金融制度

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金本位制下の在外正貨

著者名: 斉藤寿彦
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1981年
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 目 次
Ⅰ 金本位制の対外的機能・・・・・・・・・・2
Ⅱ 政府海外預ヶ金・・・・・・・・・・8
Ⅲ 日清戦争賠償金の保管・・・・・・・・・・13
Ⅳ 日清戦争賠償金保管金の機能・・・・・・・・・・27
Ⅴ 日露戦争以後の在外正貨・・・・・・・・・・42
Ⅵ 日本の在外正貨の対外的性格・・・・・・・・・・54

* 文献の引用にあたって,漢数字は原則として算用数字にあらためた。

 日本の金本位制は,国際決済上正貨の現送に代る効用のある状態で外国に保有される在外正貨に依存した金貨本位制であった。このような金本位制は,在外正貨を保管する国,とくに第1次大戦前における国際金融の中心国イギリスに対する日本の対外金融上の従属をもたらさなかったであろうか。もしも金融的従属がなかったとすれば,それはいかにして回避できたのであろうか。本稿はこの問題を考察するものである。

Ⅰ 金本位制の対外的機能

 金本位制とは,広義には金が価値尺度として機能する貨幣制度である。しかし一般には,金が価値尺度機能を果すだけでなく,国内の流通貨幣が金と結びついている貨幣制度を金本位制と称している。本稿では後者の意味での金本位制を考えたい。金本位制は,通貨価値の安定や為替相場の安定をもたらすものである。
 金本位制は対外的にどのような機能を果すのであろうか。国際的に採用された金本位制は,価値尺度の統一や為替相場の安定を通して商品価格の国際的な比較換算を容易にする。また為替相場の安定は貿易取引を円滑にする。かくして国際金本位制は,外国貿易を発展させ,国際分業の発展に寄与する。
 通貨価値や為替相場の安定は,外国に投資された資本の価値を保全し,資本移動に対する制約を打破する。かくして国際金本位制は,資本の輸出入を容易にする。
 この国際金本位制は,第1次大戦前には先進国イギリスに有利に作用した。すなわち商品価格の比較の容易化は,国際的に低廉な先進工業国工業製品の輸出を助長し,イギリスを世界の工場とする国際分業体制(後進国の工業化の阻害)をもたらした。もっとも,先進国からの技術的に進んだ生産財の輸入は,一定の技術水準の高さと政治的独立を保持する後進資本主義国の先進資本主義国への追い上げを助長する一面を持っていたが。
 資本輸出は,資本輸出国イギリスに投資収益をもたらし,またイギリス商品の輸出を助長した。一方資本輸入国においては,借入利子を支払うとともに,自主的経済建設が阻害されて資本輸出国の利益につながる産業部門が肥大化させられた。もっとも,先進国からの資本輸入は,一定の技術水準の高さと政治的独立を保持する後進資本主義国の先進資本主義国への追い上げを助長する一面を持っていたが。
 金本位制のもとでポンドが安定していたことが,イギリスが世界各国と広汎な貿易関係を保持しており,またイギリスで国際金融業務が発展していたこととあいまって,第1次大戦前にロンドンを国際決済,国際金融の唯一の中心地とさせた。イギリスは国際金融上の収益を得るとともに,為替をポンド建で取組むことによって為替リスクを回避できた1)。
 金本位制には,金貨の自由鋳造,自由熔解,銀行券と金貨との自由兌換,金の自由輸出入を認める金貨本位制,国内で金貨が流通せず,銀行券が金地金と兌換され,金地金が国際決済のために輸出される金地金本位制,銀行券が金貨本位または金地金本位制国の通貨を受取れる金為替と党換され,この金為替を通じて間接的に国内通貨が金と結びつく金為替本位制の3形態がある。このうちの金為替本位制は,金地金本位制と同じく国内金貨流通を排除するだけでなく,国際決済手段としての金をも節約させる。
 銀相場の低落を背景とした19世紀末以降の植民地における金為替本位制の採用は,植民地を本国に従属させる槓杆となった。すなわち金為替本位制は,銀貨国であった植民地を,植民地で銀貨を流通させたまま金本位制の体系に組込み,前述の金本位制の作用によって先進国の利益となる国際分業体系の形成を促進した。しかも本国は植民地への金流出を免れた2)。
 金為替本位制はインドにおいて最初に成立した3)。インドでは1893年に銀貨の自由鋳造と「銀兌換紙幣」発行が停止され,1ルピー=1シリング4ペンスの割合で金の提供者にルピー貨が交付されて,ルピー貨の名目価値がルピー銀貨の実質価値以上とされた。1899年の「インド鋳貨および紙幣法」で金貨が銀貨とともに法貨とされ,ルピー貨に対して金交付の義務はなく,金本位準備金を設置してルピー為替の相場維持を図ることとされた。1902年にインドの保有する金準備はロンドンに移管された。インドでは金貨は鋳造されず,イギリス金貨の流通はきわめて乏しく,実際には金兌換を否認された紙幣や銀貨が流通した。ロンドンには金本位準備金,紙幣準備金,一般国庫金というインド政府所有の在外資金があった。インドの為替相場の安定は,これを操作基金として,インド省証券および逆インド省証券の売買によって図られた4)。これによってルピー貨とポンド貨が結びついた。またこの売買によってルピー貨の通貨価値の安定が図られた。
 このインドの金為替本位制は,為替相場の安定を主要目的として運用され,これがイギリスの利益となったが,さらに上述のインド政府在外資金保有は,次のようなイギリスに対するインドの従属性を示していた。
 1900年に金本位制を準備するために金本位準備金が創設されたが,その中のインドで保有されていた金準備金がロンドンに移管されて,イギリス政府証券に投資された。インド政府保有の金の移管は,インドの反対を押切って,イギリスの要求によって断行されたものであった5)。インドは貨幣的自主権を喪失し,金を取戻す自由を持たなかった。イギリスは金本位制の基礎としての金を得て,ボーア戦争によって不足しがちになったイングランド銀行の金準備を補強した6)。またイギリス政府は,ボーア戦争の資金需要のために値下りしたコンソル公債の価格支持にインドからの金を充当した7)。その後金本位準備金は本来の目的から逸脱し,イギリス本国においてインド財政からイギリスに支払われる,インド搾取のパイプとしての「本国費」の支払にも充当された8)。紙幣準備金は,インドの紙幣をルピー銀貨に兌換するための準備金であり,その性格上インドにおいて銀で保有されるべきものであったが,1898年以降,ロンドンでインド省証券を売出して得た金が紙幣準備に加えられてロンドンで保有され,これを準備としてルピー紙幣が発行されることとなった。本国政府のインド大臣がインドの貿易黒字によるルピー為替相場の昮騰を抑制するためにインド省証券を濫発すると,インドで紙幣発行量が増大し,インドは物価騰貴に苦しむこととなった。一般国庫金は本国費の支払に充当された。これはまたイギリスの銀行や企業に対しても低利で貸出された9)。
 インドの金準備が引出されないことによってイギリスの金本位制の安定性が支えられ,イギリスは国際金融の中心国としての利益を享受できた。
 独立国の金為替に依存した貨幣制度には植民地の金為替本位制のような従属性はみられない。それでも従属的性格がみられないわけではないといわれている10)。第1次大戦後のドイツの金本位制復帰を考察すると,1924年のドイツの貨幣法においては金貨の自由鋳造,金の自由輸出,法定準備の4分の3以上は金で保有すること(外貨準備は法定準備の4分の1以内)と定められていた。このような貨幣制度は金為替本位制とはいえない。だがライヒスバンクは自らの選択によって金貨,金地金,金為替のいずれによっても銀行券の兌換に応ずることができた。銀行券の所有者には銀行券を金貨や金地金に換える自由がなかったから,この制度は厳格な意味での金貨本位制や金地金本位制でもなかった。ライヒスバンクは銀行券の外貨資金との交換にはなるべく自由に応じたが,金との兌換は,マルク相場が為替売買操作にもかかわらず金輸出点にまで低落した時のみ考慮した。ドイツの再建金本位制は金為替に依存した金本位制であった11)。この金為替は,ドーズ公債を有力な土台とする英米からの借入によって調達された。このような貨幣制度の採用に対応して,また対抗すべくもない軍事的威嚇を前にして,ドイツの金融政策は,賠償金を確保しようとする連合国の管理,干渉を受けたのである12)。
 日本の金本位制は,かなり多くの人々によって金為替本位制であったとみなされている13)。しかし,日本において1897年(明治30)に確立した金本位制においては,金貨の自由鋳造14),自由熔解,銀行券と金貨との自由兌換15),金の自由輸出入が認められていた。金貨は国内では事実上殆んど流通せず16),金兌換は主として対外決済手段としての金を入手するために行われた17)。その意味では日本の金本位制はイギリスの金貨本位制とは異なるものであった。だが金貨は無制限法貨であり18),国内で使おうと思えばいつでも流通手段として用いることができた。このような金本位制は基本的には金貨本位制とみなすことができる。大蔵省は「明治三十年法律第十六号貨幣法ハ事実上ノ銀貨本位制ヲ一変シテ純然タル金貨本位制トナシタルモノ」と論述している19)。また日本銀行当局者は日本の金本位制を「金貨の流通せざる金貨本位制」とみなしている20)。
 しかし日本においては,前述の在外正貨が金にかわる国際決済手段として用いられた。また在外正貨が中央銀行の正貨準備に繰入れられて兌換銀行券が発行された。ここに言う在外正貨とは,いったい何を意味するのであろうか。
 元日本銀行総裁井上準之助は,在外正貨とは「日本銀行が外国に持って居る兌換券の準備に入れて居る金」であると定義している21)。だが大蔵省では在外正貨の概念をきわめて広義にとらえていた。大蔵省財務官として在外正貨の管理にあたったことのある津島寿一は,大蔵次官辞任後の講演の中で次のように述べている。「正貨と申しますと金貨又は金地金で日本銀行の党換券の準備となって居るものを指す場合は最も狭い意味であります。然し其れ以外此の準備の外に政府も日本銀行も内地に金貨,金地金を所有して居るものが正貨に含まるゝのみならず海外に於いて保有する或る種の資金をも此の正貨に包含せしめて,一括して正貨と言ふ慣用語を使って参ったのであります。その内地にあるものを在内正貨,海外にあるものを在外正貨と言って居ります。此の在外正貨は金貨又は金地金の形式を以て保有しませぬ。英米仏,主として英米の銀行に於ける預金又は短期の大蔵省証券等の形になって居る,然し何時でも金貨又は金地金に換へ得るものであるから,正貨と云ふた訳であります。在外資金と云ふのが或は適当ぢゃないかと考へます。或る人が倫敦にやって来て日本の在外正貨を見たいと云ふので,英蘭銀行へ行って日本の正貨はどれだと云って大分探したさうですが,之が日本の在外正貨だと云って金を保管して居るものではありませぬ22)」。また元日本銀行総裁深井英五も,同行営業局長,理事の時代に,「在外正貨トハ国際貸借ノ決済上正貨ノ現送ニ代ルノ効用アルベキ状態ニ於テ外国ニ保有セラルゝ資金ナリ」と定義している。かれは在外正貨の要件として次の3点を指摘している。①資金の所在地が国際決済の中心市場か,またはその資金を保有する国からとくに多額の支払を要する市場であること,②現金で保有されるか,またはいつでも支払の必要に応じて容易に回収し得る方法で運用されていること,③政府または中央銀行のような公的機関によって保有されていること23)。在外正貨のこのような定義づけに従えば,在外正貨は,貨幣の名目価値がその実質価値,素材価値と一致する本来の正貨や,実質価値,素材価値を有する金銀地金を含めた広義の正貨というよりも,正貨に転換可能な公的在外資金というべきであろう。これが日本において慣例的に在外正貨と呼ばれたのである。本稿においてもこのような意味において在外正貨という用語を用いる。日本の貨幣制度はこの在外正貨に依存していたのである。なお金為替本位制は在外正貨依存の貨幣制度の一形態であるといえるであろう。
 それでは,日本において在外正貨依存の貨幣制度はどのように生成発展してきたのであろうか。それはどのような機能を果したのであろうか。本稿では金本位制時代を中心にこれらのことを検討するなかで,日本の在外正貨依存の貨幣制度に対外従属的性格がみられたか,それとも自立的性格がみられたかを明らかにしたい。また自立性がみられたとすれば,その要因についても言及したい。

 注
 1)以上の記述については小野一一郎「国際金融―貨幣制度の国際的関連を中心として」信用理論研究会編『講座 信用理論体系』Ⅲ,日本評論新社,1956年,327-66ページ。関口尚志「市場および金融の発達」大塚久雄編『西洋経済史』筑摩書房,1968年,250-59ページ。
 2)松岡孝児『金為替本位制の研究』日本評論社,1936年,66-73,91-102,123-27,152-81,199-311ページ。矢内原忠雄『帝国主義下の印度』大同書院,1937年,第2章。新庄博『広域経済と貨幣制度』甲文堂,1943年,73-126ページ。
 3)インド幣制改革の詳細はG.B.Jathar&S.G.Beri,Indian Economics,vol.Ⅱ,1939,chap.Ⅶ,Ⅷ.東亜研究所訳『印度の通貨と為替』同所,1940年。
 4)矢内原前掲書,68-93ページ。小竹豊治「金融」満鉄東亜経済調査局『印度概観』同局,1943年,672-74ページ。
 5)矢内原前掲書,57-58ページ。
 6)吉岡昭彦『インドとイギリス』岩波書店,1975年,171ページ。
 7)Marcello de Cecco,Money and Empire,Oxford,1974,p.70.
 8)吉岡前掲書,166-68ページ。
 9)島崎久弥「ポンド残高の史的変遷――スターリング為替本位制度の崩壊過程――」『東京銀行月報』第29巻第11号,1977年11月号,22-23ページ。
 10)松岡孝児氏は,第1次大戦後のヨーロッパで金為替を兌換準備とする貨幣制度が広範にみられたが,この金為替準備は金融資本国からの借入に依存するものであったから,「金為替本位制」を採用せざるを得ない経済弱小国は金融資本国の支配を受けざるを得なかった,と記述されている。(松岡前掲書,107-15ページ)。
 11)加藤栄一『ワイマール体制の経済構造』東京大学出版会,1973年,148-54ページ。
 12)関口尚志「ドイツ革命とファシズム」,東京大学『経済学論集』第34巻第2号,1968年7月,48ページ。
 13)J.M.Keynes,Indian Currency and Finance(1913),in The Collected Writings of John Maynard Keynes,vol.Ⅰ,London,1971,p.20,footnote.則武保夫・片山貞雄訳『インドの通貨と金融』『ケインズ全集』第1巻,東洋経済新報社,1977年,22ページ注。松岡孝児前掲書,477ページ以下。
 14)「貨幣法」第14条で認められた。
 15)「党換銀行券条例」(1897年改正)第1条で認められた。
 16)日本銀行以外に統計上存在する金貨は,大蔵省調査によれば,1907年末に2068万余円,1913年末に3080万余円に上っているが,その大部分は工芸上の原料に使用されて貨幣の形状を失っているものとみなしてよいものであった。(山崎覚次郎『貨幣銀行問題一斑』有斐閣書房,1912年,114-15ページ,同書第4版(1920年)300ページ。
 17)1912年に2304万円の金貨が兌換に応じられているが,同年に金貨は2112万円輸出されている(日本銀行「金銀輸出取締令ノ実施並ニ其廃止ト本行ノ方策」日本銀行調査局編『日本金融史資料 昭和編』第20巻,137ページ)。
 18)「貨幣法」第7条で認められていた。
 19)(大蔵省主計局編)「明治三十年幣制改革始末概要」(1899年)大蔵省編集,大内兵衛・土屋喬雄校「明治前期 財政経済史料集成』第11巻ノ2,明治文献資料刊行会,1964年,315ページ。
 20)日本銀行某当局者談「在外正貨の性質」『東京経済雑誌』第66巻第1667号,1912年10月5日,617ページ。
 21)井上準之助『我国際金融の現状及改善策』岩波書店,1926年,84ページ。
 22)津島寿一「我国の国際貸借及び対外金融」(1936年6月講演),『芳塘随想』第17集,1968年,51-52ページ。
 23)深井英五「国際経済上ヨリ看タル在外正貨」『国家学会雑誌』第30巻第8号,1916年8月,1243-46ページ。同『通貨調節論』日本評論社,1928年,328ページ。

Ⅱ 政府海外預ヶ金

 日本の在外正貨の起源は明治前期の「準備金」中の「海外預ケ金」である1)。在外正貨問題を考察するためには,まずこの問題を考察しなければならないが,その前に貨幣制度の根幹をなす本位制度について考察しておこう。明治前期には次のような幣制改革が実施された。
 幕末の紊乱した貨幣制度を引継いだ明治維新政府は,幣制改革の必要に迫られた。同政府は,1870年11月,銀本位制の採用を立案した2)。だが当時の欧米における幣制の大勢は金貨本位制に傾いていた。当時アメリカにあってこの傾向に影響を受けた大蔵少輔(今日の大蔵次官)伊藤博文は,大蔵卿(今日の大蔵大臣)伊達宗城に書を寄せて,金貨本位制の採用を主張した。政府は,1871年(明治4)5月,新貨条令を発布して金貨本位制を採用した3)。
 だが新貨条令は,通用制限のある銀貨の鋳造とその流通を認めていたのである。明治初期の東洋諸国の貿易には,メキシコ銀(メキシコ・ドル)が一般に使用されていた。日本にとって貿易上は銀貨を用いることが便利であった。政府は海外貿易の便宜を図るために,本位貨幣である金貨の外に,品位重量ともにメキシコ銀に等しい貿易1円銀を鋳造し,開港場に限ってこれを通用させた。採用された金本位制は,単純な金貨本位制ではなかったのである。
 明治初期の日本においては金の産出がはなはだ乏しかっただけでなく,正貨ことに金貨が海外に流出して消滅する勢いが生じていた。大蔵卿となった大隈重信は,日本だけが東洋銀貨国の間に介在して金貨本位制を維持するのは非常に困難であり,むしろ金銀複本位制を採用するのが容易であり便利であると建議した。政府は1878年(明治11)5月,新貨条例の貿易1円銀の通用制限を撤廃し,これを国内無制限通用の法貨とした。1円銀貨は1円金貨と同等の資格を有するものとなり,日本の幣制は,不徹底な金貨本位制から金銀複本位制へと移行したのである4)。
 しかし実際には,明治初期には内地では政府紙幣と「国立銀行紙幣」が一般に用いられていた5)。明治維新政府は,不換政府紙幣を濫発した。これは紙幣価値を低落させ,物価騰貴や投機等の問題を惹起した。1881年に大蔵卿となった松方正義は,不換紙幣の整理に着手するとともに,兌換銀行券を発行する中央銀行を設立して通貨価値の安定を図ろうとした。松方は,1882年(明治15)に日本銀行を設立し,84年,銀貨兌換の日本銀行券発行を規定した兌換銀行券条例を制定した。1885年5月,
日本銀行は銀貨兌換の銀行券の発行を開始した。一方,法制上は本位貨幣は金貨とされていたけれども金銀比価の関係から金貨は流通しなくなった。日本の貨幣制度は事実上の銀本位制に移行したのである。日銀券が銀とだけ兌換されたのは,「金本位どころではない,漸く銀の準備金が出来たと言う有様」であったことと,1885年に銀貨と紙幣の値開きがほぼ解消していたのに金貨と紙幣の値開きが残っていたことと,アジアで銀が用いられていたために銀本位が貿易上妥当と考えられたためと思われる6)。政府は1886年1月以降,政府紙幣を漸次銀貨と交換し,また後には紙幣と日銀兌換券との交換も行って,政府紙幣を消却していった。また「国立銀行紙幣」の整理も行った。
 明治前期の幣制改革は以上のようなものであり,この時期に金本位制は未だ確立していなかったのである。
 兌換のための準備金および国際決済手段として正貨は貨幣制度上きわめて重要な役割を果す。政府は明治以来積極的に正貨獲得政策を実施してきた。明治前期においては,「準備金」の運用が正貨獲得政策の中心をなした。
 「準備金」は,1869年10月,岩鉄の売却代金を政府が蓄積して,これを「積立金」と称したことに始まる。その後政府は,旧幕府貸付金の返納金,不用物品売却代その他の雑収入を蓄積し,1872年6月,その名称を「準備金」と改めた。「準備金」の主要目的は正貨の蓄積にあった。政府は「準備金」を運用して,金銀地金の購入,海外預ヶ金および海外荷為替の取扱,米穀および昆布の直輸出による正貨蓄積を行った。金銀地金の購入は,直接正貨の吸収を目的とするもので,「準備金」によって日本の鉱山産出の金銀,「人民」所有の地金および旧金銀貨幣,外国産出金銀地金等を購入したものであった。海外預ヶ金制度は,1877年(明治10)7月,政府が国内の輸出業者に対して「準備金」中の資金を貸出し,その輸出貨物の売却代としてかれらが獲得した外国貨幣を外国において準備金部が受取り,同部がこの外国貨幣を日本の公使館,領事館に預入れ,さらにこれをその地の確実な外国銀行に預入れて保管したことに始まる。1880年に至り,海外荷為替法すなわち「預入金規則」が制定され,これによる海外預ヶ金が生ずるに至った。外国為替・貿易金融機関となる横浜正金銀行が同年2月に創設された。10月に政府は同行に対して「預入金規則」に基づいて,「準備金」中から300万円を限度として預入れた。同行はこれを海外輸出荷為替証書を取って日本の輸出商に貸出した。輸出商はその仕向地における売上代金を,その地の通貨で正金銀行の出張員または代理人を経て,日本の公使館または領事館に返還したのである。米穀・昆布の直輸出は,政府が「準備金」中の紙幣で米穀および昆布を購入して,米穀は欧米諸国へ,昆布は上海へ直接輸出するものである。この輸出代金(外貨収入金)も海外預ヶ金となった7)。
 すでに明治前期に政府海外預ヶ金がこのように存在していた。この保管に関して考察すると,海外荷為替法(=預入金規則)が1880年10月に実施される以前においては,在外公館の受取った外貨は外国銀行に預入れられたが,外債元利金等の支払に充当するために,アメリカやフランスにおいて受取られたものも,その多くはイギリスへ回金され,ロンドン東洋銀行(The Oriental Bank Corporation)に預入れられた。しかし当時においては政府海外収入金は諸支払に充当するに足りず,政府は日本内地で準備中の金貨および定型金塊を回送し,これも東洋銀行に預入れた。
 海外荷為替法施行後,政府海外収入金が多くなり,これによる外国貨幣が海外預ヶ金の中で最も多くなった。在外公使・領事館への収入金が前期と同様さらに外国銀行に預金されたと思われる。
 1882年(明治15)2月,大蔵卿松方正義は,「外国為替金取扱規程」を定め,海外荷為替制度の目的が「大蔵省へ正貨ヲ収入スル」ことであることを明記し,この目的に沿った制度の拡充を図った。上記規程制定に際して政府海外収入金の増大を想定して「海外預ヶ金規程」が制定された。以後海外預ヶ金は,少額の場所においてだけ公使領事館で保管され,それが多額の場合はすべて各外国銀行に預入れられた。
 横浜正金銀行の支店出張所が海外各地に開設されてくると,政府は外国銀行から海外預ヶ金を引出して,これを横浜正金銀行に預替えた。政府は「同行ナレハ外国銀行ノ如ク其内部ヲ知悉シ能ハサルノ不便ナク,其監督モ充分施行シ得ヘキヲ以テ,多額ノ金ヲ外国銀行ニ普通預ケトナシ自由ニ其使用ヲ許サンヨリハ,寧ロ正金銀行支店出張所ニ保護預ケトナシ,使用ヲ許サゝルノ安全確実ナルヲ発見」したのである8)。
第1表 政府海外預ヶ金収支
 このような政府海外預ヶ金は,第1表にみられるように,1890年(明治23)3月に「準備金」が閉鎖されるまで,外国債元利金の支払や軍艦購入代その他各庁経費の支払に用いられた。また外国市場での金銀地金購入代としても用いられた。さらに「為替ヲ以テ本邦ニ回金」された9)。
 政府海外預ヶ金は対外支払に用いられた場合には金にかわって政府対外支払の決済をしていることになる。為替を用いて預ヶ金を日本に回金する場合には,日本で政府が円を受取ってロンドンの政府所有ポンド払の手形を売るか,ロンドンにおいて政府がポンドを支払って日本で円を受取れる手形を買うかなどをしなければならないが,これは結果としては為替銀行に政府が外貨を供給することとなり,為替銀行がこの外貨を国際決済に用いれば,金にかわってこれが国際決済手段として機能したことになる。海外預ヶ金を金銀地金にかえることもできた。正貨が名目的価値と素材価値の一致する金銀貨や金銀地金とすれば,銀行に預入れられた海外預ヶ金がただちに正貨であるとはいえず,政府所有在外資金というべきものであるが,日本の大蔵省は,正貨の概念を拡大解釈しており,輸出代り金などからなる海外収入金を正貨とみなしていた10)。海外預ヶ金は在外正貨の濫觴であるといえる。この在外資金は,正貨を節約しつつ外債元利払,軍艦購入その他諸官庁の対外支払に寄与し,また金銀地金の蓄積に寄与し,日本経済の近代化,軍備増強を支えるものとなったのである。
 しかし「準備金」中の政府海外預ヶ金が為替で日本に取寄せられた金額,つまり政府がその結果として為替銀行に在外正貨を売却した金額は,政府対外支払の為替払高よりもはるかに少なかった。また1882年以降商品輸出は輸入を凌駕していたから,政府が在外正貨を為替銀行に売却して,一般の商品輸入の決済に必要な外貨資金を補充する必要はあまりなかった。政府は一般為替市場に外貨資金を供給するよりも,むしろ輸出為替手取金を海外で受取って為替市場から外貨資金を吸収した。したがって,「準備金」中の「海外預ヶ金」は,国際決済手段としては,金銀地金購入を別とすれば,基本的には政府自身の対外支払を正貨(金銀)にかわって行ったにとどまり,為替銀行に払下げられて在内正貨の現送にかわる一般的な対外支払手段として機能したのではなかった。
 海外預ヶ金は銀行券発行の基礎ともならなかった。また海外預ヶ金は対外支払や国内への正貨現送に用いられて減少し,1890年3月の「準備金」の閉鎖とともになくなった。在外正貨としては一時的であることを免れなかったのである。
 かくして「準備金」中の「海外預ヶ金」は在外正貨の嚆矢にとどまり,在外正貨の機能はきわめて限定されていたのである。

 注
 1)準備金については肥後和夫「『準備金』をめぐる明治前期の財政・金融政策」井藤半彌博士退官記念論文集『財政学の基本問題』千倉書房,1960年,223-51ページ,同「昭和初期までのわが国正貨政策と財政」成蹊大学『政治経済論叢』第10巻第1号,1960年,高橋誠『明治財政史研究』青木書店,1964年,第2章「明治前期財政における『準備金』の地位と機能」等参照。
 2)明治初期幣制改革については小野一一郎「近代的貨幣制度の成立とその性格」松井清編『近代日本貿易史』第1巻,有斐閣,1959年,第4章等参照。
 3)大蔵省編『明治大正財政史』第13巻,経済往来社,1959年,3-18ページ等参照。
 4)前掲『明治前期 財政経済史料集成』第11巻ノ2,315-16,324-32ページ。
 5)民営である「国立銀行」の発行する「紙幣」についは白井規矩稚『日本の金融機関』森山書店,1939年,49-65,88-89ページ等参照。
 6)渡辺佐平「明治期日本銀行の発行制度」金融経済研究所編『明治前期の銀行制度』東洋経済新報社,1965年,174-78ページ。
 7)(大蔵省主計局編)「準備金始末」(1890年)前掲『明治前期 財政経済史料集成』第11巻ノ1,1,3,14-16,30-44,50-159ページ。(大蔵省主計局編)「紙幣整理始末」同上『資料集成』第11巻ノ1,234-41ページ。横浜正金銀行『横浜正金銀行史』同行,1920年,覆刻版,日本経済評論社,1976年26-27ページ。伊牟田敏充「明治前期における貿易金融政策」安藤良雄編『日本産業経済政策史論 上』東京大学出版会,1973年,第2章。
 8)前掲『資料集成』第11巻ノ1,39-40,149-56ページ。
 9)同上書,40,240ページ。
 10)松方正義は,1881年11月,海外荷為替取扱による正貨吸収方針を明らかにした際,「直輸荷為換ノ一事ニ向テ保護ヲ与ヘテ,海外正貨ヲ我国ニ吸収スル」と述べて,「海外正貨」という言葉を用いている(前掲『資料集成』第11巻ノ1,32ページ)。また1883年の大蔵省の太政官への稟議の中には「準備本部ノ紙幣ヲ以テ北海道収税品ラ始メ其他専ラ外人ノ嗜好ニ応シ候物産ヲ購収シ,之ヲ海外ニ輸出シ其代リ金即正貨ヲ収得シ以テ大ニ正貨蓄積ノ目的ヲ貫徹致度」と述べられており,ここでは輸出代金の外貨手取金がただちに正貨とみなされている(前掲『資料集成』第11巻ノ1,43ページ)。大蔵省の「紙幣整理始末」と題する報告書に掲載された「準備金」に関する正貨受入高には外国荷為替取組高が含まれており,これは「外国荷為換高,乃チ海外二於テ収入セル正貨ノ高」とみなされていた(前掲『資料集成』第11巻ノ1,240-41ページ)。

Ⅲ 日清戦争賠償金の保管

 1.金本位制の確立
 日本において金本位制が確立したのは1897年のことである。この確立事情は次のようなものであった。
 1871年にドイツがフランスとの戦争の勝利に乗じて金本位法を制定し,1873年に銀の売出を開始すると,銀の価格の低落傾向が生じた。その後ラテン同盟の銀貨鋳造制限および停止,アメリカ大陸における富饒な銀坑の発見のために銀価は著しく低落した。東洋の銀貨国インドが1893年に幣制改革に着手すると,銀貨は暴落した1)。
 事実上の銀本位制を採用していた日本は,このような銀価低落の影響を著しく受けざるを得なかった。日本と金本位制を採用していた欧米諸国との間の外国為替相場はたえず低落傾向をたどり,貿易の投機化,物価の上昇などが日本にあらわれたのである2)。
 政府は1893年に貨幣制度調査会を設置して幣制改革の可否を検討し始めた。ここに金本位制確立をめぐって激しい論争が展開されるに至ったのである3)。銀本位維持論者,金銀複本位論者は,銀価下落による輸出の増大,輸入の抑制,それによる国内産業の発展に注目した。これはこの段階における産業資本,とりわけ紡績資本の要求を反映した4)。がそればかりではなく,原,若宮をはじめとする政府官僚,伊藤,井上のような元老の支持をも得た。これに対して金貨論者は,発展の起動力としての非貨幣的要因を重視した。かれらは,銀価低落傾向下での銀本位制が金貨国への軍需品支出を増大させて財政を圧迫し,また発展の物的基礎である先進金貨国からの輸入価格を騰貴させてその輸入を阻止すると考えて,銀本位制を否定した。この主張は,軍需品輸入をはじめとする財政上の圧迫を危惧する大蔵官僚の意見を代表すると同時に,輸入貿易業者,輸入生産手段に依存する産業資本の危惧をも反映していた5)。
 1897年(明治30)2月に至り,大蔵大臣松方正義は,金本位制を規定した貨幣法とその付属法案である兌換銀行券条例改正案などを閣議に提出した。この背景には、日清戦争の結果巨額の賠償金を受取り,金準備ができたことと,銀価低落が国内の物価騰貴を激化させて銀本位の利点を消滅させつつあったことなどの事実があった6)。
 かくて1897年3月,貨幣法および兌換銀行券条例中改正法が公布され,日銀券の銀貨兌換は金貨兌換に改められた。これらの法律は同年10月から施行され,ここに金本位制が確立したのである。この金本位制は,1917年(大正6)9月に金輸出が禁止されるまで継続したのであった。
 確立した金本位制は,金貨流通なき金貨本位制であった。これはいかなる理由によるものであろうか。金の支払約束に基づいて兌換銀行券は一般に金に代位して国内で流通手段,支払手段としての機能を果す。しかも銀行券流通には金貨流通のような磨損,携帯上の不便という問題がなかった。このために国内流通としては兌換銀行券である日本銀行券が流通し,金貨流通がみられなくなったと考えられる。日本においては換制に対する信頼が高かったから,フランスにおけるような通貨としての金貨に対する執着が生じなかった。金本位制下のイギリスではイングランド銀行券の最小額面が5ポンドであったから,それ以下の支払には1ポンドや半ポンドの金貨を使用せざるを得なかったが,金保有高が豊富でなかった日本においては金の節約にとくに努めなければならず,日本銀行は比較的小額の兌換銀行券をも発行して金貨にかわってこれを流通させた。金貨を兌換準備金として準備額以上の兌換券を発行させることは少量の金で通貨需要を充たすことができ,これは金を節約する上で望ましかった。これらのことからも兌換券が流通し,またはその流通が助長されたと考えられる7)。

 2. 日清戦争賠償金の保管
 前述のように日清戦争賠償金を日本が獲得したことによって日本の金本位制の確立が可能となったが,この賠償金は在外正貨としてまず保管されたものであった。次にこの問題を考察しよう。
 1894~95年(明治27~28)に朝鮮の支配をめぐって日本は清国と戦争をした。日清戦争に勝利した日本は,軍費賠償金2億両[テール],奉天半島(=遼東半島)還付報償金3千万両,威海衛守備費償却金150万両,計2億3150万両という巨額の賠償金を1898年5月までに受取った8)。
 日清戦争賠償金は,下関講和条約や奉天半島還付に関する条約では,庫平銀で支払われることに定められていたけれども,日本は清国と協議の上,総額を英貨に換算しておき,受取り日にイギリスのロンドンで英貨で受取ることとした。この理由は以下のとおりである。
 清国は日本に巨額の賠償金を支払うためにはヨーロッパで外債を募集せざるを得なかった。この募集金は英貨または仏貨で受取ることとなるから,清国が条約どおりに銀で支払おうとすれば,これで銀塊を買入れて,これを日本に輸送せざるを得なかった。これは清国にとって非常な損失となった。すなわち,賠償金支払期に一時に巨額の銀塊を清国が買入れれば,銀塊相場が非常に騰貴する。しかも,ヨーロッパ市場に存在する取引用の銀塊の実際額が少額であるために,一時に巨額を買収することはきわめて困難であったから,この意味からも,巨額の銀塊買入れは銀塊相場を昂騰させる。銀塊を日本に輸送する時には,清国は多額の現送費を負担せざるを得ない。
 一時に巨額の銀塊をヨーロッパから日本に現送することは,日本を始め東洋一般の損失となるとも考えられた。すなわち,これが為替相場に非常な影響を及ぼして,貿易の混乱を来す恐れがあった。
 賠償金をポンド貨で受取ることは日本にとって次のような利益をもたらすと考えられた。
 政府は軍備拡張を中心とする日清「戦後経営」を構想したが,これに伴うヨーロッパ,とりわけイギリスからの巨額の輸入が予想された。この対外支払のためには,国際通貨ポンドを国際決済の中心地ロンドンで保有するのが有利であった。
 銀価が低落傾向をたどっている状況のもとでは,賠償金を価格変動の少ない金と結びついたポンド貨に一時に換算しこれを受取るのが日本の利益となり,これは財政計画を安全な基礎の上に立たせることとなった。
 日本も早晩金貨本位制を採用する方針が立てられていたから,政府はこの点からも金貨と兌換されるポンド貨を受取るのが得策と考えた。
 かくして賠償金が金本位国イギリスのポンド貨で受取られたのである9)。
 受取った償金の英貨ポンド総額,受取地,保管形態は第2表,第3表のとおりである。
 受取られた賠償金はしばらくはロンドンに,その一部は一時的にベルリンに保管された10)。賠償金の保管出納事務に関しては,政府は日本銀行にロンドン代理店を設置させ,大蔵大臣,在ロンドン公使,ロンドンにおいて特設する日本銀行監理官等の監督下において,この代理店に実務を担当させる方針を立てた。1895年12月,政府は「日本銀行寄託預金事務取扱順序」を定めてこれを同行に通達した。日本銀行はロンドンにおいて保有する貨幣,金銀地金,有価証券の一切の事務取扱の代理を横浜正金銀行ロンドン支店に委嘱するのが便利であると考え,96年2月,横浜正金銀行との約条書,横浜正金銀行への委任状,「在倫敦[ロンドン]代理店寄託金保管出納事務取扱順序」の各案を政府に提出し,同月その認可を受けた。
第2表 領収賠償金換算高
第3表 賠償金の受取地と保管形態 (単位:ポンド,未満切捨)
同月には償金保管出納監督のため「在倫敦公使館償金事務取扱順序」,「在倫敦日本銀行監理官監理事務順序」を定めた。日本銀行からロンドンにおける一切の委任を受けたものとしてのロンドン代理店は1896年3月に開設された。代理店としての横浜正金銀行ロンドン支店は翌4月,在ロンドン公使が領収していた償金を引継いだ11)。上述の「在倫敦代理店寄託金保管出納事務取扱順序」第2条によれば,正金銀行ロンドン支店は,政府寄託金をすべてイングランド銀行その他とくに指定された確実な銀行へ預入れなければならなかった。政府は償金をひとまず最も安全確実なイングランド銀行へ再預入させて保管させた。イングランド銀行は,従来横浜正金銀行ロンドン支店の預金勘定開設要求を拒絶していたが,1896年になって始めてこれを快諾したのであった12)。
 賠償金をロンドンで保管せずに,日本にただちに回送すべきであるという議論が当時存在した。
 末延道成は,清国より得た賠償金はただちに金にかえてこれを日本に現送すべきであると主張した。すなわちかれは,「一国の国有財産は,其国兵力の及ばざる遠隔の地に一日たりとも留置すべきものにあらず」,「安心して其国有財産を他国に存留したるものは,恐らくは古来其例なからん。1日存留せしむるも実に危険の甚しきものにて,万一其国何等かの外交上の行掛りよりして我敵となれば,其財産は直に没収せらるべく,又其国他国と開戦せは,其国中にある物件財産は徴発強用すべく,正貨の輸出を禁止すべし。又我国他国と戦を開き其国中立を厳守すれば,其金を我に輸するを拒絶すべく」,「独立国の国有財産は一日も他国に寄托すべきものにあらず」と政府資金を海外に保有する危険性を指摘した13)。またかれは,「世間には軍艦製造砲台建築を以て軍備の第1着手となすの論者多けれども私見にては正貨を回送するを以て最急務となし国家警備上の第1急務となすなり1週間に数万の軍隊を移動し12時間内に艦隊の戦闘準備を為し得るも正貨の準備なければ将た能く何事をかなすべき日清戦争に正貨を要せる割合に少かりしを見て今後万一戦争の已むべからざるあるも左まて正貨を要せざるべしと想像するは誤りなり他国の信用証書に依頼して万一意外の辺に戦争起らば遂に巨万の償金を挙げて画餅に属せしむるの恐あり」と論じ,戦争準備金として正貨(金銀)を国内に保有すべきことを主張した14)。
 田口卯吉が主宰する『東京経済雑誌』は,政府が償金を無利子でロンドンに保存し,高利の借入金を日本銀行に有するのは不利益であると論じた。軍艦等の代価として近々政府が支払うべきものを除くのほかはすべて為替で賠償金を日本に取寄せるべきであると主張した15)。田口卯吉は,東印度政府のように,政府が毎週若干額を定めて横浜でロンドン宛の手形〔政府ポンド資金払〕を振出してこれを売り,またはロンドンで〔政府所有ポンド資金を支払って〕横浜宛手形を買取れば,為替相場に急激な変動なく償金が取寄せられると論じた16)。なお『東京経済雑誌』は,賠償金を正貨の現送によって取寄せることには次のように批判した。償金を金属に変えて〔日本へ〕現送すれば,政府は現送費を負担しなければならず,輸入品の代価としてこれが〔外国へ〕輸出されれば,この現送が無駄になると17)。また現金〔金銀〕で賠償金を取寄せれば,政府はこの現金を兌換券に替えるために日本銀行に交付するから,日本銀行の正貨準備高が増加し,兌換券の発行高が増加し,したがって物価は騰貴せざるを得ないとも批判した18)。
 一方『東洋経済新報』誌は,外国に国有財産を置くのは危険であるが,個人や会社の財産には国際慣行上危険はないとした。5,6年前にロシア政府は数億ポンドの金貨をロシア銀行の名でイングランド銀行に預入れ,当時英露間に外交的紛擾が生じ,武力衝突まで生じたが,イギリス政府はイングランド銀行中に存するロシア銀行という一会社の預金に手をつけることはできなかった,償金の一部は政府が日本銀行に預入れて日本銀行がこれをイングランド銀行に保護預けとすればよいと,末延を批判した。現金輸送が不経済なために為替作用によって輸入品の代価をロンドンの償金で支払うのはよいが,これにより3500万円の現金を回収しようとすれば,少なくとも1年間から2年の歳月を費やすのであり,もし急いでこれを回収しようとすれば,片為替の状態が生じ,為替相場が激変し,輸出入貿易を梗塞する恐れがある,と『東京経済雑誌』を批判した。『東洋経済新報』誌は,金属を現送してくる場合には現送費がかかり,その相場騰貴による損失も生じ得るとした。賠償金の取扱は慎重にし,政府支出に賠償金を利用するとともに,漸次巧みに為替を利用して損失を避けながら賠償金を回収し,また漸次金または銀で賠償金を回収すべきであると主張した19)。
 小手川豊次郎は,「現金を以て我国に輸入せんか,通貨は直ちに膨脹するや疑ふべからず,通貨増加すれば,物価騰貴し,人民贅沢となり,消費力を増加するに至りて,現金は忽ちにして,国外に飛び去るべし」と述べ,現送法を通貨膨脹を惹起すと批判した。かれは「償金は暫く倫敦の確実なる銀行に蓄貯し置き,其需要あるに随ひ之を引出し,或は軍艦兵器,機械其他の材料となして我国に輸入し,或は我市場の状勢を洞察し,新事業の起れるが為め,金融必迫せんとするときは,適当の範囲に於て之れか輸入を企て以て之を緩和し,能く商業社会をして正確事業の発達を遂げしめんとす」べきであると主張した20)。戦時準備金に関しては,「之れ平時は庫中に閉置して其効用をなさしめざるを以て,巨額をして遊金となすは実に財政上不得策なるが故に」巨額を要さず,ただ「遼東還付により得たるの償金の幾分若しくは全部を挙げて之に充つる」だけでよいと論じた21)。
 このように償金取寄論争が展開されるなかで,政府は賠償金の一部を海外に保有し続けた。これはなぜであろうか。
 この理由の一つとして従来イギリスの要求,圧力によるものであったことが指摘されている。すなわち井上準之助は,「日清戦争の時に日本は支那から3億6千万円の償金を取ったのでありまして,それは倫敦で受取ったのであります。それの大部分を日本に持って来て,貨幣制度を変へて金貨本位にしたのであります。然るに英吉利では最初から条件が付いて居りまして,余り急激に此の金貨を日本に持って行かれては困る。倫敦の市場の妨げになるからといふ,注意がありました為に,左程急激に内地に持って来ることは出来なかったのです」と述べている22)。しかし日清賠償金が授受,保管された当時の文献には,後述のようにイングランド銀行が金貨または金地金の特別保管を拒否することによって在外資金を預金等の形態で保有させたことを除けば,イギリスがこのような圧力を日本にかけた事実が見出せない23)。井上のこの記述を全く正しいとするには疑問の余地がある。一般的には賠償金をどのように取扱うかは日本の判断にまかされていたと考えられ,ロンドン金融市場は日本政府の政策によって影響されていた。すなわち1895年11月2日のロンドン『エコノミスト』誌は次のように記している。日本政府がイングランド銀行に預けた800万ポンドに対して,日本銀行がどのようにこれを処理するかが明らかでないことが,当時のロンドン金融市場に一大影響を及ぼし,このために市場は一般に気迷に沈んだ。多数説は,日本政府の預ケ金の大部分は同政府がすでにイギリスの工業家に注文した艦船および兵器等の代金として支払われるであろうから,市場資金を増加させるであろうというものである。とはいえ,情報通は,〔ヨーロッパには〕日本政府の多額の代金未払のものがないとみる傾向がある。もしそうであるとすると,日本政府がただちに巨額の支払をするとは考えられず,賠償金の一部分は枯渇した日本政府〔日本銀行の意か〕の準備金を増し準備の力を強めるために引出されるか,そうでないなら賠償金はイングランド銀行に預入れられたままであろう。償金に関する日本政府の方針が判明するまでは,市場は気迷の状態を持続すると24)。
 もっとも,日本政府が急に賠償金を引上げ,とくに金にかえて引上げなかったことは,結果においてはイギリスの利益となるものであった。イギリスでは,外国の公的残高の突然の引上の可能性についての懸念が,くりかえし表明されていた。1873年にはバジョット(Bagehot)は,ロンドンに保有されたドイツ政府の多額の残高が突然に清算される可能性から,ロンドン金融市場の安定性に関して,ある種の危惧を明らかにしていた。多額の公的対外残高の移動は,これが引出された国に対して現実に攪乱をもたらした。たとえば,ベアリング兄弟商会の信用が1890年夏に動揺し始めた時,ロシア政府は在ロンドン残高を引上げ,九分九厘まで1890年恐慌をはやめた。1894年には,ロンドン市場は,「ロシア政府の残高が攪乱的で気まぐれな方法で移動し,そして時機の悪いときには引揚げがちであることを,経験から学んだ」25)。日清戦争賠償金3808万ポンドはきわめて巨額であり,1895年11月末のイングランド銀行発行部の鋳貨および地金保有高4000万ポンドに近いものであった26)。ミッチェル,ディーンの統計によれば,1895,96,97,98年のイングランド銀行発行部金銀貨および地金保有高は,それぞれ3640万ポンド,4200万ポンド,3320万ポンド,3120万ポンドであったから,この4年間は96年を除いて日清戦争賠償金高以下であった27)。もしも日本政府が賠償金を全額金に変えて日本に現送したならば,イギリス金本位制は根本的に動揺させられたことであろう。実際には日本が償金の多くを,後述するようにイギリスからの輸入の代金支払に使い,また金現送を数年にわたって行い,イギリスから日本への金流出は1896~98年の3年間に7643千ポンドにとどまったから,イングランド銀行やイギリス地金市場は大幅な影響を受けずにすんだのである28)。
 なお賠償金の一部は一時期ドイツで受取られ保有されたが,これは日本政府がドイツの要求に応じたためであった。1896年度に清国はイギリスおよびドイツで外債を募集して賠償金を支払おうとした。ドイツ政府は,ドイツ金融市場の逼迫を避けるために,日本政府が賠償金払込額の一部をベルリンで受取り,これをプロシャ政府設立の「ローヤル・ゼー・ハンドルング」銀行に預けることを要求した。日本政府は,経営状態の明らかでない同銀行への預入れを拒否したけれども,ドイツ政府の目的を認め,賠償金の一部を1896年5月にドイツ帝国銀行に預けたのである29)。1898年には,清国はイギリスの香港上海銀行およびドイツのドイツ・アジア銀行の両行引受で,外債を発行して賠償金を支払おうとしたが,ドイツ・シンジケートは,ドイツ金融市場の逼迫を避けるために,日本に賠償金の一部のドイツでの受取,預入れを要求し,1898年5月,日本政府はこれに応じたのである30)。
 日本政府は,賠償金を急激に日本に取寄せないのを利益と考え,賠償金を海外に保管した。この理由は,第1に,外国において支払を要する各省経費の支払に充当するために,すなわち,イギリスなどから購入する軍艦,鉄道軌道その他のものの支払に充当するために,政府が在外資金を保有する必要があったためである。対外支払資金は短期間には支出できず,「費途ヲ定メ其必要ニ応シテ漸次支出スヘキモノ」であった31)。もしも,償金を現送してきて対外支払のために返送すれば,現送費を損することになる32)。対外支払に償金を用いるまで金貨または金地金で国内で保有するよりも,在外正貨を保有した方が利殖上有利でもあった33)。
 第2に,ロンドンで在外正貨を保有することが安全と考えられたことが,在外正貨保有を支えることとなったのである。この背景には,ロンドン金融市場が安定していた事実があり,後に述べるように,当局者もこれを認識していた。それと同時に,当時日英同盟が未だ成立しておらず,伊藤,山県,井上,陸奥などの日露協商論者が存在しており,満州,朝鮮市場において日英は対立の方向にあったとはいえ,イギリスと接近してロシアに対抗しようとする日英同盟論者も存在しており,日英は敵対関係になっていなかったという事情も考慮されなければならない34)。在外正貨を現送費を支払って日本に取寄せるよりも,ロンドンに保管するのを便利と考えた正金銀行の相馬取締役も,「外交上不穏の形成ありて償金を外国に置くを危険とする場合は勿論例外と知るへし」と述べており35),日英が戦争する情勢が生じたならば,在外正貨はロンドンから引上げられていたことであろう。
 第3に,政府は国内経費の支払に充当するために賠償金の一部を金貨,金銀塊または為替で取寄せる必要があったが,「世界金融市場ノ景況ヲ参酌シ」なければならず,「到底急速ニ回送スルヲ得」なかったためである36)。これについて少し立入って検討しよう。
 大蔵省は,第1回軍事賠償金領収以前から日本銀行および正金銀行から経済事情を報告させていたが,1896年2月,日本銀行に償金運用上参考となる資料の調査を命じ,海外各地の金塊,銀塊,為替,公債の諸相場等を毎週報告させた。さらに同年4月には,ロンドン,リヨン,ニューヨーク,サンフランシスコ,ボンベイ,上海の各領事に経済調査を依嘱した37)。1896年4月,渡辺大蔵大臣は日本銀行に償金の取扱方について次のように指示した。「償金ハ時機ヲ見テ為替又ハ金銀塊ヲ以テ可成速ニ本邦ニ取寄スルノ手段ヲ取ルト雖モ此数年間ハ英国ニ必ス巨額ノ預ヶ金ヲナスコトゝナルヘシ該償金ハ国民ノ生命ヲ失ヒ国民ノ財産ヲ費シ将来ニ於テモ大ニ租税ノ負担ヲ増ス等ノ損失ノ幾分ヲ償フモノナル故ニ其取扱方ニ就テモ極メテ慎重ヲ加ヘ些少ノ利益ヲ量ルヨリハ寧ロ損失セサルノ覚悟ヲナスニ若カス尤モ熟考スルニ極メテ確実ノ方法アラハ其幾分ヲ利殖的ニ運用ヲ為スハ差支ナカルヘシ38)」。償金取寄はきわめて慎重に取扱われたのである。賠償金を日本に取寄せるには,次のような困難があったのである。
 まず銀の現送に関しては,正貨の現送費を負担しなければならなかった。このほかに次のような困難があった。銀の供給量は多かったが,ロンドンに実際に存在する銀塊の量はきわめて少なく,即時に大量の銀塊を調達することは困難であった。しかも銀価格の変動は激しく,日本が償金を金に切替えるといううわさだけで銀相場が騰貴した。政府が一度に大量の銀を買入れれば非常な損失を覚悟しなければならなかった。しかも銀塊相場の騰貴は,金本位制確立前において,金銀比価の変動によって変動した日本の為替相場を騰貴させて,日本の貿易に悪影響を及ぼさざるを得なかった39)。
 金を現送する場合にも,政府が現送費を負担しなければならなかったが,この場合には一時期に大量の賠償金を金に替えるのでなければ,金の調達難や金価格の騰貴という問題は銀の場合のようには起らなかった。すなわち,イギリスでは金貨や金塊が大量に存存していたし,銀行券の金貨兌換,金貨の自由熔解が認められていた。それでも,松方の大蔵大臣就任当時のように,金塊価格が高い時もあり40),日銀代理店としての横浜正金銀行ロンドン支店の金買上が金塊価格騰貴の要因ともなったから,このような時は,ロンドンでの金塊買入を中止しなければならなかった41)。金貨を輸入する場合には,金貨の磨損分を損することになる。大蔵省主計局長松尾臣善によれば,この損失は100万ポンドについて9万円となった42)。金本位制確立以前には日銀券は銀兌換券であったから,この段階で金だけを輸入して銀準備を不充分にすれば,〔銀準備強化の必要に迫られて〕金を再びロンドンに戻して銀とひきかえて現送費を損するという問題も起り得た43)。大蔵省書記官兼大蔵省参事官・官房第3課長添田寿一は,正貨を日本に現送してくれば,〔通貨が膨脹し〕物価が騰貴するという問題点も指摘している44)。
 為替で賠償金を回収する場合には,政府が,日本でロンドンの政府所有ポンド資金からの支払を指図した手形を売って,その代金として円を入手するか,ロンドンで政府所有ポンド資金を支払って日本宛の手形を買って,日本で支払を指図された人から円資金を取立てるか,これに類似の為替の手続を取ることになる。この為替による賠償金の回収は,日本の輸入超過を利用するものである。すなわち日本における輸入業者が政府からロンドン宛手形を買い,日本へ輸出する業者が政府に日本宛手形を売る。日本の輸入超過が多くない場合には短期間に償金を回収することは困難であった。1896年1月頃,予算委員会において政府委員(大蔵省)は,貿易の結果,わが国へ取寄せ得へき為替金は年に1千万円余りに過ぎないと説明した45)。償金特別会計法特別委員会委員長箕浦勝人も,1896年2月5日,衆議院において,「為替の作用を以て之〔=償金〕を取入れるかと云ふと,之を以て何千万円と云ふ金を一時に受取ると云ふことは,到底出来難い」と報告した46)。政府があえて一時に為替で償金を回送しようとすれば,為替相場が騰貴し,輸出が抑制されざるを得なかった47)。またもし単に為替の方法のみによるときは,漸次償金の全部を輸入品の代価として使ってしまうことになるから,償金を回収して非常準備としようとする場合には,これは不適当の方法であるとも考えられた48)。
 政府が,日本銀行に在外正貨を売って,日本銀行が銀行券を発行してこれを買取って保持すれば,輸入が多額にのぼらなくても,政府が在外資金を円資金として取寄せることができたであろう。だが,この場合には通貨膨脹という問題が起る。また発券の基礎が在外正貨となる。当時の段階においては「金貨の国内流通若しくは成るべく之れに近似せる状態を維持するを以て,金本位の主旨とする思潮に支配されて居たから49)」,日本銀行が在外正貨を買取ることは未だ考えられていなかった。また当時日英同盟が成立しておらず,通貨発行の基礎がロンドンに存在することの危険性が全く存在しないわけではなかったためにも,日本銀行が在外正貨を所有しなかったのではなかろうか。また,政府は自らの対外支払のために在外正貨を所有しようとしたために,在外正貨を日本銀行に急いで売却しようとはしなかったのであろう。
 このように,賠償金の各取寄方法には種々の問題点があり,最善の取寄方法を採用しようとすれば,時間をかけて慎重に償金取寄を行わざるを得なかった。この間,政府は在外正貨を保持し続けることとなったのである。

 注
 1)前掲『資料集成』第11巻ノ2,317,422-23ページ。小野一一郎編「日本における金本位制の確立(Ⅰ)」京都大学『経済論叢』第92巻第3号,1963年,194-201ページ。
 2)同上書,317,441-42ページ。
 3)(大蔵省主計局編)「貨幣制度調査会報告」(1895年),前掲『資料集成』第12巻,1964年。
 4)加藤俊彦「日本における金本位制度の成立」『文化史研究』第2巻,1948年,8ページ。
 5)小野一一郎「日本における金本位制の確立(Ⅱ)」『経済論叢』第92巻第5号,1963年,318-37ページ。
 6)寺島一夫『日本貨幣制度論』白揚社,1937年,60-61ページ。
 7)日本銀行臨時調査委員会「金貨ヲ民間二流通セシムルノ可否ニ就テ」(1917年9月)同委員会『臨時調査集』第3輯(『勝田家文書』第47冊にも再録)。深井英五前掲書,304-05ページ。
 8)日清戦争賠償金の財政政策との関連については高橋誠前掲書第3章「日清戦争賠償金の研究」,長岡新吉「日清戦後の財政政策と賠償金」安藤良雄編前掲書第3章,賠償金と広く日清戦後経営全体との関係については中村政則「日清『戦後経営』論――天皇制官僚機構の形式――」『一橋論叢』第64巻第5号,1970年,612-34ページ,石井寛治「日清戦後経営」新『岩波講座 日本歴史』第16巻,岩波書店,1976年,47-94ページ参照。
 9)以上については「償金特別会計」明治財政史編纂会編『明治財政史』第2巻,1926年,(原資料は『自明治28年11月至明治33年3月償金収支報告書』,1900年)61-62,153-57ページ。
 10)前掲『明治財政史』第2巻,187-220ページ。
 11)同上巻,291-331ページ。前掲『明治大正財政史』第15巻,1957年,267-77ページ。
 12)前掲『横浜正金銀行史』175ページ。
 13)末延道成「固定資本を論して償金処分に及ぶ」『東洋経済新報』第3号,1895年12月5日,8-9ページ。
 14)同「再ひ償金を現送すへきを論す」同上誌第6号,1896年1月5日,9-10ページ。
 15)「償金受取の方法」『東京経済雑誌』第31巻772号,596-97ページ。「清国償金の領収」同誌第32巻第799号,732ページ。「償金を取戻さゞるの結果」同誌第32巻第804号,1895年12月14日,970ページ。「償金」同誌第32巻第805号,1895年12月21日,985-86ページ。「償金取寄せず論者は更に迂遠」同号,1034-36ページ。「償金移入に就いて」同誌第33巻第809号,1896年1月25日,111ページ。「償金取寄に関する謬見」同誌第34巻851号,1896年11月14日,841-42ページ,『鼎軒田口卯吉全集』第7巻,同刊行会,1927年,489-91ページ。「償金特別会計法及償金取寄」同誌第34巻第855号,1896年12月12日,1019-27ページ,同上『全集』第7巻,312-23ページ。「清国償金は為替を以て取寄すべし」同誌37巻第924号,1898年4月23日,846-47ページ,同上『全集』第7巻,507-08ページ。梅津和郎『日本の貿易思想』ミネルヴァ書房,1963年,115-25ページ。
 16)『東京経済雑誌』第855号,1024ページ,前掲『田口卯吉全集』第7巻,319ページ。
 17)「償金取寄高一千万磅に及ぶ」同上誌第35巻858号,1897年,1月9日,10ページ。
 18)同上誌第32巻第805号,985ページ。「償金の現金取寄」同誌第38巻第938号,1898年7月30日,227ページ。
 19)社説「償金回送法を論じて正貨準備に及ぶ」『東洋経済新報』第5号,1895年12月25日,1-5ページ。
 20)小手川豊次郎「償金問題」同上誌第2号,1895年11月25日,11ページ。
 21)同「償金問題(承前)」同上誌第3号,11ページ。
 22)井上準之助,前掲書,84-85ページ。
 23)『明治大正財政史』第17巻,1957年,484-85ページに「此等の償金は欧米の金融市場に対する影響を慮り,一時に本邦に回収せざることを条件とせしものなりき」とあるのは上記の井上の記述によるものであろう。
 24)The Economist,vol.LⅢ,No.2723,p.1426.「預入償金の倫敦金融市場に及ぼしたる影響」『東洋経済新報』第5号,20ページ。
 25)A.I.Bloomfield,“Short-Term Capital Movements Under the Pre-1914 Gold Standard,”Princeton Studies in International Finance,NO.11,Princeton,1963,pp.26-27.ブルームフィールド著,小野一一郎・小林龍馬共訳『金本位制と国際金融』日本評論社,1975年,105ページ,115ページ(注)。
 26)S.J.Clapham,The Bank of England,volⅡ,Cambridge,1966,p.365.英
 国金融史研究会訳『イングランド銀行』Ⅱ,ダイヤモンド社,1970年,403ページ。
 27)B.R.Mitchell & Ph.Dean,Abstract of British Historical Statistics,Ckmbridge,1971,p.445.
 28)小島仁「第1次大戦前の在外正貨制度と横浜正金銀行」札幌大学『経済と経営』第7巻第3・4号,1977年,31ページ。
 29)前掲『明治財政史』第2巻,193-94ページ。
 30)同上巻,209-11ページ。
 31)同上巻,225ページ。
 32)大蔵省の添田寿一は,償金を取寄せない理由の一つとして「正貨運送の費用夥しく入る」ことをあげている。(『東京経済雑誌』第34巻第851号,1896年11月14日,842ページ)。
 33)軍艦水雷艇補充基金のうち1500万円は利殖運用のために外国公債で保有される方針がたてられた。(前掲『明治財政史』第2巻,276-79ページ)。
 34)小野一一郎「日清戦争賠償金の領収と幣制改革」『経済論叢』第94巻第3号,1964年,181-82ページ。
 35)「相馬永胤氏の償金回収談」『東洋経済新報』第25号,1896年7月15日,18ページ。横浜正金銀行頭取園田孝吉は,日本銀行営業局長で正金銀行取締役の山本達雄らと共に償金取寄委員として,1896年5月イギリスに出張した。同頭取不在中は相馬永胤取締役が頭取の職務を代行したのである。園田頭取が1897年1月に帰国後も3月初まで頭取代理を勤め,4月に相馬永胤が頭取に就任した。(前掲『横浜正金銀行史』169,180ページ等)。
 36)前掲『明治財政史』第2巻,225ページ。
 37)同上巻,333-47ページ。『償金収支報告書』には尨大な金融情勢報告が掲載されている。
 38)前掲『明治財政史』第2巻,351-52ページ。
 39)前掲「相馬永胤氏の償金回収談」『東洋経済新報』第25号,16-19ページ。(大蔵次官)田尻稲次郎「償金談」(1895年)『北雷田尻先生伝記』下巻(田尻先生伝記及遺稿編纂会,1933年),217-18ページ。『東京経済雑誌』1896年11月14日号によれば添田寿一は「正貨は倫敦に無し之を集めて取寄せるには予じめ期限を定めざるべからず」と述べているが,これは正貨として銀を考えてのことであろう。
 40)前掲『明治財政史』第2巻,355ページ。
 41)前掲『横浜正金銀行史』174ページ。
 42)『大日本帝国議会誌』第3巻,同刊行会,1927年,1616ページ。
 43)『東洋経済新報』第25巻,18ページ。
 44)『東京経済雑誌』第34巻第851号,842ページ。
 45)「償金取寄に関する政府の方策」『東洋経済新報』第8号,1896年1月25日,28-29ページ。『東京経済雑誌』第34巻第855号,1019ページ。
 46)前掲『大日本帝国議会誌』第3巻,1617ページ。松方が1896年9月に大蔵大臣に就任した当時は為替は「其種類ヲ限リタルト輸入減少輸出増加ノ期節ニ向ヒタルトノ為メ取組ミ大ニ減少シ」た。(前掲『明治財政史』第2巻,355ページ)。
 47)第1回償金受取当時渡辺蔵相がこれを日本に回送しなかった理由について,「明治三十年幣制改革始末概要」は,「償金ノ回収ヲ初ムルハ益銀価ノ変動ヲ助勢シ,殊ニ毎年下半期ヨリ翌年二月迄ノ間ハ本邦ノ生糸輸出ノ季節ナルヲ以テ之レカ為メ我外国貿易上ニ於テ不利ナル影響ヲ受ケンコトヲ慮リ,直チニ正貨回送又ハ為替取組ニ著手スルコトハ之ヲ避クルコトトシタリ」と記している。(前掲『史料集成』第11巻ノ2,476ページ)。ここでは政府の為替取組が輸出期に貿易に不利に作用すると考えられているが,これはそれが為替需給のアンバランスを通じて日本の為替相場を騰貴させるからであろう。
 48)『東洋経済新報』第25号,18ページ。
 49)深井英五前掲書,382ページ。
Ⅳ 日清戦争賠償金保管金の機能

 ロンドンに保有された賠償金の使途を在外正貨との関連で考察しよう。これはまず第一に,政府海外支払基金に充用された。
 『償金収支報告書』には「之レ海外仕払ノ軍艦代及兵器代等ノ為メニ為替上ノ煩ヲ避ケ且為替相場ノ変動ヲ予防シ又金銀塊輸送ノ費用ヲ省クヲ以テナリ」と記されている1)。1899年10月に松方大蔵大臣が閣議に提出した案にも「我邦ヨリ数年ニ亘リ欧米ニ向ケ仕払ニ要スル経費ハ巨額ニ上ルヘキ見込ナルヲ以テ之レカ運搬ノ費用等ヲ節減スル為メ償金ノ内凡一億七千三百余万円ハ軍艦兵器ノ代価仕払基金トシテ之ヲ英国ニ存置」すと記されている2)。政府海外支払基金は,正貨の現送に代わる対外決済手段として,しかも為替相場の変動を防止するものとして用いられたのであり,この意味では正貨の果す機能と同様の機能を果したのである。もしも償金在外保管金がなかったとすれば,政府は対外支払を行うために正貨を現送するか為替銀行から為替を買ってこれを支払に充当しなければならず,前者は政府の正貨現送費負担を,後者は日本の為替相場低落を惹起したことであろう。
 賠償金による各省経費の対外払高は第4表および第5表にみられるとおりである。第4表によれば,1903年3月までにロンドンにおける償金特別会計部受入額(賠償金以外も含む)の31.5%が各省経費振替払に充当された。
 各省経費海外払の中心は軍艦代であった。1896年度から99年度までに前者1億3119万円のうち後者が1億1116万円を占めていたのである3)。
 軍艦兵器代価支払基金等は対外支払に用いられるまでの間,一時的に他の目的に流用されることがあった。すなわち1897年に,輸入超過のために外国為替の需要が供給を超過し,為替銀行の外貨資金が逼迫し,正貨が流出し,兌換制の基礎が危くなると,政府は,横浜正金銀行の要求に応じて日本銀行を通じて在外正貨を交付し,これを為替資金として用いさせた。政府は軍艦等の支払基金として所有する英貨を為替銀行にも供給して一般的な「金貨ノ輸出ヲ防遏スルノ手段トシテ」用いたのである4)。この場合,政府が英貨100万ポンドを日本銀行に「利付預ヶ入」れ,同行がこれをさらに正金銀行に利付で定期預金として預入れた。
 政府所有英貨が金防衛のために為替銀行の対外支払に用いられたことは『償金収支報告書』の次の言葉がよく示している。「本邦諸会社ノ海外ニ於テ購入セシ汽船鉄軌等ノ代金仕払額漸次増加スルノ有様ニシテ此際政府ノ売為替ヲ中止スルトキハ横浜正金銀行ノ資力ヲ以テシテ到底為替ノ出逢ヲ付クル能ハス勢ヒ正貨ノ現送ヲ為ササルヘカラサルニ至ルヘク此情態ヲシテ自然ノ成行ニ放任スルトキハ貨幣制度改正ノ金準備ニ充用スル為メ既ニ本邦ヘ回収セシ金塊ヲ再ヒ海外ヘ輸出スルノ悪結果トナルヘシ故ニ明治31年度軍艦代等ノ仕払基トシテ倫敦ニ存置スル所ノ英貨ノ中百万磅迄ヲ限リ明治27年法律第16号ニ拠リ日本銀行ヘ利付預入ヲナシ同行ニ於テハ之ヲ為替資金ニ使用シ正貨ノ輸出ヲ防止セシメ爾後輸出ノ盛時ニ際シ基代金ヲ以テ倫敦ニ於テ英貨ヲ以テ返納セシムルコトトセハ一方ニ於テハ将ニ流出セントスル正貨ヲ防止シテ為替ノ出逢ヲ付ケ一方ニ於テハ償金運用利殖ノ一方法トモナル」と5)。
第4表 償金特別会計部ロンドンにおける受払高
第5表 償金特別会計金回収高表
横浜正金銀行は,預り金のうち30万ポンドをロンドン支店の支払為替資金とし,残りは汽船または鉄道用品など日本の殖産工業に必要な輸入品に対する買為替資金として使用することとした6)。
 この預ヶ金は1899年7月7日に預ヶ入期限が満了となったが,横浜正金銀行はさらに預ヶ入を日本銀行に申請した。日本銀行は英貨100万ポンドを2シリング0ペンス4分の3の相場で政府から買受け,その代り金970万円を政府に納入するとともに,買取った英貨100万ポンドを「ロンドン為替預ヶ金」として年2%の利子付で正金銀行に預入れた。正金銀行はこの100万ポンドで従来のロンドン支店の預かり金を返却した。なお日本銀行所有英貨の正金銀行への預ヶ金は大正末年まで継続した7)。
第6表 償金特別会計収支計算表
 政府の日銀に対する英貨の「利付預ヶ入」は1898年,99年にも行われた8)。これらも正金銀行への為替資金供給,これによる正貨流出防遏を目的としたものと思われる9)。
 なお軍艦兵器代価支払基金の流用は1900年1月に一切禁止されている10)。
 このように政府支払基金は,金現送,為替相場の変動を回避させながら,その流用によって日本の産業に必要な商品の輸入を支えつつ,基本的には政府の軍艦輸入を可能にするものとして機能したのである。
 賠償金の一部は為替で日本に取寄せられた。次にこれについて考察しよう。
 為替で賠償金を取寄せ,国内で円資金を受取った政府は,これを政府対内支払に充当した。第6表にみられるように賠償金の大半は軍事目的に使われた。為替での取寄も軍事拡張を支えるものとなったのである11)。
 為替によるロンドン保管英貨の回収は,政府がロンドンで保有する英貨を,日本銀行代理店である横浜正金銀行ロンドン支店長に交付し,日本銀行が為替を取組んで,これを日本に取寄せ,日本銀行がその代金を日本で通貨で国庫に返納することによって行われた。この経緯は次のようなものである。1896年1月,日本銀行が「正貨ハ漸次減少シ尚今後モ銀貨続続輸出ノ傾向有之大ニ兌換制度ノ権衡ヲ失スルノ憂有之候ニ付此際可成銀貨ノ輸出ヲ防止シ且為替相場ノ出合ニ依リ銀貨ノ輸入ヲ計リ以テ兌換制度ノ権衡ヲ維持スルハ目下ノ急務」であるとして,為替資金に充当するために償金英貨のうち100万ポンドを借受けたい旨大蔵大臣に申出た。これに対し,大蔵省は日本銀行に英貨を貸渡すのは拒否した。日本銀行は為替取組の自主性は認められなかった。だが同省は正貨流出防遏の趣旨は認め,その代案として,1月に英貨100万ポンドを在ロンドン日本銀行代理店に交付して,日本銀行に為替を取組ませたのである。この操作は,単に英貨を取寄せるだけでなく,「正貨輸出防止ノ効果ヲ収メンコトヲ期」したものでもあった12)。日本銀行総裁岩崎彌之助は,「明治29年日本銀行営業報告」の中で,「外国貿易市場ノ大勢ヲ察スルニ生糸ノ不捌ト輸入品需用ノ増進トニ依リ貨物輸入ハ毎ニ輸出ニ超過シ上半季ヲ終ルマテニ既ニ2600万円以上ノ超入トナレリ信ニ非常ノ変況ニシテ若シ之ヲシテ常時ニ在ラシメハ既ニ多額ノ正貨ヲ流出スヘキモ本年ハ収入償金ノ倫敦ニ在ルアリ之ヲ以テ為換資金ニ充ツルノ便アリシヲ以テ惟々正貨ノ流出セサルノミナラス其ノ回送〔=現送〕ニ依リ却テ金銀ノ超入ヲ見シ」と述べている13)。かくして政府所有在外正貨が正貨(金銀)にかわる為替銀行や輸入業者のための一般的な国際決済手段として機能し,正貨の防衛に寄与するに至ったのである。その後も上述の趣旨の為替による英貨回収が行われたのである。
 1896年4月,渡辺大蔵大臣は,為替取扱方はロンドン,横浜間の直接為替を主とはするが,為替相場がかたよらないようにするために,時にはアメリカ,インド,香港,上海等の各地へ向けて為替を取組み,間接に償金を日本へ取寄せる方法をとるよう日本銀行に指示した。1896年9月総理大臣兼大蔵大臣に就任した松方正義は為替取組については従来どおり直接為替と間接為替を取組むことによって,対英為替相場の昂騰を抑制するとともに,「輸入ヲ防遏スルノ一方法トシテ器械棉花等ノ如キ専ラ我生産ヲ助クルモノニ対シ為替ヲ取組ミ奢修品ノ如キ不生産品ニ対シテハ成ルヘク取組マサルノ方針ヲ採」った。賠償金による為替資金の供給は,為替騰貴による輸出の阻害を抑制しつつ,奢侈品輸入を抑制しつつ,生産手段や原材料の輸入を確保して生産を助長するものともなったのである14)。
 財政当局者は当初為替作用で海外から償金を取寄せられる金額は1ヵ年に1000万円を越えないと明言していた。だがその後入超は増大し,1896年から99年までに輸入超過額合計は2億2700余万円に達した。このために巨額の為替を取組むことができた15)。第4表によれば,償金特別会計部ロンドンにおける為替取組高は,1896年1月の為替取組開始から1903年3月までに19,765千ポンド(賠償金以外も含む)に達した。第5表から明らかなように,為替は1896年から99年にかけて大部分が取組まれた。日本に回収された償金のうちで為替によって回収されたものは1903年3月末までに約5割6分に達し,金銀の現送高を凌駕したのである。
 さらに,日清戦争賠償金在外保管金を準備金として,日本銀行券が発行されるに至った。次にこの問題を論じよう16)。
 1896年3月公布の償金特別会計法に基づいて,同年5月,政府と日本銀行の「預ヶ合貸借」が開始された。すなわち「政府ヨリハ償金ノ金地金若クハ英貨ヲ日本銀行へ預ヶ入日本銀行ハ之ヲ準備ニ兌換券ヲ発行シテ之ヲ政府ニ貸付」けることが行われた。預合貸借には2つの形式があった。第1は「外貨預ヶ合」で,政府がロンドンにおいて所有する英貨を日本銀行に預入れ,同行がこれを正貨準備に繰入れて,日本で兌換券を発行してこれを政府に貸付けるものであった。第2は「金地金預ヶ合」であり,政府がロンドンで購入した金地金を日本に現送してこれを日本銀行に預入れ,同行がこれを正貨準備に繰入れて兌換券を発行して無利子で政府に貸付けるものである。政府が金地金の一部を売却しないで所有し続けたことは,この段階における,金の所有を日本銀行にまかせようとしない,金に対する政府の執着を物語るものである。
 在外正貨に関して問題となるのは「外貨預ヶ合」である。この場合,政府が,イングランド銀行に保管している政府所有英貨を日本銀行に預け,日本銀行代理店である横浜正金銀行ロンドン支店がこれをイングランド銀行の普通預ヶ金とした。この在外預金を日本銀行が正貨準備とみなして銀行券を発行した17)。英貨預合勘定中の日本銀行保有在外資金が,銀行券発行の準備金となり,しかも正貨準備金となり,この意味における在外正貨として機能したのである。
 預合勘定が創設されたのは次のような事情からである。日本銀行は正貨準備額を越えて銀行券を発行することができ,同行の保証準備発行制限額は,1890年5月に8500万円に拡張されたが18),日清戦争勃発により金融逼迫が生じ,同行は制限額を越
えて銀行券発行を行い,95年末には制限外発行額は5500万円に上っていた19)。一方,1896年3月法律第10号をもって同年3月限りで臨時軍事費特別会計を終結することが定められ,1895年度追加予算で償金特別会計から7895万余円を臨時軍事費歳入へ繰入れるべきことが公布されたが,当時償金特別会計の日本における現金はわずか902万余円にすぎなかった。巨額の不足額分を1895年度国庫閉鎖期までにイギリスから回送することは,前述の理由から不可能であった20)。国内で公債を募集して資金を得ようとすれば,「我金融市場に大劇動を与ふるし」,5%以下の低利で多額の国債を一時期に募集することは困難であった21)。この資金調達問題を解決するためには,政府が日本銀行から借入を行う必要があった。この場合,日本銀行が日銀券の制限外発行をこれまで以上に増大させて,正貨準備率を引下げて政府に貸付を行うことは,中央銀行として望ましいことではないと考えられたのであろう。政府は,日本銀行の制限外発行を増大させない通貨発行による資金調達方式を考案した。すなわち,預合形式で政府が1896年5月に5804415ポンドを日本銀行に預入れ,これを準備金として日本銀行に5000万円の兌換券を発行させ,政府がこれを借入れて臨時軍事費特別会計へ繰入れたのである21a)。
 かくして在外正貨を準備金とする銀行券発行方式が創設されたのである。在外正貨準備発行が望ましい銀行券発行方式であるという貨幣論的立場から,政府がこれを実施したのではない。「一時の便法」としてこれを実施したのである22)。政府は日本銀行に在外正貨を売却して,これを準備金とする銀行券の発行を持続的に行おうとしたのではなかった。賠償金が国内に取寄せられれば,漸次借入金を返済し,預入英貨を取戻そうとしたのである。
 在外正貨を準備金とする銀行券の発行は日本が最初ではない。ハンブルグ振替銀行(Hamburger Giro Bank)は早くから準備金の一部をロンドン宛の為替手形で保有していたが,19世紀第4四半期にヨーロッパ大陸の中央銀行でこれにならうものが生じた23)。すなわちオーストリア・ハンガリー銀行は,1887年の発券特権の更改に際して,政府紙幣が強制通用力を認められる期間中(オーストリア・ハンガリー銀行券の兌換停止期間中),3000万フローリンを限度として,金属本位貨幣で支払われる外国為替を正貨準備に繰入れるのを許された。1892年の金本位制採用の結果,貨幣単位が改められ,従来の3000万フローリンは6000万クローネとなった24)。スエーデンのリスク・バンクは1845年以来,ノルウェー銀行は1892年以前に,ベルギー・ナショナル・バンクは1865年以来,在外正貨の正貨準備繰入を認められていた。デンマークのコペンハーゲン・ナショナル銀行は1886年に,イタリー銀行は1893年にこれを認められた25)。だが,このような事実は日本の通貨当局者の注目を惹かなかった。すなわち,外国にある正貨準備を抵当として兌換券を発行した事があるかという質問に対して,大蔵省主計局長松尾臣善は,「是まではない」と答弁しているのである26)。日本の在外正貨の正貨準備繰入は,現実的要請から生じたものであって,外国の例にならったものではなかった。
 銀行券発行の基礎の一つが在外正貨ということになれば,通貨制度が外国の事情によっておびやかされないであろうか。この疑問は当時から存在していた。すなわち1896年2月5日の償金特別会計法の審議において,工藤行幹は次のように質問している。「抑々兌換券と云ふものは,抵当が確実でなければならぬ,是が若し不確実であれば紙幣の信用に関る,然れば之を確実にするには,日本の国に在って,日本銀行の倉庫の内に在って,政府が是を十分監督して居るからして誠に安心である」,ロンドンに準備金を置いて兌換券を発行するとすれば,「吾々は外国に置いて何か事があったときには此事はどうなるか分らぬ,万々一それが烏有に帰したときには,此兌換券と云ふものは最早引換の途がなくなって来ると云ふのは,深く憂ふるのである」,どうして地金を日本に持ってこないのかと質問した27)。
 これに対して大蔵省主計局長松尾臣善は,正貨を「外国に置きましても決して政府は危険とは認めませぬ,若し危険と認めるやうなことがありますれば処分を致しますが,さう云ふことは認めませぬ」と答弁している28)。大蔵省にはロンドン金融市場の安全性に対する信頼があったのである。
 田口卯吉も,ロンドンに保有する償金を日本銀行の正貨準備の一部とすることは,兌換制度の基礎を破壊するものである,と政府を批判した。すなわちかれは,海外に存在する貨幣は数ヵ月後に日本に到着するから保証準備に属するものであって,現金と見ることはできない,兌換に要する正貨準備は日本に存在する純粋の正貨準備でなければならない,在外正貨準備発行は兌換銀行券発行に反する,と主張した29)。かれはイングランド銀行の発券方式を念頭においていたわけである。
 これに関して償金特別会計法特別委員会委員長箕浦勝人は,正貨準備を遠方に置いて兌換券を発行する場合には,兌換請求があった時に正貨を遠方に取りに行かなければ兌換に応じられないとすると,兌換はすぐには応じられないから,兌換の本則からいうと,在外正貨準備発行は不完全な点があるが,「今や日本銀行の正貨準備は5500万円の正貨準備がある,…正貨準備が乏しくなって…1円の引換を求められて直ぐに差支へると云ふやうな…逼迫の有様で…ない…遠方の所に正貨があったからと云って,何も差支ふることはない勿論条例にはどこに置かなければならぬと云ふことを指示してない」と答弁している30)。国内に金属準備が存在しているために,兌換準備金の一部が外国に存在していてもかまわないと考えられたことも,在外正貨準備発行が認められた一因となったといえよう。
 なお田口卯吉は,預ヶ合勘定によって事実上流通紙幣が膨脹を来たす,兌換券の過度の増発が低金利政策の必要と背離する,預ヶ合勘定方式による銀行券発行は国庫に損失をもたらすという点からも,預ヶ合勘定を批判していた31)。
 正貨準備に繰入れられた在外正貨を,普通預ケでなく金貨または地金をイングランド銀行に特別保護預ケする形態で保有すれば,通貨発行の基礎がより強固になるとは考えられなかったであろうか。林監理官の調査によれば,イングランド銀行が英貨(この場合はイギリス金貨のことと思われる)を金庫の中に納めて,閉鎖または封印して預かる方法がないわけではなかった。だがこの方法では,イングランド銀行は金庫中の金を関知しないこととなる。すなわち同行の金準備の一部を特別保管に移せば,この金は同行の通貨の基礎ではなくなる。イングランド銀行は,特別の場合を除いて,金貨,金地金の特別保管を承諾しなかった。日本側としても,正貨準備に繰入れられた在外正貨を特別保護預ケとすれば,出納等に繁雑な手続を要することもあり,これを普通預ヶ金とすることに同意したのである32)。これはイングランド銀行券の金基礎を強固にするものであった。
 上述の英貨預合勘定中の在外正貨を準備とする銀行券発行による政府への貸付金は,前述のその創設理由から明らかなように,軍事目的のために使用されたのであった。
 なお在外正貨を準備金とする銀行券発行の創設は,これが前例となって後の在外正貨を準備金とする銀行券発行をやりやすくしたといえるであろう。
 政府は日本銀行に外貨を「利付預ヶ入」れることも行った。外貨資金の多くはそのまま為替銀行に貸付けられた。前述のようにこれは海外支払基金の流用として行われた。だが「利付預ヶ入」による外貨を兌換券発行の基礎とすることも行われた。すなわち1896年12月28日から翌年1月10日までごく短期間,政府は日本銀行に100万ポンドを利子付で預入れて,英貨を発行準備とさせて銀行券を発行させた。同行は,金融市場の情勢に対処するためにこれを民間に貸付けた33)。第7表における1896年12月の在外正貨準備中にはこの100万ポンドにみあう準備金が含まれている33a)。
 日清戦争賠償金は,為替による取寄と同じく1896年1月以降,金銀の現送によっても日本に取寄せられることとなった。次にこれについて言及しよう。「政府ハ為替ノ出合ニ依リ正貨ノ輸出ヲ防遏シ,以テ我カ兌換制度ノ権衡ヲ維持シ,又時機ヲ酌量シテ正貨ノ輸入ヲ計ルノ方針ヲ取ルコトトシ,明治29年1月11日ヲ以テ日本銀行ニ命令シテ漸次償金ノ回収ニ着手シタ」のである34)。
第7表 日本銀行正貨準備
同年3月頃から政府は次第に償金を以てその借入金の返済に充当することとした。日本銀行は正貨が到着すると同時にその一部を買取って政府借入金の返済金に充当した。これによって日本銀行の正貨準備が増加した35)。渡辺大蔵大臣は,市場の景況を考慮しながら,金銀比価の変動によって国家が巨額の損失を蒙らないように,金銀の両者を取寄せる方針を採った36)。だが同年9月,松方正義が再び大蔵大臣に就任すると,幣制を改革し金貨本位制を実施することが決定され,償金現送法ももっぱら金を取寄せることに改めらた37)。金の購収事務は日本銀行に委任され,同行は金が日本に到着するとこれを造幣局に輸納した。貨幣法が1897年3月に公布されると,造幣局はこの金を新金貨に鋳造した。10月1日以降,この金貨は1円銀貨と引替えられた。日本銀行所有銀貨もことごとく金貨と交換されることとなった38)。
 かくして償金保管金は在内正貨の蓄積にも寄与したのである。ことに金本位制の基礎としての金準備の蓄積に寄与し,金本位制の確立を可能としたのである39)。
 ここで日本の貨幣制度における在内正貨の重要性について述べておこう。政府・日本銀行は,在外正貨を保有する一方で,在内正貨の蓄積に努めた。日本銀行は,横浜正金銀行に低利資金を融通して輸出為替を買取らせて正貨の吸収を図る一方,独自の立場から正貨吸収策を実施した。すなわち,金銀貨幣・金銀地金の買入および地金銀吸収資金の融通によって金銀の吸収に努めた。
 在内正貨が重視されたのは,それが兌換制の基礎であったからであり,通貨価値や為替相場の安定もこれによって可能となったのである。松方正義大蔵大臣は,1899年3月,日本銀行保証準備発行制限額の拡張にあたって次のように日本銀行に内命している。「兌換券正貨準備ノコトハ本邦幣制ノ基礎ニ関シ,国家信用上重大ノコト」
であるから,「外国為替ヲ利用シ正貨ヲ吸収スルハ勿論,特ニ支那・朝鮮地方産出ノ金塊ハ必ラズ之ヲ本邦ニ吸収スルノ道ヲ講ズルハ目下ノ急務タリ。依リテ其方法ヲ立テ速ニ之ニ着手スベシ。……又本邦産出ノ金塊ハ代金ノ前渡又ハ運賃ノ支弁ヲ為ス等,成ルヘク採掘者ニ便宜ヲ与ヘテ之ヲ購入シ,其ノ海外ヘ流出セザル様方法ヲ立テ之ヲ実行スベシ40)」。
 在内正貨が重視されたのは,それが戦争準備金としての意義を持つからでもあった。ドイツはフランスとの戦争によって得た50億フランの賠償金のうち1億1100万ドルを戦時準備金として国庫に貯蔵し,このうち3000万ドルを金貨で所有していた。フランスやロシアも一方で兌換準備として,一方で戦争準備として金の蓄蔵に努めていた。イギリスの大蔵大臣であるゴッシェンは,今後ヨーロッパの戦争は金貨戦争であると述べていた41)。
 松方正義は,兌換のための正貨準備を他方では戦時準備ととらえていた。日清戦争以前から松方大蔵大臣は,「兌換準備ノ正貨ハ即国家ノ準備金ナリ一朝海外ト事アリ正貨ヲ要スルトキハ即是レヲ以テ使辨セサルヲ得ス」と述べていた42)。また1892年に大蔵官僚の阪谷芳郎も「今日若シ日本ト外国ト急ニ戦争ノ起ッタト云フヤウナ時ニ忽チ要ルモノハ金デアル,幾ラ兵隊ガアッテモ幾ラ弾薬ガアッテモ幾ラ軍艦ガアッテモ夫レヲ働カスニハ金ガナケレバナラヌ,金銀ト云フ貨幣ガナケレバナラヌ,札デハ通用シナイ,内国ナラバ札デモ通用スルガ外国ニ往ッテハ金銀ホカ通用スルモノハ無イ,其時ニ日本銀行ガドウ云フ働キヲスルカト云フト今日銀行ガ持ッテ居ル,7000万円ニ近イ準備金ヲ挙ゲテ之ヲ軍用ニ供スル事ガ出来ル」と論じていた43)。日清戦争後通貨当局者は,日清戦争に鑑み,将来常に1億5000万円の正貨を保存する計画を立てていた44)。日清戦争後も松方大蔵大臣は前述の1899年の内命の中で「正貨準備ノコトハ……国家信用上重大ノコトナルノミナラズ,国家最後ノ準備トモ謂フベキモノ」であると述べているのである45)。
 松方正義は,日本銀行兌換準備とは別の独自の戦争準備金,非常準備金を持とうとした。すなわちかれは,1899年に日清戦争賠償金残額5000万円を軍艦水雷艇補充基金(3000万円),教育基金および災害準備金(2000万円)として積立てて保有することを決定したが,それらは艦艇補充,教育,災害に備えるとともに,非常準備金として,万一事ある時は軍用目的に供するものであった。政府はこれらのうち軍艦水雷艇補充基金のうちの1500万円はいつでも金貨に交換できる外国の確実な公債を買入れて保有し,教育基金,災害準備基金2000万円は内国債を買入れて保有しいくらかの利殖を図ったが,軍艦水雷艇補充基金のうちの1500万円は日本で金貨で預金部において保有し,時機により日本銀行に預入れて運用することに定め,実際に1500万円を金貨金地金の形態で日本銀行に預入れたのである46)。金こそが戦争準備金として最も確実なものと考えられたのである。そして金の一部は日本銀行に売却しないで,いつでも自由に使えるように政府自らが所有しようとしたのである。
 このように国内で正貨が保有されていたから,在外正貨を保有していても安全であると考えられたのである。前述の在外正貨の保有は,一面においては在内正貨の保有によって支えられていたといえよう。
 上述のように,賠償金に基づく在外正貨は種々の重要な機能を果した。だがこれには限界があったのである。
 すなわちまず第一に,在外の賠償金保管金の現送による在内正貨蓄積は,対外決済手段や兌換準備金としての金を節約するものとしての本来の在外正貨の機能ではなかった。
 また,在外正貨を現送してくれば,在外正貨が減少せざるを得なかった。これは在外正貨の否定である。
 国際決済手段としての,また銀行券発行の基礎としての在外正貨の機能自体も,日清戦後の段階において限界を有していた。
 すなわち,政府海外支払基金は,一部は為替銀行の資金に流用されたとはいえ,政府自体の対外支払の手段に基本的にとどまるものであった。
 償金取寄にかかわる政府所有在外正貨の為替銀行への供給は,金流出の阻止を目的とすると同時に,政府が英貨を円貨に換えるためのものであった。日本銀行が在外正貨を所有して,金流出の阻止自体を目的として在外正貨を売却するようなことは,未だ行われてはいなかった。
 在外正貨を対外支払に用いたり,為替取組による取寄のために為替銀行に交付すれば,在外正貨が滅少せざるを得ない。賠償金による在外正貨は次第に枯渇していった。賠償金の獲得は,一時的に多額の在外正貨を保有させたにすぎなかったのである。1899年には外債を募集して外貨不足を補わざるを得ない状態となったのである。この外債募集金も,日露戦争以後のようには多額にのぼらず,またこれも枯渇していった。
 日清戦争賠償金に基づく在外正貨の,日本銀行正貨準備への繰入額は,在内正貨準備額を下回っていた。また,この正貨準備繰入は一時的なものにすぎなかったのである。すなわち,外貨預合勘定の利子に関しては,政府が日本銀行から年1%の預金利子を取るのに対して,政府は同行に2%の借入利子を支払わなければならなかった。「金繰上ノ都合ヲ見計リ可成速ニ之カ〔=外貨預合の〕解除ヲナスハ国庫ノ利益トスル所」であった47)。しかも在外正貨の正貨準備繰入による銀行券発行は,積極的に推進されたものでなく,情勢上已むを得ないものとされていた。これには弊害があり,これを続けるのは良策ではないとされていた。すなわち『明治財政史』は,「日本銀行が斯の如き変則的準備を設けたるは当時の状勢誠に已むを得ざるものありしも久しく之を存するは決して経済上良策に非ざるなり何となれば制限外の発行は世人をして金融界に於ける資金の需用が平常の程度を超ゆること幾何なるかを推測せしむるを以て此の如く権宜の手段に依り徒に正貨準備を増加するときは其幾何が実際に於て平常以上の需用に属して所謂警戒を要すべきものなるかを知る能はざらしむればなり」と論述しているのである48)。政府は,1896年12月以降ロンドンで購入した金地金の到着にしたがって,漸次外貨預合を無利子の金地金預合に切替えて,1897年5月に残額2917万余円を銀塊ならびに為替取組代り金で返済したのである。なお金地金預合も1898年末には解除された49)。
 在外正貨を銀行券発行の基礎とする仕組が創設されたけれども,上述のようにこれは一時的なものにすぎなかったのである。前述の在外正貨準備発行を除いては,日露戦争前に在外正貨準備発行が行われたのは,1902年2月から5月までと7月から10月までにすぎなかった50)。「預合勘定」による銀行券発行は,在外正貨を基礎とする銀行券発行の端緒,濫觴,嚆矢にすぎなかったのである。
 かくして,多額の在外正貨を保有することに依存する貨幣制度は,日露戦争前においては過渡的性格を免れなかったのである。
 注
 1)前掲『償金収支報告書』1703ページ。前掲『明治財政史』第2巻,507ページ。
 2)上掲『明治財政史』第2巻,509ページ。
 3)/司上巻,508-09ページ。
 4)同上巻,510ページ。
 5)前掲『償金収支報告書』1771-72ページ。前掲『明治財政史』第2巻,585-92ページ。
 6)前掲『横浜正金銀行史』181ページ。
 7)前掲『明治大正財政史』第14巻,銀行(上),704-05ページ。970万円の数値は『横浜正金銀行史』207ページによる。
 8)前掲『明治財政史』第2巻,592-600ページ。
 9)たとえば1898年5月,横浜正金銀行ロンドン支店において,金融逼迫のために為替資金が困窮したため,同行が日本銀行に申出て,同月政府が日本銀行に年2%利付で英貨50万ポンドを日本銀行に預入れている。横浜正金銀行は業務拡張のために,英貨60万ポンドを年利1.5%で預入れてもらいたい旨,1899年2月,日本銀行を経て政府に
出願し,同月,政府から日本銀行に利付預ヶ入が行われている。(前掲『明治財政史』第2巻,592-95ページ。)
 10)同上巻509-11ページ。
 11)高橋誠前掲書,171-74ページ。
 12)前掲『明治財政史』第2巻,348-51ページ。
 13)「明治二十九年日本銀行営業報告」『日本金融史資料 明治大正編』268ページ。
 14)前掲『明治財政史』第2巻,351-55ページ。前掲『横浜正金銀行史』171-73ページ。
 15)前掲『明治財政史』第2巻,726ページ。
 16)松岡孝児前掲書は,日本の在外正貨を兌換準備の観点からとらえている。
 17)前掲『明治財政史』第2巻,569-75ページ。
 18)1888年に「兌換銀行券条例」が改正されて,日本銀行の銀行券発行方法として保証準備屈伸制限発行法が採用された。日本銀行は,金銀貨および地金銀を準備として,これと同額の兌換銀行券を発行できた。この正貨準備発行のほかに,7000万円を限度として,公債,確実な証券,または商業手形を保証として,兌換銀行券を発行できた。さらに日本銀行は,市場の景況によって兌換銀行券を増加する必要がある時は,大蔵大臣の認可を得て,この保証準備発行制限額を越えて,公債,確実な証券または商業手形を保証として,兌換銀行券を発行することができた。この制限外発行に対して,日本銀行は国庫に5%以上の発行税を納めなければならなかった。日本銀行券発行は,金銀準備を基礎としながらも弾力性に富んでいた。保証準備発行制限額は,1890年に8500万円に拡張された。1899年3月にはこれはさらに1億2000万円に引上げられた。同時に保証準備制限内発行に対して,日本銀行は1.25%の発行税を国庫に納めることとなった(後藤新一「わが国通貨制度(一)」『金融経済』第77号,1962年,5-8,13-15ページ。渡辺佐平,前出,121-208ページ)。
 19)前掲『明治大正財政史』第14巻,592-93ページ。
 20)前掲『明治財政史』第2巻,571ページ。
 21)1896年2月5日,衆議院における箕浦勝人「償金特別会計法特別委員会」委員長の答弁(前掲『大日本帝国議会誌』第3巻,1617ページ)。
 21a)5804415ポンドが準備価格5000万円と計算された理由については『明治財政史』第2巻,578ページ参照。
 22)吉川秀造『明治財政史研究』法律文化社,1969年,142ページ。
 23)L.E.v.Mises,Theorie des Geldes und der Umlaufsmittel,Munchen und Leipzig,1912,S.396,zweite neubearbeitete Auflage,1924,S.345.東米雄訳『貨幣及び流通手段の理論』実業之日本社,1949年,400ページ。田中金司『金本位制と中央銀行政策』宝文館,1929年,338ページ。
 24)田中金司,前掲書,339-40ページ。松岡孝児,前掲書,339-41ページ。オーストリー・ハンガリ銀行に関しては,cf.L.v.Mises,“The Foreign Exchange Policy of theAustro-Hungarian Bank,”The Economic Journal,vol.XIX,No.74,1909,p.201.
 25)田中金司,前掲書,343-48ページ。松岡前掲書,332-33,338-39,341-44ページ。
 26)前掲『大日本帝国議会誌』第3巻,1614ページ。
 27)同上巻,1615ページ。
 28)同上巻,1615ページ。
 29)同上巻,1569,1614-18ページ。「清国償金を倫敦に保存するの議」『東京経済雑誌』第32巻第801号,1895年11月23日,811ページ,前掲『田口卯吉全集』第7巻 480ページ。「償金特別会計法に関して」上掲誌第33巻第812号,1896年2月15日,228-30ページ,上掲『全集』第7巻 309-12ページ。前掲『東京経済雑誌』第34巻第855号,1020ページ,上掲『全集』第7巻 313-14ページ。
 30)前掲『大日本帝国議会誌』第3巻,1617ページ。
 31)前掲『東京経済雑誌』第34巻第855号,1020-24ページ,前掲『全集』第7巻,314-18ページ。梅津和郎,前掲書,118-20ページ。
 32)前掲『明治財政史』第2巻,574-75ページ。深井英五,前掲書,318-19ページ。
 33)前掲『明治財政史』第2巻,584-85ページ。松岡孝児,前掲書,506-07ページ。
 33a)『明治財政史』第2巻576ページの「預ヶ合貸借計算表」によれば,1896年12月に政府が英貨786367ポンドの戻入を日本銀行から受けて,(同年末に政府が同行から5000万円の円貨を依然として借入れている一方),政府の日本銀行への預ヶ金高は5018048ポンドとなっていた。しかし第7表においては,在外正貨準備は51840千円と,同年5月に5804415ポンドを預ヶ入れて在外正貨準備5000万円を得た時よりも多くなっている。
 34)前掲『史料集成』第11巻ノ2,476ページ。
 35)前掲『明治大正財政史』第14巻,606ページ。
 36)前掲『明治財政史』第2巻353ページ。
 37)同上巻,354-55ページ。
 38)前掲『史料集成』第11巻ノ2,482,491ページ。
 39)銀本位制から金本位制へ移行する上で,金の獲得に最も困難が予想される。大蔵省の阪谷芳郎は,「其銀貨を処分するに付ては,金を沢山吸収しなければならぬ,是れが一番困難であります」と述べている。(「金貨本位に就て」『東京経済雑誌』第35巻第866号,1897年3月6日,376ページ)。償金の現送によってこの問題が解決されたのである。松方正義は,1897年3月の貨幣法案提案理由説明の中で,償金によって金を得て「従来憂ヒテ居タ所ノ金本位施行ニ必要ナル金ノ準備ハモハヤ備ハッタト云フテ宜シイ」と言明した(前掲『資料集成』第11巻ノ2,457ページ)。
 40)吉川秀造,前掲書,131-32ページ。
 41)小手川豊次郎「戦時準備金」『東京経済雑誌』第32巻第799号,1895年11月9日,740-47ページ。小手川自身は,戦時準備金としてはロンドンのコンソル公債やアメリカの確実な有価証券を買って置いて,いつでも正貨と交換できるようにしておくのが便利であると考えていた(同巻,745ページ)。
 42)「日本銀行ヲシテ正金銀行ヲ責任代理店トナシ外国為替事務ニ従事セシムル等ノ件」(1889年)『日本金融史資料 明治大正編』第4巻,1452ページ。古沢紘造「横浜正金銀行条例の制定と為替政策」渋谷隆一編『明治期日本特殊金融立法史』早稲田大学出版部,1977年,109ページ。
 43)渋谷隆一編,上掲書,109-110ページ。
 44)「3億8千万円の償金中,輸入超過に充つへき正貨僅かに56千万円に過ぎず」『東洋経済新報』第29号,1896年8月25日,2-3ページ。
 45)吉川秀造,前掲書,131ページ。
 46)前掲『明治財政史』第2巻,271-83ページ。
 47)前掲『明治財政史』第2巻,572ページ。英貨預ヶ合利子が無利子となるのは1897年1月1日からのことである(『明治財政史』第2巻,573,578ページ)。
 48)東洋経済新報社編『金融60年史』同社,1924年,217ページ。
 49)前掲『明治財政史』第2巻,572-73ページ。
 50)土屋喬雄・山口和雄監修,日本銀行調査局編『図録日本の貨幣』第8巻,東洋経済新報社,1975年,198ページ。
Ⅴ 日露戦争以後の在外正貨

 1.在外正貨保有の増大と恒常化
 朝鮮・満州の支配をめぐって日本は1904-05年にロシアと戦争をした。このための軍事費の総額は17億円に達し,軍事費を中心とする政府の対外支払は巨額にのぼった。そのまま放置すれば国際収支は均衡を失って,正貨が海外に流出するおそれが生じた。政府はこの戦争に際して,種々の正貨維持政策を実行したのである。
 まず第1に外国払の節約を図った。政府は各省と交渉して,外国品の使用を制限し,内国品によるその代用を奨励した。輸入品以外の対外政府支払を極力緊縮させた。
 第2に外国為替の運用によって正貨維持が図られた。政府は横浜正金銀行に命じて,日本の本支店での輸出為替の買取に努めさせた。政府は,特別の相場で8484万円にのぼる輸出為替を買取った。政府はまた同行の輸入為替については,民間需要の輸入品に関する為替取組を制限し,できるだけ政府需要物に関するものに為替取扱を限るようにさせた。
第8表 外国公債引受地別一覧(実収額邦貨換算)
 戦地においては軍用切符を使用し,これによっても正貨の節約を図った。
 日露戦争期にとくに大きな役割を果したのは外債の募集である。第8表にみられるように,政府はイギリス,アメリカ,ドイツにおいて4回にわたって英貨公債を発行し,その総額は8200万ポンド(8億56万6000円)に達した。この外債募集金によって政府は巨額の在外正貨を獲得した。
 これらの政策によって,政府は多額の在外正貨を保有するに至ったのである。
 なお国内においては,政府は日銀とともに地金銀の吸収に努め,正貨の増殖を図っている1)。
 日露戦争後も,第1次世界大戦がはじまるまで,外債募集が在外正貨の獲得に大きな役割を果した。第8表によれば,この期間に政府の外債募集手取金は7億8199万円に達している。
 政府は,外債募集金を日本銀行からの借入金の返済金に充当したり,日本に現送したり,為替資金に充当したり,日本銀行へ売却したり,海軍省の経費で海外へ支払うものの振替払に用いたり,外国に支払われる公債利子の振替支払等に充用したりした。残額がある場合には明治27年法律第16号により,随時日本銀行に預入れた。イギリスにおいては英国大蔵省証券,英国国庫債券を購入させたり,利付預金として運用させた。アメリカ,ドイツ,フランスにおいては日本銀行へ寄託し,同行にさらに他の確実な銀行,会社へ利付預金として保管させ,またドイツにおいてはドイツ大蔵省証券を購入させた2)。
 政府所有在外資金(在外正貨)の保管出納事務に関しては,政府はすでに,償金として得た現貨・金銀・有価証券を日本銀行に寄託し,同行が横浜正金銀行ロンドン支店に,この取扱を委任していた。大蔵省は1909年に,一般に政府がイギリスにおいて所有する正貨は,日本銀行をして在ロンドン代理店(横浜正金銀行ロンドン支店)において保管させることを決議するとともに,「在倫敦日本銀行代理店保管金取扱順序」を定め,政府がアメリカ,フランス,ドイツ等において所有する正貨の運用に関してもこれを準用した。代理店の監督系統は,これまで大蔵大臣→在外公使→日本銀行監理官であったが,在外公使のかわりに大蔵省海外駐箚財務官が監理にあたることとなった3)。
 日清戦争以後第1次大戦までの日本の貿易で出超となったのは1895年,1906年,09年のわずか3年にすぎなかったから,日本銀行が第1次大戦前に為替銀行から外国為替を買取る機会は殆んどなかった。また前述のように,日露戦争前に政府は所有在外正貨を殆んど日本銀行に売却しなかった。したがって,日露戦争前に日本銀行は殆んど在外正貨を所有しなかったのである。だが日露戦争以後,日本銀行は多額の在外正貨を所有するに至ったのである。
 日本銀行は,政府が外債募集によって得た英貨や米貨を政府への貸付金の返済金として受取った。また日本銀行が政府の外債手取金を買取り,国内で銀行券を発行してその代金を支払い,輸入決済等対外支払の必要が生じたときに同行が,外国為替銀行等に政府から受取った外貨資金を売渡した。日本銀行は,日露戦争後に募集された民間外債の募集金も買取った。外貨資金の受取からその売渡までの間,日本銀行は在外正貨を保有したのである4)。
 日銀所有正貨の保管出納に関して,日本銀行は,1904年12月,同行所有の現貨,金銀地金および有価証券の保管事務取扱代理を横浜正金銀行ロンドン支店に依嘱した5)。
第9表 正貨在高
 第9表にみられるように,日露戦争以後政府および日本銀行所有在外正貨が激増し,かつその所有が恒常化したのである。
 日露戦争以後第1次大戦前に,世界の為替決済は殆んどロンドンに集中されていたから,対外決済に充当される在外資金はロンドンに集中するのが一番便利であった。在外正貨は大部分ロンドンで保有された。在外正貨の中心をなす外債募集金については,アメリカやフランスやドイツで募集され受取られた外債の手取金も大部分はロンドンに移された6)。
 前述のように,日清戦争賠償金に関して在外正貨を海外に保有しないで,日本に回送せよという主張が存在していたが,このような主張は日露戦争以後も存在した。
 すなわち末延道成は,在外資金の海外蓄積論を批判し,内地現送法を主張した。為替による資金の取寄は,物品の購買輸入を促進し,ついには輸入超過となる,資金を金属で内地に輸送すれば,一方には輸入の趨勢を抑止し,他方には金融を緩和し,金利の低落をもたらし,輸出を奨励すると主張した7)。
 これに対して『東京経済雑誌』は,外債募集金をロンドンやニューヨークに死蔵するのは不利益であるから,速かに為替作用で日本に取寄せるべきであると主張した。現送法に対しては,現送費がかかるし,取寄せた現金を日本銀行に交付して兌換券と交換することになるから,正貨準備が増加し,兌換券が膨脹し,この兌換券が軍費として支出され,通貨膨脹による物価騰貴が惹起され,輸入が増加し,折角取寄せた正貨が流出する,と批判した8)。
 なぜ政府・日本銀行は,外債手取金をことごとく日本に現送したり,為替で日本に送金したりしなかったのであろうか。
 日露戦争中の外債募集に関しては,金の現送を避けるという内約が付いていたという説がある。これによれば,現送法が一般的に採用されなかったのは,外国からこれが強制されたためであるということになる。だが,外債募集のためにロンドンに出張した高橋是清日本銀行副総裁に随行した日本銀行の深井英五は,「それは大に事実と違ふ。…金の現送を全く差控へると云ふが如きことは先方も求めなかった。…高橋氏は,…本邦資金を外国に存置することは非常の場合に蒙むるべき危険を伴ふのみならず,其の頃はまだ国内兌換の為めに金を必要とすることもあるだらうと思はれたから,現送に関して何等拘束を受けることは出来ないと念を押してあった。高橋氏の担任した募集にはさやうな条件又は内約は全く無かった」と回想している9)。
 外債募集には,日本政府は公債利子支払の保証としてロンドンにいくらかの正貨を準備して置くべきである,という契約が存在していたという説もある。だが,日本銀行某当局者は,これは誤解であり,利子支払のために一定の額以上を積立てて置くべきであるということはなかったと述べている10)。
 したがって,外債募集金の多くが金で現送されてこなかったのは,外債応募国から日本がこれを一方的に強制されたためではなかったと考えられる。
 だが,外債応募国が日本に募集金を急に現送しないよう要求しなかったわけではない。すなわち深井英五は,「英国の外債発行銀行団は急激なる金の現送により金融市場に波動を起すことを成るべく避けるやうに希望した。……先方の希望をも参酌して外債手取金を外国に存置し」たと述べている11)。外債募集金を日本が急に金現送したりしないで,欧米金融市場を混乱させないようにすることは,イギリスをはじめとする外債応募国の利益となるものであったのである。
 と同時に,在外正貨の保有は,日本の要求したものでもあったのである。すなわち,深井英五によれば,「元来外債手取金の大部分は結局外国に於ける支払に充てられるべきものであるのだから,必ずしも之を現送するに及ばない,支払の必要の起るまで外国に存置する方が寧ろ有利である。其の点に於て先方の希望と我方の都合とが大体一致する。……我方で差支なしと認める限り……外債手取金を外国に存置し,為替売渡の経路により漸次に之を対外支払に充てたのである12)」。
 在外正貨が海外で保有されたのは,日本にとってどのような利点があると考えられたからであろうか。この問題を立入って考察しよう。
 まず第1に,在外正貨を金にかえて現送してこないで対外支払に備えて保有しておけば,それを政府または民間の金にかわる対外決済手段として用いることによって,日本と外国の間の金の往復に要する金現送費を節約できた。大蔵省が1913年3月頃作成した『正貨吸収二十五策』は,1億円の在外正貨を内地に金で現送するのに要する費用を,金利を5%として,利子45万2050円,現送費(狭義)27万2950円,計72万5000円と計算している13)。
第10表 日本銀行在外正貨運用利益金
 在外正貨保有は,資本投資とは異なり,利殖を目的とするものではないが,国際金融市場における在外正貨保有の結果,副次的に金融収益が得られるものであった。日露戦争後の日本銀行所有在外正貨の運用収益は,第10表にみられるとおりである。
 外貨資金を金で国内に取寄せるのは,為替相場が金輸入現送点を越えなければ困難である。日露戦争後の金平価は1円につき2シリング0ペンス16分の9で,現送費を大きく見積れば,金輸入現送点は2シリング0ペンス8分の7,金輸出現送点は2シリング0ペンス4分の1であった14)。しかし,為替相場は対外受取超過がかなり多くなければ金輸入現送点に達せず,これは日露戦争中・戦後には望むべくもなかった。通貨当局は,外貨資金ならば金輸入点以下の為替相場で獲得できた。しかも買入相場を通常の相場よりも低い相場(外貨を高く評価)とすれば,在外資金の獲得を助長することができた。(このような在外資金の獲得は,政府・日本銀行に在外正貨を保有する仕組がなければ行えなかった。)したがって,在外正貨の獲得は,金を入手するよりも容易であった15)。日露戦争中に,政府は在外正貨を蓄積するために,横浜正金銀行に輸出為替の買取に努めさせた。日本の外国銀行との競争上,同行の買取価格は正金銀行の建相場よりも外貨を若干割高とした。その結果,同行が買上げた為替金を政府が特別の相場で買上げ,かくして政府は正貨の獲得に努めたのである16)。
 在外正貨を保有する仕組のあることは,外債募集に便利であった。外債募集金を直ちに金に替えて起債国へ現送すれば,応募国の通貨の基礎が弱化し,金融や為替相場に影響が生じ,応募国の応募力と応募の意志を減殺し,外債募集が困難になるおそれがあった。外債募集金の多くは外国物資の購入に充てられるから,起債国の政府または中央銀行が,外債募集金を在外正貨として保有し,必要の起るたびにこれを払出してゆけば,起債の目的も達せられ,募債の影響も緩和され,起債が容易となった17)。
 ロンドンで在外正貨を保有することが安全であると考えられたことが在外正貨保有を支えていた。1902年の日英同盟の成立は戦争の場合の没収の恐れを弱め,この安全性をさらに強固なものにしていた。服部文四郎によれば,「自国と干戈相見えざるべからざる恐ある国の金融市場に預金を有するは,之れ必ずしも万全の策ではない。之れは宜しく関係最も親密なる国に預金し,更らに尚ほ他国に支払をなさゞるべからざるが如きこと之あらば,其の銀行の支店若くはコルレスの関係ある取引銀行を通じて之をなすを以て安全とする。之れ我国が其の同盟国たる英国の倫敦に,露国が同じく其の同盟国たる仏国の巴里に,其の在外資金を置く所以である18)」。
 日本銀行が在外正貨を所有するに至った理由についてさらに言及しておこう。日清戦争に比べて日露戦争に要した戦費は巨額であり,日清戦争時に政府は日本銀行から直接2000万円借入れたにすぎないのに対して,日露戦争時に政府は日本銀行から巨額の借入を行わなければならなかった。日本銀行の一時政府貸上高は,1904年末には9550万円,1905年3月には1億1250万円に及び,政府がこの借入金の返済を外債募集金で行う必要があったことが上記の理由としてまず考えられる19)。また,日露戦争以後の外債募集はきわめて多額であり,政府が外債手取金を為替銀行に売って国内で円資金を入手しようとすれば,円資金が枯渇せざるを得ず,この実行は困難であった20)。そこで,日本銀行が銀行券を発行して外債を買取ることとなったのである。日露戦争以後は,中央銀行が在外正貨を所有して,対外支払にこれを用いて正貨流出を防遏する意義が認識されるようになり,これも日銀在外正貨所有をもたらしたのである。

 2.日露戦争以後の在外正貨の機能
 在外正貨の主要機能を,さらに詳しく考察しよう。
 政府所有在外正貨は,日露戦争期に,第11表にみられるように,外債の利子および発行費の支払,軍票為替資金等に振替払された。だが各省の対外支払は,第12表から明らかなように多額にのぼった。その中心は臨時軍事費であった。そこで,いったん日本銀行に売却した在外正貨を政府が買戻して,これを政府対外支払資金に充当した。在外正貨が金現送を回避しつつ,日露戦争時の軍需品の輸入を可能にしたのである。
 日露戦争後も,政府は戦後積極経営の名のもとに,大陸の権益を確保し拡大させるための陸海軍の大拡張を中心とする財政政策を展開し,また,鉄道,電話,製鉄所の拡張等をも行った21)。在外正貨は金現送を回避しつつ,これらの政府事業遂行のために要する諸物資の輸入を激増させた。
 日本銀行は,政府から得た豊富な在外正貨所有に基づいて,求めに応じて外国為替銀行に在外正貨を売却し,または在外正貨で銀行券の党換に応じた。これは円貨を日本銀行振出のポンド払為替手形と引替えることによって行われた22)。
第11表 外国債募集金による振替為替取組額表
第12表 各省経費外国払高
第13表 臨時軍事費外国払高
日露戦争期に,日本銀行は,在外正貨の売却相場を金輸出現送点よりも高めに維持して在外正貨を売却し,金流出を防止する政策を開始した。日露戦争勃発に先だち,政府は横浜正金銀行に内命を発して,極力輸出為替の買入に努めさせると同時に,輸入為替の取扱に制限を加え,これによって外国における支払資金の蓄積に努めさせた。正金銀行が輸入為替の取扱を制限すると,時局に関する用品その他民間需要の各種輸入品代金の支払に関する為替の取組が外国銀行に集中するようになった。このため,日本の外国銀行の手元は資金過剰の結果を生じた。外国銀行は外国に向けて資金の回送が必要となった。為替相場が不利なために,日本銀行に対して正貨の取付を行う外国銀行が少なくなかった。そこで「日本銀行ハ此等外国銀行ニ対シテハ時々機宜ニ応シ建相場ニ比シ幾分カ割高ニ為替ヲ取組ミ以テ正貨ノ外出ヲ抑制スルノ方法ヲ行」ったのである23)。
 かくして日露戦争期に,通貨当局が在外正貨を民間に売却してこれを一般的に国際決済手段として用いさせ,しかも為替相場を金輸出点以上に維持し,金の対外流出を阻止すること自体を目的とする政策が開始されたのである。日本銀行の在外正貨売却は,金流出を抑制しつつ民間の輸入を支えるものとなった。
 日本銀行は,第14,15表にみられるように,日露戦争後も在外正貨の払下を継続した。売却先は外国銀行在日支店および横浜正金銀行であった24)。これによって引続き,金現送を抑制しつつ民間の輸入を行うことができた。
第14表 日本銀行の在外正貨払出額
第15表 日本銀行の大口為替払出額
 日露戦争後,日本銀行は,在外正貨払下相場を金現送点近くに自主的に定めることによって,在外正貨の減少の抑制にも努めた。その経過は以下のとおりである。
 日本銀行外事部主事であった深井英五が1907年5月に帰朝してから日本銀行在外正貨売却相場規準を決定するまでは,その売渡に判然と定まった方針も標準もなかった。日本銀行は,日本の為替相場があまりに低下に傾くときには,時々の状況に応じ,主として横浜正金銀行の意見を参酌して在外正貨を売却していた。その相場は金輸出現送点よりもかなり高かった25)、この場合には,日本銀行が在外正貨を金輸出点で売却する場合よりも同じ金額の円資金に対してより多くの外貨を同行が売却することになって,外貨の買手にとって有利となる。外国銀行支店は,兌換による「金貨取付ヲ武器トシ日本銀行ヲ威嚇シテ大口為替相場ヲ有利ナラシムルニ努メタ」。日本銀行は,「内地ニ於ケル正貨準備豊富ナラサル為外国銀行ノ金貨取付ヲ恐レ」,金輸出現送点2シリング0ペンス4分の1よりも比較的高い為替相場で(外貨を低廉にして)在外正貨を売却したのである。1907,8年頃は,日本銀行は,2シリング0ペンス32分の17,2分の1,32分の15等「極メテ日本銀行ニ不利ナル相場ニテ英貨ヲ売却」した26)。
 これに対して深井英五は,金輸出点を目安として日本銀行在外正貨売却相場を定めるべきであると主張した。その論拠は,(1)輸入超の時に為替相場が低落するのは已むを得ないが,それが金輸出現送点を割るに至れば,金本位制を傷つけるから,在外資金の利用はこれを防止する趣旨で行うべきである,(2)在外正貨は為替銀行の為替買持のように寛大に処分すべきではない,(3)相手方にとって金輸出よりも有利な相場で在外正貨を売渡せば日本の対外資力はそれだけ早く消耗する,(4)為替相場を不自然に高く維持することは,輸入を奨励し,輸出を阻害する,為替相場が金輸出点を下回らない限り,為替相場が低いことは国際収支改善のためにむしろ望ましい,というものである。
 深井英五はこの考えを持って大蔵省や横浜正金銀行と折衝した。正金銀行は,在外正貨の買手であったから,外国銀行と利害が一致する立場にあり,深井のこの提案に反対した。1907年5月に大蔵省国庫課長に就任していた長島隆二は,深井に同意した。だが松尾日銀総裁のいうように,正金銀行よりも先に外国銀行に新規準の採用を承服させなければならなかった。この実行はきわめて困難であった。
 これを行うためには日本銀行はまず,在外正貨の一部を国内に現送し,国内金保有高を増大させ,外国銀行支店が金兌換を請求してきた場合,いつでもこれに応じられるようにしなければならなかった。こうしてこそ,在外正貨の購入を望む者に,金輸出点を基準とし,それよりもわずか高い相場で在外正貨を売却することができたのである。対外支払手段を求める外国銀行は,円資金を金に兌換するよりも日本銀行から在外正貨を購入する方が有利であったから,日本銀行の決めた在外資金売却相場でこれを購入せざるを得なかった。
 かくして,在外正貨の売却相場の日本銀行による自主決定が実現されたのである27)。自立的相場決定は,在内正貨の充実を条件としていた。金輸出点近くでの在外正貨払下の趣旨が達成できたのは,在内準備が1億円を越えた1909年以降のことである。
 日銀が在外正貨を金現送点近くの相場で払下げることによって,それより高めの相場で払下げた場合よりも在外正貨の減少を少なくすることができたのである。日本銀行は,在外正貨の減少を抑制しつつ,為替相場の低落が生ずると在外正貨を売却してその金現送点以下への低落を阻止し,在内正貨の流出を阻止したのである28)。
 日本銀行券兌換準備金へ在外正貨を繰入れる問題に関しては,1903年12月に至り,日本銀行は年末資金需要急増のため,同行ロンドン代理店保管英貨を準備として兌換券を発行することを許可された。だが,この時は資金の都合上実行されなかった。日露戦争期に,日本銀行は前述のように多額の在外正貨を所有したけれども,これを一時に取寄せる時は欧米の金融市場を動揺させるおそれがあるなどの問題があった。このため,政府は,「時局中の変通策として」,1904年6月,英国大蔵省証券(通知預金)を正貨準備とする兌換券の発行を許可した。翌年2月には,政府は,対外金融政策の資金を供給するため,日本銀行に横浜正金銀行ロンドン支店への通知預金を正貨準備とする日銀券の発行を許可した。在外正貨の正貨準備繰入は日露戦争後も続けられた29)。在外正貨の正貨準備繰入は恒常化し,かつその額は多額にのぼったのである。在外正貨準備は1904年6月から09年9月に至るまで,日本銀行正貨準備中の5割以上を占めていた30)。日本銀行は,会計上,在外正貨を金塊として取扱った。1904年以降,金貨に代って金塊が同行の重要な正貨準備となっているのは主としてこのむめである31)。在外正貨を準備金として日本銀行券が増発され,これによって政府の活動や産業の発展の助長が図られたのである。
 もっとも,大蔵省は在外正貨の正貨準備繰入の問題点も指摘している。全面的に発券の基礎を在外正貨に依存することは,通貨当局によって考えられていなかった。大正初期に大蔵省は,日本銀行の正貨準備の8割以上,かつ少くとも1億5000万円以上は内地において金貨金地金で保有させるべきであると考えていた32)。
 日露戦争期に高橋是清は,前述のように「本邦資金を外国に存置することは非常の場合に蒙むるべき危険を伴ふ」ことを認識していた。また「国内兌換の為めに金を必要とすることもあるだらう」と考えていた。また日露戦争後深井英五は「国内金保有高を相当に充実して置くことは,非常の場合の準備として万全の途である」と考えていた33)。
 在外正貨の一部は金銀を買入れて,これを日本に現送するために用いられたのである。これは第14表および第16表から明らかである。
第16表 外国債募集金による金銀塊購入額表
 在外正貨は,「中心市場たる国の信用が動くか,若しくは戦争の如き事変の発生するときは,中心市場に保有する資金の価値が減少し,又は之れを回収し得ずして,在外正貨保有国の損失に帰するかも知れぬ。……一国の通貨の基礎が自国以外の事情によりて動揺することなきを保し難い」という弱点を有していた。「一国の通貨の基礎を全く外国の事情に一任するは,出来るだけ避くべきであ」るとされ,「国内に於て金の請求の起ったときは,何時にても之れに応じ得るやうにして置く」ために在内正貨が保持されていたのである34)。

 注
 1)大蔵省『明治三十七八年戦時財政始末報告』(1907年3月までの統計が掲載されている版)757-82ページ。前掲『明治大正財政史』第17巻,541-54ページ。吉川秀造,前掲書,137-41ページ。
 2)前掲『明治大正財政史』第17巻,553ページ。
 3)前掲『明治大正財政史」第15巻,260-66ページ。
 4)深井英五『回顧70年』岩波書店,1941年,79ページ。
 5)前掲『横浜正金銀行史』付録甲巻之2,552ページ。小島仁,前出,4,14ページ。
 6)深井『回顧70年』83ページ。
 7)「外債募集金は海外に死蔵すべからず」『東京経済雑誌』第51巻第1282号,1905年4月22日,676ページ。
 8)「外債を利用して内債募集を便にせよ」同上誌第49巻第1235号,1904年5月21日,916-18ページ。田口卯吉「外債を利用して内債の募集を便にせよ」同上誌第49巻第1238号,1904年6月11日,1059-66ページ。「正貨回収の教訓(第1―2)」同誌第50巻第1255-56号1904年10月8日,15日,678-80,722-25ページ。同誌第51巻1282号,675-76ページ。
 9)深井『回顧70年』81-82ページ。
 10)前掲『東京経済雑誌』第66巻第1667号,616ページ。
 11)深井『回顧70年』82ページ。
 12)同上書,82ページ。
 13)大蔵省『正貨吸収二十五策』乙ノ12。
 14)深井『回顧70年』85ページ。
 15)深井『通貨調節論』343-46ページ。
 16)前掲『明治大正財政史』第17巻544-45ページ。
 17)深井『回顧70年』81ページ。深井『通貨調節論』346-47ページ。
 18)服部文四郎『戦争ト外資』冨山房,1915年,166ページ。
 19)前掲『金融60年史』375,445-46ページ。
 20)深井『回顧70年』79ページ。
 21)鈴木武雄『財政史』東洋経済新報社,1962年,93-105ページ。
 22)小島仁,前出,7ページ。
 23)前掲『戦時財政始末報告』761ページ。前掲『明治大正財政史』第17巻544ページ。
 24)深井『回顧70年』83ページ。
 25)同上書,83,87ページ。
 26)前掲『正貨吸収25策」乙ノ13。前掲『明治大正財政史』第17巻483ページ。
 27)深井『回顧70年』87-93ページ。
 28)小島仁「金本位制制定以降の日本の金塊輸出入構造」『金融経済』第169号,1978年,72-75ページ。
 29)前掲『明治大正財政史』第13巻352-53ページ。同14巻606-07ページ。
 30)前掲『正貨吸収二十五策』乙ノ6。
 31)山口和雄「明治時代における日銀券の増発とその基礎」(東大)『経済学論集』第35巻第1号,1969年,17ページ。
 32)同上書,乙(日本銀行関係)。前掲『明治大正財政史』第17巻482-85ページ。吉川秀造,前掲書,144-49ページ。
 33)深井『回顧70年』82,90ページ。
 34)深井『通貨調節論』365-70ページ。

Ⅵ 日本の在外正貨の対外的性格

 日本では金本位制確立以前から在外正貨が存在した。政府は,明治前期には「準備金」の運用によって「海外預ヶ金」を得た。これは金銀にかわる政府対外支払手段として機能した。日清戦争後は賠償保管金として,在外正貨を保有した。これは金銀にかわって国際決算手段として機能した。日清戦争賠償金にもとづく在外正貨を日本銀行の正貨準備に繰入れて銀行券を発行することも行われた。1897年に金本位制が確立した。この後も在外正貨が保有された。だが日露戦争前には,多額の在外正貨保有は一時的にとどまったし,日本銀行は基本的には在外正貨を保有しなかった。日露戦争後,多額の在外正貨保有が恒常化した。日本銀行も在外正貨を所有するに至った。このような過程を経ながら日本の貨幣制度は在外正貨に依存していたのである。
 なお,第1次大戦中の在外正貨の保有状況は第17―19表のとおりである。第1次大戦中は,輸出の激増によって政府所有を中心に在外正貨所有高が増大し,またアメリカにおける保有高が増大している。
 それでは日本の在外正貨依存の貨幣制度は対外的にどのように評価できるのであろうか。
 日本の金本位制の採用は,先進国,とくにイギリスにとって利益をもたらすものであった。この採用によって,銀貨の変動によって非常に激変していた日本の為替相場は安定し,日本との貿易が投機の弊害を離れて確実に発達するようになった。
第17表 所在地別所有別在外正貨所有高
第18表 内外正貨内訳表(1917年4月末)
第19表 政府預金在高表(1917年4月末)
また,この採用によって,金貨国の資本家は,銀価の変動のために不測の損失を蒙むることを免れることができるようになり,欧米金貨国の日本への資本輸出が容易になった1)。
 在外正貨の設置はさらに,その所在国とくにイギリスの利益となった。金が金本位国の通貨の基礎であり,イギリスの国際金融の中心国としての地位も,この所有に支えられていた。金本位制下の中央銀行の主要任務は金の防衛であった。日本の在外正貨の設置は,その所在国の金の維持に寄与するものであったのである。イングランド銀行で金貨でなく,預金または公債で在外正貨が保有された一因は,同行の要求したことであった。日本は在外正貨を所有することによって,第1次大戦前にロシアやインドと並んで3大海外残高保有国としての地位を保ち,イギリスを中心とする国際金本位制の構造の重要な一環としての役割を担い,それを支えていたのである2)。
 在外正貨を急に日本に取寄せないことは,欧米金融市場の変動を回避させるものであった。これによって金価格の騰貴は抑制され,また欧米金融市場は金融逼迫を免れた。日清戦争賠償金の一部のドイツでの保管,日露戦争外債募集金の募集国での保管は,これらの国々の要求したものでもあった。
 日本の在外正貨を保有する外国銀行は,これを短期的に運用して金融収益をあげることができた。
 在外正貨は,イギリスなどからの日本の商品輸入その他のための対外決済手段として機能した。在外正貨は欧米諸国の日本への輸出を支えていた。
 在外正貨の支払は,欧米金融市場の金融緩和にも寄与した。1896年5月16日の通信によれば,「我政府が倫敦にて受取りたる650万磅[ポンド]英蘭銀行に保管預りとなしたるが為めに市場の資金に不足を感し貸付利子は1朱〔=%〕より1朱半に引締り割引利子亦随て騰貴して3ヶ月仕払手形は1朱と云へる珍直を示」したが,1週間後の23日の通信によれば「我政府は右の償金中より100万磅を引出して各種の仕払を為したれば市場幾分か潤沢となり加ふるに今後4週間内には又々其幾分を引出すべしとの想像ありて割引利子は16分の13(1朱の)に下落した」。『東洋経済新報』誌は,「我国の償金が如何に世界の金融を支配する勢力あるかを知るべし」と述べている3)」。
 イングランド銀行は,引締政策を効果的にするために,1905年と07年に日本政府に対してポンド残高を市場から引上げて同行の預金勘定に移転するように依頼している4)。
 在外正貨を銀行券発行の基礎とすることは,通貨制度が外国の事情によって変動する可能性を持つことになる。
 かくして日本の在外正貨は,イギリスをはじめとする欧米諸国の利益に寄与するものであったといえよう。
 だが,このことはただちに日本の貨幣制度が対外従属的性格を持つものであったということを意味するものではない5)。在外正貨は日本資本主義にとっても「利益」をもたらすものであった。
 在外正貨が金にかわる対外支払手段として機能することによって金を防衛し,日本の金本位制を支えていた。この金本位制は,通貨価値の安定をもたらして内地商工業の発展に寄与し,為替相場の安定をもたらして貿易の確実な発展と外資導入に寄与し,財政計画を確固たるものとした6)。
 在外正貨は,現送費の節約に寄与し,副次的に利子などの金融収益をもたらし,金よりも正貨として得やすく,外債募集にも便利であった。
 日本の在外正貨は,政府所有正貨として出発し,その後も正貨所有高のうちで政府所有在外正貨が大きな比重を占めていた。この政府所有在外正貨は,艦船等の軍事物資の輸入に貢献し,日本の軍事力を強化させた。またその他の政府活動を対外支払面から支えていた。
 政府所有在外正貨は,為替銀行の為替資金を補充し,産業発展のための民間需要品の輸入を支えていた。このことは,日清戦争賠償金取得後,意図的に行われていた。日露戦争後日本銀行も在外正貨を保有するようになり,在外正貨を金現送点以上で手渡すことによって金の流出を阻止しようとした。この在外正貨の交付は輸入を支えるものでもあった。
 在外正貨は日清戦争賠償金取得後,銀行券発行の基礎ともなり,日露戦争後在外正貨の正貨準備繰入が恒常化し,これによって日本銀行の政府や民間への貸出が容易化された。
 1909年頃から日本銀行は在外正貨の売却相場を自主的に決めていた。これによって在外正貨の流出を抑制することができた。
 在外正貨の一部を金に換えて内地に現送することは自由であった。また実際に現送が行われた。
 在外正貨所有はそれが置かれている国の通貨価値変動による減価や戦争による没収の危険性を伴ったが,日本の当局者は当時は一応在外正貨を国際金融の中心地に保管することは安全であると考えていた。また日本は外国の事情に左右される在外正貨に全面的に依存したわけではなかった。国内でかなりの正貨を保有していた。
 かくして日本の在外正貨に依存した貨幣制度は,列強の利益に寄与しつつも,自立的性格を保持していたといえよう。
 この自立的性格はいかなる事情に由来するものであろうか。
 これは,基本的には,日本が一定の経済発展を遂げていたことと,国際環境にめぐまれたことと,これらに規定されて政治的独立を保持していたことに基づくものである。
 日本では幕末に中国などに比して経済発展が高く,反封建的闘争が高まっていた。しかも当時の国際環境は,インドのセポイの反乱や中国の太平天国の乱を経験したイギリスが,日本への武力的介入を避け自由貿易主義を採用しており,1880年代以降のようなアジア,アフリカへの帝国主義的進出を未だ行ってはいなかった7)。このような状況のもとで,日本は明治維新を断行した。政府は地租改正を行い,財政収入を確保し,富国強兵・殖産興業政策を展開した。1886年以降,綿糸紡績業,鉄道,鉱山業を中心に低賃金労働のもとで近代的産業が生成し,1897年に綿糸輸出量が輸入量を凌駕し,国産糸による国内市場の確保が基本的に達成した。このようにして産業革命がかなり展開した後に,金本位制が採用されたのである。したがって日本においては,「明治30年〔1897〕の金本位制の確立は,日本の資本主義的発達が,遂に日本を半植民地化の危険から全く脱却せしめ,独立資本主義国として,世界資本主義の一環として,他の諸強国と世界市場に角逐し得る段階に達せしめた事を示す金融的標識」となったのである8)。
 また,日本の産業の発展は,朝鮮,台湾の植民地化によっても支えられることとなったのである。植民地を支配することが,日本の列強への従属性を脱却できる一因となったのである。
 日本の金本位制確立を可能にし,日本に多額の在外正貨を保有させたのは,日清戦争賠償金であった。清国は,露仏借款や英独借款を募集することによって,はじめてこれを支払うことができた。この外債は,列強の清国分割と利権獲得への導火線の役割を果すとともに,その返済は清国財政を著しく圧迫し,また増税が長期にわたって同国民衆の生活を窮迫させたのである9)。日本の在外正貨は,中国の半植民地への転化によって支えられていたのである。
 明治初期の日本の外債は植民地的条件をつけられていた。明治政府は,外債募集の危険性を認識し,外資排除の方針を採用した。外債募集が増大するのは,日本の力がある程度ついた1897年以降からである。
 外債募集が本格化するのは日露戦争以降からである。多額の外債募集が可能であり,かつそれが植民地的条件を免れたのは,日本の戦争勝利の動きや日本の当事者が列強の対外投資競争をたくみに利用した事実とともに,列強が日本をアジア支配の手先として使おうとしたことによるところが大きかった10)。
 すなわち,日露戦争前期の第1回,2回英貨公債の発行条件は,日本にとってきわめて劣悪であり,日露戦争が日本に有利に推移することが見通されるに及んで,外債の発行条件が改善された。高橋是清は,外国金融機関と外債募集交渉を行って,もし相手方が外債引受に応じなければ他の機関に引受けさせることを明らかにして,引受に応じさせた11)。列強にとって日本は絶好の商品・資本輸出市場であったと同時に,極東における日本の軍事的優位を利用して,日本を通じて間接的にアジア市場への支配を行うことができ,このことが列強の日本への投資を促進させた12)。
 これらのために,外債に依存した在外正貨保有が列強への従属を強制されずにすんだのである。

 注
 1)前掲『史料集成』第11巻ノ2,555-88ページ。
 2)P.H.Lindert,Key Currencies and Gold 1900-1913,Princeton,1969,pp.10-11,18-19.水沼知一「金解禁問題」新『岩波講座 日本歴史』第19巻,岩波書店,1976年,41ページ。
 3)「我国の償金と倫敦の金融」『東洋経済新報』第24号,1896年7月5日,28ページ。
 4)Lindert,oP.cit.,p.32.神武庸四郎『イギリス金融史研究』御茶の水書房,1979年,170ページ。
 5)森七郎「金輸出禁止と在外正貨」渡辺佐平教授還暦記念論文集刊行会,『金融論研究』法政大学出版局,1964年,269-72ページ,古沢紘三,前出58ページでこの従属性が指摘されている。
 6)前掲『資料集成』第11巻ノ2,555-88ページ。
 7)石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館,1966年,1-54ページ。
 8)寺島一夫,前掲書,65ページ。
 9)田村幸策『支那外債史論』外交時報社,1935年,第3章。石井寛治,前出,52-53ページ。
 10)高橋誠,前掲書,195-203ページ。
 11)深井『回顧70年』68-71ページ。
 12)高橋誠,前掲書,195-203ページ。