公害

論文一覧に戻る

技術導入の社会に与えた負の衝撃

著者名: 宇井純
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
本ページのPDF版を見る
 目 次

足尾銅山鉱毒事件の背景・・・・・・・・・・6
鉱毒問題の発生―起・・・・・・・・・・7
大衆運動の展開―承・・・・・・・・・・11
政府と企業の反撃―転・・・・・・・・・・15
結―運動の終息・・・・・・・・・・18
戦後の低迷と再発・・・・・・・・・・20
考察―足尾鉱毒事件の教訓・・・・・・・・・・27
関 係 年 表・・・・・・・・・・34

 16世紀末から約300年にわたって国を鎖ざし,徳川幕府のもとに封建制度を維持して来た日本が,19世紀後半に開国し,明治維新以来わずか1世紀余で,世界第2の工業国にまで高度の経済成長をとげた経過は,近代史のひとつの奇跡と見なされた。多くの発展途上国が日本の事例をひとつのモデルと見なして,その摸倣を試みている。この高度経済成長の最大の原因が,西欧からの技術の導入とその急速な定着にあったことも,多くの人々が自明のこととして認めるところである。
 しかし実際には,西欧技術の導入とそれに伴う経済の高度成長は,正・負双方の衝撃を日本社会にもたらした。その正の面である近代工業国としての日本の発展が世界に知られているのにくらべて,負の面はあまりにも知られていなかった。その最も深刻な形であらわれた問題である公害は,1970年代に入ってようやく外国にも知られるようになったが,実は技術導入の当初から大小の問題が起っていたのである。すでに19世紀末から,日本の公害は地域的に無視できない問題になっていた。その最大のものである足尾鉱毒事件は,大逆事件と並んで明治の2大社会問題といわれた。直接に被害をうけた農民の数は10万人をこえたと推定される規模の問題であった。しかし明治政府は,殖産興業,富国強兵政策をとり,被害者の運動を徹底的に弾圧した。被害者の訴えは無視されただけでなく,公害によって起る洪水を制御するために,被害を受けた農民を土地から追出して遊水池を作ることが,政府のこの事件に対する解決策だった。民衆の犠牲において公害対策がなされ,民衆がこれに抵抗しようとして作った記録の多くは発行禁止になった。
 だが,足尾鉱毒事件は,あまりにも悲惨な公害事件として広く知られたために,それにつづく1910~20年代には,この悲惨な公害をくり返すまいという考え方が生じ,技術的対策にもある程度の進歩をもたらした。今日でも使われている公害対策技術のあるものは,この時期の被害者の運動によってつき動かされた企業が試みた技術的対策にその源を発している。高煙突拡散による大気汚染の軽減はそのひとつの例である。この進歩も,1930年代に入ると,日本の政策の軍国主義化によって,全く空に帰した。殆んどすべての産業が軍需産業とされ,すでにあった公害対策も,生産に利益がないとして無視された。軍と結びついた企業を批判することは,国益を損い,敵を利する行為として徹底的に弾圧された。被害者の運動は殆んどすべてこのために消失した。戦争による被害に加えて,この時期の無理な生産に伴う,歯止めのない公害の被害によっても,日本の国土は荒廃した。
 1945年,日本の敗戦による第2次大戦の終結後も,飢餓線上にあった日本国民の最大関心事は食糧の生産であり,次いで基本的な生活必需物質の生産であった。戦災により鉱工業の生産水準は殆んどゼロとなり,大気や水も清浄にもどった。当時は工場生産をあらわす煙突の煙は,むしろ希望のしるしだった。だが1950年代に入ると,次第に工業生産の復興に伴って,まず局地的な水汚染が目立つようになり,それに伴う漁業被害と紛争が増えはじめた。また後に大きな問題となるイタイイタイ病や水俣病などの,生命に危険をもたらす深刻な公害も,この時期にその発生が気づかれている。1950年代は,第2次大戦中に途絶した技術導入が再開され,再び日本の高度成長の原動力となった時期であるとともに,公害の無視,放置が産業資本の原始的蓄積を可能にして,60年代以降の奇跡的な高度経済成長の基盤を用意した時期であった。
 もしこの時期に,すでに眼に見える形で発生していた公害の重大性にわれわれが気づき,個々の問題の原因だけでなく,その背後に存在する共通の問題を解決しようと試みていたならば,あるいは経済の成長速度は多少の減少を見せていたかもしれないが,今日われわれはもっと均衡のとれた,高い生活の質を享受していたであろう。1960年代に入って繰返し多発した公害の被害者の苦しみを,未然に防止することもできたろう。実際にはそのような努力は1950年代には全くなされず,表面に現れた事象を,その場しのぎに取りつくろい,ごまかすことが公害対策のすべてであった。戦後民主主義が政治面では実現されたにもかかわらず,被害者の運動は弱く散発的であり,殆んど見るべき成果はなかった。第2次大戦前の公害対策の高い到達点は忘れられ,その歴史をふり返る者もいなかった。被害者の運動が戦前の水準に復帰し,公害に対する抑止力として作用するようになったのは,それからかなり後の60年代後半に入ってからであった。
 日本の高度経済成長が外部の世界に知られるようになった1960年代は,実は公害がとめどもなくひろがり,同じ種類の失敗がくり返され,被害者の数が激増した時期である。産業から排出される汚染物質は,工場の外に公害を生む一方で,工場内部に多くの労働災害,職業病を生んだ。この関係もまた長い間気づかれずに放置された。高度経済成長のもとで,利潤の分配に熱心だった労働組合運動にとって,労働者の健康問題は第二義的な問題であり,まして工場外部の公害問題には殆んど関心が向けられなかった。しかし,これまで長い間政治や行政に公害対策の期待をかけて,全く成果が得られなかった住民の運動は,60年代半ばから独自の試行錯誤を経て裁判や種々の直接行動によって,公害の抑止力となるまでに成長する。それまで農漁村の局地的な問題と見なされていた公害が,70年の東京をはじめとする各地の光化学スモッグの発生によって,全国的なマスコミの報道に乗り,世論の圧力によって全国的な政治問題となった。政府は独立した官庁として環境庁を作り,体系的な公害対策法を用意せざるを得なかった。
 この段階にいたってはじめて,1972年のUN環境会議を機会として,日本の公害の実態が外部の世界に知られるようになった。水俣病とカネミ油症の被害者がこの会議に自発的に参加したことによって,栄光の高度成長経済の裏側に,どれほど悲惨な問題がかくされていたかを,世界がはじめて直視した。それは,日本型開発をモデルとして近代化,工業化をめざしていた多くの発展途上国に,その開発の型を考え直す最初の衝撃的な機会となった。この会議によって,産業公害のおそろしさが知られた結果,先進工業国で規制が強化されたために立地がむずかしくなった公害企業が,発展途上国にゆるい公害規制を求めて進出する,いわゆる公害輸出の存在が注目されるようになった。
 1970年代前半に爆発的に高揚した公害に対する日本の世論は,70年代後半のエネルギー危機と高度成長経済の終末によって,沈静の方向にむかったが,対策制度の整備によっても,日本の公害はまだ終っていない。水銀や硫黄酸化物のような,技術的対策の容易な,いわば急性症状についてはかなりの改善が見られたが,慢性症状にあたる水や大気の複合的汚染は,むしろ徐々に進行している。汚染水準の測定や,紛争処理などの間接費用は増大するが,その公害防止の直接効果はむしろ疑わしい。われわれは日本の公害の影響が,社会のどの範囲にまで及んでいるかを,殆んど知っていない。戦後最大の公害事件であり,研究も量的に多い水俣病でさえ,その被害者総数すらわからないのである。対象の把握すら困難なものに対して,どうして充分な事後の救済や対策が可能であろうか。まして,これまでの汚染の効果が時間をおいて現れる遺伝子毒性などの場合に,その影響を把握することは不可能である。
 日本の公害の歴史をふりかえる時,常に事後の対策は不充分であり,解決への過程で,政治や行政の果した役割は意外に小さかった。公害の唯一の抑止力は被害者住民の運動であり,今後も被害者住民の政策決定への参加の度合いが,公害対策の有効性を左右する最大の要因になるであろう。現在日本をはじめとして先進工業国の殆んどの国でとられている政策は,基本的には生産によって生じた余剰の一部を割いて,生産に伴って生ずる負の価値を埋めあわせようとしている。そして,その具体的な政策の準備,決定の過程を,さまざまな細分化された分野の専門家集団にまかせようとしている。しかしわれわれは日本の体験から,この方法には二重の欠陥があり,短期的にはともかく,長期的にはうまく動かないだろうと考えている。
第1には,生ずる負の価値が余剰よりも大きい場合には,この方法は役に立たない。すでに宮本憲一は,公害における不可逆的で補償不可能な,人命・健康などの被害が絶対的損失であることを示している。議論を補償可能な相対的損失だけに限っても,そのうちどこまでを補償するかは,企業が支払える補償の原資によって上限が決まってしまい,それは相対的損失の全部には及ばない。
 第2に,細分化された専門家集団は,この種の全く新しい,社会が経験したことがなかった問題には無能力である。日本では行政の内部やその周辺に,公害の制度的,技術的対策のためにたくさんの専門家集団が作られた。そこには問題の歴史的な把握がなく,目前の表面にあらわれた現象に対する断片的な制度的,技術的対策の積み重ねがもたらされた。問題について最もよく知っている住民は,いつも専門家集団からは疎外され,軽視された。その結果として公害の認識は部分的なものとなり,間接費用が増大し,問題に対する対策の費用効果比は著しく低いものとなった。現在先進工業国の殆んどで,環境基準を目標値とした数値規制の方法が公害規制の手段としてとられているが,その効果は,それぞれの社会における歴史的な条件で決まる民衆の政治的決定への参加の程度と,この面に生ずる社会的不公正をなくそうとする政治的意志の強さによってまちまちであり,制度の有効性をそれらの歴史的条件と切りはなして論ずることは意味がない。したがって,公害や労働災害などの,新しい技術の導入に伴って生ずる負の衝撃を未然に防止し,あるいは事後に救済してその被害を最小限にとどめるために,まず頼りとすべきものは,当事者としての被害者住民や労働者であり,この人々の参加を保証する手段が,結局は最も有効な技術的対策をももたらす。これが,われわれが日本で体験した試行錯誤の積み重ねである公害や労災の歴史から,貴重な多数の人命を犠牲として払った後に到達した結論である。この結論が,今後の開発路線を選択する際に生かされるならば,その犠牲も全く無駄には終るまい。
 この経験的結論を立証するために,われわれは2期に分けて日本の歴史を検討した。その第1期は,第2次大戦にいたるまでの日本の経済成長に伴って起った事件の代表例として,足尾鉱毒事件を対象としたが,この事件は第2次大戦前に終ったわけではなく,大戦後にも深刻な被害をひきおこした。その被害の完全な補償は今日でも終っていない。
 第2期には,戦後の主要な事件として,小さな工場ではあるが典型的な行政の保護政策と外来資本の挙動が見られた高知パルプ事件,高度経済成長の大きな基盤となった国内市場の開発過程に起った森永ヒ素ミルク中毒事件,エネルギー政策が巨大な労働災害をひきおこす一因となった三池炭坑の炭塵爆発,それに戦後最も典型的な公害として世界に知られた水俣病を研究対象としてとりあげる予定である。
 社会問題としての日本の公害問題には,経験的に起承転結の4段階に分けられる時間的な経過がある。まず公害が発生し,被害者によって認識され,運動が始まる。これが中国の短詩,絶句形式に見られる起の段階である。西欧の4楽章の交響曲でいえば,アレグロの第1楽章に相当する。次いで,かなり長い時間が経過して,直観的にすでにわかっている発生源との因果関係が,「科学的」客観的に明らかにされる。この承の段階,あるいはアダジオの第2楽章で,公害問題は解決するかに見える。しかし決してそこで終らず,発生源側やそれに連なる学者,官僚などによる反論,反撃がにぎやかに展開される。こうして局面は第3段階に転じ,騒々しいスケルツォとなる。この反論の展開によって本当の原因と責任は見えなくなり,時間と共に公害そのものが忘れられてゆく静かなコーダがそのあとにつづく。中国の詩では,この最後の結の段階で全体がぴったりと締まって終るのだが,公害ではそれがウヤムヤとなり,尻抜けになってしまうのが特徴である。足尾鉱毒事件をはじめとして,日本のたくさんの公害事件でこの四段階が繰り返されたので,それを知っておくと問題の解析に便利である。これは日本だけのことではなく,どうやら社会体制を異にした他の国でも,これに似た現象があるらしい。

足尾銅山鉱毒事件の背景

 徳川300年の鎖国と国際的孤立のもとで,安定した政治体制を維持した日本も,19世紀半ばには,アヘン戦争,インド滅亡,太平天国の乱などの西欧植民地主義の波が押しよせ,それにゆさぶられる動きを感じとった。アメリカの軍事的圧力による開港と,それにつづく徳川幕府の崩壊を通じて,新しい日本の支配層は,西欧の近代技術の優位性と威力に強い印象を受けた。この印象が,その後1世紀近い日本の基本的政策を,西欧技術の導入,模倣による独自の帝国主義的路線に方向づける動機となった〔林武: 総括論文参照〕。
 特に徳川幕府時代の最も重要な産業であった鉱山業では,在来技術の停滞と古い封建的な労働組織の限界によって,生産が低下していた時期が長くつづいた。そこへ金属産業の重要性を意識した明治政府は,外国人技師を官営鉱山を中心に集中して送りこみ,当時最新の技術を導入し,古い労働組織を一掃してのち,これを民間資本に払下げた〔吉城文雄:「近代技術導入と鉱山業の近代化」〕。それまでの停滞が長かっただけに,この経営面,操業面の改革は決して容易なものではなかったが,その効果は顕著であり,間もなく日本の鉱山業,特に銅鉱山はめざましい発展を見せて,世界有数の産銅国となった。その中でもこの技術導入が最もめざましい効果をあげたのは足尾銅山である。
 足尾銅山は,関東平野の北縁,日光に近く,利根川の有力な支流,渡良瀬川の谷にある古い銅山である。すでに1610年ころから採掘された有名な鉱山だが,伝統的な技術は1700年ころにはその限界に達し,その後の生産は減少する一方で,明治初年には殆んど休止していた。1877年にこの休止鉱山の経営に着手した古河市兵衛は,1880年代に入って積極的な投資をおこない,労働組織の近代化,製錬工程への新しい技術導入などを実行した。この試みは,新鉱床の発見などにむくいられて大成功を収め,生産量は増加して足尾銅山は一躍日本第一級の銅鉱山として復活した。

鉱毒問題の発生――起

 足尾銅山のそばを流れる渡良瀬川は,けわしい山間部の谷を数十キロメートル流れ下ったあと,関東平野の北辺を東南に流れ,古河の南で利根川と合流する。この間その流域には,水流を交通に利用した商工業都市と,その水を灌漑に利用した豊かな農村が繁栄した。14世紀前半,荘園制の崩壊から封建制の成立にかけて,日本の政治的指導権を争った2つの豪族,足利氏と新田氏はいずれもその出身地と経済的基盤が渡良瀬川の流域であり,前者はその争いに勝って室町幕府を京都に確立し,16世紀初頭まで日本の実質的支配者となった。16世紀にはじめて日本へ到達した西欧人によって,東洋第一のコレギウムとその名を伝えられた足利学校も,この地域の豊かな農業生産と,絹織物などの工業生産の土壤の上に咲いた学問の花であった。渡良瀬川はしばしば洪水を起したが,これもまた上流から肥料を運んで流域の農地に分布させる,天恵のひとつとして利用されていた。19世紀後半のこの川の流域の豊かさを,詩人大鹿卓は次のように表現している。
 河川があればそれに洪水のともなうことは,何処でもまず例外のない話である。渡良瀬川の下流地方もまた実に3年目,5年目に洪水に見舞われて来た。しかもその水源地は山が深く,嘗ての頃の尾根尾根は斧鍼の入らない鬱蒼とした森林におおわれていたから,ひとたび山岳地方に大雨があると,その出水は森林の根方及び谷底に堆積していた枯枝,枯葉,木の実の類の腐蝕したものを泥とともに押し流して,これを下流の沿岸一帯へ運びこんだ。それゆえ氾濫の去ったあとは,薄いところで2,3寸,厚いところは8,9寸もこの游泥でおおわれる。いわゆる腐葉土,天然の肥料である。すなわち洪水は沿岸の農作物を侵すが,そのかわり翌年,翌々年は肥料を施すことがいらない。農夫たちはかえって洪水をよろこぶ傾向すらあった。しかも彼等はその年洪水で失なった作物の損害を,漁獲によって補うことができた。洪水があると,四囲いたるところの河川,沼沢,渠溝に,魚がおびただしくふえるからである。
 洪水は夏から秋へかけて多い。このあたりの農民は自然の教えに従って,大豆,小豆,栗,陸稲,芋などの夏作はなるべくわせ物を作って,その害を遁れるようにしていた。だが,大麦,小麦,菜種,辛菜などの冬作は,ただ種さえこぼしておけば無肥料で収穫があった。大麦は丈が5尺にものびて自分の重味で倒れがちだった。馬につけると穂が房々と垂れて地に引きずった。菜種は6尺余りにのび,辛菜は8,9尺に繁った。菜の花の咲き盛るころには,沿岸一帯が鬱々と黄金色のひかりを放って,空が明るくなるほどであった。
 また沿岸には森や竹林が鬱蒼と茂っていた。殊に竹林は見事に発育して,「尺丸」といって1本を1把として売買するような太竹が伸びた。8,9月頃にはその出荷の青竹が筏に組まれて無数に川を下った。孟宗竹のほかにも到る処に篠竹が繁茂し,その幹がみっしり立てこんで,上り下りの川船もただ揖音をきくだけで姿が見えぬほどであった。これらがまたおのずから護岸の働きをした。
 そうした篠竹や,泥柳や,葦の茂ったところでは,川面へ突き出して櫓を組み,四ツ手網をかけているのが見られた。十文字の青竹がしわって,ザアッと水のしたたる網が引きあげられる。獲物の魚が銀いろにピンピン跳ねる。鮠,鮒,鯉,マルタ等が一晩に10貫20貫目と捕れた。晩夏初秋の頃になると,朝靄のなかに舟を流して投網をうつ姿が見られた。鱸や鯔が1網で5尾も6尾も捕れていた。また枝川へ杭木を立てて鮭網をかける者もいた。大雨の後には濁り水に仕掛けた袋網からは,5貫も10貫も鰻が捕れた。
 たとえ年々歳々,ここにもまた人生の喜怒哀楽はさけがたかったとしても,まことに農民たちにとっては,自然の恵みを残りなく甘受できる安居楽業の地であった。 〔渡良瀬川〕
 この記述は,工業化の始まる前の日本の河川の大部分にあてはまるが,20世紀末の今日,このように豊かな川は日本のどこにもほとんど残っていない。第2次大戦による工業の破壊のあと,わずか数年間だけわれわれはきれいな河川と豊かな淡水魚を体験したが,それはこの過去の繁栄の残照であり,その後の急速な工業化のために永久に失われた。
 すでに上流足尾銅山に接した集落では,鉱山が古河市兵衛によって本格的な操業を始めた1880年代初頭から,製錬の煙による農作物や山林の被害が気付かれ,鉱山に対する抗議,苦情として現れた。1882年には,記録に残る最初の煙害による農作物の被害が,足尾町の西南端の唐風呂地区で認められているが,これは鉱山の地元である足尾町の諸集落のうちで,比較的鉱山との利害関係のうすい地区の記録に記されたものである。したがってさらに鉱山に近い地元集落では,これ以前に被害が生じても,被害の訴えすらできないほど鉱山の力が強かったであろう。つづいて1884年には,鉱山上流の松木村において,煙害が目立ち,最初の新聞報道に記されている。1885年以降,上流山元の諸集落は,仲裁申立,示談,裁判と鉱山に対していろいろな形で交渉するが,生産量の増加とともに被害はどんどん激化し,圧倒的な鉱山の力のもとに,閉鎖的な山中の運動は外界から殆んど知られずに切りくずされ,消滅してしまう。
 この豊かな渡良瀬川のもたらす自然の恵みに,異変が生じていることを下流の農民が気づいたのは1890年ころであった。この年の洪水の様子は,それまでと異なり,魚は死し,水の運んで来た泥の触れた作物は枯れ,そのあとに植えたものも育たなかった。明らかに上流から毒が流れて来ることが気づかれた。農民が政府の地質調査所に依頼した調査分析は拒絶されたが,農民が持ちこんだ枯れた作物や土を分析した農科大学の古在教授は,そこに銅と砒素を検出し,その毒が鉱山から来たものであると証言した。渡良瀬川の上流を訪れて調査した農民の代表は,そこに巨大な鉱山が操業しているのを発見しておどろき,鉱山に鉱毒の被害を訴えたが,相手にされなかった。
 1891年末,第2国会において,渡良瀬川下流の被害地域出身の代議士,田中正造が,はじめて鉱毒の存在を指摘し,その対策を質問して,この問題の存在が中央で知られるようになった。しかし,田中の質問に対して,政府の答弁は,被害はあるが原因不明で調査中である,鉱山は必要な対策をすでにとっているが,外国から最新の対策技術を導入する,という官僚的であいまい,かつ企業側の対策を強調したものであった。当時のこの問題の政府側責任者,農商務大臣陸奥宗光は,その子を足尾銅山資本家の古河市兵衛に養子として与えているほど,鉱山資本と深い関係にあり,鉱山側に不利な措置をとるはずがなかった。
 この答弁の直後,鉱山側は粉鉱採聚器を取付けて鉱毒の流出を防止すると発表し,それを条件として,被害地の農民に少額の見舞金を支払う示談契約を結んだ。その内容は5年間対策技術の効果が現れるまで,一切の損害を申立てず,行政の対策も要求しないというもので,被害者運動の切りくずしをねらったものであった。この契約の推進には,当時の地方行政官僚が積極的に参加し,知事,県議,村長などが動員された。実質的にこの契約は政府によって推進されたものである。1894年の日清戦争を前にした緊張のもとで,最大の軍需産業であった銅山の保護が,当時の中央政府の政策となった。行政の圧力と,当時日本を支配したナショナリズムの風潮によって,しばらく農民の運動は沈滞し,田中正造の警告にもかかわらず,農民の大部分は示談契約に調印して,表立った動きはなくなった。
 この間,上流の鉱山に近い足尾町唐風呂にはじめて煙害が気づかれた1882年から,日清戦争の終る1895年までの十数年間は,鉱山にとっては外国技術の導入とその定着が最も積極的に行われ,その成果が生産量の増加となってあらわれた時期であった。送風,排水等への動力の応用,鉱石輸送のための軽便鉄道の導入,削岩機を用いた新しい坑道,通洞の開削,電気製銅実験の成功など,採鉱,冶金の全分野にわたって,導入技術による経営の革新が試みられ,その殆んどが成功した。特にその頂点をなすものが,1890年の日本最初の水力発電の導入であって,これによる排水や鉱石捲揚,運搬の電化は,鉱山の生産力を著しく高めた。こうして足尾銅山は名実共に日本最大の鉱山となった。また1885年には,政府の投資によって設備のととのった官営鉱山である院内・阿仁両鉱山の払下げを受け,鉱山資本としての基礎も固まり,古河市兵衛は銅山王とよばれるようになった。
 しかし,1882年以来訴えのあった鉱山周辺の煙害に対しても,また1890年以降明らかになった下流の鉱毒に対しても,鉱山側は運動切りくずしのための示談の働きかけ以外には,積極的な対策を行わなかった。粉鉱採聚器が万能の対策であるような宣伝が示談交渉の中でくり返されたが,これはむしろ鉱石の歩留り向上のための器具であり,それ以外には発生源対策は存在しなかった。この間,製錬原料の木炭を作るための鉱山周辺の山林の伐採と,煙害による水源地森林の荒廃ははげしく進行し,今日でも見られるような回復不能のはげ山を作ってしまった。
 政府,行政担当者のこの問題に対する認識は,その一端を次の栃木県知事より内務省警保局長への秘密報告書に見るように,問題は示談で解決したとして,もっぱら治安事件としてしかとらえていなかった。
 秘甲二五五号 足尾銅山ニ関スル件
 足尾銅山鉱毒等ノ事ニ関シ先日中別紙写ノ如キ印刷物(活版摺)ヲ銅山摸寄村落ノ者等ニ密送シタルモノ有之候ニ付,其出所及之ニ対スル民心ノ動静等厳
密探偵中ニ有之候処,抑モ該鉱毒被害事件ニ最モ関係アル足利,梁田両郡ニ於テハ本年三月中足利町長真五郎外一名ノ周旋ニ依リ郡総代早川忠吾(県会議員)他四名ノ委員ヲ挙ケ,同月六日鉱主古河市兵衛ト契約ヲ取結ヒ明治二十九年以降永遠被害金ヲ金二万円ト定メ之ヲ鉱主ヨリ両郡民ニ出シ将来異議ヲ申立テストノ結約ヲナシ既ニ金円ノ授受ヲモ結了シタルヲ以テ,両郡ニ於テハ目下別苦情ヲ唱フルノ状況無之,(中略)依テ尚進ンテ内偵スルニ未タ確タル探聞ヲ得スト雖モ或ハ田中正造ノ手ニ成リタルモノナラン歟ト察セラレ候,同人ハ予テ鉱毒事件ヲ奇貨トシ巨利ヲ占メントノ希望ヲ持シ居ルヲ以テ同人ノ所持セル印刷器械ヲ以テ密ニ印刷シ配布,民心ノ動揺ニ乗シ之レカ中間ニ立チテ仲裁ヲ試ミ以テ古河ヨリ若干ノ利益ヲ得ントノ目的ニ出タルモノナランカ(後略)
 1895年6月27日
 このように,行政は鉱毒を過小評価するばかりでなく,むしろ被害にくらべて全く過少な金額をもって,将来の被害まで含めて一切の苦情を申立てないという,信じられないような,農民に不利な永久示談を積極的に進めた。被害地の過半でこの行政の推進により永久示談が成立したのが,この1895年のことである。ここでは,農民のために寝食を忘れて奔走していた田中正造が,利権を求めて動く悪徳政治家として報告されている点にも,当時の政府の姿勢を見ることができる。

大衆運動の展開――承

 1890年,再び大洪水があり,農民はあらためて鉱毒の被害を認識すると同時に,鉱山側が設置した粉鉱採聚器の無効さを知った。それまで村,郡,県に分断されていた農民は,連合して鉱山の操業停止を要求する大衆運動を始めた。絶対主義的な明治憲法のもとでも,政治の不公正に対する民衆の請願は権利として認められていた。日清戦争中は中断されていた田中正造の国会内の活動も再開される一方で,農民は独自の組織活動を開始し,運動は県境をこえて,群馬,栃木,茨城,埼玉4県の被害者農民の連合が成立する。この運動の中心になったものは,中堅自作農民層である。日清戦争前の鉱山との示談に従った農村支配層の中には,なお示談契約に期待し,鉱山側の永久示談の誘いに乗るものもあった。この差は地域的にも,一村の中にも存在し,請願運動の統一は決して容易なものではなかった。県境をこえた農民運動は,水の分配をめぐって利害が対立し,地域性の強い農村においては珍しいことであり,それだけ被害が切実なものであったことを示している。
 この時期の農民の運動は,徒歩で上京して中央官庁に集団で陳情し,被害を訴え,鉱山の操業免許取消しを要求することを主な方法としていた。すでに1880年代に多発した自由民権運動と,その武力による弾圧の体験は,実力による抵抗が中央政府に対しては効果がなく,挑発に乗じられるすきがあれば,運動全体がつぶされてしまう危険を農民に教えていた。集団での上京には,必ずこれを阻止しようとする警察がつきまとい,小競合いもしばしば起きた。途中で脱落する農民も多かった。しかし農民の上京は,田中正造の国会内での活躍,発言とあいまって,問題の存在を東京市民に印象づける効果があった。次第に世論は盛りあがり,現地を訪れる者も多く,被害の惨状を伝える報道も増えた。栃木,群馬両県の地方政府も,農民の運動を無視できず,前記のように治安問題としての認識ながら,問題の存在を報告した。これまで被害の存在を軽視し,示談で問題がすべて解決したという姿勢をとっていた中央政府も,この世論の盛上りを無視することはできず,専門家を集めた鉱毒調査会を作って,そこで対策を協議させることとした。これは事件が田中正造によって国会へ持出され,中央政界で知られるようになってから実に6年余,農民の集団陳情,請願と,田中をはじめとする多くの人々の国会内外での活動によってつき動かされて,この問題の最高責任者である農商務大臣がはじめて現地を視察したのちの措置であった。
 日本の公害史上,この後にもしばしば繰り返された,専門家による対策委員会としての鉱毒調査会は,鉱山を先頭とする工業化路線と,農業の保護のどちらを優先させるかの政策選択の場となり,はげしい議論が繰り返された。ここに集まった専門家はいずれも日本の支配層を代表したテクノクラートであり,決議案の原案にあった鉱業停止は,多数派によって拒否され,修正された。鉱業停止を主張した農業官僚は少数派にとどまり,技術的対策に重点をおいた工業化路線を支持するものが多数派を占めたことは,テクノクラートの集団としては予想できた結論であった。結局,当時としては大規模な発生源対策を期限付きで命令し,それが達成されない場合は鉱業権を停止するという方針が出された。鉱山側はこの命令を受諾して,排水沈でん池,排煙脱硫塔,廃石・土砂崩落防止等の工事を期限内に行った。これは鉱山側にとっても存亡を賭した大工事であって,関東一円の物価に影響を与えたほどだった。しかし,工事が期限に間に合ったというだけで,その完工検査は明らかに形だけのものであると評されたし,その検査に当った鉱山監督署長は間もなく退職して足尾銅山に高給で迎えられたことからも,工事そのものがいいかげんなものであったことがわかる。鉱毒の発生源は,鉱山,製練所の排水口や煙突だけでなく,長年月に無計画に谷間に投棄された鉱石,廃石,伐採と煙害に荒廃した山林など,地域全体にひろがるものであり,排水口と煙突だけの対策をいかに行っても部分的な対策であった。その部分的な対策の効果すら実際に確かめることをせず,対策工事の完成をもって事がすんだとしてしまったところに,当時の政府の企業保護の政策と,その基盤にある技術過信,そして民衆べっ視のあらわれがある。
 鉱毒調査会は,不完全な技術的対策と,被害農民の救済策としては,地租の減免を提案したにとどまったが,その地租減免すらも当時の軍事優先の財政条件のもとでは容易に実現しなかった。その実現には2年かかり,しかも地租納税を基盤とした制限選挙制度のもとでは,地租を免除された被害者はかえって選挙権を失なう不利さえ生じた。地租を支払っていなかった零細農民,小作人はなおさら何の得るところのない救済策だった。しかし,この程度の鉱毒調査会の対策でも,政府がなんらかの対策を行ったという世論対策の効果はあり,鉱山側もこれで問題は解決したという態度をとった。世論は一時鎮静し,運動も下火になった。
 政府と銅山側は,この鉱毒防除命令をもって問題はすべて解決したと宣伝したが,被害を受けた農民側は,対策の実効性には疑問を持っていた。事実,防除工事が完了したはずの1898年には再び洪水があり,この直後数千人の農民が自然発生的な押出し――大衆上京陳情を試みた。追いつめられた農民には,組織的な運動を用意するゆとりがなかった。この1898年は,それまで日本の政界を支配していた明治維新の主勢力,鹿児島,山口出身政治家の連合政権が行きづまり,日本の政治史の上ではじめて近代的な議会多数派による政党内閣が成立した年でもあった。それまでの絶対主義的な天皇制政府と議会の対立の手詰りから,かなりに御都合主義的な政権獲得のための議会多数派形成ながら,ともかく議院内閣制への移行の試みがなされた。民権を代表する議員として長年活動して来た田中正造は,当然この試みを支持し,それを守る立場をとった。したがって農民の大挙上京に直面して,彼はもっと穏健な代表陳情の形をとるよう農民を説得した。農民たちも,長年無私の立場で鉱毒反対運動の先頭に立って来た彼の説得に従って,代表陳情に方針を転換した。しかし,当時の中央政界の空気は,議院内閣制という全く新しい状態に適応できず,政党内部の紛争に手一杯であり,農民の声を聞くどころではなかった。田中と農民の期待に反して,代表陳情は殆んど効果をあげぬうちに,政党内閣そのものが内部の権力争いから崩壊して,そのあとに再び抑圧的な藩閥内閣が成立した。
 この代表陳情の失敗から,被害者農民の運動の内部では,長期的な見通しと,運動を準備し,実行する恒常的な組織の必要性が痛感された。このために,30歳前後の青年を構成員とする鉱毒議会が組織された。家族制度のもとで年長者支配の強い農村共同体において,意識的な青年組織が試みられるのは異例のことである。この時期の青年の学習運動の成果として,民衆の手による町村毎の出生死亡統計がまとめられ,日本の公害史上における最初の公衆衛生学的報告となった。農民側はこのような科学的データに基づいて,郡役所などの地方官庁に陳情を繰返し,その運動の積上げの上に,1900年2月,総力をふりしぼって最後の大衆行動,上京陳情を試みた。
 この回は,政府側も農民の組織的行動の重大性を事前に充分察知して,警官と憲兵を多数動員し,きびしい弾圧を行った。約1万人の農民と警察は利根川の渡河点,川俣で衝突したが,いくら数が多くとも武器をもたぬ農民は,武装した警察・憲兵の敵ではなかった。農民側にも,この弾圧を予想した戦術の用意はなかったために,農民は多数の負傷者を出して四散した。これが川俣事件である。つづいて政府はこの事件に兇徒嘯集罪を適用し,農民の指導者多数を逮捕して68名を起訴した。この刑事弾圧は,農民の大部分にとっては初めて体験した弾圧であり,その気勢をそぐためには有効に作用した。逮捕されなかった農民も,警官から日夜脅迫,威嚇されて,運動する気力を失った。
 議会内では,田中正造は自ら組織した憲政党を脱党し,政党の利害に関係しない立場から運動していることを示し,必死に政府を攻撃し,この弾圧の不当と鉱毒問題を訴えた。しかし,当時の政界の主要な争点は,日清戦争後の新植民地,台湾の経営,清国よりの莫大な賠償金による金本位制の確立,明治維新以来の政治課題であった不平等条約の改正など,資本主義経済の基礎固めに移行していて,農業と民権の保護を叫ぶ田中の声は殆んど容れられなかった。日清戦争の勝利は,日本における産業資本と帝国主義的膨張政策の出発点であり,清の衰退にかわって南下を開始したロシアとの間に,朝鮮を舞台として緊張が蓄積してゆく過程にあった。中国の帝国主義諸国による分割の契機となった北清事変が起ったのもこの年であり,日本はこれに出兵して参加した。足尾銅山も日本の帝国主義的膨張のために不可欠の軍需産業として,その高揚期にあった。生産は増加し,山元に近い松木村の煙害は激化して,ついに翌1901年には,村民は土地,家屋をはじめとする全財産を銅山に売却し,離村しなければならなかった。
 この情勢に苦慮した田中は,1901年に議員を辞任し,年末には抗議行動の頂点として,世論を喚起するために死を決して明治天皇へ直訴を試みるが失敗する。この行動は最近まで田中の天皇中心主義的イデオロギーの現れとして発作的に行われたと解釈されていた。しかし,実は周到に用意されたものであり,鉱毒被害を認めようとしない明治政府の最高責任者としての天皇に対する抗議の意味をもったものであった。おどろいた政府は,世論の反撃をおそれて田中を釈放したが,田中の計算通り,川俣事件以来鉱毒問題を忘れかけていた世論は,この直訴事件によって再び鉱毒問題に眼を向けるようになった。被害地農民に対する救援活動が市民の間で組織され,学生の集団現地視察が始まった。日本に定着したばかりのキリスト教徒,社会主義者もこの救済運動に参加した。こうして都市の青年層の間にも運動がひろがることで,田中の死をもっての抗議は失敗したが,世論の喚起を促す点では田中の試みは成功したといってよい。川俣事件で起訴された農民たちの裁判も,次第に有利になり,最後には検事の起訴の無効という意外な結末によってこの刑事事件が消滅し,農民は釈放される。

政府と企業の反撃――転

 この世論の高まりに対して,政府は第2次鉱毒調査会を設置して,再び技術的対策を用意させたが,今回は明らかに鉱山側を支持する学者が多く,また日露戦争を目前とした軍国主義的な政府の政策方針を反映して,鉱毒被害民が要求した鉱業停止は全く議論の対象とならなかった。むしろ被害民が予想もしなかった,鉱毒激甚地の栃木県谷中村の住民を立退かせて,そこを遊水池にするという案が技術的対策として出された。この時期はあたかも政府の治水方針が,徳川時代以来の洪水を低地の水田にあふれさせてその勢をそぐ低水工法から,川を堤防にとじこめて下流に早く流下させる高水工法への転換期に当る。さすがに鉱毒調査会は鉱毒の存在を否定できなかったが,銅山からの排出は主因ではなく,第1次防除命令以前に鉱山周辺の山野や河床に排出されたものが主因であり,渡良瀬川を通じて流下して来る鉱毒を水田の入口で沈でんさせればよいという対策がとられた。軍需的基幹産業である鉱山の発生源で鉱毒をおさえるのではなく,被害者の犠牲において技術的対策を行うという,一方的な企業保護の政策がとられた。これはシベリア鉄道の建設を通じて南進をつづけて来たロシアとの緊張が高まっていた政治情勢を反映している。
 第2次鉱毒調査会の結論は,鉱業権停止を要求しつづけて来た被害者の運動にとっては決定的な打撃となり,一方,盛上った世論を鎮静するには効果があった。鉱山側は1897年の発生源工事が効果があったという調査会の報告を最大限に利用して宣伝し,1903年には,渡良瀬川の群馬県側上流待矢場用水組合との示談契約の期限が切れ,再交渉を申入れた用水組合に対して,「本件ニ関スル内外全体ノ形勢ハ勿論小家ノ之ニ対スル位置責任等ニ至ル迄該契約締結ノ当時即チ明治30年2月ト今日トハ全ク変化致シ居候」と,日露戦争を目前にして強硬な姿勢で交渉を拒否している。
 鉱毒は主として洪水のせいであり,下流の被害激甚地を犠牲にして洪水対策を立てればよいという政府の方針は,上流と下流の被害農民の運動に,分断をもたらすことになった。上流側の運動は,鉱業権停止の要求が実現しないことに絶望し,運動から脱落して,政府の約束した土地改良などに期待をかけてゆく。下流の被害地のうち,埼玉県側の低地,利島村と川辺村は,県による土地買収を早目に見抜いて、強硬に反対し,遊水池化を免れる。栃木県側の渡良瀬川と思川の合流点にあった谷中村は,肥沃な低地にある豊かな農村だったが,鉱毒の度重なる被害で自治体として経済的に破綻していた上に,足尾銅山のある栃木県に属しているために,県議会や行政における銅山の圧力を受けて,洪水による破堤の復旧など,故意に不利な取扱いを受けて,さらに疲弊の度を重ねた。1902年の洪水が,上流の山崩れによる沃土を流して来て,一時期鉱毒の被害が回復したかの如き印象を渡良瀬川流域の被害地に与えたことも,運動の沈静と谷中村の孤立化を促した。谷中村内部にも,不在地主など,政府による土地買上げをむしろ歓迎し,推進する勢力が存在した。栃木県会は1903年,一度は谷中村買収案を否決するが,翌年秘密会において堤防復旧費の名目で買収費の予算を可決する。こうして谷中村の遊水池化が政策として決定され,栃木県の手で,住民の移住立退きがなかば強制的に始められた。
 田中正造は1904年以来谷中村に入り,農民と起居を共にして,この政策に抵抗し,離村を食い止めて自治村としての谷中村を守ろうと努力する。上流の運動が殆んど終息してしまい,抵抗のつづく地域としては谷中村が唯一の拠点となるが,谷中村の取りつぶし政策は,かつて田中正造がはじめて問題を国会に提出したときの農商務大臣,鉱山主と親族関係を結んだ陸奥の部下,前古河鉱業副社長原敬が内務大臣になり,その指揮のもとに着々と進められた。当時,日露戦争直後の日本の世論は,比較的有利に展開した戦争終結の条件さえ軟弱外交として批判の的になったほどであり,ごく一部の反戦論を例外として軍国主義が盛んであった。したがって田中らの抵抗の声に耳を傾けるものも少なく,1906年には谷中村は隣接する藤岡町に合併されて廃村とされ,最後まで残留した16家族の住居は1907年,土地収用法を適用され,強制的に破壊された。ここにいたるまで,中央政府の命令を受けた県行政は,村民を切りくずし,孤立化させるためにあらゆる手段を用いた。村民が洪水から自らを防衛するために築いた堤防を破壊したり,村会を開いて谷中村の廃村を議決しようとして否決されると,一方的に村の廃絶と合併を告示したり,勝手に村税を課して支払えぬ農民の財産を差押えるなど,行政権力は法や慣習を無視して村民を追い立てる政策を実行した。また農民の青年指導者を誘惑して脱落させたり,農民の生計を奪うために漁具を盗み,農地の排水を妨げて農民を苦しめるために樋門を釘付けにするなどの陰湿な生活妨害も行われた。一度政策が中央政府で定められてしまうと,その正誤にかかわらず行政機構はその実現のために強権を行使する。田中正造と谷中村民は考えられるすべての合法的手段で抵抗したが,強力な国家権力には勝てなかった。しかもその国家権力は,執行の最高責任者である内務大臣,原敬の経歴に明らかなように,鉱山資本そのものの利害を代表するものであった。ごく少数の農民と,その声を外界に伝える役割を果した田中正造の努力は,この巨大な政治意志の力によっておしつぶされた。しかしこの時期に,田中正造の主張した思想が,自然の摂理の理解と農民の地域自治の尊重であったことは注目すべき事実であり,その後の歴史の経過によって,時間と空間をこえて公害問題の解決の方向を指し示している。
 谷中村の強制破壊後も,農民は非暴力抵抗の意志を示して現地に乞食同然の生活をつづけて残留した。当時残されたわずかな合法的抵抗として,土地収用法の適用手続違反と土地買収価格の不当を主張する裁判が提訴された。田中正造は農民の運動と生活を支援するかたわら,残り少ない生涯のエネルギーを,河川水源地と洪水被害の視察調査に注入し,その調査旅行の途上,1913年病死する。73歳であった。
 この田中正造の最晩年の活動は,今日でも充分理解されているとはいえない。自分の足による踏査,体験による自然保護,治水理論の形成の一方で,その理論を実際に応用して谷中村の復活を計る下野治水要道会の組織に,その力を注いだ。この組織活動は事実上彼の死によって中断されたが,ようやく第2次大戦後も最近になって,その重要性が認識されるほど先駆的なエコロジーの思想を提起していたのであった。その晩年の発言には,行動と結びついた伝統文化を身につけた知識人の洞察として,今日もなお耳を傾けるべきものが多い。
 この時期は,世界的軍事大国であった帝政ロシアとの戦争に勝ち,日本の産業資本がその経営基盤を整備し,多くの産業部門で自給体制が用意された時期であり,政治的には南満州鉄道が設立され,朝鮮併合を第一歩として,日本の対外膨張路線がはっきりとその歩みを始めた時期でもあった。1900年ころ日本に輸入された社会主義思想は,その最初からはげしい弾圧を受けて禁止され,1910年にはその主な指導者がフレームアップにより殺された大逆事件が起り,11年には思想取締を主目的とした特別高等警察制度が作られるなど,国内における思想統制の制度が整備され,社会主義の冬の時代と言われた時期が,1920年ころまでつづいた。田中がその晩年,実証的な治水理論を手がかりとして,強力な政府に抵抗しようと考えたのは,このような政治情勢の読みもあったであろう。この間,日本は第1次大戦に参戦してドイツから植民地を奪い,中国に対しては21ヵ条の要求をつきつけ,ロシア革命に対してはシベリア出兵を行い,周辺諸国に対する日本の膨張政策は,ついに第2次大戦に到るまでつづく。もっとも1920年代には,戦争に伴う経済的好況を反映した,相対的な政治的自由の時期,大正デモクラシーが存在したが,その寿命は短かった。

結――運動の終息

 正造の死によって指導者を失った谷中村の農民は,1917年まで10年間仮小屋に起居して無言の抵抗をつづけたが,その間に谷中村を遊水池化する渡良瀬川改修工事は着々進められ,1918年には渡良瀬川本川が谷中村跡に直接流入するよう流路が掘削された。広大な谷中村からは農民は追立てられて,19年には最後の裁判闘争であった土地買収費用の判決が確定し,農民の谷中村復活の運動は終息した。利根川の現在の流路がほぼ固定されたのもこの改修工事の結果であり,洪水の大部分を銚子に流すことによって,江戸川から東京への鉱毒の影響を少なくすることがそのねらいの一つであった。
 20世紀に入って,銅山側も創業者古河市兵衛の死後,経営の近代化に力を注いだ。経営形態をまず合名会社,つづいて株式会社とし,労働組織もそれまでの前近代的な飯場制から契約制に移行させる途上で,労働者の暴動が起ったが,いわば身内の内務大臣原敬の手で鎮圧させた。1917年,古河商事,古河銀行を設立し,帝国生命にも経営参加して,金融,流通部門にも進出した。技術面では,水力発電の開発がつづけられ,1906年に日光に電気精銅工場,1908年に横浜に電線工場が作られて,銅の採掘,精錬から電線製造までの一貫生産経営としての古河資本が確立する。1912年には足尾線の鉄道が開通して,長年の懸案であった輸送の問題が解決する。1916年浮遊選鉱が採用され,富鉱の発見とともに足尾銅山はその生産の最盛期を迎え,第1次大戦の好況を享受する。1919年と21年には足尾銅山は大規模な労働争議を経験するが,労働組合の結成はむしろ経営の近代化を促進し,経営の基盤はゆるがず,1924年にはドイツのジーメンス社と提携して,電機産業に進出する。古河鉱業はこの時期石炭にも進出し,関連企業をあわせた古河財閥が形成された。
 しかし結局古河財閥は,19世紀末には日本最大の銅山として出発しながら,同時期に第2位の銅山から出発した住友財閥にくらべて成長がおくれ,ついに財閥としては二流の位置にとどまった。この主因は第1次大戦後の古河商事の投機失敗による破綻と,独自の金融部門が弱体で,ついに1931年には古河銀行が閉鎖されて第一銀行に吸収されたことがあげられるが,その遠因は,鉱毒事件の鎮圧に当って原敬をはじめとする政治家との結びつきが,資本の経営に政治家の介入を招いたことにあった(森川英正:財閥の経営史的研究P.118 東洋経済新報社,1980)。はじめ陸奥,次いで原敬,井上馨等の介入が,経営体内に種々の人脈,派閥を生じ,その抗争から一貫した経営方針の確立が妨げられ,1910年代の経営の多角化も多分に無方針になされた感がある。特に住友資本のもとにあった別子銅山では,すでに煙害の原因となった亜硫酸ガスからの硫酸の製造が煙害対策として成功し,住友資本の化学工業への進出の第一歩として,1913年から化学肥料を製造したのに対して,足尾銅山では煙害の被害を受けた松木村が消滅してしまったために,煙害対策としての硫酸製造の必要を感ぜず,第2次大戦後の1956年まで硫酸の回収は行われなかった。この公害を無視し,政治家との結びつきを利用して問題を力で解決するという保守的姿勢が,住友とくらべて有利な地点から出発しながら,経営多角化に乗りおくれ,次いで住友に追いつくために衝動的に多角化を試みて失敗した原因である。
 渡良瀬川改修工事以後,農民の組織的な鉱毒反対運動は跡を絶つが,被害は慢性化してつづき,農民側は灌漑水中に流入する鉱毒の粒子を,水田入口の沈澱池で沈降させて除去する消極的方法をとるしかなかった。下流の灌漑用水路の改修工事などに際しては,鉱山側がその費用の一部を負担したこともある。また水田に流入した鉱毒の作用をいくらかでも中和するために,鉱山が若干の費用を出して石灰を支給したことが報告されているが,その費用は明らかではない。日本の軍国主義化が進行し,中国への侵略戦争が開始された1930年代以降には,銅の生産は最も重要な軍需物質として軍の保護管理下に入り,農民のわずかな要求も軍によって拒絶されるばかりか,戦争遂行を妨害する利敵行為として強く弾圧を受けた。一方で銅の生産は能力をこえて増産が強行され,山林の荒廃,鉱毒の流出は戦争中が甚しかったことを古老は語っている。1934年には鉱山の沈澱池があふれて下流に被害が生じたことを鉱山側も否定できず,下流栃木県側の三栗谷用水の取入口改修の費用の一部を鉱山側が負担した記録が例外的に残っているが,一般には1945年の第2次大戦敗戦まで,鉱毒に関する記録は殆んどない。被害がなかったのではなく,厳重な報道管制と,軍の圧力によって,鉱毒について語ることさえ禁止されたのであった。

戦後の低迷と再発

 1945年,第2次大戦の敗戦によって,足尾銅山の軍管理体制は崩壊した。戦争中は厳重に禁止されていた労働組合が結成され,その要求により職業病対策も開始された。下流の被害農民の間でも,群馬県側では待矢場用水組合の中心にある毛里田村を中心に鉱毒根絶期成同盟会が結成されて活動を開始したが,その内容は村の地主層,指導層を中心としたものであり,行政との結びつきが強く,行政の介入を免れることはできなかった。1946年に鉱毒同盟は足尾銅山と交渉を行っているが,これは商工省,群馬県知事の立合いのもとであり,大した成果はなかった。敗戦で荒廃した国土に多数の飢えた失業者をかかえて,鉱工業の生産復興が内政の最優先課題であり,必要な原材料を重要指定産業に優先投入する傾斜生産方式が政策として採用された時期であるから,力関係は鉱山側に有利であった(第1回経済白書)。せいぜい鉱毒の存在を鉱山側に認めさせ,一時的な対策として中和用の石灰を鉱山側に支給させる程度であり,一部農民指導者の私腹を肥やす行為などもあって,この交渉も相手に足元を見すかされているものでしかなかった。栃木県側でも中和用石灰を鉱山に要求する動きはあったが,群馬県側の農民との共同行動にはならなかった。鉱山を県行政区域内にもつ栃木県の姿勢は,被害だけを受ける群馬県よりもさらに鉱山寄りのものであった。
 戦争によって荒廃した国土に,1947年カスリン台風,1948年キティ台風の襲来によって,渡良瀬川遊水池は決潰し,東京都下にまで及ぶ洪水被害を生じた。これは谷中村をつぶして作った遊水池の効果を疑わせたが,その後の建設省の方針は,かえって谷中村遊水池に追加投資を集中して,囲繞堤や?流堤をその中に作り,遊水池の調節能力を期待し,さらにこの池を掘り下げて,首都圏の増大する水需要を満たすための貯水池としても使う計画を立てた。農民の運動は戦前と同じように,行政の農地改良計画や河川改修計画に呑みこまれてゆき,さしたる効果がないうちに下火となった。1952年に,群馬県側の鉱毒同盟は解散し,それと引きかえに群馬県側の待矢場用水水利組合の費用を一部鉱山側が負担することになったのが,鉱毒問題に対する鉱山,行政と農民の典型的なかけひきをあらわしている。運動を停止することが,土地改良事業の開始と,それに一部鉱山が資金を出すことの条件になるという,行政の介入した公共投資を中間においた,一種の永久示談が戦後もくり返されたのだった。これで事実上農民の運動はおさえこまれたかに見えた。鉱毒は渡良瀬川下流の自然の一部となり,鉱毒の流下が起る降雨,増水時の水門締切り,石灰による水田土壤の中和や,水田の水口における鉱毒の沈でんなど,被害を受ける側で公害対策を負担するという奇妙な状態がつづいた。
 1945年の日本の敗戦から十数年,政治的には財閥解体,戦犯追放,労働組合と革新政党の組織化という民主化の過程の中で,農民の運動はむしろ戦前よりも低調であり,世論に訴えることもなく消滅した。これは全国的にも共通な傾向で,1950年代を通じて公害被害者の運動が成功した例はほとんどない。水俣病やイタイイタイ病のような深刻な公害はすでに1950年代に日本の各地で発生していたが,全国的な政治の民主化の過程は,公害の被害を受ける農民,漁民の生活水準までは降りて来なかったように見える。
 この間,朝鮮戦争を出発点として,日本の産業資本の立直りは早かった。すでに現在の経団連の前身として,鉱山経営者連盟が作られたのは1947年であり,鉱山経営者側の協力,情報交換の中心となる。四日市では1948年に東海硫安,49年に石原産業が操業を開始し,のちの石油コンビナートの中核となる。1950年には日本に酸素平炉製鋼が導入されて,戦後の鉄鋼業合理化の出発点となった。塩化ビニール樹脂の国産化を先頭とする有機合成化学の工業化が,米国からの導入技術により進められた。鉄鋼と化学を基盤とする日本産業資本の方向が,米国の占領政策の転換に支えられて確立したのが1950年代である。政治的にも1955年に保守政党が合同し,米国との安全保障条約を基調とした保守永久政権の基盤が確立した。経済的には好況,不況の波を何回かくり返しながら,保守党政権による産業保護政策のもとで,世界に類のない高度経済成長が開始された。すでにこの時期,1950年代に,日本の産業資本と公害被害者の力関係は,はっきりと前者に有利な体制が政治的にも確立されたのだった。ただ時折表面に噴出する深刻な公害問題によって,一時的,局地的に世論が動かされることはあった。
 1958年,足尾銅山の堆積場のひとつが突然崩れて,鉱滓が渡良瀬川に流出し,下流の待矢場用水の流域,特に毛里田村に被害を与えた。この事件を契機に,一度解散された鉱毒根絶同盟が下から再組織され,群馬県の東部,渡良瀬川から灌漑用水を取水する太田市,桐生市,館林市,新田郡,山田郡,邑楽郡の3市3郡にまたがって活発な活動を始めた。それまでの活動が行政依存型で効果を上げず,村長や地域の有力者の連合体であったのを改め,この同盟の指導に当った恩田正一は,田中正造をモデルとして被害農民の大衆組織を作り,強力な陳情や抗議を中央政府に繰返した。鉱山に対する交渉も,それまでの下手に出てお願いする姿勢ではなく,対等の交渉,抗議の形をとるものになった。明治時代から一貫して行政に支配され,鉱山とも最初に示談契約を結んだ待矢場用水組合の流域農民としては,これがはじめての大衆行動であったし,これまでいつも農民をおさえこむことに成功して来た中央行政や群馬県としても,この動きには当惑した。
 1958年は,戦後公害史の中でもうひとつの大きな事件,本州製紙のSCPパルプ排水による江戸川汚染問題が東京のすぐそばで起った年であった。汚水の無断放流に抗議して工場におしかけた漁民と警官隊の間に乱闘がおこり,数十人の漁民が負傷して全国に知れわたったこの事件で,漁民の全国抗議集会につき上げられた政府は,それまで長い間準備されながら,産業界と通産省の反対で国会に上程されなかった水質保全法案を,いそいで国会を通過させ,世論を鎮静させようとした。この法律は,河川の区域毎に水質基準を専門家の審議会で決定する,戦前の鉱毒調査会方式を継承した方法をとっていた。しかも審議会のメンバーには,加害者である鉱山や工業の代表者が技術的専門家として加わり,被害者代表は問題に利害関係をもつとして排除されていた。恩田正一は,この構成の不当性を強く批判し,渡良瀬川の水質基準を決定する部会に,被害者代表として自分を加えるよう行政に迫った。行政側が恩田を排除しようとして代りにあげた農業関係者の代表は,いずれも鉱毒の体験がないとして鉱毒根絶同盟が拒否した。行政側としては,各省の利益を代表し,行政の思い通りの発言をする学者を専門家として審議会に送りこむのが通例になっていたので,恩田を先頭とする農民の要求に対しては当惑したが,巧妙な手段を思いついた。それは,鉱毒根絶期成同盟の会長から恩田を外して,同盟会長を他の指導者にゆずるならば,恩田を審議会の委員に加えるという取引であった。これによって大衆指導力をもつ恩田を組織から引きはなし,一方で恩田の肩書きを外すことによって,名目上の審議会委員の中立性を維持しようとしたものである。鉱毒根絶期成同盟はこの取引を呑み,恩田の後任にやや穏健派と目された板橋明治を決めたが,組織の実権はなお恩田の手にあることを内部で了解した。これは水質審議会で被害者代表が参加した唯一の例となった。
 恩田が参加した水質審議会渡良瀬川専門部会の内容は,一般には秘密にされていて,国民は知ることができない。恩田がそこで見たものは,政府の各省から出された官僚で構成された事務局が原案を作成し,それにまた各省の利害を代表して推せんされた学者が殆んど意見を言わずに承認を与える,きわめて日本的な談合の場であった。原案の作成前に関係者の間に充分な根廻しがなされ,審議会そのものは形式的な承認の場と考えられていた。そこへとびこんだ恩田の発言は,被害者代表としていたるところでこの手順とぶつかり,議事の進行を止めた。渡良瀬川の水質基準を決める技術的な論議ははてしなくつづいた。学者は殆んど発言せず,また現実を最もよく知り,体験している恩田の発言に対抗できる論理や事実も現れなかった。
 しかし有力な指導者であった恩田が,いわば密室の審議会の中にとじこめられ,不毛な技術的議論でエネルギーを消耗している間に,行政の手による農民の切り崩しも進行した。農民にとっては,複雑な数字の議論の意味は理解が困難であり,行政の提案を呑めば多額の予算が土地改良などの公共事業に投じられるという話の方が通りやすかった。それをおくらせているのが恩田の頑固な抵抗であるという宣伝もなされた。事件の発生以来十年近い時間が経過し,具体的な対策を待ちわびていた農民は,恩田の足元である毛里田村から順次切りくずされ,1967年から68年にかけて,この切り崩しがほぼ完成した。地元農民から,政府提案の受入れと関係公共投資の促進が陳情された時,孤立した恩田の抵抗も終らざるを得なかった。
 結果論ではあるが,恩田を先頭とする群馬県農民の運動があと2年つづいていたら,局面は大きく変った方向へ展開していたことだろう。1964年の三島沼津コンビナート反対運動の成功,65年の第二水俣病の新潟での発見と,1960年代後半は高度経済成長の病理現象としての公害が各地に噴出し,もはや散発的事件としては片づけられず,世論もその重大性に気づきはじめ,やがて70年代の初頭に爆発的な盛上りを見せる直前であった。下流栃木県側の農民の間で,ひそかに語りつがれて来た田中正造の神格化された業績と,明治の事件であった足尾銅鉱毒問題が,日本の激化する公害の原点として,あらためて再評価されたのも1970年であった。60年代の群馬県側の農民運動が,県境をこえて栃木県側につながろうとする動きは殆んどなかった。外部の運動からの連絡も全くないままに,群馬県農民の鉱毒反対運動は行政制度の中へとり込まれてしまった。
 このあと,ある程度予想されていたことだが,鉱毒被害地の土は,すでに明治時代から汚染がわかっていた銅,ヒ素だけでなく,新しい有毒重金属,カドミウムによっても汚染されており,そこで裁培され,収穫された米の一部は食用に適せず,出荷を停止されるという事態が判明した。この新しい被害の発見によって,毛里田鉱毒根絶同盟は,古河鉱業への損害賠償請求に踏み切った。ここでも選択肢はいくつかあった。損害賠償請求を行わず,被害の復元要求のみを行うか,損害賠償請求をするとしたら,復元要求と組合せるか否か,その要求と交渉の場所は法廷における民事訴訟をえらぶか,法廷によらない調停などの手段をとるかなどである。農民側は長期化が予想される法廷での対決をさけて,調停機関である総理府公害等調整委員会をえらんだ。この制度は1958年水質保全法が作られたとき,和解の仲介制度として作られた第三者による調停機関であるが,多くの公害被害者から見てその実効性が疑わしく,殆んど利用されなかった制度である。
 この間,戦後の高度成長期を通じて,足尾銅山側の状況も変化した。敗戦直後の混乱期と財閥解体を通じて,銅山の生産は順調に回復した。古河財閥の解体は,かえって保守的でしかも統一性を欠いた古河一族の家族的経営から企業を解放した結果となり,傘下各企業の相対的独立性をもたらした。富士通信機(1935),日本軽金属(1939),日本ゼオン(1952)などの成長部門への進出は,概して成功した。官僚や政治家とたくみに結びつき,その退職後の職場を用意するなどで,行政指導において情報の入手や許認可業務で他社より有利な位置に立つ経営法は,戦後日本経済のひとつの特徴として世界的に有名になり,多くの企業がこの方法を採用したが,陸奥宗光,南?三,原敬など戦前最も積極的にこの方法を利用したのは古河財閥であった。これは戦後もつづき,許認可を伴う新分野への進出では古河系企業はしばしば優位に立った。この過程を通じて古河鉱業の相対的地位は低下し,古河鉱業内部でも足尾銅山以外の外部銅鉱の比重が戦後は次第に大きくなって,むしろ足尾では精錬所が経営の主体となった。1956年には粉鉱の自溶製錬炉をフィンランドから導入し,そこから生ずる高濃度の亜硫酸ガスを利用して硫酸を製造した。これで精錬で発生する亜硫酸ガスの大部分が回収されたと鉱山側は主張するが,硫酸の生産量は銅の生産量の5倍をこえ,それだけ大量の硫酸がそれまで足尾の山地に降っていたことになる。1960年代に入ると,精銅の生産量は毎年3万トンをこえるようになり,足尾産の鉱石はその原料の20%以下になった。1973年には鉱山の採算性の低下を理由として,足尾銅山そのものの採掘を中止し,銅山は閉山された。
 足尾銅山の相対的比重の低下は,農民側が調停を急いだひとつの理由であった。銅山側もまた足尾からの引揚げを目前にして,鉱毒の存在や因果関係,その責任といった厄介な議論をあとに残して,企業イメージを損うことは得策ではなかった。そうでなくとも1970年代に入ると,足尾は日本公害史100年の原点,100年たっても未解決の問題として脚光を浴びる機会が多かった。このような条件のもとでは,非公開で第三者の調停を受ける公害等調整委員会は,公開で時間がかかる裁判にくらべて,鉱山側にとっては有利で望ましい選択であったといえる。
 非公開であるために世論の支持や他の運動からの支援を受けることもできず,この種の交渉に通じた弁護士もつかず,調停に当る第三者委員に公害についての特別な識見も期待できない不利な条件のもとで,毛里田の農民が損害賠償として39億円を要求して調停で15億円を受取る結果になったことは,むしろ期待しなかったほどの幸運といえるかもしれない。農民側は,この調停の成果として,古河鉱業がはじめて鉱毒の存在を認めたことをあげる。しかし,おそらくこの調停で利益を得たのは,それまで被害者に相手にされず,その存在の理由すら疑われていた公害等調整委の制度そのものであり,またこの調停の結果を前例として他の地区との交渉に利用できる鉱山資本であった。ちょうどこの時期,調整委はもうひとつのよく知られた公害事件としての水俣病の補償調停をかかえていたが,調停の前提となる被害漁民当事者の委任状に,行政の手による虚偽の捺印がなされていたことが暴露されて,水俣病については調停を事実上放棄してしまう。裁判より簡単で速く解決が得られ,被害者に有利な制度であるという行政側の宣伝は全く事実に反したものになり,実際は民事訴訟の判決と全く同一の内容の調停を,判決の直後に水俣病に対して行ったのであった。この経過を見るとき,公害等調整委は現代の制度化された示談であると判断せざるを得ない。
 毛里田の鉱毒問題はこれで終ったわけではない。土地改良,水田土壤の入替え,用水路の改修等の費用負担については,まだ交渉が残っているし,鉱山の負担も若干は増加するであろう。しかし民事訴訟のような新しい手法が試みられるまでは,古河鉱業側はこの調停の方式を前例として他の地域にも適用することを主張するであろう。行政の行動も,足尾だけでなく水俣や他の地域の例を見ても,問題の進展を自己の統制の下におき,行政の支配範囲を拡大するために,まず調停を推進して来たし,今後もそうするだろう。水俣病に関係するいくつかの裁判で,司法府が時に行政の責任を指摘するような内容の判決を出したことがあるが,その度に行政府は不快の感情をあらわにした。行政が自己の行為の無謬性を主張するために,問題をできるだけ行政過程の中へ取り込んで全体を管理しようとする傾向は,日本においては特に顕著であり,公害問題でもこの傾向は当分つづくと思われる。しかし被害の状況は個々の公害において決して同じではなく,行政の画一的な取扱いによっては決して解決しない。この現実と制度の差異から出発する被害者の運動が新しい局面を切り開き,それが行政によって制度化されるという図式は,今後も見られるであろう。ただ,当面行政の基本的な方向が,高度に工業化した日本の社会において,産業の利益を保護するという,明治以来の一貫した企業保護政策にある限りは,被害者の運動と制度の間には一致は生ぜず,常に緊張関係はつづくものと思われる。
 このままでは,渡良瀬川下流の農民が,今後新しい鉱毒反対運動を展開する可能性は少ない。汚染された土地は,100年間放置されたことで,農民の意識の中では自然の一部となってしまった。毛里田農民の20年にわたる戦後の運動の結果が,あまり有利とはいえない調停に終ったことは,周辺の農民にも運動の効果について疑問を感じさせることとなった。また桐生から下流の渡良瀬川流域の急激な都市化,工業化は,水田が主であった土地利用の形を大きく変えた。すでに毛里田地区でも,まとまった水田が工業団地に転用されている。宅地化もさかんであり,農民の兼業化も進んでいることから判断しても,農民運動の可能性は少ないであろう。ただし,後述するように,鉱山の堆積場などの崩壤,流出による新しい汚染の危険性は,決してなくなったとは言えない状況がある。
 下流の栃木県側においては,谷中村の遊水池の洪水調節機能を増大させるために,1963年から79年までに建設省によって200億円が投下され,さらに首都圏の水需要を満たすための貯水池としての工事が480億円の事業費で進行している。この計画はおそらく今後増大する水需要に応じて拡大されるであろう。この貯水事業は,足尾下流の渡良瀬川に造られた草木ダムと関連した,水資源開発事業の一部である。しかし渡良瀬川の水質は,足尾の鉱毒に加えて,下流の桐生,足利等の都市下水,工場排水による汚染が進行しているので,その飲料水としての安全性は疑わしい。草木ダムによる降雨時の鉱毒を多く含む水の平均化は,下流の利水には望ましくない効果をもたらすだろう。
 渡良瀬川の上流部,足尾銅山周辺においては,明治以来の煙害によって一木一草をとどめぬまでに破壊された,裸の岩山と化した地域に,公共事業としての砂防工事と植林がつづけられている。1957年の硫酸工場の建設以来,亜硫酸ガスの大気汚染はたしかに減少したとはいえ,精錬所より上流側はなおかなりの大気汚染があり,草木の成長はおそい。長い間に表土が洗い流された岩山には,草木の根をおろす土がない。1948年以来,堆肥に草の種子を埋めこんだ植生盤の人力による貼りつけ,65年以来ヘリコプターによる種子と接着剤の混合物の散布など,高度に技術的な方法による植林の努力が続けられているが,その効果はまだ極めて限られた地域にしか見られない。おそらく全山の緑化には,なお数十年から100年を要するであろう。
 奇妙なことに,国有林の被害については,1960年に林野庁長官が出した通達によって,足尾銅山がわずか320万円の見舞金を林野庁に支払って示談がすんだことになっている。1974年足尾銅山が毛里田農民との調停で鉱毒の責任を認めたときにも,国有林の損害を取上げる動きは全くなかった。このために時効によって国有林の被害に対する責任は消滅してしまっている。したがって植林の費用はすべて国民の税金による負担である。
 長年月に無計画に索道から投げすてられ,急傾斜の山腹に堆積された鉱滓が,主な鉱毒の発生源になっているが,現在進められているその整理と覆土,植林も困難な作業であり,いつ終るとも見えない。道路から見える部分について作業が先に進められているが,人の眼につきにくい奥地の作業は,殆んど進んでいない。将来予想を超える暴風雨があれば,足尾山中の各所にある鉱滓の堆積場は,1958年の源五郎沢堆積場の崩壊のように,その崩壊,流出によって下流に大きな被害を及ぼす危険が常に存在する。いったん崩壊が起れば,下流に作られたいくつかのダム,農業用水取水頭首工,貯水池などを汚染し,その影響は渡良瀬川本川にこのような設備がなかった明治時代にくらべて大きなものになる。足尾の鉱毒は終っていないし,今後もいつ大発生するかわからないのである。
 足尾銅山は閉山し,山間の鉱山町足尾の雇用を維持するために,精錬所は今日でも外部鉱石による操業をつづけているが,国産の銅鉱石がなくなっている今日では,企業の採算性から見れば海岸部の港湾に立地する精錬所がはるかに有利であり,早晩古河鉱業はこの山間部にある輸送の不便な精錬所を閉鎖するであろう。その場合,精錬所の操業に伴う大気汚染はなくなるが,同時に鉱毒の責任者も現地になくなり,堆積場の整備,維持なども現在通りに進められる保証はなくなる。被害防止の未来は決して明るくない。

考 察――足尾鉱毒事件の教訓

 古河市兵衛が足尾銅山を買収し,経営を開始してからちょうど1世紀たった。この間にたしかに銅山は富を生み出し,日本近代化の基盤の一部を作りあげた。しかし無計画な生産から生じた鉱毒は,下流の多くの農民の生活を破壊し,金銭によって評価できない性質の被害を与えた。その大部分は不可逆の,人命や健康の損失,家庭や地域社会の崩壊など,いわゆる絶対的損失であり,金銭的に修復できる相対的損失は,むしろ被害の一部であった。金銭で表現される被害の総額についても,1900年ころに農民運動側が発表したものを除いては他にない。もちろん,1890年代の示談金は,この被害に対しては全く補償にならないほどのわずかな金額でしかなかった。またこの1世紀に農民が運動に費した有形,無形のエネルギーは莫大なものになる。そしてその結果は,治水,利水工事や,植林,砂防などの公共投資による自然の修復費用として,国家,地方政府の支出増となった。現在その正確な集計はまだなされていないが,おそらく100年間の鉱山の利益をはるかに上廻るであろう。無計画な生産から生ずる公害は,利益よりも被害が大きい事態を生ずることがある。
 政府がこの問題の深刻さを当初充分に認識せず,治安問題と見なしたことは,1880~90年代に,被害を拡大させる重大な原因となった。公害を発生源において防止せず,被害側の負担において処理するやり方は,社会的な不公正であるばかりか,技術的にも不合理である。1897年の鉱毒防除命令は,最初の強制的な発生源対策であったが,明らかに不充分なものであり,「煙突と排水口」に重点を置きすぎた。当時鉱山の内情を知る従業員のひとりは,「要スルニ鉱毒ノ原因ハ,未ダ人ノ調査セザル処ニ在リテ存ス」(六合雑誌)と評したが,これは今日の公害にもあてはまる名言である。技術的対策が煙突と排水口に限定される傾向は,今日の公害においてさらに強くなっている。公害を総合的に把握することは,技術的対策が1世紀を経てある程度の進歩を見せた今日においてさらに重要である。この点で,被害者代表の参加がなかったテクノクラート集団である鉱毒調査会の構成に,不充分な対策の原因があることを反省しなければならない。
 1897年の鉱毒調査会は,外人技師による外国技術の導入を近代化の原動力として来た日本政府が,新しい問題に対して初めて作った専門家委員会であるが,そこに外国人専門家を加えなかった点は注目に値する。これはすでに導入技術を使いこなし,身につけたテクノクラートの自信のあらわれでもあったが,今日国際的に起っている公害問題を考える上に参考になる。いわゆる年俸5万ドルの外人専門家は,あるいは技術的対策には精通しているかもしれないが,その土地の自然条件,社会条件のさまざまな複雑な組合せによってあらわれ方が決定される公害問題には,期待したよりはるかに無力であると考える方がよい。外国の援助としての専門家交流の場合にも,この配慮は必要である。政府の計画に参加する専門家は,特に技術的対策に自分の役割を限定し,技術の効果を過信する傾向が強い。外国人専門家に全面的に対策を依存することは,ここにあげたような「煙突と排水口」だけの不充分な対策に導く危険が大きい。現地にいかに土着の人的資源を見出すかが,公害問題解決の最も重要な条件である。
 公害問題においては,これに関与する科学者の質的能力と,その研究の方向が問題解決の方向を左右することがしばしばある。自然や社会のわずかな変化を読みとり,そこに総合的な洞察力をはたらかせて,とるべき行動を選択する能力が科学者に要求される。外来科学技術の成果の吸収だけに手一杯であった19世紀の日本の科学者には,明らかにそこまでの能力を発揮する余地がなく,また政府や資本もそれを要求しなかったのが足尾の悲劇であった。この悲劇を見てとって,鉱山資本みずからが積極的に公害の総合的,科学的調査を試みたのが,1910年代の日立鉱山の行動であった(宇井純:「公害原論Ⅱ」亜紀書房,1971,8ページ)。その任に当った科学者も,現地に没入し,被害者と現実の自然に学び,独自の理論体系を作りあげ,実際に多少の問題解決をもたらした。1910~20年代の日本の公害問題の前進への基盤には,この土着科学の成果があった。
 20世紀末の今日,科学の専門分化と技術の進歩は当時にくらべてはるかに進行し,科学者にとって,問題の学際的,総合的把握は困難になっている。また技術の進歩に対する過信は,科学技術者だけでなく社会全体にゆきわたった。科学者の大部分は,もはや研究室の中で孤独な真理の探求を行っていた過去のイメージからはなれて,国家や企業,それと結びついた大学や研究所などに勤務し,生活の資をそこから得ている組織人である。彼の科学者としての判断が,彼自身の生活や所属する組織に不利な結果をもたらすかもしれない場面は,日常的に存在する。さらにその判断の根拠となる科学自体が,特に分析的な方向に分化して,公害の把握には適しなくなっているのが現状である。また教育制度の善及は,かえってその本来の目的を見失い,専門家が非専門家を軽視する結果をもたらしている。このような不利な条件は,むしろ今日において,科学者,技術者と称する専門家の判断を社会が評価するときに,慎重さを充分に要することを教える。公害問題において専門家に安易に依存する危険は,今日さらに大きいと言わねばならぬ。また問題に関係する科学者は,当面する困難の大きさと,それに対する科学的手段の不充分さについて,謙虚な反省を必要とする。
 土着の政治家であり,農民を指導した田中正造は,たしかに不世出の偉大な人物であり,戦略家でもあった。その偉大さがかえって後継者や指導集団を作りにくくした感は否定できない。徳川時代末期にすでに農村共同体の抵抗の指導者として,民衆の保護者としての家父長的行動様式を身につけた田中正造は,自己の組織者としての欠陥をある程度意識し,組織的活動を志したが,意図したほどの成功は収めなかった。晩年の彼の関心は,自然と人間の総合的な把握のための現地調査にあり,今日のエコロジー思想に近いものをめざしていたようである。彼が死の直前に到達した住民の自治論と,彼の実行した非暴力直接行動の軌跡は,今日も貴重なすぐれた政治理論とその実践例として,学ぶべき価値をもっている。彼は晩年家父長的行動様式を脱皮し,民衆の現実の中へ身をおいて,共に苦しみながら問題解決への道をさぐる共苦の精神に到達した。このことが彼がキリスト教思想に共感を示した理由である。もし彼がもう10年生きながらえて,1920年代の大正デモクラシーに出逢っていたら,あるいは彼の晩年の思想はもう少し現代に継承されていたかも知れない。不幸にして,1970年代まで,田中正造は忘られた存在であった。彼を忘れていたことは,戦後長く被害者の運動にとって大きな損失をもたらした。
 農村共同体から出た田中正造が,農村共同体で最も多く使われた示談,調停という紛争処理法に強く反対したことは象徴的であるが,ここで足尾鉱毒事件の1世紀の全過程において,くり返された示談の意味と効果について考えておく必要があろう。この方法は,特に日本の農村共同体において,重要な意味をもっている。
 現代日本の社会を深層で規定する要因のひとつとして,近世日本が,米を土地生産力と富の尺度として成立したために,自然の水の供給限度をこえた水田の過剰開発が,1700年ころ以後に起ったという鋭い指摘が,農業水利研究者からなされている(玉城哲:水紀行,9ページ,日本経済評論社,1981)。この結集,農業灌漑用水の供給不足から水利紛争が多発し,社会緊張がたかまり,それを調整するために用水慣行が形成され,排他的集団主義に支えられた農村共同体,村が成立して,今日までつづく日本社会のひとつの基調をなしている。一方では水と土地の稀少性が,その効率的な利用技術の発展を促進し,農民がそれを身につけたところに,日本的合理主義の基盤があり,他方では排他的集団主義をもつ農村共同体の内部と外部に,水の安定した取得と分配を目的として,和を強調する慣習を作り出して来た。常に村同士が相互に対立し,水を争っている状態では,村という集団内部での和,統一が最優先される価値である。内部での紛争はできるだけさけられなければならず,権利を主張して紛争をつづける当事者は,共同体の外へ放り出されるか,喧嘩両成敗として罰せられる。一方,集団相互の間には常に緊張した競合関係があり,集団が生き残るためには内部の倫理に反した行動でも外部に対しては許される。東南アジアで,ひとりではおとなしい日本人が,集団になるととたんに強くなり,札びらを切って女を買いにゆくのもこの集団内部と外部に対する態度の使いわけの現代的あらわれかもしれない。日本におけるキリスト教徒迫害の歴史や,戦争に伴う殺人などの不条理なまでの残忍性と,個々の日本人のおだやかな性格との不一致と共存も,ここから生じていると考えられる。足尾鉱毒事件の歴史の全体を通して見られる行政の権力的な対応,弱者に対する非人間性は,この共同体権威に服従しない者に対する見せしめとして,権威を維持するための必要悪と考えられたのであった。
 この共同体集団である村の内部は決して平等ではなく,固定した秩序をもった自治があるが,上位の者は下位の者を保護する義務があり,保護されている者は従属する義務がある。その結果として共同体全体の生存が保障されている。この構造は現代の日本企業にもひきつがれているし,日本の農政があくなき保護を要求する根拠もここにある。ここでは権利と義務の近代的な1対1の対応は生まれにくい。明治以後の近代化過程は,この農村共同体の構造と慣行をたくみに取りこみ,利用しながら進行した。天皇を頂点とする擬似共同体としての日本国家の概念は,1945年までの日本の国家イデオロギーの中心にあった。
 このような共同体の内部で生じた紛争の重要な解決手段が和解であり,示談であって,それを実現する共同体権威の機能が調停である。その目的は内部における和――秩序の維持と,外に対する団結の強化にあり,上から共同体の意志として強制される。そこでの権利の主張は歓迎されず,むしろ忌避の対象となる。権利をあくまで主張するものは,共同体の保護から疎外されることを覚悟しなければならない。生存基盤すれすれのところで,排他的集団主義によって辛うじて成立している共同体の中では,保護を取り払われることは死につながるという強迫観念が理不尽な上からの和解,示談に農民をかり立てたものである。また企業やその他の組織に属する日本人の,異常なまでの帰属意識の根底にこの強迫観念が残存し,再生産されている。もう一方では現在の日本政治を外部からわかりにくくしている,地方の中央への従属,保守永久政権の基盤にもなっている。この基盤を維持するために種々の保護制度が工夫されて来たし,制度化されない形での従属が強調されて来た。日本の近代化過程すら,この共同体意識の中では,外来文化,技術への従属という形で体験され,この根本的構造にはあまり影響を与えなかった。わずかに文学の世界で,夏目漱石,森?外,石川啄木といったすぐれた作家たちが,外来文化の根底にある個の自立とこの従属性の間の断層に気づき,その狭間で苦しんだ体験を作品に残している。今日の鈴木首相の政治理念にもあげられている和の強調はこの流れの上にあるものであり,外部世界との間の緊張の強調をその媒介にしていることは注目すべきであろう。
 第2次大戦後の民主化過程を経てもなお,日本人のこの従属的性格はさほど変化せず,かえって教育によって強化される動きさえあった。組織体としての国家と企業はそれを要求した。外来技術の導入が第2次大戦後にも高度経済成長をもたらしたことは,それを補強する例となった。このような条件のもとでなお被害者の権利の主張が成長し,裁判による権利の確認を要求するには20年を要した。その間擬似共同体としての国家行政が,常に和解的解決を要求しつづけ,それが多くの場合被害者にも受入れられて来た理由は,こうした日本社会の歴史的性格を考えた時にはじめて理解できるものである。またその中で自分のおかれた客観的状況を把握し,権利の主張の手段として裁判にふみ切った日本の公害被害者の運動が,どれほど先駆的なものであったか,どれほどの内外の抵抗をのり越えなければならなかったかを読みとるべきである。足尾の鉱毒事件において,常に上からの調停に屈伏した結果になった農民の運動を責めることはできない。
 しかしもう一方で,歴史的な事実として,この従属的な社会の中でさえ,農民が提出し,そして田中正造や恩田正一をはじめ多くの農民が運動で実現しようとした第一の要求が,公害の復元除去であったことを見過してはなるまい。被害者は金をほしがっているのではない。社会と自然の健康をねがっている。あるいはイリイチの言う,そっとしておかれる平和を求めているのである(Ivan Illich, Shadow Work, a lecture in 1st Conf. on Asian Peace Research, Yokohama, Dec '80)。
 この段階で公害が解決できず,被害の存在が不可避な場合に,はじめて金銭による損害賠償が要求として現れる。このことを公害に関与する当事者,発生源,専門家は忘れてはならない。これを明治政府が行ったように治安問題と見なすならば,100年後の今日,いつ終るとも知れない公共投資を必要とする自然の破壊をもたらすことになろう。足尾の松木村にもし住民が住みつづけていたならば,今日の山林の荒廃は絶対に起らなかったであろう。住民の移住等によって問題を消してしまったことが,かえって長期にわたる別の問題を作り出し,100年後でさえその解決を不可能にしている。
 要するに,技術は移転可能であるかもしれない。もっとも近年の技術移転に関する議論は,その可能性についての疑問を提出してはいるが。公害は明らかに移転不可能で,その土地に固有の問題である。そして被害の発生によってはじめてわれわれは公害の存在に気がつき,なにがしかの対策も手をつけられるのである。この認識の段階から,解決の段階の全過程において,どのように被害者がその各過程にお参加するかが,技術的対策よりもはるかに根元的な公害の抑止力である。
 日本は公害,環境汚染という新しい事態への対処において,成功例であったか。足尾においては明らかに失敗であった。ことによるとこの鉱山の開発は,単に公共セクターから私的セクターへの富の移転にすぎなかったかもしれない。ただ唯一の救いは,明治期における足尾鉱毒問題の悲惨さが,大正期にある程度の反省を,公害の発生源にまで強制して,技術的対策の前進をもたらした点にある。戦後の展開は,実質的には農民の敗北に終った。そして,毛里田の調停成立は,ことによると戦前に回帰した上からの強制的和解のひとつの前例になるかもしれない。ようやく定着したかに見える弱者の権利の主張に対して,その効果がマイナスに働く可能性さえ否定できない。この前例が壁になるかどうかは,今後の公害被害者の運動にかかっている。
 一方で,古河財閥も,産銅資本としては別子銅山をもつ住友財閥にはるかに先行し,政界有力者,政策官僚との結びつきという日本では有利な条件をもちながら,財閥としては中小,二流に終り,住友に遠く及ばなかった。これはその保守的な経営姿勢,弱体な金融体制にも原因があるが,戦前戦後を通じて,足尾鉱毒事件の原因者という評価が,企業イメージを悪くしたことも否定できない。足尾鉱毒事件は,資本の側にも大きな打撃を与えたのであった。
 しかし,もし鉱毒の原因者が,古河財閥のような国内資本ではなく,巨大な多国籍企業であったならば,この鉱毒事件はどう展開していたであろうかということを考えると,背筋が寒くなるほどの恐怖を感ずる。政界と結びついての運動の弾圧,公害の激化はいずれもさらにはげしいものになったであろうし,損害賠償,復元等の要求に対しては,今日多くの国で実例が見られるように,資本引揚げが有力なおどしの手段となり,問題は解決の方向へは進まなかったであろう。逃げ出すことのむずかしい国内資本であったからこそ,この程度の被害ですんだのであった。
 1970年代の日本は,公害問題を成功のうちに解決した例としてよく引用される。亜硫酸ガスなど一部の汚染指標の数値の低下から,表面的な評価がなされていることは事実である。しかし,真に公害を起さない体制が実現されたか否かをもって成功の評価と考えるならば,その道は遠いことを,他のいくつかの事例から結論として導き出すことになる。抑圧的なアジア農村共同体からの解放は,日本のめざましい工業化,都市化によってさえも充分ではなかったし,一方に共同体の慣習を温存し,利用しようとする大きな勢力が存在することを考えると,この解放の過程もまだ容易なものではない。そして,産業社会以後に,この農村共同体と利益集団を止揚した新しい社会組織に到達する道程を考えると,決してそれは短時日に達成できるものとは思えない。その点で,今日までの日本の実例を成功例として評価することは危険である。特定の汚染物質の数値が減少したからといって,簡単によろこべないものであることを,足尾の鉱毒事件の歴史は教えている。日本の事例から学ぶことは,そこに人間の歴史があり,大変な人民の努力が積み重ねられて,今日の状況があるという事実であって,形式的な制度ではない。
関 係 年 表