? 研究テーマ別に論文を読む-「日本の経験」を伝える-図書館ジェトロ・アジア経済研究所

経営組織

論文一覧に戻る

明治初期紡績業の労務管理の形成

著者名: 千本暁子
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
本ページのPDF版を見る
 目 次

はじめに・・・・・・・・・・2
第1章 明治初年の労働事情・・・・・・・・・・6
第2章 明治10年代の職工規則・・・・・・・・・・11
第3章 賃金水準の形成・・・・・・・・・・20
おわりに・・・・・・・・・・25

*文献の引用にあたって漢数字は原則として算用数字にあらためた。


はじめに

 本稿の課題は,幕末から明治10年代にかけて設立された2千錘規模の紡績工場の労務管理様式を明らかにするとともに,それが明治20年代の大規模な紡績工場にどのような形で継承されていったのかを検討することである。
 まず,私が「労務管理」という用語を,どのような意味で用いているのかについて,労務管理の研究史をふまえた上で,述べておく必要があるだろう。
 日本の労務管理が,労務管理論を含めて混乱しているといわれてひさしい1)。この混乱の原因のひとつとして,薄信一は次の点をあげている。戦前の日本にはドイツ系統の労働科学的色彩の強い労務管理論があった。それが,戦後はアメリカ一辺倒になり,アメリカ労務管理論にとってかわられた。しかし,このアメリカ労務管理論は,アメリカでもすでに1930年代から曲り角に来ており,それを直訳的に日本に持ち込んだことが混乱の原因である2),と。このような混乱のために,「労務管理」の定義が統一がなされていない3)のが実情である。
 日本では,アメリカ労務管理論の影響で,1950年頃から労務管理の「体系的近代化」に着手し,1955年頃には大企業で一応体系的な労務管理が確立した4)といわれる。このようにアメリカの労務管理やその発達に照らしあわせて,日本の労務管理の位置付けを行なうと,戦前・戦中の日本には「本来的」な意味での労務管理は形成されておらず,「実体」は「管理以前」の「伝統的な労務慣行」が存在したにすぎないということになる。「本来的」「実体」「管理以前」という表現になるのは,テーラーの科学的管理法により科学的管理の理念がはじめて確立し,本格的な労務管理が生れた6),という考え方から生じるのである。
 日本でアメリカ労務管理論が体系化されるにつれ,労務管理論は経営技術的色彩が強くなり,労務管理に関係ある諸側面が細分化され専門化されていった7)。その結果,労務管理論の枠の中から労使関係や生産管理などの問題が除かれてしまった8)ようである。このような欠落した労使関係を労務管理論の中に取り戻す作業は,主として日本の労務管理の特色を明らかにしようとする人たちによって行なわれてきた。たとえば,津田真澂は経営者・管理者と従業員の関係,つまり労使関係を,企業レベルでと限定しながら,個別的にとらえるのではなく集団類型としてとらえる。そして,集団類型としての労使関係のなかで労務管理が機能するという視角で,日本の労務管理の特質を明らかにする9)。
 近年,日系海外企業の活発化から,日本の経営に対する関心が高まっている。そして,「日本的経営」をめぐり活発な論議を呼びおこした。とりわけ「日本的労務管理」の特質を明らかにしょうと,津田をはじめとして日本的労使関係の解明がさかんである。これらの関心が現在的な問題から生じたため,研究の多くは戦後を対象としたものである。ところが津田がいみじくも指摘するように,研究が蓄積されるにつれ,日本的経営の特色がぼやけてきた10)その打開策として,津田は歴史をさかのぼることの重要性を示唆する。具体的には,戦後も戦前も日本の企業経営の特質は同質なのかどうか、戦前といっても明治末期と昭和初期とではどこがどう違うのか,といった問題を考える必要があるという11)。したがって,日本的経営の特色に関する問題はまだ課題形成段階にある12),といえよう。
 「日本的労務管理」論のいきづまりは,経営者―被雇用者の関係があらわれた幕末から明治初期にさかのぼり,労務管理形成の歴史13)を解明する作業により解決される点は少なくないだろう。さらに日本の労務管理を歴史的に研究する際には,外国との比較は欠かせないものであり,その上で日本の特色が明らかにされねばならないことは言うまでもない。しかし,研究の蓄積が少ない現状では,日本の労務管理の形成についての研究が必要である。
 ここで,私の使用する「労務管理」という用語の意味を明らかにしておく。日本に「労務管理」という用語が普及したのは昭和3年で,イギリスのlabour managementという言葉を輸入したことにはじまる14)。しかし,言葉の普及や日本におけるアメリカ労務管理論の体系化を基準にして,日本に労務管理は存在するとかしないとか議論することは無意味である。「労務管理」のなかに労使関係という視点を入れ,「経営の存在する所どこでも労務管理はある15)」と考えるのが妥当であろう。それゆえ「労務管理」とは,経営者・管理者が行なう被雇用者に対する諸方策16)のことであるといえよう。このような労務管理のなかには,終身雇用,年功人事,年功賃金,福利厚生施設など,一般にいわれている温情主義的,日本的労務慣行は含まれる。
 本論に入る前に,紡績業における労務管理の形成過程を明らかにする際に,どこに視点をおくかについて述べておく。
 わが国の機械制紡績業は,幕末から明治時代初期にかけて創設された薩摩藩鹿児島紡績所(慶応3年5月開業),薩摩藩堺紡績所(明治3年4月開業),鹿島紡績所(同5年開業)のいわゆる「始祖三紡績」が先駆をなした。その後,明治政府は殖産興業政策の推進の一環として,官営の模範紡績工場を設立するために,明治11年4月に2千錘紡績機械2基(ミュール)をイギリスに発注し,工場を愛知,広島の両県に建設するはこびとなる。さらに翌12年には,2千錘紡績機10基(ミュール)をイギリスに発注し,13年以降これらの紡績機械を無利息10カ年賦で,希望者を募って払下げることにした。これがいわゆる十基紡である。その他,紡績機械輸入代金立替などにより設立された紡績所は,第1表に示すとおりである。
第1表 明治初期の紡績所
 始祖三紡績のうち特に堺紡績所や,堺紡績所の技術的系譜に直接つながる愛知紡績所が,その後の紡績業の発達に果した技術的役割の大きさについては,両本幸雄により明らかにされている17)。なかでも紡績機械技術の指導については,巡回教師,技術者派遣制度や官営工場における技術伝習,見習生受け入れ等の施策をとり,紡績技術の伝習およびその促進に一定の役割を果したことが指摘された。そして鹿児島紡績―堺紡―愛知紡という政府の技術政策遂行の主流に立つ技術的流れと,民間紡績の嚆矢とされる鹿島紡績所の技術的流れが,技術者・職工等の人的交流を通して存在したことが詳細に示されている。
 始祖三紡績ならびに愛知紡績所が,後に設立された紡績所に対して与えた技術的影響が大きく,しかもそれが人的交流をとおしてなされたということは,職工の賃金,労働時間などの労働条件についても,ある程度の影響を及ぼしたと考えられる。
 そこでまず第1章では,鹿児島紡績所と鹿島紡績所の労働事情を明らかにする。そしてこれらの紡績所における労働条件は何にもとづいて定められたのかを検討したい。第2章では愛知紡績所,三重紡績所,大阪紡績会社などの職工規則から,労働時間をはじめとした職工待遇の仕方が定着する過程ならびに変容する過程を明らかにする。それが20年代の紡績会社にどう引き継がれていくのかについても簡単に見ていきたい。第3章では労働条件のうち賃金だけをとり出し,職工規則における等級別賃金の制定が紡績業の賃金水準の形成にどのような影響を及ぼしたのかについて考察する。

 注
 1)薄信一・氏原正治郎編『講座 日本の労働問題(2)労務管理』弘文堂,1961年,3-6ページ。
 2)同上書 3-4ページ。
 3)森五郎『人事・労務管理の知識』日本経済新聞社,1980年(新版),10ページ。
 4)森五郎・松島静雄『日本労務管理の現代化』東京大学出版会,1977年,19ページ。
 5)同上書,18ページ。
 6)同上書,12ページ。
 7)前掲書『講座 日本の労働問題(2)労務管理』20ページ。
 8)同上書,19ページ。
 9)津田真澂『日本の労務管理』東京大学出版会,1970年,91ページ。
 10)津田真澂『日本的経営の擁護』東洋経済新報社,1976年,15-16ページ。
 11)同上書,16ページ。
 12)同上書,17ページ。
 13)明治維新から第2次世界大戦勃発までを対象とし,日本労務管理の実質的歴史研究をおこない,そこから日本労務管理の社会的特質を明らかにしようとした研究が,1960年代に間宏氏によって発表されている(間『日本労務管理史研究』ダイヤモンド社,1964年,御茶の水書房,1978年)。間氏の研究は,経営家族主義の理念を用い,社会学的分析方法にもとづいたものである。
 14)前掲書『日本労務管理の現代化』18ページ。
 15)前掲書『講座日本の労働問題(2)労務管理』6ページ,氏原正治郎談。
 16)氏原正治郎は,労務管理を「能率主義的原理の上に立って企業が行なう従業員に対する諸方策」とする(同上書,25ページ)。
 17)岡本幸雄「我国紡績企業創設期における技術問題一斑――綿糸紡績技術史上における『始祖三紡績』,愛知紡績所等の役割――」「甲南経済学論集』14-1,1973年。
第1章 明治初年の労働事情

 本章では鹿児島,鹿島両紡績所における職工をとりまく諸状況,とくに労働条件とその特徴を明らかにする。これらの工場には明文化された職工規則等はなかったようで,現在まで明らかになっている労働事情は,すべて元職工や経営関係者等の聞き取り調査によるものである。

 1 鹿児島紡績所
 創業当時7歳で工場に入り明治20年頃まで勤めていた元工女が,明治35年の農商務省の調査に対し,当時の模様を語っている1)。
 彼女の話によれば,工場に入った頃は7歳であったので木管や糸を運んだりしていた。10歳前後の幼少者は少なくはなかったそうで,男工と女工の人数は半々位である。しかし織機は全員男工だった。職工の年齢は若いものも年をとったものもいたが,一見20歳以上のものが多かったようである。職工は全て通勤で主として市内から来ていた。職工を志願するものが非常に多かったようである。労働時間は,朝5時から夕方の6時までで,朝と昼の食事の間の40分ずつだけが休息時間である。小休止は一切なかった。厳密には就業時間は11時間40分ということになる2)。休日は日曜日と盆,正月,十五夜で,その他にも祭などのときには臨時休業することもあった。日曜日に休むのは,諸機械,動力の据付を行なったイギリス人技師が始めたことらしい。
 賃金はすべて米で3週間に1度支払われた。普通1人前のものには3週間につき米1俵(3斗3升5合)が支払われる。1人前になるには4,5年かかったようである。子供には男女とも1日6合,20歳以上の男工には1日1升2合,女工には1升が支払われ,賃米の外には給与はなかった。しかし,1人前のものが3週間皆勤すると1升5合の賞与があり,全部で3斗5升入1俵が支払われた。懲罰は一切ない。また,普通3年目もしくは5年目に頭(工頭)には苦労金(慰労金のこと)が若干与えられることがあったが,規定にはなかった。
 負傷したときには,賃金(賃米)の外に治療費も紡績所が賄った。死亡の場合については,彼女が工場にいる間に死者は出なかったのでわからないということである。教育の設備は何もなかったそうだ。
 工場内の人的組織は,所長―役員―事務員その下に書役,会計員3,4名おり,
工務長が1名いた。

 2 鹿島紡績所
 わが国最初の民営の紡績所である鹿島紡績所では,最初女工を川越から4,5名募集していたが,田舎者で不作法であるということで,なるべく東京のものを募集したようである。しかし,東京のものは年季奉公を好まず応募がなかったため,東京市内の女中奉公と同一の条件で募集した。つまり給料の外,食料や工場着などは主人持ちであった3)。女工の雇入れの年季契約には,3年と5年の2通りあり,女工はたいてい3,4年でかわったようである。女工雇入の際の前貸しなどはなかった。男工には年季はなく,長くいたものが多かった4)ようである。
 女工の年齢は,小さいものは12歳で入ったが16歳前後のものが多く,やめるのは,嫁入りなど実家の都合によったらしい5)。
 工場は偏僻の地にあったため,男女工ともすべて寄宿舎にいた。職工長だけは特に社宅を与えられ,その家族と一緒に住んでいる6)。
 工場は,設立者鹿島萬平の次女貞子の名儀であった。彼女の社長ぶりについて,明治10年6月に職工として入り,13年6月には工場長になった高城伊三郎が次のように語っている7)。
 お貞さんは,女工達よりも早く起きて女工達を起こし,食事の世話から髪の世話までやって,運転が始まると自分もたすきがけで甲斐甲斐しく監督をしたものである。自分も女工と一緒に働いたこともあり,新しい女工が来たときなど,自分で手を取って教えられたこともある。……長い間には労働者の間に色々の問題も起ったが,その裁きも公平で,男工の間には大きな争いも起ったことがあったが,女工の間には大きな争いが起ったことは一度もなかったようだ。また工場がつらいといって逃亡したものも一人もなかった。それはみなお貞さんの扱い方がよかったからである。
 社長貞子が女工達を,職人としてというより家族同様に扱っていたようすがよくわかる。
 設立当初の職工数は,男女工合計20数名で,明治12年に増錘してからは数名増えた8)。各機械に対する職工の配置をみると,打綿機は1日1,2時間しか運転せず,男工1名がこれを受け持つ。運転していないときは,手で綿をほかしていた。これも1日に3,4時間である。梳條機は男工1人で,2台受け持ち,練條機は女工1人で,粗紡機は女工3人で1台ずつ受け持っていた。精紡機は片側72錘ずつあり,そこに女工2人ずつついた。全部で4台あるので16人の女工がついたことになる。懸枠機は1台ありそれを女工4人が受け持った。仕上げには男工が1,2人,精紡機のローラーの羊皮を張りかえるのに男工1人を要した。これらすべての職工を監督する職工長がいて,その上に社長がいる。
 労働時間10)は最初は午前6時から午後6時までであった。朝5時頃起き,洗面,食事のあと仕事を始める。昼の食事の時には30分間の休みがあった。しかし粗糸が不足し精紡に充分に原料を送れないときは,精紡工のうち一部は午後3時から6時まで中休みをとり,再び6時から9時まで働いた。
 明治15年頃には仕事が忙しくなり,2交替となった。つまり午前4時から午後4時までの組と,正午12時から夜12時までの組とに分かれる。しかし職工数は採算に合わないので増やさなかった。
 休日11)は1ヵ月に2日,不定期にあった。また年末の2日,正月5日位,盆1日の休みがあり,そのほか女工だけは宿下りで年に1度2,3日暇がもらえた。
 職工の賃金12)は,女工には小使として月50銭ずつ与えられた。その他にもいくらかの賃金があり,それは積立蓄金をしていた。女工は3年いれば,嫁入仕度としてたんす,夜具,着物などがもらえた。男工は日給で,その額は普通は月4,5円位だった。
 また,職工をつれて2月に1度芝居見物に行ったり13),男工松原某は死後主人の墓に埋葬された14)ことなどから,職工を家族同様に扱っていたことがうかがえる。
 鹿児島紡績所は明治4年11月に表面的には島津家の手を離れて商社組織となった15)が,それまでは藩主が経営主だった。この紡績所は技術導入を第1の目的として建設されたのである16)が,明治維新以後は多数の窮民17)の救済,とくに士族授産をも目的とするようになる。そのため職工の待遇はさほど厳密ではなかった。この点については,職工を家族同様に扱った鹿島紡績所も同じである。しかし,経営者の紡績業に対する取り組み方は全く異なる。鹿児島紡績所では技術の習練は労働者のすることで武士のすることではない18)という考えが工場経営者の中にあり,しかも利益を士族救済金にまわす19)などしたため,創業以来赤字の連続で明治30年には廃業においやられる。それに対し鹿島紡績所では社長自ら工場に出て働き,小規模ながら,創業以来明治21年に東京紡績に合併されるまで黒字経営であった。経営者の姿勢が経営成績と工場の存亡に反映されている。しかし,赤字続きの経営状態にもかかわらず,その後に設立された紡績工場における職工の取扱い方や賃労働関係の系譜は,鹿児島紡績所につながるといえる。鹿島紡績所は創業当初は小規模な家内工業的経営20)にすぎなかったが,良好な経営成績の中で徐々に近代的な賃労働関係に脱皮していくことができたのである。
 鹿児島紡績所と鹿島紡績所の労働条件を比べるとよくわかるように,鹿児島紡績所の労働時間,休日制,賃金やその他職工の取扱い方は,新技術の導入に付帯して技術指導のために雇用された外国人技師や職人が西欧から持ち込んだものや,日本の伝統的職人などにみられた労働慣行,さらには武士の封建秩禄制などが混在していた。
 西洋からの影響が最も強かったものとして,毎日曜日を休日とし,土曜の作業は午前中だけで切り上げたことがあげられる。日曜日以外の休日は,地方の伝統的な慣習にもとづいていた。しかし,外国人技師のいる工場はどこでも日曜日が休業日だったわけではない。横須賀造船所では,フランス人は毎日曜ごとの休日が原則として認められていたが,日本人にはこれは適用されず,「我国固有ノ習慣ニ拠ル」とされ,祭日を除き1日も休日はなかったようである21)。鹿児島紡績所の職工待遇が温和であったことがうかがえよう。
 この時期の労働時間は,季節により長短はあるが,伝統的職人の「7時出5時引」の10時間労働が一般的であった22)。ところが外国人技師等の影響で,当時西欧で実現されつつあった9時間ないし8時間労働が,日本の官営工場等でも定められることがしばしばあったようである23)。そこで,この時期の労働時間には,日本の伝統的な職人の労働時間と,当時の西欧の先進的企業の労働時間の2つの系譜が存在した24)と言われている。しかし,紡績業に関する限り,労働時間を1日10時間末満に定めた工場はおそらく皆無であろう。次章で述べるように,明治14年設立の官営愛知紡績所は就業時間を10時間と定めているが,拘束時間はそれより2時間半位長いようである25)。横須賀造船所が慶応2年の設立時に(当時は幕営製鉄所),幕府とフランス公使との間に取りかわした公文書によると,1日10時間が定時とされている26)。その後,明治5年に工部省に提出した就業時間表によれば,1年を長期日と短期日に分け,長期日は11時間(実働10時間10分),短期日は10時間(実働9時間)となった27)。しかし,長期日,短期日にかかわらず,残業時間の給料の決定にあたっては1日10時間として計算しており28),原則としては,1日10時間労働であったと考えられる。
 紡績業を含め,当時の工場における労働時間は,工場内の照明設備が不備であることから,季節により長短のある日出から日没までという農業日雇をはじめとする在来的業種の労働時間を基調とし,原則としては西欧水準と大差のない伝統的職人の10時間労働が採用されていったといえるだろう。もっとも,10時間労働の採用が最も自然に行なわれたのは,男子の熟練職人を中核とする軍工廠などである29)といわれている。鹿児島紡績所の労働時間は季節により異なるが,元工女の話にあるようにおよそ12時間前後で,日の出から日没まで80)ということになっていたと考えられる。
 給与は1人前のものには日給制ではなく,3週間単位で米により支払われた。このような現物給は,武士の俸禄体系にならったものである。1人前のものの給与を1日分に換算すると約1升8合,新入男工は1日1升2合,新入女工には1升である。また,皆勤賞のような賞与はあるが,罰則規定はなかった。
 鹿児島紡績所は,西洋なみに多くの休日を設けたり罰則規定がないことからわかるように,職工待遇が非常に温和であるけれども,賃金が1日1升余というのは十分とはいえない。経営主が藩主であることから,身分的に劣った職工の取扱いについてやや野放しの傾向にあった31)といえる。つまり,経営者と職工の両者はもちろん,経営者と職工の関係,つまり労使関係にも封建的要素が強く残存32)していた。

 注
 1)土屋喬雄校閲『職工事情』第3巻,生活杜1948年,283-85ページ。
 2)土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』(弘文堂,1927年)には,1日の就業時間は10時間,職工は毎日200人(紡績,機織の総数であろう)を使役したとある(508ページ)。
 3)絹川太一『本邦綿綜紡績業史』第1巻,日本綿業倶楽部,1937年,301ページ。
 4),5)土屋喬雄「瀧野川鹿島紡績所の創立・経営事情――本邦最初の民設紡績工場――」『経済学論集』3-10,1933年,90ページ。
 6)絹川前掲書,第1巻,302ページ。
 7)土屋前掲論文,76ページ。
 8)土屋前掲論文,85ページ。
 9)職工の配置については,土屋前掲論文,84-85ページ。
 10)~12)職工の労働条件については,土屋前掲論文,91-92ページ。
 13)土屋前掲論文,92ページ。
 14)絹川前掲書,第1巻,302-303ページ。
 15)同上書,114ページ。
 16)間前掲書,241ページ。
 17)絹川前掲書,第1巻,132ページには「5200錘の方の設計でも職工82人を以テ足るといへるに拘らず,3600錘の方の設計に対し150人以上200人,時によっては300人もの職工を使用したのは,多分工場監督の人々が藩主の意思に迎合し過ぎた結果であらう。
如何に窮民救済を目的としたからとて,2,3倍以上5,6倍までの職工を使役するとは,恐らく藩主の目的でなかったのであらう」とある。
 18)同上書,135ページ。
 19)同上書,131ページ。
 20)土屋前掲論文,85ページ。
 21)間前掲書,428ページ。
 22)隅谷三喜男『日本賃労働史論』東京大学出版会,1956年,129ページ。
 23)同上書,131ページ。
 24)間前掲書,426ページ。
 26)同上書,426ページ。
 27),28)同上書,427ページ。
 29)隅谷前掲書,129ページ。
 30)「明治12・3年前鹿児島及堺紡績所等ニ於テハ日出ヨリ日没迄ノ操業ニシテ稀ニ2,3時間ノ居残リヨ為シタルコトアリ」(紡績業沿革記事)と絹川前掲書,第1巻,180ページにある。
 31)間前掲書,244ページ。
 32)同上書,243ページ。

第2章 明治10年代の職工規則

 本章では明治10年代に設立された紡績所において制定された職工取締規則から,職工の労働条件(賃金は次章)がどのようにして決められ,そしてどう変化していったのか,また工場内での職工の地位,労使関係がどう変っていったのかを明らかにする。

1 愛知紡績所
 明治14年2月に操業を開始した愛知紡績所は,翌15年4月に「愛知紡績所工場仮規則1)」を制定した。この仮規則には職工の就業時間,賃金,賞罰,休日,採用方法などが28ヵ条にわたって定められている。
 紡績工場においては,最初の整備された職工に関する諸規則であるため,長文であるが全文を掲げておく。
 愛知紡績所工場仮規則(明治15年4月制定)
 第1条 工業ニ関スル一切ノ事柄ハ掛官員ノ差図ヲ受クヘキ事
 第2条 就業時間ハ1日10時間ヲ定則トシ業務始終ノ刻限ハ事務所ニ於テ臨時告示スヘキ事
 但此時間外ニ食事等ノ為メ事務所ニ於テ適宜時間ヲ定メ休業セシムヘキ事
 第3条 毎朝出場ノ時ハ事務所ニ到リ銘々ノ名札ヲ箱ノ中ヘ差入置退場ノ時再ヒ受取リ持帰ルヘキ事
 但名札ハ兼テ事務所ヨリ相渡スニ付若シ破損紛失等ノトキハ保証人連名ニテ願出更ニ受取可申事
 第4条 毎朝始業刻限ヨリ20分前迄ニ出場シ相図ヲ期トシテ各其業ニ就クヘキ事
 第5条 毎日終業後ニ機械運転ヲ止メ場所内ノ掃除諸品ノ取片付ヲナシ相図ヲ俟テ退場スヘキ事
 第6条 技男女工男女等級及ヒ給料ハ左ノ通相定メ毎月両次ニ相渡スヘキ事
 第7条 病気又ハ不得止事故アリ保証人連名ニテ願出許可ヲ得テ遅参早帰スルモノハ日給高ヲ10時ニ割リ其時間ニ乗シテ支給スヘキ事
 但臨時急病等非常ノ場合ヲ除キ通常ノ遅参ハ午后始業以前ニ限リ早帰ハ午前終業以後ニ限ルヘキ事
 第8条 前条ノ場合ニ依リ不参スル者ハ午前9時迄ニ届出ヘシ若シ不参3日ヲ過クルトキハ更ニ其旨ヲ届出病気ハ医師ノ診断書ヲ添フヘキ事
 但届書差出スト難トモ2週間ヲ過クルトキハ都合ニ依リ放免スルコトアルヘキ事
 第9条 無届ニテ遅参スルモノハ日給高ヲ10時ニ割リ之ニ3割ヲ加へ其時間ニ乗シテ減給スヘキ尤モ午后始業以後ニ及テ出場スルモノハ其日ノ入場ヲ差許スヘガラサル事
 第10条 無届ニテ不参スル者ハ其日数ニ依リ1週日ヨリ少カラス1ヶ月ヨリ多カラサル間現級ノ1等ヲ引下ケ最下等ノモノハ日給ノ1割ヲ減スヘシ若シ無届不参1週日ヲ過クル者ハ等級辞令書ヲ取揚ケ放免スヘキ事
 第11条 定式ノ休暇日ハ勿論臨時休業ノ日トイヘトモ前日ヨリ達置タルトキハ無給タル可ク但当所ノ都合ニ依リ当朝差掛リ休業スルノ場合ニ於テ例刻出場スル者ヘハ日給ノ半額ヲ給ス可キ事
 第12条 工業ノ都合ニ依リ定規就業時間外ニ労役セシムル者ヘハ日給ヲ10時ニ割之ニ3割ヲ加へ其時間ニ乗シテ給シ午后12時ヲ過ルトキハ1倍ヲ加ヘテ給スヘキ事
 第13条 日々無懈怠勉励シ技倆優等ノ者及ヒ3ヶ月間以上皆勤ノ者ヘハ臨時昇等又ハ褒賞可有之事
 第14条 年中休暇左ノ通タルヘキ事大祭日,日曜日,12月29日ヨリ,1月3日マテ但工業ノ都合ニ依テハ此休暇日ニモ休業セサルコトアルヘキ事
 第15条 毎土曜日ハ午後3時ニ機械運転ヲ止メ機械掃除可致事
 第16条 年中3度機械全部ノ大掃除可致事

工男平均
 26銭4厘4毛4
工女平均
 17銭2厘7毛7

 第17条 工男女中誠実ニシテ技倆優等ノ者ヲ選ビ機械部取締ヲ申付其部内ヲ監督セシムヘキ事
 第18条 機械其他ノ物品ヲ損傷シ或ハ物品ヲ紛失スル者ハ其損害ト場合トノ軽重ニ依リ日給4分の1ヨリ2分ノ1マテヲ2週間以内減スヘシ若シ其所為故意ニ出ルモノハ本人并ニ保証人ヨリ償ハシムヘキ事
 第19条 場中使役スル者其職事ノタメニ疵傷ヲ受ルコトアレハ其軽重ニ依リ療養料或ハ扶助料ヲ給シ死ニ至ル者ハ埋葬料并ニ遺族扶助料ヲ給スヘキ事
 第20条 食室外ニ於テ食事并ニ吸烟堅ク不相成事
 第21条 来訪者アルトキハ掛官員ノ許可ヲ得テ食堂ニ於テ応対スヘキ事
 第22条 場内ニ於テ猥褻ノ所業等アル者ハ放免スヘキ事
 第23条 場内ニ於テ喧嘩口論イタシ又ハ規則ヲ犯シ或ハ不平ヲ唱テ他人ヲ誘道スル等ノ所業等有之ニ於テハ其軽重ヲ取糺シ日給4分ノ1ヨリ2分ノ1マテヲ2週間以内減給シ又ハ1ヶ月以内現級ノ1等ヲ引下ケ最下等ノモノハ日給ノ1割ヲ減シ或ハ放免スルコトアルヘキ事
 第24条 技工中工場ノ業務ヲ妨クル者アレハ之ニヨリ生シタル損失ヲ計算シ本人并ニ保証人ヨリ償ハシムベキ事
 第25条 事故アリテ退業セント欲スル者ハ保証人連印ヲ以テ届出ヘキ事
 第26条 旅行スルモノハ其出向先及ヒ往復滞留ノ日数ヲ預定シ願出ノ上許可ヲ受ケテ後出発スヘキ事
 但休業中ニ往復スルモノハ此限ニアラス
 第27条 工男女志願ノ者ハ別紙書式ニ?ヒ本籍宿所姓名年齢ヲ記シ保証人相立可申出事
 但年齢ハ15歳以上50歳以下ヲ定限トスト雖モ15歳未満ノ者其区内学務委員ノ公証ヲ経テ願出ルトキハ時宜ニヨリ採用スルコトアル可シ保証人ハ成ヘク近傍ノ者ニテ身元慥ナル者ニ限ルヘキ事
 第28条 工男女志願ノ者ハ1週間試験ノ上見込アル者ハ相当ノ等級ニ採用イタスヘシ尤モ試験中ト雖トモ男ハ工男女ハ工女ノ最下給ヲ与ヘキ事
 但技倆優等ノ者ハ試験ヲ用ヒス直ニ相当ノ等級ニ採用スヘキ事
願書式(用紙半紙罫)
 工女男志願書
私儀今般御所工女男ト相成綿絲紡績事業ニ従事仕度候間御試験ノ上相当ノ等級ニ御採用被成下度尤モ御規則之儀ハ堅ク相守可申且当人病気其他身分之儀ニ付テハ保証人ニテ引受一切御手数相掛間敷候此段保証人連名ヲ以テ奉願上候也
 何府県下何国何郡何村町何番地
 族籍何ノ誰子孫兄弟姉妹
 明治14年何月何日 本人 何ノ誰 印
 何年干支何月何日生
 何々
 保証人 何ノ誰 印
 愛知紡績所御中
 就業時間が10時間と定められているが,これは実働時間のことである。毎朝始業の20分前までに工場に入り,終業後も掃除が終ってから退場することが決められているので,食事の時間も含めると,約12時間は拘束されていることになる。しかし,原則としては10時間労働であり,前章で述べたように横須賀造船所と同じく外国人技師の指導のもとに制定された規則であることがうかがえる。
 賃金は,技男・技女,工男・工女,それぞれ等級別に定められた。この点については後で詳しく検討したい。また,病気や事故で遅刻や早退する場合や無届欠勤の場合などの支払額についてもかなり細かく記されている。
 休日は,大祭日,日曜と12月29日から1月3日までと一応決まっていた。これらの定休日や前日から通達されている臨時休業の場合は無給で,臨時休業でも当日の朝に知らされるときは日給の半額が支払われた。
 賞罰の規定もある。よく働き技倆のよいもの及び三ヵ月以上皆勤の者には,臨時昇給等又は褒賞があった。具体的には,3ヵ月皆勤者に日給5日分が給与され,期末賞与金は男工に日給20日分,女工に日給15日分程度を最高基準として,勤続年限及び其期間の勤日数などに按排して給与されていたようである2)。
 しかし,場内で喧嘩や口論をしたり,規則を破るとか不平を言ったりすると,日給4分の1から2分の1を2週間以内減給するか,あるいは1ヵ月以内等級を1段階引下げることなどが定められていた。また機械等を損傷したり,業務を妨げるものにも減給や弁償が課せられた。
 職工の採用にあたっては,年齢15歳以上50歳以下と決められた。しかし,15歳未満のものでも其区内の学務委員の公証を得るなど,いくつかの条件を満たせば採用できた。志願者は1週間の試験期間を経て,見込みのあるものは,相当する等級に採用した。志願の際には保証人を立て,定められた書式で願書を提出しなければならなかった。なお,寄宿舎はなく全員通勤だった3)。

 三重紡績所
 明治15年6月に開業した三重紡績所は,開業に先立ち同年5月に「技工男女取締規則」と「工場規則」を制定した。これらの規則は,愛知紡績所における「工場仮規則」を,職工の採用・賃金などの職工の扱い方に関するものと,工場内の作業現場における規則とに分割した形になっている。
 「工場規則」は全文はわからないが,少なくとも16ヶ条にもおよぶ細かいものである4)。第2条では,就業時間は日の出から日没までと定められている。当然夏期は長時間になるため,但し書きに,「日の長短時宜を斟酌し,休息せしむることあるべし」とある。第6条では,毎日終業前に合図があり,機械の運転を止めて掃除や取り片付けをすることが定められている。このように,終業時刻が日没とあいまいなうえ,掃除も欠かせないとなると,職工が工場から退場できる時刻は規則で定められているとはいえ,工場主の裁量にまかされていたといえる。職工が工場に拘束されている時間は,かなり長時間に及んだことが推し測れよう。第9条には,「届なく遅参,早帰りするものは,日給高を12時に割り,是に2割を加へ,其時間に乗じ減給すべし」とあることから,1日の就業時間は原則として12時間であったようである。
 愛知紡績所では1日の就業時間を10時間とし,無届の遅参には10で割った3割増をその時間に乗じて減給していたのに比べれば,就業時間は長いが,懲罰はやや軽いといえる。届なく遅参したものについては,さらに1週間以上1ヶ月以内給料が1等級を引下げられ,無届が1週間を超えるものは放免することが第10条で定められている。これは愛知紡績所工場仮規則第10条と同じである。
 休暇日は,第14条で,大祭日,村社祭日,毎月1の日,12月28日より1月5日まで,起業日と定められた。また,毎月,10日,20日,30日は午後3時から機械の運転を止め掃除する(第15条)ことが定められた。愛知県紡績所は鹿島紡績所と同様に1週間ごとに休日や機械の掃除日を設けていたが,三重紡績所は10日毎であった。他にも,負傷及死亡の場合の養生料,扶助料,葬儀料などが明確にではないが,一応規定されていたようである5)。おそらく愛知紡績所の仮規則第19条と同様のものであったと思われる。
 「技工男女取締規則」には,まず志願者の採用手続について定められている。品行,身分などに不都合のないものを試験的に20日試用し,その後採用するかどうか決めた。試用中のもののうち寄宿舎生活者は食費は全部会社持ちのかわりに手当はもらえず,寄宿舎に入らないものは,男1日7銭,女1日5銭が支給された。これは工男,工女の最下級の日給に相当する。採用されたものは,成績によって生徒,本部工または雇工となる。
 本部工(技男・技女)と雇工(工男・工女)の日給表は第2表に示した。本部工は下級技術者か上級工員(身分的には主として准職員)をさし,雇は一般工員をさしていたと思われる6)。生徒は2ヵ月間の修業を積まねばならず,その間は原則として無給であるが,勤務状態に応じて手当金が支給されることがあった7)。生徒も修業及品行の優劣によって,1級から8級までの等級があった。1級は本部工の8等に相当し,以下順に本部工相当の等級が示され,8級は本部工の15等に相当する。そして優良なものは本部工に選挙された。このことから生徒は本部工を養成するために設けた制度であるといえる。
 生徒は寄宿舎に入れられ,賄料,洗濯費はもちろん,病気になっても医療費,薬代が支給された。また,制服も夏用と冬用が支給された。そして,勤続満期資金の積立もある。このように,三重紡績所は技術者養成制度を設け,熟練工,技術者の養成につとめた。
 三重紡績所の「工場規則」「技男女取締規則」は愛知紡績所の「工場仮規則」をほぼそのまま踏襲したといえよう。三重紡績所の創業者伊藤伝七は,自ら鹿島紡績所へ出むかい,紡績所経営に関する教えを請い,堺紡績所の操業の実際や事業の内容は,人をつかって調査させた。伝七の長男伝一郎も,赤羽工作局・鹿島紡績所・富岡製糸場・横須賀造船所等を訪ね,紡績企業に必要な知識を修得し,明治10年には堺紡績所に一職工として入所して,経営や技術について綿密に調査・研究をしている8)。その結果,当時としては最も整備された愛知紡績所の規則をとり入れたのは当然のことである。ところが外国人技術者をもたなかった三重紡績所は,日曜日毎の休日制を採用せず,労働時間も伝統的な習慣であった日出から日没までとした。そして,自ら熟練職工・技術者を養成すべく,技術者養成制度を設けたのである。
 経営者と職工の関係は,鹿島紡績所に類似している。設立当初は当時の風習として工業は卑陋なるものとして考えられていたため,紡績業務を習得しようとするものがなかった。そこで発起人の1人である天春三六郎が妻を見習に従事させると,これに励まされ次々と伝習生を希望するものが増えた。他の社員の妻も工場に出て仕事に従事するようになる。さらには伊藤伝七の息子伝一郎は紡績構内に社宅をつくり家族と移り,幹部以下工男女等と一緒に居住する。そして職工同様に働いた9)。この時代に民間の紡績工場を経営し,経営者と職工の間の信頼関係を保つには,家族同様に扱うことが不可欠だったと思われるのであろう。またこれは小規模だったからこそ可能だった。
第2表 三重紡績所の賃金明治15年)

 大阪紡績株式会社
 三重県紡績所設立の翌年の明治16年に,大阪紡績会社が日本に例をみない一万錘規模工場として出発した。大阪紡績の職工規則は,営業規則の下篇に収められており10),全体は職工総則,職工賞与例,職工懲罰例,技男女機械方鉄工火夫注油方心得,積立金規程,恩給規則,生命保険恩典,職工賜暇規程の八つの章から構成されている。
 職工の就業時間については「毎日午前6時ヨリ午後6時迄ト定メ,此時間ハ各受持ノ場所ヲ離レス其の業ニ従事スヘシ,但営業ノ都合ニ依リ昼夜業ヲナスコトモアルヘシ」とあり,持場を離れてはいけないことや,夜業をなしうることが明記されている。就業時間は午前6時から午後6時までの12時間であるが,出場時刻は午前5時45分と定められている。休息時間は午前と午後各1回15分間あり昼食時間は30分間あった。
 毎月の定休日は1日と15日の2日である。休暇日は無給で,予告のない臨時休業日は,例刻に出場した者に日給の半額を支給するというのは愛知紡績所と同じであるが,賃払雇工はその対象にならなかった。
 職工の賃金は第3表のように定められている11)。ただし日給職工のうち精紡機・粗紡機・綛機及綛作方の賃金は仕事高に応じて支給することもあるとされた。賃払職工の等級は,8年以上勤続のものは技男女に準じ,6年以上勤続のものは技男女補に,5年以上勤続のものは甲級(工男女1等級から3等)に,4年以上勤続のものは乙級(同4等から6等)に,3年以上勤続のものは丙級(同7等から12等)に準ずると決められている。
第3表 大阪紡績株式会社の賃金(明治16年)
 月給制の技男女補は,原則として雇入後7等以上3ヵ年間誠実に勤めたものを登用した。また月給制のものでも欠勤の場合はその日数に応じて月給が減らされる。
 その他,積立金や恩給,生命保険等についても規定されているが,最後に職工の採用と解雇についてふれておく。まず工男女の雇入に際して試験を行なったが,雇入期限は3年以上5年以下とされ,満期になって解雇の手続きをしないものは勤続とみなされ,自動的に更新されることになっている。年齢は原則として工男は14歳から35歳まで,工女は14歳から40歳までとされた。
 解雇については,本社の都合による場合は4週間前に予告がなされなければ,解雇後4週間分の賃金が支給された。しかし,職工側が懲罰規則等に該当するような行為があったために解雇される場合は,支給されない。このような解雇をめぐっての職工の地位の保障は,紡績業において初めてなされたと考えられる。
 大阪紡績会社は三重紡績所のように数十人の職工を士族の娘を縁故採用する12)のではなく,名護町を中心とした貧民街を職工の供給源とし何百人もの職工をかかえていた13)。また経営者も近代的経営者として経営に臨んだ。したがって三重紡績所のように職工を家族同様に扱うことにより労使間の信頼関係を保つことは不可能だし,またそのような方策はとらず,制度面を充実することによって職工の確保および職工の地位の保全をはかったのである。

 明治20年代の職工規則
 明治10年代に制定された諸規則は,どのような形で20年代に引き継がれていくのかを簡単にみることにする。
 三重紡績所は経営成績がすぐれず,明治21年4月に三重紡績会社として新発足した。発足に先立ち明治19年6月に「三重紡績会社営業規則」が制定された14)。三重紡績所の「工場規則」が制定されてから,4年後のことである。
 就業時間は日出から日没までという古い労働慣行が残存しているが,内容は大阪紡績会社と大差がない。その後に設立された紡績会社における職工規則の基調は,大阪紡績会社の職工規則に求めることができる。
 明治25年2月改正の「岡山紡績会社職工規則15)」によれば,熟練工獲得のため職工を「通常雇」と「年期雇」に分け,それぞれ別の規則を制定している。通常雇は年限を定めず,30日間の試験の後,請書を出して採用された。辞めるときは15日前に願い出なければならず,そうでなければ15日間の給金を返納しなければならなかった。また会社の都合により解雇される場合,15日前に予告されるが,予告がないときには解雇後15日間分の賃金が支払われる。病気あるいは事故のため就業できないものは,それぞれ2週間,1週間の猶予期間があり,それを過ぎると解雇された。年期雇の場合は,雇入年限は原則として満3年以上と定められ,年期約束書を提出しなければならない。職工の方から解雇を願い出る場合は1ヵ月前に申し出,そうしないときには1ヵ月分の賃金を返納しなければならなかった。病気の場合は1ヵ月をおいて,すぐに全治しそうでなければ解雇される。しかし,会社の都合で解雇されても,予告の有無にかかわらず,賃金は支払われなかった。
 明治20年代になると熟練職工不足という状況を改善するため,一般の職工に比べ熟練工の優遇策をとることによって足留めをはかったと思われる。鐘淵紡績会社でも定期雇と臨時工の二種を設け,定期雇には36ヵ月以上の期限を約束して就業を願い出るという形式をとった。また職工の移動を防止するために,どの会社でも積立金制度を設けている。

 注
 1)岡本幸雄,今津健治「農商務省工務局編『愛知紡績所沿革』(自創業至明治16年4月)稿本」『西南学院大学商学論集』28巻1号1981。
 2)間前掲書,246ページ。
 3)絹川前掲書,第2巻,117ページ。
 4)前掲書『東洋紡績70年史』218-19ページに,第2,6,9,10,14,15,16条が掲げられている。
 5)絹川前掲書,第2巻,486-87ページ。
 6)間前掲書,248ページ。
 7)生徒についての条項は,絹川前掲書,第2巻,488-90ページ。
 8)前掲書『東洋紡績70年史』46ページ。
 9)絹川前掲書,第2巻,468-70ページ。
 10)『渋沢栄一伝記資料』第10巻1956年,65-72ページ。印刷されたのは明治22,3年頃のようである。
 11)明治16年から明治34年上期にかけての大阪紡績会社の等級別賃金と各等級の人数の変遷については,拙稿「大阪紡績会社の職種構成」『商学論集』(同志社大学大学院第15号,1980年)で述べた。
 12)絹川前掲書,第2巻,481ページ。
 13)能塚正義「明治前期大阪地方における紡績女工不足と寄宿制度の成立」『経済学論叢』(同志社大学)第25巻1・2号,1976年,9ページ。
 14)前掲書『東洋紡績70年史』223-24ページ。
 15)労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻,1962年,128-32ページ。

第3章 賃金水準の形成

 本章では,明治10年代に設立された紡績工場において,職工賃金やその男女間格差がどのような基準で定められ,それが明治20年代の職工賃金水準にどのような影響力をもったのかについて検討する。
 隅谷三喜男は,大阪紡績会社が創業にあたり男工の初給を米2升に相当する12銭,女子の初給は7銭に定めた1)ことから,米2升というのは当時の不熟練=日雇労働者ないし農業日雇の賃金水準にほかならず,男女の賃金格差も当時一般的に存在した格差に基いている2)とする。この説は,今日の明治期の賃金研究においても主軸をなしている。暉峻象三も,農業日雇の労働報酬が紡績業の女工の賃金を規定し,その基準とされた3)とする。
 坂本藤良は,明治4年に政府は女官の月給を,同じ等級の男官のちょうど3分の2に定めており,これが後の民間企業の基準となった4)とする。これらの研究をふまえ,明治初期の賃金水準について検討したい。
 明治15年から25年にかけての,愛知,三重,大阪,岡山の各紡績所における等級別賃金表により,日給が米2升に相当する男工の等級を,第4表に示した。
 愛知紡績所では中位の等級の男工が,米2升に相当する賃金を得ることができる。愛知紡績所においては,「1人前のものの初給は男工8銭,女工5銭にして,見習中の15日間は手当給料として男工5銭,女工3銭5)」であったといわれている(工場仮規則には,見習中のものには最下級の賃金を支払うことと定められているが,他の工場からきた見習工は間借りなどをしていた6)ため,諸経費を除いた手取り額ではないか)。明治初年の鹿児島紡績所における1人前のもので1日1升8合,成年の新入工男は1日約1升2合,新入女工は1升という賃金水準よりも,明治15年の愛知紡績所の賃金は低く,新入工男は米1升程度,新入工女にいたっては約6合にすぎない。それでも職工募集の必要はなく,志願者が多くて断わるのに苦労した7)そうである。しかしながら,前章の「愛知紡績所工場仮規則」のなかで示したように,明治15年の職工平均賃金は男工26.4銭,女工17.2銭ときわめて高い。これは創業間もないために,技術を習得した等級の高い熟練工が多かったためと考えられる。ちなみに,明治15年の愛知県の男子農作賃金は,上中下の三段階に分かれているが,上が24.8銭8)である。したがって上の男子農作日雇より愛知紡績会社の男工の方が賃金は高かったのである。女工についても同様で,女子農作日雇の上等賃金は14.6銭9)であるのに比べ,紡績女工の賃金17.2銭はかなり高かった。
 紡績男工が男子農作日雇に比べて高賃金であるという傾向は,明治16,17年においてもみられる(第5表)。明治16年には男工賃金は23.4銭で,これは男子農作日雇の上等賃金23.1銭をやや上まわる。17年の男子農作日雇の上等賃金は不明だが,推計すると約20銭になることから,男工賃金は男子農作日雇の上等賃金とほぼ同程度であるといえる。このことから,明治10年代後半の二千錘紡績は,職工賃金水準の定め方について試行錯誤の段階にあったとはいえ,熟練職工が多数を占めた時期には,男工賃金は男子農作日雇の上等賃金に相当していた。しかしながら,男子農作日雇の上等賃金を徐々に下まわり,中等賃金に接近する傾向がはやくも見られる。これは未熟練男工の増加により男工平均賃金が下ったためであろう。明治16年の大阪紡績会社の場合,男工128名中,日給21銭(大阪地方における男子農作日雇の上等賃金は21.4銭)以上のものは15名,21銭未満のものは113名11)で,男子農作日雇の上等賃金に比べるとそれをかなり下まわる賃金の男工が多い。
 明治16,17年の女工賃金は,男工賃金と全く異なる様相を呈している。既述のように明治15年には,愛知紡績所の女工平均賃金は女子農作日雇の上等賃金に比べてかなり高い。しかし,明治16年の全国女工平均賃金9.8銭は,女子農作日雇の下等賃金9.3銭の水準とほぼ同じである。愛知紡績所にかぎってみれば,女工平均賃金は11.1銭で,愛知地方の女子農作日雇の上等賃金11.6銭12)の水準を保っている。これは,堺紡績所熟練女工が全女子職工中に占める比率が大きかったためであろう。三重紡績所の女工賃金は9.7銭で,三重地方における女子農作日雇の中等賃金程度である13)。愛知紡績所と三重紡績所の女工賃金は,かろうじて女子農作日雇の上等あるいは中等賃金程度の高さを保っているが,他の殆んどすべての工場における女工賃金は女子農作日雇の下等賃金程度か,あるいはそれをも下まわっていた。
第4表 男工賃金と米価(2升)との関連
 明治15,16年頃,愛知紡績所をはじめ,後発の諸工場においても,男工賃金は男子農作日雇の上等賃金とほぼ同程度であったが,女工賃金は愛知紡績所より後発の諸工場では,女子農作日雇の下等賃金程度であったということは,男女間賃金格差によく反映されている。明治15年の愛知紡績所における男女間賃金格差をみると,男工賃金26.4銭は女工賃金17.2銭の1.5倍である。
第5表 職工賃金・農作賃金・機織賃金と男女間格差の動向
明治16,17年の全国平均賃金の男女間格差は,男工は女工の2.4,2.5倍で,明治15年の愛知紡績所に比べて格差は拡大した。この格差の拡大は,明治16,17年の諸工場においては男子熟練工が全男工中に占める割合が,女子熟練工が全女工中占める割合より大きく,男工賃金の水準が比較的高かったためではないかと思われる。しかし他の要因として,同じ等級における男女間賃金格差が大きくなった,つまり女工の労働に対して認められる価値が低下したことがあげられよう。
 三重紡績所の等級別賃金表(第2表)をみると,等級が高くなればなるほど同じ等級における男女間賃金格差は大きくなる。技男一等は技女一等の3倍,工男一等は工女一等の2倍である14)。それに対して愛知紡績所では,同じ等級における男女間賃金格差は,技男女や工男女,あるいは等級の高さにかかわらず,女子は男子のほぼ3分の2である。これはすでに述べたように,女官の月給を定めるとき同じ等級の男官の3分の2を基準とした政府の方針を継承したのかもしれない。したがって,明治15年当時の愛知紡績所の女工の労働に対する評価は,その後の三重紡績所のそれよりも良かったといえる。
 大阪紡績会社は,既述のように見習工は別として,新入工男の初給を米2升相当分の12銭,新入工女は7銭と定めた。愛知紡績所の新入工男の賃金が米1升程度であったことからも,1人前の新入工男の賃金は米2升相当分という基準に先鞭をつけたのは大阪紡績会社であるといえる。
 大阪紡績会社が大規模工場として出発し成功を収めたことに刺激を受け,明治20年代に入り大規模工場が次々に設立され,既設工場もその規模を拡張していったことからみて,大阪紡績会社の制度や諸規則等とともにこの賃金についての基準が,三重紡績会社をはじめ他の工場が模倣したのは当然である。三重紡績所が三重紡績会社に組織変更するにあたって制定した等級別賃金表15)は,第3表に示した大阪紡績会社のそれを模倣したものである。
 このように,三重紡績会社をはじめとして明治20年代以降の大規模工場が,大阪紡績会社の男工の賃金水準をほぼそのまま継承し,規則として制定したことが,第5表に示したように明治20年代初頭から27年にかけて,男工賃金を17銭に固定させたひとつの要因であろう。
 明治20年代初頭から27年にかけて,農作日雇や機織などの在来的業種の賃金は米価の上昇と相まって上昇している。ところが男工賃金は固定しているため,明治10年代中頃には紡績男工賃金は男子農作日雇の上等賃金程度であったのが,明治20年
代後半から30年代初頭にかけては,紡績男工賃金は男子農作賃金の中等賃金を下まわるようになり,紡績男工賃金は相対的に下落したことになる。
 職工賃金を規則として制定し,それが定着することは,職工賃金が景気の変動から受ける影響を小さくする。したがって,明治32年のように米価や農作日雇賃金が下落する時期でも,労働市場の状況によっては職工賃金は上昇することもあり,明治20年代のように米価や農作日雇賃金の上昇が著しい時期であっても,職工賃金は固定したままであるという状況が生じるのではないだろうか。
 さらに大阪紡績会社の職工賃金水準が,後発の紡績会社の職工賃金の決定に影響を与えたことは,職工賃金の地域間格差が縮小する動きを促進させたといえる。明治20年代後半から30年代前半にかけての職工賃金の地域間格差は縮小し,賃金の全国平準化が進んでいる16)。この点については,職工移動等の影響も考慮に入れなければならないことは言うまでもない。
 明治20年代に,男工賃金も女工賃金も農作日雇の中等賃金に収敵する。男工賃金は,明治10年代中頃には男子農作日雇の上等賃金程度であったのが,相対的には下落するというかたちで中等賃金に収敵する。女工賃金は,女子農作日雇の下等賃金程度であったのが,相対的に上昇するというかたちで中等賃金に収敵する。このような傾向は,農作日雇と紡績職工が労働市場において競合関係になりつつあることを意味するのではないだろうか。
 以上のように,明治20年代以降の職工賃金水準は,明治10年代の大阪紡績会社のそれを基調としつつ,時代の進行に伴う社会経済的諸条件の変化とともに変ったといえよう。
 注
 1)岡村勝正「紡績懐旧談」(絹川前掲書,第2巻,420ページ)
 2)隅谷三喜男『日本賃労働史論』東京大学出版会,1955年,135ページ。
 3)暉峻象三『日本農業問題の展開』上,東京大学出版会,1970年,55-56ページ。
 4)坂本藤良『日本雇用史』上,中央経済杜1977年,60ページ。
 5)間前掲書,246ページ。
 6)絹川前掲書,第2巻,117ページ。
 7)間前掲書,246ページ。
 8)~10)『第6回日本帝国統計年鑑』
 11)前掲拙稿「大阪紡績会社の職種構成」197ページ。
 12)明治16年の愛知紡績所の女工平均賃金は,絹川前掲書,第三巻,199-200ページ。農作日雇賃金は『第6回日本帝国統計年鑑』による。
3)明治16年の三重地方における農作日雇の上等賃金は12銭である。この頃,女子農作賃金の上等賃金と中等賃金の差は約3銭であることから,中等賃金は約9銭と推計される。
 14)岡山紡績会社の等級別賃金表は,等級が低くなるほど男女間賃金格差は拡大する。
 15)三重紡績会社の賃金表参照。
 16)拙稿「明治期紡績業における男女間賃金格差」『経営史学』第16巻1号,1981年,71-75ページ。

おわりに

 紡績工場における職工規則のうち,現在知りうる最も古いものは,明治15年4月の官営愛知紡績所の「工場仮規則」である。そして,外国人技師の主導の下で制定された愛知紡績所の工場仮規則や労務管理方式は,三重紡績所の工場規則や職工規則などのモデルになった。ところが,三重紡績所は形式的には諸規則の制定により労使関係も制度化されたかのようにみえるが,現実には労使間の信頼関係は,経営者が職工を家族同様に扱うというような経営者の個人的努力によって保たれていた。これは鹿島紡績所と同じ様相を呈している。しかし,このようなやり方では大規模化に対処できないのである。
 そこで,明治20年以降の日本紡績業の発展の最大の推進力となった大阪紡績会社は,多数の職工を擁するのに適合的な職工規則を制定した。具体的には,解雇の際に前もって予告するということを制度化したことは,職工の確保を容易にしたであろうし,労使間の信頼関係を形成するのに役立ったであろう。愛知紡績所の工場仮規則では,工場内での規律を示した条項が大多数を占め,経営者側が職工の地位の保障を考慮した条項は皆無に等しい。せいぜい,前日迄に通達をせずに休業したときには日給の半分を支給するという条項があるにすぎない。大阪紡績の工場規則や労務管理方式を後発の各紡績所が取り入れたのは言うまでもない。三重紡績所が,日本における近代企業として先駆をなした1)といわれるが,三重紡績所が経営不振に陥りながらも大規模工場へと組織変更し発展していけたのも,大阪紡績会社が成功を収めており,その機構組織等を取り入れたためである。大阪紡績会社の職工規則が,その後の職工賃金や男女間賃金格差に及ぼした影響については第三章でみてきたが,賃金以外の職工待遇の仕方が明治20年代以降に,どのように継承され変容していったかについての考察は別稿にゆずりたい。
 注
 1)藤津清治「わが国綿糸紡績業における近代企業の成立――三重紡績所――」『ビジネスレビュー』第28巻3号,1980年。
 〈追記〉本稿の作成にあたり,西南学院大学岡本幸雄教授,神戸大学今津健治教授には,資料を紹介していただいたり,原稿に目を通していただき御助言をいただくなど大変お世話になった。この場をかりてあらためてお礼を申し上げたい。
 尚,本稿脱稿後に,岡本今津両教授によって,明治十年七月開業の新町紡績所の資料が発表された(「農商務省工務局編『新町紡績所沿革』(自創業至明治十五年六月)稿本」『西南学院大学商学部論集』二八巻二号,一九八一年)。この中で紹介された新町紡績所の職工規則は愛知紡績所のものより古く,しかも,外国人技師の手によって草案がつくられ,そしてその後修正されていく過程が詳細に記されている。この規則を検討することにより,日本の明治初期の紡績工場において,外国の労務管理方式がどのようにして定着し変容したかが,より一層明らかになるであろう。