが,24条会を中心につみ重ねられた。須美ちゃんの親友3人が,ウェッディングドレスを手づくりしてあげた。それはアクセサリーまでふくめて2千円ででき,しかも後で上はブラウスとして使えるよう,下はワイシャツかケープに仕立てられるよう配慮されていた。
 式は公民館(といっても昔の村役場を改造した古い建物)の2階の畳敷の部屋で,宗教色なしで行われ,憲法24条の条文を織りこんだ誓いの言葉を新郎でなく新婦が朗読した。(新郎は宴会の方でお礼の言葉をのべた)。婚姻届の署名も式の中に組みこまれていた。
こういう独創的なやり方をすべて,仲間たちの話しあいの中で育てあげたのである1)。


1)憲法24条会の活動と,それが生み出した新しい結婚(式)像については,次の記録がある。
 小山誠三「ついに実を結んだわが村の結婚改善」(『農村文化』1956年10月 農山漁村文化協会)79ページ。
 幻灯スライド『農村の結婚改善』(1957年農山漁村文化協会)
 「新しい恋愛の設計・第2話 憲法二十四条会」(『週刊読売』1956年5月20日 読売新聞社)
 なおこれを執筆した時の小山誠三君は未婚だったが,2年後に同じ方式の挙式をした。

Ⅶ 農民の社会常識の実態――農民解放令に関して――
 私が農民の農業常識調べを特に積極的にやったのは1948年から53年ごろである。時期的には農地改革の進行中から,完了後間もないころまでである。私がその頃接した農民の多くは,この農地改革のおかげで土地を手に入れた人たちであったが,また,土地所有権の一部を失ったために,地主兼自作から本ものの自作農になった人たちもいた。そういう人たちでも,その当時はこれを新しい時代の到来と考えていたようで,少なくとも農地改革に対して“恨み骨髄”というような連中は私の講演など聴きにくることはなかった。
 農地改革はいうまでもなく占領軍の最も重要な占領政策の一つであった。“日本の農民が革命化しないように,さらに進んで反共的心情をもつように,彼等が久しい,以前から渇望していた土地所有権を,地主の犠牲によって持たせてしまおう”というのが,その基本線であった1)。
 “農地改革についての覚書”は早くも1945年12月9日に発せられている。ひどい訳文で発表されたので,それを使うより他はないが抄録すると次のとおりである。(*は省略ありの意)
 1 民主化促進上,経済的障碍を排除し,人権の尊重を全からしめ,且数世紀に亘る封建的圧制の下日本農民を奴隷化して来た経済的桎桔を打破するため,日本政府はその耕作農民に対し,その労働成果を享受する為,現状より以上の均等の機会を保障すべきことを指令せらる。
 2 本指令の目的は全人口の過半が耕作に従事してゐる国土の農業構造を永きに亘って病的ならしめてゐた諸多の根源を芟除するに在る,その病根の重なるものを掲げれば次の如し。
 A 極端なる零細形態
 日本の過半数の農家が1.52エーカー以下の土地を耕作してゐる。
 B 極めて不利なる小作条件下における小作農の夥多 *
 C 極めて高率の農村金利の下における農村負債の重圧 *
 D 商工業に比し格段に農業に不利なる政府の財政政策 *
 E 農民の利害を無視せる農民乃至農村団体に対する政府の権力的統制 *

 日本農民の解放はこの如き農村の基本的禍根が徹底的に芟除せらるるに至るに非ざれば進行を始めないであらう。
3 (略)
 この中で指摘されているA~Eを知っているか否かについて,答を書かせたことが全部で7回あった。これを出題するのは主として全県的な講習会のときであった。
 もちろん私としては,占領軍の覚書きを農民が知っているとは考えていなかった。
 だから大体次のような説明のしかたをとった。
 “いま進行中の農地改革のもとになった「農民解放令」の中には,日本の農業が甚しくおくれており,日本の農民が非常に苦しめられてきたことの「根本的原因」として五つのことをあげています。それを書いて下さい。といってもおそらく読んでおいでにならないでしょう。しかし皆さんは,日本の農業が今までひどく遅れていた,日本の農民が苦しい生活をしてきた,その原因が何かということを,からだで知っているはずです。だから五つ全部でなくても,二つか三つは書けるでしょう。”
 はじめに福島県の農協青年連盟主催の夏季講座に,各町村から1・2名選ばれて参加した青壮年に対して行った分を紹介する。答を出したのは157人であるが,戦前農業の体験が乏しいと思われる25歳以下の56人は除いて,26歳以上の101人の答を見ることにする。
 最もよくできた2人の回答と,それ以外の99人のうちから無作為で選び出した13人の分をできるだけそのまま紹介することにした。
イ(31歳)
 1 地主制度,特に高額物納小作料と土地取上が自由であつたこと。
 2 政治的発言力が耕作農民になかつたこと。農民には知らしむべからず,よらしむべしの政治であつた。地方自治体も働かない階層ににぎられてゐた。
 3 国の政治が農業を保護育成するものでなかつた。殊に個人の力で出来ない基本的なことがなされなかつた。
 4 耕地がせまく経営が過小であり,資本のちくせきがなかつた。
 5 協同の方向へ行かなかつた。
ロ(年齢不記入だが達筆で,壮年者か)
 1 日本農業が日本資本主義の資本蓄積の犠牲として巨大独占資本家に搾取される様な農業政策が支配者によつてなされてゐた。
 1 日本農業が地主制度により小作者の再生産への力がなかつた。
 1 日本農民が協同の力を発揮し得なかつた。
 1 日本農民が半封建的であり,農民の意識水準が低かつた。
 1 日本の農業指導者は,本質的には農民を愚弄して居たし,良心的指導者でなく,国
家の農民搾取手段の手先であつた。
 注意すべし。(ここまでが答の部分)
 以下は99人中の13人のものである。
ハ(30歳)
 終戦直後吾々人民に対して作られたボ(ポ)ツダム宣言に依つてあたへられたものであり昨(乍)ら,現在に成つても此等の実行がない。
 農民は,資本家,其れ等を支配して居た階級が,吾々多数者プロ階級(小ブル階級を含む)広凡(汎)な人民に対しては,多くの人(青年)を戦争へ,そして考(老)若男女を勤労公使(奉仕)とか。農民を殺人的兵器として使用された。フアシズムに対しての斗争は今後更に展開し様(よう)。
ニ(26歳),
 1 軍国主義者が丈夫で質素な軍隊を得る為に
 2 大財閥が利益を得る為又国内下の利じゅんにして足らず海外に発てんする為農民のぎせいにより
 3 永い間の封建政治により農民を文化的生活より追いはらつて最低生活に甘んじさせ自分等の礎石とした。
 4 軍人,財ばつ,其他の権力にタイアツプして,地主が収量の大半をうばつた。
 5 権力者があらゆる真相報道より農民に対して眼かくしした。
ホ(31歳)
 1 小作農民の圧迫
 2 低米価の問題
 3
ヘ(29歳)
 1 農業に対する知識及び政治力に乏しかつたため,謂ゆる百姓には勉強はいらぬ主義の旧教育の欠にあると思ふ。
 2 社会知識に乏しいため団結が乏しいため良い米を売り悪い米を食する如き還(環)境にあつた。
 3 青年は軍隊に引入れられて,農民運動を司る数が少なかつた。
 4 技術的に遅れて居た。
 5 販売面に於ても余りに他力主義であつた。
ト(39歳)
 1 自作農デ無カッタ事
 二 法憲約(封建的)デアツタ事
 3 雲才(零細)農家デアツタ事
 4 小作料ノ高イ事
 5 農ハ国ノ基デナク国ノ踏台デアツタ事
チ(39歳)
 1 地主対小作の対立が甚だしかつたが為に農地改革が施行令(解放令)に衣(依)つて実施された。
 1 生活程度が余りにも底化(低下)して居たものです。そこで農村文化的発展をする
にも農協の力に衣(依)らなければならない,そこで青年連盟と協力する。
リ(30歳)
 1 封建的土地制度
 2 封建政治の農村への圧政
 3 都市中心主義(農業を犠牲産業とした)(中央集権)
 4 物納小作料の高圧(強制)
ヌ(38歳)
 無シ(この2字だけ記されていた)
ル(36歳)
 1 安住する生活の条件が悪かつたこと
 イ 活動期にある主権(経営主)が軍務に動員され,老若,婦女のみの経営をせねばならぬ(な)かつたこと
 ロ 生産物が低下し収益を利得しないこと
 ハ 戦争一本の科学,工業で,文化の向上を期しないこと
ヲ(26歳)
 中小商工業者の圧迫
 政治的観念ノ薄弱
 農村協同精神ノ不徹底
 教育文化施設機関ノ少イ事
ワ(31歳)
 1 独占主義,いわい(ゆ)る天下り主義である。
 2 農民の教養の底(低)下
 3 我々農民の予(世)論を受け入れてくれなかつた。
カ(26歳)
 1 軍国主義に依り独占主義いわゆる軍ばつ
 2 財ばつに依つて発達できなかつた。
 3
ヨ(34歳)
 1 文化ガ他業ヨリ遅レテ居ツタ
 2 生活其ノ他全般ニ渡リ他業とバランスガトレテ居ナカツタ
 3 資本家(地主)ニオサイラレテ居ツタ従ツテ生産意欲改良的研究ノ不足
 4 各自ノ世想(相)ニ対スル認識不足
 もう一つ,石川県下各町村から集まった「青年指導者」講習会で行ったものも紹介しておく。全部で49人が答えたが,26歳以上は18人,そのうち9人を無作為で選んだ。この時は学歴も書いてもらった。
タ(26歳,高専卒)
 1 高額,不当な小作料と地代
 2 低位な生産・消費生活
 3 極度の零細農
 4 都市商工資本および高利貸資本の農村圧迫
 5 官僚機構の農村支配
レ(35歳,高小卒)
 1 日本の農村がほとんど小作人である。
 2 小作人の為に各自経済が非常に苦しい。
 3 土地の管理が悪く生産意欲がない。
 4
ソ(34歳,高小卒)
 1 資本主義(地主)者の農民は奴れいであつた
 1 言論の自由が認められず,従つて常にボスに依って凡ゆる面に牛耳られてゐた。
 1 家族制度の害を指摘してゐる。
ツ(30歳,農学校卒)
 1 農業政策が悪かった。
 1 農業の試験研究のみ進んで居て一般の技術とかけ離れて居た。
 1 地主に依り農村が指(支)配されて居た。
 1 補助制度(この4字は消してある――引用者)
ネ(26歳,中学卒)
 1 土地解放
 2 文化的生活
 3 農業会解散ト協同組合設立
 4 小作料金納化
 5
ナ(28歳,高小卒)
 1 自作制度の確立
 自作農創設特別措置法施行に依り農地委員会の設立
 1 協同組合の設立
 従来の農業会を癈(廃)し農民より選挙した委員に農民の組合として発足せしめる協同組合法の設立
 1 農業技術の設立
 農業技術は従来農業会として指導部的にあったのを土壌耕作等を一にする数地区に分けて技術員を設置した。
 農業改良普及助長法の設立
ラ(38歳,小卒)
 1 百性(姓)は牛馬に有らざる牛馬の根本
 1 土地改良
 わかりすぎる位いわかってゐる様な気がするがいざあらためて取り上げ様とすると迷わくするのは,やはりわからないのでせっか
 かうした事を知らずにゐる百性これ自体が主な原因ではないでせうか?
ム(34歳,中学卒)
 1 小農が多い
 2 貧農が多い
 3 封建的である
 4 科学的でない
 5 文化的に劣っておる
ウ(29歳,農学校卒)
 1 農民ハ資本家ノ制約ヲ受ケテ居タ
 1 農民ノ当然利用サルベキ組合団体ガ農民ノ十分ナル利用価値ガナカッタ
 1 農民ノ基本ナルベキ土地ガ農民ノ十分ナル協約等ニ依ル事無ク十分ノ活用ガ出来ナカッタ
 以上2回の他に5回,答をとっているが,出来ばえはこの2回より劣っている。言いかえれば以上に紹介した答は上出来に属するのである。
 「農民解放令」の指摘にもいろいろ問題はあるが,何といっても“B”で指摘していること(小作制度)が中心である。
 上に採録した24人の答のうち,表現はかなりあいまいでも,とにかくこれを書いていると見られるのは13人である。
 「農民解放令」のE(政府の権力的統制)にD(農業に不利な財政政策)も加えて,このことにふれた答を拾うと6人である。
 解放令のCが指摘し,この論文のⅠでものべている“高利負債”をあげたのはただ1人しかなかった。
 働き手が軍隊にとられたことをあげたのが4人あったことには注目しておきたい。
 このような問題の答を,自由記述で書くことは,書く側とすれば重い負担であったろう。とった答の統計的処理も全く不可能である。得られた答の評価も,見方によって大きく変りそうである。
 私自身もとくに何等かの評価をしようと思ってやったわけではない。私の一番の願いは日本の数多くの農政経済学者や農業問題評論家に,こういう農民常識の実態を知ってもらいたいという所にあった。
 この調査結果を発表したとき2)につけた私のコメントの結びの言葉は,次のようであった。附言するとこの当時は,共産党の方針が甚しく混乱していた時で,農地改革を“いつわりの農地改革”と規定していた。この規定は相当多くの学者研究者をも混乱にまきこんで,不毛としか思えない論争が行われていたのである。
 “こんどの農地改革の性格,その不徹底性または反動性を論ずる声は,必ずしも小さくないし低くもないようだ。それを論ずるのはよい。大いに論じてもらいたい。しかし頭の中で議論をデッチ上げるのでなく,正当な発言権をもち
うるような正しい調査に立ってもらわなくてはこまる。その調査の中に,生きた農民を含むのを忘れてもらってはこまる。*そんなことで農地改革を百万べん論じても,生きた結論は一つも出てはこないだろう。ましてやこれからの方針が正しくうち出されるはずはない。
 私は時々思う。進歩的といわれる日本のあらゆる農政経済学者が,1年か2年でいいから,都会を離れて農村にはいりこみ,一切の生活をそこでやってみてくれたら,日本の農業問題の理論的究明は,いまよりはるかに早くすすむだろう,ということを3)。


1)占領軍がかなり徹底した農地改革を指示した背景には,戦前の激烈な農民運動の再現を未然に防止しようという配慮があったにちがいない。
2)浪江虔著『農村教育の砂漠』(長野県農村文化協会,1954年2月)においてである。
3)浪江虔前掲書,100-01ページ。

あとがき
 この論文の主内容をなす“農民の常識調べ”を一冊の本『農村教育の砂漠』にまとめて発表することにきまった1953年の秋,この本の冒頭の原稿を次のように書いた。
 “無知とのたたかいは,人類の大業の一つである。その大業の一部分である日本農民の無知とのたたかいに,私は生涯かけての奉仕の場所を見出した。それはもう20年ほど前のことである。それ以来,私は,その有効適切な方法の発見と確立に,いろいろと苦心を重ねてきた。おくればせに農業科学を自ら学んでみたり,私立の農村図書館を設立したり,本を書いたり,講演旅行をしたりしているのは,みなこのためである。
 その一つとして「農民の農業常識調べ」という仕事を始めてから,およそ5年になる。その方法はいたって幼稚,やり方はいつも事のついでで,事例もまだとても十分とはいえない。けれどもこれは,私自身の仕事の運びにとっては,かけがえのない大切な資料となってきた。「教育の砂漠」の実態の,少なくともかなり重要な一面を,これは明らかにしてくれるように思う.”(同書7ページ)これを書いた当時は,わかる農業書の著作と発行は,既に軌道にのりつつあった。
それをこの本がさらに推進することになった。取りくみはじめた時には,容易ならない難事のように思えたけれども,諸般の事情に支えられて思いのほか順調に前進することができた。私が切り開きかけた道を継承し,さらに大きくひろげてきた社団法人農山漁村文化協会の今日の隆盛をみると,全く感無量である。
 思いのほかうまく軌道にのったこともあって,私自身はさらに別の面に力を注ぐことになった。前掲引用文中に“生涯かけての奉仕の場”とあるその“場”の方は,実をいうとだいぶかわって,今私は,社団法人日本図書館協会の常務理事であり,図書館調査委員会の委員長である。そして1939年9月に設立した私立南多摩農村図書館の運営も,周辺の都市化に対応して1968年に私立鶴川図書館と改称したものの,今も続けている。そして多くの同志とともに努力している中心課題は,日本中に公共図書館の網の目をひろげ,国民誰もが図書館を自由自在に,自主的自発的に,精一杯利用することによって自らの知性を高めることができるようにしたいということである。そしてこのように“場”が変ったことを,当然のことと思い,また適切な措置とも思っている。
 所期の目的を果たしたことから,私の意識の中ではもう完全に“過去の業績”と位置づけてしまっていた“農民の常識調べ”を,今あらためて発表するのは,たいへん面はゆいことである。しかし,30年前の日本農村での,体当り的な活動が,発展途上国の国民の皆さんと,そこで民衆教育を前進させようと努力しておられる方々とに,あるいはお役に立つことがあるかもしれないという思いもあって,林武さんと多田博一さんのおすすめを受諾したのであった。
 新しい調査研究を何ひとつつけ加え得ないことを,申しわけなく思いながら,しかし一方,これでもお役に立つかもしれないと期待して,この小論を書いた次第である。