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同族企業における所有と経営

著者名: 安岡重明
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1981年
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目 次
1 同族企業の比較の基準・・・・・・・・・・2
2 資本所有の比較・・・・・・・・・・2
A 日本の事例・・・・・・・・・・5
(1) 三井家憲 (2) 鴻池家憲法 (3) 住友家憲
(4) 安田家の保善社規約 (5) 岩崎家
B 外国の事例・・・・・・・・・・9
(1) ロスチャイルド家 (2) デュポン家
(3) クルップ家 (4) ターター家
3 経営の比較・・・・・・・・・・16
(1) ロスチャイルド家の例 (2) デュポン家の例

* 文献の引用にあたって,漢数字は原則として算用数字にあらためた。


1 同族企業の比較の基準

今日,国際関係が緊密化し,外国人との接触がまし,外国文化への理解の必要性がかつてないほど増大してきた。このことは,誰の目にも明らかであろう。企業経営に関しても,たえず外国企業の経営が参考とされねばならないし,海外で支店を設けたり,企業を設立する場合には,その国の文化や社会慣習への深い理解を必要とする。
世界経済における日本経済の地位の向上によって,日本経済を支えている諸企業の経営手法にも関心が集まり,いわゆる日本的経営に関する論議もさかんに行われている。そこではとりわけ、政府と企業の関係、企業における意志決定の仕方の独自性、企業における人事・労務管理の特色(たとえば、いわゆる年功序列,終身雇用,家族的結合,企業への忠誠など)が注目をひいている。
これら日本的特色とみられる諸要因について、論議がさかんに行われている割には,具体的に明確な基準をもって,外国企業との比較が行われているとは思えない場合が少なくない。すなわち、特色の強調が感想的であったり,比較の基準が不明確である場合が多いように思われるのである1)。
そこで、この論文では、同族企業の所有と経営に関する比較の基準を設定し,日本および諸外国の同族企業の比較を行って,こうした形で同族企業の国際比較が可能ではないか,ということを提案してみたい2)。そのさい,とくにお断りしておきたいことは,ここで提示する比較方法は、おそらく無数にあるであろう比較の基準のほんの1,2であるにすぎないということである。そして研究が進めば,ここに提示した方法の重要さの程度をも,確認する必要が生じてくるであろう。
2 資本所有の比較
ここで使用する所有の概念は,次の4種とする。総有・合有・共有および個人所有である。前3者は共同所有の諸態様である3)。
総有はゲルマンの村落共同体の所有形態である。ゲルマンの村落共同体は、村民がその個たる地位を失わずにそのまま全一体として結合した団体であり、実在的総合人だといわれる。そのため村落団体の所有物の管理権能は,村落そのものに帰属し,村落共同体を規律する社会規範によって規律され,収益権能だけが村落の各住民に分属した。総有における共同所有者の権利は,たんなる収益権であって,近代法における所有権ではない。村落住民の収益権能は,村落住民の資格を離れた独立の財産権ではない。各共同所有者は,共有における持分権をもたない。総有はもっとも団体的色彩の強い共同所有形態である。日本の入会[いりあい]権も,この性質のものであろう。
共有は、ローマ法の共同所有の形態である。共同所有者は一定の制限のもとに管理権能と収益権能とを結合した所有権(持分権)を有し,これを自由に処分することができ(持分処分の自由),またいつでも共同所有を終えて単独所有に移行する権限(分割請求の自由)をもつ。共有においては,主体間の団体的結合はきわめて微弱である。
合有(総手的共有)は、総有と共有の中間に位し,やや共有に近い。共同所有者は目的物に対し管理権能と収益権能をもつ。すなわち持分権を有する。しかしここでは主体的に一つの事業を営むというような共同の目的があり,共同所有はその目的達成の手段であるから、各共同所有者の管理能力は,この共同目的達成のための規則によって制約される。だから共同目的の存続する限り、各共同所有者は,持分権を処分する自由はなく,分割を請求する権利もない。その持分権は,共同目的の存続する限り,いわば潜在的なものとなり,共同目的が終了したとき,はじめて現実的なものとなる。ドイツ民法は,組合財産(718条以下),夫婦共有財産(1437条以下)および共同相続財産(2032条以下)について,これを合有と定めた。
個人所有は,個人が客体を一般的・全面的に支配する物権である。すなわち,所有者は所有物を団体・他人などの制約をこうむることなく、自由に処分しうる。
ここで所有の諸形態をなぜ問題にするかについて一言する。私の同族企業に対する関心は,日本の近世の大商家の資本所有形態および民法・商法施行(1893-98)後の財閥における資本所有形態についての調査から生じた。いずれの場合にも,それぞれの営業資本は商家の主人の地位の継承者ないしは財閥家族の所有の形をとっているが,その所有名儀人の営業財産に対する所有権は,同族団体の強い規制下におかれていて,名儀人の所有には属していないという事情が発見された4)。
その所有権の性格は,民法施行以後は法律上,合名会社および合資会社への出資金に対する権利という形をとるようになったが,その実質は,上にのべた共有ではなくて,総有か合有,もしくは総有と合有の中間的な性格であったと考えられる。個々の商家や財閥によって,出資金に対する各出資者の権能は,多少の相違はあるが,昭和10年代までは,その所有権は近代的な個人的所有権ではなかった5)。
近世の大商家の営業資本と近代の財閣資本との間には,一定の性格の継承があることはたしかであるが,近世の大商家については必要に応じて論ずることとし,ここでは,主として商法施行(1893年),民法施行(1898)のころ以後の財閥の資本の性格について考察していくことにする。財閥の出資者たちの出資金が同族の総有ないし合有の性格を有することは,企業経営にも多大の影響を与えたと思われる。
日本で多く見られた一般的な傾向は,創業者はほとんど資本をもたないで出発し,創意工夫と努力によって,急速に財産を蓄積し,企業規模を拡大し,その間有能な使用人を育成し,創業者の子や孫がその事業を継承したとき,これらの有能な使用人(番頭または専門経営者6))たちが,その経営にあたり,所有者は,君臨すれど統治せず,という形になりやすいことである。
そのため営業資本の所有を継承した創業者の子孫は,その所有権者が一人の場合であろうと,兄弟姉妹にも分割されて十数名になった場合であろうと,アクティブなパートナーたることを要しなかった。むしろ出資金に対する権利も他人に売却したり,譲渡したりしない「現状維持的な」所有者にとどまっていることの方が望ましかった。
すなわち,これらの所有者には次の諸条件が要求された。
(1) 出資持分を自己で保持し,出資金の配当金で自己ないし家族の生計を維持すること。
(2) 所有者は自己の出資持分を引き出す必要にせまられないようにするためには,自己で事業を起して失敗したり,多額の負債をかかえこむようなことはさけねばならない。また他人の債務の保証人になってはいけない。すなわち,近代的な責任能力ある経済人たることは許されない。
(3) もし何かの形で実務につくとすれば,番頭や専門経営者が実質的に経営している自己の企業経営のなかで,企業の運営の邪魔をしないで,一定の地位を占めることである。すなわち名誉職的な形で,社長あるいは取締役あるいは監査役などになることである。この場合,前述の配当金以外に職務に対して報酬がえられるので,同族たちはこういう地位を欲したのが普通である。
(4) 企業経営上の地位は上のようであるから,通常同族の人々は,例えば三井家のように,文芸,技術,学問,趣味などいわゆる文化人・風流人としての生き方を選び,その道に秀れた人を生んでいる。2代目のなかで企業経営者として能力を発揮したのは岩崎小弥太(岩崎弥之助の長男)ぐらいであろう。創業者岩崎弥太郎の弟岩崎弥之助は,創業者弥太郎のパートナーとみるべきであろう。
以上のような諸条件は,財閥家族の所有権を個人所有もしくは分割請求の容易な共有にしておくことには適合的ではなかった。分割請求のより困難な合有,さらに困難な総有的な所有権が望ましかった。だからどの財閥でも,事業の発展がある段階に達したとき,ほとんど必ず,出資金に家族の持分比を定め,かつその持分の勝手な処分を禁止する規約を設けている。
ところが林野所有には認められている総有,ドイツ民法(1896年)では認められた合有は,日本の明治民法(公布1896=明治29年,施行は同31年)では認められなかった7)。明治民法のなかで認められたのは,分割請求があれば5年以内に分割しなければならないと規定された共有のみであった(もっとも民法が共有と規定している組合財産と相続人が数人ある場合の相続財産について合有とする説がある8))。そのため大商家や財閥はさまざまな形で出資者の行動に制限を加えねばならなかった。それは各家の家憲に表明されている。

A 日本の事例
(1) 三井家憲(明治33=1900年制定9))
三井家では三井11家のそれぞれが所有している家産と11家が共同で運用している営業資産があったが,その営業資産については次のように定められた。
第92条 家産以外ノ同族財産ノ持分ハ其出資額ニ拘ハラス左ノ割合ニ依ル
一百分ノ二十三 総領家
一百分ノ十一半   本家
一百分ノ三・九  連家
同族中各営業店ヨリ退社シ又ハ除名サレタル者アルトキ,其他避クヘカラサル事由ニ因リ同族各家持分ノ減少ヲ来ストキハ,前項持分ノ割合ハ当然之ニ応シテ変更スルモノトス
この営業資産は11家の誰もが,自己の意志でその持分を回収することはできなかったから,形式上は合有であるが,実質的には総有と考えてよい。江戸期の宗竺遺書(三井家憲の前身)には,営業店の分割規定はあり,三井家憲では「持分」が定められていたが,これが分割されたことはなかったから,事実上は総有的であった。同族の行動については,次のような規制があった。
第12条 同族ハ左ノ事項ヲ為スコトヲ得ス
1 政党ニ加入シ其他総テ公然政治ニ関係スルコト
2 負債ヲ為スコト
3 債務ノ保証ヲ為スコト
本条ヲ施行スル為メニ必要ナル規則ハ別ニ之ヲ定ム
第13条 同族ハ同族会ノ許可ヲ経スシテ左ノ事項ヲ為スコトヲ得ス
1 私ニ商工業ヲ営ムコト
2 私ニ会社ノ株主ト為リ又ハ商工業ノ資本主ト為ルコト
3 三井各営業店以外ノ会社又ハ組合ノ役員若クハ社員ト為ルコト
4 官務又ハ公務ニ就クコト
5 其他同族会ニ於テ特ニ其許可ヲ経ヘキモノト指定シタルコト
上に見られるように三井同族は政治的にも経済的にも,自立せる近代人としての諸条件を満たされていないのである。
(2) 鴻池家憲法(明治22=1889年制定)
第12条 家産ハ一切之ヲ老分に管理セシメ,家主自ラ之ヲ左右スルヲ得ズ
第13条 家主一身ノ費用トシテ相応ノ金額ヲ定メ,毎月之ヲ供スベシ
第14条 凡ソ内外ノ家屋・庭園ノ築造・営繕等一家ノ公費ニ係ルモノハ之ヲ老分ニ謀リ,其承諾ヲ得ルニ非ザレバ,家主恣専ニ之ヲ断行スベカラズ
第15条 子孫ヲ分家セント欲スル時ハ享保年中宗誠君定ル所ノ財産分与法ニ基キ之ヲ処分スベシ
上に見られるように,家主には自己の判断で財産を処分する権能は認められておらず,子孫を分家するときは享保8年(1723)正月の規定によると定めている。宗誠とは3代善右衛門宗利の別名であり,鴻池家中興の名主と称された人物である。このときまで1世紀半の間享保の相続規定は生きていたし,明治22年以後も継承されたのである10)。右の条項は家産は家主の所有権に属さず,家憲と遵守する同族団に属したとみるべきであろう。
(3) 住 友 家 憲
住友家にも,家則,店則は多数残されているが,家の継続性を規定した相続規定は公表されていない。この点に関して,住友家の家訓・店則類は,現在までに判明している限りにおいては,相続規定を欠く変態的なものであることを,試論的にではあるが,論証したことがある11)。
住友家憲(明治24=1891年12))
第7条 家長は総理事及び理事に詢議の上営業資本外に若干の金員を蓄積し保管の方法を設けて家道の鞏固に備ふべし
第11条 一家内事に関するものと雖,重大の事件は之を総理及び理事に詢議の上
処理するを要す
第14条 家長は総理事及び理事の合意を得るの外敢て家憲・家法の条章を増減変更することを得す
上のように家産,家内事に関する決定は総理事,理事の承認を必要とした以上,家産が家長一個人の「一般的・全面的に支配する」ことのできる客体でなかったことは確かである。
(4) 安田家の保善社規約13)(明治20=1887年制定)
第35条 社中(安田家一族10家のこと-安岡注)ニ於テハ他人ハ勿論,一類親類縁者等ヨリ依頼ヲ受,金銀貸借ノ保証人,諸約定証書等ノ保証人又ハ雇人受状等,人身保証ノ調印ハ堅ク禁ス
但シ法律範囲内ニ於テ為ササルヲ得サル場合アレハ社中相互ノ事,並ニ安田銀行業務上ノ事ニ限リ総長ノ許可ヲ得テ調印スル事ヲ得ヘシ
第41条 安田家現在ノ財産100万円ナルヲ悉皆差出,100万円ト定メ,之ヲ安田銀行ノ資本金トナシ,左ノ如ク分割管保セシムヘシ
株数  金額    姓名
五千株 五拾万円  保善社総長名儀
七百株 七万円   同家安田善次郎
七百株 七万円   仝 安田善四郎
七百株 七万円   仝 安田善之助
五百株 五万円   仝 安田真之助
五百株 五万円   仝 安田三郎彦
五百株 五万円   仝 安田忠兵衛
四百株 四万円   分家安田 文子
四百株 四万円   仝 安田 善助
参百株 参万円   類家太田弥五郎
参百株 参万円   仝 藤田 袖子
第42条 此分割管保ヲ受タル安田銀行ノ株式ハ社中ノ外,他人ニ貸入,書入,売渡シ等ヲ禁ス,故ニ株券ヲ発附セスシテ株式帳ヲ制シ,之ニ各自管保株数ヲ記入シテ安田銀行ノ頭取・監事ノ記名調印ヲ請ヒ,本社ノ金庫ニ管守スヘシ
第43条 保善社名儀ノ株高50万円ハ中興祖先ノ預リモノトシテ同家6戸ニテ之ヲ管守スヘシ,依テ如何ナル場合アルモ決シテ分割ナスヘカラス,而シテ其代表人ハ保善社総長当任者ノ名儀ニ為シ置,総長ヨリハ其事由ヲ証シテ社中ニ差出シ,其証書ハ安田銀行ノ重役々場ニ存置スヘシ
第64条 社中ハ自ラ商業ヲ営ム事ヲ禁ス,若シ心得違ノモノアリテ密ニ商業ヲ営ミ,又其他ノ事故ニテ負債ヲ生シ身代限リトナルトモ一類中ヨリハ一切助勢スヘカラス
上の規約の技萃を続めば,安田家の家制は三井家のそれに類似していることに気づくであろう。明治9年から同26年までの三井銀行の出資者のなかに,三井家の共同有財産を管理する大元方[おおもとかた]という機関が100万円(のち50万円)の出資をしていたが,保善社総長名儀の50万円の出資金はこれに当るだろう。
「分割管保」された財産(株式)の処分権が一族10家になかったことは,第42条,第43条で明白である。一族10家の当主たちが,自立せる一個の経済人として認められず,数々の制約を受けていたことは,第35条,第64条に示されている。保善社名儀の株式50万円は「中興祖先(安田善次郎のこと-安岡注)ノ預リモノ」として同家6戸にてこれを管守すべし,としていることは,この財産が一族の総有的なものであったことを示している。
(5) 岩 崎 家
三菱商会および郵便汽船三菱会社の創始者岩崎弥太郎は,明治18年(1885)2月に死去し,その社長の地位は弟岩崎弥之助がついだ。弥之助に明治24年宗家弥太郎家(長男久弥)から分家した。そのとき分与された財産は宗家の財産の4分の1にみたなかったといわれている14)。弥太郎の死後弥之助の努力で三菱が維持されたこともあり,分家弥之助家の宗家に対する地位は通常の分家の場合よりも高かったと思われる。そのためか,明治26年(1893)12月,資本500万円の三菱合資会社が設立されたとき,久弥と弥之助の出資額は同額の250万円ずつであった。その後両家の出資額は変動し,その比率は変化するが,このことは岩崎両家の出資金は両家の総有的なものではなく,分割可能な共有的なものであったと考えられる。しかし,両家のそれぞれの内部ではどのような財産所有形態であったか不明である。同社の社員は両家の家長ないしその相続人であることが規定されていたが,明治40年(1907)2月弥之助の長男小弥太を出資社員に加え,会社の資本金を1500万円とした。その内訳は,久弥1250万円,弥之助150万円,小弥太100万円であった。このときの出資比率は弥太郎系5に対し弥之助系1である。このように出資者の制限がややゆるやかであった三菱合資会社ではあったが,明治40年改定の「会社契約書15)」では,
第16条 社員ハ本会社ノ存立中ハ任意退社スルコトヲ得ス,社員中死亡シタル者アルトキハ家督相続人ヲシテ其地位ニ代ハラシム,社員ハ能力ノ喪失ニ因リテ退社スルコトナシ
とあり,社員が能力の喪失によっても退社しないと定めている。出資社員の能力が問われないということは社員がそれぞれの家を代表して出資者となっていることをを示すものであって,その出資金は社員個人のものでなかったことを示唆しているようである。すなわち無能力の社員は出資金および配当金の処分権を与えられていないからである。
以上数家の財閥当主または財閥の出資者(同族)の出資金に対する関係,および出資者たることによって受容しなければならない諸制約について観察してきた。その結果,岩崎家の事情を除外すると,次のような諸点が確認されるであろう。
(1) 家業または企業に対する出資金は同族集団の強い規制の下にあって,出資者のメンバーが,自己の名儀の出資分を任意に回収することは不可能であった(この点は三菱合資会社についてもあてはまる)。
(2) 財閥家族の政治的・経済的行動については強い制約が加えられており,自立した個人として自己の責任において行動することはできなかった。
経済的・経営的活動をする場合は,家業または自己の企業に限られていて,そこでは使用人(番頭・専門経営者)の保護と監督とを受けた(保善社規約にもその規定があった-第39条)。
以上,要するに財閥家族は,集団的所有と集団的社会生活のなかに埋没しており,外見上はともかく,内実的には近代的個人ではなかった。所有者としての財閥家族のこのような性格は,いきおい,その経営者との関係に投影せざるをえなかった。

B 外国の事例
以上の日本の財閥の諸事例に対して,諸外国の同族企業における財産ないし営業資本の所有の性格は,いかなるものであったろうか。デュポン,ロスチャイルド,クルップ,ターターの事例をとりあげることにするが,あらかじめ展望を示しておくと,営業資本はデュポンとロスチャイルドでは,共有的な性格であり,クルップではある時期から総有的となる。ターターでは合有的な性格であったと思われる16)。
(1) ロスチャイルド家17)
ロスチャイルドはフランクフルト居住のユダヤ人の商人で,1764年,古銭,古物商から出発し,商業を営みながら諸王家や各国政府の財政・金融政策にくいこんで致富した世界的富豪である。創業者マイヤー・アムシェル(1744-1812)は5人の息子たちのうち長男を除く4人を,ロンドン,パリ,ウィーン,ナポリに派遣して支店を開かせ,相互に緊密な連繋をとりながら,公債や為替の変動を利用して巨利
をえた。
1810年,創業者とその息子たちの間にパートナーシップ契約が結ばれた。この契約は,フランクフルトのロスチャイルド商会の資本金80万フローリンを,創業者が48%,長男アンセルム24%,次男サロモン24%,4男カール2%,5男ジェームズ2%の割合で分けあい,利益や損失はこの出資比率に従って配分する,というものであった。このうち創業者の出資分には,当時ナポレオン戦争のため,表面上関係を断っていた3男ネイサン(ロンドン居住)の持分24%が含まれていたという。このとき4男,5男の持分は少なかったが,遺産の処分に当っては,5人の男兄弟は平等に5分の1ずつ相続することになっていた。娘や娘婿には,商会の運営に口出しする権利も帳簿をみる権利も与えられなかった。また一族内の問題で訴訟を起してはならないと規定された。公訴を禁ずる規定は,三井家憲にも,保善社規約にもあり,類似性がある。
1812年アムシェル・マイヤーは死の直前に5人の息子たちに,自己の持分を息子たちに19万グルデンと評価して売却し,この金を妻(7万グルデン)と5人の娘たち(12万グルデン)に分配した。三井家や安田家では娘に婿養子を迎えて一家としてとり立てたが,この点はロスチャイルド家ではちがう。
ロスチャイルド家のロンドン(3男)とパリ(5男)の事業は早くから独立の地位を与えられたのに対し,ウィーン(2男)とナポリ(4男)の事業は,1848年まで本店フランクフルト店の支店の地位にとどまっていた。もっともパリとロンドンの事業が独立したといっても,やはり兄弟が資本を出し合い,その持分に応じて利益を配分する形をとっていた。1818年当時,パリのジェームズはロンドンの店に8分の1,フランクフルトとパリの店にそれぞれ16分の3の持分で参加していた。ロンドンのネイサンは,パリとフランクフルトの店に,それぞれ8分の4,16分の4の持分で参加していて,兄弟のなかで最大の持分を占めていた。
このように,父は5人の兄弟に均分に相続させようとしていたのに,5人の持分の間にまもなく大きい差ができており,のちにフランクフルトの本店は没落してしまう。こうして兄弟の力量の差によって,パートナーたちの資力は絶対的にも相対的にも変動した。このことは兄弟各人の自己の出資金に対する権利が個人性の強いものであったことを物語っており,出資金は加除の可能な共有的な性格であったと思われる。このことはまた,5人兄弟およびその子孫の間の結合は強かったといわれているが,各家の創始者(5人兄弟)とその子孫の持つ出資金は総有的な所有関係に埋没していたのではなかったことを示している。
これに対して,日本の商家や財閥では,家の体制が確立する以前には,同族間で出資持分の変動が見られたが,家の体制が確立すると,それぞれの相続人の有能・無能によって持分率が変動しないよう制約が設けられていて,出資者または出資した家に対する拘束度は強い。ロスチャイルドの兄弟たちには,弟が兄たちを抜いて発展することができたし,また長男家といえども没落することが許されていた。三井家などでは,各家の地位は厳重に規定されており,自己の都合で没落することは許されていなかった。
(2)デュポン家
デュポン家はフランス革命期の1799年に北アメリカに移住して火薬製造をはじめ,のち巨大な火薬トラストに発展した。デュポン社はアメリカの中では強固な同族企業として知られ,歴代の社長を一族のなかから出すよう努めてきた会社である。
デュポン社は,当初他人の資本で創業し,のち創業者の子供たちの強固な共同企業となった。創業者エルテール・イレネー・デュポン(1771-1834年10月)の死後,会社の経営は長女エヴリナの夫,アントワーヌ・ビデルマンが担当した。このとき長男アルフレッドは36歳で,16年の火薬製造の経験をもっていたが,経営者には不向きであった。次男ヘンリーは22歳,陸軍士官をやめて会社に入り,まだ5ヵ月しかたっていなかった。三男アレクシスは18歳になったばかりで,火薬工としては認められていたが,会社をあずけるには若すぎた。
ビデルマンはイレネーと20年にわたり仕事をしてきた経験をもち,イレネーの死後3年にして,出資金・借金を支払って,会社をデュポン一族のものとした。1837年4月会社を再編成して,7人兄弟姉妹男3人,女4人のパートナーシップとしたという18)。しかし一方では男子3人のみのパートナーシップであったという記述もある19)。その後の出資持分の譲渡の様子からみると,実質的にはのちに男子のみのパートナーシップに移行したようである。
新しいパートナーたちは,2代目社長として長男アルフレッドを社長に選んだが,それは彼が年長だという理由からであった。自分の短所をよく知っていたアルフレッドは,ヘンリーとアレクシスが加わった3頭政治であるべきだと主張し,共同経営者のなかから社長を選ぶ運営形態がきまり,この形が約4分の3世紀つづくことになった。1850年にはヘンリーが3代目社長,1889年にはアレクシスの長男ユージンが4代目社長となった。彼は多少の改革を試みたが,根本的なものではなかった。このとき同族の若い2人,アルフレッド・I(2代目社長アルフレッドの孫)とチャールズ・I・3世(イレネーと兄ヴィクターの曽孫)は,かなり責任のある地位を与えられていたが,パートナーには加えられていなかった。そのため不満がつのり,彼らは持分を与えてほしいと要求して,ウィリアム(別称ウィリー,ヘンリーの末男)がもっていた20%のパートナーの持分を譲りうけて,2人で分割した。ウィリアムは個人的理由から持分を返上したのである。
1899年10月23日,E・I・デュポン・ドヌムール株式会社が新デラウェア州法のもとで発足した。社長はユージン,副社長はフランシス・G(ユージンの末弟),アレクシス博士(ユージンの次の弟),ヘンリー・A・大佐(3代目社長ヘンリーの長男)の3人がなり,秘書兼会計担当は,チャールズ・I・3世であった。はじめの4人はおのおの20%の持分を割りあてられ、チャールズとアルフレッドには各10%が与えられた。
ここでは,パートナーシップへの出資は,一族の中で実際に経営に参加しうる人物のみがなしたことが分る。オペレーティング・パートナーの性質を備えた同族が経営にあたる原則は,ロスチャイルドの場合と同様である。このうち,チャールズ・I・3世は創業者イレネーの兄ビクターの子孫であって,イレネーの系統ではない。1837年の契約について,デュークは次のように書いている20)。
アルフレッドがかいた契約文の下になされた7人の署名により,工場の新しい所有形態は厳粛さを増した。ソフィー(アルフレッドの妹)がサム・フランシスと結婚していたのでその分は別だが,それ以外の持分は一切,ビクターの家族には割当てられなかった。そのソフィーさえ,イレネーの子供たちだけしか会社の利益を受けとることができないという点に関しては,アントワーヌと意見が一致していた。7人は役員を選ばなかった。彼らの会社は単純なパートナーシップだったようだ。兄弟姉妹たちは誰でも,年末には同額の利益を引出すことができた。アルフレッドでさえ,給料は受けとらなかった。彼らのため,彼らの家族のため買わねばならない物は何でも,会社が買った。彼らは個人的には何も所有しなかった。家具も,居間も,食事に使う陶器も,馬車や馬でさえ,そうであった。運搬が必要であれば,ヘンリーに知らせればよかった。馬車と御者がやってきた。
契約書の最後に,何世代も会社を完全に維持し続け,事業がパートナーたちが思っているとおりに運営されることを保証するための特色ある一条があった。すなわち持分は7人の兄弟姉妹たちの存命中だけ割当てられ,彼らが死んだら,会社の持分は相続できない,残ったパートナーたちが,工場で働いている多くのデュポン一族の若者から新しいパートナーを選ぶと定められた。
デュポン社は強固な結合をもつ同族企業であったが,出資持分を継承していく過程で個々人の資質が問題にされ,日本の財閥の場合のように,資質と機能とにかかわりなく,パートナー(機能資本家)という制度上の地位を与えられることはなかったと見られる。
日本の場合は,パートナーの資格のある家が認められると,その継承者(相続人)の資質と機能にかかわりなくパートナーの権利が相続され,それ以外のも原則としてその地位に代りえなかった。デュポンやロスチャイルドの場合は,個人の責任と権限が明確であり,日本の場合は,パートナーの責任と権限を誰かが代行せざるをえない形になっている。日本では,ここに番頭ないし専門経営者が登場して,無限定的に(出資者でありかつ主人である)パートナーの任務を代行する素地があった。
(3)クルップ家クルップの場合は,デュポンやロスチャイルドの場合とちがい,日本の財閥との近似性をもっている。
19世紀なかばクルップの当主であったアルフレート(1812-87)は,遺言のなかで,工場の経営と管理について2つの点を規定した。
第1,財産の分割を避けて,子供のうち最年長の1人がいっさいの付属物を含めて鋳鋼工場を所有し,統一的に指導すること。
第2、収益の余剰の一部を設備の更新と改良に用いて老朽化と停滞の危険に備えること。この2条件は資本主義の発展とともに競争がはげしくなり,企業規模の維持拡大が必要となった条件のもとでの方針であった。アルフレートの子フリードリヒ・アルフレート・クルップ(通称フリッツ,1854-1902)は,これを忠実に実行したが,フリッツには男子がなく,娘が2人いた。フリッツが死んだとき,妻マルガレーテは,クルップ商会の取締役会に次のような通知を出した。
私は,夫の死によって,夫の父,故アルフレート・クルップの遺言の規定にもとづいて,全工場が一切の外部の事務所および付属施設ともども,分割されずに,私の長女ベルタ・クルップの所有に移されたこと,および彼女が1人前に達するまで私が彼女の権限を代行することを,ここに御通知申上げます(後略)。
1903年クルップの事業は,フリードリヒ・アルフレート・クルップの遺言により,資本金1億8000万マルクの株式会社となった。ベルタは1906年グスタフ・フォン・ボーレン・ウント・ハルバッハ(1870-1950)と結婚し,彼が事業の継承者となった。その後,1943年ヒットラーは,クルップの相続方法をクルップ法という特別法で認めるという措置をとり,クルップは個人商会にもどった21)。第2次大戦後の1967年のクルップの危機の最中,グスタフの子アルフリート(当時当主)が死んだ。その1人息子アルント(当時29歳)はクルップ家の相続権を放棄し,クルップ企業の所有者としてのクルップ家は断絶した。
19世紀末葉から20世紀後半にかけて行われたクルップの長子単独相続制は,当時の社会経済状勢のもとで創出されたものである。長子が単独で相続するということの他の1面は,他の子供たちへの分与分がその相続財産のなかに潜在していることを意味し,その財産は純粋に長子の個人所有ではなかったといわねばならない。明治民法における家産の相続人としての戸主が弟妹の扶養の義務を負っったように。
このことは,ヨーロッパ社会においても,日本における家(いえ)と類似の現象が,ある条件のもとで生じたことを意味していると思われる。
クルップの危機の第1の原因は,アルフリートとバイツ総支配人の指揮が多角化した事業の運営に適切でなかったことによるが,他の理由としては,クルップが個人企業たることを家憲で規定されていて,株式会社に改組して資金を調達し,利子負担を軽減することができず,傷を深めたといわれる。さらにアルフリートは銀行筋からバイツ総支配人の更迭を示唆されても,バイツを信用して経営を任せ続けたことも危機の一因としてあげられている22)。あるいは,両者の関係は,日本における財閥当主と専門経営者との委任関係に近かったのかも知れない。
(4) ターター家23)
インド最大の財閥ターターはパールスィー族であって,1850年ごろヌッセルワンが僧職を捨てて商業に従事した。そして一文なしでボンベイにやってきたといわれる。その後軍需品の調達などで若干の資金をえ,1859年には中国貿易にのり出した。このとき,ヌッセルワンの長男ジャムシェードは大学を終えて法律事務所で働いていた。19歳であった。ターター同族はこのときヌッセルワンの商会への参画という形で次第に結集してきた。当時中国貿易の最大の困難は,適切な情報の交換であったので,これを血縁関係の信頼によって解決しようとした。また当時のインドでは家族主義的な価値観が支配的であった。
パールスィーの場合,子供が一定の年齢に達して実務に入るとき,機能的なパートナーとして家業に参加するか,他人とパートナーを組んで新しい事業をおこすかは,選択自由であったといわれている。しかし長男ジャムシェードは,自分で起した中央インド紡織株式会社の成功が不動のものとなった1880年代には,同族による事業支配を確実かつ永続的なものとするため,同族集団の組織化と同族財産の分割阻止をはかりはじめる。
1886年ヌッセルワンが死ぬと,ジャムシェードはそれを機会に同族の事業を統轄・支配するための本社(経営代理会社)の設立を決意し,翌87年資本金2万1000ルピーの「ターター・サンズ」を作った。その企業形態は私的なパートナーシップであったと推定されている。パートナーは,ジャムシェード,長男ドーラブ,従兄弟R・D・ターターであった。次男のラータンは後にパートナーとなるものとされた。ジャムシェードは「ターター・サンズ」設立後まもなく,同族構成員たちの生活を保証するため,ファミリー・トラストを作った。これは「ターター・サンズ」の収益の一定部分をターター同族のための信託財産として委託したもので,同族の各員がその利益の分配を受けた。相続の対象となるのはトラストに対する受益権であって,トラストの財産に対する分割の請求には制限が加えられた。
ジャムシェードによるファミリー・トラストは,インドに支配的な均分相続の原理と同族財産分散阻止との間の矛盾を解決するために,ヒンドウ合同家族における共有財産設定の慣習を範としたもののようである。しかし,合同家族における共有財産は原則的には個人に分割可能であったのに対し,ターターのファミリー・トラストでは,その設立時から,不分割で永続的な共同の財産の設定が追求されている。この問題を研究している広田勇氏は,ファミリー・トラストを介在させたターター同族の結合には,日本のイエ的結合と同質の要素をはらんでいると評価している。
しかしながら,1907年「ターター製鋼」が設立された年,「ターター・サンズ」は資本金1500万ルピーの合名会社に転化した。このとき持分割合は長男ドーラブ,次男ラータン合わせて80%,従兄弟R・D・ターター20%となり,ファミリー・トラストは解消された。これにより,各パートナーの持分の自立性はある程度高まったとみられる。広田氏は,インドのような土壤の上では家業から企業へ移行するためには24),ターターにみられたイエ的な結合がその途中過程として必要だったと推定している。
外国の事例についてまとめると,ロスチャイルドおよびデュポンについては,その営業資本の同族による所有の維持には工夫がこらされていたが,同族内では企業職能をもつものがパートナーとなり,出資し企業職能をもつ機能資本家として,持分を継承した。
これに対し,クルップでは19世紀末から4分の3世紀にわたって,営業資本の長子相続制が行われ,その営業資本から生ずる利益のなかには相続人の弟妹への財産分与分を含んでいたと思われる。これは日本の商家や財閥にみられた家業と農家の継承と同じ性質の現象である。
ターター財閥でも,19世紀末から20世紀はじめの一時期,ファミリー・トラストを作って営業資本の分割をさけ,かつ同族の共通の繁栄を維持しようとした。
以上のように,同族的企業における資本の共同所有は,日本・外国をとわず共通にみられた現象であるが,その共同所有には,差があった。もっとも団体的所有の強いのは,三井・安田・住友・鴻池などの総有であり,クルップもこれに近いと思われる。ターターのファミリー・トラストにおける信託財産も,短期間ではあったが,総有に近いと思われる。
このような営業資本の所有の性格の差は,その企業経営にも大きい影響を及ぼしていると思われるので,この点を観察したい。

3 経営の比較

所有の性格が経営の性格に対してどのような影響を与えるかについて,あらかじめ私見を披瀝しておくと次のようになる。私は営業資本の団体所有の性格が強いほど,所有者には企業職能を要求される度合が少なく,その経営は専門経営者に委任される程度が強くなるのではなかろうか,という仮説をもっている。
団体的所有の性格が強いと,個々の所有権者は,その共同財産の運用こそが個々の所有権者へその果実(配当)の多寡を決定するのにも拘らず,その運用(経営)に力を入れるよりも,配当の大きさを要求する傾向がある。巨大な財産を獲得した創業者やその協力者たちは,小資本を大資本へ増殖させた経験と技能をもつが,そうして築かれた巨額の財産を所与として継承した人たちは,創業者たちより低い資質しかもたないのが普通である。しかも財産の分割・分散をさけるため,団体的制約を強く加えられると,継承者たちは,個人として資本を運用して経営者としての資質を訓練する機会を与えられないことになる。このような場合には,忠実で有能な専門経営者に資本の運用を任せた方が安全である。そして継承者たちは,パイオニア精神をもつよりも,安定的に多額の配当を受けとろうとする志向をもつように思われる。
これに対し集団内での個人の自立性が高く,自己の財産ないし出資持分を提出し,かつ企業の運営にあたるべきだという態度を尊重する集団では,意欲と能力ある人物に出資持分と経営権を継承・譲渡される制度が採用される。このような人物には経営者としての資質を向上させる努力が要求される。このような習慣のなかでは,同族たちもしかるべき後継者を育成し,不適当な人物を後継者から排除するよう努めるであろう。このわく組の中では,出資持分は一族のなかの適当な人物へ譲渡するルールが作られる。そうした意味では,同族内での所有という制約はあっても,営業資本は譲渡と分割の可能な共有的な性格となる。ごく初期を除くデュポンやロスチャイルドの営業資本の所有の性格は,こうしたものであったと思われる。このような家々では,企業規模が巨大化しても,所有者たちは基本的には企業職能を維持し,専門経営者に職務を委任するとしても,その業務の委任は,ある特定の職務の委任という限定的なものとなるだろう。
これに対し,出資者たちに企業職能の持主たることが必ずしも要求されない場合には,経営の委任は,形式上はともかく,実質的には経営の全般を委任する無限定的な委任になる傾向をもつだろう。さきに紹介した9例は,この説明をしているように思われる。
(1) ロスチャイルド家の例
ロスチャイルド銀行の顧問は,パリの同家について次のようにのべている25)。
最近ではロスチャイルドも新しいやり方を身につけた。1950年以降,ギュイはロスチャイルド銀行で新しい考え方をスタートさせた。以前ロスチャイルド家は,新規事業にただ1人で投資し,独力で開発,それから支配権を握ったまま,1部株式を売り出すのが常だった。今日,ロスチャイルド銀行は昔以上の大銀行となったが,大会社の新規発足の必要資金は,一個人企業で全額負担することが不可能なほど巨大となっている。第1次大戦後ロスチャイルド一族が新規開発をさけてきたのも,このためである。いまや一族は開発の真只中にある。ギュイは参加という考え方をとっている。彼は当初から他人の資金をうけ入れ,自分は発起人,まとめ役であり,さらに保証人として活動している。持分の程度はともかく,ギュイは自分の名前のもつ精神的資本を投資している。もちろん彼はきびしい管理・統制を維持しつづけている。
パリのロスチャイルド家の当主ギュイが企業職能をもっていて,ロスチャイルド銀行の政策を決定している様子が画かれている。同家のような古い大企業には,当主の活動を補佐する専門経営者が雇用されていた。例えばポンピドウ元大統領も,かつて同家の経営者であった。当主(資本所有者)と専門経営者の機能上の分担の解明が必要である。
(2) デュポン家の例
デュポン家では,1899年同家の事業が株式会社に改組され,E・I・デュポン・ド
ヌムール株式会社として発足したのち,社長が1902年1月末死んだ。このとき社長の地位を継承する適任者が一族のなかにいないと考えたデュポン社の株主(一族)たちは,同社を競争会社のラフリン・アンド・ランドに売却することを内定したが,アルフレッド・Iが購入を申し出て,これに成功し,2人の従兄弟トーマス・コールマン・デュポンと,ピエール・サミュエル・デュポンを加えて所有と経営とを引継いだ26)。
ここに現れているのは,デュポン社はあくまで所有者が経営をなすべきだという考えである。だから経営の適任者がいないと考えたときには,伝統ある企業を売却する手はずを整えたのである。
営業資産の共有的な所有形態であったロスチャイルド家とデュポン家の企業経営が所有者による経営であったことに関してももっと詳細に調べる必要があるが,これらは同族による経営という点で世評をえている企業である。総有的な営業資本の所有者であった日本の財閥と大いに違う点である。共有のようにより独立性の強い所有者の方が,より強く経営への関心をもったためであろうか。日本の三菱財閥の場合も,営業資本は岩崎両家の共有的な所有に近かった。まだ不十分であるが,以上のような形で所有の比較と関連させて経営の比較を行うことにより,所有と経営の国際比較を前進させることができるのではなかろうか。またそのことにより,現代における諸企業の性格の解明は促進されるのではなかろうか。


1)そのなかで,津田眞澂,間宏,小池和男氏の諸研究は実証的で建設的であると思う。
2)私はすでに次の2著によって同族企業の国際比較を試みている。安岡重明『財閥の経営史』日本経済新聞社,1978年。安岡重明編著『日本の財閥』(宮本又次,中川敬一郎監修『日本経営史講座』第3巻,1976年,日本経済新聞社)所収の「日本財閥の歴史的位置」。
3)我妻栄『物権法(民法講義II)』昭和27年,岩波書店,208ページ以下。川島武宜『所有権法の理論』昭和24年,岩波書店,200ページ以下による。
4)最近の研究としては,安岡重明「日本資本主義と家」(同志社大学人文科学研究所編『共同研究日本の家』1981年,国書刊行会)。
5)昭和10年代には,住友・三菱・三井の順で財閥本社が株式会社形態に改組された。
6)森川英正『財閥の経営史的研究』昭和55年,東洋経済新報社,11ページ以下では,番頭と専門経営者とを区別しているが,両者ともほぼ全面的に経営を委任されている点では,同質性をもつ。私の森川氏著書についての書評(『経営史学』第16巻2号掲載)
を参照。
7)小橋一郎「共同所有形態について」(同志社大学人文科学研究所第二研究会報告」,1980年9月22日)による。
なお明治民法における戸主の財産について,次の指摘がある。
「わが民法起草者は,農民人口が国民人口の重要部分をしめていた事実を無視し得なかったので,民法全体の近代的財産制度とこのような家族団体とを調和せんとして,一種独特の「家族制度」と「家督相続」とを規定した。すなわち家族構成員はすべて完全な近代的権利能力者であり(第1条,第748条),家産は家長(戸主)の個人財産となり家産としての法的拘束を失ったが,なお家督相続(単独相続)制度によって実質的には家産たる性質をある程度において保持しようとする」。川島武宜『所有権法の理論』昭和24年,岩波書店,208ページ。
ここにのべられているように,戸主の財産は個人財産としての法的性格となったが,事実上は家産としての性格を帯びており,したがって,その財産は総有ないし合有的性格をもち続けたと考えられる。
8)我妻栄,前掲書,212ページ。
9)財団法人三井文庫編『三井事業史』資料編3,1974年,安岡重明『財閥形成史の研究』1970年,ミネルヴァ書房,に三井家憲の全文が掲載されている。
10)明治22年の鴻池家憲法の基本線は,同32年の改訂後も継承されている。両者を比較したものとして,廣山謙介「明治・大正期における鴻池家の企業活動(1)」(『大阪大学経済学』29巻1号,昭和54年)。
11)安岡重明「商家における家憲の成立(試論)-住友家法のかくれた部分との関連において-」同志社大学入文科学研究所刊『社会科学』24号,1978年。
12)白柳秀湖『住友物語』千倉書房,1931年,229ページ。
13)『安田保善社とその関係事業史』安田不動産株式会社刊,1974年,114ページ以下。
14)岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会『岩崎弥之助伝』上巻,昭和46年,同会刊,297ページ。
15)『三菱社誌』東京大学出版会,1980年,21,961ページ。
16)以下の事例は主として,安岡重明前掲『財閥の経営史』による。
17)ロスチャイルド家の歴史に関する文献だけで1つの図書館ができるほどだといわれているが,手に入りやすいものとして,ジャン・ブーヴィエ著,井上隆一郎訳『ロスチャイルド』1969年,河出書房新社。フレデリック・モートン著,高原富保訳『ロスチャイルド王国』新潮社,1975年。中木康夫『ロスチャイルド家』1980年,誠文堂新光社。
18)W・H・A・カー,森川淑子訳『デュポン』河出書房新社,1969年。
19)J.K.Winkler, Du Pont Dynasty, 1935.
20)M.Duke, The Du Ponts, 1976, 129ページ。
21)以上は,諸田実『クルップ』東洋経済新報社,1970年による。
22)浦田誠親「クルップ家の終焉」,『世界週報』1967年9月5日,48巻36号。
23)伊藤正二「インドにおける財閥の出自について(19世紀~第1次大戦)」『社会経済史学』第45巻5号,1980年。伊藤正二「インドにおける大財閥の同族的性格の再検討」
『経済と経済学』1978年3月。広田勇「インドにおける家族的経営の成立事情-パールスィー・ブルジョアジーを素材として-」『商学論集』(同志社大学大学院)第14号,1979年。ここでは主として広田論文によった。
24)広田氏は,中川敬一郎氏の説(『比較経営史序説』246ページ。東京大学出版会,1981年)により,家業から家族的経営をへて企業にいたると考えている。
25)モートン前掲訳書,249ページ(一部安岡が改訳)。
26)カー前掲訳書,188ページ以下による。