技術と都市社会

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電気事業の濫觴と展開過程

著者名: 中村八朗
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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 目 次

はしがき・・・・・・・・・・2
Ⅰ 電気事業創設の契機・・・・・・・・・・4
 1.工学寮の開設・・・・・・・・・・4
 2.事業化への胎動・・・・・・・・・・9
Ⅱ 電気事業の企業化・・・・・・・・・・14
 1.電気事業の創設・・・・・・・・・・14
 2.創設期の諸問題・・・・・・・・・・23
Ⅲ 展開過程における諸特質・・・・・・・・・・31
 1.私企業としての課題・・・・・・・・・・31
 2.自由競争原則による循環過程・・・・・・・・・・41
都市と電気事業――むすびにかえて・・・・・・・・・・50

 注・・・・・・・・・・57

*文献の引用にあたって,漢数字は原則として算用数字にあらため,漢字の書体を現行のものにあらためた。


はしがき

 途上国の経済開発や工業化に関して,しばしば問われる選択課題の一つは,民間からの自生的発展に俟つべきか,それとも国家の主導や介入によるべきかという問題である。この問題は経済の離陸段階で特に関連性が高いのであるが,わが国がその段階にあったと見做される時期,すなわち明治の初期においては,主要近代産業の多くが国家の主導と手厚い保護の下に,その揺藍時代を迎えていたことは断るまでもない。しかし,そのような状況の中にあって,本稿がとり上げる電気事業の場合は,多くの投下資本を要するにもかかわらず,国家の果した役割は極めて部分的であり,事業自体は民間側からの自生的発展という形で,その発展を見たのであった。
 電気の利用に基づく事業のうち,電信については国家経営へのその効用に着目した為政者により,いち早く国家事業に編入され,そのまま今日に至っている。また,電気事業は最初の販路を照明市場に求めたのであるが,当時競合灯火の位置を占めていた瓦斯灯の場合には,明治3年に政府が横浜に瓦斯局を設けるとか,明治4年に東京では市の共有金を支出し,ロンドンよりガス器具を購入するといったことがあり,民営として出発してはいなかったのである。ただ,一応事業の基礎が安定した明治18年になって,渋沢栄一を責任者とする民営に移管されており1),これと対比しても,電気事業の特色の一つが私企業としての展開にあったと言える。
 電気事業に国家干与が起らなかったのは,欧米においても,その開発は電信に較べて遅れており,したがって,為政者の側で後の効用について十分な認識を持ち得なかったことが一つの原因と思われる。もちろん,後には電気の重要性は十分認識されるに至り,特に前大戦期には,国家管理の下に置かれたのであるが,しかし,その創設は私企業によっており,その後も大勢としては民間の自主的開発によって事業の展開を見たことは否定できず,展開にあたって経験した紆余曲折も,私企業であったことによる場合が少なくない。
 電気事業の次の特色は,それが都市を基盤として成立したことである。電灯,電力の今日の普及状況を考慮した場合,このようにいうのは奇異な感を与えるであろう。たしかに,現在は農村に電気の行きわたらぬところはなく,特に大正末期頃からは,余剰電力消化策の一つとして,農村電化に努力が傾けられたこともあった。しかし,電気事業の初期をとり上げる限り,都市の存在がこの事業成立の主要な契機となったのであった。
 冒頭でこのように,わが国の電気事業が私企業として出発し,都市を基盤として成立したことに予め言及しておくのは,本稿が社会学における開発研究(developmental study)と都市研究での研究関心を常に意識して書かれていることを断っておきたいからである。古くは加藤木重教による『日本電気事業発達史2)』以来,わが国の電気事業の歴史に関しては,すでにかなりの数の研究成果が刊行されており,筆者が捗猟した資料も,特に新しいものは皆無といって差支えない。したがって,それら資料を不用意に扱っては,これら既存研究の単なる継ぎはぎに終始する恐れがあったところから,扱う視点として上記研究関心を導入したのである。したがって,本稿ではこのような関心に基づく既存資料の再編成が試みられることになる。そのため,私企業として出発するに至った背景,私企業として展開したことから,その過程にどのような特質が生じたか,さらに終りの部分では,都市を基盤として成立したことがどのような意味を持つものであったかといったような点に検討を加えるが,基本的関心が社会学的立場に立つ以上,社会関係,価値体系,意識などの社会的要因についても,資料から窺い得る場合には,それを本稿になるべく取り上げるように努める予定である。
 なお,本文では資料からの引用部分がかなり多く含まれるはずであるが,それらはおもに電気事業関係者が個人的にどのような行動をとったかを示すものである。私企業としての展開に現れた動向や過程とか,わが国における都市分布などは,巨視的次元のものであり,電気事業を扱うにはこのような次元にも当然分析を加えねばならない。しかし他方では,どのような個人的行動の集積が巨視的動向を責したか,あるいは巨視的要因の下で個人がどのように対応したかといった面もとり上げたいと考えたところから,それをビビットに示す資料が存在する場合に,可能な限り,その引用を試みたのである。『日本の経験』研究プロジェクトの一環をなす本稿が,途上国による自国の選択決定になんらかの手掛りを提供するという目的に沿わねばならないことを考慮し,この試みは,大局的状況判断に加えて個人的行動指針にも示唆を含み得るのではないか,したがってよりよく目的に沿うことができるのではないかと希望したのである。
 なお本稿で電気事業という場合は,電気の一般供給販売に限ることを断っておく。加藤木の前掲書には,電信,電気鉄道,電気機器製造,さらに自家発電までが包含されているが,それらはここでいう電気事業とは,それぞれ性格を異にする点があり,関連分野として時に言及する場合があるとしても,性格を異にする以上,それは本稿の場合とは異なる研究テーマとすることがふさわしいようである。
Ⅰ 電気事業創設の契機

 1.工学寮の開設
 「はしがき」で,わが国の電気事業が大勢としては,民間側の自主開発によって推進されたと述べたのであるが,しかし,部分的に国家の側の政策が,この事業の進展に寄与する結果を導いた点も認められないわけではない。歴史的展開の順序に従って,まずその点にふれるとすれば,当時における西欧の先進的科学的知識を導入し,技術者の養成を目指して明治4年に開設された工学寮を取り上げねばならない。明治10年には工部大学校と改弥され,さらに同18年に工部省が廃止されるとともに文部省に移管され,翌年からは東京帝国大学工科大学となった工学寮は,わが国の電気事業発足のための布石を敷くものであった。
 工学寮の開設に当って中心的役割を果したのは,文久3年にジャーデン・マゼソンの助けを借りてイギリスに密航したことのある5人の長州藩士のうちの,特に伊藤博文と山尾庸三であった。彼らはそのおりのイギリスでの見聞から,維新後の新政府の中にあっても工業立国の政策にかかわるところが多く,その政策推進のために設立された工部省の中枢的地位に就いたのであるが,しかし,工部省の事業はお傭い外国人技師に強く依存しなければならなかった。したがって彼らに代る日本人技師の養成が急務と見做されたところから,伊藤・山尾の建言により開設されたのが工学寮だったのである。
 専門学科としては土木,機械,造船,化学,鉱山,電信という7学科学が設けられたのであるが,電気に関する学科の名称が電信であったことに注意しておく必要がある。この点について,第1回卒業生が後に「当時は電気学の応用未だ広汎ならずして,電信学が其代表であったからである3)」と述べているのであるが,しかしそれのみにとどまらず,電信については,国家の帰趨にかかわる技術と認識されていた。その認識は西南戦役の際における電信の効用によってさらに深められたのであり,そのような事情から,電信は冒頭でふれたように,何時までも国家事業として継承されていくこととなった。学科の名称は開設後11年を経た明治18年に至って電気工学科と改められたのであるが,それでも電信以外の電気利用に関しては,後にふれるように,十分な理解を欠く状況がしばらく続いたのであった。このような状況からも,既述のように,電気事業の発足に対して国家の果した役割は間接的であったということができる。あるいは,意図しなかった結果としてであったと表現してよいであろう。
 また,工学寮の開設にも幾つかの困難が生じたようである。例えば学科内容とか,ここで学ぶことの意義については,当時にあっては十分な評価が与えられず,またそれを周知させようとしても,広告機関は極めて乏しい時代であった。このため当初は学生の広募状況も余りふるわず,第1回の試験(明治6年8月22日)で採用された学生は,定員数83名に対してその半分に満たない40名に止まり,再募集によってやっと定員を満たしたのであった。また開設準備期は政府財政が窮迫をつげている時に当っていたことから,必要資金調達にも苦慮したのであるが,それらを克服してやっと開設に漕ぎつけたにもかかわらず,福沢諭吉からは「蒔絵の重箱より菜葉が出る」,つまり学校の設備のみ優れ,学生の質がそれに伴わないと揶揄されていた4)。
 とはいえ,開設前後のこのような問題は間もなく解消し,工学寮は日本人の近代的技術者養成機関として,十分な機能を果すに至るのであるが,先にあげた学科名から推測される通り,その歴史的役割は電気技術のみに止まらず,他の多くの工学技術の発達に関係するものであった。ただし,本稿の目的からは電気事業に関連した面に当然焦点が当てられることになるが,これに関しては,特に教授陣をとり上げる必要がある。この教授陣はお傭い外国人によって構成されていたが,その人選の経緯は次の通りであった。
 明治4年に岩倉具視が全権大使として欧米を巡行した際に,副使としてこれに同行した伊藤博文は,ロンドン滞在中人を遣して彼がかつて密航した時に助けを得たジャーデン・マゼソンに工学寮教師の人選を依頼した。マゼソンは密航に際してだけでなく,伊藤の帰国後もイギリスに残った山尾には,イギリスの工学,特に造船学に関する技術習得に便宜を計っていたのであり,このような関係のあったところから,再びマゼソンの助力を仰いだのであろう。彼はこの依頼に応じ「其親友ナルゴルドン教授ニ相談セシニ,同教授ハ更ニ之ヲグラスゴー大学ノ教授ニテ斯道ノ大家ナルランキンニ議リ,ヘンリー・ダイヤーヲ選抜シ,之ニ部下教授及助手7人ヲ率ヒテ来朝セシメタ5)」のであった。
 マゼソンがどのような動機で人選委嘱に応じたかは知り得ないことであろう。青年達の革命への情熱に共鳴してその密航に加担し,彼らが今や政治の中枢を掌握していることを喜ぶと同時に,その近代国家建設への努力に力をかそうとしたのであるか,あるいは日本での商権確保を狙って青年達の先物買いを試み,思惑が当ってからは彼らとの絆をさらに強めて,商権の一層の安定と拡大を図ったのではないかという両極の推測がたてられよう。しかしマゼソンは後年になって,一国の将来にかかわるこの依頼について,「責任重大な委嘱(very responsible commission)」であったが「私はそれに萎縮していなかった(I did not shrink from it)6)」とある講演で述べており,この問題に関する限りでは,彼の側の誠意は否定できないようである。
 以上,設立中の工学寮授業担当者選出経過を述べてきたのであるが,若き日本にとっての幸運は,この人選が極めて適切だったことであり,それは例えば機械科第2回生の藤田重道による次の言葉からも知ることができる。
工部大学創立の当時ダイエル氏と同行せし各科の御雇外人教師は概ね其の道の俊才逸足が揃い来りたるものにして,今日より思へば実に勿体なき立派なる先生達なりしなり。而して凡ての外人教師が皆非常なる意気と熱誠とを以て指導に力め,生徒が後日世に出つるも決して自己の利福を念とせず,一意国利民福に貢献せんことに努力すべきことを諄々として誨へたり。今にして之を思ふに実に云はん方なき感謝の念に堪へざるなり7)。
 ここに再び名前が出てくるダイエルすなわちHenry Dyerは,工学寮都検(教頭をさす)として明治6年日本に到着したとき,まだ若冠26歳という年齢であった。グラスゴー大学で極めて優秀な成績を収めた彼は,若年にるかかわらずランキンが都検として推薦しただけに,組織力にも長じていたようであり,その貢献について次のように記録されている。
明治6年工部大学校都検,兼土木工学及機械工学教師トシテ招聘セラレ同15年迄勤続セリ。氏ハ工部大学校ノ創設に際シ,学科課程ハ勿論諸規程ノ選定,校舎ノ構造,教室ノ配置等ヲ計画シ,我國ニ於ケル工学教官ノ基盤ヲ設定シタル大恩人ナリ。氏ノ薫陶ヲ受ケシモノハ極メテ多ク,今日我国工学ノ進歩ヲ見シバ全ク氏の力ニ依ルモノナリ。明治35年帝国大学名誉教授ノ称号ヲ受ク8)。
 彼が工学寮に導入した教育組織は,次の記述の示すように,当時の欧米でも斬新なチューリッヒの学制を参考にしたものであった。
当時工学ハ単純ナル技工ノ域ヲ脱シ学理ニ準拠セル専門学トナッテヨリ尚未ダ年所ヲ経ズ,之ヲ綜合統一シテ教授スル学校ハ英国ニスラ無ク,工学ノ一部ハグラスゴー大学内ニ在レド鉱山学ノ如キハ別ニ鉱山学校ニテ教授シ……電気工学ニ至ッテモ電気ハ純理ヲ教フル外実用トシテハ電信アリシノミニテ電気ヲ利用シ灯火ヲ発生シ得ルコトヲ示シタルニ止マリシ時代ニシテ,欧州中稍工学ヲ綜合シタル学校ハ唯瑞西Turich[チユーリツヒ]ニアリシノミ。工学寮ノ組織ハチューリッヒノ
組織ヲ基礎トシテ構成センモノナリ。……此当時ニ於テ……各科ヲ綜合シタル学寮ハ海外ニモ少ナカリシナリ9)。
 また彼の教育方針は,学理に偏して実地に迂潤なところから社会に出ても役に立たなくなるきらいのある独仏の工芸学校(Politechics)方式と,実地で鍛えることを重視はするが,徒らに多くの時を費す弊のある英国式との長短を勘案し,両者の折衷により卒業後社会に出て直ちに役立つ人物をつくり上げることにあった10)。このように伝えられるダイエルのみならず,他の外人教師に関しても,捗猟した諸資料から見る限り,一般に高い評価が与えられており,したがって,マゼソンは依嘱された人選については,日本側の期待に十分応え得ることになったのである。先に,ダイエルが学生に,自己の利福を捨て,一意国利民福に貢献するよう説いたことに触れたのであるが,この薫陶は学生によく徹底したようであり,第2回生の1人は「当時の学生も亦我という事頭脳[アタマ]に少く,唯国家のみ頭脳にありたり11)」と述べ,卒業後においても「当時の自分等即ち工部大学生出身者は希望に満ちたるも金銭の点には余り重きを措かず,唯事業といふもののみが頭脳にあったるなりき12)」と記している。
 わが国の電気事業発足に関しては,これら優れた外人教師のうち,電信科担当教授であったエアトン(W.E.Ayrton)を特に取り上げておかねばならない。1847年に生れ,したがってダイエルと同じ若さで日本に赴任したエアトンはロンドン大学で学び「サー・ウィリアム・タムソンの門弟中1,2と呼ばれる出藍の誉ある学者であった」と伝えられているが,彼の後年の経歴から見れば,この表現に誇張はなかったのであろう。工学寮での給与はダイエルに次ぐ高給になっており,それぞれに優れた外人教師の中でも一際卓越した研究者であったと思われる。「常ニ云ハレタ事ハ『人ノ真似ヲシテハイケナイ,何カ物事ガアルトキハ決シテソレヲ真似シヨウトハセズ,更ニ一層良イ物ヲ作ル様ニ又発見スル様心掛ケナケレバナラヌ』ト云フ事デアッタ13)」が,自らもこの言葉を実践に移し,食事と就寝に家に帰るだけで,早朝6時から晩の12時まで授業の時を除いては,常に実験室に入ってたえず新たな実験を試みており,それは日曜,祭日といえども変らなかった。
 当然欧米での先進的研究についても常に関心を払い,自らも新たな研究成果を得て,それを欧米の学界に問うことが少なくなく,そのためイギリスの当時の偉大な物理学者であったマックスウェルに「電気の中心は日本に移ってしまった」と言わせるに至っている。明治12年に任期を終えてイギリスに帰り,ロンドン工科大学の電気工学教授として生涯を終ったのであるが,その間,明治14年には33歳の若さで英国王立学会の会員に選出され,明治33年には英国物理学会の会長に就任しており,後年には電気科学の進歩に対する貢献を賞賛して王室勲章も授与されたのであった。つまりこのような斯界の権威が,まだ新進気鋭の徒であった時代に,工学寮で教壇に立っていたのであった。
 このことから当然推測されるように,欧米でやっと緒につくようになっていた電気の灯火利用については,エアトンも工学寮においていち早くその実験を試みている。この頃はアーク灯による点灯であったが,実験で好結果を得るのは必ずしも容易ではなかったようである。明治8年にイタリア歌劇観劇会が,同11年には中央電信局開局記念会が工学寮学生ホールを借りて催された時,各国公使や政府高官の参列するこの公開の席で,エアトンに電気点灯が依頼されたのであるが,前の場合は全くの失敗に終り,後の場合も極めて短時間の点灯に止まった。しかしこれらの機会には,電信科学生が準備補助作業に動員されており,それが電気の灯火利用に対する関心を喚起し,彼らに必要技術習得の機会を与えていたのであろう。加えて,彼らは工学寮学生のうちでもかなり優れた素質を持つ者達であり,そのことは「優秀な成績の人が進んでエアトン先生を慕ってきたのです。岩田とか藤岡とか……14)」「電信科よりも寧ろ売口の良い学科があったにも拘らず,優等生は電気の方に多かった。それは先生が皆良い先生で,特にエルトン先生の如き,非常に條理に明るい立派な学者があって,学術上の信用も篤く,学生の尊敬の的となって居た15)」という追憶から知ることができる。
 明治12年,エアトンが母国に帰ったあと,後任英人講師としてトーマス・グレーを迎えるが,彼も同14年には任期を満了する。このように,お雇い外人教師による指導は比較的短期間に終ったのであるが,その薫陶を受けた工部大学電信科卒業生は,わが国電気事業の展開に重要な役割を果たしたのであり,そのうちの最優秀生は外人教師の後を継いで工部大学で教壇につき,次の電気技術者の養成に当ったのである。
 さて,工学寮に関して必要と思われる記述は以上の通りである。電気技術として,当初は電信技術のみが考慮されていたのであるが,後になって,国外で発達した電灯技術が学生に伝えられるという意図しなかった結果を生み,加えて教師に人を得たことが幸いして,単なる技術者として終始するのではなく,進取の精神と不断の研究心,さらに技術を国利民福に役立てようとする気概をも,学生に植えつけたのであった。したがって電気事業そのものに国家は干与しなかったのであるが,不可欠の人材は国家の側で準備したことになる。
 なお,現代風に言えば,工学寮では技術移転が図られたことになるが,教師に人材を得て技術以上のものが伝達されたことは,今日の技術移転にも示唆する点が含まれているようである。

 2.事業化への胎動
 わが国の電気事業創設については,外国人教師の後を継いで工部大学校の教壇に立った卒業生の1人,藤岡市助の名を逸することができない。明治14年,25歳の時に教授補に採用され,翌年助教授,27年教授,母校が帝国大学工科大学校に改組された30年に,その助教授に任命されたのであるが,行動力旺盛で,次の引用のように,電灯普及のための先導的実践活動を志したのであった。
 博士は工部大学教授から帝国大学工科大学助教授となったが,世の中に出て働いて見たいといふ希望で,大学の先生のやうに,研究室と書斎だけにヂッとしてゐられなかったやうな気分があったやうだ。其の頃は電灯と云ふても,外国の雑誌でも,皆アーク灯と思ってゐた程度のものだった。博士は電灯のことを多国の雑誌や専門書で読んで,先へ先へと研究して,あちらの雑誌に寄書するといふ意気込みで,電灯の研究に付ては,早くから期待するところが相当多かった。そして「俺は電灯をやってみよう」と云うことで,大学を辞して東京電灯に入り……学問の実地応用に乗り出したのであった16)。
 母校に残されるほどの優れた研究者でありながら,それに安住しなかったのはパーソナリティに基づく点もあったであろうが,工学寮の外人教師により「一意国利民福に貢献せんと努力すべきこと」を教えられ,特にエアトンからは,常に新たな開拓を心掛けるよう説かれていたことも影響していたのではないかと思われる。わが国の電力事業の開幕は,現在の東京電力株式会社の前身ともいうべき東京電灯株式会社の創立にあったが,『東京電灯株式会社開業五十年史』には,創立の経緯について次のように述べられている。
当時工部大学校のエルトン氏を初め電信科学生は海外の諸雑誌に依って電灯が廣く実用に供し得ることを知って,藤岡市助等は我国にも電灯会社を設立せんことを提唱し,百万実業家に勧説する所があった。然るに事業の将来に対して危惧の念を抱く者多く,此等先覚者の主張を机上の空論視して容易に耳を傾けなかったが,矢嶋作郎は其の所説を聴取して早くも電灯事業の有望なることを看破し,大倉喜八郎,原六郎,三野村利助,柏村信,蜂須賀茂韶の5氏と相計り,先づ英米2国の電灯会社に照会を発すると共に,当時英国留学中の工学士石黒五十二氏に対し詳細の取調を委託した。明治15年初め此等の回答が到着したので,愈々東京に電灯会社を設立せんとする具体的計画を樹て,前記6氏は挙りて発起人と成り,同年3月18日連署して東京府廳を通じ時の内務 山田顕義氏に対し資本金貳拾萬圓より成る東京電灯会社の設立を出願するに至った。されば我国電気事業の貴重なめばえ[・・・]は当に工部大学の若き学生の新知識と矢嶋氏の先見の明とに培はれたものと言っても過言ではない17。」
 藤岡市助の伝記の巻末年表によれば,彼は当時まだ26歳であったが,このような若年研究者でありながら電灯会社設立に情熱を注いだ彼と実業家矢嶋との出会いについて,同伝記に収録された加藤木の記録には次のように記されている。
当時教授の職にありながら,電気事業の為に一身を犠牲として之れに全力を盡くすにあらざれば,到底此の新事業を成立せしむること難しとなし……之れを博士同県出身の先輩諸氏に諮り,且つ告ぐるに博士の素志を以てせしに,子爵山尾庸三氏大に其の志を嘉し,直ちに当時の東京貯蔵銀行頭取矢嶋作郎氏に紹介し,博士の素志を貫徹せしめられんことを要望せり。而して之れ実に博士が矢嶋を知れるの初めなり18)。
 これら2つの引用文には,藤岡が関係を持った人々の氏名も記載されているのであるが,渋沢,大倉を除けばこの人々の問にひとつの共有点を見出すことができる。それは彼らが長州藩と何らかのかかわりを持つ点であって,まず山尾については,旧長州藩士であったことはすでに述べた通りである。次に矢嶋作郎はここでは実業家として扱われているが,実は彼は長州藩を宗藩としていた徳山藩の武士だったのである。しかし,慶應4年に英国に留学し,明治7年に帰朝して紙幣寮助に任ぜられた後,明治10年に至って官を辞し,実業界に転じたという経歴の持ち主であった。柏村信に関しては,後に彼に代って東京電灯の取締役に就いた田島信夫が次のように述べてている。
その後再び縁があって私は先生(藤岡を指す――筆者)と同じ会社に関係することになりましたが,之は其の頃私が毛利公爵家に奉職して居りました関係上,毛利家と関係深い東京電灯の取締役になったからであります。毛利家は東京電灯の創立については最初から関係され,其の為め毛利家を代表する取締役を1人出すことになり,初め柏村信という人が入って居たのでありましたが,亡くなられましたので,其の代りとして私が入ることになったのであります19)。
 つまり旧長州藩主の毛利家は,それを代表する取締役を出すほどに東京電灯と深くかかわっていたことが理解できるのである。開業当時の株主名簿によれば,柏村信は持株数第3位の株主となっているが,恐らくこの持株は実質的には毛利家の出資によったのであろう。
 残りの3人の場合は,出身については長州藩やその支藩との関係は持っていないのであるが,しかし,原六郎は青年時代に大村益次郎に師事して長州藩士と行動を共にして幕府と戦い,維新後イギリスに渡って銀行論を学んだという経歴を持っており,三野村利助は三井家手代として活躍した先代が,去就に迷っていた三井家を説いて長州支持に向わせており,したがって長州藩とは何らかの親近性があったと思われる。最後の蜂須賀茂韶は,明治期の開明華族として国政の枢要な地位を歴任したのであるが,彼が徳島藩主であった時には,七卿落ちの件に際して長州藩士毛利敬親父子と七卿の寛典処分を唱えており,したがって長州藩とは友好関係にあったことが推測できよう。
 以上,設立発起人の間における長州藩との関係を扱ってきたのであるが,ここで指摘しておかねばならないのは,設立の中心的推進力であった藤岡も,この点については同様であり,長州藩の支藩であった岩国藩で代々御蔵掛を勤めた家の長男として安政4年に生れていることである。9歳で岩国藩校養老館に入って勉学を始め,明治7年,すなわち彼が18歳の時に遊学のため上京したのであるが,この遊学は旧藩公の寵命によっている。上京後しばらくは外国語学校に通学したが,その間は神田万世橋畔の旧藩公邸内の付属部屋で起居しており,そのため工部大学校での修学期間を終えて卒業証書を手にした時,「真先に旧藩公邸に伺侯し,涙ながらに恩を謝した20)」のであった。
 さて,以上からすでに明らかなように,藤岡の意図を実現されるについては,長州藩をめぐる諸関係が動員されたのであった。このことが意味するのは,近代化への転換における社会関係的要因である。先に工部大学校では教師に人材を得たことを述べたが,その人材確保においても,マゼソンとの結びつきが手掛りとなっていたことも,ここで想起されねばならない。
 一般に一つの社会の近代化に関しては,旧い社会関係を打破し,代って新たな社会関係の確立を図ることが当然の前提と見做されている。しかし,官業ではなく民間事業として開拓され,その意味では近代社会により適合的形態として出発したわが国に電気事業の場合には,旧い社会関係と結びついてそれが可能だったことになる。加えてその関係は,universalismではなくparticularismに基づく関係であった。しかし,先の引用でふれたように「其の頃の資本家は新事業のこととて半信半疑,誰あって此め如き会社の設立に賛同せざりし」状況の中では,particularisticな関係があったればこそ,あえて藤岡の素志を受け入れ多少の危険を覚悟して,その実現に踏み切ったのではなかろうか。また,正学寮設立に当ってのマゼソンとの関係の場合,particularisticと呼べるものではなかったであろうが,しかし日本脱出の際に伊藤,山尾等との間に結ばれた強い社会関係があったことにより,委嘱された教師の人選においては,誠意をもって努力が払われたのであろう。したがって,ここでも社会関係的要因が重要な作用を果したことになる。
 電気事業の胚胎と社会関係要因とのかかわりは,以上にあげた場合以外にも見出すことができる。それは続いて扱おうとする東京電灯会社の営業開始の後のことであり,したがって記述の順序が時期的に前後するのであるが,社会関係的要因にふれた関係上,いまここで述べておくこととすると,名古屋と京都での事業開始に際してこの要因が関連したのであった。特に名古屋の場合,すなわち名古屋電灯会社は,「旧名古屋藩の士族および卒族によって設立された会社」であり,設立の経過は次の通りであった。
 版籍奉還後全国に続出した旧武士による復禄請願運動は,西南戦役後に特に盛んになり,名古屋で旧藩士三浦恵民らがその中心となったが,その結果,明治16年,愛知県には勧業資金10万円の貸下げが内定した。次にはその利用法が問題となるが,これについて以下のように述べられている。
 しかし同資金の運用について,旧名古屋藩士族,卒族の意見は容易に纒らなかった。これらのうち,紡績業へ出資する説が有力であったが,たまたま旧藩士で愛知県衛生課長に新たに任ぜられた丹羽精五郎は,電気供給事業の有利であることを提唱し,また旧藩士で工部省技師であった宇都宮三郎も「電灯需要は将来一層増大することが必然であり,紡績業に比し,電気供給事業は利殖のみちに慣れない旧藩士族・卒族が経営しても,大過なきを期することができよう」として丹羽精五郎を通じ,旧藩士族・卒族に電気供給事業を推奨した。明治19年には,丹羽精五郎の甥の工科大学生丹羽正造を招き,名古屋区役所会議室に白熱灯40灯,門前町に弧光灯1灯を点火して一般の観覧に供した。これらによって旧藩士・卒族の意見は一致し,電気供給事業の経営を決起した21)。
 このような経緯から企画された名古屋における電気事業は,さらに明治22年には,「旧尾張藩主徳川義禮侯及犬山藩主成瀬止肥男より士族就産所閉鎖による精算剰余金1200円の寄付を受け22)」ている。
 東京電灯の場合は,藤岡の意図を生かすに当って社会関係的要因が作用したのであるが,この記述に見られるように,名古屋電灯では,旧士族団という社会的要因が先にあり,それを維持する手段として,電気事業が取り上げられたことになる。C.ギャツはバリ島の宮廷所在地であった小都市で,旧王室とその家族団が王制廃止後も経済基盤を確保するため,近代的企業活動に転じた例を報告しているが,名古屋電灯の場合はこれに極めて類似していることになる23)。
 次に京都に移ると,ここでは名古屋ほどではなかったとしても,やはり社会関係要因の作用した局面があった。東京電灯会社の社長となっていた矢嶋作郎を加えて京都市内に電灯会社設立が計画されたのは明治20年のことであったが,首都が東京に移ってからの京都の再建に腐心していた当時の京都府知事北垣国道もその設立を望み,同年11月1日に創立が認可されることとなった。しかし,市民が電灯事業に対する理解に乏しいことから,株式の募集に応ずるものが少なく,それが事業の停滞を招いたのであるが,その時知事は発起人とともに「市内両区の区長並に戸長の参集を求め電灯の効用を説き,町組内の共有金を以て株式の募集に鷹ぜんことを勧めた。其の他百万勧説した結果総株2000株に対して,2088株の申込を見た。而して総株2000株中122株は各町組合総代が株主となったのである24)」。総代の持株は総株中の僅かな比率に過ぎないのであるが,しかし町組合がこのように応募したことが,他に多数の株主が現われる契機になり得たとも推測できよう。
Ⅱ 電気事業の企業化

 1.電気事業の創設
 東京電灯会社が設立の準備を進めていたとき,発起人の1人大倉喜八郎は横山孫一郎とともに,米国ブラッシュ商会の勧めにより別の電灯会社設立を計画していたが,彼自身が両方の計画に関係していたことから同派が合同し,発起人を3名追加して再び電灯会社設立を東京府知事に出願し,明治16年2月15日にその認可を得る運びとなった。この間,2派の合同がなった時点で,仮事務所を京橋区銀座2丁目の大倉組内に置き,明治15年11月1日に実物宣伝のため仮事務所前で2000燭光の孤光灯を点じたのであるが,これは当時の画期的出来事として大きな反響を呼び,「見物の群衆は市街に満ち其雑沓一方ならざりし」と新聞に報道され,現在も「当時の評判が洋〓、5000挺の光を発するというのですから……銀座に不夜城が出現すると騒いだもので,いよいよの晩が,人山を築きました25)」,「見物人は遠近挙りて毎夜銀座に雲集し,ここれは当時の3枚続きにも残るように,町の事件の1つだった26)」と書き留められているほどの人気を博したのであった。
 このようなデモンストレーションは,その後しばらくは何度も続けられている。もちろん大倉組店頭での実演が時代の話題となり,電灯は文明開化のシンボルとなるにつれて,相手側から依頼してくる場合もあったのであろうが,おもな臨時点灯としては,天皇皇后を迎えて上野駅で開催された上野高崎間汽車開通式(明治17年6月),朝野の貴顕紳士が招待された日本橋坂本町の東京銀行集会所開業式(同18年11月),当時の社交場であった鹿鳴館舞踏会会場(同20年1月),首都官邸での仮装舞踏会(同年4月),井上外務大臣私邸での歌舞伎天覧舞台(同年同月)があり,時には京阪にも出向き京都の祇園(明治16年4月),大阪道頓堀の劇場(同17年5月)での点火を試みて,京阪人士を驚かせたのであった。
 これらの臨時点灯では,藤岡は技術面での中心的役割を果したであろうが,個人的にも努力したようで,それに関して次の回想が残されている。
当時白熱電灯が一般に知られていないので,それを早く世間に知らしたいといふのが藤岡さんの念願でありました。
恰度皇后の御造営中でありましたが,藤岡さんは工部大学にあったグローブ電池を持ち出され,只今の楠公の銅像のある辺りに点けることにして,3灯か4灯点けて見せた。……第2回目は吉原に行って点けました。所謂旦那衆の人たちを呼んで電灯を点けて見せ,その効能を説明して,点けて貰ひ度いと依頼しました。それから神田の淡路町に在った吉川子爵邸で点け,次いで高輪の毛利公爵邸でも点けました27)。
 ここに出てくる吉川子爵は,藤岡の恩人とも言うべき旧岩国藩主であり,このように岩国,長州の旧藩主にも電灯点火実演を試みたことが,先に述べたように毛利家と東京電灯会社の深いかかわりにつながかったのであろう。
 これら臨時電灯点火と並んで,電灯設備据付も東京電灯の付帯事業に含まれていた。横須賀造船所(明治16年4月),小石川の砲兵工廠内村田銃製造所(同年8月),千住製絨所(17年3月)では孤光灯設備,内閣印刷所(19年6月),大阪三軒家の大阪紡績会社工場(同年9月)では白熱灯設備がそれによって設置されたのであるが,特に大阪紡績の場合は,それによって照明石油ランプ破損で起りがちであった火災の危険を除き,さらに残業をも可能にするようになり,当時沈滞に陥っていた紡績業界の中にあって,この工場のみは復活の道を切り開き得たのであった。しかし,電灯採用の効果は,他の工場にもたちまち伝ったようであり,表1にみられるように,東京電灯は他の紡績会社から相次いで舞込んだ申込みに応じて,それら会社の電灯点火設備の設置工事に着手することになり,これによって同社はわが国紡績界再興に寄与する機会を得たのであった。
表1 東京電灯請負による自家用電灯設備設置紡績会社一覧
 また,内閣印刷所の設備設置では,必要な機械・器具・電線は,一部米国エジソン会社から購入したのであるが,将来の需要を見越してか,エジソン会社は電灯技師を派遣し工事の監督に当らせることにした。この時藤岡は自分の学生をこの技師につけて工事を実習させ,得がたい経験を与えたのであるが,その1人が,先に名古屋電灯について名前をあげた丹羽正道であった。
 東京電灯は設立認可後これら付帯事業には着手していたのであるが,その本格的営業,すはわち架空配電線による電灯供給は,松方デフレの影響もまだ残っていた時期であり,株式の引受けが完了しなかったことから遅延したのであるが,明治19年5月それが完了するや,市内5ヶ所に,当時電灯局と称された火力発電所の建設にとりかかり,日本橋区南茅場町の第2電灯局をそのうち最も早く完成させ,20年11月29日に付近の日本郵船,今村銀行,中央郵便局などにいよいよ配電が開始されることとなった。翌年には第1電灯局(麹町区麹町),第3電灯局(京橋区新肴町),第5電灯局(北豊島郡千束村)が,残る第4電灯局(神田区錦町)はやや着工が遅れたものの,これも23年に竣工し,当初の計画に達したのであった。
 すでに明治19年12月に東京帝国大学のポストを棄て東京電灯の技師長になっていた藤岡は,「電灯宣伝が第1の仕事で,今日何処其処で何ういう催しがあるかといふやうなことはよく知って居られました。……電灯宣伝の好機会を逃すまいと云ふ御心掛の為で,例へば集会の余興に使う点灯の申込みでもあるやうな場合,何時なんどきでも早速注文に応じられるやうに用意して置28)」き,注文があれば「自ら陣頭に立って,其の都度機械を持ち運んで点灯に従事28)」するといったように,電灯普及に専心するようになっていた。それに対する彼の熱意は「晩飯を食いに一寸料理屋へ出掛けられた場合でも,其処で電灯の便利徳用を説いて電灯点火を其の料理屋に勧められる。或は又奥さんと2人で銀座あたりに散歩しながら,買物に出られたやうな場合でも,其の店に電灯灯火を勧められるという具合でした29)」という言葉によっても,並大抵のものではなかったことが理解できるが,発電所竣工時期が好況期を迎えていたこともあり,彼の望む通りの好調なスタートを切ることができた。その後も電灯需要が絶えず増大の一途を辿ったことは表2によって知ることができる。このほかに,この時代にすでに電力需要も始まっており,それは12階建の浅草凌雲閣のエレベーター用と,新聞社の印刷用に向けられたものである。
 日本の経済状態が好転したこともあり,東京電灯の成功は日本の多くの都市で電灯会社設立の気運を生み出すのであるが,しかし本格的営業に入る前に試みたデモンストレーションも,すでに全国的反響を呼んでいたようであり,例えば熊本電灯設立の契機となったのは,「明治20年大阪に全国銀行業者大会が開催されたが,熊本県より出席の第九銀行頭取三淵静逸氏は偶々同会の席上に於て話題となった電灯の事に関して深く興味を抱き,且つ電灯は文化の魁なることを痛感して帰来,盛んに有志の間に奔走して電灯事業の必要なことを力説された30)」ことにあった。また東京電灯の側でも意識して他の都市での電灯会社設立の勧誘に努めており,これらの要因が重なって電灯会社の設立をみた諸都市のうち,比較的その開業の早かったのは,神戸(明治21年9月),大阪(同22年5月),先にふれた京都(22年7月)と名古屋(23年6月),横浜(23年10月),前記熊本(24年7月),札幌(24年11月)であった。
表2 東京電灯創業期の電灯取付数推移
かくして,わが国の大都市のすべてにおいて電気事業が創設されるようになり,次いで他の地方中小都市でも陸続と電灯事業を営む業者が現われてくるが,これについては後の部分で再びとり上げる予定である。また東京においても,芝赤羽以南の区域を扱う品川電灯(23年4月),江東方面の深川電灯(同年12月),芝・麻布方面の帝国電灯(24年7月)が設立された。
 これらの電灯会社のうち,大阪の大阪電灯に関して,交流発電方式のことをここで取り上げておかねばならない。先にふれた東京電灯の5つの発電所では直流低圧(210V)方式がとられていたが,この方式では供給区域が拡大した場合,電圧降下を防ぐため導線を太くする必要があり,そのため経済的には送電距離が発電所から2キロほどの範囲に止まるという制約がともなっていた。これは他の電灯会社の場合も同じであったが,ただ大阪電灯と,それにならった東京で後に設立された電灯会社は,この制約のない交流高圧方式によっていた。それは大阪電灯では当時かなりの批判が加えられていたにもかかわらず,工部大学校で藤岡の1年後輩であり,後年日本電気株式会社の社長になった岩垂邦彦の勧告に基づいてあえてこの方式に踏み切ったからであった。彼は工学寮同窓生の斡旋で明治19年6月アメリカに渡り,電気機械メーカーのエジソン会社に入っていたが,2週間の休暇をとってニューヨークに遊びに来ていた時,欧米視察の途にあった大阪の実業家外山脩造に紹介されることがあった。外山の視察目的は電気事業以外のことにあったが,設立準備中の大阪電灯から,電気関係の機械や技師についても調べることを依頼されており,当然岩垂が相談を受けることとなった。この時彼は交流高圧方式を推薦し,それが受け入れられて大阪電灯によるその方式採用が決定したのである。当時アメリカではこの方式が厳しく糾弾されており,その状況については「線夫[ラインメン]が自己の不注意により電柱上にて電撃[シヨツク]を受くることあれば,彼の惨劇を演出したるは高圧電気を採用したことに因る。市民の安全を保持する為め大いにこれに反対せざるべからずと称し,日々新聞紙上に……針小棒大に『電線上に人間のロースト・ビーフ出来たり』などと書き立てたりき31)」と伝えられている。また岩垂自身も次のように述べている。「直通低圧式ト交番高圧式トノ事ニ付内外国共ニ一時ハ世間ノ議論喧シク特に米國ニ於テハエヂソン氏ヲ大将トシテ同氏崇拝者ハ専ラウエスチングハウス氏(米國中始テ交番高圧式電灯機械ヲ売出セル会社の社長)ヲ攻撃シ或ハ……エヂソン氏ノ試験所ニテ交番電気ヲ以テ犬馬ヲ殺シテ其恐ルベキヲ述べ或ハ医学協会ニ交番電機ノ人体ニ危険ナルヲ説キウエスチングハウス氏ハ只管防禦ニ忙シク頗ル苦戦ノ有様ナリシ32)」。
 それにもかかわらず岩垂が交流高圧方式を推薦したのは,それが遠距離送電を可能にするものであり「特ニ我國ノ市町ハ一方ニ偏長セルモノ多ケレバ高圧式ノ流行ヲ見テ今後我國電灯業ノ益々長足ノ進歩ヲ為ス33)」という見通しに立ち,「直流派は交流側が1000Vを用ふるから危険だと攻撃しているが,直流でも当時ミュニシパル・ダイナモと称して街路照明は直流1200Vを用ひて直流接続の孤光灯を点火している等頗る矛盾があり,交流派の方が正しいと考へた34)」からであった。したがって「交流に対する攻撃も,学理上の立場からといふのではく,恐らく商売上の立場から反対されたのであったろう35)」と思い,エジソン会社に身を置きながら,その競争相手の会社の方式に賛成したのである。その提案を受け入れた大阪電灯は「最初より交流式発電機を採用し路線費を節約して電灯料金を出来るだけ低廉ならしめしかば,当時同社の料金は全国の電灯業者中最も低廉なりと称せられ,従って当時の電気事業者中最も優秀なる成績をあげた36)」のであった。
 かくして大阪電灯は交流案採用により優れた成果を収めたのであるが,それが他の電灯会社に直ちに波及した訳ではない。交流方式に対しては日本でも最初は批判的意見が強く,藤岡も反対者の1人であった。しかし,電灯需要の増加が極めて急激となり,供給区域も拡大させる必要に迫られるようになると,先に述べたように,直流方式では1つの発電所からの配電範囲が限られるところから,新たに拡大した地域に別の発電所を建設しなければならないことになる。加えて電力の需要の起るような市街地では,当時の火力による発電所の場合には,その適地を求めることが困難になっていた。例えば東京電灯の後に東京に設立された電灯会社の1つである品川電灯では「最初東京芝高輪に発電所を置きしが煤煙毛利邸を襲うとて同家より移転費を辨じ移転を要求したる為芝礼ノ辻に発電所を移せり37)」という場合も生じていた。この頃の発電所が出す煤煙・騒音・振動に対する苦情については,神戸電灯の場合に付近住民から抗議を受けたという記録38)があり,熊本電灯は発電所の敷地選定の際,しばしば予定地域で忌避されている39)。加えて当時の電気業界がノウハウの給源としていた欧米においても,同じ原因から交流方式への切り換えが進みはじめ,あれほど交流を告発していたエジソン会社自体も,交流発電機の製造に転換した。したがってわが国の電気事業界も結局は交流方式に移行し,東京電灯の場合は,従来市内5ヵ所に分散していた小規模直流式発電所に代り,浅草南元町に高圧交流式の大発電所を建設する計画を明治25年上期に決定し,30年下期にそれを完成させたのであった。これにともない,従来の発電所は変電所として利用されている。
 ところで,このようにはやばやと交流方式への転換に迫られるほど需要が増大したとすれば,電気事業のすべり出し期間に極めて好調に推移したことを思わせるが,しかしその間に曲折を経験しなかった訳ではなく,明治24年1月20日未明に,帝国議事堂の焼失があったとき,電気事業は危機に立たされることとなった。火災原因について衆議院書記官長は警官の上申に基づき「衆議員政府委員室の電気管の熱度暴騰し他の電管に移って竟に防火の手段なきに及べり」と議会に報告し,官報号外で公示したのであるが,このため火災に対する全安が売込み材料の1つであった電灯が,かえって危険視される事態を招いたのであった。当時の競合灯火であった石油ランプの業者は,この件を新聞広告に書き立て,電灯を廃止するものが続出するに至った。また宮城内にも取付けられて後光効果を高めていた電灯も,この火災が原因で廃止され,東京電灯を窮地に陥れることとなった。会社側はもちろん書記官長報告の訂正を求めて強く抗議し,それが全く応じられないとなると法廷にも訴えたのであるが,判決では報告に非は認められないと宣告されたのであった。このことは東京電灯のみならず,他の都市の電気事業者に影響を及ぼしたのであって,名古屋でも解約が相次ぎ,株式募集でせっかく満株になった熊本電灯の場合には,約定金を見切って脱退するものが出てくる有様であった。幸か不幸か帝国議会で再度の失火があり,その時は原因が煖炉にあったことから,電灯に対する不信が薄れ,宮城内の電灯も再点灯されるとか,あるいは名古屋では明治24年10月28日に濃尾大地震が起った時,電灯がかえって安全であると認められるとか,その後石油ランプや蝋燭が原因となって頻々と大火が発生するといったことがあって,再び電灯需要は増大傾向を取り戻したのであった。
 その後,日本経済は日清戦争による異常な好況期を迎えるが,反面物価騰貴が火力発電の燃料である石炭価格にも及び,料金の値上げに迫られる。さらに日清戦争後は経済が反動不況に陥るといった外部環境の変化にさらされるのであるが,しかし電灯需要はそのような中にあってもたえず増大の一途を辿り,これと対応してすでに転換の終っていた高圧交流方式と関連して,電源を遠隔地に求める水力発電に移っていく。とはいえ,ここまでに至る間にも,資金調達,交流方式への転換,帝国議会焼失などの問題に対処しなければならなかったのであるが,しかし障害はそれのみには止まっていなかった。後に蒐集した資料で知り得た範囲で,それらの障害を取り上げる予定であるが,その前に,電気事業が明治の末から大正期に入って大幅な発展を遂げるに当り,交流方式の採用と並んで重要な役割を果した水力発電について,その発端をとり上げておかねばならない。
 急流河川に恵まれるわが国では,水力発電のための電源地点が豊富に存在するのであるが,ただ,そのような地点は需要地である都市から遠く隔たる場合が多く,技術的に送電範囲が近距離に制約されていた問はそれが隘路となって,未開発のままに放置されねばならなかった。高圧交流方式への転換は,この隘路打開の第一歩となったのであるが,それでも大阪電灯開業の頃のこの方式の技術的水準は,たしかに低圧直流式よりは長距離の送電を可能にし,それによって既述のように,東京電灯が市内の分散していた発電所を1ヵ所に集中させるに至ったのであるが,しかし,わが国の山岳部水源地帯と大都市地域の問の送電技術は,当時はまだ知られていなかったのである。『明治工業史』には明治から大正初期の間が送電技術の相違によって次のように区分されている。
 第1期――明治20年から22年までの市内配電時代。電圧は110ボルトから3500ボルトまで。経済上送電距離は数マイルの範囲に限られる。
 第2期――明治22年から40年に至る近距離送電時代。電圧は1万1000ボルト以下で送電距離は十数マイルないし2,30マイルに及ぶ。
 第3期――明治40年から大正3年に至る遠距離送電時代。電圧7万7000ボルト以下。送電距離数十マイルないし100マイルに達する40)。
 この第3期の末,すなわち大正3年11月にはさらにレベルが上って,電圧11万5000ボルト,距離140マイルの猪苗代湖から東京までの送電路線が竣工し,わが国の大送電網時代の幕が開かれるのであるが,いま扱っている電気事業の出発期,上の区分でいう市内配電時代には,すでに述べた理由により水力は殆んど開発されず,これまでにあげた電気事業会社の発電所はすべて火力発電所であった。
 とはいえ,例外的に都市の消費地に近接して適切な水源を見出せた地点が存在しなかったわけではなく,そのような地点では,この時期においても水力発電所が建設されていたのであり,このように発電への水力利用に関する知識の蓄積のあったところから,送電技術の進歩を見るや,直ちに大規模な水力開発が開始されたのであった。これには,火力発電の燃料であった石炭価格の上昇という要因も関係していたのであるが,大規模水力発電所と高圧送電によるコスト低下によって,電灯料は大幅に値下げされ,それが競合灯火であったガス灯,石油ランプに大きな打撃を与えたのであった。
 後にはこのような役割を果すに至った水力発電についてその起源を求めるとすれば,京都府が明治18年から推進した琵琶湖疎水事業をとり上げねばならない。この事業は首都を東京に持ち去られて衰微の傾向にあった京都の再興策として京都府知事が計画したものであり,琵琶湖から京都,伏見を経て淀川に通じる運河を造り,その水流を利用して水車を動力とする製造工場を設け,同時に運輸や灌漑の便を図る目的で着工したものであり,工費には,奠都の見返りとして交付された産業基立金(30万円),国庫補助(15万円)に加えて府の支出金(15万円),上下両区民の課出負担(65万円)が充てられていた。
 工事がある程度進行した明治21年9月に至り,工部大学校土木科第6回卒業生で工事担当技師となっていた田辺朔郎(後年は京都帝国大学教授)と,市会議員の間から選ばれて工事事務委員となっていた高木文平は,水利事業調査のために渡米することとなるが,田辺が雑誌を通して,アメリカでは水力発電の試みのあることを知っていたところから,2人の関心は水利事業全般のほかに,この試みにも向けられていた。渡米後,2人は期待した水利事業参考例がすべて京都には適用できないと知り大いに落胆するが,しかし水力発電では貴重な知識を得ることになる。ただしそれは安易に得られたのではなく,また慧眼なしでは看過されかねなかったことは,次の高木の回想が示している。
或時スペルーグ会社の支配人ゼンクスといふ人と電気の事に就いて話して居りました時,同氏の申しますには,君達は水力を以て電力を発生せしめ之を電灯電力に使用する方法を求めて居られる様であるが,それは恐らく徒労であろうと思ふ。水力電気に就ては欧州諸国は勿論我が米国に於いても,未だ何等見るべきものはないのである。それを求めんがために貴重な時間と金銭を費すことは愚の極である。寧ろ早く見切をつけて帰朝された方が宜しかろう。然しどうしても断念することが出来ないならば,コロラド州のアスペン山中の銀鉱で,デブローといふ人が同様の事業の計画に熱中して居って,時々電気の機械器具を当方に購ひに来ることがある。固より十分の結果は収めて居らぬことだから,役には立たないまでも,幾分か参考になる事柄もないでもなかろうとの話を聴きました。
何しろ失望して途方に暮れてゐた際であるから,暗黒の中に一道の光を見出した気持で,早速旅館に立ち帰り,旅装を整へて,アスペン山に向ひました。さうして一万余尺の高峰アスペン山を越え,漸くにして求むる所のデブロー氏に面会致しました。これが忘れもせぬ明治21年の12月28日の午後1時頃でありました。ところがデブロー氏の兄弟は水力発電事業に熱中して,他人からは狂人扱にせられ,唯1人として事業の成否を真面目に注目する者なく,したがって誰1人訪問するやうな人も無かったので,私共が訪ねますと,よくこそ来れりといって非常に喜ばれました。
尤も当時兄デブロー氏は欧州渡航中であったので,弟デブロー氏が大変親切に種々細かい点までも教へて呉れました。同氏が申しますには丁度2ヶ月程以前に苦心惨憺の結果水力電気の発生の試験を完成したとのことであります。私共両人は不思議な機縁に依って未だ欧米の何人もが未知の事を拾ったのでありますから,全く鬼の首でも取ったやうに喜ばしく存じました。これがやがて琵琶湖疏水工事並に水力発電工事となったのです……41)。
 このように,アメリカでも一般にはまだ疎んじられていた方法をあえて持ち帰った2人の提案により,琵琶湖疏水工事は一部計画が変更されて蹴上に発電所が建設されることとなった。この発電所の一部は明治25年4月に竣工し,当時の出力は120キロワットでそれを直流500ボルトで送電したが,距離は2マイル以内に止まっていた。
 なお既述のように田辺は土木の出身であった。しかし彼の回顧によれば,工部大学校の頃は各専攻間の教科区分は余り厳密でなく,また電気に関しては2年先輩に藤岡という恰好の相談相手を持っていた42)。さらに工部大学校の教師の側でも,当時の日本の産業未分化の状況に照して,学生には「万般の事に当る覚悟を要する」という極めて所を得た勧告を与えていた43)のであるが,彼が発電に関係するに至ったのは,これらの要因が作用したからであろう。
 小規模とはいえ,当時としては画期的な蹴上発電所が完成した後は,それを契機として,先にあげた条件を満たす地域で順次水力発電が試みられるようになり,それによって電灯事業が起ったのは,箱根湯本(明治25年),日光(同26年),豊橋,前橋,桐生,仙台(いずれも27年),福島(同28年)などであった。しかしその反面では四季の推移にともなう河川水力の調査が閑却されていたため,次のような問題も生じてきた。
 小さな水力を利用して田舎の市や町の,主に電灯……に用うる小規模の電気事業が非常に多かった。処がその水力を開発するのに水量の調査には殆んど無関心であった。……中には初めから水力調査ということは考慮せずに流域の広さからか,または目測位でどしどし発電出力を決めて工事をしてしまい,成るべく安く作ることを考えて水路工事も極めて粗造であった。為に後で電力が不足するとか,或は一寸した洪水で水路が全く流されて了うのも非常に多かった。然かも所謂水力電気屋と称して田舎の無知の者をおだてて資金を出さしめ工事の請負をして利益を貧る者がなかなかあった。例えば浜松付近で灌漑水路を利用して発電することを計画したが,いよいよ工事を終って試運転の時が運悪く灌漑時季にあって電力が殆んど出なくて工事請負者が夜逃げをした。また岐阜県の岐阜から十数里の山奥の極めて小さい町では請負者が山から流れ出る渓流を利用して工事をしたが,冬になると殆んど水が出ない,そのため請負者はまた石油発電機を売り付けた。所がこれが故障を起して始終停電をして困って居った44)。
 広島水力電気会社は明治32年,黒瀬川筋に建設した水力発電所から1万1000キロボルトの高圧で26キロ離れた広島と9キロ離れた呉に送電を開始し,電気事業における市内配電時代から近距離送電時代への転換を画したことをもって知られているのであるが,それでも発電所建設に際しては,「計画の際流量調査,殊に灌漑時期の減水について考えなかったので,発電機250キロワット3台据えつけて渇水期には100キロ内外に下るというように変動が甚だしかった。ために唯一の大需要所である呉の海軍工009490では電灯が暗く,到底軍需という重要なる任務を遂行することが覚束ないとて,終に同会社からの電気供給を断わり,自家発電に改めたほどであった45)」。
 これで理解できるように,水力発電の場合においても,その発足後しばらくは以上の問題を抱えていなければならなかったのであるが,初期の電気事業がその他にも直面していた幾つかの障害については,章を改めて取り上げることとする。

 2.創設期の諸問題
 電灯点火の始まった頃は,わが国の主流灯火が石油ランプであったことは断るまでもない。それに対して電灯は光度が強く,風や雨で消えず,ガスや煤を出さないので衛生的であり,注油やランプ掃除の手間が省け,加えて焔を発しないので火災の危険がないといった利点を持っていた。また「欧米賛美の風潮と軽俳華美に傾いて当時の人心とは争って電灯の需要に向ってきた」と熊本電灯の社史に述べられて
いたように,電灯の普及に適合的な社会状況も生れており,それらが重なって電灯需要の増大をもたらしたのであろう。しかし電灯取付けは当時としては安い費用ではすまなかったのである。
表3は東京電灯の開業時営業案内に示される電灯料金であるが,ここに掲げられた燭力別のうちの中間,すなわち10燭力をとれば,普及度の高かったと思われる半夜灯では1灯で1ヵ月1円を要している。
表3 東京電灯開業時(明治23年)の1ヵ月点灯料金
 このほかに配線器具および電球の貸付費として1ヵ月1灯につき10銭を要し,加えて電灯取付けに際してはその工事費として1円が支払われねばならなかった。また電球についても使用者側の過失による破損の場合,取替えには1円20銭かかったのである。なお名古屋電灯の場合は,標準的と思われる10燭力の半夜灯の料金は1ヵ月1円20銭で東京電灯の場合より,いっそう高料金となっていた。このような費用を要したとすれば,それに応じ得る層がかなり限られていたことは当然であろう。電灯需要の伸びは確かに急激であった。東京電灯の場合,明治21年の開業時に123灯,翌年末には2851灯の取付数は,29年末で3万1711灯を数えるに至ったのであるが,しかしその時点では東京市の戸数は29万9千となっている。しかも電灯を取付けたのは官公署,銀行,会社,商店,興行場が多かったと思われるので,この年度の東京市の戸数と取付数を比較すれば,一般住宅での普及が極めて限られていたことが十分考えられるのであり,それを窺わせるのは,明治26年4月1日発行の「郵便報知」に掲載された次の記事である。
光明の進歩を言へば行灯[あんどん]より洋灯[らんぷ]となり洋灯より瓦斯となり瓦斯より遂に電気灯となれるなり。此進歩の諸階級は銀座街道を逍遙して一目の下に見るを得べし。乃ち新橋と日本橋の間洋灯を用ゆる家は数限りなく[・・・・・・・・・・・・・],瓦斯灯を用ふる家164戸電気灯を用ふる家113戸外に大電灯を店前に設けたるもの3戸あり。其中に唯1戸は今も尚ほ種油の光を用ふる家あり46)。(傍点筆者)
 『銀座百話』には明治23年頃,すなわち東京電灯営業開始後まだ間もない頃,京橋竹川町の料亭花月楼が広告文に「電気の光り西洋音楽の吹奏御余興も最も長きことと奉存候」と書いていたことが記されており47),電灯が客集めの手段となっていたことが理解できる。つまり,初期には料亭といえどもこのような手段としてのみ利用されていたのであるが,次の引用は,その後になっても電灯利用が十分に普及し得なかった事情をある程度明らかにしているようである。
瓦斯灯や石油灯から電灯へ転換した過程は,各種顧客層の異るに従って必ずしも一様ではなかった。元来瓦斯灯は料金が低廉な上に従量制を採用し,加ふるに瓦斯特有の表白色光を発するので,電灯に親しまない一般人特に呉服商,洋服商,理髪業等は最後迄瓦斯灯に踏み止まった。蓋し呉服商,洋服商は瓦斯の表白色光が電灯の赤白色光に比較して商品を美化し得るのみならず,其の瑕疵をも隠蔽する事が出来ると信じたからであり,理髪業は電灯の影は瓦斯灯より鮮明で仕事に不便を感じた為であった。
一方石油灯は油費が低廉で且つ意の侭に使用場所を変更することが出来る便利もあるので根強い顧客層を有し,特に大家族の家庭や下宿屋等に於ては容易に石油灯を電灯に転換しなかったものである48)。
 つまり商店といえども電灯を受入れない場合が少なくなく,まして一般家庭には浸透が困難であったことが知られ,したがって限られた富裕層のみが電灯会社の顧客になり得たのであるが,この場合でも自分の家のすべての照明を電灯によってはいなかったようである。明治34年12月のこととして『明治東京逸聞史』には次の例があげられている。
市川八百蔵が,この暮に引移る場所の家には,電灯を2階に付けよう。湯殿は付けなくともいいや,などと目下考案中だ。
 こんな記事が出ている。家中には電灯は付けず,それとランプとを併用することが東京でもずっと続いていた49)
 このように,電灯の普及度は石油ランプやガス灯に比しかなり劣勢にあった以上,電気事業者には需要の拡大が重要な関心事となっていた。特に電気事業にあっては,特色の1つが多くの固定資本を要することであり,したがって設備を遊ばせることは営業上絶対に避けられねばならず,顧客開拓にはたえず努力が払われていた。その場合重要な開拓先として常に関心が向けられていたのは遊廓での需要であった。東京電灯が5つの発電所のうちの1つを北豊島郡千束村に設けたのも,吉原での需要を狙ったからである。横浜共同電灯では上野吉二郎が再建者として名前が知られているが,彼の入社当時は度重なる停電も災いして電気の販売は不振を極め,稼動する機械は3分の1に止まっていた。その打開のため一括販売の可能な対象として着目したのは,やはり市内永楽町と真金町の遊廓であり,その苦心については次のように述べられている。(文中に「君」とあるのは,上野のことである)
折も折(明治27年頃)永楽町及真金町廓内へ瓦斯供給の問題が起きたので,並に機先を制して大勧誘を試みることとし,社員を派して当たらせて見たが,容易に出来さうにもなかった。……何分にも其の頃の遊廓というものは,世間離れのした所で,其処には世話役とか親分とかいふものがあって,それらが承知しない限りビクとも動かなかった。そしてそれら世話役とか親分とかいふものは,大した権勢のあったもので,会社員等と面接するにも,先方は厚さ7,8寸もあらふといふドエライ豪奢な座布団に坐り込み,此方を板の間に坐らせ,啣え煙管で大きく構えて「何の用か」といった調子であったから到底話合が出来ることではなかったのである。
そこで君は社員の士気を鼓舞する意味で自ら出馬して説得することにした。当時遊廓を牛耳って居た連中はナンバナイン[・・・・・・]の名で世界に名を売ってゐた神風櫻(山口トメ氏)百万長者の二葉樓(原田久吉氏)大親分の勢州樓(矢島幸三郎氏)等であった。
君は考へた。之は何んと言っても腕の世界のことであるから,中でも男を売って居る勢州櫻の親分に頼むことが一番いいと見当をつけ,早速勢州樓の主人に会って――現在石油を幾ら使って居るか,それと同値で電灯を点けさして貰へまいか,その代り廓内全部が1軒残らず電灯を使ふことを約束して貰へまいか――と談判した。初めはなかなか受付けなかった。然し段々話を進めて,電灯を使用せざる結果,万一にも火災を起し,3分の1なり半分なりを焼失すれば,遊廓全体が他に移転せねばならぬ事になる事情に付,利害得失を懇々説いたところ,先方も大いに意を動かし,話が滑らかになった。その上生国の話などが出て,「一体お前さんは国は何処か」など親しく話すやうになり,君が宇都宮であること,家の商売が本陣問屋であったことなどを話すと,矢島親分は大いに驚いて「実は俺も嘗て宇都宮辺をブラブラしてゐたことがあるが,その時作平といふ方に世話になったことがある。それがお前さんのおぢいさん[・・・・・]であったか」と感情が一時に融和して来て「それぢゃ何んとかしやうぢゃないか」といふことになり,遂に矢島親分が一肌脱ぐことになった50)。
 長い引用となったが上野の苦心の程は如実に伝えており,同時に遊廓がこれほどの苦心に値する供給先であったことも知り得るであろう。明治32年の時点で横浜共同電灯は送電路線を4路線設けていたが,そのうちの2路線がここに名前の出てくる遊廓に向けられた路線,すなわち真金町線と永楽町線であった。当時は東京でも,吉原に限っては,吉原壱番線吉原弍番線と1地域に2路線がつくられていた51)。
 供給先開拓の問題とならんで,濫觴期の電気事業は技術水準の立ち遅れにも苦しまねばならなかった。先に帝国議事堂焼失事件に関しては,事業者が強く抗議したことを述べたが,この事件だけに限っていえば,電灯が火災原因であったとは断定できないとしても,その危険性が全く無かったとはいえない状況もあったようであり,帝国大学では学生として,東京電灯では部下として直接藤岡の指導を受けた児玉隼015318は「当時の電灯は,何をいふにも未だ未だ不安なもので,床の下を焼いたり,仕事中袴を焼いたなどという滑稽な出来事ばかり多かった52)」と述べている。また電気事業の監督官庁であった逓信省に明治39年入省して監督指導業務に携わり,後に’名古屋大学総長となった渋沢元治は,議事堂消失を扱った記事の中で,「余は逓信省に入省して各地の屋内電気工事を仔細に調査することが出来たが,当時施設に用いた電線,絶縁物等が極めて幼稚であったことも事実である53)」と付け加えている。とはいえ常に焔を出し,しばしば床に落下して油を撒いた石油ランプよりは遙かに安全だったのであろうが,しかし低い技術水準は他にも問題を起しており,熊本電灯では「運転不馴等其他で停電はよくやったらしい。時の技師長小木博士なども随分夜中に敲き起こされたと云ふことで,時には間違ってお隣の将官さんの宅を敲き起すことなどがあって恐縮されたことも1度や2度ではなかったとの話である。そして故障修理にかかって漸く出来上った頃には夜が明けて了ふなどという滑稽なこともあった54)」。
 当時のこのような状況を特によく伝えているのは,横浜共同電灯の技師であった関沢茂吉郎の追懐である。再び長い引用となるが,低い技術水準で機器の操作にいかに苦闘したかがまざまざと伝えられている。
会社創業当時の明治21.2年頃の日本に於ける電気技術,特に電機製造方面といふものは,今から考えると実にお話にもならぬ幼稚なもので,故障があっても日本では修繕が出来ず,無理に修繕をすれば却って壊して了うといふ具合でどうにも斯うにも手がつけられなかった。
発電機械の如きは僅かに其のカタログを字引として運転して居たやうな訳で,ゼネレーターは焼ける油は飛ぶ,機械が壊れるといふ有様で,故障続出,停電又停電を繰り返すことのみが多かった。したがって需用家の信用が薄く,それに地方の勢力争ひが盛んで,殊更に意地づくで電灯を点けさせぬ連中などもあり,会社は不振に不振を深めて行くばかりであった。
停電は当然の事のやうに思はれたもので,最も同情の厚かった米國人などは,お客をするやうな場合には,態々会社に来て「今晩お客します。よろしいか」と念を押して行く。そこで当方も「宜しうございます」と確かに引受けて機械場に「オイ今晩は米人の所でお客があるさうだから気をつけ給へ」などと注意する。早速機械に油を注したり,掃除をしたり,万一にも故障の起らぬやうに気をつけるのであるが,間の悪いことには掃除をしたために却って故障を起すやうな事が多かったものである。
依って先づ,此の停電故障を少くし,世の信用を高めることが最も緊急事で,次には石炭を節約することと,特に蒸気機械に使用する油を節することであった。その頃の機械の油を喰ふことは果多しいもので,発電所の機械は油の中を泳いで居るとさへ酷評されたものであった。之は横浜共同電灯ばかりでなく,何処の発電所もさうであった。機械場といへば,油の飛沫で四辺の壁が塗り潰されて居たものでその結果何処でも彼処でも火事を出した。機械はいくら古くなっても,修繕が容易でないので,大抵放りっぱなしで其の為めに事実油を浴びせる様に注がないと廻らなかったのである。
其処へゆくと西洋人の技師は流石に手に入ったもので,上野さんと一緒にグランドホテルの自家用発電所へ見に行った時,技師は調子よく廻して見せ,ちょっと上野さんの胸ポケットから真白いハンケチを取り上げて,機械をスルリと拭いて廻して見せる,そこでヂェスチュア宜しく一礼して,それを上野さんに返す。不思議なことに少しもハンケチが汚れて居ない。「まあこの通り,我々がやれば油気が尠くても大丈夫ですが如何ですか」といふところであったのだろうと思はれる。(中略)
又,当時汽罐への給水は,横浜水道から取って居たが,夏などになると,減水の為めに時々困った。さういふ場合には大急ぎでボイラーに入れる水を買集めねばならなかった。水が切れると灯が暗くなるから直ぐ需要家から怒鳴って来る。その為上野さんは家に帰ることが出来ず,その侭会社に泊り,私共も同様に疲れてしまって帰る勇気もなく,テーブルの上に寝転んで夜を明かすこともあった。こんな苦労が3年も続いたのである55)。
 最後の部分は機械自体というよりは,それが置かれていた外部條件の問題であり,したがって機械のみならず外部條件においても当時は低劣な水準にあったことになる。そのため停電が頻発して需要が停滞し,そこに帝国議事堂焼失事件に追い打ちをかけられた横浜共同電灯は支配人に上野を迎えたのであるが,その上野もしばらくはここにもふれられているような努力を重ねなければならなかった。それによってやっと苦境を脱したのであるが,そこではまた次の技術的問題に逢着することになる。
苦心の甲斐あって,其のうち機械が一杯になった。当時は何処の会社でも同じことであったが,オーバーさせなければ儲からなかった。その為には随分と機械を虐使した。機械は幾度も幾度も焼けた。併し限りある機械で,限りなく増えて行く需要を充たして行くのであるから,ピークになると,何をしてもヴォルテージを下げねばならなかった。すると需要家から直ぐ文句が来た。「オイ何をしたんだ,電気が暗いそ,直ぐ来て呉れ」といふ催促だ。此方はチャント原因が解って居ることだから「ハイハイ,今直ぐ行きます」と返事だけ早速して置いて,ゆるゆると出掛ける。そして其の家に行ってヴォルトメーターを出し,愚図々々してゐるうちに,漸々明るくなって来る。其処でヴォルトメーターを当てて「90幾らあるのですから,まあ此位は我慢して頂かなくては」などといふ,成る程見るともう明るくなっている。「不思議だなァ」,君等が来ると明るくなるが何といふ訳かなァ」などと需要家では不思議がって居る有様だった56)。
 このような糊塗策や既述の遊廓開拓などで利潤が得られてからは,機械も順次増設されたのであるが,それでも余裕を持たせた増設ではなく,需要急増の時にはやはり機械が酷使され,明治31年には発電機がついに大爆発を起し,破片が民家の尾根を破るとか,120間離れた公園に落下するという突発事を招いている57)。
 以上から,日本における初期の電気事業が,内部にいかなる技術的問題を抱えていたかを知ることができるのであるが,それに加えて電気に対する外部の理解不足という問題も,たえず生じていたのである。もちろん電灯が文明開化のシンボルとして,時代の人気を博した面のあったことも事実であるが,その反面では,電気に関する無理解から事業の成立を脅かしかねない事態を招いた場合も少なくなかった。一般民衆の間での理解不足は十分想像されることであり,例えば熊本電灯の創設期には,初めて電灯の引かれた23連隊で「毎夜々々兵隊がうなされる。やれ化物が出るの,崇りがあると云ふことになって一騒ぎした揚句,それは電灯を引張った為であるとなった58)」と資料は記している。
 加えて無理解はこのような段階のみに止まったのではなく,当時の日本社会の指導的諸部門においても見受けられたのであり,先に述べた帝国議事堂焼失に際しての書記官長報告はその一例であり,わが国における最初の電気事業営業許可証,すなわち東京府知事が明治16年2月15日付をもって東京電灯に与えた許可証には「書面会社設立願之趣ハ追而一般ノ條例制定相成候迄相対ニ任セ候事」と書かれていた。つまり許可を求められた側では,許可すべきか否かの審議に必要な知識や準備が全く欠けていたことが,この文面に表れている。
 特に顕著な場合として挙げられるのは,電気の盗用に対する無罪の判決であった。明治34年4月11日,横浜電灯では屋内電線に針金を接続して無断点灯していた者を電気の窃盗として横浜地方裁判所に訴え,翌年7月1日に有罪判決が下されたのであったが,被告が東京控訴院に控訴した段階では,電流はエーテルの作用に基因して起るものであり,したがって有体の物質的物件とは認められないという理由から,無罪という逆転判決が下されるに至った。これが最終決定とすれば,電気事業者は電灯料金徴収の基礎を失うこととなり,財政的に破綻するほかはなかったのであるが,横浜電灯が結局大審院に上訴して有罪という再逆転判決を勝ち取ることができ,業界はやっと愁眉を開くことができたのであった。
 一般的認識がこのような状況であったことから,電気事業に関しては,その監督や指導に当る特別の行政部門もなく,問題のあった場合には都道府県のレベルで適宜処置をしていたのであるが,漏電や電撃による人身事故などの心配が感じられるに至り,警視庁が明治24年に電気営業取締規制を公布することになった。しかし,これはその名称の示すように取締法規であり,明治29年に至って,責任は警視庁から逓信省に移されるが,それでも電気事業に対しての改革は保安取締が中心であった。保護助長を必要とするという認識が生れるのは明治40年代に入ってからであり,42年に逓信省に電気局が設置され,44年には保護助成を意図した電気事業法が公布されたのであった。明治27年10月27日に芝公園内紅葉会で開催された第6回日本電灯協会の総会では,土地収用法に電気事業に要する土地も加えられるべきことが,出席した電気事業関係者によって強く要望されているが59),その要望は,この電気事業法の成立によってやっと叶えられることとなった。
 また歴史的に有名な広島水力電気会社でさえ失敗に導いた問題,すなわち水力発電の計画に際して知悉されていなければならない河川水量の変化に関しては,逓信省に臨時発電水力調査局を置き,国家事業として全国河川の水力調査が開始され(明治43年),その結果を公表して同じ失敗の再発を防止する措置が取られたのであった。

 Ⅲ 展開過程における諸特質

 1.私企業としての課題

 東京電灯創業時は,政府が官業払下げを進めた時期に当っていた。このような時代環境に加え,電信以外の電気利用には一般的認識は余り得られてはいなかった。つまり時代環境と認識の不足という2要因が重なっていたとすれば,電気事業が国営化される可能性は乏しかったことになるが,反面私企業としては,既述のような経過からその発足を見るに至ったのであるが,それを齎した要因に関し,これまでに扱った点も含めて,手短かな概要を示すとすれば,次のように整理できる。
 まず国家の干与は副産物としての技術者養成に止まっていた。現代流に言えば,技術移転の部分的役割を担ったことになるが,しかし伝達者には幸運にも優れた教師を得たのであった。彼らの弟子は来日当時の恩師と同様な若年期に,わが国電気事業発足期における重要な足跡を残している。藤岡が進取の気性と行動力に富み,田辺,岩垂が欧米でもまだ評価を得ていなかった方法に着目したのは,彼らの性格や素質にもよるのであろうが,ひとつには恩師の感化があったからであろう。藤岡,田辺はすでに斯界の泰斗となった晩年に至っても,エヤトンやダイエルに尊敬の念を寄せている60)。本稿では取り上げる余裕に欠けるが,藤岡は電灯事業を一応軌道に乗せたあと,電気鉄道の実現と電球の国産化に乗り出し,電球については輸入品に対抗できる製品製造に苦心を重ね,多くの私財をそれに投じている。また彼と一緒に教壇に立った中野初子は,東京電灯の浅草集中発電所用として,当時欧米でも珍しかった200キロワット発電気機を完成させている。これは故障も多かったが,当時は適当な材料すら入手困難であったにもかかわらず,その国産化に取り組んだのであった。
 このように,彼らはあえて至難の業に挑む気風を具えていたが,しかし,そのため余りにも時代の先を進むこととなり,一般社会からはしばしば理解されないこととなる。ただ,欧米での滞在経験があるとか,欧米との接触が多いなどの理由からその事情によく通じている者,あるいはそのような人達との言をよく受け入れ得る人々(東京での矢嶋作郎,大倉喜八郎,京都での北垣国道,高木文平,名古屋の丹羽精五郎,宇都宮三郎,三浦恵民など)が彼らの支持に廻ったところから電気事業の創設を見たのであるが,これら支持者の間からは,矢嶋のように自らも電灯普及の先導的役割を果す者も現れたのであった。先に名前をあげたギャツは,インドネ
シアの小都市のリーダー層が伝統の継承者と新しい文明の仲介者という2つの層に分化していることを指摘し,後者をインテリゲンチャーと呼び,それが変革の推進力となっていることを説いているが61),日本でも電気事業の支持者は当時次第に形成されるようになったこのインテリゲンチャ62)の層から出現したのであった。
 次いであげられるのは既存社会関係の作用である。前記のように,社会層としてのインテリゲンチャから支持者を得たのは,この関係を活性化させたことによる。既存のものを伝統というのであれば,伝統的関係はすべて近代産業の発展を阻害したとは言えないことになる。東京電灯の場合は逆に,それを生かすことによって明治16年に創業に漕ぎつけたのであるが,もしそれが遅れていたとすれば,他産業に何らかの影響を与えたことと思われる。既述のように,大阪紡績は電灯の採用によって経営の危機を乗り越え,それは他の紡績会社も見習うところとなったのであるが,採用時期がもっと遅かったとすれば,紡績業は事実とは異なった過程を辿り,あるいは国際競争からも落伍することもあり得たであろう。
 なお伝統的関係の活性化は資金調達にも及ぶのであるが,これについてはすぐ後にふれる予定である。
 以上の状況の下で私企業として出発したのであるが,それはまた私企業なるが故の困難や利点と欠点を生み,私企業なるが故の過程を辿ることになる。資金調達にはしばしば困難がともなった。前記の支持者の多くは発起人グループに加わり自らも出資に応じたのであるが,電気事業では固定資本比率の高いことが一つの特徴となっており,ほかにも多くの出資金を必要とした。
 東京電灯では経済事情の好転によってやっと調達が可能となり,名古屋では勧業資金,京都では町組内の共有金とか水力発電の場合には産業基立金,上下区民課出負担金をもって資金の一部に充当されねばならなかった。また熊本では電灯に関する人気が国内に行き亘った後に事業設立が計画されたにもかかわらず,帝国議事堂焼失の件が起きるや,たちまち資金調達計画が暗礁に乗り上げていった。このほか,規模拡張に際しての追加資金に関しても苦心を要することがあり,東京電灯の場合,最初の増資に先立って行われた株主への配当に033072配のきらいのあったことが後に指摘されている63)。このような糊塗策を講じなければ,株主が増資の払込みに応じなかったからであろう。
 また帝国議事堂焼失の際には,経済不況下に火災が発生した吉原一帯に巨額の未収金が生じるという事態が重なり,矢嶋は経理破綻の責任を負って社長を辞任したのであるが,このように設立後もかなり苦しい経理状態にしばしば落ち込んだので
あった。とはいえ,それを支える出資層が存在したことにより,この状況を乗り切ることができたのであるが,この出資層に関し『電力百年史』は,東京電灯設立時の株主名簿から資金調達が「秩禄処分によって交付された旧大名,上層士族の金禄公債,金禄公債を基に設立された国立銀行の資金,富裕な商人,地方豪族の出資64)」によった旨を述べており,金禄公債によって民間に流出した資金が大きな比重を占めていたことが理解できる。
 この資金は明治政府が日本を近代社会に転換させるに当って支払わねばならなかった代償だったのであるが,しかしそれが電気事情に投じられていたのであれば,結果的には有効に利用されたのであり,したがって日本社会の損失とはならなかったと見ることができよう。
 電気に対する認識欠如が一因となって私企業の道を歩んだ電気事業は,それだけに社会的評価,特に官職関係者のそれの改善にも取組まねばならなかった。藤岡が白熱灯の事業化を志したとき,矢嶋作郎らの事業家に仲介の労を取ったのは,工部大輔・工部卿・参事院議官といった要職を歴任した山尾庸三であり,名古屋電灯の設立は愛知県衛生課長丹羽精五郎,工部省技師宇都宮三郎の勧告によるものであった。また京都電灯の設立では当時の京都府知事北垣国道が推進役となり,このほかに,熊本電灯の設立準備中に資金調達の齟齬が生じた時,師団参謀長の坂本純059130少将が支援を与えて危機を救っている。したがって,官職にあるものの中にも電気事業の理解者が皆無だったわけではない。
 しかしそれらは極めて少数に止まり,一般には無理解や軽視に強く傾いていたことはすでに述べた通りである。電灯に対する人気がいかに時流に乗っていたとしても,東京電灯会社設立時の人員規模は,社長1人,委員長3人,技師長1人,副支配人1人,手代5人,気圧師3人,給仕1人,つまり社長以下総勢わずかに15人にすぎなかった。
 官尊民卑の気風が,現在とは比較にならぬ程強かったと思われる時代にあって,民間のこのようなちっぽけな企業の営む業務に対し,官憲側がどのような態度で臨んだかは想像にかたくなく,「当時の取締規則は民間の事業開発に不適当なことが多く,特に地方などの官憲が規則に拘泥して恰も巡査位の頭で之れに臨まれるには困らされました65)」と,その頃の関係者が思い出を語っている。先に横浜共同電灯の場合についてふれたと同様に,藤岡を技師長とした東京電灯でも「電灯をともす家々が次第に殖えて行ったが,時に消えたり,つかなかったりするのにまごついて,俄かにランプよ燭台よと騒ぎもし,元の瓦斯に立返る家もあった66)」と雑誌に書きたて
られていたが,それに対し官庁側からいかなる扱いを受けたかは,次の藤岡についての引用で語られる通りであった。
此の当時は電気設備は誠に不完全で電灯は毎晩停電するので,博士は宮内省や警視庁によく呼び出されて御目玉を喰ったと云って弱って居られたこともあった。当時は博士すら瓦斯は消えぬもの,電灯は消ゆるものだなどと放言して居られたこともあった67)。
 一方民間の側でも「洋灯[ランプ]より高い瓦斯,瓦斯より更に高い電灯68)」に反感すら感じるものも少なくなかったようであり,大臣の宮邸に電灯がつくという風評のあったとき,ある雑誌には「甚だ以て贅沢千万の至りならずや」という時評が掲載されていた69)。藤岡を叱りとばした官史や警官も,個人としては電灯をひく経済的余裕に全く欠けており,それが藤岡に対する態度にはね返ったとも推測できよう。
 このような一般的無理解への対応策の一つは,電気事業界を糾合した組織である日本電灯協会の設立である。これは帝国議事堂焼失事件を契機として,藤岡の主唱により明治25年4月に結成されたものであるが,次の記述はこれまで述べたところと重複するきらいがあるとはいえ,どのような状況認知から協会設立の必要が感じられたかをよく伝えている。
……明治25年頃は……朝野共に電気に関する知識に乏しく,従って事業に対する理解を欠き,又許可及び取締等に就ても僅かに警視庁令があったのみで,拠るべき何事の規定制限が無いため,到る処に競願が籏出し,特に電灯供給に就ては,容易に世人の認識を得る能はず,偶々明治24年1月20日,帝国議事堂が出火して,其の原因が漏電にありと風説さられた為め,畏くも,宮城内の電灯点火を中止された有様であったので,此の機に乗じ,其の商売敵である石油商や〓燭屋等の逆宣伝が甚だしく,事業自らの保護発達の上に頗る困難を感じて居た時代で,勢ひ之れが発達を図る為には,同業者相倚り,以て自ら其の保護助成に当らなければならぬ状勢に在った70)。
 かくして結成された日本電灯協会は,横浜共同電灯の支配人であった上野吉二郎宅に事務所を置き,同年12月には宮城内再点火の請願を進めたのであった。この組織は後に結成された類似組織である中央電気協会,九州電気協会と大正10年に合併して社団法人電気協会となり,永く電気事業の業界組織の役割を果したのであった。
 電気事業が私企業であったことから辿った経路については,さらに需要開拓と業者間競争をとり上げておかねばならない。私企業である以上,経済的経営基盤の安定と拡大を図ることが最大課題であったことは断るまでもない。そのための一つの
対策がコストの低減であるところから,大阪電灯は交流方式の採用に踏み切り,横浜共同電灯は機械油の節約に努めた後,石炭価格が日露戦役の影響によって高騰してからは,火力発電から水力発電の転換が一般の趨勢となっている中にあって,この会社のみは水力発電では一層多額の資本が固定化するのを嫌い,従来捨てて顧みられなかった粉炭を利用して火力発電を続けるといったように,各社それぞれの工夫がなされたのであった。
 大阪電灯の交流方式は他の企業にたちまち波及し,水力発電を嫌った横浜共同電灯は最終的には東京電灯に合併されるといったように,成果もさまざまに異なっていたのであるが,このように各社それぞれの対策を競い合った点では,私企業ベースによる自由競争のメリットが生かされたと見ることができるであろう。しかし他にどんな手段が取られたにしても,何にもまして重視されたのは顧客開拓であった。既述のように,濫觴期の電灯は需要の伸びが急速であったとはいえ,それに要する費用の関係上,競合灯火であったランプとガス灯の圧力に曝されねばならなかった。それに対抗して非常な努力を払わねばならなかったことは,既述の藤岡,上野の例に照して十分推察できるであろう。日本電灯協会が設立されたのは,この競合灯火対策の意味も兼ねていたが,このような努力の結果,日本経済が,日清戦役後の反動不況,明治34年の銀行恐慌,日露戦役後の再度の反動不況といった落ち込みを経験した中にあって,電灯需要はコンスタントに増大し,電気はむしろ不足ぎみの状況さえ迎えている。
図1 発 電 力
 ところで,これまでは送電技術上の時期区分から言えば,市内配電時代およびその時代を脱して,近距離送電ができるようになった時代を主な対象としてきたが,この対象時期の終り頃からは,一方で石炭価格が上昇し,他方では送電技術がいっそう向上して,遠距離送電技術が確立されたことにともない,電気事業界では一斉に大容量の水力発電の開発が進められ,図1に示されるように水力が火力を次第に凌駕する時代に入る。これには電気事業の公共性が第次に認識されるようになって,東京市(明治40年),山形県酒田町(同41年),高知県(同42年),仙台市(同43年),大阪市(同44年)などでは電気事業の公営化も起り(ただし業者数の上からは常に民営が9割に近い比率を占めていたのであり,また公営化の多くは民間業者の買収によるものであった71))。国家側の電気政策も保護助成に傾いてきたことも関係していたのであるが,このように水力発電が開発されるとともに,発電コストは大幅に低下することになる。これによって電気料金の値下げとなったところから,ガス灯と石油ランプは電灯に対する利点を失い,照明市場での主導権を殆んど電灯に譲り渡し,その結果電灯に対しては「俄然新増設の申込は殺到し,内外線工事の如きは如何に工事を急いでも申込後2,3ヶ月を経過するに非さればその需めに応じ兼ねる程72)」となるに至ったのであった。したがって図2のように電灯需要家数の増加傾向は,この頃から一変することになる。これと併行して,電気は灯火用に加えて,電鉄向けを初めとする動力用としての用途への需要も漸次加えるようになっており,例えば東京電灯は東京市街鉄道に500キロワットという大口電力供給を明治36年から開始したのであるが,このような需要拡大の機に乗じて新規参入を図る業者が相次いで出現し,それがまた市場開拓のために電動機の普及に努め,そのためこの前後の工場動力の電化を示す表4にみられるように,明治44年以降から電動機は飛躍的増加に向うことになる。私企業ベースに立っていた電気事業ではこれも当然の成り行きであったということができよう。
図2 需要家数
 これら参入業者をも含めて電気事業界の盛んに行った水力発電は,スケールメリットを含めて規模が大型化することになり,したがってそこでは電力の極めて大量の生産が行われることになる。しかし他の業種の生産物の場合と異なって,電気は貯蔵保管のきかない製品であり,加えて大容量水力発電では設備資本が莫大な額に達し,設備完成には長期の年月を必要とする。それだけにいったん完成すれば,需要開拓をいっきょに進めることが急務となってくる。既述のように觴傷期においても顧客開拓には苦心を要したのであるが,遠距離送電時代に入ってからは,それが特に著しくなったのであり,したがってさまざまの工夫と努力が試みられたのであった。例えば明治39年設立の旭川電灯の場合,200キロワット程度で十分と考えていた株主や社員の忠告を無視し,44年に石狩川支流に1500キロワットの発電所を建設した久保社長は,次のような一計を案じたのであった。
氏〔=久保社長〕は早速市街適当の場所に自分で工場を立て,電力を利用して,製材,柾割り,木工,精米,製粉業を始めた。それが相当に利益をあげたので,町の有志達からの希望もあって,乞わるるままに之等工場を概ね譲ってやった。久保社長は又,商店目抜の場所の洋品店,食料品店,青物屋,理髪店等の平素懇意な所に内々100燭光球を無料で貸してやった。後適当の時期に「あの球は会社に無断で貸したので,知れると具合が悪いから返して下さい」と出る。「いや!あれを取られると店は火の消えたように寂びれる。料金を出すからあのまま継続させて下さい」と云ふ。思ふ壷である。為に店も街も明るくなった……かやうな調子で電灯電力の需要は益々増加し,遂に久保氏の云う「電力はいくらあっても足らない」状態となった73)。
表4 工場動力電化の推移
 また,わが国の5大電力の1つとなった宇治川電気は大正2年に営業を開始したのであるが,後の社長林安繁の回顧によれば,当初は需要開拓のために次のような苦心を必要としたのであった。
当時大阪方面の工業家の状態は如何であったかといふに,個人経営の小工場にては殆んど全部石油エンヂンか又は瓦斯エンヂンを用ひて居り,紡績会社のやうな比較的大きな工場では蒸気機関に依存し,動力として電気を利用することは,尚ほ未だ考へてゐない時代であった。これは独り工業家許りでなく,大阪電灯や大限市電のやうな電気専門のところでも,電灯と電車の経営にのみ没頭して,動力の供給の如きは,何等重きを置かず,寧ろ眼中になかったのである。従って一般工業家の電気に関する知識は,皆無といってもよい位で,電気といへば一筋に危険なものと思い込み,中には水の力で電気が起るのかといって,如何にも不審さうに質問する者もあり,斯かる連中に電気を供給することは,今日から見れば想像も及ばぬ苦心を要したのである。されば当社の社員は先づ電気に関する一般知識から吹き込み,一通りその理解を与へた上で,米屋ならば米1俵精白するのに,石油エンヂン,瓦斯エンヂンと,電気動力との料金を比較し,並にその使用が簡便なることを説明したのである。その苦心容易ならざるものがあった。
それでも尚ほ電気を使用するものなきため或は湯屋へ出掛けて,水力電気の効能を述べ,番台の横の電灯を指して「この電球は石炭から起す電気だからくすぼるのだが,水力で起す電気を使ふと,何時でも水の如く澄んで,くすぼるやうなことは絶対ない」などと説明して,湯屋の主人を感心させたという嘘のやうな話もある……当社としては最初の営業であり,又水力電気の供給は関西方面ではこれが嚆矢であったので,営業所員は1馬力でも余計に契約して成績を上げようと努め,日曜,祭日も奔走に終始し,昼夜兼行で働いた。殊に当時は会社,工場の分布図も無かったので,煙突が立って煙があがってゐる所を見付けると,直ちに盲滅法に飛び込んで勧誘に努めたのであった。1日社員が長柄の提防の上に立って西の方を眺めると,大きな煙突から煙を吐してゐるので,早速出掛けて見ると,工場ではなく,長柄の葬儀場であったといふこともあった。……配電課の設備は福中技師が主任となり,モーターの取付,内線工事等一切を会社に於いて負担し,或は試送電の名の下に,約10日間位電気を無料にて供給し,その成績を示した上で,契約を結んだこともあった。殊にまた最初のうちは,動力供給に関する官庁への届出も,会社の方で代弁したのであった。……中橋社長も……事務所は手狭であったので,別に大川町……に家を借りて毎日其処に出張し,社員を督励された。その時分社長の椅子の後に,大阪全市の地図が掲げてあって,送電の予約申込が整ふ毎に,一々報告に及んで地図の上に1つ宛赤丸を付けた。社長は始終その地図を眺めて,赤丸が殖えると「もう是れだけとれたか,今後も確乎[しつかり]頼むよ」と云って,非常な上機嫌であった74)。
 この記述からは先にふれたように,動力用という新たな用途開拓が本格化したことが窺えるのであるが,開拓の別の方向として大企業による小企業の買収,合併もたえず行われていた。その過程は本稿末尾に掲載した「電気事業者の沿革」から知られるように,極めて複雑であり,ここではそれを扱う余裕に欠けるのであるが,結局それによって,東京電灯,宇治川電気,日本電力,大同電力,東邦電力という戦前におけるわが国の5大電力の形成に至ったのであった。電気事業が大容量の水力発電が可能となってからは,次第にスケールメリットを追う方向を辿っており,加えてそのスケールが拡大に次ぐ拡大を続けている以上,資本調達力の劣る小規模業者は,大規模業者に併呑されるほかはなかったのである。大規模業者は合併によって一層のスケールメリットを獲得すると同時に,併合された小規模業者の地盤内で新たな需要開拓を進めたのであった。例えば火力発電を貫き続けて来た横浜共同電灯は大正10年に至ってついに東京電灯に併合されたのであるが,後者はそれによって川崎・横浜の工業地帯という電力の大消費地を自己の地盤に編入できることとなった。
 しかし買収・合併による整理統合は決して順調に進んだわけではない。需要開拓への必死の努力は,他杜の地盤浸入という形をとることもあり,勢力の拮抗する業者相互がそのため激しい競争をすることも少なくはなかったのである。そのような例としてあげられるのは,明治末期から大正6年まで東京で続けられた3電競争であり,これは東京電灯,日本電灯,および電気事業を公営化していた東京市との間で行った熾烈な顧客争奪戦であるが,その概要は次のように紹介されている。
東京市電は所謂100万灯計画の下に主に山の手方面で,また日本電灯は下谷,浅草方面で,それぞれ東電の地盤に切込んだのである。……競争地域内に於ては引込配電線(普通の配電線は東電は架空線,他は地中線)が極端な家では1軒に3電別々に文字通り蜘蛛の巣の如く張り廻らされる有様だったが,それよりヒドイのは新規需要家の料金が徴収されなかったことだ。東電は大正3年上期から4年上期までに約50万円の延滞料金を擁したといふから物凄いはなしである。それでも賞金付で新規獲得競争を行ったので,3電の従業者間に暴力沙汰さえ起る始末となった。こんな反面に競争区域外のサーヴィスは段々悪化し,需要者の不満が漸次高くなったのは蓋し当然なことであろう75)。
 ここで書かれているように,区域外のサービス低下の反面,区域内では1軒の家に3社が配電設備をするという過剰投資を招き,加えて未収料金50万円というのは,大正3年上期の東京電灯総収入360万円の7分の1近くになり,相当な出血であったことが理解できる。ただし電灯の普及は全体としてはいっそう促進されたのであった。またここでは暴力沙汰のこともふれられているが,東京電灯の当時の一社員が残した次の体験には,その模様が如実に語られている。
大正3年に巣鴨に出張所が新設された。この頃が有名な「3電競争」の時代であった。今の人達にはぴんとこないが暴力を半ば公然と企業の拡張に使って,毎日のように斬ったはったの血なまぐさい事件が起った。巣鴨付近はその主戦場であって,新設された出張所はこうした事態に備えるためのものだった。そしてどうした廻り合せか私がここの主任に任命された。……その頃「3電」というのは東京電灯,東京市電,日本電灯……のことであって,この3者が当時何等の協定もなく相噛み合って,この付近を中心に既設電灯の需要家をむしり合っていたのである。市電の如きは,東電の需要家の1灯を切替える毎に25銭の報償金を係員に出した。需要家には切替に応ずると半年間無料にすると言って勧誘するのである。日当50銭程度の時代なので,10灯勧誘すると2円50銭になる。東電の地盤はたちまち荒され出した。さて切替実施の段取りであるが,先ず需要家の承諾を得ると,「明日午前9時何々町何番地の何其家の電灯を切替えるから同時刻に御立合いを乞う,お立合なき場合は異議なきものとして当市にて勝手に取外ずす云々――」というような意味の通告を書留郵便で,わざと指定時刻が過ぎてから着くように出すのである。泡をくって大急ぎで現場へかけつけてみると,もう切替えはとっくにすんだ後であって,むろんそのまま引きあげるわけには行かない。殺気立った雰囲気の中で二言三言応酬があって後たちまち血の雨が降るといった寸法である。……しまいには警察でも,電気やの喧嘩にはかなり大規模なものでも,あまりとり合わないようになってしまった。……又大塚の高等師範(今の教育大学)の寄宿舎の切替え騒ぎの時には,現場にうろうろしていた市電の事務員を電信柱に縛りつけたところ,通行人がこれを交番へ通報して全員警察に拘引された。千駄谷では遂に8人が戸板で日赤病院へ担ぎこまれるなどの事件があった76)……。
 この競争は,大正6年になり奥田義人東京市長が斡旋に奔走したことによって,3電協定が成立してその幕を閉じたのであるが,同市長は協定案が主務省から認可を得た当日に没しており,斡旋に際しての心労がその死因といわれている。

 2.自由競争原則による循環過程
 以上の泥沼のような競争は,需要開拓の苦心と同様,背後に余剰電力の消化という問題を抱えていることによるものであった。需要が旺盛となり,電気事業が魅力的企業であると見做されるようになると,先にふれたように新規参入も盛んになり,また既存業者も新たな電源を開発したのであるが,しかし反面では,その結果として電力の過剰供給が生じるに至ったのである。
 東京電灯は山梨県桂川水系に,当時としては最大容量である出力1万5000キロワットの駒橋発電所を明治40年に,出力3万5000キロワットの八ツ沢発電所を大正3年に完成させた。さらに,同年には猪苗代水力電気会社による出力3万5000キロワットの発電所が竣工し,これも当時では画期的といわれた1万5000ボルトの高圧で145マイル隔った東京に送られてくることになり,その電力は東京電灯が購入しなければならなかったので,その消化に懸念が懐かれていた。一方日本電灯は桂川電力株式会社から桂川水系の鹿留発電所の電力を購入していたのであるが,これには最低使用量が定めらていたので,是非その消化を急ぐ必要に迫られており,このような事情から,いずれの側も料金の切下げを厭わなかったのである。
 ところで競争に終止符が打たれた時,この電力過剰は急速に解消に向っていた。欧州大戦中の好景気を迎え,電力需要が激増したからであるが,それはついには次の宇治川電気関係者の回想に窺われるような電力飢饉さえ生み出すようになる。
大正8年頃の電力飢饉は全国一般であったが,特に京阪方面に於いて甚しきものがあった。当時如何に動力用電力が不足して,各方面の事業家を悩ませたかは,僅かに1馬力の使用権に100円乃至それ以上のプレミアムが付いたことに依っても,その一斑が想像されるのである。即ち各工場では折角電動機を据付けても,電気会社からは肝腎の動力を送って呉れないので,余儀なく此種の權利料を支払って,動力の獲得に努めたのであった。又当時京阪地方の動力用電力は,頻々として停電したが,率直に云へば停電したのではなく,寧ろ停電させたのであった。……勿論斯くの如きは電力会社として好んで為すべきことではないが……如何とも仕様がなく,甚だ不本意ではあったが,思ひ切って此の処置を執ったのであった。……当社は大阪電灯に交渉して,点灯時間の短縮を要求し,点灯時の電圧を下げて,動力用電気を捻出せしめた位であった。従って電灯も非常に暗く,市民の間に絶えず苦情が起ったのも,無理からぬことであった79)。
 この電力飢饉以後の展開については私企業としての電気事業が辿った経路に,次のような一定循環が見出されることに注意を向けておかねばならない。まず事業の創設直後には,生産される電力消化のために顧客開拓に多くの努力が払われる。それが功を奏して需要が急速に増大すると,供給の方が不足するようになり,例えば36頁でふれたように新増設の申込みが殺到し,引込配線工事は申込後2,3ヶ月も待たせるようになる。反面それは業者の新規参入や新たな電源開発を誘発するようになるが,しかしそれが余りにも盛んとなる結果,電力は逆に過剰状態に陥るようになり,その消化のため,また新たな需要拡大に腐心する。これは一方では簇生した業者間の熾烈な顧客争奪合戦,あるいは買収・合併に導くが,他方では,例えば照明市場から動力市場といった新たな用途の開拓が試みられる。国内経済の変化とも結びついて,それは再び需要増大につながることとなり,供給はまたもや需要を満たし得なくなる。
 わが国の電気事業は創設以後,このような循環を辿ってきたが,これを需要に対する供給の関係からみれば,過剰と不足の繰り返しであった。過剰期には需要拡大,その一環としての新規用途の開発,および業者間の競争が,不足期には活発な新規参入と電源開発が,それぞれ随伴現象として現れてくる。先に指摘したように,電気事業には,厖大な固定資本を要し,生産物の貯蔵保管が不可能であり,加えて設備完成に長年月を要するという特質があり,このような事業が私企業として経営される以上,起るべくして起った循環過程と考えられるが,欧州大戦時の電力飢饉以降,電気事業の展開はやはりこの循環過程を逃れなかったのである。
 このようにいえば当然推察されるように,欧州大戦中の飛躍的な電力需要の増大に触発されて,わが国では大水力会社が相次いで出現したのであるが,すでに猪苗代水力電気という成功例があり,さらに炭価暴騰と金利低下の起きていたことが,この傾向をいっそう促進させていた。また当時は大正デモクラシーも擡頭しており,政府が自由経済原則を重視して,これらの会社の電力販売に関して供給区域の制限を緩和するに至り,それによって国家政策として電源開発の誘導策がとられたのであるが,これによって同一地域に複数の会社の供給区域が設立され,その重複は東京,大阪,名古屋,北九州等の産業地帯では2重,3重,さらには4重に及ぶ場合が生じるようになる。この時期に設立された業者の特徴は,その殆んどが最終需要者への送電,つまり電力の小売りを行うのではなく,そのような小売供給業務を営む既存業者に対する大口電力卸売を目的としていたことである。このことは供給区域の重複とともに,極めて豊富な電力供給につながるはずであるが,当時はその消化について,なんら不安が懐かれていなかったのであろう。
 しかし,欧州大戦終了後,事態の推移はこの消化の見通しを次第に覆すようになってくる。戦後は景気の不況が徐々に慢性化していくのに対し,建設に長年月を要する発電施設がその頃になって竣工し,前記循環過程から予想される通りの電力過剰が発生する。中小業者は早速経営に行き詰ったのであるが,主務省の慫慂によって大企業によるその買収や合併が盛んになり,その結果,東京電灯,東邦電力,宇治川電気,大同電力,日本電力という5大電力の形成をみることになる。そしてあたかも既定のコースを歩むかのように,この5大電力の間で需要拡大を求めて互いに相手の地盤に対する侵略合戦が展開され,他方では各社が新たな市場の開拓に辛苦を重ねなければならなくなる。
 5大電力間の競争は,日本電力が大正12年に東邦電力の地盤である名古屋への進出を試みたことから始まったのであるが,「中京戦線まつ異常あり,次いで関西堅塁の包囲攻略戦,遂に関東城内に死闘市街戦,……本の1冊や2冊は訳なく出来ようといふ程にネタもあれば受けスヂも揃っている電力戦であった78)」と書かれているように,その後各社入り乱れて混戦が続くことになる。日本電力はもともと電力卸売のために宇治川電気の設立した子会社であって,双方の本社は同じビルの上と下に置かれていたのであるが,そのような関係の両社の間でも顧客争奪ををめぐる合戦が交えられており,同様な確執は東邦電力とその子会社であった大同電力の間でも起っている。
 先の引用にあるように最終的戦場が関東に移るのであるが,「元来……京浜地方は電気の消費地として全国に比類を見ない優秀地域である79)」ところから,日本電力,東邦電力の先兵となったその子会社の東京電力,東邦電力自身,大同電力が入れ替り立ち替り,侵入を試み,この地域を地盤とする東京電灯と激烈な攻防戦を闘わしたのであった。これらの争いには政党間の軋轢も絡んでおり,したがって競争は昭和9年まで延々と続けられていたのであるが,その間に次のような面のあったことが指摘されている。
日電が名古屋にナグリ込みをかけたら名古屋市民が反東邦熱の反動から歓呼の声を挙げて迎へたとか,東京電力が東京で暴れ廻ったら江東の工場主達が挙って東電(=東京電灯)糞喰へとばかり牛を馬に乗り換へたとか,種々の歴史が残っている。何れも攻撃側の方が歓迎される……のは,強ち実弾射撃とやらが利いた所為ばかりであるまい。攻撃される側にも停電事故,電圧降下等日頃のサーヴィス怠慢やら横暴やらが相当積り積ってゐたものと想像していいだろう80)。」
 つまり,寡占体制の下では業務遂行にややもすれば安逸を負る傾向が生じやすいのに対し,電力戦はこの傾向に歯止めをかける効果を与えたことになる。しかしその反面では,「東力,日電大同等のかかる同業者間の競争は,設備の重複,料金の不合理なる低下,サービスの悪化等弊害続出して,当業者は勿論国家的に観るも一般需要家よりも,終局に於て不利益を齎す81)」点も少なくはなかったのであった。ここでサービスの低下といわれているのは,3電競争の場合と同様,競争地区以外で起ったものと思われる。
 ところで,同業者との競争と並んで,電気事業者が取組まねばならなかったのは,新たな市場の開拓であったが,昭和年代に入ってからは,景気沈滞以外にも電気事業者の経営を圧迫する要因が重なっていただけに,それは緊急の課題となっていた。圧迫要因の1つは昭和6年の金輸出再禁止の影響によって生じている。設備投資に多額の資本投下を要する電気事業界では,大正12年に東京電灯が300万ポンドの起債をイギリスで成功させて以来,資本調達の途を次々に外債に求めるようになっていたが,この政策の実施後間もなく為替相場が下落し,そのため外債の償還と支払が大きな負担となっていた。他の要因は電気料金値下げ運動であった。昭和2年に,米騒動の震源地であった富山県で今度はこの運動が始まり,それは燎原の火の如く各地に波及していったのである。昭和5年には全国における料金値下げ運動の件数は800を下らない数に達している。
 欧州大戦前の電力過剰期には,照明市場を席捲した後,動力用としての市場開拓に向ったことは,先に引用した宇治川電気の場合にふれられたのであるが,欧州大戦後の上記のような状況の下でも市場拡大が緊急課題となっていた。それまで都市に偏していた電気利用が農村にも広く普及するようになったのはこの時期からであり,それはこの課題の一環として,農村電化が鉄道電化,家庭電化と並ぶ3大電化問題の1つにとり上げられ,その推進が当時の重点的営業政策に含められるようになったことによるが,この問題については,終りの部分でふれる予定である。
 市場拡大に当り,3大電化問題にも増して重視されたのは,電気化学工業や電気冶金工業分野での用途開拓であった。これらの工業,例えば電気製鋼,電力による炭火石灰や石灰窒素の製造は,わが国では明治時代から開始されており,欧州大戦で輸入が杜絶していた期間には,窒素肥料工業がかなり盛んになっていた。しかしこの頃は電力消化問題と特に結びつけては意識されていなかったのであるが,大戦中にドイツで革新的アンモニア合成法が発見され,大正の末から昭和年代の初期に次第にその技術が導入されるにつれて,アンモニア合成による硫安製造が電力消化策として強い関心を集めるようになる。当時は大規模なアンモニア合成工場が相次いで設立されており,設立する側には,過剰状態にあるだけに低廉な料金で豊富に購入し得る電力が強い誘因となったのであるが,電気事業界でもこれら工場の設立を歓迎し,時には自社の余剰電力消化の目的で業者自身が硫安工場を設立したのであった。東京電灯と電気卸売業者であった東信電気との折半出資による昭和肥料(昭和3年設立,同6年生産開始),大同電力系列の矢作水力による矢作工業(昭和6年設立,同年生産開始)がその例であり,前者が今日の昭和電工,後者が東亜合成となっている。
 硫安製造以外にも,先にふれた電気冶金や新たに興った人絹製造が電力多消費産業として着目されていた。大同電力では窒素肥料製造だけでは十分な電力消化を期待できないと見て,自ら電気製鋼所と電気製鉄所を設けていたのであるが,大正11年にこれを合併し大同電気製鋼所として独立させている。現在の大同製鋼はこれを前身とするものである。また昭和2年頃から水質の関係上,琵琶湖畔に旭ベンベルグ,東洋レーヨン,東洋紡績といった人絹製造工場が建設されたのであるが,この時自家発電を予定していたこれらの工場に,京都電灯が強力に働きかけ,同社の電力販売に漕ぎつけている。
 電力過剰に喘いだ大正末期から昭和初頭の電気事業界は,以上のようにして経営の危機に対処したのであるが,その後満州事変,日支事変が続いて非常時景気が到来するようになってからは電力の需要関係が逆転し,またもや供給が逼迫する段階が巡ってくるようになる。過剰と不足の循環過程はやはり作用を続けていたのである。
 しかし5大電力間の競争が乱戦を極めていた頃,それも一因となって,電力の国家統制が国家の電力政策として検討課題に上るようになっており,業界ではそれに対する反対も少なくはなかったのであるが,昭和13年に至り,その実施が議会において決定をみたのであった。過剰・不足の循環過程が自由経済原則に立った場合の必然的結果とすれば,純経済的過程であったということができよう。これに対し国家管理は政治的要因をなすものであるが,この要因がついに介入したことにより,わが国の電気事業の中では,この循環過程が消滅することになる。ただし,自由競争原則の克服を意図して実現された電力の国家管理は,電力不足に対処するに当り,供給拡大には向わなかったので,需要関係を一層悪化することになり,結局は需要の抑制によって需給のバランスを図ろうとする方向に傾いていった。
 自由競争原則が招いた3電競争や5大電力間の相互侵略合戦について,その功罪を論ずるとすれば,すでにふれたところから知られるように,一面ではメリットも〓したのであるが,他面では多くの弊害を生み出したことも否定はできないようである。そのため国家管理を誘発する一因となったのであるが,しかし,自由競争から派生した別の結果,すなわち電力過剰期に推進された新市場開拓について検討を加えてみる必要がある。
 まず創業期においては,電気による照明が紡績業の衰退阻止に寄与する点があったとしても,需要の多くは最上層家庭や会社,商店に限られていたばかりでなく,遊廓が貴重な顧客と見做されていた。したがって,その社会的役割については,余り高い評価を与えられないのであるが,ただし後の展開に照して考慮するとすれば,創業期における過渡的現象であったということができよう。そうとすれば,ある幼稚な段階の産業について,その時点での社会的機能のみをとりあげて,性急にその是非を論じることの危険を示唆しているとも理解できる。
 しかし欧州大戦の電力過剰期に眼を転ずる場合には,このような弁護的理解も不要となってくる。既述のように,この時期には電動機市場の開発が盛んとなったが,これについて,「現存する小工業にその侭安住の地を与へた電力の恩恵は尊いものと云はねばなるまい82)」と説かれている。電動機導入前の諸動力,特に蒸気機関の場合には,気罐,石炭,油,倉庫,水槽,さらに多数の蒸気輸送管の設置や,一斉運転のための多数機械の1ヵ所集中と,騒音をともなう継続運転が必要となり,6馬力以下ではかえって不経済となるのに対し,電動機ではこれらのことが不要となり,小作業,間歇的作業にも適し,小口の馬力でも不利益なしに利用できるようになる。もちろん電動機は大工場にも当然利するところがあったのであるが,これらの理由から,大工場に圧迫され,消滅の恐れのあった小工業に蘇生の機会を与えることとなった。
 この後,電力過剰状態は前述のように大正末期から昭和初期に再び巡ってくるようになり,この時には電気化学工業や電気冶金工業が重要な電力消化市場となったのであるが,このうち,表5にみられるような圧倒的最大消費者であった化学工業は,単に大量の電力を使用するというに止まらず,不定時電力,つまり電力供給時間に関しては,ある定められた時間であることを必要としないところから,夜間のような低負荷83)時間帯を選んで何時でも送られる電力で利用目的を達せられるという特質をもっていた。
表5 産業別使用電力量比較
このことは幾つかの産業別の負荷曲線を示す図3に窺えるのであり,したがってそれへの送電は負荷率84)を高め,それだけ発送電設備稼動の経済的効率性を向上させ,当時の電気事業者の経営難打開に役立ったのである。
 電力多消費工業は,このような電力を利用したことによってわが国に勃興し,あるいは定着し得たのであるが,ただし電気事業者の関心は,自己の電力を消化することのみに止まっていた。
図3 昭和初年における工業用動力の負荷曲線
換言すれば,電力消化の目的さえ叶えられるなどのような市場でもよかったのであり,たまたま電気多消費工業が大量に出現したことから,そこに市場を求めたにすぎないのであった。自社で自ら設立した場合においてさえ,目的は電力消化にあり,工場そのものは直接の関心事になっていなかった。先にあげた昭和肥料がその例である。この会社は東京電灯に25万キロワットの電力を卸売りしようとしていた東信電気が,消化難から購入を躊躇していた東京電灯に,購入電力をさらに別会社に販売することを提案して設立されたものであり,社長には東京電灯会長が就任し,新潟県鹿瀬村と川崎市扇町に工場が建設されたのであった。資本は500万円ずつの折半出資という契約になっていたのであるが,その払込みに関し,昭和肥料の経営に当っていた東信電気役員高橋保は次のように語っている。
 その時分に東京電灯株式会社の前の社長の若尾さんが失脚して,大阪から小林一三さんが乗り込んで来たので小林さんのところに行って株金を払込んでくれというと小林さんいわく,「僕の方は君の方で使った電気料で払込みに充ててくれ,現金で払込むのはいやだ」。500万円きりないなかで,建設に大部分というものは鹿瀬の石灰窒素工場にも使っちゃって金は一銭もない。それから仕方がないから……手形も出したり銀行や保険会社から借りたりして約1年くらい経過しましたが硫安も出るようになりいくらか会社の経営も楽にはなってきたときに,増資するから応援してくれないかと小林さんに話したら,残っているのは電力料であててくれ……僕の方の株は売ってくれ,株を持たんという。……一緒にやっておった森という男は,帰りに自動車の中で,あれは興業師で企業はだめだよといっていました。仕方がないから株は2人で取ってきた。そういう時代を経過した85)。
 東京電灯の社史には昭和肥料の設立について「東信電気会社と相携へて昭和3年10月22日昭和肥料会社を創立し,石灰窒素製造のため新潟県東蒲郡雨鹿瀬村に新設したる同社の鹿瀬工場に対して4月9日より,又硫安製造のため川崎市扇町に新設したる川崎工場に対して6月2日より夫々当社の余剰電力を不定時電力で供給するの途を拓き86)」と書かれており,昭和肥料の設立について必ずしも消極的ではなかったという印象を与えている。たしかに,昭和肥料の会長は東京電灯の会長郷誠之助が兼ねていたにもかかわらず,実際には高橋の思い出に語られているように,東京電灯は昭和肥料にかなり冷淡だったのである。
 電力の消化のみが目的で,受電者側の如何が直接の関心事でなかったことは,恐らくこの場合に限られるわけではなかったのであろう。同様のことは電気事業創設時の電力過剰期についても言い得るであろうし,大正初期に動力用市場開発を進めていた時期においても,電力消化のみが目的であったと思われる。しかし業者の意図しなかった間接的結果として,すでに述べたように,大企業に圧迫されて沈滞の一途を辿っていた小工場は,電動機導入によって破滅を逃れたのである。ここでは大正末期から昭和の初めにかけて興った電力多消費工業への電力販売を扱っているのであるが,実はこの場合にも,意図されなかった間接結果がもたらされたのである.というのは,当時の電気事業者には電力の販売のみが意図されていたとしても,豊富で低廉な電力の供給の得られた関係企業は,それによって発足し,あるいは定着することが可能となり,かくして基礎を固めた後にわが国の一流企業に成長して,戦後日本の高度成長の一翼を担うに至ったからである。例えば当時の硫安製造工場を母胎として,あるいは少なくとも母胎の一部として,後にそのように成長したものとして,先にふれた昭和電工,東亜合成のほかに,住友化学,三菱化成,旭化成,宇部興産,日産化学,日東化学といった現在のわが国における代表的企業をあげることがでるのであり,したがって意図しなかった結果として,後の経済成長への布石を敷いたということができよう。
 以上,自由競争原理に立った電気事業が,一面では激しい業者の競争を招きながらも,他面では究極的にわが国産業の発達に寄与するに至った経路を扱ってきたが,しかし産業発達への寄与をいうとすれば,ほかに当然考えられるのは,電気機器産業のような関連産業発達へのそれである。濫觴期から,わが国では電気機器製造に関しては,国産化の志向が強かったようであり,そのことは蒐集文献の処々に思い出すことができ,エトスとも言える要因が作用していたといって差支えないと思われた。ただそれを扱うとすると,それだけでまた多くのスペースが必要となり,またエトスが存在していたとはいえ,電気事業が発達すれば電気機器製造産業が発達することは自明の理という理解もあると考えられたので,本稿では全く取り上げないこととした。

都市と電気事業――むすびにかえて

 これまで,わが国における電気事業の歴史を扱ってきたのであるが,本来これは産業史や科学史の守備範囲に属する対象であろう。筆者は社会学を専攻とするものであり,社会学の中でもdevelopmental study(開発研究)や都市研究に関心を懐いているのであるが,あえてそれと異なる分野の対象をとり上げたのは,自分の専攻からは,わが国の電気事業の歴史にどのような特質が見出せるかを知りたかったことによる。(1)電気事業創設に当って伝統的社会関係が作用したこと,(2)推進し,あるいは助成した社会層としてインテリゲンチャといえる層が形成されていたこと,(3)工部大学校における技術の導入過程とその受容形態,(4)意識的要因として,電気事業展開の中心的役割を果した人々の間にみられた進取の気風(5)電気事業が私企業として経営されたことに関し,そのようになった経過,そのことが生んだ必然的な循環過程と,この過程からさらに派生した諸結果――競争と産業発達への寄与――といった点に焦点をあててきたのは,それらがdevelopmental studyで検討課題になる問題と関係しており,そのような問題については,日本の電気事業ではどのような事実があったかを知ろうとする関心に応え得ると考えたことによる。わが国は最近では世界の多くの国々に注目されるようになっており,注目する側では自国の開発を意識してそうしているのであれば,このような焦点の当て方があってもよいのではなかろうか。
 ところで,筆者の研究関心はdevelopmental studyと都市研究に向けられていると述べたが,これまでに扱ったのは前者の立場からのものであった。しかし電気事業に関しては,後者の立場からも研究対象にとり上げ得る面がある。この点は「はしがき」でふれるに止まったのであるが,最後にそれに関係している点を述べてむすびとしたい。
 すでに述べたように,大容量水力発電の開発によって電灯料金の値下げが可能になるまで,ランプとガス灯は常に電灯の普及に対する圧迫となっていた。つまり,電灯の利用者で高額の料金支払いに応じ得るものは限られていたのであり,それは具体的に官庁,銀行,会社,料亭,商店,さらに遊廓であり,一般家庭ではごく一部の富裕層であった。一方,創設期の電気事業は低圧直流方式を採用していたため,送電の可能な距離は極めて短く,したがって利用者が比較的狭い範囲にある程度集中して存在する地域でなければ,電気事業の成立は不可能であったが,そのような地域を見出し得るのは,比較的大きな都市に限られていたのである。送電技術の向上にともなって,そのような地域的制約は次第に解消するのであるが,しかし技術的には可能であったとしても,送電設備のコストの関係上,しばらく配電区域が都市地域に偏るのは避けられなかったようであり,明治末期から大正期にかけて逓信省電気技師を勤めていた吉原隆之助による次の回顧談がそのことを示している。
明治の末ごろから大正初め頃はこんなふうだったということを……申し上げます。あの時分大きな都市は電気会社,当時は電灯会社といいましたが,これはお客さんは電灯が主で電動機の方はほとんど需要がない。だから中小の市町村になると相変らず石油のランプでした。
電気会社にして見れば3300ボルトの配電線を1里も2里も引っぱって行って50灯や100灯では商売になりません。その時代の電灯は5,8,10,16,24の各燭光があり,田舎では8燭,10燭が多く,しかも裕福な家が1灯とか2灯とかいう程度でした。また柱上変圧器もよく焼けました。今のようにカーがあるんじゃなし,事故が起ると会社まで走って行って頼む。見に行って変圧器の焼損だと分ると会社に帰って報告する。荷車で1里か2里引いて行くのですから,今日から見ると馬鹿々々しいようなことをやっていたのです。だからソロバンが採れないから余程よいところでも寄付金を請求する。でなければお断りとなったものです87)。
 以上から,都市が存在してはじめて電気事業が成立し得たことが理解できる。余裕の不足から,本稿では全くとり上げなかったのであるが,電気事業と関係の深かった電気鉄道についても同様のことを言い得るようである。東京に電気鉄道を導入するに当り,藤岡はやはり先導的役割を果したのであるが,彼と呼応した事業家雨宮敬次郎が電気鉄道に着眼したのは,彼自身の言葉によれば次のような動機からであった。
抑も乃公が市街電車を考へたのはズーウッと前の事で,100万以上の人口を有する東京にもこんな金儲けが転ってゐるのを知る奴がない。余り可哀想でならぬから,自分1人で儲けないで,智恵があっても金の無い人に分けて遣り度いと考へたのがそもそもで……其後種々な経過があって,3派が合同したのであるが,這〓な按排に初は乃公の方から方寸を考へ出したことだ88)。
 東京の市内電車が東京電車鉄道株式会社,東京市街鉄道株式会社,東京電気鉄道株式会社という3社の鼎立となっていた明治30年代の半ばに,前2者の合併案をめぐって賛否の対立が株主の間に起ったことがあったが,合併派を代表した藤山雷太は明治36年,新聞記者を招待して行った講演の中で次のように語っていた。
御承知の通り,今日市の交通機関は誠に不完全不便利で労働者が諸物価,住宅等の不廉を忍びつつ市内の中央に住ひ,商信が人群密集し,衛生に適せざるを忍びつつ閑静なる場所若しくは郊外に起臥することを得ず,又学生等が不満足と知りつつ距離の遠き為め,不本意ながらの学校に満足せざるを得ざる等のこともあり,其の他是れ等に類する幾多の不便多くして市全般の経済に損失を与ふもの蓋し莫大なるものあるを信ずる……89)
 明治38年に至り,3社鼎立が未解消のため市内電車が十分機能していないことを案じた内務省大臣芳川顕正は,路線整理と合同を促す意見を各社に与えたのであるが,次はその一部である。
 該問題(路線整理と合同)は公共衛生保護上に関係を有すること頗る大なり。仮令は昨年流行せるペスト赤痢其他各種伝染病の如きも当初は必ず芝の新網下谷の万年町を始め其他各地に散在せる貧民窟或ひは其付近下層住民より発生せるものなり。又は火災の如きも同一理由あり。故に市の発達及市内交通機関の設備に伴ひ貧民窟は勿論下層市民をば郊外に移住せしむる事尤も必要なり。然するには路線を整理し以て郊外との連絡を期せしむるの必要あり。然る時は彼等下層民も喜んで郊外に移転し朝夕市内の各工場職業場に例の特別割引賃銭にて電車を利用し往復することとなり,彼ら下層市民の生活状態特に衛生状態も大いに改善せらるると同時に市の面白をも改むるに至るなり90)。
 以上に引用したところから,電気鉄道の導入と路線整理に関し,雨宮,藤山,芳川の状況認知が,それぞれにどのようなものであったかを知ることができる。雨宮の場合は私的な利潤動機が基となっているが,彼が利潤確保の見通しについて全く疑っていなかったのは,東京という大都市がすでに存在していたからであった。他方,藤山,芳川は市内電鉄の公共的意義をとり上げているが,意義を認めたのは,過密住民,疫病流行,火災頻発などの問題を抱えた都市地域に対し,それらの問題解決の重要手段を提供すると見做したからであった。一方は私的な利潤動機,他方は公共的意義の認識という違いがあるとしても,引用された3人の言葉が共通に示唆しているのは,都市がすでに存在していたことが条件となって市内電気鉄道の導入や整備が図られた点であり,先に電灯について指摘したと同様のことが言えるであろう。
 ここで検討を要するのは,都市とテクノロジーの関係である。一般的にはテクノロジーが独立変数都市が従属変数という関係として,あるいは新たなテクノロジーの出現が都市の生成や変化をもたらすものとして捉えられている。ショバーグがそのように把握する代表的研究者であるが91),しかし両者の関係は,こと電気技術に関する限り,そのように単純ではなかったようである。電気による照明技術,電気による輸送技術そのものは,ある特定の発明家の創意に俟たねばならないのであるが,その普及は都市が先行条件として存在していたことによって可能となったのである。都市は培養基としての役割を果したとも言えよう。先に名前をあげた渋沢元治は,彼が逓信省電気局技術課長と東京帝国大学教授を兼任していた大正末期に推進された農村電化に関して「都市を目がけて電気事業を計画し,その余剰電力を農村に振向けることは当を得たもの92)」と述べている。「水力を開発して電気事業を起すには,どうしても相当纏った需要がなければ到底収支償うものではない。故に産業の稠密な地方を目掛けて電気事業を起す。そうすると水力の性質として豊水期には余剰電力が出来て来る93)」ことになり,農村で動力電需が起る時期は,季節的にはこの豊水期に当っているところから低廉な料金で電力の供給を得られるようになる。このことから動力として電気を利用する技術についても,都市が培養基となったものであり,都市によって培養された結果として,その技術が農村にも均霑したことを理解できる。
 先にふれたように,農村電化は欧州大戦後における電気事業者の経営危機打開策の一環をなしていたことは事実であり,電化を希望する農村では送電線設置のために,費用の一部負担に応じなければならなかった。しかし渋沢は一例として,茨城県猿島郡の長井戸河に電動ポンプを設置して排水するようになって,年々来数万石の増収が得られ,数年ならずして電化に要した資金を回収した場合をあげており,したがって農村は電化を受け入れた場合には,十二分の見返りが得られたことも十分認識されねばならない94)。
 なお,電気技術に関して述べてきたテクノロジーと都市との関係は,産業化(industrialization)と都市の関係についても妥当することになる。一般図式においては,産業化はテクノロジーと並んで,都市の成立や発達に対する先行要因として扱われている。しかし,電気事業という産業に関する限り,予め都市の存在していたことがこの産業の成立を可能にしたのであり,したがって一般図式とは関係が逆転することは,もはや説明を要しないであろう。
 また,都市の全体社会に対する役割として,それを生産的(generative)と見るべきか,あるいは寄生的(parasitic)と解すべきかがしばしば論争を呼んでいるが,都市と電気の関係について上で述べたことは,この論争点とも関連があると思われ
る。すべての文明や開発を否定する立場をとるのであれば結論が異るのであるが,電気利用技術の普及を人類への恩恵と見るのであれば,電気利用が都市によって培養された以上,わが国の場合,この恩恵に関する限り,都市が生産的であったという結論が下されることになる。ただ,それを否定する局面も現れなかったわけではない。電気事業の創設期に大臣官邸に引かれた電灯は,当時の人々には,「贅沢のきわみ」と映じていた。都市はこのような「贅沢のきわみ」を生み,それを享受する人間の居住する場所であった。また熊本で電灯事業の始まったとき,「欧化賛美の風潮と軽佻華美に傾いていて人心は争って電灯の需要に向って来た」のであり,東京,横浜のみならず,恐らく他の多くの都市において,電灯は遊廓の夜をいっそう明るく照し出していた。電気技術がこれらの普及に止まっていたのであれば,先の結論は否定されることになる。しかしそれは創設期の幼稚段階における過渡的現象だったのであり,むしろ産業育成に当り,初期のこのような局面のみによってその産業の可否を性急に論ずることの危険を示唆するものと理解されねばならないであろう。当時においても,電灯はわが国紡績業の危機回避に寄与したのであった。いずれにしても,このように短い期間の部分的現象に限定されるのでなく,長期的総合的視点に立って後の展開に照すとすれば,電気事業発達による恩恵は否定できないのであり,したがって都市の役割についても,肯定的評価が与えられねばならないであろう。
 最後に,電気利用技術や電気事業という産業と都市との関係が以上の通りであるとすれば,わが国の電気事業の濫觴期には,すでに多くの都市が国内に形成されていたことに注意しておかねばならない。水力発電時代に入って電気事業が飛躍段階に入ったことに関し,河川流に恵まれたわが国の自然条件があったことは,多くの人に容易に想起できる点であろう。しかしそれとならんで無視できないのが,この都市要因であったと思われる。図4は,わが国の諸都市において電気事業者が最初に営業を開始した年度と,それぞれの都市の当時における人口規模との関係を示すために作成されたのであるが,まず明治23年までに,いったん6大都市のすべてで開業を見るようになり,次いで熊本を初めとする他の地方都市に急速に普及し,それが漸次小都市に及んでいった状況を窺うことができよう。これらの都市には,横浜,小樽といったように,明治に入って急速に出現した場合も例外的に含まれているが,他はすべてが,すでに明治期に入る以前に形成されていた都市である。これら中小都市別に事業を開始した個々の業者の多くは,本稿末尾の電気事業者の沿革系譜に見られるように後に次第に大規模業者に吸収され,ついには既述のように5大電力の支配体制が確立されたのであるが95),そのような業界内の構造的変化を問わないとすれば,わが国における全体としての事業の発達は,これら多数の都市が予め存在していたことを抜きにしては,全くあり得なかったことである。
図4 都市別人口数と電気事業開業年度
 またこれと関連して考えられるのは,図に見られるように,中小の都市においても相次いで電気事業が起ったのは,それらの都市にentrepreneur層がすでに形成されていたことを意味していないかという点である。つまり,わが国の離陸段階において数多く形成されていた都市は,そのような社会層を含む都市であったと言えるように思われる。これはまだ筆者の推測に止まっているが,その検証は今後の研究課題としてよいのではなかろうか。
 これらの都市の存在に関して,ここでさらに一歩時代を遡るとすれば,われわれが思い至るのは,徳川時代の封建大名がその領国支配の一環として行っていた都市経営である。したがって電気事業の培養基となった都市要因に関しては,それを前近代社会からの継承物であり,その破壊によってではなく,その利用によってこの事業の発足が可能となったのであった。先に社会関係的要因に関し,伝統的関係の利用されたことを述べたのであるが,都市要因に関しても,これと軌を一にする点があったと言えよう。近代化,産業化と伝統的要因の存続は,開発研究でしばしば検討課題にとり上げられるのであるが,わが国の電気事業に照す限り,伝統的要因の存続それ自体は可否の論議の対象にはなり得ないのであり,問題はそれをいかに利用させるかにかかわるようである。

1) 内田素夫『日本灯火史』大正6年12月,東京電気株式会社,197-98ページ。
2) 加藤木重教『日本電気事業発達史』前編大正5年12月,電友社。同後編,大正7年12月,電友社。
3) 曽禰達蔵「工部大学校の思い出話」,旧工部大学校史料編纂会『旧工部大学校史料附録』昭和6年7月,虎之門会。―以下『附録』と略記,―80ページ。
4) 岩田武夫「旧工部大学校史料参考記事」『附録』34ページ。
5) 旧工部大学校史料編纂会『旧工部大学校史料』昭和6年7月,虎之門会一以下『史料」と略記,48-50ページ。
6) 『史料』49ページ。
7) 藤田重道「外人教師に関する回旧談」『附録』89ページ。
8) 『史料』159-160ページ。
9) 同上,50-51ページ。
10) 瀬川秀雄編『工学博士藤岡市助伝』昭和8年6月,工学博士藤岡市助君伝記編纂会第1編,36ページ。同書は第1編から第4編までに分れており,ページ数は各編ごとに1ページから始まっている。以下同書は『藤岡伝』と略記し,編の番号は時計数字で示すこととする。例えばこの注は『藤岡伝』1-36ページと略記される。
11) 荒川巳次「旧工部大学校回顧録」『附録』58ページ。
12) 同上,61ページ。
13) 『史料』163ページ。
14) 『藤岡伝』Ⅲ-3ページ。
15) 加藤木重教談「50年前を回顧して」『藤岡伝』Ⅳ-48ページ。
16) 『藤岡伝』Ⅲ-7-8ページ。
17) 東京電灯(株)新田宗雄編『東京電灯株式会社開業五十年史』昭和11年8月,東京電灯株式会社―以下『東電史』と略す,4-5ページ。
18) 『藤岡伝』1-85-87ページ。
19) 田島信夫談「私が3つ年上の仲よし」『藤岡伝』IV-8ページ。
20) 『藤岡伝』1-62ページ。
21) 東邦電力史編纂委員会編『東邦電力史』昭和37年12月,東邦電力史刊行会,8-9ページ。
22) 逓信省編『逓信事業史』第6巻,昭和16年2月,逓信協会,25ページ。
23) Clifford Geertz, Peddlers and Princes: Social Change and Economic Modernization is Two Indonesian Towns, The University of Chicago Press, 1963.
24) 逓信省編,前掲書15ページ。
25) 篠田鑛三『銀座百話』昭和49年4月,角川書店,63ページ。
26) 木村荘八『東京の風俗』昭和53年3月,富山房,27ページ。
27) 小田荘吉氏談「故人の念願」『藤岡伝』Ⅳ-143-44ページ。
28) 三宅順祐談「電灯普及の大功労者」『藤岡伝』Ⅳ-82ページ。
29) 兒玉隼槌談「没すべからざる大功績」,『藤岡伝』Ⅳ-59ページ。
30) 熊本電気株式会社編『創立弍拾周年記念熊本電機株式会社沿革史』昭和4年7月,
熊本電気株式会社,2ページ。
31) 加藤木重教『日本電気事業発達史』前篇,大正5年12月,電友社,458ページ。
32) 岩垂邦彦「電灯業一斑」『電気学会雑誌』46号,明治25年5月,322-23ページ。
33) 同上,324ページ。
34) 桑島正夫編『電気学会50年史』昭和13年11月,社団法人電気協会,463ページ。
35) 岩垂邦彦「直流交流の事」,『藤岡伝』Ⅳ-39ページ。
36) 加藤木重教,前掲書456ページ。
37) 同上,465ページ。
38) 明治27年10月27日開催,日本電灯協会第6回総会記録。
39) 熊本電灯株式会社編,前掲書14-15ページ。
40) 『明治工業史電気編』昭和3年10月,工学会明治工業史発行所,31H2ページ。
41) 林安繁『宇治電の回顧』昭和17年12月,宇治電ビルディング,30-32ページ。高木はこの経験から水力発電に関心を懐くようになり,のち宇治川電気設立に当り,発起人の1人に加わっている。
42) 田辺朔郎談「藤岡博士の追憶」『藤岡伝』IV-30-34ページ。
43) 『藤岡伝』1-37ページ。
44) 渋沢元治『50年の回顧』昭和28年12月,「渋沢先生著書出版事業号」11-12ページ。
45) 渋沢元治「技術上から見た本邦電気行政の歩み」(4),『日本電気協会雑誌』430号,昭和34年8月,389ページ。
46) 『東電史』70ページ。
47) 篠田,前掲書43ページ。
48) 『東電史』101-02ページ。
49) 森銑三『明治東京逸聞史』2,1969年7月,平凡社。
50) 上野吉二郎伝編纂会編『上野吉二郎伝』昭和8年 月 85-88ページ。
51) 明治33年2月12日日本電気協会の逓信省提出建議書添付資料。横浜の他の2路線の名称は山手線と野毛線。東京における吉原の2路線以外の13路線は麹町壱番線,浜町線,小石川線,牛込線,横山町線,下谷線,雷門線,本所線,万世橋線,人形町線,本郷線,砲兵線,錦町線であった。
52) 児玉隼槌,前掲書61ページ。
53) 渋沢元治「技術上から見た本邦電気行政の歩み」(1),『電気協会雑誌』427号,昭和34年5月,233ページ。
54) 熊本電灯株式会社,前掲書12ページ。
55) 前掲『上野吉二郎伝』90-92ページ。
56) 同上,508ページ。
57) 同上,510-11ページ。
58) 熊本電灯株式会社,前掲書13ページ。
59) 日本電灯協会第6回総会報告。
60) 田辺朔郎「ダイヤー訪問記」『附録』94-97ページ。田辺朔郎「逝けるダイヤー先生」加藤木重教『日本電気事業発達史』後編,大正7年12月,電友社,2057-63ページ。藤岡市助談「尊敬すべきエルトン先生」同上,1448-52
ページ。
61) Clifford Geertz,The Social History of an Indonesian Town, The MIT Press, 1963.
62) ただし,インテリゲンチャという場合,著述業や知識伝授を職業とするもののみを指すのではない。職業のいかんにかかわらず,文明の仲介者としての役割を果すものを指し,官僚や実事家もその役割を果せば,この層に含まれる。
63) 三宅晴輝『電力コンツェルン読本』昭和12年12月,春秋社,217-20ページ。
64) 小竹即一編『電力100年史』前編,昭和55年8月,政経社,89ページ。
65) 小堀十亀談「いろいろの思い出」『藤岡伝」IV-95ページ。
66) 森銑三『明治東京逸聞史』1,1969年3月,平凡社,145-46ページ。
67) 石川芳次郎談「吾電気事業界先覚中の第一人者」『藤岡伝』IV-194ページ。
68) 三宅晴輝,前掲書42ページ。
69) 森銑三,前掲(『…逸聞史』1)157ページ。
70) 『藤岡伝』1-144-45ページ。
71) 『逓信事業史』第6巻には,明治40年から昭和6年に至るまでの公営電気事業者数が示されており,それに基づいてほぼ5年間隔でその数の推移を示すために表を掲げるが,これによれば,昭和6年の公営業者数の総数に占める株式会社形態の業者数の比率は次に見られるように,常に8割を越えていたのである。
公営電気事業者数の推移
電気事業者総数のうちの株式会社形態の業者数
72) 『東電史』98ページ。
73) 水野吉太郎編『大日本電力株式会社20年史』昭和15年7月,大日本電力株式会社,9-10ページ。
74) 林安繁,前掲書114-18ページ。
75) 三宅晴輝,前掲書74ページ。
76) 竹内朴児『電気屋昔話』上,昭和35年11月,電気商品連盟,24-29ページ。
77) 林安繁前掲書135-36ページ。
78) 三宅晴輝,前掲書101ページ。
79) 『東電史』168ページ。
80) 三宅晴輝,前掲書97ページ。
81) 『東電史』182ページ。
82) 平澤要『電気事業経済講話』上,昭和2年4月,電気新報社,62ページ。
83) 発電可能量に対する実際の使用量を負荷という。電力に貯蔵が不可能という性質があるため,1日,あるいは年間の最も負荷の高い時点に合せて発電施設の規模が定め
られるが,他の時間帯の負荷がそれと比較して特に低いとすれば,その施設はそれだけ経済効率が劣ることになる。
84) 一定範囲の期間内における発電可能量に対し,実際にその期間内に使用された電力量の比率が負荷率である。発電設備に多額の資本投下を要した水力発電では,特にこの負荷率を高めることが重要課題になる。そのためには負荷の低い時間帯,あるいは季節における需要開拓が必要となる。
85) 電気学会,日本電気協会編『発電:初期の電力技術』昭和35年8月,電気学会・日本電気協会,281-82ページ。
86) 『東電史』192ページ。
87) 電気学会・日本電気協会編,前掲書150-51ページ。
88) 宮本源之助『明治運輸史』軌道篇,大正2年12月,運輸日報社,100ページ。
89) 『藤岡伝』Ⅰ―266-67ページ。
90) 宮本源之助,前掲書436ページ。
91) Gideon Sjoberg, Preindustrial City: Past and Present, Free Press,1960. “Cities in Developing and in industrial Society”, Philip Hauser and Lea F.Schnore(eds.), The Study of Urbanization, John Wiley, 1965.
92),93)渋沢元治,前掲書(『50年の…』)116ページ。
94) 農業への電気の利用については,大正11年佐賀県大井手水利組合が4500町歩の水田給水を1000キロワットの電力で全部電化したことが刺激となり,その後各地に灌漑用動力の電化が起っている。『逓信事業史』6巻はこれ以外の用途について,「動力として穀物調整,製茶,肥料粉砕,蚕室用扇風機があり,電熱として製茶,養鶏,養蚕乾繭,電熱温床栽培等がある。又害虫駆除,養鶏,養蚕,植物栽培用として電灯を利用,する方面もある」(同書272ページ)と述べ,普及状況について次の表を掲げている。
取付設備容量(キロワット)
昭和12年で合計が12万4000キロワットであるから,農事用電力の普及は緩慢であったと見られるが,これは当時はまだ農村の生活程度が電気を十分利用するほど豊かでなかったことによるのであろう。大井手水利組合の電化事業については,その地域では灌漑時期には子供が学校を休んでまで足踏み水車で水の汲み上げ作業に加わらねばならない状況を案じた当時の郡長早田辰治が中心となったようであり,彼はそのため本文で名前をあげた渋沢元治を逓信省に訪ねている。渋沢は使用予定の1馬力か2馬力のポンプの性能について危惧の念を懐いたが,幸いにこれは杞憂に終っている。ポンプの設計は青島陥落の際に捕虜となったドイツ人が担当したのであるが,ただし当初は底の方の冷い水を田に入れて稲作を害し,後に改良が加えられたのであった。
95) 末尾の付図「電気事業者の沿革」からは,東京電灯が他の業者を併合吸収した過程を一見して明瞭に知ることができるが,5大電力の残りの業者による吸収はこの付図だけでは窺い得ない。しかし5大電力が戦前の全業に占めた比重を示す次の表により,その寡占状況を理解できるであろう。なお表中の「共同火力」は,5大電力の何れか,あるいはその系列会社の問での共同出資によるものである。
昭和11年の全国電気事業の総資本金に占める5大電力の比重(11年/上末)
昭和11年の全国発電力(水火力合計)中に占める5大電力の比重(11年/12,月末)

電気事業者の沿革
1.北海道・東北
2.東京
3.中部
4.関西
5.北陸・中国
6.四国・九州