公害

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足尾銅山山元における鉱害

著者名: 飯島伸子
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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 目 次

I はじめに・・・・・・・・・・2
II 足尾銅山山元社会のなりたち・・・・・・・・・・3
III 山元における鉱害被害の発端・・・・・・・・・・4
IV 松木村鉱害問題・・・・・・・・・・6
V 唐風呂地区の被害・・・・・・・・・・12
VI 膨大な山林破壊・・・・・・・・・・14
VII 植物学者の証明―足尾銅山主因説・・・・・・・・・・17
VIII 足尾山元の現況・・・・・・・・・・18
年 表・・・・・・・・・・26


 I はじめに
 足尾鉱毒事件と言えば,たいていの人は,渡良瀬川流域の数十町村を巻き込んだ鉱害被害のことだと思うであろう。もちろん,渡良瀬川流域の被害だけでも甚大なものであるが,足尾銅山の鉱害の犠牲者は,残念ながら,渡良瀬川流域住民にとどまらない。鉱山の所在地を山元と表現するが,その足尾山元,すなわち足尾銅山のある栃木県上都賀郡足尾町にも,鉱害の被害者は少なからず出ている。渡良瀬川流域の鉱害が,鉱山が排出する砒素や銅が混入した川水によって発生したのに対し,足尾山元の被害は,銅山製錬所の亜硫酸ガスによってひきおこされた。一般には,「煙害」と言われている。
 足尾銅山製錬所の排出する亜硫酸ガスは,山元の山林,農作物に甚だしい被害を与え,また住宅にも容赦なくはいりこんで人々の健康を冒した。そして,ついには幾つかの村が消えて行った。
図1 足尾町と旧村 (足尾山元)
現在,廃墟となっているのは,松木村,仁田元村,久蔵村,高原木村などであるが,煙害のために廃村に追い込まれたことがはっきりしているのは,このうち松木村だけである。
 仁田元,久蔵,高原木は,図1で明白なように,足尾銅山製錬所との位置関係が,松木村と同じく,いずれもその北部にあたる。のちに述べるように,松木村が全滅せざるを得なかったのは,製錬所からの亜硫酸ガスが松木渓谷を煙道として北上したためである。地理的には,仁田元,久蔵,高原木は,きわめて似た状況であった。しかも,被害が発生していたことも把握されている。これらの村々も,煙害が原因で消滅させられたのだ,と強く疑われるゆえんである。
 しかし,村が消えるほどの被害であっても,足尾山元の鉱害被害は意外なほどその実態がわかっていない。何故そうなのか,足尾山元でいったい,何が起きていたのか,それを本稿では追ってみたい。

II 足尾銅山山元社会のなりたち

 1 足尾銅山前史
 足尾銅山が発見されたのは,異説1)はあるものの,慶長15年(1610),2人の農民によってとされており,江戸幕府が鉱業をとくに奨励する方針であった中で,この銅山は幕府領となり,以後,幕府「御用銅」生産の重要拠点の1つとなったと言われている。その繁栄ぶりは,一時は「足尾千軒2)」と称されたほどであるが,1676~87年をピークに衰退し始め,幕末には閉山寸前にまで至っていた。
 この廃山直前の鉱山を明治10年(1877)に古河市兵衛が買いとり,近代的採鉱技術を採用して急速に産銅高をふやし,足尾に再び活気をもたらした。
 2 古河市兵衛の山元への「貢献」
 古河市兵衛が足尾銅山を買いとってからの足尾は,産銅高の急増がきっかけとなって人口もまた倍増した。銅山労働者とその家族,商人などが多数流入したためである。
 第1表は,明治中期から後期の足尾町の人口推移と入寄留者数推移を示したものである。これ以前の統計数字が無いのが残念だが,明治27年と29年を較べてみただけでも人口は2倍近くふえ,入寄留者となると9倍近くふえ,この増加傾向は,その後も10年ほど続いていることがわかる。入寄留者の殆んどは出稼労働者である。足尾の賑いを再びもたらした古河市兵衛は,こうして,足尾再生の救世主としての地位をかちえたのである。
第1表 人口iii)と人寄留者推移iv)(足尾町)
 3 足尾山元鉱害被害者の苦悩
 古河市兵衛は,こうして,足尾町での支配的位置を確立した。それは,あたかも,古河家=足尾銅山を頂点とする家父長制的支配が,足尾山元というひとつの地域に行きわたったような具合であった。
 足尾銅山とその山元の足尾町とのこの密接な関係は,足尾銅山鉱害問題に重大な影響を与えた。よく知られている事実であるが,銅山の有害廃棄物で渡良瀬川流域農民が甚大な被害を受け,鉱害反対運動鉱業停止要求運動を展開したとき,この足尾山元の町民たちは,足尾銅山を守るために行動をおこした。農民の鉱業停止に対し,鉱業非停止団体を,町の有力者らが中心になって結成し,上京したのである3)。古河市兵衛の要請によって非停止団体は解散し,被害農民と山元住民の正面対決は危く免れたが,対立関係自体は,鉱害問題が続き,足尾銅山が存在する限り,存続せざるを得なかった。
 山元で鉱害問題が起きたならば,被害者が,被害と足尾銅山の「恩義」の間にあっていかに苦しまねばならなかったかを想像するのはそれほど難しいことでない。
 そして,現実に,山元にも鉱害被害は発生した。

 III 山元における鉱害被害の発端

 1 煙害発生源=製錬所の位置と被害発生の関連
 足尾銅山製錬所の歴史は,足尾銅山自身が,これを次の5期に区分している。第1期旧日本式製錬時代,第2期西洋式製錬法輸入時代,第3期試験時代,第4期新製錬工場完結時代,第5期反射炉採用時代。
 第1期は明治10年から20年ごろまでで,足尾銅山の創立期にもあたり,製錬所周辺で煙害が目立ち始めた時期である。旧日本式製錬時代と名づけられているように,旧式吹床で製錬していた時期であり,明治15年までは本山の鷹の巣沢,本口沢,出合沢,子持沢下などに分散して設置されていたが,明治16年に,現在の製錬所の位置に落着いている。明治18年にはこの製錬所にいっきょに旧式吹床48座を新設して昼夜操業を開始している。さらに,明治19年からは小滝での製錬が開始され,32座の吹床を設置している。これが唐風呂地区での被害発生とつらなる。
 第2期は明治21年ごろから29年まで,欧式製錬法採用の時代である。米国式溶鉱炉を,まず小滝で試験して成績良好なため現製錬所で本格採用したのが明治23年。ここで製錬所規模は一新された4)。
 明治30年に,渡良瀬川下流の被害農民らの鉱害抗議行動がようやく政府を動かして古河に鉱毒予防工事が命ぜられたが,このとき,工事の一環として,製錬所も1ヵ所に集合された。そのとき以後,足尾銅山製錬所は現在地を動かない。明治30年までは,小滝製錬所による被害も,継続していた。
 製錬の本格化に伴って被害もまた本格化する――工場生産力の増強はすなわち公害被害の強化でもある――という日本の公害問題につねに見られた相関関係は,この段階からすでに定まっていたのである。
 2 ベールの中の初期の被害
 製錬所が分散設置されていた明治15年までに,すでに被害が発生していたとの記録がある。製錬所の亜硫酸ガスが高濃度に吹きつけていたことが推察される製錬所周辺の赤倉,本山,間藤で草木が枯れているのである。ガスが流れた経路に沿って植物が枯れているのであるから,地元の入々にも原因の見当はついたのだが,何らかの行動がおこされたかどうかは不明である。
 翌16年には,赤倉よりは製錬所からの距離があるが,製錬所から,渡良瀬川,そしてその上流の松木川沿いに排出ガスがまっすぐ北上していく先にある松木村で最初の被害が発見されている。ここでは,農作物の不作が目立った。明治16年は,のちに小滝につくられた分を除くすべての製錬装置が,現在の製錬所に集められた年である。
 そして吹座48座を新設した明治18年には,赤倉,高原木,仁田元,久蔵,問藤,松木の6村が,農作物被害について県知事に請願しようとする動きが出ている。山元の農民たちが,足尾銅山に原因することを知った上で,被害を知事に訴えようと動くことが,このときまではまだ可能だった。たとえ,足尾銅山が山元にどのように重要な存在であっても,もっと大事な農作物に害を与えられては黙っていられなくなったのである。
しかし,知事への請願は中止になった。赤倉地区に今もある龍蔵寺の住職が,足尾銅山との交渉を買って出て,理由ははっきりしないが松木だけを除外した残る5村のために示談金を得ているのである。松木村の被害に関する現存の資料では,16年に被害が発見されてからは,年々被害がふえていると記されており,龍蔵寺住職の判断とは食いちがっている。製錬所からの距離が,松木村の場合,他の5村とくらべてかなり離れていることから出た判断なのかもしれない。この段階で被害無し,とされてしまったことが,松木村のその後の運命を左右したとも言える。
 また,先にも触れたが,高原木,仁田元,久蔵は,現在は廃墟となっている。初期に被害が発生した地区のうち松木を含めて4地区までが消滅したという事実は,うそ寒さを覚えさせる。煙害の実情にベールがかけられたまま,過去のこととしてうずもれつつあるのだ。
 これに反して,製錬所に近接した赤倉や間藤は,大正年間にも再度,煙害問題で製錬所から寄付金を受取っている。樹木が枯れ,建造物も腐朽し,町民の死活問題だと大上段にふりかぶっての交渉で,3万円余を交付されているのである。のちに述べる松木事件の経過とくらべると,赤倉,間藤の言い分は,遙かに簡単に聞き届けられているのである。この地域は戸数も最も多く,また町の有力者もここに集っている。例の龍蔵寺もこの地にある。銅山としては手なづけておいた方がよい相手であった。赤倉も間藤も,松木事件では,いっさい松木村民を支援していない。

 IV 松木村鉱害問題

 1 松木村の「出自」と地理的不運
 松木村は,8世紀末に,勝道上人らによって山岳信仰の修業地として開かれたも5)ので,14世紀初めには,足尾の草分けとなった神山,星野,斎藤,倉沢,亀山の5姓が一族と共に来住し,松木,神子内,遠下,原,唐風呂,餅が瀬に住みついた6)うちの一地区でもある。江戸時代には,足尾郷を構成する14ヵ村のうちの1村にはいっていた。
 地理的には,松木村は,図1に示すように,製錬所北部で久蔵,松木,仁田元の3川が合流する地点から松木沢沿いにやや入りこんだ区域にあった。
 製錬所から松木へは,渡良瀬川から松木川へと川沿いにほぼ直線的な道が通っており,松木村跡は,左岸に切り立った高い峯の連なり,右岸にはやや平地があるものの,その平地の先にはやはり山が視界を遮っているような谷間の狭い区域にある。製錬所は松木の南東に建設されており,夏期には,そこから排出される亜硫酸ガスが南風に乗って,ちょうど太い自然の煙道の働きをする松木渓谷を北上した。冬期には,北風が,松木川左岸の高い山並みに妨げられるため松木側は無風状態となり,逆転層の発生しやすい気象条件になったであろう。ここに亜硫酸ガスが到達すれば,谷間上空を覆う厚い空気の層の下で,濃厚な亜硫酸ガス団となって松木地区に停滞したはずである。足尾銅山製錬所が現在地に設置されたとき以後,松木村は,風下に,常時,毒ガス源を置かれた状態におちいっていたのである。
 2 豊かな農村からの急激な転落
 明治14,5年頃までは,松木村民は,農作物は豊作で,現金収入の道もある何不自由の無い生活を送っていた。それが,明治16年を境に一変してしまった。村民自身が語るその事情を次に紹介する。
 栃木県上都賀郡足尾町大字松木人民星野崎次郎外貳拾四名謹テ懇願仕候要旨ハ古河市兵衛所營ナル足尾銅山ノ鑛銅製錬所ヨリ噴出スル鑛毒ノ為メ全村挙テ亡滅シ家族離散餓死スルノ外無之姿ニテ老弱婦女ハ空シク家ニ潜ミ為ス所ヲ知ラズ茫然トシテ一日ヲ送リ居候然レ共其被害ヲ受ケサル当時ハ土質豊壤ニシテ明治14年1頃ハ民有畑及ヒ宅地貳拾余町ノ農産物壱ヶ年左記ノ収穫有之候
 1.大麦 250余石 現時無収穫
 1.小麦 50石余 無収穫
 1.大豆 50石余 仝上
 1.小豆 10石余 無収穫
 1.稗 180石余 仝上
 1.稷 80石余 無収穫
外野菜類
 1.大根 4万5千本余 無収穫
 1.牛蒡 3万3千本 現時無収穫
 1.人参 貳万5千本 無収穫
前記ノ外尚養蚕ハ頗ル土質ニ適シ各之皆之ヲ養ヒ25戸ニテ去ル明治14~5年頃迄ハ壱ヶ年1収穫ハ金3000円内外ヲ得タリ為メニ山間小村ナルモ衣食住ニ何ノ不自由ヲ感スルコトナク年々餘財ヲ生シ益々富裕ニ赴キ子孫ノ繁栄ヲ豫期シ一家睦敷暮シ来リ候處仝拾六年頃ヨリ追々烟毒ノ害ヲ被リ其最モ甚シキモノハ養蚕ニシテ廿壱年ニ至ッテ桑樹悉皆枯死シ22年度ヨリ全々之ヲ廃スルノ悲境ニ遭逢シ又農作物ハ年毎ニ減収シ28年ニ至デハ平年ノ半額以下ニ減収セリ7)
 明治33年11月付で作成された松木村民25人の栃木県議会宛の人命救助歎願書である。ほぼ同文の歎願書は衆議院議長や貴族院議長などに向けても作成されている。
 鉱毒水が渡良瀬川流域に被害を顕在化させ始めたのが明治18年前後という説が有力8)であるが,山元の亜硫酸ガス被害の発生はこれに先立っているのである。
 3 鉱害除外予防工事と松木被害の増大
 足尾銅山には,明治29年,初の鉱害予防工事命令が出され,次いで翌30年,第2回鉱害予防工事命令が出された。この回の命令は本格的なもので,下流鉱毒被害防止のためには沈澱池,堆積場,土砂崩落防止惜置を,また山元の亜硫酸ガス被害防止のためには脱硫塔の建設を考慮していた。しかも,期限内に工事を完了しなければ鉱業停止という条件のついたきびしいものであった。
 しかし,それだけ厳密で本格的な命令にもとついてなされた工事のあとで,被害はさらに拡大・深刻化した。松木村でも同じことであった。
 明治33年に松木村村民が政府ほかへ提出した「入命救助歎願書」は次のように述べる。
 明治30年当局者ハ古河市兵衛ニ対して鑛毒豫防除害工事ノ命令ヲ達シ各工場ノ廃石鑛屑又ハ毒土河中ニ流出セサル様指定地ニ運搬セシメ烟毒ハ脱硫塔ヲ築造シ亜硫酸瓦斯ヲ除却セラルゝ趣キ聞知シタルヲ以テ今後烟毒被害ノ憂ヒナキニ至リ漸々土地回復後多年困難苦痛ヲ免レ土地ハ豊壤ニ山元樹木モ殖へ前途保安ヲ豫想シタリ然シテ脱硫塔築造後数月間其効力有無ニ注意セシニ豈図ランヤ其築造ハ猶却テ烟毒ノ被害倍々激甚トナリ民有山林九十七町歩及ヒ官林壱万余町歩ノ樹木ハ皆枯死シ脱硫塔所有貳里以内ハ悉7山骨崩落シ禿山ト化シ年々苗木モ植伐スルモ繁茂セズ概ネ枯死シ水源涵養ノ実莫々挙ラスシテ脱硫塔ヨリ噴出スル亜硫酸瓦斯ノ落来リ山面全部毒〓ト変化シ降雨ノ在ル毎ニ宅地及ヒ畑ニ暴流シ来リテ今ヤ全ク不毛荒無帰シ如何ニ肥料ヲ施シ良種ヲ選ミ耕作ヲ勉ムルモ根葉ヲ生セス各戸ニ飼置キシ馬匹ハ毒草ヲ喰ミタル為メ斃死シ加之追々人身営養ヲ失シ産児ハ夭死シ生母ハ乳出テス何レモ―スリコ―ヲ以テ乳児ヲ養ヒ来リ(後略)9)
 いったんは,鉱毒予防工事によって明治16年以来苦しめられた煙害からようやく逃れられると喜んだものの,工事完了以後,被害は,むしろ以前よりさらに激化したことに驚愕した村人たちの苦痛が明白に現れた歎願書である。
 鉱毒予防工事が完成したあとの方が松木村の被害が著しいことは,栃木県も公的に認めていた。この歎願書を受けつけたのちに県は現地調査を実施している。
このときの栃木県会の知事宛の文書には以下の記述がある。
 本県上都賀郡足尾町大字松木ハ古来農作及養蚕等ニ従事シ加フルニ足尾銅山開始セラレシ以来諸種ノ需用歳ニ増加シ来リ比較的生活ノ程度豊富ナリシニ,明治23年以来足尾銅山鉱業所ヨリ噴出スル煙毒ノ為メ農作物ハ勿論草木為ニ枯死シ田野山林普ク禿赭ノ情況ヲ顕出シ,明治30年5月渡良瀬川両沿岸ノ鉱毒被害予防工事ノ結果,各所散在ノ脱硫塔ヲ悉ク合併シテ―大脱硫塔ヲ本山製錬所ニ移シタル結果其加害ハ層一層激甚ヲ加ヘ今ヤ大字松木民有山林97町余,畑宅地18町7反余ノ地ハ挙ケテ不毛痛土ト化シ去リ四顧青草ヲ見サルニ至レり(中略)。?ニ本県会ハ是カ調査費ヲ置キ煙毒ト松木人民トノ衛生的関係ヲ精査シ救済ノ方法ヲ講セントス(後略)10)。
 栃木県がようやく実態調査に腰をあげようとしたときは,しかし,遅きに過ぎた。松木村は,もはや,農村としても,人間の集落としても存在し続ける力を破壊されつくしていた。こののち,村民は,600年来受け継いできた父祖の土地を古河・足尾銅山に廉価で売り渡して離村していくのである。
 4 松木村民を追いつめたもの
 松木村で最初の被害が発見されたのが明治16年,離村のために足尾銅山に田畑,山村,宅地のすべてを廉価に売り渡したのは明治35年。その間に,20年の歳月が流れている。村民は,この20年間,村を鉱害発生前の豊かな農村に戻すべく懸命の努力を続けたが,最終的に彼らを待ち受けていたのは農民としては最悪の離村であった。
 再生の方向を探るために村民がおこした行動の中には,県や足尾銅山に対するものもある。松木村民の県或は銅山に対する行動は3期に分けられる。第1期は,被害が発見された明治16年に始まる時期である。この期に,他の被害村とともに県へ請願書を提出しようとして,龍蔵寺住職にさしとめられている。しかも,他の被害村のためには,住職は,足尾銅山から示談金(3円~200円とバラつきあり)をとっているが,松木村は被害が少ないからと除外されている。明治18年のことである。
 寺の住職と言えば,農山村では知識人で有力者である。その有力者に「おまえのところの被害は少ないのだからひっこんでおれ」と言われたのでは,松木村としては,小さくなっていざるを得なかった。しかし,被害は,実際に年々増しており,21年には現金収入の重要な源だった養蚕業が桑樹の全滅で大打撃を受けた。翌年には養蚕を廃業するところに追いこまれている。それでも,18年の6村合同から1村だけ除外された後遺症が続いて,その後も当分,松木村民は金しばりにあったよう
に動けないでいたのだった。
 第2期は,明治28年から33年夏までの時期である。明治28年には,この村の収穫は,平年の半分以下に落ち込んだ。たえかねた村民は,おずおずと足尾銅山に損害金の支払いを交渉している。初めは地価の7倍の支払いを要求したものの,半分に値切られて,同28年11月31日に,1戸当り20円の金を受取っている。11)。
 このときに,契約書を取交しているが,その中には,第2条に「足尾町字松木各地主及ひ土地関係者一同前条之示談金を領収したる上は今後子々孫々に至る迄足尾銅山より足尾町内鉱烟に行き既往及び将来一切の損害に就き,古河市兵衛及び其承継人に対し裁判上裁判外を問はず何等之請求を為さざるは勿論官庁其他に対し請願等を為さざるものとす12)」が含まれていた。
 戦後に,水俣病患者のおそるおそる要求した損害賠償を見舞金と言いかえて支払ったチッソが,これと同じ契約を水俣病患者に取交させた事件がある。若干の金を被害者に支払い,その際に手交する契約書に,被害者が将来一切その事件を問題にしないという条項を紛れこます方策である。被害者の口を永久に封じるための巧みな策であり,だからこそ,加害源企業は,この永久示談を好む。
 庶民は素朴で正直である。契約書を手交した以上は,その中に書かれたことは守らねばならぬものと信じている。破約するのかとの恫?に弱いのである。加害企業にこそすべての責任があり,口封じの条項を加えるのは犯罪を重ねているのだなどということには思いも及ばない。松木村民も,明治28年に僅少額を受取ったあとに30年の鉱毒除外予防工事があり,既述のように松木の被害は激増したが,契約書の条項は彼らを金縛りにしていた。
 松木村民を追いつめたのは,加害源の足尾銅山であり,また,銅山に同調した山元の有力者であった。
 5 足尾鉱毒被害救済会の活動
 袋小路から松木村民を救い出したのは,足尾鉱毒被害救済会であった。松木村民の行動の第3期にあたるが,窮境を脱出する助言を得るべく,噂に聞いた義人田中正造を求めて歩きまわっていた村民は,明治33年9月19日,救済会事務所を訪れた13)。
 事務所にいて彼らを迎えたのは救済会の山田友次郎であった。村民の訴えをよく聞いた山田らは,手はじめに「人命救助歎願書」を作成することをすすめ,村民は直ちに作業にとりかかる。ここで,ようやく,明治28年に古河・足尾銅山と取交した契約書の条項の見えない鎖をたちきることができたのである。のちに救済会が間にはいった松木の所有地の古河への売却が完了したとき,救済会に仲裁を委託した村民23人は感謝状を同会に対して出している。足尾銅山のために家族離散の悲境に陥っていたところを,手弁当で奔走し,ついに「残忍な鉱主」から被害賠償と今後の生活生計に必要なものを引出してくれたこと,また,侵害された権利を回復させてくれたことへの感謝を述べたものである14)。
 救済会は,同会の残した記録を見ると,たしかに松木問題でも被害農民たちをよく支えている。同会は,明治33年8月に栃木県安蘇郡で設立され,前後して設立された鉱毒調査有志会と密接に連携しながら足尾銅山の鉱害被害者を救済することを目的としていた。松木村民の代表が田中正造を尋ねあぐねて救済会事務所を訪れたのが明治33年9月,同会設立後間もなくのことである。救済会では,明治30年の足尾銅山の鉱毒予防工事は無効であるとの調査結果を出したところでもあり,その調査結果の実証ともなる松木被害の訴えであった。そこで,先述したように,人命救助歎願書を内務省に提出することを松木村民に示唆し,また,松木地内を通っている製錬所の水樋取払訴訟をおこしたりした。この水樋は,銅山の死命を制するものであったが,訴訟は鉱業条例48条の鉱業保護条項のため敗訴した15)。
 救済会は,なお銅山に打撃を与える他の闘いを模索したが,ここで松木村民は揃って救済会の方針に異論を唱える。理由は,
 若しも此儘にして荏苒日を經るに至らば松木一村の人命何れの日にか安寧を保證し得べきぞ加え六百年来紀念の地は既に生を保たす可きにあらず一度年を超れば生産又身を支ふるにも足らず進んで窮状を告白せんか當局の有司與り聞かず退て塗に保せんか守るに産なく如かす自ら加害者たる鑛山主と折衝して是れが賠償を求む可きのみと市かも松木村人民の境遇たるや彼鑛業所事務員の末輩に迄軽視せられて其言ふ所聞かる可きにあらず殊に去る明治28年中に訂結したる左の條項を挙げて我示談の勢?を折くの具に供せんとしつつあるものあるに於ておや16)
 何とか餓死しないですむ生活にこぎくるのが先決の松木村民と,松木事件を有力な手段として銅山を攻撃しようとする支援組織の鉱毒被害救済会の発想のギャップである。村民としては鉱山から1日も早く賠償金をとって,日1日と衰える家族を救いたいのである。独力でそれができるものならとっくに実行していた。すでに述べたようないきさつ,そしてとくに明治28年の足枷を伴う古河との契約書。これを何とかしない限り,鉱山に賠償請求ができないとの必死の訴えである。救済会は村民のこの立場をよく理解した。そして会から弁護士を出し,鉱山への賠償請求の仲介を始め,最終的には先述のように,明治35年1月21日付で賠償金授受というところまで持ってゆく。
 救済会が松木村民の立退きを仲介したことへ,松木村民の権利を奪った放逐的示談であるとの批判もあったという17)。権利を残しておかねば煙害追究もできないではないかという批判であるが,これは無いものねだりの批判である。権利を残させたいのであれば,松木村民が生活できる別の方法を講じねばならない。その費用をいったい,どこに出させるというのであろうか。山元という銅山が支配を貫徹させている社会の中で,銅山の事務貝のそのまた一番地位の低い者からさえ鼻であしらわれている松木村民に,食料も衣服も胸いっぱい呼吸できる澄んだ空気も,そして明日へ向けての安定した職業も与えることなく,銅山攻撃の権利を死守せよなどと言う者があれば,それは,弱者の側に立つ者ではない。渡良瀬川下流の谷中村民が,土地の強制撤収に至ってまで身体を張って抵抗できたのには,それなりの背景と運動の歴史,ひろがりがある。
 救済会の数人のメンバーによる支援,それも遠隔地からの支援では,山元に埋めこまれた25戸の極貧の農民は闘うことは不可能であった。また,そもそも,銅山と闘う発想は松木村民には無かったと言える。闘うためには条件は絶対的に不利であり,相手は巨大に過ぎた。松木の人々は,足尾銅山によって一方的に被害を及ぼされ,一方的に,数百年の歴史のある故郷を廃墟とされ,排除されたのである。

V 唐風呂地区の被害

 ここで,松木よりやや早く問題化した唐風呂地区の被害をとりあげておきたい。
 1 唐風呂の被害の特徴
 唐風呂地区は,先に示した図1の南から西へ流れる餅が瀬川流域の,渡良瀬川よりに位置する地区である。この地区の被害は,小滝(庚申川沿川)に製錬装置が設けられていた期間の亜硫酸ガスによる被害である。
 その被害の実情は,唐風呂地区農民星野秋造ら28人の和解願の中で次のように述べられている。
 願人共ハ往古ヨリ上都賀郡足尾町大字唐風呂ニ住居シ山林畑等ヲ所有シ之ヲ耕作シ且養蚕業ヲ営ミ生計致居者ニ有之候処,被願人(古河市兵衛―筆者注)カ所有スル足尾銅山ニ於ケル採鉱ヲ同処ニ於テ精成スル為メ非常ナル煙ヲ発シ該煙ハ植物一般ニ害ヲ及ホシ願人共所有ノ土地ハ明治15年以降其収穫ヲ減スルコト少カラス候,今各種目ニ付一々其事実ヲ申立候(後略)18)
とあって,明治15年を境に古河市兵衛所有の足尾銅山の煙害で,収穫が4分の3強減じ,養蚕は蚕の発育が困難で,栗,茸,栃,柿,梨,梅,桃などは無収穫に,また山林は大部分が立枯となった具体的被害を挙げている。
 松木の場合は,栃木県会や内閣に対する人命歎願であるのに対し,唐風呂のは古河市兵衛に対する和解願である。
古河市兵衛は,1月足らずでこの「和解願」に返答している。「元来足尾銅山ノ烟毒ニヨリテ願人等力損害ヲ被リタリ事実毫モ無之従テ之力為メ自分ニ於テ彼等ノ為メ要償セラルヘキ理由モ無御座候(後略)19)」と,加害の事実そのものを否定し,正面から農民たちの言い分と対決している。
「栃木県史』では,この点について次のように解説する。
 和解願が提出される明治26年4月以前に,すでに鉱山派,反対派の熾烈な抗争があり,反対派が切り崩される過程で,この和解願の出現となったのである。一時は銅山側も示談への動きを示したが,強硬派を孤立させ,むしろ永久示談への道を求めて,この和解に応じなかったのである。この時鉱山側は,提訴も予測し,強硬派には法廷で争うことも覚悟していた節がある20)。
2 和解から訴訟へ
山元での古河・足尾銅山批判は,その第一歩からすでに足枷をはめられているのである。銅山びいき,銅山擁護者,銅山依存者の圧倒的に多い中での銅山を犯人視する行動は,このように難かしい。明治26年と言えば,古河は,渡良瀬川流域農民に対しても県や郡を動かして示談工作を進め,鉱毒反対運動の切り崩しをはかっていた年である。地理的に遠い地域に住み,<古河体制>の威力も直接には及ばぬ地の被害民に対してさえ,分断工作を実施できる古河であれば,山元の一部少数農民の<反乱>など無視できるものであったであろう。
 和解願を突っぱねられた唐風呂地区農民の中から,ついに,2年後の明治28年4月4日,33名の原告が,古河市兵衛を被告とする損害賠償請求訴訟にふみ切る。銅山派が圧倒的に多い山元ではあるが,古河・足尾銅山のやり口,とくに亜硫酸ガス被害を無視して通す強引さには,内心,不満を持つものもまた少なくなかったはずである。銅山の親衛派というのは,必ずしも圧倒的に多くはなかったのでないか。自分では行動をおこせない不満分子たちが,唐風呂地区の和解願申請者たちを心理的に支援したことは考えられる。目に見えない山元内のかくれた同志たちのそうした精神的後押しと,古河の一方的拒絶への怒りとが,唐風呂地区の被害民をさらに
訴訟へと駆りたてたものと考えられる。
 訴訟では,明治16年から27年までの穀類,養蚕,山林果実,山林樹木の損害に対し合計9万5656円98銭7厘を請求している。被害は明治16年に始まり,明治21年小滝銅坑発掘以来激化したことが詳細な損害計算表やのちに農学の大家としても知られる稲垣乙丙農学士の証明をもとに述べられている21)。
 しかし,山元の一部農民のこの意を決した訴訟提起は,明治28年7月20日付で東京地方裁判所が原告の請求を棄却する判決を下したことで終止符を打つ。判決は,被告古河市兵衛側の反論を容れて,原告は被害を各自の所有地上に受けたと言いながら,損害請求は合算して一団として要求しているのであって当を得ない,ことを請求棄却の理由としている。
 今日の公害裁判でこのような判決を下せば論難されるが,当時の加害企業と被害農民の力関係の上では,このように被害者を馬鹿にした判決もまかり通ったわけである。こののち,訴訟参加者の辿った道がどのようなものであったかは不明である。

 VI 膨大な山林破壊
 1 官材巡回日誌に見る山林破壊
 足尾銅山製錬所の亜硫酸ガスが周辺山林に与える影響については,山元の唐風呂や松木の農民たちがやっとの思いで行動をおこす以前に,すでに,公の報告書の中に記録されている。明治25年9月26日付の『足尾官林巡回日誌』は,足尾の広大な官林が,足尾銅山によって破壊の限りをつくされていたことに驚がくした記録を残している。
 午前九時頃歌ノ濱ニ達ス之レヨリ直ニ山間経路ヲ歩キ足尾境ニ達ス(中略)巳ニ樹木ハ皆伐シ地上萱類「ダラヨウ」其雑木ヲ生シ頗ル荒廃ノ跡ヲ止ム加フルニ野火之レニ入リテ残株ハ焼損シ僅カニ残ル処ノモノモ之レガタメ枯死ノ状ニアルノミナラズ頗ル暴伐ヲ極メシヲ知ルナリ(中略)銅山烟毒ノ関係ハ大ニ一般ノ施業法ト異ナル所ニシテ尤も注意ヲ要スルモノナリ(中略)。
 銅山ニ近ヅクニ従ヒ山岳ハ断株ヲ洗ツテ地表一ツノ草類モ止メズ土壤崩落分解砕石ハ流下シ加フルニ野火延焼ノ跡アリ亦僅カニ残存スルモノモ立枯シ土色ハ奇ニ黝色ヲ呈シテ一見憮惨ノ状ニ驚カレタ其源因元ヨリ暴伐ニ甚クトハ云ヘモ其山岳ヲ形成スル岩石亦タ大ニ源因タラサルベカラズ巳に地表ニ露出スル処ノ岩石ハ分解シコノ分解ヨリ来リシ処ノ風化土ノタメニ辛フシテ被包枯結スルモノタレバ急カニ被覆物タル樹林ヲ伐尽スルニ至テハ崩破ナカラントスルモ得ベカラズ(中略)。
 故ニ足尾官林ニ對スル森林施業ノ主点ハ左ノ三点ニアルヲ信ス土石崩落ヲ止ムル事
 野火ノ取締ヲ厳重ニスル事
 輪伐ハ擇伐ノ方法ヲ以テシテ自然林ノ樹木新陳代謝ノ法ニ従ハサルベカラズ(中略)従来足尾銅山ニ對スル事業ノ方法タルヤ一ニ銅山ノタメニシテ吾々ノ本務タル林業ノ本分ヲ度外ニスルノ傾キアリ(後略)22)
 この文章は,日光側から山道沿いに山林を調査している記録の一部であり,中禅寺湖周辺のみごとにうっそうとした森林に満足した記述の次に来ている。この資料は,今回出版された『栃木県史』にも収録されておらず,しかも貴重なものであるので長く引用したが,日光近辺と足尾銅山周辺の森林や草木の状態のあまりにも大きな相違への驚き,原因に足尾銅山の烟害,濫伐があることを見抜いて,従来の山林事業が足尾銅山の利益を第一としたもので山林育成の本分を忘れていると批判しているあたりは,とくに注目しておきたい。
 2 黙認された足尾銅山の過伐
 足尾銅山は,明治26年10月,過伐がわかってその官林輪伐を禁止されたが,明治18年に許可を得て以来8年間に6760町歩を伐採して,禁止された時点では足尾地区官林の殆んどを伐採してしまっていたのである。明治25年9月に巡回した役人が驚がくするのも不思議でないほどの実態があったわけである。その上,亜硫酸ガス害と野火災害があり,明治26年8月当時で,官有林と官有山野,民有林野計1万3000町歩が無立木地であった23)という。
 松木川沿いの地域は,明治38年8月当時の「足尾国有林復旧事業一覧図」においても1978年の大間に営林農の資料によっても,ともに<煙害激甚地>とされている。<煙害激甚地>とは,「森林が破壊され荒廃地となったもの」と注釈がある(図2参照)。
 そのような地域に,人々が生活する集落があったのである。というよりも,この松木集落は,以前からあって結構ゆたかに暮らしていたが,あとから足尾銅山の経営が始まり,とくに銅製錬所が設けられたことで,一転して<煙害激甚地>に追い詰められていったのである。それが村人にとっていかに理不尽なことであり,いかに悲惨な事態であったかは,先に引用した歎願書が明白に,切々と伝えている。
 3 足尾銅山は野火説を主張
 足尾銅山とその周辺区域の山林の無立木地化には,銅山の亜硫酸ガスや濫伐によるものの他に野火によるものが複合的に原因になっているということは,ここに引用した山林巡回記も言っているが,とくに足尾銅山側の強調している点である。
 <明治18年>産出亦4000瓩ニ達シ,コノ頃ヨリ製錬所ヨリ排出スル鉱煙ハ字赤倉附近ニ流下シ,草木ニ被害ヲ及ボスニ至ッタ
 当時煙害ハ微々タルモノナリシニモ拘ラズ,松木,仁田元,久蔵山林ノ荒廃原因トシテ挙ゲラレルモノニ足尾大火アリ
 足尾農村ノ慣例トシテ,毎年「おひまち」1日ニ山焼ヲナス例ニテ,明治二十年四月十六日ハ所謂「おひまち」ナリシカバ,松木,神子内,間藤,深沢ノ各所共午前十時頃山焼ニ着手セリ,然ルニ午前十時三十分頃急ニ暴風雨起り一時ニ延焼シテ消火ノ方法ナキニ至リ,各方面同時ニ大火トナリ松木・久蔵・仁田元・赤倉・上間藤ノ山林全部,下間藤深沢,神子内ノ一部ヲ焼失(中略)明治二十五年頃迄ハ山林畑等ニ大ナル被害ヲ認メザリシモ,明治二十六年頃ニハ銅山ノ産銅高五千二百万瓩トナリ,製錬場ノ煙突が7本ニ増設サレタ頃カラ,前記大火後ノ生育雑木ニ被害徴候ヲ漸次現ハシテ来タ(中略)
図2 煙害地略図
 前記大火後ノ生育稚木ニ被害徴候ヲ漸次現ハシ来リ,明治三十一年脱硫塔新設後ニ於テモ減少ヲ見ス,明治三十二年頃ニハ松木方面ニ於テハ麦穂及山林樹木ノ被害甚シクナリ,山岳嶮峻ナル為随時風雨ニヨリ土砂ノ崩壊ヲ見ルニ至レリ23)。
銅山の,栃木県林務課宛の弁明書である。松木村民が「人命救助歎願書」の中で訴えている被害の実態,経過と何とちがう内容であることか。足尾銅山側は,煙害は明治25年ごろまでは大したものではなく,悪いのは,つまり,山林を荒廃させた原因となったのは,明治20年の野火(松木が発火点であった)が導いた大火であり,これが,稚木の生育の障害として大きく,煙害防止用の脱硫塔(実はこれが有害作用を増幅したのだが)をとりつけたのちも,松木の山林被害を大きくしたのだと主張する。
 一方に,唐風呂地区の明治16年からの被害発生の訴えと証拠書類の呈示,松木地区の同じく明治16年ごろからの被害発生の訴え,そして両地区ともの明治21年ごろからの被害の激増の訴え,役人による明治25年時点の足尾銅山の濫伐と亜硫酸ガスに原因する周辺山林の目をおおう惨状の記録。銅山側の加害事実の意図的隠蔽を自ら曝露する文書である。
 そして百歩ゆずって野火にも山林の育成障害の原因は求められるとしてみても,野火がたちまちにして大災害に転じるような荒野,禿山は足尾銅山の濫伐と亜硫酸ガスがつくりだしたのであり,いずれにせよ,責任のすべては足尾銅山にかかるのである。

 VII 植物学者の証明―足尾銅山主因説

 足尾銅山は野火説を唱えて足尾地区の荒廃の責任を取ろうとしないが,植物学的見地からも,足尾の荒廃の原因が足尾銅山にあることは証明されている。
 足尾銅山の排ガスによる山林被害について,戦後間もない時期から調査を続けていた地元宇都宮大学の植物学者鈴木丙馬氏は,1966年に発表した足尾の煙害裸地復旧治山造林に関する論文の中で,足尾荒廃の素因に気候的地理的要因あるいは明治20年の大山火事による裸地化などを認めながらもさらに次のように主張している。
 しかし足尾銅山で大正7年(1918)に浮遊選鉱法が採用されてから昭和31年(1956)に自熔製錬が採用されるまで38年間,またベッセマー式製錬法の採用された明治26年(1893)から数えて実に63年間にわたって足尾製錬所の煙突から多量のSO2ガスが連続して足尾の山々に放出されつづけたのであって,この多量のSO2ガスを主体とする鉱煙 害が植生を壊滅し,また自然恢復をはばんだことに基因する長期にわたる裸地化ということが足尾荒廃地出現の主因であったと判断される24)
 亜硫酸ガスが,足尾地区を荒涼とした裸地に至らしめた主因であることを,植物学者としての長年の調査にもとついて断言したうえで,さらに,足尾銅山の責任の大きさを次のように示唆する。
 足尾銅山の製錬による多量の,そして連続的なSO2ガスの放出がなかったとしたならば,おそらくは間藤,赤倉,本山,仁田元,松木,久蔵,安蘇沢,あるいは深沢や神子内沢の入り口などに現在見るような鉱煙害裸地は出現することなく,これらの明治20年(1887)の大山火事跡には自然復旧による植生が生い繁り秩父古生層地帯のすぐれた土地条件のもとで,現在の小滝の林相にもまさる立派な昔日の美林の姿を今日形造っていたであろう,と推測することは無理であろうか25)。
碩学鏑木徳二林学博士に,足尾現地で,鉱煙害地の治山造林について手ほどきを受けた経歴を持つ植物学者の言葉である。控えめにであるが,たとえ明治20年の大山火事があっても,足尾銅山の排出ガスさえ無ければ,松木はもとより他の足尾の山々も,現在は深く濃い緑に包まれていたであろうことを述べているのである。松木村民は,足尾銅山の排出ガスさえなければ,故郷を捨てずにすんだのである。
 Ⅷ 足尾山元の現況

 1 銅山閉山
 松木村民の悲劇に象徴される鉱害被害を山元に対して及ぼし続けた足尾銅山は,1973年2月28日付をもって鉱山部を閉鎖した。鉱源枯渇が理由である。
 鉱毒被害者と対決してまで銅山擁護に立ち働いた山元社会の有力者の発案で,閉山に先立っては「閉山対策町民太会」が開かれ,閉山反対・操業継続が一同の願いとして銅山に伝えられたが無効であった。予定どおりに鉱山部は閉鎖され,町は急速にさびれつつある。人口も,1970年4月1日には1万1476人であったものが,1978年4月1日には6541人に半減した。
 現在,足尾町には,足尾銅山製錬部が残されている。亜硫酸ガスの加害源が残存しているということである。しかし,閉山の打撃のあとで,その問題に触れる町民のいる可能性は,かつての松木事件のころよりもさらに小さい。
 松木と並んで鉱害被害の顕在化した唐風呂地区は,餅が瀬川流域に現存している。現在,足尾町内で畑地が比較的に多いとされている7集落のうちの1つである26)。早い時期に小滝製錬所が廃止されたのが幸いしたのであろう。問題が今も発生する可能性が大きいのは,かつても示談金や寄附金を受取ったことのある製錬所近辺の大集落赤倉や間藤であるが,現在は,苦情も耳にしない。
 2 打ち続く荒廃
 たとえ苦情の声は無くとも,そして,大幅に譲って,現在の山元に,新たな煙害はそれほど深刻でないとしても,しかし,過去に形成された荒廃の方は,紛れもなく存続して現存する。
 大間々営林署が,足尾地区のこの荒廃ぶりを数字で示しているので,まずそれを見るとしよう(第2表)。第2表では,山腹荒廃と渓流荒廃の2種類が示されているが,山腹荒廃地は,裸地化した状態および裸地化がさらに進んで山腹の表土も失われて期岩が露出した状態を意味し,渓流荒廃地は,山腹荒廃地の岩壁が砂粒化して崩落することで渓流が埋まり,渓流の機能を奪われた状態の地区をさす。
 山腹は1313ヘクタールの広さが荒廃し,渓流を埋める不安定土砂の量は62万5000立方メートルにものぼる。
第2表 足尾地区の荒廃状況(1977)
山腹荒廃地としては,中でも松木下流の荒廃地の占める部分が広いこと,また渓流荒廃地では,松木上流の不安定土砂量が飛び抜けて多い。松木地区の被害の深刻さを物語る数字でもある。
 足尾銅山の亜硫酸ガスが山腹の荒廃をもたらし,山腹荒廃は不安定土砂を多量につくり出して渓流を土砂流に変えた。そして,土砂流は,いったん大雨でも降れば,いっきょに洪水とともに下流に押し流されて大惨事をひきおこす原因となる。ことは山元の寒々とした廃墟の光景で終らないのである。
 この状態に対してとられてきた対策は,砂防工事と植林事業であった。第2次世界大戦時に中断があるとはいえ,砂防と植林の2つの治山事業は,明治30年来続けられてきた。第3表・第4表は,明治30年以降の荒廃地復旧に費された国費を示したものである。昭和55年までの出費合計が約32億6400万円。足尾銅山はまったく出費せず,もっぱら,国民の税金が使われてきた。
 山腹工とあるのは,山腹に石積やブロック積で土留の施行や植生盤・植生袋を利用した緑化工事,露岩地帯へのヘリコプターを利用した播種などである。渓問工とあるのは砂防工事であって,コンクリートの堰堤を建設して洪水時の土砂の下流への流下を防ごうとするものである。しかし,コンクリートの砂防ダムも,せいぜい20年程度で土砂に埋もれてしまうと見込まれているし,緑化工事の方も,人目につきやすいところを重点的に進めているので,一見,効果が上がっているようであるが,日光側から足尾銅山までを見通すと荒廃ぶりは殆んど改善されていないことが明白になる。数十億円という莫大な費用をかけてみても,足尾山元の徹底して破壊されてしまった自然は,復旧しようがなく,まったくの無駄づかいに終っているのである。
 しかも,元凶の足尾銅山は閉山となって姿を消した。略奪をほしいままにしたあと狼藉の証拠もそのままにして逃亡したようなものである。足尾銅山の出費といえば,明治時代の国有林の過伐と亜硫酸ガスによる山林破壊に対して林野庁に320万円の示談金を支払ったことがある程度である。これは,昭和35年のことであるが,この僅少な出費を行なったことで,林野庁は足尾銅山の国有林への加害責任を相殺している。
 明治の時代から現代に至るまで,足尾銅山と国との共犯は変ることなく続き,その結果,足尾山元の破壊されつくした状況もまた継続するのである。
 3 松木跡地が観光資源にされる
 第2表の数字が示す足尾山元の鉱害激甚地区の被害のうちで最も被害規模が大きく,深刻な状況は旧松木村を中心とした松木沢の全流程で見られる。
第3表 (明治31年~昭和15年)荒廃地復旧に要した経費
第4表 (昭和22年~昭和54年)治山事業の実績
図3 足尾地区煙害発生状況図
 松木村跡地を含む被害地帯は,つい最近,テレビ映画「203高地」のロケ地となった。戦場となった203高地の場面を,日本の中で最もよく再現できる場所として選ばれたのである。あらゆるものを死滅させ,荒廃の極に至らしめる戦場にもひとしい荒涼たる状景を足尾の被害地区が呈していることを示すものである。
 松木沢のほとりの松木村跡地には,沢から掘り出された無縁仏数基が野ざらしにされている。墓石は江戸時代のものであるのに,石面に苔がついていない。亜硫酸ガスが,墓石に苔むすことさえ妨げたのである。
 対岸には切り立ったゴツゴツの岩壁が空を遮っている。岩壁のあちこちに崩落する土砂の流れが見える。松木村跡地は,山元の鉱害の激しさと村民の苦悩の歴史を知るものにとっては,巨大な墓所と映る。しかし,足尾銅山に去られて,存続の方向を懸命に探る足尾町当局にとっては,松木村跡地は,外部からの訪問客を惹きつけるための観光資源とみなされている。銅山の亜硫酸ガスと銅山の濫伐によって荒廃しつくし,特異な岩山となったこの地を<観光地松木渓谷>として売り出す計画なのである。
足尾町編集の『足尾郷土誌』は,その計画を次のように述べる。
 この特異な岩肌が観光資源となり,近年『渡良瀬源流の山々』の書に案内され,好適な岩場,未知の地として紹介されてから内外の注目を集めるようになった。昭和48年の足尾銅山閉山と前後して各種足尾町振興計画が策定され,松木地区を他に類を見ない特異な観光資源としてその開発を推進することにしているが,道路の整備がおくれている27)。
また,足尾町が発行する観光案内リーフレットにはこう書かれている。
 松木渓谷足尾ダムからニゴリ小屋に至る松木渓谷は,荒涼たる岩壁の連続がクライマーを魅了します。健脚向きのこのルートは,近年脚光を浴びており,一度訪れた方は終生の想い出になるでしょう。
 4 足尾の観光地化も足尾銅山の方針か
 足尾町の観光地化への動きは,古河・足尾銅山にとっては,加害の証拠を湮減できるこの上なく望ましい方向である。そのきっかけをつくったのは,ほかならぬ銅山自身であった。
 鉱山事務所跡地に,まず,けばけばしい色彩の足尾銅山資料室をつくり,無料で入館させることとした。1978年のことである。次に,資料室に続く地所に,巨大な鉱山展示施設を建設し,模疑坑道をつくったり,トロッコを走らせたりしてサービスにつとめている。こっちは有料である。
 資料室も,展示館も,物珍しさがあって結構人を集めている。松木跡地も観光地へという思いつきが,ここでの成功に気をよくしたはずみに出たものか,あるいは,連想的に出てきたものか知らないが,銅山で使いものにならなくなった不用物を利用して観光に供する発想と,どこかで関連することは指摘できる。
 足尾山元としても,松木跡地の観光地化が収入源となり,一方で鉱害被害地の暗いイメージを消していけたら一石二鳥である。銅山と山元の双方にとって有利なこの計画が見逃される道理はなかったのである。
 5 被害の記録を急がねば
 鉱山事務所跡は人目を引く資料室や展示館と化し,松木跡地はロック・クライミングの絶好地として宣伝されつつある事態を前にして,われわれは急がねばならない。
 600年の歴史を持つ松木村が,足尾銅山が操業してわずか20年で廃墟とさせられてしまったこのおそるべき犯罪を,足尾銅山と足尾町は,観光の粉飾をほどこすことで,歴史のうしろに塗りこめようとしているのである。
 犯罪を隠蔽しようとするときの企業の行動は実に迅速である。すべてが過去の名のもとに消し去られる前に,われわれは,足尾銅山が山元で犯し続けた罪悪の数々を克明に記録し,写しておかねばならない。足尾山元の被害者がなめた苦難を,他の開発途上の国々が経験しないですむためにも,現実の姿を可能な限り書きとめておかねばならない。
 足尾山元の被害については,渡良瀬川下流の被害と較べて,知られている事柄,得られた資料は今でさえきわめて少ない。銅山も山元の有力煮も意図的に残さなかったためであろうし,被害者の運動が低調だったことも影響していよう。そうであればなおさら,残存する資料み現実の姿をことごとくわれわれの手に集め,写しておく必要がある。時間はあまり残されていない。われわれは急がねばならない。


 1)発見はそれ以前との説もあり。蓮沼叢雲『足尾銅山』全,公道書院,明治36年,47-48ページ。
 2)栃木県史編さん委員会『栃木県史 史料篇 近現代』9,栃木県珍80年3ページ。前掲『足尾銅山』全,49ページ。
 3)足尾銅山労働組合編『足尾銅山労働運動史』(非売品)1958年,48-49ページ。
 4)前掲『栃木県史』112ページ。
 5)足尾町郷土誌編集委員会『足尾郷土誌』(非売品)1978年。94ページ。
 6)同98ページ。
 7)栃木県上都賀郡足尾町字松木,星野崎次郎他24名「栃木縣會議員御中 人命救助歎願」明治33年11月。
 8)渡良瀬川鉱毒シンポジウム刊行会編『足尾銅山鉱毒事件虚構と事実』同会発行。1976年。
 9)前掲,星野ら「人命救助歎願」。
 10)栃木県会議長木村半兵衛「足尾町煙毒救済ノ儀ニ付意見書」県知事宛。明治33年12月19日付。『栃木県史』に収録。
 11)足尾銅山鉱毒被害救済会(9)『足尾銅山ノ鉱烟毒ノ事件』。
 12)足尾銅山鉱毒被害救済会『足尾鉱毒被害救済会報告書』明治35年3月26日(非売品)。
 13),11)に同じ。
 14),12)に同じ。
 15)同
 16)同
 17)同
 18)栃木県上都賀郡足尾町大字唐風呂,星野秋造以下28名「足尾銅山煙害損害要償之和解願」明治26年4月19日付,『栃木県史』に収録。
 19)同
20)前掲『松木県史』解説部分63ページ。
21)前掲「和解願」
22)『足尾官林巡回日誌』栃木大林区署明治25年9月26日付(現物は東海林吉郎氏所有)。
23)古河合名会社足尾鉱業所より栃木県経済部林務課宛文書。『栃木県史』に収録。日付は不明だが,内容から見て明治33年以降のもの。
24)鈴木丙馬『足尾鉱煙害裸地の復旧治山造林に関する基礎的研究』第1報,「鉱煙害と治山・治水とを主体とした足尾小史(未定稿)20Ⅷ1966」宇都宮大農学部『学術報告』第6巻3号,1967年3月,43ページ。
25)同45ページ。
26)前掲『足尾郷土誌』27ページ。
27)同143ページ。
足尾銅山山元における鉱害被害略年表(767-1902)