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食における日本の近代化

著者名: 大塚力
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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 目 次

序 言・・・・・・・・・・2

Ⅰ 大量調理と外来技術との関係 その1・・・・・・・・・・4
Ⅱ 大量調理と外来技術との関係 その2・・・・・・・・・・14
Ⅲ 学校・職場給食の問題と背景・・・・・・・・・・20
Ⅳ 食物調理法・調味料の標準化・・・・・・・・・・30
Ⅴ 既製食・外食産業とその階層・・・・・・・・・・38
小括 ・・・・・・・・・・47


 序 言

 歴史における近代という時代区分を政治的事件をもって境とすれば,日本の場合,王政復古を内外に宣言した明治元年(1868)とするのが妥当であろう。この時をもって当時の生活が急変したわけでなく,人々は相変らず旧時代と同じ生活を営み続けたことはいうまでもない。ただ幕末開国以降,諸外国公使らの度かさなる勧奨により外国米が輸入され,たとえ飢饉はあっても餓死者が皆無に等しくなったことは,注目すべき重要事項である。このことを前提としてであるが,食嗜好の個人主義というべき小なべ立てならびに外食(とくに集団外食)の2が漸次普及発達したことは,これまた注目すべきであり重要事項といえる。以上3点,つまり餓死者の皆無,小なべ立て,外食の3についてであるが,このうち餓死者の皆無を前提としての後2者が,摂取者の立場からの食の近代化の考察基盤となる。かかる立場から設定したテーマが本報告の5章である。現在盛行をきわめているというフード・サービス産業の内訳は,食品小売業,給食産業,外食産業の3に大別されるが,これらはこの5章に単一に,あるいはまた複合的に関連するわけである。
 昭和30年(1955)代以降の高度経済成長期からこのかた,わが国はますます工業化が進み,諸物資があふれてきた。食生活の面においてもそれは例外ではない。国産品と肩をならべて外国から輸入されるあらゆる農産物,水産物,およびその加工品,その他厨房用機器なども多種多数にのぼり,場合によっては国産品より輸入品のほうが安価であることは,食における国際化を物語っているわけである。こうした大変容の実情について考察に際しては,わが国の特殊性を配慮すべきである。
 まず第1は食糧需給事情についてであるが,昭和53年(1978)代における穀物自給率37%という,先進国として最下位にあるという特殊事情である。このことは幕末期における食糧自給事情に同じであり,したがって,餓死者皆無を前提としての現行の食における近代化であり,食の繁栄ということに通じるのである。
 第2は料理法,ひいては食べものの特殊性についてである。わが国特有の食材料の味を極度に生かすということからすれば,原理的には生食がもっとも端的な料理法である。刺身しかり,生玉子を飯にかけて食べることまたしかりであるが,食法のみならず一般に外国人にとって奇異に感ぜられるようなものを摂取している。くしゃくしゃした米の飯をなにも味付けせずに食べることから始まって,コンブ,なめ味噌,味噌汁,糠味噌漬,タクアン漬,魚の干物,焼魚,アズキのマンジュウ,ワラビ,ゼンマイ,塩辛,糸引納豆,ワサビ,ダイコン等々,枚挙にいとまない。日本人の食べるものは今にいたるまで,世界的には全く特殊なのであり,孤立的である。このことは食べものの臭いという点からも外国人,ことに欧米人から拒否される原因となっている。前提の食物群からすれば,米の飯がまず異臭を放つとされる場合がある。なめ味噌,味噌汁,糠味噌,梅干なども同じであるが,糸引納豆については,この食習のない関西人にとっては,同じ日本人であっても,たまらないいやな臭いのする食べものだとされている。近江の鮒ずし,伊豆のクサヤの類も同じである。
 第3は一汁一菜についてである。現在われわれの眼前に進行している食における近代化なるものは,表層面の変化であり,日本食のパターンは,米飯を主食とする味噌汁と漬物の一汁一菜にあるということで,これを台にしての食の展開が現在も進行しているのである。日本の経済政策が,ひいては農業政策が,米作を基本的に否定しないかぎり,上掲のパターンは変らない。
 第4は食の洋風化についてである。洋風化はあくまで洋風化であり,完全に欧米の食に入れ替るものではなく,程度の差こそあれそれは模倣にすぎないということである。考察に際し錯覚をおこさぬよう注意すべきである。
 第5は食事容態についてである。元来,日本人の食事は静かに黙々として語らず,食べものをいとおしみ,神すなわち自然に対して恐れおののくがごとく,感謝しつついただいたということであり,米食民族に共通するがごとき姿勢が,今も日本人の日常生活の食の底流に潜んでいるということである。畳の上に座食で粗末な一汁一菜,そして箸をもって黙々と食事する,少くともそれを善とするも若者に語らざる広範なる老年を中心とする階層があることを忘れてはならない。食における老年無視というのが現況である。
 食の近代化は他と同じく文明開化以来の意識におされ,欧米志向の模倣につぐ模倣のすえに遂行されたものが多く,本報告でいえば,炊飯技術など米に直接関係するもの以外はすべてであるといってよかろう。受容に際し変容するのが文化伝播の常であるが,広く歴史的にみて後進国であったわが国が外国文化とくに食における受容に際して,上掲5点が変客要因の規制的条件になったことは否定できないであろう。
Ⅰ 大量調理と外来技術との関係 その1

 1 米と一般炊飯法
 日本の歴史は米の生産関係の主導権を握るものが天下を支配してきたといえる。言いかえるならば,米を媒体とする階級闘争のあけくれが日本の歴史であった。かくして,米は生産手段の中心となる田地田畑を保有する支配階級の常食であっても生産者である一般農民にとって,米は主食であっても常食たりえなかったのであろ。たとえば,鎌倉時代(1192-1330)においては,米飯と味噌汁と漬物という献立は,上流の貴族・僧侶にのみ許された美味であり,これが支配階級の武士から都市民にいたり,最下級の労働者にいたるまで,米飯に親しむことが出来るようになったは江戸時代末期である。
 序において述べた通り,幕末における外国公使たちの勧奨により,江戸幕府が外国米を輸入し,以後時の政府が必要に応じて,その輸入をつづけてきたことにより,たとえ飢饉があっても餓死者が皆無に等しくなったことは画期的な事実であった。このことは,さらに明治27,8年戦後(1894-95),同37,8年戦後(1904-05)の勝利による台湾ならびに朝鮮の植民地化と稲作推進による準内地米の本国移入により,より多くの日本人が米を常食化することが可能となったことにつながるのである。この場合,支配階級が内地産の日本人にとって美味なる米を摂取し,生産者である農民がまずい外国米を摂取していたことはいうまでもない。
 東京郊外のある農村では,従来大麦を常食としていたのが,明治37,8戦後において軍馬の飼料として大麦が政府に買い上げられて,かわりに外国米を摂取するようになったというような,米食への転移の歴史を指摘することができる。このように米食といっても,その内容は多様化しており,階級的に具体相を把握しなければならな保いのである。しかし,いずれにしても,ともかく米飯が常食となり,それが普及伸張したことは間違いのない事実である。系数的にみれば,1人年間消費量150キログラム(1石)台に達し,それが維持されたのは明治36年(1903)以降,昭和15年(1940)までである。
 日本の歴史において,この昭和15年までがたしかに米飯を常食とした上昇期であり,より多くの日本人が米飯を摂取するという悲願が達せられたという時期であった。太平洋戦争勃発の昭和16年(1941)以降,戦後の昭和26年(1951)までの食糧難に遭遇するわけであるが,すでに食糧事情の緩和されていた昭和38年(1963)の1人年間消費量140キログラムをピークとして昭和53年(1978)には81キログラムに落ちこみ,現在にいたっているのである。
 このような趨勢のもとにおいて,はやくから日本人の間には「米離れ」という語が流布されているのであるが,系数的変動に基づく直線的思考法と食生活の洋風化という傾向とあわせて,さらに米食が低下するかのように受けとめられているようであるが,果してそれが正当であるかどうかは,充分に検討する必要があり,別問題である。以上の所説に補足説明を加え別に要約すれば次のようになる。
 明治34年(1901)は20世紀最初の年である。以後,この世紀を世界史の上では「現代」と称し,資本主義の発展段階では独占金融資本の時代となるのである。これを別に帝国主義の時代というのであるが,ちょうどこの頃から,貨幣経済は日本の後進的諸地域にも浸透し,全国津々浦々に及んだ。日本歴史は米を中核とし,その生活手段の占有と労働力の確保支配をもって綾なされてきたのであるが,この20世紀は,より多くの日本人が米を摂取した時代でもあった。
 明治以降の飛躍的な米食の発展伸張は,さながら貨幣経済の浸透とまったく同じように,より多くの日本人が米食のとりこになったことは,間違いのないことであった。このようにして,米飯を中心として味噌汁と漬物という3者の組合せをパターンとする一汁一菜が,自説とする近代日本食なのである(以下,この3者の組合せを「一汁一菜」とする)。
 米飯のみで,いうならば,稲作の開始時点からということになるが,組合せであるから,味噌汁の出現をも考慮にいれなければならない。とすると,一汁一菜は味噌汁出現の鎌倉時代からであり,これ以降,武家から富裕な商人に広がり,そして町方一般の労働者にまで及んだのは江戸時代においてである。これがさらに,当時日本人口の過半数,いな大部を占める農民層に及び,浸透したのが明治以降なのである。したがって一汁一菜と称するのは,われわれ日本人にとっては近代日本食であり,歴史的により正確に位置ずければ現代日本食に擬せらるべきであろう。
 ところで,いわゆる馳走と称する「ハレの日」の食物は,一汁一菜が多汁多菜になって日本酒がそえられたものをいうのである。つまり,馳走とは多汁多菜を肴とする日本酒の饗宴をいうのである。ブドウ酒は料理をうまく食べるための食事酒であるが,日本酒とはそうではなく,それをうまく飲むための手段として肴(料理)があるのである。いずれにしても,この一汁一菜というパターンは,戦前の食糧難の前(昭和15年)頃までは厳然として存在たのである。そして近代日本食ないし現代日本食のパターンの柱が米飯にあることもうなずかれよう。以上は本節の主題を論ずるに際し,その柱となるのは米飯となることの説明である。
 今の日本女性は飯ひとつろくに炊けないというような,米飯のまずさをなじる老人の陰の声がある。そして「『日本式のうまい飯を炊く』という技術は世界に類例のない日本独特の主食調理法である。東洋の米食人種はひとしく米を主食としているけれども,その炊飯の手段方法はそれぞれに相違していて,その中にあって日本の炊飯法は日本人の叡智と永い経験とによって日本独自に発達して来たものである。言うならばこの技術は『日本国民の文化財』である」と川島はいう1)。私も川島の所説に同じではあるが,それは日本人のそれであって,おそらく外国人には通用しないものと思う。要するに米の食べ方は民族的な食習慣であって,それぞれに炊き方も食べ方も異なっているからである。しかし,その中で日本の炊飯法が最も難しいのである。なぜならば,その炊飯法は伝承と永年の経験から生ずるかんに従っているからである。
 前述の「今の日本女性は飯ひとつろくに炊けないというような米飯のまづさ」というのは,不備な自動炊飯器に全く依存していることに大きな原因がひそんでいると断言しても過言ではないのである。後述するが,たとえば,炊飯には最後に「むらし」ということが大切である。自動炊飯器使用に際して,1度炊きあがってスイッチが切れても,2度目の点火などで味を持ち直すことをするという技術を知っている人もあるが,大多数の人はそれを知らぬし,知ろうとする熱意を持っていないと言って過言ではあるまい。
 炊きたての飯の香りをいつくしみ,そのまろやかな舌ざわりと,あるかなきかのうま味を一生の友としてきた人びとも,少くなくなってきたとはいいながら,その繊細微妙な米飯の風味というものを尊んできたのである。米飯は炊飯以前の原料である米自身の品質自体の優劣にも左右されるが,炊飯方法の功拙が米飯の風味に及ぼす影響も重要である。その第1は水加減,第2は火加減であり,最後は容器についてである。水加減というのは定量の米に対する定量の水の組合せのことである。火加減とは文字通り炊飯中の火の強弱をいうのである。諺にたとえば「はじめチョロチョロ,なかパッパ,赤子泣くとも蓋とるな」というのがある。炊飯は初めは弱火で,途中は強火で,勢いよくふいてきたら火をひいて,あとは蓋を絶対にとらずに,充分むらしをかけろということである。炊飯器として世界的にも珍しく,また便利なものとして軽量にして丈夫で,便利なものに,アルミニウム製の飯盒があげられる。しかもこれは軍用として,わが国独特のものとして開発されたのである。前後するが,後にとりあげる自動炊飯器との関連もあるので,ここで飯盒について若干の解説を加えておくこととする。
 飯盒は,炊飯器であると同時に,そのまま食物携帯具の役割をはたすものであった。これは2食分を1回で炊飯し,食後の残余を携帯し,あるいは大量の炊飯米をわけてつめこみ携帯するなど,活用の方法は多様である。または飯盒は,近代的軍隊で米飯を摂取するわが国が発明考案した独特のものである。このことはわが国の経済政策,ひいては農業政策が米作を抑止しない限り続くもので,現在の自衛隊にいたるまで続いて活用されているのである。欧米の軍隊にも,スープあるいはポタージュ用のものはあるが,わが国の場合のような炊飯と弁当入れ兼用とは異なる。軍隊においては装備は可能なかぎり軽量を旨とするので,重金属の飯盒は好ましいものとはいえなかったが,軽金属のアルミニウムが発見されて初めて,大規模な工業生産の開始された明治23年(1890)以降に実用化されたものである。こうしてわが国では日英同盟のよしみにより,英国からアルミニウム工業技術が導入され,明治27年(1894),大阪砲兵工廠で飯盒が試作され,陸軍で明治31年(1898)制式化された。こうして明治37,8年戦役の最中に飯盒がはじめて登場したのであった。
 飯盒の構造は盒体である身[み],蓋[ふた],副食を入れる掛子[かけご](掛盒,中盒・中蓋ともいう),吊身である吊[つる]からなり,背のうに装着しやすいように底面は特殊な楕円形をしている。身の容量は米麦合わせて2食分4合(米にして540グラム)を炊飯できるが,蓋のすり切りの容量は2合(水にして0.414リットル),掛子の容量は2合(米にして280グラム)となっており,掛子一杯の生米麦に蓋一杯の水を加えると,適当な飯の水加減になっている。また身の側面の面線は,下が2合炊飯の場合,上が4合炊飯の場合の生米麦をいれての水位を示すものである。なお掛子は,元来副食をいれるが,湯呑みないし水呑みの用もなしている。このように日本の軍隊の飯盒は,もっぱらその主食の米麦を炊くのが目的であり,じつに重宝なものである。炊飯の方法には特別の技術を必要とせず,若干の馴れがあれば充分といえよう。
 野外炊飯の場合には,現地の枯木や枯草の類を燃料とするのであるが,その時の条件により,数個ないし十数個の飯盒を一緒にまとめてつるして炊く。ふきあがってきたら火をひき弱火にして,最後に火からはずすのであるが,熟練者となると飯盒の蓋を上から棒でたたいて,その音の感じで飯の炊きあがりぐあいを判断する。火からはずした飯盒はゆっくりかえして,上向きになっている底をたたくとよい。飯盒の飯をなかで逆転させてむらしをかけるのである。炊飯の方法,つまり飯盒の操作法は以上であるが,米と水の定量を厳守すれば,比較的簡単に飯は炊けるというものである。ゴツのある飯ができたら,適当に水を加えて2度炊きすればよいのである。
 このように飯盒で上手に飯が炊ける理由は,飯盒の蓋が同じアルミニウムでできていて,炊飯がただ底部のみでなく,側面からも蓋の上からも全体に火の回りがよく,しかも直火式であるという点にある。炊飯方法の巧拙が米飯の風味に及ぼす影響の第3としての火加減に関連して飯盒炊飯について長文になったが,最後に第3の容器について説明を加える。
 ここでいう容器というのは飯櫃のことである。昔はいずれの家庭にも飯櫃があった。炊きあがった飯は釜から飯櫃にいったん移し,それから各自めいめいの食器によそったものである。飯は乾いた木の飯櫃に移せば,飯粒の表面の余分の水分を飯櫃が吸収するので美味となる。今の飯櫃は漆の塗り櫃あり,合成樹脂製のものありであるが,後者を吸水性にかけるから不適当である。ところが技術は進歩し電子ジァーが出現した。これだと蓋の裏に水滴のたまることはない。電気のコードを差込んでおけば常温(70℃)が保もて飯に臭いのつくこともない。技術の進歩は,さらに木の飯櫃をすっぽり入れる大型電子レンジの出現となる。飯櫃は秋田杉を用い,電子は木の飯櫃を通して,なかの飯を温めるもので,昔のワラ製のおはち入れ以上の機能を発揮するものが完成したのである。
 つぎに飯炊き釜の変遷を要約すると次のようになる。米の加工法としては,第1に焼く方法が古いと考えるべきであるが,炊飯の初めは米を煮ることからで,次に蒸すという順序となるが,諸説ありさだかではない。ただその概要をまとめれば次の通りである。土製の鍋から鉄鍋へ,鉄鍋から羽釜へ,羽釜から現在の電気炊飯器,これから派生したガス炊飯器という順である。
 土製の鍋では飯は炊けない,したがって最初は土製のコシキ,つまり蒸し器を用いたという従来の定説(?)は,実験考古学の立場から最近否定されてしまった2)。しかも,コシキの使用は炊飯ではなく蒸し飯,つまりおこわを作ることである。ともかく,焼成度の低い土器の鍋でも充分に,炊飯は可能であったといえるのである。
 つぎに留意すべきは,古代における大陸からの製鉄技術の伝来に伴って鉄釜の製法技術の導入されたことであり,炊飯が土器から鉄器に移行し始めたことである。鉄鍋でも炊飯が行われたわけであるが,日本ではこの鉄鍋に同じく鉄製のツルをつけて用いるようになった。これはイロリを用いての炊飯の場合である。大陸から伝来した鍋はツルをつけずカマドにはめ込み,鍋の上端部とカマドの上端部とは同じ高さにあり,鍋はカマドに全く落ち込んでいる。中国や朝鮮の釜とカマドとの関係は,現在でも上述と同じであり,釜の口もとまでカマドのなかにはまり込み,取りはずしをしないで使用している。日本の釜はツバで支えられており,ツバより下部だけが直火となり,しかもこの場合はとりはずしに便利になっている。このように釜にツバを巻いたのを羽釜といい,これが日本でいう釜である。
 明治37,8年戦役中に出現実用化された軍用飯盒と,ここで初めて掲出するところの軍用水筒にアルミニウムを利用したことが契機となり,徐々に民間にアルミニウムの釜が普及しはじめた。しかし,当時は何分にもアルミニウムはまだ稀少金属であり,生産量も余り高くなく,したがって羽釜の価格も高価であり,普及は遅々たるものであったが,その軽量であることと,銀白色の色採が日本人の好みに応じ,それが支えとなって戦後電気炊飯器の出現までは,アルミニウム製の羽釜は全盛をきわめたのである。といっても,すべてアルミニウムの釜使用ということで律するわけにはゆかない。米飯の味に厳しさを要求する家庭とか業者の間では,あいかわらず旧来から使用になれている鉄釜の使用をつずけていたのである。後者に属するのは,市中の鮨屋であり,駅弁業者である。そしてすべてとはいいがたいが,彼らは決して大きな釜で一度にたくさんの炊飯はしない。普通2升(3.6リットル)を限度としているが,これは飯の自重で釜底の飯の伸びないことを知っているからである。これと本当の美味なる炊飯の方法は,わが国古来の直火式に限るということを,この際くりかえし付言しておく。
 飯炊き釜の変遷について最後に位置づけられる電気炊飯器であるが,これは直火式でなくニクロム線の赤熱の副射熱によるものである。これにも直炊一重釜から始まり,同二重釜,スチーム型二重式,同三重式,さらに直炊三重釜というように,メーカーが競って新しい考案品を市場に輩出している。これに対するガス炊飯器は既掲の飯盒炊飯にみる火の回りのよさに,ひとつの特性を指摘することができる。なおこれに続くものとして,電子レンジによる炊飯のことを指摘しておこう。
 一般的な日本の炊飯方法,ならびに飯炊き釜の変遷に続き,以上を台として展開さるべきであるものとして,大量炊飯の方法について炊飯用器機などをも含み記述するのが以下である。

 2 大量炊飯法
 平安時代末期(11世紀)の作たる『栄華物語』の「御裳著」の巻には,藤原道長が娘の彰子に田植をみせてなぐさめている状景がのべられている。「若い女5~60人,田あるじという翁,田楽10人ばかり,それらの人々があるものは楽をし,あるものは植えののしっている。続いて大きな桶折櫃をもってきた云々」と。また鎌倉時代末期(13世紀)成立とされる説話集『宇治拾遺物語』の「利仁芋粥の事」には殷富国といわれた越前敦賀の土豪藤原利仁の館の数々の豪勢さが描きだされている。そしてさらに芋粥をつくる5石(米にして750キログラム)入りの大釜,5つ6つでは一時に数百人いな千人からの人びとの食事をまかなうことができる。土豪が多くの人間を駆使し,自己の畑を耕作せしめる際の給食炊事用に使用したものであろうか,ここには大土地経営の姿が描きだされている。先述の「栄華物語』にみる田植の状景にも同じく大土地経営の姿がみられる。田植の大きな桶,折櫃は,その野外での食事,つまりいわゆる古来からの田植[ためし]と称する馳走の搬送具を兼ねた食物容器でもあるわけだ。このように大きな桶・折櫃,そして5石入りの大釜などは,いずれも古代末期から中世初頭にかけて(11~13世紀)の大量炊飯に関するものであるが,このような事例をあげるまでもなく,以後,多数の人員を擁する寺院・軍隊において,これらが継承発達してきたことはいうまでもない。
 ただ注意しなければならないことは,日本では元来,炊飯は小人数の家庭単位で行なわれ,したがってその炊飯用器材も小規模のものであった。したがって寺院・軍隊など集団では大釜が使用されていても,その構造は釜もカマドも,小人数用のものを大型に拡大したに過なかった。中世末期の戦国時代(1467-1572)における軍隊では,いわゆる「陣釜」と称する平釜(米にして1.5~22.5キログラム炊き)を用いて炊飯していたが,これが明治期に入って,陸軍の野戦用として継承され「大行李炊具」として輜重車に積んで軍隊の移動に随行したのである。ところが先述した通り,この大釜(=陣釜=平釜)の使用の構想は,釜もカマドも小人数用のものを大型に拡大したに過ぎなかったのであるから,たとえば,火まわりひとつにしても不充分な状態にあった。
 既掲の川島3)は昭和6年(1931)の第1次上海事変にあたり「上海戦線なおいて,第1線部隊の将兵に野戦用大行李炊具の平釜をもって炊飯する要領を教育指導し……。当時の戦線,上海は現地産の米が豊富にあり,これを炊飯して食用に当てていたが,折角の良質の米をつたない吹飯技術のため,明け暮れまずい飯を食べているので,うまい飯を上手に炊く方法を各隊に廻って教導した」という。この野戦用平釜というのは「きわめて原始的な構造であるが……すべて野戦向きにできて」おり,「炊飯に当っては火熱はとかく焚き口よりも,煙突側に導かれ,火力が強くなるので,加熱の片寄りを防ぐため途中釜を180度転回することを教えた」ものである。
 平時における駐屯地における部隊炊飯は固定式平釜で明治6年(1873)の建軍当初より蒸気炊飯を始めている。燃料は石炭使用,主として無煙炭で120℃の蒸気で炊飯した。状況の悪い時には褐炭を使用したこともあるが,この場合は蒸気が弱く80℃ぐらいにしかならず飯がまずい。戦後の陸上自衛隊は重油を使用するようになり,最近はライスボイラーと竪型炊飯器を活用している。なお戦前の旧陸軍の小部隊においては,直火式炊飯法により,燃料は薪と石炭,釜は鋳物の平釜であった。参考までに陸軍の大正末年(1925)ごろの炊事具を例挙すると,つぎの通りである4)。これらはあくまで標準を示すものであり,いずれの駐屯地にも備付けられているとは限らないことを前提としてである。あくまでその概要を把握するための資料として参考までに供覧したまでであるが,⑨,⑩,⑭,⑯など若干をのぞけばおよそ当時の中流家庭の台所あたりに備付けられていたものと基本的に大差のないものばかりであるといって過言ではあるまい。
①平釜・蓋共 ②焦土器 ③平釜台 ④鉄輪 ⑤鉄輪用棒 ⑥小釜・蓋共 ⑦小釜竈 ⑧桝(櫓・漏斗共,穀用・桝掻共,液用) ⑨検査食格納箱 ⑩米差 ⑪箕 ⑫莚 ⑬米入半切 ⑭台衡 ⑮洗米器 ⑯野菜切断器 ⑰挽肉器 ⑱鰹節削 ⑲摺鉢・摺梹 ⑳山葵卸 (21)大根卸 (22)大根突 (23)皮剥 (24)缶切 (25)栓抜 (26)調理台 (27)爼 (28)各種包丁 (29)丸鐐 (30)麟取 (31)庖丁差 (32)焼物竈 (33)焼網 (34)七厘 (35)揚鍋 (36)揚物用〓 (37)揚物杓子 (38)卵焼 (39)団扇 (40)茶壷 (41)茶炒 (42)炒鍋 (43)焦起 (44)蒸籠 (45)米揚〓 (46)亀甲〓 (47)煮揚〓 (48)〓台 (49)飯入半切・蓋台共 (50)飯櫃 (51)湯バケツ蓋共 (52)湯捨バケツ (53)汁桶蓋共 (54)茶瓶 (55)漬物桶 (56)飯椀 (57)糅錐 (58)細槌 (59)釘抜 (60)薪割 (61)砥石 (62)庖丁砥器 (63)食餌運搬箱 (64)食餌運搬車 (65)漏斗 (66)水漉 (67)防〓具 (68)蝿取器 (69)検査用具・格納箱共
 陸軍平時兵食の炊飯方法に関し,目下のところその具体的様相を紹介することが出来ないという資料的制約により,今次大戦中(1941-45)戦艦「霧島」(1915年建造,排水量2万7,500トン)乗組炊事専務兵の体験記の一部を紹介する5)。「蒸気釜だから,薪を割る必要はないが,炊き方のコツは藁で炊く火加減の要領とかわらない。初めはチョロチョロ,中パッパと熱を加えて,炊き上がる前になるとトロ火にするということである。水加減といっても,シャバの一般家庭の小さな釜と同じだったことには驚いた。当時の家庭での水加減は,新米と古米では水の量が違ったけれど,だいたいのところ手のくるぶしの上位ということで,洗った米麦を押えて水加減をみたものだった。(中略)もっとも海軍の飯の炊き方は家庭のものと違って水から炊かない。いったん水を沸騰させてから,あらかじめザルに洗っておいた米麦を入れて,例のめししゃもじで混ぜる。米麦を入れ,煮えたぎった湯が静かになったところで水加減をする。まさか湯の中へ手を入れるわけにはいかない。大きなスッポン(柄が1メートルぐらいある鉄製の玉じゃくし)を軽く置いて加減をみて,多ければ湯を捨てればよい。この湯の量が米麦より手のくるぶしの上ぐらいの深さだということである。もうひとつ大切なことは,水加減をしてフタをする前に,釜の中央にスッポンを入れて,湯の中の米麦に穴を掘るようにしておくことを忘れてはならない。湯は沸騰すると中央から上に熱があたるようにするためで,これを忘れていると,部分的に熱のあたらないところができて」“雷”が落ちる次第であるという。
 大量調理,ひいてはその柱となる大量炊飯について,兵食のそれに重点をおきすぎたきらいがあるが,喫食対象者の人数からいっても,また全国一律にほぼそれが実施されるという勧点からすれば,それは当然であろう。大量炊飯に関しては兵食以外に学校寄宿舎・工場寄宿舎・病院などがその範鋳に属する。工場寄宿舎の食事については次を加える。
 明治6年(1873),明治新政府の殖産興業政策に基づいて設立された官営模範工場のひとつである富岡製糸工場に伝習工女として招かれたうちに旧松代藩士の娘,和田英がいる。後に回想記『富岡日記』6)をまとめているが,このなかから当時の食生活をうかがうことができるが,繊維工場におけるその後の食生活については,農商務省編『職工事情』7)や横山源之助著『日本の下層社会』8)によって,明治期(1868-1912)の民間会社の実際をしることができるし,大正期(1912-26)になってからは細井和喜蔵著『女工哀史』9)の語るところに代表される。
 これら3編著の内容と比較すると『富岡日記』にみる食事内容がいかに充実し,すぐれたものであるかがよくわかるのである。「折々牛肉など」が供されるだけでもたいしたものである。学校寄宿舎の食事の例としては,郷土の群馬におる時は一汁一菜で麦飯かホウトウ(粉つき手打ちうどんを野菜とごった煮にして味噌仕立てにしたもの)の毎日であったが,刺身を食べるようになったのは,東京へでてきて,旧制一高の寄宿舎の寮生時代からであるとは,福田元首相の回顧談の一節である。これは昭和初頭のことである。
 花田10)によれば「私が一高に入学したのは昭和6年(1931)で全寮制であったから1日3食を寄宿舎で世活になった。1学年定員が550名で3年生までいるから1,650名となる。食堂には軍隊式の椅子とテーブルがあり,お櫃と味噌汁入りの鍋,タクワンの一汁一菜が朝と昼食のパターンである。ともかく今から思えば粗末な食事であった。1部屋10名入り,不潔にしていたから南京虫がいた。したがって病人は出る。病気で落第したので一高5年生の時,本郷から駒場に学校が移った。畳の和式から洋式となったが食事の内容が変ったわけでもなく相変らずであった」。天下のエリートの集団といわれた一高の寮生活の一端である。
 同時期における学習院寄宿舎の食事献立11)を瞥見すると,さすが貴族の子弟に供するだけあって,その内容は牛・豚・鶏・うなぎ・フライが毎昼,夕食に出てすばらしい。かつての旧軍隊の粗末な食事でさえも,貧農の子弟にとっては,さながら天国に暮す思いであるというのに,全く対象的な事例といえよう。しかし,学習院にしても日本人の食事献立であるからには一汁一菜が台になっていることは看過してはならない重要なことであり,留意すべきである。
 今次大戦後は軍事産業が衰微停頓して,電気製品業界は全くみる影もないような惨状にあり,その再起の窮余の一策の足がかりとなったのが家庭用電気製品であった。まずはじめに登場したのがミキサーであり続いてジューサーであったが,まもなく電気自動炊飯器の出現となり,ひところは“三種の神器”といって電気洗濯機,電気冷蔵庫とともに家庭に欠かすことのできない必需品とされたのである。
 これに対するガス自動炊飯器,さらには電子レンジによる炊飯のことは先にもふれたので略すが,いずれも,現在までのところ大量炊飯には適さず,実用化とその普及伸展は見通しがたっていない。ただ電気自動炊飯は,先述した軍用飯盒が旧来の多く人間のカンに依頼する方法を排除し,米と水との組合せの定量化を実現し,その技術化と熱源としての電気ヒーターを組合せて自動化したところに注目すべきであろう。言ってしまえば簡単なことではあるが,炊飯に関する技術化の創出は,省力化と能率化の観点から高く評価すべきである。
 いずれ大量炊飯に適する電気自動炊飯も実現されるであろうが,目下当面のところ,最もすぐれているのは,直火式連続大量自動炊飯機(装置)である。既掲の川島8)はこれにしいて「日本民族が過去3千年にわたる生活の知恵で考え出した日本独特の炊飯方式を,現代の科学で,合理化し省力化した大量炊飯機がこれである」と賞揚しているが,さらに次のごとく説明している。
 すなわち「本当にうまい大量の飯を炊くためには,まず,①直火であること(蒸気でむすのは落第),②工程途中で火力を調節を巧みにすること,③最後に孤色に軽く色づけるという条件が必要であって,これを省力的に連続自動式に仕組まれたのがこの装置である。この炊飯装置の機構を説明すると,①火床の沢山なガスバーナーが長く(幅65センチ,長さ数メートル)のびていて,そのバーナーの火力が初めと終りはやや弱く,中央は強く,つまり俗評「あと,さき,チョコチョロ,中ドンドン」の火力が長く帯状に並んでいる。②その上を所定の米と水を入れたアルミニウム製の飯炊缶(長さ60センチ,幅33センチ,深さ22センチ)が鉄製のコンベアにのって徐々に運行して行く。かくして,火力の初めは弱く,中途は強く,終りも弱い,火力で炊飯する。③最後には「蒸らしのトンネル」を潜って出て来る。缶の中には理想的に炊飯された飯ができ上っている。④それに木製の蓋をのせて配給する。保温のための外箱にはめこんでもよい。⑤食堂にはこのまま持ち込んで,各々に分配する。将来,集団給食の炊飯(自衛隊・学校給食・団体給食等)はこの方式施設に依るのを賢明とする」という。引用が大分長くなったが,要をえた適切な説明といえよう。
 飯炊き釜の変遷について,その開発技術を合せ述べたのであるが,これはあくまで発展的な各段階における時代の先端をゆくところのものをおさえての概略である。すべてが,整然と一律に新しい機器へと移行していったのではない。そして現在についても同じである。一例をあげれば,国鉄北陸本線金沢駅の駅弁業者“大友樓”の炊飯の現況について紹介すれば次の通りである。
 「駅弁炊飯器具は蒸気,ガス,電気の3者併用である。蒸気の場合,燃料は石油,3重釜で8升飯―1斗(12-15キログラム)炊,ガスはリンナイ自動炊飯器使用,4升(6キログラム)炊き,いちばんおいしい。現在これを重点的に使用。電気はナショナル,故障が多いので使用せず」。
 以上,本章の小括としていえることのひとつは,炊飯そのものの技術はもとより,炊飯に関する用語から釜・カマド・用具に至るまで,いずれも日本独自に発達してきたものなのである。ただしアルミニウムを軍用飯盒や羽釜に使用したり,熱源としての石炭・石油・ガスの使用,あるいはまた蒸気の活用などを考えると中国・朝鮮,また多く欧米の技術導入ならびにその展開によるところ大ではある。これらを無現して米の大量炊飯という大量調理法の実現は不可能であったのである。

Ⅱ 大量調理と外来技術との関係 その2

1 副食の大量調理
大量調理に関する第Ⅰ章において,主食とする米の炊飯についてのみ記述し,副食については,ほん付け足し程度に数行を加えたのは,副食についてみるべきものがないからというのが理由である。同章においてすでにるれたように,わが国の近現代の食事のパターンは,米飯を柱とする一汁一菜であり,これが日常食なのである。人びとが集団をつくるハレの食事となるとこの一汁一菜が多汁多菜となり,日本酒が加わることも記述した。ところが同じ集団といっても,職場給食のような給食産業の部門になると,ハレの食事ではないから,一汁一菜のパターンがはっきりと浮き上ってくるのは当然である。
 女工募集の一手段として,毎食ごとに米飯を供すると会社側が宣伝すれば,それに対する女工たちも職場に落ちつけば主食の米飯について非難苦情を提言するというようなことが『女工哀史』にみられる。これなどいかに米飯に執着していたかがうかがわれる適切な証左であるといえよう。いま普通には一汁一菜とは粗末な食事の意とされているが,私説では一汁は味噌汁で一菜は漬物とおさえている。ただしこれは原則であり絶対ではない。ともかくいずれにしても,副食は粗末なものであったことは間違いではない。故に米飯に比べれば,副食の品数と量はいかにも貧弱となる。米そのものの味を極度に生かした,他民族にはみられない固有の炊飯法を作り上げた日本の米飯,これにならって副食も,その材料を生かした調理らしき調理をしないことを特徴とするようなものになる。
 手がける料理の品数が少なく,いつも同じような料理を家族に供していれば,それが「手作りの味」となり「おふくろの味」となる。「もともと手づくりとは,貧しさのゆえに農家の主婦が食費を節約するために疲労困憊した体にむち打って,労働と時間をかけて乏しい材料で調理せざるをえなかった粗末な食事のことをいい,今日『食は文化なり』と謳い上げ,『おふくろの味』と称して美化されているようなものではない」と山路12)はいう。また宮本13)は「一般の人の日常生活のなかには,手のこんだ食事法はみられなかったばかりでなく,油,酢,香料の加わったものを食わず,牛乳と乾酪を食べないということは,西欧の食事ともっとも大きな差異として目に映ったようである」と『耶蘇会日本通信』の1584年1月2日付の書翰をもとに解説している。
 このような諸事情を背景としての家庭の食事であるから,職場給食の副食もそれが反映するということになる。具体的に明治34,5年を調査対象とする『職工事情』には綿絲紡績女工の給食として,甲,乙,丙,丁の4つの工場寄宿舎献立表が収載されている14)。これらをもとに作表したのが次表である。ただし,食材料名は略し食物名に整理し,期日は日順に改めた。
 甲工場,丙工場の2工場では味噌汁は朝食に皆無であり,丙工場においてわずかに15日間に5回,惣菜がわりに供されているのみである。丁工場においては,11日間のうち4回,残りの7回は漬物が供されている。乙工場は1日を除き毎回味噌汁と漬物があわせて供され,しかも漬物は全体の半数は2種となっているが,これが最高の内容である。昼食・夕食については丁工場の昼食の1例(元資料には焼物蒲鉾,菓子椀,玉子焼,高野豆腐,水菜とある)を除いて,他はすべて1品である。
 料理名とその供与回数をあげれば,煮物68,干物3,合物4,浸物2,焼物5,酢物1,酢1,交ぜ飯2。これに主として朝食に供される味噌汁17,漬物44である。供食回数の高いものからあげると昼食・夕食の煮物,朝食を中心とする漬物,味噌汁の順である。粗末な食事,品数とその貧弱さ,手作り,おふくろの味,手のこんだ食事法なしという日常の家庭食は『職工事情』に収載されている唯一の集団食の献立表を暼見しても同じであるということである。
 なお同書には「副食物ハ野菜乾物ヲ主トシ毎月数回ハ小魚類ヲ給ブルヲ普通トシ稀ニ毎週肉類ヲ供スルモノアリ5)」とあるが,油料理ないしそれに準ずるものは,前記4工場の献立てにはてんぷら,揚豆腐,生揚,麹生場が通じ26回,文字としてみられるのみである。
 『職工事情』より下っておよそ十余年,大正期(1912-26年)を対象とする『女工哀史』には大阪の紡績工場(時代不詳),ならびに大正11(1922)年2月の某工場の寄宿舎献立表が収載されている。『職工事情』と全く同じ方法で作表した2表を掲出した。両工場をあわせて朝食は味噌汁と漬物,漬物は日によって2類となっており,『職工事情』の乙工場の朝食に相似している。7日間に味噌汁が欠けている日がそれぞれあるのも同じである。昼食と夕食の献立に大阪の紡績工場の1回を除いてすべてに漬物が供されていることは前者との大きな違いである。ただし,これを除けばすべて献立は1品であり,料理とその供されれ回数は次の通りである。味噌汁9,漬物41,煮物12,五目飯1,なめ物1,干物1,澄し汁1,焼物2,豚汁1であり,供食回数の掲出頻度は高い順にあげると漬物,煮物,味噌汁となる。瀕度系数の順位にはずれがあるが,上掲3料理がその大部を占めていることは『職工事情』,『女工哀史』ともに全く同じであり,他の料理数はいずれもまことに稀少である。
 さて,以上の2者を資料とする考察は,主として系数整理に基づく記述である。できうれば質的把握検討も必要である。『女工哀史』ではわずかではあるが,このことにふれている16)。すなわち「同じ豆腐汁と言っても,材料と調理法の上下で,その味は雲泥の相違があるように,食物のことは献立表で言い表わせない」として次が引用できる。
 大阪の紡績工場の献立に関しては,「先づ味噌汁であるが此の味噌は大阪市販の赤味噌や白味噌ではなく,特に製造納入せしめた糠味噌なのである。それから其の汁の実であるが菜っ葉の時には思い切って入れるてある。併し少し材料の高い薯や澄し汁の場合は全く茶碗の中へ汁の実が入らぬことさへ珍しくないのである。それから香々(漬物のこと)だが,これは大根の丸いなりを1分くらいな厚みに輪切りにし,こいつをさも惜しげに2切れだけ撮んで呉れるのだ。それから塩鮭の料理はこれを焼かず,鍋でゆでたやつを10匁(40グラム)くらいに切って香々2切れと一諸につけてある。じゃが薯は全然皮をむかない」と。また勤務が昼夜交代となる日の昼は「よく五目飯をやるが,悪米のところへ持って来て初手から五目を入れて炊く故,とても変な飯で不味いと来てはお話にならぬ。五目飯と言ったが其ぐを五品そろへたのではない。千切飯とかコンニャク飯とか多くて2色だった」(カッコ内は報告者注,以下同じ)とある。
 なお,食物の季節感を無視した食物について「右の献立(資料5)で見ると夏だか冬だか秋だか,それとも春だか判らない。1つも季節々々のものがない。因にこれは6月なのである。茄子,きうり,南瓜,サヤ豆,それは未だ早くて高いから食はせない17)」とあるが,食の近代化が進行する過程において,顕著化される課題として重要であるので,本報告の後述部分と関連事項のひとつとして充分留意されたい。
 東京某工場についても前者と殆んど同じであると著者はいっているが,鮮魚の刺身が女工の食膳にのぼったことは,東西古今を通じて唯の1度もない。牛肉は月に2回ほど食べさせる処もあるが,例の皮むかぬ馬鈴薯と共に煮つけたやつが一人前五匁(20グラム)位が関の山で,全くだしにも足りない有様である」とのべている。
 以上,明治から大正にかけて産集界の一主流を占め,時代の花形であった繊維工業における女工たちの集団食についてみてみたのであるが,ここには副食調理について,いかに省力に努力が注がれたかがうかがわれよう。そして,多数の女工たちを対象とする大量調理ではあるが,それは米飯を柱とする主食中心の傾向がおのずと副食を供とし,副食は一般に味噌汁と漬物と煮物などのうち,その単品が供されるという,そのための副食の大量調理であった。したがって,調理技術も大量調理として特記することもなく,家庭料理の延長のような単純なものであり,献立内容からして外来技術の導入は考えられない。ただ戦前全期,(1868~1945年)を通じて,最大にしてしかも全国画一的集団食は兵食である。
 女工に対し,若い青年男子を中心とする兵食であるが,本質的にはすべて同じであるといって過言ではない。しかしすべて軍隊の存在ないし戦争が新しい文化の創出,普及に大きく寄与したことは,兵食についても例外でなく,このような意味あいからすれば,兵食についての見直しの必要はある。
 時代的には前後するが,明治24年(1891)11月末より12月初旬にかけての1週間,野戦砲兵第5連隊の兵用献立表18)によると,朝は味噌汁か2種の漬物,昼食と夕食には浸物1,煮物4,焼物2,交り飯と汁,蒸物1,かわったところではカレーシチ
ユー2,カレーソップ2,があげられ,なかなか変化に富んでいる。さらに,カレーシチューとカレーソップ,煮物や味噌汁にも牛肉が用いられているとか,昼の焼物の鰺にキントンと紅生姜が付け合わせてあるとか,女工関係の既掲の献立に比べるとはるかに美味なる食物が供されたように感ぜられる。もっとも,献立に季節感の乏しい点は女工の場合と共通であることについては,前述と同じで充分の留意を必要とする。
 なお,副食の大量調理用器具には大正15年(1926)当時のものとして野菜切断器があることは,第Ⅰ章に掲出した全69点のうちに見る通りである。人員に不足のない陛軍において,果してどこまでこれが活用されたかは別として,さすが官費運用の兵食なればこそとも推察される。海軍の副食調理器具の中心とするのは蒸気の6斗釜(米に換算して,90キログラム炊き)で,味噌汁やスープなどの汁物,電気の4斗釜(米に換算して60キログラム炊き)はカレー,てんぷら,すき焼き用であった19)が,使用法についてはもちろんは特殊な技術を必要した。ただし上述は第2次大戦中の戦艦「武蔵」(1942年建造,排水量6万9100トン)の場合であるが,他艦について想定する基準とはなる。

 2 食 器
 食器については,飯用と副食用には陶磁器の椀と皿,汁用には漆塗り椀となったのは明治以降であるが,その普及のしかたは,まずその産地を中心とし,つぎに輸送機関の発達が大きく影響している。したがって,瀬戸物の大産地である瀬戸市・多治見市を中心とする地域,とくに名古屋市などでは,飯も汁も陶磁器を用いるという例外もあるわけである。アルミニウム製品の普及は明治30年(1897)ごろからで,スプーン,それから箸の順で作られ,軍隊で使われたが,このあと釜・茶瓶・弁当箱などが出現した。特殊なものではあるが,軍用飯盒は弁当箱の一種でもあったわけである。この普及も大体鉄道に沿って使用がのびてくるが,大阪が産地であるこのアルミニウム製品は,その周辺からはじまって明治37,8年戦役後には関東へ,大正年間に四国・九州へ普及していった。
 軍用のスプーン・箸・飯盒に続いて飯用,汁用,副食用の椀と皿の使用は,軍隊のみならず大病院の患者用とか刑務所の服役者用に用いられたのは,その材質が堅牢かつ軽量であるという特性によった。なお前掲の「武蔵」において「士官次室以上の食器はすべて陶磁器であった。揺れ動く艦内生活で陶磁器を使うのは実用的とはいえないが,戦時になっても兵食器のようなホーローびきやステンレスの食器に変えなかった」と高橋20)はいう。兵食用に海軍の場合,ホーローびきとステンレスが登場するわけだが,士官用に陶磁器の食器が最後まで使用されたのは「しゃれたことの好きな海軍のいきがり[・・・・]の一つといえよう」と高橋は説明を加えている。
 なお,陶磁器の食器について次を加える。『女工哀史』からの引用である。「食器は実に人を侮辱したもので先づ普通婦人用の茶碗くらいしか量の入らぬお茶碗が,堅牢をこれ旨とする為めウドン屋の丼くらい厚く,何処へ行っても殆ど例外なしに工場のマーク入りである。而して種類は最もいゝ処で飯碗,汁碗,皿,小皿の4種(但し4種一どきに使う献立ではない)で茶呑茶碗のついた処は皆無といっていい位だ。皿に至っては近頃琺瑯鉄器を用い,琺瑯のはげちょろけた迚もたとえやうの無い不潔のもので食べさす処がある。東京モスリンに至っては,其の汚い琺瑯鉄器の皿と,丸毛と書いた茶碗の他絶対に食器はなく,汁も飯も茶も凡てそれへ注ぐのである。そして漬物も煮たものもごっちゃくたにして一つの皿に盛るのだ。しかも午のおかずといえば九時からちゃんとよそって置かねば間に合はぬから,一皿中腐敗した漬物の臭いが移って嘔吐を催すほど不味い21)」とある。なお,食器については,学校給食をはじめ多くの集団給食において使用されていたプラスチックのランチ皿のあることをあげておく。
 本章においては副食調理の戦後の部分を割愛しているが,本報告内容の全体構成の都合から第Ⅳ章の題名である「食物調理法・調味料の標準化」つまり食物調理法と調味料の標準化ないし広域化とかけて扱うこととする。

Ⅲ 学校・職場給食の問題と背景

 1 学校給食
 国連食糧農業機構(F.A.O)出版物の『世界の学校給食22)』には「学校給食の歴史」と題する章がある。これを要約し,小学校における学校給食の発展段階を整理すると,表にみるように3つに分けられる。
 段階1は,別に欧米における児童救済の段階といえる。これは私的な発展によるものであり,その背景としては欧米の19世紀,とりわけその後半に普通教育が大規模に始められ,工業地帯の労働者階級の子弟たちが,初めて多数,昼間学校に集められたこと,そしてこれらの子供たちの多くのものは,不健康で発育も栄養も悪く,着物も甚だ粗末なものであることが問題になったからである。これは要するに産業革命のあおりの一現象である。

学校給食発達段階(小学校)

 このように,初期の学校給食の計画の多くは救済の目的で企てられ,それらはすべて慈善団体が主となり後援したものである。
 段階2は欧米における軍隊的要請による段階である。ドイツの場合,1890年(明治23)には学校給食が政治的重要性を持つようになり,1897年(明治30)ナチス党が議会を通過すれば,すべての都市に学校給食を実施することを規定する法律案を提出したところ否決された。しかし,20世紀初頭のドイツでは,身体不良のために壮丁の40%以上が不合格になったことから,ひどい栄養失調が流行していることが問題になった。ここに,国民の体位についての懸念が,学校給食発展の動機のひとつになっていたことが指摘されるのである。イギリスの場合は直接はブール戦争(1899-1902年)の経験からである。戦争のため微集した新兵の体位が極度に悪く,徴集基準を下げて合格させたところ,武装を施すと全く役にたたないことがわかり,ために世論はごろごろとまきおこった。日本と異なり,行政機関は,教育に直接たち入らないというイギリス教育界の伝統を破る異例の措置がとられ,1906年(明治39)には学校給食法が成立することになったが,これが世界における学校給食のさきがけとされている。アメリカ合衆国の場合もイギリスと同じで,第1次世界大戦(1914-18)の頃,徴兵検査で栄養的に欠陥のあるおよそ40%の青年が発見され,指導者は食事の正しいとり方について痛感し,学校給食が計画されたのである。以上の諸例は,国家の軍事要請からの学校給食の推進であり,発育の悪い労働者から選んだ新兵の体位が極めて貧弱であることが判明したからである。
 段階3はアジア,アフリカにおける学校給食の普及浸透である。対象の新地域としてアジア,アフリカがあげられるが,わが国もこのなかに含まれることはいうまでもない。こうして世界各地域にわたり,より広く学校給食が普及浸透してゆくのであるが,以下わが国の学校給食について,とくにその問題点と背景を中心にみることとする。
 わが国で学校給食が初めて実施されたのは,明治22年(1889),山形県鶴岡市所在の私立忠愛小学校で,当時鶴岡の貧困家庭の児童教育を目的とし,仏教各宗派が共同で設立したもので,私立学校ではあるが授業料は徴収せず,そのほか学用品,とくに米飯と野菜・魚の弁当が支給されたのである。同一ケースのものとして明治末までにあげられるのは,全国各所で合せて10ヵ所にすぎなかった。小規模・小人数を対象とするものであるが,この類は大正・昭和の前期まで実施され,正規の学校給食に継承されるわけである。なお,軍事的要請に基づく給食も,太平洋戦争中に一時みられたが,あくまで泡沫のごとく消えてしまった。
 広範にしてかつ充実した学校給食の実施されるようになったのは,戦後の食糧難を背景としてである。前掲の表にみる通り,段階3の実施者側からみた性格は米国の農業救済にあり,受益者側からみた性格は児童救済と保健ということになる。具体的実施の概略は昭和22年(1947)から全国各都市における連合軍およびララから脱脂ミルクその他の物資の援助をうけたことに始まり,ユニセフの無償脱脂粉乳などによる給食が続けられるのであるが,昭和26年(1951)ガリオア資金の打切りで,米国より小麦粉の寄贈をうけることが不可能になり,給食挫折の情勢にいたり,全国PTAなど関係者は給食継続の運動をおこしたのである。
 戦後のおよそこの時期までが表にみる段階3に相当するもので,段階1とは異なる大規模,かつ国際的救済給食の,日本という一地域における展開といえよう。
 ガリオア資金の打切りによる給食挫折に対し,翌27年(1952),政府は小麦粉の半額補助,脱脂ミルク買入資金の利子補助などを決定,国家予算に計15億が計上された。また,学校給食は教育計画の一環として実施するむね考慮された。ここで学校給食は,従前の無償給食から有償給食にきりかわったのであるが,パン,ミルク,おかずの完全給食が実施されたのは,ガリオア資金により米国から小麦粉の寄贈をうけるようになってからである。完全給食とは,ここでは児童全部の昼食のすべてを,学校で調理して給食しようという意味で,その食事内容はパン,ミルク,おかずの3本立てとし,1人1回当り栄養基準を600カロリー,蛋白質25グラムとした。
 従来にみない政府の積極的施策のもとに,救済給食から脱却し,無償から有償に,そして完全給食にと,少なくとも型のうえでは整えられてゆく昭和27年(1952)以降の新段階における性格を具体的にみるために,任意抽出の形式で選んだ横浜市立B小学校の学校給食の調査結果23)をもとに,その問題点の若干を抽出し,あわせてその対策,を摘出すれば次のようになる。昭和35年(1960)に調査したその内容は,とくに給食費を中心とする問題点である。
 1.学校給食費の金額からみた学校給食について――横浜市立小学校のうちで,昭和35年(1960)度学校給食費の予想月額の412円に近い410円以上の学校給食費を徴収するA型校は,わずか2校にすぎない。B小学校を含めて,これらA型校の給食費月額の目標を410円におき,結食費をそれに引き上げる必要がある。
 2.学校給食費の滞納とその対策について――B小学校の昭和34年(1959)度学校給食費滞納額については,13万余円という高額の滞納を現出させた直接の責任のすべてが同校にあることはいうまでもない。この問題を克服するためには,あらたに給食業務担当職員が必要である。
 3.学校給食費の合理的運用について――食材料の購入方法に関して,第1に共同購入という便宜があり,すべてではないが,ある物資についてはたしかに良質かつ低廉な価格で必要物資を入手することができる。B小学校はこの共同購入の組織に加入していないから,食材料はすべて市販品を購入していることになる。故にその食材料の購入価格が割高になっている。第2は購入食材料の検収が適切に行われていない。なお教員兼務の給食主任の業務内容が栄養士のそれと全く同じものである。したがって栄養士を招致することはB小学校においてきわめて重要なことである。これにより上述の1,2に指摘した各問願点は克服されるであろう。
 上述の問題点抽出の基礎となるB小学校の給食調査の過程で感じたことは,その現況がきわめて近い将来において,早急適切に改善される見通しがえられないならば,同校の学校給食は中止すべきであろうということである。これに関して同校副校長は同一市内において,かつて集団中毒の発生を契機として学校給食を中止した前例を引用し「いっそ集団中毒でもおきて,それを機会に中止したい」というような内容のことを語っていたが,同じ趣旨のことは同じ市立のC小学校,D小学校ほか数校の校長の語るところでもあった。ちなみに加えるならば,前述の集団中毒では死亡1名,重症者十数名という大きな犠牲を輩出したのである。全く恐るべき学校給食といわざるをえない。学校給食が学校行事に位置づけられ,教育的に重要な意義をもたせるようになった当今,学校長などの管理職者よりかかる発言がなされることについて検討してみよう。
 学校給食に関する基本法は学校給食法であるが,それは強制法でなく奨励法である。なにしろ戦後食糧難を背景に出発した学校給食であるから,気がついてみたら今日の盛況,今さら引っ込みもつかずになんとなくずるずると続けている。あたらずさわらず,あらだてず,前例踏襲を尊んじて停年を待つような官僚社会に首までつかり続けていれば,どうしようもない。中央の役人をはじめ,設置者である地方自治体の役人にしても同じである。まして現場の管理職である校長あたりが,学校給食の実態を認知していないことはありえない。
 こういう社会には上意下達はあっても民意上達はありえないのである。実際,B小学校においても,学校長が当該調査の内容を否定しないどころか,部下職員の平常における給食業務の実務の実際をよく認識していることは言うまでもなかった。そしてその問題点についてもである。したがって,給食業務担当職員と栄養士の招致の必要を認めているが,栄養士については設置者である市当局はヤミ雇傭といって学校負担による招致さえ認めず,もちろんその新規招致をも禁じている。
 それでは,学校給食を中止してはどうかという問題に対しては,父兄側から中止反対の意見がでるという。これについて同校PTA給食委員会(B小学校においては学校給食協力会がPTAの一部門になっている)の一委員の言葉をかりれば「これまで給食施設設備のため相当額の金品が拠出されているから,そうそう容易に中止はできないのではないか。中止となればそういう点で父兄からつっこまれ反対される」という。
 また強力に中止反対を主張する一母親は「上の子供が中学に行きだしてから,給食がないので毎日のように弁当を作らねばならない。その手間が大変だが,おかずを選ぶのがまた面倒。近ごろになって,学校給食の有難さがよくわかった」というが,学校教師の犠牲のうえに展開されている給食を,自からの省力の観点から,その存続を願うというあさましさである。まことに正直といえばそれにつきるような意見ではあるが,案外これと同じような意見をもつ母親が多数潜在的にあるのではなかろうかとも感ぜられた。さらにまた,某PTA給食委員の一人は,母子家庭の場合に給食中止は母親の負担をそれだけ増加させるともいう。
 このように,人それぞれに給食中止に関して反対意見をのべるが,本当に心から給食中止に反対し,いな,むしろ発展的にそれを推進しようとしているのであろうか,この点についての建設的な動きが把握できないだけに疑問として残っている。結局,現段階においては,学校給食の意義について正しい認識というものはきわめて薄く,多くの人びとは弁当がわり以上の意義を認めていないようであるともいえる。
 B小学校に限らず横浜市における給食実施校129のうちの大多数が同校の状況下にある時,同校とは比較にならぬすぐれた給食施設を有するG小学校とH小学校において,昭和35年(1960)に集団中毒が発生した。その詳細は別として,原因究明のための聴きとり調査に際して児童たちは,自分たちが給食の一部を摂取しなくても,もし摂取しなかったといえば好き嫌いがあるとして教師にたしなめられるのを恐れて,食物摂取の有無に聞して,実際のことを供述しなかったのである。このため調査の実施に支障をきたしたというが,かかる事例は,学校給食の他の中毒事件においても同様に指摘できるようで,この種の中毒事件における調査方法の盲点になっているといわれている。これに類する具体的事例は,枚挙にいとまないほど多数であるが,これは要するに給食摂取の強制に原因している。さながら当節大盛況をきわめているブロイラーに通ずるものであり,食物の強制は喫食者の立場を無視したものである。
 給食を食べ残さぬように努力することは,食物の強制と裏腹の関係にある。学校給食では,食べ残しを防ぐため子どもが残さないものを与えるようにするため,幅広い食べ物摂取の場がなく,味覚の学習機会が少なくなり,現在のように全国どこへ行っても一にカレー,二にハンバーグといったようなワン・パターンにつながっている。
 上述は農林中央金庫研究センターの最近のアンケート調査24)によるが,同調査報告書ではさらに,だから学校給食の味は大切であり,その後の好みを左右するとして,給食世代(18―40歳)の人たちは濃い味つけのものを好み,食物に好き嫌いが多く,魚離れがみられると。また給食経験者(給食世代の89%)の好きな献立は洋風あるいは中華風に傾きがちで,魚や野菜の煮つけ,酢のものなど和風ものを敬遠するが,給食未経験者のほうが和風のものを含め,好む食物は多岐にわたっている。
 これに関連して近藤25)は「たべもの文化考現学」と題する連載において,日本の食文化からかけ離れた学校給食について,昭和55年2月の献立を引用しながら次のように述べている。「この東京都のメニューには風土性もなければ,委節感もない。津軽,鹿児島のメニューも大同小異で,私には見分けがつかない。社会的に見て,あらゆる食構造が崩壊しつつあることも私には恐ろしい。食べる人,つくる人の食意識構造の崩壊も恐ろしい。教育の場で日本列島が食文化からはるかにかけ離れた食事を,給食の名で食べさせられている子供たちの将来に,私は危機感を持つ」というのである。
 上述に加え現行の学校給食比判を活字情報を駆使して追いうちをかけてみよう。昭和49年(1974)1月10日付『サンケイ新聞』の記事である。〝マナーゼロ"+〝味"オンチ,イヌ食い横行,カロリー主義が追い打ち,強いられる〝早食い",教育不在,〝珍味メニュー"などなど大型活字の見出しに続いて本文が割り込む。イヌ食いの理由については「これなら食器から口に直接かき込むから,こぼす心配もないし,〝早食い"もできる」として「現在,給食にハシを使う学校は全国ほとんどない。
まずフォーク状になった先割りスプーン(メロンスプーンともいっている)1本のところが大勢,それが焼きソバもワンタンもたくみに長べなければならない。そこで,こどもたちが編み出したのが食器から口に直接かき込むから,こぼす心配もないし"早食い"もできる」というのである。
 また早食いが強いられる理由としては「小学校の給食は,準備15分,食事20分,あと片づけ10分が標準的時間配分,これは主にパートタイマーに頼っている給食要員の慢性的人手不足や勤務時間の関係で給食準備や後かたづけを児童たちにさせるため,食事時間の延長はむずかしい。いきおい"早食い"が強いられる」とある。
 これに続いて3人の給食評論が収戴されている。そのうちのB(男)は「給食が必要と考え,注文をつけるのは,母親がラクをしたいと違いますか。それにしてもパンにうどん,なんと非常識,味覚も何もあったあったものではない。これじゃ世界一発達している日本人の味覚はもうダメですね」と,これは前掲の近藤の意見に通じるものである。またA(女)は「メニューというのは一つの生活文化なんです。それを守るべき学校給食が,自ら崩しているのは問題です」という。昭和33年(1958),文部省は「学習指導要領」で学校給食は教育の一環として,学校行事のひとつと明確に位置づけているが,以上の諸事象からすれば,給食のあり方の再検討は必須事といえよう。本章におけるこれまでの記述は,あくまで批判的であっても給食否定ではない。この場合,否定は廃止に通ずるわけだが,B小学校の学校給食の調査結果に基づく問題点の指摘などについても「廃止」といわず「中止」と表記したのはそのためである。まずB小学校についての問題点の対策は,あくまで目下当面のそれであり,調査時点の昭和35年当時のことである。
 大局的な目標としては給食実施のために当該校の教職員が他の教育活動を阻害せぬよう配慮することを前提とし,次の3項を実現化すべきであろう。①調理はセンター方式により,②配分後かたづけは児童の手をかりず,③食事は食堂を利用する。この場合,地域の事情により給食は自由選択制としてもよい。
 最後に学校給食廃止論をひとつ紹介しておく。昭和51年(1976)10月6日付『サンケイ新聞』の記事である。「学校の給食の質は話の様子では満足すべきものの様である。(中略)これは原則論的であるが,学校は子供の知恵に専念すればよいので,昼食の世話までみる必要はないという一事につきる。子供の昼食を持たせてやることが不可能であると言える事態は,実際にそのための食糧がない場合のみである」と。
 政府広報グラフ『フォート26)』No234には,東京都杉並区の学校給食センターが大きく紹介されている。一見して給食の工場生産のほどがうかがわれる。こうして学校給食の普及率は世界一を誇るのであるが,外国から輸入しなければならない小麦に,学校給食の主要な部分をまかせるという変形給食は,世界中どこにもない。「郷土の食物はその地域で食べる」という理念のもとに始めた千葉県松尾町の米飯給食は,全国にもその当時まだ例のないものであったが,ために国の補助は打切られてしまった。国の余剰米対策の一環として米飯給食が全国的に導入されるようになると,松尾町の給食センターは米飯給食のメッカとなり,見学のための来訪者の接待でにぎわうという事態となる。牛乳の過剰生産対策に応じて生乳も導入された。日本の学校給食は,内外の余剰農産物のはけ口として大いに活用され,失政の吹き溜りとなり,児童たちがその犠牲となっているわけだ。
 学校給食の今日の盛況は,こうした事情を背景として,食中毒による死亡事故でも発生しないかぎり,行きがかり上給食は廃止しないという恐るべき学校給食という実態をひめて続けられている。ただ金を払いさえすれば子供の昼食は学校でという安易な考え方,つまり,母親の弁当づくりの省力に対する念力がこれを支えている。私立学校では食中毒でも起きたら人気が落ち,募集対策,ひいては学校経営に支障をきたすから,危きに近よらずで,特殊例を除いて一般に学校給食はしない。

 2 職場給食
職場給食の歴史は沖仲仕・印刷工・硝子工・繊維女工などに関するものを除けば,その歴史はきわめて浅く,殆んどが第二次大戦中の時期からであり,本格的な給食事業が広範多数を対象に展開されるようになったのは,戦後のことであるといって過言ではない。そして昭和30年(1955)代ならびにその後の趨勢をうかがうと,職場給食についてきわめて大局的に整理すれば,およそ次のように要約できるのである。
 企業の規模の大小にかかわらず,また産業のいかんを問わず,職場給食の形式は,弁当食を中心とする大規模給食というのが,最近における大きな傾向のひとつとして指摘できるのである27)。このようような観点からすれば,本節で扱う石川島播磨重工業株式会社(以下,本稿では石川島と略す)という造船大企業の食事は,戦後における職場給食の典型のひとつといえよう。具体的には同社のうち,米国使節ペリー提督の来航の嘉永6年(1853)の創業以降,120余年にわたる長い歴史を有する元石川島の場合に例をとり,その食事について現場調査に基づき,問題点の抽出ならびにその背景について考察をこころみる。
 調査現場は東京都江東区豊洲3-2所在の同所で,期日は昭和36年(1961)8月現在とする。給食実施機関は会社直営であるから勤労部給食課であり,給食対象者は本社,第1,第2,第3の各工場と技術本部および田無工場の全従業員,ならびに協同組合石川島協力会従業員の一部となっている。給食の要員は課長以下94名で,その業務内容は給食事務と給食調理の二つに大別される。
 希望給食制であるが,給食区分は工場食については昼食の弁当,残業食の弁当,深夜食の弁当,通勤外食者の朝の食事,同上夕の食事の5,また寮食は朝の食事と夕の食事の2である。扱い給食数は1日1万1440食,うち最大は工場食の昼食で7880食である。したがって,本節では昼食を中心に扱うこととする。食費は食材料費とその他の諸経費に区分され,食材料費は本人負担,諸経費は会社負担が基本である。これによる会社の負担する諸経費の一ヵ月平均金額は約538万円である。
 昭和29年(1954)はわが国にとって戦後の経済復興の女神の到来といわれた朝鮮戦争(1950-53)の終結した翌年にあたる。春以来デフレが進行し,株価は下落する一方であり,経済界では企業合理化がしきりに叫ばれたのである。石川島も例外でなく,給食面においても企業合理化実施の一環として,昭和33年(1958),あらたに総合弁当給食所を設置,弁当食の内容を改正し,主食と副食あわせて完全弁当に統一した。給食にみる合理化は,さらに総合弁当所の施設改善の着手,ならびに新食堂の建設であった。給食調理については,とくに合理化実施の一環としての総合給食所の施設改善が次のように実施された。
 主食の米飯について説明すると,原料米は米倉庫より貯米タンク(Ⅰ),洗米装置(Ⅱ),自動配米装置(Ⅲ),弁当箱詰込み装置(Ⅳ),炊飯所(Ⅴ)の順で流れてゆくが,この過程中(Ⅰ)より(Ⅳ)までの各装置間の運搬は移動コンベアーにより,(Ⅳ)より(Ⅴ)までの装置間の運搬は炊飯車兼運搬車による。この炊飯車兼運搬車には,自動配米装置(Ⅲ)において定量配米されたところのアルマイト製弁当箱を弁当詰み装置,(Ⅳ)において30個を1箱として10箱ずつ,つまり300個を1車分として積載するが,これは炊飯装置の一部をなし,炊飯所(Ⅴ)において蒸気バルブと連結すると炊飯機能を発揮する仕組みになっている。
 副食については,副食調理所(フライ加工所を含む)で調理されたものが,炊飯車兼運搬車によって副食盛付け装置(Ⅵ)の位置に移動される。この装置(Ⅵ)は別に惣菜コンベアーと称される。両側に立ち列ぶ数人の人手によって副食盛付け作業を行なう仕組みになっているが,容器はアルマイト弁当箱で,材質および型状は主食の場合に使用するものと全く同一である。このことは洗浄の場合に都合よく,また容器洗じょう装置(Ⅶ)を経て自動配米装置(Ⅲ)および副食盛付け装置(Ⅳ)に弁当が移動される場合の仕分けの労をも要しない。なお上述の(Ⅶ)より(Ⅲ)の間,および(Ⅶ)より(Ⅵ)の間の運搬は移動コンベアーによる。
 このように,総合弁当給食所施設の改善は,調理作業の機械化と運搬作業のオートメイション化である。この結果,主食炊飯および副食調理の所要時間が減少し,20人の人員を省くことができたが,これを別に表現すると,1人1時間当り100食が371食というように3.71倍の好成績をあげることが可能となったのである。食事の場所は各所属の職場単位で設けられている控所であり,総合給食所で調製された弁当は,トラックによりここまで配送されていたのが旧来の方法であった。ところが昭和36年(1961)10月より,総合弁当所に続く地下の新設食堂で食事を摂取することに改められた。これにより,会社側からみれば,綜合弁当給食所と各控所との間の配送業務が削除されたことになる。一方,喫食者側からすれば,わざわざ該食堂まで出向かねばならないことになり,雨天にはますますもって迷惑至極のこととなった。なお,該食堂までの徒歩による片道所要時間の最高は23分であるから往復のそれは46分,摂取所要時間を10分として合計56分であり,昼の休憩時間1時間はわずか4分しか残らない計算となる。
 『女工哀史』の第5(章)には繊維大企業の現場における休憩時間に就て同名題目で一項を設け,「休憩は有名無実である」として石川島と同様のことが詳述されている29)。『女工哀史』の内容記述の対象年代は大正中期である。それから戦争を経ておよそ半世紀に及んでも,なお型をかえても本質的に同様のことが存在している。しかも,合理化の名のもとに,総合弁当給食所の設置が時代に逆行する結果を生じさせているということには,いささか経営感覚上の疑惑を認めざるをえないという次第である。なお,総合弁当給食所の施設改善の着手,ならびに新食堂の建設にあわせて,従業員用更衣所が設置される予定である。
 きくところによると,同更衣所に勤務用タイムレコーダーが移転され,出退勤者は通勤服と作業服との着換終了後にタイムレコードをすることに改められるとのことである。従来,タイムレコーダーは通用門わきに設置されていたのであるが上述のように改められると,従業員は通用門と更衣所間の往復時間は勤務時間から削除されることになる。従来現場控所で行なわれていた1日2回の更衣時間についても同じである。
 このことは,給食とは直接関係ないが,合理化の名目のもとに実施される施設設備の新設改廃が,いかに従業員に影響を及ぼすかということの好事例とはなる。新食堂の建設による従業員による従業員の時間的搾取と合せて,注目すべき課題である。
 本章の前半で学校給食を扱ったが,その後中部分で,先割りスプーンの使用にちなんで児童の犬食いのこと,ひいては早食いのことを述べたのであるが,なぜ早食いを必要とするかの理由の根底に,給食要員の人手不足と勤務時間という問題があることをみた。実は,この問題は給食費の値上げとか,当該学校の設置者である教育委員会の予算措置で改善されることなのである。それら必要な対策を講ぜず,その非力のしわよせを,喫食者である児童にかぶせることで,事態を糊塗しているわけである。皮肉なとらえかたをするとの誹りを受けるかもしれないが,これも学校給食の姑息な意味での合理化とはいえないだろうか。それは別として,石川島の給食においても,新食堂の建設とその利用制度には,潜在的に早食いを強制する条件が立派に存在するわけである。
 わが国には「早飯早糞早算用」という諺がある。食事,用便,計算が早くできるということは,特技といってもさしつかえないことで,人に使われる者には大切な芸であるというわけである。同じ類のものは他にも沢山ある。いずれにしても,人に使われる身の処世訓であろうが,早飯の発生についてはそれだけの説明では不足である。もともと,殼物の粒食民族には早食い習性がつきやすいのである。とくに雑穀食の場合においてそうなり易い。早食いを美徳とする潜在的な社会的要請と雑穀食による早食いの習性に適合した食べ物か汁かけ飯であり,水漬,湯漬,茶漬であり,さらには丼物であり,カレーライスであり,握り飯である。ほかに看過してはならないのが,給食における弁当という型式なのである。

Ⅳ 食物調理法・調味料の標準化

 1 馳走条件の質的変容
 日本食のパターンを一言でいえば,米の飯を主食とする一汁一菜である。この一汁一菜,つまり汁と菜の数がそれぞれふえて多汁多菜となり,これに酒――ただし日本酒――が加わればハレの日の馳走となる。この日本「料理」は日本酒の肴というわけである。したがって酒宴が終れば最後に,米の飯と味噌汁と漬物が供されることになる。このことはすでに重ねて強調したところであるが,別にいえば馳走とはいかなるものであるかの説明である。今は一汁一菜など見向きもしない粗末な食事で,毎日が盆と正月の連続であるという。その現在に至る食事を考察する手段として,ハレの食事を時代的に紹介し要約してみようというのが,まず本章の出発である。
 ハレの食事の第1例は大正年間,岩手県二戸市所在普通農家の結婚披露宴献立である。食器に合せて掲出するのが次である。
 本 膳
 五ッモリ(サツマイモのてんぷら・セリ・コンニャクのクルミあえ・ノリ・ショウガ)
 おひら(焼長芋・焼麩)
 小皿(ホツキと大根なますの酢物)
 小皿(芝エビとタカナ)
 小皿(タコ)
 小皿(沢庵漬2きれ)
 吸物(1―タラ,凍豆腐,セリ。2―カレイ,ネギ。3―,4―は季節のもの)
 米飯
 味噌汁(豆腐と刻みタカナ)
 二ノ膳
 中皿(コンニャク煮物,削節)
 壺(焼麩・揚豆腐)
 小皿(ホウレンソウの厚い物)
 ちょく(大根おろしに菊の酢物)
 茶椀(シメジ・切り麩・鶏肉)
 ほかに広蓋に一緒盛り(納豆・大根漬・タカナ漬・鰊のカラコ煮・ヒキコンブ)
 皿数でいうと15であるが,料理の品数にすると28,油料理としてのサツマイモのてんぷらと揚豆腐,海産のホッキ・芝エビ・タコ・タラ・カレイと鶏肉を使う以外は,すべて精進料理であり,手の込んだものは皆無といいたい。
 次は昭和36年(1961),横浜市緑区の同じく普通農家の結婚披露宴献立である。
 お湯飲み
 桜湯
 紅白餅
 おちつき
 餅吸物
 うまに
 冷酒差上げ(本盃を廻す)
 清酒
 蛤吸物
 清酒(再び冷酒差上げとして本盃を廻す)
 料 理
 清酒(銚子で)
 刺身
 魚照り焼の皿(照り焼・カマボコ・オタフク豆)
 鯛の皿(焼レンコ鯛・ダテマキ・紅白羊かん)
 握り酢
 吸物(カマボコ・ミツバ)
 おつもりの吸物
 酢ダコとしめサバ
 おつもりの盃
 この後 ソバと茶
 ここでは,おちつき以下で皿数で11,料理の品数にして14,前者の例と比べると皿数も料理の品数ともにはるかに劣っている。しかも,前者が隣保体制による相互扶助の集団組織で料理作りと供膳が行われているのに対し,この第2例では料理作りが,すべてではないが,仕出し屋請負が中心になっていることを加えておく。したがって,料理の品数は減少しているが,既製の商品としての食物(以下,食品とする)が多く指摘される。
 これにみるように,同じ農家の結婚披露宴と称しても,その経済的運用面では自給経済から資本主義経済への移行が顕著となる。この傾向はさらにホテルにおける洋食タイプの披露宴へと移行する趨勢にあるのが現況であるが,ここではハレの食事の例として,前2例に準じ和食を選ぶこととし掲出するのが次の第3例である。
 昭和53年(1978)の長崎県福江市所在某旅館の特別料理である。遠来の客を迎えるのに粗相があってはならないとて,食事の数時間前からの支度であったという。献立は次のようなもの,ただし昼食である。
ハマチの刺身
アワビの刺身
タコの刺身
タコとキウリの酢物
カニの塩ゆで
カツオの照り焼
カツオ・シイタケ・サツマイモのくき
鶏の唐揚
潰物―キウリ塩潰

 全くの魚づくしであり,旅館で供するからには,これまた全くの商品である。この献立は報告者が直接喫食したものであるが,比較的美味といいえたのは,アワビの刺身とカニの塩ゆで,煮物のうちのサツマイモのくきの3点と記憶している。他が美味ならざる理由は,喫食前すでに1時間前より供膳の部屋に,クーラーのかけっぱなしというのが災いしてしまったのである。幸い難をのがれてドライアップしていなかったのが上掲3品というわけで,他の料理より食べ易かったというに過ぎないのである。献立内容が品数の上で多数であり,しかも多量であったということを合わせると,これは全く形式的であり,ただ多菜であれば馳走であるという以外のなにものでもないということになる。
 本章の冒頭においても記述した日本食のパターンを米飯を主食とする一汁一菜とおさえ,多汁多菜を馳走とし,日本料理を日本酒の肴とするのはあくまでも原則であって,特例があって当り前である。これを別にいえば,特例を認めるという条件つきの一般論でなければ,その理論は誤りであり,虚偽であるといっても過言ではあるまいというのが,文化現象を把握整理する場合の基本原則である。すでに掲出した第1例の献立においては,飯・味噌汁・漬物の3品は厳然と位置づけられているが,第2例の献立では上3品はすべてなし。飯に相当するものを強いて探せば最後のソバである。第2例の,横浜市緑区の同一地域の明治年間の普通農家の結婚披露宴の献立は,手作りの濁酒にわずかに次の料理が供せられるのみである。
 大皿(地作りの野菜煮〆の盛り付け)
 親椀(ソバ)
 猪口(つけ汁)
 皿(コマツナのような青味)
 上は皿数は4であるが,料理としては野菜の煮物とソバの2品ということになる。このようなものが供されてから4,50年後の献立が第2例なのである。元来農家など一般庶民の世界には結婚披露とて,かつての武士階級のような面倒な固定した故実が伝承されているわけではあるまい。最後の第3例でも同じで,この献立では味噌汁が省かれている。
 ところで,多汁多菜を馳走とし,日本料理を日本酒の肴とする原則は,その後どのように変容していったか。都合のよい資料のみ引用して論述する誹を避け,総括整理するとおよそ次があげられる。対象年代は戦後以降,とくに最近およそ20年前後を中心としてである。
 (1) 酒は日本酒に限らず,ビール,ワイン,ウイスキー,その他のアルコール飲料にまで拡がってゆく。
 (2) 多汁多菜が,多菜にのみウエイトがかけられ,ただ品数の多いことをもって馳走とするようになる。
 (3) 購入食品の使用過多が目立ってくる。
 (1)について――最後まで自給体制を保続しつづけたようにみられる農村において,かつての宴席はすべて自家製の濁酒のみであった。(現在でも濁酒を醸造する地域あるも,自家製が市販の清酒よりも安価であるという経済的理由よりも,むしろ美味にある)が,最初の一杯,つまり乾杯のみ商品としての清酒を供するようになる。それから次第に清酒飲用にすべて移行するようになるという細部の変化を包蔵しながら,次にはビール,ウイスキーの順で多様化する。ワインについてはクリッシャー30)は「日本の女性にはワイン党がふえているが,これはワインが,フランス印象派の絵画に描かれているような,ロマンチックなヨーロッパの情景を想わせる異国情緒をかもし出すからであろう」と,ムードで飲む酒を指摘している。まことに適言といえようが,これは別に欧米志向の舶来上等思想の現代版のひとつといえよう。といって「マーチンやマンハッタンのようなカクテルは,ほとんど日本では知られていないように思える」と語っている。まことに然りである。飲酒における欧米志向は別に流行を追う傾向に走りブームに乗じ,欧米人とは異なり,食卓の個人主義はみられない。つまり同席の食卓では上席者とか年上の年配者とか,婦人とかその席々の有力者の好みにあわせて,一同が同一の飲食を行うというのが通例である。
 (2)について――前掲第2例の内容形式につきるが,この類は枚挙にいとまないほど沢山にある。食べものの美味とか,そのための心づかいはいずれかに霧消してしまって,全くの物質主義の食物にみる極限といいたい場合が多い。
 (3)について――購入食品の使用過多については,まず調味料としての砂糖・醤油・ソース・化学調味料・カレー粉・油脂の6をもって説明する。この場合,調味料とか調理法をとりあげる以前に,いったい何を食べていたのか,また食べているのかをまず台としてとりあげるべきであろう。過去のわれわれの食事について,主食が米飯でおさえ主食の従としての副食について味噌汁と漬物を除けば,それは第Ⅱ章でみた大量調理に関する副食のように単品であり,粗末なものというのにつきる。それを副食とする場合,よく日本料理は食材料の持ち味を極度に生かすことを特徴とするというが,そのような調理では,主食の友としての機能が発揮されるであろうか。これについては疑問というより,むしろ否定さるべきであろう。したがって塩分過多ぐらいの調理の方が,副食のそれとしてはむしろ好ましいといえよう。このことは砂糖以下前掲5品の使用過多についても同じで,要するに副食の濃厚な味つけは米食に適する好ましい調理法といえる。食材料の持ち味を生かすためには薄味にかぎるわけであるが,それは食膳を飾る料理が多汁多菜になる日本酒の肴の場合に許容される調理法であるといえよう。旺盛な食物摂取を要する労働に従事する生産者にとって,ふだんは無縁の調理法である。
 調味料の使用過多となる理由の第2は,食材料の品質をカバーするために,濃厚な味つけをするためである。これは古くからある慣行であるが,現行の学校給食でも行われていることで学校給食で育った給食世代(18-40歳)の人たちに濃厚な味つけのものを好む傾向が同世代の人でも給食未経験者に比べて多数であるという31)。
 理由の第3は,購入食品を貴しとする,自給経済的環境から発する本能的ともいえる思考法によるものである。別の表現をすれば,他人を接待饗応するに際し金品を惜しまず,全力をもって努力するという意志のあらわれとすることである。したがって,接客側は無理をしてでも飲食に出費しなければ,後で物惜しみの誹をまぬかれないので,不必要な消費が行われ,調味料の使用過多となる。などなどいろいろであり,醤酒をどぶどぶ,化学調味料をぱっぱっの姿態が創出されるわけである。

 2 食品嗜好の均一化
 食膳に供される品数が多数となり,賑かとなれば自然,調味料の使用量は増大する。この場合は使用量の過多ではなく,使用量の増大である。使用量の増大の台となる時代の食糧事情を確かめてみるとすれば,具体的には「戦後は終った」といわれた昭和31年(1956)以降における副食についてである。
 それ以前の安定した時期といえば,戦争期間を除くおよそ昭和初年代(1936年頃まで)となる。前後するようであるが,この時期における食糧事情はどうであったか。副食に関して鯖田の所説32)をもって説明としよう。
 「動物性食品はどの程度食べていたかというと,魚は1日ひとり平均小鰯1尾,肉類はといってもピンとこないですから,ウインナソーセージで表現しますと,1日にあの小さなウインナソーセージの半分くらいしか食べられない。玉子は8日に1つの割ということで,とくに動物食品が貧弱だったわけです」。「手鍋繁昌は都会の現象であって昭和ヒトケタになっても,日本国民全体のひとり1日あたりになおしますと,非常に動物性食品が少ないというのは,先ほどお話したとおり」といって,さらに今は「日本人はよく肉を食べるようになったといいますけれど……欧米諸国の5分の1か6分の1」で,「日本では肉というのはグラム単位で買うものであるけれども,ヨーロッパ,アメリカではキログラム単位,塊で買うものです」という。日本食の洋風化ということがよくいわれるが,あくまで文字の通り洋風化であって,日本食が洋食になったのではない。しかも副食の洋風化であって主食に決定的な影響はおよぼしてはいないのである。
 副食どまりの洋風化について,さきの鯖田33)は「ひとつの理由は,日本人の食生活の洋風化が必らずしも主食と副食の区別をなくさなかったことに求められ……どちらかといえば洋風化は副食の面にかぎられ,副食を豊かにする方向で進んできた」のではないかとおさえている。そして米離れしている現象が「じつは肉食のせいではなくて小麦にだいぶくわれているのではないか,日本の場合にはパンとかめん類」に代替されているだけのことだといっている。肉食の普及増加,洋風化といっても,米食を柱とするパターンを圧殺することなく,ひかえめな副食の変化でしかないのである。こうした枠内での調理法を意識しそれぞれの調味料全般について次に再検してみよう。
 砂糖の大量消費の引き金となったのは,明治27,8年戦後による台湾の領有と糖業振興政策である。それまで日本人が甘いものを食べ,あるいはものを甘くして食べることは少なかった。砂糖の普及でまず菓子が甘くなり,また料理にも砂糖が用いられるようになってくる。そして砂糖の消費量の多寡は文化のバロメーターなどという糖業会社の宣伝に乗せられたがごとくに,その消費が増大伸長してゆく。こうして,日本料理は世界で最も砂糖を使う料理となっている可能性が高いのである。
 ダシは汁物に味付けする場合に用いられ,鰹節,昆布ばかりでなく,魚の頭,鶏骨,椎茸,カンピョウが古くからあったが,イワシを材料とする煮干の登場は,使用法がきわめて簡単であった。鰹節のように削る必要もなければ,昆布のように切り刻むこともない。汁や水の中に入れて,他の食糧といっしょに煮て一向に差支えがない。全くの省力食品であった。価格の比較的低廉であった理由もあって,この類の煮干はまたたく間に広く普及した。低廉な煮干が出現する以前は,ダシなしの料理は沢山あったわけで,タニシをダシとするなどは良い方とされる農山村はいくらでもあったわけだ。煮干の利用衰退は漁獲が減ってイワシ網漁が壊滅したことによる。
 これにかわって登場したのが化学調味料であり,商品名「味の素」であった。画期的なこの発明品に対し,当初の受容の仕方はいろいろで,省力の観点から化学調味料の使用をもって横着者と評する批難があった。日本料理では醤油に代表される食塩系の調味料が味つけの中心だったわけで,油脂系の調味料はあまり使われなかった。
 デリケートな味の差を平均化してしまうのが油脂であり,したがって不味なるものは油脂でくるんでしまえば皆うまく食べることが出来るのである。カレー粉の使用も同じで,食材料の不味なるを美味化するには適当な調味料となる。料理としてのカレーライスは,その代表的な食べものである。これに関連してであるが,最近米がまずくなったというが,理由はいろいろあるであろうが,そのひとつが米の多収穫による古米の増大によるものがある。そのまずい古米を摂取しやすくしたのがカレー料理としてのカレーライスであり,調味料にカレー粉を使用するのは時宜に適した調理法といえよう。ウスターソース,ケチャップソース,マヨネーズなどのソース類の使用もカレー粉と同じである。
 このように,一定量の単位当りの副食料理に対する調味料の使用量の過多,料理の品数の増加と摂取量の絶対的増加による使用量の増大,あるいは新外来調味料の進出により,各種の調味料の使用は,その消費の数量両面において活発である。
 これは全くの一例であるが,昭和27年(1952),山口県久賀町において「すべての家でもっているのは,醤油・味噌・塩・酢・植物性食用油・煮干の7種であり,半分以上の家がもっているものに,昆布・バター・胡椒・カレー粉があり,半分以下のものに「味の素」・唐辛子・わさび・ヘット・ケチャップ・マヨネーズ・辛子・人工甘味料があった」という宮本34)の調査がある。上記の各種調味料のうち,昆布と人工甘味料の2つを除けば,他は全国いずれの家庭でも常備のものばかりといって過言ではあるまい。総計26種ある。
 調味料の分野の活況は,料理の分野と裏腹であることはいうまでもない。テレビ料理の放映はそのひとつの導因であったが,それ以前のラジオ料理でも,日常の料理番組であっても,ハレの料理として活用されるような時代が,放送放映開始の最初にはあったものだ。
 ところで,料理番組の内容について注意しなければならないことは,使用食材料の分量を係数をもって示していることである。戦前における料理書なるものには係数がみられぬのが多かった。江戸時代(1603-1867)の料理の大部分は,その後半期に刊行されたものであるが,それには料理の名称と食材料名は掲げられていても,作り方の説明記述はみられない。現在の専門料理人の使う日本料理書では,料理の作り方はあっても係数は表示されていないのが普通である。経験とかんと目分量,こんな言葉で表現されるのが料理の世界である。
 これに準じてというわけでもあるまいが,戦前,とくに明治時代における小説ではあるが,主人公が料理であるとさえいる刊本に『食道楽』35)という全4巻本がある。はじめ新聞連載され,後単行本となり,ベストセラーになり,版を重ねて大正期に及んだが,これには食材料の分量が尺貫法ではあるが数字で掲出されている。ミッション系の人が出した西洋料理書でさえ,大匙何杯,小匙何杯の程度で詳しい数字は見当らないのである。ただこれらのすぐれた――係数表示があるという意味で――料理書でも,実際には殆んど活用されていなかったのである。それほど当時の食生活が単調であったことが原因しているわけである。
 ところで,調理法というものは近代においては,完全にひとつの立派な技術である。近代的技術の基本のひとつは係数をもって使用食材料の分量を明示することにある。おふくろの味の時代ならともかく,今はそんな時代ではない。多数の料理が要求される現在の社会においては,目分量やかんでは料理は不可能である。まず係数を憶えなければならないから,分量の親切な記述のない家庭料理書は失格という時代である。輸送や貯蔵,保存の施設設備が充実完備され,インスタント食品,加工食品,半加工食品がますます増加し,調味料や香辛料が大手メーカーを中心として規格化され,主にラジオ,テレビの影響で料理はいつの間にか規格化され,画一化されてゆく運勢にあるかのように感ぜられるのが現在である。
 このようにして,食生活の画一化は恐ろしい勢いで進行しているように考えられるが,それは錯覚であり,直線的な思考法であり,物質的思考法であるように思える。というのは,味覚というものは画一化はできないのである。個人的にはもちろん,味の好みというものは,地域的に守り続けられるのだから面白い。
 なお,化学調味料のメーカー自身が,料理法の画一化を意識的に計画することはないという。実際,そのこと自体は不可能事であるからである。ただ,既製食の製造に際し使用調味料の定量化をはかるのはもちろん,それによる味の画一化が現出されることはいうまでもない。外食産業においえ,調理法の統一により同一チエーン店ではどの店でも全く同じ味,同じ品質の食べものを提供するようしているのと同じである。その点を混同しないように留意すべきではある。

Ⅴ 既製食・外食産業とその階層

 1 既製食と需要階層
 3度の食事を,家庭の台所で作りたくても作れない人,また作ることが面倒で作りたくない人が多くなってきた。その人たちを対象に,買って帰ればすぐ食べられる既製食を売る店,またそれらの料理を家庭的ムードや,気楽な雰囲気の中で食べさせる店が,いよいよ増大してきた。それについては,安い原価で収益をいかにあげるかという方法手段が考究されてくる。石油ショックで一様の不安はあるけれども,まだ食糧は潤沢であり,時代の要求に先がけて作り出される食品の数々は,まさしく潜在的にある社会的要請を先どりしているかのようにである。
 本章では既製食に関しては,その需要と階層との関係について,また外食産業に関しては,都市化との関係について記述することとした。
 買って帰ればすぐ食べられる既製食を売る店は,外食産業に対する内食産業に擬せらるべきで,要するに惣菜産業のことである。食べものの封建制というか,食べものに関する嗜好の変更というものは,他の文物の伝播のように容易なことでは逐行されるものではない。
 例えば,牛肉食は家の束縛から解放された新しい食事様式としての魅力をもともなって,まず家の外で盛んになり,やがてそれが家庭内に持ち込まれて漸次普及したものである。第2次大戦後のラーメン,ギョウザの類も同じで,はじめ屋台や食堂で供されなじまれてから家庭に,しかもそれはインスタント・ラーメンの形で普及していったものである。そしてインスタント・ラーメンは魚肉ソーセージと並んで,第2次大戦後の日本食品界の2大発明品といわれている。需要あってのことであるが,この2品のなかには日本の食品加工技術の粋が,殆んどすべて投入されている。
 かつては決して高級品とはいわれなかった牛肉,ラーメンなどが,まさしく時代の寵児としてもてはやされているなかで,食生活の洋風化が進み,今後さらに大変化をもたらすのではないかという昨今である。だがそれは錯覚であり,食生活の洋風化には限界がある。中尾36)は,動物というのは徹底的に食べられるもので,日本人の肉の食べ方なんて全くなっていない,肉食文化が貧弱で伝統がないからだと,肉食の限界のようなものを示している。底の浅い食肉の供給力,これでは肉食の伸長など云々できない。
 牛乳の消費量は醤油のそれの約3倍強にすぎない。電気炊飯器の出現でパンの進出が阻止された,などなどである。このような洋風化の限界に対し,積極的に既製食を拒否ないし抵抗する向きがある。自から台所に立ち,調理を楽しみたい,家族に喜んでもらいたい,作る喜びにひたりたい。公害が心配である。栄養が低下するのではないか。輸入食糧や食品は供給不安定だから嫌いである。こうした否定面をもつ既製食の活況に対して,飢餓を知らない食糧豊富時代の仇花とみなすことも可能である。外食産業についても同じであるが,いったん食糧危機となると原点に戻ることになる。その場合,外食産業は衰滅し人びとは家から用意した弁当を携行し食事に当てることになる。
 弁当の最古の内容は焼き米である。脱落性の強い古品種の稲穂は,完熟前に採集し加工される。未完熟の青籾米を蒸して煎って搗いたものを焼米というのであるが,アルファー化されているから,そのまま食用となる。既製食の原点をたどれば,日本では焼米があげられるが,それは昔をたどる好事家向きの事項であり,必要なのは商品としての既製食である。
 近代の既製食については軍隊の存在,戦争を契機として考案普及されたものが多い。牛肉や福神漬の罐詰,堅パン,固形味噌,醤油エキスなどインスタント食品が古く,明治37,8年戦役には野戦に登場している。即席カレーの元祖となる「カレーライスの種」は明治39年(1906),東京神田の一貫堂から発売されている。佃煮は保存食であると同時に立派な既製食でもあり,ビニール・パックしてあればなおさら機能化する。
 既製食の需給について,大阪市の場合を整理すると次のようになる。総菜は買うものであり,市中の小売店で求める。デパートやスーパーでは,①洋風総菜,②和風総菜,③中華総菜の順である。同じ金額なら洋風総菜はかさがあって見栄えがある。和風総菜は小売店で売っていないものを買う。中華総菜は馳走にはならないし,市中の小売店にはない。
 フードサービス産業も,石油なくしては砂上の樓閣ならず油上の樓閣である。石油という外来のエネルギーの供給が確保できなければ,この業界は成り立たない。また先進的な既製食は,外来の手法により供給されているだけに,横文字の多い世界であり,訳語がないことも手伝っているが,横文字の乱用をもって上等舶来の雰囲気を醸成させている向きもある。こうした事情のなかで,既製食は着々と普及拡大してゆくかのようにマスコミは報じ文化人は書きたてる。
 諸例をあげると次の通りであるが,本当にそうであるか検討する必要はある。①今の若い者というのは,味覚の中に比較する基準をもたないから,ブロイラーの肉を食べてもおいしいと思うんで……2),②夕食にコンビニエンスを使ったのは逆に有職者が50%で,職業をもたない主婦が62%より少く3),③主婦の職場進出で調理労働の簡便化,調理時間の短縮化傾向が強まり,インスタント食品を購入している家庭が80%以上に達している4),④主婦の外出がふえたためか,食事作りが面倒になったためか,惣菜がよく売れている5)。⑤スーパーストアであれこれ買い込みながら,その半分は使わず,冷蔵庫でしなびさせてしまう――ある調査の結果である6)。⑥インスタント食品が出てきたり,あるいは冷凍食品で,いつでも電子レンジで解凍できるということになる。まさしく,小なべ立てもいいところで,食事は全く個人化してくる7)。
 以上,6例を任意抽出の形で掲上してみたのであるが,これらから既製食の普及拡大の動因を指適することは不可能である。ただ,台所に立ち食物をつくるのが婦人であり,その婦人たちの選択意志によって,既製食の家庭への導入が決定づけられていることは間違いのないことである。日本の,とくに家庭婦人は家庭における食物調整以外に,もはや彼女たちのなすべき仕事が皆無になったといえるほど,便利な社会になったというのが現実である。たまさか料理することは楽しいことであり,良い趣味に属するといえる。だがそれが毎日3度の食事の準備,結仕,後片付けとなると,大儀を感ずるのは当然であるともいえる。そこで事情が許せば,家事に関する省力が食物の調理や食事に及ぶのも必然性が認められる。
 巷間流布されている省力料理というのがある。カーサンヤスメ料理(母さん休め料理)という。カはカレーライス,サンはサンドイッチ,ヤは焼そば,メは目玉焼になぞらえる。面倒なものはすべて外へ委託するということになれば,握りずしや握り飯がよく売れる。チエーン化した供給業者にいわせれば「奥さん方は,私共の店から,安さを買うんじゃない。便利さを買うんです37)」とうそぶく。昔からの伝統食への郷愁は,小料屋が流行っていることでわかるが,これは伝統食が家庭から締めだされているからでもある。とかく調理に手間のかかる伝統食,手作りの類は主婦の忌み嫌う分野である。手作り料理があえて珍重され,郷土料理と称して食品化され,それを供する飲食店の輩出がみられるのは,家庭婦人の省力志向の結果現象ともいえるわけである。もっとも,手作り料理,ひいてはおふくろの味,郷土料理と称する類は,貧しさゆえに,忙しさゆえに,農家の主婦たちが長年の間に自然に案出した食べものであり,いくら美文をもって喧伝したからといって,決して文化的であるとはいえない代物であるとする説もあるわけだ。
 既製食普及拡大の動因として抽出したなかで,最後の「小なべ立てもいいところで食事は全く個人化してくる」とあるのには留意する必要があり,注目すべき事項であると強調したい。本報告の序言において記述したように,日本の近代社会突入の冒頭において,食の近代化の菜として小なべ立てと外食との2つを指摘しておいた。この2点は,いずれも本章の主題にかかわるものであるが,小なべ立てとは,食事に際し家族などその家に起居する者が一同そろって同じ鍋釜で調整された食べものを,同時に摂取することを常とする旧時代において,一同の目をさけ,独り自分の好みのものを調製し,ひそかに口にすることをいうのである。小なべ立てとは,要するに一味同心から逸脱した食生活における個人主義の強調であり,旧体制からすれば背徳に通ずることであるが,歴史的にいえば先進的行為と解すべきである。
 食物の多種多量の流通現状においてこそ,小なべ立ては容易に充足可能になったわけである。したがって今みる家庭の食卓のにぎにぎしさは,まさしく小なべ立ての完全実施の様相を呈しているということであり,摂食者側も供食者側も気楽に接する食卓といえる。ただ,このような食卓の品数の多数をもって満足とするのは,これが馳走であるとする旧時代の慣行に通ずるものがあり,美味の追求吟味の面が欠除している。
 食の近代化は大量生産に通ずるが,そのための食品工業のことを思えば,どうしても美味の追求は困難であると断ずることになるとする意見がある。これも任意抽出の形になる数例であるが,例えば,①大量生産で物が普及しだすとまずくなる,②食べ物の話をするといつて工業化された食べ物はまずいとか,いやだとか,自然がいいという話になる,といった意見から,いっそ頭から,③インスタント食品というのは決しておいしいものではない,ときめつけるものまである。だが,食べものの多様化も調理の簡便さも,またその普遍化も,少しも悪くはない。加工食品の良さは,保存にたえること,新鮮さをたもてること,運送が容易であるから便利なこと,何時どこでも入手できること,大量生産すれば安くなること,誰れでも調理できること,味の均一化など,良い良いづくしの如くである。コンビニエンス・フードの宣伝文句に終るような言葉の羅列であるが,要はその活用法に問題がある。
 冷凍食品には調理食品659を頭に水産物129,農産物72,そのほか畜産物やアイスクリームなどを含めて,現在およそ1000品目近くが市場に出まわっている。これに対応するために,旧来の電気冷蔵庫は冷凍冷蔵庫へと移行しつつあり,これに電子レンジが加われば,家庭の厨房は一段と近代化されたようになる。こうして電気冷蔵庫時代と冷凍冷蔵庫時代とは,はっきりした変化が認められるのである。大型フリーザーつき冷凍冷蔵庫が嫁入り道具となってきたということなど,新しい文物の導入要因の日本的事例である。
 冷凍食品に限らず,乾燥保存のインスタント食品も,固形スープなども品質が改善され,台所をあずかる主婦たちは大変助かっている。この新しい既製食はまずいものと頭からきめつけ,諦めることは不当である。食べものは元来,美味でなければならないのであり,それが充足されないのは,新しい既製食の生産技術の未熟さ未発達に原因しているわけである。そういう意味では新しい既製食は発達途上にあると断ずべきである。
 最後にインスタント食品のひとつとしてインスタント・コーヒーについて加えておく。インスタント・コーヒーの普及は目ざましいものがある。そんなものはコー
ヒーではないという向きも多いであろうが,また,コーヒーは一般的飲みものではなかった時代もあったが,現在ではそれが出廻ったために,一般の湯茶のひとつとなったのである。これに倣うがごとくに,喫茶店の数も増加し,昭和41年(1964)度全国で2万7200店が,13年後の昭和53年度に10万6900店と急上昇しているのである。こうしたなかでの既製食の消費現況を首都圏にみると以下のようである。
 第1話――歴史的には新興ターミナルに属する西武デパート池袋店では,洋風惣菜が売れはじめたのは昭和48年(1973)ごろからで,パンの売れはじめたのに一致する。同49年,7階にデリカショップを開設,都内有名店が参入したが高級料理に人気が集まる。同50年に地下2階に惣菜売場を拡張し,54年秋には地下2階の約1000平方メートルを改装し「ホット・デリカ」と銘打ち,積極的に販売推進を試みた。デリカとはデリカテッセンの略で,欧米ではハム・ソーセージを売る店のことだが,日本人向けに和食,洋食,中華料理など1080程の副食を並べている。「食生活構造の質的変化をひしひしと感じますね」とは当店食品部長の言である。
 第2話――(前承)ホット・デリカの売上げは3.3平方メートル当り1日約20万円であるから,全国でもトップクラスに属する。食べる人は若い人が多い。グラタン・ピザに人気集中,半加工品より調理ずみ食品が売れる。例えばコロッケはパン粉をつけたままのものより,揚げたものの方が売れる。和菜より洋菜に人気あり,高級品(高価なもの)は中年男性に,独身者には計り売りが喜ばれる。
 第3話――冷凍品の声れるのはターミナルと居住地付近のスーパーマーケット。銀座の冷凍食品の顧客は飲み屋と飲食店である。
 第4話――おにぎり,サンドイッチ,持ち帰りずし,つけ麺そしてインスタント・ラーメンは現在も良く売れる。「当社の新製品であるインスタント・ラーメン売れて売れてうれしいが,ちょっと売れゆきに異様の感あり」とは某メーカーの食品部長の話である。
 今春福島県会津地方を旅行中の列車内乗客の食事暼見であるが,明らかに現地の人とおぼしき中年2婦人の昼食に口にしていたものは2人とも同一物――クリームパンとキウリの丸漬け1本丸のまま,オロナミンCにアイスクリン(アイスクリームではない)の4つであった。オロナミンCは飲みもの,アイスクリンはデザートに擬せられようか,キウリの丸漬け以外はすべて既製食であり,それらはおそらく現場から列車で約2時間の会津若松で製造されたか,あるいは会津若松経由で搬入された食品としてのそれである。なお当該列車とは,観光地として有名な奥会津を走る国鉄只見線の普通列車であり,1日4本の運行,同地は冬季の深雪,僻地としても有名である。これに対する東京都心の子供たちのなかには,同じ昼食といってもインスタント・ラーメンに自動販売機でもとめたオレンジ・ジュースでテレビ見ながら,それを食べるという商家の子供の食事。いずれも異様な光景とも思えないような日常生活の1齣である。これこそ食における日本の近代化の終着点の否定面であり,食生活にみる現在の恥部というべきであろう。

 2 都市化と外食産業
 外食産業とは,ソバ屋,食堂,レストランから旅館・ホテルの食事部門,列車食堂など大部のものであるが,ここで主として扱うのはファースト・フーズを中心とする店舗経営の高度の省力化とか,大資本による大規模チエーンの展開などで,現在急速に成長している新しいフードサービス業のことをいう。昭和45年(1970)にマクドナルドとかケンタッキー・フライドチキンなど米国の外資系チエーン店が資本進出して以来,牛丼などの和風ファースト・フーズ店や郊外型ファミリー・レストランなど多様である。
 新型の外食産業では,どのチエーン店でも全く同じ味であること,同じ品質の食品が提供されるべく調理法が統一され,新鋭工場で集中生産され,したがって人件費が大幅に圧縮されている。このように外食産業が伸張発展したのは,国民所得の増大,主婦の職場進出などにより,外食率が上昇したことの反映であるといった通俗的説明はされているが,重要なことは,家庭婦人の存在を無視することはできないとするのは既製食の場合と同じである。なおファースト・フーズとは,受注から発注者のもとにきわめて短時間にして速かに供される食品という意味で,ハンバーガー,フライドチキン,アイスクリーム,ローストビーフ,サンドイッチ,ドーナツ,ピザパイなど,また和風では吉野家の牛丼が有名である。
 インスタント食品や調理食品を家庭内での簡易化の極とすれば,ファースト・フーズは外食の簡易化の極といえよう。最近では乳児用の外食産業もできていて,生まれ落ちるとすでに外食がまっている。そして,美食ブームよりむしろ外食産業に味覚が食われ始めているのではないかというような高度成長を続けている。
 しかし外食産業は全体から見ると小規模な雰細企業から成り立っており,法人企業はわずか12%を占めるのみであるが,同じ外食産業と称しても,企業数では少数の外食産業の特徴のひとつは,旧来の外食産業がただたんに食事を供する施設のみでないということである。つまり,ただたんに材料を調理し,客に供し,後片付けをするという,いわゆる旧来の外食食堂一飯屋にみるような家事労働の肩代りばかりでなく,料理を楽しみ,酒を楽しみ,同時に雰囲気を楽しむという,レジャー的機能をも兼ね備えているのが今の外食産業の特徴なのである。
 ただたんに食事を供する施設でのみあるならば,産業化したものとしての古い事例もある。明治11年(1878),すでに東京市15区内に点在していた牛肉店「いろは」は22店を数えていた。当時のチエーン化としては異例なことである。またその後「須田町食堂」が抬頭し,チエーンを維持する技術,つまり経営組織を確立した点は注目に値するものである。これが現在の「聚楽」である。およそこの段階までが,産業化した古い食事施設の例であるが,昭和期(1926-)以降には,これにレジャー的機能が加わる。昭和期当初からの東京・大阪など大都市所在のデパートにおける買い物は戦前のレジャーの代表格に擬せられる。そこでの目玉商品が,総合食堂での食事であった。東京の例として当時「東横百貨店」(現,東急デパート)の管理部門に属していた某氏の言を要約すれば次の通りである。「東横食堂と称するのがあった。そのグランド・ベースは惣菜屋であり,倭小なものが幾つか集合したものである。東横食堂の顧客は慶応大学日吉校舎の学生,東京農大,青山学院。女子では実践女専生。制服が黒づくめであったから,『カラス食堂』の異名あり。ライスカレーが25銭,コーヒー5銭,お汁粉5銭。お汁粉を7銭に値上げしたところクレームがついた。不況時であったから。大阪の阪急デパートを真似したのである。東横百貨店は昭和7年創業であるが,電鉄会社(東横電鉄)の広域営業の具体化であり,東横食堂もそのひとつである。百貨店の上の階には大食堂やお好み食堂があり,客の注文で刺身をおろしたり,カウンターですしを握ったりであり,これも多角的経営の一例である」となる。
 外食産業におけるレジャー的機能について,再び立ち戻るとして,昨今の若年層の飲酒の動機は,雰囲気を楽しむためということであり,飲酒そのものが目的ではないのである。つまり,アルコール飲料を媒体として人と語らい,雰囲気を楽しむものであるから,ビールの水割りまで登場する次第となる。これは若年層,とくに学生に人気の集まった戦前の喫茶店が同じであり,コーヒーそのものを飲むために喫茶店に集まるのではなく,コーヒーを媒体として店に集合し,自らの発する雰囲気にひたったのである。現今のパブやスナックはこれに通ずるものであり,より楽しく明るく飲めるところを求めてという要請にこたえるものとして現出したのである。こうして旧来の酒場やビヤホールは若年層の要請に対応しきれなく,中老年層向きの施設として,やがて消え去るかのごとき先細りの状態にある。
 外食における雰囲気の重要性を強調する事例として,同じ若年層に受け入れられたのがマグドナルドのハンバーガーである。ハンバーガー,フライドチキンなど舶来のファースト・フーズは,エキゾチックなものとして,ハレの食事として,受容されたのである。立って食べるという,かつては否定された食事作法が逆転し,かっこ良さとして受容されたのである。まさしくハンバーガーの美味なることが問題なのではなく,舶来のハンバーグを立食いするということに意味があるのである。この典型がマグドナルドの銀座出店であった。昭和46年(1971)7月であるが,この時の爆発的人気は,同社の日商としては世界的記録を示したという。
 ハレの食事がいつしか定着して,日常のケの食事と化するように,かつては家族そろって食事に出かけることなぞ考えられなかったのが今は日常化し,家族団らんの食事を半分以上の家庭が月1回以上外食によって楽しんでいるという。ただし,大都市圏の場合である。この主導権を握っているのが,既製食の場合と同じく,どうやら家庭婦人にあるようだ。面倒くさいものは皆外部へ委託する。外注といえばそれまでだが,既製食あり,出前あり,子供は学校給食に,夫は社員食堂にまかせて,さては外食の利用となる。そして,たまさかファミリー・レストンを家族一同訪れるとなれば,店の決定権,料理の決定権は子供にゆだねる。こうして小学生の子供が特大のアメリカン・ステーキをジュースを飲みながら食べるという情景にでくわすということに相なるわけである。もちろん,これが日本のすべてに広くゆきわたる現象ではない。業者の立場からすれば,そして東日本の場合であるが,それは首都圏内におさまる現象となる。
 ファミリー・レストランの大企業,スカイラークは新チエーン店の候補地探しを行っているが,都心から20-100キロのドーナツ地帯にはチエーン化されたレストランだけで約600店あると見倣している。そして新候補地選定には飛行機から見て,屋根が大きく,古いものが並んでいる地域は駄目。ねらいは小さな新しい屋根である。年収にして300―500万円の階層が最大のお得意とするそうである38)。私見であるが,実は既製食の有力な市場もほぼこれに重なるのではないかと考える。
 日本がこの20年来歩み続けた高度経済成長政策は,農村の潜在的余剰労働力を吸収する形をとり,それは農村の次三男問題を一挙に解決したが,それのみか農家の経営主や後継者たちまでが吸引されることになる。このように都市に人口を集中させ,集中した人間が産出した工業製品を全国くまなく流通させようとした。自動炊飯器,電気洗濯機,白黒テレビ,電気冷蔵庫,マイカー,マイホーム,カラーテレビ,そしてクーラーなどである。おおげさにいえば,このような日常生活上の新しい武器が次から次へと出現し,情熱的に求められ,人びとの思考と行動範囲を大きく拡げ,常識の枠組を新たにし,かってない活気を醸成したのである。こうした経済成長の度合いこそ幸福増大の尺度であるという観念と信仰を創出したのである。
 全く人びとの幸福観は確実に物質的であり,思考法は直線的となった。昨日よりは今日が,今日よりは明日がより充実してゆくというのである。こうして即物的安定感という錯覚が生じるわけである。新しい物質文明は善であるかのごとく,安易にそれを受容してゆく姿勢は食物食事においても例外ではない。既製食需要の階層,ならびに都市化と外食産業との関係は,全く裏腹の関係にあり,地域的に一致するのである。具体的には,大都市周辺の工場地帯や住宅地帯として農地の蚕食されてゆく,いわゆる虫食い地帯であり,さきのスカイラークが新チエーン店候補地としてねらう半径20-100キロのドーナツ地帯ということになる。飛行機で上空からみて「小さくて新しい屋根」,新建材の赤い屋根,青い屋根の地帯の住居が急増する都市人口なのである。農村から排出された人びとを主体とするこの新地帯において「女子供に田舎っぺ」は神様なのである。

小 括

 かつて陸上自衛隊の某駐とん地を訪れた時のことである。防衛大学校卒業の若い幹部は糧食班長にまわされたとして,くさっていた。糧食を含めて需品系統のポストは役人の吹き溜りと心得ているようである。彼は体でそれを感じていたのである。男子厨房に近よらずで,食べもののことをとやかくいうのは禁じられていた風潮は今も残っているわけである。
 報告者に対する世人の口吻も同じである。「何を専攻しているか」の問いに対し,「食物史である」と答えれば「良いご趣味ですね」,「優雅なことよ」というばかり。食物史は学問であり,科学であると意気まいても,相手にされないような状態である。そんななかで選ばれての報告書作りの次第であるが,これはわが国の生活史分野に関する研究の立遅れを物語るばかりで他意はない。
 戦後のわが国においては,軍隊の存在ないし戦争が歴史におよぼす影響について,これを軽視ないし無視する傾向が強かった。平和憲法のよって然らしむるところは,軍隊の存立ないし戦争の否定となり,歴史におけるその存在や意義を考察することすら恣意的に回避した向きがあったのである。したがって,本報告に限っていえば,戦前における軍隊の存立ないし戦争が生活における近代化に,いかに寄与したかということについて,正しい位置づけなり評価がされていない。食についても全く同じである。この解明には旧軍関係の資料入手がまず必要であるが,終戦時の軍関係文書の焼却処分などにより,資料入手がきわめて困難であるという制約がある。
 以上のような事情をふまえて,この報告書を作製するまでに至ったのであるが,資料的制約は現況把握についても同様といえるのである。企業側の業務上の秘密もさることながら,例えば外食業は何軒あるかといった単純な数字すらも正確には,どこでも掴んでいないのである。食に関する現況は混とんとして,さだかでない面が多い。こうした状況下での作業であるから,各章の内容には精粗のばらつきがみられるが,以下感じたことの若干の列挙をもって終りたい。
 日本食のパターンは米飯を主食とする一汁一菜であるから,大量調理については,まず米の炊飯についてとりあげることになる。
 一汁一菜は副食となる。日本人固有の米飯の嗜好は炊飯法にあらわれ,副食の味付けは米飯に適したものとなり,その特徴はおのずと濃厚なものとならざるをえなかった。ただし,これは日常の食事の場合である。食材料の持ち味を生かすことに努力し,濃厚な味付けを否定するのは,酒肴としての多汁多菜,つまり馳走の場合である。このように日本料理は米飯を主食としながらも,ケの日とハレの日の食事とでは味付けが異なるのである。この味付けがいつも変わらず同じであるようになるのは,日本酒が美味ならずとも習慣的に飲酒するようになってからの顕著なる事実である。
 また日本食の洋風化というのは,副食に関してのみ主としていえることで,その洋風化さえも主食の米飯の味を崩さないことを前提とするのが原則であった。現在,食べもののシュンを強調する向きがあるが,シュンくずしは今に始まったことではない。規模の相違はあるが江戸時代から存在した事実である。季節はずれの早どりの野菜の栽培,ならびにその販売を法で規制したのは奢侈禁制から発したことで歴史的に明確である。
 学校給食,工場給食については古くからある早食いに焦点をあわせたが,それを美徳となすのは過去のものとなったとしても,無視していることには,食の問題が食の問題にとどまっていては理解できないのである。
 新しい食べものの善悪当否は別として,自分の好みのものを自己の発意で摂取する小なべ立ての普及発展という現実は,歴史的にも,また現実的要請からしても,ともかく賞揚すべきである。これこそ食における近代化の第一としてあげるべきであろう。
 近代化は食においても一面,均一化画一化を必然とするが,それはあくまで単品についてであるから,複数の組合せにおいて画一化均一化の欠点を補うことになろう。これをいいかえるならば,同一の食べものの摂取をもってその善悪良否を決めるのではなく,自からの好みの食べものをあれこれ一緒に食べ合せる食事法の積極的創出である。個人においても複数の食べものを要するが,多人数になれば,食べものの数はますます増加するのは当り前である。かくてわれわれの家庭の食事は品数のうえではにぎにぎしくなる。
 一家庭内の老若の嗜好とか主婦の食事準備の思惑など,種々なる要因によるわけであるが,いずれにしても,主婦の食事準備に関する負担は,旧来の食事にかかる労とは異なる形で生じてくる。既製食を購入するとしても,また家庭で調理するとしてもである。後者の場合,だれでも作りやすい料理書を必要とするという社会的要請が一般的に生ずるわけである。
 食の問題は,物質としてのそれのみを扱うことは片手落ちであり,栄養に留意し,それを強調すればするほど,人間の食べものから遠ざかり餌的になる。給食産業にとかくみられる問題点であるが,外食産業にみるような食事のみならず雰囲気をも合せ商品化することに留意すべきである。持ち帰りずしについて,安さを売るのでなく,便利さを売るというのも同じである。外食産業においては,久しく忘れさられているようにも受けとめられるスマイルを売りものとする業者もみられる。
 ことほどさように結構ずくめのら列に堕するようであるが,要は調和の問題であり,今後いかように目下当面の現況のなかで自からが必要なものを撰択摂取するかにある。ここにとりあげた5章の,それぞれのテーマーは,唐突なものではない。既在のものを台とし,そのうえに積みあげるべく,それを良いとしたものを扱ったまでである。ただし,歴史的受けいれ基盤があるとしても,それが定着し発展するかどうかは,また別問題である。

 注
 1)川島四郎『炊飯の科学』光成館,昭和49年,1ページ。
 2)後藤民男(千葉市立加曽利貝塚伝物館学芸員)談。
 3)前掲『炊飯の科学』,130ページ。
 4)帝国法規出版(株)編『帝国法規』「第17類(甲)兵事(9)」所収,「第13編付録第2陸軍各隊陣営具備附標準表」(其ノ1)より抜。部隊名と数字を略し品目のみ掲出。
 5)高橋孟『海軍めしたき物語』新潮社,昭和54年,88-89ページ。
 6)和田英『富岡日記』上毛新聞社,昭和48年,後掲引用37ページ。対象年代は明治6-7年(1873-74)。
 7)農商務省編『職工事1情』生活社版,全3巻の刊行は,第1巻が昭和22,第2巻が昭
和23,第3巻前同。
 8)横山源之助『日本の下層社会』岩波書店(文庫),昭和24年。
 9)細井和喜蔵『女工哀史』岩波書店(文庫),昭和29年。
 10)花田実(戸板女子短期大学教授)談。
 11)学習院『学習院史』学習院,295-97ページ。
 12)山路健『飽食と粗食』丸ノ内出版,昭和55年,145ページ。
 13)宮本常一『食生活雑考』未来社,昭和53年,270ページ。
 14)前掲『職工事情』第1巻,141-45ページ。
 15)同前第2巻,141ページ。
 16)前掲『女工哀史』172-73ページ。
 17)同前,173ページ。
 18)「野戦砲兵第5連隊『兵卒入営中起居生活ニ関スル概略』明治24年12月」,広島県編『広島県史近代現代資料篇Ⅰ』広島県,昭和48年,641-45ページ。
 19)高橋清「戦艦『武蔵」の台所」,『あさめし ひるめし ばんめし』1980年秋24号,みき書房,昭和55年10月,29ページ。
 20)同前,31ページ。
 21)前掲『女工哀史』171ページ。
 22)原書は国連食糧農業機構栄養第10号として作製されたものである。邦訳は大磯敏雄,第一出版,昭和29年
 23)大塚力「学校給食」青木英夫共著『食生活史』至文堂,昭和39年,168-79ページ。
 24)農林中央金庫研究センター『国民食生活と学校給食』昭和55年。
 25)近藤弘「たべもの文化考現学」下,『朝日ジャーナル』1980年5月23日号,104ページ。
 26)総理府編『フオート』NO234,時事画報社,昭和39年10月。
 27)大塚力「職場給食とその源流」前掲『食生活史』144,153ページ。
 28)同前,136-37,139,143ページ。
 29)前掲『女工哀史』106-07ページ。
 30)バーナード・クリッシャー「食の比較文化について」小玉武編『サントリー・クオータリー』1980年季刊7,サントリー(株),昭和55年,25ページ。
 31)前掲『国民食生活と学校給食』
 32)鯖田豊三「肉食文化と米食文化」多田道太郎他『食の文化』講談社,昭和55年,186,201-03,208-09,214ページ。
 33)同前,214-15ページ。
 34)前掲『食生活雑参』289ページ。
 35)村井弦斉『食道楽』「春之巻」,「夏之巻」,「秋之巻」,「冬之巻」,報知新聞出版部,明治36-37年,同『食道楽編纂』「春之巻」以下4巻,明治39-40年。
 36)中尾佐助「食べるということ」前掲『食の文化』62ページ。
 37)読売新聞夕刊連載「あゝ,お食事産業」1980年1月4日付。
 38)同前,1980年1月7日付。