金融制度

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外国為替銀行の成立

著者名: 斉藤寿彦
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1983年
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 目 次

Ⅰ 諸外国の外国為替・貿易金融・・・・・・・・・・2
Ⅱ 横浜正金銀行設立前の外国為替・貿易金融・・・・・・・・・・8
Ⅲ 横浜正金銀行の設立 ・・・・・・・・・・15
Ⅳ 御用外国荷為替制度の成立 ・・・・・・・・・・19
Ⅴ 横浜正金銀行の経営危機と再建 ・・・・・・・・・・30
Ⅵ 御用外国荷為替制度の発展 ・・・・・・・・・・39
Ⅶ 御用外国荷為替制度以外の為替業務改善策 ・・・・・・・・・・50


Ⅰ 諸外国の外国為替・貿易金融

 外国為替とは異種通貴国間の正貨(金銀)を用いない決済方法であり,貿易および貿易外の支払の手段として用いられる。貿易金融とは直接輸出人に関係したすべての資金融通である。これには商品船積後対外支払期日までの,為替を利用した資金融通である為替金融と,為替金融の前段階または後段階の金融とがある。
 国際金本位体制下の諸外国の外国為替・貿易金融(とくに為替金融)の構造の特色はどのようなものであったのだろうか。これを国際金融の中心国として発展した段階のイギリスについて最初に考察しよう。まず第1に,第1次大戦前のイギリスにおいて,外国為替業務は植民地銀行および自治領銀行(Colonial and Dominion Banks),イギリス系海外銀行(Anglo - Fo reign Banks),外国の銀行の支店,引受業者等によって取扱われたのである1)。 市中銀行ではミッドランド銀行が1906年に外国為替を取扱い始めたものの,第1次大戦前にその額はわずかにとどまった。
 第1次大戦前のイギリスは,諸外国に向かって積出す商品に対しては英貸(ポンド)のままで手形を取組み,英貸のままで資金を貸出した。外国間の貿易もイギリスで英貸で決済されることが多かった。したがってロンドンの市中銀行は,通貨の切替を伴なう外国為替の取扱をしなくても貿易金融を行えた。これが市中銀行が外国為替を取扱わなかった大きな要因である2)。為替業務は投機的であるとみなされていたこともその一因である3)。
 第1次大戦前にロンドンの大銀行は,重役の派遣,資金援助,預金の受人,手形交換の代理などを通じて植民地銀行と間接的に結合し,外国為替業務と間接的に関係を持っていた4)。だが市中大銀行が本格的に外国為替業務を取扱うようになったのは第1次大戦後のことである。これが第2の特色であり,第1次大戦後の世界の貿易でポンド以外の貨幣で取引されるものが次第に増加してきたので,ロンドンの市中銀行が外国為替業務に遣出したのである5)。これは戦時中の合同による市中銀行の資力増,諸外国の銀行の海外進出への対抗のためでもあった6)。
 第3に,ロンドンでは割引市場が発達し,外国の手形を自由に割引く機関が完備していた。これがロンドンを国際決済,国際金融の中心地とさせる有力な要因となったのである。
 第4に,マーチャント・バンクを中核とする引受業者が発展していた。マーチャント・バンカーは,輸人商の依頼を受けて輸出業者に向けて信用状を発行して手形の支払を引受けた7)。この手形引受もロンドンを国際金融市場の中心地とさせる有力な要因となったのである。
 第5に,中央銀行であるイングランド銀行が為替相場調整政策を採用し8),また間接的に貿易金融と関係を持った9)が,直接的,恒常的には同行は貿易金融に携わらなかったのである10)。
 アメリカに関しては,第1次大戦前に,同国の貿易の国内産業に占める比重が低かった。また国法銀行(National Banks)は海外支店を設けることを厳禁されていたし,州法銀行(State Banks)も大部分はこれを禁じられていた。したがって第1次大戦前に民間銀行は殆んど海外支店を持たなかった11)。手形割引市場も手形引受市場も発展していなかった。アメリカの外国為替・貿易金融はイギリスの金融機関に依存するところが大きかったのである。
 だが1913年12月に連邦準備法が制定され,これに基づいて連邦準備銀行が設立されると,同行が貿易金融の面にも重要な役割を演じるようになった。すなわち同行は中央銀行であるが,直接的・間接的に貿易金融と関係を持ったのである12)。
 連邦準備法の制定とその改正,戦時中の必要などを背景に,第1次大戦以降,国法銀行,州法銀行が外国為替業務に進出した13)。その多くは,ナショナル・シティ・バンク(National City Bank of New York)とかギャランティ・トラスト・カンパニー(Guaranty Trust Company)とかの直接取扱銀行を代理銀行として,外国為替を取扱っていた14)。
 第1次大戦前にふるわなかった貿易金融を専門とする銀行も1919年12月のエッジ法(Edge Act)制定以後設立が相次いだ。もっとも1929年までに関する限り,これは行詰りまたは買収によってすべてなくなっている15)。
 外国銀行の支店もアメリカで為替を取扱った。だが外国銀行に対しては活動の制限が設けられていた16)。
 連邦準備法成立以後,銀行引受手形割引市場が創設され,第1次大戦以後発展した17)。普通銀行等が手形割引を行ったが,割引業者も存在した。第1次大戦後引受専門業者(手形割引も行う)もあらわれた。第1次大戦以後ニューヨーク金融市場が国際金融市場として拾頭したが,その背景にはこのような発展があったのである。
 ドイツの大銀行は,手形割引,当座貸越,引受等の手段で同国の輸出貿易を援助した18)。ドイツ銀行(Deutsche Bank)は早くから貿易金融に進出していた。だがドイツ大銀行の海外支店は20世紀初期には3店にすぎなかった。ドイツ銀行も1870年に設立された当時は貿易金融を主目的としていたが,80年代には外国の有価証券引受に業務の重点を移し,90年代には国内産業と結びついた兼営銀行に転化したのである19)。
 ドイツの外国為替・貿易金融とくに為替金融業務の特色は,これが主としてドイツ海外銀行(Deutsche Uberseebanken)によって取扱われたことである。ドイツの大銀行は,ドイツ経済発坂上有望と認められる地域に多くの場合協同で海外銀行を設立した。これは設立者であるドイツ大銀行ときわめて密接な関係を有していた。この銀行は形式上は独立の法人であり,その業務上生じた欠損についてドイツ本国銀行の受ける危険の程度は支店を設ける場合よりも少なかった。海外銀行は多くの場合協同出資であったから,ドイツの親銀行1行当りの危険負担は少なかった。海外銀行は独立法人として土地の財政経済上の状況に適応して敏速に業務方針を変更することができた。海外銀行は外国に支店を有し,その国とドイツ本国との外国為替・貿易金融を行うことを主たる任務としたのである20)。だがこのほかに本国の資金を海外に投資し,また自ら事業会社を経営して,かなりの長期金融をも行っている。ただし第1次大戦後,ドイツの海外植民地の喪失と資本の喪失によって衰退していった21)。
 ドイツの中央銀行であるライヒス・バンク(Reichsbank)はすでに第1次大戦前から外国為替売買操作を通じて為替相場が金輸出点に達するのを回避する政策を採用していた。大戦後も為替売買操作を行った22)。1924年にはドイツ金割引銀行(Deutsche Golddiskontbank)が海外貿易,とくに輸出貿易促進のために資金を供給するものとして設立された。同行はライヒス・バンクの娘銀行として活動した23)。
 このように,独立国は独自の金融機構を有しながら外国為替・貿易金融業務を行った。それでは植民地・半植民地ではこれはどのように行われたのであろうか。この概要をインドおよび中国について考察しよう。
 イギリス産業革命期にインドでは東インド会社自らが為替業務を行い,また東インド会社の代理商的存在であるエージェンシー・ハウス(Agency House)が同社の許可を得て外国為替を取扱っていた。エージェンシー・ハウスは貿易金融をも行った。東インド会社の特許銀行として発足した半官半民の省立銀行(Presidency Bank)は外国為替の売買を許されなかったが,輸出商品の買取前貸または輸出商品生産者に対する短期運転資金の前貸を行った。産業革命後,イギリス本国産業の要請とシティの豊富な資金力を背景として,植民地銀行がインドに進出しようとしたが,上記の東インド会社やエージェンシー・ハウス,省立銀行はこれを阻止した。
だがこの植民地銀行進出阻止連動は1851年にインド政府に照会なしにオリエンタル銀行(Oriental Bank Corporation)に特許状が与えられたのを境に急速に弱体化していった。かくして植民地銀行がインドの外国為替・貿易金融(とくに為替金融)の中心機関となった。第1次大戦後は,イギリス市中大銀行もインドに進出してきた。インドではイギリス以外の国の銀行の支店も外国為替を取扱った。インドでは外国系為替銀行に対抗できるようなインド系為替銀行は発展しなかったのである24)。
 イギリス系植民地銀行とロンドンの大銀行は外国為替業務から多くの利潤を獲得した25)。これらの銀行はイギリスからインドヘの商品や資本の輸出を促進した。また,インドの金為替本位制採用後,インド省証券(Council Bills)や逆インド省証券(Reverse Councils)の売買を仲介して巨額の手数料利潤を収得した26)。この売買操作はインドの為替相場の安定やルピー貨の通貨価値の安定に寄与したが,これはイギリス資本の利益につながっていた。これらの銀行の外国為替・貿易金融業務に使用する資金の一部として,インド内で獲得された預金が充当されたが,これはインド現地産業の金融逼迫をもたらした27)。また,これらの銀行の存在がインド系為替銀行の発展を阻止したのであった28)。かくしてイギリス系植民地銀行や第1次大戦後のイギリス大銀行の外国為替・貿易金融業務は,イギリスのインド支配の槓桿として機能したのである。
 中国ではアヘン戦争後植民地銀行をはじめとする外国銀行が進出してきた。外国銀行は日清戦争後に発展した29)。植民地銀行等の外国銀行は,中国の外国為替業務(為替・為替金融)を独占的に扱い,これから生ずる利益を獲得した30)。外国銀行は為替相場を掌握し,これに基づいて金銀比価を金高に操作することによっても利益を収めた31)。外国銀行は各国から中国への製品輸出,中国から各国への原材料輸出を助長した。外国銀行は為替業務を基礎に中国への借款業務に従事し,とくに日清戦争後これを本格化した。これを基礎に政治にも支配的力を発揮するに至った32)。多額の資金を有する外国銀行の進出は,中国の銀行業の対抗的発展を困難にした33)。かくして植民地銀行をはじめとする外国銀行が中国支配の尖兵として機能したのである。
 日本においては,明治初期には為替金融は外国銀行によって独占的に営まれていた。特殊銀行としての横浜正金銀行が設立されると,同行が外国銀行に対抗する銀行として発展を遂げたのである。明治期には台湾銀行,朝鮮銀行,一部普通銀行も為替業務を行ったが,その役割は小さかった。第1次大戦以後,普通大銀行が為替業務に本格的に進出した。だが横浜正金銀行は依然としてこの分野で重要な役割を果していたのである。日本では割引市場や引受手形の発展は立遅れていた。第1次大戦後に日本銀行によるスタンプ手形および銀行引受手形の勧奨によって割引市場の育成が図られた。だがこれは大戦後の恐慌下で不振に陥っている。中央銀行である日本銀行は正金銀行に円資金を供給して同行の外国為替業務を助長した。同行は第1次大戦以後に台湾銀行にも円為替資金を供給したが,その額は正金銀行に対するものよりもはるかに少なかったのである。政府や日本銀行は,在外正貨を対外支払に用いて金の防衛に努め,第1次大戦後には輸人資金の調達や為替相場の維持のために在外正貨を払下げたが,在外正貨は主として横浜正金銀行に対して払下げられた34)。
 上述のことから外国為替・貿易金融の構造に関しては横浜正金銀行という特殊銀行の役割が日本では大きかったことが明らかとなる。それでは同行はなぜどのようにしてイギリスをはじめとする先進国の外国為替・貿易金融機関に対抗して成立し得たのであろうか。以下本稿ではこの問題を明らかにしたい35)。

1)植民地,自治領銀行,海外銀行の概念については次の文献を参照。E. Jaffe, Das en glishes Bankwesen, Leipzig, 1905, SS. 60-65. 三輪悌三訳『イギリスの銀行制度』 日本評論社,1965年,92-101ページ。R. J. Truptil, British Banks and the London Money Market, London, 1936, pp. 166-67.三輪悌三『イギリス植民地銀行の東南アジアにおける地位』アジア経済研究所,1963年,2-6ページ。同「香港上海銀行の100年」『金融経済』101号,1966年12月,35-41ページ。
2)児玉謙次「日英米金融事情」(1929年)『金融研究会講演集(復刻)I』東洋経済新報社,1973年,66-67ページ。
3)鎌谷茂善「インドにおける為替銀行」アジア経済研究所編『インドの金融制度』1962年,255ページ。
4)生川栄治『イギリス金融資本の成立丿有斐閣,1956年,316-48ページ。三輪悌三,前掲『イギリス植民地銀行の東南アジアにおける地位』39ページ。徳永正二郎『為替と信用』新評論,1976年,第6章。
5)児玉謙次,前出,67ページ。三輪悌三,前掲書,39-41ページ。インドへの進出理由については鎌谷茂善,前出,255-56ページ参照。バークレイ銀行は1918年に海外活動のための銀行を設立した。Cf. Barclays Bank(D.,C., O.), A Banking Centenary Barclays Bank(Dominion, Colonial and Overseas)1836-1936, Plymouth.
6)三輪,前掲『イギリス植民地銀行の東南アジアにおける地位』39ページ。
7)マーチャント・バンカーは外債の発行も引受けた。マーチャント・バンカーに関する邦語単行本としでは今井清孝『マーチャント・バンカーズ』上巻・下巻,東京布井出版,979年等を参照されたい。
8)イングランド銀行は第1次大戦前に金防衛のために金利引上による為替相場調節策を実施した。第1次大戦以後,為替売買操作による為替相場調節策をも採用した。Cf., D. E. Moggridge , British Monetary P olicy 1924-1931, Cambridge, 1972, especially Chap. 8.
9)通常はイングランド銀行以外の銀行や割引業者が手形の割引を行い,金融が一般的に逼迫した時に最後の貸手としてイングランド銀行が資金を供給した。
10)児玉謙次,前出,62,66ページ。
11)児玉謙次,前出,80-81ページ。戦前ロンドンに店を出していたアメリカの銀行はインターナショナル・ノ゛ンキング・コーポレーション(1901年にコネチカット州の法律によってできた為替銀行)とギャランティー・トラスト・カンパニーの2行だけであった。
12)銀行引受手形を一般市場で売買し,荷付外国為替手形をも加盟銀行の依頼で再割引した(児玉謙次,前出,82ページ)。
13)連邦準備法は国法銀行の海外支店設置を許容した。ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行はただちに南米6ヵ所に支店を設置した。1916年の同法改正で国法銀行は一定の条件下で外国銀行業務を営む米国銀行の株式を所有することを認められた。1917年の同法改正によって,準備局は命令をもってしても外国代理店または取引店を開設せしめ,かつ外国代理店または取 引店を有しない他の準備銀行に同局の許可を得て,外国取引をさせることができるようになった(「列国ニ於ケル貿易金融改善ノ状況」1917年『勝田家文書』第44冊)。
14),15),16)児玉謙次,前出,83,85-86ページ。
17)第1次大戦前に商業手形市場が存在したが「商業手形市場は,概して内国製造業および商業金融するの傾向があ」った。「引受手形市場は原料品および食料品の移動,特に外国貿易におけるこれらの物品の移動を主として金融するものであ」った(W. R.Burgess ,The Reserve Banks and the Monetary Market, New York, 1927.p.134. 東京銀行集会所訳『準備銀行と金融市場』同所,1929年,156ページ)。
18)アンドレー・セーニス「フランスニオケル海外貿易銀行ニ就テ」(1909年)日本銀行臨時調査委員会訳,同委員会『臨時調査集』第2輯,1918年,108ページ。
19)戸原四郎「金融資本成立期におけるドイッチェ・バンクの変遷」玉城肇・末永茂喜・鈴木鴻一郎編『マルクス経済学体系』下巻,岩波書店,1957年。
20)ジョージ・ディウーリッチ「外国ニ於ケル独逸銀行ノ発展情況概要“L’ Expansion des.
Banques allemandes a l'etranger"」,1909年,アンドレー・セーニス「独逸ノ銀行と海外貿易」,1908年(両論文とも『臨時調査集』第2輯に翻訳が所載)。“Die deutschen Ubersee-banken und ihre Geschafte”, Blatter fur vergleichende Rechtswissenchaft und Volkswirtschaftslehre, Berlin, 1908.リヒアルド・ローゼンドルフ演説,朝鮮銀行調査室訳「独逸海外銀行政ニ其業務」同行『別途調査』第3巻第2号,1914年2月。ディウーリッチによれば,海外業務を行うこの特殊銀行の直接の経営者はドイツ8大銀行であって,国家は直接これと関係しなかった。ただドイツの銀行が経済上の理由のほかに,政治上の理由から外国事業に投資をする場合に,銀行は直接または間接に国家の援助を受けることがあった(『臨時調査集』第2輯,68ページ』。
21)楠見一正・島本融『独逸金融組織論』有斐閣,1935年,109ページ。
22)田中金司「金本位制に於ける為替統制(其二)」『国民経済雑誌』第48巻第5号,1930年5月,64-67ページ。大蔵省理財局「諸外国に於ける金本位問題」同局『調査月報』第15巻特別第2号,1925年10月,144-45ページ。加藤栄一『ワイマル体制の経済構造』東京大学出版会,1973年,154,160-61ページ。
23)楠見一正・島本融,前掲書,366-67ページ。
24)鎌谷茂善,前出.240-57ページ。
25)A. S. J. Baster,The Imperial Banks,London,1929,p. 230.
26)小竹豊治「金融」満鉄東亜経済調査局編『印度概観』同局,1943年.674ページ。
27)A. S. J. Baster,op.cit.,p. 194.三輪悌三,前掲『イギリス植民地銀行の東南アジアにおける地位』34ページ。
28)インド系為替銀行の設立が困難な理由については鎌谷茂善,前出,265ページ参照。
29)横浜正金銀行(田中徳義稿)『支那二於ケル列国ノ銀行政策ノ沿革及現状』同行,1914年,1-7ページ。
30)外務省通商局第二課編『支那金融事情』同課,1925年,192-93ページ。
31)浜下武志「資本主義=植民地体制の形成とアジア―1850年代イギリス銀行資本の中国進出過程」野沢豊・田中正俊編『講座中国近現代史』第1巻,東京大学出版会,1978年,29-35ページ。
32)東亜経済研究所訳「支那に於ける外国銀行勢力の発展,分布及其の影響」同所,1940年,2,82ページ所載の外国銀行についての結論を参照されたい。(同上書は中国が法幣を採用した翌年に中国で執筆されたものの訳)。
33)外国銀行が中国の対外為替を操縦できる理由については上掲書,58-67ページ,外国銀行が内国金融市場を支配できる理由については上掲書,67-73ページ参照。
34)横浜正金銀行史の概観については土方晋『横浜正金銀行』教育社,1980年を参照。
35)本稿ではしばしば横浜正金銀行『横浜正金銀行史』および同『附録 甲巻之一』を用いるから,これらをそれぞれ『正金史』,『正金史(附)』甲の1と略記する。本稿では1920年に作成されたこれらの復刻版(坂本経済研究所,1976年)を用いる。

Ⅱ 横浜正金銀行設立前の外国為替・貿易金融

 1.外国銀行の対日進出
 1830年代に,特許状(Royal Charter)を受けたイギリス系植民地銀行が設立され始めた1)。1850年代に植民地銀行がインドや中国に本格的に進出してきた2)。植民地銀行をはじめとする外国銀行は1860年代に日本にも進出してきた。幕末期のその過程は次のようなものであった。
 1853年にアメリカのペリー(M. C. Perry)が軍艦を率いて浦賀に来航し,幕府に開国を要求した。翌年日本はアメリカと「日米和親条約士を締結し,1858年(安政5)に「日米修好通商条約」を締結した。同年に日本は,オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約を締結した。かくして1859年に横浜,箱館,長崎が開港され,自由貿易が開始された。兵庫(神戸)は1867年に,新潟は1868年に開港された。
 開港場には外商が進出してきた。たとえば香港に本店をもつイギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会(Jardine,Matheson & Co.)が横浜開港と同時に同地に進出した3)。開港後しばらくして,外国人の永久居住が許される治外法権の居留地が開港場に置かれた。日本人が外国人を相手とする取引は,居留地内で日本商と外商の間という形で行われ,これを居留地貿易と呼んだ。実際には外商の手で商品が輸出人され,外商が開港場の商権を握っていた4)。
 外国銀行の支店設立は外商の進出よりもやや遅れていた。外商の進出が不十分であり,中国と日本の間に定期航路もなく,ジャーデン・マセソンやデント商会(Dent & Co.)のような大商社が香港や上海で金融上の手当をしていたためと思われる5)。
 1863年3月にボンベイに本店を有するセントラル銀行(Central Bank of Western India)の支店長代理リッカビー(Charles Rikerby)が横浜に到着し,支店を開設した。同行が日本に支店を開設した最初の外国銀行であった6)。次いで同年4月にチャータード・マーカンタイル銀行(Chartered Mercantile Bank of India, London, andChina)がひとりの紳士を派遣し,横浜に支店を開設した。同年10月にはボンベイに本店を有するインド商業銀行(Commercial Bank of India)が横浜に3番目の支店を開設した7)。1864年にオリエンタル銀行(Oriental Bank Corporation)が横浜に支店を開設した。ヒンドスタン銀行(Bank of Hindustan, Chinaand Japan, Limited)も1864年に横浜に進出した8)。1866年5月には香港上海銀行が横浜に支店(Branch)を開いた9)。
 1866年にはガーニー恐慌が発生した。同年にセントラル銀行,インド商業銀行,ヒンドスタン銀行が破綻して横浜から姿を消した。だがマーカンタイル銀行,オリエンタル銀行,香港上海銀行は生き残った。当時の外人商館の多くは中国に本店を有する商社の支店であり,それらの資金調達は上海からのドルの輸人や利益のある為替相場での中国宛手形の売却に依存していたが,外商は外国銀行からの金融も受けていた。外国銀行の主要な業務はロンドン,上海,香港手形の売買であった。外国銀行はまた日本銀貨を担保とする貸付も行った。この利子率は年6~10%であった10)。
 1866年当時,日本の軍需品の購人は内乱のためか,それとも外国人の排除のためかはっきりわからなかった。利用できる為替業務の大部分は既存の外国銀行が獲得していた。日本の外国貿易の増大の見通しは依然として立たなかった。かくして慎重な態度をとったチャータード銀行(Chartered Bank of India,Australia, and China)は,未だ日本に支店を開設しようとはしなかった11)。1867年にはパリ割引銀行(Comptoir d'Escompte de Paris)が横浜に支店を設けた12)。
 明治にはいると,ドイツ銀行が1872年5月に上海とともに横浜に支店を開設した13)。だが同行は銀価下落による打撃をうけた。ローゼンドルフによれば,「銀貨ノ下落ニ基ツク支那及ヒ印度地方渡リ為替相場ノ下落ハ独リ銀行ヲシテ該地ヨリ来着スル送金ニ於テ損失ヲ受ケシメタルノミナラズ該地ニ存スル全資金ヲシテ其価格ヲ減少セシムルニ至レリ加之茶及ヒ生絲ニ対スル投機売買行ハレ支那及ヒ日本市場ハ欧州製作品ヲ以テ溢ルゝニ至リ之レガ為ニ輸入業者ハ続々倒産シドイツ銀行ハ其抵当トナセル輸送貨物価格カ買人レタル手形額面価格以下ニ低落シ大打撃ヲ受クルニ至レリ而シテ当時ニ於テハ該地ニ居住セル独逸大商人ノ数ハ稍ヤ減少シタルヲ以テ従前ニ比シ一層多ク独逸人以外ノ外国商人ニ対シ取引ヲ開始セシモ之レ亦不結果ニ終」った。かくして1875年にドイツ銀行は横浜,上海支店を閉鎖した。 そのために受けた損失額は43万6500マルクに達した14)。さらに当時ドイツの日中両国に対する貿易額が少なかったことや,ドイツ本国が「普仏戦後大発展ヲナサンガ為メ暫ク潜勢力ヲ養フニ忙シ」かったことも,横浜,上海からの撤退の原因と考えられる15)。
 パリ割引銀行は,普仏戦争による打撃を受け,さらに銀価下落による打撃を受けた。同行は,アジアから後退していった16)。
 かくして1870年代の日本では,オリエンタル銀行,香港上海銀行,マーカンタイル銀行が大きな役割を果していた。明治初期にはとくにオリエンタル銀行の役割が大きかった17)。だがオリエンタル銀行は,銀価下落による打撃を受け,また不動産抵当金融に深人りして,セイロン島コーヒー栽培業者やモリシャス島砂糖栽培業者への貸付が貸倒れとなり,没落過程をたどっていった。マーカンタイル銀行は,1866年恐慌の打撃を受けた後,手形期限短縮による顧客喪失,貸倒れや詐欺,東洋貿易不振のために業績があがらず,1879年には横浜支店を一時閉鎖した18)。かくして1880年当時には香港上海銀行が外国為替・貿易金融に指導的役割を果したのである。当時香港上海銀行の地位が横浜で非常に強まっていたので,チャータード銀行の代理店として活動した商社は,資金の送金を受けて適当な紙券への投資を待っていたのに,一枚のポンド手形も長い間買うことができなかった19)。
 1870年代も居留地貿易が貿易の支配的形態であり,居留地では日本商が輸出品を外商に売込み,日本商が輸人品を外商から引取る取引が行われ,商品は外商の手によって独占的に船積された。外国為替・貿易金融は外国銀行によって独占的に取扱われた。「外商は〔外国〕銀行の信用と資本力のもとに貿易活動の舞台をひろげることができた」20)。
 邦商と外商との取引には不換紙幣は一切用いられなかった。日本の売込商は,外商に商品を売込み,その代金を洋銀(とくに当時東洋で貿易通貨として広く用いられていたメキシコ・ドル)または日本の銀貨(貿易銀,1円銀)で受取り,これを不換紙幣に売換えて内地の仕人先に支払った。日本の引取商は,外商から商品を引取り,その代金は,不換紙幣で銀貨を買人れてこれを外商に支払った21)。開港直後は上記金属貨幣が用いられたが,洋銀の品位が不統一なこともあり,洋銀の取引の不便をさけるために,外国銀行の発行する兌換券(洋銀券)が1864年以降内外人の取引に用いられるようになった。1876年頃には洋銀にかわって殆んどこれが用いられていた22)。外国銀行は洋銀,洋銀券の供給者として大きな役割を果していた。
 洋銀相場は主として貿易差額や鋳貨の悪化や紙幣の減価によって変動した23)。だが外国銀行が自己の利益のために洋銀相場を操作することもなくはなかったと思われる。とくに日本の輸人超過のもとで,外国銀行が洋銀の供給を適当に操作することによって洋銀相場を高めにして利益を得ることがある程度はできたようである24)。

2.直輸出奨励金融
 横浜正金銀行創設前に,日本の外国為替・貿易金融が,外国銀行のなすがままに放置されていたわけではない。すなわちまず第1に,1869年(明治2)2月に貿易事務の管理を主目的とする「通商司」が設置され,このもとに「通商会社」および 「為替会社」が設けられた。通商会社は日本の商人が一致協力して外国商人と折衝して,日本の貿易を発展させようとしたものであり,為替会社はこの通商会社に金融上の便宜を図る組織であった25)。為替会社の中で横浜為替会社は洋銀券を発行したが,政府がこれを許可したのは,横浜商人に対して貿易金融の便宜を図るとともに,外国銀行の発行する洋銀券の独占的流通を排除し,外国人の手中にあった洋銀相場支配権を奪回しようとしたからである26)。
 だが通商司は1871年7月に廃止され,通商会社,為替会社は多くの損失を出して解散せざるを得なかった。為替会社が挫折したのは,政府の保護に甘んじて自立的基礎が薄弱であるとともに,当時の産業が著しく不安定であったからであろう27)。ただ横浜為替会社だけは第二国立銀行として継続したが,同会社,銀行の発行した洋銀券は,外国銀行の保証比よってはじめて流通しえる有様であった28)。
 次に1871年に新貨条例が制定され,本位貨幣は金貨とされ,また日本の貿易銀が鋳造された。だがこれらは容易に洋銀,洋銀券を排除することができなかった。
 1871年の廃藩置県断行以降,日本の商人による海外市場と直結した輸出入取引(直輸)の伸張を図る政策が,明治政府によって具体化されていった29)。輸出が停滞ないしは減少に転じた1875年(明治8)に至り,直輸出奨励政策が重要政策としてとりあげられるようになった30)。これを具体的に言えば,まず同年に大久保利通内務卿が「海外直売ノ基業ヲ開クノ議」と題する建議を太政大臣三条実美に提出し,政府が出資して直輸会社を設立して直輸出を奨励し,商権の回復,販路の開拓を図ろうとした。また同年10月に大久保内務卿と大隅大蔵卿が「輸出物品ヲ以テ外債償却ノ儀ニ付伺」書を三条太政大臣に提出し,政府資金を貿易資金に充当して直輸出を奨励し,金貨の流出を防ぎ,外債償還の便宜を図ろうとし,これは商人の奨励にもなると主張したのである31)。もっとも,1875年当時は直輸出は殆んどなく,また日本の金融機関はわずかで,外国為替金融を担当できる段階には達していなかった。したがって当時においては,政府が直輸出奨励のために財政資金を外国為替資金として民間銀行・会社に対して貸出せる可能性は殆んどなかった32)。
 1876年末になると,貿易商が,直輸出発展のための財政資金融資を政府宛に上申するに至った。すなわち丹羽雄九郎および橘成彦の両貿易商人は,1876年11月付で,国債寮に対して荷為替に関する願書を提出した。同月,国債頭の許可が与えられた33)。かくして両名がアメリカ向輸出のために国債寮から荷為替資金を借入れ,商品をニューヨークの委託販売人である佐藤百大郎に送り,この販売代金をニューョーク領事館に納付する方法が創設されたのである。これは政府貸下金に依存した荷為替取組の初例と思われる34)。1877年2月には上記2商人は勧商局に「荷為換願」を提出した35)。
 1877年7月11日には準備金取扱規則が改正され,政府が準備金の一部を海外輸出貿易業者に前貸し,その輸出商品売却代(外貨)を在外日本公使館領事館へ預入れさせる制度が成立した。なお政府は,公使館,領事館にこれを確実な外国銀行に預入れさせて保管させ,外国債元利金等諸支払にこれを充当している36)。このように政府は,横浜正金銀行成立以前に,官営金融ともいえる直輸出奨励,正貨獲得のための荷為替金融を行っていたのである37)。
 1877年以降,貿易業者である三井物産が,大蔵省の委託を受け,外国荷為替貸金業務を担当した。官営荷為替金融の一部が民間会社に委託されるに至ったのである38)。
 1879年に至り,民間銀行が外国為替業務を開始した。すなわち1878年に開業した第百銀行は,はやくから生糸を中心とした海外荷為替金融を重視した39)。原六郎を頭取とする同行は,「海外輸出入ノ権衡ヲ得ザルヨリ理財ノ要点ヲ失却シ,且商業振起セザルヲ憂ヒ」40),海外荷為替取組を行おうとした。同行は1879年6月にニューヨークの佐藤組との間に米国輸出生糸荷為替を取組む契約を結び,当時ニューヨークに在留していた田代四郎氏を同行の代理人に指名し,同人に為替事務取扱を委託した。売捌かれた商品の代金は田代氏からニューヨーク領事館へ納付し,同領事館はこれを日本の商務局へ電信為替で送金し,同局を経て第百銀行が回収する計画を立て,同年9月17日に同局から許可された41)。また佐藤組との荷為替取組の件は,9月4日に大蔵省へ請願し,同月20日に許可された。これが日本の銀行で最初の外国為替取組と思われる。第三十三国立銀行も第百銀行と殆んど同時に,海外荷為替事業に着手した。同行も田代氏を代理に立てて荷為替取扱を委託しようとした。第百銀行と第三十三銀行は約定書を交換して共同戦線をはった42)。
 このように直輸出奨励のための金融が行われるようになったとはいえ,1879年当時は内商は日本の輸出の7.5%しか取扱っていなかった43)。直輸出荷為替金融には限界があったのである。


 1)A. S. J. Baster, The Imperial Ban ks , p. 2, Cha p. Ⅲ。
 2)石井寛治が個別銀行的視角からこれを詳細に論じている(石井寛治「イギリス植民地銀行群の再編―1870・80年代の日本・中国を中心に―」東京大学『経済学論集』第45巻第1号, 1979年4月)。以下同論文を石井論文(1)と略記する。
 3)石井寛治「イギリス植民地銀行群の再編―1870・80年代の日本・中国を中心に―」(2・完)」『経済学論集』第45巻第3号,1979年10月,26ページ。以下同論文を石井論文(2)と略記する。
 4)居留地制度は不平等性,従属性を持っていたが,外国資本の国内への進出を阻止して,外国 資本の支配を最小限にくいとめる役割を果していた(海野福寿『明治の貿易』塙書房,1967年,19-25ページ)。
 5)1860年晩秋にチャータード銀行香港支店長(the man ager of the branch)はこのような実情から,同行が日本に支店(agency)を開設するのは早すぎると同行重役に進言した(Compton Mackenzie , Realms of Silver , London, 1954, pp. 94-95)。
 6)佐上武弘「南蛮銀行渡来記(上)」『ファイナンス』第103号,1974年6月,44-46ページ。立脇和夫氏は『在日外国銀行』教育社,1978年,30ページではオランダのNederlandsche Handel maat schappijが外銀の日本進出第1号とされていたが,同氏は後に自説を改められ,セントラル銀行が日本に進出した最初の外国銀行であることを認められた。同氏の「旧条約時代の外国銀行横浜進出状況(上)(中)(下)」「金融」第427-29号,1982年10-12月では外銀の横浜進出状況が解明されている。なおコリスの著書はセントラル銀行のことを“the Central Bank of Western India, London & China”と記しているが(M.Collis, Wayfoong, p. 44),これは誤植である(小島清「“南蛮銀行渡来記”始末」『ファイナンス』第194号,1982年1月,62-63ページ。
 7)佐上武弘,前出,46ページ。立脇和夫,前掲論文(中),18-24ページ。
 8)石井寛治,前掲論文(2),27-28ページ。
 9)佐上武弘「南蛮銀行渡来記(下)」『ファイナンス』第105号,1974年8月,53ページ。同行は前年の5月に横浜の商社を代理店に指名している(同上)。
 10)C. Mackenzie, op. cit。. pp . 96-97.
 11)Ibid., pp. 96, 98-99.
 12) Andre Liesse, Evolution of Credit and Banks in France ( National Monetary Commission's publication), Washington, 1909, p. 123.石井寛治,前掲論文(1),59ページ。branch, agency, sub-branch, sub-agency, agents, agentの区別については立脇和夫,前掲論文(上),17-18ページ参照。
 13)石井寛治,前掲論文(1),59ページ。
 14)ローゼンドルフ演説,前掲『別途調査』7-8ページ。
 15)横浜正金銀行(田中徳義稿)『支那ニ於ケル列国ノ銀行政策ノ沿革及現状』同行,1914年,101-02ページ。以後1889年に独亜銀行(Deutsch Asiatische Bank)が成立するまでドイツの銀行は,アジアに進出しなかった(同書,102ページ)。
 16)石井寛治,前掲論文(1),59-60ページ。
 17)関山直太郎『日本貨幣金融史研究』新経済社,1943年,57ページ。佐上武弘「南蛮銀行 渡来記(中)」『ファイナンス』第104号,1974年7月,36-51ページ,前掲同(下),46-51ページ。
 18)石井寛治,前掲論文(1),32-34,40-42ページ。
 19)C . Mackenzie,op. cit。. p. 99.
 20)海野福寿,前掲書,60-62ページ。
 21)『正金史』3-4ページ。
 22)洞富雄『幕末維新期の外圧と抵抗』校倉書房,1977年,241-46ページ。
 23)1869-71年の洋銀相場の騰貴の主原因については,入超による洋銀需要の増大に求める説(山口茂「日本金融史の一節」新庄博等編『貨幣理論と貨幣制度』251-52ページ),交換通貨の品位の劣悪化に求める説(『横浜市史』第3巻下,319ページ〔洞富雄稿〕,洞富雄,前掲書,223ページ)と,紙幣の減価に求める説(岡田俊平『明治前期の正貨政策』86ページ)とがある。1872-77年には洋銀相場は安定していた。1878年以降の洋銀相場騰貴については後述。
 24)『横浜市史』第3巻下,1963年,322-24ページ。洞富雄,前掲書,226-28ページ。もっとも洋銀相場の騰貴は,一面では輸入貿易に悪影響を及ぼすから,この点からその高騰が抑制されていた(上掲書参照)。
 25)明治前期の貿易政策については通商産業省『商工政策史』第5巻貿易(上),1965年,第1編(水沼知一稿)参照。
 26)洞富雄,前掲書,245ページ。
 27)白井規矩稚『日本の金融機関』森山書店,1939年,48ページ。
 28)洞富雄,前掲書,246ページ。
 29)岡田俊平「明治初期における貿易金融」『金融経済』第57号,1959年8月,20ページ。
 30)村上はつ「外資と民族資本―居留地貿易を中心として―」宮本又次・中川敬一郎編『日本経営史講座第2巻,工業化と企業者活動』日本経済新聞社,1976年,203ページ。
 31)前掲『商工政策史』第5巻,151-65ページ。
 32)伊牟田敏充「明治前期における貿易金融政策」安藤良雄編『日本経済政策史論』上巻,東京大学出版会,1973年,62ページ。
 33)岡田俊平,前掲論文,23ページ。
 34)『横浜市史』第3巻上,1961年,640ページ(海野福寿稿)。両貿易商は国債局の貸下金の「御陰ヲ以テ是迄商業手広相成居」と勧商局への「荷為換願」の中で述べている(岡田俊平,前掲論文,23ページ)。
 35)岡田俊平,前掲論文,23-24ページ。
 36)『明治財政史』第9巻,561ページ。
 37)岡田俊平,前掲論文,26-27ページ。
 38)同上論文,27-28ページ。
 39)新井揆博「国立銀行と為替業務―第百国立銀行を中心として―」法政大学『法政史学』第15号,1962年,200ページ。
 40)原邦造編『原六郎翁伝』上巻,1937年,333ページ。
 41)同上巻,330-31ページ。明石照男・鈴本憲久『日本金融史』第2巻,東洋経済新報社,1958年,41ページ。
 42)原邦造編,前掲書,331ページ。
 43)松井清編『近代日本貿易史丿第1巻,有斐閣,1959年,58ページ(原資料は東洋経済新報社『大日本外国貿易五十六年対照表』)。1879年の輸人で内商が取扱ったのは3.13%にすぎなかった(同上ページ)。

Ⅲ 横浜正金銀行の設立

 1.設立の目的
 前述の過程を経て,横浜正金銀行が設立されることになったが,まず同行の設立経過を述べよう。1879年に慶応義塾の福沢諭吉と大蔵卿大隈重信の間で,正金銀行設立計画が秘密裡に進められた。一方福沢の教えを受けた丸屋商店の早矢仕[はやし]有的・中村道太らにも正金銀行設立の意向があった。福沢は正金銀行設立の中心人物となる者として,当時絶大な信頼を寄せていた中村道太を大隈に推薦した。1879年11月に中村道太・早矢仕有的ら23名の発起人が大蔵卿大隈重信宛に「正金銀行創立願」を提出し,翌12月11日,大隈は正金銀行の設立を許可した。同日天隈は太政大臣三條実美へ正金銀行設立許可に関する上申書を提出し,同月,発起人は株式募集に着手した。12月21日に中村は株主集会を開催し,会場で8名の取締役が選出され,互選の結果,初代頭取には中村道太,副頭取には小泉信吉がなることが決定した。かくして1880年(明治13)2月28日,横浜正金銀行が横浜で開業したのである1)。
 次に横浜正金銀行の設立目的について述べよう。横浜正金銀行は正金(金銀)取引銀行として発足した。同行は,民間退蔵金(金銀)を預かり,これを貿易業者〔輸入品取扱業者〕に供給して内外貿易〔輸入品の引取など〕の便宜を図ることを直接的な目的としていたのである2)。同行の設立には,さらにこれによって邦商に便宜を与えて,外銀外商に握られていた日本の商権を漸次回復するというねらいが含まれていた3)。
 銀供給は洋銀相場騰貴抑制につながると考えられた。洋銀相場騰貴抑制は貿易業者に便宜を与えるためだけでなく,とくに物価安定のために必要であると考えられ,大蔵卿大隈重信は貨幣政策として正金銀行の設立を促進した。大隈は1877年(明治10)の西南戦争以後の紙幣の濫発,紙幣の減価による洋銀相場や物価の騰貴を,産業の未発達に規定された輸人超過のための洋銀に対する需要増に基づくものとみなし,さらに投機によって洋銀騰貴が助長されたと考え,銀供給の増加によって洋銀相場騰貴,物価騰貴を抑制しようとしたのである4)。
 大隈は,将来においては正金銀行を紙幣整理に寄与させるという意味からの正金銀行設立構想も有していた5)。だが1879年12月に同大蔵卿が正金銀行の設立を許可した際には,同行の兌換銀行券発行は許可されなかった。不換紙幣整理のための兌換券発行は,正金銀行設立時にはいちおう同行の目的からはずされていたといえる。
 横浜正金銀行は正貨供給機関として設立された。前記の「設立願」や上申書には,横浜正金銀行の外国為替業務にふれられていないから,1879年11,12月当時には横浜正金銀行を外国銀行に対抗する一大為替銀行にする構想はなかったといえる6)。だが,1880年1~2月には発起人や大蔵省が,これまで外国銀行に独占されていた外国為替市場へ正金銀行が進出することに言及するようになってくる。発起人は外国為替の面からも,日本の商権を漸次回復することを意図するようになった。同行創設1ヵ月前の1880年1月に,大蔵卿宛に政府出資を求めて提出された「横浜正金銀行資本金御差加願」には,「当銀行ノ儀ハ…差向金銀貨幣ノ供給運転ヲ便ニシ務メテ内外貿易ノ間ニ介シ漸次外国為換ノ商権ヲモ恢復仕度」と述べられている7)。大蔵省は出資のための稟議書を2月6日に太政大臣宛に提出したが,この中には,「正金銀行ニ於テハ…欧米又ハ支那ノ各国ニ向テ盛ニ為換ノ事業ヲ開設シ,一ノ外国為換銀行トナサント欲スル等,当省ニ於テ将来大ニ望ヲ属スル所有之」と記されている8)。
 もっとも横浜正金銀行発足当時には,外国為替業務は副次的業務と考えられていたのである。1881年1月9日の株主総会で,中村頭取ははっきりと「当行創立の始に於て,我輩の目途は専ら内国の正金銀を聚合し,之を運転流通するを以て営業の主務とせんことを希望せし」9)と述べている。政府出資は為替業務拡張よりも,後述のように内外人から正金銀行が信用を得ることを主眼としたものであったのである10)。

 2.創業資本金
 正金銀行創設のための資本金はいかにして調達できたのであろうか。同行総資本金300万円のうち200万円は民間から出資された。設立願では銀行業者や華族などからなる発起人が,そのうちの100万円を出資することになっていたが,設立時に発起人が出資した金額は80.5万円であり,民間出資分の残りの部分は株式公募発行によって調達されることになった11)。
 正金銀行は国立銀行条例にのっとって設立されたから,資本金は開業前に半額を払込ませる必要があったが,これは困難であった。そこで発起人は,業務の進展に応じて資本を調達できることと,金融市場の金融逼迫を促進しないことを理由として,5回の株式分割払込みを1880年1月に大蔵省に願い出た12)。これは許可され,正金銀行民間株主は,1880年1月20日から9月1日まで,5回にわたって2割ずつ資本金を払込んだ。この高額面(100円)株式の分割払込みは,また株主の払込みを容易にして正金銀行の資本調達を容易にしたと思われる。
 正金銀行の資本金は正銀で払込まれることになっていたが,銀騰貴のもとで正銀を急激に購人することは不便であり,また正金銀行が一時に多額の正銀を必要としなかった。このために民間出資金中の160万円は紙幣で払込まれた13)。これによっても正金銀行の資本調達が容易化されたのである。
 正金銀行株式応募者の申込額は,民間出資予定額を50万円超過した。これは同行の創立が「当時の事情に適して,人気に投じた為であらう」14)。またこれは投資家層の存在を物語るものであり,民間出資資本金は,横浜をはじめとする全国の商人や銀行家などによって払込まれた15)。なお,このような民間株主が存在したことは,正金銀行が営利採算を追求する金融機関としての一側面を持つことを意味した。
 正金銀行の営業は困難性が予想されたから,正金銀行発起人は,すでに民間株式応募申込金が目標額を上回り250万円に達しているにもかかわらず16),正金銀行が政府の保護を受けて内外人の信用を得ることができるように,政府の出資を希望した。すなわち正金銀行頭取と副頭取になることが予定されていた中村道太と小泉信吉は,1880年1月,政府の出資を願い出た17)。正金銀行の意義を認めていた政府は,「特別ノ保護ヲ加ヘ深ク内外人民ノ信憑ヲ得サシムルニ非ラサレハ完全ナル成果ヲ得難キノ事情ヲ考察シ」2月にこれを許可した18)。そこで正金銀行は民間応募超過額を「照会シテ便宜削減シ」た19)。政府は「準備金」の中から100万円を銀貨で出資し,政府(大蔵省)の出資によって,正金銀行は資金力を強化するだけでなく,とくに内外からの信用を強化することができたのである。
 政府(大蔵省)の株式に対する配当金は,配当すべき1カ年の純利益が6%以下の場合には,民間株式の場合と同じ額が支払われたが,それが6%をこえた場合には,民間株式の場合とは異なり,配当率が6%にとどめられた。これによって残された純益金は別途積立金として積立てられることとなった20)。別途積立金を正金銀行がとりくずして使用する場合には大蔵省の許可を要したが,ともかくも政府出資は正金銀行の積立金の増大にも寄与することになったのである。
 政府出資は大蔵省の正金銀行管理窟による正金銀行業務監視を条件としていた21)。政府出資の結果,同行は大蔵省管理官の監督を受けることとなった(定款第49条)。また政府(大蔵省)が大株主となり,必要があれば大蔵卿が正金銀行頭取を任免できるようになった(同条)。これらのことは,正金銀行が国家目的を遂行する金融機関としての一側面を持つことを規定したのである。もっとも株主発言投票権に関しては,定款第25条で株主発言権が持株数に比例しないように定められた。これは最大の株主である大蔵省の同行に対する発言力を抑制するものとして作用するものであった。

 1)『正金史』5-19ページ。原司郎「横浜正金銀行の設立とその性格」『横浜市史』第3巻下,1963年,494-511ページ。古沢紘造「横浜正金銀行条例の制定と為替政策」渋谷隆一編著『明治期日本特殊金融立法史』早稲田大学出版部,1977年などを参照。
 2)『正金史(附)』甲の1,1,9-10ページ。
 3)『正金史』4-9ページ。洞富雄,前掲『幕末維新期の外圧と抵抗』282ページ。「福沢諭吉全集』第17巻,岩波書店,1961年,328-29ページ。
 4)岡田俊平『明治前期の正貨政策』東洋経済新報社,1958年,第4-5章,157ページ。洞富雄,前掲書,第3章。長幸男『日本経済思想史研究』未来社,1963年,第3章。『正,金史(附)』甲の1,10ページ。
 5)中村尚美『大隈財政の研究』校倉書房,1968年,第4章。
 6)『正金史』9ページ。
 7)『正金史(附)』甲の1,11-12ページ。
 8)大蔵省「準備金始末参考書」(1891年)同省編『明治前期財政経済史料集成』第11巻の1,復刻版,明治文献資料刊行会,1964年,94ページ。以下上記資料集を『史料集成』と略記する。
 9)『正金史 附録』乙巻,9ページ。
 10)外国為替金融を重視する前田正名や松方正義の構想については『直接貿易意見一斑』(博聞社,1881年),復刻版,長幸男・正田健一郎監修『明治中期産業運動資料』第2集第19巻,
日本経済評論社,1979年や古沢紘造,前出,78-79ページや高橋誠『明治財政史研究』青木書店,1964年,122-23,131-32ページ参照。
 11)原司郎,前出,516ページ。
 12)『正金史(附)』甲の1,33ページ。
 13)『正金史』18ページ。紙幣でただちに金札引換公債証書を買入れておき,正銀の必要があるに従って,この公債証書を抵当として,政府から正銀の賃下げを受けることになっていた(同上ページ)。
 14)同上書,11ページ。
 15)原司郎,前出,518-19ページ。
 16)横浜正金銀行「第一回半季実際考課状」(東京銀行『横浜正金銀行全史』第1巻,同行,1980年)71ページ。
 17)『正金史』12-13ページ。『正金史(附)』甲の1,11-12ページ。
 18)大蔵省,前掲「準備金始末参考書」『史料集成』第11巻の1,93ページ。原司郎,前出,515ページ。
 19)注16)を参照。
 20)「横浜正金銀行定款」第49条では「配当金6分[●●]以上ニ至ルトキハ其以上[●●]ニ当ル金額ハ之ヲ当銀行ノ別途積立金ト為シ之ヲ大蔵省ニ上納セ」ずと規定されているが,この場合,大蔵省が6分の配当金を最大限受取れると正金銀行は解釈している『正金史』第44,69ページ,『正金史(附)』甲の1,30-31ページ)。
 21)『正金史』13-16ページ,『正金史(附)』甲の1,13-16ページ。原司郎,前出,520-22ページ。

Ⅳ 御用外国荷為替制度の成立

 1.輸出品に対する貸出の開始
 横浜正金銀行設立後,紙幣価値の下落,紙幣に対する銀相場の騰貴がますます激しくなり,市場における正貨(金銀)の利用はますます狭まり,正金銀行は正貨取引を行うのが困難となった1)。正銀供給による輸入の円滑化,銀相場騰貴抑制という当初の目的を果すことができなくなった。
 横浜正金銀行は,茶,生糸等の輸出品の売込商人に紙幣を貸出そうとして,1880年5月18日,大蔵卿佐野常民(同年2月末に大蔵卿に就任)に「紙幣御貸下願」を提出した2)。大蔵卿佐野常民は同月24日にこれを許可し,正金銀行は5,6月に紙幣50万円を借人れた。かくして同行は政府からの借入金に依存して輸出品に対する貸出を開始したのである3)。なおこの貸出は,他の銀行とコレスポンデンスを締結し,内国荷為替事務を取扱うことも認められていた4)。
 この貸出は直輸出奨励を目的とするものであった。「紙幣貸付手続」第1条では「此貸付ハ専ラ本邦輸出商ノ便益ヲ謀ルノ趣旨ナレハ確実ナル輸出物ヲ抵当トシテ輸出商ヘ貸付クヘシ」と規定されている5)。この直輸出奨励は貿易の均衡を図る上からも必要とされた6)。この貸出は国内産業を保護して輸出を増加させて銀を吸収して銀貨騰貴を防止するというねらいもあった7)。
 「紙幣御貸下願」の冒頭では「当行営業ノ要領タル専ラ海外各国ニ係ル為替等ノ業務ニ従事シ彼我貿易ノ権衡ヲ調理スルノ目的ナル」と述べられている8)。1880年5月,当時正金銀行はまだ外国為替業務を行っていなかったけれども,同行はこれを重視するようになったのである。輸出品に対する貸出は「将来海外荷為替ノ途ヲ開クノ端初」となる9)。正金銀行の外国為替取組開始の前提としてもこれが求められたのである。
 なお1880年6月に松方正義が「財政管窺概略」を太政大臣に提出したが,この中には新たに海外為替正金銀行を設立して直輸出業者の荷為替業務に便宜を与え,直輸出品売上代金の一部を在外銀行にとどめて蓄積せよという主張が含まれていた10)だが当時の佐野大蔵卿は,在外資金の蓄積を主目的とする新正金銀行を設立しようとはしなかったのである。
 ひとたび輸出品に対する正金銀行の貸出,紙幣貸出が開始されると,これが増加し,同行の紙幣取扱業務は恒常化した11)。かくして正金銀行の性格は変化し,紙幣取引が同行の「一大要目」となり12)輸出品に対する貸出が重要業務となったのである。

 2.御用外国荷為替制度の成立
 1880年5,6月頃から政府は,横浜正金銀行に直輸出荷為替業務を,独占的に取扱わせようと企てるようになったと思われる。すでに外国為替業務を開始している第百銀行と第三十三国立銀行が,外国為替業務を拡張しようとして,同年3月と6月に政府に援助を求めてきたのに対して,5月,6月に政府はこれを拒否している13)。しかも同年6月には太政官布告によって,正金銀行を通じないで行われてきた政府資金運用による荷為替金融方式そのもの(準備金貸付)が廃止されることとなっているのである14)。
 1880年7月に神戸支店を開設するなどして内地向業務を整備した正金銀行は,さらに進んで海外向業務に進出しようとした。8月に同行はニューヨークに出張員を派遣して外国為替の方法調査に着手し,続いてイギリスへも行員を派遣する計画を立てた。同行への海外荷為替取組依頼が多かったけれども,これに応じるためには同行の資金が不足していたので,同行は8月に外国為替資金の貸下を佐野大蔵卿に願い出た。同月に佐野は太政大臣三条実美に稟申書を提出し,10月に大蔵省が「預入金規制」を制定して,これに基づいて「準備金」の中から300万円を限度とする預入れを正金銀行に行った。この預金は「御用別段預金」と称された。この運用について規定した「別段預金運転規定」,その返還手続きを規定した「荷為替資金返納手続」が制定された。これらに基づいて正金銀行は政府の別段預金を資金源とする外国荷為替業務を開始した。かくして1880年(明治13)10月に「御用外国荷為替制度」が成立したのである。この御用荷為替取組によって,正金銀行の外国荷為替業務が開始されるに至ったのである15)。なお別段預金の預入金限度額は直輸出の増加に伴い,1881年7月に400万円に引上げられた16)。
 御用外国荷為替制度の直接的な目的は,1880年10月から1882年2月までは直輸出の奨励であった17)。この直輸出の奨励は,直輸出商の要求をうけいれてその便宜を図るだけでなく,外国為替業務の面から漸次日本の商権を回復するというねらいがこめられていた18)。中村頭取は1880年9月5日の臨時株主総会ではっきりと外商外銀の外国為替独占打破を主張している19)。直輸出奨励は輸出入を均衡させるためにも必要とされた20)。
 直輸出奨励は上記の貿易上の観点だけから行われたものではなかったのである。佐野大蔵卿は輸出入を均衡化させて金銀貨の相場を安定させようとしたのである21)(もっともこれを御用荷為替制度の目的とすることは,8月の同郷から三条への稟申書以外には述べられていない)。また政府は直輸出奨励を一手段として,在外公館諸費や外債償還金などの政府対外支払に必要な在外資金を獲得しようとしたのであり22),この獲得自体が同制度の一目的であった23)。さらに,海外への送金事務をすべて外人に委託していたのを日本人が行えるようにすることも,正金銀行に御用荷為替を取扱わせた目的の1つであった24)。なお御用荷為替制度には後述の正貨吸収による紙幣整理という目的も存在したと考えられるが,このことは8月の佐野から三条宛の稟申書にも初期の諸規定にも述べられておらず,当初は目的に占めるその位置は低く,後にその重要性を増大させたと考えられる。
 上記の目的を有する御用外国荷為替制度,正金銀行のあり方は,前田正名の構想とは必ずしも合致しなかった。1880年12月,前田正名は「直接貿易基礎確定に関する三大要綱」を建議し,直輸出を奨励するために1,000万円の政府資金を無利子で為替のために融資せよと主張した25)。だが政府は,これほどまでに積極的な直輸出奨励のための金融的保護策は採用しなかったのである。
 外国為替業務を行うために必要となる海外支店,出張所に関しては,1880年10月に正金銀行は,ロンドン,パリ,サンフランシスコ,ニューヨーク,上海等の各地に漸次支店または出張所を設置することをあらかじめ大蔵省に願い出,その許可を得た26)。ここにイギリス,アメリカ,フランス,オーストラリア,中国,韓国,ウラジオストック等の各地に出張所,代理店を設置して外国為替業務を拡張する遣が開かれたのである27)。1881年1月に小泉信吉副頭取が欧米に派遣された。2月末~3月頃小泉はニューヨーク出張員が下宿の一隅で事務を執るのを改めさせ,ニューョークのブロードウェイに出張事務所を開設させた。4月にロンドンに到着した小泉は,同行の一行員をロンドン出張員とし,その後ロンドンのビショップスゲート街に出張事務所を開設させて同年11月に帰国した28)。
 別段預金の運用に関しては,別段預金は海外直輸荷為替に対して貸出されただけでなく,生産地から輸出港までの直輸出品荷為替を取組むための資金としても貸出された。前者の海外荷為替は正金銀行自身が取扱ったが,後者の内地荷為替に関しては,同行は各地方銀行を同行代理店とみなして,この取扱を委託した29)。正金銀行の内地荷為替に対する貸出は,地方銀行が直輸出品の荷為替を取組むのに要する資金の貸出と,直輸出品製造会社または製造人に対して,荷為替を取組むまでの前金を地方銀行の手を経て貸出すものとを含んでいた30)。
 政府の別段預金(1881年9月に「御用外国荷為替資本預金」と改称)に依存して,はじめて正金銀行は外国為替業務を行うことができたのである。すなわち正金銀行が1880年8月に「外国為替資金貸下願」を提出した時,同行は同行資本金を用いても輸出品の荷為替取組には足りないと主張しており,民間預金はこの資金源としては問題にもされていなかった31)。荷為替資金として政府が正金銀行に預入れた預金の残額は,1881年末において290万円であり,これは同年末の同行の資本・負債勘定の36%も占めていたのであった32)。1881年6月末の正金銀行貸借対照表を考察すれば,荷為替資金として預けられた御用別段預金121万円に対して,海外直輸荷為替貸80万円,海外荷為替資金貸(地方各銀行向)41万円となっており,御用別段預金額と直輸荷為替に対する貸出金が一致し,後者が全く前者に依存していたことが明らかとなる33)。
 政府預金は単に外国為替資金源としてだけでなく,金利の上からも正金銀行の外国為替業務を支えたのである。別段預金の金利は「預入金規則」第4条によれば,通常は年4%であり34),これは1881年8月まで継続した。これは東京当座預金平均年利と同じであったが35),「預入金規則」第11条によれば,政府が預入を廃止する場合は6ヵ月前に正金銀行に通知しなければならず36),1880年10~81年8月の東京における6ヵ月定期預金年率は7.25~8.00%であった37)。したがって政府預金利率は,民間預金利率よりも低かったといえる。このため一般の貸付金利が平均13.30~14.60%に達していた当時において,正金銀行は外国荷為替貸利率を6%におさえることができたのである38)。なお直輸出荷為替品をやむをえず内地(開港地)で売却する場合の金利は,預入金利は年6%であり,正金銀行貸出金利は8%以下であった39)。
 1881年7月に,正金銀行は直輸出奨励の主旨を徹底するために,開港場から海外にむけた直輸出品の荷為替貸金利引下と,荷為替を取組んだ直輸品の内地(開港地)売却に関する利子の引上とを大蔵省に上申した。前者に関しては,外国銀行の貸出金利がこれまで横浜正金銀行の貸出金利よりも低利であり,佐野大蔵卿は横浜正金銀行の直輸荷為替貸金利を外国銀行の金利よりも幾分低利にしようとしたのである。1881年8月,直輸出のための預入金金利を2~4%に引下げることを三条太政大臣が認可した40)。同年9月,「外国荷為替資本預金運転規程」が制定され,「預入金規則」第6条で6%以下と定められていた正金銀行海外直輸荷為替貸金利は,4~6%に引下げられた41)。これによって,正金銀行が直輸荷為替貸出金利の面から,外国銀行に対抗できるようになったのである。直輸出品の内地売却に関しては,同行金利はこれまで内地普通貸出金利よりも大幅に低かった。8月にこれに関する預入金利を10%に引上げることを太政大臣が認可した42)。だがこうなっても,正金銀行は内地の普通貸出よりも畿分低利で貸出せると佐野大蔵卿は考えていた43)。なお前記の「運転規程」では生産地から開港場までに関する直輸出荷為替貸付金利は10~12%に引上げられた44)。
 政府の預入金の決済に関しては,横浜正金銀行が外国の輸入業者から取立てた輸出代金(外国公貨)を,在外公使館・領事館に納入し,この領収書に記載された金額を当日の横浜向為替相場で,日本の銀貨額に換算し,さらにこれを横浜の銀貨相場で紙幣に換算し,最初に預入を受けた金額および利子との過不足を大蔵省との間で授受した。この場合には正金銀行は貸出金の取立の責任は負ったけれども,為替相場変動に伴う危険は政府が負担したのであった。したがって,正金銀行は,為替リスクを回避するために外国為替の売却高と購買高,とをつりあわせる(為替の出合をとる)苦労もなく,危険を回避しつつ外国為替業務を行えたのである45)。
 正金銀行開業以来1880年末までの10ヵ月間の純益金は18万800円であった。政府株式に対する株式配当率が民間株の場合よりも低く年率6%にとどめられ,同行は7,100円の別段積立金を計上できた46)。1881年上期の純益金は153,256円であった。民間株配当率は8%であったが,大蔵省所有株配当率は6%にとどめられ,正金銀行は10,000円の別段積立金を計上できたのである47)。
 上述のように,横浜正金銀行は国家の保護を受けて外国為替業務を開始できたのである。
 為替資金として用いるための政府預金は,もっぱら正金銀行に対して預入れられた。すなわち,1880年8月30日に大蔵卿佐野常民が太政大臣三条実美宛に提出した「横浜正金銀行へ預ケ入金之議」においては,「現今各国立銀行其他ヨリ生糸其外輪出荷為換等ノ為メ新規拝借願出居候分トモ一切該銀行ニ於テ為取扱候様可致」と述べられていたのである48)。これによって正金銀行が日本の金融機関中の独占的外国為替・貿易金融機関として育成されたのである。
 初期の御用荷為替制度は,横浜正金銀行の荷為替業務を創設させたばかりでなく,これ以外の当初の目的をある程度達成させた。『横浜正金銀行沿革史』は,荷為替法が1882年2月に改正される以前の御用荷為替制度を批判する一方で,これを次のように評価している。「此荷為替金貸出ノ為メ大ニ内国商人ノ志気ヲ喚起シ,本邦物産ノ増進及ヒ改良ヲ促シ,随テ海外直輪ノ道及ヒ海外荷為替ノ便ヲ開導シ,且ツ海外ニ於テ収得ノ為替金即チ其ノ地ノ正貨ヲ以テ政府ニ返納シタル金高百有余万円ニ上リ,而シテ政府ハ該金員ニ依リ多少外国ニ於テ仕払ヲ要スル費用ヲ支弁シ,復タ故ラニ本邦ヨリ送金ヲ為スノ不便ヲ避クルノ利益ヲ得タルコト亦疑ヲ容レサルナリ」と49)。
 だが同時に初期の御用荷為替制度は問題点を持っていた。為替荷物の検査が厳重でなかったために,貨物が粗悪になりがちであった。また荷物の送り先での取締方法が不完全であったため,販売が不規則となり,為替金返納が延滞した。さらに紙幣で貸付けた為替金は輸出品売却金(外貨)を時価で紙幣に換算して返納したから,紙幣の下落を利用する投機が生じたのである50)。

 3.正貨吸収を主目的とする御用外国荷為替制度の成立
 大隈重信は,1880年2月末に大蔵卿の地位を同郷(肥後出身)の佐野常民に譲った後も,会計部担当参議として財政上の実権を握っていた。大隈は同年5月に至り,紙幣専用主義を改め,正貨通用主義を採用すべきことを本格的に主張するようになった。同年9月には,財政を改革して余裕金を創出し,これを紙幣消却原資に加え,さらに外国荷為替等によって正貨を購入して,消却原資の増加を図ることを提案した。大隈の立案した財政改革案は実行に移されることとなり,政府は殖産興業政策を転換して,紙幣消却のための行政改革を進めていった。1881年7月には大隈は,伊藤博文との連名で,紙幣消却によって通貨安定を図るための5,000万円の公債募集と一大正金銀行の設立を提起した。かくして大隈らの手によって本格的な紙幣整理が断行されようとしていたのである。だが1881年10月,「明治14年の政変」が勃発し,大隈,佐野が下野した。薩摩出身の松方正義が大蔵卿に就任し,大隈・伊藤案は瓦解したのであった51)。
 松方正義は,内務卿時代の9月6日に,外債募集も辞さず,一気に貨幣制度を兌換制に移行させようとする大隈・伊藤案を批判する「財政議」を三条宛に提出していた。この中で松方は,外資導入に反対するとともに,まず「正貨を蓄積して,紙幣償還の元資を充実せしめ」るべきであると論じていた52)。
 松方正義は不換紙幣の整理を断行するためには,正貨の蓄積が必要であると考え,1881年11月,正貨獲得方法を論じた「準備金連転正貨増殖方略之議」を太政官へ上申した。この中で松方は,直輸出荷為替に保護を与えて,海外正貨を日本に吸収すべきであると主張したのである。輸出荷為替品としては,松方はこれまでの中心であった蚕糸や製茶以外に米穀も重視した53)(内地で直接的に正貨を獲得できない理由として,上記上申書では内地商業の幼稚性,狭隘さをあげているが,『紙幣整理始末』では,内地現存の正貨や金銀産出量の少ないこと,に税の自主権がないことをあげている54))。正貨の獲得は政府の対外支払手段(政府在外資金)確保のためにも必要とされた。かくして正貨の獲得・蓄積政策が推進されていったのである。
 1881年12月には,正貨獲得を一層推進させるために「準備金規則」が改正された。8月の改正では,準備本部金中の紙幣で金銀を購入することが禁止されていたが,これが認められた(7条)。新規則第8条では「大蔵卿ハ外国荷為換其他ノ方法ニ依リ準備金中ノ紙幣ヲ内外ノ正貨若シクハ金銀地金ニ交換スルコトヲ勉ムヘシ」と定められた55)。
 正貨獲得機関としては,正金銀行が重要であった。「財政議」では日本中央帝国銀行を設立して正金銀行をこの一部局とすることが構想されていたが,これは実現されなかった56)。だが正金銀行は,為替金返納延滞等の前述の問題点を持っていた。松方は正金銀行を正貨蓄積という目的を果すにふさわしい銀行に改造しようとしたのである。
 その第1段階として,松方は1881年12月に従来の正金銀行管理窟の廃止・特選(官選)取締役の設置を正金銀行に内命した。翌年1月の同行株主総会で定款第49条が改正され,これが実現した57)。大蔵省や正金銀行の資料によれば,従来の経験から「実際ノ営業ト官吏ノ千渉トハ自ラ両立シ難キノ事情」あり58),官吏に銀行事務を管理させるよりも,民間の適任者を政府の代表者として取締役会に加えて置く方が時宜に適するから,官選取締役が設置されたとされている59)。従来の経験とは,旧規定の上では,管理容の許可なしでは営業上の重要事項を施行できないとされて,管理窟に絶大な権限が与えられていたにもかかわらず60)実際には官吏の手によっては銀行事務の内部に立入ってその厳重な監督をすることができなかったということである61)。相馬永胤も,「管理窟ト雖銀行内部ノ実況ヲ観破シ海外為替ノ危険ヲ予防スルコト能ハサリシ」と述べている62)。従来は為替の取扱は一々管理窟の許可を得て行っていたのが,新制度では取締役会でこれを決定できることになったが63),このことは正金銀行の大蔵省からの自立を意味しない。松方大蔵卿は,出資割合に応じて取締役総数の3分の1の取締役を任命し,この官選取締役を大蔵卿がいつでも更選進退でき,大蔵省所有株式が増減するときは,官選取締役の数もその割合に準じて増減すべきであるとした64)。この官選取締役を通じて,後述のように正金銀行業務の実態調査を進め,正貨を確実に確保できるような業務を同行に行わせるために,正金銀行への大蔵省の監督を事実上強めたのである。
 松方大蔵卿は1882年1月に,為替取扱の危険を除去するための御用荷為替法の改正を太政官に稟議し,同年2月13日にこれが許可された65)。かくして1882年(明治15)2月,「預入金規則」に基づく別段預金の運用を規定した「別段預金運転規程」の後身である「外国荷為替資本預金運転規程」にかえて,「外国為換金取扱規程」(新荷為替法)が制定され,3月1日から施行されたのである。同規定第1条では「外国為換ハ大蔵省ヘ正貨ヲ収人スル為メ特ニ正金銀行ニ為替元金ヲ預ケ,銀行ニ於テハ此規程ニ拠り外国為換ヲ執行スヘキモノトス」と規定されている。従来の御用荷為替制度は,貿易上の意義が重視されていたが,新制度のもとでも直輸出業者の奨励が,その独自の目的とされなかったわけではない66)。だが,この新荷為替法のもとでは,正貨の蓄積が御用荷為替制度の主目的であり,直輸出奨励は主としてその手段にとどまることが明確になったのである67)。ここに正貨獲得・蓄積を主目的とする正金銀行荷為替業務保護制度が成立したのであった。
 前述の御用荷為替制度の弊害を改め,とくに政府が正貨を確実に獲得できるように,御用荷為替の取扱方法が新規定のもとで改正された。すなわち,為替荷物は横浜正金銀行が厳重に検査することとなった。また為替荷物は送り先の領事館等が保管し,為替金が支払わなければ引渡さないことになった。さらに為替金の相場は,その取組の日にその時の相場で外国貨幣に換算されることとなったのである68)。なお新荷為替法の取締規定は厳重すぎ,直輸業者の不便が生じたので,その後いくつかの例外が設けられ,直輸業者の便宜が図られている69)。
 政府在外資金が増大したために,その管理の正確さを期するために「海外預ケ金規程」が制定された。1882年3月に在外日本公使・領事館へこれが送付された70)。
 外国為替取組が軌道にのるにつれて,為替資金に不足をきたすようになった。松方は政府の正金銀行への預け金の限度を拡張するかわりに,1881年12月に,横浜正金銀行が内地荷為替業務を廃止して,400万円を限度とする預託金をもっぱら外国荷為替業務に充当するよう要請していた71)。新規定でこれが採用され,産地から輸出港までの内地荷為替の取扱いを正金銀行は廃止した。直輸出を奨励すると考えられたこの措置が直輸出に支障をきたすと,後述のように1883年6月に直輸出生糸について,9月には茶についても内地荷為替取扱いが復活した72)。ただしこれは従来のままの復活ではなく,それは生産者に対する,荷為替取組前の前貨を含んでいなかった73)。
 前述のように,正金銀行の外国荷為替取扱方法が堅固な方法に改められた。これは正金銀行が破産して大蔵省に損失を与え,また一般経済,とくに貿易に外国荷為替の面から〔悪〕影響を及ぼすのを防ぐためにも行われた74)。このことは正金銀行の経営的基礎を安定化させる一要因となったと考えられるのである。
 預入金の利子は無利子となり,正金銀行は政府の無利子預金に依存して荷為替業務を行った。これによって同行は外国荷為替貸金利を4~6%と75)。内地金利に比して低く押さえることができたのである。
 新制度のもとで手数料制が採用されている。この手数料制は,正金銀行の要請で幾度か改正された。1882年3月1日発効の新為替法では,為替料収入(利子収入)のうち,年2%に当る金額が手数料として大蔵省から正金銀行に支給され,為替料が増減する時は,手数料も増減することになっていた。同年5月26日以降も,為替料収入高の2%を大蔵省が正金銀行に支給したが,それ以降に取組んだ為替は,為替料が変化しても,手数料は変化しないことが認められ,正金銀行は安定した手数料を,制度的に得ることかできるようになったのである。同年9月20日以降は,これ以降に取組んだ為替について,正金銀行が為替取総高の2%を手数料として大蔵省から支給されることが認められ,為替料収入高に対するよりも有利な手数料収入を正金銀行は得ることができるようになったのである76)。

 1)『正金史 附録』乙巻,9ページ。
 2)『正金史(附)』甲の1,48-49ページ。
 3)同上巻,50ページ。藤田正寛「為替金融の明治的形態―日本における為替銀行成立史論への一試論」『金融学会報告』Ⅵ,1957年10月,109-15,119-20ページ。
 4)『正金史(附)』甲の1,51ページ。
 5)同上巻,50ページ。
 6)同上巻,48ページ。
 7)同上巻,49ページ。
 8)同上巻,48ページ。
 9)横浜正金銀行『横浜正金銀行沿革史』(行内資料)第1編,7ページ。なお,以下同書を『沿革史』と略記する。
 10)岡田俊平,前掲『明治前期の正貨政策』158-59ページ。古沢紘造,前掲論文(『明治期日本特殊金融立法史』),83-84ページ。
 11)『正金史(附)』甲の1,53-55ページ。
 12)『正金史』24ページ。原司郎,前掲論文(『横浜市史』第3巻下),531-35ページ。
 13)原邦造編,前掲『原六郎翁伝』上巻,333-34ページ。
 14)岡田俊平,前掲論文(『金融経済』第57号),25-26ページ。
 15)『正金史』24-26,31ページ。
 16)『正金史(附)』甲の1,119-24ページ。
 17)同上巻,63ページ。『沿革史』第2編,68ページ。水沼知一「明治前期横浜正金銀行の外国為替金融」「土地制度史学」第15号,1962年4月,30-34ページ。
 18)『正金史(附)』甲の1,56ページ。
 19)『正金史(附)』甲の1,95-96ページ。
 20)同上巻,56ページ。
 21)同上巻,59ページ。水沼知一,前出,18-19,31ページ。
 22)御用荷為替の仕組は,政府が正金銀行に紙幣を預け,正金銀行が荷為替証書をとってこれを輸出商に貸出し,輸出商が輸出品の仕向地における売上代金を,その地の通貨で,正金銀行出張員または代理人を経て,日本の公使館,領事館に納入するものであった(『正金史』27ページ。『正金史(附)』甲の1,66-69,75-89ページ)。
 23)『正金史(附)』甲の1,67ページ。『集成』第11巻の1,240ページ。加藤俊彦『本邦銀行史論』東京大学出版会,1957年,72ページ。
 24)『正金史(附)』甲の1,67ページ。
 25)岡田俊平,前掲論文,31-35ページ。
 26)『正金史』29-30ページ。ただしフランスの出張所はパリでなくリヨンに1882年に設置され,1900年に支店に昇格した(『明治大正財政史丿第15巻,65ページ』。
 27)『沿革史』第1編,9ページ。
 28)『正金史』30ページ。『正金史(附)』甲の1,109-15ページ。
 29)『正金史(附)』甲の1,76ページ。海野福寿「直輸出の展開」『横浜市史』第3巻上,1961年,第2編第3章,668-71ページ。
 30)水沼知一,前掲論文,20-21ページ。
 31)『正金史(附)』甲の1,56ページ。
 32)原司郎,前出,549-50ページ。
 33)大蔵省『銀行局第三次報告(自明治十三年七月至明治十四年六月)』76ページ。
 34)『正金史(附)』甲の1,61ページ。
 35)渋谷隆一「明治前期の金利統計」『地方金融史研究』第4号,1971年11月,85ページ。
 36)『正金史(附)』甲の1,62ページ。
 37)渋谷隆一,前掲論文,85ページ。
 38)『正金史(附)』甲の1,62ページ。海野福寿,前出,668ページ。
 39)『正金史(附)』甲の1,61,65ページ。
 40)大蔵省「準備金始末参考書」『集成』第11巻の1,113ページ。
 41)『正金史(附)』甲の1,128ページ。
 42)『集成』第11巻の1,113ページ。
 43)同上巻,113ページ。
 44)『正金史(附)』甲の1,128-29ページ。
 45)『正金史』27-28ページ。『正金史(附)』甲の1,67-68,87-88ページ。
 46)『正金史』29ページ。民有株は1株につき4円50銭,2万株(額面総額200万円)に対し9万円の配当金が支払われた。同じ計算でいくと1万株(100万円)の大蔵省株式には45,000円の配当金が支払われるはずであるが,実際には37,900円の配当金〔年率6%とするとこれは7.58ヵ月分に相当する〕が支払われた(『銀行局第三次報告』78ページ)。
 47)1881年上半季に,民有株1株につき4円の配当が行われたが,大蔵省所有株に対し,1株3円,総額3万円しか配当金が支払われなかった(同上書,78ページ)。同年下半季,1882年上半季ともに民有株配当年率9%に対して大蔵省有株のそれは6%であった(「銀行局第四次報告〔自明治十四年七月至同十五年六月〕』166-67ページ)。
 48)『集成』第11巻の1,105ページ。伊牟田敏充,前出(『日本経済政策史論』上),68-69ページ。
 49)『沿革史』第2編,68ページ。
 50)『集成』第11巻の1,33,240ページ。
 51)中村尚美,前掲『大隈財政の研究』,182-88,189-94ページ。原田三喜雄『日本の近代化と経済政策』東洋経済新報社,1972年,163-72,175-76ページ。大石嘉一郎『殖産興業』と『自由民権』の経済思想」長幸男・住谷一彦編『近代日本経済思想史』有斐閣,1969年,58-60ページ。東京銀行,前掲『横浜正金銀行金史』第1巻,85-89ページ。『集成』第11巻の1,79ページ。肥後和夫「「準備金」をめぐる明治前期の財政・金融政策」井藤半彌博士退官記念論文集『財政学の基本問題集』千倉書房,1960年,238ページ。
 52)中村尚美,前掲書,195ページ。大石嘉一郎,前出,60-61ページ。原田三喜雄,前掲省,178-79ページ。
 53)『正金史(附)』甲の1,130-33ページ。
 54)『集成』第11巻の1,217ページ。
 55)同上巻,78,80ページ。伊牟田敏充,前出,75ページ。
 56)古沢紘造,前出,84-85ページ。
 57)『正金史(附)』甲の1,133-36ページ。
 58)『銀行局第十次報告(明治二十年中)』117ページ。
 59)『正金史』34ページ。『正金史(附)』甲の1,136ページ。
 60)『正金史(附)』甲の1,30ページ。
 61)1883年5月25日に松方大蔵卿が三条太政大臣に提出した内申書に,このことが具体的に述べられている(『正金史(附)』甲の1,171ページ)。
 62)相馬永胤「横浜正金銀行ニ関スル意見書」(原稿,内容から1885年=明治18年作成と推定)『相馬永胤文書』(専修大学年史編纂室所蔵)№1281。
 63)『正金史(附)』甲の1,143ページ。
 64)同上巻,134-35ページ。
 65)『集成』第11巻の1,33ページ。
 66)『正金史(附)』甲の1,144ページ。
 67)同上巻,140-41ページ。高橋誠『明治財政史研究』青木書店,1964年,126-27ページ。
 68)『集成』第11巻の1,34,240ページ。『正金史(附)』甲の1,144-49ページ。
 69)水沼知一,前出,24ページ。
 70)『集成』第11巻の1,38-39ページ。
 71)原田三喜雄,前掲書,204ページ。
 72)『正金史』58-59ページ。海野福寿,前出,676-78ページ。
 73)水沼知一,前出,25-26ページ。
 74)『正金史(附)』甲の1,171ページ。
 75)同上巻,141ページ。
 76)同上巻,142ページ。『集成』第11巻の1,140-41ページ。『明治財政史』第9巻。619-25ページ。

Ⅴ 横浜正金銀行の経営危機と再建

 1.横浜正金銀行の経営危機
 松方正義は大蔵卿に就任後,兌換制を確立するために紙幣整理に着手し,緊縮財政主義を採用し,これが不況を誘発した。正金銀行の得意先で破産するものが多かった1)。
 新荷為替法制定当時,正金銀行は多額の取立困難な貸付金をかかえていた。この一因は旧荷為替法時代の中村頭取のもとでの同行の貸出が放漫であったためである。また同頭取は不良貸出の整理のための官選取締役の業務検査を妨げた2)。経理には明るく,日本における簿記会計学のパイオニアともいえる中村道太が放漫経営を行ったのは3),ひとつには中村が商権回復のために,直輸商社を保護する考えを根強く持っていたからではないかと考えられる。また中村道太は,無欲恬淡な人のよい,他人を助けることに尽力する人物であったといわれている4)。後に田口卯吉は中村を「氏は任侠の性質に富み,且つ豪勇の胆に富める人なり,熟ら其の友人旧故の不幸若くは窮扼に際して力を致すを見るに,実に人をして敬服せしむる者少なからざるなり,譬へは政小松彰氏の遺孤に対して盡したるか如き,慶応義塾の為に義捐したるか如き,又た民間にありて政事に熱心せし人々をして其の志を遂けしめんと欲し盡したるか如き,決して尋常の人士の為すべからざる義侠心を有せり,盖し一諾を重んじ,信義を貴ひ褒貶利害のために屈せさるの剛気は余輩今日此人に於て見るなり」と評している5)。一身を尊重し,自己と他人との間にひとつの限界を置く福沢とは異なる中村のこのような情に厚い性格は6),銀行経営に関してはマイナスに作用したと考えられる。中村は松方大蔵卿によって経営悪化の責任を問われて,1882年7月に頭取辞任に追い込まれた。同月に副頭取から頭取に昇格した小野光景も,前任頭取の不都合を彌縫し,官選取締役の業務調査を妨害した7)。中村・小野頭取時代には松方大蔵卿の意向に反して,不良貨の整理が容易に進まなかった。
 中村・小野時代には,正金銀行経営の健全化よりも,株主の利益が重視されたこともあった。すなわち両頭取は辞任直前に,経営悪化にもかかわらず,一部取締役の反対を押し切って,9%または8%(民有株)の配当率を決定した8)。
 かくして横浜正金銀行は,1881年末から83年はじめにかけて,非常な苦況に陥った。額面100円の正金銀行株式は,1880年6月中には135円まで騰貴していたが,1882年9月中には89円にまで低落したのである9)。
 このような経営危機に直面して,小野頭取時代に正金銀行救済策が取締役間で議論されたが,この議論は2つに分裂した。一方(甲派)の主張は「従来ノ如ク益々外国為替事業ヲ拡張シ,併セテ内地ノ事業ニ黽勉[びんべん]シ,以テ今日ノ衰運ヲ挽回センコトヲ主張」するものであった。これは御用荷為替を是認するものであった。もう一方(乙派)の主張は「此際断然外国為替事業ヲ全廃シ,自今専ラ内国ノ事業ノミニ従事シ,以テ此ノ巨額ノ損失ヲ補充センコトヲ主張」するものであった。この乙派の主張は政府預金に依存した御用外国為替の謝絶を意図していた。乙派は正金銀行への政府干渉を排除しようとしていたのである。乙派は正金銀行の組織を官民に分離(資本金を政府払込株金と人民株金とに分離)することも主張した。これは正金銀行に「官府的習気ノ浸人スルコトヲ避ケントスル」ことをねらったものであった。乙派は「本行創立ノ初メ発起人等多クハ…官府的習気ノ民立会社ニ浸人スルコトヲ嫌悪スルヲ以テ,本行ノ創立ニ就テハ努メテ彼ノ御用紳商ト関渉スルコトヲ避ケ,専ラ地方富豪ノ輩ト相謀リ,全然商人的組織ニ依リテ本行ヲ設立シ,業務ノ処弁上ニ於テモ専ラ簡易質朴,所謂前垂主義ヲ以テ営業ノ大方針ト為サンコトヲ期セリ…発起人等ノ期スル所ハ固ヨリ政府ノ保護ハ単ニ保護トシテ之ヲ仰キ,而シテ之カ為メニ本行ヲ挙ケテ官府的ノ体裁ニ陥ラサラシメント欲スルニ在リシナリ,然ルニ熟ラ本行創業以来ノ状態ヲ観ルニ,商人的ノ組織漸ク行内ニ行ハレス,之ニ反シテ官府的ノ風習漸ク行内ニ浸人シ,営業上ノ事大小トナク,一ニ官府的ノ体裁ヲ成スニ至レリ,是レ本行創立ノ精神ニ背馳スルモノナリ」と主張していた10)。小野頭取や一部の株主は乙派の立場に立っていた11)。
 明治14年の政変における,薩長派による大隈ら肥前派の政治権力からの追放,大隈という後楯を失った中村の松方から経営責任を追求されての頭取辞任以後12)大蔵卿と正金銀行取締役の一部に人間的つながりが欠如していたことが,上記政府干渉排除諭の背景にあったと考えられる13)。当時大隈らの組織した改進党と薩長政府とが対立しており,薩長政府との結びつきを回避しようとする乙派の主張は,この点では大隈派と共通する点を持っていたように思われる。なお『原六郎翁伝』は,1883年11月~84年1月頃に関する記述と考えられるが,「改進党と薩長派との政治上の対立が解けない以上,正金銀行における翁〔原六郎〕の勢力が薩長政府を背景として強まれば強まる程,大隈・三田派の妨害は執拗に続けられ,株券の投機的売買によって同行〔正金銀行〕の株式相場を惑乱せしめたり,或は翁に対する個人的中傷を試みたりして事々に反抗的態度に出たのであった」と記しており,薩長政府と結びつく正金銀行改革に反対の大隈派の存在を指摘している14)。
 また,乙派は国家千渉を排除しようとした点では,三田の慶応義塾の福沢諭吉や福沢の教えを受けた人々とつながっていたのではないかと思われる15)。福沢は「明治14年の政変」と称せられる大隈重信下野事件勃発10日前の1881年10月1日に,明治天皇の東北巡行に従って旅行中の大隈宛に,正金銀行に中村らの大隈・福沢派以外の勢力が侵人するのを警戒する書簡を書き記して,これを書生に持参させていた16)。1882年1月に前述のように官選取締役制が採用されることとなると17)自由主義者福沢は,これを激しく批判した。すなわち大蔵省から正金銀行に下附された同行別段規則改定議案について,同行の当事者に与えた意見書において福沢は,これを廃案にすべきであると主張した。その理由として福沢は,大蔵卿が随意に取締役を選任すべきではなく,株主の一般投票の多数決で取締役を選ぶべきである,持株数が多くなるに従って投票権が殺がれている〔現行定款〕のは,大株式である大蔵省に不利なようであるけれどもこれは止むを得ない,大蔵省の都合で所有株数を増減し,また特選取締役の数もこれに準ずることにすべきではなく,株式の増減は全体の協議で決めるべきであり,大蔵省が一方的に持株を増加させれば,銀行は一局の官衛となり官立となると論じた。横浜正金銀行は私立銀行であるというのが,福沢の基本的立場であり,大蔵省は1万株の株主にすぎず,同省が保有株式を払下げてもよく,「本行ハ創立ノ其初ヨリ株主一同ノ精神ニ於テ一ニ私立銀行ト信シタルコトナレバ今更其精神ヲ変スル能ハサルナリ」と福沢は論じたのである18)。また前述の『原六郎翁伝Jは,三田派(慶応義塾派)を薩長政府と結びつく原〔甲派の主張を採用〕の正金銀行改革に反対の勢力と位置づけている19)。
 上記甲乙両派は当初は平和の観を装っていたが,営業の欠損額が巨額に達するに及んで,顕然相対峙するものとなった。乙派の小野頭取らは正金銀行の平穏鎖店までも考慮した20)。
 巨額の欠損を生じた上に深刻な内部対立が発生し,正金銀行は「存立モ殆ト危機一髪ノ間ニ繋」ったのである21)。一般株主の中には正金銀行の命運を危惧し,所有株式を投売するものが少なくなかった22)。正金銀行は倒産の可能性があったのである。

 2.原六郎の改革
 松方大蔵卿は,正貨獲得機関として重要な役割を果す正金銀行の困難を放置するわけにはいかなかった。根方は1883年1月の小野頭取辞任後,白須退蔵を第3代頭取に就任させ,実権を深沢勝興に付与させ,正金銀行改革を断行しようとしたが,深沢が病のために死去すると23),米英で経済学,銀行学を修め,銀行家としての名声があり,井上馨(長州出身)や沖守固らが推挙した第百銀行頭取原六郎を第4代頭取に就任させ,原に正金銀行改革を断行させることとした24)。原は1883年(明治16)3月22日に第4代正金銀行頭取に就任した。
 大蔵省は,正金銀行改革の第1準備段階として,4月に正金銀行株式を時価よりも高い相場で,6,414株を買上げることとし,原に反対株主の売却する株式を買収させた。同省はこれによって反対勢力を正金銀行から一掃し,行内の統一を図った。上述の株式買収には一般株主の売却株の買収も含まれていたから,これによって正金銀行株価の下落を抑止し,一般株主を安堵させることができた25)。実際には後述のように,松方・原の路線に反対する株主は現存し,原に対する批判が続けられていくことになるのではあるが,ともかくもこの株式の大蔵省買入によって,正金銀行を内国金融機関化させたり,官民分離させたり解散させたりする動きは,ひとまず封じられた。かくして,正金銀行を外国為替金融機関として存続させていく主体的条件が,大蔵省によって整備されたのである。
 正金銀行改革の第2準備段階として,同行の損失見込額を確定することが必要であった。原は続いて同行の損失見込を調査させたが,これによれば,同行一般貸付金の44.8%,内外荷為替貨の45.7%は損失と見込まれた26)。
 171万円に上る巨額の欠損金を償却するために原六郎は,正金銀行改革案を1883年4月25日の臨時株主総会に提出し,これが可決された。原の改革案は,第1に,同行資本金の「本位」を銀貨から通貨〔紙幣〕に改め,正金銀行資本金の内,銀貨の分を当時の銀相場1円36銭で売却し,紙幣に転換してその差益見積額50万4,000円を得ること,第2に積立金及び別段積立金を紙幣に改めて,ことごとくこれを滞貨準備に組入れ,見積額18万6,600円を得ること,第3に正金銀行所有の金札引換公債を金禄公債と交換することを主内容としていた。これらによって消却できない一般貸付欠損見込金は,5年間でむだを省いて消却することとされた27)。
 原は5月29日に松方大蔵卿の承認を受けて改革を実行に移した28)。松方から厚い信頼を受けた原六郎は,松方大蔵卿と絶えず意見を交換しながら,実行方針を決定したのであった29)。原の改革は松方の不換紙幣整理策と深く結びついていた。すなわち不換紙幣整理が進めば,銀と紙幣の相場の開きが解消するから,銀を紙幣に改めてもよいと考えられたのであり,紙幣整理成功の前提のもとで銀貨の紙幣への転換が行われ,実際に正金銀行はこの転換による差益を入手できたのである30)。また金札引換公債と金禄公債とが交換されたのは,後者が利子高く,かつ抽籖償還の利益があるだけではなかった。紙幣整理のために発行された金札引換公債は,1881年10月27日の同公債発行条例改正で,元利とも正貨で支払うこととされ31),その額面は銀貨と同価値とみなされていたが,これを正貨払の約束されていない金縁公債と引換えておけば,紙幣整理の結果銀紙の差異が消滅するという前提のもとで,同公債の市価の回復が期待できたからである32)。
 原六郎は株主総会に先立ち,大蔵省が銀貨を4月1日から20日に至る平均相場で,金札引換公債を原価で正金銀行から買取り,金縁公債を時価で正金銀行に売却する許可を同省から受けていた。改革案の議決後,正金銀行は所有銀貨や金札引換公債を大蔵省へ売却することによって,それらの相場を下落させることなく,政府から紙幣や金禄公債を入手できたのである33)。
 正金銀行は同行所有積立金をすべて滞貨準備金に組入れたが,これだけでは滞貨準備金として不足したから,臨時株主総会に先立つ4月23日に,別段積立金を滞貨準備金に組入れることを大蔵省に願い出た。従来積立の別段積立金については,臨時総会決議事項の認可によって,今後別段積立金として積立てられるべきものについては7月4日に,同省から認可された。同行はこれによって滞貨準備金を厚くできたのである34)。
 別段積立金について補足説明をしておくと,前述のように,正金銀行は政府から特別の保護を受けて,政府(大蔵省)所有株の配当率を6%以下に制限していた。民有株配当率引上に伴い,1885年1月10日に定款第49条の別段規定が改正され,84年下季から政府所有株に対する配当率も引上げられたが,配当率が6%以上になる場合には,民有株に対する配当率よりも低く押えられた。
第1表 横浜正金銀行純益金処分表
このために配当せずに残った純益は,正金銀行の積立金に組入れられることとされた35)。1884年下季に民有株配当率年率16%に対し,大蔵省株式配当率は第1表にみられるように8%(大蔵省半季配当受取金4万円)にとどめられ36),組人れ正金銀行はこれにより,4万円の積立金(滞貨準備金に振替)を得ることができた。1885年(明治18)1月以降,政府所有株(大蔵省国債局長名儀)は帝室財産に編入されたが,帝室所有株(内蔵頭名儀)に対する配当率も,1887年上季までは,6%以上となる場合は民有株配当率よりも低く押えられた37)。かくして正金銀行は積立金(1885年上季末の株主総会以前は滞貨準備金)を増加することができたのである。正金銀行の官民株式配当率が均一化するのは正金銀行の「基礎漸ク鞏因ニシテ,営業ノ状態亦漸ク健実トナ」った1887年下季からである38)。
 内外荷為替資金損失見込の処理は遅れていたが,1883年12月に至り,大蔵省は正金銀行からの借手に長期年賦償還させることを認可した。しかもその一部を無利子として借手の負担を軽減し,償還をやりやすくした39)。かくして上記損失見込金は徐々に回収されることとなり,正金銀行はこの損失を免れたのである。
 大欠損整理の見込がつき,正金銀行株価が漸次騰貴すると,大蔵省は,以前に一時的に買上げた正金銀行株6,414株を原価で原六郎を名儀人として正金銀行に払下げた。1883年11月に払下げられた1,414株は一部が同行社員一同に譲渡されたほか,残りが転売された。1884年1月に払下げられた5,000株は,1,000株が反対株主の手に渡らぬよう茂木惣兵衛に売却されることとなり,残りは原ら4人の重役が正金銀行から各10万円を借りる形で,全く正金銀行のためにこれを保有し,株式相場の騰貴をまって売却されることになった。かくして大蔵省の正金銀行への正金銀行株払下によって,反対派の株式投機的売買による株式相場惑乱が防がれ,正金銀行株価が維持され,また同株価騰貴を待って,大蔵省の払下げた事実上の同行保有株が売却され,得られた売買差益が正金銀行に帰属したのである40)。買収株券のその後の売却差益は72万2,000余円に及び,これは銀貨と紙幣との交換益45万5,000円,公債交換益35万5,770円よりもはるかに多かったのである41)。
 上述のように原頭取のもとでの正金銀行は,松方大蔵卿下の大蔵省の支援を受けて正金銀行改革を進め,同行の経営を立直していくことができたのである。『正金銀行史』は同行が速やかに悲況を脱したのは「畢意之を計画し,之を遂行するに当って,終始松方候の指導を仰ぎ,且特に大蔵省の庇護を蒙った結果に外ならぬ」と述べ42),「大隈侯を〔正金銀行の〕生の母とし,松方候を再生の恩ある養育の母」とみなしている43)。このような改革には反対株主らの批判があったが,松方・原はこの批判に対抗しつつ改革を断行した44)。
 正金銀行の行詰りからの脱却は,たんに国家からの援肋のみによって可能となったものではなかった。原頭取の経営は,あくまで堅実を旨とした。行員一同を引締めるために原頭取は,役員の俸給を減額し,その他の諸経費にも大節減を加えた。原は慎重に営業に尽瘁した45)。松方は職務上掛引き緻密なること,職務上取引厳酷なることを原の長所にあげている46)。このような堅実な経営も正金銀行を経営危機から脱却させた要因であったといえる47)。
 松方大蔵卿や原頭取は,御用荷為替制度の改正も行った。これは原の正金銀行業務改善策を助けるものであった。これについては章を改めて論ずることとする。
 上述の過程を経て,正金銀行は1885年(明治18)上季に大欠損の補填を完了した。同年7月10日の定例株主総会で,滞貨準備金を廃止し,51万円の積立金を置くことが決定された48)。これにより同行の「基礎ヲ鞏固ニシ将来滋々世ノ信用ヲ厚ク」することができるようになった49)。銀貨と紙幣の価格のひらきが殆んどなくなり,同日の臨時株主総会で正金銀行の資本金が「通貨〔紙幣〕本位」から「銀貨本位」に復帰することが決定された50)。かくして原の改革による正金銀行の再建が達成されたのである。

1)『正金史』 39ページ。
2)『正金史(附)』甲の1,171-75ページ。
3)中村の生涯については,小山喜久弥『福沢諭吉先生と豊橋―とくに中村道太について』豊橋三田会,1960年,小山伝三(喜久弥を改名)「中村道太と福沢諭吉―特にその交友関係に就いて―」神奈川大学『商経法論叢』ⅩⅢ-4,1963年2月,95-128ページ,高垣寅次郎「福沢先生と明治初期の金融制度」金融学会編『金融学会報告』Ⅷ,東洋経済新報社,1958年,24-28ページ,同「福沢諭吉の三つの書翰―中村道太の事蹟とその晩年―」慶応大学『三田商学研究』第4号,1961年10月,1-18ページ等を参照されたい。中村は1873年に日本最初の簿記文献である福沢諭吉訳『帳合の法』(慶応義塾出版局)を丸屋商社の経理事務に応用している(小山伝三,前出,99-100ページ。丸善『丸善百年史』上巻,1980年,100-05ページ)。
4)中村が1891年6月の東京米商会所の公金消費事件にまきこまれ,失脚した後,全盛時代に友人達に金を貸付けて受取った総額60万円にのぼる借用証文を,「借りた本人も困っているから返せぬであろう,このようなものを残して置いては目障りになる」からと言って棒引して反古として,襖に張込んでしまった(小山伝三,前出,109ページ)。
5)『東京経済雑誌』第578号,1891年(明治24年)6月27日,885ページ。小山伝三,前出。104ページ。
6)小山伝三,前出,125ページ。福沢を経済的に助けた中村は,1892年(明治25)頃,福沢との関係を絶ち切った(小山,前掲論文参照)。
7)『正金史(附)』甲の1,172ページ。
8)『正金史(附)』甲の1,152,156ページ。
9)『銀行局第十次報告』119ページ。
10)『沿革史』第1編,11-12ページ。
11)『正金史』42ページ。
12)『正金史(附)』甲の1,153-54ページ。
13)原司郎,船出(『横浜市史』第3巻下),556ページ。
14)原邦造編『原六郎翁伝』中巻(1937年)38-39ページ。
15)加藤俊彦,前掲『本邦銀行史論』,74ページ。
16)『福沢諭吉全集』第17巻,468-69ページ。小山伝三,前出,108ページ。
17)『正金史(附)』甲の1,134-35ページ。
18)福沢諭吉「横浜正金銀行に関する書類」。巻紙に記したこの文書は,横浜正金銀行元取締役木村利衛門の手で保存されていたといわれ,現在慶応義塾大学図書館所蔵。この内容は白井規矩稚『日本の金融機関』(森山書店,1939年)82-83ページで紹介され,『福沢諭吉全集』第20巻(1963年)259-61ページに全文所載。
19)原邦造編,上掲巻,38-39ページ。
20)『沿革史』第1編,12-13ページ。『正金史(附)』甲の1,172ページ。
21)『沿革史』第1編,12ページ。
22)『正金史』 42ページ。
23)『沿革史』第2編,88ページ。『正金史』41,44-47ページ。
24)『原六郎翁伝』上巻,第9章。同書,中巻,15ページ。
25)『沿革史』第1編,13ページ。『正金史』48-49ページ。
26)『正金史』49ページ。『正金史(附)』甲の1,174-75ページ。
27)『正金史』50-52ページ。『正金史(附)』甲の1,159-62,167-69ページ。『原六郎翁伝』中巻,19-26ページ。原司郎,前出,557-60ページ。今田治弥「横浜正金銀行の設立」(渡辺佐平・北原道貫編『現代日本産業発達史』第26巻,「銀行」(交詢社出版局。1966年)145ページ。葭原達之「横浜正金銀行における『連合的営業法』の創設と展開」(『経営史学』第13巻第3号,1979年6月)44-45ページ。
28)『正金史(附)』甲の1,169-75ページ。
29)『原六郎翁伝』中巻,40ページ。
30)本章注27参照。
31)中刻尚美,前掲『大隈財政の研究』191ページ。
32)『正金史』51ページ。
33)『原六郎翁伝』中巻,29ページ。『正金史(附)』甲の1,169ページ。
34)『正金史』56-57ページ。『正金史(附)』甲の1,175-76ページ。
35)『正金史』70ページ。横浜正金銀行「第十一回半季実際考課状(明治十八年上半季)」復刻版,『横浜正金銀行史資料』第1巻,坂本経済研究所,1976年,1-2ページ。
36)正金銀行「第拾回半季実際考課状井諸報告表(明治十七年下半季)」『正金銀行史資料』第1
巻,101ページ。
37)『正金史』70-71,96ページ。
38)『沿革史』第1編,46ページ。
39)『銀行局第十次報告』125-26ページ。『正金史(附)』甲の1,268-78ページ。
40)『原六郎翁伝』中巻,38-39,51-59ページ。『明治財政史』第13巻,847ページ。
41)『沿革史』第2編,89ページ。
42)『正金史』80ページ。
43)同上書,90ページ。
44)『原六郎翁伝』中巻,38-39,48-51,57-58ページ。
45)『正金史』 59ページ。『原六郎翁伝』中巻,47-48ページ。
46)『原六郎翁伝』中巻,51ページ。
47)『正金史』59-60ページ。
48)同上書,77-79ページ。
49)『正金史(附)』甲の1,263ページ。
50)同上巻,279ページ。

Ⅵ 御用外国荷為替制度の発展

 1.新御用荷為替制度の部分改正
 前述のように,正金銀行の欠損金の処理が行われる一方で,松方大蔵郷は原頭取の要請を受人れて,御用荷為替制度の一部を改正した。外国人為替取組制度成立以前の改正は次のとおりであった。
 1883年4月2日に,正金銀行の原頭取は,直輸出奨励のために,荷為替貸金利を4%に引下げるよう,松方大蔵卿に申請した1)。同大蔵卿は翌月4日に,生糸および茶に限定して,為替貸金利を4%という低利に引下げることを許可し,5月15日以降,これが実施された2)。生糸・茶に関する輸出荷為替貸金利の引下によってそれらの直輸出の増加が図られたが,これは正金銀行の荷為替貸を増加させることにもなるはずであった。
 1883年になると,紙幣整理の影響が深刻となり,内地金融が逼迫化すると,1883年6月14日に原頭取は,生糸直輸出奨励のために,松方大蔵卿に海外直輸出生糸に対する内地為替取組の再開を求める願書を提出し,同月にこれが許可された。かくして正金銀行の内地荷為替取組が再開されたのである3)。これは生糸の直輸出を奨励しようとするものであったが,またこの再開によって,正金銀行が旧規定によって取組んだ内地荷為替金の延滞金の取立の便宜を図ろうとするものでもあった4)。1883年9月には茶についても,正金銀行は内地為替取組を許可された5)。
 横浜正金銀行の原頭取は,1883年4月2日に松方大蔵卿に対して,大蔵省が外国荷為替貨金利をそっくり同行に支給するよう要求した6)。これが大蔵卿によって許可され,14日に正金銀行に指令された。すなわち1882年3月以降83年5月14日以前に取組んだ外国為替の打歩(利子)がイギリス・オーストラリアに関しては年5%,アメリカその他に関しては6%の割合で大蔵省に入っていたのが,ことごとく正金銀行にこれが支給されることになり,以前に支給されていた2%の手数料は大蔵省に返納されることとなり,1883年5月15日以降,これが実施された。なお同日以降,直輸出奨励のために生糸・茶に限り,為替利子率は年4%に引下げられ,その収入利子もすべて正金銀行に支給された(無手数料)7)。このような改正は同行に有利であり,これは同行の便宜を図るものであったといえる。同行へのこの利子支給は,直輸出為替に関する限り,1885年12月に正金銀行のすべての為替取組に対して,取総高の2%の手数料が支給される(1882年3月以来の既述の5種類の為替手数料に関する取扱方法はこれに統一される)まで継続している8)。
 だが,上記の施策を含む正金銀行の直輸出奨励金融にもかかわらず,直輸出は容易に伸張しなかった。とくに明治10年代後半(1883~86)に直輸出商社の経営はきわめて困難な状態に陥った。直輸出は1884年,85年と減退をたどっていった。したがって正金銀行の直輸出為替取総高も1884年,85年と減少し,同行の収入にも限界があった9)。

 2.外国人為替取組制度の成立
 日本の貿易は居留地貿易が支配的であり,外国商人を相手として外国為替業務を行ってこそ,同行が外国為替業務を拡張することができた。これによって「海外為換の権を占むる」ことができ10),また輸出為替手取金として正貨,外貨を獲得することもできた。
 外商との外国為替取組は,これまで外国銀行によって独占的に取扱われてきた。だがマーカンタイル銀行が困難に陥り,正金銀行設立の前年の1879年に一時横浜支店を閉鎖し,同年までにオリエンタル銀行は前述の要因によって,殆んどの準備金を失って無能力となっていた11)。セイロンのコーヒー生産が黄葉病による打撃を受けたことも同行の貸付金回収不能をもたらし,オリエンタル銀行の経営危機をもたらしたと考えられる12)。オリエンタル銀行の営業状態が危険性を孕んでいるという噂も1883年にはその筋の人々の耳に入っていた13)。またその他の在日外銀も資金が不足していた。すなわち1883年に「外国各商館並ニ銀行ニ於テ金融極メテ逼
迫当行〔横浜正金銀行〕ヘ為替ヲ依頼致旨申込候申込候者」が少なくなかった14)。
 原頭取は「時期こそ致れり」と1883年8月初旬頃から外国商人に対する荷為替取組開始の計画を練った15)。同年10月24日に原頭取は「外国人為替取組ニ付伺」書を松方大蔵卿宛に提出した。この上申書において「好時機ヲ失ハス彼等〔外国人〕ノ依頼ニ応シ候ハゝ往々外国為替拡張ノ基トモ相成可申且外国ニ於テ収入スヘキ金額モ増加可致」と主張した。同月30日,松方大蔵卿はこの出願を認可し16),かくして正金銀行は外国銀行の力の弱まった機会を利用して,外国人為替取組を開始するに致ったのである。
 堅実経営方針をとる正金銀行は身元確実で信用できる外商だけを相手に為替を取組み,外国人為替は支払延滞の憂いがなかった。しかも,この為替の抵当物が外国に到着すると,ただちにこの為替手形は外国で割引され,荷物が引取られ,正金銀行は支払期限以前に為替金の支払を受けた17)。かくして外国人荷為替取組開始後,この取扱高は増大した。外国人為替取組の前途は有望であったのである。
 松方大蔵卿は正貨の吸収,外国為替権の回復を図ろうと考えていた。前者に関しては,前述のように松方大蔵卿は紙幣整理政策を推進していたが,このためには紙幣の正貨(金銀とくに銀)との交換消却のために,政府が正貨を国内で蓄積しなければならなかった。政府は準備金中の紙幣を正金銀行に預入れ,同行に外国荷為替を取組ませ,輸出為替手取金(外貨)で返納を受け,これを日本に現送しようとしたのである。しかも正貨の獲得は外債利払・軍艦代その他の各庁経費などの政府対外支払上からも必要であったのである18)。とくに1882年以来の軍備拡充計画に伴って,海軍艦艇等の代金の対外的支払が増大したことがこの必要性を高めたのであった。これについてさらに述べれば,松方大蔵卿は紙幣整理のための財政整理を断行したけれども,国権の強化・対外的危機(1882年の朝鮮事件)への対処のために軍事・警察機構を大蔵卿就任以来強化しようとした。軍備拡張は1882年12月25日に政府部内で正式に決定され,軍事費は1883年度以後急速に増大した。海軍軍備拡張案は,1882年には出超による正貨不足の相対的解消を背景として,前年の漸進的整備・国産化重点主義から軍艦の輸入依存主義に転換している。1883年以降,海軍急速整備・軍艦の組織的輸入を中心として海軍軍備が拡張されたのである。松方が軍艦兵器輸入の一時的制限を主張するに至るのは,国際収支の赤字が予想される1887年(明治20)に至ってからである19)。
 かくして松方大蔵卿は,直輸出奨励という従来の政策を基本的に転換しようとしたのである。「外国為換金取扱規程」第11条では,為替取組は原則として本邦商人と取組むべきであるとされ,「必要ノ場合ニ於テ外商ト取組ヲナサントスルトキハ其事由ヲ大蔵省ヘ開申シテ認可ヲ請クヘシ」と定められていた20)。正金銀行の為替取組を増加させようとすれば,外国人為替取組を制度として定着させる必要があったのであった。
 1884年6月9日,大蔵卿松方正義は,太政大臣三条実美に対して,正金銀行に外国人為替を取組ませるよう上申し,翌月22日に太政大臣がこれを認可した。同月に大蔵省は「外国人為替取組手続」を定めて,これを正金銀行に令達した21)。かくして1884年(明治17)7月に,外国人為替取組制度が成立したのである。「外国人為替取組手続」の制定は1880年制定の旧荷為替法(後に一部改正),1882年制定の新荷為替法に続く3度目の基本御用荷為替法の制定であった22)。正金銀行は「外国為換金取扱規程」と「外国人為替取組手続」の2法のもとで,外国為替業務を拡張することとなったのである23)。
 外国人荷為替(輸出荷為替)取組制度の第1の目的は,正貨の獲得であった。上記松方大蔵卿の上申書においては,大蔵省が正貨を十分収得できることが外国人の為替取組依頼に応じる根拠とされている24)。またこの制度は,外国銀行に掌握されていた外国為替権を日本に取戻すという目的を持っていた25)。
 外国人為替取組によって,御用荷為替制度が正貨獲得・蓄積という目的を持つことがますますはっきりした一方で,直輸出奨励という目的は後景に退いたのであった26)。この制度の樹立は,農商務省,とりわけ1884年に『興業意見』の編纂主任を勤めた同省大書記官前田正名の直輸出奨励構想と鋭く対立した。前田は外商の貿易支配を激しく批判し,地方在来小規模産業の保護を主張し,その輸出貿易拡張方策の1つとして,海外直輸出荷為替金融を便利にすることを主張した。すなわち『興業意見』では,政府が海外に払出すべき正貨に相当する資金を海外荷為替資金に充当し,輸出品に低利をもって荷為替金を貸与し,その貨物を,海外輸出品関係の同業組合が設立した海外大商店その他に輸送して売却し,この代金で荷為替資金を支払い,この資金をその地の銀行に振込み,必要に応じて政府がこれを引出して用いるべきであると主張されていたのである27)。
 外国人為替取組の手続きは次のようなものであった。横浜正金銀行は政府から預かる外国為替元金〔紙幣〕の中から,銀貨〔銀兌換券を含む〕を買入れる。この銀貨をもって参著後6ヵ月以内〔1888年6月の改正では4ヵ月以内〕払いの為替を,外国商人から船荷証券をとって買入れる。外国人為替手形および船荷証券は駐外領事に発送され,これらは到着後正金銀行出張員に引渡される。同出張員は荷主にこれら書類を引渡し,受取った貨幣を領事へ納入する28)。身元が確実で十分信用できる荷受主に対しては,為替金支払の承諾に対し,時宜により人金前でも船積証書を引渡した29)。外国人為替を取組む前に,正金銀行が当座の資金を外国人へ貸出すことも行われた。
 外国人為替取組制度成立後,1886年に至るまで,正金銀行の為替取扱高が顕著な増加を示すに至った30)。1884年には外商を相手とする為替取組高が同行の為替取組高の半ば以上,85年にはこれがその大半を占めるに至ったのである。86年1月に原頭取は「先年外国人荷為替ノ取組ミヲ相開キ候テ以来当行為替取組高頗ル巨額ニ上リ当港輸出生絲荷為替ノ如キ其総額凡ソ四分ノ三ガ当銀行ニ帰シ候相成……今日ニ於テハ本港為替ノ権ハ殆ント当銀行に帰セントスルノ有様」であると述べている31)。
 それではなぜ,正金銀行が居留地の外国銀行に対抗して,外国人を相手とする輸出荷為替の取組を増大させることができたのであろうか。これはまず第1に,国家の保護が正金銀行に与えられて同行の基礎が強化されてきたし,また外国人為替取組後これが強化されたからである。
 すなわち,前述の原の改革は正金銀行と国家との結びつきを強めるものであった,また原は,1883年4月の臨時株主総会で定款の改正を行い,「政府の実質的監督権の強化」を図った32)。従来定款最後の別段規定の条項に規定されていた,大蔵卿が必要と認める場合は正金銀行頭取を改選・選定できるという条文は,第8条の頭取選出の条項で規定されるようになった。また株主の発言投票権は,所有株式500株以上の場合にこれを増加しないという従来の制限は廃止され,政府所有株の発言投票権は激増した33)。このような正金銀行の国家機関的性格の強化は,政府の資金援助を容易にしたと考えられるのである。
 正金銀行が外国人為替取組を開始しようとした当時,同行は居留地で銀貨を支払う必要があったが,1883年6月の改革で同行は所有銀貨を紙幣と交換していた。銀紙の相場の開きは残っていた。そこで同行は8月7日に,居留地外商が輸出する生糸に対する為替を取組むために,銀貨需要に対する準備として年利2%で銀貨90万円の賃下げを大蔵省に出願した。同年10月10日に松方大蔵卿は銀貨50万円に限り無利子で正金銀行に預入れることを許可した34)。政府銀貨預金に依存して,正金銀行は外国人為替取組を開始したのである。「外国為換金取扱規定」第2条で,政府が正金銀行へ為替資金として預け入れる紙幣の限度額は400万円と定められていた35)。1884年(明治17)2月に至り,太政官へ稟議の上,政府は正貨獲得のために時機によりては,多少制限額を超過して正金銀行に貸出せることを決定した36)。
第2表 政府為替預金高
第3表 海外為替取組高
第4表 横浜正金銀行外国為替関係資金残高(1885年末)
83年に大幅に増大していた正金銀行為替資金源としての政府預入金は,その後86年に至るまでさらに増大し,同年末にはその残高が第2表にみられるように1,312万円に達した。これによって正金銀行は第3表にみられるような為替取組を行った。第4表によれば,1885年末に政府が正金銀行に外国為替関係資金として預入れた預金の残高は943万円であり,同年末の外国為替関係資金運用残高は912万円である。年末残高に関する限り,横浜正金銀行の為替資金は同年に政府預金で全く充足されている。政府預金に依存して正金銀行は外国人為替取扱を拡大できたのである。
 政府預金は無利子であり,正金銀行は低利で為替を取組むことができたし,また為替相場を円安にして輸出手形の買入高を増加させることができた。1886年12月にイギリス公使プランケットは外務大臣イッデスレーに日本の財政に関する報告書を提出した。この中で公使館書記トレンチは,正金銀行は欧米向けの輸出手形を一手に買占めようとして,外国銀行よりも0.5%から1%高価に買入れ,たとえば外国銀行が為替相場を銀貨1円=3シリング4ペンスと定めているのに対し,正金銀行は3シリング3ペンスの割合で為替の買入れに応じており,そのために外国銀行は横浜において銀貨を有利に運用することができない,と述べている37)。政府の援助のもとに,正金銀行は外国銀行の強力な競争相手として登場してきたのである。1888年6月改正の「外国人為替取組手続」第7条においても「荷為替取組方ハ其時々ノ相場ヲ斟酌シ可成丈低価ヲ以テ買入スヘシ」と規定されている38)。
 正金銀行は政府預金をもとに外国人為替を取組み,為替相場変動のリスクを負うことなく,為替取組高(銀貨の通貨高=紙幣高)の2%を手数料として政府から支給された。この収益に支えられて,正金銀行は外国人為替取組を拡張できたのである。この利率は前述の1885年12月以前の直輸出荷為替戻し金利よりも低かったとはいえ,外国人為替取組高が内国人為替取組高を凌駕したから,外国人為替取扱手数料が正金銀行の重要な収入源となったのである。内国人為替取扱利子収入とともに,外国人為替手数料収入が前述の正金銀行欠損金の補填に寄与したのである。なお1885年12月5日,太政官は為替利子戻し制の廃止を認可し,正金銀行の御用為替取扱に対する報酬は為替取組高の2%の手数料(上海為替に限り1.5%)に1本化され,これは1888年(明治21)5月まで継続している39)。
 第5表にみられるように,この手数料が同行の営業収益としてきわめて重要であり,正金銀行収益面における内国人為替取組上の優遇策がなくなったことは,正金銀行の外国人為替取組を促進したと考えられる。なお御用為替制度廃止の近づいた1888年5月に2%の手数料制は廃止された。従来は正金銀行が荷主から買入れた相場で為替手取金を領事館を経て大蔵省へ納入していたのが,その買入相場から1円につき英貨Oペンス5/16を減じた相場(フランス,アメリカへの為替もこれを準用)で上納することとなり,正金銀行はその差額を受取ることとなった。正金銀行の収益率は従来の手数料2%の場合と比較すると1.1%強減少することとなり,1円あたり収益は半減することとなった40)。
第5表 横浜正金銀行の損益勘定
 外国銀行が輸出金融に十分に応じられなかったことも外銀の存在にもかかわらず,正金銀行の業務が伸長した一因であったのである。1882年以降,日本の貿易が出超に転じ,83年には横浜市中銀行の保有銀貨量が日本側に豊富となった41)。香港上海銀行が外銀の中心としてロンドン,上海,香港宛為替売却や銀行券発行を行って利益あげてきたが42),日本の出超が続く中で,同行は外商の輸出資金需要に十分応じきれなくなった。1880年9月にチャータード銀行が横浜支店(Agency)を開設してたが,同行はとくに現金の不足に苦しんだ。同行の横浜における営業成績は初期には有望なものではなく,同行支店は香港上海銀行支店への資金の依存に悩まされた(同支店が香港上海銀行横浜支店に対抗して発展することは困難なように思われ,85年には閉鎖が考慮された43)。これらの事情から,外商が正金銀行に為替取組開始を求めたのである。正金銀行外国人為替取組開始後も,輸出超過のために居留地の外国銀行の銀資金が逼迫して,外銀は輸出金融に十分応じられなかった。チャータード銀行横浜支店は(1886年3月頃に)マーカンタイル銀行の以前の土地を得てから業務が発展したが44),1893年のはじめまで同行は資金が不足し,発展が妨げられ,この不足は時々いやになるほど激しかった。同行は1892年に至って,清算に入ったニューオリエンタル銀行の多額の預金を吸収して,生糸輸出手形金融にやっと成功するという状態であったのである45)。
 オリエンタル銀行は1884年5月に支払停止に陥った。破綻した同行の業務を引継いで同年7月に新オリエンタル銀行が設立された。同行は当初から破綻の要因をかかえたまま出発し,1892年に清算に入った。香港上海銀行,チャータード銀行も日清戦争前は幾度か欠損による積立金の取崩しを生じた。日本進出外国銀行が外国本支店で経営上の不安定性をかかえている当時においては,外国銀行在日支店は,正金銀行の為替業務への進出を抑制する動きをとりがたかったようである46)。

1)『正金史(附)』甲の1,180ページ。
2)同上巻,182ページ。『沿革史』第2編,64ページ。
3』『正金史』58ページ。『正金史(附)』甲の1,183-86ページ。『沿革史』第2編,37,39ページ。海野福寿,前出(『横浜市史』第3巻上),675-76ページ。水沼知一,前出(『土地制度史学』第15号),25-26ページ。大蔵大臣が1887年10月25日に内閣へ提出した内外為替取組及び取扱事項に関する資料(『松尾家文書』第60冊の1)。
4)『正金史』59ページ。『正金史(附)』甲の1,185ページ。
5)『正金史(附)』甲の1,191-93ページ。
6)同上巻,180ページ。
7)『集成』第11巻の1,141ページ。
8)『明治財政史』第9巻,625ページ。
9)海野福寿,前出(『横浜市史』第3巻上),654-62,683ページ。前掲『商工政策史』第5巻,339ページ。松井清編,前掲巻,132-34ページ。
10)原邦造編,『原六郎翁伝』中巻,46ページ。
11)Maurice Collis, Wayfoong, London, p.44。
12)山本義彦「The Oriental Bank Corporation, 1851-84年(下)」『経済論叢』第
 122巻第1・2号,1978年7・8月,20-21ページ。
13)『原六郎翁伝』中巻,45ページ。
14)『正金史(附)』甲の1,193ページ。海野福寿,前出,680ページ。水沼知一,前出,27ページ。
15)『原六郎翁伝』中巻,45ページ。
16)『正金史(附)』甲の1,193-95ページ。
17)『正金史(附)』甲の1,198ページ。
18)高橋誠,前掲「明治財政史研究」,128ページ。
19)大石嘉一郎,前出(『近代日本経済思想史』,62-64ページ。室山義正「松方財政の展開と軍備拡張―松方財政の再検討―(上)」『金融経済』第190号,1981年10月,79-87ページ。同「下」,「金融経済』第191号,12月,85-88ページ。
20)『正金史(附)』甲の1,144ページ。
21)同上巻,197-202ページ。
22)『集成』第11巻の1,35ページ。
23)『正金史』64ページ。
24),25)『正金史(附)』甲の1,198ページ。
26)海野福寿,前出,684ページ。水沼知一,前出,29-30ページ。
27)農商務省編「興業意見」(1884年)未定稿本,近藤康男編『明治大正農政経済名著集』1,農村漁民文化協会,1976年,126-29,146-52,258,261-62ページ。『興業意見』の完全本は『集成』第18-20巻に所載。
28)『正金史(附)』甲の1,199-202ページ。
29)『沿革史』第2編,42ページ。1885年1月に外商を信用の厚薄により2種類にわけ,荷受主の身元が最も確実な者に対しては入金前でも荷物を交付することを予め政府は許可した(『明治財政史』第13巻,942ページ)。
30)海野福寿,前掲『横浜市史』第3巻(上),683ページ。
31)『正金史(附)』甲の1,286-87ページ。
32)『原六郎翁伝』中巻,38ページ。
33)『正金史』53-54ページ。
34)『正金史(附)』甲の1,195-97ページ。
35)同巻,141ページ。
36)『集成』第11巻の1,35ページ。
37)古沢紘造,前出(『明治期日本特殊金融立法史』),101-02ページ。
38)『正金史(附)』甲の1,203ページ。
39)『明治財政史』第9巻,625ページ。
40)『集成』第11巻の1・36-37ページ。当時の実際買入相場3シリング見当(『正金史』
105ページ)から計算すると収益率は0.868%となる。
41)注14参照。
42)M. CoUis,op.cit.,p. 48.
43),44)Ibid.,p. 48. C. Mackenzie op.cit.,p. 99.
45)Mackenzie,op. cit.,pp. 99-100.
46)石井寛治,前出(『経済学論集』第45巻第1号),35-37,50,57-8ページ。同(『経済学論集』第45巻第2号),38-40ページ。

Ⅶ 御用外国荷為替制度以外の為替業務改善策

 1.政府在外資金取扱の一手引受
 1873年発行の日本政府7分利付外債の発行を引受け,その元利払事務を一手に引受けていたオリエンタル銀行が1),84年5月2日に閉店した。松方大蔵卿と原頭取は,ただちに正金銀行にこの外債利払を取扱わせる計画をたてた。同行ロンドン出張所がただちにこれを取扱うわけにはいかなかったので,政府はいつでも解約できるという条件付で一時この取扱をロンドン・ジョイント・ストック銀行(London Joint Stock Bank)に依頼したが2),正金銀行は同月にロンドン出張所を支店に昇格させることを決定(12月に開業)するとともに,外債元利支払事務取扱委任を5月31日に願い出た。かくして8月11日に松方大蔵卿はこれを許可し3),同月27日に1885年1月1日利払分から取扱うよう正金銀行に命令したのである4)。原頭取は5月31日に官庁における外国品購買代金その他の為替支払の引受も出願していたが,これも8月11日に許可されたのであった5)。
 原頭取は1884年9月に政府在外資金のロンドンから日本への回金(為替または銀を購入してこれを回送)の取扱引受を大蔵省に出願し,同月これも許可された6)。
 さらに1885年4月には,日本から海外各地に向けられる政府資金の回金は,すべて正金銀行に取扱が委託された7)。86年3月にはニューヨークまたはリヨンから日本,またはロンドンへ向ける現送金,または為替御用の取扱も正金銀行に委託された8)。かくして政府資金の海外における回送はすべて正金銀行が取扱うこととなったのである。
 1882年2月に制定された「海外預ケ金規定」第9条では在外公館が受取った外貨はロンドンのオリエンタル銀行に預入れることが規定されていた9)。その後同行の信用が確実でないことが明らかとなり,英米仏の他の銀行への預入れも行われたさらに後にはオリエンタル銀行保管の日本政府預金が大体引出され,ジョイント・ストック銀行やアライアンス銀行(Alliance Bank)に預替えられた。1883年9月には残りの預金および保護預かり公債証書もオリエンタル銀行から引出して,これをジョイント・ストック銀行へ預替えるように松方が園田領事に通達し,園田は順次これを実施した10)。85年12月に至り,政府は,ロンドンにおいて大蔵省が受取った海外荷為替金,送金為替金,輸出米売却代,在米仏領事館からの回送金をすべて正金銀行ロンドン支店へ預入れさせたのであった11)。86年5月には大蔵省は正金銀行リヨン出張所への政府資金の預入れも命令し,さらに同年11月に同省はニューヨーク出張所にも預入れを命令している。政府はこの預金の中から回金(銀塊または為替の買入による)や外国への預金そのものの支払を行ったのである。各官庁が海外預け金そのものの対外払をする時は,大蔵省が正金銀行ロンドン支店またはニューヨーク,リヨン出張所へ宛てて「為替券」〔一種の小切手というべきか〕を振出して,これを支払金の受取主に送付した。正金銀行は政府在外預金の中からこれと引換に支払った。正金銀行は特別の許可のある場合を除いては,この政府預金を運用することはできなかったから,これは無利子であった。正金銀行へ預入れられたこの政府預金は,大蔵省の都合によっては確実な外国銀行へ利子付預金として預入れられた。この場合,預金利子は大蔵省に帰属した12)13)。
 かくして,正金銀行は,政府との結びつきを強め,前述の御用荷為替の貸出・取立のほか,政府在外資金の保管,払出,回金に至るまで,政府資金の対外関係業務のすべてを一手に引受けるに至ったのである14)。
 官金取扱は正金銀行の為替業務を発展させるものでもあった。政府が「元来正金銀行ニ支店を倫敦ニ出サシメタルハ我外国債ノ支払其他政府ノ外国ニ於テ出納スル金銭ノ取扱ヲ為サシムル目的」からであった15)。政府在外資金の取扱を契機として,日本の銀行中最初のヨーロッパにおける支店である正金銀行ロンドン支店が設立されたのである16)。松方大蔵卿は原六郎の外債元利払・政府対外支払事務取扱の申請を受けた後17),1884年6月に,左大巨熾仁親王に稟議書を提出した。この中で「同銀行ヲシテ該地ニ支店ヲ置カシメ前件公債元金抽籤方及ヒ元利払渡ノ取扱ハ勿論我国商估ノ為メニ盛ニ内外為替ノ事業ニ従事セシメハ彼我為替相場高低ノ権ヲ我国銀行ノ掌裡ニ帰セシメ商権モ亦目ラ我ニ復スルニ至ル」と述べていた18)。官金取扱を直接的な目的として設立された正金銀行ロンドン支店は,為替相場権回復,為替業務拡張という目的も持っていたのである。同支店の設立により,正金銀行の外国為替業務拡張の一大拠点ができたのである。なお,正金銀行ロンドン支店がみだりに事業の拡張を図ることは危険であると考えられた。政府はまず同支店にもっぱら外国公債元利支払や従来ロンドン出張所が取扱った海外荷為替,その他2,3の最も確実なもののみを取扱わせ,支店の基礎が確立し,かつロンドンの商業に慣熟するに従って漸次その営業を伸張させようとした19)。
 また政府対外関係資金取扱の一手引受を行うことにより,同行,とくにロンドン支店は内外の信用を博し,業務の発展に多大の便益を得た20)。正金銀行に政府が在外資金を預入れたのは,同行の信用を厚くするというねらいがあった。すなわち松方大蔵卿は1887年10月25日の内閣への提出資料の中で「政府外国ノ在金ヲ依然トシテ尚ホ外国銀行ヘ預ケ置クトキハ自然正金銀行ノ信用ヲ薄クスルノ状アリ故ニ之ヲ同銀行支店亦ハ出張店ヘ預ケ入ルヽ事トナセシナリ21)」と述べている。銀行の信用はとくに銀行が外貨を後に支払う送金為替を取扱う場合22)や1897年(明治30になって同行がロンドン市場で低利資金を借入れる場合に必要であったと思われる23)。
 政府は外国銀行が官金を直接取扱うことを排除した。正金銀行が外国為替による官金回送を引受けた。同行はこれによって為替取扱量を増大させて為替市場における地位を高めることができたと思われる。これはとくに外国為替相場の決定に同行が重要な役割を持つことを意味する。
 官金取扱によって正金銀行は手数料収入を得た。横浜正金銀行が外国債元利支払を取扱うことによって同行は0.5%の手数料を得た24)。これはオリエンタル銀行に支給されていた手数料率と同じであった25)。外国で銀塊を買入れて日本または外国に回送する場合には取扱額の0.3%の手数料が正金銀行に支払われた26)。正金銀行が政府資金を外国に回送する場合には,外国為替が利用された。1885年4月制定の「外国為替取扱心得書」や同年12月制定の「海外御用金取扱規程」ではこの為替取扱に対して手数料が大蔵省から支給されないように定められた27)28)。正金銀行が外国から日本への為替による回金を行う場合には,これを開始した当初は,正金銀行は同行の為替で回金するもののほかは,取扱金に対し0.3%の手数料を交付されることになっていた29)。だがその後,正金銀行が香港上海銀行等の為替を買入れて日本へ回金するものには0.1%,普通商人の為替を買入れて回金するものには0.2%の手数料が大蔵省から支給されている30)。官金を独占的に取扱うことによって,正金銀行は利率が低いのであるが手数料収入を得た。
 政府や正金銀行が同行に政府対外関係資金を独占的に取扱わせることができたのは,オリエンタル銀行の倒産という機会を上手に利用したためである31)。また正金銀行がすでに支店出張所を設立しており,政府が同行に在外資金の取扱をまかせても安全であると考えられたからである32)。さらに明治政府が外資を排除する方針を採用して外国銀行に拘束されなかったこともその理由と考えられる33)。すなわち明治政府は1870年に9分利付外債(1882年に元金償還),73年に7分利付外債を発行したものの,大隅重信の外資導人倫は松方正義らによって否定され,99年に至るまで外債の発行は日本において行われなかったのである。

 2.輸入為替取組の開始
 正金銀行は早くも1880年下期には外国への送金為替業務を行えている。同行は84年9月には同行ロンドン支店経費支弁のため必要の際には政府から資金の払下げを受けるために,1ヵ年銀貨10万円を限度として,同行の為替手形を同地で政府に買上げてもらう許可を大蔵卿から得ていた34)。同行は同月に同支店で為替資金の不足がある場合には,年額30万ポンドを限度として,大蔵省から英貨の払下げを受けることを大蔵卿に申請した。その願書には「今般当銀行倫敦支店開設仕候折柄当地ト倫敦トノ間ニ於テ電信通常両様為換依頼申込ミノモノ多少有之候処右ハ何レモ当地〔横浜〕本店ニテ金員ヲ受取ルヘキモノナルニ御座候」と述べられており35),この払下英貨は,正金銀行本店が〔送金希望者から〕円貨を受取って〔ロンドン支店宛〕電信為替または同行為替手形を売却して,ロンドン支店がこの送金為替を支払うために用いられるものであった。上記願は翌10月に許され,政府在外資金の払下げの認可を受けて,正金銀行は外国向け送金為替業務を行った(リヨン出張所は1885年2月に払下認可)。原頭取は1886年1月22日には「当今ニ至リテハ広ク内外官民ノ外国通常為替ヲ取扱ヒ欧米各地殆ント当銀行〔正金銀行〕為替手形ノ至ラサル所無之候得共各地共差支ナク流通シ甲乙転伝ノ後始メテ当行海外支店又ハ出張所ニ於テ仕払ヒ候ヲ例トスル」と述べている。
 1886年末に至っても正金銀行は輸入荷為替を取扱っていなかった。この年には輸出が増大する一方で,輸入も増加する傾向を示してきた。また出超にもかかわらず,中国やインドで銀貨に対する需要が増加したために,銀貨が外国へ流出し,外国銀行の手に入った銀貨がただちに外国へ流出した。87年1月,正金銀行は輸入為替も取組んで,在日外銀が銀貨を入手するのを防ごうとした。このために同行は政府在外預金の中から,英貨50万ポンドの使用を松方大蔵卿に請願した37)。3月にこの使用が許可された38)。政府在外資金に依存して正金銀行ロンドン支店が輸入荷為替取組等を開始した。この開始以来,ロンドンから日本に向けての荷為替逆為替等の取組が増大した39)。
 ニューヨーク出張所およびリヨン出張所への輸入荷為替取組申込みも少なくなかった。だが両出張所の資本が不十分であった。このため原頭取は,政府在外預金の中で,ニューヨーク出張所は米貨50万ドル,リヨン出張所は仏貨150万フランを限度として使用できるよう,1887年8月1日に松方大蔵卿に出願した。これは9月7日に許可された40)。
 大蔵省が政府預け金の一部を日本への輸入為替基金に使用することを許可したのは「本邦ヨリ外国ヘ荷為替ノミ(即チ片為換ナリ)ニテ外国ヨリ我国ヘ為換ノ道開ケズ之ヲ開カシムル」ためであった41)。同省がこのように考えたひとつの理由として将来御用荷為替制度が漸次廃止されても正金銀行が営業上成立っていくように,正金銀行の輸出為替取扱高と輸入為替取扱高をバランスさせることが考慮されたことが指摘できよう。大蔵省が1887年2月頃作成した「外国為替基金処分方」の87年計画案の中には,正金銀行に輸入為替資金として政府預け金50万ポンドを使用させる理由として「元来海外ヨリ本邦ヘ向ケ為替ヲ取組ハ銀行営業上欠クヘカラサル事業ニテ将来必両為替ニナサヽルヘカラサルコトニ付試ミトシテ之ヲ執行セシメラレタ候」と記されている42)。そのほかの理由としては,前述の銀貨流出防遏と外銀の輸入為替独占打破が考えられる。
 将来外国債払または軍艦代その他各庁外国品買入代等に用いられる政府預金に依存して,正金銀行の輸入為替取組が開始できた。しかも政府に納入される利子率が安かった。ロンドン支店の納入する利子率はイングランド銀行割引率よりも一般に2.5%も低かった43)。リヨン出張所は年1~2.5%,ニューヨーク出張所は1.5%の預金利子を政府に支払うこととされた。正金銀行への預入金利子率を低位とすることによって,同行が外国銀行に対抗して輸入為替業務を拡張することが図られた。すなわち1887年2月の大蔵省資料はロンドン支店への政府預金利子率が「低利之傾有之候得共元来外国ヨリ本邦ヘノ為替ハ目下外国各銀行者ノ専業トスル處ナルヲ以テ之ヲ正金銀行ヘ移サントスルハ随分難事ニ有之種々ノ手段ヲ要スヘキハ勿論就中他ノ銀行者ヨリハ為替相場ヲ低価ニセサルヘカラス」と述べている44)。
 正金銀行輸入荷為替取組開始を反映して,同行の外国為替取組高は1887年に大幅に増大している45)。この開始によって正金銀行の対外業務発展の基礎が一段と強化されたのである46)(ただしこの開始当初は同行の輸入為替取扱高は,輸出為替取扱高よりもはるかに少なかった47)。リヨン出張所の官金継続使用願は,1888年12月に却下された。ロンドン支店,ニューヨーク出張所のそれも89年3月までの期限付であった48))。
 3.横浜正金銀行条例の制定
 横浜正金銀行は国立銀行条例にのっとって設立されていた。だが同行は対外金融を行い,政府の保護監督を受ける点から民営の国立銀行と性格が異なっていた。同行の性格が明確にならなければ,外国で外人の危疑を生じるおそれがあり,取引上の争いが生じた時に不利になるおそれがあった49)。
 国内では正金銀行は種々の批判にさらされていた。薩長政府の保護下にある正金銀行を,1886年に反薩長系政党は激しく批判した。1882年に設立された日本銀行は海外為替を自行で取扱いたいという希望を有していた。御用荷為替の取扱期限は1883年6月の達令で86年6月までと定められていたのに,正金銀行が引続きこの利益を独占する形勢がみられたので,1885年12月に日本銀行の吉原総裁は,正金銀行の業務の一部譲渡を原正金銀行頭取に要求した50)。86年1月に原は松方大蔵大臣に御用外国為替取扱期限の継続を願出て,松方は同月に89年3月までこれを許可した51)。日本銀行と正金銀行は対立し,この厳しい対立は87年に至っても続いていた52)。
 このような状況下で原は「横浜正金銀行条例案」を作成し,1886年7月に同案を大蔵省に提出した。この原案が政府の手で修正され,87年(明治20)7月,横浜正金銀行条例が発布された。同月末に定款が臨時株主総会で改正され,9月に政府によって認可された53)。
 横浜正金銀行条例は横浜正金銀行が政府の保護監督を受けた特殊金融機関であり,同行が外国為替・貿易金融機関であり,また政府在外資金取扱銀行であることを追認し,法制的に明確にした54)。
 横浜正金銀行条例の制定によって,同行の性格が明確となり,前述の外国との取引上の不便が除去された。また同行が国家の保護を受けて外国為替・貿易金融機関,政府在外資金取扱機関として発展していく基礎が法的に強化されたのである。同条例に自由主義的性格もあるが,田口卯吉の正金銀行民営化論は採用されなかった55)。
 4.国内資金対策
 1885年以降の輸出の増大とともに,輸出為替資金需要が増大した。一方御用荷為替制度の進展は正貨吸収という目的を達成させる一方で,準備金中の紙幣を減少させていった。1885年に日本銀行が兌換券の発行を開始した翌年の1月から,政府は日銀を代行機関として紙幣と銀貨との交換を開始し,残った紙幣も償却されることとなった。かくして正金銀行の為替資金として預入れることのできる紙幣が減少していったのである56)。このような為替資金需要増と為替元金の限界のために,正金銀行は円資金不足に陥った。1885年末には為替資金不足の徴候が大蔵省によって認識された。『松尾家文書』中の資料によれば,1886年11月17日現在で,正金銀行は政府から巨額の荷為替資金を受取っても,168万円の資金不足となった57)。正金銀行は同行の資金中から常時150万円内外を割いて,御用荷為替以外の為替を取組むようになった58)。政府が準備金中の銀地金を日本銀行に手渡して,銀兌換券に替えてこれを正金銀行に荷為替資金としで預入れることも行われたようであるが,紙幣兌換が進行すれば銀地金は払出されてしまうからこれにも限界があった59)。
 1887年1月には,正金銀行は同行の今後1ヵ年の輸出為替取組高を1,500万円と予測し,少なくとも800万円は従来の通りの政府預金の預入れでこれを取組み,差額700万円は同行の資金で為替を取組もうとした60)。
 資金不足を解決するために正金銀行は,1887年3月の株主総会で,資本金300万円を増額して600万円とすることを決定した。この新株は旧株主への割当発行で行われることとなった。株主が新株を引受けない場合には,正金銀行が相当の代価をもって適宜他に売却することとされた。株主の払込を容易にするために4回の分割払込制が採用された6第1回は1887年6月,第2回は10月,第3回は1888年4月,第4回は10月に払込むとされたが,第3回,第4回払込は諸会社の新設,増株流行のさいにこれを行うのは得策でないとして延期の上実行された。新株の発行価格は1株(額面100円)につき200円であった。額面と発行価格との差益金は同行株主勘定中の積立金に加えられた61)。この株式発行は日本で最初のプレミアム付新株発行であった62)。正金銀行の業績が順調であり,同年春には同行株式の時価が400円という高値に達していたからこのような発行が可能であった63)。新株の多くは民間の株主によって応募された64)。
 このような増資によって正金銀行の資金的基礎が強化されたのであり,正金銀行は資本金600万円を有する大銀行となり,積立金も豊富となった。政府資金への全面的な依存から離れても,正金銀行が為替銀行として外銀に伍していける条件がひとつ形成されたのである。
 為替資金源としての大蔵省の正金銀行への預金額は,第2表にみられるように1887年(明治20)には前年よりも大きく減退している。これを反映して,第3表にみられるように,正金銀行の海外為替取組高も1887年に前年よりも減退している。同年11月7日に大蔵官僚が大蔵大臣に提出した「明治二十一年度海外荷為換資金支出方ノ義御内決伺」によれば,「準備金ヨリ支出致来候処準備金ハ最早悉皆銀貨ト相成且追々紙幣兌換ノ為メ日本銀行ヘ交付致シ残額僅ニ相成来廿一年度ニ於テハ該資金ヲ準準金ヨリ支出シ能ハサル景況ニ立至」った65)。御用荷為替制度の廃止も考慮されるに至った。とはいえ,御用荷為替制度を全廃することによる損害は小さくないと大蔵省には考えられた。上述の内決伺はこの損害を次のように指摘している。まず第1に,日本の海外貿易の発達を阻害する。御用荷為替制度が正貨の充実だけを目的とするのであれば,正貨の充実に伴ってこれを廃正してもよいが,この制度は直輸出奨励も目的としており,これを廃止すれば日本の貿易は再び外商の壟断に帰する。第2に,海外支払金において政府が損失を受ける。政府が対外支払のために横浜で在日外銀から巨額の外国為替を買入れてこれを外国に送れば,為替相場が騰貴〔円建〕して損をすることが多く,金塊を輸出することも大損である。第3に,政府は一大理財の機関を失う。外債募集を外国銀行に行わせるのは損である。第4に,正金銀行が損をする。そこで上記内決伺では政府の海外支払額に限って,正金銀行に海外荷為替資金を供給する方策が立てられている。だがこれでは,正金銀行は輸出額の1割強しか為替を取組めなかった66)。
 ここに為替資金源として,日本銀行の低利資金貸付が登場した。前記「外国為替基金処分方」では1887年に日本銀行が無利子で,外国為替基金として400万円を正金銀行に貨付ける構想が立てられていた67)。横浜正金銀行条例では,日本銀行と正金銀行の役員兼務を認める条項が入っていたが,これは日銀と正金の協力体制をつくるねらいがあった。1888年(明治21)9月,正金銀行は日本銀行と年間300万円を限度とし,年利3%,1889年3月を期限とする借入契約を締結した。これが正金銀行に対する日本銀行の低利資金貸出の嚆矢であり,正金銀行は為替業務のための新たな資金を得たのである。
 国庫準備金高は1882年以降減少傾向をたどり,89年3月に準備金は閉鎖され,これに伴って御用荷為替制度は廃止された。前述のように88年5月にこの取扱が無手数料とされたり,またこの年に,その取扱高を減少させることが大蔵省によって計画されたりして,この廃止の準備が進められていたが,ついにこれが実現したのである。
 御用荷為替制度の場合には,正金銀行が取立てる外貨は政府に帰属したから,為替相場変動に伴う外貨価値変動の損益は政府が負担した。この廃止後正金銀行は,外国為替の売買差額である為替特高を保有した場合に為替相場変動によって生じる損益を,同行自らが負担するようになった68)。政府の監督を受けながらも正金銀行は,目立性を特つ本来の為替銀行としての業務を行うようになったのである。
 正金銀行は御用荷為替制度の廃止後,外国為替銀行としての存続が危くなった。
正金銀行は1889年10月に,日本銀行と(当時の協議で1,000万円を限度とする)年利2%での外国為替手形再割引契約を締結した69)。この日本銀行からの低利資金供給によって,同行は外国銀行に対抗して継続的に発展していくことができるようになった。ここに日銀の援助を受けつつ,日本における本来の為替銀行が成立したといえるのである。

 1)藤村通「七分利付外国公債論」『金融経済』第142号,1973年10月,21-33ページ。
 2)『原六郎翁伝』中巻,67-71ページ。
 3)『正金史(附)』甲の1,214-15ページ。
 4)『明治財政史』第13巻,968-70ページ。
 5)『正金史(附)』甲の1,214-15ページ。
 6)同上巻,216-19ページ。
 7)同上巻,247-49ページ。
 8)同上巻,250ページ。
 9)『明治財政史』第9巻,637ページ。
 10)同上巻,639,645-53ページ。
 11)『正金史(附)』甲の1,280ページ。
 12)『正金史(附)』甲の1,280-84ページ。「明治財政史」第9巻,659-79ページ。
 13)預入銀行名については『沿革史』第1編,23ページ『明治財政史』第9巻,664,669,676-68,689ページ参照。
 14)『正金史』81-82ページ。
 15)「明治二十年十月廿五日大臣ヨリ内閣へ提出」『松尾家文書』第60冊の1.伊牟田敏充,前出(『日本経済政策史論』上),95ページ。
 16)『銀行局第十次報告』130ページ。
 17)『正金史(附)』甲の1,214-15ページ。
 18)『明治財政史』第13巻,966ページ。
 19)『銀行局第十次報告』130-36ページ。
 20)『正金史』68ページ。
 21)『松尾家文書』第60冊の1,伊牟田敏充,前出,94ページ。
 22)古沢紘造「明治二〇年代の横浜正金銀行」金融学会編『金融論選集』ⅩⅩⅠ,1975年,163ページ(同論文は『駒沢大学経済学論集』第5巻第2号に初出)。
 23)『正金史』194-95ページ。
 24)『明治財政史』第13巻,969ページ。
 25)伊牟田敏充,前出,94ページ。
 26)『正金史(附)』甲の1,218,252ページ。1887年10月にはリヨン・ロンドン間またはニューヨーク・ロンドン間銀塊回送は手数料が0.1%であった(伊牟田敏充,前出,94ページ)。
 27)同上巻,249,283ページ。
 28)伊牟田敏充,前出,94ページによれば為替相場上幾分の利益があった。
 29)「正金史(附)」甲の1,218ページ。
 30)伊牟田敏充,前出,94ページ。
 31)『正金史』68-69ページ。
 32)『集成』第11巻の1,40ページ。『明治財政史』第9巻,660ページ。
 33)外資排除については堀江保蔵『外資輸入の回顧と展望』有斐閣,1950年,第1章等参照。
 34)『正金史(附)』甲の1,224-25ページ。
 35)同上巻,226-27ページ。
 36)同上巻,287ページ。『沿革史』第1編,21-22ページ。
 37)同上巻,292-93,97ページ。
 38)同上巻,298ページ。
 39)同上巻,298,300ページ。『沿革史』第1編,24ページ。
 40)同上巻,300-01ページ。
 41)伊牟田敏充,前出,95ページ。
 42)『松尾家文書』第60巻の29。古沢紘造,前出(『金融論選集』ⅩⅩⅠ),141ページ。
 43)『正金史(附)』甲の1,294-97ページ。
 44)「正金銀行倫敦支店ニテ逆為替ノ為メ1ケ年五十万磅迄資用セシムル事及利子割合ノ内伺書案」(『松尾家文書』第60冊の59)。
 45)『横浜正金銀行史』 88-89ページ。
 46)東京銀行本店調査部(新井真次稿)『正金為替資金の史的発展(その1)』10ページ。
 47)石井寛治「金融構造」大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上,東京大学出版会,1975年。98ページ。
 48)『正金史(附)』甲の1,298-99,302-03ページ。
 49)『正金史(附)』甲の1,306-08ページ。
 50)『原六郎翁伝』中巻,94-101,106ページ。古沢紘造,前出(『明治期日本特殊金融立法史』)90-95ページ。
 51)『正金史(附)』甲の1,286-88ページ。
 52)古沢紘造,前出(『立法史』)95ページ。
 53)『正金史(附)』甲の1,315-58ページ。『原六郎翁伝』中巻,113-16ページ。
 54)水沼知一「横浜正金銀行の外国為替・貿易金融の展開」『横浜市史』第4巻下,1968年。669-71ページ。古沢紘造,前出(『立法史』)97-99ページ。
 55)「正金銀行條例発布せらる」『東京経済雑誌』第376号,1887年7月16日,74-77ページ。
 56),57)伊牟田敏充,前出,80-83ページ。
 58)『正金史(附)』甲の1,292ページ。
 59)伊牟田敏充,前出,85-87ページ。
 60)『正金史(附)』甲の1,293ページ。
 61)同上巻,303-06ページ。『正金史(附)』乙巻,66ページ。『正金史』104ページ。
 62)『原六郎翁伝』中巻,108-09ページ。なお第一国立銀行も1887年4月にプレミアム付倍額増資を決定している(加藤俊彦「第一国立銀行」加藤俊彦・大内力編著『国立銀行の研究』勁草書房,1963年,55ページ。
 63)『正金史』89ページ。
 64)横浜正金銀行「半季報告」。
 65)伊牟田敏充,前出,87ページ。
 66)同上論文,89-91ページ。直輸出御用荷為替を1887年度で廃止することを大蔵省が正金銀行に内論したことに対し,正金銀行や直輸出業者は反対し,農商務省もかれらを支持した(海野福寿,前出『横浜市史』第3巻上,685ページ)。
67)古沢紘造,前出(『金融論選集』ⅩⅩⅠ)142ページ。『松尾家文書』第60冊の29。
68)『正金史』116-17ページ。
69)同上書,113-116ページ。

 (追記)本稿脱稿後に,加藤俊彦「第二次大戦後の横浜正金銀行の史的研究」(同編『日本金融論の史的研究』東京大学出版会1983年)が出された。同論文は横浜正金銀行の研究史をよく整理しているので参照されたい。