技術と農村社会

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経済蓄積の形態と社会変化

著者名: 友杉孝
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次

はじめに・・・・・・・・・・2

1 経済蓄積とその継起的発展・・・・・・・・・・2
2 経済蓄積の維持と象徴・・・・・・・・・・6
3 年中行事とその変容・・・・・・・・・・12
4 年中行事の形式化・・・・・・・・・・14
5 経済蓄積の転換のシンボル・・・・・・・・・・17


はじめに

 梓川右岸における調査村の農業生産,農業経営については,今村論文が詳しく記述している。したがって,本章の目的は同様な記述を繰返すことではなく,むしろ何故このような活溌な生産活動が可能であったか,という問題を提出することである。というのは,以下のような事情があるからである。現在,世界的に生産技術の国際的移転が実施されている。たとえば,第3世界に対する技術援助である。ところが,第1級の技術が移転されても,期待された生産力の増大に必ずしも成功しない。技術受入国の文化的コンテキストに適合しないために,せっかくの第1級の技術も十分に効率的には活用されないのである。そこで,生産技術を社会全体の文化コンテキストから分離して議論するのではなく,逆に,技術を文化のコンテキストの一部として見ることが要請される。
 経済が社会全体から相対的に自立している市場経済はしばらくおくとして,第3世界の伝統経済は社会全体の中に埋め込められている。したがって,第3世界で生産技術の有効性を議論する場合には,技術を文化コンテキストの中に位置づけることが強く必要とされよう。さて,今度,梓川右岸の農村を調査して,生産技術が最大限と言ってよいほど効率的に利用されてきたことが,きわめて印象的であった。そこで,何故,このような利用が可能であったかという問題を,生産技術を文化全体のコンテキストの中に位置づけて議論したいと考えている。ところが,このような議論は未だ学問的には未熟であるから,一つの試論としてである。

 1)
 1.経済蓄積とその継起的発展

 梓川右岸,とくに和田村を中心として,農業生産を可能とする経済蓄積と社会秩序の関連,さらに蓄積形態の変容がもたらす社会変化を記述するために,まず,理論的枠組について簡単に述べておきたい。
 穀倉梓川扇状地に位置する和田村のおもな生業は,もちろん稲作であった。したがって,経済蓄積も当然稲作を可能とする蓄積である。この蓄積は稲作の3要素,すなわち生産主体,生産対象,生産用員に分かれて行われてきたが,とりわけ目立つ蓄積は生産対象に対して行われてきた。土地に対する蓄積である。未開の土地が長い世代にわたる農民労働を媒介として,豊沃な耕地に変容しているのである。この耕地を基盤にして園芸的とも形容できる周到な稲作が行われ,非常に高い土地生産性をあげてきた。まさに,耕地は農民労働の対象化物である。農民の土地に対する働きかけが,耕地という1つの決定的な形態をとって現前する。
 現前する和田村の景観は,たんなる自然の風景ではけっしてなく,むしろ人間化された自然を表示する。すなわち景観は解読さるべき自然である。歴史的に形成された人びとの行動の意味を探るためである。耕地はおのが延長であるかのように農民に意識される。この結果,農民にとって耕地はたんなる物でなくなり,特別な存在とされる。すなわち,農民は耕地を稲作に必要な物として利用するだけでなく,同時に,耕地によって農民の生活は逆に規定され,農民生活に一つの形態を与えることにもなるのである。言い換えれば,農民は自己の投影である耕地を自己確認の基準としてみることであり,耕地はフェティシズムの対象でもある。フェティシズムの対象である耕地は,人間を越える超自然的な力を持つものと観念されることになる。
 ところで,生産要素に対する蓄積は土地だけに限らない。生産主体,すなわち,労働力能に対する蓄積もまた大きい。労働の熟練度,情報,共同労働組織などの形態をとる蓄積である。たしかに,耕地とは異なって,これら生産主体に対する蓄積は目立たない。しかしこれら蓄積があって初めて生産が可能になるのである。むしろ,土地に対する蓄積が進行する以前は,生産主体に対する蓄積が主要な蓄積形態であったに違いない。豊沃な耕地が形成される以前においても人びとの生産行動は存在していたからである。豊沃な耕地の前提となる和田堰の建設が近世以前にさかのぼるとしても2),この土地における人ぴとの定住は和田堰建設のはるか以前であったことは確かであろう。そこで生産を可能にする共同労働組織,あるいはこの組織の基礎となる人びとの社会関係が,農民が生活のために依存すべきものとしてあった。農民は共同労働組織を自己の延長として意識し,一体化する。共同労働組織とその基礎となる社会関係も自己を超越する存在であり,超越的な力が与えられる。
 2つの生産要素に対する経済蓄積についてみた,主要な蓄積形態は,明かに,歴史的に生産主体に対する蓄積から生産対象,すなわち耕地に移行した。この移行を示す標識が和田堰の建設である。しかし,移行が漸次的に自ら成就したのではなかろう。労働力能の形態をとる蓄積から耕地への移行には,1つの決定的な飛躍があるからである。両者は等しく農民労働の対象化物であり,稲作に不可欠であるが,質的には相異する。土地に対する蓄積を成就するためには,新たに多大な労働投下が必要であった。そして,新しい蓄積形態の出現によって,稲作生産力は画期的に増大した。この困難な移行は中世末から近世にかけて行われたと考えられよう。言うまでもなく,この時代は全国的な争乱時代であり,同時に商品経済が一段と活溌になった時代でもあった。すなわち,和田堰建設を標識とする土地に対する蓄積の成就は,村落外部からのインパクトを重要な契機としていたのである。
 しかしながら,主要な蓄積形態が新しい形態に移行することは,当然,古い蓄積形態に大きな影響を与えずにはおかない。労働力能としての蓄積の一部は不要となり,スクラップ化されざるをえない。また,一部は新しい蓄積形態のもとで再編成されて,補助的な位置が与えられた。このような古い蓄積形態の変容は,当然,この蓄積にまとわりついていたフェティシズムにも変化をもたらすことになる。古くからの信仰は,たとえ生き残っても,傍らにおいやられてしまう。交代して,新らしい蓄積形態に基礎を置く信仰が主流となる。しかし新らしい蓄積形態である耕地においても,耕地の有効な利用あるいは維持に,多様な共同労働を必要とした。たとえば堰と水路の維持である。また,耕地の利用もより集約的となって,ユイなど他家族との相互扶助の形態をとる共同労働が増大した。すなわち,新しい労働力能の創出である。このような蓄積形態の変容とその複雑化は,経済蓄積に根拠を置くフェティシズムを多様にし,宗教を習合させることになった。神,仏,民間信仰である。これら信仰が習合することによって,農民の全体的な宗教生活が成立した。したがって,大切なことは,宗教生活の全体を構成する信仰の1つ1つを区分けすることでなく,むしろ農民の宗教生活の一体性に注目することである。
 生産諸要素に対する経済蓄積には,もう1つの形態がある。生産手段,すなわち農業用具・機械に対する蓄積である。歴史的には,農業用具に対する蓄積は比較的には少なかった。稲作は豊沃な耕地と集約的な労働力の使用で成立していた。もちろん農具の改良はあったが,農具が主要な蓄積形態となることはなかった。しかし,戦後,事情は一変した。農業近代化の急激な進行である。またたくまに農業機械が普及して,「機械貧乏」という言葉が流行するほどである。農業機械が主要な蓄積形態になったのである。この蓄積形態への移行もまた,土地に対する蓄積からの漸次的展開ではない。土地に対する蓄積から農業機械へは,明らかに1つの決定的飛躍があった。農業機械への蓄積形態によって,稲作に必要な労働力は大幅に減少した。労働生産性の画期的増大である。この蓄積の変容は,日本経済の高度成長を媒介として実現した。そして,農業機械への蓄積変容は,後述することであるが,労働力能あるいは耕地に基礎を置くフェティシズムと信仰に顕著な影響を与えることになった。これまで親まれていたさまざまな行事が廃たれ,儀礼の形骸化が進行した。
 以上,経済蓄積の継起的発展についてみた。生産3要素内のそれぞれに対する蓄積が,労働力能型,土地型,用具・機械型の形態をとった。これら蓄積の3形態は類型として示してあるが,同時に,和田村においては蓄積の展開の順序でもあった。労働力能型蓄積から土地型蓄積に,さらに機械型蓄積へと移行することによって,稲作生産力は画期的に増大した。そして,この移行は単純に漸次的に実現したのではなかった。和田村と和田村の外部との相互交渉を重要な契機にしていた。すなわち,村落社会外部からのインパクトを受止めて,村落内に新しい形態の経済蓄積が行われたのである。この場合,後述することであるが,村落社会の内外を結びつける媒介者が大きな役割を果した。革新者である。
 さらに問題になることは,経済蓄積に根拠を置くフェティシズムあるいは信仰についてである。経済蓄積は個人的ではなく共同的に行われ,維持されるから,フェティシズムと信仰も共同的なものとしてある。これらの観念は各種の行事に具体的な形態をとって表出されている。したがって,上述の蓄積形態の継起的展開は古い行事の形式化と新しい行事の創出を伴う。言い換えれば,時間軸に従う歴史が各種行事の形態をとって共時的に,あるいは空間的に展開しているのである。人々の観念を媒介として,行事は過去の記憶の甦りの機会である。そもそも,経済蓄積という概念は,時間軸による変化を空間化してみようとする理論的試みである。ともあれ,経済蓄積の継起的展開にともなって多様な行事の流行り廃れがみられるが,このような行事の意味することを解読することが,農民生活の全体像をみるために大変重要であることを述べておきたい。

2. 経済蓄積の維持と象徴

 村落社会外部との相互交渉を契機として,経済蓄積が継起的に展開することを議論した。新しい蓄積形態の展開は1つの飛躍として現われた。このことは,新しい飛躍が行われるまでは,古い形態のもとでの蓄積が継続し,維持されることでもある。経済蓄積が維持されなくては,稲作は不可能となってしまうからである。たとえば,堰・水路の補修は必ず義務として行わねばならないのである。しかしながら,たんに経済的必要からだけで農民は経済蓄積の維持を十分に行うことができるであろうか。
 言うまでもなく,経済蓄積の維持は個人の仕事ではない。共同の仕事である。したがって,上記の問題は次の問題の一部とみてもよいであろう。経済的利害関係に基づく人びとの集まりは,十分に効率的に所期の経済的目的を成就することができるであろうか。一般的にみて,経済的利害関係だけの集団は非常に不安定であり,分解し易い。僅かの利害対立が生じても,この対立を調停することは原理的に不可能のはずである。したがって,所期の経済的目的の成就は困難であろう。ところが,経済蓄積は継続されねばならないから,経済蓄積を共同で維持する人びとは,経済的利害関係を超越する次元においても,互いに連帯しなければならない。経済的利害関係を軽視してよいというのでは決してない。そうではなく,人と人との間柄の形成は経済的利害関係を基盤としながらも,この利害関係を超越する次元での連帯を不可欠としていることを強調しているのである。たとえば,ただ経済設備がありさえすれば,経済活動が十分に効率的に展開するわけではないであろう。では,どうして利害関係を超越する人々の連帯が形成されるのであろうか。
 和田村を事例にして,この間題を発展させる十分な用意はないが,さしあたって次のような仮設を述べておきたい。今後の課題としてである。経済的利害関係を超越して,別の次元で人びとを連帯させる力は,ちょうど経済蓄積が人びとに対して有する特別な力に相似する。経済蓄積は稲作に不可欠であるという経済的有用性だけで存在するのでは決してなく,フェティシズムの対象でもあった。すなわち,経済蓄積は個人で超越する力を発揮する。このことは次式で示されよう。
 利害関係を超越する力/経済的利害関係:フェティシズム/経済的有用性
 利害関係を超越して,人と人との間を結びつける力は,無媒介的に直接的に発生するのではなく,経済蓄積に対する強烈なフェティシズムを媒介としていると仮定するのである。もちろん,具体的にはフェティシズムは多様な形態をまとって現われる。しかし,どのような形態をとろうとも,集団をたんなる人びとの群れ以上の存在にすることでは変りはない。フェティシズムに起因する力が特定物に結びつけば,この特定物は集団の存在理由を明確にすると観念されるシンボルとなるであろう。また,特定の人物につけば,この人物はカリスマ性を帯びた指導者となる。このようなシンボルあるいは指導者を媒介として,経済蓄積の維持が十分に効率的に行われるのである。
 以上の一般論をふまえて,蓄積の各形態についてもう少し具体的にみておこう。蓄積形態の変容に対応して,フェティシズムの具体相も変るからである。まず,労働力能型の蓄積についてである。労働力能型においては,共同労働組織あるいはこの組織を可能にさせる社会関係という形態をとって経済蓄積が行われるから,このような社会関係を象徴する氏神がフェティシズムの対象となる。人びとは氏神に帰依することで安堵できる。氏神は祭祀の対象となり,人びとは個人の経済的利害関係を超越して氏族のために行動する。氏神は超越的存在となる。現在,和田村では神社は,和田神社,南和田神社,荒神社だけであるが,明治39年ではまだ21社あった。明治39年から明治45年にかけて神社合併が大いに進められ,明治45年わずかに4社になってしまったからである3)。労働力能型蓄積を維持するために非常に重要なシンボルであった神社は,蓄積形態の変容にともなってそのシンボルとしての機能を低下させた。やがて時間の経過に従って社会のわきに追いやられ,人びとも忘れてしまう。最終的には恭々しく合併され,大きな神社に合祀されたのである。
 労働力能型蓄積はもっとも低い生産力段階であり,人びとにとり自然は抗し難い力を備えた荒ぶる存在であった。自然現象は神の仕業と観念され,山の神,水の神,火の神など,神は遍在した。現代人はたんなる自然現象とみるが,古代人は自然現象という形態をとった神をみた。神の実在である。そこで,遍在する神は信仰の対象であり,この神々の加護の下で行われる経済蓄積もまた信仰された。神の恵みである生産物は経済蓄積を媒介にして初めて実現された。神々への信仰と稲作は不可分である。和田神社にみられるような氏神の社は,人びとの信仰を形象化したものである。ところが,蓄積形態の変容は遍在する神をも後景に退かせることになった。新しい蓄積形態というコンテキストのもとで,古くからの神も新しい役割を果すことになる。
 土地型蓄積においては耕地が特別な意味をもつ。現代でも,耕地を先祖伝来の土地という。耕地はフェティシズムの対象で,自己を超越する先祖と固く結びつく。先祖は氏神とは異なる。先祖は仏壇で祭祀され,家族の永続性のシンボルである。言うまでもなく,この永続性は耕地の形態で存在する経済蓄積の永続性に対応している。労働力能型の蓄積とは異なって,土地型蓄積では蓄積は耕地という形態をとって社会関係の外部に安定的に存続する。すなわち,耕地の維持は経済的合理性に基づく行動だけではなく,経済的利害関係を超越する超世代的な家の存続によって初めて可能となるのである。家の存続は先祖霊の崇拝を不可欠とする。先祖霊は仏である。本来的な教義では先祖霊崇拝とは関わりない仏教であるが,民衆仏教は先祖崇拝と仏教儀礼の一部に取込んで定着している。葬式,死者供養は仏教儀礼である。仏教儀礼で浄化された死霊は先祖霊として崇拝され,そして先祖を供養することで死者と生者は一体化する。家の存続が確かめられるのである4)。
 ところで,土地型蓄積の維持は1つの家だけではまったく不可能である。多くの家の協力がどうしても必要である。たとえば堰・水路の維持は関係する何十もの家の協力を不可欠とする。堰・水路が適切な状態になければ,耕地の豊度も低下してしまう。土地型蓄積の減少である。そこで土地型蓄積の維持は家と家との協力を永続化させ,固定化させる。家と家との連合が制度化すれば部落である。家の耕地が集合して部落の領地が形成される。領地は明確に線をひくことができるような正確さで区分される。家連合の制度化としての部落は,家を超越すると同時に自己を越える存在である。部落は部落の氏神で象徴される。労働力能型の蓄積と異なる役割を氏神社は部落に対して果す。神社は部落結合のシンボルである。氏神信仰が一定の拡がりをもつ人工潅漑の維持を可能にし,耕地の豊度維持が実現するのである。
 したがって,土地型蓄積の維持は重層的な信仰によって可能となる。個別的な家は仏教を信仰し,家連合である部落は神社を支持する。さらに古くからの神々が多様な形態のもとで存続している。この多様な神々は民間信仰の対象である。すなわち,仏教,神道,民間信仰が習合して存在する。複雑な宗教複合である。多様な信仰は相互に補完しながら,全体として一つの宗教領域を構成する5)。
 和田村には数多くの寺院がある。浄土宗,真宗,曹洞宗,日蓮宗など各宗派の寺院である。同じ宗派に属する寺院もいくつもある。必ず家はどこかの寺院を旦那寺にしているからである。葬式,供養は旦那寺の住職を招いて行われる。盆の旋餓鬼,お十夜,大師講など寺院の祭りもいくつもある。壇家は,毎年,定められたお布施を旦那寺に納めねばならない。寺院の維持のためである。寺院での行事に手伝いにくる人も少なくない。奉仕である。毎月1回,寺院で念仏を唱える人さえもいる。しかし,壇家は家を単位としていて,部落とは直接には関係しない。遠くからやってくる壇家も少からずあるし,近くに住んでいても宗派が異なれば,他寺院を旦那寺としている。しかも家の宗派が変ることは殆どない。すなわち,民衆仏教は家の宗教である。
 神社は和田神社と南和田神社がある。和田神社は7部落,南和田神社は2部落(南和田,太子堂)が氏子となっている。寺院が家を構成単位としているに対して,神社は部落を単位としている。したがって,部落のすべての家は同一神社の氏子となる。各家の仏教宗派は関係ない。神社の運営は氏子総代が当る。かつては地主であったが,現在では長老が総代になる推薦制である。
 和田神社の祭神は譽田別尊,健御名方命,大己貴命で,明治11年,村社となった6)。しかし,これら神々への崇拝ははるか以前から行われていた。諏訪大社の末社としてである。寛元4年(1246),諏訪社系の氏人である金刺為兼が和田郷地頭に安堵されている7)。和田郷の人びとは諏訪大社の修理にも奉仕に出ている。他郷の人々が垣根の修理を割当てられている場合でも,和田郷の人々は社殿の修理に当っている8)。言い換えれば,和田村は古くから開発が進んでいて,経済蓄積が行われていた。この蓄積の維持が諏訪大社の大神の超越する力によって安堵されたのである。経済蓄積は水田とともに畑地あるいは狩猟という形態も大きな比重をもっていたであろう9)。ところが,土地型蓄積が卓越することによって,神も遍在する神から,ごく限定された土地に関わる神に変化した。部落の神にである。そして,部落の神を媒介として,人びとは結びつき,耕地としての経済蓄積が維持されることになった。
 正月を初めとして多くの年中行事あるいは通過儀礼に際して,しばしば人びとは神社に参拝する。しかし,部落の人びとの社会統合を可能にした神社のシンボル的機能は,秋の祭りにおいてもっとも顕著に現われる。和田神社は9月23日と24日がそれぞれ宵宮と本宮である。1日おくれて,和田南神社は24日と25日が宵宮と本宮である。祭りが最高潮に達するのは宵宮から本宮にかけてである。和田神社では,夜8時から10時にかけて,各部落から舞台(ブテン)がやってくる。わら人形が舞台上に飾られ,お囃子がはなやかに奏せられ,人びとは行列をつくって練り歩いた。神社の鳥居のところでは,舞台はゆきつもどりつして雰囲気を盛上げた。高潮した雰囲気の中で喧嘩も勇ましく行われた。他部落との対抗は部落の結合を一層強めた。その後,鳥居をくぐった人びとは神主の祝詞を受けた。神社のもつ社会的意味は,経済蓄積の形態変容のもとでまったく変ってしまったのである。
 民間信仰も多種多様に行われている。たとえば祝殿である。屋敷地の一隅に詞が設けられ,祭神が詞られている10)。祭神はまことに多様で,秋葉,稲荷,金毘羅,祖霊,八幡,三峰,白山などの神もあれば,庚申,弁天などの仏もある。詞には幣来,神符,木札,碑石,神像,御鏡,掛軸などが御神体として安置されている。年1回,同族マキが共同で祭祀する。同族マキの結合のシンボルとして機能したが,同族を構成する家の独立が強まることによって,家の屋敷神としての性格をも持つようになった。祭神が多様であることは,経済蓄積の形態変容に際して,遍在した神が限定した神に変ったことに対応するのである。言い換えれば,労働力能型の経済蓄積の維持を可能にしたシンボルが,土地型蓄積においては祝殿の祭神に変容したのであろう。
 また,講も盛んであった。11)。伊勢講,三峯講,戸隠講,庚申講,念仏講など,多くの講活動が行われてきた。講を構成する人びとは定められた日に会食して,互いの親睦を深めた。伊勢講など神社を対象にする講は代参講であった。特定の人が仲間を代表して神社に参拝して,御札を頂いて来た。しかし,人びとの生活にとってとくに重要な講は庚申講である。60日に1回カノエサル(庚申)の日に集まって共食する。頭屋は順番制である。掛軸をかけ,団子,神酒を庚申様に供える。この講が重要なのは葬式の手助けを行うからである。親戚・知人への連絡,死亡診断書の届け,葬式の準備,御棺運び,墓掘りなど,講仲間がすべて行う。したがって,各家は必ずいずれかの庚申講に属している。このように生活に必要な社会組織も,神仏という超越する存在を媒介として永続できるのである。伊勢講においても,村落を外部社会に結びつける媒介として,神社が必要であることを示している。そして,外部社会との接触を経由して,講仲間の結束が強められているのである。
 土地型蓄積を維持するための多様なシンボルについてみた。寺院,神社,民間信仰についてである。これら多様なシンボルの具体例についてさらに詳細に述べるべきかもしれない。たとえば水神の祭祀である。毎年,1月14日に,川端に繭玉を供えて,水神をまつる。川施餓鬼である。また,和田村三溝には水神をまつる神社があった。遍在する神の特殊化の事例である。このような具体例は非常に多い。しかし,小稿では具体例の詳細な記述はさておいて,つぎのことを仮設として述べておきたい。神仏習合と言われる現象はきわめて複雑であり,神も仏もそれぞれ非常に多様である。しかしながら,多様な神仏が無意味に形成され,習合したのでは決してない。神も仏も人びとの生活を加護するものとして意識されてきた。経済蓄積の維持も,神と仏が存在してはじめて可能であった。むしろ,経済蓄積の継起的発展が多様な神仏を形成してきたと言えよう。したがって,神仏習合もたんなる無秩序な混合ではなく,一定の構造を備えているのである。
 労働力能型と,土地型の経済蓄積の維持とシンボルについて議論した。もう1つの経済蓄積である機械型についても一言しておきたい。経済蓄積の維持を可能にするシンボルも変った。新しいシンボルは資本あるいは貨幣である。経済蓄積を維持するための人と人との結合も,変容した。人と人との直接的結合は不要となり,貨幣を媒介とする間接的結合が主流となった。これまで経済蓄積を維持してきた人と人との直接的結合は傍らに押しやられ,時代おくれの印象を人びとに与えつつある。経済蓄積の維持は,個人が貨幣を所有すれば可能であるから,土地型蓄積の維持に当ってきた家も不安となってしまった。個人の再生産にとって家族は不可欠であるが,家は必ずしも必要としない。むしろ,貨幣獲得のためには家族だけで必要にして十分であり,家は非合理的とされてしまう。かつて家は合理的であったからこそ,長い間,存続してきたはずである。このように家がシンボルとしての力を失えば,先祖の土地という観念も古ぼけたものでしかないであろう。経済蓄積であると同時に経済的利害関係を超越する存在であった土地は,地価の対象でしかないものになりつつある。しかし労働力能とか土地に対するフェティシズムから解放されたが,新たに人びとは貨幣資本のフェティシズムにとらわれてしまった。生活のために働くというより,より多くの貨幣獲得を目指して働く。貨幣獲得それ自身が目的となりつつあるのである。兼業,出稼ぎなど,貨幣獲得のある機会を求めて人びとは働く。このような貨幣シンボルの優越は,古いシンボルによって意味づけられていた多くの行事を無意味にし,形骸化させる。人と人との間柄も変容させてしまう。すなわち,経済蓄積の形態変容にともなって,現在,1つの社会変化が生起しつつあるのである。この社会変化について,後で改めて議論したい。

3. 年中行事とその変容

 経済蓄積の継起的展開が多様な神と仏を形成した。この歴史過程は,現在,寺院,祝殿,道祖神,小祠,水田,堰,水路,集落などによって空間的に表象されている。言い換えれば,これら空間的な表象物の解読が歴史過程の再構成を可能にするはずである。解読の方法は多様でありうるが,その1つは年中行事に求められよう。年中行事は人間を超越する存在を媒介として,1年の時間の秩序づけであるからである。この超越する存在は神であり,仏である。すなわち,さきにみた経済蓄積の維持を可能にする神仏と重なる。小稿は,詳細に年中行事を記述するのではなく,2,3の行事を事例としてあげておきたい。

 三九郎・ドンド焼き
 1月15日,部落の道祖神の前で松の木を焼く。4~5メートルの松の木3本を3又にして組立て,ここに正月の門松,わら,しめなわを入れて燃やす。
子供たちの遊びである。子供の書初め,女の色紙の袋も燃やす。書とか裁縫の腕があがるためである。子供たちは大人から小銭をもらった。とくに嫁取りのあった家,出産のあった家からは多くもらった。道祖神は縁結びの神であるからである。子供たちは非常に露骨なセックスの歌を歌う。子供は神の使いとみなされたのであろう。道祖神は多義的な神で,賽の神でもある。村落の中央にあって,悪疫が村落の中に入ってくるのと防ぐのである。そこで厄除けの祈願にも拝まれる。言い換えれば,道祖神は村落の内と外を明確に分ける境界を象徴的に示しているのである。村落の外は不確実性の領域で,危険に満ちると同時に幸福も隠されている。この境界の神は縁結びにとも豊作とも関わる。
かつて遍在した神は,現在,道傍の神にその名残りをとどめる。13)。

 小正月の予祝行事14)。
 1月14~15日には各種小正月の行事が行われる。今年の稲作の豊作を願う行事である。この行事の1つに繭玉がある。米の粉で繭団子をつくり,柳の若木にさし,部屋に飾る。また,この時期に粥かき棒をつくる。15日の粥をかきまわし,その後,神棚とか恵比須棚とかに上げておく。この棒は神の依代として機能し,魔力をもつ。苗代の種播きの直後,この粥かき棒を水口に差しておく。3本から5本である。柳はよく育つとされているからである。焼米も同時に供える。また,この時につく餅にはよもぎとわかめを入れる。いずれも緑色である。稲の発育を表わす。稲作は人びとの行動だけでは成就されず,超越する神の助力があって豊作が可能となることを,行事は物語る。超越する神への祈願である行事を媒介として,経済蓄積の一分肢である知識が現実化される。神は自然の諸力の象徴であるから,稲作は自然を人間に対立するものとして客観視するとともに,自然と同化しようとする行動でもある。したがって,稲作の成果は神の恵みでもあるから,米は大切な経済財であるばかりでなく,超越的な魂が宿る存在でもあるのである15)。

 お十夜
 収穫を祝って,米団子がつくられ,お十夜の行事が行われる。11月であるが,日は部落により一定していない。元来,お十夜は浄土宗の行事で,旧10
月10日を中心とする10日間の連夜念仏の勤行が行われたことに由来するそうであるが,現在は,収穫を祝う行事に意味転化したためであろう。和田村真光寺では11月14日に行われるが,衣外部落では11月23日の新嘗に公民館で催される。真光寺では壇家が籾を寺院に運び,住職に贈る。寺院は甘酒でもてなす。そして,昼間,壇家の嫁,姑が集まって団子をつくる。夜,家族連れで本堂にやってくる人びとに,団子を振りまく。もちろん,お勤も行われる。収穫感謝が先祖供養と結びついて,豊作をもたらす神と仏としての先祖が一体化しているのである。

4. 年中行事の形式化

 すでにみたように,経済蓄積形態が機械型に移行することは,経済蓄積の維持が資本あるいは貨幣をシンボルとして行われることでもある。ところが,伝統としての年中行事は土地型蓄積と深く結びついていた。土地型蓄積を有効に使用し,かつ維持することを可能にするシンボルは,同時に,年中行事に一定の意味を与えるシンボルでもあった。人間を超越する多様な存在であり,神であり,仏である。しかも年中行事は農事暦に従って構成されているから,年中行事は稲作に一定の超越的な意味を与え,稲作による疲労を慰し,生産に活力を与えることになる。ところが,経済蓄積の主体が機械に変ってしまえば,これまでの年中行事を意味づけていたシンボルも変容せざるをえない。意味を失った行事は,当然,形骸化する。昔からの行事だからということで行われるか,あるいは非合理的という理由で廃止されてしまう。たとえ特定の年中行事が残存するにしても,その年中行事が担う意味は変化せざるをえない。新しい社会的コンテキストの中で,新しい意味が付与されるからである。たとえば,神社の秋の祭りである。伝統的には,神社の祭りは神を媒介として部落の人びとを結びつけた。同時に,人びとと自然との関わり,すなわち,稲作も神を媒介としてはじめて可能であることが確かめられた。しかし現在では,祭りは個人的なリクリエーションの性格を強くもつにいたった。機械型蓄積においては,蓄積は個人が行うのであり,かつて必要であった部落結合の重要性は著しく低下した。さらに重大であることは,維持のシンボルが貨幣になったことである。貨幣はまったくの人工物であるから,当然,かつて形成されていた自然との象徴的な関わりは衰える。したがって,神の仰隆臨は祭りの中心ではもはやなくなってしまうのである。このような経済蓄積を維持する機能を果していたシンボルが変容してしまったことは,言うまでもなく,これまでの年中行事にも大きな影響を及ぼした。年中行事は,人間と神との交流を契機として,1年の折目をつける行事であるから,神の衰弱は行事の意味を空疎のものとしてしまうことにならざるをえないのである。
 もう少し具体的に年中行事の変容についてみておこう。まず,田の神に関わる行事はほとんど姿を消してしまった。機械型蓄積においては,豊作は化学肥料,農薬に任せられる。この結果,水口祭り,田植えの際の神事,虫送りなど,現在はなくなってしまった。すなわち,畑苗代の普及は水口祭りをなくし,化学肥料の多量投与は田植え神事に,農薬は虫送り行事に代替した。これら新しい方法は稲作をより安定させ,より収穫を増大させた。また,養蚕がなくなったことは,籾,繭玉様に対する信仰もなくした。かつての超越的な神に交替して,科学が登場したのである。しかし,超越的な神から科学への交換は,人びとの自然に対する関係の仕方を基本的に変えた。超越的な神は自然の諸力の形象化であったから,超越的な神を媒介として人びとは自然と一体化することが可能であった。ところが,科学は違う。人びとにとって,科学は一種の擬似的自然であって,人びとの科学に対する信頼は,人びとを自然から疎外するように機能する。人びとと自然との関係は科学によって媒介されるのではなく,断絶したのである。
 神社での行事も衰えた。さきにみたように,神社の祭りは部落連帯の象徴的表現であった。ところが,農業生産の個別性の高まりが,部落連帯を希薄にした。神社の祭りの意味も変化せざるをえない。かつてのように人びとが神社の祭りに熱中することはなくなった。祭りの際の酒の消費量は減り,代りにビールが増加した。神社の祭りに,以前ほど人が集まらなくなったのである。村落の多くの青年は大学遊学,就職,出稼ぎなどで,他出してしまった。神社の祭りに帰ってくる人も少なくなった。とくに,南和田神社は氏子は2部落だけであることから,祭りのさびれ方が目立つ。村落に残っている人びとも勤め人が多く,祭りに対する興味は薄れていて,人びとを集めるために映画をやっても,集まる人は少ない。テレビがあるからである。以前は,部落の人びとが自らお白粉をぬって芝居をやったほどである。また,祭りには客が多勢くるから,祭り用のご馳走を用意していた。手製羊羹,切りいか,ごまめ(田作り)の三盛りである。他出している嫁,親戚などの訪問が楽しみであった。主婦にとって,祭りほど嫌なことはなかったと言われる。ご馳走の用意,客の接待にばかり忙しく,神社の集まりを見る機会がないほどであったからである。
 仏事の形骸化も目立つ。世間体が悪いからということで法事を行う。8月のお施餓鬼に代理人を頼むこともある。また,浄土宗では3月25日の法然の御遠忌は大切な行事であるが,今は出席しないで済ませてしまう。お十夜も,衣外部落では公民館で行なう。11月23日の新嘗の日にである。かつて,寺院は小作地を所有していて,優雅な暮らしができたが,今では無住職の寺院さえもある。壇家の少ない寺院の住職は生活を立てるのが大変なのである。土地型蓄積においては,超世代的な家の存続が個人より優先していたが,機械型蓄積では個人の比重が著しく高まった。このため超世代的な家と結びつく寺院は衰えざるをえない。したがって,寺院の社会的機能は著しく縮小してしまい,葬式あるいは近親者の供養に限られるようになった。しかし,他方では,超世代的な家に代って,一部では,個人が寺院と新たな関係を持つこともある。例えば,身上相談である。人生の悩みごとを住職に聞いてもらうのである。このような寺院行事に対する人びとの態度の変容に対応して,寺院は庫裡,便所の改築など,人びとが集まる便利な建物に改められつつある。伝統仏教が活気を失いつつあるに対して,新興宗教,たとえば創価学会が普及活動を行なっている。家の宗教というより個人の宗教としてである。
 これまでの経済蓄積に基礎をもつ信仰とシンボルが内容を失い,たんなる形骸となり,さらには衰える過程にあって,機械型蓄積の維持は,資本の神格化によって成就される。すなわち,資本は生産の一要素であるだけでなく,超越的な意味作用をもつ。資本増殖それ自身を目指して,人びとは献身的に働くのである。このような資本型蓄積は,本来的には祭りと両立しがたい。祭りは複数の人びとの共同行動であり,個人の祭りは形容矛盾であるからである。かつての祭りの機能は一部はテレビに代替された。テレビが提供する芸能,ドラマにである。また,自動車も個人的楽しみを動機の一部として購入される。ほとんどの家族が,現在では自動車を所有している。たしかに,自動車がなければ大変に不便であるに相違ないが,自動車は一種の密室であり,スピードは人びとを酔わせる力をもっているのである。かつて,人びとが祭りに際して感じていたマツマリという雰囲気は消えた。マツマリは人びとの集まりによる昂揚した気分を表現する。

5. 経済蓄積の転換のシンボル

 経済蓄積の維持が,たんに経済的合理性にもとづく行動だけではなく,非経済である信仰にもとづく行動によって,はじめて可能となることをみた。大神,土地神,先祖霊などに対する崇拝である。ところが,経済蓄積は維持されるだけでなく,むしろ増大する傾向をみせ,あるいは画期的な形態変容を成就することもあった。そこで,経済蓄積の形態変容の契機について議論しておきたい。
 一定の経済蓄積の形態のもとでも,時間の経過にともなって生産に関する有用な情報は増加し,しばしば技術改良が行われてきた。たとえば,土地型経済蓄積のもとでは,技術改良が極限的といってよいほどまでに積上げられ,園芸的と形容される農業技術体系をつくりだした。技術改良の新しい展開は経済蓄積の新しい増加である。さらに,経済蓄積の維持に当る人びとも一定ではない。必ず世代交替があるし,その上,他社会(世間)との交流もけっして少なくなかった。世代交替とか他社会との交流は,経済蓄積を増大させる契機になる可能性を常に潜在的にはもつ。言うまでもなく,自然災害,悪疫の流行,戦争などが経済蓄積を破壊することも,けっして稀ではなかった。しかし,ごくおおまかにみれば,時間の経過に従って,経済蓄積は増大する傾向にあったとしてよいであろう。ところが,このような経済蓄積の増大は,おのずから経済蓄積の形態変容となるのではない。経済蓄積の増大が蓄積形態の変容を準備するにしても,両者はまったく異なることがらである。経済蓄積の形態変容は新たなシステムへの跳躍であるからである。そこで,この跳躍を促し,可能にした契機についてみておきたい。
 経済蓄積の形態変容の契機は,村落社会とより広範な地域との交流である。経済蓄積の維持を可能にするためにも広範な地域との交流を必要としていたが,形態変容の場合には,交流の性格がまったく異なる。維持の場合には,村落社会とその外部との間に,経済交換が成立していた。しかし,形態変容の場合には,経済交換が村落社会の内部にも入りこんで,生産過程の一部あるいは全部をもとの支配下に置こうとするのである。
 部落を超える社会関係が形成される過程で,経済交換は大きな役割を果した。各種商業活動である。多様な行商人,農作物・養蚕の販売を媒介として,商業活動は古くからあった16)。しかし,これら専門的商人の活動のほかに,人びとが積極的に商取引に参加する機会があった。松本における市である。すなわち,他所から訪れてくる商人を待つのではなく,松本の市に人びとは積極的に出かけた。マチに行く,とは松本に出かけることである。マチは各部落から来た人びとが集まる場所であり,部落を超える社会的結合が形成される結節点であった。大変逆説的であるが,松本は部落の外部にあることによって,部落を超越する社会結合の中心となった。すなわち,象徴的には,周辺が中心に転化するのである。松本の2重的性格である。
 しかし,このような松本の中心性はおのずから形成されたのではない。超越的な神の存在を媒介としているのである。この神は部落の神社の神とは異なって,より広い地域に弘通する。いくつかの市(いち)について簡単にみておきたい。
 まず,1月9・10日の塩市である。本町から伊勢町にかけて塩市がたち,大変な賑わいであった。現在,飴市となっている。市神をまつる。7月24日は天神祭りである。本町通りの大店も商いを休み,屏風を立てた。この天神祭りは天主祭祇園会で,悪疫を追放する夏祭りである。祭りには活動写真が催され,サーカスがやってきた。10月1日から3日まで神道祭がある。四柱神社の祭りである。仕掛花火,山車,人形飾りがあり,人びとの雑沓で通りが一杯になる。11月19・20日は恵比須講の大売出しである。他出していた恵比須様が稼いで帰ってくる日とされる。松本の市の4行事を事例としてあげた。
 これら行事はたんに松本の行事であるだけでなく,マチとしての松本の行事でもある。すなわち,近在からたくさんの人びとが集まり,商いが盛んに行なわれる。催事,露店商も賑わう。祭りにおいては,部落の枠は超えられて,広範な人と人との社会関係が成立しているのである。言いかえれば,マチの神を媒介として,広い地域の人びとの社会関係が成立する。このようなマチの祭りに噴出するエネルギーが,これまでの経済蓄積の形態に適応できなくなる場合,新たな経済蓄積の形態への方向が求められることになる。新たな経済蓄積の形成は,尨大なエネルギーの投入を必要条件としているからである。
 部落を超える広い社会関係が形成される過程で,商業とともに教育の果した役割も非常に大きい17)。明治5年の学制領布以前においては,寺小屋,家塾が大きな教育機能を果してきた。寺小屋では読み書きを教えた。文字を読み書きすることは,当然,部落の範囲を広く超える。勉学される文字が通用する限りの普遍性をもっているからである。今ここにという具体性に代替して,文字は普遍的であり永続的である。
 文字を媒介として,人びとは非常に広い領域と関わることが可能となった。このような可能性が経済蓄積の新たな展開をも可能とするのである。家塾は国学,漢字を教えた。和田村では,庄屋の荻原が家塾を設け,ここに歌人が寄寓して和歌を指導した。このことは,後年,この村より窪田空穂を出すことにも関わる。また,歌人太田水穂は,一時期,和田小学校に勤務していた。このように教育に熱心であったことは,自由民権運動にも関係する。言うまでもないことだが,このように文字を自由にできる人びとは階層的に限定されていたのであるが,しかし,この限られた人びとを媒介として,部落を超える情報が常に教育というメディアを通して部落内に伝達され,取込まれたことは,非常に重大である。土地型経済蓄積を基盤にして,部落が相対的に自立しながらも,しかも教育という普遍的な情報チャンネルを介して,部落は部落と交流していたからである。
 このように商業と教育を媒介として,部落は部落外に拡がる世界と関係していたが,当然,この関係の仕方は部落を構成する人びとに具体的に担われていた。たとえば,部落外との媒介を強く担う人もあれば,部落外との関わりの比較的少ない人もある。そこで,部落外の関わりが多く,部落の内と外を媒介する役割を果した人びとを事例としてみておきたい。経済蓄積の増大,さらには形態変容については,これら媒介者の果した役割が非常に大きいからである。 第1の事例はK氏である。K氏は長い間,梓川土地改良区の理事長の職にあった。すなわち,土地型経済蓄積の維持に最大の責任をもつ職にあった。K氏は明治29年,和田村で生まれ,地元の小学校を出てから,上伊那農業学校に進学した。学校卒業後一時,小学校の代員教員をした。しかし,喧嘩して小学校をやめ,21歳から農業専業でやってきた。1町7反の自作農であった。ところが,叔父が米相場に失敗し,この影響で父も破産した。しかしながらK氏自身は株式相場,米相場で儲けることができ,土地購入に成功したのである。以後,和田村の勢力家として村長を勤め,さらに梓川土地改良区の発足とともに理事長の地位を占めた。このようなK氏の略歴にうかがえることは,K氏が自作農として部落の中でしっかりと生計を立てながら,同時に部落外との関わりを強くもってきたことである。教育については,上伊那農業学校を卒業し,また代員教員の経験もある。ちなみに,K氏は賀川豊彦の思想に傾倒し,自身をアナキストと考えておられる。ただ実践活動には関わらなかったから,警察に検挙されないで済んだのである。しかし他方では,株式とか米相場にも強い関心を示してこられた。言い換えれば,K氏は部落と部落外を媒介する人物の1人でありえた。このようなK氏の人格は,土地改良区の仕事にうってつけであった。土地改良区の構成員の利害関係に対しては,もっぱら「和」の精神で対し,「酒」が利害調節の方法であった。他方では,国家行政,電力会社に積極的に働きかけ,多額の補助金を獲得することに成功した。すなわちK氏は土地型経済蓄積の維持とその増大に非常に貢献したのである。
 第2の事例はI氏である。I氏の父は自作農であったが,破産して土地を手放した。したがってI氏は土地なし農民として出発せざるをえなかった小作農である。しかし農地改革でI氏は自作農となった。自作農のI氏は経営規模の拡大を求めて,新規開田事業の成就に邁進した。新たに開田される土地に対する水の確保に苦労したが,結局,成功した。この事業の過程で,前記K氏の協力もえた。ところがI氏の経営規模拡大への動きは,新開田事業の成功で終りにはならなかった。新たに酪農に乗りだした。この酪農事業は開田事業とはまったく異なる。すなわち,開田事業は一定の拡がりをもつ地域に関わるすべての農民に関係した。ところが,酪農は個別の農家の事業で実施できるのである。水田農業が土地型経済蓄積をもとに行なわれ,したがって部落的な共同行動を必要とするのに対して,酪農は典型的に機械型経済蓄積を基盤にしている。機械は言うまでもなく,乳牛もまた資本の一形態である。したがってI氏は伝統的な部落的結合を跳びこえて,新たな企業者的農業に専心することになった。このようなI氏にとって,農林省が実施した酪農事業計画は大変好都合な計画であった。
 早速I氏は同行者をつのり,全員5名で酪農事業計画に乗りだした。国家から多額の補助金が出たのである。この事業実施により,I氏は決定的に企業者的な農民となった。従来の水田の一部も飼料作物が植えつけられるようになったのである。
 前記K氏は部落の一員であり,部落の内外を媒介したが,I氏は部落の一員として農業を行なうのではない。市場経済の全面的影響の中で,企業者的農民として酪農を行なう。I氏にとって,伝統的な部落結合を象徴する多様なつきあいは,すでにたんなる煩わしさでしかない。まさに新しいタイプの農民が形成されつつあるのである。

1) 経済蓄積,とくに土地型蓄積については次の文献を参照。
 玉城哲 「風土の経済学」『新評論』,1976年。
 労働力能型蓄積には次の文献を参照。
 中村尚司 「共同体の経済構造」『新評論』,1975年。
 従来,経済蓄積は道具型あるいは資本型蓄積だけが問題とされてきた。したがって,土地型蓄積も労働力能型蓄積も経済学のカテゴリーとして一般的な承認を得てはいない。しかし,これら2つのカテゴリーを設定することで,アジア農村社会の国際比較は一つの有効な視点を獲得することができる。あるカテゴリーが意味を持つかどうかは,このカテゴリーが社会の説明に有効であるかどうかに関わるはずである。
 なお,道具は人間の手の働きを外化したもの,とする考えは小論の中でも取入れられている。次の文献は非常に有用である。
 坂本賢三 『機械の現象学』岩波書店,1975年。
2) 玉城哲 「扇状地型用水の変遷と土地基盤整備―中信平和田地区を中心として―」,関東農政局 『長野県における農業水利の展開と農業発展』,1965年,47ページ。
3) 『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第3巻現代下,781ページ。以下,『郡誌』と略記。
4) 在来の先祖崇拝を取込むことが,伝来の仏教土着化にとって不可欠であったと考えられる。このことについては,他の機会に改めて論じたい。先祖崇拝に関する文献は数多いが,先祖崇拝を一定の耕地との関わりで議論した論文は少ない。
5) 超越する存在の継起的展開に関する文献は未だ少ないが,さし当って以下の文献を参照。
 桜井好朗 『神』の変貌―社寺縁起の世界から―」東大出版会,1976年。
 下記の文献は福島県相馬を対象としている。非常に克明な調査であるから,資料としての価値が高い。
 岩崎敏夫 『本邦小祠の研究』名著出版,1976年。
 なお,下記の文献も興味深い。
 岩崎武夫 「在地の語り物と漂泊の文学」『さんせう太夫考―中世の説経語り―』平凡社,1976年。
6) 和田村での間取りと上記『郡誌』,795ページ。
7) 『郡誌』
8) 『郡誌」
9) この地域の山野利用の歴史は不明である。しかし,土地型経済蓄積が卓越する以前においては,他地域においては山野 利用が人びとの生計維持に大きな比重をもっていた。日本全体としてみた場合,近世以前では畑作は水田作よりも重要であった地域は少なくない。この問題について,下記の文献は先駆的価値をもつ。
 大田井弘 「奈良・平安時代の焼畑農業―古代~中世史における山野の問題の再検討―」
 大阪歴史学会編『中世社会の成立と展開』所収。
 なお,諏訪神社については,下記文献参照。
 伊藤富雄 『伊藤富雄著作集第1巻』永井出版企画,1978年。
 この文献によれば,前出の金刺氏は大和朝延の信濃国造である建五百建命の子孫である。金刺氏は諏訪下社の大祝となり,古代出雲族の子孫である神氏族と対立した。
 神氏族と同様に,金刺氏も農耕と狩猟に生活の基礎を置いていた。
 伊藤 「御射山祭の話」『上記著作集』所収。
10) 屋敷神についての記述は,和田村での聞取りと『郡誌』による。
 「祝殿と屋敷神」『郡誌』,1035―50ページ。
11) 講についての記述は,和田村での聞取りと『郡誌』による。
 「講」『郡誌』,1050―63ページ。
12) 年中行事についての記述は,和田村での聞取りと『郡誌』による。
 「年中行事」『郡誌』,835―93ページ。
13) 道祖神については,下記の文献をも参照。
 宮田登 「民俗信仰における性」『原初的思考―白のフォークロア―』所収。
 さらに,ヨーロッパの伝統においても,境界柱としてのヘルメスが豊〓の象徴であるという。
 山口昌男 「アルレッキーノとヘルメス」『道化の民俗学』新潮社,所収。
14) 小正月の行事の解釈については下記の文献を参照。
 武田久吉 『農村の年中行事』有峰書店,1973年。
 鳥越憲三郎 『歳時記の系譜』毎日新聞社。
15) 市場経済のもとでは米はもっぱら経済財としてのみ扱われるが,しかし状況次第で米価は農村社会を統合するシンボルの役割を果す。
 玉城哲 「米の政治経済学」『むら社会と現代』所収,毎日新聞社,1978年。
16) 商業についての記述は和田村での聞取りと『郡誌上』による。
 「商業」『郡誌上』1131―74ページ。
同じく『郡誌下』の関係事項をも参照。
 「縄手通りと神道祭」『郡誌』293ページ。
 「商人の生活」『郡誌』334―36ページ。
 「初市(塩市)」『郡誌』853ページ。
 「天王祭・津島祭」『郡誌』875―76ページ。
 「えびす講」『郡誌』891-92ページ。
17) 教育についての記述は和田村での記述と『郡誌』による。
 「小学校」『郡誌』436―526ページ。