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和装織物産業における在来技術と外来技術

著者名: 岩下正弘
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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 目 次

Ⅰ 課題と問題視角・・・・・・・・・・2
Ⅱ 産地の現状と問題点・・・・・・・・・・9
Ⅲ 大島紬染織の前史・・・・・・・・・・36
Ⅳ 明治以降の外来技術に対する在来技術の確執と変容過程・・・・・・・・・・47
Ⅴ 結論と今後の課題・・・・・・・・・・59


Ⅰ 課題と問題視角

 諸商品の市場性は,その商品化技術に強く依存している。市場が国際化し,需要構造や経済成長速度など,市場環境がたえず変化する中で,これに適応していく製品化技術や市場化技術の優劣が,企業や産業の盛衰と深く関わっていることも論を俟たない。この意味で,国内的にも国際的にも,技術の移転・変容・開発の課題が重視されている。
 本稿は,和装織物産業における産地在来技術の継承や外来技術による技術体系の変容,独自技術の開発に関する経験を,本場奄美大島紬産地の事例を通して考察する。
 衆知のように,本場奄美大島紬は,鹿児島県名瀬市および大島郡一円を組合地区1)とする本場奄美大島紬組合の登録商標(地球印)をもつ大島紬であり,生産技術的には,絹糸を100%用い,絣締機で手作業により2)経緯絣糸の締加工を行い,これをテイチ木(車輪梅)煎液と泥土で染色し,手機で経緯絣糸の柄合せをして織り上げる,いわゆる伝統技術3)を強く温存した先染着尺織物である。当産地の生産量は,昭和53年の年間検反実績で,24万551反,産地生産金額にして267億2296万円4)となっている。これを同年度の繊維産業全体の総市場売上額,43兆3656億円5)や和装織物主要産地の生産額5812億円6),先染着尺主要産地の生産額3531億円7)に比較すれば,きわめて僅少ではある。しかし,当産地の紬産業は,かつての製糖産業に代る奄美群島の生命産業としての意味をもっているばかりでなく,和装産業の需要動向や,それに対応する製品化技術,生産技術を考察する上で,興味ある特徴を示している。
 すなわち,名瀬市の場合,全就業者の40%近くが紬生産の従業者であり,奄美群島全体では島民の7~8割(世帯数では概ね半数)がなんらかの形で紬生産に従事し,支払われる賃金は群島民所得の40%に相当する8)と言われており,この紬産業の奄美群島経済に占める比重は大きい。和装織物需要の面では,オイルショック以来その生産が急激に縮小(先染織物の場合で,昭和53年の生産数量は49年の73.2%に減少)している。その中で,本場奄美大島紬の昭和53年の対49年生産比は,反数で94.5%と僅かな減少をみせているものの,金額では,127.5%の増大を示している9)。これは本場奄美大島紬の商品特徴,しいて言えば,その製品化技術,生産技術,市場化技術などが,需要の高所得層への偏りや高級製品指向,需要の減退など,和装需要の構造変化に対して,より適合的であったことを示すものであろう。このことは正絹先染着尺市場で,もっとも高品位の評価を受けている本場結城紬についても言える。
 いまここで,本場奄美大島紬産地における産地在来技術の外来技術に対する確執と変容過程における問題点やその分析視角を得るために,本場奄美大島紬と本場結城紬の特徴比較,前者に対する本場大島紬(鹿児島県本土産地の旗印商標)や後者に対する石下結城紬の特徴を概観しておこう。
 衆知のように,茨城県結城市,下館市,栃木県小山市を中心産地とする本場結城紬は,真綿から手作業によって紡ぎ出す手紬糸を原料糸として,手括りによる絣くびり,たたき染めなどの手法による染色を行った後,経緯絣糸の柄合せをしながら、日本古来の「いざり機」で製織するもので,重要文化財の指定10)を受けている。生産量は,昭和53年年間で2万8350反と少いが,その需要は安定している(昭和53年の対49年生産比は,反数で100,生産金額で10211))。
 このように,正絹先染着尺市場において,相対的に安定した需要に対応している本場結城紬と本場奄美大島紬は,ともに伝統的な生産技術を強く継承している点で共通している。しかし,前者は後者より,より手工芸的であり,生産量も後者の約10分の1に過ぎない。この相違は,両産地の製品特徴の違いに表現されている。本場結城紬には,生産性は極端に悪いが,手紬糸の風合が,いざり機の製織を通して,織物の風合いに十分に活されている。一方,本場奄美大島紬は,すでに明治28年頃から技術の生産性向上が指向され,その原料糸が在来の手紬糸から練玉糸へ,さらに現在では本絹撚糸へと代替し,また製織も在来の地織(いざり機)から長機(高機)へと変容してきたため,本来的な意味では紬織物ではなくなっている。とは言っても,本場奄美大島紬の伝統的な製品特徴は,絣締機の開発によって,より繊細になった柄模様と,泥染めによる渋い染色や織物の風合にあり,市場では本場結城紬に次ぐ評価を受けている。
 また,両産地は,ともに,同種異品位の織物を産出している類縁産地が存在することでも共通している。本場結城紬産地に対する石下結城紬産地の存在と,本場奄美大島紬産地に対する鹿児島県本土産地の存在である。
石下結城紬は,結城郡で生産されることから,これまで一般には結城紬と呼ばれたり,石下紬と呼称されたりしてきたが,昭和54年4月に,伝統的工芸品の指定を受け,名称も石下結城紬に統一された。生産量は昭和53年年間で18万反。53年の対49年生産比は,反数で100,金額で106.3となっており12),堅調な需要がうかがわれる。生産量は本場結城紬の6倍である。生産技術的には,本場結城紬が,原料糸に手紬糸を使用し,いざり機で製織して,本来的な紬織りの味を出しているのに対し,石下結城紬は機械製糸による手紬風のいわゆる手紡糸[しゆぼうし]1)を用い,機械製織を行っているいわば生産性重視の量産技術と言えよう。
 鹿児島県本土産地の大島紬は,明治7年にその製法が大島本島から鹿児島に伝えられて以来,多くの奄美群島出身者によって発展させられてきた,いわば,奄美産地の分身としての類縁産地である。そして,名瀬市を中心とした本場奄美大島紬協同組合(地球印商標)や笠利町を中心とした笠利町大島紬協同組合(高倉印商標),宮崎県都城市を中心とした都城絹織物事業協同組合(鶴印商標),鹿児島市を中心に鹿児島県一円に産地の拡散した鹿児島県織物工業協同組合(旗印商標)と,鹿児島県絹織物工業組合(朝日印商標)は,ともに,鹿児島県本場大島紬協同組合連合会に加盟し,昭和50年2月,5商標の大島紬が一括されて,「本場大島紬」の名称の下に,伝統工芸品の指定を受けている。この意味で,まぎらわしいとは思うが,本稿では便宜のため,本場奄美大島紬を地球印商標で,また,本場大島紬を旗印商標で代表させて,両産地特徴の区別に用いることにする(何故なら,両名称は,それぞれ,両商標織物の織口文字に用いられているだけでなく,両商標の織物生産量はそれぞれの産地の大部分量を占めており,また,一般普通名称としての大島紬は,韓国をはじめ,国内各織物産地で生産されているので,この区別は意味もあり,妥当であろう)。
 さて,本場大島紬は,昭和53年年間生産反数が41万7348反。53年の対49年生産比は,反数で78.7,金額で94.3と,ここ数年来,大幅な需要減退を示しているものの,昭和51年にはこれまでの最高生産量61万6123反を示し,48年までは,毎年,十数パーセントから数パーセントの順調な生産量拡大を記録している14)。51年時における生産量は,本場奄美大島紬の2.5倍の規模である。生産技術的には,奄美大島紬産地が泥染め,泥藍染め,手機織りによる経緯絣の生産体制をとっているのに対し,本場大島紬生産は,化学染料染め,力織機織りによる緯絣の生産を主体にした量産体制である。市場における製品評価も,本場結城紬に対する石下紬と同様,低品位に位置している。ちなみに,昭和53年時点における各産地の生産平均単価は,1反当り,本場結城紬が17万8571円,石下結城紬が1万8889円,本場奄美大島紬が10万円,本場大島紬が3万9568円15)となっている。
このような,品位や価格面での市場評価の相違が,各類縁産地への需要構造に対応した生産技術の相違に起因していることは明白であり,品質保障技術16)(本場先在産地の場合のように,伝統的特徴を強調した点で,高級化した需要に対して,よりよく適合しようとする生産技術)と,生産性向上技術(場違後発産地の場合のように,本場ものの製品イメージを使用し,類縁需要の拡大を目的に,生産コストの低減や生産性を高めようとする生産技術)との対比的な問題視角は,生産主体の技術運用施策,さらには,それを条件づける生産主体の外部条件,産地体制とも関わっており,本稿の課題を分析する有効な視角となるだろう。
 さて,この品質保障技術と生産性向上技術を識別しながら,技術移転の問題をみてみよう。
 斎藤優氏は,国際的な技術移転理論17)の中で,移転メカニズムや生産性向上のための政策的な要因分析などを行っている。これは本稿の課題を検討する際の問題視角にもなり得ると思われるので,その要点を整理してみたい。
 まず,Y=生産量,L=生産要素投入量,a=平均生産性,?,a,〓=それぞれの成長率,a*=導入技術の生産性,a*=技術導入による生産性の成長率,λ=技術伝播率,b,D=政策変数として,次のような関系式を展開している18)。
 生産関数(1)Y=aL
 生産成長率(2)?=a+〓
 導入技術による生産性増分
 (3)△a=λ(a*-a),a*≧a,1≧λ≧0
 もしすべての人が導入技術を採用すればλ=1,その技術が高度すぎるか他の理由で,全く伝播しない場合はλ=0。(3)を書き替えると,
 (4)a=△a/a=λ (a*-a/a)=λa*
 aは実際的な技術進歩率であり,a*は伝播可能な最大技術進歩である。(4)を(2)に代入すると,(5)?=λa*+〓となる。
ここで,生産要素量は変化しないと仮定されている。そうすると,生産の成長率を最大にするためには,技術導入による生産性の成長率(a=λa*)を最大にする必要がある。しかし,一般的には,いかに優秀な技術でも,導入国にそれを吸収するだけの技術吸収能力がなければ,λ=0となる。また,技術吸収能力の限界をDとすると,a*≦Dで,さらに,高度な導入技術ほど伝播しにくくなる。すなわち,a*の値が大きくなればなるほど,λの値は小さくなるのが普通で,この関係は,
 (6)λ=(a*+1)-b,a*≦D
で表現されると仮定した上で,このような関係のもとに,導入可能な幾つかの新技術,a*iの中から最適なものを選ぶ問題として,
 (7)a=Maxλi・a*i
 を検討している。第1図はこれらの関係を説明するものである。
第1図
 曲線Ⅰ,Ⅱ,Ⅲは伝播曲線と呼ばれており,Ⅰは一定のbの値についてえがかれ,bの値が小さくなるにしたがってⅠからⅡへ,さらにⅢへとシフトするものとされている。b>1である限り,実現される生産性成長率aを最大にする導入技術a*iがOとDとの間にあるはずであり,ai=λi・a*iを最大にする(λi,a*i)の組み合わせを選べばいいことになる。
 以上のことから,もし,技術伝播率が同じなら,より高度な技術を選べばよいし,技術進歩が同じなら,伝播率のより大きい技術を選択すべきこと,また,たとえ技術進歩がなくても(a*iは同じでも),現在の技術伝播率を高める(bの値を小くする)だけで,国全体の生産性は上昇させ得ること,また,Dの限界点を右へシフトさせるため,技術吸収能力を増大させるなど,そのとり得る政策を提示している。そしてその政策形成の基盤となる技術伝播率の決定因として,技術格差や既存産業に比べた利潤率格差,投資規模,伝播メカニズムの効率,競争の問題などが検討されている。
この移転理論は,もちろん国際的な観点での政策形成と関連したものではあるが,これは国内における産地産業間の技術移転に対しても有効であろう。何故なら,本場奄美大島紬産地の場合,分業によって産地の生産を担っている生産者の規模が,非常に零細なため,その生産を支援している染織指導所や紬協同組合,産地行政機関等の果す役割はきわめて大きいからである。すなわち,染織指導所は生産技術や製品の開発・指導・普及を通して,産地の技術進歩(a)や新技術(a*)の伝播率(λ)を高めるのに寄与している。また,紬協同組合は,当該産地製品の信用・登録商標
の管理・製品検査や産地内外に対する利害調整施策を通して,また,県や市の行政機関は,各種の産地振興策や財政支出によって,いわゆる産地体制の強化・技術吸収能力(D)の拡大に寄与している。
 ただ,この移転理論では,技術の生産性や技術進歩は,それらがもたらす成果の貨幣量で表されているので,本稿の課題のように,生産技術の使用価値的内容を問題にする際は,先に指摘した本来的な意味での物量的な生産性(単位時間当り,単位就業者当りの生産量)向上技術と,製品の需要・使用目的に適合しようとする品質保障技術を識別しながら,それらの市場成果を,この技術移転理論で言われている生産性に包含させる必要があろう(本稿で「生産性向上技術」と表現する時は,物量的な生産性の向上技術を示すものとする)。
 ちなみに,多くの和装織物産地において,たとえば,ジャガード機や力織機,化学染料,昭和30年代後半から40年前半のウール・化合繊の利用等にみられたように,原材料や染織面で,生産性向上技術が普及し,低コスト,低価格を実現し,結果的に,技術や製品の画一化が著しかった分野では,一時的に,急速な需要の伸びを示したものの,反面,技術の伝播速度は早く,競争の激化や,すでに急速に変化していた被服使用体系(日常着や外出着の洋装化,和装需要の礼装用化)に適応できず,その需要は急速に停滞している。一方,昭和40年代後年から著しくなった和装需要の高所得層への偏寄りや需要の高級化,趣味的な個性化傾向に適合する品質保障技術として,産地の個性的な伝統技術による独自な製品特徴を強調し得た分野では,今日まで,一貫してほぼ堅調な需要を記録している19)。しかし,その際,製品の高級化概念には,本来的な意味での品質保障技術の高度化,製品品位の高級化概念と,製品の品位は不変でも,生産の経済的要因によるコスト高を反映した高価格製品としての高級化概念とが無区別に混在しがちであるので,本稿ではこれも峻別しておきたい。
 元来,商品は,本質的には価値と使用価値の統一物であり,市場で価格形態をとって価値交換される使用価値でなければならないので,その生産技術から品質保障技術と生産性向上技術の問題視角を欠落させ得ないのは,むしろ当然であろう。
したがって,本稿では,本場奄美大島紬産地が,産地の伝統的な生産技術・製品特徴を継承しながら,時流に沿った商品特徴のバリエーションを生み出すべく,ある時には生産性向上技術として,ある時には品質保障技術として,外来技術を在来技術に活してきた,具体的な産地施策の条件やその過程を検討してみたい。これはまた,かねて筆者が主張している「使用価値論に基礎をおいた商品学方法20)21)」による商品やその生産技術の分析視角でもあるので,和装織物という使用価値が,衣服の消費構造の中で,どのように変化し,市場に適合する製品が,どのような生産技術の下で生産され,また,そのような製品や生産技術が,使用価値としてどのような変革的拡大再生産を遂げているかもみてみたい。
 このような目的に沿って,まず次章Ⅱでは,本場奄美大島紬の需要動向と,それに対応する産地の生産技術や生産体制が抱えている問題点を把握し,それがよって生じた条件や歴史的な過程を考察する経糸を探るために,産地のおかれた現状を分析する。
 Ⅲでは,在来技術と呼ばれる生産技術の原点を知り,大島紬の本来的な特徴を探りたい。
 Ⅳでは,大島紬の伝統的な製品特徴や生産技術が,外来技術とどのように確執し,変容されながら再生産されてきたか,その過程を生産工程別に整理し,その過程で,産地の生産体制の中に生じてきた幾つかの間題に対応して,産地の諸政策主体がとってきた政策形成の条件やその動向を検討する。
 Ⅴでは,絣締工程の生産性と品質保障技術との関連で,機械締機導入の可否をめぐる今後の課題や,韓国産大島紬などの産地拡散に対応する産地の生産体制の在り方について,若干の見解を試みてみたい。

 注
 1)岩下正弘「本場奄美大島紬産地における検査・商標制度と品質保障体制」『同志社商学』第29巻4,5,6号(1978年)157ページ。
 2)昭和50年10月25日,本場奄美大島紬協同組合臨時総会で決定した本場奄美大島紬の定義。
 3)昭和50年2月,「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(49年5月施行)に基く,「伝統的工芸品」に,「本場大島紬」として指定された。
 4)昭和54年市町村別生産反数(本場奄美大島紬協同組合受検分)。
 5)矢野経済研究所『繊維白書』(1980年)「まえがき」。
 6)矢野経済研究所『きもの産業白書』(1980年版)60,61,86ページより算出。
 7)同書86ページ。
 8)高向嘉昭「大島紬産業における産地流通構造の実態と問題点」『マーケティングと地域環境』日本商業学会年報1977年度,100ページ。
 9)『きもの産業白書,1980年版』86ページより算出。
 10)昭和30年3月,重要無形文化財の指定を受け,52年3月,伝統的工芸品に指定されている。
 11)『きもの産業白書,1980年版』86ページより算出。
 12)同書86ページより算出。
 13)手紡糸は手紬糸とは異なり,手紡機と呼ばれる錘(スピンドル)のついた道具で紡ぐもので,糸に撚りがかかっており,張力が強い。
 14)鹿児島県織物工業協同組合『鹿児島県織物工業協同組合60年史』79ページ。
 15)『きもの産業白書(1980年版)86ページ。ただし,この平均単価には,経緯絣の12万9227反,緯絣の25万7302反の他に,縞格子の2万6919反とその他の3915反の生産量が計上されているので,厳密に,本場大島紬の単価を示すものではないが,本稿ではこの値で代置する。
 16)岩下正弘「西陣関連産業における技術連関と品質保障面での商慣行―技術革新と商品生産の観点から―」『社会科学』23,同志社大学人文研究所,1977年,25ページ。
 17)斎藤優『技術移転論』文眞堂,1979年。
 18)同書24-25ページ。ただ表現には筆者の解釈が入っている。
 19)前掲論文「本場奄美大島紬産地における検査・商標制度と品質保障体制」157ページ。
 20)岩下正弘「商品学方法論―使用価値論と品質論を中心にして―」『同志社商学』23巻5号,1972年。
 21)岩下正弘「商品学方法論(2),使用価値論における商品論の基礎―使用価値体系を中心にして―」『同志社商学』28巻5,6号,1977年

Ⅱ 産地の現状と問題点
 一般に,生産技術や生産体制は,それらの発展過程の現状と将来の可能性に立脚した生産目的によって規定される。生産目的は当該生産物の市場標的とそれへの適合性,すなわち,目標生産物の市場構造から要請されるその市場性(需給量,価格,品質動向と利益目標に適合する製品特性,コスト,生産量)を基礎にして設定される。
 したがって本章では,本場奄美大島紬産地の生産技術や生産体制の特徴と問題点を把握し,Ⅲ・Ⅳでそれらが生じてきた歴史的経過や諸条件を考察するため,まず,本場奄美大島紬の和装織物市場における市場性の分析から出発して,生産技術や産地生産体制の現状をみてみたい。

1 和装織物市場における本場奄美大島紬の特徴と位置づけ
 第1表は,和装織物需要の動向を,家計調査年報1)によって,昭和45年を100とし,全国・全世帯平均の1世帯当り年間品目別支出金額と購入数量の昭和49年,53年各々の対45年比率で表したものである。
第1表 1世帯当り年間家計消費支出
 「かつて30年代後半から40年代にかけて,小巾絹織物の産地において,ウール,化合繊糸を使用した中級,大衆品の多量生産が試みられ,大衆品需要の喚起を通して,当時生活様式の洋風化の進行の中で,その存在を稀薄化しつつあった着物を,再び身近なものとして呼び戻すことに大きな貢献がなされた1)」とされている毛織着尺地や化繊着尺地,綿着尺地,及び婦人絹着物以外の多くの和服需要は,40年代の中頃以降,急激な減少を示している。「他の婦人着物(分類番号603)」の支出費目では,53年の対45年支出金額比が43,購入数量比は27に減少している。その結果,消費支出に占める和装費2)の比率は年々小さくなり,53年には1.06%になっている。
第2表 昭和53年度年間収入別1世帯当たり家計消費支出
第3表 婦人絹着物の年間収入階級別支出格差と伸び率(45/53)及びシェアの変化
 一方,婦人絹着物の消費支出に占める割合は,45年が0.44,49年が0.47,53年が0.46とほとんど変らず,53年の対45年支出比は275で,全消費支出の伸び,258を上回っている。しかし,購入数量比では緩かな減少がみられる。絹着尺地の場合も,消費支出に占める割合と購入数量の対45年比が50年以降やや強い減少傾向をみせているが,婦人絹着物と絹着尺地への支出合計は和装支出の68.9%(53年)を占めている。
 以上のことから,和装費の消費支出に占める割合の低下と,婦人絹着物以外の和装費目購入数量比の著しい低下傾向は,素材的に,大衆日常着需要の急激な減退を示しており,一方,礼装用和服,高級カジュアル着としての婦人絹着物への支出比と購入数量比の堅調傾向は,この種の需要が根強く存在していることを示している。また,和装支出の約7割が婦人絹着物と絹着尺地で占められており,和装織物需要の高級化傾向は明白である。
第4表 品種別和装用表地・裏地の生産高及輸入高

 次に,この高級和装需要を,昭和53年の品目別年間収入階級別1世帯当りの年間家計支出(第2表)から,所得階層別にみてみると,収入階級Ⅴ(490万円以上)のⅠ(220万円以下)に対する全消費支出,被服費の比率が,それぞれ,2.22,3.06であるのに対し,婦人絹着物のそれは,10.5と極端に大きい(第2表)。また,第3表は,昭和45年と53年の年間収入階級別1世帯当り婦人絹着尺支出格差と53年同支出の対45年伸び率,45年,53年の同支出の各階級間シェアを計算したものである。
 第3表のいずれの数値をみても,婦人絹着物需要が,高収入階層へ極端に偏っており,その格差やシェアが,さらに拡大する傾向にあることを示している(第3表)。
 さて,このような需要傾向に対応している和装織物の供給動向はどのようになっているであろうか。
 第4表は和装用織物の49年,53年それぞれの品種別生産・輸入高と,53年の対49年伸び率,53年の品種別生産・輸入割合を示したものである。53年の対49年伸び率をみると,京友禅などの後染正絹着尺の緩かな減少傾向に対し,紬織物などの先染正絹着尺の減少比率はやや大きくなっている。
第5表 先染正絹着尺・品種別生産高(昭和49年,53年)
とくに注目しておきたいのは,中国産絹織物,韓国産紬織物の急激な輸入増である。韓国産紬については次の項とⅣの7で,大島紬の産地拡散と関連させて触れることになろう。
 第4表からも分るように,和装織物の生産・輸入高に占める先染正絹着尺の国内生産高割合は8.21%に過ぎないが,本場奄美大島紬はこの種別に位置しているので,さらにこの先染正絹着尺の小分類による品種別生産高をみてみると,第5表のようになる。53年の大島紬と紬織の生産割合は,それぞれ,24.7,26.9であり,両者合計すると,先染正絹織物生産高の約半分を占めている。大島紬は,53年の対49年生産比では減少を示しているが,合計に対する生産割合では,49年が21.2%,53年が24.7%であるので,シェアは増大したことになる。この傾向は,先の需要分析の傾向と合せ考えると,カジュアル着尺の分野で,ウール着尺の衰退,これへの代替需要となった正絹紬織着尺が,和装需要の大きな減退の中で減少し,高級カジュアル着物に対応する大島紬の生産が,比較的に安定していることを示している。
 次に,この大島紬の供給をさらに細分類してみると第6表のようになる。53年の生産割合で35%を占める鹿児島県織物工業協同組合の旗印大島紬が,53年の対49年生産比で,78.7%と大きく減少しているのに対し,本場奄美大島紬協同組合の地球印大島紬は,53年の生産割合は20.3%であるが,生産の伸びでは安定しており,これも,前にみた和装需要の高級化傾向に対応しているとみられる。
第6表 大島紬・産地別生産高及び輸入高(昭和49年,53年)
第2図 大島紬産地別生産状況
第7表 大島紬産地別生産量の推移(明治35年~昭和55年)
第8表 大島紬の産地別・製品特徴別生産反数(昭和49年,53年)

 今,この奄美産地と鹿児島産地のそれぞれの供給動向を,長期的な視点でみてみると,第2図,第7表のようになる。大正8年をピークとする両産地・生産量の減退期にも,鹿児島産地の生産量の減少が奄美産地よりも急激であったことが分る。
 この理由は,両産地の商品特徴によるものとみられる。すなわち,洋装が一般化した被服構造の中で,低所得層需要に対応する和装織物は,低品位,低価格のものでも奢侈性が高いのに対し,高所得層需要に対応するそれは,高位品,高価格でも必需性が高いとみられるので,本場大島紬(旗印)は,品位的にも,価格的にも前者に属した商品割合が大きく,需要の弾力性が大きい。これに対し,本場奄美大島紬は後者に属す比重が大きく,需要の弾力性も相対的に小さいとみられる。
 この商品特徴の差は,第8表の産地別・製品特徴別生産割合の相違として読みとることができる。
 現状における鹿児島産地の製品特徴が,機械織りによる緯絣と化学染色による色大島に集約できる生産性重視の低品位傾向で表現できるのに対し,本場奄美大島紬の特徴は,手機による経緯絣と泥・泥藍染に集約できて,高所得層の相対的必需性の高い高級カジュアル和服需要に対応する品質保障重視の高品位傾向で表すことができよう。
 以上,本場奄美大島紬の,和装織物市場における位置づけとその特徴をみてきた。ところが,このような位置づけと特徴は,明治末期から大正期にかけて形成されてきた大島紬市場の種々の需要層に対して,生産の拡大と産地の拡散を通し,また種々の大島紬類縁産地独自の生産技術的な立地や製品特徴を通して,それぞれの産地が対応しながら,相互に影響し合ってもたらされたものであるとみられるので,次にその現状と問題点をみてみよう。

2 大島紬の生産の拡大と産地の拡散
 大島紬は,明治10年頃,大阪で市場取引が始まり,商品化がその途についたのは,12年頃とされている4)。明治34年には大島紬同業組合が設立され,製品検査を始めている5)。その頃の生産反数は,第7表にみられるように,5千反余りと記録されており,昭和2年には第2次大戦前のピークである35万6094反まで生産が拡大している,戦後は,アメリカ軍政の下で,昭和22年頃から生産が開始され,25年には,LC貿易による原糸購入許可,ガリオア資金による原料の購入が可能になり,28年の本土復帰とともに,復興事業による紬業振興なども開始された。その結果,30年代の高度経済成長に伴う需要増大もあって,生産は順調に拡大し,47年には,29万7628反を記録している。
 この間,第7表にみられるような鹿児島産地の生産の拡大の外,大正初期には,伊勢崎や村山で大島紬を模倣した織物が多量に生産されている。伊勢崎の場合は,「大正6年,本場大島式の伊勢崎大島絣製造さるゝに至り,その生産高も頓に増加し人気益々昂れり,之,一見本場大島に類似し価格非常に低廉なりし関係にて,世人の嗜好に合致したるが為にして,殊に,大正7,8年の好景気に遭遇し驚くべき需要を迎へ,異常なる隆盛を来し,動もすれば,本場を凌駕せんとする状況を呈せり」7)とされている。また村山大島紬は,砂川太織と村山紺絣の技術が融合して生れたものであり,絣締めの技法も,独自の板締めを用いているので,生産技術的には,奄美大島紬の絣締技術の伝播は認めらられないものの,製品は本場の大島紬に酷似した雰囲気をもっており,「村山絣は……明治の末期に入り,大島式として生産され,大正初期を境にして村山大島時代となった8)」とされている。これらの動向は,明治期から大正期にかけての大島紬の名声と需要の増大を示すものであろう。
 戦後も,とくに,昭和30年代後半からの大島紬生産の拡大には著しいものがあった。十日町や足利などの織物産地で,大島紬の生産が増大したのをはじめ,鹿児島産地では,県一円,隣接県外にまで産地が拡散した。また,今日においては,韓国での大島紬の生産が定着し,本場に対する脅威となっている(第6表参照)。
 ここではまず,鹿児島産地の生成発展の歴史的経過を奄美産地との関連で概観して,とくに,奄美産地の絣締機技術の生成発展や,大島紬市場における両産地の製品の相互依存,商標政策などを考察する基礎資料としたい。
 大島紬の製織技術が,奄美大島から鹿児島に伝えられたのは,明治7年とされているが9),その製織が機業として始められたのは,次の鹿児島織物同業組合『10周年誌』の記述からも分るように,明治19年頃とみられる。すなわち,「当時,市内新屋敷町に医師大河平某氏あり,大島に縁故を有したるため,其の息女織機の技を習得し,紬工場を開き,付近の子女を通学せしむ。機十余台,織る所のものは皆経緯絣なり。明治19年,小倉茂兵衛氏下荒田町に織屋を開く,泥染の経縞なり。降りて明治21年,川添平兵衛氏松原町に紬織工場を設立し,末鶴子の孫,河野トク子を教師として開業す。機18台を備ふ。同年,永江伊榮温氏は大島より来りて紬織場を樋之口町に開く10)」とある。また,『10周年誌』では,「明治34年,永江伊榮温氏が其子息當八氏をして絣締機法を名古屋より移入し,苦心の末之を紬織に応用することを完成するに至るや大に製造能率を高め,而して簡易に複雑なる絣を造り得ることゝなりしを以って,茲に絣織の作業と成績とに新時代を劃し,斯業勃興に対する一大便宜を与ふることとなれり。此時分,市内の紬業者は11名に達し,各多少の製産ありしも何等統一の機関なかりしを以って,互に相約して毎月1回会合して意見を交換し,事業の向上を図ることとせり。永江,立山,山下,村山,小倉,押川,東郷,鮫島,小幡,相良,馬場諸氏是なり11)」とされている。
 ここで,鹿児島県大島染織指導所,『創立50周年記念誌』(1979年)における,大島紬の技術史年表でも,明治40年締機を完成させ,その実用化を行ったとされている12)永江伊榮温が,同技術史年表で,笠利村赤木名の人,重井小坊によって,絣加工用締機が発明されたとされている明治34年頃,鹿児島市で紬業に従事していた事実は注目に値いする。なぜなら,この締機は大島紬の柄模様の染織技術に大きな可能性を与えただけでなく,大島紬の需要の増大,商品生産の拡大に対応する生産性の向上技術であっただけに,締機の開発・実用化を積極的に進めた人物が,当時,すでに藩政時代の殖産,維新後の授産事業を通して,織物業が産業として成立し,薩摩絣や薩摩縞など,全国的に名声を博した商品が量産化されつつあった鹿児島の地で,どのような技術と接触し,大島紬の将来技術をどのように模索したかは,その技術進歩を考察する際,きわめて重要であろう。またこの課題は1969年に開発された動力締機や新潟県の十日町で発明されたMTシステムなど今後の締技術を考察する上でも重要であるので,その詳細は「Ⅳの3」で考察する。
 明治37~38年の日露戦争は,一面では織物消費税法の発布(38年)で,紬業者に負担を加えたものの,他面では,鹿児島産地においても,
 大島紬の需要頓に激増し,供給不足し市価暴騰し,遂に粗製乱造の幣を生ずるに至れり。時の鹿児島税務署は茲に見る所あり,當業者をして申合規約を設けしめ,岩元平次郎氏を組長に與げ,製造法を一定し経糸に柞蚕糸,絹紡糸を使用し,若は染料にログウードを使用するが如きを厳禁し,若之を犯せば違約金に処することにして,署長自ら監督したり。数年ならずして,山下栄吉,田尻八十二,奥常次郎三氏発企人となり,薩摩織物組合と稱する準則組合を設立して認可を受け,證標を発行して粗製濫造を防ぐ。加入者30余名,同業組合設置当時まで之を継続せり。當業者の増加に伴い,自然,織物の種類によりて得意々々の製品を出し,期せずして分業により進むこととなりしが,要するに綿織業者は漸減して紬織業者漸増し,而して紬は絣織多数を占めて縞織は一部分に止まり其又絣は偶に経緯を出すのみにて,大多数は緯式に帰し,原料糸は多産に随い玉糸を使用することゝなれり14)
と言われるまでに,生産の拡大を招いた。
 大正5年には鹿児島織物同業組合が結成され,製品検査,證標表示を行って,産地の責任体制が確立されている。これは,奄美産地の大島紬同業組合の設立が明治34年であるから,それに15年後れていることになる。
 ここで注目しておきたいのは,第7表・第2図で,大正7,8年の好況時にみられる鹿児島産地の生産拡大の比率が,奄美産地のそれより異常に大きいことの背景である。まず考られることは,鹿児島産地での大島紬生産の背景には,藩政末期から明治初期の殖産・授産事業として興り,先進機業地の生産技術を導入しながら,明治末年頃には,薩摩絣や縞を主要製品として,当産地を全国でも有数な機業地に成長せしめた量産技術指向の後進機業地としての経済的基盤があったのではなかろうかということである。たとえば,明治38年には導入されていたとされる新式の絣括機械15)などが,大島紬の絣加工の生産性向上を指向せしめる動機となり得たことは十分考え得ることである。
 このような経済的基盤がもたらした鹿児島産地の大島紬の商品特徴は鹿児島織物同業組合の『10周年誌』に次のように記されている。すなわち,
 世人或は鹿児島産大島紬の廉價なる點を疑ひ,擬するに模倣品を以てせんとす。然れども請う,疑ふことを己めて其實質を検覈[ケンカク]せよ。本場物は經緯絣[たてよこかすり]にして地場物は概ね緯[よこ]絣なり。經緯絣は織方に於て非常の手間を要し緯絣は之に反す。工賃に於て著しき径庭あり。価格の相違は主として是に由る。原料糸に甲乙ありと言うも等しく名古屋産の玉糸なり。染料に於て生木とエキスの差別あるも,共に亦同植物より出づ。之を金額に計上するとき幾何の差あらん。鹿児島産の高価ならざるは眞に加工費の少きに由るものなり。断じて模倣品にあらず。似而非なるものにあらざるは勿論とす。一言之を蔽へば,質を同うして式を異にせるのみ,需要者心を安んじて可なり,唯然し鹿児島産の精巧なる小柄に至りては,一見大島物と辨別し難きものもあり,而して市價は頗る安し。顧客が兎角の疑念を起すもの〓寧光栄とすべきか16)
と。これは大正15年の両産地生産量がほぼ拮抗していた頃の記述であり,鹿児島産地の自負がみられるが,その反面,橋口氏の記述17)によると,鹿児島産地では肥後森蔵氏ら十数人が大正8年に奄美大島紬同業組合登録の本場大島紬商標を偽造添付して有罪判決を受けるといった事件も発生している。
 これと同様な状況は,昭和30年代後半から50年にかけた第2次生産拡大期にもみられる。生産量は昭和35年の8万486反から昭和51年の70万3449反へと8.7倍に拡大している。その間,鹿児島産地の力織機化は進み,昭和48年10月現在奄美産地で手機1万1624台と力織機178台の比が65対1であるのに対し,鹿児島産地のそれは12.6対1を示している18)。また,第1生産拡大期に,鹿児島産地では,染料にテーチ木のエキス(時としてログウード)が用いらられたように,第2拡大期には化学染料が用いられており,その製品特徴も,第8表にみられるように,昭和53年の産地生産割合で,経緯絣はわずか31.0%(奄美産地では87.8%)に過ぎないのに対し,緯絣が61.7%(奄美12.2%)と生産の主流を占めている。また染色面でも,同年度の生産割合で,色大島と称する化学染料染めが91.3%(奄美18.9%)となっている。
 このような鹿児島産地の生産技術は,奄美産地の産地独占的な染色立地(「Ⅳの4」で詳述)や熟練労働を要する製織技術から開放されたものであった反面,地域の特殊性に限定されない普遍性をもったものであった。その結果,産地の無際限な拡大をもたらす可能性をもっており,事実,第6表にもみられるように,韓国産大島紬の逆輸入は,今日,奄美・鹿児島産地に深刻な影響を与えるようになっている。この間,昭和51年には鹿児島産地で,韓国産紬との関連で,当産地の登録商標証紙偽造事件19)が起り,47年頃から構想されていた「県営検査」が,52年には本場奄美大島紬協同組合の同意が得られないまま実施されたが,結局,その実を挙げ得ないままに終ったという経過も残している。
 このことは,両産地の生産技術の差異に基づく利害関係の対立と,産地のこれ以上の拡散を防止しようとする共通の利害を含む産地政策上の問題点であるので,「Ⅱ,4,D」と「Ⅳ,6~7」で詳論する。そこで次節では,この生産技術の産地政策や産地体制の大前提にある産地経済と本場奄美大島紬の相互関連をみておこう。
第9表 昭和51年度 名瀬市民・大島郡民・鹿児島県民・国民所得
第10表 昭和51年度 産業別純生産構成比の比較
第11表 年度別・産業別生産高
3 本場奄美大島紬の産地経済への寄与
 昭和45年8月頃,京都の商社から名瀬市の大手紬企業に対し,提携して韓国における大島紬生産を推進したい旨の申し入れがあったことに端を発した「本場大島紬国外進出阻止運動20)」では,奄美・鹿児島両産地を挙げての激しい運動が展開された。一方,この韓国紬との関連もあって,47年6月から本格的に推進された県条令に基く県営検査では,両産地の商標統一に道を開くおそれがあるとして,奄美産地はこれに一貫して反対の態度を示した21)。
需要の量的な器との関連で,これ以上産地が拡散するのは困る,またその品位との関連で,商標が統一され,“良貨が悪貨に駆逐”されては困るという奄美産地の基本政策が窺われ,またその背後に“大島紬は島民にとっての生命産業である”というさし迫った事情を知ることができよう。
 鹿児島市からほぼ南へ379キロ離れた名瀬市を中心にした奄美群島の経済は,海路,空路の発達した今日でも,なお離島経済の性格を強く残している。第9表にみられるように,大島郡民の県や国に対する所得格差は大きい。また,第10~11表の第1次産業比率は,県や国に対する産業構造上の相対的後進性を示している。しかし,台風常襲地帯である当地の農業は,その自然的条件がきびしく,農産物の自給力はきわめて低い。ただその中で,砂糖きびだけが重要な商品生産物としての地位を占めている。
 製造業における砂糖の生産額を合算すると,ほぼ繊維(大島紬)の生産額に近い。大島の自然的条件に適したこの砂糖きび裁培が,近世以来22)大島々民の生活と深く関ってきたことは周知のところであるが,今日では,これが,大島紬との関連でその現状が指摘されている23)。すなわち,1970年には,全農家戸数の84%を占めた砂糖きび農家が,'75年には63%に激減しているが,これは砂糖の国際競争を反映して,その生産者価格が低迷し,農業労働者が出嫁ぎに転じたためだとみられている。その結果,砂糖きび生産に依存していた農家では,世帯主の出稼中,婦人が家計を補助するため,家内工業労働力として紬の生産に従事したり,場合によっては,主たる所得源として紬生産に就業する機会が増加している。また,上村剛一は,粗放作物である砂糖きびの耕種労働は,とくに戦後の“株出し裁培”の普及によって,紬の生産労働と競合しなくなっており,両者の結びつきは容易になっていると指摘している24)。
 たしかに第11表からも分るように,砂糖きびと大島紬は,それぞれ農業,製造業におけるモノカルチュア的な産物であり,両者の生産額は,近年大島紬がやや安定しているものの景気の波に左右されやすい。その際,所得の安定を得るためにも,労働力の流動性に乏しい離島で,砂糖きび裁培労働が大島紬の生産労働と補完的に結びつき得ることは容易に首肯できよう。
 一方,「Ⅱの1」でみたような本場奄美大島紬の諸特徴は,泥染めや絣締,熟練度の高い手織作業に支えられた広範な社会的分業によってもたらさらている。元来,機械化や生産過程の集約,工場生産の規模のメリットの少ない各工程,とくに製織は,企業の外機[そとばた]形態をもたらしながら,請負出来高払いではあるが,拘束時間のない不規則な就業形態をもつ,広範な家内労働によって支えられている。
 ここに,本場奄美大島紬という高級織物が生み出される経済的な基盤をみると同時に,前述したように,「名瀬市の場合,全就業者の約40%近くが紬生産の従事者であり,奄美群島全体では島民の7~8割(世帯数では概ね半数)が何らかの形で紬生産に従事し,支払われる賃金は群島民所得の40%に相当Ⅰ-8)」している,まさしく島民の生命産業としての位置づけができよう。
昭和47年2月18日「南海日日新聞』で,「日韓の合弁会社」「韓国で大島紬を生産」と知らされた時,「いまこそ祖国復帰運動に匹敵するような大運動を展開25)」すべきだとして,外国への産地拡散防止運動に立上った奄美産地のさし迫った実情もここにみられる。
また,この奄美産地の現状は,一朝一夕にしてもたらされたものではなく,すでに,明治の初期,大島紬の生産を業として志した丸田兼義翁の伝記の中にも読みとることができる。すなわち,
 台風など天災のために農作物は大きな被害を受け,砂糖業も大打撃で,島の人達の生活はおびやかされ,極度に窮した状態は見るに忍びないほどでありました。これを見て兼義は非常に心を痛め,心の中で深く考えたのです。“大島は砂糖ばかりに頼ろうとせず,紬を発達させ,これを全国に拡めて売る方法を考えなければならない。それには先ず新しい時代の人々に好まれる新しい柄(模様)の紬をつくらなければならない”26)
と。
 このような奄美群島特有な経済基盤の下で,砂糖モノカルチュアに対して,紬生産が有望視される(両産業間に利益の格差が認められる)時,「Ⅰ」の技術移転理論でも明らかなように,和装織物市場を通して認められる技術格差が大きければ大きいほど,技術の革新や,移転は積極的に行われる。すなわち,技術に対する投資規模にも因るが,産地における技術の伝播率(λ)が同様なら,より高度な技術の開発・移転が指向されるし,たとえ技術進歩は小さくても,現在技術の伝播率を高めて,産地全体の生産性向上が試みられよう。また,産地全体の技術吸収能力を増大させるための産地体制の強化も計られよう。そこで,次に産地の生産体制における現状と問題点を整理してみたい。

4 産地の生産体制
「Ⅱ,1」でみてきたように,本場奄美大島紬は,生産技術的には,絣糸の織締加工やテイチ木煎液と泥土による染色,手機製織などのいわゆる伝統技術を強く温存した先染着尺であり,今日の先染着尺市場では,高所得層の相対的に必需性の高い高級カジュアル和服需要に対応する高品位の位置づけを与えられている。また,この本場奄美大島紬の和装市場における特徴と位置づけが,紬を島民の生命産業とする産地の経済基盤に支えられ,拡散した類縁産地との補完・競合的な競争を通して形成されてきたことも確かである。しかしながら,これらは生産の外部条件であり,ここで改めて,生産主体を含めた生産技術や生産体制が問題になってくる。
 一般に,生産技術や生産体制は,それらの発展過程の現状と将来の可能性に立脚した生産目的によって規定され,その生産目的は当該生産物の市場標的とそれへの適合性,すなわわち,目標生産物の市場構造から要請されるその市場性を基礎にして設定される。
 本場奄美大島紬生産者の現状における市場標的の主力は,高所得層で,相対的に必需度の高い需要層に設定されているとみられるので,その生産技術や生産体制は着用頻度や買増的な購買頻度もかなり高く,製品の品質鑑識力の大きな需要層に対応しているとみていいだろう。また,このような生産技術や生産体制をもつ各生産者が,共通の経済的利益を追求しようとする紬協同組合の商標政策や製品検査体制にも,同様な対応を読みとることができるだろうか。産地の技術指導や生産技術・製品開発を推進している染織指導所や,大島紬を産地の生命産業として,その経済運営の立場から紬産業の振興に当る行政機関についても検討し,その現状と問題点を明かにしたい。
 A 生産技術の現状と産地分業体制 まず,産地の分業体制からみてみよう。大正4年に出された沖繩の久米島女子工業徒弟学校の「大島紬調査書」によると「今回視察シタル名瀬地方ニ於テハ高機10乃至140台ヲ有スル工場数凡ソ50,機業戸数2千アリ,此ノ地方ハ専業的機業地ニシテ,各工場ハ殆ンド皆個人経営ニ属シ□□[ママ]ヲ作リ(締絣),染色,機織等夫々分業ナリ,紬ガ機ニ仕掛ケラレル迄ノ準備工程即チ染色等ハ凡テ男工之ニ従事シ,女子ハ単ニ機織ノミ従事スト云フモ可ナリ27)」とある。ここで記されている分業が,協業的分業なのか,社会的分業なのか明示的ではないが,たぶん社会的分業であろう。なぜなら,一般に機業における分業発生の原因は,生産物の商品としての需要の増大と専門的生産技術の登場にあるとされており28),大島紬の場合も,明治10年頃から商品化されはじめ,明治28年には,需要が急激に増大したため,まず,原料糸が手紬糸から練玉糸に代替され,明治30年には,織機が高機に改められて,生産性が大きく向上したとされている。さらにまた,明治40年頃,実用化された絣締機の導入は,産地の社会的分業化の方向を決定づけたとみていいだろう。
第3-1図 本場奄美大島紬の生産工程
第3-2図 テーチ木煎夜・泥染々色工程
第3-3図 藍泥染々色工程
明治41年に,2丁の杼だけで製織できる交代締の技術が開発されると,柄模様は精巧なものとなり,それに伴って,大正4年には,方眼紙を用いた図案の描写技術が導入されている。
 このようにして,生産性向上の観点から導入された高機や締機の技術は,生産の社会的分業を促し,社会的分業は,技術をさらに専門的に向上させながら,品質保障的な締加工技術や図案技術を創出し,生産工程をより専門的に細分化させながら,今日の生産工程とその社会的分業体制をもたらしてきたと言えよう。
第3-4図 色大島染色工程
 今日の生産工程の概要は第3-1~3-4図のようになっており,その社会的分業の様子はこれを大島郡の市町村別・各生産工程別の従事者数分布で示すと第12表のようになっている。
 筆者は昭和54年度『本場奄美大島紬産地診断勧告書』で「産地の生産体制について」生産の分業体制を分析した際,第12表の工程別従業者数の時系列的な変動をみたが,その変化には一定のまとまりと方向性がみられた29)。これは,製品や生産技術が変革され,各工程の生産性に変化が生じた場合,群島一円の分業体制には,諸生産工程の間で,密接な相互関連が保れながら,一定の変革の生じることを示していた。また,第12表からも分るように,製織工程は地域的にかなり分散し,加工,締,染色工程はやや特定の地域に寄り,図案,撚糸工程などは,ほぼ名瀬市に集中している。これには各々の理由がある。図案工程は,企画の中心であるから,事業所や染色指導所があり,市場情報が集中し易い名瀬市に集まるのは至極当然であろう。
加工,染色工程は,生産技術的に密着しており,とくに染色工程は,鉄分を多く含んだ粒子の細い腐葉土の豊富な地域に立地することになる。また,製織工程は,産地の総織機台数に占める手機台数が96~7%に達しており,手織の場合,協業の利益が殆んどないとされることから,生産形態も外機依存が強くなり,いきおい各地域へ分散することになる。
第12表 大島郡における大島紬の市町村別・工程別従業者数分布
ちなみに,昭和38年に30%であった外機の割合は,47年には48.6%,54年には63.4%にのぼり,ことに大機(織機台数50台以上)への生産の集中は外機の利用によって可能になっていると言われている30)。また,奄美産地の場合,工程間の一貫生産を行っている企業はきわめて少ない。
 このような社会的分業体制の下で,まず第1に問題になるのは,高級品指向の市場で,相対的に品質鑑識力の高い需要に対応できるような品質保障体制が,各生産工程間の技術的関連の中に確保できているかどうかということである。第2には,産地にとっては生命産業でありながら,若年労働者の吸引能力に乏しいこの産業で,しかも,専門化の進んだ各工程間の労働の交流が殆んど期待できない状況の中で,大島紬の伝統的な特徴をもった製品の高級化から要請される各工程の技術的変革や生産性の変化に対応して,産地全体の分業体制が技術的ボトルネックを生み出さないように各工程従事者の必要数を確保できているかどうかということである。
 第1点は商標や製品検査と深く関わり,第2点は,技術・製品開発や技術指導,産地の技能者養成や振興施策と関連があるので,次項以下で順次みていきたい。
 B 本場奄美大島紬協同組合の役割(商標と製品検査) 大島紬同業組合が設立されたのは明治34年9月26日と記録されている。先に挙げた徒弟学校の「大島紬調査書」は,組合設立の趣旨について「大島紬同業協同組合は紬ノ改良発展ヲ図ルタメ明治34年ニ創設サレ,爾来非常ナル進歩ヲ来セリ,組合定款モ多少修正変更サレタルヲ見ル,組合ニ於ケル検査ハ定款ノ定ムル所ニ依り1反毎ニ染色・重量・幅・丈及地合等ヲ精密ニ調査シ,合格・不合格ノ査定ヲナス32)」とし,また,昭和3~4年頃の鹿児島県廳大島支廳からの報告書とみられる「本場大島紬」資料は,「明治30年頃から一般経済界緊縮に向ふと同時に,紬も下落するやうになり,殊に好況時代粗製品が盛んに出ました為め,紬不信の聲も傳はり,斯業改善の必要も感じて居りました明治33年に重要物産組合法が発布さるゝ。紬は当時郡内では砂糖に次ぐの物産でありましたから,島司村長有志等相謀り34年同業組合を組識し同35年から事務を取ることになりました33)」としている。また,続けて同資料は「組合事務の第一は粗製濫造品なからしむべく検査を厳重にするにあった譯でありますが……33)」と記し,組合設立の大きな目的の1つが製品検査にあったことを示している。
 商標(戦前の旗印商標)は,本場奄美大島紬協同組合の内部資料によると,昭和2年に制定され,検査を受けた製品にはすべてこの商標を添付した34)とあるが,前の「本場大島紬」資料は,「本場大島には織口に大島紬同業組合検査本場大島と云う文
字を横に織出し,此の織出しに並んで……」と商標の文字・図形・記号などの標識を記した後,「商標は明治38年農商務省特許局の登録を得て居りますので,大島紬同業組合が絹織物本場大島に限り貼用する獨専權あるものであります」としている。また同資料によると,大正12年頃には,新柄登録審査制度も設けられている。
 このように,大島同業組合は,創設期にすでに,製品検査や商標権の設定,意匠権の擁護などを通して,粗製品濫造の防止や品質向上の努力,製造責任の明確化,獲得された信用の経済的権利を追求するため,産地の生産体制を調整したり,零細な生産者権利をまとめて外に主張する役割を果している。
 この同業組合は,昭和12年に本場大島紬絹織物の工業組合へ改組され,さらに29年6月に,現在の本場奄美大島紬協同組合に改められている。
 戦後アメリカ軍政の下で,26年には,紬の生産が2万2300反まで回復し,製品には戦前の織口文字・検査証紙(ただし軍政府の指示で,国旗と軍旗の標識を除去したもの)が使用されていた。それに先立つ24年に,戦争中疎開した奄美の業者が,鹿児島で生産している織物に,奄美産地の旗印登録商標を使用していることがわかり,これは名称詐称であるとして,当地の知事(戦前の大島支庁長)を径て軍政府に善処方を陳情し,軍政府から日本の裁判所へ提訴するよう勧告があったが,紬生産組合では,同胞相争うことはさける方がよいとして,奄美産地の検査証紙及び織口文字が改変されている35)。日本復帰後の29年1月には,現在の地球印商標の登録が完了し,織口文字も本場奄美大島紬と改められ,鹿児島県織物工業協同組合の旗印商標と区別されることになった。
 本場奄美大島紬協同組合の定款でも,その目的の条で,「本組合は組合員の相互扶助の精神に基き組合員のために必要な共同事業を行いもって組合員の自主的な経済活動を促進し且つその経済的地位の向上を図ることを目的とする」とし,その事業の重要な柱として,製品検査を行っている。製品検査は『本場奄美大島紬協同組合織物検査規定』によって厳重に行われ,その第17条によって,「検査済の製品には団体証標(特許庁に登録された商標)を貼付し,合格品には合格印章,不合格品には不合格印章,定尺ものには定尺印章を押捺する」とされている。
 この検査・商標制度は生産者の経済的利益と損失を通して,生産者に最低限の品質保障をさせようとする生産者規制的なものである。しかし,先にみたような外機依存的な生産形態と,一貫工程のまれな分業体制の下で,十分な生産管理や品質管理を行うのは難しい。また,製品の検査結果に現われる欠陥の責任は,現実的には生産者がこれを負っているが,本来的には分業組織による各工程の責任者(加工業者)が負うべきものである。一貫工程をもった生産者の場合は製品の品質管理に対する責任の所在は明確であるが,零細な生産者,加工業者の多い産地の分業体制の場合,これら各工程間の技術的連関上の種々な責任(例えば製織工程における絣不揃いに対する締工程の責任)は,商慣習的にチェックされている場合が多い。しかし,これは加工工程の中間製品が指図通りのものでないことが明らかな場合に限られる。そこで,産地の検査・商標制度には,生産者・各加工業者が市場での競争原理によって,自らの生産技術の生産性や製品の品質を高めうるような体制が要請されよう。
 この観点から,昭和44年以降実施されている泥染表示試験とその表示は,市場における製品の高次差別化を指向した自己主張的な製品検査(検査申請制度)として注目されよう。またこの観点からこそ,後に述べる「県営検査」の問題点も批判されるべきであろう。
 C 鹿児島県大島染織指導所の役割(技術指導と技術・製品開発) 産地の検査・商標制度とともに,本来的な品質保障の意義をもつ生産技術・製品品質の向上を意図して設置されたのが染織指導所である。
 同指導所は昭和2年鹿児島県工業試験場大島分場として設置され,4年に大島染織指導所に改組されている36),37)。指導所設置の動機について,同指導所の『創立30周年誌』は,「本郡における紬工業は最も重要な産業で,紬の年産額は郡外移出物産額の65%を占め,従業戸数1万戸,従業者3万人という地位にあり,斯業の盛衰は直ちに郡民の経済に至大なる関係を有する生命産業である。この時にあたり,大正8年頃大島支庁に紬の図案技術者をおいて図案の配布指導をしたため,嶄新な柄の研究意欲を示し,意匠の改善は著しく進歩したが,その反面大島紬の特長である品質に対する批判が高まり,憂慮すべき状態にまでなった。従って品質改善のため,原料糸,染色,織の検査厳重が強く叫ばれ,これ等研究・指導が必要となり,指導所が設置38)」されたと記している。
 また,同指導所の設立の意義について,指導所の『創立50周年記念誌』で,当時の本場奄美大島紬協同組合理事長の中江実孝氏は,「この大島染織指導所の設立こそ大島紬の技術革新と新製品の開発に大きな功績を遺しておるもので,今日の隆盛の礎となっている39)」と評価している。続いて,同氏は「ご承知の通り大島紬は大正初期までは,泥染大島や正藍大島など単一化された商品のみに限られておりましたが,大正5年頃先覚者の工夫と努力によって泥藍大島紬が開発され,その後は従来の泥染大島紬と共に泥藍大島を生産して面目を一新し,更に昭和初期染織指導所設置当初同所の試験研究によって,色入り泥染大島紬の開発がなされ,斬新な紬として消費市場から好評を受け,さらに袋締技術の研究開発によって,大柄製品の生産に成功し製品の高級化と多様化を図り,奄美産地における大島紬の基盤確立に努力された功績は大きく評価されるものがある40)」とし,「また,昭和30年泥染の抜染法による“多色入り泥藍大島紬”の研究開発は,業界にとって誠に画期的な研究成果であり,いわば祖先伝来の大島紬に斬新さと多様化に対する1つの革新をもたらした一大偉業といわれており,これが今日の隆盛をみるに至った素因造りをなしたもの41)」として指導所の技術・製品開発に果した役割を評価している。
 ちなみに,同指導所の開発研究業績は,毎年度出される『業務報告書』に詳述されている。また『創立30周年誌』と『創立50周年記念誌』には,その主要な業績が整理されているが,その内容は,たしかに産地の伝統的な技術と言われる織締,泥染,手織を基礎に踏えながら,製品の多様化や高級化と生産性の向上をもたらしたものと言えよう。
 さらに,同指導所は,大島紬加工技術の向上を図る目的で,各市町村の紬工場を対象にして,国の補助業務の一貫としての巡回技術指導を行ったり,同指導所の研究成果を発表したりする技術講習会や技術懇談会を行うほか,図案,締加工,染色などの業者自身で解決できない問題などの技術指導,依頼試験,委託加工などを行って,技術の普及率を高める機能を果している。
 次に重要な同指導所の役割は,技術者の養成を行い,産地の技術吸収能力を増大せしめることであろう。同指導所は昭和7年に大島紬の後継者を確保する目的で,図案と染色部門の伝習生養成を開始し,26年に締加工と機織部門を加えている。大島紬の専門的な知識と技術を習得させ,紬業界の中堅技術者を育成するのが目的とされている。その卒業者は昭和7年から53年までの間に,図案部門182名,締加工部門145名,機織部門535名,染色部門43名,計905名を数えており,産地の技術再生産ないしは革新技術の吸収能力を高める機能を果している。
以上,同指導所の技術・製品開発研究機能,技術普及機能,技術の変革的再生産を促す機能の現状を概観した。ここで問題になるのは,各生産工程の個々の生産技術の開発・普及においては,いくら優れていても,それらがある工程部門に偏ってなされる場合や,また,市場動向の変化で,生産される高級品・普通品の製品構成に変化が生じたため,生産性の低い工程が生産のボトルネックとなるような場合など,社会的分業体制による産地の生産性の成長率(a)はあまり増大しないであろう。
 筆者はこの観点からの一例として,前述した『昭和54年度本場奄美大島紬産地診断勧告書』における「生産の分業体制」の中で,現今の締加工工程における締工不足の問題点を指摘した。染色指導所の機能の1つとして,このような,市場や生産技術の変化に応じた産地生産体制の総合的な技術調和を計る施策研究の機能があってもいいのではないだろうか。
 従来は,紬産業の振興策を通して,産地の行政機関が,この生産体制の調整役の一端を果してきたように思う。
 D 産地行政の役割(大島紬産業の地場振興策と産地拡散対策) 大島紬業の振興策は42),奄美群島復帰後の翌29年に制定された「奄美群島復興特別措置法」に基づく復興事業計画など,一連の国の補助事業の一貫として,また,大島紬振興対策の県や名瀬市の補助事業として行われている。補助事業の内容は,染織指導所や紬検査場の建設をはじめ,撚糸工場や地糸共同染工場,共同糊張施設,紬加工工場,染色共同作業場,共同泥染工場,織工(締工)養成所,大島紬センター,福利厚生センターなどの施設設置が主要なものとなっている。
 これらの振興策の中で,たとえば,昭和47年に名瀬市に染色共同作業場が設置されたことや,県の単独事業として,47~48年に加計呂麻地域に大島紬伝習所が設置されたのは,時宜にかなった施策であったとされている43)。すなわち,前者の場合,30年代の初に開発された色大島紬は,従来の大島紬が渋い色調を特徴としていたのに対し,和装市場の流行が派手な色彩を求めていたため,市場で好評を博し,需要の急激な増加を示した。奄美産地では,45年には色大島の生産割合が74.8%に達し,大島紬伝来の泥染は6.1%,泥藍染は19.1%にまで減少した。しかし,このような状況の中で,大島紬の高級品指向として,本来の泥染の見直しが始まり,45年をピークとして54年には,逆に泥染めの生産割合が79.5%にまで上昇した。化染染めの生産性が高かっただけに,染色工,とりわけ泥染工の数は減少し,45年当時の染色工程の再生産は心ある人たちからは危まれていた。この意味で,当時の染色共同作業場や共同泥染工場の設置は,たしかに産地の生産体制を調整するに適した時であったと言えよう。また後者の場合,当時,大島紬の需要は拡大の一途をたどっており,その時期の離島への伝習所の設置は,織工不足を緩和し,出機による生産拡大をもたらしたものとみることができる。
 以上の例からも分るように,産地の行政施策が,市場や生産技術の変化に対応した生産体制の調整を通して,産地の技術変革能力や伝播率を高めていることは明らかである。
産地行政は,このような産地生産体制の直接的な調整機能をもっている一方,類縁産地間の利害を調整する役割をももっている。
 鹿児島県が47年にその基本構想を示し,52年に「県大島紬検査条例」によって実施した県営検査44)は結局,実績が挙らず失敗に帰したわけであるが,この施策が,45年8月頃から問題が表面化した韓国産紬45)対策にあったことは否めない。これは鹿児島産地,奄美産地の検査基準を統一して,検査・検査証表示を厳重にし,韓国産など本場物以外の大島紬に対抗しようとするものであった。たしかに,この限りでは両産地の利害は一致するものであった。しかし,奄美産地は韓国に対する技術移出や韓国産大島紬の輸入制限など「韓国紬」の阻止には激しい運動を展開したものの,県営検査は究極的には「旗印」と「地球印」の商標統一を招くとして,終始,反対の態度を崩さなかった。
 さてここで,奄美産地が「地球印」商標を「県営検査」に優先させた事由は何であろうか。
 それは言うまでもなく,旗印商標が示す大島紬と地球印商標の示す大島紬とは,その製品内容が「Ⅱ・1」でみたように大きく異なるからである。とくに,本場奄美大島紬の本来的な特徴である泥染は,奄美の自然,風土のもたらす地域独占的なものではあるが,生産性の面でコスト高の泥染製品が,同一商標・同一イメージによって,他産地製品から高次差別化できにくくなるからである。
 このように,産地行政機関の鹿児島県全産地を代表する県行政の立場と,奄美産地行政の立場の相違にみられる問題点は,各産地紬産業の経済的基盤やその地位の相違に根ざしながらも,奄美産地の場合は,奄美伝来の大島紬の特徴とその伝統的な在来生産技術の特徴に起因している。そこで次章では,大島紬染織の前史を通して,伝統的な製品特徴や在来技術の源流を探ってみたい。

 注
 1)総理府統計局『家計調査年報,53年,49年,45年』。
 2)和装費支出は家計調査年報の支出費目分類で和服(600~608)と生地・糸類(660~670)の中の絹着尺地(660),綿着尺地(662),化繊着尺地(664),毛繊着尺地(667)を合計したものを示す。
 3)出石邦保「和装需要構造の変化と小売流通活動」『同志社大学商学部創立30周年記念論文集』1980年,51ページ。
 4)鹿児島県大島染織指導所『創立50周年記念誌』広報社,1979年,70ページ。
 5)同書71ページ。
 6)同書60,61ページ。
 7)児嶋正男「鹿児島地区における大島紬業の生成発展」『鹿児島県立短期大学地域研究所研究年報』第7報,1978年,81ページ。『伊勢崎織物同業組合史』19ページ。
 8)同論文82ページ,村山織物協同組合「郷土産業伝統的工芸品村山大島紬について」
 9)鹿児島織物同業組合『10周年誌』大正15年,19~20ページ,前掲論文「鹿児島地区における大島紬業の生成発展」73ページ。
 10)同書26-27ページ。
 11)同書28-29ページ。
 12)『創立50周年誌』71ページ。
 13)茂野幽考『大島紬の染と織』1978年,64ページ。
 14)『10周年誌』30ページ。
 15)前掲論文「鹿児島地区における大島紬業の生成発展」77ページ。
 16)同論文 86ページおよび『10周年誌』2-3ページ。
 17)「橋口氏記述」と表記された「初期(明治時代)の大島紬」に関する本場奄美大島紬協同組合80周年史編纂資料(橋口良秋「大島紬の歴史」『旬刊奄美界』昭和38年1月1日号)。
 18)松本譲「大島紬の伝統的技法と工業化の展開」『大島紬の生産,流通に関する調査』報告書,1979年,19ページ,第6表より計算。
 19)『鹿児島県織物工業協同組合60年史』70~72ページ。
 20)奄美群島大島紬振興対策協議会名瀬支部名瀬市紬観光課『「韓国紬」阻止運動の経過』1978年。
 21)名瀬市紬観光課『県営検査問題の経過』1979年。
 22)名瀬市誌編纂委員会『名瀬市誌』1968年,349ページ。
 23)岩元和秋「地場産業としての大島紬産業の構造的特徴―総括として―」『大島紬の生産,流通に関する調査報告書』1979年,6-7ページ。
 24)上村剛一「大島紬業の成立条件に関する一考察」『大島紬の生産,流通に関する調査報告書』1979年,12ページ。
 25)『名瀬市誌』607ページ。
 26)恵原義盛『大島紬育ての親,丸田兼義翁伝』201-202ページ。
 27)(久米島女子工業/徒弟学校「大島紬調査書」1915年,9月,工場組織の項。三瓶孝子『日本機業史』雄山閣,1961年,39-48ページ。
 29)名瀬市紬観光課『昭和54年度本場奄美大島紬産地診断勧告書』1980年,68-69ページ。
 30)同書28-29ページ。
 31)同書57-59,63-99ページ。
 32)『大島紬調査書』,「大島紬同業協同組合」の項。
 33)『本場大島紬』(42ページの小冊子),15紬同業組合設置,16検査の不徹底の項。
 34)本場奄美大島協同組合内部資料「本場奄美大島紬組合の製品検査業務について」
 35)『名瀬市誌』下巻,539ページ。
 36)同書559ページ。
 37)鹿児島県大島染織指導所『創立30周年誌』1959年,1ページ。
 38)同書2ページ。
 39)鹿児島県大島染織指導所『創立50周年記念誌』1979年,86ページ。
 40)同書86-87ページ。
 41)同書87ページ。
 42)詳細な研究としては,中村良広「大島紬業の特質と政策展開」『大島紬の生産,流通に関する調査・報告書』1979年がある。
 43)同書36,41ページ。
 44)名瀬市紬観光課『県営検査問題の経過』1979年。
 45)名瀬市紬観光課『「韓国紬」阻止運動の経過』1978年。

Ⅲ 大島紬染織の前史

 大島紬は明治12年頃からその商品化が始まり,24年頃には早くも織物市場で好評を博し,28年頃には需要の急増に対応して,手紬糸から量産糸・玉糸への原料糸転換がなされている。34年の同業組合設立は,大島紬の「産業」としての成立を示すものであろうが,この間の長足の進歩は,何かこれに連なる確かな染織技術の前史を想起させる。
 しかし,大島紬の沿革を詳かにする資料は少く,現在その発展過程を跡づけることは困難である。したがってここでは,今日の本場奄美大島紬の在来技術を考察するのに必要な限りでその沿革をみてみたい。

1 奄美古来の服飾文化と染織技術
 大島紬の源流を探るための従来の諸説の多くは,養蚕,紬製織関連の直接的記録資料にのみ依存し過ぎたきらいがある。大島紬の源流を明らかにするのは,その導入技術の特徴が,奄美古来の服飾文化と染織技術に同化し,大島紬固有の特徴を形成する過程を知りたいからである。このような視点でみる限り,坂口徳太郎著『奄美大島史』「第7節大島紬」や昇曙夢著『大奄美史』「大島紬の由来と発展」および『名瀬史誌下巻』「第21章大島紬のあゆみ」は,記録資料に基づき,技術導入の源流を琉球・久米島紬に求め,さらにその源流を中国に求めているものの,大島紬の草木染,泥染の技術や繊細な絣模様など,その特徴的な染色技術の関連については識ることができない。
 右の諸説の大要は次の通りである。
 大島で「紬」ということばが初めて記録に現われるのは坂口徳大郎著『奄美大島史』に載せられた「大島政典緑」の中の,享保5年(1720)に島津藩から大島・徳之島・喜界島・沖永良部4島へ下された「右4島の与人・横目・目指・筆子・掟手迄の役人には紬着用を許せども右以下の者には紬着用一切許さず」という禁令文であり1),それまでは,真綿の記録“元和9年(1623)の「大島置目条々」に「カラ芋(苧の誤か)・莚・ハセオ(芭蕉)・ワタ(真綿)は御物をもって買い取り相納むべき事」という1条があり,これが真綿の初めての記録”はあるものの,その間,約100年間,紬の記録はなく,また,久米島紬が現れるのが1632年であるから,大島紬の久米島伝来説をとる限り,当然1623年頃はまだ大島には紬は存在しなかったとみている2)。
 久米島紬については,久米島の具志川村宇江州氏家譜に「明の万暦47年(1619)盛氏宗昧入道詔命を蒙り,蚕飼様並に桑植様及び綿子(真綿)の製法相教へ候ため久米島に御渡海成され候。尤も其以前にも当島の堂之大親[ヒア]と申す者唐より伝受仕り来り,綿子製法為し仕り来り,綿子製法為し仕りし由に侯処,未だ細伝えれ無き故,彼の宗昧入道より委細に直伝致し,蚕飼様並に桑仕立様専ら綿子の製法等段々島中へ相教へ,格別綿子の位(品質)能く相成候。御両国の御為め並に世々島中の為め羆り成り候」とあり3),旧説に,「且崇禎5年壬申(1632)薩州人ニ酒勾氏友寄景友[サコウシユウキカゲトモ]ナル者有り。亦本国ニ至リ仕ヲ受ク。此人善ク八丈織ヲ知ル。尚豊王友寄ヲシテ久米島ニ至リ八丈織ヲ教ヘシム。蓋シ久米島蚕ヲ治メ紬ヲ織ル此ヨリシテ始マル」とある4)ことから,久米島紬の源流を中国に求めながらも,その製法が精巧になったのは,内地人の影響によるとみている。また久米島紬の奄美への伝来については,その詳細はわからないが,「後世に至っては紬は島津氏への重要なる貢物の一つとなり,従ってその製造も殆んど官業の如き有様となり,特に6人の染物文子なる役職を置き,官設の染物屋に毎日2人づつ3組に分ちて昼夜監督せしむる4)」ほどであったし,「奄美大島は薩藩時代に於ても琉球との関係は親密であり,彼我の交通は絶えなかったから,久米島紬の盛なるにつれてその製法が伝はったことは,たとへ記録は無くとも察するに難くない4)」としている。
 一方,茂野幽考著「奄美染織史』は,大島紬と八丈・久米島紬の関連について,先の久米島具志川村宇江州氏家譜にあった,薩州人友寄景友による八丈紬の久米島伝播説を重視しながら,一方では,寛延2年(1749)に父島代官大屋杢之助から発せられた質問15ヶ条に対する島役人の回答書である「八丈実記5)」に依拠し,他方では,奈良平安期の昔から伝わり,薩摩でも,奄美でも明治初期までは残っていた「桃染」の染色技術に注目して,八丈紬と久米島紬,大島紬相互の影響を認めはするが各々に固有な古代染色技術の源流を探そうとしている。また同書は奄美の琉球服属時代(1266~1609)における税制の記録である「琉球国郷帳6)」を挙げ,喜界,大島,徳之島,沖永良部,与論各島,各間切ごとの桑方の年貢石高(24間切合計1300石余)を示し,この時期,桑作養蚕,染織が盛んで,奄美の衣料生活はかなり豊かであったことを示唆している。
 この示唆は大きな意味をもっている。奄美の服飾文化は砂糖搾取で庶民が苦汁を嘗めた薩藩直轄時代(1609~1871)よりも,とくに尚真王(1477~1526)のノロ7)による祭政一致政策で,精神的・文化的な安定を得ていた琉球服属時代の方がより豊かであったとみられるし,だからこそこの傾向は1720年の紬・絹布禁令を誘ったものとみられる。したがって,大島紬の奄美固有の源流として,この時代の服飾文化の考察を欠くことはできない。
 ちなみに暑曙夢著『大奄美史』は,
 上代においては蕉麻の類を以て衣服を製し,寒暑を凌いだとのことであるが,琉属時代には琉球の制に従ひ,一般男子は礼装に大袖寛帯を用ひ,頭髪には真鍮の水仙花形の簪[かんざし]を指し,平常の衣服は冬は綿類・紬類,夏は上布・芭蕉布等貧富・階級に応じて着用した。婦人の服装は胴衣[どぎん]と下裳[かはむ](裙)から成り,頭髪には玳瑁の簪を指した。下裳は幅の広い袴のようなもので,細襞があって,その長さは足を覆ふた。婦人外出の時には上衣の外に被衣[かつぎ]を羽織ってその面を掩ふたというから,吾が本土の古俗と同じである8)
と描写している。また同書は,ノロの装束について,
 祭典の時ノロは頭に珍絹[うちくい]を巻き,鴛鴦のおもひ羽(美しい尾羽をいふ)を二本挿し,白絹の胴衣に紺のシンセカン(?裾[すそ]の類で稜[かど]の立った袴)を着た上から珠玉を纒ひ,金の簪を挿し,5色の杖を持ち,恰も天神の降臨を偲ばしめるやうな装ひを凝らし,アラボレと言って12歳から16歳までの小女を従えた。更に下級のオツカム・シドワキ・グージ・巫女・神人等がそれに続き,堂々たる行列を作って行進する。その装束は貴賤貧富の階級によって多少の差はあるが,概して錦の胴衣に白絹の振袖をまとひ,稜の立った袴を穿ち,頭には鴛鴦のおもひ羽又は鷺のザ羽を二本挿し,日蔭蔓や種々の草花で編んだ花冠のようなものを頂き,ノロと同じく大小5色の水昌玉や瑪瑠の曲玉・粒玉でいろんな模様を綴った玉だすき(玉ハベルという)を頸から背に垂らし,各々一振の長刀を携へて,ノロに従うのである9)
 と記述している。
以上のことから次のことが言えよう。奄美において真綿の初めての記録が現われる1623年以前,琉球服属時代でも桑作や養蚕は盛んであった。したがって,技術的な観点から,高機の無い所に薄物の絹織の技術は存在しなかったとしても,いざり機で?[あしぎぬ]や紬は織れるので,むしろ,養蚕のある所に,真綿引きや手紡糸,紬織の技術が存在しなかったとみるのは不自然であろう。そうだとすると,琉属時代の衣服に紬類が用いられたことも首肯できるし,ノロ祭の装束に用いられた錦の胴衣や白絹の振袖もいくらかは奄美で自給された可能性も考えられる。以下この点を検討してみよう。

2 唐錦のサジ(領布)と花織の技術
 ――ユカリッチュ(由線人)の服飾――
 奄美には旧家に伝わるノロ祭用のサジ10)な玉ハベル,錦織,草木染の浮織(綾織),5色の浮織などが多数現存していると言われている11)。茂野氏は,氏が昭和39年,徳野島花穂の旧家前田家から発見した唐錦の領布は250年ほど前(1716年頃),伝承ではあるが熊元めんだという人が製織したものだとしている。同氏はこのことから,1720年の絹布・紬着用禁令以前までは,奄美にも精巧な中国伝来の綾錦の染織技術があったと主張し,さらに,これと唐の?子[ヒシ],本土の領布[ヒレ]の風俗が古来のものであることを結びつけて,奄美の当時の染織技術が,相当古くから存在したものであるとしている12)。
 ところで,この主張で問題になるのは,古代綿織や綾織技術の伝来した時代がどこまで溯れるかということである。先に見た琉球伝来説をとると,記録上,琉球で浮織が初まるのが1659年とされて13)いるので,それ以降ということになる。また,桑作・養蚕の技術とともに,日本本土ないしは中国から伝来したとすれば,少くとも「琉球国郷帳」に基づいて,琉属時代までは遡ることができよう。
 しかし,筆者はこのような技術の伝播経路は,そう単純なものではないと考える。前田家に伝わる唐錦の領布が自家製のものであるとすれば,その染織技術は相当精巧なものとみられるので,それが1659年に琉球に伝来し,50~60年の間に,何も在来技術のない奄美に伝播して定着したとは,当時の技術伝播の速度からみて,とても考え難いことである。当時の浮織の外来技術が,奄美古来の草木染めや紬織の在来技術の基盤の上で急速に同化し,伝播したとみるのが自然であろう。
 何故なら,琉属時代から薩藩直割時代の奄美には,強力な権力機構は存在せず,公的機関による技術移転は望めなかったはずであり,文化の普及や染織技術の伝播は,貿易・行商・旅行などを通した,民衆と民衆の直接的な交り,自然の同化によってなされたとみられるし,またその際,ノロの祭政一致政策にみられるように,奄美の富裕名門家が文化や技術移転に果した役割は大きいとみられることから,そこに伝来された在来技術のもつ意味は大きい。
 そこで,幕末へかけて,大きな経済力を貯えたユカリッチュ(そのほとんどが島役人)の琉属時代,薩藩直割時代における支配体制への位置づけとその服飾の一面をみてみよう。
 『大奄美史』は,琉属時代の島役人の位階制を次のように述べている。
 按司[あじ]一人,全島を主宰し,位は正1位,金簪[かんざし]を使用した。
 大親[うふや]7人,各間切の長としてその事務を総理した。従5位以上正2位以下。金簪・仮名染黄鉢巻[はちまき]を着用。
 与人[よひと]7人,大親の補佐,位も同じ,金簪・黄鉢巻を着用。
 目指[めざし],人員を限らず,大親・与人の指押を受けて庶務に従事。正7位,銀簪・赤鉢巻着用。
 筆子[てつこ],位階なく,切米だけを受く。
 掟役[おきてやく],同上。
 なお,按司は琉球王の代理として直接王府から任命派遣され,大親も多くは琉球から派遣されたが,中には大島従来の酋長から取り立てられて大体世襲であったようである。与人役には大島の名門,もしくは酋長の子孫か,大親の子孫の者が任命された14)。したがって,このような支配階級が,ノロの装束にみられるような錦織や白絹の服飾でもって地位身分を誇示するため,自家の染織技術の向上に努めたとみることはできよう。
 薩藩直割時代には,中央代官所に,藩庁より派遣される代官,横目,附役と,現地任命の書役の役織があり,各間切役場に大親役,与人役,目指,筆子,掟役,功才[こうせ]が設けられていた。また1659年以降は,与人を補佐する間切横目,黍[きび]横目,田地横目などの横目役が増員されている。この横目役は銀簪[かんざし]を許されているが,富裕な家は役職を得て,さらに役職は経済的な有利性をもたらし,ますます富裕化の道をたどっている。ユカリッチュは,殆んどが島役を勤めている富裕で,権力をもった者の別名のようなものであるが,1823年の惣御買入れ後はますます富豪化し,たとえば,渡連方の林家では50~60町歩の黍畠をもち,300人のヤンチュ(家人)を有して,年間約15万斤の黒糖を生産し,自家で自由に処分できる余計糖が2万5千斤もあったとされている15)。ちょうど,この頃の奄美における服装や染織事情は,『南島雑話補遺篇』でうかがい知ることができるので,ユカリッチュの経済力を念頭におきながら,1720年の絹布・紬禁令から,1823年頃の『南島雑話補遺篇』の記録を結びつけて,その延長上に,奄美在来の染織技術を探ってみよう。

3 薩摩藩の砂糖政策と染織技術の変革
 ――紬着用禁止令がもつ2つの側面――
 奄美で製糖が本格化するのは,1745年の「換糖上貢」以降とみられるので,1720年の絹布・紬禁令と薩藩の砂糖政策との間に,直接的な関連はみられない。むしろ、当時,短期在任でいい加減なものになりがちな代官政治が,島民にその威信を示し得なかったのに対し,土地の与人・横目等島役人は,土地の門閥であり,豊富な財力を擁して,彼らは常に金銀の髪指を差し,朝衣,広帯を用いて威容を誇示し,島政にも代官以上の見識を有していて,島民に畏れ敬われており,藩庁もこれを見過すことができなかったからだとされている16)。
 この髪指,朝衣,広帯使用の制度は琉属時代に確立し,薩藩直割になってからも許されてきたものである。とくに簪の使用は古くからの慣例で,前項でもみたように,大親,与人は金簪,それ以外の役人は銀簪,庶民は真鍮の簪と定められていた。これが前述の理由により左記のように禁止されることになる。
 大島 徳之島 喜界島 沖永良部島 右4島与人渉 横目是迄金之笄[コウガイ]並朝衣 広帯致着用来候得共 向後金銀髪指令禁止候 真鍮髪指用可申候 朝衣広帯与人 横目 目指 筆子 掟迄令免許候条 其外者曾用間敷候 広帯之儀唐織用候儀者令禁止候
 1 右役々之者絹着用令免許候 絹布令禁止候間曾着用致間敷候
 2 右役々之外木綿着用 絹布並紬迄曾着用致間敷候
 右の禁令は最初,2つの意味をもった。1つは,庶民に対する勤倹質素の風の奨励であり,2つ目は,門閥富豪の島役人に対する畏敬の念を低下させ,代官政治機構の支配体制を強化することであった。
 第1の側面は,時代が下って薩藩の砂糖搾取政策が強化されるに従い,衣生活が質素にならざるを得ない現実を制度的に肯定し,促進したとみられる点である。
 試みに,琉属時代の税制の記録である「琉球国郷帳」に基づいた大島,徳之島,沖永良部与論4島の桑方年貢石高は1300石であるから,この石高から租税真綿の量を計算してみると1962kg17)となる。桑の木は桑の木1本につき租税真綿3匁を基にして計算すると17万4400本(『南島雑話補遺篇』の挿会でみる桑の木は大人2人が木に登り桑を摘むほどの大木であった)となる。これは当時の養蚕や何らかの絹織が盛んであったことを示している。しかし,先の禁令後の享保13年(1728)の『大島規模』ではすでに,「桑の木が近年少くなったので,帳面に木の回りの寸尺や場所をくわしく書きとめ,代官が交代するごとに引き継いでいくようにという条項がある18)」とされている。その後文政2,3年(1819・20)の記録とみられる『武家文書』や天保5年(1834)の『長田家文書』には上納品としての真綿の記録がある19)とされているが,その生産は急速に減少していったものと思われる。これは,1745年以降,大島全島で黍作・製糖が本格化したので,島の平地は田や墓地までつぶして黍畠にされ20),島民は作用夫として男子は15歳から60歳まで,女子は13歳から50歳まで,大島住用間切の場合,男で2反5畝,女はその半分の黍地高割を受け,定められた時期に,黍作労働を強制され,島民からの搾手も換糖上納から定式買入,惣買入れへと強化され,桑作の土地をはじめ,何よりも養蚕の時間が奪われたことである。
 このようにして庶民の衣服は山地の芭蕉を素材とすることに甘んじ,たしかにこの点では禁令の第1の趣旨は実現しただろう。しかし,過去の服飾文化と染色技術が高ければ高いほど,同じ芭蕉素材でもその染織には新たな工夫がもたらされたとみられよう。
 禁令の第2の趣旨に対しては,島役人の側から,直ぐ反発が出てその主張が一部認められている。すなわち,金銀の簪は,役人としての権威を保ち,その職務を遂行するのに是非必要なものであるから,従前通りの使用を許可するようにとの与人一同連署の嘆願書に対し,藩はしばらくして,銀簪だけの使用を許可している。
 このことから類推して,島役人(ユカリッチュ)は,唐織(唐錦か)の広帯や絹布利用の禁止に対しても,表面上はともかくとして実質的には反発を示したものとみられよう。すなわち,名門家伝来の染織技術は維持され,それを変革することによって,禁令には触れないが,彼らの威信を誇示できる衣服の染織は,彼らの経済力をもってすれば容易なことであったとみられる。
 薩藩の砂糖搾取政策に苦しめられた奄美庶民の衣服生活に対する“あこがれ”的な工夫と,名門富裕家で蓄積・変革された染織技術こそが,『南島雑話』やその『補遣編』の記録にあるものであろう。だから,われわれはそこに,大島伝来の染織技術や大島紬の源流をみることができると思う。
4 大島紬の源流
 ――トリキリ縞(絣)と泥染の技術――
 『南島雑話」および『南島雑話補遣篇』は『南島民俗文化史料21)』にまとめられている。
 『補遣編』の衣服の項22)には「衣服は紬を上とし木綿を用ゆ,夏衣は芭蕉にて何れも島婦是を織る。皆縞織[・・]にて其ゆみなる(美しい)ことは越後或は琉球縞にも専ら劣るべからず」,「朝衣といへる官服あり,極上々の芭蕉素至って細密に績たる素の儘に数篇藍にて5日斗り飽まで染めて織調へ,親族集りて替る替る打衣(砧打のこと)すること二,三晝夜なり。成就になりたるは其光沢恰も〓日が如し。是を広袖の大袖の衣服に縫調へ広帯をするなり。此帯の地合は5つ爪[・・・]或は繻子[・・](表面に経糸または緯糸を浮き出させたつやのある絹織り物)類なり,此服は郷土格,与人,間切横目の分着するなり」,「女も此の服に類したる極上生芭蕉にて朝衣の如く織りたるたなべ[・・・]といえる白き服あり。諸横目以上の妻子など祝事等にこれを常服の上着にして吾藩(薩藩)の女打掛の如くに帯なしに着す。其時は頭にはさじ[・・]といへるものを冠るなり」,「諸横目等の礼服[・・]は練肌紺と言う木綿の浮織[・・],紺染にて濃き薄きは人の好みに随ふ。諸横目以上の子供等の冬服の能きは木綿のこん地に5色の色[・・・・]を様々に浮けて[・・・]織出して着る。奇麗なることなり。諸横目以上富家の童子は紫縮[・・]の湯巾帯を用ひ其の他は何れも紺染の湯巾帯なり」「婦人の常服皆木綿紺地のかすり縞[・・・・]なり」等々描写されている。
 また「産物」の項には「芭蕉布 嶋(縞)地色々極上品の多く織る。芭蕉の素(糸)は大島より本硫球に渡す事にて,本硫球船被寄積は之を芭蕉カネ積と言ふ。紬 織立はつやなけれども程久しくつや出て,至ってよく,縞がらも色々あり」と記されている。
 これらの記録からも分るように,文政11年(1828)前後の染織技術には,絹布に似た光沢をもつ極上芭蕉布の朝衣[・・]やたなべ[・・・]を織り出す古来?[あしぎぬ]製織の変革されたものや,古来の唐錦・綾織の基礎の上に,多分,琉属時代から薩藩直割初期に導入され同化したとみられる芭蕉素や木綿,紬糸の多色染糸を用いた浮織(花織)の技術,かすり縞の染色技術など,多様で,相当進歩したものがあったと思われる。そして『奄美染色史』に写真図示され,現存するとされている23)「住用村河内の旧家に伝わる朝衣」や「徳之島花穂の旧家前田家に伝わる唐錦の領巾」,「大和村今里に伝わる藍染,木綿浮織の手サジ(飾布)」,「チョマ,芭糸浮織りの布」,「徳之島の草木染めの浮織」「今里に伝わる5色の浮織」などの織物は,前述の染織技術で製織された可能性を物語っている。
 この可能性を現実のものとして裏打ちしているのが『南島雑話補遺篇』にみられる織機・機具の図示と浮織・踏落し技術の説明24)であり,絣糸の手括り染色の技術25)や養蚕・手紬技術26),芭蕉素製造技術の説明27)である。
 図説でみると,浮織機の基本は一枚綜統の地機である。元来,地機は平織・布機であり,絹織には,せいぜい?[あしぎぬ]織ぐらいまで使用しうるものとされ,錦織・綾織を能率よく織り出すためには(空引き装置を有した)高機が必要である。しかし,原理的には,「浮織の図説」にあるように,あらかじめ必要な経糸には全部綜統糸をかけておき,図柄に応じ,必要な経糸の綜統糸だけを選んで横板に掛け,一括して必要な経糸を踏み落せば浮縞を織ることは可能である。また手間と時間を十分かけるならば,錦織や綾織も不可能ではないだろう。
 だが,薩藩の砂糖搾取政策の下で,手間と時間を奪われた島民にとって,このような技術は一部富裕家にしか採用され得ないものであって,庶民はもっと生産性が高く,しかも,彼らが当時見てあこがれた織物に近づくような柄模様が織り出せる染織技術を選択したものと考えることができる。
 その技術こそが,手織で繊細な経緯縞や浮織にも似た美しい柄模様の出せる絣の染織技術ではなかっただろうか。
 この絣染織技術は『南島雑話補遺編』にその整経や墨付け,絣括り,染色,絣縞の種類などが説明されており,また『南島雑話』にも絣縞の種類が図示され,その染色方法が説明されている28)。整経については「管より??に移し織物の縦素を揃へて長さを定む」,墨付け「紐梳に蘇鉄の葉[ハリ]を指して縦横欠磨の算用を決す。紐梳にて欠摩を定め,図(略)の如きものに墨にて印し」,絣括り「是に合せて芭蕉素にて横綛を結ぶ」,「紬,木綿,芭蕉等を織るに竪素の欠磨を探出さんが為に結ぶ図(略),此カスリを縦横に出したるをトリキリ縞と言う」,染色「ひろき染にても,染にても好みに随ふ。ひろき染とは汐入の処へ生る木あり,其の皮剥ぎ,煮汁にて染める也」などと記述している。また絣縞の種類については図を示して,第4-1図「斯の如き類の縞をスキカセ合のトリキリと云」い,第4-2図「斯の如き類の縞を竪縞トリキリと言う」とある。
 また染色について,『南島雑話』には,ニチヤ染,ヒロキ染(茶),ハジノミ染(橙色),トイモ汁染,ガキナ染,ハックワキ染など,草木染,泥染の方法が示されている。ニチヤ染については「田又は溝河の土の腐りたるに漬け,何篇となく染る時は鼡色付く,縞のむきにより染る。其土の染不染は織女よく見わくる也,泥の腐りたるをニチヤと言う29)」とのべている。
第4-1図 スキカセ合いのトリキリ
第4-2図 堅縞トリキリ
第4-3図 東タスキ(左)とツブツクワノタスキ(右)
 このように,多分富裕家においては紬糸を用い,庶民は木綿や芭蕉素を用いて織り出したトリキリ・経緯絣の染織技術は,染色技術や多様な柄模様の名称の定着具合からみて,文政11年頃までには相当進歩していたことが首肯できる。
 したがって,明治以降の大島紬の直接的な源流をここに求めることには問題はなかろう。また,さらに遡って,その源流の中に,八丈紬や久米島紬の染色,製織技術からの影響を受けながら,奄美に古くから伝来したとみられる草木染,泥染め,繊細な点と線による図柄描写(古代錦や綾模様の表現形式)の同化残存を認めることもできよう。
 さて,以上のような大島紬の源流をふまえて,次章では,明治初期の大島紬に受けつがれたとみられる,紬糸の手括り,草木・泥染による絣加工,地機による製織,繊細な柄模様などの諸特徴が,外来技術とどのようにして確執し,変容されながら再生産されてきたかをみてみたい。
 注
 1)『名瀬市誌下巻』514ページ。
 2)同書514-15ページ。
 3)昇曙夢『大奄美史』奄美社,1949年,522ページ。
 4)同書523ページ。
 5)茂野幽考『奄美染織史』奄美文化研究所,1973年,100-01ページ。
 6)同書87-95ページ。
 7)ノロ=琉球では古くから功労ある者をその地方の行政上の長官に任命すると同時に,その妻女もしくは姉妹を,あるいは地方豪族の女子を女神宮ノロ(祝女)に任命し,一切の神事祭式を司らしめ,旁ら政治上に利用していわゆる女人政治を行った。
沖繩本島では100人からのノロが各間切に配置され,管内36島にもそれぞれノロを任命したので,その数は,一時300余人に達した。(『大奄美史』122ページより)
 8)『大奄美史』224ページ。
 9)同書125-26ページ。
 10)サジ=『南島雑話補遺篇』(文政13年の頃)には,「婦人ハ禮服タナベといへるものを着せる時此サヂを冠れるなり地合は紗綾にて長ニ尋なり」とある。婦人の装身布帛であり,中国では?子[ひし]と称し唐時代,日本では領布[ヒレ]と称し奈良平安時代に上流階級の間で広く用いられた。
 11)『奄美染織史』写真・図版の部2-47ページ,本文1-9ページ。
 12)同書1-5ページ。
 13)『名瀬市誌下巻』513ページ。
 14)『大奄美史』118ページ。
 15)『名瀬市誌』394ページ。
 16)『大奄美史』265ページ。
 17)上,中,下100匁の真綿=各々米3斗,2斗5升,2斗から単純平均して真綿100匁=米2斗5升とした。
 18)『名瀬市誌下巻』515ページ。
 19)同書517ページ。
 20)『奄美染織史』54ページ。
 22)有川董重『南島民族文化史料』南島文化出版社,1975年,206-07ページ,270-307ページ。
 22)同書270-71ページ。
 23)『奄美染織史』図版40,2,41-42,43,44,47ページ。
 24)『南島民族文化史料』299ページ。
 25)同書296-98ページ。
 26)同書287-95ページ。
 27)同書301-07ページ。
 28)同書296-97ページ。
 29)同書206ページ。
Ⅳ 明治以降の外来技術に対する在来技術の確執と変容過程

 大島紬が産業として成立したのは明治後半期であって,その頃の大島紬が先進機業地の商品と伍してゆくためには,自らの染色前史に基礎をおいた優れた特徴を活かしながら,積極的に,在来技術の改善・開発や外来技術の移転導入を行う必要があったものと思われる。
 産地の生産体制は「Ⅱの4のA」でみたように,大正初期にはすでに分業体制にあったとみられるので,「Ⅱ」でみた産地生産体制の現状と問題点を,「Ⅲ」でみた大島紬伝来の諸特徴をふまえて,より深く解明するために,産地の分業体制に沿って,生産工程別に本章の課題をとりあげてみたい。その際,全工程を網羅的にとりあげるのではなく,大島紬染織技術の源流と深く関っているとみられる問題を重点的にみてゆくことにする。しかし,生産技術は一つのシステムとして相互に関連し,影響し合っているものであるから,本章の課題を工程別に検討することには問題もあろう。したがってここでは,記述の重複は厭わず,各工程相互の考慮すべき関連は言及することにしたい。

1 織物意匠と図案技術の変遷
 図案工程は,織物意匠を創出するために市場情報を収集し,原図を構想・描写する意匠化過程と,意匠を採用,企画化し,原図を図案化して製図を作製し,織物設計をつくりあげるプロセスを含み,市場・集散地問屋の要請と生産技術の可能性を具体化する工程である。したがって意匠過程には,情報収集能力,意匠企画能力に優れた集散地問屋が「誂え品」のためにこれを行う場合と,産地生産者が市販の原図を購入したり,自ら創作して,「主場品」のためにこれを行う場合とがあるが,これらが産地の生産技術に適合するように図案化され,織物設計に至る過程では,奄美産地特有の生産技術に根ざした制約・確執がみられる。また原図の図案・製図技術そのものにも外来技術の導入・同化がみられる。
 大島紬は,絣染・平織がその染織技術の基本であるから,西陣織のように,ジャガードを駆使して「織り」に無限の変化を与えたり,京友禅のように,「色使い」や「柄・模様」に自由な広りをもたせることはできなかった。明治初期の生産技術では,点と線による独特な繊細な模様ではあるが,左右上下対称形の小型模様しか生産できなかった。しかし,当時の大島紬が他の先進機業地の織物と競争していけるためには,「Ⅱの3」で大島紬の先覚者丸田兼義翁伝としてみたように,「まず新しい時代の人々に好まれる新しい柄の紬」を生産する必要があった。すなわち,大島紬伝来の生産技術の中に在った柄・模様図案化のこの桎梏を除去し続けてきた過程こそが,大島紬に不断の市場性を与えてきたようである。
 いかに集散地問屋から市場要請に適合した優れた意匠・原図がもたらされたとしても,大正3年に,緯絣の交代締法が開発されるまでは,ある限度以上の大きさの柄模様を絣糸に加工することは困難であった。それ以前は,現在の小柄の絣加工と同様に,一本の糸には同一模様だけを加工していたので,製織の際,多数(竜郷柄の大きな柄で10丁ぐらい)の杼を使う必要があり,ある限度以上の大きさの柄模様の加工は困難であった。これが改善されて,1本の緯糸に一完全模様の絣を順次加工し,2丁(1丁は地糸用)の杼で製織できるようになったため,製織の生産性が向上しただけでなく,大柄の絣加工も容易になって,模様の高級化が図られたと言われている1)。
 また,伝来の生産技術の基本は遵守しながら,絣締の技術の改革を通して達成されたのが,袋締め絣加工の考案(大正13年)と,簡単袋締および縫取締法の考案(昭和6年)による一方向性の柄模様図案化の可能性であった。これによって,在来の図案技術が確執してきた伝来の定形的な対称模様から脱却し,長さ1尺以上の大柄物も自由に図案化できるようになった。
 ここで留意しておきたいのは,これら絣締め技術の改革によってもたらされた柄・模様改善が,大正2年頃から導入された製図技術の進歩と深く関わっているということである。大正2年には大島島庁に紬業改良普及員がおかれ,業界の指導がなされて,同4年には方眼紙を用いた図案描法がとられ,斬新な絣模様の図案化がなされている。7年には紬同業組合に図案部が設置され,10年には大島島庁に染色・図案の改良指導員が配置されて,意匠の改善に努めた結果,産地では新柄も多数生産されている。大正12年には紬同業組合の「新柄登録審査委員会」に253点の新柄登録が出願され,うち126点が登録され,127点が却下されている2)。昭和4年,大島染織指導所が設立されてからは,同指導所は図案・染色の伝習性を養成(昭和7年開始)して,産地の図案技術の開発・普及に努めてきた。昭和29年には総蚊絣模様の大島紬が開発され,これは他産地には類例をみない本場伝来の精巧緻密さをきわめた柄模様として好評を博し,需要の喚起を促進したと言われている。
 図案工程におけるこのような市場・集散地問屋の要請や,他機業地の動何に対する奄美産地の確執と変容過程は,化学染料を用いた柄模様の多彩な色使いと,本場在来の泥染による渋い色調意匠との間にもみられるが,この考察は染色工程の項にゆずる。

2 織物原料糸の変遷
 大島紬の原料糸が,真綿の手紬糸から練玉糸に変ったのが明治28年頃,また玉糸から現在の木絹撚糸に変ったのは大正4年頃とされている。
 染織の他の条件を同一とすれば,現在の結城紬の風合にみられるように,原料糸には手紬糸を使用した方が織物は優れているはずである。しかし,奄美産地では,当時,需要が激増したため,真綿手紬糸では需要に応じ切れず,名古屋地方から練玉糸を移入して原料にしたとされている3)。ただし,練玉糸(当時は縞糸と言った)の使用は,明治28年の好況時にはまだ経糸のみであったが,37~38年の好況時には経緯糸共に用いられている。これは,30年頃から在来の地機に代って高機が使用され始めていることと考え合わせると,明らかに,単なる生産量増大だけではなく,生産性の向上に大きな関心のあったことを示している。したがって,当時の市場・需要の要請・使用目的に適合したものを供給するという意味での品質保障技術が軽視されがちな傾向は否めない。
 この間の事情を,『本場大島紬』は次のように記述している。「検査は厳ならず,好況ではあるために粗製濫造品が大阪の問屋に堆積する一面,安価な名古屋製模造品が出る,更に一面経済界は緊縮して来たと言う明治41年には,大阪,京都,名古屋,鹿児島などの商人連署して大島々廳に,紬を改良するにあらざれば今後取引しないと厳なる警告書を送った」のに対し,「郡内当業有志は名瀬に集まり,紬本然の性に立帰り,緯経共,紬いだ糸を使用すべしとの論と縞糸使用が絣の鮮明品質向上に適する,紬糸使用では需要に応じ得ない,ただ定款励行を必要とするのみと云ふ論とが盛んに争はれた」しかし結局「定款を励行することとし,紬糸と縞糸との優劣問題は研究に譲るとした」ものの,「其の後の研究により,弾力,磨擦力,製織,売買何れの面からも縞糸優る」という結論を出したとされている4)。
 本絹糸採用は,大正4年の方眼紙を用いた製図技術の導入と時期を同じくしており,多分,繊細な柄模様の表現上都合が良いということと関連していたとみられる。したがって,手紬糸に代って練玉糸が採用された時には,織物の風合が犠牲にされたと思われるので,在来技術の確執がみられたが,本絹糸採用の場合は,玉糸使用の既成事実の上で,これは大島紬在来の柄模様製織にとって優れているとみられるので,自然に大島紬の染織技術と同化したものとみられる。
3 絣糸加工技術の変遷
 奄美産地における絣締機の採用・普及過程については諸説があって一定していない。
 明治34年に積彦熊が名古屋から移入し,重井小坊がこれを改良したとするもの(笠利町誌)や「明治34・5年後最も便利なる締機なるもの使用されぬ。こは初め名古屋辺とかの人,当地に締機を持ち来り教授料を取りて人々に教え居たり,されど之を習ふ人は皆家の中にありて戸を閉ぢなどして,人に知れぬ様秘密に習ひ居しものなり」「最初は只大柄の緯絣にのみ用い居たりしが」「明治40年頃より経絣」も「締め得るに至りぬ5)」(『奄美大島史』)という説,また「Ⅱの2」でみた「明治34年,永江伊榮温氏が其子息當八氏をして絣締機法を名古屋より移入し,苦心の末之を紬織に応用することを完成する」(『鹿児島県織物工業協同組合60年史』)という説などいろいろある。しかし,円野憲吉氏はこれらの締機の名古屋からの移入説を否定している。その根拠は「名古屋に当地の締機と同様のものが当時あったとすれば,同地方で絣締が行われていたはずであり,大正期に龍郷柄をまねた名古屋紬が締加工でなく型付のものであった点からも同地で締加工は行われていないことがわかった」ことを挙げている6)。
 この円野憲吉氏や安田直信氏ら6名を中心とした共同研究の成果『大島紬年表』(昭和55年)や,大島染織指導所『創立50周年記念誌』の「大島紬の技術進歩変遷」年表では,絣締機は明治34年,笠利村赤木名の人,重井小坊氏が研究し,特許の申請まで試みたが,若死したため実現は出来ず,明治40年,笠利村赤木名の人,永江伊栄湯が絣締を完成させたとしている。
 絣締機の採用過程がなんらかの外来技術の移転によるものか,産地独自の開発によるものか,いまだに納得のいく確証は得られていないと思うが,重要な点は,「Ⅱの2」で問題点として指摘したように,円野氏らの独自開発説をとるにしても,重井小坊が締機を考案したとされる明治34年頃,40年には自ら絣締を完成させたとされる永江伊栄温が,鹿児島市で紬業に従事していた事実である。この頃,鹿児島授産社は,組織を改組し,規模を拡大しながら絣織や縞織,木綿縞織などの量産態勢をとっており,明治38年には薩摩絣の手織においても,新式の絣括機を採用している。このような久留米,名古屋から導入された量産技術が,永江伊栄温をして,大島紬在来の絣手括り技術の改善に目を向けさせたとみることはできよう。すなわち,産地における締機採用の動機が生産の能率化にあったことは否めない。
 しかし,締機の普及速度は,そう速かったとは言い難く,「Ⅱの1」の第2図「大島紬産地別生産状況」で,産地の生産量は大正4・5年を界にして急速に増大していることや,「Ⅱの4のA」で検討したように,締機の導入がそれを促進したとみられる社会的分業の成立の時期などからみて,締機は明治40年頃から10年間ぐらいの間に普及したものと考えられる。この緩かな普及過程は初期の織締技術に難点があったか,他の染色,製織工程の生産性の面から,締技術の吸収能力に限界があったか,相対的に多額の投資を要したかのいずれかであろう。
 この新しく採用された締技術が,大島紬伝来の繊細な柄模様の表現技術に同化し,その特長をより発達させ得るようになったのは,大正3年の交代締,同13年の袋締,昭和6年の簡単袋締及び縫取締加工技術の開発普及であったとみられる。

4 染色技術の変遷
 「Ⅲの4」で大島紬の源流としてみたように,明治初期頃までの大島紬の染色は,藍,ヒル木,テーチ木などの植物染料染めと泥染めであった。これが明治10年頃からテーチ木液と泥土染めに統一され定着した。これは大島紬に独特の艶と風合,格調を与える本場奄美大島紬の地域独占的特徴として市場で高く評価されている。
 現在,染色工程には,「Ⅱの4のA」の第3-2~4図でみたように,テーチ木煎液・泥染染色と藍泥染染色,色大島染色の3つの流れがあるが,各々の染色製品の生産割合は,昭和53年度で泥染28.3%,泥藍染52.8%,色大島18.9%となっており,本場奄美大島紬の大宗は前2者が占めている。しかし,昭和45年には,色大島の生産割合が74.8%を占めたことがある。これは,他の機業地ではすでに明治の末期から大正期にかけて盛んに導入されていた化学染料が,奄美産地では在来の染色技術の確執によって,受容れられていなかったが,昭和29年に大島染織指導所で,泥藍染の絣の抜染捺染加工法が開発され,多色入り泥藍紬の生産が行われるようになったのを皮切りに,化染染めの技術が次々と開発され,昭和30年には色大島紬の研究開発がなされたことに起因している。その頃,ちょうど織物市場は明い色彩の派手な柄模様を求めていたから,先の「Ⅱの4のC」で紬協同組合理事長の中江実孝氏をして,「画期的な研究成果」と評価せしめたように,業界は,この色大島紬を32年頃から高級化し,36年頃からは急増した需要に応じ,産地をあげて量産にのり出している。
 だが,このような化染染めの色大島が全盛であった41年頃,すでに識者の間では,大島紬伝来の染色の在り方が見なおされている。
 昭和41年10月に開かれた流通業者と産地業者との会合の中で「最近の化染のハンランには異論がある。化染ももちろん結構だが,本来の大島紬の伝統が失われつつあるのではないか7)」,「化染が売れなくなるころ,ドロ染めがつくれなくなったという事態を恐れている。ドロ染は全国で奄美だけの特長である8)」などのきわめて含蓄のある意見が出されている。
 事実,泥染技術者は,比較的生産性の高い化染染によって転廃業を迫られ,一時はわずか9人しかいなくなったと言われている9)。
 そこで,41年4月,田畑清玄氏や安田直信氏らは,「流行はあかれる時期がくる。本場独特の渋味のある泥染めを生産して欲しい」とする要望に応え,大島紬伝来の泥染めを大切にし,これを市場に認識滲透させていく必要があるとして,「泥染保存会」を結成している。保存会は当時9業者の会員からなり,①本場大島紬協同組合員の自家製品で,その製品検査に合格したもの,②純泥染製品で15半算[ヨミ]以上の製品,という厳格な規格を設け,泥染め,泥藍染製品の適格品には会の登録商標である「純泥染」証紙を添付している。また44年9月からは,紬協同組合も「古代染色泥染証標」の表示制度を設け,さらに,名瀬市や紬組合の泥染技術者養成のための積極的な助成策も講じられた。
 このようにして,染色工程における泥染技術の再生産は,技術採用の主体である生産業者と産地の政策主体である紬組合や行政機関の選択によって,息を吹き返したと言えよう。だがやはり,この選択の背後に,歴史的には最も古い源流を伝え,地理的にも泥染めによく適した泥土を与えられている奄美の泥染技術が本場奄美大島紬の本質的で,より地域独占的な技術であることを見ないわけにはいかない。

5 製織技術の変遷
本場奄美大島紬の技術的な3大特徴は,絣締加工技術,泥染染色技術,手機製織技術にあると言われ,製織技術は絣加工・染色技術を織物の上に総合し具体化する重要な位置づけを与えられている。すなわち,先染めされた絣糸を調整しながら繊細な柄模様を製織していく。ここに本場奄美大島紬の製織が手織でなければならない大きな理由があり,また絣合せの難易度を示す経緯絣とか緯絣の品種区分が大島紬の品位区分として用いられる理由もここにある。
奄美産地では,伝来の地機が名古屋式の高機(当時は長機と言った)に代ったのは,明治30年頃とされている。これは原料糸を手紬糸から練玉糸に転換した時期と相前後している。すなわち,生糸は2%以下の伸び率であれば何回引き伸しをくり返しても変質しないので,経糸の開口による経糸の伸び率を2%以下にするためには,織機の機台をその必要に合せて長くしなければならないし,この原理は,いざり機のように,片足をもって綜絖を操作する奥行きの短い織機を不適当なものとした10)。
 このような必然性があれば,在来技術の外来技術に対する確執はなく,その普及の速度も速いもののようである。
 高機はいざり機に比較して数倍の生産性があると言われており,これが,明治後期の締機の普及と相俟って,大正5年以降の急激な生産量の増大を齎らしたことは論を俟たない。しかし,奄美産地においては,「Ⅱの2」でみたように,力織機の普及率は低く(昭和48年10月現在で手機65に対し力織機1の割合),高機の生産性を越す織機の採用には在来技術の確執がみられる。これはむしろ力織機の生産性の面からではなく,絣締技術や染色技術などの大島紬独特な諸特徴を製織技術で生かし,大島紬の高品位の諸特徴を求めている需要に適合させようとする品質保障の面からの問題提起である。すなわち,この低い力織機の普及率は,逆に,手機製織による経緯絣の生産割合の高さ(53年で87.8%)によってその不採用の動機を表現している。
 大正7年には足踏織機が一部採用されているが,前の理由で普及するには至らなかったようである。足踏織機はバッタン手織機から力織機へ移行する過渡的な織機とされており,バッタンは,杼に連結した紐を引くことにより杼が左右に運動したが,足踏機は手の操作を足踏み操作にきりかえ,綜絖・筬・杼の運動を行ったものである。
 高機の筬は長い間繩吊りであったが,これを昭和30年頃,田中清彦氏がバッタン式筬に改良し,織物地風の改善と生産性の向上に寄与したと言われている。ジョン・ケイが1733年に発明したバッタン(Batten)は,筬の下部を前方に広くし,経糸を下から支えながら杼道をつくり,筬の両端に杼箱を設けたものであったが,このバッタン式筬は,筬の両端から杼箱を除いたものとみてよい。
 このように品質保障技術を優先する製織技術の中で,最も大きな発明とされ,今日でも重視されているのは,明治23年頃から始った針による経緯絣糸の調整技術である。

6 製品検査制度の変遷
 明治34年に創立された大島紬同業組合は,同年から製品の検査業務を開始している。これが製品の粗製濫造の防止,信用の維持増進を目的とし,先進機業地の制度
を導入して創られたものであることは容易に類推できる。
 筆者は設定時の組合定款を知る資料を得ていない。大正4年9月付,久米島女子工業徒弟学校の『大島紬調査書』には,「組合ニ於ケル検査ハ定款ノ定ムル所ニ依リ1反毎2染色,重量,幅,丈及地合等ヲ精密ニ調査シ,合格,不合格ノ査定ヲナス」とあるが,「大島紬同業協同組合は紬の改良発展ヲ図ルタメ明治34年ニ創設サレ爾来非常ナル進歩ヲ来セリ,組合定款モ従テ多少修正変更サレタルヲ見ル12)」とあるので,昭和3年頃の大島支廳報告とみられる『本場大島紬』に挙げてある組合定款の抜粋がどの程度設立時の原形をとどめているかは判らないが,その抜粋によると当時の定款に定めた次のような点が明らかである。
 第1条 本組合ハ組合員相互ニ親睦ヲ旨トシ協同一致営業上の弊害ヲ矯正シ大島紬ノ品位價格ヲ増進セシムルヲ以テ目的トス,
 第14条 組合員ハ規定ノ検査ヲ受ケタル紬ニアラザレバ賣買讓受交換又ハ預ケ若ハ預カルコトヲ得ズ,但組合員外ヨリ原料ノ供給ヲ受ケ製造シタル紬ト雖必ズ検査ヲ受クベキモノトス,
 第44条 検査シタル紬ハ左ノ各號ニ據リ處シ之レヲ検査台帳ニ登録ス,
 1 合格品ニハ証票並ニ検査證ヲ織口ニ貼付シ合格印章(図形寸法略)ヲ押捺ス
 2 不合格品ニハ證票並ニ検査證ヲ織口ニ貼付シ不合格印章(図形寸法略)ヲ押捺ス
 また「違約者處分トシテ定款違背不合格製造等輕重ニ従ヒ營業停止製品裁断過怠金ノ處罰」があったとされている12)。この処置は明治42年頃のことのようで,「本場奄美大島紬組合の製品検査業務について」という内部資料には「明治42年,定款を厳重に励行することとし,不合格品は過怠金を課し,甚だしく悪い製品は裁断する,さらに不正な染色は絶対に禁ずる方法をとり,極力改善に努めた」とある。
 ちなみに,先の『本場大島紬』の「昭和2年中各町村不合格紬調の統計表13)」をみると,当時の検査項目を推定し,その年の各項毎不合格反数を知ることができる。名瀬町の場合は検査反数8万3312反(以下単位略),不合格2903,(不合格率3.5%),不合格の原因別では長・86,幅・14,耳・0,量・88,増量・14,染・428,色ムラ・2,乱(絣不揃か)・404,疵・89,地(地合不足分か)・978,縮・624,染外(規定外の染色か)・22,其他・336反となっており,處罰では断(裁断)・34,戒(訓戒)・18などとなっており,当時の紬同業組合の製品検査がいかに厳重であったかがわかる。
 このような検査制度や証紙貼付制度の導入先や経過についてはよく判らないが,
おそらく,西陣などの先進機業地に倣ったものとみられる。
 大島紬同業組合は,明治33年公布された重要物産同業組合法によって設立されたものであり,西陣織物同業組合も同様である。しかし西陣の場合は,これに先行して,明治30年に公布された重要輸出品同業組合法に基づく「西陣織物同業組合」や明治25年設立の「西陣織物製造業組合」,明治18年設立の「西陣織物業組合」,明治10年設立の「西陣織物会所」の組織があった。そしてすでに「西陣織物会所規則14)」の第1条には「織物並仲買商ニ於テ濫製ノ物品売買致サル為メ会所ニ於テ検査の上織品ニハ悉ク証紙ヲ貼用シテ他ノ模贋制スルモノト判然識別セシムベシ」とあり,また第6条では「製品検査ヲ不受又ハ証紙ヲ貼用セスシテ織主ヨリ発売スル者アルニ於テハ違約金トシテ其売却金高ヲ売主ヨリ会所へ出サシムヘシ又時宜ニ寄リ公裁ヲ仰クコトモアルベシ」と罰則も定められている。
 検査証紙の制度はわが国最初のものと言われているが,規則の第5条には「会所ニ於テ証紙貼用ニツキ検査手数料トシテ証紙一葉金一銭の割ヲ以テ収入ス可シ」と規定されており,これらの制度は今日の諸織物産地の検査証紙制度の原型であるとみられることから,これが紬同業組合設立期に奄美産地へも導入されたとみることはできよう。
 しかし当時の西陣では,年間織物生産数量200万点,130余種の品種の製品を数人の検査員で検査することは至難の業であったようで,その後の検査制度は衰微の一途を辿っている。これに反し,奄美産地では導入初期には受検量も少なかったが,昭和2年には原料撚糸の検査が強化され,とくに第2次大戦後は,38年に染色検査場や褪色検査施設が整い,44年には,任意申請による高品位・「純泥染」表示試験,51年には磨擦試験,53年には染色熱湯堅牢度試験などが次々と追加され,今日では結城紬産地などもこれを調査参考にするほど,全国織物産地の中でも,きわめて優れた検査制度として整備されてきている15)。

7 商標政策と産地拡散対策の推移
 前項でみた検査制度は,「Ⅱの4のB」でみたように,産地の商標制度や品質保障体制と一体になってはじめて信用保持・増進の機能を果しうるものである。
 すなわち,品質保障には製品検査や商標表示,苦情処理によって自己の製品の出所や生産者責任を明確にする側面と,自己の生産技術の保全や品質管理,製品開発によって,製品の品質を需要に適合せしめる側面がある。したがって検査主体と商標管理主体は組合であり,生産主体が現実的には検査主体,商標管理主体と異なる産地・品質保障体制の場合,製品検査にも2つの側面がでてくる。1つは産地の永年の品質保障努力の結果,その保障機能が信頼されるに至った商標の経済的利益を共有する権利を主張する代り,生産者が組合の一定基準の製品検査に義務的に服する側面であり,他は自己の生産技術を高めて,高品位の製品を造り出した場合,画一的な商標による自己主張では満足できず,品位高次差別化の証紙表示が望まれ,それを満たす権利主張容認的な製品検査(例えば純泥染表示検査など)の側面である。
 だから,このような検査制度を内包した財産的価値の高い商標の場合は,とくに利害当持者以外からの経済的利益滲害に対して,産地は強くこれを除去しようとするだろう。
 奄美産地の商標は,明治38年に登録された頃は,まだ出所を表示して製造責任を明確にする機能しかなかったとみられるが,同42年頃からの定款の励行,検査の厳格化,とくに,第2次大戦後の検査制度の整備による『地球印』商標の経済的価値は高く評価されている。加えて大島紬を生命産業とする奄美産地の商標政策は,奄美産地内でも純泥染証紙の表示にみられるような品位高次差別化政策をとっており,県外や韓国産大島紬だけでなく,地球印商標より品位評価の一段低い旗印商標の鹿児島産地に対しても,その経済的利益の滲害とみられる政策からはこれを守る姿勢をとってきている。
 昭和40年代の大島紬ブームに乗った産地の県外拡散や45年8月頃から問題が表面化した韓国への拡散対策については,奄美産地は鹿児島産地と協調してこの利害に対処している。しかし,この産地拡散対策の一貫として47年の6月にその基本構想が示された県営検査については,究極的には両産地の見解は対立した。この両産地の協調と対立の,いずれも産地にとって重要な施策問題をことさらに複雑にしたのは,49年9月公布施行された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」による本場大島紬の伝統的工芸品指定の認可問題と,両産地の商標の統一問題であった。
 これら施策問題の推移に関しては『「韓国紬」阻止運動の経過』,名瀬市紬観光課(1978年)と『県営検査問題の経過』,上同(1979年)に詳述されている。その概要を示すと次のようになろう。
 「韓国紬」の問題は,鹿児島の紬業者の韓国への技術輸出で問題が表面化し,次に京都の織物問屋と都城の紬製造業者,韓国の物産会社の3社合併の例にみられるように,日本企業が韓国で企画した生産を,奄美産地と鹿児島産地がともに協調してこれを阻止しようとする運動で提起されている。しかし,これが阻止できず,韓国における生産が拡大し,逆輸入が増加するに従い,両産地は国政レベルで「韓国紬の輸入阻止に必要な法的な措置」を求める運動を展開している。これに対し,まず「本場大島紬と誤認される恐れのあるまぎらわしい表示をしている韓国紬の輸入規制」の通達が出され(48年11月),ついで,「本場奄美大島紬」「本場大島紬」と表示した韓国紬の輸入規制が実施されている(49年5月)。輸入数量が増加するに従い,通産省はわが国の大手商社11社に韓国紬の輸入自粛を要請する一方(49年11月),自由貿易が建前であるので,韓国紬輸入の2国間協定はせず,両国の交渉で対処する方針を明らかにしている(50年2月)。その結果,50年度は3万5千~4万反に自主規制することに韓国が同意しており,51年度4万反,52年度3万6500反,53年度3万6500反となっている。
 この間,48年には,鹿児島の業者が韓国紬に本場大島紬商標(旗印)を貼付し,51年には,これも鹿児島で韓国紬を取り扱い,組合を除名された数名が旗印商標を偽造し,いずれも商標法違反で検挙されている。また京都の織物業者が韓国紬に地球印商標を用いたり,両産地の織口文字を織り込んだ韓国紬とみられるものが,両産地へ流入し,産地の検査場で発見されるなどのケースが相ついでいた。
 このような状況の下で,鹿児島県は産地を一本化し,県条令によって県の特産地証明を出し検査を厳格にすれば,産地の県外拡散や韓国紬問題にも対処し易いと考えた。しかし,これに対し,奄美産地は県営検査は商標の統一に道を開くおそれがあるとして,最初は反対の姿勢を明確にしていた。だが49年に実施された「伝産法」による「伝工品」の指定を受けるためには,産地の指定範囲を定め,申請母体を一本化する必要があり,両産地の協調が要請された。結局,49年に県下紬関係協同組合連合の「鹿児島県本場大島紬協同組合連合会」が結成され,これが申請母体となって50年には「伝工品」指定を受けることになるが,この過程で県は県営検査の条令化を積極的にすすめたため,奄美産地も一時は柔軟な姿勢を示している。最終的には,県営検査条令に両産地の商標統一はしないなど,奄美産地の要望事項を明文化することが容れられなかったため,本場奄美大島協同組合は50年10月に臨時総会を開き,県営検査の反対を満場一致で決定している。

8 製品・技術施策の動向
 県営検査反対を正式に決めた同総会は,引続いて本場奄美大島紬の定義を,①絹100%,②先染め手織り,③締機で手作業により経緯絣の加工をしたもの,④手機で経緯絣を絣合わせして織り上げたもの,⑤平織りのものと決定し,生産設備の完全登録や摩擦堅牢度試験を実施することなどを決めて,本場奄美大島紬の製品特徴を守り,産地の生産体制を強化する姿勢を明らかにしている。
 これは「地球印」商標の経済的利益を擁護する観点からの選択であったわけであるが,さらに本場奄美大島紬の本質的な製品特徴を確認し生産体制を強化する姿勢は,単なる県営検査だけでは,真の品質保障を達成できるものでも,県外・韓国への産地拡散を阻止できるものでもなく,産地の製品や技術の改善こそがそれらの近道であることを表明しているようにもみられる。
 事実,その後,53年の9月,10月には鹿児島産地の韓国紬取り扱い業者が,韓国紬を県営検査に合格させ,北陸地方で販売していた事件などが発覚し,県営検査は必ずしも産地拡散対策になり得ていないことが非難され,廃止へ追いこまれている。一方,52年の4月には,京都の市場に9マルキ16)純泥染め風の韓国紬が出まわっていたことが判明している。このめざましい品質向上は,原料糸(絣糸)の60%を日本に依存している事実が調査17)によって分っているものの,やはり奄美産地にとって脅威とされている。また,52年度の日韓政府間交渉による輸入数量は3万6500反であるが,韓国商工部のまとめた52年度の絣紬輸出反数は36万反であり,そのうちの6割が大島紬とみられ,21万反前後が輸入されていると言われている18)。また,生産原価も日本よりは相当低いとみなければならない。
 このような韓国紬との競争や和装織物市場における本場奄美大島紬の位置づけからみて,その製品開発の動向は高級品化指向をますます強めるであろう。52年度に染色指導所で試験された9.6マルキ式の絣にサベ+絣を併用した製品や53年度に研究開発された裾部分のみに絣模様を配した地空き裾模様大島紬などが,その動向の一端を示しているものと思われる。したがって,生産技術的には,この項冒頭の定義にこそ明示されていないが,奄美産地が独占的な技術立地条件を有するといわれる泥染技術を軸にして,需要の変遷にマッチした柄模様を奄美伝来の繊細な基本模様で表現してゆくための絣締技術の開発,外機の比重が大きくなってきた製織工程の熟練技能の再生産,製品の品質管理などが重要な施策課題となるだろう。
 そこで次章では,本稿の結論に加えて,現在産地が抱えている生産体制の課題について若干の考察を試みてみたい。
 注
 1)『創立50周年記念誌』54ページ。
 2)『本場大島紬』「新柄登録成績表」の項。
 3)『創立50周年記念誌』70ページ。
 4)『本場大島紬』「京阪商人の警告」「郡内当業有志の会合」の項。
 5)坂口徳太郎『奄美大島史』470,472ページ。
 6)『名瀬史誌下巻』578ページ。
 7)同書573ページ。
 8)同書574ページ。
 9)同書573ページ。
 10)『日本機業史』24ページ。
 11)『大島紬調査書』「三織物奨励状況,イ,大島紬同業協同組合」の項。
 12)『本場大島紬』31-35ページ。
 13)同書16-18ページ。
 14)前田達三『西陣織物館記』西陣織物館,1960年,56-59,87-89ページ。
 15)検査制度の内容の詳細については,拙論『本場奄美大島紬産地における検査・商標制度と品質保障体制』に譲る。
 16)マルキは経糸に用いる絣糸の本数(1マルキ=絣糸80本)を表わすもので,9マルキ程度になると高級品とされている。これは絣使い,色使いの豊富さを示す。
 17)『「韓国紬」阻止運動の経過』,27ページ。
 18)同書42ページ。

V 結論と今後の課題

 本稿では,和装織物産業における産地在来技術の継承や外来技術による技術体系の変容,独自技術の開発に関する経験を,本場奄美大島紬の事例を通して考察することを目的とした。
 問題視角としては,本場奄美大島紬の和装織物市場や類縁産地との関連における位置づけを明らかにし,紬が産地の生命産業として果してきた産地経済的な役割をふまえながら,産地の生産体制をできるだけ全体的に1つの体系として把握し,そこにおける諸生産技術や産地施策が,大島紬染織の前史,とりわけ大島紬生産の源流や伝来の大島紬の諸特徴と深く関わって形成されてきた事実をみてきた。
 その際,資料欠如の関係で計量的な考察はできなかったが,国際的な技術移転論の基本的な観方を援用して,産地における明治以降の外来技術に対する在来技術の確執と同化・変容の過程を,技術採用主体の政策形成との関連でみてみた。生産者が零細な奄美産地の場合,検査制度や商標制度の導入・改善,産地の内外に対する諸施策上,紬協同組合の果している役割は大きく,また外来技術の導入や新製品・技術の開発・普及活動を通して,染織指導所が,産地の新技術吸収能力,技術の普及率の向上に果している役割の大きいことも分った。
 また,このような考察の過程で,他産地においては,生産性の観点から積極的に導入された力織機も,奄美産地では伝来の繊細な柄模様を経緯絣で織り出す手機に代替することはできず,また,市場の一時期の要請と染色技術の開発によって隆盛を極めた「色大島」も,結局は10年の間に大島伝来の「泥染・藍泥染」に戻ったことをみた。
 後者の場合,何でもない製品の変遷のようにみえるが,これは産地における染色技術の再生産上,大きな変革をもたらした。化染染色は生産性も高く,科学的技術であるので,標準化し易く技術者の養成も簡単である。一方,泥染染色は“勘”と経験による伝統技術で熟練を要するので,化染染めの隆盛によって,一時9名だけと言われるまでに減少した技術者が今日の状況(55年10月現在で111名)に復するまでは大きな困難があり,これによる泥染技術低下の影響は今日もなお残っていると言われており,これは統工芸産業の貴重な経験であったと言えよう。
 手紬糸に代って練玉糸や絹撚糸が導入されたり,絣糸の手括りに代って締機が採用された過程では,在来技術の新技術に対する確執は強くみられなかったが,その理由は,これら技術が採用時期の市場の供給拡大要請に対応した生産性向上効果をもったものであったのみならず,長期的には,大島紬伝来の諸特徴を活し発展せしめて,高級品需要に対応した品質保障技術であり得たからであろう。
 以上の簡単な結論からも分るように,今後,韓国紬などの産地拡散対策の必要から,産地の生産体制を強化する製品・技術施策の課題として,締工程の生産性向上は必至のものとみられるが,その場合,採用される技術は,長期的な観点からみて,大島紬伝来の品質を保障し続けてくれるものでなければならない。
 さらにまた,奄美産地の場合,紬産業は島民の7~8割の人間が紬となんらかの関わりをもつ生命産業である点の考慮が欠けてはならないだろう。すなわち,大きな生産性の変化があまり急激に現れてはならないということである。
 以上2つの観点からみて,現在,本場奄美大島紬の定義として規定されている絣加工工程の手織締機技術は,産地の分業体制の中で,たしかに一定の今日的な意義をもっているだろう。しかし,泥染技術や手機製織技術が製品の品質諸特性に直接表現されるのと違って,絣締技術は,加工された絣莚の品質特性を通して間接的に表現されるので,もし同じ品質特性を保障する締機であれば,より生産性の高い締機の選択を可能にするはずである。
 このような意味で,産地の今後の技術施策の課題として,動力締機やMTシステム締技術の品質保障性能や生産性性能などは,これを慎重に研究してゆく必要がでてくるものと考えられる。