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軽便鉄道の発達

著者名: 青木栄一
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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目 次

Ⅰ はじめに・・・・・・・・・・2
Ⅱ 軽便鉄道網発達の概要・・・・・・・・・・3
1 軽便鉄道発達の時代区分・・・・・・・・・・3
2 第1期・・・・・・・・・・3
3 第2期・・・・・・・・・・3
4 第3期・・・・・・・・・・5
5 第4期・・・・・・・・・・10
6 第5期・・・・・・・・・・11
Ⅲ 軽便鉄道における車両技術の展開・・・・・・・・・・12
1 軽便鉄道の技術導入の性格・・・・・・・・・・12
2 蒸気機関車・・・・・・・・・・13
3 蒸気動車・・・・・・・・・・16
4 内燃動力の導入(1)‐石油発動車・・・・・・・・・・18
5 内燃動力の導入(2)‐ガソリン動車・・・・・・・・・・25
結   語・・・・・・・・・・25


Ⅰ はじめに
 日本の鉄道史において,明治末期から昭和初期にかけての時代,すなわち,1910年代と20年代は,鉄道網が全国津々浦々にまで拡大され,幹線鉄道の路線や車両の改善・発達と相まって,鉄道交通の黄金時代をつくり上げた時代といえる。こまかくみるならば,1910年の軽便鉄道法公布にはじまる全国的な軽便鉄道ブームによって,全国各地の地域社会は零細な資本を結集して,比較的安価な費用で建設できる小規模な軽便鉄道をつくり上げた。しかし,軽便鉄道とはいえ,鉄道を自力で建設することは,資本蓄積のとぼしい地域社会にとっては過重な負担であり,また開業後の経営も苦しいものであった。このことが,地域社会の動向を民営の軽便鉄道建設よりも国有鉄道の誘致をはかる方向に変えていった最大の理由となった。そして,国有の軽便鉄道の建設が次第に多くなり,さらに1922年の新しい鉄道敷設法(いわゆる改正鉄道敷設法)の公布によって,国鉄路線整備の主流をローカル線の建設におく結果となった。以上の歴史的事実については,すでに本プロジェクトの前年度報告に筆者がその全国的な傾向を述べたとおりである1)。
 だが,すでに民営の軽便鉄道として建設され,開業したものは,これを維持してゆかねばならず,苦しい経営を続けた。軽便鉄道ブームのなかで,とくに民営の軽便鉄道の発達が著しかったのは,静岡県西部,三重県伊勢湾岸,兵庫県西部から広島県東部にかけての瀬戸内海沿岸などの地域であったが,これらの地域では軌間2フィート6インチ(762ミリ)の鉄道が,幹線鉄道のルートからはずれてしまった地方の小中心町を国鉄路線に結びつけていた。
 本稿では,静岡県西部(遠州)地域をとりあげ,とくに比較的小規模の資金で建設できる762ミリ軌間の鉄道発達のあとをたどるとともに,とくに第2次世界大戦前におけるその使用車両の技術導入について全国的な傾向と対比しながら触れてみたい。


1)青木栄一「地域社会からみた鉄道建設」,『国連大学,人間と社会の開発プログラム研究報告』HSDRJE-13J/UNUP-33,1979年,24ページ。

Ⅱ 軽便鉄道網発達の概要

1 軽便鉄道網発達の時代区分
 静岡県西部(遠州)地域は,日本のなかでも軽便鉄道網の著しい発達がみられた地域である。そこで同地域の鉄道網の変化を時系列的に追跡してみて,そのなかで軽便鉄道の性格を考えてみたい。同地域における軽便鉄道網の発達過程をみる時,次のような時代区分ができる。
第1期(1890年代前半まで)1本の幹線鉄道が通過するのみの時期
第2期(1890年代後半から1920年頃まで)軽便鉄道の整備期
第3期(1920年頃から1935年頃まで)軽便鉄道網の拡充と機能向上の時期
第4期(1935年頃から1970年頃まで)軽便鉄道の衰退とバスへの代替の時期
第5期(1970年頃以降)幹線鉄道と都市高速電車への再編成の時期
以下各期について,その路線網の分布を第1図に示し,鉄道網の発達を概観してみることとする。

2 第1期
東海道線の開通 東京と神戸を結ぶ東海道線が1本だけ東西方向にのびてこの地域を縦断し,まだ支線となる鉄道が存在しない時期である。もともと,本州中央部を縦断する中山道沿いに建設されるはずであった東西両京を結ぶ幹線鉄道が,地形の険阻による難工事を理由として,東海道経由に変更になったのは,1886年7月であり,1888年9月1日に大府-浜松間が,翌1889年4月16日に浜松-静岡が開業した。ちなみに同年7月1日には東海道線新橋-神戸間が全通している。当時このあたりはまだ単線で,1日の列車本数は上下方向とも3本,静岡以西の駅は,焼津,藤枝,島田,堀之内(現在の菊川),掛川,袋井,中泉(現在の磐田),浜松,舞阪,鷲津であった。

3 第2期
馬車・人車鉄道の開業 東海道線上に駅がある主要集落から南北の方向に軽便鉄道網が支線の形態で建設されるようになる。ほぼ1900年代は馬車鉄道や人車鉄道のような原始的な鉄道がつくられ,1908年以降,蒸気動力の軽便鉄道が開業する。
 最もはやく開業したのは,資本金の少額な馬車鉄道で,城東馬車鉄道(堀之内-高橋間,1899年8月19日開業)と秋葉馬車鉄道(袋井-森間,1900年12月6日開業)が開業した。前者は茶業地として発展しつつあった牧ノ原や鰹漁業で栄えた地頭方などを東海道線に結ぶ最捷路であって,軌間2フィート2インチ(2尺,660ミリ),後者は曹洞宗の名刹可睡斎や茶の集散地である森を沿線にもち,軌間2フィート6インチ(762ミリ),ともに当時としては交通需要の大きいルートだったと思われる。
 このほか,木材運搬用の人車鉄道があった。島田軌道(島田駅-向谷,1898年4月13日開業),と中泉軌道(中泉町-池田橋,1909年10月8日開業)で,いずれも大井川あるいは天竜川のいかだ流しで上流から運ばれてきた木材を引揚げて,町の製材工場や鉄道駅に運ぶ役割を果していた。島田軌道は軌間2フィート(610ミリ),中泉軌道は軌間2フィート6インチ(762ミリ)で,ともに長く用いられ,前者は1955年,後者は1930年に営業を休止したことになっている。
 蒸気鉄道は1908年以前にはまったくつくられていない。しかし,1897年8月7日,浜松鉄道という軌間3フィート6インチ(1067ミリ)の私設鉄道が,浜松-二俣間の仮免許を得ている。この鉄道計画の詳細はわからないが,免許状の申請はしたものの,計画は中止となり,1901年に仮免状を政府に返納している。おそらく予定された資本金35万円の調達ができなかったからであろう。
蒸気軽便鉄道網の形成 路線網が急速に増えるのは,蒸気力が導入される1908年以降で,軽便鉄道法(1910年),同補助法(1911年)の公布は軽便鉄道の建設を大いに促進した。天竜川西岸地域は遠州織物で知られた綿織物業地域であり,東岸地域は米麦の栽培を主とした穀倉地帯であって,多くの小さな中心町が分布し,それなりの資本蓄積と豊かさがあった。開業したのは次のような鉄道で,それぞれ沿線となる地域社会の資本を動員して,中心町と東海道線との連絡をはかったものであった。
軌間はすべて2フィート6インチ(762ミリ)であった。

大日本軌道浜松支社      中遠鉄道  
 浜松-中ノ町 1908年3月3日 menu  新袋井-新横須賀 1914年1月12日
 浜松-二俣(鹿島) 1908年12月6日   浜松軽便鉄道(1915年4月浜松鉄道と改称)
 西ケ崎-笠井 1914年4月7日    元城-金指 1914年11月30日
藤相鉄道      元城-板屋町 1915年9月20日
 藤枝新-大手 1913年11月16日    金指-気賀 1915年12月28日
 藤枝新-大井川 1914年9月3日      
 大幡-細江 1915年5月1日      
 細江-遠州川崎町 1915年9月18日      
 遠州川崎町一相良 1918年6月16日      

 とくに織物業地域を縦断し,かつ二俣で天竜川水運と結ぶルートを開発した大日本軌道は,雨宮敬次郎をリーダーとする大都市資本と地元資本の合同によって成立したもので,最も有力なものであった1),2)。
 大きな川に架橋するような費用のかかる工事は,資本の乏しい軽便鉄道にはむずかしい事業であった。大日本軌道が浜松-二俣間の直結を目的としていながらも,二俣の市街には到達できず,天竜川をはさんで相対する鹿島に終点駅を設け,駅の名称だけ二俣としたのは困難な架橋を回避したからにほかならない。また,藤相鉄道が大井川の架橋がなかなかできず,川をはさんで相対する2本の路線がつながらないで,1924年までの約9年間にわたって徒歩あるいは仮線の人車運転などで連絡を余儀なくされたのは,技術的な理由もあるが,最大の理由は資本の不足にあったというべきであろう。
 同じ地域に複数の鉄道計画が現れ,有力者たちが2つの陣営に分れて,地方政界の政争を鉄道建設にもちこむ場合もあった。たとえば,藤相鉄道は同時期に出願・免許された駿遠鉄道(焼津-中泉間)の計画と競争し,鰹漁業で賑わっていた駿河湾岸の川崎,相良,地頭方などの町では,住民の有力者たちが両派に分れて争っている。

4 第3期
大日本軌道の解体と近代化 東海道線との結びつきを強めるため,軽便鉄道網の拡充と近代化が推進され,この時期に鉄道網は最大の規模に達した。
 とくに大日本軌道の解体(1919年)によって,浜松支社の路線を引き継いだ遠州軌道は,1921年に遠州電気鉄道と改称し,同年6月4日に浜松-二俣(鹿島)間は,軌道法に準拠する路線から,地方鉄道法に準拠する路線となり,軌間1067ミリ,電気動力に改める免許を得て,次のように改築開業している。
遠州浜松-遠州二俣 1923年4月1日
遠州浜松-遠州馬込 1924年2月1日
遠州馬込-旭町(現在の新浜松)1927年9月1日
 大日本軌道は小田原・静岡・浜松・伊勢・広島・山口・熊本・福島の8支社から成り,各支社が独立採算をとっていた。各社に利益がでた場合は本社に納入され,欠損の場合は本社から補?された。したがって,利益は全体の株主に平等に分配される仕組であった。
第1図 静岡県西部地方における鉄道網の発達
そして株式は雨宮敬次郎一族がその過半数を保有していた。しかし,地方都市やその産業の発達によって輸送需要が増大し,営業上の利益の高い支社では,設備の抜本的な近代化(1067ミリ軌間への改軌と電化)によって輸送能力の改善をはかろうとしても,直ちにこれに応じられない状態にあった。雨宮敬次郎の死後(1911年),その後継者たちの経営方針は積極的な意欲を欠いていたため,各支社の不満が大きくなり,1918-21年に各社は次々と分離ないし廃止,国有化の道をたどったのであった3)。
 大日本軌道浜松支社が分離独立して,遠州軌道に改組され(55.5万円の価格で大日本軌道より譲り受ける形態をとる),改軌と電化の道を歩んだのは,その沿線となる地域,とくに地方都市としての浜松の発達や天竜川水運の要衝であった二俣の経済力の上昇に負うところが大きかったと思われる。
 改軌・電化後の遠州電気鉄道では,1925年3月の時点では,ほぼ30分間隔の列車運転を行ない,全区間の運転には43分を要した。この所要時間は現行の42分とほとんど変らない。二俣は天竜川に臨む谷口集落で,水運の要衝であり,製材・木製品工業が繁栄していた。沿線の積志・北浜は織物工業の町である。終点の遠州二俣駅は架橋費の調達が困難であったため,依然として,二俣の市街部とは川をへだてた南岸の鹿島に位置していた。
 遠州電気鉄道の支線(中ノ町線・笠井線)は従来の設備のまま営業を続けたが,1925年に浜松軌道という別会社に経営が移された。これは浜松-二俣間と比較して,収益の小さい路線の切り捨てと考えられる。1927年に浜松電気鉄道と改称し(将来電化を意図した改称であろうが,現実には電化はなされなかった),ガソリン動車を用いて,ほぼ30分間隔の運転が続けられた。また貴布禰-宮口間には,新たに軌間762ミリ,内燃動力の西遠鉄道が1928年1月1日に開業している。この鉄道は同年9月1日付で遠州電気鉄道に営業・運転管理を委託している。運転間隔は1時間であった。
馬車鉄道の近代化 一方,馬車鉄道として営業されていた城東,秋葉の両馬車鉄道も動力の近代化がはかられた。城東馬車鉄道は経営組織を変えて堀之内軌道運輸と改称され(1922年),1924年にはオットーと通称された石油発動車を導入した。これとともに,路線も堀之内-池新田間に延長され,ようやく海岸部の集落に到達した(高橋-大橋間1923年12月29日開業,大橋-池新田間1924年12月28日開業)。秋葉馬車鉄道は静岡電気鉄道に合併されて(1923年),1924年に電化(路面電車),1067ミリ軌間に改軌された。
在来の蒸気軽便鉄道網の延長 浜松・中遠・藤相の3鉄道は,762ミリ軌間のまま,次のように路線の延長を実施した。

浜松鉄道 気賀-奥山 1923年4月15日
中遠鉄道 新横須賀-南大阪 1925年4月7日
  南大阪-新三俣 1927年4月1日
藤相鉄道 大井川-大幡(大井川架橋) 1924年4月4日
  大手-駿河岡部 1925年1月15日
  相良-地頭方 1926年4月27日

浜松・中遠両鉄道は1929年,藤相鉄道は1931年に内燃動車(ガソリン動車)の使用を開始しているが,この時期は日本全国の蒸気鉄道がガソリン動車を積極的に導入しつつあった時期でもあった。
光明電気鉄道と大井川鉄道 軽便鉄道ではないが,第3期には軌間1067ミリの鉄道2線が開業した。その1つは光明電気鉄道で,二俣から天竜川東岸を経由して東海道線の中泉駅に結ぶ電気鉄道であった。性能的には高速電車であったが(開業時は東武鉄道の電車を借りて運転した),フリークェンシーは低く,日中の運転間隔は1時間以上あった。列車の運行形態からみると,中泉と見付の間の輸送需要が最も大きかったようである。見付は東海道の宿場町で,沿線最大の集落であったが,東海道線のルートからはずれていたものであった。第2は蒸気動力の大井川鉄道である。
この鉄道は大井川上流部の木材搬出を目的としたもので,木材の筏による流送が鉄道輸送に変ってゆく1つの例であった。また上流部に水力発電所の建設が進められつつあり,その建設資材の輸送にも用いられることになっていた。鉄道の大口出資者は東京電灯会社と山林地主で,帝室御料林を管理する宮内省の出資も多かった。電力資本と林業資本の合計は発行株式の約70%を占めていて,産業鉄道の要素の強い鉄道といえる。両鉄道の開業は次のように進められた。

光明電気鉄道   menu 居林-家山 1929年12月1日
 新中泉-田川 1928年11月20日   家山-地名 1930年7月16日
 田川-神田公園前 1929年8月28日   地名-塩郷(仮) 1930年9月30日
 神田公園前-二俣町 1930年12月20日   塩郷(仮)-下泉 1931年2月1日
大井川鉄道     下泉-青部(仮) 1931年4月12日
 金谷-横岡 1927年6月10日   青部(仮)-千頭 1931年12月1日
 横岡付近-居林 1928年7月20日      

 この他,1067ミリ軌間の鉄道計画には,遠三鉄道(気賀-豊橋,1928年免許,愛知電気鉄道系),浜松臨海鉄道(浜松-白脇,1927年免許)などがみられたが,実現に至ってはいない。

5 第4期
軽便鉄道網の第1次縮小 第3期末において,鉄道網は最大の規模に達したが,1935年以降,主にバスとの競争に敗れて,鉄道の廃止がはじまる。第2次世界大戦までに次の鉄道が廃止された(カッコ内は廃止年)。
堀之内軌道運輸 堀之内-池新田(1935年)
光明電気鉄道  新中泉-二俣町(1935年休止,1935年高鳥順作に売却,1936年年廃止)
藤相鉄道 大手-駿河岡部(1936年)
浜松電気鉄道 浜松-中ノ町(1937年),西ケ崎-笠井(1944年)
西遠鉄道 貴布禰-宮口(1937年)
静岡電気鉄道 可睡口-可睡(1945年休止)
 1935-40年には,掛川より浜名湖北岸を経て,新所原で再び東海道本線に合流する国鉄二俣線が開業したが,その沿線の中心都市は浜松であり,浜松との間の交通需要が大部分を占めるため,二俣線を利用する旅客・貨物は少なかった。二俣線全通の時点(1940年)では,全線を走らない区間列車を含めて,1日9往復の列車が運転されたにすぎなかった。
交通事業の統合と路線の改変 1938年,陸上交通事業調整法が公布され,鉄道・バス企業の地区を単位とした企業統合が進んだ。天竜川東岸の中遠鉄道・藤相鉄道は多くのバス企業とともに静岡電気鉄道に合併されて,1943年に静岡鉄道の一部となった。天竜川西岸では遠州電気鉄道を中心として,鉄道・バス事業の統合が行なわれて,遠州鉄道が成立した。ただし,浜松鉄道が遠州鉄道に合併されるのは,第2次世界大戦後の1947年であった。
 大戦直後に軽便鉄道網の拡大と改良が行なわれた。第1は静岡鉄道に統合された旧藤相鉄道と旧中遠鉄道が次のように新線の建設によって結ばれ,両線が駿遠線の名称で1本となったことである。
新三俣-池新田 1949年1月20日開業
池新田-地頭方 1949年9月6日開業
 これは当時,石油燃料の供給が不十分で,バスの運行が困難であり,鉄道の建設が望まれたことによる。しかし,その運転回数は少なく,1日4往復であって,輸送需要は小さなものであった。直通旅客輸送の需要がないとはいえ,大手-袋井間の路線長は64.6キロメートルとなり,当時の軽便鉄道の直通運転としては日本最長であった。歴史的にみても,1913年に開業し,1936年に国有化された岩手軽便鉄道の65.5キロメートルに次ぐものである。
 第2は遠州鉄道奥山線となった旧浜松鉄道が,1950年に田町(のち遠鉄浜松,現在の遠州浜松)-曳馬野間を軌間762ミリのまま電化したことである。この結果,電化区間は30分間隔の運転が実現した。
 この他,大井川鉄道が1949年に電化している。
軽便鉄道網の壊滅 しかし,1955年頃から稠密なバス路線網に覆われたこの地域の鉄道は,バスとの競争と自家用車の普及によって,経営は悪化の一途をたどった。このため,762ミリ軌間の軽便鉄道はすべて廃止され,静岡県西部地方の軽便鉄道は城東馬車鉄道以来70年の歴史を閉じたのであった。廃止区間と廃止年は次の通りであった。

静岡鉄道 新袋井-遠州森町(1962年), 大手-新藤枝(1964年),
  堀野新田-新三俣(1964年), 袋井-新三俣(1967年),
  大井川-堀野新田(1968年), 新藤枝-大井川(1970年)
遠州鉄道 気賀口-奥山(1963年)  
  遠鉄浜松-気賀口(1964年)  

6 第5期
鉄道網の高速電車化 1964年10月に新幹線が開業し,在来の東海道本線は旅客輸送に関する限りローカル輸送の機能しかもたなくなった。私鉄として残った遠州鉄道二俣線(新浜松-西鹿島間)と大井川鉄道は1067ミリ軌間で電車運転を行なっている。大井川鉄道は創業以来,電源開発のための資材輸送にあたってきたし,近年は多くの蒸気機関車を購入して,蒸気列車の運転を実施し,保存鉄道の機能をもつようになった。また観光輸送に力を入れている。
 遠州鉄道二俣線は浜松市北部やその北方につらなる浜北市などの住宅化・工業化による輸送需要の増大を支える高速電車線として再生した。とくに1972年11月より,全日11分間隔の列車運転を実施し,地方都市の近郊鉄道としては,日本では最も運転間隔のつまったフリークェントサービスを行なっている。
 このように,静岡県西部地方の鉄道網は,幹線鉄道としての東海道線を中軸として,20世紀に入ってよりこれより分岐する多数の軽便鉄道を発達させたが,1935年以降,バスとの競争に敗れて多くの路線が廃止された。さらに第2次世界大戦後は稠密なバス路線網の形成に加えて,自家用車の保有率が高まったことにより,鉄道は輸送の対象となる旅客・貨物を失って,軽便鉄道は全部廃止に追いこまれた。私鉄のなかで残った鉄道は,電源開発のための資材輸送や地方都市の近郊鉄道のように,大量の輸送需要をもち,かつ鉄道がこの大きな輸送需要に適応できる態勢をとったものに限られている。これは日本の多くの地方(大都市圏を除く)の鉄道網の変化と同一のパターンであったということができる。


1)中川浩一ほか『軽便王国雨宮』丹沢新社,1972年,24-32ページ。
2)青木栄一「地域社会からみた鉄道建設」,『国連大学,人間と社会の開発プログラム
研究報告』HSDRJE-13J/UNUP-33,1979年,15-16ページ。
3)前掲注1)35-38ページ。

Ⅲ 軽便鉄道における車両技術の展開

1 軽便鉄道の技術導入の性格
 鉄道の技術は道床やトンネル・橋梁などの線路を建設する鉄道土木技術,車両を製作する鉄道車両技術などのハードウェアに開する技術,列車運転計画のようなソフトウェアに関する技術など,極めて多岐にわたる技術を含む総合技術体系である。このなかで鉄道車両技術は日本において最も定着の遅れた技術の1つであり,とくに地方における軽便鉄道では,国有鉄道や大私鉄とは異なる歴史をたどった。
 一般に日本の鉄道技術の発達は国有鉄道によって代表されると考えられ,これに関して多くの研究がなされてきた。しかし,国鉄の技術発達は多くの場合,日本の鉄道技術の先端を示すものではあっても,それがそのままローカル私鉄や軽便鉄道の技術水準とは一致しない。多くの軽便鉄道では,機関車やレールの国産品採用は国鉄よりはるかに遅れており,また内燃機関や内燃動車の発達は国鉄よりも古い歴史を有し,独自の発達史が必要である。したがって,国鉄における技術の導入時期や方法,あるいは国産化などの事実がそのままローカル私鉄や軽便鉄道の技術にあてはまらないことが多い。このことは日本の鉄道史をみてゆく上で重要な事実であるが,従来ともすれば軽視される傾向があったといえよう。
 一般に軽便鉄道で用いられた車両技術は車両メーカーあるいは車両輸入代理店によって大きな影響を受ける。個々の軽便鉄道の技術陣は弱体で,車両設計の能力はない。メーカーや輸入代理店は顧客である軽便鉄道の使用環境に適した製品をいくつかの規格品のなかから選択して推薦し,監督官庁への手続き,現地における取りあつかい指導などのサービスを行なって,製品の売りこみをはかる。そして,低い技術水準のなかで,高性能の製品よりも,価格が安く,故障の少ない,保守の容易な製品がよく売れたというべきであろう。
 軽便鉄道側の技術水準をみると,路線建設やその保守にかかわる土木技術,車両の整備や列車運転の技術など,いずれも国鉄を退職した中堅の現場技術者を責任者として,その実務がなされていた。彼らの多くは高等小学校卒業ののち,国鉄に雇傭され,現場の第一線で実務の訓練を重ねて,熟練した技術者,機関士となり,退職後,自分の郷里の軽便鉄道に就職して,その技術指導にあたる例が多かった。
 本章では静岡県西部地方における軽便鉄道で用いられた鉄道車両の発達を一つの例として,地方の鉄道網における動力車の具体的な導入状態をさぐってみたい。

2 蒸気機関車
静岡県西部地域の軽便蒸気機関車 第1表は,静岡県西部地方に営業していた762ミリ軌間の軽便鉄道のうち,蒸気機関車を動力として用いていた4つの鉄道に1940年までに在籍した機関車の一覧表である。日本における蒸気機関車発達については,第2次世界大戦前から多くの鉄道愛好家たちが,各地に活躍する機関車1両1両の特徴や車歴を記録し,それらの情報を総合することによって,詳細な発達史をつくることができるようになった。
 第1表によれば,延両数において,大日本軌道浜松支社5両,浜松鉄道6両,中遠鉄道5両,藤相鉄道12両,合計27両(上記数字の単純集計より1両少ないのは中遠鉄道4号と藤相鉄道5号は同一機関車だからである)に達するが,すべて動輪2軸のB型機で,重量は5~8トンという小型機ばかりであった。そのメーカー別内訳はドイツのコッペル社20両,イギリスのバグノル社4両,ロウカ社1両,国産の大日本軌道鉄工部2両となって,コッペル社の製品が圧倒的に多い。
 日本の蒸気機関車発達の通史をみる時,1906-07年の鉄道国有化後は,国鉄が標準型蒸気機関車の設計を進め,国内メーカーを育成して国産化をはかって,外国製蒸気機関車の輸入は特殊な試用機を除けば,1912年が最後となったとされている1)。しかし,これは国鉄の蒸気機関車にのみいえることで,日本全体の蒸気機関車については正しいとはいえない。当時の国内機関車メーカーの中核となったのは川崎造船所(神戸)と汽車会社(大阪)であり,第1次世界大戦後は日立製作所(笠戸)・日本車両(名古屋)・三菱造船所(神戸)が加わる。しかし,1910年代前半に起った全国的な軽便鉄道ブームによる膨大な蒸気機関車の需要には少数の国内メーカーは製造能力の上でまったく無力であり,国鉄の需要に応えたにすぎなかった。軽便鉄道向けの小型機関車は主として外国製品の輸入に待たねばならなかったのである。
第1表 在籍蒸気機関車一覧表
コッペル社製機関車の多量輸入 軽便鉄道ブームのなかで,最も多くの蒸気機関車を供給したのはドイツであり,とくにコッペル社は日本向けに約450両を輸出し,その約78%が軽便軌間の機関車であった。ドイツ製の軽便機関車はコッペル社の他にも,アーノルト=ユンク,ハノマーク,クラウスなどの製品がこの時期に日本に輸入されているが,陸軍の鉄道連隊に納入されたものを別とすれば,数の上ではコッペル製機関車に遠く及ばなかった。
 コッペル社は正しくはオーレンシュタイン=ウント=コッペル―アルトゥル=コッペル社(1920年以降,オーレンシュタイン=ウント=コッペル社と改称)といい,1876年,ベンノ=オーレンシュタインとアルトゥル=コッペルによって創立された。もともと軍用野戦鉄道や工場の専用鉄道向けの小型機関車を得意とし,日本には1909年から1928年まで,主として小型機関車の納入が行なわれてた2)3)。コッペル社の製品の輸入は第1次世界大戦の勃発によって,1914年にいったん中絶するが,戦後の1920年以降,戦前を上まわる規模で輸入が再開された。日本では,東京に販売代理店としてオットー=ライメルス社があり,活発な販売活動を展開していた。コッペル社製の機関車がかくも大量に輸入されたのは,第1にその価格が同大の国産機や他国製機と比較して安価だったからであり,とくに戦後はマルクの価値の下落によって為替相場が円高マルク安となり,ドイツ製品を安価に輸入することが可能となったことによる。代理店のオットー=ライメルス社も日本の鉄道監督行政の方法を知悉していて,専門知識にうとい地方の軽便鉄道関係者のために,認可申請に必要な書類や図面などを取り揃えて,かゆいところに手のとどくようなサービスを提供したという4)。
 静岡県西部地域の軽便鉄道において,コッペル社製の機関車が大部分を占めたのは,決して異例ではなく,当時の軽便鉄道機関車調達の傾向を代表していると考えることができる。その使用は第2次世界大戦後まで及んでいる。
大日本軌道鉄工部の台頭と没落 国産機関車はわずか2両で,ともに大日本軌道鉄工部の製品であった。大日本軌道も軽便鉄道向けに多くの小型機関車を供給したメーカーとして知られている。同社は1900年代に小規模なローカル鉄道に蒸気動力を導入し,各地のこの種の鉄道に投資を行なった雨宮敬次郎によって1907年,雨宮鉄工所として創立され,1911年,彼の死の直後,彼の投資になる8つの軽便蒸気軌道を統合して成立した(1909年)大日本軌道に合併されて,その鉄工部となった。第1次世界大戦によって,外国からの機関車の輸入が杜絶したのを機として,多数の機関車を各地の軽便鉄道に売り込むことに成功した。1919年に大日本軌道より分離独立して,雨宮製作所と改称し,1923年の関東大震災で東京深川の工場が全焼するまでが雨宮工場の黄金時代である。関東大震災後も車両メーカーとして存続するが,1929年にはじまる世界的な大恐慌をのりきることができず,1934年頃に企業としては消滅している。雨宮工場が製作した機関車は約395両と推定される5)6)。
 このように軽便鉄道の蒸気機関車供給はドイツを主とする外国製機の輸入と,国内の中小メーカーの製品によって支えられていた。当時の蒸気機関車においては,外国製機と国産機との間に品質や工作上の優劣はあまりなかったようであり,両者の採用決定は主として価格と販売サービスの便宜によってなされたと考えられる。

3 蒸気動車
藤相鉄道における蒸気動車導入の計画 蒸気動車は客車の内部に自走用の小型蒸気機関を備えた車両で,ローカル鉄道の小単位輸送やフリークェントサービスを目的として生まれた車種である。
 静岡県西部地域の軽便鉄道では蒸気動車は実際には用いられなかった。しかし,藤相鉄道では1916年に大井川仮橋上で用うる目的で工藤式蒸気動車を使用する計画をたて,鉄道院に認可申請を行なったが,途中で計画を中止した事実がある。当時,藤相鉄道は大井川に架かる橋梁をつくることができず,その路線は大井川をはさんで2分されていた。このため1915年5月に全木製の仮橋をつくり,手押し人車(自重1トン,定員12名)で貨客の輸送を行なっていた。仮橋は蒸気機関車の通行は不可能であった。しかし,輸送の能率化をはかって,この区間のみ蒸気動車を用いて往復させようとしたものである。1915年10月9日にその使用願を鉄道院に提出したが,同年11月27日にこれを撤回している。これは鉄道院当局が仮橋の耐久度が蒸気動車に対して不十分であるとして藤相鉄道側に再検討を求めたことに直接の原因があるようである。
 工藤式蒸気動車は,後述するように汽車会社(大阪)の技師工藤兵治郎が考案し,特許を得て,1910-13年に汽車会社を中心として製作されたものであった。
セルポレー式とガンツ式蒸気動車 日本の蒸気動車は1900年代に東京の馬車鉄道近代化の1つの具体案として,フランスのセルポレー式蒸気動車やアメリカのボールドウィン社製蒸気動車が代理店によってもちこまれたのが最初と考えられている。しかし,実際の営業用鉄道で用いられたのは,名古屋と瀬戸を結んで1904年に開業した瀬戸自動鉄道のセルポレー式蒸気動車をもってはじめとする。セルポレー式は,フランス人レオン=セルポレーの発明した小型の水管罐を用うるもので,燃料にはコークスが使われた。しかし,瀬戸自動鉄道での使用実績はよいものではなく,取りあつかいが面倒なうえ,故障が頻発して,わずか3年の後,電車運転に改められてしまった。
 1909年4月,国鉄関西線の湊町(大阪)-柏原間でガンツ式蒸気動車の運転が開始された。ガンツ式はオーストリア=ハンガリーのブダペストにあったガンツ社で考案された小型の水管罐を用いた蒸気動車で,ボイラーと走行部は輸入されたが,車体は国鉄四日市工場で製作された。製作両数は2両であった。同年,九州の博多湾鉄道でもガンツ式蒸気動車2両を購入している。のちに大阪鉄工所が日本国内における製造販売権を得たがその製作は3両にとどまった。ガンツ式はボイラー圧力16kg/cm2の当時の日本の鉄道では例のない高圧の竪型水管罐を用い(当時の国鉄標準型機関車8620形と9600形のボイラー圧力はともに13kg/cm2である),シリンダーから車軸への動力伝達は歯車によつて行なわれた。当時の日本の機関士にとっては取りあつかいが複雑に過ぎ,故障の際には現場では修理できない場合が多かったらしい。日本全体で7両しか採用されず,1920年以前に廃車ないし客車化されてしまったのもここに原因があろう。
工藤式蒸気動車 工藤式蒸気動車は圧力11.2kg/cm2の通常型の機関車罐を用い,動力伝達も主連棒を使ってピストンの往復運動を直接に車輪に伝える方式を採用している。したがって,運転上の取りあつかいや保守には便利であったが,蒸気発生量が少なく,小出力の車両にしかならなかった。しかし,ローカル鉄道におけるブリークェントサービスに対する需要は大きく,工藤式蒸気動車は1909年,初瀬軌道に4両納入されたのを最初として,1923年までに汽車会社だけで,国鉄に18両,私鉄に13両,植民地の鉄道向け(樺太・台湾・朝鮮)に12両の合計43両が製作されている。汽車会社の他にも,市川勝三商店(大阪)と枝光鉄工所(福岡県)のような小メーカーでも製造権を購入して,少数ではあるが製作が行なわれた。工藤式蒸気動車の普及は当時のボイラー・メーカーの製作技術水準の低さ,これを運用する側の技術水準の低さに負うところが大きかったといえよう7),8)。
 軌間のせまい軽便鉄道における蒸気動車使用の事実は日本においてはこれまでのところ知られていない。これは1067ミリ軌間用の車両よりもさらに小型の車両に超小型のボイラーを塔載することは,さらに性能を低下させることが明らかだからである。藤相鉄道がいったん採用を計画した工藤式蒸気動車がいかなる形態と性能をもち,いかなる原因で導入されようとしたかは不明である。

4 内燃動力の導入(1)--石油発動車
堀之内軌道運輸の石油発動車 日本の鉄道における内燃機関利用の歴史はなお不明の点が多いが,1950年代以降,各地の鉄道の調査が進むにつれて,多くの事実が明らかとなってきた。
 静岡県西部地域の軽便鉄道では,堀之内-高橋間を営業していた城東馬車鉄道が堀之内軌道運輸と社名を改め,1923年にその路線を池新田に延長して,軌間を2尺(606ミリ)から2フィート6インチ(762ミリ)に変更するとともに,動力として石油発動車をドイツより輸入した。この地域における最初の内燃動力車である。この機関車は製茶機械の原動機である石油発動機からヒントを得て,1923年以降にドイツ発動機会社から輸入したもので,4サイクルの単気筒の石油発動車であった。石油発動機は単気筒の焼玉機関で,漁船や小型船に広く採用されていた機関である。シリンダー上部の火球をバーナーで熱して点火し,あとはディーゼル機関と同様のサイクルで気筒内での圧縮と爆発をくりかえす。堀之内軌道運輸の輸入したドイツ製機関車の発動機はこれとは異なり,シリンダ内に噴射された気化ガソリンにマグネット点火をして機関を起動させる方式をとり,その後は一般の石油発動機と同じく,灯油または重油を燃料として,はずみ車のたすけを借りて,気筒上の空気の圧縮爆発をくりかえす。しかし,この点火方式は不調で,まもなく焼玉式起動に改められた9)10),11)。
 堀之内軌道運輸は全部で6両の石油発動車を購入したが,1号機は自重3.5トン,出力14馬力,2-5号機は自重5トン,出力22馬力,6号機は自重5トン,出力28馬力で,客車1両を牽いて運転された。堀之内軌道運輸はこの石油発動車を1935年の廃止時まで機関車として用いたが,故障も多く,修理には日時を要したといわれる12)。
 ドイツ発動機会社製の石油発動車はこの他に内務省が購入し,芦田川(広島県)および千代川(鳥取県)の河川改修工事に用いていたことが知られているが,日本の公共用鉄道で使われた唯一の事例である。
日本における石油発動車導入の歴史 堀之内軌道運輸の用いた石油発動車は,日本の鉄道における石油発動車の歴史の上では最後のページに位置するものであった。日本の鉄道にはじめて導入された石油発動車は,1898-99年に豆相人車鉄道(小田原-熱海間)が動力の近代化をはかって,アメリカから輸入したものである。しかし,試験の成績は悪く,採用はされなかった13)。石油発動車が実際の営業運転に用いられるようになるのは,1905年以降で,この年に北九州佐賀平野にあった筑後馬車鉄道(軌間3フィート=914ミリ)がこれを採用し,佐賀平野に存在したいくつかの3フィート軌間の馬車鉄道が次々と用いるようになった。これらの石油発動機の供給にあたったのは,大阪にあった福岡鉄工所で,数ある漁船用焼玉機関メーカーの1つとなり,2サイクル,火球点火式,出力10馬力程度のミーツ=ウント=バイス型という形式の生産を行なっていた14)。福岡鉄工所は軽便車両メーカーでもあり,客貨車の生産も行なっていたので,石油発動車の走り装置や車体も同所で製作されたと考えられている。自重2.5トン,2軸駆動で,一般に機関車1両で客車1両を牽いた。延長約36キロメートルに及ぶ路線をもっていた筑後軌道(旧筑後馬車軌道)は実に47両(1911年3月末日現在)という多数の石油発動車を在籍させていた。日本の公共用鉄道のなかで最も遅くまで石油発動車を用いていたのは佐賀平野にあった南筑軌道で,1940年の路線廃止まで運転を続けていた。
 堀之内軌道運輸における石油発動車の採用は,北九州の3フィート軌間の鉄道や福岡鉄工所とはまったく関係なくなされたようで,石油発動車自体のカタログ上の性能も福岡鉄工所の製品よりはすぐれていた。堀之内は日本一の茶の産地である牧ノ原をひかえており,製茶機械を製作販売する松下工場が立地していた。この工場は当時の堀之内軌道運輸の取締役社長であった松下幸作の経営であり,ドイツ発動機会社の代理店も兼ねて,製茶用の石油発動機の輸入にもあたっていた。このことが一見時代遅れともみえる石油発動車の採用の直接の原因となったと考えられる15)。
 1920年代には日本の鉄道でもガソリン動力の採用がはじまる時代であり,小出力でとりあつかいの複雑な石油発動車が普及する理由はもはや存在しなかった。

5 内燃動力の導入(2)-ガソリン動車
静岡県西部地域の軽便ガソリン動車 静岡県西部地域でガソリン動車の運転がはじまるのは,1928年以降で,同年に西遠鉄道が,1929年に浜松電気軌道,浜松鉄道と中遠鉄道が,1931年に藤相鉄道がそれぞれ採用している。これらのガソリン動力採用の年次は全国の軽便鉄道のなかでは決してはやくはなかった。これら5鉄道において1941年までに在籍したガソリン動車は,第2表に示すように,浜松鉄道5両,
中遠鉄道3両,藤相鉄道7両,浜松電気鉄道7両,西遠鉄道1両の合計23両に及んでいる。
 ガソリン動車はバスの登場に対抗して,ローカル鉄道におけるフリークェントサービスの向上をはかるために,1920年代後半以降,急速に普及したものである。第2表に示された23両は自重2.7トンから11.2トンまでの範囲にわたっているが,いずれも車体や走り装置は国産となっているものの,主機関となるガソリン機関はすべてアメリカからの輸入品であった。また日本車両(名古屋)の製品が過半を占めていることも1つの特色である。
日本のガソリン動車の黎明 日本の鉄道ではじめてガソリン機関を動力とする車両が運転されたのは1919年7月で,京浜電気鉄道の蒲田-穴守間で,貨物自動車(25馬力)のタイヤをフランジ付の鉄輪に替え,12人乗の客車に改造した車両を用いて試運転が行なわれた。また静岡県岳南地方の根方軌道でもガソリン動車が運転されたという16)。しかし,正式にガソリン動力使用の認可を受けて営業運転を行なったのは,1921年4月に開業した好間軌道である17)。
 好間軌道は,常磐炭田にあった運炭用の小鉄道の一つで,北好間-平間(4.3キロメートル)を結ぶ軌間762ミリの鉄道であった。日本鉄道事業なる会社のつくった自重2.5トンのガソリン動車が用いられた。1926年までにガソリン動車を導入した鉄道には,夷隅軌道,日本鉄道事業,鹿島軌道(1924年),笠間稲荷軌道,磐城炭鉱,栃尾鉄道(1925年),金華山軌道,増東軌道,磐城海岸軌道,九十九里軌道,岩井村営軌道,頸城鉄道(1926年)などがあった18)。この段階では1067ミリ軌間の鉄道ではまだ採用がなく,610ミリか762ミリ軌間の鉄道のみである。
 これらの鉄道にガソリン動車を供給したメーカーとしては,日本鉄道事業,丸山車両があり,1920年代後半に入ると,日本車両,松井製作所,梅鉢鉄工所,新潟鉄工所,汽車会社などが加わって,争ってガソリン動車の製作を進めた。
 ガソリン動車の普及はいうまでもなく,自動車の爆発的な普及に支えられ,またこれに対抗して登場したものである。初期のガソリン動車は木造の2軸(4輪)車であり,機関をボンネット型あるいはキャブオーバー型に配置し,シャフトとウォームギア,あるいはチェーンで後輪軸を駆動する構造を採用し,運転席も一端にしかなかったから,終端駅ではターンテーブルにのせて方向転換させる必要があった。
このような形態のガソリン動車を「単端式」と呼ぶ。「単端式」が自動車の形態や駆動構造をそのまま採用したものであることは明らかである。機関も当時世界的に大量生産されたフォードT型20馬力(1000回転)が盛んに用いられた。
 日本鉄道事業に次いで,ガソリン動車を製作したのは丸山車両(東京)で,1925年以降,「丸山式自動客車」と称した木製の単端式ガソリン動車を多数製作した。
第2表 在籍ガソリン動車一覧表
車体は一般に日本鉄道事業の製品よりは大型で,自重も3トン以上あったが,機関は同じくフォードT型20馬力を採用した。のちにこれでは出力不足となり,フォードA型30馬力などに換装したものが多い。
 最も大量の単端式ガソリン動車を供給したのは日本車両であった。1920年代後半の日本車両はすでに鉄道省の指定工場となって,その機関車や客車・電車の製造にあたっていたから,日本鉄道事業や丸山車両とはくらべものにならないくらいの大規模なメーカーであったが,汽車会社や川崎造船所にくらべるとまだ開発途上にあるメーカーであった。業界におけるシェア拡大の意欲が新しい車種であるガソリン動車の開発に駆りたてたのであろう。そしてこの意図は成功し,大恐慌で鉄道車両の受注が低下するなかで,同社の経営を支えることとなる。日本車両のガソリン動車製作は1927年にはじまり,半鋼製の単端式,フォードT型20馬力装備の車両が送り出された。第2表では,浜松電気鉄道と西遠鉄道の車両が日本車両における初期の製品である。
 1927年からは松井製作所(東京)も特色あるガソリン動車の製造を開始した。ほとんどが木製であったが,両運転台の車両をはじめて製作した。機関は当初は床上に置かれ,キャブオーバー型の配置であったが,まもなくいちはやく床下配置を採用した。機関は同じくアメリカ製であり,出力は強化されて30~40馬力前後のものを装備していた。単端式にくらべて1.5~2倍の自重に大型化されていたから,出力の強化は当然であった。中遠鉄道が1929年に導入したキハ1,2の2両は片ボギ一式の車両で,松井製作所製のガソリン動車のなかでも小型に属するものであったが,両端に運転装置と連結器を備え,機関は床下にあった。
ガソリン動車の全国的普及 初期に多くのガソリン動車を製作し,そのパイオニアの役を果たした丸山車両や松井製作所などが,不況を乗りきることができず,メーカー陣から消えていったなかで,日本車両はますますガソリン動車の生産に努めた。1930年以降,日本車両は軽量車体,アーチバー式軽量ボギー台車,簡易連結器を用いた中・大型のガソリン動車を多く製作した。この時期になると,ガソリン動力と蒸気動力を併用する鉄道が多くなって,蒸気動力のみの私鉄はかえって少数派となってしまっていた。汽車会社や川崎車両(川崎造船所の鉄道車両部門が独立)のような当時の一流車両メーカーも不況のなかで,ガソリン動車の製作にのりだすようになってきた。このほか,加藤製作所,梅鉢鉄工所,新潟鉄工所などでも製造が行なわれた。しかし,日本車両は各メーカーのなかでも製作両数はとくに多く,1930年以降,台枠構造,台車,車体などについて鋼材の使用を少なくした軽量車両の製作に成功した。これは当時のガソリン動車の機関出力が100馬力を超えることは極めて稀であり,電車にくらべて単位重量あたりの出力は小さく,構造上の強度を減じても軽量化を進めなければならなかったからである。
国鉄のガソリン動車 国鉄におけるガソリン動車の採用は1929年にキハニ5000形(キは内燃動車,ハは三等車,ニは荷物車を示す)12両を日本車両・汽車会社・新潟鉄工所で製作した。
第3表 軽便鉄道の列車運転の変遷
主機関については国産品採用を意図したが,適当な国産の自動車用機関がなかったため,池貝鉄工所製の船舶用機関(48馬力)を採用した。車体は軽量化の努力をまったくしていないため,全長わずか10メートルの車両の自重が15.5トンとなって,出力不足は明らかであった。しかし,1932年に信頼性のある国産ガソリン機関GMF13形(100馬力)がつくられ,大型軽量車体のキハ36900形が完成して,国鉄においても,ガソリン動車の大規模な採用がはじまることになる。
 また,ディーゼル動車は1928年以降,少数の製作が行なわれた。主機関は主としてドイツから輸入され,1935年に池貝鉄工所と新潟鉄工所が鉄道車両用の小型ディーゼル機関の製造に成功した。静岡県西部地域にはディーゼル動車は現れていない。
ガソリン動車運転の効果 1920年代後半より1930年代前半にかけて,日本の大部分の非電化私鉄ではガソリン動車による運転を開始したが,これによって,列車運転上どのような変化が行なわれたかを考えてみたい。第3表は,静岡県西部地域にあった軌間762ミリの軽便鉄道6社の主要区間について,1日の片道列車本数と所要時間の変化をまとめたものである。
 ガソリン動車の運転がなく,蒸気列車のみであった1925年と,蒸気列車・ガソリン動車の併用運転の行なわれていた1930年とを比較すると,ガソリン動車を導入した場合には列車本数の50%以上の増加と10~20%程度のスピードアップが実現していることがわかる。明らかにガソリン動車は列車運転のフリークェンシーとスピードの向上に寄与したことがわかる。しかし,貨物輸送を維持するため,多くの鉄道は蒸気機関車の牽引する混合列車を残しており,ガソリン動車を用いる列車との間に若干の所要時間の差がある。
 さらに1934年の状況をみると,1930年にくらべて,運転本数はかえって減っているところが多い。これは鉄道と並行するバス路線が発達し,これが列車数の減少をひきおこしたと考えられる。とくに蒸気列車の顕著な減少が浜松鉄道でみられた。
 しかし,バスの運転は,1930年代後半の石油統制のはじまりとともに下降線をたどり,鉄道列車の本数は再び上昇するようになる。そして第2次世界大戦の激化とともにガソリン動車は次第に木炭ガスなどを燃料とするようになり,出力の不足になやみながら運転を続けるのである。


1)たとえば,石井幸孝『蒸気機関車』中央公論社(新書),1971年,pp.86-102ページ。
2)Messerschmidt, W., Taschenbuch Deutsche Lokomotivfabriken Ihre
Geschichte, ihre Lokomotiven und Konstrukteure, Franckh'sche Verlagshand rung,1977年,S.158-61.
3)臼井茂信『機関車の系譜図Ⅰ』交友社,1973年,232-53ページ。
4)前掲注3)234-35ページ。
5)中川浩一ほか『軽便王国雨宮』丹沢新社,1972年,50-79ページ。
6)臼井茂信『機関車の系譜図Ⅱ』交友社,1978年,356-75ページ。
7)青木栄一「蒸気動車の思想とその系譜」,『鉄道ピクトリアル』256,1971年,40-44ページ。
8)中川浩一「日本における蒸気動車の沿革」,『鉄道ピクトリアル』256,1971年,45-50ページ。
9)臼井茂信「或る石油発動機関車の記録」,『鉄道ファン』174,1975年,100-105ページ。
10)大庭正八「オット機関車の考証」,『鉄道ファン』186,1976年,117-23ページ。
11)大庭正八「堀之内軌道」,『鉄道ピクトリアル』330,1977年,59-63ページ。
12)大庭正八「堀之内軌道」2,『鉄道ピクトリアル』331,1977年55-58ページ。
13)小熊米雄「熱海の軽便鉄道を回顧して」,『鉄道ファン』10,1962年,17-22ページ。
14)日本舶用発動機会『日本漁船発動機史』1959年,239ページ。
15)前掲注11)。
16)石井幸孝・中川浩一「日本の内燃車両発達史」(Ⅳ.私鉄内燃動車編<中川>)『日本の内燃車両』鉄道図書刊行会,1969年,40ページ(本文)所収。ただし,この記述は『運輸五十年史』1921年を引用したものである。
17)前掲注16)40ページ。
18)和久田康雄『改訂新版,資料日本の私鉄』鉄道図書刊行会,1976年,5ページ。

結    語

 1910年代から30年代にかけて,日本の鉄道網には軽便鉄道が大きな発達をとげた。これらの軽便鉄道は主としてその沿線地域の住民の出資によって建設され,軌間762ミリの路線が多かった。
 静岡県西部はとくに軌間762ミリの軽便鉄道網が発達した地域で,幹線鉄道である東海道線からはなれて位置する地方の小中心集落がみずからの資本を結集して建設したものである。これらの軽便鉄道はまず蒸気鉄道として開業し,1920年代後半以降,ガソリン動車を導入して,列車運転のフリークェンシーとスピードの向上につとめた。蒸気機関車の大部分はドイツ製機を主とする外国製の輸入機で占められ,その輸入は第1次世界大戦後に及んでいる。ガソリン動車はこの地域では1928年以降に導入され,すべてアメリカ製の自動車用機関をとりつけていた。名古屋の日本車両本店で製造されたものが多く,いずれも全国的な傾向を代表しているとみなすことができる。
 これらの軽便鉄道は1930年代のバス路線網の拡大とともに,競争に敗れ,1932年以降縮小の道をたどった。第2次世界大戦中は石油不足のためバスの運転が大幅に縮小され,かえって軽便鉄道網の拡大と近代化が進められたが,1950年代以降,再びバス路線の拡大と,自家用車の普及によってその存在意義を徐々に低下させ,1960年代に全廃された。