交通・運輸

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都市化の進展と鉄道技術の導入

著者名: 青木栄一
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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 目 次

Ⅰ 巨大都市における鉄道の特徴・・・・・・・・・・2
Ⅱ 巨大都市の交通機関発達の一般傾向・・・・・・・・・・3
Ⅲ 馬力に代わる動力の模索・・・・・・・・・・5
 1 東京における馬車鉄道・・・・・・・・・・5
 2 スプレーグ式電車の導入・・・・・・・・・・9
 3 蒸気動車・圧縮空気動車の実験・・・・・・・・・・10
Ⅳ 都市電気鉄道の開業と普及・・・・・・・・・・11
 1 明治末期における電気鉄道の状況・・・・・・・・・・11
 2 路面電車の発達・・・・・・・・・・13
 3 蒸気鉄道の電車化・・・・・・・・・・18
Ⅴ 高速電車網の確立・・・・・・・・・・21
 1 高速電車網拡大の社会的背景・・・・・・・・・・21
 2 蒸気鉄道の高速電車化・・・・・・・・・・22
 3 低速路面電車から高速電車への転換・・・・・・・・・・26
 4 新しい高速電車線の建設・・・・・・・・・・26
 5 大都市地下鉄道の誕生・・・・・・・・・・28
 6 大都市民営鉄道の兼業の発展・・・・・・・・・・31
Ⅵ 第2次世界大戦時の交通企業統合・・・・・・・・・・35
 1 陸上交通事業調整法以前の企業統合・・・・・・・・・・35
 2 交通事業調整委員会における論争と帝都高速度交通営団の創立・・・・・・・・・・35
Ⅶ 結 語・・・・・・・・・・39
 付 記・・・・・・・・・・40


Ⅰ 巨大都市における鉄道の特徴

 明治以降の日本の近代化のなかで,都市への人口集中が進んだが,とくに日露戦争(1904-05)後,東京・大阪などの巨大都市への人口集中は激しかった。工業生産の機能とともに,管理・サービス・文化などの機能の巨大都市への集中も大きなものがあった。
 巨大都市の都心部で働く人口が増えるにしたがって,都市外縁の住宅地域は遠心的に拡がり,都心部と住宅との距離は次第に大きくなる。そして,その間の輸送需要も急速に増加する。
 都市の住宅地域が拡大すれば,その都市の住民の生活の単位となる地域も大きくなる。通勤・通学はいうに及ばず,買物・商談・訪問・会合等々,何をとりあげても,移動距離は大きくなり,交通機関なしに都市生活を営むことは,1日だりとも不可能となってくる。巨大都市の交通機関は多数の住民の大きな交通需要を処理できるものでなくてはならない。
 では,このような大きな交通需要を処理してゆかねばならない巨大都市の交通機関には,いかなる特徴や性能が要求されるのであろうか。
 その答えは簡単である。できるだけ多くの人を,できるだけ速く,できるだけ頻繁に運ぶということにつきる。したがって,巨大都市の交通機関には,(1)多量輸送能力,(2)高速性能,(3)フリークェントサービスの能力が基本的な条件として要求される。
 多量輸送能力とは,輸送単位を大きくすることである。しかし,1個の車両を大型化することは交通路(鉄道の線路にしても,道路にしても)との関係で制約を受けるので,多数の車両を連結して輸送単位を大きくする方法がとられる。この場合,何両の車両を連結しようが,1名の運転士によって,輸送単位全体を総括的に制御できる機構が必要である。
 高速性能を発揮する上で最も基本的な条件は,他の交通機関と共用しない専用の交通路をもつことである。したがって,道路上を走る交通機関は,その意味では不適格ということになる。
 フリークェントサービスとは,頻繁に車両を動かして(短時隔運転)待たずに乗れる交通機関とするだけでなく,駅間距離を縮めて頻繁に停車するような運転方式である。頻繁に停車すれば,必然的に平均速度も表定速度も低くなって,前述の高速性能と矛盾する結果となるので,使用する車両には,高加速・高減速性能をもたせねばならない。
 都市の規模が大きくなればなるほど,この3つの基本的条件を満たすことが要求される。またそうしなければ,増加する交通需要に応じきれなくなる。
 都市のなかで用いられているさまざまの交通機関のうち,この3つの条件を最も満足できる性能をもつものは何であろうか。乗用車はもちろんのこと,バスや路面電車はフリークェントサービスの能力ではすぐれているが,多量輸送能力や高速性能の点ではものたりない存在である。機関車の牽引する列車は,多量輸送能力はあるが,フリークェントサービスの機能では劣る。結局,現在の段階においては,高速電車(rapid transit)が3つの条件を比較的満足させうる交通機関と考えられ,事実,世界の巨大都市において最も重要な交通機関とみなされている。
 ここでいう「高速電車」とは,新幹線なみのスピードで走る電車という意味ではなく,道路上ではなく,地下・地表・高架の専用路線上を走る電車で,総括制御機構をもつものを指す。技術的には必ずしも電車,すなわち,客車に電動機をとりつけた構造のものである必要はなく,電気機関車を動力車とするプッシュ=プル=トレインであってもよい。しかし,世界の都市における「ラピッド=トランシット」の大部分が,電車の形態であるので,ここでは高速電車という訳を用いたのである。

Ⅱ 巨大都市の交通機関発達の一般傾向

 都市の交通機関にはさまざまの種類があり,それぞれの発達のプロセスが異なるとともに,時代的な役割も違っている。世界的にみると,19世紀では馬車(辻馬車・乗合馬車)が都市交通機関の主役であったが,19世紀末には蒸気軌道(スチーム=トラム)やケーブルカーなどの過渡的な動力形態を経て,路面電車に引きつがれた。20世紀,とくに1920年代以降には,自動車の普及が著しく,バスと乗用車(タクシー・ハイヤー・自家用車)が都市内における旅客輸送のシェアを次第に拡大していった。また,蒸気鉄道は19世紀中葉に大きな発達を示すが,都市内交通における重要性は低かった。
 路面電車はやがて,専用軌道と総括制御方式を採用し,出力を強化して速力を向上させた高速電車を誕生させ,これが都市における有力な交通機関に成長してゆく。
 世界の巨大都市における交通機関(旅客)の発達をみると,さきに述べた都市交通機関の3つの基本的条件を,時代が下るにつれて次第に満足させてゆく事実が明らかである。とくに20世紀以降の発達過程をみると,都市の発達に応じて高速電車の路線がのびてゆき,他の交通機関に代って輸送上のシェアを拡大していることがわかる。
 日本における都市の交通機関の発達を模式的に考えるならば,ほぼ次の4つの発達段階に分けられる。これを第1期から第4期とすると,次のように特徴づけられる。
 第1期 馬車または馬車鉄道が都市内における主たる交通機関であった時期。この時期には蒸気鉄道はあったが,フリークェントサービスの能力はなく,都市内の交通機関としての機能は十分ではなかった。蒸気鉄道は都市のビルトアップエリアの外縁部のターミナル駅から出る放射線と,これらを相互に連ねる連絡線(環状線の原型)とから成るが,一般に路線の密度は低い段階に止まっていた。
 第2期 路面電車が馬車や馬車鉄道に代って,ビルトアップエリア内に密度の高い網状の路線網を建設する時期。外方に向う放射線は,在来の蒸気鉄道のほかに,路面電車や高速電車(既設蒸気鉄道の電化による)が加わる。また,大都市と近郊にある地方都市とを結ぶ都市間連絡鉄道が発達する。
 第3期 巨大都市における住と職の機能が場所的に分離するようになり,郊外住宅地域が急速な拡大を示す時期。そのため都心部と郊外との間の交通網の整備が促進され,あらゆる鉄道,とくに放射線を形成する鉄道が高速電車化して,多量輸送・高速・フリークェントサービスの能力を向上させた。具体的に述べるならば,蒸気鉄道は電車化され,路面電車は路線の移設(専用軌道化)・改良(急曲線区間の解消など)と総括制御方式の高出力電車の導入を行なうことによって,高速電車化した。またこの時期に最初から高速電車として新たに建設されたものも多い。従来のビルトアップエリア内では,高架鉄道や地下鉄道が発達するが,主力となるのは依然として路面電車である。バスも急速に発達する。
 第4期 高速電車はますます多量輸送・高速・フリークェントサービスの能力を発達させ,その路線網を郊外のみでなく,都心部でも地下鉄の形態で拡充して路面電車を置きかえてゆく時期。輸送需要の増大によって,高速電車は車両の大型化,編成の長大化,高加速・高減速性能の向上などの一連の技術的改革が必要とされる。バスも急速に路線網を拡大し,都心部付近における輸送分担のシェアを維持するとともに,郊外では高速電車の駅をターミナルとする路線網を発達させて,高速電車網の補助交通網をつくってゆく。
 このような観点に立って,具体的に東京における鉄道交通網の発達を図示すると,第1図のようになる。また,都市化の状態と具体的な鉄道の建設・改良を示すと,第1表のようになり,第2期は明治30年代(1900年前後),第3期は大正末期(1920年前後),第4期は昭和30年(1955年)頃にそれぞれはじまっている。
 次に,次章以下において,主として,東京において都市の鉄道網が大きく発達した第2期と第3期における鉄道技術の導入・開発について,概要を述べる。

Ⅲ 馬力に代わる動力の模索

 1. 東京における馬車鉄道
 馬車鉄道は,ヨーロッパでは蒸気機関車が実用化される以前から広く用いられていた交通機関である。しかし,日本では,1872年(明治5)にはじめて蒸気鉄道が開業し,その後に馬車鉄道が現われている。
 1870年代の東京では,円太郎馬車 1)という乗合馬車が市街に走っていた。しかし,舗装のない悪路を走る乗合馬車の乗心地は決してよいものではなく,その改善のため,道路上にレールを敷設し,あわせてスピードアップと車両の大型化を進める計画がたてられた。
 東京馬車鉄道 2)は,1879年(明治12)2月に出願し,同年12月に特許されたものである。1882年(明治15)6月25日,特許区間の一部である新橋-日本橋間に営業をはじめた。日本における営業用馬車鉄道のはじまりである。さらに建設工事を急ぎ,同年10月までに新橋-日本橋-上野-浅草間および浅草-小伝馬町-日本橋本町間の特許区間全線を開業した。これは当時の東京の最も重要な商店街・繁華街を貫いて走る路線であった。
 東京馬車鉄道は軌間4フィート6インチ(1,372ミリ)を採用した。この軌間はおそらくアメリカあたりの地方的に採用されていたものであったらしいが,その源流はつまびらかではない。車両は1895年(明治28)の状況では,長さ16尺(約4.8メートル,ただし1尺=10/33メートルで換算したが,16尺という数値そのものがどの程度の精度をもつものかは不明である),幅7尺(約2.1メートル),30人乗りで,メーカーはロンドンのスターバック社とニューヨークのジョン=ステフェンソン社であった 3)。日本の馬車国産は,1889年(明治22)に日本馬車会社がはじまりとされているが,バネや車軸は輸入に頼っていたようであり,鉄道馬車の車両も完成品輸入か部品輸入かはよくわかっていない。
 1897年(明治30)11月,品川八ッ山下-新橋間に品川馬車鉄道が開業した(1895年8月特許)。
第1図 東京周辺地域の鉄道網の建設
第1表 東京付近における都市鉄道網の発達概要
東京馬車鉄道より小型の車両を用い,軌間2フィート5インチ(737ミリ),18人乗,1頭立てで運転された。
 やがて両社の合併について協議が進められ,1899年(明治32)6月19日付けで,東京馬車鉄道は品川馬車鉄道を合併した。東京馬車鉄道は,1902年(明治35)末で馬車約300両,馬匹2千余頭となり,多客区間では1分以下の間隔で運転が行なわれた 4)。
 この統計数値は,2頭立ての馬車としても,馬の予備保有率が著しく高くなることを示している。これだけの数の馬を飼育・管理することは人手のいる仕事であり,少なからぬ経費を必要としたと思われる。かつ,伝染病の発生や戦時における軍馬の徴発のような事態ともなれば,ただちに輸送力の不足をきたした。そこで,1890年代になると,馬車鉄道会社はより合理的な動力を模索しはじめた。

 2.スプレーグ式電車の導入
 1890年(明治23),上野公園で第3回内国勧業博覧会が開かれ,東京電灯の技師長藤岡市助がアメリカから輸入したスプレーグ式電車の運転が行なわれた。この電車はアメリカのブリル(Brill)社製で,軌間4フィート6インチ,定員22名,15馬力の電動機1個を装備し,電圧500ボルトで運転され,料金をとって一般の試乗に供した。スプレーグ式電車とは,1887年にアメりカ人フランク=スプレーグ(Frank Sprague)がバージニア州リッチモンド市で営業運転に成功した電車である。架空線から溝付車輪のついたポールによって集電し,釣掛式に架装された電動機の回転を歯車で減速して車軸に伝えるという,ごく最近までの路面電車の標準的なメカニズムをほぼ完成していた 5)。
 博覧会における電車運転は全国的に大きな反響を呼び,電気鉄道建設熱が各地の都市で急速に盛り上り,1893年(明治26)には,各地の電気鉄道計画者たちは,「電気鉄道期成同盟会」を組織して,政府の許可促進を運動した。しかし,当時の政府や鉄道当局は電気鉄道に対して十分な知識も認識ももっていなかったため,なかなか許可しようとしなかった。
 1893-97年(明治26-30)に東京市内および近郊地域で出願された電気鉄道は35を数えた 6)。これらのなかには単なる利権とり,ないし投機的な動機のものも多かったと思われるが,当時の電気鉄道熱の高かったことを察することができる。
 しかし,日本で最初の電車による営業運転を行なったのは,京都電気鉄道で,1895年(明治28)2月1日に開業した。最初の開業区間は京都七条-伏見京橋間で,竹田街道上を走った。
 京都電気鉄道が最初に採用した電車は車体の長さ20尺(約6.1メートル),幅6尺(約1.8メートル),自重6トン,定員16人(のち28人に訂正,おそらく立席を加えたのであろう)で,台車はアメリカのブリル社より輸入,車体は東京の井上工場で製作された。井上工場は馬車の車体メーカーであろう。直流550ボルトの単線架空式で,電動機は25馬力1個を装備したが,国産の三吉工場(東京)製とアメリカのジェネラル=エレクトリック(General Electric)社製の両者があった 7)。台車を外国(とくにアメリカが多かった)より輸入し,車体を国産する方法は,明治期を通じての日本の電車の一般的傾向であった。
 京都電気鉄道の開業に続いて,名古屋電気鉄道(1898年開業),大師電気鉄道(川崎,1899年),小田原電気鉄道(1900年),豊後電気鉄道(別府-大分間,1900年),江ノ島電気鉄道(1902年)がそれぞれ開業し,東京や大阪における電気鉄道の開業は1903年となった。

3.蒸気動車・圧縮空気動車の実験
 東京馬車鉄道では,馬に代わるより合理的な動力を模索していたが,1899年(明治32)7月,セルポレー式蒸気動車の試運転を浅草芝崎町の同社車庫構内で行なった 8)。セルポレー式蒸気動車はフランス人L.セルポレー(Leon Serpollet)が考案したもので,1889年パリの万国博覧会に出品された。半月形の断面をもつ水管を用い,燃料にはコークスを用いた小型水管ボイラーを備えた蒸気動車で,1894年,フランスの国内工業奨励賞(金賞)を授与され,この形式の製造販売を専門とする会社(Societedes Generateurs a Vaporisation Instantanee System L. Serpollet)が設立されて,世界各国に宣伝売り込みが行なわれていた 9)。
 東京馬車鉄道への,セルポレー式蒸気動車の売り込みは,フランス人機械技師テベネーという人物が,フランス大使館付陸軍武官と本郷区会議長の縁故によって行なったとされている 10)。しかし,東京馬車鉄道はこの蒸気動車を採用することなく終った。
 セルポレー式蒸気動車は,1899年中に東京府内で出願された3つの計画鉄道が採用すると称していたが,いずれも実現しなかった。日本で実際にこれを用いて開業したのは,瀬戸自動鉄道(1904年開業)1社にすぎず,これとてもわずか3年間の運転が行なわれただけで,電車運転に切りかえられている。
 新しい動力として採用が計画されたものとして,蒸気動車のほかに圧縮空気式鉄道がある。1896年(明治29)3月,東京市会議員の利光鶴松(1863-1945)らが東京市内の大地主たちを発起人として出願した東京自動鉄道は動力に圧縮空気の採用を計画していたし,また東京市会も1898年(明治31)8月,東京市内に圧縮空気式の市営鉄道を建設することを計画している。圧縮空気を鉄道の動力として採用する試みは,蒸気動車の場合と同じように外国人ブローカーないし代理店が東京市会の一部議員と結んで行なったもので,新しい動力が地方政治家の利権の一つとなっていたことがわかる 11)。
 しかし,蒸気動車あるいは圧縮空気式のいずれもが,計画段階もしくは試運転段階以上には話が進まず,新しい動力採用の大勢は電気によって占められていた。

 注
 1) 落語家の橘家円太郎がラッパをもって高座に上り,乗合馬車の御者の真似をしたためにそう呼ばれたといわれる。
 2) 東京馬車鉄道と品川馬車鉄道の特許・開業年月などは『東京市電気局三十年史』東京市電気局,1940年,11-15ページによる。
 3) 小熊米雄「東京都電前史―東京都電公営50周年に際して―(上)」,『鉄道ピクトリアル』121,1961年,16-23ページ。
 4) 『東京電気局三十年史』(前掲,2),14-15ページ。
 5) Wilton, G.W.and J.F.Due:The Electric Interurban Railways in America, Stanford Univ. Press. 1964(2nd ed.)6-7ページ。
 6) 小熊米雄「東京都電前史(中)」,『鉄道ピクトリアル』122,1961年,23-27ページ。
 7) 大西友三郎「京都電気鉄道物語」,『鉄道ピクトリアル』351,1978年,30-37ページ。
 8) 小熊米雄,前掲3)。
 9) 青木栄一「蒸気動車の思想とその系譜」,『鉄道ピクトリアル』256,1971年,40-44ページ。
 10) 小熊米雄,前掲3)。
 11) 小熊米雄,前掲3)。

Ⅳ 都市電気鉄道の開業と普及

 1.明治末期における電気鉄道の状況
 1895年,京都において最初の電気鉄道が開業して以来,日本の電気鉄道は都市内または都市近郊,都市間の交通機関として大きな普及を示した。京都電気鉄道開業以来15年を経た1910年度末(1911年3月31日)現在では,第2表に示すように全国で35企業体,約347マイル(約559キロ)に及ぶ電気鉄道が営業していた。
第2表 1910年度末における電気鉄道一覧
 電気鉄道の分布は大都市内およびその近郊,大都市間に最も多く集中しており,地方都市やその周辺の著名な温泉・社寺の付近にも若干みられる。大都市域における電気鉄道は,市街部の道路上に稠密な路線網を形成して,市街部における最も重要な交通機関となった。電気鉄道は大都市の市街部から外に向かって放射状に近郊地区にのばされ,また20-30キロはなれた大都市相互間,たとえば東京・横浜間,あるいは京都・大阪・神戸間を結んだ。これらの近郊ないし都市間では,線路は多くの場合,道路上ではなく,専用路線として建設された。そして,このことは電車の速力向上に大いに役立った。
 1911年(明治44年)3月末日現在における全国の電気軌道35企業の保有する電車の総数は1842両であったが,そのうち,定員が40人以上50人未満の電車が1400両で,全体の76.0%を占めた。定員40人未満の車両190両を加えると,86.3%が定員50人未満の小型車であったことになる 1)。これらの電車は車両構造上は1台の台車の上に車体をのせた4輪車(2軸車)で,各軸を駆動する2個の電動機を備えていた。電動機1個の出力は25馬力程度のものが多かった。

 2.「路面電車」の発達
明治末期までの電車の主力は道路上に敷設された軌道を走る,いわゆる路面電車であった。これらの電車は人馬の通行するのと同じ道路上を低速で走り,蒸気鉄道にみられるような信号保安設備はなかった。その運転速度は京都電気鉄道の開業にあたって内務省の定めた8マイル/時(約12.8km/h)が法的には最高限とされていた。電車は架空線よりポールを用いて集電し,前面に救助網をとりつけていた。
 電車は大都市の市街部でまず用いられたが,間もなく大都市の郊外や地方都市にも進出した。
 東京付近では,東京市内に次いで,1904年横浜電気鉄道が横浜市内に開業しているが,これよりはやく,東京市内の電車開業に先立って,1901年に京浜電気鉄道が川崎町-品川町間を開業し(1904年品川橋に延長),さらに1905年,川崎町-神奈川町間を開いて,東京と横浜を結んだ。両ターミナルはいずれも市域外の集落にあったが,既設の市内電車に乗りかえて,それぞれの都心部にゆくことができた。
 1903年8月,東京電車鉄道の電車運転開始以降,東京およびその周辺地域の電気鉄道網の形成は,市街部における路線網の拡充と,東京から放射状につくられた主要な街道上ないしこれと並行する路線の建設の二つの面から行なわれた。
市街部の路線網は,次の3社が電気鉄道の特許を得て建設された(カッコ内は最初の特許/開業年月日)
 東京電車鉄道(1900年10月2日/1903年8月22日)
 東京市街鉄道(1902年4月6日/1903年9月15日)
 東京電気鉄道(1897年8月/1904年12月8日)
 東京電車鉄道は,前述のように東京馬車鉄道の改称,電化したもの,東京市街鉄道は1900年頃に市街鉄道を出願していたもののうち有力な3社が合併して成立したもの,東京電気鉄道はもともとは東京西南部の郊外線の特許を得ていた企業であるが,市街部の鉄道の有利性に着目して出願競争に割りこんできたものであった。1つの都市内に3つの企業が対立しながら路線を建設・営業することの弊害が大きいことは明らかであり,合同のための協議も重ねられたが,結果的には不調に終り,3社はそれぞれ別個の開業のスタートを切って,独自の路線網を拡大させた。
 3社は4フィート6インチ(1,372ミリ)軌間を採用した点では共通していた。この軌間は前述のように東京馬車鉄道が開業以来用いていたもので,そのままその後身の東京電車鉄道の軌間となった。(旧品川馬車鉄道の軌間2フィート5インチ-737ミリ-区間―品川-新橋間―は電化とともに1,372ミリに改軌)。東京市街鉄道も東京電車鉄道に合わせて1,372ミリ軌間を採用した。東京電気鉄道は国際標準軌間の4フィート8?インチ(1,435ミリ)で計画されたが,軌間の統一を主張する東京市当局の意見によって,同じく1,372ミリ軌間で建設された。このようにして、日本でも東京だけにしかない珍しい軌間が,東京の市街電気鉄道の“標準軌間”となり,20世紀初頭から1920年頃までにかけて開業した東京の郊外電気鉄道の多くも,1,372ミリ軌間を採用することになるのである。
 このようにして,3社がばらばらに発足した東京市内の電車網は,3社間の均一通し運賃を要求する輿論,および内務省筋の行政指導によって,1906年9月に統合され,新たに東京鉄道となった。3社合併時における各社の路線長と車両数は次のとおりであった2)。
 東京電車鉄道22.880マイル(36.8キロメートル)電車250両
 東京市街鉄道45.166マイル(72.7キロメートル)電車489両(うちボギー車9両)
 東京電気鉄道21.496マイル(34.6キロメートル)電車180両
 しかしながら,会社の運賃値上げ申請を契機として,値上げ反対の市民運動が起こり,市内電車を市営化すべしとする主張が多くの人々によってなされるようになった。
第2図 東京市(都)営市街電車およびトロリーバス網の発達
第3表 6大都市における路面電車の開業と市営化
これによって,内務省も東京市も電車事業の公営化は避けられないという認識に立ち,事業の買収条件について会社側とねばり強い交渉に入るのである。
 1911年8月1日,東京市は東京鉄道の事業一切を買収し,その営業を引き継ぐこととなって,新たに電気局を設け,市内電車の運転と電気供給事業を直営することになった。この時,東京市に引き継がれた路線延長は192.318キロ,電車は1,054両(うちボギー車131両)であった 3)。東京市営路面電車の路線網拡大の状況は第2図に示したとおりである。
 日本の主要都市における市内電車網の公営化(市有化)は第3表に示すように主に1910年代から1920年代にかけて行なわれている。しかし,大阪市のみは最初から市有市営主義をかかげ,民間資本の介入を許さなかった。これは市内電車が市民の毎日の足の役割を果し,市民生活と密着していたことを示している。公共性の高い事業を私的資本の恣意的な利潤追求の場としてはならないとする考えが,はやくから普及し,電車の市有市営主義は次第に確立されていったのである。
 電車は大都市の市街部に稠密な路線網を発達させると同時に,大都市から放射状にのびる主要街道沿いにも電車線が建設された。これらの路線は従来東京との間に交通需要の多かった地方中心町をめざすもので,主要街道上の交通の近代化をはかったものであった。また,大都市と結ばれる都市規模が大きい場合には都市間交通の電車化が行なわれることになった。たとえば,東京-横浜間,大阪-京都間,大阪-神戸間がそれで,既存の蒸気鉄道との間に激しい競争をひきおこすことになった。
 東京周辺地域において都市郊外に進出した最初の電気鉄道は,京浜電気鉄道で,1904年5月に品川-川崎間が,翌1905年12月に品川-神奈川間が開業した。それ以後,東京周辺地域では,路面電車タイプの電車線が1920年までに次のように開業している。
 玉川電気鉄道 渋谷-玉川 1907年
 王子電気軌道 大塚-三ノ輪 1911-13年
 京成電気軌道 押上-船橋,高砂-金町 1912-16年
 京王電気軌道 新宿追分-府中,調布-多摩川原 1913-16年
 城東電気軌道 錦糸堀-小松川 1917年
 これらの郊外路線に用いられた電車は,機構的には東京市内に運転されていた電車とほぼ同じもので,電動機出力25-35馬力2基装備,直接制御方式を採用していた。また,1910年以前に開業した京浜電気鉄道と玉川電気鉄道は当初それぞれ軌間が4フィート8?インチ(1,435ミリ),3フィート6インチ(1,067ミリ)であったが,1910年には東京市内の電車網(東京鉄道,およびその後身の東京市営)との間に共通する軌間を採用するようになって,4フィート6インチ(1,372ミリ)軌間となった。すなわち,京浜電気鉄道は川崎から品川への延長にともなって,1904年3月,軌間を1,435ミリより1,372ミリに変更しており,玉川電気鉄道も1920年に1,067ミリより1,372ミリに改軌している。
 これらの路線の起点はいずれも東京市電の路線網の最外縁部におかれた。当時の東京市電の終点は,おおむねビルトアップ・エリアの限界と一致し,郊外電車の起点は,市電路線網との接続点となった。品川・渋谷・新宿・大塚・三輪橋・押上・錦糸堀など,郊外電車のターミナル駅となった地点は当時の東京市域外にあった中心町であり,交通上の要衝として発達することになる。
 京阪神地域においても,次のように郊外電車が発達したが,その多くは都市交通の役割をになうことになり,東京周辺の電気鉄道とくらべて出力が大きく,かつ早期に総括制御方式が導入されて高速電車化した。東京周辺では次節に述べるように,蒸気鉄道の電化によって高速電車が誕生したが,京阪神地域では,蒸気鉄道の電化のみでなく,都市間電気鉄道がいちはやく高速電車の機能をもつようになった点で,東京周辺地域とはやや異なるプロセスで鉄道網の発達が進んだ。
 阪神電気鉄道 大阪梅田-神戸岩屋 1905-06年
 南海鉄道* 灘波-和歌山市 1907-11年
 京阪電気鉄道 天満橋-京阪三条,中書島-宇治 1910-15年
 箕面有馬電気軌道 梅田-宝塚,石橋-箕面 1910年
 高野登山鉄道* 汐見橋-長野 1912年
 大阪電気軌道 上本町-大軌奈良 1914年
 * 蒸気鉄道の電化を示す。
 明治期の電車は一般に台車や電気機械(電動機・主幹制御器など)は外国製品を輸入し,車体は国産品を用いた。日本では1899年より東京の芝浦製作所が電車用電動機と制御装置の製作を開始したといわれているが,少数製品の試作程度にとどまっていたらしい。また電車用台車は1901年2月に芝浦製作所でつくられ,京浜電気鉄道に納入された。この国産品は台車はアメリカのペックハム社の製品,電動機はジェネラル=エレクトリック社の製品のデッドコピーであったと思われ,その後,同型の電車用台車を川越電気鉄道,豊後電気鉄道にも納入した 4)。しかし,一般に電車用台車や電動機・主幹制御器などの大部分はその後も輸入が続けられ,1920年代まで続くのである。なお,高速電車,とくに国有鉄道における電動機の国産化については,次節で触れる。

 3.蒸気鉄道の電車化
 大都市の電車運転は路面電車の形態ではじめられたが,まったく別の起源をもつ電気鉄道が,1904年に出現した。それは蒸気鉄道の電化による電車運転の開始である。
 甲武鉄道は飯田町-八王子間を営業する蒸気鉄道であったが,とくに輸送需要の多かった飯田町-新宿間には区間列車を往復させていた。小型機関車が5-8両の客車を牽いて走っていたが,ターミナル駅での機関車のつけかえ,方向転換の手数もかかり,輸送需要の時間的波動に適応しがたい欠点があった。甲武鉄道当局が1列車の輸送単位を小さくし,運転回数を増すために,当時各地で計画されていた電車運転に注目したのは当然というべきであろう。
 1900年12月,甲武鉄道は万世橋-大久保間の電車運転を鉄道局に申請し,翌年9月に認可された。その後運転区間の計画を延長して,万世橋-中野間とし,1904年8月21日,飯田町-中野間の運転を開始した。従来,蒸気列車による飯田町-新宿間の運転間隔は約30分であったが,電車運転の開始によって,その間隔は10分となった。
 この時,甲武鉄道が用いた電車は4輪車であったが,従来道路上で用いられていたいわゆる市内電車とくらべると大型,かつ強力であった。1904年,電車運転開始時に登場した16両の電車は甲武鉄道飯田町工場製であったが,電気部分と台車,ブレーキ装置はすべてアメリカからの輸入であった。ジェネラル=エレクトリック社製の45馬力電動機2個,電磁式複式制御器を装備し,ブリル社製の台車,ジェネラル=エレクトリック社製の直通空気ブレーキなどは当時の日本の電車としては極めて進歩的な装備であった 5)。当時の市内電車が直接式制御方式を採用し,ブレーキ装置も手動が多かったのに対して,甲武鉄道の電車は連結運転を行なう計画で,列車全体の運転をコントロールするための総括制御と直通ブレーキの方式は不可欠のものであったといえよう。
 線路側の保安施設も日本における最初の自動信号装置を備えて,10分間隔の高速運転というフリークェントサービスに対処していた。
 1904年12月31日,飯田橋-御茶の水間の延長線が開業し,御茶の水-中野間の直通運転が行なわれた。また1906年4月には,12両の電車が増備されたが,電動機は50馬力2個となり,制御器とともにアメリカのウェスティングハウス社製となった 6)。しかし,甲武鉄道の電車は総括制御装置を備えていながら,実際は1両だけで運転されることが多かったようである。
 1906年10月1日,甲武鉄道は国有化され,御茶の水-中野間の電車運転もそのまま引き継がれて,国有鉄道における最初の電車運転となった。
 甲武鉄道の引き継ぎ後,国有鉄道は1909年12月,烏森(現新橋駅)-品川-池袋-上野間と赤羽-池袋間の電車運転を開始し,また旧甲武鉄道線(中央線)も御茶の水駅より,昌平橋(仮駅,1908年4月),さらに万世橋(1912年4月)へと延長された。
 1914年12月の東京駅開業とともに,東海道線東京-横浜(現桜木町駅)間の電車運転計画が進められ,同年12月18日には来賓を招待しての公開試運転の運びとなったが,準備不足で故障続出の状態となってしまった。国有鉄道当局は鉄道院総裁名で新聞紙上に謝罪公告を出すとともに,12月20日より開始した電車の営業運転を12月26日に中止し,改修工事を行なって,翌1915年5月に営業運転を再開した。
 こうして,1915年の時点で国有鉄道は中央線,山手線,東海道線(京浜線と通称)の3線で電車運転を行なうこととなった。
 京阪神地域においては,南海鉄道が電車運転を計画し,1907年8月の難波-浜寺間の電化にはじまり,工事を逐次進めて電化区間を延長して,1911年12月,難波-和歌山市間の全線の電化を完了した。これによって旅客列車は全部電車となり,とくに大阪近郊区間の列車運転のフリークェンシーが強化された。
 高野登山鉄道も従来路線の電化と電化新線の建設を進め,1912年10月に汐見橋-長野間を,1915年3月までに汐見橋-橋本間の電車運転をはじめた。
 以上のような大都市内部ないしその近郊における蒸気鉄道の電化は,電車運転に新しい傾向を生んだ。当時の電車はいわゆる路面電車であり,軌道も信号保安設備も極めて貧弱なものであった。これに対して,蒸気鉄道は厳しい監督基準に基いて建設され,軌道や信号保安設備からみても,高速運転に適していた。また使用車両においても,高出力の大型ボギー車を用いた。たとえば,国有鉄道では1909年12月,はじめてボギー式電車を導入したが,この電車は45馬力電動機4個を装備し,連結運転のできない直接制御方式であった。しかし,翌1910年に50馬力電動機4個,総括制御方式の電車が登場し,さらに1914年の東海道線電化によって,架線電圧1,200ボルト(従来は600ボルト),105馬力電動機4個,パンタグラフ式集電装置装備の電車が登場している。南海鉄道においても,1907年製の最初の電車はボギー車であり,50馬力電動機4個,直接制御方式であったが,1909年製車以降は総括制御方式を採用した 7)。明治末期におけるいわゆる路面電車がボギー車であっても,25-35馬力電動機2個装備,直接制御方式であったのとくらべると,単位輸送力(1列車の旅客定員),速力の点で大差をつけていたことが明らかである。これらの蒸気鉄道を電化した路線を走る電車が,後年の高速電車の原型となったと考えることができる。
 当時の電動機,制御装置などの電気設備は全部輸入に待たねばならず,台車もまた外国製品であった。輸入先はアメリカ合衆国が最も多かったようである。台枠と車体は国内メーカーでつくられていた。電動機・制御装置の国産は第1次世界大戦の結果,その輸入が制約されるようになったために,1916年,国有鉄道大井工場において,輸入した50馬力電動機を模倣して,同型のもの5両分(20個)を製作した。芝浦製作所においても1916年より50馬力電動機の量産がはじまっている(東京市電向け) 8)。しかし,国有鉄道において,国産電動機装備車が本格的に採用されるのは,1919年以降である。

 注
 1) 『明治41.42.43年度鉄道院年報軌道之部』187-191ページ「車両表」による。
 2) 『東京市電気局三十年史』(前掲2)36ページ。
 3) 東京鉄道の買収経過については『東京市電気局三十年史』(第3章前掲2)36-84ページにくわしい。引継路線キロ数と車両数は同書,129-130ページによる。
 4) 『芝浦製作所六十五年史』,東京芝浦電気(株),1940年,410-415ページ。
 5) 新出茂・弓削進『国鉄電車発達史』,電気車研究会,1959年,24-26ページ。
 6) 新出茂・弓削進,前掲5),24-26ページ。
 7) 新出茂・弓削進,前掲5),27-32ページ。
 8) 『芝浦製作所六十五年史』415ページ,および新出茂・弓削進,(前掲5)34ページ。
Ⅴ 高速電車網の確立

 1.高速電車網拡大の社会的背景
 第1次世界大戦を契機として,日本の重工業は大きな発展をとげ,その経済成長は急激であった。経済成長は大都市への人口集中を激化させ,同時に大都市では職場と住居の地域的な分離を促進させた。大都市における通勤距離は次第に大きなものとなり,また大都市住民の日常の行動範囲は拡大した。このためには都心部と郊外との間の交通機関の機能を向上させることが不可欠の要求となって,高速・大量輸送・フリークェントサービスの3つの条件にすぐれた機能をもつ高速電車網の整備が進められた。
 すでに高速電車は20世紀初頭に京浜地方,京阪神地方に現われていた。しかし,当時における高速電車は鉄道網全体のごく一部にすぎず,依然として蒸気鉄道や低速の路面電車あるいはこれに準ずる性能の電車が主力を占めていた。しかし,1920年代,30年代における京浜地方,京阪神地方の鉄道網では,郊外鉄道の大部分が高速電車の機能をもつようになった。それは,既設蒸気鉄道の電化,既設低速路面電車の設備改良,新しい高速電車線の建設などによって行なわれたのである。
 高速電車網の拡大には,都市化の進展以外に,電力業界の事業がからんでいる。実際,第1次世界大戦後に電気鉄道が急増したのは,大都市郊外住宅化の結果とは必ずしもいえない。この時期における蒸気鉄道電化のさきがけとなったのは,国有鉄道中央本線の中野-吉祥寺間(1919年)であり,また民営鉄道では武蔵野鉄道池袋-所沢間の電化(1922年),大阪鉄道の電化と新線建設(大阪阿倍野橋-古市間,1922-23年)が比較的早期に行なわれている。当時これらの鉄道の沿線は完全な農村地帯であって,都市化の波はほとんど及んでいなかった。蒸気鉄道電化の直接の原因は余剰電力を消費する大口需要をつくり出すことにあった。
 第1次世界大戦後は,いわゆる5大電力が電力業界に支配的な力をもっていた時期である。5大電力とは,第1次世界大戦中に電力開発が進み,戦後に電力企業の大規模な合同が行なわれた結果生まれた電力卸売業者5社をいう。東京電灯・東邦電力・大同電力・宇治川電気・日本電力がこれにあたる。5大電力はその資本系列下に既設,新設の電気鉄道があり,さらに電力の販路を求めて,電気鉄道網の拡大を進めていた。この結果,大都市地域をはじめとして,全国的な電気鉄道ブームが電力資本の利益に沿うて行なわれることとなったのである。
 さらに京浜地方では,1923年9月1日,突如として起こった関東大震災が郊外住宅化の促進に大きな役割を果した。この大災害によって,東京と横浜の都心部は壊滅的な被害を受け,これまで職場と住宅を混在させていた都心部から住宅を分離して郊外に押し出す大きなきっかけとなった。郊外住宅地は既成市街地から放射状にのびる電気鉄道の沿線に舌状に発達し,また電気鉄道が住宅適地に新たに建設されて,さらに住宅地を拡大させた。
 郊外にのびる高速電車線の多くは,東京では当時の市街の外縁部を走る国有鉄道山手線の駅をターミナル駅としていた。これは市内交通機関は市有市営とする原則が東京市電気局の成立(1911年)以来確立していたことと,家屋の密集した市街地で用地を買収して路線を建設することは事実上困難だったことによる。
 山手線との接続点につくられた郊外電車のターミナル駅は郊外電車と山手線あるいは市営電車との間の乗り換えによって次第に乗降客が増加し,さまざまの商業や娯楽,サービス機能が集中するようになった。とくに2本以上の郊外鉄道が集まった新宿駅と渋谷駅の周辺はこの傾向が著しく,後年,副都心と称される繁華な中心地に成長した。
 また,国有鉄道の電車は山手線を越えて都心部に直通できたので,その沿線住宅地は民営鉄道沿線のそれと比較して有利な条件にあり,たとえば中央本線沿線は他の民営電気鉄道よりはやく発達した。
 大阪においても,同じような理由で郊外電気鉄道のターミナル駅は都心部からはなれて位置し,梅田(キタ)と難波(ミナミ)は副都心に成長した。
 副都心やターミナル駅周辺の商店・娯楽街の勢力圏は,主にターミナル駅に発着する郊外電気鉄道の沿線にひろがっている。このような現代の日本の大都市の内部構造が確立したのもこの時機からで,交通網の形態が都市構造を大きく変えてゆくという現象がこの時期以後顕著にあらわれるのである。

 2.蒸気鉄道の高速電車化
 1920年代から30年代前半にかけて,京浜・京阪神地域における国有鉄道路線の高速電車運転が急速にのびた。
 1919年,中央線電車は運転区間を東京-吉祥寺間に延長し,さらに1922年,西郊にのびて国分寺に達した。
 当時,中央線と山手線の電車は架線電圧600ボルトで,50馬力電動機4個(計200馬力)装備,ポール集電の電車を走らせていた。これに対して,京浜電車は1,200ボルト,100馬力電動機4個(計400馬力),パンタグラフ集電で,両線の間で車両の共通運用はできなかった。電車列車の運転距離が長くなり,輸送需要が高まって,同時に運転される車両数が多くなると,架線電圧を上げる必要が生じてくる。ここにおいて,1920年9月までに中央・山手両線の架線をシンプルカテナリー方式に張りかえ,集電装置をポールからパンタグラフに変更してスピードアップに備えた。架線電圧はまず京浜線との共通化をはかって,山手線は1924年,中央線は1927年までに1200ボルトへの昇圧を完成,つづいて東海道本線の電化(1925年)に際して標準電圧と定められていた1,500ボルトへの昇圧が行なわれた。その完成は京浜線1928年,中央線1929年,山手線1931年であった。
 また1923年より,150馬力電動機4個(計600馬力)をもつ強力な電車を標準型として採用することとなり,とくに関東大震災における大量の焼損被災車の補充のため,1925年まで大量生産が行なわれた。これに対して,古い50馬力電動機装備の電車は,1924年より逐次使用停止となり,1926年までに電動車としての使用は完全に中止された。これらの旧形車は電動機をとりはずして付随車・制御車に改造されたり,民営鉄道に売却されたりした。
 電動機は1920年以降,国産製品の採用が大部分を占めるようになり,芝浦製作所,東洋電機,日立製作所,三菱電機などが電動機の製作にあたった。最後に外国製電動機の輸入が行なわれたのは1924年であった。また1926年,国鉄は芝浦製作所・日立製作所・東洋電機の3社と協同して標準型の150馬力(100キロワット)電動機を設計し,電動機部品の統一をはかっている。この標準型電動機は同年に製作された半鋼製電車にはじめて装備された 1)。
 制御装置は1923年まではジェネラル=エレクトリック社の製品が標準型として用いられていたが,1923年の150馬力電動機付大型電車の採用とともに電磁空気カム軸式制御装置が用いられ,芝浦製作所と日立製作所がその製造にあたった。これによって国有鉄道の電車に関する限り,電気部品の国産化がほぼ完了した 2)。
 1926年,国有鉄道最初の半鋼製電車が登場し,木造電車の製造は打ちきられた。これによって従来木造車体では不十分とみられていた台枠に対する加速荷重,満員の乗車時における中央部の垂直荷重などの問題点を解決することができた。また,従来の国鉄電車はフィート・インチ表示の寸法で設計されていたが,この半鋼製車よりメートル法によって設計されるようになった。
 さらに1930年,横須賀線の電車化とともに国鉄電車としては最初の全長20メートルの車両が登場する(木造電車時代の全長は16,820ミリ,初期の半鋼製車17,000ミリ)。
 このような車両や施設の改良によって,国有鉄道で運転する電車の輸送能力や速力は大きく向上したのであった。
 1925年11月,上野-東京間の市内高架線が開通し,山手線電車の環状運転がはじめられた。
 1920年代後半に入ると,国有鉄道の電車運転区間は急速に拡大された。架線電圧はすべて1,500ボルトで,次のように進められた。
 東北本線 田端-大宮 1928-32年
 中央本線 国分寺-浅川 1929-30年
 東海道本線・横須賀線 東京-横須賀 1930年
 (1925年にすでに電化されており,1930年に電気機関車牽引列車を電車に置きかえたもの)
 総武本線 御茶の水-千葉 1932-35年
 常磐線 上野-松戸 1936年
 横浜線 東神奈川-八王子 1932,41年
 電車運転のフリークェンシー向上のために,長距離列車や貨物列車の路線から電車線を分離する複々線化も行なわれた。山手線田端-品川間(1922-25年),中央線御茶の水-中野間(1929,33年)の複々線化がそれで,1933年9月から中央線御茶の水-中野間で朝夕のラッシュアワーにだけ急行電車の運転がはじめられた。
 京阪神地方における国有鉄道電車の運転は1932年12月の片町線片町-四条畷間にはじまる。城東線(現在の大阪環状線)大阪-天王子間(1933年),東海道・山陽本線京都-明石間(1934-37年)がこれに続いた。
 民営の蒸気鉄道の電車化も急速に進められた。
 東京付近において,民営蒸気鉄道電化のさきがけとなったのは武蔵野鉄道(現在の西武鉄道池袋線)で,1922年10月,池袋-所沢間を電車運転に切りかえた。総括制御,架線電圧1,200ボルト,シンプルカテナリー方式の架線,パンタグラフ集電を採用し,65馬力電動機4個装備の電車を走らせたが,これは明らかに高速電車の範疇に入る。蒸気鉄道はすでに施設のととのった専用路線をもち,電車列車に蒸気列車並みの高速と大量輸送の能力をもたせるのは容易であった。
 このような蒸気鉄道から高速電車への転換は,京浜地方では東武鉄道(1924-31年),西武鉄道(1927年),京阪神地方では大阪鉄道(現在の近畿日本鉄道南大阪線,1922-23年)でもみられ,架線電圧はいずれも1,500ボルトが採用された。
第3図 東京付近における高速電車化

 3.低速路面電車から高速電車への転換
 1900年代,10年代に京浜・京阪神地方に建設された電気鉄道は,一般に併用軌道区間や急曲線区間が多かったが,1920年代に線路・車両の両面で,高速電車への転換がみられた。具体的には,(a)併用軌道や急曲線区間などの路線の改良,(b)総括制御方式の採用,(c)電動機出力の強化,などが行なわれた。京浜地方でこの種の改良を達成したのは,京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄),京王電気軌道(現在の京王帝都電鉄京王線),京成電気軌道(現在の京成電鉄)である。この3鉄道は道路上を走る併用区間がまったくないか,あっても比較的短い区間だけであったため,高速電車への転換は容易であった。各鉄道における総括制御の採用や電動機出力強化のプロセスは第3図に示すとおりである。また,京浜電気鉄道は再び軌間1,435ミリに改軌し,東京市電との間の軌間の共通性は失われた。これは事実上の延長線であり,傍系会社の手によって新設された湘南電気鉄道の軌間に合わせた結果であった。
 市街地の道路上を走る区間を多くもっていた王子電気軌道,城東電気軌道,西武鉄道軌道線などは高速電車への転換は行なわれず,路面電車のまま残された。大山街道上を走り,渋谷と二子玉川を結んでいた玉川電気鉄道は郊外電車であり,専用軌道の区間も決して少なくはなかった。しかし,この線は,1920年に複線化とともに軌間を1,067ミリから1,372ミリに改めている。1,372ミリ軌間は前述のように東京市電が採用していたサイズで,玉川電気鉄道は多摩川の砂利輸送のため,東京市電への貨車乗入れをはかって改軌したといわれる。このとき,同鉄道は路面の軌道を専用路線に移築する意向であったといわれるが,沿線商店の反対に遭い,道路を拡張して複線化するにとどめ,高速電車に転換するチャンスを失ったと伝えられている 3)。これが事実であったとすれば,当時の商店主たちの路面電車に対する考え方を示す一例として面白い。
 京阪神地方では,都市間連絡にあたっていた電車線がよりいっそう高速電車化の傾向を強めていた。阪神電気鉄道・京阪電気鉄道・阪神急行電鉄・大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道の一部)などにおける既設路線の改良,車両の出力強化は著しいものがあった。

4.新しい高速電車線の建設
 新しい高速電車線は,京浜地方では新しい企業によって地方鉄道法に基づいて建設されたものが多いが,京阪神地方では既存の電気鉄道企業が軌道法によって建設した実例が多い。
 京浜地方では主として西南郊に新設の電気鉄道が次のように集中的に開業した。
 池上電気鉄道 蒲田-五反田 1922-28年
 目黒蒲田電鉄 蒲田-目黒,大井町-二子玉川 1923-29年
 東京横浜電鉄 渋谷-桜木町 1926-32年
 小田原急行鉄道 新宿-小田原,相模大野-片瀬江ノ島 1927-29年
 湘南電気鉄道 黄金町-浦賀,金沢八景-逗子,1930年
 帝都電鉄 渋谷-吉祥寺 1933-34年
 初期に開業した池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄の最初の電車をみると,50馬力電動機2個をもつ直接制御車であり,これらの鉄道会社がはっきりとした高速電車への指向をもっていたとはいいがたい。しかし,これらの鉄道は地方鉄道としてある一定のレベルの路線条件や保安設備が整備されており,また1,067ミリ軌間を採用したため,国有鉄道の旧型電車(50馬力電動機4個装備,電圧600ボルト用)の譲り受けが可能となり,結果的にはこれによって高速電車化を達成することになった。
 新たに開業した高速電車線の実例として,目黒蒲田電鉄と小田原急行鉄道の成立過程をみてみよう。
 目黒蒲田電鉄は田園都市会社の傍系企業として創立された企業である。田園都市とは,ガーデンシティの訳で,1898年,イギリス人E.ハワードが当時の工業化された大都市の弊害を避けるため,田園地域のなかに独立した新しい理想都市として主張したものである。日本では実業界のリーダーであった渋沢栄一らの主張で田園都市会社がつくられ,当時,玉川電気鉄道と国鉄東海道線の中間にあって,まったく鉄道のなかった東京府荏原郡馬込村・玉川村・調布村で合計132万平方メートルの土地を買収し,1922年からこれを住宅地として整地,道路計画を施行ののち分譲をはじめた。同社はまたこれに付随して,分譲地を対象として電灯電力供給業もはじめた。さらにこれに先立つ1920年1月,分譲地の交通の便を確保するため,荏原電気鉄道の名称で,田園都市会社発起人とほぼ同じメンバーを発起人とし,大井町-調布村間を出願した。同年3月に下付されたこの免許は,その翌年に田園都市会社に無償で譲渡された。これに1921年2月免許の目黒-洗足間を加えて,1922年9月,同社の鉄道部門を独立させたかたちで目黒蒲田電鉄が創立された。同鉄道は1923年3月に一部区間を開業したが,さらに建設を続けるうちに関東大震災に際会し,これを契機として,郊外への人口移動が促進された。まったくの農村であった沿線地域は急速に住宅地化し,これに応じて目黒蒲田電鉄の営業成績ものびていった。
 小田原急行鉄道は鬼怒川水力電気の系列会社で,同社の電力の販路拡大の目的でつくられたものである。当初は東京都心部に地下鉄をつくる予定であったが,東京市や内務省の反対,および資金難のため,計画は中止され,これに代わるものとして,新宿-小田原間の高速電車線計画がたてられた。1922年5月に免許され,1927年4月,その全線を開通させた。新宿-小田原間82.8キロを走り,当時における最も長距離にわたる電車運転であって,開業当初は一部単線区間があったため,全線の運転に143分を要したが,同年10月の複線完成後は116分(急行は105分)に短縮された。しかし,沿線の住宅化が遅れていたため,鉄道経営は苦しかった。
 京阪神地方では,既存の阪神急行電鉄が十三-神戸間(1920年),大阪電気軌道が布施-桜井間(1924-29年),西大寺-橿原神宮前間(1921-23年)を新設開業したのをはじめ,新京阪鉄道(現在の阪急電鉄京都線など,1921-31年),参宮急行電鉄(現在の近畿日本鉄道大阪線の一部と山田線,1929-31年),奈良電気鉄道(現在の近畿日本鉄道京都線,1928年),阪和電気鉄道(現在の国鉄阪和線,1929-30年),神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電気鉄道,1928年)などが開業した。この結果,大阪を中心として,京都・神戸・和歌山との間にはいずれも複数の高速電車線が走ることとなり,激しい競争が展開された。
 また京浜・京阪神両地方において,高速電車による長距離直通運転が開始されたことは,日本の電車発達史の上で特筆すべきことである。小田原急行鉄道新宿-小田原間82.8キロ(1927年),東武鉄道浅草雷門-東武日光間135.5キロ(1929年),大阪電気軌道・参宮急行電鉄上本町-宇治山田間137.3キロ(1931年)などの長距離運転がはじめられて,電車はもはや局地的な交通機関にとどまらず,蒸気鉄道並みの長距離・大量輸送の要求に耐えられる性能を備えていることが明らかとなった。

 5.大都市地下鉄道の誕生
 東京における最初の鉄下鉄道建設計画は,1906年に品川-浅草,および銀座-新宿間の免許を出願した東京地下電気鉄道である。しかし,この計画は当時の鉄道監督当局の認めるところとならず,1913年に出願は却下された。
 第1次世界大戦時には,東京都心部では馬車や路面電車の交通量が増大し,道路交通の混雑がひどくなっていた。そこで,地下鉄道の必要性がさけばれるようになったが,その計画は早川徳次という人物の情熱と努力によって進められた。早川徳次はすでにいくつかの民営鉄道の支配人を歴任して,その経営手腕を認められていたが,欧米視察の途次,ロンドン,ニューヨークなどで地下鉄を見学し,大都市交通における地下鉄の有効なことを確信して,帰国後は東京に地下鉄をつくることに後半生をささげることとなる。
 1917年7月,早川を発起人総代とする東京軽便地下鉄道(品川-浅草および上野-南千住)が出願されて,翌年11月免許された。さらに1920年には武蔵電気鉄道,東京高速鉄道,東京鉄道の3社がそれぞれ異なる地下鉄路線の免許を獲得し,また東京市も地下鉄建設の計画を発表した。
 これらの地下鉄計画は1923年の関東大震災で大打撃を受け,東京地下鉄道(東京軽便地下鉄道を改称)を除く3社はいずれも建設に着手することなく,1924年に免許は取り消された。東京市はすでに1920年1月,その都市計画のなかに,地下鉄建設計画を含んでいたが,関東大震災後に市営地下鉄建設の具体的な計画を立案して,1925年1月,6路線82.2キロにおよぶ建設計画を出願した。この東京市案は,復興院・内務省・鉄道省・東京府・東京市の5行政機関で構成する「高速鉄道に関する協議会」で審議された結果,5路線82.4キロに修正され,東京市特別計画の一部として,1925年3月に決定告示された 4)。この5路線のうち1路線は東京地下鉄道の免許区間と一致しており,他の4路線が東京市営の地下鉄線として,1926年5月に免許された。
 しかし,当時の東京市は関東大震災の復興事業遂行のため,財政は苦しかった。地下鉄建設費にあてるべき外債の募集が大蔵省によって拒否されたことが直接の原因となって,壮大な市営地下鉄建設計画は1927年には中止のやむなきにいたった。
 一方,資本の調達に苦労しながらも,建設工事を進めていた東京地下鉄道は,1927年12月30日,上野-浅草間2.2キロを開業し,ここに日本最初の地下鉄が誕生した。以後逐次小きざみに路線を延長し,1934年9月,新橋に達したが,ここで資金の上で力つきてしまった。未完成のままのこった新橋-品川間の免許線については,京浜電気鉄道・湘南電気鉄道と共同出資で,新たに京浜地下鉄道を設立し,1937年にその免許権を譲渡した。
 また,いったん地下鉄の免許を失った東京高速鉄道は,東京市営地下鉄の計画挫折をみて,その「代行建設」を出願し,ついに1931年12月,渋谷-東京駅間8.4キロと新宿-築地間7.3キロの免許を東京市から譲り受けることに成功した。そして,1938-39年に新橋-渋谷間を開業した。このようにして,東京市内には東京地下鉄道と東京高速鉄道という二つの民営の地下鉄道が併立して,それぞれ独自の路線を運転することとなった。
 東京地下鉄道と東京高速鉄道は,当初は線路がつながっておらず,新橋駅はそれぞれ別の場所にあった。両社は路線を接続させて列車の相互乗入れ運転をすべく交渉を重ねたが,その条件をめぐって対立し,交渉ははかどらなかった。ついに東京高速鉄道側は東京地下鉄道の株式を買占めて,その経営権を握るにいたった。1939年6月より渋谷-浅草間14.3キロの直通運転がはじめられた。
 東京地下鉄道の建設工事にあたっては,ベルリン地下鉄の建設にあたったジーメンス=バウ=ウニオンの技師長R.ブリスケが顧問として招かれ,工事の指導にあたった。軌間は1,435ミリ,電圧600ボルトで第3軌条からの集電方式が採用された。地下鉄用の電車は全鋼製車体を採用し,当時としては極めて珍しいものであった。また停止信号の際に運転士の見おとしなどによってあやまって停車しない場合に自動的に列車をとめる自動列車停止装置がとりつけられていた。車両は車体(使用鋼板はアメリカ製)と台車は国産であったが,主電動機・制御装置・ブレーキ装置などはアメリカからの輸入品を用いた。主電動機と制御装置はジェネラル=エレクトリック社,ブレーキ装置はウェスティングハウス社の製品であった。当時すでにこれらの装置については国産が十分に可能であったが,日本最初の地下鉄で用うるため十分の信頼性を確保するため外国製品を用いたといわれている。当時の国産の電気機械への信頼性がまだ低かったことがわかる。これらの輸入製品は30両分購入され,1927年製と1929年製の電車に用いられ,1933年製電車より電気機械部分も国産品を使用するようになった 5)。
 東京地下鉄道はその建設に先立って,ニューヨークとベルリンの地下鉄を事前に視察研究しており,とくにニューヨーク地下鉄にならってつくられた部分が多かった。
 第2次世界大戦前に開業した東京の地下鉄は東京地下鉄道と東京高速鉄道の2社のみで,東京市と京浜地下鉄道が免許線のみを保有している状態であった。地下鉄の建設と経営を一つの統一された機関に統合する動きが1930年代後半からはじまる。これについては第6章で触れることとする。
 東京に次いで大阪においても地下鉄がつくられた。大阪では市内交通機関を市営とする原則がつらぬかれたため,最初から市営の地下鉄が建設された。戦前に着工された区間は梅田より難波を経て天王寺にいたる大阪都心部を南北に縦断する線で,1933-38年に開業した。1942年に開業した支線を含めて,その総延長は8.8キロにすぎなかった。
 東京においても,大阪においても,当時の地下鉄の路線網は小規模で,都心部の主たる交通機関は稠密な路線網をもつ路面電車であった。
 このほか,大都市では郊外鉄道が都心部へ乗り入れるため,路線を地下に入れ,地下ターミナル駅をつくる例が各地に現われた。いずれも地下区間は短く,阪神電気鉄道の神戸市内地下区間を除けば,2キロ以上の延長をもつものはない。その最初は地方都市の仙台に現われた宮城電気鉄道の仙台地下駅で,1925年に開業した。しかし,単線のターミナル駅で列車収容能力はなく,1952年に廃止されて現在は仙台駅の地下歩道としてのこされているにすぎない。
 京浜地方では京成電気軌道の上野乗入れ(1933年),京阪神地方では京阪電気鉄道新京阪線(現在の阪急電鉄京都線)の京都四条大宮への乗入れ(1931年),阪神電気鉄道の三宮駅地下化(1933年)と元町への地下線延長(1936年),梅田駅地下化(1939年)などが第2次世界大戦以前に完成している。

 6.大都市民営鉄道の兼業の発展
 1920年代は大都市の民営鉄道の経営方式にも大きな変化がみられた時代であった。
 従来の電気鉄道企業の経営方針は一般に運輸収入に主力をおきつつも,沿線地域を対象とした電灯電力供給業を兼営して,事業の安定をはかっていた。また,沿線に遊園地や海水浴場を開設経営し,乗客誘致の一助とするやり方は,都市間電気鉄道の先達である阪神・京阪・京浜などの各電気鉄道ですでにみられた。
 1910年,大阪の梅田-宝塚間を開業した箕面有馬電気軌道は開業の年に沿線で大規模な土地・住宅の分譲を開始した。沿線の宅地開発と分譲を行なえば,その分譲利益だけにとどまらず,将来にわたって鉄道の潜在的な輸送需要となることは明らかであった。また同社は終点宝塚に宝塚新温泉と称する大浴場をつくり,ここで少女歌劇を公演して,乗客誘致に努めた。しかし,1920年頃までは土地分譲のような兼業は決して民営鉄道の兼業として広く行なわれるものではなかった。
 しかし,1920年代になると,郊外電気鉄道の沿線人口の増加につれて,電鉄各社は多岐にわたる兼業に進出し,日本独特ともいえる電鉄経営方式が定着するようになった。
 箕面有馬電気軌道(1918年阪神急行電鉄と改称)によって先鞭のつけられた土地・住宅分譲事業は,1920年代以降電鉄各社によって進められたが,東京では目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄がいちはやくこの種の事業を電鉄経営にとりこんだ。またターミナル駅とデパートを組み合わせたいわゆるターミナルデパートがつくられた。ターミナルデパートも阪神急行電鉄によって先鞭がつけられた。1920年,同社は神戸線の開業とともに,梅田のターミナルビルの1階をデパート業者の白木屋に賃貸し,2階に食堂を直営した。しかし,1925年,白木屋との契約を解除して,ターミナルビルの2-5階で主として日用品と食料品の販売,食堂経営を行なう阪急マーケットを開始し,これが1929年に阪急百貨店に生長した。ターミナル駅に直結し,たくさんの人の集まるという交通条件を十二分に生かしたデパートの誕生は,郊外住宅地発展の時代にふさわしい事件といえよう 6)。
 東京でつくられた最初のターミナルデパートは,1931年,東武鉄道浅草駅につくられた。同駅の駅ビルの3階以上がデパートとなったが,東武鉄道はみずからこれを経営する意志はなく,デパートの老舗である松屋に建物を賃貸する方法をとった。1934年には東京横浜電鉄はそのターミナル駅渋谷に東横百貨店を開業して,東京における電鉄企業直営デパートのさきがけとなった。
 この時期に盛んになった大都市電気鉄道の事業として重要なものに,広域観光地域の開発と経営がある。広域観光地域とは,かなり広い面積にわたってすぐれた自然景観がひろがっている地域で,その代表的なものは国立公園によって代表される自然公園である。日本では1920年代から国立公園設置運動が活発となり,1931年に国立公園法が公布,1934年最初の国立公園の地域指定が行なわれた。そして,広域観光地域のなかに分布する多数の観光資源(そのなかには自然景観ばかりでなく,歴史的,宗教的な文化財も数多く含まれる。)を相互に鉄道やバス路線で結びつけ,その多様性を生かして多くの観光客を誘致する方法はまず鉄道企業によって先鞭がつけられた。
 最も大規模に行なわれた観光開発は,東武鉄道による日光・鬼怒川地域の開発である。東武鉄道は1929年に浅草から日光までの路線を完成させ,東京と日光との間に直通する高速電車を運転することとなったが,これにともなって,この地域内のすべての既存交通機関を自社の資本系列下に置き,ケーブルカーやバス路線を新たに設けた。これによって,従来は熟練した少数のアルピニストや山岳宗教の行者以外の人を寄せつけなかった中日光や奥日光は一般観光客の容易に到達しうる観光地となった。また無名の温泉であった鬼怒川上流の藤原では,その渓谷の美しさに着目し,多くのホテル・旅館を誘致して,一大温泉観光地に発達した。当時すでに,下野電気鉄道というローカル私鉄が,国鉄日光線の今市駅から分岐する762ミリ軌間の路線を鬼怒川渓谷沿いにのばしていたが,東武鉄道は下野電気鉄道の株式を買収して系列下におき,1067ミリ軌間に改軌させるとともに,路線のルートも東武鉄道の下今市駅から分岐するように変更させて,国鉄線との連絡を断ってしまった。これによって,鬼怒川渓谷に出入する交通流は完全に東武鉄道の支線的な流れになってしまったのであった。
第4表 東京付近における民営鉄道企業の収入内訳
不動産事業には,遊園地,公園経営を含む。百貨店事業には,食堂経営を含む。 -東京市都市交通統計資料各年度による-
池上電気鉄道は1934年10月1日,目黒蒲田電鉄に合併されたので,同鉄道の1934年のデータは,1934年4~9月のみの成績である。
京浜電気鉄道の鉄軌道収入は,他の副業による収入を含んでいるので,他社の数字とは直接比較できない。
 京阪神地方では京阪電気鉄道による琵琶湖西岸の観光地化が規模も比較的大きかった。
 第4表は,京浜地方の民営電気鉄道の収入を事業別にみたものである。
 西武・武蔵野・東武など蒸気鉄道起源の3鉄道は,もっぱら鉄道収入に主力を置き,兼業収入はわずかの比率を占めるにすぎない。一方,低速路面電車起源の鉄道の収入をみると,京浜電気鉄道は収入分類の基準が他社と異なるため直接比較できないが,玉川・京王・京成・王子の4社は電気事業収入の占める比率が高い。このうち京成電気軌道は1938年には不動産事業の比率が高まって,次に述べる新設高速電車の鉄道の収入構成に近い比率に変化してゆく。新たに建設された鉄道では,池上電気鉄道はバス収入比が急激に増加する以外に特徴を見出せないが,目黒蒲田・東京横浜の両電鉄は不動産事業の比率が比較的多く,その業種も多岐にわたっている。小田原急行鉄道と帝都電鉄は鉄道収入比が大部分を占めるが,不動産事業の収入も若干ある。東京地下鉄道は「地下鉄ストア」と呼ばれた各駅のマーケットからかなり大きな収入を得ていることがわかる。
 このように1930年代には各鉄道の歴史的伝統や経営者の個性によって,各社の経営形態はさまざまであるが,兼業が大都市の民営鉄道経営に重要な役割をもつようになったことは読みとれる。第2次世界大戦直前の電力国家統制によって,電気事業は鉄道の兼業から消え去ったが,観光・不動産・デパートなどの業種は第2次世界大戦後,すべての大都市鉄道企業にとり入れられるようになり,その経営形態は各企業間の差異を少なくする傾向をたどった。そして,大都市の鉄道企業を中核とする巨大な企業グループが,活動する地域の広さにおいても,業種の多様さにおいても,広範囲にわたる企業活動を発達させるようになるのである。これは日本独特といってよい鉄道経営方式であった。

 注
 1) 新出茂・弓削進,Ⅳ前掲5),65-70,79-83ページ。
 2) 同上。
 3) 『東京急行電鉄50年史』,東京急行電鉄,1973年,188ページ。同様の記述は『東京横浜電鉄沿革史』にもある。
 4) 『都営地下鉄建設史―1号線』,東京都交通局,1971年,39-77ページ。
 5) 『東京地下鉄道史・坤』,東京地下鉄道,1934年,289-292,325-352ページ。
 6) 『京阪神急行電鉄五十年史』,京阪神急行電鉄,1959年,11,18,118-120,167-171ページ。
Ⅵ 第2次世界大戦時の交通企業統合

 1.陸上交通事業調整法以前の企業統合
 1938年4月に公布された陸上交通事業調整法によって,ある一定の地域の鉄道・バス事業を一つの企業に統合し,適正な総合交通体系を確立しようとする交通政策が確立する。しかし,1930年代には,この法律の公布以前から,特定の大規模な交通企業が弱小企業を買収・合併するというかたちで,交通企業の自然淘汰が進んでいた。
 たとえば,目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄は五島慶太をリーダーとし,本社事務所も共用する姉妹会社であったが,近隣の電鉄を株式の買収などによって資本系列下に入れたり,合併したりして,東京西南部の交通網の独占的支配を進めた。目黒蒲田電鉄による池上電気鉄道の合併(1933年系列化,1934年合併),東京横浜電鉄による玉川電気鉄道の合併(1936年系列化,1937年合併)にはじまり,両社は1939年10月に合併して(新)東京横浜電鉄となった。(登記上は目蒲が存続会社となって東横を合併し,新たに東横を名のった)。系列化はさらに続き,京浜電気鉄道,小田急電鉄,江ノ島電気鉄道,神中鉄道,相模鉄道などに及んだ。また東京地下鉄道の株式買収はその強引さにおいて当時の話題となった。
 またどの鉄道企業も自社路線の沿線に運転をはじめた小規模なバス企業の買収・合併を進め京浜地方のバス路線は第5表に示すように,鉄道企業の兼営事業のなかにとりこまれていった。

 2.交通事業調整委員会における論争と帝都高速度交通営団の創立
 東京市とその周辺地域における交通企業の統合にあたっては,交通企業統合の程度や統合される企業の性格をめぐって,大きな論争があった。とくに東京市の主張と政府(内務・鉄道省)の主張との間には大きな意見の相違があって,激しく対立した。
第5表 東京市内におけるバス企業の構成
 陸上交通事業調整法の施行によって,交通事業調整委員会が発足し,最初に東京市付近の交通企業をどのように再編成すべきであるかが審議された。このため,特別委員会と小委員会が設置され,1938年9月より約2年余にわたって論争が行なわれた 1)。
 当初,東京市は東京駅を中心として行程約1時間,半径30-40キロの範囲にある公共交通企業全部を統合し,これを市有市営とすることを主張した。これに対して,鉄道省は国電の統合については消極的であり,民営鉄道は自主統合を主張していた。しかし,民営鉄道は,すでに述べたように東京の郊外において高速電車網を建設し,それぞれの沿線地域を中心としてさまざまの事業を兼業して,強固な勢力圏をつくり上げており,これをあくまで手ばなそうとはしなかった。このため,東京市は,半径30-40キロ圏全域における交通企業一元化の方針を後退させ,半径約10キロ程度の旧市域(1932年以前の東京市域,15区より成り,西限と北限を国鉄山手線のやや内側,東限をほぼ横十間川とする区域)の交通一元化を主張することになった。しかし,当時市営の路面電車・バスを経営していた東京市電気局は巨額の累積赤字をかかえて,経営的に破綻に頻しており,政府側はその経営能力に疑問をもっていたようである。このため,旧市域15区の区域についても,東京市の市有市営統合案は委員会では少数派であった。
 鉄道省は,その電車運転区間をこの統合に全面参加させ,その経営を東京市に委ねる意志はなく,参加条件を次第に後退して,最後には統合の対象から逃げてしまった。民営鉄道もまた既存の免許権の放棄には反対した。委員会は東京市,鉄道省,民営鉄道などの利害を代表する人々が多く含まれていたので,委員会における論争にはそれぞれの利害関係の対立が持ちこまれていた。
 東京市側の主張する市有市営案に対して,鉄道省や民営鉄道側が主張したのは,旧市域の高速鉄道網を「官公私合同特殊会社」の経営に移すことであった。具体的には,政府と東京市,および旧市域内に免許権をもつ民営鉄道の共同出資によって,旧市域内高速鉄道網を一元的に経営する一つの公共企業体をつくることであった。当初は国鉄電車もこれに参加する可能性もあったが,途中で逃げたので,この公共企業体は地下鉄網の経営体を意味した。
 委員会における情勢が東京市側よりみて非となるのに対して,東京市議会・各区議会などは市案の擁護運動に積極的に取組み,区民大会・演説会も各地で開催された。1939年11月に開かれた「帝都交通統制問題大演説会」における弁士の演題をみると(東京市電気局『調査資料』21-1,[1940]所収),「特殊会社は官僚財閥の合作」とか,「財閥と新官僚又も東京市を食はんとす」などがあげられていて,演説会のふんい気が察せられる。鉄道省や民営鉄道出身の委員は完全に癒着して,東京市の交通を壟断しょうとしているという見解を東京市側が持ち続けていることがわかる。またこれは東京市の自治に対する侵害とも受けとられていた。もっとも,東京市側の立場で市有市営案を主張する人々の演説記録をみると,「官公私合同特殊会社」の性格をパブリック=コーポレーションとしてとらえてはおらず,既存鉄道企業の意のままに動くあやつり人形程度にしか理解していない。市営=公共の立場尊重=善,民営=利潤の追求のみ=悪,という19世紀以来の定式がここでも単純明解に説かれており,欧米諸国におけるパブリック=コーポレーションの実態を研究して,日本にこれを適用させた場合の利害得失を考えるといった前向きの姿勢は東京市側にはまったくみられなかった。
 鉄道省が官・公・私合同の新しい企業体によって東京の地下鉄網の拡充をはかろうとした真意は,いうまでもなく,東京市の財力不足にある。東京市が数十キロにおよぶ地下鉄の免許線をもちながら,ついに1キロも完成させ得なかった事実を考えると,当時急務と考えられていた地下鉄網の拡充を東京市に委ねるよりはむしろ政府が財政的支援を与えやすい組織をつくるべきであるという主張には大きな説得力があったと考えられる。
 1940年12月,交通事業調整委員会は鉄道および内務両大臣に答申を行なったが,これによれば,
(a) 旧市域内の路面交通事業は東京市が経営にあたる,
(b) 旧市域内の地下高速鉄道事業は「特殊な機関」を設立して,政府はこれに対して適切な助成にあたる,
(c) 旧市域以外の区域では,中央本線以南の地域,中央本線・東北本線間の地域,東北本線・常磐線間の地域,常磐線以南の地域に4区分し,それぞれの地域内で交通企業の統合する,
などがあげられ,それぞれについて統合の対象となる交通企業名が具体的に列挙された。
 この答申の内容を基本政策として,1941年以降,交通企業の統合が次のように行なわれた。
(1) 旧市内の路面交通事業については,1942年,王子電気軌道・城東電気軌道の全線が東京市に譲渡され,西武鉄道軌道線が同じく東京市に委託経営となった。また東京横浜電鉄玉川線(旧玉川電気鉄道)のうち渋谷以東の部分は1938年にすでに東京市への委託経営が行なわれていた。
(2) 旧市内の地下高速鉄道事業については,1941年5月,帝都高速度交通営団が設立され,既成・未成を問わず,地下鉄の免許路線を一元的に建設,運転を行なうこととなった。これが交通事業調整委員会で論議の一つの中心となった「官公私合同特殊会社」の具体的な姿であった。
 帝都高速度交通営団の当初の資本金は6000万円で,うち4000万円が政府(鉄道会計より支出),1000万円が東京都,残る1000万円が東横・東武・京成・小田急・西武・武蔵野の各鉄道,および国鉄共済組合で出資された。路線は東京市(未成51.0キロ),東京地下鉄道(開業8.0キロ,未成7.2キロ),東京高速鉄道(開業6.3キロ,未成10.6キロ),京浜地下鉄道(未成5.2キロ)より成る免許線合計(開業14.3キロ,未成74.0キロ)を引き継いだ。そして,浅草―渋谷間を営業するとともに,免許線のうち,四谷―赤坂見付間の建設に着手したが,戦時の資材不足のため,1944年6月,工事中止となった。
 免許線の譲渡を強制された東京市では,営団は市内交通事業全部を市有市営化する第1段階であって,固定的・最終的なものではないという解釈で,不承不承,この譲渡を承認した。しかし,現実において,政府と東京市との間の出資額には大差があり,東京市の営団に対する発言権は決して大きいものではなかった。
(3) 旧市域外の区域については,次のように既設の民営鉄道に統合された。中央本線以南の地域では,1942年5月,東京横浜電鉄がすでに資本系列下に組入れられていた京浜電気鉄道(1941年湘南電気鉄道を合併),小田急電鉄(1940年帝都電鉄を合併)を合併して,東京急行電鉄と改称した。1944年5月には,京王電気軌道を説いて強引な合併工作を行なって吸収した。
 中央本線と東北本線にはさまれる地域では,武蔵野鉄道(1934年いったん破産し,不動産業者箱根土地の支配下にあった)が1945年9月,西武鉄道を合併し社名を西武農業鉄道と改めた。両社の合併は武蔵野鉄道が西武鉄道の株式を買収して資本系列下に組入れた結果であって,政府の強制によるものではなかった。新しい会社名に「農業」の字句が入っていたのは,両社の沿線地域で農園経営をしていた食糧増産会社を同時に合併したからで,1946年11月に「農業」の字句を削除して西武鉄道となった。東武鉄道東上線はそのまま東武鉄道のなかにとどめられた。
 東北本線と常磐線にはさまれる地域では,東武鉄道が統合の中核となり,鉄道企業では1944年3月,総武鉄道(大宮-粕壁-柏-船橋間)が合併された。
 常磐線以南の地域では,京成電気軌道(1945年京成電鉄と改称)が統合の中核となったがバス企業2社を合併したのみで,鉄道企業の統合はなかった。交通事業調整委員会の答申ではこの地域で統合されるようになっていた総武鉄道柏-船橋間は東武鉄道に合併された。
 このような第2次世界大戦中の交通企業の統合によって,ほぼ現在の東京周辺地域の鉄道企業の勢力分野が確立した(1948年,東京急行電鉄から京浜急行電鉄,小田急電鉄,京王帝都電鉄が分離)。世界の大都市のなかで,交通企業の統合・一元化が極めて不徹底にしか行なうことのできなかった理由は,東京市の財政力の弱体に求むべきであろうが,政府が東京市の立場をまったく支持せず,むしろ民営鉄道との妥協によって問題解決をはかろうとした姿勢も大きな理由といえるであろう。
 京阪神地域においては,阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄が形成され(1943年),大阪電気軌道は参宮急行電鉄(1941年,この合併により関西急行鉄道となる),大阪鉄道(1943年),南海鉄道(1944年)をそれぞれ合併して,1944年近畿日本鉄道となった。阪神電気鉄道は統合されることなくおわった。しかし,第2次世界大戦後に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が,近畿日本鉄道から南海電気鉄道がそれぞれ分離して現在の5大民鉄となった。交通企業の統合が不徹底におわった点は京浜地方の場合と同様である。

Ⅶ 結 語

 日本の巨大都市における鉄道の発達を主として都市化の進展と鉄道技術の導入との関連を中心として,京浜地方・京阪神地方について記述してみた。日本の巨大都市の発達は,鉄道交通を中心とする交通網の発達と密接な関係を保ってきたことが明らかであり,とくに1920年代以降の都市域の急激な拡大は高速鉄道網の発達と関連している。このなかで,郊外鉄道の役割を果した多くの民営鉄道が都市化に適応した独特の経営形態を採用して,日本独特ともいえる鉄道経営方式を確立したことは注目すべきことである。しかし,民営鉄道の経営基盤が強く,かつ東京市の財政基盤が弱かったために,交通企業の一元的経営は行なわれず,現在なお多くの企業が分立しているのも1つの特徴といえるであろう。
 なお,本稿では紙数の都合で,その記述を主として第2次世界大戦以前に限定したことを付記する。

付 記

 本稿はすでに筆者が発表してきた次の諸論文を総合・要約したものである。
 ●「都市化の過程における鉄道交通網の形成とその変質―東京周辺における鉄道交通網を例として―」,交通文化1-3,1964年,15-25ページ。
 ●「都市と交通形態」,『講座・都市と国土1(大都市地域)』山鹿誠次編,鹿島出版会,1971年,201-235ページ。
 ●『日本の鉄道―100年の歩みから』(原田勝正と共著),三省堂,1973年,391ページ。
 ●「観光開発と交通」,地理18-3,1973年,57-63ページ。
 ●「大都市交通の形成と交通問題」,『現代日本の交通問題』(『ジュリスト』増刊総合特集),1975年,82-87ページ。
 ●「東京の地下鉄網計画の変遷とその背景―東京の地下鉄網建設の政治史,『鉄道ピクトリアル』342,1977年,14-19ページ。
 ●"The Development of Railway Network in the Tokyo Region From the Viewpoint of the Metropolitan GroWth", Japanese Cities, A Geographical Approach (Special Publication No.2 of the Association of Japanese Geographers), 1970, pp. 191-200.


1) 交通企業の統合の経過については,鈴木清秀『交通調整の実際』,交通経済社,1954年にくわしい。以下の記述もこれによるところが大きい。