技術と農村社会

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土地改良投資と農業経営

著者名: 今村奈良臣
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次
1 課題・・・・・・・・・・2
2 農業構造の変貌・・・・・・・・・・3
 (1) 農家戸数の変動・・・・・・・・・・3
 (2) 農家兼業化の進展・・・・・・・・・・7
 (3) 土地利用の構造変化・・・・・・・・・・11
 (4) 畜産の展開・・・・・・・・・・16
 (5) 農業生産の構成変化・・・・・・・・・・19
 (6) 農業の機械化の進展・・・・・・・・・・22
3 典型農家の事例分析・・・・・・・・・・26


1 課 題
 波田町は梓川右岸に位置し梓川扇状地の扇頂部にある農村である。標高は600メートルから900メートルにわたっており,典型的な河岸段丘の発達がみられ,そのため,波田町は河段段丘の低い方から順に「下の段」「中の段」「上の段」と通称されて地域区分がなされてきた。ただ,別稿で述べられているように,「下の段」は和田堰の用水路が通っていた関係で和田堰の用水がかりであるだけでなく,用水路設置の代償として水利費負担はなく永代無料使用の特権が与えられていた。だから水害にあった場合は不作になるものの旱ばつによる被害はまず考えられなかった。
 こうした「下の段」に対し「中の段」「上の段」は波田堰がかりであった。波田堰成立の経過,波田堰維持のためには波田町役場そのものが一般行政の一部として波田堰土木委員会を議会内に設置し管理運営にあたっていたこと,村一般会計予算に波田堰土木費を計上していたこと,水管理人制度を置き厳しい用水管理と番水制度をとっていたことなど,慣行水利権の存在のために常に被害者の立場におかれてきた。
 そのため,用水不足と用水の不安定は毎年のようにくり返されてきた。わが国の主穀たる米の栽培への関係地区農民の渇望は強く,開田するためには水権の売買もなされていたのである。
 用水不足,用水不安定にちなむ言葉がこの地区に数多く残っているのも,当時の実情と農民の水に対する渇望を表現したものであろう。
 例えば「掛け回し」というのは一般的には番水のことを言うようであるが,ここでは一番水のことを言い,その水が入るかどうか農民が血眼で見守った言葉である。また「切り上げ田」という言葉もある。これは,水稲作付けは見込みがないから,大豆でも播けということを意味した。「アラクレジマイ」という言葉もある。「アラクレ」とは荒代のことで,この地区では代かきは水持ちをよくするために「アラクレ」「ナカマワシ」「シロゴサエ」と一般的には3回行なったが,その最初の代かきで,この言葉の意味するところは,水田の全面に1回目の水が入ったことを祝う言葉であった。もし「アラクレジマイ」にならなければ「切り上げ田」になるということである。
 こうして用水の状態いかんに左右される農業であったが故に,逆に春作業期全精力は水田に注がれ,畑作などの集約経営部門の拡大は不可能であった。この時期この地区で経営の柱となったのは養蚕であったが,1930年代初頭から始まる昭和農業恐慌の過程で繭価は暴落し,それから立直るかにみえた時には戦時食糧増産政策のもとで桑園からイモ,豆類,雑穀への転換が強制的に奨励され,第2次大戦後に若干の回復はみるものの化学繊維の普及におされ,60年以降の農家兼業化の波にさらされて養蚕は衰退の一途をたどるのである。
 このように波田村の戦前の農業は用水不足,用水不安定に規定された不安定な米作と,価格変動の激しい繭価に規定された養蚕の2つの非常に不安定な柱に支えられた農業であった。この型は基本的には第2次大戦後も続くのであるが,1970年前後を画期に波田村の農業は大転換を行うことになる。
 すなわち,1971年6月の国営中信平農業水利事業の完成により,用水供給が潤沢になるとともに安定し,その国営灌概排水事業の一環として「中の段」「上の段」を中心に1968年から73年にかけて大規模な土地改良投資が県営事業として行われた。すなわち286.5ヘクタールにわたる水田の区画整理,幹線用水路855メートル,支線用水路26,739メートルの整備,幹線排水路3,294メートル,支線排水路1,605メートル,幹線道路3,322メートル,支線道路24,871メートルなどの設置が,総事業費4億5601万5千円で行われたのである。受益地10a当りにして159,600円であった。
 この画期的な総合的土地改良事業の実施により波田村の農業の構造は大きく変化し,農業経営の新たな方向への展開がはじめてみられることになった。
 そこで,まず,その変貌の過程を各種農業統計により明らかにし,ついでその実態を農家調査により明らかにすることにしよう。

2 農業構造の変

 (1) 農家戸数の変動
 波田町の農家戸数は1975年現在1,093戸である。しかし,第2次大戦後農地改革が行われた直後の1950年農業センサスによれば,1,149戸であり(第1表),その時点からみれば,56戸の減少になっている。農家戸数は1950年から65年にかけて漸減していたのが,70年には若干増加し,75年には再び減少するという変動を示している。
 経営耕地規模別農家構成の変化についてみるとつぎのような点が指摘できる。波田町の農家1戸当経営耕地面積は第1表にみられるようにこの25年間ほぼ一貫して90アール前後であった。こうした点からみても1ヘクタール前後の経営規模のところに農家が集中していることがうかがわれる。すなわち,農地改革後の1950年にもっとも多数をしめていたのが,0.5~1.0ヘクタール層の325戸,1~1.5ヘクタール層の287戸であり,この両階層で全農家の53%がしめられていた。同時に,0.3ヘクタール未満という零細規模の農家も18%もあり,これに対して2~3ヘクタールの大規模経営は僅かに46戸,4%にしかすぎなかった。
 波田村(当時は村制,1973年より町制)における農地改革前の土地所有の構造と地主=小作関係の推移は明らかでない。『長野県における農地改革』(長野県農地改革誌編纂委員会編,信濃毎日新聞社刊,1949年)によれば,農地改革の結果は次のように統計的に記載されているのみである。
 農地総面積計 1,016.9町
 水田 478.1町
 畑 538.8町
 買収・管理替面積計 528.72町
 水田 225.52町
 畑 303.20町
 売渡面積計 516.94町
 水田 222.86町
 畑 294.08町
 国が買収または管理替を行なった面積はすべての小作地について行なったわけではない。在村地主については1ヘクタール未満の小作地の保有を認めたために,なお若干の小作地は残存するのであるが,それを考慮しないで買収・管理替の農地面積が小作地のすべてであったと考えると,農地改革前の小作地率は次のようになろう。

 小作地率(買収・管理替面積/農地総面積)51.99%
 同 水田(同上) 47.17%
 同 畑(同上) 56.27%
 もちろん,これは買収・管理替の農地がすべて小作地に限定されていたという前提にたっているのであるが,こうした仮定のうえで計算をすれば,上記のように小作地率は,農地全体については約52%,水田については47%,畑については56%ということになる。
 水田の小作地率が相対的に低く,畑の小作地率が高くなっているが,この傾向は日本全体の農地改革前の構造とは異なっている。その理由は,恐らく,これまで述べたように波田堰にかかわる用水供給の不安定さのため,水田の生産力が低く,それが地主制の成立を安定的なものにしなかったであろうということと,それにひきかえ,畑においては桑園の植栽と養蚕業の成立・展開を背景に小作地率が高くなったのであろう。
 このようにして,農地改革は0.5~1.5ヘクタールの経営規模の階層を中核に,零細な自作農を広範に造りだしたが,そこで創りだされた自作農は,1960年代以降の経済成長の過程で分化をとげていくことになる。
 経営耕地規模別の階層分化が顕著に進展をみせるようになるのは1970年を転機としてであった。後掲第1表にみられるように,1965年以前と1970年とでは農家の階層構成は大きく異なってくる。まず,それまで波田村の農家の中核として存在していた1~1.5ヘクタール層および1.5~2ヘクタール層が大幅に減少し,かわって2~2.5ヘクタール層,2.5~3ヘクタール層ならびに3~5ヘクタール層という,相対的に大規模な経営階層が増加してくる。他方,こうした上層の増加の対極として0.3~0.5ヘクタール,0.3ヘクタール未満層といった零細規模階層も増加してくるのである。農地改革直後の1950年には0.5ヘクタールから1.5ヘクタールにわたる階層は全農家の53.3%をしめていたのであるが,1970年には同じ階層が47.2%へと減少し,2ヘクタール以上の大規模層と0.5ヘクタール未満の零細規模層へと階層分化をたどってくることになる。この1970年に認められるようになった傾向は70~75年には一段と顕著にすすみ,大規模農家階層の増加,中間層の減少,零細規模層の増加がみられる一方,5年間に70戸,減少率にして6%の離農もみられるのである。
第1表 経営耕地規模別農家構成の変化(波田町)
 この波田町にみられる農家の階層変動は,ひとり波田町にみられた現象ではなく,日本全国にわたってこの時期みられた現象であった。経済成長の過程で労働市場は拡大し,農家からの労働力が減少し,農家の兼業化は深化するとともに,他方では農業の機械化の進展がみられ,それをてことして規模拡大をはかる農民群が出現することになる。こうして農地改革により創出された平均経営規模1ヘクタール前後の自作農は,兼業化により規模の縮小をはかるものと,農業専業により経営規模を拡大するものとへの分化がみられることになったのである。
 しかし,波田町ではこのような全国共通の一般的事情に加えて特殊的条件が存在していた。それは前述のように国営による用水改良事業を中心にして1968年から着工された県営圃場整備事業により,大区画整理による耕地条件の改善,用・排水条件の改善,農道整備など一連の農業生産基盤の整備により,波田町の,とりわけ河岸段丘上の農業は一変することになる。従来は牛・馬か小型耕耘機しか利用できなかったのが,大型トラクターをはじめさまざまな大・中型機械が利用できるようになっただけではなく,水稲の収量も安定し大幅に上昇することになり,それを基礎に畑作における商業的農業の展開の契機が与えられることになる。こうした波田町農業をとりまく特殊的事情の変化が,農家の階層構成の変化に大きな作用を与えるのである。

 (2) 農家の兼業化の進展
 農地改革後の1950年には専業農家が2分の1,第1種兼業農家が4分の1,第2種兼業農家が4分の1をしめていた(第2表)。しかし,経済成長の過程で労働市場の拡大とともに専業農家は急速に減少し,農家の兼業化は大幅に進展する。1960年以降,第2種兼業農家は一貫して増加し,60年から75年にかけての15年間にほぼ2倍に達し,75年には農家全体の60%が第2種兼業農家になるのである。それに対し,第1種兼業農家の動きをみると,60年から65年にかけては農家数は増加するものの,70年以降はかえって減少することになる。これは全国動向と軌を一にするのであるが,この時期に第1種兼業農家から第2種兼業農家への移動が大幅にみられたということである。兼業農家の8割以上は第1種,第2種とも,雇用兼業農家であり,そのなかの大部分は恒常的勤務であって,出稼ぎ,人夫・日雇の臨時的雇用はきわめて少ない。松本盆地に60年代以降立地してきた工場労働者ないし各種企業への職員勤務が中心になってきているといえよう。
 ところで第2種兼業農家のなかで注目しておかなければならないのが自営兼業農家の多いことである。後掲第2表によれば,1975年には112戸を数え,農家全体に対する比重も10.2%に達していた。この自営兼業の内容は統計的には詳しくは判らないが,林業,漁業などの自営兼業ではなく,商店,工場,企業などの自営によるものと考えられる。とくに,松本盆地に立地する各種企業の下請工場を農業と兼営しているとみてよいであろう。いわゆる農村零細工場あるいは,公共事業などを対象にした建設業などがそのおもなものであろう。
第2表 専業・兼業別農家構成の変化(波田町)
第3表 農業就業状態別農家構成(波田町)
第4表 耕地の推移と構成変化(波田町)
 こうした兼業化の進展の結果,専業農家は70年には191戸に,75年には179戸に減少してしまう。75年にはこれら専業農家のうち41戸は「生産年齢人口のいない世帯」つまり老人農家でしめられており,本来の専業農家は138戸,全農家の12.6%しかしめていないのである。しかし都府県平均の老人農家を除く専業農家率8.2%,長野県平均の8.3%にくらべればかなり多くの専業農家が存在していることになる。
 兼業化の深化は,当然のことながら農業労働力のいない農家階層の増加を意味する。農業就業者の就業状態という視角からこれらの農家をとらえてみると第3表に示したような結果が得られる。この農家分類による統計は1970,75年の両年だけしか得られないが,これによれば「専従者なし」(なお「専従者」とは調査日前1年間150日以上自家農業に従事した者のことを指す)という農家は70年から75年にかけて大幅にふえ,全農家の43.1%に達しており,また「専従者女子だけ」の農家は17.4%で5年間にほとんど変化はなく,「男子専従者がいる農家」は75年には大幅に減少して39,5%になっている。しかし,75年の都府県平均では,「男子専従者のいる農家」は31.7%にすぎず,また長野県でも33.2%であることからみると,波田町の「男子専従者のいる」農家率はかなり高いものといってよいだろう。
 そして,「専従者のいる農家」のうち,4分の3近くは60歳未満の男子専従者がいることになっている。しかし,男子専従者が2人以上もいるという農家は少なく,その大部分は専従者1人である。
 このように波田町では,男子専従者のいる農家の比率が他よりも比較的高いのであるが,それは水稲作と畑作あるいは果樹部門などが組合わされた複合経営の展開がみられているためである。前述のように68年から圃場整備事業が実施されたが,それ以前は水稲作が不安定であるため畑作には非常に多くの作目がとり入れられていたものの,商品生産はそれ程顕著には進まなかった。しかし,圃場整備が実施され,水稲作の生産性が顕著に上昇するとともに,畑作部門の重点的拡大による商業的農業の展開が可能となってきた。兼業化の進展のなかで専業農家率がこの波田町では比較的高いこと,「男子専従者のいる農家」の割合が高いということは,以上のような事情がその背景にあると考えてよいのである。そこで波田町における土地利用の構造変化を検討することにしよう。

 (3) 土地利用の構造変化
 まず,総耕地面積の推移を第4表により確定しておこう。農地面積をしるにはさまざまな統計があるが,年次変化をとらえるうえからも,農家統計との関連をつけるためにもここでは農業センサスの数字によることとする。農業センサスの耕地面積統計は耕地面積調査などの数字よりも一般的には低くなる傾向があるが,誤差率が年次により異ならないとすれば絶対値はともかく年次変化を知るうえでは支障はない。
 波田町の総耕地面積は農地改革後の1950年には1,023ヘクタールであった。これが1960年にかけて原野の開田などにより20ヘクタール余り増加するが,それ以降は農地の壊廃が進み減少を続け75年には960ヘクタールになっている。1950年を基準にとれば25年間に6%の減少であるが,都市化の進展が顕著にみられないこの地域では減少率は著しく低いといってよいであろう。
 ついで地目別にその変化をみよう。1950年に水田は481ヘクタールであった。このうち,用水不足のためもあったのであろう。この年には水稲作付面積は475ヘクタールにとどまっている。水田は5年ごとの調査のたびに10~20ヘクタールずつ増加し,75年には548ヘクタールに達した。しかし,1965年以降の米過剰に対処する作付制限政策により,水稲作付面積は水田面積よりも,65年には5ヘクタール,70年には3ヘクタール,75年には実に52ヘクタール少なくなっている。とくに75年には水田のうち水稲を作付しなかった水田が水田面積の1割近くにも達しているが,これはのちにみるように水田にスイカを作付し,スイカの主産地を形成してきたためである。
 それはともかく,このように水田が増加してきたのに対し,畑はほぼ一貫して減少してきている。1950年には369ヘクタールもあった畑は年々減少を続け75年には306ヘクタールと50年に比べて実に,20%近くの減少を示した。とくに70年から75年にかけての5年間に36ヘクタール,10%以上の減少を示しているが,これは71年に用水改良事業が完成し,用水供給が潤沢になるとともに開田が圃場整備事業の一環として行われたためである。
 樹園地の動向も注目に値いする。樹園地全体は1950年の173ヘクタールから25年後の75年には107ヘクタールと40%近く大きく減少する。しかし,樹園地のうち果樹園は50年の19ヘクタールから75年の83ヘクタールへと4.4倍に増加するのであるが,桑園が50年の154ヘクタールから75年には僅かに24ヘクタールへと激減してしまう。この減少テンポで進めば恐らく1980年には桑園は事実上姿を消してしまうことになるであろう。
 以上のような結果,耕地の地目構成は,農地改革後の時点から現在にかけて大きく変化したのである。すなわち50年には,水田47%,畑36%,果樹園2%桑園15%という構成であったものが,25年後の75年には水田57%,畑32%,果樹園9%,桑園2%というドラスチックな変化をみせたのである。
 そこで波田町における作付作目の構成変化を地目構成の変化と関連づけながらとらえておこう。
 第5表は各年次の農業センサスを整理した波田町の作目別栽培戸数と栽培面積の推移である。もちろん,これによって土地利用の構造変化そのものはとらえられないが,おおよその類推はできるであろう。なお,作目数はここに表示したものの2倍近くはあるが,作目のとり方がセンサス年次により異なっていること,きわめて栽培面積の少ない自給的作目については表示してもあまり意味がないことなどの理由で割愛した。
 さて,まず1950年から考察しよう。
1950年の時点でもっとも多くの農家が作っていたのは,ばれいしょと麦類であった。それぞれ栽培農家数は1,057戸,1,041戸をかぞえていた。それについでかんしょが多く938戸にも達していた。これらに比べ水稲栽培農家数はかなり少なく913戸にすぎなかった。つまり波田町の農家は水稲を作りたいと渇望していたにもかかわらず,用水不足のため水稲を作れないという農家が140戸程あったということである。それらの農家は水稲の代りに陸稲を作っていたわけである。陸稲栽培農家が実に183戸を数えている。そのほかだいず栽培農家908戸,あずき550戸,さらに栽培農家数は判らないが,恐らく波田町の大部分の農家が作っていたと考えられるものにあわ,ひえなどの雑穀がある。
第5表 主な農作物の栽培戸数と栽培面積の推移
1950年という時点では食糧不足がまだきびしいという事情にあったとはいえ,水稲が植えられるところには水稲を,植えられない畑や用水の欠乏している水田にはあわ,ひえなどの雑穀,豆類,さらに裏作には麦類などを栽培し,残った畑に野菜などの作付をしていたといってもよいであろう。そしてそのうえにさきにみたように桑園が154ヘクタール存在していたのである。つまり米と繭と雑穀の経済であったし,それに規定された土地利用だったのである。その点を収穫面積についてみると,もっとも多いのが水稲の435ヘクタール,ついで麦の183ヘクタール,桑園の154ヘクタール,雑穀類の144ヘクタール,だいずの74ヘクタール,ばれいしょ,かんしょのいも類の50ヘクタールとなっており,野菜類でもっとも多いものでもだいこんの25ヘクタールにすぎなかった。
 1950年にみられたこうした土地利用の構造は60年代に入ると漸次変化してくるが決定的な変化はもたらされてなかった。
 水稲作付農家,栽培面積ともに増加し,陸稲は大幅に減少するが,麦類,雑穀,いも類,だいずなどの栽培農家はそれ程減少せず,栽培面積も50年に比べて半減した程度であった。しかし,前述のように桑園がこの時期には大幅に減少する反面,果樹類の植栽が増加し,トマトや種苗,苗木類という商品作物が増大してくる。
 そこで,果樹栽培の動向について簡単にみておくことにしよう(第6表)。
第6表 果樹栽培農家と面積の推移(波田村)
 この地区では戦前からりんごの栽培が若干ながら行われていた。農地改革後の食糧難の時代にあっても,1950年には368戸で15ヘクタールが作られていた。1戸当り平均でみれば僅かに4アールにすぎなかった。そのりんごが60年から65年にかけて大幅に増植が行われ,65年には栽培面積56ヘクタール,うち成園面積38ヘクタールに達する。しかし,70年代に入ると貿易の自由化によるバナナの輸入増大,兼業化の進展,在来品種から高級品種への転換などにより栽培農家,栽培面積ともに減少することになる。
 また,この波田村にはりんごと並んでぶどうもあった。1950年に122戸で5ヘクタール,これも1戸当り4アール程度のものであったが,これは60年代に入るとともに栽培戸数は大幅に減少し,栽培面積も変動をくり返すが,75年には67戸,18ヘクタール,1戸平均27アール程度の新品種を中心にした専業的ぶどう栽培農家もあらわれてくるようになる。
 いま1つの果樹はももである。ももは1950年には農家の自給的存在にすぎなかったが,70年代に入ると栽培戸数は増加し,栽培面積も18ヘクタールに達している。
 75年現在,りんご栽培農家率は15%,ぶどう栽培農家率は6%,もも栽培農家率は10%となっており,30%弱の農家がなんらかのかたちで果樹栽培に関与しているとみてよいであろう。
 そこでふたたび,全体の土地利用の現状を考察しよう。
 1975年には栽培戸数,栽培面積とももっとも多いのはいうまでもなく水稲である。しかし水稲栽培戸数も稲作転換政策のもとで,栽培戸数は農地改革後の水準まで減少し,作付面積も最盛時よりも大輻に減少し,462ヘクタール程度になっている。また麦類の栽培戸数は僅かに9戸,栽培面積はほとんど皆無になった。雑穀,ばれいしょ,大豆なども自給程度にすぎず,商品作物たるトマトやたばこなども非常に減少してしまった。そしてこれらに変ってスイカ,花卉,種苗,苗木類がだんだん増加してきている。また表示はしていないが,のちにのべる畜産の増加にともなう牧草(11ヘクタール),青刈とうもろこし(25ヘクタール)などが75年にはみられ,さらにこの地域の特産である長芋の作付が増加している。
 とくに注目すべきはスイカであろう。60年には僅か3ヘクタールであったものが70年には18ヘクタール,75年には190戸の農家により54ヘクタール,1戸当り平均28アールにも達し,波田町の特産物にのしあがってきたのである。
 こうして,全体としては兼業化の進展とともに作付作目は減少し,土地利用率も低下してくるのであるが,米を基礎にして,スイカ,長芋などの特産物,それに果樹あるいは畜産といった商品生産部門を加えた複合的経営と土地利用形態が,60年代末から70年代初頭にかけての用水施設改良,圃場整備を契機に定着してきているのである。

 (4) 畜産の展開
 以上,土地利用の構造変化と作目の構成変化を検討してきたが,次に畜産の展開について概観しておこう。
 1950年から75年にかけての家畜飼養の推移を第7表に示した。
 1950年の段階でもっとも一般的な家畜は鶏であり,609戸で飼養され飼養農家率は53%に達していたが,1戸当り僅かに4羽程度でまったく自給的なものにすぎなかった。次いで多かったのが,役肉用牛と馬であり,いずれも主たる目的は役用であり,場合によっては繁殖の結果得られた仔畜を売る程度であったのであろう。しかし,それらはいずれも1戸当り1頭であり,牛・馬あわせても全農家の半分弱しか飼養していなかった。役牛・馬がいない農家では,耕耘や整地は人力にたよるしかなかったし,運搬も人の背によるより方法がなかったわけである。豚や乳用牛飼養農家はそれぞれ94戸,25戸にすぎず,いずれも1戸当り1頭程度であり,農家副業の位置をでるものではなかった。
 こうした畜産のかわりに支配的であったのが養蚕である。1950年には573戸で飼育され,収繭量は1戸平均73キログラム程度にすぎなかった。
 こうした家畜飼養の構造も60年代になると大きく変化してくる。乳用牛飼養農家が急激に増加し,飼養頭数もふえ,1戸当り飼養頭数も1.5頭になるものの1~2頭飼養農家が大半であった。また役肉用牛飼養農家も60年にはふえて飼養農家率は27%に達するが1頭飼いであった。鶏,豚ともに飼養農家,頭羽数ともにふえるが,いずれも自給的性格の強いものであり,馬ははやくも減少に転じ,養蚕もこの年が収繭量ではピークであった。
 60年代なかばから70年にかけては家畜飼養の構造は急激に変化する。それは耕耘機,トラクターの普及により役牛馬が追放されることになり,兼業化の進展は家畜飼養と相いれないことになる。
 70年をみよう。乳牛飼養農家は60年をピークに減少し70年には飼養農家53戸,飼養農家率4.6%になるが,飼養農家の規模拡大がみられるようになる。役肉用牛も60年代半ば以降は役牛としてではなく,肉牛としての飼養に決定的に転換されていく。それとともに飼養農家数は減少するが(11.9%),飼養頭数は増加し,1戸当り飼養頭数はほぼ3頭に達する。豚もほぼ同様の傾向をたどり,飼養農家は減少するが飼養頭数は大幅に増加し,1戸当り頭数も増加することになる。さらにこの時期になるとブロイラー飼養農家もあらわれ,7戸で54,000羽という大規模飼養形態が出現する。しかし採卵鶏は基本的には自給的存在として存続している。
第7表 家畜飼養の構造変化(波田町)
第8表 波田町の農業粗生産額の推移
 役馬の飼養も決定的に減少し,僅かに70年には18戸で19頭が飼養されるにとどまるのである。また養蚕も飼育戸数はなお3分の1弱の農家で,飼養されるものの決定的に減少の方向に向うことになる。
 以上のような傾向は75年になるとより強まってみられるようになる。
 まず,乳用牛についてみると,飼養農家は僅かに28戸,飼養農家率2.4%になるが,1戸当り飼養頭数は急激に上昇し,11頭をこえるにいたり10頭以上飼養農家が10戸にもなっている。この点肉用牛についても同様であり,飼養農家率は5.1%に低下するものの,飼養頭数5.6頭に大幅に上昇している。豚もその点同じである。飼養農家数は僅かに39戸となるが,1戸当り飼養頭数は50頭にまで達する。ブロイラーも飼養農家は5戸,1戸当り2万羽飼養となった。しかし採卵鶏も飼養農家は減るものの自給の域を大きく超えず,また馬はまったく飼養されなくなった。養蚕は飼育農家は81戸に激減し,飼養農家率7.4%,1戸当り飼養箱数は僅かに3.4箱になってしまった。こうしてかつては全農家のなかば近くをしめていた養蚕農家は消滅寸前の状態になっているのである。
 また家畜飼養全体を通してみると,いずれの畜種においても副業的畜産農家は兼業化とともに消えさり,専業的畜産農家のみが残り,彼らが規模拡大を進めている姿がみられるのである。

 (5) 農業生産の構成変化
 以上,土地利用の構造変化および作目構成の変化,畜産生産の推移を概観してきたのであるが,こうした農業生産の構造変化を,農業粗生産額の構成の変化という視点から総括的にとらえてみよう。
 第8表は「農業所得統計」(ただし,1968年以前は「生産農業所得統計」による。計算の方法が若干異なるが基本的傾向をみるには差支えない)により,波田町の農業粗生産額の推移を示したものである。
 年次のとり方はこれまでの農業センサスにみられる年次と若干のずれはあるが,68年から73年にかけての用水施設改良,圃場整備の実施を契機に波田町の農業がいかなる変容を示しているか確認しておきたかったため,こうした年次のとり方をしたわけである。
 1961年にはまだ水稲作が不安定であった。そうした事情を反映して米の比重は41%,麦類,雑穀類が7%,いも類3%,野菜11%,果実4%,種苗・苗木・花き・工芸作物等の合計14%で,これらを合計した耕種計で81%,養蚕が9%,畜産が10%という構成であった。
 こうした61年の構成は68年にはかなり変ってくる。耕種計80%,養蚕6%,畜産14%と養蚕の比重が低下し畜産の比重が増加する。しかし耕種の中でも麦・雑穀,いも類が低下しかわって野菜のウェイトが高まっている。
 73年になると耕種85%,養蚕2%,畜産13%となり,畜産のウェイトは前期と変らないが,養蚕は決定的に減少してしまう。耕種のなかでは稲作転換政策の推進により米の比重が急減し,野菜および種苗,苗木類のウェイトが米と肩を並べるにいたるのである。もっともこの時期圃場整備事業が米の生産調整のための通年施行により一時的に作付面積が急減したことも作用している。
 こうして70年代に入ってみられた傾向は,基本的にはそのまま定着し,.米のウェイトの低下,野菜,種苗・苗木の比重の高まり,養蚕の決定的低下と畜産の比重増大である。
 以上のような農業粗生産額の構成の推移を第1図に直観的把握ができるために示した。73年の米の比重低下を通年施行による一時的変化とみるならば,米の傾向的比重低下と野菜,種苗・苗木類の比重増加,養蚕の凋落と畜産の比重増大をみてとることができるであろう。
 用水の不安定と不足のもとで波田町農民の米作への渇望は想像を絶するほど強いものであった。しかし,用水不足と不安定が解消し,圃場整備が行われたちょうどその時期,米の生産調整政策が実施されることになり,米作から他作目への転換が強制されることになった。転換はもちろんすべてスムーズにいったわけではなかったが,波田町の農民は2つの方向に分化をはじめた。1つの方向は,従来以上に兼業化への傾斜,非農業部門への就業の転換であり,いま1つの方向は野菜,とりわけスイカと長芋という特産物の主産地形成の方向であった。もちろんこのスイカ,長芋に加えて,種苗,苗木や養豚,酪農の生産拡大を志向する農家もあらわれたことはいうまでもない。
第1図 農業粗生産額の構成変化(総粗生産額=100)
 用水改良,圃場整備は以上のような意味で農業からの脱落=兼業化を一面で促進し,一面では農業における規模拡大の契機を与えたのである。
 そしてこの2つの異なった方向を可能にさせたのが,実は農業機械化の急速な進展であったのである。用水改良と圃場整備は農業機械化を一挙に促進させる契機になったのであるが,次に農業機械化進展の実態をとらえておこう。

 (6) 農業の機械化の進展
 波田村において耕耘機械がみられるようになるのは1960年農業センサスからである。第9表に示したようにこの年,駆動型耕耘機の個人有17台,共有4台,牽引型のテイラーの個人有15台,合計36の耕耘機械があるのでであった。さきに家畜の飼養状態でみたように役牛・馬が耕耘の主力であったのである。耕耘機の100戸当り普及台数は僅かに2.2台にすぎなかったが,役牛の普及率は100戸あたり28頭,馬は100戸当り15頭で,これを合計すれば100戸当り43頭にも達していたのである。この時期には農機具といえば,発動機,電動機,動力脱穀機などであり,もっとも普及率の高かった動力脱穀機でも共有も含めて100戸当り39台の普及率でしかなかったのである。
第9表 農機具の普及の推移(波田村)
 しかし,60年から65年にかけての5年間に耕耘機械,動噴,農用トラックなどが爆発的な普及をみせることになる。とりわけ耕耘機の普及はめざましかった。駆動型耕耘機,個人有46台,共有11台,牽引型耕耘機個人有332台,共有22台,合計411台に達する。耕耘機の大部分は10PS未満の歩行型のものであったが,7台ほどの個人有,共有が10~20PSの小型トラクターであった。その普及率は100戸当り36台に達している。
 こうした65年にみられた動きは,圃場整備の進行中の70年を経てそれが完成した75年には一段と強まってくる。
 1975年の耕耘機・トラクターの所有農家数は588戸に達し,個人有715台,共有32台合計747台に達する。その普及率は100戸当り68台にも達するのである。そして特徴的であるのは普及台数が多くなったという量的側面だけではなかった。小型トラクターから中・大型のトラクターが一段と普及し,質的変化がみられるようになったことである。20PS以上の大型トラクターは75年には個人有で22台,共有で16台も導入されている。
 さらにいま1つの特徴は動力田植機,バインダー・自脱型コンバインなどの収穫用機械が導入されたことである。これらの普及率は75年にはまだそれぞれ100戸当り17台,3台であったが,その後の普及率は高いようである。
 また水稲作の化学化に対応し,動力噴霧機や動力散粉機の普及率も一段と高くなっている。こうして圃場整備が完成することによってはじめて大・中型機械を中心にした農業機械化の進展が波田村でみられることになったのであるが,それらの普及は他の地域よりもほぼ5年のタイム・ラグをもっていた。それはいうまでもなく,生産基盤整備のたちおくれであった。しかし,ひとたび農業機械化が進むと水稲作の省力化は進み,生産性は著しく向上することになった。そしてそれを契機に前述のように,1つの方向として兼業の深化が,1つの方向として水稲作以外の部門における規模拡大が進行することになるのである。
 しかし,農業機械の普及は,その経営規模に比べて日本のその他の地区と同様過剰投資傾向がみられており,それは必然的に農業所得率の低下をこの地区でももたらすことになる。「農業所得統計」により推計してみるならば,第10表のような結果が得られる。すなわち,農業粗生産額に対する生産農業所得の比率をみると,1968年には58.4%であったものが,73年には56.3%,76年には56.2%に低下している。もちろん所得率の低下は農機具への過剰投資によるだけではなく,購入飼料依存の畜産部門の拡大にもよって起る。しかし,この場合には農機具投資に主たる原因があるとみてよいであろう。いずれにしても,このような投資の拡大がみられるなかで,1戸当り生産農業所得も増大し76年には128万円,10アール当り生産農業所得は127,000円に達している。これを都府県平均1戸当り985,000万円,10アール当り105,000円,長野県平均1戸当り852,000万円,10アール当り110,000円に比べてみれば,波田町の場合は,それらに比べて高くなっている。稲作の省力化による労働集約的複合経営部門の拡大の結果とみてよいであろう。
第10表 所得率と生産農業所得(波田町)
 しかし,以上にみられる農業機械の普及の反面,兼業の深化は,小型機械は所有していても利用せず,大・中型機械を駆使する農家あるいは農協などの農作業請負業者への作業委託を顕著に増大させてきている。
 1975年農業センサスの結果によれば,第11表のように水稲作業をなんらかのかたちで委託にだした農家数は543戸の多数にのぼっている。この年の水稲収穫農家戸数のうち58.9%にあたり(なお長野県では41.4%,都府県平均で.29.7%で波田町は高い),またこの戸数は第2種兼業農家のうち雇用兼業農家数にほぼ匹敵する数字である。もちろん,第2種兼業農家が水稲作業を委託にすべてだしたというのではなく,専業農家でもスイカ部門を拡大し,水稲作業を委託にだしている農家もいることであろうから,単なる量的類推にすぎない。しかし,いずれにしても半数以上の農家が委託にだすというのは非常に高い比率であることに違いはない。
 1975年の水稲の作業委託の内訳をみると,耕起がもっとも多く523戸で201ヘクタール,代かきが同じく507戸で189ヘクタールと,耕起,代かきの両者をあわせて委託にだしている場合が多いようである。なおこの耕起,代かきの委託面積の水田面積に対する割合はそれぞれ36.7%,34.5%になり,水稲収穫面積に対する割合をとれば,43.5%,40.9%という高い割合になってしまうのである。いずれにしろ,3~4割の水田の耕起,代かきが委託にだされているのである。ついで,田植が151戸,54ヘクタール,稲刈りが260戸,87ヘクタールとなっており,耕起,代かきにくらべれば,作業委託の割合は低くなるが,それでも水稲収穫農家数に対し,田植を委託にだした農家割合は16.4%,稲刈りは28.2%となり,水稲収穫面積に対し委託面積は,田植で11.7%,稲刈りで18.8%に達するのである。
第11表 水稲作業を請負いにだした農家
 このように委託面積が増大してきた直接的要因は,水田の圃場区画が1枚あたり20アールないし30アールとなり,大区画になったため,従来の小区画には便利であった小型の耕耘機では不便でかつ能率が低くなったために,大型トラクターなどを所有する農家あるいは組織に委託し,自らの所有旧型機械は更新したくないという理由によるのであろうが,基本的要因は兼業の深化により水稲作業に直接たずさわる余裕がなくなってきたこと,新型農機具に更新したとしても償却費負担が大きすぎるため,委託にだすという方向がとられてきていると理解しても差支えないのである。他方,規模拡大志向農家は,農作業受託を通じて事実上の規模拡大を行なっているのでありこの両者の利害の一致するところに,これだけ大量の農作業の受委託が発生しているのである。恐らくこれら水稲作業の委託農家は,いずれ将来,水稲管理労働力がなくなるのにしたがって,水田そのものを規模拡大志向農家に貸しつけることになるのであろう。統計的にはまだその動きは充分把握されていないが,われわれの農家調査では,そうした事例がいくつかみられた。なお,波田農協は,水稲作業委託希望農家が多いという実情のなかで積極的に作業受託を行なっているが,その実態については別稿にゆずる。

 3 典型農家の事例分析

 これまで述べてきたように波田町の農業,それもとくに「中の段」,「上の段」の農家の経営内容は1968年に着工された圃場整備事業を契機に決定的に変化することになった。その変化の内容と変化の契機を与えることになった圃場整備の意義を,農家調査事例のなかから典型的な農家を選びだし浮かびあがらせたいと思う。それはこれまで行なってきた統計的考察の結果をより具体的に意味づけることにもなろう。
 また,「中の段」「上の段」の農家の変貌の激しさに対し,「下の段」の農家は旧来からの恵まれた水利条件のうえにあぐらをかいてきたため,農業経営の変化も「中の段」「上の段」に対してドラスティックなものではなく,慣習的農業の域を脱しきれないまま,兼業化の波に呑まれてきているというのが実情のようである。それとの対比も浮かびあがらせることによって,圃場整備事業の農業経営に与えたインパクトを明らかにしよう。

 (1) S・S氏(上波田9区)
〔家族および労働力〕 家族は7人である。世帯主であり経営主であるS・S氏(農業高校卒)は1978年調査日現在,40歳,同妻36歳,父68歳,母68歳,祖父90歳,息子2人(13歳,11歳)の7人である。農業労働力は世帯主と妻は完全に農業に従事し,農業以外の仕事には一切でない。父,母はそれぞれ2分の1の労働力と評価してよい。
 〔経営規模〕 水田は合計5団地に136アール,畑は同じく5団地に合計120アール所有している。いずれも自作地で借入地,貸付地ともない。畑のうち1団地48アールについてはりんごを1974年に新植し,現在若干の収穫がみこまれることになった(なお,品種はいずれも新品種のフジ,ツガルである)。

 農地改革以前は約7.5ヘクタールを所有した地主兼自作で,ほぼ3分の1を自作し,残りは小作にだしていたが,小作にだしていた部分の半分は小作人に解放し,半分は分家(2人)に贈与したとのことである。農地改革以後,農地の交換分合をおこなったことはあるが,売買の事例はないとのことである。
 〔圃場整備前の農業経営〕 圃場整備事業はこの地区では1970年に完成した。圃場整備前の農業の姿をスケッチしておこう。経営の柱になる主な作目は米,養蚕,苗木であり,これに若干の野菜をとり入れるという経営の組みたてであった。S・S氏が高校を卒業したのは1956年であり,父とともに働くが,1965年までの特徴は,一言でいえば農作業が馬耕体系であったことである。馬により耕起,代かきを行ない,手植,手刈り,ハサカケ乾燥という水稲の作業体系であった。用水不足がはげしいため,代かきは一般的には3回,水持ちの悪い水田では4回分にあたる位ていねいに行なったという。当時の水田面積は現在と同じであるが,圃場区画が小さく分散していたため,耕起,代かきに20日間以上費していた。ただし,番水制度であったため連続して20日間働くのではなく,ものすごく働く日と働かない日があったということである。また,水田を得るためには土地を買うだけではなく,「水権」をもあわせて買わなければならなかった。用水の管理はすべて水管理人が行ない,耕作者は一切用水に手をかけることはしなかった。なお,水管理人に対しては圃場整備が完成する前年まで,土地改良区への負担金(そこから水管理人の給料は支払われる)とは別に「オコワ代」と称して,当時の金で約1,000円(酒にすれば2升)の祝儀を包むのを習慣としていたという)。
 1965年にS・S氏の家では耕耘機を購入している。それとともに耕耘には馬は不要になったが運搬用として,いつまでだったか正確でないが馬も飼っていた。耕耘機は基本的には馬と能率その他では変らず,やはり耕起,代かきには20日を要しており,やはり手植,手刈りの体系であったが,のちに述べるように45年の圃場整備が完成するとトラクターに変るので,耕耘機時代は非常に短かったということになる。なお耕耘機になっても水もれ防止のため代かきを3回行なったことは馬の時代と変りはなかった。この時代の養蚕についてはもっぱら父,母がやっていたのでよく知らないが苗木についてはS・S氏にゆだねられており樹種は主として緑花木としてのイチイでありそのほかさまざまなものも入れたが,それ程収益性は高くなかったので1965年にスイカに重点をおくことになった。S・S氏が上波田9区で最初にスイカ栽培に着手し,長芋-スイカ-スイカという土地利用体系をとり入れ,商品性の高いスイカと長芋でいこうと決心する。当初は水田のうち水利条件のよかった水田5アールに作付けしたが,スイカの定植期(露地で4月20日~5月20日)が水田の代かき,田植(ピーク時が5月15日)が重なるため,労働配分の点で苦労したが,圃場整備の完成する1970年頃には15アールに拡大していた。しかし,それ以上の拡大は水稲作との競合でできなかった。
 〔圃場整備の実施後の経営〕 圃場整備により圃場1区画が30アールとなるとともに用・排水路は完備し,農道整備も行われ,分散していた水田の集団化も行われた。とくに30アール区画の水田が3枚1ヵ所に集まり団地数も減ったので作業能率は高まることになった。
 だがもっとも大きく変ったのは大型機械化の進展ということであった。
 まず71年から11戸共同で大型トラクター3台(ファーガソン60PS,シバウラ30PS,インター60PS)を導入し共同利用組織を作った。それぞれのトラクターには,ロータリー,ハロー,ミニマア・スプレッダー,抜根機,苗木の根切り用スキ(苗木栽培に必要)などのアタッチメントもそろえた。その運営は11人のうち9人がオペレーターで,利用面積に応じて償還することとしたが,組織員以外からの耕耘,代かきの希望も強かったので作業請負を可能なかぎり行なった。償還金の負担が少なくてすむからである。なおその作業請負を行なったオペレーターには時間数に応じて,他産業なみの賃金として当初から4,000~5,000円(1日当り)を支払うなど配慮された。
 トラクターだけではなく田植機も72年に導入された。当初は種苗2条植を2戸共同で入れたが,のちに述べるようにスイカの作付拡大に対応し,78年には個人で中苗4条植を導入している。またトラクターと合わせて11人共同で71年にはバインダーを導入し,74年まで償却できるまで請負など行ないながらフルに使ったが75年には,11人のうちの水田の多い農家4人と共同で4条刈の自脱型コンバインを導入した。4人組とした理由は,コンバインの場合,2人の組作業を必要とし,2人組で持ち回り利用をした方が償却費負担も少なく,能率的であるだけでなく,北陸,東北地方などと違って松本盆地は秋の好天が多く持ち回り利用でも収穫適期を逃がさなくてもよいという利点があるからである。
 このように機械化が進んだ結果水稲の労働時間は大幅に減少することになった。従前の耕耘機,手植,手刈体系では,10アール当りにし次のような労働時間が必要であった。
 耕耘・代かきに 2人×1日=16時間
 田植 4人×1日=32時間
 稲刈 4人×1日=32時間
 以上 計 80時間
これに防除,除草,追肥などの管理労働を加えれば90時間はこえていたのであるが,トラクター,田植機,コンバイン,機械乾燥(農協ライス・センター委託)の体系に移ることによって20時間以下になってしまった。重要なことは単に量的に減少し生産性が上がったということだけではなく,スイカ栽培との競合がさけられることになったという質的変化の意義が大きかったことである。高能率の機械によるために,水稲作の適期をはずすことなく短時間でおこなえまたそのためスイカ栽培の規模拡大が可能になったことである。
 圃場整備後の71年にはスイカを従前の2倍の30アールにふやし,コンバインを入れた78年には90アールへと3倍にふやしている。つまり圃場整備により水稲の大型機械化が可能になり,その生産性向上により畑作の集約化と規模拡大が可能となっただけでなく,スイカの管理が凋密になり(ハウス,トンネル栽培の導入),スイカの品質向上,単価の上昇ひいては所得の大幅上昇がもたらされたのである。現在,労働力3人でハウス20アール,トンネル30アール,露地40アールものスイカの大栽培農家になったのである。圃場整備前はどれだけ努力したとしても15アールが精一杯だったというから,単純に比較してもスイカを6倍に拡大しただけでなく,ハウス,トンネル栽培という集約化にも成功したことになる。
 こうして,用水改良,圃場整備は,この地区では水稲の機械化を促進し,集約畑作部門の拡大を通じての農業所得の飛躍的上昇というインパクトを与え,農業経営の構造を一変させることになったのである。