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足尾銅山の技術と経営の歴史

著者名: 星野芳郎
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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目 次

1 鉱山近代化の起点・・・・・・・・・・2
2 国営民間両鉱山の近代化の対照・・・・・・・・・・4
3 洋法土法並存の近代化(1)・・・・・・・・・・7
4 洋法土法並存の近代化(2)・・・・・・・・・・10
5 人間関係の近代化の遅れ・・・・・・・・・・12
6 近代化と鉱毒問題との関係・・・・・・・・・・15
7 日本の銅山の衰退・・・・・・・・・・17


1 鉱山近代化の起点

 日本の技術と経営の近代化は,1868年――明治維新の年に始まる。その時期は,欧米では,木綿や蒸気機関や石炭や鉄道などで象徴される産業革命が爛熟し,同時に,鉄鋼や電力や石油や自動車などに象徴される第2次産業革命が現れはじめ,これにともなって,自由競争下の産業資本主義が独占資本主義に転化するという時代であった。
 銅について言えば,それは1868年以前に,すでに日本の重要輸出品であった。徳川幕府は,全国産銅のほとんど90パーセントを買い上げ,それをもってオランダや清などとの貿易尻の決済にあてていたのである。だから,銅山の開発は,幕府にとっては無論のこと,諸藩や商人にとっても,至上命令に近いものであったが,それにも拘らず,明治維新直前には,ほとんど行きづまってしまっていた。産業革命直前のヨーロッパと同様,その大きな原因は,排水の困難による鉱山の水没であった。ヨーロッパでも日本でも,産業革命直前に,金属や石炭の需要が次第に増大してくると,鉱山では深部採掘に移らざるをえないが,そうすると、昼となく夜となく続いている湧水の処置をどうするすべも無くなってしまうのである。
 当時はまだ蒸気機関が出現していない。動力がなければ,水汲み人夫たちが,手から手へと水を汲んだ木桶を渡しつつ,坑内の湧水個所や水溜めから坑外まで運んで,水を捨てなければならない。あるいは,手動ポンプで水を足元の広口の桶(わが国ではたらい)に汲みあげ,次の人夫がその水を自分の足もとの桶に汲みあげるという風にして,坑外までポンプのリレーで水を持って行かなければならない。つまり,湧水個所や水溜めから坑口まで,びっしりと水汲み人夫が並ぶわけで,この人海戦術でしか排水を処理することは出来なかった。日本で言えば,1861年の別子銅山では,掘子[ほりこ]481人に対し,水夫[みずふ]は447人を必要としたのである。
 深部採掘になればなるほど,湧水は猛威をふるい,湧水個所と坑口との距離も長大化する。ついには,人手が間にあわず,水とのたたかいに負けてしまえば,あたら富鉱を擁する鉱山も水没せざるをえないことになる。ワットの蒸気機関は,何よりもまず,鉱山や炭鉱の排水のためにこそ要求されたのであった。だから,最初の蒸気機関は上下に往復運動するのみで,回転運動は出来なかった。ピストン型の当時のポンプの動力のためには,そのような蒸気機関で足りたのである。
 ペリーに迫られて,幕府が開港せざるをえなかったころには,ヨーロッパでは至るところで蒸気機関が動いていた。だから,日本の鉱山にただちにそれを導入すれば,排水の難問は解決されるように思えるが,当時の日本の社会体制では,それは政治的にも経済的にも不可能に近かった。つまり,当時の鉱山の経営にあっては,幕府や諸藩や商人などの鉱山主は,自稼人あるいは下稼人と言われる親方たちに,鉱石の採掘や製錬を請け負わせ,それぞれの自稼人に,採掘場所を割り当てていた。だから自稼人たちは,それぞれに坑口から坑道を掘進し,有望な鉱床に到達して鉱石を採掘しはじめても,湧水に抵抗できなくなれば,その切羽を放棄して,また別の坑口から坑道を掘ることになる。1751年の足尾銅山では,こうして出来た坑口の数が1484にも達していたと言う。
 こういう鉱山に蒸気機関を据えつけても,まるで非能率である。鉱山全体の基軸をなす斜坑や竪坑や水平坑道を掘りぬき,そこから小坑道が分れて行って鉱床に達し,人と物の動きが,各切羽から大坑道に集約されるようであれば,出水もまた集約されて,その集約個所に蒸気機関とポンプを配すればよい。このような開坑計画を実施するには,自稼人を廃して,鉱山主が直接に労働者を雇用し,全鉱山にわたって適切に配置し,必要とあれば配置転換し,あるいは,新たに労働者を募集する体制が必要である。これを労働者側から見れば,労働の自由が必要である。
 蒸気機関は,このような資本主義体制を必要としているのであるが,明治維新前の封建制度のもとでは,身分格差の維持が大前提であるから,職能は生涯固定され,労働の自由はありえない。幕府にとっても諸藩にとっても,蒸気機関は咽喉から手が出るほど欲しかったはずであるが,それを本格的に導入するには,封建制そのものを変えなければならず,むろんそれは出来ないという自縄自縛に,幕府や諸藩はおちいっていたのである。
 こうして明治維新は,日本資本主義の出発点であり,したがって,銅山の経営の近代化の起点であった。維新政府は,1870年に工部省を設立して,すべての鉱物資源を掌握させ,73年に日本坑法を制定して,日本国のなかで発見されるあらゆる鉱物資源はみな日本政府の所有で,政府だけがそれを処置することができると宣言した。幕府や諸藩所有の大半の鉱山や炭鉱は政府の所有となったが,政府はそこに欧米の技術者を招き,その指導下に近代プラントを導入し,一挙に鉱山の近代化をはかろうとした。
 欧米の技術者の俸給は,きわめて高かった。鉱山技師長のゴッドブレイの月給は1000円,中堅技術者は数百円,随行してきた坑夫でも100円は下らなかった。これに対して,別子銅山の支配方であった広瀬義右衛門(後の宰平)でさえ,その月給は100円,足尾銅山で坑内支柱を扱う労働者の日給は55銭(月給にして14円足らず)であったから,両者の差がいかに大きかったかが分る。
 そして,各鉱山では,まず基本的な大坑道が掘さくされ,そこに軌条が敷設され,人力や馬力による鉱車が利用され,そして蒸気機関が据えつけられて,排水や捲揚げに活躍するようになった。
 製錬においては,従来の吹床に代って,煉瓦溶鉱炉や反射炉が導入された。吹床とは,地中に穴を掘り,その壁を灰で固めたもので,鞴[ふいご]をそなえつけ,木炭によって鉱石を溶融するもので,装入量はきわめて小さく1回の操業ごとに床を完全に改修する必要があった。溶鉱炉と言い,反射炉と言い,すでに維新前に,いくつかの藩で,技術者たちがオランダの技術書と首っ引きで築造しており,どうやら製錬に成功していたのだが,それはごく部分的な営みにすぎなかった。それに対して,維新以後の国営鉱山では,鉱石の採掘から製錬に至る全生産工程を,体系的に全面的に近代化しようというものであった。封建制社会を倒した新しい権力なしには,これは到底為しえない大変革であった。

2 国営民間両鉱山の近代化の対照

 では,国営鉱山において,近代技術は隆々として発展したかと言うと,決してそうではない。民間資本では,桁違いに高給の外国人技術者を数多く雇うことも出来なければ,欧米のプラントを購入することも出来ないが,政府は,農民から取りあげた税金を主たる財源として,近代化資金を投ずることが出来た。だから,その資金によってこそ,技術は発展しそうなものだが,事態はそう単純には運ばない。
 技術の発展のためには,まず新しい技術に対する市場の要求がなければならず,その要求に答えて技術開発や設備投資をするだけの資本の蓄積が必要である。また,機械化や自動化への刺激となる高賃金も必要である。経済政策担当者や経済学者は,これらの経済条件さえそろえば,技術はおのずから発展すると考えがちだが,それは,金が技術を発展させるのではなく,人間の頭脳や手足が技術を発展させるという事実を忘れている点で,画竜点睛を欠いている。金を使いこなせるだけの人材と組織がなければ,金はかえって,技術発展を妨げ,あるいは歪めることさえあるのである。
 ことに鉱山の場合は,自然の資源そのものを対象としており,その資源の物理的・化学的特性は,国により地域によりばらつきが多く,欧米の資源によって成功したプラントの設計や運転条件が,そのまま日本の資源に通用することは,まずあり得ない。そして,来日した高給の外国人技術者は,プラントを導入することまでは出来たが,ほとんど例外なく,満足に目的を達することに失敗した。欧米での設計や運転条件をそのまま日本に持ちこんだがための失敗である。
 最も典型的な例は,釜石鉱山(鉄山)の場合で,この鉱山は,1874年に国営となり,翌年工場建設にかかり,80年に完成したのであるが,操業開始後3ヵ月にして,燃料の木炭不足のため操業を停止し,改めてコークスを混用して82年に再開したが,今度は高炉内でスラグ(鉱滓)が固まり,いわゆる棚を吊る形になって,銑鉄は湯口から出てこず,翌83年には廃業となってしまった。
 その主要設備は,ヨーロッパの産業革命期のもので,25トン高炉2基,熱風炉3基,パッドル炉12基,圧延機5組,蒸気ハンマー2基であり,政府は1874年から83年まで,総額237万円という,当時としてはきわめて巨額の資金を投じたが,これらの設備をたんなるスクラップとして,米商人である田中長三郎に払い下げてしまったのである。当時の日本には,まだ議会はない。だから政府の失敗を公然と非難する世論はなく,政府高官の誰も責任を問われずに,これだけ巨額の国費の浪費が,闇から闇へ葬りさられてしまった。
 技術者たちが単純な計算をしただけでも,25トン高炉の維持のためには,毎日どれだけの木炭が必要か,したがって,製鉄所の周囲にどれだけの山林がなければならないか,分りそうなものだが,そのような調査も準備もなかったのであろう。ましてや,中途で運転条件を変更して,泥縄式にコークスを混ぜたりしても,満足に鉄が出てくるわけがない。
 国営鉱山は,いずれもおびただしい赤字を出したが,それでも幹部は別の部署に転じて役人稼業を続けることができる。しかし,民間の資本家はそうはいかない。数少ない民間の鉱山では,プラントの設備に関しては,国営鉱山に一歩も二歩も遅れていたが,新しい技術と古い技術とを問わず,自らの資本の許す範囲で,利用できるものはすべて利用するという流儀で,技術開発を進め,設備投資をし,人材を育成し,資本を蓄積して行った。そして,当時の民間鉱山の幹部たちは,国営鉱山の実態をよく知っており,自分たちこそ鉱山経営の目的を達しているのだという自負があった。たとえば別子銅山の広瀬宰平は,フランスの技術者であるラロックを雇いはしたが(月給は600円),技術的再編成の計画書をつくらせただけで,契約をうちきり,その計画にもとづく改革には広瀬自らが当り,次のように言い放ったのである。
知るべし,彼の所謂鉱山技術者と雖も,永らく実地に就いて十分の実験と労苦とを積むにあらずんば,未だ以て鉱業の目的と利益とを完全に済充するに足らざるものなることを。世人をして尚ほ余が言を疑はば,謂ふ往きて政府が当時にありて直轄経営せる諸鉱山事業の成績如何を検せよ。必ずや思半に過ぐるものあらん。(広瀬宰平『半世物語』上巻,1895年,45ページ)
 広瀬は,ラロックの提出した予算総工費67万3000余円のうち,外国人の手当として,その5分の1にも達する13万8100円の費目を全部削除してしまったのである。
 別子銅山は,住友資本の経営によるものであったから,ともかくも,民間にしては多額の資金が投ぜられたし,外国人技術者に,西欧風の技術的再編成の計画を作製させることが出来た。しかし,足尾銅山のように,栃木県の管理下に,鉱業権が何人かの経営者のあいだに転々と移り,1876年にようやく古河市兵衛のもとに落ちつき,その古河も豪商とは言え,資本規模では住友家とは比較にならぬ存在であれば,旧来の技術により自力でこつこつと経営して行くほかはない。
 今日の中国風の表現を使えば,明治維新前の技術は,土法技術と呼ぶべきものだが,古河はその土法から出発したのである。それでも,古河はまず,西欧風に坑口の集約にとりかかり,技術の主導権を次第に自稼人たちから自己の手へと移しはじめた。
 と言うのは,一部の官営鉱山にあっては,その近代プラントの導入にも拘らず,経営の赤字を彌縫するために,旧来の買石制度を復活させ,それが鉱山を荒廃させている事実を知っていたからである。後に足尾銅山の鉱長となった木村長七は,国営である院内鉱山(銀山)の払下げを受けるために,古河の命で同地におもむき,経営の実態を調査したが,後に当時を述懐して,次のように語っていた。
 官行時代は収支償はずと云ふ理由で鉱石は買上法を採って居りました。即ち請負掘であったのです。買上鉱石の品位は千分の一以上と云ふことでありました。斯く鉱石の品位は千分の一以上と制限せられ,而も請負掘であったのですから,坑内は次第次第に荒廃して行ったのです。(『木村長七自伝』,182-83ページ)
 当時の鉱長木村長兵衛は,一方では買石制度の範囲を徐々に狭めつつ,他方では全山にわたって計画的な探鉱を進め,ついに1881年に,鷹の巣鉱床という富鉱を発見し,銅山の経営はようやく黒字に転じた。ここにおいて,古河資本は,まず鷹の巣坑を直営下においた。それまでは,自稼人に採掘させ製錬させた末の粗銅を買いあげていたのだが,鷹の巣坑にかぎっては,坑夫から鉱石のまま買いあげるという請負方式がとられるようになった。
つづいて1883年に,横間歩鉱床というさらに大規模な富鉱を発見し,これによって,ようやく足尾銅山全体にわたる近代的な開坑計画を立てうる自然条件がととのった。全山の採掘・輸送の基軸となる大通洞の開さくが,1885年から開始された。これについて,古河鉱業が保存する当時の社内資料は,次のように述べている。
 横間歩〓大直利発見以来俄然急激ノ産鉱増加トナリ,盛山ノ基礎之レニ依リテ築レタリト云フヲ憚ラス,爾来鉱産ノ地歩益々鞏固ナラムコトヲ期シ,下底採鉱準備トシテ本山最低ノ地ニ有ノ木坑ヲ開坑シ,全山ヲ貫通セル数百条ノ〓線(鉱脈)ニ対スル大々的採鉱ヲ兼ネ,前者ノ宝庫ヲ望ムテ大通洞ヲ開鑿セントスル遠大ナル計画ヲ実行セリ,更ニ他面ニ於テハ裏山坑道ト称スル小滝坑口ノ開坑及簀橋方面ニ於テ黐木[モチキ]坑ヲ開鑿シ,以テ理想トセル足尾全山ノ開発ヲ実現セラレタリ。(『栃木県史』史料編近現代9巻,85ページ)
 ここで初めて,明治維新前の鉱山を苦しめつづけてきた湧水の問題は,本格的に解決されることになる。足尾銅山では,これまで西洋型の2種類の手押しポンプによって,最深部の坑道から順々に浅い坑道に水を汲みあげて一定の坑道に湧水を集中し,そこから坑外に排水していた。この数十基の手押しポンプを運転するために,1昼夜310余人の労働者が必要であった。それが,蒸気ポンプの据えつけによって,1888年にようやく姿を消すことになった。採鉱技術における土法から洋法への転化は,今や名実ともに明らかになってきたのである。

3 洋法土法並存の近代化(1)

先にも述べたように,明治維新の頃は,技術史においても経済史においても,産業革命以来の変革期に当っていた。だから,国営企業であれ民間企業であれ,欧米の産業革命期の技術を導入し,それを消化する暇もなく,19世紀末から20世紀初頭の第2次産業革命期の技術を導入しなければならなかった。鉄鋼技術について言えば,1880年に完成した釜石製鉄所は,産業革命期特有の25トン高炉2基,パッドル炉12基を擁していたが,そのわずか21年後に完成した八幡製鉄所では,高炉は大型化して,日産160トンの能力を示し,パッドル炉はすでに無く,代ってベセマー炉やジーメンス炉が登場していた。
 足尾銅山の技術と経営が,いよいよ近代化の軌道にのりだした時もまた,銅の国際市場において,大きな転機が訪れていたのである。1880年代の初めには,アメリカにおける西部諸州の銅山の開発が進んで,銅の世界的な生産過剰は明らかだったが,1886年に,イギリスやフランス,ベルギーなどで,あい次いで,電信線に対して従来の鉄線に代るに硬銅線が採用されだしてから,電気機械の全面的な登場による電線需要が現れてきて,銅の市況は好転した。古河市兵衛は,この新たな波に乗って,イギリスのジャーデン・マジソン商会と長期契約を結び,これによって銀行資本による金融の道を確保することが出来た。それは手押しポンプが消滅する1888年のことであった。
 ジャーデン・マジソン商会を通じて,古河はドイツのジーメンス電機会社に依頼し,早くも1890年に水力発電所を建設した。その電気機械のために銅の需要が増大したのであるが,その需要に答えるためには,また電気機械が必要なのであった。この水力発電所によって,80馬力のポンプ,25馬力の捲揚機が動き,25馬力分の電灯がともされた。蒸気ポンプは早くも電気ポンプに変ったのである。
 そして,この年に足尾銅山での製錬の近代化が開始された。国営銅山では発足早々に,別子銅山でもいち早く,煉瓦溶鉱炉が導入されていたが,足尾では依然として土法たる吹床による製錬を維持していた。中国風の表現で言えば,土法と洋法の併存としての二本足の工業建設をやっていたことになるが,足尾が煉瓦溶鉱炉の導入に踏みきらなかったのは,生産量が少ない時期には,その必然性が薄いことにもよるが,煉瓦溶鉱炉の操業には高度の熟練が必要だったことにもよる。その最大の原因は,溶鉱のさいに生ずるスラッグ(主成分はFeS・Sio2)が炉壁の煉瓦中のケイ酸とはげしく反応して,炉壁を侵蝕することにあった。けれども,炉壁の侵蝕を防ごうとして,炉内温度を下げれば,今度はスラグをつくるべき酸化亜鉛や酸化鉛がケイ酸と十分に反応せず,炉壁に付着したり,炉内に棚を吊ったりする。炉内の状況に応じての制御はきわめて微妙で,欧米とは異なる鉱石を相手にしているのであるから,安定した操業は,いっそうむずかしかった。それぐらいなら,手なれた吹床での製錬の方が頼りになるというのが,木村長兵衛や木村長七たちの考えであったのだろう。それに民間資本家は,大胆果断のようでいて,西欧技術の導入に対して,時に必要以上の逡巡を示すのである。
 1881年頃の古河市兵衛は大の機械嫌いであり,蒸気力によるクラッシャー(粉砕機)を使うべきところをハンド・クラッシャーに,蒸気力利用の送風機を用いるべきところを,足踏みの革ふいごにという風であったと言われる。別子銅山でも,広瀬宰平は,ラロックが蒸気捲揚機を使用すべしと規定したところでも,「精神一到何事か成らざらん」としゃにむに人力で押し通したりして,銅山の基軸たるべき東延斜坑の完成をはるかに遅らせるという失態を演じもしていた。
それはともかく,煉瓦溶鉱炉のむずかしさは国際的にも問題になっており,アメリカのデトロイト産銅会社は,1882年に,角型水套式溶鉱炉を実用化して,炉壁の侵蝕の問題を解決した。10センチ余の間隔を持つ2重の鉄板のブロックを数個ないし十数個結合させて炉壁とし,その2枚の鉄板のあいだに冷却水を循環させて炉壁の冷却をはかるというのが,水套式溶鉱炉の設計の要点であった。
 水套式溶鉱炉では炉壁の損傷はきわめて少なく,炉内に棚を吊っても炉頂から鉄棒で比較的容易に処理できたので,炉の制御ははるかに楽になった。足尾銅山の塩野門之助は,その後を追って,独自に水套式溶鉱炉を製作し,試験の結果が良好であったので,水力発電所の建設の年――1890年に,水套式溶鉱炉12基を建設し,在来の48座の吹床を一掃することが出来た。製錬技術の本格的な近代化が開始されたのである。
 銅鉱石の主成分は,硫化銅(Cu2S),硫化鉄(FeS),無水ケイ酸(SiO2)の3つであるが,溶鉱炉においては,まず硫化銅を主成分とする鈹(かわ,matte)をつくる。次に反射炉で再加熱して脱硫し,銅鈹を粗銅とするのであるが,明治維新前の日本の土法では,これについて,2つの技術があった。足尾銅山や東北の諸銅山では,奥州吹が実施されていた。まず吹床で得られた銅鈹を焼窯で焙焼して脱硫し,得られた焼鈹をもう1度吹床で加熱溶融して粗銅に還元する。もう1つの技術は,中国や四国で実施されていた山下吹あるいは伊予吹である。ここでは最初に得られた銅鈹を,2度と焙焼することなく吹床中に装入し,木炭によって加熱溶融をつづけながら,次第に強風を吹きあて,まず硫化鉄を酸化させて酸化鉄とし,それと床灰中のケイ酸と結合させてスラグをつくらせ,これらのさいの発熱反応を利用して,残留している硫化銅になお送風をつづけ,硫化銅を酸化銅に酸化させた後,粗銅に還元するのである。鈹から粗銅をつくるこれらの一連の操業は,とくに真吹と呼ばれていた。
 山下吹は,このようにして,奥州吹にくらべて操作が1工程少なく,同時に焙焼に要する燃料が不要であり,そのうえ,装入原料の発熱反応をうまく利用しているので,吹床中の木炭消費量もまた少なくて済む。このために,足尾銅山では,1885年に操業をすべて山下吹に切りかえ,また他の東北の諸銅山も,あいついで山下吹を採用していた。つまり,いずれも西欧の近代技術の導入を急がず,さしあたり土法そのものの改良をはかったのである。
 当時のヨーロッパでは,銅鈹を再度焙焼してからその焼鈹を反射炉あるいは溶鉱炉で粗銅としており,これは日本の奥州吹の諸工程に対応していた。だから,吹床という致命的な弱点を持ってはいるにせよ,真吹の利点は十分に評価して良く,足尾をはじめ,別子その他の銅山が,銅鈹の製造に溶鉱炉を採用した後でも,錬銅では依然として真吹床に依存していたことは,技術的に根拠のあることであった。洋法と土法との目的にかなった結合と言っても良いであろう。2本足の工業建設は,必ずしも中国独自のものではない。それは,いつの時代,どこの国にも見られる技術発展の自然の姿である。
4 洋法土法並存の近代化(2)

さて,1855年に,イギリスのベセマーが,転炉製鋼法の発想に到達し,鋼鉄の大量生産の時代を切りひらいた後,同じ発想が,銅鈹からの粗銅の生産にも適用できないかという課題が生じた。ベセマー製鋼法においては,溶銑をみたした炉の底から強く送風すると,溶銑中の炭素と酸素とが反応して一酸化炭素を生ずるという発熱反応が起り,しかも,この際,ガス容積は2倍になるので,湯はいっそう激しく沸騰し,反応が促進されるのであった。
 銅鈹の場合でも,同様なシステムが十分に考えられた。そして,それは真吹操業のさいの化学反応と,ほとんど同一のものであった。つまり,溶融銅鈹に強風が吹きこまれれば,銅とイオウとの親和力はきわめて強いので,この結合はなかなか切れず,さしあたり,硫化鉄が酸化されて酸化鉄となり,酸化鉄がケイ酸と結合するという発熱反応が起って,スラグが生ずる。こうして大部分の硫化鉄が酸化鉄に転化した後,なお強力な送風をつづけていると,主成分たる硫化銅が酸化銅となり,ついで金属銅となるという発熱反応が生ずるのである。
 塩野門之助は,水套式溶鉱炉の実験にとりかかる以前に,フランスでマンネスがベセマー錬銅法に成功し,しかもその原理が日本の真吹とほぼ同一であることを知って,強く興味を惹かれた。そして,先に述べたように,まず水套式溶鉱炉の操業に成功すると,アメリカに渡ってベセマー炉の実情を見学し,帰国後ただちに工場建設にとりかかり,1893年には操業を開始した。こうして水套式溶鉱炉により鉱石から銅鈹をつくり,ベセマー炉により銅鈹から銅をつくるシステムが実現したが,この全工程は2日で足りるようになった。従来の土法ではじつに32日を要していたのである。
けれども,ベセマー錬銅法は,水套式溶鉱炉とは違って,急速に他鉱山に広がらなかった。それは当時,銅の生産量は一般にまだ低く,1炉日産およそ370キログラムの真吹床をもってしても,いちおう十分であり1,日産2トンのベセマー炉を使用しなければならないという切迫した要求は,必ずしもなかったからである。そして,他鉱山では,なお真吹法の改良が試みられた。ベセマー錬銅法のように,溶融銅鈹を直接に吹床に装入する試みが吉岡銅山で成功し,従来銅鈹の30パーセントを要していた木炭は,わずか5~6パーセントで足りるようになった。また,近代技術化として溶鉱炉や反射炉で錬銅を行う試みもあったが,これらは結局は元の真吹操業に戻ってしまった。真吹の生命は根強いものがあったのである。
 次に,粗銅はなお精銅に転化される必要があった。電気機械の材料としては,とくに高い純度が要求された。ヨーロッパでは,もともと粗銅の精製は反射炉によって行われていたのだが,1856年に,イギリスのエルキントンによって,粗銅を陽極,電気銅を陰極とし,電解浴を硫酸銅溶液とする銅電解精製(並列式)が試みられ,1886年には,アメリカのハイデンによって直列式が試みられた。電気精銅は反射炉精銅にくらべて,銅の純度も高く,かつ電解スライム中に金銀をふくんでいる場合には,それを容易に採取できるので,世界の技術の大勢は,急速に電気精銅へと動いていた。
 ところで,日本に反射炉精銅が導入されたのは,1873年のことであり,大阪造幣局が貨幣の鋳造のために反射炉を据えつけたのであった。古河では,1884年に,本所溶銅所で反射炉精銅を開始したが,じつは当時の大多数の鉱山では,粗銅のまま国外に輸出するか,あるいは明治維新前の南蛮絞りという土法で銅を精製していたのである。
 南蛮絞りとは,1591年に南蛮人が住友家の祖先泉屋理右衛に伝えたとされ,元はドイツの土法であるが,日本の冶金師によって万事日本流に工夫されたものと言われる。その銅精製の方法は,吹床(南蛮炉)中に粗銅を溶融し,ついで鉛を加えて,粗銅中の金銀をそれに吸収させて貴鉛合金をつくり,その後に,海綿状になった銅塊から,半溶融状態の貴鉛を絞りだすというものであった。残留した絞り銅は,さらに真吹法により,鉛その他の不純物を除去して精銅としたのである。当時の阿仁銅山のこの精銅の品位は,97,98パーセントであった。
 南蛮絞りは,金銀を分離し採取できることはもとより,ヒ素,アンチモニー,ビスマスなどをほとんど完全に除去できるという,すぐれた特色を持ってはいたが,1炉の生産量は低く,そのうえ南蛮絞りだけでは,得られた銅の純度は致命的に低かった。鉱山の近代化にともない,大量採掘が進んでくると,鉱石中の夾雑物の種類も量もふえざるをえなかったが,南蛮絞りでは,電気機械工業が必要とする高純度の精銅を大量に供給することは出来なかった。世界の大勢が,反射炉精銅から電気精銅に移りつつあるのであれば,近代化の先頭を行く足尾銅山が,他に先がけて電気精銅を採用するのは当然であった。古河は,1888年に,ジーメンス電機会社に電気精銅用の発電機やボイラーを発注し,本所鎔銅所で試験をくりかえした末,1897年に,116個の電解槽を擁する電解工場を建設,翌年操業を開始した。
ちょうどこの頃,1896年に,足尾銅山では大通洞が完成し,1897年には電気さく岩機が導入され,坑内には電気機関車が走り,また選鉱においては,ついに維新前の笊揚[ざるあげ]作業が廃止され,ここでも土法は消滅した。
 足尾銅山の坑外輸送においては,1885年までは,上州路であれ日光路であれ,貨物の大半は馬の背で運ばれていたものだが,1888年には,まず日光路が2間幅の馬車道に拡幅された。ついで1890年に,細尾峠をこえる高〓空索道1号が,蒸気動力によって運転されはじめ,高〓空索道は,銅山周辺の各地に展開するようになった。その2年後には上州路に,翌年には日光路に馬車鉄道が走るようになった。足尾鉄道が全通するのは,ずっと遅れて,1914年のことである。
 以上のようにして,足尾銅山が1876年に古河の手中に入って以来,まずゆっくりと近代化が動きだし,1882年と84年に,あいついで富鉱が発見されてから近代化の速度が早まり,つづいて電気機械工業の勃興にともなう銅市場の拡大によって,さらに近代化は加速され,19世紀末には,日本ではもとより,国際的にも第一級の技術的装備をととのえたのであった。足尾銅山は,1884年には,すでに日本全体の産銅の4分の1をこえる銅を生産し,以後19世紀末まで,だいたいにおいて,30パーセント前後のシェアを維持しつづけたのである。

5 人間関係の近代化の遅れ

足尾銅山の近代化は,きわめて短期間に進んだ。それは,一つは,欧米とは違って,産業革命期の技術よりも,第2次産業革命期の技術をただちに全面的に吸収できたことによっている。坑内輸送であれ,排水であれ,捲揚であれ,照明であれ,電力は蒸気力にくらべて,はるかに容易に機械化を推進し,しかも設備投資,人件費とも安価で済んだ。これは,歴史の後から歩く者の方が,先を走る者よりも,たやすく先進水準に迫りうることを示しているが,注目すべきは,欧米の先進技術を大胆に導入する一方で,旧来の土法技術をいちがいに放棄せず,先進プラントと平行させつつ,人材の育成と資本の蓄積をはかりつつ,一歩一歩外国技術を消化する
体制をとったという歴史的事実である。自己の経済的・技術的能力に応じて,土法技術を温存し改良し,もはや土法技術では市場の要求に答え得ない限界に到達して,はじめて近代技術への転換をはかるという経営の流儀が,経営を着実にさせ,かえって近代化を円滑に進めたと考えられる。
 これと対照的な近代化への試みは,先に述べた国営企業の場合である。国営企業は,民間企業にくらべて,確かに資金は豊富であった。しかし,経営者の能力は,その資金にふさわしいものではなかった。だから,日本の自然や人材の条件を考慮せずに,外国技術を形式的に導入して失敗し,浪費をひきおこし,資金を食いつぶし,近代化は遅れたのである。
 しかし,おびただしい浪費があったとは言え,国営企業において,技術者や労働者は近代プラントに取り組み,苦闘をかさねていたのであるから,そこで高い授業料を払いつつ,人材が育成されたこともまた,事実である。だから,国営企業の経営の破綻によって,1885年に政府は工部省を廃して,その傘下プラントを民間資本に払い下げざるをえなくなって,人材と設備とが民間資本の手中に帰すると,それは,民間資本の技術と資本の蓄積を,飛躍的に押し進めることにもなったのである。
 古河の場合で言えば,これまでは傘下の各鉱山の主宰者と言っても,いずれも生糸畑の出身であり,市兵衛の指導のもとに鉱山の実地教育を速習した程度であり,技術者と言えるほどの者は,生野・佐渡の鉱山伝習所で実習した者が2名いるだけであった。古河は阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを申請して許可されたが,このために,西欧の近代技術をいちおう身につけた技術者が多数古河傘下に加わり,足尾の技術的条件を大きく高めることになった。大富鉱の発見以来の近代化の加速は,このような条件なしには考えられないであろう。
 さて,国営企業の払い下げによって,日本の諸鉱山の近代化は,ようやく本格化したのであるが,それとともに,鉱山行政そのものも変らざるをえなくなった。1890年は,足尾の水力発電所の建設の年であるが,それはまた,第1回国会開設の年であり,日本坑法に代って,鉱業条令が定められた年でもあった。技術や経営の近代化と政治の近代化とは,歩調をそろえて進んだのである。
 日本坑法では,鉱山の採掘権は政府の集約に属すとされていたが,鉱業条令では,その目的を「鉱業上国民ノ利益ヲ確定シ,鉱業発達ノ道ヲ開キ,鉱業人ヲ保護奨励スル」こととしていたから,鉱物は政府の所有から国の所有へと変り,官民における鉱物の試掘あるいは採掘の区別はなくなった。また日本坑法では,鉱業そのものが政府に対する請負であったので,鉱業を担保として金融の道をはかることが出来
なかったが,鉱業条令では書入抵当を認め,債権者に対しても法律上の保護をあたえることになった。
 こうして,鉱業条令の公布は,鉱業の自由な発達にとって,従来よりはるかに広い天地をあたえることになったから,足尾銅山のみならず,他の銅山の経営にも大きな影響をあたえた。別子銅山は,1883年までは,足尾をはじめ他銅山を引き離して,その技術においても生産量においても,日本随一の銅山であったが,その翌年からの足尾の急速な発展に遅れをとって,たちまち追いこされ,格差を広げられていた。しかし,1890年あたりから,久しく鈍っていた近代化の速度をとり戻したのである。ラロックの提案した蒸気捲揚機を使わず,手掘りにより遅々として進んでいた東延斜坑の開さくは,1890年から本腰が入れられ,ようやく蒸気捲揚機を据えつけて,強力に押し進められることになった。1891年には高〓空索道が建設され翌々年には,銅山から新居浜に至る鉱山専用鉄道も開通して,これより後,製錬の中心を新居浜に移して行く体制がととのえられた。
 三菱資本が銅鉱業に進出してきたのも,この頃である。三菱は,1893年には尾去沢を,1894年には槇峰を,1896年には荒川を,それぞれ手中におさめ,吉岡とともに4銅山を掌握して,古河・住友の大銅資本と肩を並べるようになった。そして,三菱の傘下に入った諸銅山は,足尾や別子の後を追って,銅山の近代化を急いだのである。
 しかし,この頃の中級鉱山の近代化は,これらの銅山にくらべれば,一段と劣るものであった。前にもふれたように,多くの中級銅山では依然として真吹操業が行われており,南蛮絞りも続いていた。ましてや人員4,50名から200名足らずの小鉱山においては,なお明治維新前そのままの状態を残していた。坑道の多くは依然として幅3尺,縦4尺の,中腰ないしは這ってのほかは歩行できぬものであり,12,3歳の少年がエブという籠を背負って鉱石を運搬していた。労働賃金の極端な安さが,このような土法を温存させもしていたのである。
 足尾銅山自身について見ても,その労働条件は必ずしも近代的なものではなかった。近代化の過程で,なるほど買石制度は廃止されたが,労働者は古河資本の直轄のもとにはなく,飯場頭の支配下にあり,飯場頭は労働者の募集や雇用,監督などを,古河から請負っていたのである。1907年刊行の農商務省鉱山監督局編の『鉱夫待遇事例』には当時の足尾銅山について,次の記述がある。
 本鉱山ハ飯場制度ニシテ頭役及組頭ナルモノヲ置キ,前者ハ坑夫・支柱夫・進鑿夫・坑内運搬夫ヲ支配シ,後者ハ其他ノ鉱夫ヲ支配ス,而シテ其職務ハ鉱夫ヲ傭入レ,部下鉱夫ノ飲食物其他日用品ヲ給与シ賃金ノ代理受取ヲ為シテ之ヲ分配シ(傭入後三ヶ月ニ至リ其鉱夫ヲ独立セシメ物品ノ供給及賃金ノ支払ヲ受ケシムルモ),鉱夫ノ保護監督ヲ為ス,其報酬ハ会社ヨリ頭役ニ職頭手当ト入坑鉱夫取扱手数料ヲ給ス,其他独立鉱夫ハ一ヶ月間ニ於ケル所属坑夫ノ入坑工数ニ応シテ支給ス。(前掲『栃木県史』,301ページ)
 飯場制度は納屋制度とも言われるが,それは,鉱山労働者の寝起する住居が納屋と呼ばれ,労働者はその納屋において日常的に組頭などの監視下におかれていたからである。近代的なプライバシーは,このような飯場制度のもとではあり得なかったのである。納屋の多くは平家木造建で,1棟を縦に割って左右に分け,それぞれ間仕切りをして各人の住居とされた。当時の足尾では,441棟の納屋に2517戸,5867人の労働者が収容され,1人当り坪数は2.9坪であった。

6 近代化と鉱毒問題との関係

 銅山の諸設備は近代化したが,人間関係は決して近代化しておらず,労働者は飯場制度という共同体のなかに組みこまれていて,近代的なプライバシーも独立人格も認められていない以上,鉱山から排出される硫酸銅を含む坑内水や,製錬所から排出される亜硫酸ガスが,下流の田畑を不毛にし,魚類を殺し,山林を広汎に枯らして,渡良瀬川流域農民に重大な被害をもたらす可能性について,もともと古河資本が無頓着であったのも,当然であろう。
 1877年の足尾銅山での銅生産量は,わずか56トンにすぎなかったが,横間歩大富鉱の発見の翌年――1884年には,それは2308トンにはねあがり,1891年には6085トンに達していた。銅山の近代化によって,これだけ生産量が増大すれば,それだけ硫酸銅水も亜硫酸ガスの排出も増大するわけで,それらの防止に何の技術的手段も講じられていなかったから,環境破壊はたちまち激甚なものとなった。
 手押しポンプが蒸気ポンプに代った1888年に,渡良瀬川は大洪水を起し,毒水を含んだ水は下流田畑の土壌に浸透して,それを不毛な土に変えてしまった。その2年後に,またも洪水が発生し被害は拡大したが,この年は,銅山では水力発電所が完成し,48座の吹床が消滅し,12基の水套式溶鉱炉が登場した年であった。それはまた,日本の議会が発足した年であり,鉱業条令が制定された年でもあったが,この年に,銅山の鉱毒で打ちのめされた吾妻村農民は,「製銅所採掘停止」を栃木県知事に上申したのであった。田中正造が,第2回の国会で足尾鉱毒事件に対する第1回の質問を行ったのは,この翌年である。
 そして,真吹からベセマー錬銅への転換が行われた1892~93年には,古河資本と被害農民は第1回の示談に入ったのである。その結果は,農民側は,いくばくかの補償金を手にはしたが,「契約人民は何等の苦情を唱ふるを得ざるは勿論其他行政司法の処分を乞ふが如き事は一切為さざるべし」と,古河に対し誓約せざるをえないことになった。
1897年における本所鎔銅所での電気精銅工場の建設は,銅山設備の近代化の総仕上げのようなものであったが,この前年,その年の大洪水にともなう被害に憤激した農民は,「足尾銅山鉱業停止請願」のビラをまき,電気精銅工場が動きだした翌年には,いわゆる押し出しとして,東京への大デモンストレーションを行ったのであった。政府はようやく足尾銅山鉱毒調査委員会を内閣に設置し,その答申を受けて,5月27日に,古河に対し鉱毒予防工事の実施を命じた。しかし,それは,足尾銅山の操業は断じて停止しないという政府と古河資本との決意を示すものであった。足尾鉱毒問題は,銅山近代化の白熱的進行と,まったく歩調を共にしており,この状況下では,古河資本があらゆる手をつくして操業停止を回避する術策を弄したことは想像にかたくない。
 技術と経営の近代化にともなって公害を発生させ,大きな社会問題をひきおこした主要な鉱山は,足尾のほかにも別子,小坂,日立などの諸鉱山があり,今日でも依然として問題をおこしている。しかし,そのような環境破壊は,欧米ではすでに先例があり,被害住民の圧力を受けて公害防止技術も開発されているから,本来なら後から進む経営者も技術者も,先を行く者にくらべて環境破壊を防止できる技術的可能性を持っていたはずである。それにも拘らず,そのような技術の導入にはまったく無関心で,被害住民たちの激しい抗議を受けても,なおかつ公害防止技術の導入や開発に冷淡であるというのは,一つは利潤のみを追う資本特有の非人間性の為せるわざであり,いま一つは,飯場制度に見るような,基本的人権の欠落する共同体意識の為せるわざなのであろう。
 欧米の先進的な技術の導入と,経営の近代化において,日本の民間資本は国営企業よりずっとすぐれていたと書き,足尾銅山の近代化の速度の早かったことを指摘したが,その近代化の早さは,たんに電力革命の時期にさしかかっていた歴史的な好運や,洋法・土法並存の堅実な経営によるばかりでなく,そもそも公害防除投資をまったく省略してしまった経営政策によるのでもあろう。逆に言えば,足尾鉱毒事件をひきおこすような経営の体質であったからこそ,迅速な近代化が可能であったとも言えるのである。これは,第2次世界大戦後の日本の異常なほどの高度経済成長についても言えることである。日本は公害の先進国であったからこそ,あのような高度成長が可能だったのである。

7 日本の銅山の衰退

明治維新以後の歴史が示すように,日本の技術や経営の近代化において,鉱山はその先頭を切ったのであるが,その鉱山において人材が育成され,資本が蓄積されたので,鉱山はそれ以後の日本の技術と経営の一つの源流となっていることが注目される。足尾銅山で言えば,古河資本は後に電線製造のために古河電工を起し,重電機の製造のために,ドイツのジーメンスと提携して富士電機を,通信機の製造のために同じくジーメンスと結んで富士通信機を起した。一方,別子銅山では,電線製造のために住友電工を,銅加工のために住友伸銅(後の住友金属)を,通信機製造のためにアメリカのウエスタン・エレクトリックと提携して日本電気を経営した。富士通信機と日本電気は,逓信省(今日の電電公社)に電話関係機器を納入する二大メーカーとなり,今日ではいずれもコンピュータ開発の先頭に立っている。
 ところで,当の銅山の技術と経営は,第1次世界大戦後,貧鉱の大量採掘の段階に入り,足尾や日立では,手掘りは全廃され,さく岩機万能の時代に入ってきた。貧鉱の大量採掘にともない,選鉱も変らざるをえなくなった。鉱石は十分に粉砕して粉鉱とし,足尾では1925年以来,それを浮遊選鉱にかけるようになった。浮遊選鉱法では,選ぶべき鉱石粒が,浮選剤の気泡に付着して浮き上り,それを分離するのであるが,このシステムによって,第1次世界大戦前までは,銅成分2~3パーセントまでが,鉱石を採掘する稼行限度であったのが,0.7パーセントにまで切り下げることが出来るようになった。
 このために,製錬においても,粉鉱を焼結し,自動給炭し,高圧で操業する溶鉱炉の時代になった。ベセマー錬銅にも変化が生じた。それまでは,酸性操業だったが,1920年に,足尾で塩基性操業に転換された。それによって含銅率の低い銅鈹を処理できるようになった。
 1920年代の末から30年代の初頭にかけては,当時世界を蔽っていた恐慌の切り抜け策として,日本でも産業合理化の旗が高々とかかげられた時代であった。銅山でも合理化が大きな課題となった。1907年には,日本中で7000台のさく岩機が動いているにすぎなかったが,1928年にはすでに28万台に達しており,この趨勢はさらに高まろうとした。しかし,1931年に満州事変が勃発すると,日本経済は準戦時体制に入り,厖大な軍需が現れ,企業にとっては,つくれば売れる時代となった。そのために,合理化のスローガンは,たちまち引っこめられてしまった。鉱山では,基本的な開坑計画や探鉱をおざなりにして,手当り次第に掘るという乱掘の傾向が生じ,鉱山は荒廃しはじめた。そして,ついには生産性はもとより,生産力そのものも低下し,敗戦の一つの重要な原因となった。つくれば売れるという状態は,技術と経営にとっては,必ずしも好ましい状態ではないのである。
 戦後は,アメリカ型合理化が,日本の全産業に入ってきて,鉱山でも歴史上はじめて本格的な合理化が開始された。鉱山では,生産性の向上,実収率の引き上げ,副産物の回収利用の3つの方向が,とくに推進された。
 採鉱においては,作業の標準化が徹底された。また,軽量さく岩機が導入されて,従来は1台のさく岩機に2人の労働者がついていたのが,1人1台の体制となった。そして,ジャンボ(大型掘さく機械)とローダ(積込機械)と大型鉱車とを組合せて,一方[ひとかた](8時間労働)中に,さく岩,発破,運搬その他の付帯作業を,2~3人の組でやってしまうという1シフト1ラウンド・システムが採用されるようになった。
 選鉱では,浮遊選鉱の前に重液選鉱を実施するというシステムが普及しはじめた。重液選鉱とは,フエロシリコンなどの微粒子を,目的比重に応じて,適当に水中に懸濁させて擬似重液をつくり,これに鉱石を投入すると,この重液より比重の軽いものは浮くから,これを取りだして廃棄し,金属分のみを沈降させるという選鉱法である。この後,沈降した金属分を改めて浮遊選鉱にかけるのであるが,その事前に,20~60パーセントの廃石を,塊状ないしは粉状で除けるので,浮選の処理能力は増大し,脈石の無用な粉砕はしないで済む。重液選鉱によって,浮選への給鉱品位は,20パーセントから50パーセントは向上し,各種原単位は低下した。
 製錬においては,第1次世界大戦以来,粉鉱を焼結鉱に変えてから溶鉱炉に装入するシステムがとられていたのが,小坂,足尾,四阪島(別子),日立の諸鉱山で,それぞれ独自の新しいシステムが開発されるようになった。共通していることは,焼結工程の排除,イオウ分の回収率の向上,コークス燃料の低減などであるが,小坂鉱山の場合は,アメリカから流動焙焼炉を導入し,それを小坂特有の黒鉱の処理に適用したところに特徴がある。黒鉱は銅鉱物や亜鉛鉱物を複雑に含む鉱石であるが,それらの混合精鉱を流動焙焼したうえ,酸浸出し,その溶液の電解によってまず銅金属を得,次にその尾液から亜鉛金属を電解製造するのである。

足尾銅山では,フィンランドからフラッシュ溶錬法を導入した。その独特の形状の自溶炉に,粉鉱を熱風とともに装入すると,鉱石は瞬間的に焙焼と溶錬とを共に完了してしまう。排ガス中の亜硫酸ガスの濃度はきわめて高いから,モンサント式接触法で,能率よく硫酸が回収される。
 銅鉱石においては,もともとイオウの含有率は高く,したがって濃い亜硫酸ガスが発生するので,その処理はかえって容易である。戦後の民主主義の高揚によって,イオウの回収技術は一段と完成の域に近づいたと言えるであろう。
 だが,各鉱山が独自の高能率の技術をはなやかに発展させ,公害防止技術を高めているその時点で,日本の銅鉱山には,きわめて重要な転機が訪れた。新しい技術は,いずれも従来よりさらに大量生産型の技術であるため,生産量の増大にともなって,国内の銅鉱石の不足がめだってきた。このため1955年の輸入鉱は,国内鉱の10パーセントであったのが,わずか2年後には50パーセントにも増大した。日本の銅製錬は海外鉱の製錬を考慮せずには成りたたないような形になってきたのである。
ついで,国内鉱と海外鉱との価格差が次第に開いてきた。初めは,海外鉱との競争に耐えるように,含有量の高い鉱床部分から優先的に採掘をすすめていたので,後には厖大な低品位鉱床のみが残るようになり,それが国内鉱のコストを押し上げたのである。歴史ある銅山の閉鎖は,1970年代において目立ってきた。足尾銅山,別子銅山とも1973年に閉山された。海外から銅鉱石に代って銅地金が全面的に輸入されるようになるのも,時間の問題である。